閉館後の図書館には、昼間とは別の呼吸がある。 空調が止まり、蛍光灯が半分だけ消えると、書架は眠った獣の背骨みたいに長く連なった。雨脚が窓を叩くたび、返却口の金属板がかすかに震えた。 夜勤司書の水城澪は、カウンターの時計を見た。午前二時十三分。 ――ことん。 返却口から落ちてきたのは、本ではなかった。手のひらほどの、猫の形をした紙のしおりだった。濃紺の紙に、針で開けたような星がいくつも光っている。猫は前脚を伸ばし、床に降りた。 『返却期限は、昨日まで』 声ではない言葉が、澪の胸の内側に浮かんだ。 猫のしおりが歩くたび、紙の星が一つずつ床に落ちた。澪は星を拾いながら児童書架を抜け、郷土資料の棚までついていった。いちばん下の段。そこには、貸出記録のない古い絵本が一冊だけ挟まっていた。 表紙に題名はない。 開くと、見開きいっぱいに夜の街があった。紙に描かれたはずの窓が瞬き、路面電車が豆粒ほどの火花を散らして走っている。遠くで鐘が二度鳴った。澪が顔を近づけると、雨と焼きたてのパンの匂いがした。 猫はページの縁に立ち、街の外れにある小さな家を指した。 その家の窓辺には、十歳の澪が座っていた。膝の上には、母が最後に読んでくれた物語。けれど、澪はその本の結末を思い出せない。母の声も、もうほとんど残っていなかった。 『忘れたものは、なくなったものではない』 胸の中で、また言葉がした。 澪は指先で家の扉に触れた。紙面が水面のように揺れ、次の瞬間、彼女は夜の街の石畳に立っていた。雨は降っていない。それでも傘を差す人々が、同じ方向へ歩いていく。全員が本を一冊ずつ抱えていた。 「どこへ行くんですか」 誰も答えない。ただ、列の最後にいた老人が、澪の手に小さな貸出票を握らせた。 借りた日――二十年前。 返す日――明日。 借りたもの――母の声。 澪は息を止めた。 街の中央には巨大な返却口があり、人々は抱えた本を次々に投げ入れていた。本が落ちるたび、空から星が一つ消える。 返さなければ、明日は来ない。 けれど返してしまえば、母の声は二度と聞けない。 猫のしおりが澪を見上げた。急かさない目だった。選ぶのは、いつも借りた本人なのだ。 澪は貸出票を二つに折った。そして、返却口ではなく、自分の胸ポケットにしまった。 「延長します」 空のどこかで、司書の判子を押す音がした。消えかけていた星が、一斉に灯る。 気づくと、澪はカウンターに立っていた。時計は午前二時十四分。開いた絵本の最後のページには、知らないはずの文字で、こう書かれていた。 『大丈夫。結末は、あなたが書いて』 それは母の字だった。 猫のしおりはもう動かなかった。ただ、濃紺の体に新しい星が一つ増えていた。 翌朝、澪は図書館の入口に小さな箱を置いた。 〈まだ返したくない記憶を、ここへ〉 最初に入っていたのは、題名のない一冊の絵本だった。
小説 · text · 2026-09-06