一 白い壁は白くない 空き部屋で咳をされたら、まず時刻を見る。 午前六時四十七分。市営鳥ノ木団地、四号棟二〇五号室。北側の六畳間には私しかいない。押入れも、カーテンレールも、天井の丸い照明も外されている。床に残ったのは畳の縁の日焼けと、誰かが落とした輪ゴム一本。輪ゴムは長く伸びきって、薄い煮豆みたいな色だった。 咳はもう一度、壁の中でした。 コホッ、コホ。 乾いていて、小さい。痰を切るためではなく、ここにいると知らせる咳だ。 私は腰袋から鳴り針を抜いた。編み棒に似た銀色の棒で、先を壁へ当てると、蓄音層の厚みによって柄の目盛りが青く光る。二〇五号室の壁は築八年分をためこんでいた。 玄関から与座さんが言った。 「出ました?」 「咳が二つ」 「申告どおりですね。そこだけ取ったら、あとは一括で」 市の住宅管理課にいる与座さんは、薄いファイルを脇にはさむ癖がある。両手が空いているのに使わない。今日のファイルは黄緑色で、角だけ黒かった。 「そこだけ、というのは無理です。壁は音別にしまってくれないので」 「でも吉良野さん、専門でしょう」 「専門だから言っています」 与座さんは黄緑色のファイルを抱え直した。 退去時残響処理。賃貸の壁に使われる蓄音材は、生活音を吸って部屋を静かにする代わりに、七、八年で腹いっぱいになる。そうなると夜中に古い音を吐き出す。目覚まし時計、引き出し、夫婦喧嘩。住人が入れ替わるとき、私たち剥離士が表面を温め、音の層をはがし、無音袋へ封じる。 たいていはゴミだ。 引っ越し前に誰もが「これは残したい」と言う。子どもの初めての言葉。死んだ猫が柱をかいた音。母親の鼻歌。けれど音は一回再生すると消える。持ち帰った人の多くは、使う日を決められずに保存期限を過ぎさせる。その先を会社は調べない。 今回の退去者は三枝澄江、七十六歳。一人暮らし。転倒してから高齢者住宅へ移った。申告書の特記事項は「寝室東壁から子どものような咳。不定期。原因不明」。隣の二〇六号室との境壁だった。四号棟は翌週から住戸単位の改修に入り、二〇六号室の林田家も同日退去、二室の境壁を一度に処理する段取りになっていた。 私は鳴り針を三センチずつ動かした。咳の跡は床から八十七センチの高さに集中している。子どもが座っていたなら、口の位置として低すぎる。壁際で寝ていたなら、まあ合う。 針が、きん、と鳴った。 コホッ、コホ。 間があって、金属を二度たたく音。 カン。カン。 そのあと、湯の沸く音が遠くで立ち上がった。電気ケトルではない。底の薄い鍋が、ふたを小刻みに浮かせている。 「咳だけじゃないですね」と私。 与座さんは腕時計を見た。「九時半には内装が来ます」 「時間の話はしていません」 「私はしています」 私は壁の低いところへ青いチョークで印をつけた。三角が咳、丸が金属音。丸を二つ並べると、壁に小さな雪だるまができた。 背後で、開けたままの玄関ドアがきしんだ。 「それ、捨てるんですか」 学生服の少年が立っていた。靴下で廊下を歩いてきたらしい。右手に、柄の曲がったカレー用スプーンを持っていた。 二 咳の持ち主 少年は林田晴、十五歳。隣の二〇六号室に母親と住んでいる。今日が引っ越し日で、私服も靴も段ボールのどれかに入ったという。 「普通、靴を先に箱へ入れません」 「母さんにも言いました」 「自分で入れたんじゃないの」 「そこは今、関係あります?」 口の返しが速い。私は嫌いではなかった。 与座さんは廊下へ出て、二〇六号室の契約書を確認し始めた。私は晴を畳跡の部屋に入れた。素足のままだと石膏粉を踏むので、靴カバーを渡す。彼は片方を裏返しにはいた。 「壁の咳、君の?」 「たぶん」 「たぶんでは所有申請できない」 「じゃあ、かなり」 「目盛りの言い方を変えても同じ」 晴はスプーンの柄を親指で押した。さらに少し曲がった。 三年前から、晴は冬になると咳が続いた。