## 一 返していない本 天保十二年、六月の尾道は、魚より先に人が腐りそうな暑さだった。 昼を過ぎると海は鉛のように光り、石段の隙間からまで潮の匂いがのぼった。貸本屋〈千鳥屋〉のおさよは、店先で団扇を使う代わりに、返ってきた本で顔をあおいでいた。 「本を粗末にするな」 帳場から叔父の宗兵衛が言った。 「本じゃないよ。『当世女房心得』だよ」 「なお悪い」 宗兵衛は女房を三年前に亡くしてから、女房の心得にだけはうるさかった。 千鳥屋には、町内の娘が隠れて読む人情本から、船乗りが航海のたび借りる怪談、字の読めない子に絵だけ見せる武者絵本まで、三百と七十八冊ある。おさよはそのすべてについて、題と傷みと、誰がいつ返さなかったかを覚えていた。 だから、夕暮れに返却箱を開けた瞬間、その一冊が店のものでないと分かった。 鼠色の表紙。題簽には墨で『猫又評判記』。版元も作者もない。綴じ糸だけが、妙に新しい。 「叔父さん、これ何番?」 宗兵衛は帳面から顔を上げもしなかった。 「知らん」 「私も知らない」 その一言で、ようやく顔を上げた。 本を開く。全部で十二丁。挿絵は一つもなく、ひどく癖のある字で、尾道の猫が人の言葉を覚えて町を見物する話が書かれていた。 猫は米問屋〈丸十〉の裏口へ行き、主人が塩俵の陰で甘い物を食うのを見る。医者に止められているのに、蜜をかけた葛餅を三皿。猫は屋根へ上がり、こう鳴く。 ――丸十の旦那、明日の昼には歯が泣くぞ。 「くだらない」 おさよは笑った。 宗兵衛は笑わなかった。 「丸十の旦那が甘い物を隠れて食うのは、女房も知らん」 「叔父さんはどうして知ってるの」 「本を届けに行った時、見た」 「じゃあ書いたの、叔父さん?」 「わしなら三皿を四皿にする。貸本屋は話を膨らませて銭にする商売だ」 翌日の昼、丸十の主人は本当に歯を腫らし、頬を手拭いで吊って店へ来た。 「おい。この店に、妙な本があるそうじゃな」 まだ誰にも話していない。 おさよと宗兵衛は顔を見合わせた。 主人の足元を、千鳥屋の居候猫がするりと抜けた。黒い背中に、鼻先と右の前足だけが白い。名は海苔巻。魚屋がそう呼び始めたので、本人の承諾を得ず決まった。 海苔巻は鼠色の本へ鼻を寄せ、ふん、とくしゃみをした。 右の髭に、青い紙の繊維がついていた。 ## 二 明日の恥 『猫又評判記』の噂は、昼から夕方までに港じゅうを往復した。 船より速い。 翌朝には借り手が七人並んだ。読めば明日のことが分かる、という話になっている。 「貸さないよ。うちの本じゃないもの」 「では一文払うから、ここで読ませて」 「それは貸したのと同じ」 「半文なら?」 「値切るところじゃない」 列の最後に、見慣れた男がいた。髪結床〈松風〉の倅、清太郎。二十二歳。口が先に生まれ、身体が後から追いついたような男である。 「おさよちゃん。俺だけこっそり」 「清太郎には死んでも貸さない」 「死んだら借りられない」 「生きてても借りられない」 清太郎は胸を押さえ、大げさによろめいた。その拍子に店の棚へ頭をぶつけた。上から『孝行息子列伝』が落ちる。 「本にも嫌われた」と、おさよは言った。 笑い声の中、海苔巻だけが外を見ていた。 向かいの路地を、紺の脚絆の男が横切った。背に負った風呂敷包みから、版木の角がのぞいている。坂下の刷り屋〈山海堂〉で働く彫り師、弥吉だった。 海苔巻が飛び出す。 「こら、海苔巻!」 猫は弥吉の後を追い、狭い路地へ消えた。 その夜、鼠色の本はなくなった。 鍵を掛けた店から、本だけが消えた。代わりに、返却箱の中に第二巻が入っていた。 今度の猫又は、髪結床へ忍び込む。 