第一章 上の階の足音 出かける前に二階へ上がった。 階段の三段目が鳴る。父が生きていたころから鳴っていて、直そうと思ったことは一度もない。突き当たりの六畳のドアだけが、この家で異様に重い。把手を引くと空気が先に動いて、それから廊下の物音が後ろで切れた。 ドアを閉めて立つと、自分の耳の中で鳴っている音が聞こえた。 折りたたみ椅子が一脚、部屋の中央から半歩ずれた位置に置いてある。壁際の棚にTASCAM DA-P1。その横にNEUMANN KM184が二本、ケースに入ったまま。マイクスタンドは畳んで壁に立てかけてある。父はこの六畳を、二〇一九年の夏に自費で防音室にした。理由は誰にも言わなかった。二〇二三年十一月四日に死んで、二年半、この部屋はこのままだ。 DATテープは三十七本。背を揃えて棚に並んでいる。三十六本は再生機に通した。全部消えていた。 残りの一本だけラベルが白紙で、まだ聴いていない。千歳は指の腹でその背を押し、列から少し出して、電気を消した。ドアを閉めると廊下の音が戻ってきた。 一階の事務所では冴子が受話器を置いたところだった。 「江東区の藤枝さん、十時。蒲生くんが軽バン出してます」 「ハイエースは」 「郷田さんが錦糸町。天井、今日で終わるって」 冴子が机の端の封筒を指で滑らせてよこした。管理会社からの図面の写しだった。千歳はそれを小脇に挟んで、玄関で安全靴の踵を踏んだ。 現場は江東区の、運河沿いに立った築三年のマンションだった。エレベーターで図面の写しを開くと、床の欄に乾式二重床、遮音等級はLL-45、LH-50と刷ってあった。指でその二行をなぞって、封筒に戻した。 十二階で扉が開くと、共用廊下に塗り立ての匂いが残っていた。蒲生が測定器のケースを二つ足元に置いて壁にもたれている。廊下には音がなかった。巻き上げの唸りも運河沿いの車も、ここまでは上がってこない。安全靴の踵だけが一歩ごとに天井へ跳ね返る。外が静かな建物ほど、中の音しか残らない。 一二〇五号室。藤枝麻里は玄関を開けたときすでに喋りはじめていた。三和土に小さいスニーカーが二足、片方は横倒しになっている。 「もう本当に朝からなんです。六時とか、六時半とか。ドスン、ドスンって。上の人、うちが下にいるの分かってて歩いてると思うんですよ。管理会社に二回言いました。二回とも『申し伝えます』で終わりで。こっちは子どもがまだ寝てる時間に起こされてるんですよ。非常識にもほどがあるでしょう」 千歳は内ポケットから手帳を出し、子どもの年齢と在宅の時間を聞いて書き取った。上が小学二年、下が年中。上は学校、下は幼稚園で、帰りは二時。ページの隅に測定の順番を書いた。居間、寝室、それから上階。書き終えて靴を脱ぎ、廊下に養生シートを敷いた。居間まで一枚、玄関からまっすぐに。麻里が「そんな、いいのに」と言ったが、手は止めなかった。 「うちのは重いので。傷が入ると私が落ち込みます」 居間は南向きで、床はフローリング、天井は白いクロス。千歳は掌を丸めて天井を二か所叩いた。詰まった音が返る。壁際に寄って、天井とクロスの取り合いを覗いた。 「天井は直天井ですね。コンクリートの下面にそのままクロスです」 「それって、悪いんですか」 「悪くはないです。ただ、上の音がそのまま面で降りてきます」 床も叩いた。今度は下に空きのある音がした。洗面室で点検口の蓋を上げると、床下は十二センチほど空いていて、金属の支持脚が等間隔に立っている。脚の頭にはゴムが噛ませてあった。千歳はスケールを差し込み、目盛りを手帳に落として蓋を戻した。乾式二重床。図面のとおりで、同じ建物なら上の階も同じ床だ。麻里は点検口を覗き込んで、すぐ顔を上げた。 寝室も見せてもらった。二段ベッドの下の段に、子どもの掛け布団が二枚重ねてある。上の子が下で寝たがるので二人ともここで寝るのだと麻里が言った。千歳は枕の位置を確かめて、天井のどのあたりが真上になるかを目で追った。壁の上のほうに給気口があって、レバーは全開になっていた。 「六時半に起きるのは、どっちの子ですか」 麻里が少し黙った。「……両方です」 三脚を居間の中央、壁から一・二メートル離して立て、リオンNL-42を高さ一・二メートルにセットした。窓を閉め、換気扇を止めてもらい、冷蔵庫の位置を確認する。麻里には食卓の椅子に座っていてもらった。蒲生が液晶を覗き込んで、暗騒音三十四、と読み上げた。給気口は開いたままにしておいた。閉めれば数字は下がるが、この家は普段そこを開けて暮らしている。 千歳は上を見上げた。それから麻里に、上の部屋に入らせてもらう、と言った。麻里の眉が動いた。 「私も行ったほうがいいですか」 「いえ。あとで、こっちで聞いていただきます」 蒲生にケースを持たせて、階段で十三階へ上がった。一三〇五号室。滝川という表札で、出てきたのは五十代の女だった。細い縁の眼鏡を上げ下げしながら、廊下の奥に体を半分残して立っている。奥から男の声がした。 「非常識ってのは、どっちの話だ」 「あなた」 「うちは八時に起きるんだ。夫婦二人だぞ。飛んだり跳ねたりしてるとでも思ってるのか」 千歳は名刺を出した。管理会社の紹介で、下の階の音の出どころを測りに来たこと、原因を人ではなく建物の側で探していること、床は触らないこと、二十分で済むことを、玄関に立ったまま順に言った。滝川夫人が眼鏡を上げた。 「……測って、うちのせいだったら、どうなるんですか」 「今日は誰のせいかを決めに来ていません。数字を取りに来ました」 夫人は少し下がって、スリッパを二足そろえた。奥から男が出てきて、腕を組んだまま柱にもたれた。首にタオルをかけている。去年言われて敷いたマットの縁が、土間に半分かかっていた。それでも駄目なんだろう、と男は言った。今から測ります、と千歳が答えると、鼻で笑ってテレビの前へ戻った。音量は上げなかった。 居間はきれいに片付いていて、ラグの毛が縦に揃っていた。千歳は玄関から居間まで養生を敷き、リオンVM-83のピックアップを床に置いて、上から手のひらで軽く押さえた。ケーブルを壁際に沿わせ、余りを八の字に巻いて幅木に寄せる。蒲生が無線機の電源を入れ、チャンネルを合わせて片方を渡した。読み上げは千歳の合図が先。それだけ決めて十三階に残した。 千歳は滝川夫人のほうを向いた。 「奥さん、合図をしたら、普通に歩いてみてください。いつもどおりに。台所から窓まで、六歩か七歩」 「普通に、ですか」 「はい。気をつけて歩かないでください。それだと測れません」 夫人は台所の入口に立って、自分の足元を見た。 千歳は階段で十二階へ降りた。麻里は食卓の椅子から立って、天井を見ていた。上の奥さんはいたか、どんな人だったか、続けて聞いてきた。千歳は、あとで会っていただきます、とだけ言って、三脚の脚が養生の折り目に乗っていないかを確かめた。 無線を口元に上げた。「蒲生、始めて。奥さんに合図を」 数秒あって、天井が鳴った。ドスン、ではない。腹の底のほうを押されるような、輪郭のない音だった。麻里が椅子の背を掴んだ。 「これです。これ。今の、これなんです」 千歳はNL-42の表示を見ていた。「A特性で四十一」 「四十一って、少ないってことですか」 「A特性は低い音を小さく見積もります。中を割ります」 千歳は分析画面に切り替え、1/3オクターブバンドで並んだ棒の一本を指した。 「六十三ヘルツのところ、六十二あります。その上の百二十五ヘルツは四十八。低いところだけが突出しています」 無線が鳴った。「社長、上の振動、七十一。歩くたび同じところで振れます」 「歩幅変えてもらって」 「……変えても七十一です」 麻里は天井を見上げたまま口を開けていた。千歳は台所の引き出しからステンレスのスプーンを一本借り、無線で蒲生に同じものを用意させた。 蒲生が上でスプーンを落とした。カチャ、と細い音が天井の一点で鳴って、すぐ消えた。表示はほとんど動かない。 「これが軽量の床衝撃音です。等級で言えばLL-45、この建物の仕様どおりです。皿を洗う音、椅子を引く音はここに入ります」 「でも、うるさいのはさっきのほうです」 「そう。重いほうです」 無線に言った。「蒲生、跳ねて。膝は使わないで、踵から」 天井が二度、鈍く落ちた。麻里が肩をすくめた。千歳は数字を読んだ。 「重量床衝撃音、LH-55相当。仕様書はLH-50と書いてあります。届いていません」 千歳は三脚をたたんで寝室へ移した。二段ベッドの脇、枕の真上にあたる位置に立て直し、同じことをもう一度やらせた。棒の並びは居間とほとんど変わらなかった。六十三ヘルツが六十一、百二十五ヘルツが四十六。布団を退けても、数字は同じところに寄った。 「じゃあ、この家のどこにいても」 「同じです」 千歳は無線に、滝川夫人を下に降りてきてもらえるか、と言った。麻里が「え」と言った。「今ですか」「今です」 三分後、滝川夫人が玄関に立った。麻里は立ち上がりかけて、そのまま中腰で止まった。夫人がスリッパを断って、靴下のまま廊下に上がった。二人は挨拶をしなかった。 「奥さん、そこに立っていてください。天井の下です」千歳は無線を上げた。「蒲生、さっきと同じに歩いて」 天井が鳴った。ドスン。ドスン。ゆっくり、六歩。 滝川夫人の手が口元へ行った。 「……こんなに」 「今のは、うちの若いのが普通に歩いています」 「これが、私」 「奥さんが歩くと、これになります」 麻里が椅子に座り直した。夫人はまだ天井を見ている。千歳はNL-42の三脚を畳みながら言った。 「床が悪いんじゃなくて、床の仕組みが鳴っています。乾式二重床は、コンクリートの上に脚を立てて板を浮かせています。板とコンクリートの間の十二センチの空気が、低いところで共振します。二重壁の中空層が鳴るのと同じことが、床で起きています」 「じゃあ、うちの絨毯を厚くしたら」麻里が言った。 「軽い音には効きます。今の音には効きません」 「防音カーテンは」 「あれは効きません」 夫人が振り向いた。「うちがスリッパを履けば」 「スリッパは足の裏の音です。今のは板ごと下に伝わっています。空気の音じゃなくて、建物を伝わってくる音なので、天井を厚くしても、壁を厚くしても消えません。効くのは縁を切ることだけです。脚のゴムを防振のものに替える、浮き床にする、天井を吊りに変えてハンガーで縁を切る。どれも、この一戸だけの工事ではありません」 千歳は封筒から図面の写しを抜いて、床の欄の二行を二人のあいだに置いた。全戸に同じ床が入っている。一三〇五号室の脚だけを防振に替えれば、次は十四階の音が十三階の天井から落ちてくる。麻里が両手を膝に置いた。指先が動いていた。 「じゃあ、誰が悪いんですか」 千歳はケースの留め金を閉めた。 「今日の測定値は書面にします。管理会社を通して、管理組合の理事会に出してください。仕様書のLH-50に対して実測がLH-55です。これは住戸間の話ではなくて、施工と設計の話になります」 「私、二回も管理会社に電話して……上の人が非常識だって、そう言いました」 「言いましたね」 「言いました」 麻里は滝川夫人のほうを見なかった。夫人が眼鏡を外して、指で目頭を押さえて、かけ直した。 「主人、さっき八時って言いましたけど、起きるのは六時です。仕事が変わったので」 「六時に起きていい家です」千歳は言った。「六時に起きられない家でもあるんですけど、それは床の話です」 玄関で靴を履くとき、麻里が背中に言った。 「怒る相手がいないのって、こんなに気持ち悪いんですね」 千歳は靴べらを框に戻した。「三日以内に出します」 「相手がいないと、私、この二か月、何をしてたことになるんですか」 「音は鳴っていました」 「それは、そうですけど」 エレベーターの中で蒲生が無線機の電池を抜き、ケースのゴムバンドに挟んだ。滝川夫人は下へ降りるのに階段を使ったのだと言った。三分を待てなかったらしい。しんどいっすね、と続けたので、どっちが、と聞いた。両方、と返ってきた。蒲生は持ち手を握り直した。 事務所に戻ったのは四時前だった。冴子が伝票を打つ手を止めずに、藤枝さんから電話が二回、と言った。折り返すと、麻里は最初と同じ速さで喋った。理事長が同じ階にいること、来月の理事会に出したいこと、上の奥さんに何と言えばいいか分からないこと。千歳は書面の話だけをして、切った。 見積書は作らなかった。測定報告書の表紙に「工事提案なし」と書いて、冴子の机に置いた。冴子がそれを見て、鼻から息を出した。 「うち、何で食べてるんでしたっけ」 「工事です」 「ですよね」 六時に郷田が錦糸町から戻ってきた。作業着の肩に石膏の粉がついている。報告書の表紙を一度だけ見て、椅子に座らずに言った。 「乾式二重床か」 「はい」 「あれは造ったやつが悪いわけでもない。安いし、水平が出るし、配管が通る」 「分かってます」 郷田は流しで手を洗って、薬を一錠、湯呑みの水で飲んだ。「理事会、荒れるぞ」 夜、風呂に入る前に二階へ上がった。三段目が鳴った。ドアを開けて電気をつけると、折りたたみ椅子の脚の影が畳に伸びた。 棚の三十七本は朝と同じ並びで、白紙の一本だけ、指で押したぶんが列から出たままだった。 第二章 教室に来ない 連休明けの木曜、九時過ぎに事務所の電話が鳴った。冴子は相手の言うことを復唱しながらメモを取り、受話器を置いてから椅子ごと千歳のほうを向いた。葛飾のピアノ教室で、防音をもっと強くしたい、という話だった。九年前に一度、よその業者が入れている。図面は残っていないという。 「三時なら空いてるって。生徒が来る前」 「行く」 「蒲生くん連れてって。郷田さんは市川」 冴子は依頼票に定規を当てて線を引き、白雪敦子、六十三、と書いた。名前を丸で囲み、下に電話番号を並べる。 千歳はアルミケースを開けて、XL2の電池残量とマイクの防風スクリーンを見た。三脚のクランプを一度締め直す。騒音計は先週校正から戻ったばかりで、蓋の裏の日付のシールがまだ白い。ケーブルは八の字に巻いて結束バンドで留めてある。 「二階、そろそろ片付けたら」 冴子は伝票を打ち込みながら言った。画面から目を離していない。 「物置にしとくには広いでしょ、六畳」 「そのうちね」 千歳はケースの留め金を右、左の順に落とした。二階の棚のテープは、朝、上がったときと同じ並びのままだ。三十七本、背のラベルの高さが揃っている。 環七を北へ上がって、四つ木の先で細い道に入った。蒲生は路地の入口で一度停まり、切り返しを三回やってから電柱の脇に鼻先を入れた。 「社長、後ろ」 「見てる」 「見てるって言う人がいちばん擦るんですよ」 シラユキ音楽教室は木造二階建ての一階だった。門柱に白い琺瑯の看板が出ていて、丸みのある書体で教室名と電話番号が入っている。花壇のプランターにマリーゴールドが咲いていた。玄関を開けると、廊下にスリッパが四足そろえてあった。 白雪敦子は白いブラウスに紺のカーディガンで、髪を後ろでまとめていた。こんな遠くまで、と二度言った。千歳は八広からなら京成で一本だと答えた。 教室は玄関を入ってすぐの、十畳ほどの部屋だった。グランドピアノが一台、壁際にアップライトがもう一台。譜面棚、木の三角のメトロノーム、丸椅子、待合のパイプ椅子が二脚。壁のポケットにレッスンカードが差してあった。千歳はメジャーを引き出して短辺と長辺を測り、手帳の隅に四・二〇、三・八五と書いた。 「それで、どうなさりたいですか」 「完全防音。ゼロにしたいの。外に一ミリも出ないように。お金は出します。二百でも三百でも」 敦子は譜面棚の下の引き出しを開けて、便箋を三枚出してきた。罫線の入った白い便箋に、定規を当てたようにまっすぐ書いてある。日付。時刻。「本日も午後七時二十分まで音がしておりました」。下に近藤、と署名。三枚とも同じ万年筆で、字の傾きまで同じだった。 「去年の秋から、これが三枚。ポストに入っているの」 苦情主は東隣の近藤だという。壁一枚、と言いかけて敦子は言い直し、庭がこれくらい、と両手を四十センチほど開いた。 千歳は壁を叩いて回った。拳の背で、腰の高さと頭の高さに二か所ずつ。東の面だけ返りが硬く、音が短く死ぬ。二重にしてある。窓は内窓が入っていて、外が五ミリ、内が六ミリだった。厚みをずらしてあるのは、同じ厚さを二枚並べると二千五百ヘルツの谷が二枚とも同じ場所に来るからだ。入れた業者はそこまで知っていた。 「正しいの。じゃあ、なんで」 「まだ何も測っていません」 ドアは既製の防音ドアだった。下端のパッキンを指で押すと、へたっていて戻りが遅い。換気扇の開口には消音ボックスがない。給気口が二か所あって、東側のレバーが全開になっていた。千歳は掌をかざした。空気が動いている。 「ここ、閉めてます?」 「レッスン中は開けてます。子どもが来るから、換気を」 コンセントのプレートをドライバーで外した。石膏ボードの丸い穴の奥に、何も詰まっていない。壁の裏の空気とつながっている。エアコンの配管が抜けるところは、パテが縮んで髪の毛ほどの隙が走っていた。千歳は穴を一つずつ手帳に書き出し、寸法を足した。全部足しても壁の面積の一パーセントには届かない。一パーセント開けば遮音は十デシベル落ちるが、そこまではいっていない。 「壁は、たぶんちゃんと造ってあります。抜けているのは、この穴と、ドアの下と、給気口です」 「そこを塞げば静かになるのね」 「まだ分かりません」 蒲生がスピーカーとアンプを運び込んだ。千歳は部屋の角、壁から一メートル、床から一・二メートルの位置を指した。 「アンプはピアノの脚に触れないところに置いて。ケーブルは巾木沿い」 「はいはい」 スピーカーの向きを決めるのに、千歳はグランドの尾のほうへ回った。譜面台の高さをスケールで読む。鍵盤蓋は閉じていた。天板の埃を指の腹で拭って、そのまま手を蓋の縁に掛けた。 指がそこで止まった。 「開けましょうか」敦子が言った。 「いえ」 千歳は手を離し、スケールを巻き戻した。金属の舌が鳴った。隣の近藤の家で測らせてもらう、ここだけ測っても向こうに何デシベル届くかは分からない、と続けた。私も行ったほうが、と敦子が言いかけるのを、先生はピアノの前にいてください、あとで弾いてもらいますから、と遮った。敦子の指がカーディガンのボタンにかかり、外して、また留めた。 近藤の家はブロック塀にアルミの門扉で、庭に鉢が二十いくつ並んでいた。皐月が二鉢、あとは葉物ばかりだ。呼び鈴を押すと、返事まで少し間があった。 出てきた男は白髪を短く刈って、ポロシャツにサンダルだった。千歳が名刺を出すと、名刺のほうを見ずに作業着を見た。 「白雪さんに頼まれたのか」 「はい」 「工事の売り込みか」 「今日は測りに来ました。お宅の中で、どれくらい聞こえているか」 近藤は名刺を受け取り、老眼鏡をかけて、有限会社つづき音響、と声に出して読んだ。 「区役所に三十四年いたよ。苦情の窓口に六年」 「じゃあ、慣れてますね」 「慣れてるさ。測りに来られる側は初めてだがな」 茶の間に通された。座卓、テレビ、仏壇、隅に新聞の束。千歳は三脚を部屋の中央に立て、リオンNL-42を高さ一・二メートル、壁から一メートル以上離してセットし、キャリブレーターを当てて基準音を通した。窓を閉めてもらい、テレビを切ってもらう。冷蔵庫はそのままにした。指示値が落ち着くまで、座卓の縁に手を置いて待った。 近藤は胡座をかいて腕を組んだ。 「暗騒音、三七・四」千歳は読み上げた。「この部屋、静かです。寝室でこれくらいなら上等な数字です」 「静かだから聞こえるんだろうが」 「そうです」 蒲生に電話をかけ、スピーカーにして座卓の端に置いた。教室で椅子を引く音がして、低いざわめきが壁の向こうに立った。ピンクノイズだ。近藤が仏壇のほうへ首を回した。 蒲生が音源側を読み上げてくる。百二十五で九六・三、五百で九五・一、千で九四・七、二千で九四・二、二千五百で九四・〇、四千で九三・六。千歳は分析画面の棒を上から順に読み、手帳の左の列に受音側を書いた。百二十五が五〇・二、五百が三八・八、千が三四・六、二千が三六・一、二千五百が四〇・三、四千が三二・五。引き算をすると、二千五百の一本だけが五三・七まで落ちた。石膏ボード十二・五ミリの谷が来る周波数だった。 「教科書どおりっすね」 千歳は数字の上に等級曲線を鉛筆でなぞった。いちばん食い込んだのは二千五百と百二十五の二本だった。 「D-52です」 「五十二ってのは、いいのか悪いのか」 「マンションの隣同士の壁が四十五から五十です。ここはそれより上です」 「上なのに聞こえるのか」 「聞こえます」 千歳は電話に向かって、八十ヘルツを鳴らして、と言った。蒲生が音源側を九七・一と読み上げ、受音側の表示は六一・二で止まった。差は三五・九しかない。中空層が五十ミリで、両面に石膏ボード。その組み合わせは八十ヘルツで共鳴する。壁を厚くしても、この帯だけは付いてくる。 近藤の腕がほどけた。 「ポーンじゃないんだよ」 「はい」 「ぼん、ぼん、って来るんだ。腹のほうに」 「その音です」 千歳は電話を持ち直し、ノイズを止めさせて、いつも見本に弾いている曲を先生に弾いてもらうよう頼んだ。十秒ほどして、壁の向こうでピアノが鳴りはじめた。八小節ほどの短い曲を、ゆっくりと。茶の間に届いているのは旋律ではなかった。左手が低いところへ落ちるたびに、新聞の束のあたりで空気が押される。高いほうは、耳を向けてやっと分かる程度だった。 「四一・二」千歳は言った。「鳴っていないときが三七・四です。差は四デシベルです」 「四か」 「はい」 「四で、俺は九年怒ってるのか」 千歳は数字を読み上げるのをやめた。三脚のクランプを緩めて騒音計を外し、電源を落として、ケースに戻さずに膝の上に置いた。 「近藤さん、九年ですか」 「九年と一月だ」 「手紙は去年からですよね」 「手紙は去年からだよ」 ピアノは止まって、また同じ八小節を頭から弾きはじめた。近藤が湯呑みを持ち上げて、中身がないのを見て、置いた。 「越してきたのは向こうが後だ。九年前の四月に看板が出て、ピアノが入った。ユニックが道を塞いで半日通れなかった。工事は二週間、朝からだ。あの若い監督が、ご迷惑をおかけしますって、菓子折り持って回ってきた」 「工事屋が」 「工事屋が。名刺も置いてった。……先生は来なかった」 千歳はケースを閉めなかった。手を止めて、そのままにした。 「一度もだ。道で会えば会釈はする。それだけだ。うちの前を通るのは音だけだよ。毎日三時から、遅い日は八時まで」 「役所には言わないんですか」 「言うもんか。規制値の中です、で終わりだ。俺が言ってた側だからな。数字を持ってくるやつは、たいてい黙らせに来る」 近藤は千歳の三脚を見た。 「あんたも黙らせに来たんだろ」 「来ました」 「正直だな」 「測ったら、そういう数字だったので」 近藤は立ち上がって台所へ行き、湯呑みを二つ盆に載せて戻ってきた。麦茶だった。氷が入っていて、座卓に置くとき、二つとも同じ音を立てた。 「工事はいらん」近藤は座り直しながら言った。「白雪さんにそう言っといてくれ。金かけたって、うちの茶の間は静かにならん」 「静かにはならない、というのは」 「言葉のとおりだよ」 ピアノが止まった。今度は続かなかった。四時だった。玄関のほうで、子どもの高い声が「こんにちはー」と言うのが、庭を回って茶の間まで届いた。近藤は湯呑みに口をつけて、その声のほうを見なかった。 機材を積んでから、もう一度教室に上がった。敦子はピアノの前に座ったままで、丸椅子に小学生くらいの女の子が座り、ランドセルを足元に置いていた。敦子が「ちょっと待っててね」と言って、廊下へ出てきた。 「どうでした。近藤さん、なんて」 「工事は要りません」 「え」 「D-52出ています。マンションの界壁より上です。ピアノ室の教科書は五十五なので、三つ足りていませんが」 「じゃあ、その三つを」 千歳は手帳を開いて、敦子に見えるように廊下の棚へ置いた。壁の重さを倍にして下がるのが六デシベル。今の壁にもう一枚重ねれば部屋は左右で十センチ狭くなり、百五十万から二百万かかる。三デシベルは人の耳では、少し減ったかな、で終わる。半分に聞こえるには十下げなければならない。いちばん漏れているのは八十ヘルツで、そこは重ねても効きが薄い。 「じゃあどうすればいいの」 廊下の壁に生徒の名前の紙が貼ってあった。二十二人ぶん。曜日と時間が書き足され、書き直した跡が何枚かある。千歳は手帳を閉じた。 「菓子折りを持って、行ってください」 敦子が半歩下がった。 「そういうことじゃないでしょう。お金なら出しますって、私、最初に」 「近藤さん、音の話を、ほとんどしませんでした」 「……だって、あの方、怖いのよ。区役所にいた人だし、ああいう人は理屈で来るから。生徒の前で怒鳴られたら、私、続けられない」 「怒鳴られませんでした」 「それはあなたが、業者さんだから」 敦子は右手を左手で握った。教室の中で、女の子がメトロノームのレバーを勝手に動かして、コッ、コッ、と鳴らしはじめた。敦子は振り向いて、「触らないの」と言った。声の高さが変わっていた。 「工事のとき、業者さんが挨拶に回ってくれています」千歳は言った。「近藤さんは、その名刺を今も持っています。先生の名前だけが、あの家に一度も入っていません」 敦子は廊下の突き当たりを見た。突き当たりには東向きの小窓があって、近藤の家の物干し竿が、その半分を横切っていた。 「見積は出しません。測定値は書面にして、金曜までに送ります。近藤さんにも一部」 「あの、それだけ、なの」 「それだけです」 教室から「先生、まだ?」と声がした。敦子は「はい、今行きます」と答え、もう一度千歳を見たが、何も言わずに教室に入った。ドアが閉まる。パッキンのへたったドアは、閉まるときに二度、軽く跳ねた。 ハイエースに機材を積んだ。ケーブルを八の字に巻き直し、スピーカーを毛布で包んで荷台の前寄りに寄せた。蒲生が運転席で電話の履歴を見ながら言った。 「うち、今月これで二件目ですよ。見積出さないの」 「知ってる」 エンジンをかけたところで、教室から音が始まった。さっきの八小節を、今度は指の硬い、途切れがちな手が弾いていた。同じところで二回止まり、三回目で先へ進んだ。 塀の向こうで蛇口の音がした。ホースの水が鉢の土を打っていた。蒲生が切り返しを三回やって、路地を出た。 第三章 響きすぎる部屋 五月の最終週の水曜、午後一時に中野に着いた。運転は蒲生にさせた。環七で車線を変えるのに三回続けて失敗し、四回目でようやく左に寄せたところで後ろの軽トラックにクラクションを鳴らされた。千歳が鼻から息を吐くと、蒲生はハンドルを両手で握り直して前だけを見ていた。 駅の南口から坂を下って九分、サンハイム弥生町という五階建ての四階だった。エレベーターの籠が狭く、脚立を斜めに入れないと扉が閉まらない。蒲生は測定器のケースを胸に抱え、壁に背中をつけて立っていた。四階で降りると外廊下で、玄関はどれも表の空気に面している。換気口の位置は中に入ってから見ればいいことだった。 四〇三号室のインターホンを押すと、返事より先に足音がした。 出てきたのはスウェットの上下に裸足の男で、髪が右側だけ跳ねていた。滑川悠斗、二十四歳。電話では配信をやっているとしか言わなかった。 「あー、どうも。散らかってますけど、どうぞ」 六畳のワンルームだった。窓に向けて幅の広いデスクが据えられ、モニターが三枚並んでいる。マイクがアームで宙に吊られ、その下にキーボードと、缶コーヒーの空き缶が二本。ベッドは右の壁につけてある。床は張りっぱなしのフローリングで敷物は一枚もなく、カーテンは備え付けの薄いものが左右に一枚ずつ下がっているだけだった。 千歳はコンベックスを出して爪の先を蒲生に渡し、長辺で三六二〇、短辺で二七四〇、天井まで二四〇〇と読み上げた。蒲生が復唱して野帳に書く。千歳は白いクロスの壁を指の関節で三か所叩き、乾いた高い音が返ってくるのを確かめた。石膏ボード一枚、下地は四五五間隔。それから壁を離れてキッチンの上を見上げると、四角い換気口のカバーがあり、その脇をエアコンの配管が斜めに抜けていた。 「で、ご希望は」 「部屋を防音にしたいんすよ」滑川は椅子を回してこちらを向いた。「五十万までなら出せます。バイトと、去年もらった案件のぶんで」 配信はゲームと雑談で、週五日、夜の十時から二時まで。登録者は一万二千人。毎晩そこで声を出しているのかと訊くと、出していますと答えた。 千歳はデスクの脚のあたりにしゃがんだ。 「うるさいって言われたことは」 「え」 「下の人とか、隣とか。管理会社から電話が来たとか」 「ないっす。一度も」滑川は口を開けたまま止まって、それから首を振った。「夜は張り上げないようにしてるんで、こっちも一応」 千歳は立ち上がって椅子の背に手を置き、では何に困っているのかと訊いた。滑川はマウスを動かしてアーカイブのコメント欄を画面に出し、モニターをこちらへ少し回した。風呂で配信すんな。声こもってて聞き取れない。音量上げると耳が痛い。同じ趣旨のものが日付をまたいで縦に並んでいる。 「これがずっと言われてて。だからマイク、三本買ったんすよ」 その配信を聴かせてほしいと言うと、滑川は先週のアーカイブを頭出しして再生した。本人の声がデスクのスピーカーから出る。語尾のところで、言い終わったあとにもう一枚、薄い同じ声が遅れて重なって消えた。蒲生が眉を上げて、これは後ろではなく正面の窓だと言った。 千歳は部屋の真ん中に立って、一度、手を叩いた。ぱん、のあとに、ん、という尾がついてくる。 「今の、聞こえました」 「なんか、伸びましたね」 「もう一回やります。耳だけ使ってください」 二度目を叩くと、滑川はあーと言って口を閉じた。千歳はクローゼットの折れ戸を開けた。中はスーツと私服がぎっしり詰まっている。半分だけ体を入れて、そこで手を叩いた。ぱ、で終わった。尾がない。 「服の前と、部屋の真ん中。同じ手です」 滑川は自分でもやってみて、クローゼットの前で一回、部屋の真ん中で一回、それを三往復してからこちらを見た。 「……全然ちがう」 千歳は壁に手のひらを平らにつけた。 「音を外に出さないのが、この壁の仕事です。重さと、隙間をなくすこと。壁を重くして、換気口とドアの下を塞ぐ。これが遮音」 手を離して、部屋の空気を胸の高さで撫でるように動かした。 「跳ね返りを減らすのが吸音。壁の向こうの話じゃなくて、こっち側の話。滑川さんが言われてるのは、こっちです」 「え、じゃあ壁は」 「触りません」 「五十万は」 「要りません」 滑川がマウスから手を離した。 千歳は蒲生に顎で外を示し、蒲生が玄関から出てドアを閉めるのを待ってからリオンの騒音計を持って三和土に立った。滑川に配信のときの声で三十秒喋らせ、ドアを開けて外に出て、今度は蒲生と入れ替わる。