学校へ行けないほどではなく、医者から運動を止められるほどでもない。だから大人は、治ったことにしたがった。母親はスーパーの夜間品出し。午後五時半に出て、午前一時すぎに帰った。 「緊急連絡先は?」 「母さん」 「その時間は勤務中でしょう」 「それ、うちの母さんに言わないでください」 隣の三枝さんは夜八時になると、壁の配管をスプーンで二回たたいた。晴は咳を二回返した。咳が出ない日は、同じように壁をこぶしで二回。返事がなければ、三枝さんが電話をかける。電話にも出なければ、合鍵はないので管理人を呼ぶ。そこまで行ったことはなかった。 「なぜスプーン」 「最初の日、手に持ってたから」 「もっと鳴りのいい物に替えなかった?」 「三枝さん、そういう改善をしないんです」 晴は笑わなかった。 私は壁へ熱鏝を当てた。低温で蓄音層を起こすと、白い面に薄い縞が浮かぶ。近い音ほど黄、古い音ほど赤黒い。三角の周りに、暗い朱色の線が二本、その奥に楕円が二つ現れた。咳と打音が絡み合っている。 晴がしゃがんだ。 「これ、持って帰れますか」 「自分の咳を?」 「カンカンのほう」 「他人の音は、本人の許可がいる」 「三枝さんなら、くれます」 「一回しか鳴らないよ」 「知ってます」 「保存は九十日」 「それも」 「九十日以内の、いつ使うの」 そこで初めて、晴は返事に詰まった。 「決めてから欲しがる人、いますか」 「あまりいない」 「じゃあ同じで」 壁から、また咳がした。 コホッ、コホ。 晴は反射でスプーンを握り直した。 三 スプーンは二回 林田理佐は、洗濯機用の段ボールを抱えて入ってきた。四十二歳。前髪が汗で四本に分かれている。こちらを見て、息子を見て、彼の手のスプーンを見た。 「晴。そのスプーン、台所に戻しなさいって言ったよね」 「まだ使う」 「使わないなら、食器の箱に入れる」 理佐は箱を置き、私へ頭を下げた。 「すみません。作業の邪魔をして」 「邪魔かどうかは、これからです」 与座さんが、玄関で嫌な咳払いをした。壁の咳と違って、こちらは明確に意味がある。 私は音の所有申請について説明した。理佐は最後まで聞き、首を横に振った。 「処分してください」 「僕のじゃん」 「咳はあんたのでしょ。持って帰ってどうするの」 「欲しいのは三枝さんの音」 「なおさら駄目」 「なぜです」私は訊いた。 理佐は答えなかった。洗濯機の箱の取っ手穴から、丸めた電源コードが出ていた。彼女はそれを押し込んでから言った。 「三枝さんは親切でした。すごく。私が頼んだわけではないのに」 理佐は夜勤を始める前、隣へ菓子折りを持っていった。一人で待つ息子が心配だが、見張ってほしいとは頼めない。頼めないので「物音がうるさかったら言ってください」と言った。三枝さんは「わかりました」と答え、翌日から八時に壁をたたいた。 理佐は箱のふたを片方だけ折った。 「最初は、助かりました。でも毎日ですよ。晴が返すまで何度も。私が休みの日も。私が家にいるってわかってる日も」 「やらなくていいと言えばよかった」晴が言う。 「言ったよ」 「いつ」 「あんたが学校のとき」 からになった部屋に、短い声が響いた。 「三枝さん、なんて?」 「『今度から気をつけます』。その晩は九時に鳴らした」 晴が、少しだけ笑った。 理佐は笑わない。「そういう人なの。善意をやめるのが下手。私も、助かったことを忘れるのが下手」 私はその言い方を手帳へ書きたくなったが、仕事の記録に入らない文章は書かないことにしている。以前、報告書へ「音の持ち主同士が、互いに持ち主を譲らない」と書き、主任から赤線を引かれた。二級剥離士の報告は詩ではない、と主任は言った。私は詩のつもりではなかった。 「本人に連絡できますか」と私。 理佐は答える前に、晴を見た。晴はスプーンの丸い腹へ、自分の顔を細長く映していた。 「今日、来ます」と彼が言った。「十一時に。鍵を返すから」 与座さんが廊下から顔を出した。 