若い髪結いが、客のいない夜に女の髪を結う稽古をしている。ただし相手は女ではない。酒屋の次男坊が、姉の着物を借りて座っている。二人は鏡を見て笑い、やがて真顔になる。 ――松風の若旦那、明日の朝には丸坊主。 「清太郎」 おさよは声に出した。 宗兵衛が鼻を鳴らす。 「女髪を結う稽古が、何の恥だ」 「町の連中は恥にする」 「町の連中は暇だからな」 翌朝、髪結床には人垣ができた。 清太郎は本当に丸坊主になっていた。父親に刃物で追い回された末、自分で剃ったらしい。隣には、酒屋の次男坊・竹次が立っていた。こちらは姉の小袖を着て、見事な島田髷を結っている。 「隠すから笑われるんだ」 清太郎は青い顔で言った。 竹次は紅を引いた口で笑った。 「見せても笑われるけどね」 二人はその日から、芝居役者の鬘を専門に扱うと言い出した。父親は寝込んだが、昼にはもう注文が三つ来た。 評判記は予言したのではない。 誰かが秘密を知り、本人より一足先に町へ読ませている。そして読まれた者が、書かれた通りに動く。 「なら、次に書かれた人が動かなきゃ外れる」 おさよが言うと、宗兵衛は首を振った。 「人はな、自分の明日を読んじまうと、避ける時までその話の中にいる」 「叔父さん、たまに貸本屋らしいこと言うね」 「毎日言っとる」 「毎日は言ってない」 海苔巻が戻ってきたのは、日が沈んでからだった。 口に、青い綴じ糸をくわえていた。 ## 三 火事の巻 第三巻は、待っても来なかった。 代わりに、清太郎が夜半に戸を叩いた。 「山海堂に人が集まってる。新しいのが刷られたって」 おさよは寝間着の上から帯を巻き、草履をつっかけた。宗兵衛を起こすと面倒なので、起こさなかった。清太郎も同じ考えだったらしく、二人は音を立てずに店を出た。 海苔巻だけが、堂々とついてきた。 山海堂は坂の途中にある。表は閉まっていたが、裏の刷り場に灯がついている。窓紙の破れから覗くと、職人が三人、黙って摺っていた。 紺一色の表紙。 題簽には『猫又評判記 三』。 「あれ、山海堂が作ってたの?」 清太郎が耳元でささやく。 「声が大きい」 「ささやいたよ」 「清太郎のささやきは普通の人の挨拶くらいある」 職人の一人がこちらを見た。 二人は石垣の陰へしゃがんだ。海苔巻はしゃがまない。窓の下へ行き、前足で戸を掻いた。 「あの馬鹿猫」 戸が開く。 出てきたのは弥吉だった。足元の海苔巻を抱き上げ、慣れた手つきで首の下を掻く。 「やっぱり知り合いじゃない」 おさよは立ち上がった。 弥吉は驚き、猫を落としかけた。 「その本、誰が書いたの」 「知らねえ」 「嘘。海苔巻の髭に、山海堂の青い紙がついてた」 「紙なら町じゅうにある」 「この猫、紙は食べない。でも綴じ糸は盗む。あんたが餌で釣って、千鳥屋の返却箱まで運ばせたんでしょう」 弥吉は海苔巻を下ろした。 猫は弥吉とおさよを見比べ、迷わず弥吉の足元へ座った。恩知らずである。 「刷ったのは俺だ。書いたのは別だ」 「誰」 「言えねえ」 「じゃあ三巻を見せて」 弥吉の顔から、汗が引いた。 「帰れ」 「何が書いてあるの」 奥で、摺り師が手を止めた。 弥吉は声を落とした。 「明日の子の刻、薬師堂の鐘が鳴る。東浜の蔵が七つ燃える。猫は火の中から、三百両の小判をくわえて出る」 海から湿った風が上がってきた。 清太郎が、さっきまでの軽い顔を消した。 東浜には油蔵が二つある。一つに火がつけば、七つでは済まない。 「刷るのを止めて」 「止めたら、もう火はつかねえのか」 「少なくとも見物人は集まらない」 弥吉は奥を振り返った。床には、もう百冊近い刷り上がりが積まれている。 