外廊下でドアを閉めると滑川の声はほとんど残らず、数字は表の通りを走る車のほうが大きかった。 「言われないはずです」千歳は部屋に戻って言った。「今のままで足りてます。ドアの下から漏れてるぶんも、外の車の音に埋まってる」 「じゃあ俺、二年間、何を心配してたんすかね」 「音のことは、みんな逆から心配します」 もっと厚くすればもっと下がるのかと滑川が言いかけたので、千歳はボードの面を指で弾いてから答えた。この壁は二五〇〇ヘルツのあたりで遮音が谷になる。人の声でいちばん使う帯域の、その上のほうだ。 「もう一枚重ねる手はありますけど、中に五十ミリの空気を挟むと、今度は八十ヘルツあたりが単板より悪くなる。低いほうです。滑川さんの部屋で、それをやる理由がない」 「なんか、思ってたのと逆っすね」 「逆のことを言いに来てます」 蒲生が三脚を立てた。滑川を椅子に座らせて耳の高さに合わせ、本人をどかしてから同じ位置にマイクを置く。XL2の電源が入り、小さいスピーカーを部屋の隅に、天井へ向けて据えた。滑川をキッチン側へ立たせて動かないように言い、ピンクノイズを出す。ざあ、という音が部屋を埋めて十秒で切れた。切れたあとも部屋がしばらく鳴っていて、蒲生が画面を覗いて読み上げる。二五〇で〇・六六、五〇〇で〇・六二、一kで〇・五八、二kで〇・五四。 「〇・六二」千歳は野帳に書いた。「ふつうの住宅の居室で、〇・四から〇・六秒。喋る部屋としては長いほうです」 「それ、悪いんすか」 「悪くはない。滑川さんの仕事にはでかい」 「じゃあ、ゼロにできます」 「できません。やっても、しないほうがいい」千歳は野帳を閉じた。「防音室は〇・一五から〇・二五。あそこまで落とすと自分の声が返ってこないので、二時間喋ると疲れます。〇・三くらいで止めます」 エアコンとパソコンを切らせて、もう一度、騒音計を出した。外廊下を人が通り、冷蔵庫が回りだして、また止まる。千歳は数字を三十秒見てから電源を落とし、静かさのほうは問題ない、よその寝室と同じくらいあると言った。 蒲生がケースからグラスウールの端材を出した。三十センチ角、厚さ五十ミリ、枠も布もない裸のやつだ。ヘッドホンで自分の声をモニターできるかと訊き、滑川がうなずくと、適当に喋っていてくださいと言った。滑川がマイクの前に座って今日の天気の話を始めると、蒲生は端材を両手で持ってモニターの裏の壁に押し当てた。滑川の喋りが止まる。 「あ」 「でしょ」 蒲生は端材を左の壁へ、右の壁へと移し、机の天板に寝かせ、最後に滑川の頭の上へ掲げた。そのたびに滑川があと言った。 「学生のとき四畳半で録ってたんすよ」蒲生が言った。「机の前に毛布垂らしただけで別人になった。機材、一円も足してないのに」 千歳は野帳を開いて部屋の四角を描き、デスクの位置に印をつけ、正面の壁に四つ、左右に二つずつ、机の後ろに四つ、短い線を引いた。ペン先で窓をなぞってカーテンと書き、床にはラグと書いた。 「これで、八万です」 滑川はページを覗き込んだまま動かなくなった。 「八万」 「材料と、うちの手間で。半日で終わります」 「五十万は」 「使い道がないです」 滑川はページから顔を上げ、部屋の隅を見て、また野帳を見た。「……それ、俺、なんも損してないんすけど」 「してないです」 事務所に戻ったのは六時前だった。冴子はキーボードを叩きながら、画面から目を離さずに中野はいくらだったかと訊いた。八万と答えると、五十万出すと言っていた子でしょ、と言って電卓を弾いた。パネルの材料が三万八千、カーテンが一万六千、ラグが一万四千、出張と手間で一万二千、ちょうど八万ね。 「四十二万ぶん、何もしないので」 「効かない工事で五十万取る会社もあるけどね」冴子はそこで初めて顔を上げた。「うちがやらないってだけで」 作業場では郷田が桟を切っていた。九十センチと六十センチ、十二枚ぶん。丸鋸が止まるたびに切り口を親指の腹でなぞって、また次の一本を挟む。寸法を測り直すところを千歳は見なかった。切り終わった桟は長さごとに二つの山に分けられ、片方の山の上に32Kのグラスウールの袋が二つ、封を切らないまま積んであった。 三日後の土曜、九時に中野へ入った。運転は千歳がした。蒲生は助手席で麻の布を巻いたパネルを膝に載せ、木枠にグラスウール32Kを詰めて布で包んだものが十二枚、荷台に立ててあった。玄関からデスクまでブルーシートを敷き、ベッドと本棚に養生を掛ける。壁に穴は開けられないので、極細のピンを三本打つタイプのフックを使った。抜いたあとは画鋲と同じくらいの跡しか残らない。 「正面に四枚。左右に二枚ずつ」千歳が指で高さを決める。「残りは机の後ろ」 デスクを窓から九十度回して本棚のある壁に向け、半分空いていた本棚には床に積んであった漫画と参考書を全部詰めさせた。ベッドは滑川の背中側へ寄せる。意味があるのかと訊かれたので、口から出た音が最初にどこへ当たるかが変わりますと答えた。窓には裏地のついた厚いカーテンを吊り、備え付けの薄いものは外して畳ませた。幅は窓の一・八倍取ってヒダを深くする。 「防音カーテンって名前で売ってるやつ、あるじゃないですか」滑川が言った。「あれ買おうか迷ってて」 「外に音を出さない意味では、ほぼ効かないです」千歳はレールにフックを掛けながら言った。「ただ、厚い布は部屋の中の跳ね返りは減らす。今日はそっちで使ってます」 床に二畳のラグを敷き、下にフェルトの下敷きを一枚入れた。デスクの天板の、マイクの手前だけ、同じ布の端切れを一枚。 滑川は途中からパネルを運ぶ側に回った。フックのピンを打つとき押さえる指の位置を蒲生が二回直し、十枚目でようやく一人で打てるようになると、滑川は打ち終わるたびに壁から一歩下がってパネルの上端を横から覗き、水平を見た。 「曲がってます」 「まじすか」 「三ミリ。直します」 十一時を過ぎるころには正面の四枚が上がり、部屋の中で手を叩くと、朝より尾が短くなっていた。昼をコンビニで済ませ、二時に三脚を朝と同じ位置へ立て直した。滑川をキッチンに立たせ、スピーカーを同じ隅へ向ける。ピンクノイズ。十秒。切る。 切れたところで、音が消えた。 「二五〇、〇・三一」蒲生が読む。「五〇〇、〇・二八。一k、〇・二六。二k、〇・二四」 「〇・二八」 「終わりっすか」滑川がキッチンから動かずに言った。 「終わりです」 滑川は部屋を一周見回した。「なんか、思ってたのと違うっていうか。壁、剥がすもんだと思ってたんで」 「剥がしません」 滑川はヘッドホンを掛けてマイクの前に座り、録音を押して三十秒喋って止めた。再生し、頭に戻してもう一度再生し、三度目も再生して、四度目の途中でヘッドホンを片方だけ外した。 「これ、俺の声すか」 「滑川さんの声です」 「いや、そうなんすけど」滑川はマウスに手を置いたまま、しばらく画面を見ていた。「ずっと、機材が悪いと思ってたんで」 デスクの引き出しが半分開いていて、中にAT4040が箱に入ったまま、他の二本と並んでいた。 「そのマイク、いいやつです」千歳は言った。「部屋のほうが先だっただけで」 帰りは環七が混んでいた。蒲生が助手席の窓を半分下げて、また上げた。 「今日の、面白かったっす」蒲生が言った。「五十万の見積、出そうと思えば出せたのに」 「出しても効かない」 「効かないのに払う人、いますよ」 「いる」 信号で止まった。前の車のブレーキランプが二つ点いている。 「あの」蒲生が言った。「関係ないんすけど。社長のお父さんの部屋、あれ何のために作ったんですかね」 千歳はハンドルの上に親指を掛けたまま前を見ていた。実家の二階の六畳、内寸で三五一〇に二六一〇、天井が二二八〇。ドアが重くて、閉めると廊下の音が全部落ちる。中には折りたたみ椅子が一脚と、DATが三十七本入った箱が椅子の上に載ったままになっていて、父が死んでから二年半、開けたのは数えるほどしかない。 「知らない」 「聞いてないんすか」 「聞いてない」 青になった。荷台で切り落としの端材が一度だけ転がり、内壁に当たって止まった。 第四章 聞こえていない 六月に入って三日目の朝から、雨が降ったりやんだりしていた。軽バンのワイパーは右側のゴムが切れかけていて、動くたびにガラスの下半分へ細い線を引いた。 「これ、替えるって言ってませんでしたっけ」 助手席の蒲生が言った。 「言った」 「先月ですよね」 「先々月」 足立区の、区役所より北の住宅地だった。表通りから二度曲がると道幅が三メートルを切って、蒲生がハンドルを持ち直した。塀の角にミラーが立っている。軽バンでよかった、とは言わずにおいた。郷田はハイエースで江戸川の現場に出ていて、今日は二人で足りるはずの仕事だった。 堀田家は木造の二階建てで、外壁のモルタルに縦の亀裂が二本入っていた。門柱の脇に紫陽花。玄関の前まで来る間に、千歳は右手の隙間をのぞいた。隣家との間はメジャーを当てるまでもなく一メートル少し。両家の掃き出し窓が同じ高さで向かい合っていて、どちらもアルミサッシの単板ガラスだった。 呼び鈴を押すと奥のほうでテレビの音がしていて、ニュースの読み上げだと外からでも分かる程度には大きかった。 「はい、はい」 出てきたのは小柄な女性で、割烹着の裾で手を拭いていた。堀田芳江。電話をよこしたのはこの人だ。 「つづき音響です。お電話いただいた」 「まあ、雨のなか。上がってください、狭いんですけど」 「靴、ここに置かせてもらいます」 千歳は安全靴を脱いで爪先を外に向けて揃え、蒲生はケースを二つ、三和土の隅に寄せて立てた。 居間は六畳と八畳の続き間で、境の襖は外してあった。八畳のほうの奥に薄型のテレビが置かれ、その正面、二メートルほど離れた座椅子に、白い頭の男が座っていた。堀田秋雄。膝に新聞を広げている。テレビは天気予報に変わっていた。 「お父さん、来てくださったわよ」 芳江が言った。秋雄は新聞から目を上げなかった。 「お父さん」 二度目で振り向いて、千歳と目が合うと、リモコンを取って音を消した。 「ああ、どうも」 「都築です。お邪魔します」 「悪いね、こんな雨に」 秋雄の声は大きく、怒鳴っているのではなく、声量の目盛りがひとつ上にある感じだった。 芳江が座布団を出して、話を始めた。四月の終わりに隣の奥さんが回覧板を持ってきて、そのときにテレビの音のことを言われた。五月の連休明けにもう一度言われ、二度目は玄関先で少し長く話し込んだ。隣は御主人が夜勤のある仕事で、昼間に寝る日がある。 「うちのが悪いんです。悪いんですけど……」 芳江はそこで秋雄のほうを見た。 「そんなに大きくしてない」 秋雄が言った。新聞をたたんで畳に置いた。 「昔から同じだよ。つまみの位置は変えてない」 千歳は壁を見た。隣家に面した側は掃き出し窓が二枚で、その脇に幅一メートルほどの壁が残っているだけだった。手のひらの付け根で叩くと、乾いた高い音が返った。ラスボードに砂壁だ。窓の下枠のパッキンは平たく潰れて、指で押しても戻ってこない。 「測らせてください」 千歳は手帳を膝に開いた。 「工事の話はそのあとで。まず今どのくらい出てるかを、数字で見ます」 蒲生がケースを開けて三脚を立て、リオンのNL-42を載せて、マイクの高さを一・二メートルに合わせた。座椅子と壁のちょうど中間、壁からは一メートル離した。騒音計の電源を入れて、テレビを消したままの部屋の暗騒音が三十を下回るのを画面で確かめた。千歳は部屋を一周見回して、扇風機が回っていないこと、換気扇が止まっていること、冷蔵庫の唸りが居間まで来ていないことを確かめた。 「堀田さん、いつも見てる音でつけてもらえますか」 「いつもの」 「はい。今、消してもらった前のやつで」 秋雄がリモコンを取ると、画面の右下に音量の数字が出て、上がっていって38で止まった。 「これくらい」 「そのままで」 蒲生が計測を始めた。十秒。数字が落ち着くのを待って、蒲生が読み上げた。 「LAeq、七十二・四」 千歳は手帳に書いた。テレビの前二メートルで七十二デシベル、喫茶店で隣の席の声が聞こえなくなるくらいだ。 「芳江さん、ご自分で見るときは、いくつにします」 「私は……二十くらいかしら」 「今の位置でお願いします」 芳江がリモコンを受け取って、数字を22まで下げた。画面の中で気象予報士が明日の傘のことを言っていた。 「LAeq、五十八・一」 蒲生が言った。 「ちょっと待ってくれ」 秋雄が身を乗り出した。 「今の、何も言ってないだろう」 「言ってます」 芳江が言った。 「傘がいるって」 「聞こえないよ、そんなの」 千歳は騒音計の画面を見たままでいて、数字は五十八の前後で細かく揺れつづけた。 隣家には、芳江が先に立って話をつけに行った。千歳が名刺を出すと、出てきた女性は玄関のチェーンを外して、上がらないでいいから測っていってくれと言った。年は芳江より十いくつか下に見えた。 「主人、明けで寝てるんです。今日は起きてますけど」 「寝室はどちらですか」 「そこの、一階の六畳。窓が堀田さんとこと向かい合ってて」 その六畳は、堀田家の八畳と背中合わせだった。千歳は三脚を布団の足のほうに立て、窓から一メートル、高さを枕の位置に合わせて〇・八メートルまで下げた。蒲生が向こうの秋雄に合図を送る段取りで、無線の代わりに携帯電話をつないだままにしてある。窓のクレセントは両家とも開けたままにして、腕時計の秒針が十二に来るのを待った。 「そのまま38で」 千歳が言うと、電話の向こうで蒲生が復唱した。壁の向こうから天気予報の続きが来た。言葉として聞き取れて、さしすせその子音まではっきりしていた。 「LAeq、四十三・六」 千歳は自分で読み上げて手帳に書き、それから両家の窓を閉めてもらった。もう一度。 「三十三・二」 窓を閉めるだけで十デシベル落ちた。ガラスが五ミリの単板で、しかもパッキンが死んでいるから、閉めても隙間から漏れている。それでも十下がる。人の耳にはおよそ半分の音量になる。 千歳はNL-42を1/3オクターブバンドに切り替えて、窓を閉めたままもう一度鳴らしてもらった。画面に棒が横に並んで、二千と二千五百のバンドだけが両隣より高いところで止まった。五ミリのガラスは二千五百ヘルツのあたりで遮音が谷になり、そこは人の声の子音が乗る帯だった。だから窓を閉めても、音ではなく言葉のかたちで向こうへ抜ける。千歳は手帳の数字の下に、二千五百、と書いて丸で囲んだ。 「奥さん、寝てるときは窓、開けてますか」 「夏は開けます。閉めろって言われれば閉めますけど、それじゃこっちが暑いだけで」 女性は腕を組んだまま、堀田家のほうを見た。 「怒ってるんじゃないんです。前は、こんなことなかったので」 「いつごろからですか」 「去年の秋くらいから、だんだん」 「だんだん、というのは」 「気がついたら大きくなってた、っていうか。急にじゃないんですよ。だからこっちも、一年近く言えなかったんです」 女性は窓のクレセントを指で回して、また戻した。 堀田家に戻ると、秋雄は座椅子に座り直していた。千歳は三脚を畳んで壁際に立てかけ、秋雄の斜め後ろ、三メートルほどのところに立って、普通の声で呼んだ。 「堀田さん」 反応はなかった。芳江が口を開きかけたので、千歳は手のひらを見せて止めた。 「堀田さん」 同じ声量で二度。秋雄は画面を見ていた。 千歳は前に回って、同じ距離、同じ声で言った。 「堀田さん」 「なんだ」 千歳は上着のポケットから車の鍵を出して、秋雄の顔の斜め前で振った。金属のこすれる細い音がした。芳江が「あ」と言った。秋雄は動かなかった。 千歳は今度、壁に近づいて、拳の底で一度叩いた。ドン、と低い音が部屋の床まで来た。秋雄がすぐに振り向いた。 「なんだよ、さっきから」 千歳は畳に座って、口元に手を当て、唇を隠したまま話した。 「今日は雨がやみませんね」 「……なんだって」 手をどけて、同じ声で同じことを言った。 「そりゃそうだ、朝からずっとだよ」 千歳は手帳を閉じた。 「堀田さん。私は医者じゃないので、診断はしません。それは言っておきます」 「診断って何の話だ」 「高い音のほうが、聞こえにくくなってると思います。鍵の音が聞こえなくて、壁を叩いた音は聞こえた。人の声だと、さしすせその音とか、かきくけこの音が先に落ちます。だから話は聞こえてるのに、何を言ってるか分からない」 「そんなことはない」 「テレビのニュースの読み上げは、はっきり喋るから通ります。バラエティの早口が分からなくなりませんか」 秋雄が黙った。膝の上の手が新聞の折り目をなぞった。 「この人、去年から字幕を出すようになったんです」 芳江が言った。 「見えにくいからだって言って」 「字は見えてる」 秋雄が言った。それ以上は続けなかった。 「お父さん」 芳江が言った。 「あなた、私が呼んでも返事しないの、聞こえてないの」 「聞こえてる」 「聞こえてないでしょう」 「うるさいな」 千歳は騒音計をケースに戻した。留め具を二つ、順番に閉めた。 「工事の見積もりは、出さないでおきます」 芳江が顔を上げた。 「でも、あの、費用のことなら少しは」 「そういう話じゃないんです。この窓を二重にすれば、隣に行く音は十五は下がります。それは確かです。でもこの家の中の七十二は下がりません。堀田さんはこれから、七十二で足りなくなったら七十六にします。四つ上げると、隣に行く音もまた四つ上がる」 秋雄がこちらを見ていた。千歳は秋雄に向かって続けた。 「先に耳鼻科に行ってください。補聴器外来のあるところがいいです。区の広報に載ってます。そこで聴力を測って、その結果でテレビの音量が決まる。工事はそのあとで、まだ必要なら呼んでください。うちは逃げません」 「補聴器なんか」 秋雄は言った。 「年寄りくさい」 「うちの祖父も同じこと言ってました」 蒲生が言った。三脚をたたむ手を止めていた。 「で、結局つけて、テレビが静かになったって喜んでました。値段はまあ、それなりでしたけど」 秋雄は返事をしなかった。テレビの画面では音のないまま、どこかの川の水位が映っていた。 玄関で靴を履いていると、芳江がついてきた。土間はまだ湿っていて、傘立てのそばに男物のサンダルが片方裏返しになっていた。芳江はそれを直して、揃えた。 「あのね」 芳江が言った。 「私、あの人が私の話を聞く気がないんだと思ってたんです。ずっと」 「はい」 「返事しないから。呼んでも来ないから。四十何年もそう思ってたんです」 芳江は割烹着の胸のところを片手で握って、それからそこに顔を伏せた。声は出ていなかった。肩の上下が二回あって、それで止まった。千歳は靴べらを傘立ての横に戻した。 「請求は要りません。測っただけなので」 千歳は言った。 「耳鼻科、行ってきたら電話ください。結果を聞いてから、うちで何ができるか考えます」 芳江が頷いた。顔は上げなかった。 軽バンを出すと、雨がまた強くなった。右側のワイパーがゴムの切れ目のところだけ音を立てて、ガラスの下半分にまた細い線を残した。蒲生が信号のたびにブレーキを踏みすぎるので、後ろの機材が前へ寄る音がした。 「あれ、直りますかね」 「耳は戻らない。補聴器で拾うだけ」 「じゃあ、下がるんですか。音」 「下がる。自分の声も下がる」 信号が青になって、蒲生が半クラッチを長く使い、荷台のケースがまた前へ寄った。 「僕、さっき余計なこと言いましたか」 「祖父さんの話は要る」 「あれ、父方じゃなくて母方です」 「どっちでもいい」 事務所に電話を入れると冴子が出たので、堀田家は見積もりなし、実費も立てない、と伝えた。 「測定だけで二人半日、と」 「そう」 「まあいいけど。何が原因だったの」 「旦那さんの耳。加齢性の」 電話の向こうで、キーを叩く音が止まった。二拍か三拍あった。それから冴子は「はいはい」と言って、明日の現場の時間を読み上げはじめた。千歳は雨のフロントガラスを見ていた。 八広に戻ったのは六時前で、事務所の戸を閉めてから、千歳は靴を脱いで二階へ上がった。 廊下の突き当たりが、父の作った部屋だった。六畳を潰して、内側に一回り小さい箱を建ててある。ドアは気密のもので、レバーを下げると空気が動く音がした。中は暗い。折りたたみ椅子が一脚、真ん中に開いたまま置いてある。壁際の棚にDA-P1が一台、その隣にDATが縦に並んでいた。三十七本。三十六本は表のラベルにマジックで線が引いてあり、残る一本は白紙のままだった。棚の下の段には、ケースに入ったままのマイクが二本と、たたんだスタンドが立てかけてある。 千歳は箱の中に入らずに、ドアの枠に手をかけたまま立っていた。埃を払っていない棚の縁に、指の跡が三本残った。前に来たときの自分の跡だ。 ドアを閉めて、一階に下りた。 居間の電気をつけて、鴨居のホコリを見ないようにして、リモコンを取った。テレビは父が死んでから数えるほどしかつけていない。電源を入れるといきなり音が来て、バラエティの笑い声が二階の床を鳴らすくらいだった。千歳は音量ボタンを押して下げた。押しながら画面の右下を見た。 45から下がっていって、22で止めた。 第五章 鳴っているのは 六月の第二週、七時四十分に八広の事務所を出た。向井プレスまでは軽バンで十四分だった。同じ墨田区の、荒川の土手を背にした路地の奥にある。看板は白い字が半分剥げていて、その下に「精密板金・プレス加工」と小さく残っていた。 シャッターは上がっていた。油と鉄の匂いがして、蛍光灯の下に黄色い機械が三台並んでいる。手前の一台だけが動いていた。板が送られて刃が落ちるたび、音は耳より先に足の裏へ来た。 「都築さん?」 奥から出てきた男は紺のツナギの袖を肘までまくっていた。手の甲に古い傷が三本あった。 「向井です。悪いね、朝っぱらから」 「都築です。こっちは蒲生といいます」 「どうも」と蒲生が頭を下げた。「でかいっすね、これ」 「六十トンのやつだ。俺より年上だよ」 千歳の名刺を、向井は油の付いた指で受け取り、ツナギの胸ポケットに縦に入れた。代わりに出てきた向井の名刺は四隅が丸くなっていて、向井昌平、と刷ってあった。 「で、防音をしたいと」 「そう。周りに迷惑かける前に、手を打っときたいんだ」 「苦情は、どちらから」 「来てない。来てないうちにやるのが筋だろ。来てから慌てる奴が一番みっともねえ」 千歳は建物を一周した。北はブロック塀まで一メートル。西は印刷屋の裏口で、シャッターに「関係者以外立入禁止」の紙が貼ってある。南は路地。東の壁の向こうに二階建てのアパートが立っていて、こちらを向いた窓が四つあった。 東の壁の高いところに、有圧換気扇が二基ついている。羽根が回っていた。千歳は爪先立ちになって、外側のフードの下端に手を入れた。指がそのまま向こう側へ抜けた。 「向井さん、これ、朝から回してます?」 「夏場は朝からだよ。回さないと死ぬ」 千歳は掌をフードの口に近づけて、風と一緒に出てくるものを聞いた。刃が落ちる音は、壁を通ってくるぶんより、ここから出てくるぶんのほうがはっきりしていた。二基ぶんの開口を足しても、東の壁の面積からすれば一パーセントに届かない。それだけで遮音は十デシベル落ちる。壁の重さを二倍にして稼げるのが六デシベルだから、穴のほうが先に効く。 「壁をいくら厚くしても、こういう穴がひとつ空いてると全部そこから出ます」 「塞げばいいのか」 「塞いだら仕事にならないでしょう。塞がずに消す箱を付けます。──付けるとしたら、の話です」 ふだん通りに回してくれ、止めろと言うまで止めないでくれ、と頼んだ。向井は測るのか、とだけ聞いて、あとは何も聞かなかった。 蒲生が軽バンから三脚を出し、東側のブロック塀の内側五十センチに立てた。マイクの高さを一メートル二十に合わせ、リオンのNL-42を載せて風防をかぶせる。千歳は塀の上に手をついて、隣のアパートの窓の位置を見上げた。手帳に開始時刻を書き、その下の行を空けておく。等価騒音レベルは十分ぶんを平らに均してしまうので、途中で通ったスクーターや高架を渡る電車は、自分で書き留めておくしかない。 プレスが動きだした。刃が落ちる間隔は三秒に一度で、そのたびに塀のブロックの目地に細かい振動があった。千歳は振動計のVM-83を塀の基礎に当て、蒲生が数字を読み上げた。十分が過ぎ、千歳が手を上げると向井が機械を止めた。 「稼働中、LAeq六十二・一。止めて暗騒音、五十一・七」 「規制値ってのは、いくつなんだ」と向井が言った。 「この地域の昼間で、六十五です」千歳は向井のほうを向いた。「境界で六十二。中に入ってます」 向井は塀を見て、それから機械を見た。 「そんなもんか。中にいると、もっとうるさく感じるぞ」 「近いからです」 千歳は三脚を持ち上げて、動いているプレスの一メートル横に立てた。向井にもう一度回してもらう。八十七・六。二メートルに下げて八十一・九。四メートルで七十六・二。距離が倍になるたび、数字は六ずつ落ちていった。 「点で鳴ってるものは、こういう落ち方をします。ここから塀まで八メートルありますから、あと二回半分になります」 「半分ってのは」 「十下がると、人の耳にはだいたい半分の音量に聞こえます。三では、少し減ったかな、くらいです」 向井は口の端を動かした。笑ったのかどうかは分からなかった。 昼前に、奥から六十がらみの男が出てきて、無言で二台目のプレスに座った。うちのパートさん、週三、と向井が言った。男は千歳たちを一度も見なかった。三脚をまたいで通り、油差しで刃の根元に注し、また座った。親父の代からここでやってる、昔は七人いた、今は俺とあの人と月末だけ来る娘婿だけだ、と向井は機械のほうを見ながら言った。 千歳は工場の床にしゃがんで、コンクリートの表面に掌を置いた。プレスが落ちるたび、掌の下がわずかに持ち上がった。VM-83を同じ場所に置き、塀の基礎で取った値と並べて手帳に書いた。塀まで来る頃には、数字は桁がひとつ落ちていた。 アパートの大家は路地の角の一軒家にいた。空いている一〇二号室を三十分だけ貸してもらう。四畳半に台所が付いた部屋で、東の窓の外がすぐ向井プレスの屋根だった。窓を閉め、建具の合わせ目に指を這わせてから、畳の真ん中に三脚を立てた。プレスを回してもらって十分測ると、LAeqは四十一・三だった。台所の冷蔵庫を止めても四十・八までしか下がらなかった。 「壁じゃなくて、うちの冷蔵庫のほうが鳴ってるってこと?」 大家は七十くらいの女で、玄関の三和土に立ったまま中を覗いていた。千歳は数字を紙に書いて渡し、向井さんのところの音は気になりますか、と聞いた。ぜんぜん、と返ってきた。前はもっとガシャンガシャンいっていたが、三年か四年前に機械を替えてから静かになった。苦情を言ったことは一度もない。あそこは向井さんの親父さんの代からで、うちのほうが後から来たんだから。そう言って鍵を受け取り、掌の中で二度回した。 印刷屋の主人は名前も名乗らずに、断裁機の前から手だけ振った。うるさいのはお互いさま、と言った。断裁機が一枚落とすたび、こちらの話は聞こえなくなった。 路地の突き当たりの家では、犬が吠えて話にならなかった。門扉の内側から出てきた男は五十くらいで、向井プレスの場所を聞かれてもすぐには分からない顔をした。角の板金屋、と言い直すと、ああ、と言った。 「音? 電車のほうがうるさいでしょ」 アパートの二階の一室にも当たった。出てきたのは若い母親で、抱いた子が眠っていた。昼間は音より日当たりの話をされた。取り込んだ洗濯物を畳みながら、下の部屋の掃除機のほうが響く、と笑った。 五軒回って、苦情はひとつも出てこなかった。 その日の夜、二十時に千歳はもう一度工場に行った。蒲生が助手席で音響測定器のXL2を膝に載せている。シャッターは半分下りていて、下から灯りが漏れていた。 工場は昼と別の建物のようだった。機械は三台とも止まっていて、天井の蛍光灯は一本だけ点いている。奥の作業台にコンビニの弁当の空き容器と、缶コーヒーが二本置いてあった。換気扇も止まっていた。 「換気扇、切りました?」 「あんたが穴だって言うから」 「今日はそのままでよかったんですけど」 「もう切っちまった」 「向井さん。昼間、聞きそびれたんですけど」千歳はパイプ椅子に座った。「向井さんご自身は、何の音が気になってるんですか」 向井はしばらく答えなかった。 「キーンってのが、ずっとある。……夜だな。家で寝ようとすると、来る。うち、歩いて六分だから、工場の音が回ってきてるんだと思ってた。だけど昼間の数字見ると、そういうことでもねえんだろ」 蒲生が三脚を工場の真ん中に立て、XL2をつないだ。千歳が合図をして、その場の全員が動くのをやめた。作業着の袖が擦れるだけで低い帯が動くので、腕は下ろしたままにする。 「一秒ずつ、読んで」 「五百ヘルツ、二十六・二。千、二十二・四。二千、十九・〇。四千、十七・五。八千、十六・八」 数字はほとんど動かなかった。冷蔵庫のうなりと、路地を通るスクーターの音が入るたび低い帯だけが跳ねて、また戻った。 「向井さんの言うキーンは、この高さです」千歳は画面の右のほうを指した。「ここ、十七です。この工場の暗騒音は、いま住宅の寝室と同じくらいなんですよ」 「じゃあ、なんで聞こえるんだ」 千歳は膝の上で手を組んだ。 「向井さん。耳、悪くされたことありませんか」 向井の顎が止まった。缶コーヒーを持ち上げて、飲まずに置いた。 「……三年前の秋。朝起きたら右が聞こえなかった。突発性難聴だとさ。一週間入院して点滴打って、聴力は八割方戻った。耳鳴りだけ残った」 三年前。大家の言った、機械を替えた頃と同じだった。千歳は手帳を開いて、その二つを縦に並べて書いた。 「機械、三年前に入れ替えてますよね」 「二台な。古いのは音がひどかったから」 「静かになりましたか」 「なった。……なったはずなんだ」 蒲生がXL2の画面を消した。回しているあいだはどうですか、と千歳が聞くと、気にならねえ、と返ってきた。止めた瞬間は、と聞くと、向井は少し置いてから、立ち上がってくる、と言った。 先月、足立の戸建てで似た話になった。隣にテレビの音がうるさいと言われ続けていた老人で、あの家でも工事はしなかった。千歳はそれを短く話した。 「うちも工事しねえってことか」 「壁を厚くすれば、外の音は減ります。減った分だけ、夜は静かになります」 「そりゃいいじゃねえか」 「静かになるほど、キーンは大きく聞こえます」 蛍光灯がひとつ、じじ、と鳴った。 「じゃあ何か」向井が立ち上がった。パイプ椅子の脚がコンクリートを引っ掻いた。「俺がおかしいってことか」 「おかしくないです」千歳も立った。「鳴ってるんですよ、向井さんの中で」 「同じことだろうが」 「違います。工場は規制値の中です。うちが工事しても、向井さんの音は小さくなりません」 「金は出すって言ってんだよ」向井の声が高くなった。「壁だけでいい。北と東だけでいいから、やってくれよ。