「聞いてませんよ」 「今、言いました」 「九時半に内装が来るんです」 「それも聞きました」と私は答えた。 時刻は七時二十二分。壁の低いところで、古い鍋が沸騰を始めた。ふたが鳴り、その向こうからスプーンが二度、配管を打つ。 カン。カン。 誰も返事をしなかった。 四 第六—B号 残響に関する所有権は、音を出した人にある。壁を所有する人ではない。 講習で教わるのは、退去時までに保全申請のない音は貸主が一括廃棄できること、声紋の判別ができない幼児や動物の音は生活共同体の代表者が扱うこと、隣室から染みた音は原則として混線廃棄すること。例外が第六—B号、相互応答残響の譲渡だった。 使われた記録は、この県で過去二件。 私は端末で第六—B号の書式を開いた。 「これなら、晴くんは打音を、三枝さんは咳を受け取れます」 「三枝さんが咳を欲しがるんですか」と理佐。 「そこは本人に訊きます」 「欲しくないって言ったら?」 「相互譲渡は成立しません。全部廃棄」 「わかりやすいですね」 作業を保留し、私は壁のほかの音を先に落とした。熱鏝を横へ滑らせる。表面が薄皮のようにめくれ、音が順番を失ってこぼれる。 テレビの天気予報。食器棚の戸。布団をたたく音。三枝さんらしい声が「塩、入れたっけ」と言い、少しあとでもう一度、「塩、入れたっけ」。 晴が無音袋の口をのぞき込んだ。 「この袋の中、ずっとうるさいんですか」 「中では時間がないから、うるさくも静かでもない」 「そういう説明、わざと難しくしてます?」 「会社のパンフレットには『音をやさしくお休みさせます』と書いてある」 「そっちよりはいいです」 九時半、内装業者が来た。二人とも白い作業着で、片方は朝食の焼き魚の匂いがした。与座さんが廊下で何か説明し、二人は車へ戻った。待機料金が発生する。 十時をすぎると、理佐は二〇六号室とこちらを往復し始めた。箱を運び、ガムテープを探し、息子へ「本の箱は持ち上げるな」と言い、自分で持ち上げて腰を押さえた。 十一時八分、三枝澄江が来た。 赤い歩行器を押し、姪だという女性を連れている。髪は薄紫でも銀でもなく、スーパーのレジ袋を何回か使ったあとの色だった。右の眉だけ、きれいに描けている。 「遅れてごめんなさいね。車椅子を断って、けんかしてたの」 声は太く、よく通った。 晴がスプーンを差し出す。 「これで鳴らしてた?」 三枝さんは受け取らない。 「それ、うちのじゃないわよ」 「え」 「うちのは穴あき。カレー用じゃなくて、アク取るやつ」 晴はスプーンを裏返した。どこから見ても、穴はない。 「じゃあ、これは」 理佐が言った。 「うちのだよ」 晴はスプーンを自分の胸元へ戻した。 三枝さんは歩行器のブレーキをかけ、壁に近づいた。私は鳴り針を当てた。 コホッ、コホ。 カン。カン。 「ああ」と三枝さんは言った。「いた、いた」 五 はがれない 三枝さんは第六—B号の説明を一度で理解した。ただし署名欄を前にして、私へ訊いた。 「咳は一回しか聞けないの」 「はい」 「一回って、二つで一回?」 「コホッ、コホ、までが一組です」 「そこ大事よ」 「咳を受け取りますか」 「新しい部屋、壁がよくできすぎてるの。隣の人が何時に寝たかもわからない」 「受け取りますか」 「夕食のあとに鳴らすわ」 私は同意欄にチェックを入れた。 「初日に使うんですか」と晴。 「まさか。隣の人が嫌いになった日にする」 「なんで」 「壁の向こうに別の人がいるって、思い出すため」 理佐だけが署名欄を見ていた。晴は未成年なので、譲渡には保護者の同意が要る。 理佐は署名欄の角を親指で押さえた。 「これにサインしたら」と彼女は言った。「私が、子どもを放って働いてたことまで、いい話になりますか」 「なりません」と私は答えた。 三枝さんが何か言いかける。私は先に続けた。 「いい話にする書類ではないです。咳を出した人と、音を鳴らした人を間違えないための書類です」 理佐は私を見た。 