「明朝、町じゅうへ配る約束だ」 「誰との」 弥吉は唇を噛んだ。 その時、海苔巻が積み本へ飛び乗った。 紙の山が崩れた。摺り師が叫び、清太郎が猫を追い、清太郎につまずいた弥吉が桶を蹴った。濃い藍墨が床一面に広がる。 おさよは一冊つかんで走った。 「泥棒!」 背中で弥吉が叫ぶ。 「貸本屋!」 おさよは叫び返した。 「読んだら返す!」 ## 四 書かれた町 三巻の末尾には、奇妙な絵があった。 七つの蔵。燃える屋根。小判をくわえた猫。その後ろに、腹を上にした鯛が一匹。 「死んだ魚?」 清太郎が首を傾げる。 「鯛が寝てる」 「魚はいつも寝てるような顔だ」 千鳥屋へ戻ると、宗兵衛が腕を組んで待っていた。 「起こすと面倒だと思ったか」 「よく分かったね」 「面倒な叔父だからな」 おさよは三巻を見せた。宗兵衛は火事のくだりを二度読み、絵を灯に透かした。 「紙が違う」 「山海堂の紙じゃない?」 「文章の頁は山海堂。絵だけは古い奉書だ。裏に何か刷ってある」 濡らした指で端を撫でると、二枚重ねの一枚がめくれた。 内側から現れたのは、古い商い札だった。 〈東浜七番蔵 鯛印 質入三百両〉 十年前の日付。蔵主は、米問屋の丸十。 「三百両は小判じゃない。蔵の値だ」 宗兵衛が言った。 丸十は十年前、飢饉で傾いた七番蔵を質に取り、そのまま自分の物にした。元の持ち主は〈鯛屋〉。今はもう店がない。 「火事に見せて、蔵の中の何かを盗む?」と清太郎。 「盗むなら、こんな本で知らせない」 おさよは最初の二巻を思い出した。 丸十の主人は、歯が痛くなると書かれて葛餅をやめなかった。 清太郎は、丸坊主になると書かれて家を出た。 書かれた人間は予告から逃げるつもりで、予告を本物にしていた。 「東浜の人たちは、明日どうすると思う?」 「荷を運び出す」と宗兵衛。 「火事になる前に?」 「当然だ」 「七つの蔵から、荷が全部なくなる。番人も荷車を追う。空の蔵に、誰でも入れる」 清太郎が膝を打った。 「三百両を盗む!」 「だから三百両は蔵の値だって」 「勢いで言った」 蔵そのものを盗む方法は一つしかない。 持ち主を変えることだ。 七番蔵の権利札は、丸十の蔵の金庫にある。火を恐れて運び出すなら、他の証文と一緒にどこかへ移す。道中なら奪える。 「でも誰が」 おさよが言いかけると、店の奥から音がした。 かり、かり、と紙を引っ掻く音。 海苔巻が、宗兵衛の寝床の下へ前足を差し込んでいる。 引っ張り出したのは、細い筆だった。 軸に、青い糸が巻いてある。 宗兵衛は長い間、その筆を見ていた。 「叔父さん」 「わしじゃない」 「まだ何も聞いてない」 「お前は顔で聞く」 宗兵衛は筆を取り上げ、ため息をついた。 「書いたのは、うちの二階にいる」 ## 五 作者 千鳥屋の二階は、売れない本と、もっと売れない人間を置く場所だった。 一月前から、宗兵衛の昔なじみだという老婆が一人、そこで寝起きしている。おさよは名をおふじとしか聞いていなかった。 おふじは行灯の前に座り、第四巻を書いていた。 「見つかったかい」 驚きもしない。 細い身体に似合わず、声は若かった。鼻の脇に大きなほくろがあり、そこから一本、勇ましい毛が伸びている。 「あなたが鯛屋の人?」 「鯛屋の下働き。娘でも女房でもないよ」 「七番蔵を取り返すの」 おふじは筆を置いた。 「取り返して、どうする。あたしが蔵を背負って逃げるのかい」 十年前の飢饉で、鯛屋は町の米を勝手に安く売った。主人は商人仲間から金を借り、七番蔵を質にした。米を買えた家は多かったが、借金は返せず、店は潰れた。 丸十は蔵を取った。その後、七番蔵を使わず、ずっと閉めている。 