それで気が済むんだ」 「済まないと思います」 「あんたに何が分かる」 蒲生が三脚を畳む手を止めた。千歳は横目でそれを制した。 「分かりません」と千歳は言った。「向井さんに何が聞こえてるかは、うちの機械では測れません。測れるのは、外に出てる音だけです。中で鳴ってるものに壁を売るのは、仕事じゃないです」 千歳は測定の紙を作業台に置いた。境界の数字と、アパートの中の数字と、夜の帯域の数字が、測った時刻の順に並んでいる。向井は見なかった。手帳の後ろから一枚破って、耳鳴り外来をやっている耳鼻科の名前と、最寄りの駅と、紹介状がいらないことを書いて、紙の上に重ねた。いらねえよ、と向井が言った。置いていきます、と答えた。 シャッターをくぐるとき、後ろで缶が倒れる音がした。振り返らなかった。 軽バンに乗ってから、冴子に電話した。工事はなしです、と言うと、また、という声が返ってきた。 「測定費は取るわよ、出張二人と機材で。慈善事業じゃないんだから」 「請求してください」 「向井さん、納得したの」 「してません」 冴子は少しだけ黙った。 「そのうち電話かかってくるわよ。怒鳴るほうじゃなくて、二週間くらい経ってからの」 「かかってきたら出ます」 「出るのはこっちなんだけどね」 明日の朝一で郷田が鶯谷のホテルの下見に出る、とだけ言って冴子は切った。蒲生が助手席の窓を開けて、土手のほうを向いていた。 「都築さん。あの人、たぶんまた誰か呼びますよ」 「呼ぶと思う」 「よそなら工事しますよね、あれ」 「する」 千歳はキーを回した。 八広の家に着いたのは二十二時過ぎだった。事務所の灯りを消して、階段を上がった。 二階の六畳間のドアは、ふつうの部屋のドアの三倍の厚みがある。ハンドルを引くと、ゴムが縁から離れる音が短く鳴った。 中は暗かった。手探りでスイッチを入れる。六畳を潰して作った部屋なので、中に入ると壁の厚みのぶんだけ狭い。天井も低い。折りたたみ椅子が一脚、部屋の真ん中を少し外れたところに置いてある。マイクスタンドは畳んで壁に立てかけてあり、棚にDATが背を揃えて並んでいた。父のDA-P1は上面に薄く埃をかぶっていて、電源のコードは巻いたまま本体の上に載せてある。 三十七本。数えたのは去年の暮れで、それきり触っていない。背のラベルには日付も曲名もなく、いちばん右の一本だけが白いままだった。 千歳は椅子を引き出して座った。 ドアは開けたままにした。開けておくと、階下の冷蔵庫のうなりと、樋を伝う水の音と、押上線の電車が高架を渡る音が、順番に入ってきた。閉めれば全部消える。父はこの部屋を、そういうふうに作った。 電車が行ってしまうと、耳の奥に細い音が残った。千歳は目を開けたまま、それが何秒で消えるかを数えた。 第六章 ダクトを回る声 ホテル鶯谷サンライトは、線路から二十メートルも離れていない七階建てだった。一階の半分がコインパーキングで、残りがフロントと朝食用の小さな食堂になっている。千歳が白のハイエースを枠に入れているあいだに、上りと下りが続けて通った。運転席のドアに手を当てると、細かい震えが返ってきた。 「電話で申し上げたとおりでしてね」 支配人の筒井亮はフロントの内側から出てこないまま名刺を寄越した。丸刈りに近い頭で、半袖のシャツにネクタイを締めている。 「三件です。三月に一件、五月に二件。全部、隣の声が聞こえるって話で。しかも何を喋ってるか分かるって言うんですよ。困るでしょう、それ」 「口コミに出ましたか」 「二件書かれました。うちみたいな駅前の安宿は、そこしか見られませんから」 千歳は宿泊台帳と、印刷した口コミの紙を見せてもらった。三件とも七階で、うち二件は708号室に泊まった客からだった。書き込みの一つは、隣の客が誰かと揉めている内容が全部分かった、という書き方をしていた。もう一つは、深夜二時に隣で電話が始まって、相手の名前まで聞こえた、とある。 「708の両隣は」 「706と710です。706の客からも一件来てます」 「708が真ん中ですね」 「そうなりますね」筒井は紙の端を指で弾いた。「あの部屋だけ壁が薄いなんてこと、ありますか」 「空調、去年触ってますか」 「よく分かりますね。十月です。上の階から順にやって、七階が最後でした」 筒井は初めてカウンターの外に出て、エレベーターのボタンを押した。 「壁を厚くしてもらうと、いくらぐらいかかるもんですか」 「まだ何も測っていません」 「そりゃそうだ」 七階は左右に十室ずつ並んでいた。706と708の鍵を借り、蒲生が測定用のスピーカーを706の窓際に据える。千歳は708に入り、三脚にリオンのNL-42を立てて、壁から一メートル、床から一・二メートルの高さに合わせた。 「ピンクノイズ、いきます」 壁の向こうで蒲生が言い、平たい雑音がドア越しに滲んできた。千歳は1/3オクターブの帯域ごとに数字を読み上げ、インカムの向こうで蒲生がそれを復唱して紙に書き取る。音源室と受音室を入れ替えて、二度測った。 「D-48ですね」 708のユニットバスの前で、蒲生が紙を裏返しながら言った。 「界壁としては良い方ですよ。マンションだって45から50で作ってるんですから」 「谷は」 「二千五百に落ちてます。石膏ボードの十二・五でしょうね、コインシデンスです」 「谷はある。でも二千五百じゃ、言葉にならない」 千歳は廊下側のドアの下端に指を差し入れた。隙間はある。ただし廊下を回るならドアを二枚通ることになる。それで話の中身までは届かない。 ベッドの頭側のコンセントプレートを外した。ドライバーの先を軽く当てて浮かせ、内側を覗く。ボックスの裏は塞がっていて、隣の部屋と背中合わせにもなっていなかった。プレートを戻し、ビスを締めて、指で押して面を合わせる。 「そっちじゃない」 「じゃあ残りは」蒲生がボールペンの尻で天井を指した。 千歳は天井を見上げた。ユニットバスの手前、廊下寄りの天井に白い樹脂の給気口が一つ付いている。706の同じ位置にも、同じ物が付いていた。 「蒲生くん、養生テープと端材」 「塞ぐんですか」 「両方の口を目張りして、測り直す」 石膏ボードの切れ端をあてがい、四周にテープを貼って空気の通り道を潰した。同じ手順でもう一度ピンクノイズを鳴らす。千歳は数字を読み、途中で一度やめて、頭から読み直した。 「五百で九、二千で十一、上がってる」 「二千五百の谷は残ってますね」 「壁は壁のまま。変わったのは、口を塞いだところだけ」 テープを剥がし、糊を爪で落とした。 千歳は廊下に出て事務所にかけた。二木冴子はワンコールで出た。 「郷田さん、まだ倉庫ですか」 「いる。午後は請求書をやらせるつもりだった」 「天井裏に入れる人が要ります」 「あの人以外に誰がいるの」冴子は言って、電話の向こうで何かを書く音をさせた。「夜間になるなら割増、先に見積もりへ入れるから」 四十分後、郷田タケが軽バンで着いた。作業着の胸に鉛筆を三本挿している。挨拶らしい挨拶はせず、706のユニットバスの天井を見上げて、点検口の縁を指でなぞった。四十五センチ角。 「入れますか」 「俺なら」 郷田は上着を脱いだ。便器の蓋を閉めて足場にし、縁に手をかけ、片方の肩だけを先に枠へ入れて、体を捻りながら暗がりへ消えていった。千歳も同じようにやってみたが、肩が枠に当たってそれ以上は通らない。蒲生は最初から諦めて懐中電灯を構えていた。 「梁とスラブの間、三百しかねぇ」上から声がした。「腹で進むしかない」 天井裏で金属を軽く叩く音がした。乾いた音が二つ、少し離れてもう三つ。 「千歳ちゃん、図面」 「出します」 去年の空調更新の施工図を、点検口の下で広げて見せた。給気は廊下側の主ダクトから各室へ一本ずつ落ちている。図面ではそうなっていた。 天井裏の音が、廊下寄りへ少しずつ動いていった。鉄板を叩く音が二度続き、それから、蛇腹を掌でこする音に変わった。灯りはこちらが持っている。郷田は見ていない。手で追っている。 「無ぇな」郷田の声が天井から降ってきた。「ここ、繋がってる」 「図面には」 「無ぇ。手で当たった。フレキが一本、こっちから隣へ渡ってる。梁を避けて回してある」 「長さは」 「二メートルってところだ。真ん中が垂れてる」 千歳は施工図の上に指を置いた。梁の位置と分岐の位置が、紙の上では二百ミリだけずれている。現場でそこを通そうとすれば、誰でも一度は迷う場所だった。真上に配管が二本走っていて、逃げるなら隣へ回すしかない。回した先で、706と708の給気が一本の空間で繋がった。 「蒲生くん、上に声を入れて」 蒲生が706の給気口の真下に立ち、口を上に向けて数を数えた。千歳は708で天井の口の真下に立った。一、二、三、と数える蒲生の声が、壁からではなく、頭の上から落ちてきた。 筒井を呼んで、点検口の下に立たせた。 「壁の性能は基準の中に入っています。数字だけ見れば、直すところはない」 「じゃあ何なんですか」 「道が一本あるんです。壁がどれだけ重くても、抜け道が一本あればそこから全部来ます。面積比で一パーセントの隙間があるだけで、遮音はおよそ十デシベル落ちる」 筒井は天井を見上げたまま黙っていた。天井裏で郷田がまた鉄板を叩いた。 「壁は壊さないってことで、いいんですか」 「壊しません。ダクトの途中に箱を入れます」 「箱」 「亜鉛鉄板で四百角の箱を作って、内側にグラスウールの32Kを五十ミリ貼ります。入口と出口を対角にずらすので、音がまっすぐ抜けられない」 「一晩でできる工事ですか」 「一晩です。706と708を空けてください」 筒井は端末を叩いて稼働の数字を出した。 「水曜なら七階を落とせます。稼働、七階が一番悪いんで」 水曜の午前一時、七階の廊下に台車を二台入れた。八広の作業場で組んできた消音チャンバーは四百角で長さが六百あり、外側に制振テープが縦に三本走っている。内側にはグラスウールの32Kを五十ミリで貼り、その上から有孔板で押さえてある。入口と出口は対角。持ち上げると見た目より重い。郷田は駐車場の軽バンの中で錠剤を一つ飲んでから上がってきた。 養生から始めた。廊下のカーペットに緑のシートを敷き、ユニットバスの床と便器に段ボールを当て、点検口のまわりにマスカーを貼る。蒲生はビスとフランジを種類ごとに小分けにして、袋の口を開けて並べた。 郷田が先に入り、千歳が下から道具を渡した。スケール、インパクト、金切り鋏、アルミテープ。最後にチャンバーを立てて、点検口の対角に合わせて斜めに押し上げる。四十五センチ角の枠を、四百の箱が音もなく通っていった。 一時四十分。既設のフレキを切り離す音。 二時ちょうど、郷田が「バンド」と言った。蒲生が袋から出して千歳に渡し、千歳が点検口の縁から腕だけを差し入れる。上から下りてきた郷田の手が、それを掴んで持っていった。手が大きいので、こちらが指を離す前に全部握ってしまう。二度目に渡したビスの袋は、上で口を開ける音がしてから、静かになった。 二時二十分、郷田が新しい分岐の位置を口で言い、蒲生が下でスケールの数字を復唱した。フランジを噛ませ、ビスを八本。継ぎ目にアルミテープを二重に巻く。千歳は点検口の縁に懐中電灯を固定して、光を郷田の手元に向けたまま動かさずにいた。天井裏では郷田の背中しか見えない。手だけが、こちらの光の外へ出たり戻ったりした。 三時過ぎ、筒井が自販機の缶コーヒーを三本抱えて上がってきた。「寝られないんで」とだけ言って、廊下の壁にもたれた。 郷田が一度下りてきた。作業着の肩にグラスウールの繊維が白く乗っている。千歳が缶を渡すと、両手で挟んだまま、しばらく開けずにいた。 「巌さんは、天井裏が嫌いでな」 「そうなんですか」 「狭いところが駄目だった。だから図面を読むのが速くなった。入らずに済むようにな」郷田は缶を開けた。「それでいて、図面に無ぇもんが出てくると機嫌が良くなった。家の癖だ、って言ってたよ」 千歳は何も聞かなかった。郷田も続けなかった。缶を空にして、また点検口に手をかけた。 四時四十分、断熱材を戻し終わった。郷田が天井から出てくると、頭にも肩にも白い繊維が付いていて、蒲生が笑いながら刷毛で払った。 五時十分、もう一度スピーカーを706に据えた。窓の外はもう青くなりかけている。ピンクノイズを鳴らし、千歳が708で数字を読み上げ、蒲生が書き取った。 「五百で十一、上がりました」 「二千は」 「十二です」 「二千五百は」 「変わりません。谷はそのまま」 千歳は紙を受け取って、単一数値の欄に書いた。D-55。 「聞いてもらった方が早いです」 千歳は筒井を708に入れ、蒲生を706に置いた。ドアを閉めさせ、廊下に出る。 「蒲生くん、何か喋ってて」 「え、何喋ればいいんですか」 「電話してるつもりで」 壁の向こうで蒲生が話し始めた。千歳が708に戻ると、筒井は壁に耳をつけていた。それから天井の給気口を見上げ、もう一度壁に耳を戻した。三度目に耳を離したとき、彼は自分の腕時計を見た。 「十デシベル下がると、だいたい半分の音量に聞こえます。声の帯域で、十一と十二です」 「……聞こえないな」 「聞こえません」 「口コミって、消せないんですよ」筒井は言った。「書かれたやつは残る」 「そうでしょうね」 「まあ、次から書かれなきゃいい」 筒井は708の天井の給気口をもう一度見上げてから、廊下に出て、706のドアを内側から閉め直した。それから両方の部屋の空調のスイッチを入れ、送風の音を確かめて回った。 「音、変わってませんね」 「風量は落としていません。落とすと今度は暑いと書かれます」 台車を積み込んで、六時前にホテルを出た。蒲生に鍵を渡す気にはならなかったので、千歳が運転した。明治通りが空いていて、郷田は助手席で眠り、蒲生は後ろで数字を清書していた。八広の作業場に機材を下ろし、郷田を軽バンまで送って、家に入ったのは六時二十分だった。 一階の事務所は暗い。千歳は作業靴を脱いで、階段を上がった。 二階の六畳の前で立ち止まる。廊下の壁に手を突いて、作業着の膝についたグラスウールを払った。指先がまだ痒い。ノブを回してドアを引くと、縁のゴムが枠から離れる音がして、内側の空気が動いた。廊下の音が、敷居の内側で切れる。折りたたみ椅子が一脚、部屋の真ん中に開いたまま置いてある。隅に父のDA-P1と、マイクスタンドが二本、畳んで壁に立てかけてあった。 千歳は椅子の座面に手を置いた。冷たい。開いたままの脚の付け根に、白い粉が吹いている。 段ボールの蓋を開けた。DATのケースが並んでいる。背のラベルは全部空白で、一本だけ、他より少し前に出ていた。それを抜いて、指で挟んで持った。ケースの角に埃が乗っていない。デッキの蓋を親指で開けて、閉めた。電源は入れなかった。 一階で電話が鳴った。 千歳はテープを箱に戻し、蓋を閉めて、部屋を出た。ドアを閉めると、ゴムがまた鳴った。 第七章 数字をやめる 六月十日の朝九時、江戸川区西小岩の空き地に入った。先月までアパートが建っていたそうで、地面には基礎の跡が長方形に残り、そこだけ土の色が違う。梅雨の晴れ間で、敷きならした砕石が白かった。 蒲生が三脚を担いで、土のやわらかいところを踏まないように奥へ回った。 「南の境界、ここでいいっすか」 「杭から一メートル内側。道路寄りで」 千歳は騒音計を鞄から出し、マイクに防風スクリーンをねじ込んだ。リオンのNL-42。電池の残量を確かめて三脚のねじに載せ、高さを地上一・二メートルに合わせる。水平を出すのに靴の先で脚を蹴った。 「都築さん、悪いね、朝から」 道路の側から男が入ってきた。図面の筒を小脇に抱えている。白いポロシャツの襟が汗で色が変わっていた。黒瀬直。名刺を受け取ったのは先週の電話のあとで、会うのはこれが二度目になる。五十二と聞いていたが、歩幅が広い。 「区の協議はもう通ってんの。残ってんのは近隣だけ。今度の土曜に説明会」 「敷地の四隅と、北側の民地境界。一点十分ずつ回します」 「十分ずつ? 四十分か」 「移動を入れて一時間半みてください」 黒瀬は腕時計を見て、それから空き地の真ん中まで歩いていき、砕石を靴の先でならした。千歳は騒音計のスタートを押した。積分が始まる。前の道は片側一車線で、二トン車が通るたびに表示が跳ね上がり、また落ちてきた。 十分後、蒲生が屈んで液晶を読んだ。 「五十一・三っす。最大は六十八。トラックが来たときだけ」 「メモに時間も書いて」 「はいはい」 北側へ移した。ブロック塀を挟んで、瓦屋根の平屋が建っている。塀の上に朝顔の鉢が三つ、竹の支柱を立てて並べてあった。物干しに、色の褪せたタオルが五枚。千歳は塀から一・五メートル離して三脚を据え、また十分測った。 測っているあいだ、塀の向こうでホースの水が出た。鉢の土に当たる音が三度、位置を変えて続き、それから蛇口が締まった。人の姿は見えなかった。液晶は四十四台から動かなかった。 「四十四・一」 「四十四・一ね」 黒瀬が近寄ってきて、液晶を覗き込んだ。 「静かなもんだな」 「風がないんで、今日は低く出てます」 「予測値、そちらで出されてますよね」 「出してる。うちの構造やってる子が。園庭で六十人が同時に声を出したとして、敷地境界でLAeq五十二デシベル。基準は超えない。区に出す紙はもうできてんの」 「境界のどこですか」 黒瀬は答えず、図面の筒からロール紙を抜いて、地面に膝をついて広げた。四隅を靴と鞄と手で押さえる。配置図の北側、上の縁のところに園庭が取ってあった。 「日当たり」と黒瀬は言った。「南に園舎を置くと園庭が影になる。だから園庭は北」 千歳はその紙の、園庭と塀のあいだの寸法線を指でなぞった。それから顔を上げて、瓦屋根のほうを見た。物干しのタオルは動いていなかった。 土曜の夜七時、区の集会所の二階に、パイプ椅子が三十脚並べられていた。集まったのは十二人。前のほうが空いて、後ろの列から埋まっていく。黒瀬が持ち込んだプロジェクタが天井の低い壁に投影されて、配置図の上端が切れていた。 司会は町会の役員で、六十くらいの男だった。開会の挨拶が三分。事業者の説明が十五分。それから黒瀬が振り向いて、千歳に手のひらを向けた。 「騒音のところは、専門の方に来ていただいてますので」 千歳は立って、名乗って、水曜に測った値を読み上げた。南側の道路境界で等価騒音レベル五十一・三デシベル。北側の民地境界で四十四・一デシベル。測定は日中十分間の積分で、機材はここに持ってきています、と足元の鞄を指した。 「予測は、園庭で園児が声を出しているときの、敷地境界の値です。設計事務所さんの計算で五十二デシベル。規制の値は超えません」 後ろの列で誰かが咳をした。 「五十二っての」 声は一番端から来た。頭の白い男が、椅子を鳴らして立っていた。半袖のシャツにベルト。作業ズボンではないが、腹のあたりで生地が張っている。 「上原です。北の、真裏の家」 「はい」 「五十二ってのは、あんたが測ったのか」 「いえ。予測です。私が測ったのは、今の音です」 「今のはいくつだ」 「お宅の側の境界で、四十四・一でした」 上原は椅子の背に手を置いたまま、しばらく黙っていた。それから言った。 「増えるじゃねえか」 「はい。増えます」 千歳は資料の三ページ目を開いた。同じ紙が全員の膝の上にある。 「四十四から五十二で、八デシベル上がります。人の耳は、十デシベル下がるとだいたい半分の音量に聞こえます。逆に八デシベル上がると、感じ方としては一・七倍くらいです」 「一・七倍」 「はい」 「一・七倍になったとき、俺は何をすりゃいいんだ」 司会が机の上のマイクを引き寄せて、ご意見はあとでまとめて、と言った。上原はマイクのほうを見なかった。千歳を見ていた。 「あんた、うちに来たか」 「──いいえ」 「塀の外で測ったんだろ」 「はい。境界で測っています」 「うちは、塀の外じゃねえんだ」 言い終わると、上原は椅子に座った。腰を下ろすとき、パイプの脚が床で短く鳴った。それきり閉会まで何も言わなかった。ほかに二人が質問をした。工事車両の時間と、送迎の自転車の置き場。どちらにも黒瀬が答えた。 千歳の手元にはリモコンがあって、次のスライドは1/3オクターブバンド分析の棒グラフだった。二百五十ヘルツから四キロヘルツまでの、子どもの声の帯域が高く出ている図。押さなかった。 集会所を出ると、雨が降りはじめていた。黒瀬が庇の下で煙草の箱を出して、また仕舞った。 「まあ、こんなもんだよ。一人二人はああいうのが出る」 「ああいうの、ですか」 「言い方が悪かった。悪かったけど、そういう意味じゃなくてさ」黒瀬は図面の筒を持ち替えた。「数字が要るんだよ、俺は。役所にも要るし、施主にも要る。都築さんの読み上げてくれた数字は正しい。正しいから、俺は助かってる」 「はい」 「助かってるって顔してないな」 六月十七日の水曜、千歳は軽バンで一人で行った。午後零時四十分。上原の家の引き戸の前で立って、少し待ってから呼び鈴を押した。 「なんだ」 戸が二十センチ開いて、上原の顔が出た。 「都築です。この間の」 「アポ、聞いてねえよ」 「はい。取っていません」 上原は千歳の足元を見た。安全靴と、紺のディッキーズと、右手に提げた鞄。それから戸を大きく開けた。 三和土は狭く、脱いだサンダルが二足きり並んでいた。廊下に手すりが付いていて、木ねじの頭が新しい。取り付けたのは最近だと分かる。居間は六畳で、テレビと座卓と、背もたれの高い椅子が一脚。座卓の上に薬の袋と、記入の途中の連絡帳が伏せてあった。 「そこ」と上原が座布団を顎で示した。 千歳は鞄を膝の横に置いて座った。上原は椅子のほうに腰かけ、しばらく黙っていた。 奥のふすまが十五センチほど開いていて、介護ベッドの脚が見えた。 音は、思っていたより多かった。 台所の冷蔵庫が低く唸っている。壁の時計は秒針が動くたびに軽く鳴る。窓の外の遠くで、電車が加速していく音。それから、奥の部屋から、二十秒に一度、短く空気の抜ける音がした。ベッドのエアマットにポンプが繋がっていて、それが順番に空気を送り替えている。プシュ、と鳴って、間があって、また鳴る。 「かあちゃんな、去年の十月に倒れて」 上原は膝に手を置いたまま言った。 「返事はしねえの。目は開くよ。開くけど、こっち見てんのかどうかは分かんねえ」 千歳は聞いていた。 「昼の一時から三時、寝るんだ。だいたい。それまでは寝ねえの。だから俺はその二時間、そこの椅子に座ってる。寝てもいいんだけど、寝ねえ。ポンプが二十秒に一遍動くだろ。あれが止まったら、電池だか何だか、とにかく見に行かなきゃなんねえ」 「はい」 「音でわかんだよ。呼んでもしゃべんねえから。息の音と、ポンプと、あと寝返り打ったときの、こう、シーツの」 上原は右手を座卓の上で二回すべらせた。乾いた布の音がした。 「あんた、俺が保育園はうるせえって言ってると思ってるだろ」 「土曜は、そう聞こえました」 「うるせえのは平気なんだ、俺は。小岩の印刷屋に四十二年いた。輪転機のとこはな、九十デシベルはあったろ。耳鼻科で何か言われたことは一度もねえよ」 「九十だと、大きいですね」 「そんなもんだよ、あの頃は。誰も測りゃしねえけど」 冷蔵庫のコンプレッサが止まった。部屋の低いところが軽くなって、時計の音が急にはっきりした。上原は天井を見上げるでもなく、テレビの黒い画面のほうを向いていた。 「四十四だの五十二だのってのはさ」 「はい」 「あれ、どこの音だ。門の外だろ」 「敷地の境界です。塀のところ」 「うちは、ここだ」 千歳は鞄の口を開けて、騒音計のケースの角に指をかけた。三脚は車に置いてきていた。ケースを引き出しかけて、そのまま手を離し、鞄の口を閉めた。 「今日は、測りません」 「測らねえのか」 「はい」 上原は千歳の顔をひととおり見てから、立ち上がって、縁側のガラス戸の鍵を外した。戸は建て付けが悪いのか、途中で一度つかえて、上原が下から持ち上げるようにして開けた。 空き地が見えた。砕石の白と、伸びかけた雑草と、道路側に立った工事の看板。ブロック塀の上の朝顔は、支柱の半分まで巻き上がっていた。 外の音が入ってきた。遠くの車。犬。どこかの家の換気扇。風でよしずが鳴る。千歳は塀までの距離を目で測った。園庭になる場所の中ほどから、この畳までは、おおよそ二十五メートルというところだった。 「聞こえるよ、今も」上原が言った。「聞こえるのは構わねえんだ」 奥でポンプが鳴った。上原はふすまを開けて中に入り、何かを整える音がして、それから低い声で二言、三言話した。言葉は聞き取れなかった。返事はなかった。 千歳は居間に座ったまま、外の音と部屋の音を分けて聞いていた。分ける必要はなかったが、そうしていた。 上原が戻ってきて、台所へ行き、麦茶を二つ持ってきた。氷が入っていた。グラスを置くとき、座卓の上で氷が回った。 「土曜のあれな」と上原は言った。「あんたの言ってたことは、間違ってねえと思うよ。俺、算数は駄目だけど、嘘言ってるとは思わなかった」 「はい」 「ただ、頭に入んねえんだ。一・七倍って言われてもな。何が一・七倍になるんだか」 千歳は麦茶を飲んだ。 座卓の連絡帳の端が、開いた縁側から入る風で二度めくれた。上原はそれを手で押さえて、ページを開いたまま裏返した。細かい字で、時刻と、数字と、丸が並んでいた。 「あんた、何しに来たんだ」 「わかりません」 「わかんねえのに来たのか」 「はい」 上原は少し笑って、それから笑うのをやめた。 「保育園ができたら、こいつはどうなるんだって話なんだよ。俺の話じゃねえの」 千歳は帰りに、玄関の引き戸を自分で閉めた。戸が枠に収まると、ポンプの音は聞こえなくなった。戸当たりのゴムが新しかった。取り付けたのが誰かは聞かなかった。 駅までの道の途中で電話が鳴った。黒瀬だった。 「行ったんだって? 上原さんとこ」 「はい」 「本人から町会長に電話いってさ。それで俺んとこ回ってきた。──で、どうだった。数字」 「出していません」 「出してない?」 「測ってません」 黒瀬が黙った。信号が変わって、自転車が二台、千歳の前を横切った。 「都築さん、俺、議事録に何書きゃいいの」 「わかりません」 「わかんないって」黒瀬の息が受話口で鳴った。「園庭さ、南に持ってくと、園舎が北になるんだよ。保育室に日が入んねえの。それは、それでまずいんだ」 「はい」 「はい、じゃなくてさ」 黒瀬は少し待って、それから、来週また電話する、と言って切った。 八広に戻ったのは八時前だった。事務所の灯りは落ちていて、冴子の机の上に、明日の伝票が金額の欄を上にして揃えて置いてあった。千歳は作業着のまま二階へ上がった。 いちばん奥のドアの前で立った。父が二〇一九年の夏に入れた防音ドアで、ハンドルを下げると、パッキンが枠から離れるときに空気の音がする。開けて、中に入って、後ろ手には閉めなかった。 六畳の内側は、三方の壁が白い布張りのままだ。床にTASCAMのDA-P1が置いてある。マイクスタンドは畳んで壁に立てかけてあり、NEUMANNの二本はケースの中。折りたたみ椅子が一脚、閉じたまま隅にある。 千歳は椅子を開いて、座った。 DATテープの箱を膝に載せて、指で数えた。三十七。ラベルのない一本は、いつもいちばん上に戻してある。裏返して、また戻した。 ドアが開いているので、階段の下から冷蔵庫の音が上がってきていた。千歳はそれを聞いていた。閉めれば聞こえなくなる。閉めなかった。 第八章 漏らしたくない音 七月十四日、火曜。東尾久記念病院の通用口の前にリネンのトラックが尻を向けて停まっていて、千歳はその後ろにハイエースを寄せた。エンジンを切る。フロントガラスの向こうを、青いカゴ車が三台続けて中へ消えていった。 「地下でしたっけ」 「地下一階。奥のエレベーター一基だけ使っていいって。台車で運んで」 蒲生はスライドドアを開け、XL2のケースを先に下ろした。三脚を肩に掛け、スピーカーの箱を抱える。持ち方は去年よりましになっていた。 エレベーターホールで待っていた女は、白衣ではなく紺のスクラブを着ていた。胸のポケットにペンが三本刺さっている。名札に、看護師長、有田。 「つづき音響さん」有田は名乗るより先に千歳の作業着の胸を見た。「電話した有田です。二十分でいい?」 「十分です」 「じゃあ歩きながら」 地下の廊下はリノリウムで、天井に点検口が等間隔に並んでいた。突き当たりに木目のシートを貼った扉があり、その手前の引き戸に家族控室の札が出ている。有田が戸を引いた。四人掛けのソファ、丸テーブル、給湯ポットの台。壁はビニルクロス、天井は穴の空いた吸音板。ポットの台に紙コップの筒と箱ティッシュが二箱あり、壁のフックにビニール袋が下がっていた。 「泣き声」有田は部屋の真ん中に立って言った。「外に出したくないの」 「外というのは」 「廊下。あと階段。ここ地下だけど、吹き抜けで一階の待合まで上がるのよ。夕方は透析の人が並んでる」 千歳は巻尺を出して壁から壁へ当てた。三千四百二十。向きを変えて二千七百四十。天井まで二千三百五十。手帳に書きつけていると、有田がソファの背を掌で二度叩いた。 「苦情が来てるわけじゃないの。ご遺族が我慢するのよ。声は出していいですよって言っても、出さない。廊下で足音がすると止める」 「止めさせたくない、と」 「そう。それだけ」 「使うのは、どのくらいの頻度ですか」 「月に十件くらい。多い月で十五」有田は壁の時計を見上げた。「一件で二時間から三時間。うちは霊安室が地下にしかないから、みんなここを通るのよ」 千歳はまず廊下でNL-42を五分回した。空調の吹き出し。遠くの製氷機。蛍光灯が一本、いつまでも鳴っている。等価騒音レベルで三十九・二。 「NC-35くらいですね」蒲生が数字を覗き込んだ。 「うん。廊下がこれだけ鳴ってるのは、こっちには都合がいい。向こうの音が埋まる」 「静かな病院のほうが困る、と」 「困る」 蒲生がスピーカーを部屋の中央から少しずらして据え、床から一メートル二十に高さを合わせた。千歳は廊下に出て、戸から一メートル、側壁から五十センチの位置にNL-42を立て直した。携帯をスピーカーにして床に置く。 「三分の一オクターブに切り替えて。行きます」 ピンクノイズが始まった。引き戸の下端から、床を伝って音が出てくる。 「五百、九十四・二」 「こっち、五十八・四」 「二千、九十三・八」 「五十七・〇」 「二千五百、九十四・〇」 「六十七・二」 千歳は鉛筆を止めた。 「二千五百だけ上がった。もう一回読んで」 「二千五百、九十四・〇」 「六十七・一」 差が二十七しかない。ほかの帯域は三十四から三十八ある。千歳は戸を引いて中に首を入れた。 「ボード十二・五の一枚張りだね。二千五百で谷が来る」 「泣き声の一番刺さるとこですね」蒲生がXL2の画面をこちらへ向けた。 「刺さるって言うな」 「事実じゃないですか」 「二十七っていうのは、どういう数字なの」有田が戸口から聞いた。 「等級で言うとD-30です。