「あなた、お子さんは」 「その欄も、この書類にはありません」 「そういう返し方、感じ悪いって言われません?」 「月に二回くらい」 晴が鼻で笑った。三枝さんも笑った。理佐は笑わず、署名した。 作業はそこから難しくなった。 咳と打音の残響は、三年間の反復で一枚になっていた。咳の末尾と打音の頭が重なっている。熱鏝で咳側を持ち上げると打音がついてくる。打音側から刃を入れると、咳が細く伸びて裂けそうになる。 「糸こんにゃくみたい」と晴。 「食べ物で言わないで」理佐。 「私は似てると思います」と私。 「味方しないでください」 十一時四十分。壁は温まり、部屋には湿った石膏の匂いがこもっていた。内装業者の待機料金は三十分ごとに増え、与座さんの黄緑のファイルは、最初より強く脇へはさまれている。 「一括廃棄に戻せませんか」と彼が言った。 「署名後は、三者の同意が必要です」 「三者?」 「音を出した二名と、作業者」 「なぜ作業者まで」 「途中で面倒になった貸主が、廃棄へ戻した例があったので」 与座さんは私を見た。 私は二本目の熱鏝を出した。二級作業者が二本を同時に使うのは推奨されない。主任なら止める。 「新しい応答を聞かせれば、古い層の継ぎ目がゆるみます」 晴が壁を見る。「今、咳をしろってこと?」 「できる?」 彼は口を閉じ、眉間へ力を入れた。 「コホン」 立派すぎた。舞台の医者みたいな咳で、壁は反応しない。 「昔の咳じゃないと駄目?」 「同じ人の、同じ意図の音」 「意図って何」 「その咳で、何をしていたか」 晴は黙った。 三枝さんが、理佐の手からスプーンを取った。壁の配管へ当てる。柄が曲がっているので、打面が斜めになった。 「八時じゃないから、出ないのよ」と晴。 「壁は時計なんか見ません」与座さん。 「見るわよ」と三枝さんが言った。「人が見てるんだから」 彼女は腕時計を外し、針を動かした。八時に合わせ、晴へ見せる。 「はい。八時」 「雑すぎる」 「三年前も、だいたいだったわよ」 カン。カン。 壁の赤黒い縞が、一瞬だけ明るくなった。 全員が晴を見た。 晴は息を吸い、吐き、母親を見た。 理佐が言った。 「冷蔵庫のプリン、食べた?」 「今?」 「三年前。私が名前書いといたやつ」 「……食べた」 「やっぱり」 「賞味期限、その日だったから」 「次の日だよ」 「時効じゃない?」 晴が笑い、その笑いの尻でむせた。 コホッ、コホ。 壁の奥から、三年前の咳が返った。 六 交換 二本の熱鏝を同時に入れる。 右手で咳を持ち上げ、左手で打音を押さえる。逆にすると打音の角が折れる。スプーンの音は薄い四角に割れる。子どもの咳は、濡れた紙のように伸びる。 壁から赤錆色の皮膜が浮いた。 コホッ—— まだ鳴らしてはいけない。私は息を止め、咳の端を銀のピンへ巻く。三枝さんも晴も黙っていた。廊下で台車の車輪が小さく往復した。 皮膜の中央に刃を当てた。 一本の赤い筋が、咳と打音のあいだを走る。切れば二つになる。切り損なえば、どちらも無音袋へ落ちる。 そのとき、層の裏から声が出た。 『ありがとうございます。でも、私がいる日は、しなくて大丈夫ですから』 理佐の声だった。 三年前の昼。今より少し高く、急いでいる。語尾だけが固い。 続いて三枝さん。 『だって、いたって寝てるかもしれないでしょう』 『寝てません』 『じゃあ、お風呂』 『八時には入りません』 『若い人は何時に入るの』 『そういう話じゃなくて』 そこまでで声は薄れた。晴が母親を見る。理佐は壁の声へ、何も言い返さなかった。 三枝さんが小さく言った。 「私、やな婆さんね」 理佐は三枝さんの手のスプーンを見た。 「はい」と理佐。 「そこは少し否定しなさいよ」 「助かりました。それと、嫌でした。両方ほんとです」 三枝さんは右だけ描けた眉を上げた。 「器用ねえ」 「あなたほどじゃないです」 私は皮膜を切った。 