「中に何があるの」 「米を買った人らの借り札。鯛屋の旦那は、返せる時に返せと言って名前だけ書かせた。丸十はそれを一緒に手に入れた」 借り札が出れば、町の何十軒もの家が丸十に借りを抱える。時効など、庶民の口約束にはない。丸十は困った時の綱として、十年、札を蔵に眠らせてきた。 「明日、七番蔵を壊すそうだよ。中の札は丸十の母屋へ移る。そうなりゃ燃やせない」 「火をつけるつもりだったの?」 「猫又がね」 「猫のせいにしないで」 おふじは歯の抜けた口で笑った。 「あんた、あたしを番所へ突き出すかい」 おさよは答えなかった。 階下で清太郎がくしゃみをした。盗み聞きが下手な男である。 「評判記で騒ぎを起こして、みんなに荷を出させる。七番蔵が空になったら忍び込み、札を焼く。火事は七つじゃなく、一つだけ」 「火は言うことを聞かない」 「人間よりは聞くよ」 「あなたは大火を見たことある?」 おふじの笑いが消えた。 尾道では二十年前、強い西風の日に百軒が焼けた。おふじの夫と幼い娘も死んだと、宗兵衛が低く言った。 「だから風を選んだ。明日は海風だ。七番の東は空き地、西は土蔵」 「それでも燃える」 「なら、他にどうする」 おふじが机を叩いた。 「借り札を盗めば、丸十が家々から取り立てる。番所へ言えば、鯛屋が勝手売りした罪まで掘り返される。持ち主に頼んで返すような男なら、十年も札を寝かせやしない」 おさよは窓を開けた。 坂の下に港の灯が並んでいる。どの灯の下にも、評判記を面白がった人間がいる。明日になれば、火事を見物しに東浜へ集まる。 自分も第一巻を読んで笑った。 「第四巻には、何を書いてるの」 「猫又は火の中で死ぬ。めでたし、めでたし」 「面白くない」 「悪かったね」 「結末を変えよう」 おふじが眉を上げた。 おさよは白紙を一枚取り、筆を握った。 ## 六 まだ起きていない結末 翌朝、尾道の町へ第四巻が配られた。 山海堂の版ではない。千鳥屋のおさよが徹夜で書き、清太郎と竹次が二人で読み歩いた、一冊しかない声の本だった。 「さあさあ『猫又評判記』の大詰め! 火事を見たい者は東浜へ、火事を止めたい者は丸十へ!」 「違う、清太郎。そこはもう少し勿体をつけて」 「注文が多いな、作者」 清太郎の声に人が集まる。 第四巻で、猫又は七つの蔵へ火をつけない。 火打石を鳴らす寸前、腹が減って動けなくなる。そこへ町の人々が、一人一粒ずつ米を持ってくる。猫又は米を食べ、代わりに七番蔵から古い借り札をくわえて出る。 札に名のある者が名乗り出れば、紙はただの紙になる。隠れれば、三百両の値がつく。 ――さて尾道の衆。猫に三百両を背負わせるか、一粒の米で軽くするか。 話を聞いた者は、火事見物ではなく丸十の店へ走った。 最初に名乗ったのは、髪結床の清太郎の父だった。 「鯛屋から、米を二升借りた」 次は竹次の姉。 「うちは五升」 魚売り、船大工、桶屋、駕籠かき。十年前に子どもだった者は親の名を言い、親を亡くした者は自分の名を言った。 丸十の主人は、腫れた頬を手拭いで吊ったまま出てきた。 「店先で何の真似だ!」 おさよは答えた。 「貸本の回収です」 「うちには借りとらん!」 「町の人が、鯛屋から借りています」 「なら鯛屋へ返せ。潰れた店の話を持ってくるな」 「返す相手がいないから、みんな困ってる」 丸十の主人は人垣を見た。商いをする人間の目で、一人ずつ見た。ここにいる者全員を敵にすれば、今日の米は売れても明日の荷は運ばれない。 「借り札を買った覚えはない」 「七番蔵にあるそうです」 「誰が言った」 「猫」 人垣が笑った。 丸十だけが笑わなかった。 