集合住宅の戸境壁で四十五から五十。ここは、ほとんど間仕切りと同じです」 千歳は脚立を借りて点検口を開け、懐中電灯を突っ込んだ。壁は天井裏まで立ち上がっていて、上端にグラスウールが押さえてある。そこは手が抜かれていなかった。降りて、引き戸の下端に定規を当てた。三十ミリ空いている。 「戸の面積に対して一・五パーセント。これだけで十デシベル落ちます。壁をいくら厚くしても、ここから全部出ます」 戸枠の上に換気扇。壁の腰にレジスター。ソファの裏にコンセントが二口。エアコンの配管が抜けているスリーブの周りは、パテが痩せて縁に隙間ができていた。千歳はその一つずつに指を当てて数えた。 廊下でキャスターの音がした。ストレッチャーがリノリウムの継ぎ目を越えるたび、四つの車輪が別々の音を出す。千歳は手帳を持ったまま、それが遠ざかるまで鉛筆を動かさなかった。 二〇〇九年十月十七日。母がいたのは五階の個室で、ドアの札に都築志保と入っていた。朝から機械が一つずつ減っていった。輸液ポンプのアラームが鳴り、看護師が来て、ポンプごと外されていった。モニタは音を切られ、そのあと台車ごと廊下に出された。酸素の加湿瓶の泡が止まった。 最後に残ったのは、天井の吹き出し口から出ている風の音だった。朝からずっと同じ音量で鳴っていた。 父は椅子から立って、その吹き出し口をしばらく見上げていた。それから廊下に出ていって、戻ってくるまでに時間がかかった。享年四十四。胃がんだった。 「社長」蒲生が呼んだ。「スピーカー、片しますか」 「片して。竣工図、借りて帰る」 エレベーターまで有田が付いてきた。 「見積もり、いつ」 「今週中に出します」 「金額で止まるかもしれない。止まったら、どこなら削れるか一緒に書いといて。私が事務長に説明するから」 「削るなら内装です。壁とドアと換気は削れません。クロスは今のままで貼らないでおきます」 「じゃあそう書いて」 有田はボタンを押して、扉が開くと自分は乗らずに廊下へ戻っていった。 その晩、八広の事務所で郷田が図面を広げた。指が断面の上を二往復して、止まった。 「壁、片面だ」 「うん。廊下側に新しく立てる」 郷田は鉛筆で線を引き足した。既存の壁から百ミリ離して軽鉄を組み、中空層にグラスウール32Kを充填する。ボードは十五ミリと十二・五ミリの二枚張り、間に遮音シート一・〇ミリを挟む。 「五十で組むと八十ヘルツで鳴るから」千歳が言うと、郷田は鉛筆を置いた。 「百取れば逃げる」 「面密度、今が九キロちょっと。新しい側で二十二乗るから、三十を超える」千歳は電卓を叩いた。「倍で六デシベル。ここまでで十二近く」 郷田が図面のドアを鉛筆の尻で叩いた。 「そこは開きに替えます。気密ドア。下枠にパッキンが来るので、ストレッチャーの通る霊安室側は引き戸のままでいいか、明日聞きます」 「換気扇は」 「残せません。消音ボックス付きの給排気に替えて、コンセントは背面ボックスにロックウール。スリーブは埋め直し」 「天井は」 「触らない。壁が上まで行ってた」 郷田は頷いて、図面の天井裏のあたりに丸を一つ描いた。 冴子が電卓を持って隣の机から見ていた。 「病院は支払いが遅いのよ。着手金取りなさい」 「取ります」 「日曜しか入れないんでしょ。人工が倍。二百六十八万」 「二百六十八で出して」 「二百八十で出すの」冴子は伝票の束を輪ゴムで留めた。「値切られる前提で書きなさいって、いつも言ってる」 「削れる項目、下に書きます」 「書くのはいいけど、削る順番も書いといて。向こうで勝手に選ばれるから」 郷田が鉛筆を筆箱に戻した音がした。それだけで、この日の打ち合わせは終わった。 図面を畳んで、事務所の電気を消した。事務所は実家の一階だから、廊下を抜けて階段を上がればそのまま二階になる。千歳はXL2のケースを提げたまま上がった。 一番奥の六畳。ドアは厚く、把手が面に沈んでいて、引くのに力がいる。中の空気は乾いていて、埃のにおいがしなかった。パッキンがまだ効いている。 折りたたみ椅子が一脚、畳んで壁に立ててある。座面の布は真ん中だけ色が落ちていた。マイクスタンドが二本。棚にDA-P1、その横にKM184の箱。テープは背を揃えて三十七本並んでいる。三十六本には消去済みの札が貼ってあり、一本だけラベルが白い。 千歳は敷居の内側にケースを置いた。それから手を一度叩いた。返りが長い。 ドアを閉めて、電気を消した。 翌日の電話で、霊安室側は引き戸のまま、控室は開きでいい、と有田は即答した。稟議は通す、日曜に入れ、と続けて切った。金額の話は出なかった。 七月十九日、日曜。九時に地下へ入った。廊下にブルーシートを敷き、養生テープで縁を留める。既存の引き戸を枠ごと撤去し、床と天井に墨を出した。 ランナーを打ち、スタッドを四百五十ピッチで起こしていく。既存壁との間は百ミリ。郷田はレーザーの線に合わせて一本ずつ立て、蒲生が下から寸法を読み上げた。 「二千三百四十八」 「二」 蒲生は二ミリ短く切り直して、また持ってきた。切断機の音が天井の点検口で跳ね返り、廊下の端まで届いた。 十一時前に、有田が廊下の角から手を挙げた。 「今、上から降りてくる。四十分」 郷田はインパクトのビットを抜いて工具箱に戻した。蒲生はグラスウールの束をシートで包み直し、脚立を畳んで壁に付けた。郷田が先に突き当たりまで下がり、千歳と蒲生が続いて、そこに立っていた。 エレベーターが開いて、ストレッチャーが出てきた。看護師が二人、そのあとに私服の男が四人と、女が一人。女は霊安室の扉の前で足を止めて、廊下の奥のブルーシートを見た。千歳は帽子を取った。郷田も蒲生も取った。扉が閉まった。 控室は下地だけになっているから、この日は使えない。中で立ったままだ、と有田が短く言った。 廊下の突き当たりで、誰も工具に触らなかった。蛍光灯が一本、遠くで鳴っていた。蒲生が手袋を外して、ポケットに入れて、また出して、畳んで入れ直した。 四十分より少し長くかかった。扉が開いて、また閉まって、エレベーターの音が上がっていった。 「再開していい」 郷田は工具箱を開けて、ビットを戻した。 中空層にグラスウール32Kを詰め、コンセントの背面をロックウールで塞ぎ、スリーブの縁をパテで埋め直した。遮音シートをタッカーで留め、十五ミリ、十二・五ミリの順に、目地を半枚ずらして張る。ビスは百五十ピッチ。周囲は全部コーキングで縁を切った。 翌週の日曜に気密ドアを吊り込んだ。郷田が丁番を三回調整して、蒲生が紙を挟んで引き抜いた。上、中、下。下だけ紙が抜けたので、もう一度枠を叩いた。四度目で三か所とも抜けなくなった。 消音ボックス付きの給排気は、天井裏で既存のダクトから切り替えた。蒲生が点検口から上半身を入れ、千歳が下でボックスの角を持ち上げた。三十分ほど、蒲生の腰から下だけが天井から出ていた。 「フランジ、あと二本」 「渡す」 最後にソファと丸テーブルと給湯ポットの台を戻し、床を拭いて出た。クロスは貼らないままにしてある。 七月三十一日、金曜の夜八時。外来が終わってから、同じ位置にスピーカーとNL-42を据えた。有田は壁にもたれて腕を組んでいた。 「五百、九十四・一」 「四十六・八」 「二千、九十三・九」 「四十二・五」 「二千五百、九十四・〇」 「四十八・八」 千歳は差を書き出した。四十七・三。五十一・四。四十五・二。 郷田がドアを三度、開けて閉めた。それから下枠を靴の先で二度押して、レバーを手拭いで拭いた。 「二千五百で四十五。ここで決まりです」 「D-45」蒲生がXL2から顔を上げた。 「前が三十だから、十五下がりました」千歳は有田に手帳を見せた。「十下がると半分くらいに聞こえます。それよりもう少し下です」 「半分の下」 「はい」 有田はドアを見て、それから千歳を見た。 「入っていい?」 「どうぞ」 有田は中に入ってドアを閉めた。千歳と蒲生は廊下に立っていた。NL-42は立てたままで、数字は廊下の暗騒音のまま動かなかった。四十秒ほどして、ドアが開いた。 「聞こえた?」 「いえ」 「そう」有田は枠のパッキンを指の腹でなぞって、離した。「今、思いきり出したんだけど」 「聞こえませんでした」 「そう」 有田は書類を壁に押し当ててサインし、胸のペンを戻した。それから顎で下枠を指した。 「掃除の子がここでコードを引っ張るのよ。剥がれない?」 「踏まれる前提で選んでます。年に一度見せてください。減ったら替えます」 「一年ね」有田は手帳を出さずに頷いた。「覚えてる」 「今夜、使う予定は」 「ある。十一時に一件」有田は壁の時計を見た。「片付けて出て。十時半まで」 「十時に出ます」 千歳は最後に部屋へ入って、天井を見上げた。吹き出し口から、消音ボックスを通った空気が細く出ている。手を叩くと、返りは短かった。 ドアを閉める。廊下でエレベーターが開く音がした。 「千歳さん、台車」郷田が呼んだ。 第九章 聞こえない音 七月十四日は火曜だった。朝九時ですでに三十度を超えていて、事務所の窓を開けると京成の高架を電車が通る音がそのまま入ってくる。冴子は受話器を肩と耳で挟み、右手で伝票の束をめくりながら、左手で日付の欄に判子を押していた。通話は八分続いた。切ってから、メモを一枚破って千歳の机に滑らせた。葛飾区東立石、根岸育子、五十四歳、パート勤め。夜になると頭が痛い。眠れない。病院は三軒まわって、どこも異常なしと書いてあった。 「工事の話じゃないって、向こうが先に言ってた」 「じゃあ何の話ですか」 「分からないから電話してきたんでしょ」 冴子は伝票をまとめてクリップで留め、鉛筆の先でメモの余白を二度叩いた。 「あと、三回謝られた。こんなことで電話してすみません、って。二回目までは聞き流したけど」 「三回目は」 「謝らなくていいですよ、って言った」 根岸家は環七から一本入った路地の突き当たりにあった。木造二階建てで、外壁は塗り替えて間もないらしく白い。玄関の三和土に園芸用のスコップと長靴が並び、上がり框に新聞が二日ぶん積んであった。育子は千歳の紺の作業着を見て、それから安全靴を見た。 「……こんな、大げさな話じゃないのよ。ごめんなさいね」 「靴、脱ぎますね」 「いいのいいの、あがって。散らかってるけど」 寝室は一階の六畳で、南に掃き出し窓があった。ベッドと簞笥が壁の一枚を分け合い、その壁に聚楽風のクロスが貼ってある。千歳は畳の縁を踏まないように歩いて、窓のクレセントを回し、また戻した。サッシは単板の二枚建てで、下端に隙間はなかった。 「音はしないの」と育子が言った。「聞こえないのよ、なんにも。ただね、こう、頭の芯を押される感じ。耳の奥に親指を突っ込まれてるみたいな」 「何時ごろからですか」 「十一時半すぎ。だいたい同じ」 「終わるのは」 「四時。四時になると、すうっと楽になる」 育子は壁からカレンダーを外して、裏を千歳に向けた。鉛筆で日付と時刻が並んでいた。五月の連休明けから、六十日ぶん。抜けている日には、丸に斜線が引いてあった。 「抜けてる日は」 「泊まりで娘のとこ行った日。そこでは平気なの。だから余計に、うちの気分の問題かなって」 「病院は三軒と伺いました」 「内科と、耳鼻科と、あと頭の写真も撮ったのよ。どこも何ともないの。血圧もいいの。先生に、更年期でしょうねって言われて、そうですかって帰ってきた」 育子はカレンダーを壁に掛け直した。釘に紐を通すのに二度失敗して、三度目は指で紐の先を潰してから通した。 「仕事は朝八時からなの。スーパーの惣菜。切ってるだけだから座れないのよ。眠れないと、二時までがちょっとね」 「うちを、どこでお知りに」 「娘がね、パソコンで。防音屋さんなら分かるんじゃないのって」 奥の廊下から男が出てきた。ランニングシャツで、麦茶のコップを持っている。 「病院で何ともないって言われてんだから」 「あなた」 「気のせいだよ。俺は隣で寝てるけど、なんともない」 男はそのまま台所へ戻っていった。育子は千歳のほうを見て、少しだけ笑った。 千歳はハイエースの後ろからリオンのNL-42を出し、寝室の中央、床から一・二メートルの高さに三脚で立てた。窓を閉め、エアコンを切り、育子に頼んで冷蔵庫のブレーカーも落とした。冷蔵庫が止まると台所のほうで何かが軋み、それきり家が黙った。十分待ってから数字を読む。等価騒音レベル、四十六デシベル。昼の住宅としてはどうということもない値だった。千歳は騒音計を畳んだ。 「今夜、泊めてもらえますか」 育子は盆の上に急須を置き直した。 「泊まる? うち、お客用の布団なんてないわよ」 「居間の隅で座らせてもらえれば」 蒲生が軽バンで来たのは夜の九時過ぎだった。路地の入口で二回切り返し、ブロック塀にドアミラーを寄せてから、諦めて手前に停めた。 「社長、この道、幅ないでしょ」 「道は今夜も明日も同じ幅だよ」 機材を提げて三往復した。NTi AudioのXL2と三脚、延長ケーブル、それに振動計のVM-83。育子が廊下の電気をつけて回り、台所で麦茶を出した。蒲生は二杯飲んだ。 寝室の中央に三脚を立て直し、マイクを付ける。窓を閉め、襖を閉め、エアコンを止める。蒲生が画面を三分の一オクターブバンドの表示に切り替え、床に胡座をかいて本体を膝に載せた。千歳は自分の腕時計と本体の時刻を合わせ、ノートに開始時刻を書いた。それから消していくものを順に潰していった。台所の換気扇を止め、洗面所の換気扇を止め、二階の除湿機のコンセントを抜いた。隣家のエアコンの室外機は、塀越しに手を当てて回っていないことを確かめた。前の道は、十時を回ると車がほとんど通らない。消せるものを消していくほど、残ったものの正体は絞れてくる。 「社長、四十とか五十のところって、普通は道路が入ってくるとこですよね」 「入ってこない道だよ、ここは」 十時。十時半。バンドの棒はどれも低いままだった。 十一時二十分、いちばん左の側で棒が一本だけ伸びた。 「四十ヘルツ」と蒲生が言った。「立ち上がりました」 「LAeqは」 「……三十八です」 「もう一回」 「三十八。三十八デシベル」 A特性は、人の耳が拾いにくい低い音をあらかじめ差し引いて表示する。四十ヘルツは、いちばん大きく差し引かれる側にある。だから数字としてはどこにも出ない。千歳は蒲生の手元をのぞき、重み付けをGに切り替えさせた。 「……九十二」 「もう一回」 「九十二です。四十ヘルツに、きれいに山が一本」 蒲生は画面から顔を上げなかった。 「四十って、ベースの一番下より下ですよ。学生のとき、その辺はスピーカーで鳴らないからいつも切ってました」 「切っても、体には来る」 「来てますね、これは」 低周波音は二十から百ヘルツの話だ。聞こえないと言われる帯域で、耳ではなく体調のほうに出る。出どころは室外機か、変圧器か、送風機と、だいたい決まっている。 十一時三十五分、廊下の電気がついた。育子が寝間着で襖の外に立っていた。 「始まった?」 「始まりました」 千歳は画面を育子のほうへ向けたが、育子はそれを見ずに、こめかみに指を当てて壁にもたれた。 「十一時二十分に上がっています。あと、四時に落ちるかどうかを見ます」 「落ちるわよ」と育子は言った。「落ちるの、必ず」 育子は麦茶をもう一杯注いで、寝室ではなく居間のほうへ歩いていった。 一時四十分、千歳と蒲生は外へ出た。NL-42を提げて、路地を店のほうへ歩く。夜でも路面は生ぬるかった。点音源は、距離が半分になると六デシベル上がる。根岸家の前で読んだ値と、路地を十メートル進んだところで読んだ値の差が、ほぼその通りに出た。突き当たりを曲がると、二十メートル先にコンビニの光があった。ガラスの内側でレジの店員が雑誌の紐を切っている。表からは、自動ドアの開閉音のほかに何も出ていなかった。店の裏手に回ると、ブロック塀の内側に業務用の室外機が三台並んでいた。二台は止まっていて、いちばん奥の一台だけが回っている。冷蔵ケースぶんは夜通し止まらない。千歳は塀の外の五メートル地点でもう一度読んだ。十メートル地点との差が、また六に近かった。三点そろえば線が引ける。 千歳は塀の上から懐中電灯を向けた。鉄の架台に載った室外機の脚が四本、土間コンクリートに直接ボルトで留まっている。防振ゴムは噛んでいない。 「縁が切れてないですね」と蒲生が言った。 「切れてない」 音の道が一本、店の土間から地面を通って、そのまま根岸家の基礎まで通っていた。 VM-83を架台の脚に当てる。次に塀のブロックへ当て、それから路地を戻って、根岸家の基礎、寝室の床の順に当てた。千歳が押し当て、蒲生が読み上げた。どこでも四十ヘルツだった。固体を伝わる音は、壁を厚くしても天井を張っても消えない。効くのは縁を切ることだけだ。 午前四時、室外機の回転が落ちた。寝室の棒が下がった。廊下の奥で、育子が寝返りを打つ音がした。 翌日の昼、冴子がメモを机に置いた。 「代表番号は自動音声。三回まわされた。店舗開発部の松木さん。折り返しは自分からするって」 「まわされた間、名乗りました?」 「三回とも。有限会社つづき音響、二木です、って」 千歳は店の裏で撮った写真を郷田に見せた。郷田は一秒だけ見て、太い指で架台の脚のあたりを押さえた。 「直付けだな」 「はい」 「ゴム噛ませりゃ済む」 それだけ言って、郷田は図面に戻った。 松木が根岸家に来たのは、四日後の深夜だった。スーツの上着を腕にかけ、寝室の入口で靴下のまま立っていた。千歳は襖を閉め、五分そこに立ってもらった。 「……私には、何も聞こえませんが」 「聞こえません」と千歳は言った。「だから測っています」 畳の上にプリントを並べた。三分の一オクターブバンドの表が二枚、夜十一時二十分から午前四時までの推移を刷った紙が一枚。A特性三十八、G特性九十二。それから育子のカレンダーの裏をコピーしたものを、いちばん端に置いた。松木は最初にカレンダーのほうへ手を伸ばし、途中でやめた。 「規制値は」と松木が言った。 「A特性では超えていません。だから今まで、誰にも止められていません」 松木は表を二枚だけ手に取って、しばらく見ていた。 「持ち帰らせてください」 「架台の交換で足ります。脚に防振ゴムを入れて、土間から浮かせるだけです。機械は替えなくていい」 「機械そのものは、まだ四年目でして」 「替えなくていいと言っています」 松木は上着を持ち直した。 「弊社の指定業者に、そのまま渡して構いませんか」 「渡してください。仕様はこちらで書きます」 千歳は翌日、A4一枚に仕様を書いた。防振ゴムはAバネ、脚四本とも、土間に直接触れる金物を残さないこと。配管とドレンも壁に直付けしないこと。書き上げてから郷田に見せると、郷田はドレンの行だけ丸で囲んで返してきた。 「これも道になる」 「はい」 冴子がそれをPDFにして松木に送り、送信控えを印刷して伝票の間に挟んだ。 工事は七月二十七日の午前中だった。指定業者が二人来て、冷媒の配管を養生し、室外機を吊り、古い架台を外した。土間には四つのボルト跡が残った。アンカーを打ち直し、防振ゴムを噛ませた架台に載せ替え、水平器を当て、ドレンの支持も塀から離して打ち直した。千歳は塀の外から見ていた。ボルトを締める音が四回、間を置いて聞こえた。若いほうの職人が最後に架台の脚をつかんで、前後に揺すった。架台だけが動いて、土間は動かなかった。 七月二十九日の夜、千歳と蒲生はもう一度寝室に三脚を立てた。窓を閉め、エアコンを止め、冷蔵庫を落とし、十一時二十分を待った。 四十ヘルツの棒は伸びた。前より短かった。 「四十ヘルツ帯、十四デシベル落ちてます」と蒲生が言った。「G特性、七十八」 「A特性は」 「……三十六。二しか下がってないですけど」 「そういうものだよ」 十デシベル下がると、音はだいたい半分に聞こえる。十四はその少し先だった。ただし、その半分は耳の話で、この家で起きていたのは耳の話ではない。四時前に、千歳はもう一度画面を見た。棒は十一時二十分の高さのまま、少しも伸びていなかった。 朝、千歳が居間で機材を片付けていると、育子が台所から出てきた。髪をひとつに束ねていた。 「三時まで起きてたのよ、わざと。何にもなかった」 「そうですか」 「……気のせいじゃなかったんだ」 育子はそれだけ言って、湯呑みを二つ盆に載せた。台所で男がやかんを火にかけていた。 「四時に楽になるって、こいつ、前から言ってたな」と男が言った。誰にも向けずに言った。 千歳は三脚を畳み、測定値のプリントを封筒に入れて、簞笥の上に置いた。 八広に戻ったのは昼前だった。冴子が請求の内訳を読み上げた。今回の請求は測定二晩と報告書だけで、工事は本部持ちになった。 「これ、儲かってないよ」と冴子が言った。 「はい」 「言っただけ。出しといたから」 千歳が中学のころ、巌に現場へ連れていかれたことがある。工場の裏で、巌は騒音計を地面に置かず、コンクリートの上に膝をついて、片手を土間に押しつけていた。何をしているのかと聞いたら、聞こえない音は手で探すんだと言われた。それだけの話で、続きはなかった。帰りの車の中でも、巌はその話をしなかった。父の写真は仏壇にある。防音室の鍵は、事務所の机の二番目の引き出しに入れたままだった。 千歳は事務所を出て、家の階段を上がった。 二階の六畳の防音ドアは、押すと最後の三センチで空気が抜けるような手応えになる。中に入ると、外の音が一段下に落ちる。京成の電車も、路地の自転車も入ってこない。折りたたみ椅子が一脚、部屋の真ん中に置いてある。壁際の棚にDA-P1が一台と、KM184が二本、スタンドに載ったまま置いてある。テープが三十七本、背を揃えて並んでいる。内寸は三・五一メートルに二・六一メートル、天井が二・二八メートル。父が自分で決めた寸法だった。 千歳は椅子に座って、膝に手を置いた。 何も聞こえなかった。 ラベルの白い一本を抜いて、明かりにかざしてから、また元の位置に戻した。この部屋を、まだ一度も測っていない。 椅子は畳まずに置いたまま、部屋を出た。階段の途中で、一階の冷蔵庫が回りはじめる音がした。 第十章 響きすぎる防音室 七月三十一日、金曜。朝から雨で、十時の現調が流れた。 事務所の窓に樋の水が落ちている。ハイエースは朝のうちに出ていって、駐車場のコンクリートには油の輪だけが残っていた。 「亀戸の中井さん、奥さんが熱出したって。来週の木曜の午後で押さえた」 冴子は受話器を置いた手でそのまま予定表の枠を鉛筆で塗りつぶし、消しかすを掌にまとめて屑籠へ落とした。「郷田さんと蒲生くんは平井。天井、今日で終わるって」 「こっちは」 「無いわよ。見積が二本あるけど、数字は私が出しとく」 「じゃあ午後に判子押します」 「午前に押しときなさい。午後になると押さないでしょ、あなた」 千歳は湯呑みを流しに置いて作業場に入り、棚から機材のケースを二つ下ろした。XL2、三脚、スピーカーの箱、NL-42。電池の残量を見てから、工具袋にラジオペンチとマイナスドライバーを入れ、その上に巻尺と懐中電灯を並べて置き、手袋を一組だけ後ろのポケットに突っ込んだ。脚立は廊下に立てかけた。 「上、行くの」冴子が伝票から目を上げずに言った。 「測る」 「何を」 「あの部屋」 冴子はキーを二つ叩いて、それきり何も言わなかった。 階段の三段目が鳴った。片手にスピーカーの箱、片手に三脚を持って上がり、踊り場で持ち替え、二往復して突き当たりのドアの前に全部下ろした。ハンドルを下げるとパッキンが枠から離れる音がして、内側の空気が動いた。電気をつけると、三方の壁は白い布張りのままで、折りたたみ椅子が一脚、部屋の真ん中から半歩ずれた位置に開いていた。棚にDA-P1、その横にKM184の箱、DATの箱は棚の下段にある。畳は表替えをしていないから、縁が擦れて色が落ちていた。 千歳はドアを閉めて、その場に立った。廊下の音が敷居の内側で切れて、雨も切れた。手を一度叩くと返りが来たので、もう一度叩いた。前に来たときも同じことをして、そのまま電気を消して出ている。今日は野帳を開いた。 巻尺の爪を隅の巾木に引っかけて、爪が浮かないように親指で押さえながら向かいの壁まで引いた。 「三千五百十」 声に出して読んで野帳に書き、直角に振って、二千六百十。脚立に乗って天井まで当てると二千二百八十で、掛け合わせると二十・九立方メートルになった。六畳の内側に箱を建ててあるから、廊下から見た部屋よりひと回り小さい。 三脚を中央に立ててNL-42を高さ一メートル二十に合わせ、A特性で一分を回した。千歳は隅の畳に座って膝を抱え、動かないでいた。息をするたびに数字が動くので、途中から止めた。 一分が終わってから、表示を見にいった。 二十三・八。 計の下のほうで数字が張り付いている。住宅の寝室でNC-25、ここはそれより下でNC-15の側だった。千歳は野帳の余白にその二つを並べて書いた。 スピーカーをドア側の隅に据えて床から一メートル二十、XL2のマイクを三脚に付け直して、対角に、スピーカーから二メートル離して立てた。壁からは一メートル取る。ケーブルは畳の縁に沿わせて、踏まない側へ回した。 ピンクノイズを十秒鳴らして切り、切った瞬間から下がっていく音を機械に拾わせる。同じ位置で三回。 一回目、ノイズを止めたとき、耳のほうが先に気づいた。切れ際に尾がある。壁が近いぶん、返りが背中から来る。千歳は二回目を鳴らすとき目を閉じて聞き、三回目は画面だけを見た。 数字を読み上げた。聞く者はいない。 「百二十五、〇・五三」 「二百五十、〇・四七」 「五百、〇・四二」 「千、〇・四〇」 「二千、〇・三六」 「四千、〇・二九」 鉛筆が止まった。 マイクの位置を部屋の中央に移してもう三回、五百で〇・四三。棚の反対側に移してまた三回、〇・四一。三点の平均は〇・四二だった。 野帳の隅に三行書いた。防音室、〇・一五から〇・二五。住宅のふつうの居室、〇・四から〇・六。音楽室、〇・六から〇・八。それから〇・四二の下に線を引くと、線は二行目の中に入った。 機械のほうを疑って、千歳は三脚とスピーカーを廊下へ出し、自分の部屋にひと通り移した。ベッドと本棚と、たたんでいない洗濯物の籠がある六畳。同じ手順で同じ十秒を鳴らして切ると、五百で〇・五八。二回やって二回とも同じところに出たので、XL2は正しかった。 機材を戻し、ドアを閉めて、また手を叩いた。 千歳は壁に手を当てて、下から上へ叩いていった。腰までは詰まった音が返り、そこから上で二か所だけ乾いた音がして、反対側の長い壁にも一か所あった。手袋を出して嵌めた。布は四周をタッカーで留めてあった。ドアの脇の下端からマイナスドライバーの先を差し入れて針を起こし、ラジオペンチで抜くと、針は畳に落ちた。二本目、三本目。留め間隔は百五十で揃っている。三十センチほど剥がして、懐中電灯を突っ込んだ。 石膏ボードの上にグラスウールの32Kが二十五ミリ、幅四百五十のひと切れがあって、次までが空いている。指を入れて隙間を測った。 二百二十。 貼っては空け、貼っては空けてある。 千歳は懐中電灯を口にくわえ、両手で布を持ち直した。剥がした先も同じで、四百五十のひと切れ、二百二十の空き。ボードの面がそのまま出ているところを掌で撫でると、パテのあとが乾いていた。 布をもう一メートル剥がしても同じだった。壁の面積に対して、入っているのは三割に届かない。腕にグラスウールの粉が乗って、肘の内側が痒くなった。 叩いて乾いた音がしたところを開けると、布の下は硬い面で、合板だった。定規を当てて厚みを見る。 十二ミリ。 九百に千八百。上端が丁番二枚で壁に留めてあって、下端が浮いている。浮きは四十ミリあった。横に金物が一本渡してあり、穴が三段に開いていて、今は真ん中のピンで止まっている。 千歳はピンを抜いて板を手前に引くと、カチ、と鳴って下の穴に落ち、浮きが八十になった。押し戻すと、また真ん中に戻った。 三枚あった。長い壁に二枚、ドアの反対側の短い壁に一枚。どれも同じ寸法で、同じ金物が付いていて、同じ真ん中の穴で止めてある。三枚とも、裏側に吸音材は入っていなかった。 千歳は三枚の高さを測った。床から下端まで、九百二十。九百二十。九百二十。 階段の下から冴子の声が上がってきた。ドアを開けると、冴子は途中の段に立っていた。 「判子。あと、上でずっと何かやってるでしょ」 「うるさかったですか」 「ぜんぜん。だから覗きにきたの」冴子は書類を差し出しながら、開いたドアの向こうへ首を伸ばした。「布、剥がしたのね」 「剥がしました」 「終わったら掃除機、二階のを使いなさい。粉が下まで落ちるから」 冴子は中には入らず、判の押された分だけを受け取って、また下りていった。三段目が鳴った。 昼前に一階で戸が開いた。郷田がインパクトを取りにきていて、平井の現場で一本足りないという。後ろから蒲生が入ってきて、コンビニの袋を提げたまま框に腰を下ろした。 「上、やってんのか」 「測ってます」 「何が出た」 「残響が〇・四二」 郷田は工具箱の蓋を閉めた。 「長えな」 「〇・二四じゃなくてですか。数字、ひっくり返ってません?」蒲生がおにぎりの海苔を破りかけた手を止めた。 「三点測って、平均で〇・四二」 「中野のワンルーム、吸音だけで〇・六二から〇・二八まで落ちましたよね。予算八万で、パネル六枚」 「落とした」 「グラスウール、何ミリ入ってるんですか」 「二十五。ただし飛び飛び」 「飛び飛びって」 「四百五十貼って、二百二十空けてある」 「あそこの兄ちゃん、なんて名前でしたっけ。配信の……まあいいや。ここ、先代がひとりで組んだって聞きましたけど」蒲生はそこまで言って、袋の口を巻いた。 「吸音が三割しか入ってません。合板が三枚立ってます」 郷田は返事をしなかった。玄関で靴の踵を入れ、引き戸に手をかけたところで止まった。 「巌さんは、寸法を間違えたことがねえ」 「今回は間違えてます」 戸が閉まった。 昼を挟んで、遮音を測った。パンを立ったまま食べ、手を洗ってから上がった。 スピーカーを部屋の中央に戻してピンクノイズを九十五デシベルまで上げ、XL2を室内に置いて記録に入れ、ドアを閉めて廊下に出た。NL-42はドアから一メートル、側壁から五十センチ。二台の時計を合わせて、五分回した。 廊下でその五分を待った。中で九十五が鳴っているはずのドアの前に立っていても、聞こえるのは樋の水だけだった。千歳は掌をドアの面に当てたが、振動は指に来なかった。 中と外を並べる。 五百、九十四・八と二十九・六。差は六十五・二。 二千、九十四・五と二十八・〇。六十六・五。 百二十五、九十五・二と三十四・一。六十一・一。 廊下の暗騒音が三十を切っていたから、この差が測れた。 D-65。集合住宅の界壁で四十五から五十、ピアノ室で五十五以上。 千歳は数字を書いてからドアの縁を指でなぞった。七年たったパッキンが、まだ潰れていない。