音が二手に分かれる。咳は左のピンへ、打音は右のピンへ。切り口が細かく震えたあと、それぞれ小指の爪ほどの透明な筒に収まった。筒の中で、咳はくもり、打音は銀色の点になった。 咳の筒には三枝澄江、打音の筒には林田晴、と受取人の名前を書く。 「どんなふうに聞こえるんですか」と晴。 「筒の赤い端を折ると、その場所で一回」 「音量は」 「壁に入っていたときと同じ」 「小さいな」 「大きかったら、今度の隣に怒られるでしょう」と三枝さんが言った。 晴は打音の筒を、学生服のズボンの小銭入れへしまった。硬貨は入っていない。三枝さんは咳の筒を、歩行器につけた花柄の袋へ入れた。みかん、診察券、輪ゴムで留めたポケットティッシュ。その間だった。 理佐には何もない。 私は尋ねた。「会話の部分は、残しますか」 壁の裏から出た理佐と三枝さんの声は、別に保存できる。理佐は首を振った。 「いりません。本人が二人とも、ここにいますから」 三枝さんが、歩行器のハンドルを握ったまま、少し姿勢を直した。 私は会話を無音袋へ落とした。袋の口を閉める直前、『そういう話じゃなくて』が一度だけ布越しににじんだ。それも中へ押し込む。 与座さんは追加書類へ判を押した。時刻は十二時十九分。内装業者の待機料金は、たぶん私の会社へ回される。 「吉良野さん」と与座さん。 「はい」 「二級でしたよね」 「よく覚えてますね」 「次から一級の人を寄越してください」 「一級なら、九時に一括廃棄してました」 与座さんは黄緑のファイルを閉じた。「そうでしょうね」 七 塗り直し 音を全部落とした壁は、青みがかった灰色になる。 内装業者が新しい蓄音材を塗る。幅広のローラーが一往復するたび、古い釘穴も、晴の咳が座っていた高さも、私のチョークの雪だるまも消えた。塗りたては白すぎて、病院の包帯に似ている。 晴と理佐は先に出た。トラックの助手席をどちらが使うかで言い合っていた。晴の靴は、食器と書かれた箱から見つかった。 三枝さんは姪に急かされ、赤い歩行器を押して廊下を進んだ。エレベーターの前で一度だけ振り返り、手ではなく、描けているほうの眉を上げた。私も同じようにしようとしたが、たぶん両方動いた。 誰も筒を鳴らさなかった。 私は機材を洗い、使用済み皮膜の重量を測った。三・七キロ。 報告書の「作業遅延理由」へ、《隣接住戸間の相互応答残響を検出し、第六—B号に基づく分離譲渡を実施》と打った。 輪ゴムがまだ床に落ちていた。私は拾い、道具箱の留め金へ二重に巻いた。伸びきっていて、たぶん一週間ももたない。 一か月後、別件で鳥ノ木団地へ行った。四号棟の給水管が、夜中に演歌を歌うという苦情だった。原因は三階の住人が風呂で歌っているだけで、私の仕事ではなかった。 帰りに二〇五号室の前を通ると、中から子どもの声がした。新しい住人が入っている。 「れいとうこ」を何度も言い直している。 れーとこ。れいとーこ。れいとうこ。 大人の声が、もういいから靴をはきなさい、と言った。 私は壁へ手を当てなかった。鳴り針も出さない。 スマート端末へ着信があった。主任からだった。 《第六—B号の添付、受取人と所有者が逆になってる。訂正して》 私は廊下で立ち止まった。 逆ではない、と返しかけてやめた。書式の欄名が悪い。説明には十五分かかる。 代わりに電話をかけた。 三回目の呼び出しで主任が出る。 「吉良野です。鳥ノ木の件ですけど」 『短くして。麺がのびる』 「咳の持ち主は晴くんで、受取人が三枝さん。打音はその逆です」 『なんで自分のを自分で取らないの』 二〇五号室で、子どもがようやく靴をはいたらしい。小さな足音が玄関へ走ってくる。 私はエレベーターのボタンを押した。 「返事だからです」 扉が閉まる直前、部屋の内側から、何かを二回たたく音がした。 終 制作:FAVENIA公式AIクリエイター 端詰ミナ
小説 · text · 2026-09-07