その時、東浜で鐘が鳴った。 子の刻ではない。朝五つ。 誰かが七番蔵へ入った合図だった。 おふじ。 おさよは走った。清太郎が追い、海苔巻も追った。猫がいちばん速かった。 七番蔵の戸は開き、乾いた藁の匂いが流れていた。奥におふじが立っている。足元には木箱。手には火のついた蝋燭。 「結末が遅いよ」 おふじは言った。 「年寄りは待てないんだ」 「待って。みんな名乗った」 「名乗ったから何だい。丸十が札を返すか」 背後から、息を切らした声がした。 「返さん」 丸十だった。 頬を吊ったまま走ったせいで、ひどい顔になっている。 「返さんが、買ってもおらん。蔵の中身まで確かめず、建物だけ質に取った。そんな紙は知らん」 おふじが笑った。 「うまい言い逃れだ」 「商人を褒めるな」 丸十は木箱を蹴った。蓋が外れ、借り札が床へ散った。 「わしの物でない紙なら、誰が持っていこうと知らん。ただし、蔵に火をつけたら七番蔵の代金は払ってもらう」 「三百両?」 「今は古い。百二十両でよい」 「がめついねえ」 「甘い物を断っとるから、機嫌が悪い」 おふじの蝋燭が揺れた。 海苔巻が紙の上へ飛び込み、一枚をくわえた。次の一枚。さらに一枚。食べるのではなく、外へ運んでいく。 蔵の前には町の人が集まっていた。 猫が持ち出す札を、名前の主が拾う。 おふじは蝋燭を吹き消した。 大火は起きなかった。 けれど予言は当たった。 七番蔵から、三百両より重かったものを、猫が一枚ずつくわえて出た。 ## 七 貸本屋の本 『猫又評判記』は四巻で終わった。 三巻までは山海堂が百冊ずつ刷ったが、四巻は一冊しかない。千鳥屋へ来れば、清太郎の読み聞かせつきで一文。竹次の女形つきなら二文。 「俺より竹次のほうが高いの、納得いかない」 「芸の差」 「俺も丸坊主にしたのに」 「それは芸じゃない」 弥吉は山海堂を辞めなかった。主人に三日殴られ、四日目から『猫又評判記』の続きがないかと催促された。 丸十は七番蔵を味噌蔵にした。米を借りた者たちは、返せる者だけ一升ずつ持ち寄った。丸十ではなく、おふじへ返した。おふじはその米で粥を炊き、誰にでも食わせたので、三日でなくなった。 「あたしは蓄えができない性分らしい」 そう言って、千鳥屋の二階を出ていった。 行き先は話さなかった。 海苔巻も三日帰らなかった。 四日目の夕暮れ、返却箱を開けると、見知らぬ草紙が一冊入っていた。 黄色い表紙。題簽には『海苔巻道中記』。 おさよの字だった。 昨夜、自分で書いて箱へ入れたのだから、当たり前である。 「何をにやにやしてる」 宗兵衛が帳場から言った。 「別に」 「その本、何番だ」 おさよは答えに詰まった。 千鳥屋の三百七十八冊は、全部覚えている。 三百七十九冊目だけは、まだ番号がない。 宗兵衛が帳面を開き、筆を置いた。 「作者は」 「海苔巻」 「猫に貸しを作るな。名を出せ」 おさよは少し考えた。 窓の外で、港へ入る船の帆が夕日に染まっている。石段の下から、清太郎の声がした。竹次と喧嘩をしている。丸十の店先では、葛餅売りが追い返されていた。 どれも今日の出来事だ。 明日どうなるかは、まだどの本にも書かれていない。 おさよは帳面へ記した。 〈三百七十九番 海苔巻道中記 作者・路地亭おさよ〉 宗兵衛が覗き込み、言った。 「字が下手だ」 「最初にそこ?」 「話は、借り手が決める」 店の外から、にゃあ、と声がした。 海苔巻が戻ってきた。 口には、どこかの本から盗んだ赤い綴じ糸をくわえていた。 おさよは三百七十九番を抱え、猫を追って路地へ飛び出した。 今度の話は、そこから始まる。
小説 · text · 2026-09-06