給気口の枠を外すと奥に消音ボックスが入っていて、コンセントは一つきり、プレートを外すと背面にロックウールが詰めてあって、指で押すと戻ってきた。壁と天井の取り合いはコーキングで縁を切ってある。 どこにも隙間がなかった。 外は完璧だった。中だけが違う。 千歳は野帳を二ページ開いて畳に置き、左に〇・四二、右に六十五と書いた。鉛筆の尻で片方を指し、それからもう片方を指した。同じ部屋の、同じ日の数字だった。 外側をこれだけやる人間が、内側の材料を数えられないわけがない。だから、数えなかったのだ。躯体を組んでドアを吊って給排気を回して、そこで終わりにした。金を払う客がいない。検査に来る者もいない。残った合板を三枚だけ下地に留めて、布をかぶせて隠した。人手が足りなかったのか、飽きたのか、どちらでもいい。 千歳はドライバーを畳に置いた。置いたつもりだったが、音が大きかった。 「親父」 声が返った。壁で一度、天井で一度。 「手を抜いたな」 もう一度言うと、二度目のほうが長く残った。 垂れた布はそのままにして、部屋を出た。 夜八時。雨は上がっていて、樋の水がまだ落ちていた。 千歳は作業場からACアダプタを持って上がり、DA-P1の上面の埃を袖で拭いて電源を入れた。表示が出た。ヘッドホンを挿す。箱の蓋を開けた。三十七本。三十六本には消去済みの札が貼ってある。去年の暮れに一本ずつ通して全部消えていて、札を貼ったのは千歳だ。残る一本だけ、ラベルが白い。抜いて、殻の窓からテープの巻きを見ると、頭で止まっていて、誤消去防止のつまみが防止の側に寄せてあった。蓋を開けて入れ、閉めると、カウンタが〇〇:〇〇になった。 ドアを閉めた。 再生を押すと走行の音がして、ヘッドホンの中に何かが来た。何も入っていない音だった。レベルメーターはいちばん下のセグメントが、たまに一つだけ点いて消える。 音量を上げると、テープのヒスが太くなって、その下に、部屋があった。朝、二十三・八と出たのと同じものだ。 畳に椅子の脚のあとが四つ、へこんで残っている。千歳は椅子をそこに戻して座った。 三分。カウンタの秒が変わるのを見ていた。 七分。自分が唾を飲む音が、ヘッドホンの外側から入ってきた。 十二分。畳の目を追った。縁の布が擦れて、糸が二本出ている。 十八分で膝を組み替えると、座面が鳴った。千歳は一度止めて二十秒巻き戻したが、中には無く、今の音は自分のものだった。 二十二分。テープが本当に走っているか確かめたくなってDA-P1の窓を覗くと、リールは片方が太って、片方が痩せていた。 二十六分。ヒスの中に規則的なものを探して、何度か、あるような気がした。息を止めると無くなったので、自分の音だった。 三十一分。ヘッドホンを外してみると、部屋の音と、ヘッドホンの中の音の区別がつかなかった。付け直した。 三十六分。剥がした布が壁から垂れたままになっていて、合板の下端が四十ミリ浮いて出ている。父はこの三枚をここに立てて、その前に椅子を置いて、マイクを二本立てた。そこまでは手順として追えるが、追えたところで何を録ったことになるのかは分からない。 四十二分。野帳を膝に載せると、開いたページの上のほうに〇・四二とだけ書いてあって、その下は白いままだった。 四十七分すぎ、畳の上で携帯が震えた。蒲生からで、明日の材料屋は八時から開いていると書いてある。千歳は片手で返事を打って、画面を伏せた。 五十一分。走行の音だけが続いたので、腰を浮かせて座り直した。座面がまた鳴ったが、今度は巻き戻さなかった。 五十五分。首が痛くなって天井を見ると、天井の布にも針が打ってあって、留め間隔は壁と同じ百五十だった。 五十八分四十二秒。走行が止まって、ヘッドホンの中から機械の音ごと消えた。カウンタはそこで止まっている。 千歳は座ったままでいた。それから巻き戻しを押すと、頭まで戻るのに時間がかかって、その音は最初から最後まで同じ高さだった。 野帳を開いて書いた。五八分四二秒。無し。その下に、DT-120の片面はおよそ六十分、と書き足した。終端まで回っている。 テープを出して殻を布で拭き、箱のいちばん上に、ラベルの白い面を上にして戻した。 棚の上でDA-P1の表示が点いたままだったので、千歳はアダプタをコンセントから抜いた。数字が消えた。 畳の上に、朝抜いたタッカーの針が三本、落ちたままだった。 第十一章 建物が鳴っていた メゾン砂町は、都営新宿線の西大島から歩いて八分のところにあった。モルタル塗りの木造二階建てで、一階に二戸、二階に二戸。外階段の踏み板が一枚だけ新しい。千歳は軽バンを隣の空き地に停め、建物の外周を左回りに一周してから、道路際の量水器の蓋を開けた。銀色の羽根がゆっくり回っていた。母屋とアパートで、水道は一本だった。 外階段の下に自転車が三台と、原付が一台停めてある。原付のシートに猫が寝ていて、千歳が真横を通っても顔を上げなかった。 「都築さん? 思ってたより若いね」 砂田光子は母屋の玄関から出てきた。割烹着に手拭い、足元はサンダル。片手に大学ノートを持っている。表紙に油性ペンで「騒音」と書いてあった。 「電話でも言ったけどさ、101と102がもう口もきかないの。四十八年やってて初めてだよ。壁、厚くできない? いくらかかる?」 「中を見てからでいいですか」 「見て見て。麦茶あるから」 建てたのは夫で、昭和五十三年だという。その夫は十五年前に死に、いまは空きが202の一戸だけだと光子は言った。ノートは日付と時刻と、音の書き取りで埋まっていた。七月三日、二十二時十一分、コン。七月四日、六時四十分、ゴン。七月六日、二十二時七分、コン、コン。欄外に「宇津木さん申告」「佐脇さん申告」と小さく書き分けてある。 「これ、全部奥さんが?」 「言われた日に書くの。あたし、こういうのは好きなのよ」 千歳は三ページぶんめくって、時刻の列を指でなぞった。朝の音はすべて宇津木申告、夜の音はすべて佐脇申告で、混ざっている日が一日もなかった。 夜は十時台。朝は六時半から七時のあいだ。 「奥さん、洗濯は何時ですか」 「あたし? 朝は六時半すぎ。夜もまとめて十時ごろ回すよ。それがどうかした」 「いえ。あとで一回、回してもらうかもしれません」 101号室の宇津木一馬は、Tシャツに短パンで出てきた。二十九歳、印刷会社の夜勤で、夕方五時に家を出て、帰ってくるのは午前二時半だという。玄関にビールの空き箱が積んであり、畳の上で扇風機が首を振っていた。左の壁には座布団が二枚、画鋲で留めてあった。 「そこ」 宇津木は座布団を親指でさした。 「そっち側から、コン、って。朝の六時四十分。ぴったり。俺、寝たばっかりなのに。壁殴ってんだよ、あの子」 「これは、いつから」 「先月から。大家さんに言ったら、向こうも同じこと言ってるって。じゃあ何、俺が嘘ついてるってことすか」 千歳は座布団の縁を指で押した。厚みは三センチほどで、下の壁は薄いベニヤだった。 102号室の佐脇澪は二十四歳で、美容室に勤めて一年目だと言った。部屋には練習用の頭が三つ、鏡台に並んでいる。澪は右の壁を指した。宇津木が指したのと同じ壁だった。 「六時四十分ですよ。毎朝きっかり。ドン、って。夜の十時過ぎもです。あたし朝早いのに、あれで起こされるんですけど」 「夜の十時は、隣の方は」 「いるでしょ、絶対。だって鳴るもん」 「同じ壁だと、お二人とも言うんですね」 「え? だって、あっちしかないじゃないですか」 千歳はそれを手帳に書いて、何も言わなかった。 三脚は101に立てた。部屋のまんなか、どの壁からも一メートル離し、リオンのNL-42を床から一・二メートルの高さに据える。扇風機を止めてもらい、冷蔵庫のプラグも抜いた。蒲生は102に同じ高さでXL2を置いた。両方の玄関を開けたまま、五分間の暗騒音を測る。 「101、LAeqで三十四」 「102、三十五」 それから待った。十五分、何も起きなかった。宇津木は外廊下の端で煙草を吸い、澪は自分の部屋の玄関にしゃがんでいた。二人のあいだは五メートルほどあった。蒲生が手すりに寄りかかって携帯を見はじめ、光子が母屋から麦茶を運んできて、氷が三つ、コップの中で鳴った。 光子が二杯目を取りに戻った。 そのあいだに、鳴った。壁の中で、太いものを一度だけ叩いたような音がした。千歳は騒音計の数字を読んだ。六十・八。四十秒ほどおいて、もう一度。六十一・二。開けた玄関の向こうから蒲生の声がした。 「102、五十九・三。社長、今の同時です」 「うん」 光子が盆を持って戻ってきた。千歳は玄関で盆を受け取って、聞いた。 「奥さん、いま母屋で何をしてました」 「麦茶入れて、コップ洗って、蛇口キュッと締めて──」 「もう一回、同じことをしてもらえますか」 光子が母屋の台所に立ち、千歳が101、蒲生が102に入った。合図は光子の「はい」。ぱっと締めると、二つの部屋で同時に鳴った。六十一・〇と五十八・九。次に、二秒かけてゆっくり締めてもらう。どちらの騒音計も動かなかった。三回やって、三回とも同じだった。 蒲生のXL2の画面で、一秒ぶんを切り出して1/3オクターブバンド分析にかけると、音のエネルギーは六十三ヘルツと百二十五ヘルツの帯に寄っていた。低いほうだった。人が壁を叩けば、もっと上の帯にも山が出る。 千歳はVM-83のピックアップを壁に押し当て、下から上へ五十センチずつずらしていった。101側の右の壁、102側の左の壁、両方を上下に舐める。数字は101と102を仕切る壁の、床から一・五メートルあたりで一番大きく出た。そこから左右へ離すと落ちた。 念のため、澪に頼んで、102の右の壁を手のひらで一度叩いてもらった。101の騒音計は五十二・六を出し、XL2の山は二千ヘルツのあたりまで伸びた。宇津木にも、座布団の上から同じことをしてもらった。四十九・一。どちらも、さっきの音とは形が違った。 「これ、二人とも見てください」 宇津木は画面を覗いて、鼻から息を出しただけだった。澪は腕を組んだまま二歩だけ近づき、宇津木のほうは見なかった。 「管ですね」 郷田タケは四十分で来た。光子が押入れから丸めた青焼きを出してくると、郷田は外廊下に広げ、十秒ほど見て、101と102の境の線を太い指で押さえた。 「ここ。二階の水回りが、この壁の中を下りてる」 「あんた、それ読めるの。うちの人だって読めなかったよ」 「読める」 「点検口、開けますか」 「開ける」 押入れの天井板を外すと、乾いた木の匂いがした。懐中電灯を上げる。給水管が間柱に金物のサドルで直に留めてあった。ゴムも布も噛んでいない。郷田が指を六本立てた。 「六か所?」 「六か所」 「奥さん、洗濯機はいつから使ってますか」 「今の? 先月買ったの。前のが止まっちゃってさ、安いのがあったから。それがどうかしたの」 「それです。新しいのは、水を止める弁が速いんです。前のはもっと鈍かった。同じ蛇口でも、止め方が速いと管が殴られます」 「あたし、洗濯機買っただけだよ」 「壁は厚くしなくていいです」 「え、いいの?」 「これは空気を伝わってくる音じゃないんです。水が急に止まって、管が衝撃を受けて、管から柱、柱から壁、壁から部屋へ、木の中を伝わってきてます。壁を厚くしても、伝わる道が残っていれば消えません」 「じゃあどうすんの」 「道を切ります。管と柱のあいだにゴムを挟んで、衝撃を先に逃がす道具を付けます」 「カーテンは。防音カーテン、二枚買ったんだよ。101に一枚、102に一枚」 「あれは効きません」 「効かないの」 「布は音を通します。返品できるなら、してください」 光子は麦茶のコップを持ったまま、しばらく壁を見ていた。 四時過ぎに、千歳は二人を外廊下に呼んだ。宇津木はサンダル、澪はスニーカー。二人のあいだは二メートルほど空いていた。 「そこに立っていてください。手はポケットから出しておいてもらえますか」 「なんすかそれ」 「見ていてほしいので」 千歳が母屋に向かって手を挙げた。台所の窓から光子が手を振り返した。 鳴った。二人のうしろの壁が、コン、と。 澪が半歩下がった。 「今の、あたしじゃないですよ」 「俺でもない」 「あたしだよ」 光子が手を拭きながら勝手口から出てきた。 「いま蛇口締めた。あたしだ」 二人が同時に喋りだして、同時にやめた。 「じゃあ、朝の」 「洗濯機。六時半に回してる」 「夜の十時のも?」 「あれも洗濯機。まとめて回すから」 宇津木がポケットから折った紙を出しかけて、途中でやめた。澪のトートバッグの口からも、同じような紙の角が出ていた。二人はそれぞれ、それを見えないほうへ持ち替えた。 引き上げる前に、千歳は軽バンの助手席でXL2の録音を聞き直した。イヤホンの音量を上げると、打撃の前にごく短く水の走る音が入っていて、そのあとで壁が鳴っていた。誰の名前もついていない音だった。 実家の二階で五十八分四十二秒のテープを最後まで聞いたのは、先週だ。あのときも音量を上げた。上げるほどヒスが太くなるだけで、他には何も出てこなかった。ノートに「何も無し」と書いて閉じた。いま同じノートを開くと、二ページ手前に六十一・二と書いてある。 砂町では、鳴らしている当人が三十メートル先の台所にいて、こちらが頼めば何度でも同じことをやってくれた。同じことをもう一度やってくれる人は、八広の家にはいない。 蒲生が運転席のドアを開けた。 「社長、鍵」 「持ってる」 工事は三日後の七月十七日だった。ハイエースが空き地に入り、郷田が養生ボードを101の玄関から押入れまで敷いた。母屋の洗濯機用の水栓と台所の水栓、それに二階の201の水栓に水撃防止器を付ける。ねじ込むだけの仕事で、三か所で二十分もかからなかった。 時間がかかったのは壁の中だった。点検口から手を入れ、六か所のサドルを外し、管に制振テープを巻き、ゴム板を挟んでから留め直す。間柱との隙間には防振ゴムを噛ませた。郷田の手は肘まで天井裏に入っていて、外からは肩しか見えない。蒲生が下から懐中電灯を当て、ときどき「そこ、あと五ミリ」と言った。 「うるさい」 郷田がそれだけ言った。 光子は養生ボードの上に正座して、二時間ずっと見ていた。猫が入ってきて、押入れの前で丸くなった。十二時に郷田が下りてきて、麦茶で薬を一錠飲み、五分だけ外階段に座って、また上がっていった。 十一時ごろに宇津木が起きてきて、誰にも頼まれないまま脚立の脚を押さえた。押さえながら二階を見上げて、「これ、二階の人が水使っても鳴ってたんすか」と聞いた。鳴っていました、と千歳が答えると、宇津木は「じゃあ夜中のも隣じゃなかったのか」と言い、それから、誰にともなく「あー」と言った。 昼を回って、同じ手順でもう一度測った。三脚の位置は前と同じ、床から一・二メートル。光子が台所で「はい」と言って蛇口をぱっと締める。 「三十九・四」 千歳が読み、蒲生が102から「三十八・五」と返した。二回目、三回目も四十を切った。 「で、どのくらい静かになったの、これ」 「六十一が三十九です。十下がると、耳にはだいたい半分に聞こえます。二十下がってますから、四分の一より下ですね」 「四分の一」 「はい。ただ、まったくの無音にはなりません。夜中に目が覚めているときは、たぶん分かります」 「そりゃそうだ」 最後に、二人をそれぞれの部屋に入れて、光子にもう一度ぱっと締めてもらった。宇津木は畳に座ったまま「今の、鳴った?」と言い、澪は102の玄関から顔を出して「聞こえないです」と言った。 光子はもう一度台所へ行って、蛇口をひねって、締めた。水の止まる音だけがした。それからまた出てきて、壁を手のひらで一回叩いた。 「あたしがずっと鳴らしてたのか」 「建物が鳴ってました」 「同じことだよ」 請求は部材と手間で五万八千円になった。光子は封筒から万札を数えながら、ひとりごとのように言った。 「壁工事のつもりで、五十万おろしてきたんだけどね」 「余りましたね」 「階段、塗るか」 道具をまとめていると、澪が母屋のほうへ小走りに行って、光子と何か話して、戻ってきた。手に素麺の箱を持っていた。千歳の横を通って、101の前で足を止め、ドアの脇の手すりに箱を置いた。ノックはしなかった。 101のドアの下から、折った紙の角が半分だけ出ていた。宇津木が内側から出したのか、外から差したのかは、千歳の位置からは分からなかった。澪は箱を置いたあと、手すりの端まで歩いて、戻ってきて、また同じところに立った。 光子がノートを母屋の靴箱の上に置いた。表紙の「騒音」の下に、油性ペンで一行足してある。千歳の立っている位置から読めたのは、日付と、その横の三文字だけだった。猫が原付のシートに戻って、また寝た。 蒲生が軽バンを出そうとして、空き地のブロックに後輪を当てた。がり、と鳴った。 「あんた、免許いつ取ったの」 「去年です」 「都築さん。うちの階段には、当てないでよ」 第十二章 なんでやめたんですか 八月の校舎は、人がいないぶん音がよく通った。昇降口の扉を閉めた音が廊下の突き当たりまで行って、薄くなって戻ってきた。 蒲生は校門を入ったところでハイエースを三度切り返した。植え込みまでまだ一メートル以上ある。 「寄せすぎると出られなくなるんすよ」 「出るときは私が乗る」 事務室で名前を書き、安全靴のまま上がる許可をもらった。特別教室棟の階段口に鵜飼学が立っていた。ジャージの上だけを着て、下はチノパンだった。名刺を両手で受け取り、二度見てから胸ポケットに入れた。 「暑いのにすみません。夏休みのうちにやってくれって、教頭が言うもんで」 「音が校舎に回る、と伺いました」 「回るんです。もう、回るとしか言いようがなくて」 鵜飼は廊下の先を指した。突き当たりが進路相談室で、三年の三者面談をそこでやるのだという。 「面談中に、保護者の方が『にぎやかですね』って笑うんですよ。笑ってるうちはいいんですけど、去年、進路の話をしてる最中にパーカッションが始まりましてね。あれはさすがに」 「隣の教室は」 「一組で夏期講習です。数学の担当が僕なんで、自分で自分の首を絞めてるんですが」 廊下には冷房が入っていない。窓を全部開けてあって、外の蝉と、どこかの階の掃除機の音が入ってくる。それでも千歳の耳に先に届いたのは、突き当たりのほうから戻ってくる低い音のほうだった。 千歳は歩きながら壁を二か所叩いた。乾いた音が返ってくる。音楽室の扉の前で止まると、中で木管が同じ音を伸ばしていた。低いほうから順に重なって、ひとつだけ遅れて入ってくる。伸ばしたまま少し膨らんで、切れた。 扉の前で、子音が消えていた。息を入れる音も、キイが動く音もない。音の高さと、切れ目だけが出てきている。 「今日は部活を」 「やらせてます。鳴ってないと測れないでしょう」 「助かります。コンクールは」 「先週終わりました。次は九月の文化祭で、三年はそこまでいます」 鵜飼が扉を引いた。中の音が、扉一枚ぶんだけ厚くなって出てきた。 音楽室には二十人ほどが半円に並んでいた。窓側にグランドピアノ、その向こうに譜面台の予備が積んである。壁は腰から下が有孔ボードで、その上は塗装した石膏ボードがそのまま出ていた。天井には吸音板が張ってあって、四隅の二枚が茶色く染みている。生徒が立ち上がり、いちばん手前のクラリネットの子が先に頭を下げた。 「小笠原です。部長やってます」 「つづき音響の都築です。うるさくしますし、途中で吹いてもらうので、帰らないでください」 「はい」 鵜飼が小声で言った。 「僕、楽譜が読めないんですよ。ぜんぶあの子がやってます」 蒲生が測定用のスピーカーを部屋の中央に据えて、床から一・二メートルに上げた。千歳はXL2を三脚に立て、生徒を階下の渡り廊下まで下ろしてから扉を閉めた。ピンクノイズを流す。部屋の中で数か所測り、平均を読む。九五・〇。 まず隣の音楽準備室に移った。壁一枚を挟んだだけの部屋で、机の上に段ボールが積んである。蒲生が三脚を立てて、しゃがんだまま数字を読んだ。 「四六・八。差が四八・二っす」 「壁は問題ない。集合住宅の界壁と同じくらい出てる」 「二・五キロだけ落ちてないですね」 「石膏ボード十二・五ミリのコインシデンス。教科書どおり。今回の苦情には関係ない」 千歳は準備室の壁のコンセントを見た。音楽室側とは位置が半間ずれている。背中合わせなら、そこも音の抜け道になる。ずれていることを手帳に書いて、次へ移った。 廊下へ出た。扉から一メートルの位置で同じことをやる。三脚の脚の位置を蒲生が養生テープで床に印した。工事のあとで同じ場所に立てるためだった。 「六二・四」 「差は」 「三二・六。準備室より十五以上悪いっす」 千歳は帯域ごとの棒を見た。低いほうは扉の重さぶん落ちているのに、二キロから四キロがほとんど下がっていない。壁で負けているのではない。 しゃがんで、扉の下に名刺を差し入れた。折れずに、指まで入った。隙間ゲージを当てる。 「九ミリ」 「うわ」 「戸先と上枠も測って」 「二ミリ……全部二ミリっす」 蒲生が電卓を出した。 「下端が〇・〇〇八一。戸先と戸尻と上枠で〇・〇〇九八。足して〇・〇一七九。扉の面積が一・八だから……ちょうど一パーセントっすね」 「一パーセントで十dB落ちる」 「じゃあ扉、閉めても閉めてないのと」 「閉めてないのとは違う。十dB損してるだけ」 鵜飼が扉と千歳の顔を交互に見た。 「その、十というのは」 「音の量が倍あるということです。人の耳には、十下がるとだいたい半分に聞こえます」 もうひとつある。扉の上、廊下側の壁に丸い給気口が付いていた。直径百五十。中を覗くと、スリーブがまっすぐ廊下側へ抜けている。千歳はティッシュを一枚ちぎって近づけた。紙が張りついたまま動かない。 「ここ、壁がないのと同じです。穴が空いてます」 「換気ですよね。塞いだら、夏場は死にますよ。冷房を入れても人数が人数なんで」 「塞ぎません。曲げます」 念のため残響も測った。手を叩くのではなく、ピンクノイズを切ってXL2で読む。五百ヘルツで〇・七二秒。音楽室としては普通の数字だった。 「響きは触らないでください」 小笠原詩織が扉のところに立っていた。譜面を丸めて持っている。 「この部屋、みんな好きなんで。吸音材とか、貼らないでほしいです」 「貼らない。私が触るのは扉と穴だけ」 「そうですか。ならいいです」 実際に鳴っている音でも測ることにした。千歳が音楽室に残り、蒲生が進路相談室にNL-42を立てる。合図をして、十五分。 詩織が前に立って、指を二回鳴らした。ロングトーンから始まって、コラールになった。低音が先に出て、上が乗る。三小節目で二番のトランペットが半拍遅れ、詩織が手を止めずに左手だけ小さく振った。次の周では合っていた。 千歳は有孔ボードの前に立ち、それから窓側へ二歩動いた。窓側のほうが数字が〇・八高い。ガラスは反射する。あたりまえのことを確かめて、また壁際へ戻った。 騒音計の窓に出ている数字を見ていた。九四・八。九五・一。曲が変わって課題曲になり、四分の四の中で拍子が変わるところで金管が濁った。詩織は止めなかった。止めずに、同じところをもう一度通した。二度目も濁って、三度目でそろった。 いちばん後ろのユーフォニアムの子が、譜面台の高さを一度も直さないまま吹いていた。譜面が低すぎて、顎が下がっている。それでも音は出ていた。 ピアノは使っていなかった。蓋が閉まったままで、上に誰かの水筒とタオルが置いてある。千歳はそこから一メートル離れたところに立っていた。 十五分が経った。詩織が手を上げて止めた。 「休憩十分。水飲んで」 蒲生が戻ってきて、廊下から手を挙げた。 「進路相談室、四八・六っす。三者面談どころじゃないっすね」 生徒が廊下へ流れていく。詩織は自分の椅子に楽器を置いて、千歳のところへ来た。近くで見ると、右手の親指の付け根に硬いものができている。 「さっき、指、動いてました。左手」 「数えてただけ」 「膝の上で」 「秒数を見てたの。十五分測るから」 詩織は千歳のケースを見た。床に置いてある。 「ピアノの上、物置いていいですよ。みんな置いてるんで」 「床でいい」 「都築さん、音楽やってたんですか」 千歳は騒音計をケースにしまい、蓋の留め具を二か所とも閉めた。 「昔、少し」 「何を」 「小笠原さん、次に吹くとき、扉は閉めておいて」 「閉めますけど」 「鵜飼先生、給気口の型番、後で控えさせてください」 鵜飼が資料室の鍵を探しに行き、詩織は水筒を取りに戻った。廊下で誰かが笑って、その声が突き当たりで薄くなって返ってきた。 隣の家から苦情が来たのは二〇〇八年の十二月だった。壁一枚で繋がった造りで、その壁は薄かった。譜面台の向こうが隣の家の茶の間で、メトロノームを止めると、向こうのテレビが聞こえる距離だった。 父は防音工事屋だった。自分の家の壁には何もしなかった。代わりに、弾くのは夕方六時までと決めた。母はまだ元気で、六時前になると台所から時計のことを言った。千歳は少しずつ弾かなくなって、二〇〇九年の三月を最後に鍵盤に触っていない。やめると言った日はない。理由を聞かれたことも、その後一度もない。 その夜、八広に帰って、二階の部屋の扉を開けた。折りたたみ椅子と、DA-P1と、白紙のラベルのテープ。手帳には先月測った〇・四二という数字がまだ残っている。防音室でその値が出るのはおかしい。おかしいまま、まだ消していない。 千歳は明かりを点けず、五分ほど立って、扉を閉めた。一階の居間には、床に四つ、丸いへこみが残っている。 工事はお盆明けの二日で組んだ。冴子が学校の予定表と突き合わせて、夏期講習のない木曜と金曜を取った。学校は請求書の宛名と支払いの月が決まっていて、そこだけは動かないと冴子が電話で二度確かめた。「教育委員会って、こっちの都合で日付を書き換えてくれないから」と言った。 郷田が既存の建具を外した。蝶番を三本抜いて、扉を横にして廊下へ出す。枠に下げ振りを垂らし、四隅を指で押さえてから言った。 「三ミリ」 「起きてる方向は」 「廊下側」 シムを噛ませて枠を建て起こし、大建の防音ドアを入れた。戸当たりのパッキンが潰れる位置を、蒲生が紙一枚を挟んで確かめて回る。上、中、下。下だけ抜けたので、丁番の側を一ミリ寄せた。下端も気密材で当たる仕様で、閉めると床との間が消えた。 「掃除機、ここ通しますよね」 「通します。三年生が毎日」 「では敷居の見切りは面取りしておきます」 郷田が壁を測り、鉛筆を二回走らせて切り欠きの形を出した。有孔ボードは一枚外して、後から同じ穴の並びで戻す。ボードの粉が床に落ちるたび、蒲生が掃除機をかけた。 給気口は箱を作った。合板で函を組み、内側にグラスウール32Kを貼って、空気が二回曲がって出ていく形にする。郷田がスリーブを切り、蒲生が32Kを寸法どおりに落としていく。長袖の腕で汗を拭いて、腕が痒いと言った。 「風量は落ちないんですか」 「落ちます。だからダクトを一回り太くします」 「なるほど……いや、なるほどと言いましたけど、わかってません」 「空気は通します。音は曲がるたびに減ります」 郷田が箱を持ち上げて壁に当て、位置を見て、二センチ下げた。 「もう一枚」 蒲生が合板をもう一枚渡した。 「先生、扉を強く閉めないでください。パッキンが早く死にます」 「はい」 二日目の夕方、同じ位置に同じスピーカーを据えて、同じ音量でピンクノイズを流した。廊下で蒲生が読み上げる。 「五一・八。差が四三・二っす」 「前は」 「差が三二・六でした。廊下の音が十・六下がってます」 鵜飼が扉の前で腕を組んだ。 「これ、半分になったってことですか」 「そう聞こえるはずです。あとは実際に吹いてもらってから」 給気口の下に手をかざした。風は出ている。箱に耳を寄せると、中で空気が回る音がした。鵜飼も同じことをして、それから手を引っこめて、笑った。 部員が入り、詩織が指を二回鳴らした。同じコラールが始まる。千歳は進路相談室に入って扉を閉め、椅子に座って騒音計を見た。四〇を切ったまま動かない。三九・四。 面談用のテーブルには、進路希望調査の紙が裏返して積んであった。窓を閉めれば、外の蝉のほうが大きい。廊下側の壁越しに、金管の低いところだけが薄く残っている。それは扉から出てきた音ではない。床と壁を伝って回ってきたぶんだった。手帳に書いて、鵜飼には言わなかった。数字が下がっている日に、下がらない話をしても仕方がない。 音楽室に戻ると、詩織が新しい扉のハンドルを引いていた。閉める。開ける。また閉める。閉まる瞬間に、音の高いところが先に消える。 「軽いですね」 「重い扉ほど軽く閉まるように作ってある」 「へえ」 詩織は指の腹でパッキンを押した。押して、戻るのを見て、また押した。 「三年生が引退したら、この部屋、一年が使うんですけど」 「うん」 「壊さないように言っときます」 「壊れない。強く閉めなければ」 詩織はもう一度閉めて、ハンドルを持ったまま千歳を見た。楽器は椅子に置いたままで、リードだけ指に挟んでいる。 「なんでやめたんですか」 廊下の先で蒲生が騒音計を持ち上げた。 「五一・八っす。さっきと同じ」 千歳は手帳にその数字を書いた。詩織は扉を引いて中に入り、閉めた。クラリネットの立ち上がりが、半分の高さになって廊下に残った。 第十三章 鳴っていた 八月十七日の午後二時、江戸川区松江の路地はアスファルトが白く灼けていた。蒲生は軽バンを路肩に寄せるのにハンドルを三度切り直し、最後は千歳が降りて後ろを見た。 「三十センチ空いてます」 「詰めます」 「詰めなくていいです。そこで停めて」 依頼の電話を受けたのは冴子だった。事務所の卓上に貼ってあったメモに、塙タミ、八十四歳、一人暮らし、息子さんからの依頼、〈誰もいない部屋で音がする〉と本人が言う、とある。その下に冴子の字で一行足してあった。 「※本人は来てほしいと言っていません」 冴子は受話器を置いたあとで言った。音の話は五分で終わって、あとはずっと母親の話でした、と。千歳が行くと答えると、冴子は一晩になりますよと言って、翌日の予定を一つ後ろへずらした。 路地は車一台分の幅で、両側に鉢が並んでいた。朝顔と、名前の分からない葉物。塙の表札は楷書で彫ってあり、その下に古いガムテープの跡が残っていた。 家は木造の二階建てで、外壁のトタンが下のほうで波打っていた。玄関を開けたのは息子のほうだった。五十代の後半、半袖のポロシャツの襟がくたびれている。 「わざわざすみません。母がその、ちょっと気難しいもんで」 奥から声がした。 「聞こえてるよ」 茶の間は六畳で、畳の縁が擦れて白くなっていた。座卓の上に有料老人ホームの案内が三つ折りのまま置いてある。表紙は芝生と縁側の写真だった。タミは座布団に背を立てて座っていた。白髪を耳が出るまで短く刈っている。補聴器はしていない。 千歳は膝をついて名刺を出した。 「つづき音響の都築と申します。音を測る仕事です」 タミは名刺を目から遠ざけて読んだ。 「音を測る商売があるのかい」 「あります」 「じゃあ測ってごらんよ。倅は測りもしないで、耄碌だって言うんだから」 「そんな言い方はしてないだろ」 「した」 千歳は鞄を開けなかった。 「誰もいない部屋で音がすると、おっしゃったそうですね」 「そんな言い方はしてないよ。誰もいないんだから、誰もいない部屋に決まってるだろ。この家にはあたししかいない」 「失礼しました」 「あんたじゃない。そう言ったのは倅だ」 「鳴るのは何時ごろですか」 「夜中」 「時計は見ますか」 「見るね。二時をちょっと過ぎたとこだ」 「毎晩ですか」 「毎晩じゃない。鳴らない晩もある」 「どこで聞こえますか」 タミは畳を掌の付け根で叩いた。 「ここ。頭んとこ。寝てるときだけだよ。起きて座ってると鳴らない」 「どんな音ですか」 口の形をいちど作り直してから、タミは言った。 「コトッ。それからブーンだ」 「コトッが先ですね」 「先だよ。順番くらい覚えてるさ」 「いつからですか」 「春先。桜が散ったころだ」 「寝る場所は前と同じですか」 「六十年同じだよ」 「耳鳴りはありますか」 「無い。耳が鳴るんなら鳴りっぱなしだろ。あれは鳴ったり止んだりする」 「四十年ミシンを踏んでたんだ、あたしは」タミは膝の上で手を組み替えた。「モーターの音と、そうじゃない音の区別はつくよ」 息子が畳に膝を落として、声を落とした。 「うちの奴が泊まった晩は何も鳴らないんですよ。俺も一度泊まりました」 「どちらでお休みになりましたか」 「二階です。ベッド置いてるんで」 千歳は手帳に、二階、ベッド、と書いた。それだけ書いて線は引かなかった。 「病院で検査も受けたんです」息子は膝を見たまま言った。「点数は悪くなかったんですよ。悪くなかったんですけど、こういうことを言い出すもんだから」 「スマホのアプリでも測ったんですよ」息子は言った。「三十いくつって出るだけで。図書館より静かって書いてありました」 台所を見せてもらった。冷蔵庫は二ドアで、側面の下のほうに錆が浮いている。買ってから十七年だとタミが言った。床は板の間で、流しの手前に床下点検口の蓋があった。千歳は蓋を外して懐中電灯を入れた。 床下は低かった。白い鋼管が根太に沿って走り、サドルバンドで直に留めてある。保温材は巻かれていない。管は冷蔵庫の真下を通って、茶の間の畳の下へ抜けていた。千歳はドライバーの柄で管を叩いた。短い音のあとに、尾が残った。もう一度叩いて、尾の長さを数えた。 XL2を点検口の脇に置かせて、三度目を叩いた。 「六十三のとこが立ちます」蒲生が画面を見て言った。 「もう一回いきます」 「同じです。六十三」 千歳は管を握った。冷たくはなかった。握ったまま冷蔵庫の脚を見た。前は樹脂の脚で、床板に直に当たっている。ゴムも板も挟まっていない。 「蒲生くん、今夜置きます」 「泊まりですか」 「泊まります」 タミは畳を見たまま言った。 「勝手にしな。茶は出ないよ」 午後九時、軽バンから機材を運び入れた。マイクはAT4040を一本。スタンドをいちばん低く畳んで、タミが枕を置く位置から三十センチ離し、畳から二十センチの高さで、指向性を畳へ向けた。ケーブルは畳の縁に沿わせ、養生テープで押さえた。夜中に立つ人がいる家では、足の下に何も通さない。 XL2につないで、等価騒音レベルを一分ごとに記録する設定にした。あわせて一秒ごとの1/3オクターブバンドも残す。振動計はVM-83のピックアップを、点検口から腕を伸ばして給水管に磁石で貼りつけた。鋼管なので磁石が効いた。ケーブルを蓋の隙間から出して、蓋は半分だけ閉めた。 「まっすぐ帰ってください」 「まっすぐしか帰れませんよ」 蒲生は十時前に出ていった。エンジンの音が路地を出るまでに、二回止まった。 「いつもと同じに寝てください」千歳は言った。「私は台所にいます。起きても声はかけません」 「いびきを録るのはやめとくれよ」 「録れてしまいます。使いません」 タミは襖を閉めた。閉める途中で手を持ち替えて、指を挟まないようにした。 十一時にタミが布団を敷いた。千歳は台所の板の間に座り、ヘッドホンをして画面だけを見ていた。豆電球が一つ点いている。等価騒音レベルは一分ごとに三十を挟んで動いた。住宅の寝室の並び、NC-25というあたりだ。 父の六畳はもっと静かだった。あれはNC-15の並びで、七月に測ったときの数字を千歳はまだ覚えている。内寸三メートル五十一、二メートル六十一、天井二メートル二十八。テープは三十七本あって、三十六本は消してある。残りの一本は五十八分四十二秒あって、頭から終わりまで、ほとんど何も入っていない。ラベルは白紙で、何も書いていない。部屋には折りたたみの椅子が一脚あって、それだけがマイクスタンドのほうを向いていた。千歳はあの晩ノートに〇・四二と書いて、下に線を引いた。何も入っていない、と書いたのは自分だった。 零時台は何も起きなかった。 一時台も動かなかった。千歳は膝を組み替え、ヘッドホンの片耳をずらして、家そのものの音を聞いた。冷蔵庫は止まっている。壁の中で何かが軋む音が二度した。 二時十四分二十秒、ヘッドホンの中でコトッと来た。それから、耳より下のほうにブーンが乗った。千歳は画面を見た。棒が一本だけ伸びていた。六十三ヘルツのところだけが、柱みたいに立っている。 襖を開けると、タミは布団の上に起きていた。暗いままで、こちらを見た。 「聞こえたかい」 「聞こえました」 「ほらね」 「ほら、ですね」 千歳は枕の横に膝をつき、畳に耳をつけた。ブーンは頭の位置でいちばん強く、五十センチずれると細くなった。体を起こすと、ほとんど分からなくなった。座っている人には無い音だった。 七分ほどでブーンは止まった。次は二時四十九分、その次は三時二十二分。三十分あまりの間隔で、朝までに四回鳴った。 息子は八時前に来た。通勤の恰好で、鞄を提げていた。蒲生は七時半に軽バンで戻ってきて、台所の隅に折りたたみの椅子を出して座っていた。 「これを」千歳はヘッドホンを渡した。「二時十四分二十秒から流します」 息子は片方の耳にだけ当てた。それから両耳に当て直した。二十秒ほどして、口が半分開いた。 「これ、うちの、床下ですか」 「冷蔵庫です。床下は経路です」 「俺がいた晩は鳴らなかったんですよ」 「二階のベッドでは分かりません。畳に耳をつけないと聞こえない高さです」 「そんなことがありますか」 「固体伝搬音です。空気で来る音なら二階にも少しは行きます。これは床を伝わってきて、畳の面から出ています」 蒲生が画面を読み上げた。 「起動前の一分がA特性で三十。起動後の一分が三十四です」 「四dBです」千歳は言った。「四dBだと、耳には少し増えたかなくらいにしか聞こえません。アプリの数字が動かないのはそのためです」 「じゃあ気のせいってことでしょう」 「そこは違います」 千歳はバンドの画面に切り替えた。 「六十三ヘルツのバンドだけ、三十三から五十に上がってます。十七dBです。管の振動は六十二から八十一」 息子は画面を見て、それからタミを見た。タミは座卓の前に座ったまま、こちらを見ていなかった。 「もう一回やります」 千歳は冷蔵庫のプラグを抜いた。五分待った。待つあいだ誰も喋らなかった。プラグを差して、また待った。三分ほどでコトッと来た。千歳は息子の手を取らずに、冷蔵庫の側面を指した。 「ここに掌を当ててください」 息子は当てた。当てたまま動かなくなった。 「震えてます」 「その震えが、床から根太、根太から金具、金具から管へ行きます。管が鳴っているのは冷蔵庫の下ではなく、茶の間の畳の下です。だから枕のところで聞こえます」 「工事は、いくらぐらいになりますか」 「今日はしません」 蒲生が軽バンから箱を持ってきた。防振ゴムのAバネを四つ。冷蔵庫を三十センチ前へ引き出し、千歳が前の脚を回して上げ、ゴムを噛ませた。後ろはローラーなので、同じ厚みのゴムを貼った板を差し込んだ。天板に水平器を置いて、前がわずかに高くなるところで脚を止めた。扉を半分開けて手を離すと、扉は自分で閉まった。 引き出した跡に埃が固まっていた。蒲生が雑巾で拭き、乾いた海苔の缶を拾ってタミに見せた。 「これ、捨てていいやつですか」 「置いときな」 九時四分、コンプレッサが起動した。 「A特性、三十から三十一」蒲生が言った。「六十三のバンドが三十三から三十六。三dBです」 「管は」 「六十三から六十五」 千歳は息子のほうを向いた。 「昨夜は六十三ヘルツが十七dB上がっていました。今は三dBです。十dB下がると人の耳にはだいたい半分に聞こえます。ゼロにはなりません。鳴っているものを鳴らなくしたわけではなくて、床へ行く道を切っただけです」 「戻りますか」 「戻ることはあります。ゴムはへたります。三年くらいで見てください」 「二週間で戻ったら」 「そのときは、この測り方が足りなかったということです。もう一晩置きます」 千歳は床下点検口をもう一度開けて、腕を入れ、金具のところを指で押さえた。 「本当にやるなら、この金具の下にゴムを噛ませます。畳を上げるので半日かかります。今日はやりません。二週間、耳で聞いてください。それで駄目なら電話をください」 息子は座卓のパンフレットを二つに折って、鞄の脇に差した。差したまま、しばらく座っていた。 「見学の予約、来週なんです」 「そうですか」 「……そうですか、って」 「私は音の話しかしません」 タミが立って、台所へ来た。冷蔵庫の扉を開け、麦茶のポットを出して、三つコップを並べた。出さないと言っていた茶が出た。 「あんた、これ、あたしが言ってたやつと同じ音かどうか、聞かないのかい」 「聞きます」千歳は言った。「同じでしたか」 「同じだよ。ちっちゃくなったけどね」 請求書は出張と測定と部材で、蒲生が金額を書いた。工事の見積は書かなかった。息子は財布から現金を出そうとして、振込でいいと言われて、それを二度確かめた。 玄関を出るとき、タミが土間まで来た。サンダルの先で三和土を二度鳴らした。 「あんた、ああいうのは、いつも見つかるもんかい」 「見つからないこともあります」 「そのときはどうすんの」 「もう一晩測ります」 「二晩でも駄目なら」 「三晩測ります。それで無ければ、無いと言います」 タミは鼻から息を出した。 「あんた、また来な。……いや、来なくていいよ」 戸が閉まった。閉まってから、内側で錠が二度鳴った。軽バンに乗ると、蒲生がエンジンをかけて、サイドブレーキを下ろす前にクラッチを繋いで車を跳ねさせた。千歳は膝の上でVM-83のケーブルを巻き直した。巻きながら、昨夜のログの二時十四分二十秒のところに、指で印をつけた。 第十四章 三デシベル 八月十九日、午前十時。江東区東砂の、片側一車線の通りだった。幹線の渋滞を避けるトラックの抜け道になっているらしく、二トン車が通るたびに路面の継ぎ目がごとんと鳴って、その音が向かいの倉庫の壁で一度返ってきた。神谷亨の家はその通りに面した木造二階建てで、外壁のサイディングは十四年ぶん白茶けている。門柱に子ども用の自転車が二台、立てかけてあった。 玄関を開けた神谷は、Tシャツに短パンで、髪が片側だけ潰れていた。 「つづき音響です」 「ああ。上、見てくれる。話が早いほうがいいから」 サンダルのまま先に立って階段を上がっていく。四十四歳、肩幅が広い。踏板が一段ごとに鳴った。 二階の南側、六畳の寝室。道路に面した窓に内窓が入っていた。樹脂サッシの引き違い、ガラスは複層。壁は道路側の一面だけ、明らかに手前に出ている。石膏ボードを増し貼りして、クロスを貼り直した跡だった。巾木の見切りが新しい。 「去年の十月。サガラ防音ってとこ。八十万」 神谷は押入れの衣装ケースの上から書類の束を持ってきた。見積書、請求書、領収書。角印まで揃っている。 「工事は四日で終わった。で、寝てみたら変わらねえ。全然」 「全然、というのは」 「全然だよ。トラック来たら目が覚める。深夜勤明けに帰ってきて、九時に横になって、十時には起きてる」 千歳は窓際に立ち、内窓を開けて、また閉めた。レールに埃はない。引き寄せの框がきちんと戸当たりに当たっている。壁を拳の背で叩くと、詰まった音が返った。増し貼りは二枚だ。 蒲生が階段を上がってきて、三脚と黒いケースを床に置いた。 「外、据えてきました。スピーカーは車の後ろに出してあります」 千歳は三脚を部屋の中央から少しずらして立てた。壁からは一メートル以上離す。マイクの高さは床から一・二メートル。リオンのNL-42を蒲生が積分平均のモードに合わせ、時間重み付けを確かめてからスタートを押した。神谷は入口の柱にもたれて腕を組んでいた。 五分のあいだに二トン車が三台、軽自動車が七台通った。表示が止まる。 「LAeq、四十一・二」 蒲生が読み上げた。道路際、歩道から二メートルのところに立てた同じ機種は、六十八・四を出している。 「下は女房と子どもが寝てるけど、そっちは平気なんだよ」神谷は指で床を指した。「俺が寝るのが昼だから、俺だけこれなんだ。だから俺の部屋だけやってくれって、そう頼んだ」 千歳は書類の束から一枚を抜いた。A4に手書きの表。施工前、寝室中央、LAeq四十四・〇。日付は去年の十月八日。窓の閉め方まで欄外に書いてある。 「相良さん、測ってますね。前と後ろで、同じ場所で」 「そんなの見たって分かんねえよ」 「四十四が四十一です。三、下がってます」 「三?」 「デシベル」 神谷は鼻から息を出した。「それで八十万か」 「十下がって、やっと半分くらいに聞こえます」千歳は言った。「三だと、たいていの人は気のせいだと言います」 千歳はしゃがんで、ベッドの頭側の壁を見た。床から二十センチほどのところに、白い丸い蓋がある。直径は十センチ。クローゼットの脇の高い位置にも同じものがついていた。 「これ、外していいですか」 「なんだそれ」 「空気の入口です。二十四時間換気の」 蓋を回して抜くと、薄いフィルターが一枚。その奥は白い塩ビの管が壁を真っ直ぐ貫いて、外壁のフードまで抜けていた。指を突っ込むと外の空気が当たる。管の内側には継ぎ足した跡があって、増し貼りした石膏ボードの厚みぶんだけ、後から短い管が差してあった。 「延ばしてありますね」蒲生が覗き込んだ。「切りっぱなしにしてない。コーキングまで打ってます」 千歳は車からウレタンの端材を二つ持ってきて、管の口に押し込み、上から気密テープを三重に貼った。もう一方も同じにした。神谷が何か言いかけたので、五分だけです、と先に言った。 「もう一回、五分」 同じ位置、同じ高さ、同じ五分。二トン車は二台しか通らなかったが、蒲生が外の機械の値を無線で読み上げ、道路側が六十八・一で揃っていることを確かめた。 「三十三・一」 神谷が柱から背を離した。 「八、下がりました」千歳は言った。「テープを貼っただけです」 蒲生が外に降りて、荷台のスピーカーからピンクノイズを鳴らした。XL2を窓際に置いて、1/3オクターブバンドで見る。目張りありとなしの差は、五百ヘルツから二キロヘルツのあたりで大きく開いた。人の耳がいちばん敏感な帯だ。トラックのエンジンの唸りより、タイヤと路面の擦れる音のほうを、この筒は素通しにしていた。 「相良さんの壁は効いてます」千歳は言った。「効いてるぶんが、この二つで帳消しになってる」 神谷は書類の束を膝の上に置いたまま、丸い穴を見ていた。 千歳は束のいちばん下から、もう一枚の見積書を引き出した。日付は去年の九月十二日。合計は百二十四万。項目のひとつに横線が引かれている。「給気消音ボックス 二箇所 八六、〇〇〇」。線は定規で引いたものではなく、フリーハンドで、その横に赤いボールペンで「カット」と書き足してあった。角ばった書き方の字だった。領収書の受領サインと同じ字だ。 千歳は紙の向きを変えて、神谷のほうへ置いた。 神谷はしばらく何も言わなかった。エアコンの室外機が回りはじめる音が、窓の外の下のほうでした。 「……そんなもん、素人に分かるわけねえだろ」 「分かりません、普通は」 神谷は立ち上がって窓を開けた。外の音が入ってきて、部屋の中の話し声が急に小さく聞こえた。窓を閉める。また元に戻る。それを二回やった。 「開け閉めすれば分かるんだよ。効いてるって」 「効いてます」 「なのに寝てると分かんねえ」 「寝ているときに聞こえているのは、たぶんこっちです」千歳は丸い穴に手のひらを当てた。 千歳は廊下に出て、見積書の隅の携帯番号にかけた。三度目のコールで出た。 「はい、サガラ」 「つづき音響の都築と申します。東砂の神谷様のお宅にいます」 「ああ」一拍あった。「クレームですか」 「給気口が生きてます。目張りして測って、八落ちました」 「……行きます。四十分ください」 四十分より早く、白い軽トラックが家の前に停まった。相良鉄平は作業着の上を脱いで肩にかけていて、玄関で靴を脱ぐ前に、外壁の給気フードを下から見上げていた。三十九歳、手の甲が黒く焼けている。 上がってきて、まず壁を叩いた。内窓を開けて閉めて、また開けた。それから管に貼られた気密テープを見て、千歳のほうを向いた。 「四十四が四十一で、目張りで三十三?」 「はい」 「八か」 相良は笑った。ビスが空回りするような、短い笑い方だった。 それから内窓の框に指を入れて気密材の潰れ具合を確かめ、道路側の壁の下、巾木の上を人差し指の腹でなぞった。コンセントプレートを一枚外す。中の樹脂ボックスの背に、パテが押し込んであった。 「そこは埋めてあります」 「見ました」 「相良さん」神谷が言った。「話が違うだろ」 「違わないです」相良は書類を見ないで言った。「見積を削ったのは、俺じゃないんで」 「……」 「けど」相良は続けた。「削ったら三デシベルにしかならないって、その場で言えなかったのは俺です。言ったら仕事が飛ぶと思って、言わなかった。欲しかったんですよ、その現場」 神谷はもう一度、丸い穴を見た。 「うちは安いんです」相良は千歳に言うのではなく、部屋の壁に向かって言った。「安いから、削られると、削れるところから削る。壁は削れない。削ったら質量が減って、そのまんま数字に出るから。給気は……蓋しても空気は入ってきますから、お客さんには何も起きないように見える」 相良は床にあぐらをかき、管の口に顔を寄せた。ウレタンの端の毛羽立ちを指で撫でて、それから膝立ちになって、ボードの継ぎ目を爪で押した。 「つづきさんて、八広の?」 「はい」 「都築さん。巌さん」相良は爪を離した。「俺、二十七、八のころですけど、江戸川の現場で何回か一緒になって。うちみたいな安いとこは相手にされないもんですけど、あの人、測り方を見せてくれたんです。塞いで測れって。塞いで、開けて、差を見ろって」 「……そうですか」 「可愛がってもらいましたよ、都築さんには。亡くなったのは人づてに聞いて、線香もあげに行けてないままで」 「事務所、一階です。いつでも」 段取りは十五分で決まった。給気口を二箇所とも消音ボックスに替える。壁の開口を取るのと、開口の復旧とクロスの貼り直しはサガラ防音。箱はつづき音響で作る。郷田に内寸と管径を送れば五日で上がる。中はグラスウール三十二キロ、風の道は二回折る。 千歳はその場で郷田にかけた。三コールで出て、名乗る前に、はい、と言う。 「消音ボックス二つ。φ百、壁厚二百五。中はグラスウール三十二キロ、風の道は二回折りで」 「外寸」 「三百五十、二百五十、二百五十でどうですか」 「二百五十だと折れない。二百八十」 「二百八十で」 「板は」 「合板十二に、内側から石膏を一枚足したいです」 郷田は少し黙って、五日、と言って切った。 「箱、八万六千で。去年削ったぶんです」千歳が言うと、相良が首を振った。 「材料はそっちの原価でいいです。俺の手間は要らない。壁を開けるのは、去年俺が閉めた壁なんで」 「壁を開けるほうが手間です」 「だから要らないんです」 神谷が座り直した。膝の上の書類が滑って、床に落ちた。 「……それで、寝られるのか」 「四十四が、三十三くらいまで」千歳は言った。「十一です」 「十下がると半分って言ったな」 「言いました」 神谷は落ちた紙を拾って、揃えて、衣装ケースの上に戻した。 相良は玄関で靴を履きながら、神谷に頭を下げた。下げたまま、去年の測定記録は捨てないでくださいと言った。次に測るときに、あれが無いと比べられないので。神谷は、捨てねえよ、と言った。 外に出ると、路面の照り返しで足元が白かった。相良は軽トラックの荷台からメジャーを出して、外壁のフードの高さを測り、手のひらに数字を書いた。千歳は自分の野帳に、給気口二箇所、φ百、壁厚百八十プラス増し貼り二十五、と書いた。二トン車がまた通り、路面の継ぎ目が鳴った。 帰りの環七で、蒲生は右折レーンに入りそこねて二回まわった。 「ボードを何枚貼っても、穴が二つ空いてたら、そこから同じだけ入ってくるんですよね」蒲生が言った。「頭では知ってるんですけど」 「測るまでは分からない」 「塞いで測れ、でしたっけ」 「相良さんが言ってたのは、そういうことだと思う」 蒲生はウインカーを出したまま、しばらく同じ車線を走っていた。 八広に戻ったのは七時過ぎだった。冴子はもう帰っていて、事務所の机の上に、郷田宛ての消音ボックスの寸法を書いたメモが千歳の字で置いてある。 千歳は懐中電灯を持って二階に上がった。 父の部屋のドアを引くと、閉めきった室内の空気が一度だけ耳を押した。壁のスイッチを入れる。三・五一掛ける二・六一、天井二・二八。何もない床に、折りたたみ椅子が一脚たたまれて立てかけてある。 千歳は懐中電灯を天井の隅に向けた。エアコンのスリーブの脇に、白く塗装された箱がある。第十章では測るのに気を取られて、蓋を開けなかった箱だ。ビスを四本外す。 中はグラスウールが詰めてあった。風の道が二回折れている。折れ目の合板の断面に、鉛筆で寸法が書いてあった。二二〇、一八〇、内貼り二五。父の字だ。指で撫でると、糸のように細い埃が付いたが、グラスウールは痩せていなかった。 ここは、手を抜いていない。 千歳は箱の前で膝をついたまま、部屋の中を見回した。天井、壁、床。合板の面が、光を返しすぎる。 野帳を出して、七月のページを繰った。実家二階、五百ヘルツ帯、RT60〇・四二秒。その下に、自分の字で「多い」と書いてある。書いた日には、それが父の手落ちの記録のつもりだった。 同じページの端に、今日の数字を書き足した。四十四、四十一、三十三。矢印を引いて、十一。〇・四二とは、なんの関係もない数字の並びだった。 千歳は手を一度叩いた。 返ってきた音は、防音室のそれではなかった。〇・一五でも〇・二五でもなく、部屋はもっとゆっくり音を返した。もう一度叩く。同じだけ返った。 箱の蓋を戻し、ビスを四本締めた。最後の一本が締まりきる直前でドライバーの先が滑って、蓋がこつんと鳴った。その音も、思ったより長く残った。 千歳は明かりを消し、ドアを引いた。閉まりぎわに、気密材が一度だけ空気を押した。 第十五章 残響のことばかり 八月十九日の水曜、九時半に江東区塩浜へ入った。運河沿いの道は片側が倉庫の壁で日陰がひとつもなく、ハイエースを空き地の端に寄せて降りると、照り返しで安全靴の底がすぐに熱くなった。 スタジオ・ヌマは二階建ての一階部分で、鉄の扉に白いテープで貼った名前の、文字の縁が茶色く焼けていた。看板はない。 扉を引くと、中の空気が冷たかった。 「時間どおりだな」 奥から出てきたのは小柄な男で、白いシャツの袖をまくり、首にタオルを掛けていた。沼田賢作、七十一。指の関節が太い。 「つづき音響の都築です」 「聞いとる。あんたが娘か」 「はい」 「そっちのは前に来たな」沼田は郷田の手元から顔へ視線を上げた。 「二十八年前に」郷田は帽子を脱いで頭を下げた。 「二十八年か。入れ」 コントロールルームは八畳ほどで、フェーダーの並んだ机が壁一面を占め、その脇に背の高い機械が二台、埃よけの布を被って置いてある。天井は低い。壁の上のほうに横長のガラスがあって、その向こうが録音室だった。 「これだ」沼田はガラスを指の背で叩いた。「中の響きを、昔に戻したい」 「昔というのは」 「開けたころだ。昭和五十四年」 ブースの扉は重く、引くとパッキンが鳴った。中は三メートル強の四角い部屋で、床に毛足の短いカーペットが敷いてある。壁は一面だけ布張りで、残りの三面には厚い吸音パネルが天井まで並び、角にマイクスタンドが二本、畳んで寄せてあった。 千歳はコンベックスを出して、爪を蒲生に渡した。 「三一二〇」 「三一二〇」 「二六八〇。天井、二四二〇」 蒲生が野帳に数字を落とすのを待って、千歳は布張りの壁を指の関節で三か所叩いた。返ってきたのは硬い音で、下地に空きがない。パネルの端をつまんで少し浮かせると、裏から白っぽい板が覗き、孔が縦横に規則正しく並んだ上へ、布と綿が押し当ててあった。 「有孔ボード、生きてます」 「そうか」 「上から塞いであるだけです」千歳はパネルを戻した。「これ、いつやりました」 「十五年前だ」沼田は敷居に手をついた。「隣に運送屋が入ってな。朝の四時からトラックが構内に入るようになった。静かにしてくれと言って、業者を呼んだ」 「それで、中にこれを張った」 「張った。金は取られた。トラックは変わらんかった」 「トラックは外から入ってくる音です。壁の重さと隙間の話なので、中に貼る綿は関係ないです」 「今は分かる」沼田は口の端を下げた。「運送屋も三年でいなくなった。綿だけ残った」 「戻したいと思ったのは、いつからですか」 「ずっとだ。来月、昔ここで録ってた奴が来る」 蒲生が三脚を立て、マイクを部屋の中央、床から一メートル二十の高さに合わせる。小さいスピーカーを隅に置いて、天井へ向けた。沼田はガラスの向こうの椅子に座って、こちらを見ていた。 「出します」 ピンクノイズが十秒鳴って、切れた。切れたところで、尾を引かずに音が消えた。 「二五〇、〇・二一」蒲生がXL2の画面から読み上げた。「五〇〇、〇・一八。一k、〇・一七。二k、〇・一六」 「〇・一八」千歳は野帳の右の欄に書いた。 沼田がガラスを開けて顔を出した。 「死んどるだろ」 「防音室の数字です。〇・一五から〇・二五。歌だけ録る箱ならこれでいい部屋もありますけど」 「うちは箱じゃない」 空調を止めてもらって、リオンのNL-42を部屋の真ん中に立てた。三十秒のあいだ、数字は小数点以下がひとつ上下しただけだった。 「静かさのほうは、NC-15です」 「それは自慢していい数字か」 「はい」 「じゃあそこは触るなよ」 沼田はコントロールルームの棚から紙筒を出してきた。青焼きの図面が三本入っていて、いちばん外の一本を机に広げると、端が割れて粉になった。郷田が両手で重しを置いて、上から下へ一度だけ目を通し、それから太い指で仕上表の一行を押さえた。 「可動反射板。合板一二、三枚」 「あったな、そういうのが」沼田が図面を覗き込んだ。 「幅八〇〇、高さ一八〇〇。丁番で壁に付いてます」郷田は右下の余白を指した。「ここ、鉛筆で書いてある」 千歳は膝を折って、図面の右下へ顔を寄せた。薄い字で、五〇〇Hz、〇・三四、とある。日付は昭和五十四年十一月。その下にもう一行、昭和六十一年の日付で〇・三三。 「測ったのは」 「うちにいた技師だ。死んだ」沼田は図面から目を離さずに言った。「毎年やると言って、二回でやめた」 反射板は機械室の裏に積んであった。三枚のうち二枚が残っていて、下端が湿気で膨れ、合板の層が剥がれかけているが、丁番の金物はまだ生きていた。郷田は一枚を立てて、裏表を見て、床に戻した。 「作り直します」 「同じ寸法で」 「同じで」 見積は五十四万で出し、冴子は電卓を弾いて、税抜きの行を二度打ち直した。 「六十で出しなさい」 「五十四で足ります」 「足りるかどうかの話じゃないの。撤去の処分費が抜けてる」冴子はペンで行を指した。「グラスウールの廃棄、袋いくつ出るの」 「十五か、二十」 「ほらね」 八月二十二日の土曜は九時に入り、ブースの床にブルーシートを敷いて、扉の枠に養生を巻いた。パネルはタッカーの針で留めてあったので、バールの先を差し込んで一枚ずつ起こしていく。針が抜けるたびに乾いた音がして、粉が落ちた。千歳と郷田はマスクをして、蒲生はその上から目にゴーグルを掛けた。 二十枚目で有孔ボードの面が壁一枚ぶん出て、孔が縦に並んだまま天井まで続いている。蒲生が掌で撫でて、指を一本、孔に入れた。 「社長、これ、後ろが空いてます」 「そのままにして」 「詰めなくていいんすか」 「今日は減らす日」 千歳は野帳に手順を書き足しながら、線を二本引いて消した。吸音を足す図面なら十二年書いているが、減らす図面を書いたのは初めてだった。 カーペットは全面を剥がさず、マイクの立つ位置の周りだけ、幅一メートル二十の帯で残した。剥がしたところから合板の床が出てきて、そこだけ色が濃かった。 昼を過ぎて、郷田が作業場から運んできた合板を切りはじめた。一二ミリ、八〇〇掛ける一八〇〇が三枚。丸鋸が止まるたびに切り口を親指の腹でなぞって、次の一本を挟む。刃が板に入っているあいだ、コントロールルームのガラスが枠の中で細かく鳴っていた。 三時前に蒲生が氷を買いに出て、郷田は延長コードを肘にかけて巻き取っていた。沼田はブースの敷居に折りたたみの椅子を置いて、そこに座っている。千歳は剥がした布を丸めて紐で縛っていた。 「巌さんは最後のころ、うちに残響のことばかり聞きに来たな」 千歳は紐の端を持ったまま顔を上げた。 「いつですか」 「亡くなる年と、その前だ。秋口から、ぽつぽつ」 「二〇二二年と、二〇二三年」 「そういう数え方はせんが、まあそうだ」 「何回ですか」 「六回か、七回か。一遍だけ、日曜に来た」 「何を聞かれたんですか」 「残響だ。それも、伸ばすほうの話ばかり」沼田はタオルを首から外して、顎の下を拭いた。「短くするのは誰でもできるだろ。詰めればいいんだから。伸ばすとなると、材料を減らすか、板を入れるかしかない。あんたが今日やってることだ」 千歳は丸めた布を足元に置いた。 「六畳くらいの部屋で、どこまで伸ばせるかと聞かれた。天井が二メートル二、三十しかないと言うから、それなら板を立てろと言った。角度をつけて、動くようにしとけと」 「六畳」 「そう言っとった」 「うちは住宅屋です」千歳は紐を巻いた手を止めずに言った。「住宅で、響きを伸ばしてくれという注文は来ません」 「来んだろうな」沼田は膝に肘を置いた。「あの人、住宅の残響なんか商売にならんのに、なんであんなに知りたがったんだろうな」 「何か書いてましたか」 「書いとった。手帳に鉛筆で。細かい字で」 「その手帳は」 「持って帰るだろ、自分のだ」 「誰かと一緒でしたか」 「いつも一人だ」 「仕事の話は出ましたか」 「せん。金の話もせん。茶も飲まん」 千歳は紐の余りを切ろうとして、ハサミの刃が二度で入らなかった。 「一遍だけ、妙なことを聞かれた」沼田は敷居の縁を指の腹で叩いた。「数字が同じなら、同じに聞こえるはずだろう、と」 「はい」 「同じ数字が出てるのに、前と違って聞こえることがあるか、と」 「なんて答えたんですか」 「部屋は変わっとらん、と答えた。それだけだ」 沼田は椅子の脚を少し引いた。 「終いのころは、数字を俺に読ませたな。自分の耳で聞かんで、俺の口で聞く。前はそんな人じゃなかったが」 「父は、耳が」 「知らんよ。俺は医者じゃない」 「心当たりはないですか。何のために聞いてたか」 「無い」 「一度も言わなかったんですか」 「言わん人だろ、あの人は」沼田は千歳を見た。「あんたのほうが知ってるんじゃないのか」 扉が開いて外の熱が入り、蒲生が氷の袋を提げて戻ってきた。扉が閉まった。沼田は椅子を畳んで壁に立てかけ、コントロールルームへ入っていった。 六時前に片付けて出たが、永代通りが動かず、門前仲町の交差点を抜けるのに二十二分かかった。郷田は助手席で野帳を膝に載せ、明日ぶんのビスの本数を鉛筆で書いていた。 「郷田さん」千歳は前を見たまま言った。「父が沼田さんのところに通ってたの、知ってましたか」 「知らん」 「二二年の秋から、二三年の夏まで。六回か七回だそうです」 郷田は鉛筆を止め、それから窓の外の看板を見て言った。 「二二年の秋なら、俺は北千住の現場だ。先代は事務所にいる日が多かった」 「一人で出てましたか」 「一人だ」 後ろの席で、蒲生がゴーグルを袋に戻す音がした。信号が変わって、荷台で合板の端材が一度だけ滑った。 七月に、千歳は自分の家の二階を測っている。野帳の見開きに、五〇〇、〇・四二、と書いてある。防音室で〇・四二は長く、吸音材が足りていない。父が最後まで手を抜いた部屋だ、とその下に書いて、線を引いた。定規を当てずに引いたので、線は途中で曲がっている。 翌日の日曜、郷田が反射板を吊り込んだ。丁番の位置を図面から拾って壁に墨を出し、上から順にビスを入れる。三枚とも、閉じれば壁と面一になり、開けば部屋の中へ角度がつく。蒲生が下で押さえ、郷田が上を留めた。締める前に一度、蒲生が指を挟んで「すいません」と言った。 十時半に、三脚を水曜と同じ位置へ立てた。同じ隅にスピーカーを置いて天井へ向け、沼田はガラスの向こうの椅子に戻った。 「出します」 ピンクノイズ。十秒。切る。 「二五〇、〇・三三」蒲生が読んだ。「五〇〇、〇・三一。一k、〇・三〇。二k、〇・二八」 「〇・三一」 「三つ足りん」沼田がガラスを開けて言った。 千歳はブースに入って、反射板を三枚とも十五度ずつ開いた。それから床に残したカーペットの帯を、幅一メートル二十から八十に切り詰め、切った端をシートに包んで外へ出してから、扉を閉めた。 もう一度、ピンクノイズ。 「二五〇、〇・三六。五〇〇、〇・三四。一k、〇・三三。二k、〇・三一」 千歳は青焼きの余白の鉛筆を見た。〇・三四。 「合いました」 沼田はブースに入って扉を閉め、ガラス越しに、部屋の真ん中へ立つのが見えた。手を一度叩いた。それからもう一度叩いた。三度目は叩かずに、天井を見上げていた。四十秒ほどして扉が開いた。 「これだ」 「ついでに、そっち側の漏れは直るか」沼田がガラスを指した。 「直りません。この壁は合板なので、二千ヘルツのあたりで遮音が谷になります。塞ぐなら板を重ねる工事で、別の見積です」 「じゃあいい。中でやってるんだ、漏れていい」 沼田は帰り際、機械室の裏の古い反射板を二枚とも捨ててくれと言った。郷田は一枚だけハイエースに積んで、もう一枚は業者の袋に入れた。理由は言わなかった。 事務所に戻ったのは五時前で、冴子は精算の封筒を机の端に並べていた。 「江東、終わったの」 「終わりました」 「処分費、袋十九だって郷田さんから」 「十九でした」 千歳は野帳を自分の机に置いた。 「父の車のガソリンのレシートで、二〇二二年のって残ってます?」 冴子の手が止まった。封筒の口を折って、机に置く。 「あるけど。倉庫の段ボール、下から二段目」 「日付、見ていいですか」 「いいけど」冴子は次の封筒を取った。「何を探すの」 「まだ分からない」 「分かってから言って」 事務所の電気を消したのは十時前だった。事務所は実家の一階だから、廊下を抜けて階段を上がればそのまま二階になる。千歳は野帳を持って上がった。 いちばん奥のドアは把手が面に沈んでいて、指をかけて引くのに力がいる。中の空気は乾いていて、埃のにおいがしなかった。 棚のDA-P1の横に、テープが三十七本、背を揃えて並んでいる。三十六本には消去済みの札が貼ってあり、一本だけラベルが白い。 千歳は野帳を開いて、七月のページと今日のページを、床に並べて置いた。〇・四二。〇・三四。 壁に立てかけてある折りたたみ椅子を開いて、部屋の真ん中に置いた。座らなかった。 手を一度叩いた。ぱん、のあとに尾がついてきて、床の上をひと回りしてから消えた。 ドアを閉めた。パッキンが鳴って、廊下の音が戻ってきた。 第十六章 伝票 八月二十七日は木曜だった。夜のうちに風が出て、朝になっても止まなかった。事務所の窓を閉めていても、京成の高架を渡る電車の音がいつもより近くに来る。千歳は六時半に階段を下りて、机に積んだままの請求書をどけ、天板を布巾で拭いた。 前の週に江東区のスタジオ・ヌマで沼田賢作から聞いた言葉が、まだ頭に残っている。巌さんは最後のころ、うちに残響のことばかり聞きに来た。沼田はブースの床にしゃがんだまま、手のひらで壁を二度叩いてそう言った。千歳はその場では何も書かず、帰りの車で、バインダーの端に日付だけ書いた。 冴子は七時四十分に来る。自転車を物置の軒下に入れ、鍵束を二回鳴らし、それから玄関を開ける。順番は千歳が代を継いでから一度も崩れていない。 「おはようございます」 「暑い」 冴子は保冷バッグを流しに置いて、扇風機の首振りを止めた。風を自分の背中に固定してから座る。 「二〇〇九年の伝票って、残ってますか」 「何月」 「三月」 冴子はパソコンの電源を入れた。画面がつくまで千歳のほうを見なかった。 「紙しかないよ。ソフトに入れたのは二〇一四年から」 「紙でいいです」 「物置の奥。脚立いる」 物置はブロック塀に沿って建てた小屋で、屋根はトタンだ。中は測定器のケースと養生材で埋まっていて、その上に段ボールが天井近くまで積んである。冴子が脚立に上がり、上から二段目の箱を千歳に渡した。側面に油性ペンで「H20〜H22」とある。埃を払うと指の腹が灰色になった。 新聞紙を床に敷いて開けた。複写の伝票綴りが年度ごとに麻紐で縛ってある。紙は黄ばんで、綴じ穴のまわりだけ茶色い。紐をほどくと、埃ではない乾いた匂いがした。 二〇〇九年は三冊あった。千歳は一冊目をめくって、日付だけを追った。一月は少ない。二月は多い。学校の工事が三件重なって、月末に集金の控えが並んでいる。 三月に入って四枚目だった。 白鳥様邸 内装工事一式 ¥0 金額の欄はゼロが一つで、そのうしろに横線が一本引いてある。工期も、内訳も、担当者の欄も空だった。書いたのは巌の字で、青のボールペンの筆圧が複写の二枚目まで残っている。千歳は綴りを膝の上に置き直して、その一枚だけをもう一度読んだ。 「これ」 冴子は横から覗いて、三秒見た。 「社長の字」 「読めます」 「あたしが入る前の話」 冴子は今でも巌を社長と呼ぶ。千歳が代を継いでからも直さなかった。 巌の伝票は内訳が細かい。壁一枚でも、下地、ボード、遮音シート、パテ、クロスと行を分けて書く。千歳が現場に出はじめたころ、一式と書くなと言われたことがある。あとで誰が見ても手順が追えるように書け、と言われた。 この一枚だけが一式だった。 同じ月の材料伝票が二枚あった。石膏ボード15mm 910×1820が十六枚、遮音シート1.0mmが二本、グラスウール32Kが四枚、それに気密パッキンとコーキング。納品先の欄は「墨田区八広3-」まで書いてから番地の途中が二重線で消され、その横に別の番地が書き足してある。書き足したほうも同じ青だった。 六畳一間ぶんの材料だった。 千歳は携帯で三枚を撮った。フラッシュを焚くと複写のカーボンが光る。窓際まで持っていって、光の当たる角度を変えて撮り直した。 この家と隣は、もとは一棟の二軒長屋を、それぞれ別に改築したものだ。境の壁は一枚しかない。二階の千歳の部屋も、居間も、その壁に接している。千歳が最後にその家の玄関に立ったのは高校生のときだった。 千歳は伝票を綴りごと開いたまま、新聞紙の上に置いた。 八時半に蒲生が来て、ハイエースに脚立を積む音がした。続いて郷田が入ってきた。二人はその日、東向島の店舗の下見に出ることになっている。 「二〇一九年の夏、仕入れの控えって紙で残ってますか」と千歳は聞いた。 「ソフトには入ってる」と冴子が言った。「控えは紙。六月から九月?」 「はい」 冴子は書棚の下から緑のファイルを出し、三枚抜いた。抜く場所を探さなかった。 七月十九日、八月二日、八月九日。三枚とも納品先は事務所で、品名と数だけが並んでいる。 石膏ボード15mm 910×1820 五十二枚 石膏ボード12.5mm 910×1820 二十六枚 遮音シート1.0mm 940×10m巻 五本 浮き床用グラスウールボード25mm 六枚 防振ゴム Aバネ 二十四個 防音ドア(気密) 一本 シナ合板12mm 910×1820 三枚 長丁番900 六本 マグネットキャッチ 六個 グラスウール32K 50mm 910×1820 八枚 蒲生が電卓を出して、千歳の机の角に肘をついた。 「部屋の内寸、三・五一掛ける二・六一、天井二・二八でしたよね」 「はい」 「床が九・一六。天井も同じ。壁は周りが十二・二四だから、掛ける二・二八で二七・九一」 「合計は」 「四六・二三平米。容積は二十・九です」 「遮音シートは」 蒲生が数字を打ち直した。 「九四〇幅の十メートル巻が五本。四七・〇。内側全部に貼って、端がちょっと足りないくらいです」 「32Kは」 蒲生は電卓を叩いてから、一度手を止めた。 「一枚が一・六五平米。八枚で一三・二です」 「四六・二三に対して」 「二割八分」 蒲生は電卓を置いて、伝票を裏返した。裏は白い。 「浮き床のボードは別勘定ですよ。二五ミリの六枚は、床九・一六にちょうど載ります。あれは吸音じゃないから」 「分かってます」 「社長」と蒲生が言った。「なんで今、七年前の仕入れなんですか」 千歳は答えなかった。蒲生はそれ以上聞かずに、電卓を作業ズボンのポケットに戻した。 壁の中に詰めるぶんだけでも足りない。石膏ボードを二重に張った壁と天井の空洞は、それだけで三七平米ある。千歳は緑のファイルを最初から見た。八月九日のあとに仕入れはない。九月のページも見た。32Kの行はどこにもなかった。 七月に千歳はこの部屋を測っている。五百ヘルツ帯の残響時間が〇・四二秒だった。防音室は普通、〇・一五から〇・二五に収める。あのとき千歳は、父が材料を惜しんだのだと思った。一人でやって、途中で面倒になったのだと。 伝票には端数がなかった。一梱包、八枚。追加なし。途中で面倒になった人間の買い方ではない。 給気と排気の消音ボックスにも32Kが入っている。二年前に蓋を開けて確かめた。あのぶんを引けば、部屋の面に貼られた吸音材はもっと少ない。 千歳はコピーの余白に、四六・二三と一三・二と書いた。二つの数字を線では結ばずに置いた。 郷田が伝票を受け取って、上から下へ一度だけ目を通した。太い指が下から四行目で止まった。 「板が三枚、丁番が六本」 「一枚に二本ずつ」 「開くな、これ」 郷田は伝票を返した。 「ドアはおれが手伝った。盆の中日だ。二人でねえと吊れねえから、呼ばれて、吊って、帰った」 「中は」 「壁はもう出来てた」 「何か入ってましたか」 「空だった。椅子もまだ無え」 「盆の何日ですか」 「十五だ。朝から雨だった」 それだけ言って、郷田はヘルメットを取って出ていった。ハイエースが路地を出ていく音がして、それから風の音に戻った。 合板は硬い。十二ミリの合板は二千ヘルツあたりで遮音が谷になるから、内側の仕上げに使う材料ではない。石膏ボードの上に布を張るか、有孔ボードを使う。千歳が見てきた現場はどれもそうだった。 その合板が三枚、開く。 千歳は三枚をコピーして原本をファイルに戻し、机の二番目の引き出しから鍵を出して階段を上がった。 防音ドアは押すと最後の三センチで空気が抜けるような手応えになる。中に入ると外の音が段ちに落ちた。風もトタンも入ってこない。棚にはDA-P1が置いたままで、KM184が二本スタンドに載っている。テープの背が三十七本、揃って並んでいる。 壁は薄いベージュのクロスで、継ぎ目が見えない。千歳は靴下のまま床に立って、人差し指の第二関節で壁を叩いた。腰の高さで、三十センチずつ横に移りながら、北側の端から。 コツ、コツ、コツ。二重張りの石膏ボードは詰まった音がする。三回目で音が変わった。乾いて、少し高い。もう三十センチ動かすと元に戻った。変わっている幅は九十センチほどだった。 同じ壁をもう一往復した。二か所目は最初の位置から一メートル二十ほど離れていて、幅は同じだった。ドアの正面の壁にも一か所ある。床から測ると、三つとも下端の高さが揃っていた。 三つあった。 千歳は爪をクロスの表面に立てて目地を探した。継ぎ目は縦に走っていて、指の腹では分からない。下の隅に爪を掛けて手前に引くと、五ミリだけ動いて、磁石が離れる音がした。 隙間から中を見た。合板の裏だった。桟が二本、木のまま渡してある。何も貼っていない。グラスウールは一枚も入っていない。 押し戻すと、また磁石が付いた。爪の先に白い粉がついていた。石膏ではなく、木の粉だった。 千歳は椅子に座らずに部屋を出た。階段の途中で、一階の冷蔵庫が回りはじめた。 夕方、蒲生と郷田が戻ってきて、下見の写真をパソコンに落とした。六時に二人が上がり、冴子が売掛の入力を始めた。千歳は事務所の奥の机の前に立っていた。巌が使っていた机で、今は見積書の控えが積んである。 「冴子さん」 「うん」 「父は、あの部屋のことで何か言ってませんでしたか」 「何も」 キーボードの音が続いた。千歳は控えの角を揃えた。 「二〇二三年って、父、どんな感じでした」 冴子の手が止まって、また動いた。 「電話が駄目になってた」 「駄目、というのは」 「相手の名前を二回聞き返す。会社名も。三回のときもあった」 「いつごろからですか」 「春。四月か五月。最初は向こうの声が小さいんだと思ってた。そのうち誰の電話でもそうなった」 「現場では」 「普通。郷田さんとは普通に喋ってた。あの人、声が大きいから」 冴子は伝票を一枚めくって、数字を打った。 「見積もりの読み合わせ、あの年から電話でやらなくなったでしょ。あたしが紙に打ち直して渡すようにしたから」 「知りませんでした」 「言ってない」 「秋は」 「呼び出しが鳴っても出なくなった。二回鳴らして、あたしの顔を見る。あたしが出て、要件を紙に書いて渡す。紙だと分かるのよ、あの人。字は小さくしなかった。目は良かったから」 冴子はマウスを動かして、画面を一段送った。 「十月に、机の前のカレンダーの余白に自分で書いてた。もう一度、って。誰に言われたのか知らない」 「耳鼻科は」 「一回だけ予約した。あたしが取った。行かなかった」 「怒りました?」 「怒鳴られた。だから二回目は取ってない」 「その話、郷田さんは」 「知ってる。あの人は何も言わない。声だけ大きくした」 その年、千歳は月島の現場に半年入っていた。現場から事務所に電話をすると、巌は用件を二度言わせた。千歳は電波のせいだと思っていた。地下の駐車場からかけることが多かったからだ。二度目は声を張って言った。それで通じた。通じたから、それきりだった。 六月に足立区の堀田の家へ行ったとき、千歳は補聴器外来のある耳鼻科を三軒書き出して芳江に渡している。テレビの音量が本人の自覚より大きくなること。聞き返しが増えること。家族が先に気づくこと。紙にそう書いて、読み上げて、玄関で靴を履いた。 「なんで言わなかったんですか」 「社長には言った。二回」 「私にです」 冴子はディスプレイから目を離さなかった。 「気づいてると思ってた」 「気づいてませんでした」 「今の顔見れば分かる」 冴子は入力を続けた。伝票をめくって、数字を打って、また一枚めくる。 「あたしは電話の声しか聞いてない。あんたは現場でしか会ってなかった。それだけの話」 千歳は何か言おうとして、やめた。 「謝らないよ、あたしは」 「はい」 「それより判子。今月の労災、期限あした」 千歳は印鑑を出して、朱肉に当てて、書類の枠に押した。蓋を閉める音が小さく鳴った。 巌の机の端に、電話の子機が充電台に載っている。親機は冴子の机で、子機はこっちに置いたままだ。千歳は子機を取った。側面に音量のつまみがある。小、中、大の三段のうち、大の位置で止まっていた。 通話ボタンを押した。発信音が出た。事務所の端まで届く音量だった。冴子が顔を上げて、こちらを見た。 千歳は切って、子機を充電台に戻した。戻るときに短い電子音が鳴った。 床の新聞紙の上で、二〇〇九年の綴りは三月のところで開いたままになっていた。外で風が向きを変えて、物置のトタンが一度鳴った。 第十七章 隣の家 九月の水曜、午前十時前。千歳は自分の家の玄関を出て、右に三歩あるいた。それで隣の門の前だった。白鳥の表札は千歳が高校のころと同じ木のままで、字だけが薄くなり、下のほうに縦の割れが一本入っている。門柱の上に、底の錆びた植木鉢がひとつ。土は乾いている。 二軒はもとが一棟の長屋で、真ん中で切って別々に建て替えてある。こちらは二階を継ぎ足し、あちらはそのままにした。外壁の色は違う。それなのに棟の線だけがまっすぐ繋がっていて、雨樋の位置も、庇の出も、二軒ぶんが一本の定規で引いた通りに揃っている。境の壁は一枚しかない。三十四年住んで、それを図面として見るようになったのは仕事に入ってからだ。 ポケットに、先月冴子が引っぱり出してきた伝票の写しが入っていた。二〇〇九年三月。白鳥様邸 内装工事一式 ¥0。父の字で、金額の欄の0だけが妙に丸い。冴子はそれを机に置いたとき、社長は控えを残す人じゃなかったのに、これだけ綴じてありました、とだけ言って、こちらが何か言うのを待たずに事務所を出ていった。千歳は二週間、それを引き出しに入れたままにしていた。 二階の六畳には、七月に測った数字がそのまま残っている。残響〇・四二秒。防音室としては長すぎる。DATが三十七本あって、三十六本は消してある。残った一本は五十八分四十二秒で、頭から通して聴いても何も入っていない。父のした仕事は、どれも前後がつながらない。 インターホンを押した。 出てきたのは果穂だった。髪を後ろで束ねて、色の褪せたスウェットを着ている。玄関の三和土に、女物のスニーカーが二足と、介護用の滑り止めのついたサンダルが一足。 「都築さん」 「白鳥さん、久しぶり」 「果穂でいいよ。三年間おんなじ教室にいたのに、いま名字で呼ばれると背中がかゆい」 「じゃあ千歳で」 「知ってる。ずっと壁の向こうにいたし」 奥から声がした。だれ、と誰何する調子ではなく、聞こえたから返しているだけの声だった。 篤子は居間の座卓で梨をむいていた。膝に新聞紙を広げ、小さい果物ナイフを使っている。皮が途中で切れると、切れた分を新聞紙の端に寄せてまた続け、四つに割った実を皿へ並べ、芯だけを新聞紙の真ん中に集めた。千歳が名乗ると、顔を上げずに座布団を指した。 「大きくなったね、と言うところだけど、あんたはもう三十いくつだろう」 「三十四です」 「うちのと同い年か。座んなさい」 線香の匂いはしなかった。仏壇の前に洗った湯呑みが伏せてある。千歳は座卓に、伝票の写しを置いた。篤子は眼鏡を掛けずに一度見て、それから眼鏡を掛けて、もう一度見た。 「奥の部屋だよ、これ」 「奥」 「じいさんの寝てた六畳。いまは私が寝てる」 篤子は梨を一切れ、爪楊枝も刺さずに皿へ置いた。 「あんたのお父さん、うちからは一円も取らなかった。請求書を出してくれって何遍も言ったんだよ。そのたびに、うちの音ですから、って」 「父が、そう言ったんですか」 「気にしないで眠れるようになれば、それでいいんですって。工事屋がそんなことを言うかね」 果穂が台所から茶を運んできて、湯呑みを二つ置いた。自分の分は持ってこなかった。千歳は伝票の写しの端を指で押さえたまま、湯呑みには手をつけなかった。 「苦情を出したのは、お母さんじゃなかったんですか」 「私じゃないよ」 篤子は皮を新聞紙にまとめながら言った。 「うちの父。当時八十一。もう寝るのと起きるのの区別がつかなくなっててね。夜中に起きて、朝方にうとうとして、そのうち昼も夜も眠れないって言い出した。腹が立つと壁を叩くの。あんたのところの壁じゃなくて、自分ちの壁を」 千歳は膝の上で手を組み替えた。 「暮れに、一人でそっちの玄関に行ったんだよ。私が風呂に入ってる間に。あとで知って、菓子折を持って謝りに行った。あんたのお母さんが出てきて、こちらこそって、玄関先でずっと頭を下げてた」 篤子はナイフの刃を新聞紙で拭いた。 「言っとくけどね、父は耳がいいわけじゃない。補聴器を勧めても付けなかったくらいだよ。眠れないから、なんでも気になるだけ。冷蔵庫でも、雨樋でも、うちの階段でも。たまたま、あんたのが一番はっきりしてただけさ」 二〇〇八年の十二月だ。千歳はその晩、二階にいた。玄関で低い声が長く続いて、母の相槌が何度も挟まっていた。何を言われているのかは分からず、降りていって確かめもせず、問題集の同じ行を三度読んで、明かりを消した。翌日、父は夕食のあとで、弾くのは夕方六時までにしよう、とだけ言った。理由は言わなかった。千歳も聞かなかった。 「見せてもらっていいですか。奥の部屋」 「散らかってるよ」 「壁だけ見ます」 奥の六畳は、南に小さい窓、東が境の壁だった。布団は畳んで隅に寄せてある。千歳はまずドアを見た。大建の防音ドアだった。枠が太い。下端に気密の金物が仕込んであり、戸当たりのゴムは四方に回して、四隅の継ぎ目まで切らずに一本で通してある。開けると、丁番のあたりで空気が押される音がした。閉めると、耳の奥が少し詰まる。 千歳はしゃがんで、ドアの下端に指を這わせた。ゴムが潰れているが、切れてはいない。指の腹に埃がついた。面積比で一パーセントの隙間があれば、それだけで遮音は十デシベル落ちるから、壁をどれだけ重く作っても、床から一センチの帯に持っていかれる。十七年ぶんの開け閉めで、ここが最初に駄目になる。 千歳は壁に近づいて、拳の側面で三か所を叩いた。高い音が返ってこない。ドッ、という詰まった音だけがして、余りが残らない。押入れの襖を開けて中に入り、天井際のクロスが剥がれているところへ指を差し入れると、石膏ボードの白い切り口の下に、黒い縁が一本見えた。遮音シートだ。ボードは重ねてある。二枚。 面密度が二倍になれば、遮音はおよそ六デシベル上がる。壁を重くするというのは、要するにそれだけのことで、施主に見せられる派手なところがひとつもない。 エアコンのスリーブは埋め戻してあった。給気口のレジスターは、外して覗くと奥がまっすぐ抜けていない。箱に入って一度曲がっている。消音ボックスだ。ドライバーを借りてコンセントのプレートを外すと、ボックスの背面に詰め物がしてあり、スイッチ側も同じだった。 音の抜け道を、全部潰してある。 「千歳」 果穂が敷居のところに立っていた。 「なにか分かるの、それで」 「まだ触ってるだけ。測る」 軽バンからNTi AudioのXL2と、電池で鳴るスピーカー、三脚、ケーブルを出した。マイクに校正器をかぶせ、基準音を入れて感度を合わせる。ずれは〇・一。数字が合ったのを確かめてから、自分の家の玄関を開けて、居間にスピーカーを立て、境の壁から一メートル、高さ一・二メートル、壁に正対させた。 居間には何もない。座卓と、テレビと、床に三つのくぼみ。 千歳はスピーカーの前でしゃがんで、ピンクノイズを鳴らした。壁のこちら側を、拳で一度叩いてみる。乾いた高い音が返った。石膏ボード一枚。二〇〇八年のままだ。 XL2を胸の高さに構えて、五か所で止めた。五百ヘルツ帯、九十一・六。八十ヘルツ帯、八十八・二。二千五百ヘルツ帯、八十九・〇。数字を野帳に書いて、玄関を出て、隣の門をくぐった。 奥の六畳では、ピンクノイズは聞こえなかった。耳を壁につけると、遠くで風が吹いているくらいの音がある。 「これ、持ってて」 果穂に野帳とボールペンを渡した。 「読むから書いて。小数点まで」 「一桁?」 「一桁」 まず、スピーカーを止めた状態の暗騒音を測った。二十七・四。住宅の寝室として静かなほうだ。NC-25。窓の外を軽トラックが通ったので、その分は捨てて測り直した。 もう一度、隣の家の居間でピンクノイズを鳴らしてから戻り、ドアを閉め、部屋の中央に立って、マイクを持つ手を体から離した。手は動かさない。 「五百ヘルツ帯、三十四・八」 「さんじゅうよん、てん、はち」 「八十ヘルツ帯、四十一・〇」 「よんじゅういち、てん、ぜろ」 「二千五百ヘルツ帯、三十七・二」 果穂のペンが紙をこする音が、部屋の中でやけに大きく聞こえた。 千歳は野帳を受け取って、二つの列を引き算した。五百ヘルツ帯で五十六・八。八十ヘルツ帯は四十七・二しか落ちていない。中空層の共鳴で、低いところは必ず浅くなる。二千五百ヘルツ帯もわずかに凹んでいて、十二・五ミリの石膏ボードがそのあたりで遮音の谷を作るのは避けようがなく、父はそれを承知でボードを重ね、面密度のほうで稼いでいる。安い手だ。 差の並びを、D値の線に当ててみた。どの帯域も、D-55の線の上にいた。 ピアノを弾く部屋に要る等級だ。 「なんて書けばいい?」 「D-55」 「でぃー、ごじゅうご」 「よく分かんない」 「十デシベル下がると、人の耳には半分くらいの音量に聞こえる。ここは五十以上落ちてる」 「半分の、半分の、半分の」 「そう。隣で普通に弾いても、布団の中までは届かない」 マンションの界壁でD-45から50。この部屋はその上にいる。父は隣の家の寝室に、ピアノ室の等級を入れていた。 果穂は野帳を見たまま、しばらく黙っていた。それから、畳の目のほうを見た。 「聞こえてたよ、ずっと」 「うん」 「私の部屋、二階のこっち側だから。夕方になると始まるの。同じところばっかり間違えるでしょ。三小節くらい戻ってやり直して、また同じところで引っかかる。あれ聞いてると、自分の宿題が進むんだよね」 「うるさかったでしょう」 「うるさくないよ。六時になるとぴたっとやめるし。時計より正確だった」 千歳はXL2の画面を落として、ケースに寝かせた。ケーブルを肘に八の字で巻いた。 「三月から、急に鳴らなくなった」果穂が言った。「工事の音が終わって、養生のテープを剥がして、掃除機かけて、都築のおじさんが帰っていって。それからだよ」 「同じ月」 「うちの壁がよくなったからだと思ってた。ずっと。今日まで」 篤子が廊下から顔を出して、梨を食べないのかと言った。果穂は返事をしなかった。 「壁のせいじゃない」千歳は言った。「弾くのをやめただけ」 「なんで」 「弾かなくても、べつに、何も起きなかったから」 自分の声が、この部屋の中では短く切れて落ちるのが分かった。ドアを閉めた六畳は、そういう鳴り方をする。残響は測るまでもない。 「私、聞こえなくなって、寂しかったよ」 果穂は千歳のほうを見ずに言った。ボールペンのノックを二回押した。 「言えばよかったのかな」 「言われても、たぶん弾かなかった」 「そっか」 篤子が廊下から入ってきて、三脚をよけて座った。片手を畳につき、腰が下りきるまでに息を二回ついた。 「あんたのお母さん、その年の秋に亡くなったろう」 「十月です」 「そう。だからこの部屋の話は、それきりになった。うちも、そっちも」 「工事は、何日かかりました」 「四日か、五日。朝の九時に来て、五時前には片づけて帰った。うちの父を起こさないように、うるさい機械は昼のあいだだけね。もう一人、手の大きい年寄りが来てたよ。ろくに口をきかない人」 郷田だ。当時は五十いくつで、まだ年寄りではなかったはずだが、千歳は訂正しなかった。 「父は、この工事のこと、私に何も言いませんでした」 「言うような人かね」 篤子は畳の縁を指でなぞってから、続けた。 「じいさんはね、工事のあと、よく眠るようになったよ。夜中に壁を叩かなくなった。ありがとうくらい言えばいいのに、あの人は、静かになったのは自分の耳が遠くなったからだと言い張って死んだ」 千歳は三脚をたたんだ。脚の一本が、畳に浅く跡を残した。 「二〇一九年に、うちの二階に部屋を作ったのはご存じでしたか」 「トラックが停まってたね。土曜も日曜も。あの人、一人で運んでた」 「何か言ってましたか」 「言わないよ。会えば天気の話しかしない人だった」 篤子は梨の皿をこちらへ押した。千歳は一切れ取って、そのまま持っていた。 帰りは、玄関まで果穂が出てきた。スニーカーの踵を踏んで、外まで一緒に出る。境の壁の外側を、二人で見上げるかたちになった。継ぎ目のない棟の線が、二軒ぶん続いている。 「いつ戻ってきたの」 「去年の春。母が風呂場で転んで、しばらくのつもりで来て、そのまま」 「そう」 「戻ってきて、夜に静かすぎて驚いた。ここ、こんなに音がしない家だったっけって」 千歳は境の壁を指した。モルタルは上まで塗り直されていて、どこまでが父の工事だったのか、外からは分からない。 「また来ていい?」 「隣だし」 「そうだった」 自分の家に戻ると、居間のスピーカーがまだ壁に正対して立っていた。電源だけが入っていて、何も鳴っていない。 ピアノは二〇一〇年に売った。母が死んだ翌年で、業者が二人で来て、毛布を巻いて、玄関の框を養生してから運び出した。父はその日、現場に出ていていなかった。夕方に帰ってきて、空いた場所を見て、飯は、と聞いた。 千歳はケーブルを巻き取って、三脚をたたんだ。脚の一本が、床の三つのくぼみのうちのひとつに嵌っていた。ピアノの脚の下に敷いていた受け皿の跡で、十六年たっても木が戻っていない。抜くときに、床板が軽く鳴った。 壁の向こうで、二度、叩く音がした。 千歳は手のひらを壁に当てて、同じ高さを二度、叩き返した。石膏ボード一枚の壁は、乾いた高い音で鳴った。 第十八章 倉庫 隣から戻った晩、千歳は懐中電灯とアルミの定規を持って二階へ上がった。階段の三段目が、踏んだ足の下で鳴った。いちばん奥のドアを引くと、七月に剥がした布が長い壁の下半分から垂れたままになっていて、合板の下端が四十ミリ浮いた分だけ、その裏の暗がりが細く見えている。千歳は布を持ち上げて、上の縁に洗濯ばさみで三か所留めた。壁ぎわの畳が出た。 八月に自分で開いた折りたたみ椅子が部屋の真ん中に立ったままで、畳に残った脚の跡は四つとも角ばっていて、丸くない。懐中電灯を畳の面に寝かせて光を横から這わせると、目の筋の向こうに、丸い影が四つ並んだ。 膝をついた。 巻尺の爪を縁に当ててひとつの直径を測ると八十で、アルミの定規を二つのくぼみに渡し、小さいスケールを立てて底まで読むと六ミリあった。手前のもう一つも六ミリ、奥の二つは五ミリ。中心から中心へ、左右が千三百六十、前後が四百五十。奥の二つは、壁の面から八十しか離れていない。 ピアノの脚の下に敷く、受け皿の跡だった。椅子の角ばった跡はその四角の手前にあって、前の受け皿から椅子の後ろ脚まで五百四十、座れば膝が鍵盤の下に入る距離だ。跡の並び方から、椅子は壁を向いていたことになる。 一階の居間の床に出ているくぼみは三つだ。四つ目を見た覚えがない。 千歳は階段を下りて居間の電気をつけ、座卓を壁へ寄せて、テレビ台の脚の下に懐中電灯を差し入れた。四つ目はそこにあった。昼間、三脚の脚が嵌ったのは窓側の一つだ。巻尺を当てると直径は九十、左右の間は千四百二十で、ユー・スリーは二階のものより幅が広い。床の凹みは二ミリしかなかった。板の間は畳より硬い。 二階に戻ってドアを閉めると、パッキンが枠に当たって廊下の音が切れた。千歳は懐中電灯を消して、それからもう一度点けた。 四つのくぼみの真上に、合板が一枚立っている。下端は床から九百二十で、七月に自分で測って野帳に三度書いた数字だ。金物のピンは真ん中の穴に入っていて、穴は三段ある。 あの部屋にこれが入っていたなら、七月に出た〇・四二は、あの数字ではない。 千歳は野帳を開いてくぼみの寸法を書き、そこで鉛筆を止めた。洗濯ばさみは外さずに部屋を出た。 翌朝は五時に目が覚めた。千歳は事務所の机で見積を二本書いた。数字は合っていた。七時半に郷田と蒲生がハイエースで出ていき、押上のマンションは四日目で夕方まで戻らないから、事務所には千歳だけが残った。 八時十分に自転車のブレーキが鳴って引き戸が開き、冴子は傘立ての横に鞄を置き、タイムカードを押してからパソコンの電源を入れた。 「おはよう。九時に亀戸の追加の電話が来るから、そのつもりで」 千歳は野帳を冴子の机に置いた。開いたページに、昨夜の寸法が四行ある。 「二〇一九年の夏に、うちの二階に何が入りましたか」 キーを叩く音が二つで止まった。 「なんの話」 「ピアノです。畳に受け皿の跡が四つあります。六ミリ沈んでます」 冴子は椅子を回してこちらを向き、マグカップに手を伸ばして、まだ何も入っていないことに気づいて、そのまま机に戻した。それから立ち上がって書類キャビネットのいちばん下の引き出しを開け、ファイルの後ろから茶封筒を抜いた。口の折り目が二重についていた。 「見るなら座って見て」 「よく残してましたね」 「伝票よ。捨てられるわけないでしょう」 紙は二枚だった。 一枚目は納品書で、ミツワ楽器、令和元年八月二十九日。中古アップライトピアノ KAWAI BL-51 黒艶出 九八、〇〇〇。運送・二階 階段上げ四名 三〇、〇〇〇。調律一回 一五、〇〇〇。合計一四三、〇〇〇。宛名は都築巌で、現金の判が押してあり、備考の欄には店の者の字で「階段幅七〇〇 踊り場切り返し可」とあった。 裏を返すと父の字で鉛筆の走り書きがあって、三五一〇、二六一〇、その下に一四九〇と五九〇。引き算の跡が二つ残っている。店で寸法を控えてから買っている。 二枚目は東和ピアノ運送の作業控えで、二〇二三年十二月十二日。ピアノ運搬、八広から立花、二階下ろし、作業四名、五二、〇〇〇。支払の欄に冴子の判が押してある。 「二年と九か月」千歳は言った。「その間ずっと、私はあの部屋を空だと思ってました」 「思ってたでしょうね」 「七月に測りました。残響が長すぎるって、私はあそこで、父が手を抜いたって言ったんです」 「聞こえてた」冴子は立ったままだった。「下まで」 千歳は納品書を机に置いた。 「なんで言わなかったんですか」 「言わないことにしてたから」 「誰が」 「私が」 千歳が立ち上がると椅子のキャスターが後ろの棚に当たって、上に積んだ書類がずれ、掲示板の画鋲が一本、床に落ちて跳ねた。 「私の家です」 「知ってる」 「勝手に人の家のものを運び出すな」 言ったあとで、口の中が乾いた。冴子は瞬きをしなかった。 「運び出したのは私。呼んだのも私。値切ったのも私」冴子は封筒の口を指で伸ばした。「文句は全部こっちに言って」 千歳は封筒を持って玄関まで行き、また戻ってきた。三歩で戻る距離だった。 「郷田さんは」 「四人のうちの一人。三人が業者で、下で受けたのがあの人」 千歳は椅子の背に手を置いた。 「知ってたんですね」 「知ってる人は知ってた」 千歳は封筒の中をもう一度見た。ほかに紙は入っていない。 「棚のDATは、三十七本のうち三十六本が消えてます」 「テープは触ってない」 「触ってないって、どこにも書いてありません」 「書くわけないでしょう」 「父の耳のことも、私は先月まで知りませんでした」 「あれは私が話したでしょう」 「話す順番を、二木さんが決めてるってことですよね」千歳は言った。「ほかに何がありますか」 「もう無い」 「無いって、私はどうやって確かめるんですか」 冴子は答えず、マグカップを流しへ持っていって水を出した。水の音がしばらく続いた。 「水、止めてください」 冴子は蛇口を閉めた。電話が鳴り、二コール目で取って、亀戸の追加の日程を三つ出し、いちばん遅いところで決めて切った。それから鍵箱のいちばん左の鍵を外して、掌に載せた。 「行くんでしょう」 軽バンで土手沿いの道を南へ下った。荒川の水面が風でざらついて、対岸に煙突が三本立っている。信号で二回止まり、二回とも冴子はダッシュボードの上の軍手をたたみ直した。ラジオはつけなかった。 亀戸線の踏切で二両編成が通っていき、平井橋の手前で右に入る。鉄工所だった建物の一階を三軒に割って貸していて、真ん中の二番がうちだった。シャッター錠を回し、南京錠を外して下端に手をかけて押し上げると、レールが鳴って外の光が奥の壁まで届いた。紐を引くと手前の蛍光灯だけが点いて、奥の一本は点滅もしなかった。 中は外より涼しくて、コンクリートと糊のにおいがした。冴子はシャッターの内側から一歩も入ってこない。七月に階段の途中で止まったときと同じだった。 左の壁に石膏ボードの残りが立てかけてある。十二・五が七枚、十五が二枚。その隣にグラスウールの32Kが四袋、防振ゴムの箱、脚立が二本、丸めたブルーシート。右手に段ボールが五段積んであって、下から二段目に二〇二二と書いてあった。柱に画鋲で留めた温湿度計は、針が二十八度と、湿度の六十四を指している。外の路面はこれより四度は高い。 奥の壁の前だけ、床に何も置いていない。手前一メートルが空けてある。足場板が二枚、平行に敷いてあって、その上に、毛布で包んだものが立っている。上からブルーシートが一枚、掛けてあるだけで留めていない。 千歳はシートを引いた。折り目に沿って埃が筋になって溜まっていたのが、引いた拍子に一度に立って、蛍光灯の光の下でしばらく落ちてこない。千歳は袖で鼻から下を押さえ、埃が床の高さまで沈むのを待ってから、腰のカッターで養生テープを切った。三周巻いてある。 毛布は三枚重ねてあった。一枚剥がすと黒い側板が出て、艶は引けている。低いところに運送屋の丸いシールが貼ったままで、番号が手書きで入っていた。業者の仕事は丁寧だった。角の四か所に段ボールを折って当て、その上から毛布を回して、いちばん外にテープを巻いてある。粘着面は塗装に一度も当たっていない。持ち手のところだけ毛布が二重になっていて、そこに麻紐が通してあった。 千歳は毛布の上から幅と奥行に巻尺を当てた。千四百九十と、五百九十。納品書の備考にあった階段幅七〇〇は、この奥行のことだ。横に倒して立て、踊り場で回して、四人で上げている。下ろすときも同じことをする。 キャスターの下に受け皿が四つ。三つは黒で、右の奥の一つだけが木の色だった。 千歳はしゃがんで木の一つを抜いた。二百キロが載っていたぶん、底が畳の目のかたちに凹んでいる。裏返して縁の直径に巻尺を当てた。 八十。 受け皿を元へ戻した。押し込むときに、包んだままの箱が一度、低く鳴った。 足場板にも跡が四つついていて、木が繊維の向きに割れかけている。千歳は割れに爪を入れて深さを見た。三ミリほど入る。板は折れていないが、受け皿の縁が食い込んだところだけ、木の色が変わっている。二百キロが四点に乗ったまま、ここで二年と九か月たっている。板をもう一枚渡すか、下に硬いものを敷けばよかった。 「なんで倉庫なんですか」千歳は立たずに言った。「処分するなら、業者がそのまま持っていきます」 「処分はしない」 「じゃあ、なんで下ろしたんですか」 冴子はシャッターの内側から動かなかった。 「社長が、千歳には見せるなと」 千歳は毛布の端を持ったままでいた。冴子は父のことを、いまでも社長と呼ぶ。千歳のことは、パートで入ってきた日からずっと名前で呼んでいる。 「いつ言われたんですか」 「入れた年の秋に一回。それから、亡くなる年の夏にもう一回」 「夏に」 「耳の検査の帰り。あの人、その日だけ、自分から車に乗せろって言った」 「なんで買ったのかは」 「聞いてない」 「聞かなかったんですか」 「聞いて答える人だった?」 千歳は答えられなかった。父はピアノを弾けない。母も弾かなかった。あの家で鍵盤に触っていたのは一人だけで、その一人は二〇〇九年の三月から触っていない。 「亡くなったあとまで守ったんですか」 「守ったんじゃない」冴子は言った。「十二月に、上の戸を開けたのよ。あなたはまだ一度も上がってなかった」 「……」 「開けたら、これが立ってた。それを見て、私が決めた」 「決めないでください」 「決めたわよ」 冴子の靴が、コンクリートの砂を少し鳴らした。 「あなたが川口に行った日にした。朝から夕方までかかる現場を選んだの」 十二月の川口は鉄骨階段の防振で、屋上で防振ゴムのバネの締め代を測って、暗くなってから帰った。風呂に入って寝た。二階には上がっていない。その日の野帳は事務所の棚にあって、十二月十二日、火曜。四人分の手間と、五二、〇〇〇円と、階段の三段目。冴子はその三つを、一日のうちに使い切っている。 「三段目が鳴るようになったのは」 「あの日から」冴子は言った。「四人で下ろしたから。私が下で段を数えてた」 「郷田さんは、そのあと何か言いましたか」 「何も。軍手を返して帰った」 千歳は毛布を膝の上に落とした。作業着の膝がコンクリートの粉で白くなっていて、掌についているのはグラスウールの粉ではなく、ただの埃だった。しばらく、蛍光灯の安定器が鳴る音だけがしていた。 「保管料は」 「うちの倉庫。かかってない」 「そういうことを聞いてるんじゃありません」 「分かってる」 「二年と九か月、ここに置いてたわけですね」 「置いてた」 「私は毎日、その三段目を踏んでます」 冴子は何も言わなかった。千歳は自分の声が倉庫の奥まで行って、鉄板のどこかで一度返ってくるのを聞いた。 千歳はもう一枚、毛布を剥がして床に落とした。鍵盤蓋が出た。上の埃は端のところだけ盛り上がっていて、面のほうは一様に灰色で、何も載せた跡がない。父はこの上にものを置かなかったらしい。 蓋には手をかけなかった。 千歳は懐中電灯を出して、壁と背中の間に差し入れた。隙間は八十しかない。毛布の巻きの端が見えて、その奥は暗いままだった。響板は見えない。背面の板がどこまで乾いているのかは、ここからでは分からない。 「調律は誰が来たんですか」 「知らない。私は、上げたところを見てないから」 納品書には調律一回込みと書いてあった。七年前の一回きりで、それから先の記録はどこにもない。 倉庫に空調はない。八月の昼にここへ材料を取りに来ると、シャッターの内側は四十度を超えていて、立てかけた石膏ボードの端が指に熱い。この板は、そこで三度、夏を越している。冬は逆に、朝いちばんの床が外より冷える。木はそのたびに膨らんで、縮む。 千歳は手を一度叩いた。屋根の鉄板と、コンクリートの床と、立てかけた石膏ボードの面とで、返りが長く残った。一秒では消えなかった。住宅の居室で〇・四から〇・六、音楽室で〇・六から〇・八。ここはそのどれでもない。 毛布の中の板は、何も返さなかった。 千歳は鍵盤蓋の埃に、掌を横へ一度引いた。指四本ぶんの帯が、黒く出た。 そのまま立っていた。 足元に毛布が二枚落ちている。千歳は一枚だけたたんで、もう一枚はそのままにした。入口で冴子が動く音がした。千歳は振り向かなかった。 奥の蛍光灯は、まだ点いていなかった。 第十九章 零点四二秒 九月十三日は日曜で、千歳は六時半に起きて居間の座卓を持ち上げ、そのまま廊下へ出した。ソファを壁から五十センチ引き出し、テレビの裏で束のまま絡んでいたコードをまとめて足元の巾木に寄せた。仏壇の扉は閉めた。畳に出しっぱなしになっていた座布団を三枚重ねて押し入れの下段に戻し、掃き出し窓のカーテンを左右いっぱいに開けると、庭の物干しの向こうまで雲が動かずに垂れていた。風はない。 倉庫から帰って四日たっていたが、冴子とはそのあいだ請求書の締めと来週の工程表の話しかしていない。 事務所は玄関を入って右の、もとは応接間だった部屋にあって、居間はその奥にある。父が机を入れたとき、あいだの襖は外して塞ぎ壁にしてしまったが、居間のほうには最後まで手をつけなかった。畳は表替えを二度したきりで、板の間のフローリングは父が張ったまま替えていない。カーテンは母が選んだものが二枚とも残っている。 階段側の壁には四角く色の違うところがあって、天井までは届かない高さで、幅は千歳の背丈より少し狭い。壁紙はその内側だけ日に灼けずに残っている。二〇一〇年にピアノを出して、それから十六年、そのままにしてある。 八時十分に、門の前で軽バンが三度切り返す音がして、四度目でエンジンが切れた。 「まだ下手ですね、駐車」 「日曜に呼びつけといて、それ言います?」蒲生はスライドドアを開け、アルミケースを二つ、順に地面に下ろした。「二階じゃないんですか、今日」 「一階」 「一階のどこ」 「ここ」千歳は自分の足元を指した。 蒲生は框で靴を脱ぎ、居間に入ると天井と壁を一度ずつ見上げてから、畳の目を靴下の裏で二回こすった。 「畳と、板の間が半分。窓がでかい。カーテンは厚手じゃないですね」 「厚くない」 「ソファとテレビと仏壇。ふつうの住宅の居室ですよ。測るまでもなく〇・四から〇・六の間です」 「測る」 蒲生はケースを開けてXL2を出し、三脚に載せて水平を合わせた。スピーカーは部屋の隅の、床から三十センチ上げた台の上に、対角へ向けて置いた。千歳はマイクの高さを一・二メートルに合わせ、どの壁からも一メートル以上離れる三点を選んで、畳と板の間に養生テープで印をつけた。窓際と、部屋の中央と、階段の下り口の手前の三点で、そのうち二つは畳の上に来た。 台所へ行って冷蔵庫のコンセントを抜き、換気扇を切り、居間と廊下の窓を閉め、上がって二階のドアも閉めてきた。壁の時計は電池式で、秒針の音がマイクに乗る距離ではなかったが、それも外して押し入れに入れた。 「ピンクノイズ、いきます」 スピーカーが白っぽい雑音を吐きはじめると、仏壇の前の鈴が引きずるように鳴きはじめたので、千歳は鈴を伏せ、下に布巾を敷いた。蒲生がレベルの振れを見て親指を立てる。 「切ります」 音が消えて、減衰がXL2の画面に落ちる。帯域ごとの秒数が百二十五から八千まで縦に並び、そのうち五百の行だけを読む。一点につき五回鳴らして止めた。 「一点目。五百、〇・四一」 「もう一回」 「〇・四一。……〇・四二、〇・四一」 四回目の途中で、線路のほうから押上線の電車が来た。蒲生が手を止める。 「かぶりました」 「捨てて」 「もう一本待ちますか」 「待つ」 一分半おいて、もう一度鳴らして切った。〇・四二。三脚を担いで二点目へ移り、同じ手順を五回、三点目でまた五回、蒲生が読み上げる数字を千歳は野帳に鉛筆で書き取った。畳の上の点と板の間の点とで、五百の値は変わらなかったが、二千から上は板の間のほうが少しだけ長く出た。 「二点目の平均、〇・四三。三点目、〇・四二」 「全部の平均」 「〇・四二です」蒲生は画面から目を上げた。「まあ、生活してる部屋の音ですね。家具入れて、カーテン垂らして、畳があって、この数字にならないほうが変です」 千歳は鉛筆の先で、書いたばかりの〇・四二を丸で囲んだ。それから巻尺を出して、階段側の壁の色の違う四角を、下の巾木に爪を引っかけて測った。幅は百五十三センチ、高さは床から百二十一センチのところで日灼けの線が切れていた。二つの数字を野帳の隅に書いた。 「なんですかそれ」 「跡」 千歳は野帳を閉じ、立ち上がった。 「上、行く」 階段は十四段あって、六段目が鳴る。千歳が先に上がり、蒲生が三脚をたたんでついてきた。二階の廊下の突き当りには、家の中で一枚だけ重いドアがある。取っ手を引くと、パッキンが縁から離れる音がして、廊下の空気が中へ流れこんだ。 六畳。三・五一メートル掛ける二・六一メートル、天井二・二八メートル。折りたたみ椅子が一脚と、マイクスタンドが二本、隅の床に置いたままのTASCAM DA-P1。床には丸い跡が四つ、ずっと消えないまま残っている。 「ここ、七月に測りましたよね」 「もう一回測る」 居間と同じ手順を踏んだ。スピーカーを隅の台に上げ、マイクは壁から一メートル離した三点に立て、ピンクノイズを流して切る。 「五百、〇・四二。〇・四二、〇・四三、〇・四二」 「二点目」 「〇・四一。……〇・四二」 読み終えてから、蒲生は壁を見上げた。三方の壁には、布張りの吸音パネルの上に重ねて、合板が一枚ずつ掛かっている。どれも上端をフックで拾わせ、下端は壁から少し浮かせてある。掛かっている高さも、壁からの浮かせ方も、三枚とも違っていた。 「社長、これ」蒲生は合板の面を指の背で叩いた。乾いた音が返る。「十二ミリだ。遮音で言ったら二千で谷が来るやつですよ」 「遮音じゃない」 「え」 「反射のために吊ってある。外して」 二人で三枚を外して廊下に立てかけると、厚みも大きさも三枚とも同じで、裏に打ってあるフックの位置だけが一枚ごとに違っていた。下から出てきた布張りの面は、壁の三方をほとんど覆っている。千歳は布の目に指を押しつけて、沈み方を三か所で確かめた。 外した合板を廊下に並べて数えた。三枚。八月に冴子が出してきた二〇一九年夏の材料伝票にも、合板の枚数は三と書いてある。同じ伝票にあるグラスウール32Kの数量を、千歳は思い出した。この広さの部屋を防音室に仕上げるなら、伝票の三倍は要る量だった。 同じ三点で、もう一度鳴らした。 「五百、〇・二五」蒲生の声が少し高くなった。「〇・二五、〇・二四、〇・二五。……落ちましたね。これで防音室の数字だ。〇・一五から〇・二五のあいだ」 「戻す」 「戻すんですか、これ」 「戻す」 千歳は野帳の七月の頁をめくった。「吸音足りず、仕上げ雑」と自分の字で書いてある。その行に横線を一本引いて、下に〇・四二と、その横に居間、と書き足した。 フックの位置は三枚とも決まっていて、掛け直すのに迷う余地はなかった。左の壁のものだけ、下端の縁に指の脂が黒く残っていた。何度も持ち上げて掛け直した側だ。 それから騒音計を出した。リオンのNL-42を三脚ごと部屋の中央に立て、給気口のファンを止め、二人とも壁際で息を殺して三分待った。表示は下のほうで止まったきり動かなかった。蒲生が靴下の中で足の指を動かしただけで、数字が跳ねた。 「NC-15相当ですね」蒲生が声を落とした。「よくこれ出したな。給気、消音ボックス入ってるんですよね」 「入ってる」 「コンセントも埋めてある。ドアの下も殺してある」蒲生は膝をついて、ドアの下端に指を這わせた。「遮音のほうは本気でやってるんですよ、この部屋」 千歳は同じ騒音計を持って階段を下り、居間の中央の、朝つけた印の上に立て直した。五分。そのあいだに押上線の電車が二本通った。冷蔵庫は抜いたままにしてあった。 「五分間の等価騒音レベル、四十四です」蒲生が画面を読んだ。「電車が来てない時間だけ切ると四十一。通過中は五十三」 千歳は野帳を開いたまま持った。居間の頁と、防音室の頁。残響時間の欄には同じ数字が並んでいるのに、暗騒音の欄は三十近く離れていた。窓が二枚あるこの部屋で、NC-15が出ることはこの先もない。 「……なんで同じなんですか、残響」 「同じに作ったから」 「誰がですか」 千歳は野帳を閉じた。 昼前に蒲生は帰った。三脚とケースを軽バンに積み、台所で冷蔵庫のコンセントを差し直してから玄関を出て、門の前で切り返しを四度やって、やっと道へ出た。 居間はそのままにしておいた。座卓は廊下に出したまま、ソファも壁から引いたままで、養生テープの印も剥がさなかった。 千歳は二階に戻ってドアを閉め、パッキンが縁に噛むまで押した。床に座ってDA-P1を膝に載せ、電源のアダプタを壁のコンセントに差し、現場で使っている密閉型のヘッドホンをつないだ。 テープは一本しかない。ラベルは白紙のままで、あとの三十六本は全部消してある。三十六本を一本ずつ確かめたのは七月で、頭出しをして、無音を確かめて、取り出して次に入れ替えて、それを三十六回やった。 カウンタを頭に戻し、早送りにして、四十分で止めた。 七月は机の上に小さいスピーカーを置いて、五十八分四十二秒を通しで流した。何も入っていなかった。今度はヘッドホンで、レベルを三分の一まで上げると、テープのヒスが耳の中に平らに広がった。もう少し上げた。 四十分から四十八分まで、何も来なかった。ヒスと、テープの走行が拾ううねりだけが続いた。千歳は膝の上のカウンタを見ていた。四十五分。四十六分。四十七分。 四十八分十一秒。 最初に来たのは軋みだった。金属が金属の中で少しずれる音で、長さは半秒ほど、像は真ん中より少し左にある。 二秒あけて、もう一つ入った。 硬いものに爪の先が当たった短い音だった。音程がない。打鍵ではない。ハンマーは動いていないし、弦も鳴っていない。像は右寄りで、軋みより遠い。 千歳は停止を押し、巻き戻して、カウンタが四十七分五十秒まで下がったところで指を離し、再生を押した。 同じ順で、同じ二つが来た。 千歳は左手首の時計の秒針を見ながら、もう一度同じところを流した。軋みから爪の音まで、秒針は二つ動いた。 もう一度巻き戻して、レベルを上げた。三度目で、軋みの中に木が一度きしむ音が混ざっているのが分かり、四度目で、爪の音のあとに指が離れる気配のようなものが続いているのが分かった。五度目は、それが本当にあるのかどうか、決められなかった。 千歳はレベルを下げ、七月に机の上のスピーカーで流したのと同じくらいまで落として、また四十七分五十秒から再生した。 何も聞こえなかった。ヒスも聞こえない。四十八分十一秒を過ぎて四十八分半まで流したが、何もない。 レベルを元に戻すと、また両方あった。マイクは二本とも録ったときの位置に立ったままで、スタンドの高さも間隔も動かしていない。左右の像の差は、動かせない距離としてそこにあった。 千歳はヘッドホンを首にかけ、巻尺を出した。 床の四つの跡を測ると、長辺が百四十九センチ、短辺が六十一センチだった。跡は壁から十センチ離して並んでいて、四つとも同じ深さで床材がへこんでいる。四年、動かさずに置いた重さのへこみ方だった。マイクスタンドは二本とも立ったままで、間隔は三十センチ、跡の前一メートル半、高さ一・五メートル。KM184が二本、そのままの向きで留めてあった。 千歳は折りたたみ椅子を持ち上げて、跡の左手前に置き直した。座面を開くと、ヘッドホンの中で聴いたのと同じ音が、同じ長さで出た。もう一度たたんで、もう一度開いた。同じ音がした。 腰を下ろして右腕を前に伸ばすと、指先は跡の内側で止まって、肘は伸びきらなかった。椅子を五センチ前に出すと、肘が曲がったままで指先が跡を越えた。五センチ戻した。 床に座り直し、DA-P1の再生を押した。 四十八分十一秒から先には、何も入っていなかった。四十九分。五十二分。五十五分。五十八分。五十八分四十二秒でテープが尽きて、走行が止まり、耳の中の雑音が切れた。 千歳はカウンタを見た。四十八分十一秒から五十八分四十二秒まで、十分三十一秒ある。 ヘッドホンを外した。部屋の中では、外の音は何も聞こえなかった。ドアの向こうを電車が通ったかどうかも、この壁の内側では分からない。 千歳は野帳を開き、四十八分十一秒、と書いた。その下に、椅子の軋み、と書いた。その下に、爪、と書いた。爪の字だけ一度消して、書き直した。その上に、そこまで四十八分、無音、と書き足した。その下に、あと十分三十一秒、と書いた。 それから、居間の頁の〇・四二と、防音室の頁の〇・四二のあいだに、線を一本引いた。 一度、階下へ下りた。壁の四角い跡の前に立って、日灼けの切れ目を左から右へ目で追った。百五十三センチ。二階の跡は百四十九センチ。四センチ違う。同じピアノではない。それだけ確かめて、電気を消して、また上がった。 携帯を出して、冴子にかけた。呼び出しが三度鳴ってから出た。 「日曜にすみません」 「珍しいね、あんたが謝るの」 「倉庫の鍵、明日借ります」 「……何時に」 「朝一で。郷田さんと蒲生も連れていきます」 「運送は」 「まだ」 「じゃあ手配しとく」冴子は少し黙った。「調律、要るよ。倉庫に入れて三年近い」 「間宮さんに頼みます」 「番号送る」 電話を切って、千歳は椅子を跡の左手前に置いたまま、床に座り直した。テープを巻き戻す。カウンタの数字が減っていく。四十七分五十秒で指を離した。 第二十章 音のしない部屋 九月十九日、土曜。六時半に二階へ上がった。 七月に剥がしたままの布が壁から垂れている。千歳は畳に落ちていたタッカーの針を先に拾って空き缶に入れ、それから布を下端から留め直していった。留め間隔は百五十。合板の三枚のところだけは布を回さず、周りをカッターで切って、縁を折り返して留めた。板の下端と、横に渡った金物の穴が三段、布の外に出た。 張り終えて、手を叩いた。返りは七月と同じだった。 気密ドアを全開にして、丁番の側に木を噛ませ、閉まらないようにした。ドアの内側の足元に養生テープでボードを二枚敷く。廊下も敷居まで敷いた。パッキンの当たり面だけは何も貼らずに、指で一周なぞって、砂粒が乗っていないのを確かめた。 畳の目に沿って、掃除機を二往復かけた。 八時十分、路地に白い軽トラックが停まった。相良は荷台からチェーンブロックを下ろして玄関先に置き、靴を脱ぐ前に、線香をあげさせてくださいと言った。仏壇の前で二分ほどいて、戻ってくると作業着の袖をまくっていた。 「ブロック、一トンです。うちの現場のやつなんで、掛け過ぎだけ見ててください」 「充分です」 「単管は」 「郷田さんが積んできます」 ハイエースは八時半に着いた。郷田が助手席から降りて、路地の幅を歩いて測ってから、家の前に立って二階を見上げた。蒲生は後ろのドアを開けて、荷締めベルトのラチェットを外しにかかった。 毛布で巻いたものが、車の中に立ったままベルトで左右に留めてあった。角のところだけ毛布が薄くなって、黒い塗装が見えている。 四人で平台車ごと下ろした。蒲生が巻尺を当てて読み上げた。 「幅、千四百九十。奥行き六百十。高さ千二百二十」 「重さは」千歳が聞くと、郷田が側板に手を置いた。 「二百は無えな。百九十だ」 郷田は玄関を覗いて、それから二階の窓を見上げた。 「窓だ」 「階段は」 「踊り場が七百しか無え。振り回せねえ」 郷田は路地に立って、脚を開ける幅を歩幅で見ていった。手前の電柱までが三歩半、向かいの塀までが二歩。ガスの引き込み管が出ているところに片足を指して、そこは避けろと言った。 単管を三本、路地に開いて三脚に組んだ。脚の根元をもう三本で三角に繋いで、家の柱に控えを一本取る。郷田がクランプを締める順番を口で言い、蒲生がラチェットレンチを回した。頂点にチェーンブロックを吊る。地面から二階の床まで二千八百、そこに毛布を巻いたものの高さと帯のぶんが乗る。 千歳は二階の掃き出し窓の障子を二枚とも外して、廊下の壁に立てかけた。網戸も外した。物干しのベランダは奥行きが七百で、手すりが千百ある。床には養生ボードを敷いて、敷居の角に当て木をした。 「上、二人だ」郷田が言った。「蒲生と社長。俺はチェーンを引く。相良さんはロープ」 「一本でいけますか」 「路地が狭え。二本張ったら、こっちが動けねえ」 底面にナイロンスリングを二本回して、上で一点にまとめてシャックルで留めた。毛布を四枚、角に足す。相良が振れ止めのロープを腰に一巻きして、路地の反対側の塀まで下がった。 隣の引き戸が開いて、白鳥篤子が出てきた。箒を持ったまま、三脚を下から上まで見た。 「なんの騒ぎなの」 「ピアノを上げてます」千歳はベランダから言った。 「二階に」 「二階です」 篤子は自分の家の二階の窓を一度見上げてから、うちの前だけ掃いて戻っていった。引き戸は閉まりきらずに、十センチ開いたままになった。 郷田がチェーンを引きはじめると、帯が締まって毛布がへこんだ。台車が浮いた。 「止めろ」 郷田は下から回り込んで、片側だけ上がっているのを見て、スリングの位置を百ずらした。もう一度引く。今度は水平に上がった。 千歳と蒲生はベランダで受けた。手すりの上を越えるところで、相良が下からロープを引いて、角が壁を擦る手前で止めた。手すりの内側にいったん下ろす。ベランダの床が沈んで、手すりの根元が鳴った。 「そこで置け」郷田の声が下から来た。「一回、手を替えろ」 蒲生が息を吐いた。 「これ、動画で見たやつです。見たときは簡単そうでした」 「持ってるだけましだよ」 「腰、来ます」 窓の敷居を越えて、部屋の中へ。廊下へ出して、階段の上り口の広くなったところで九十度振った。突き当たりの気密ドアを開け放して、郷田が下から上がってきて開口を測った。 「七百八十」 「奥行きが六百十です」 「入る。真っすぐだ」 四人で押した。ドアの枠に当て木を沿わせて、側板から先に入れる。半分入ったところで止まった。郷田が下を覗いて、キャスターが敷居の当て木に乗り上げているのを見つけ、蒲生に反対側を持ち上げさせた。五センチ上げて、そのまま前へ出す。パッキンが潰れる音がして、毛布が枠を撫でた。 中に入ってしまうと、部屋のほうが急に狭くなった。天井までは二千二百八十ある。上には一メートル余っているのに、四人が入ると足の置き場がなくなった。 「どこだ」 「畳のへこみに合わせます」 蒲生が懐中電灯で長い壁の際を照らして、丸いへこみを四つ見つけた。台車を抜いて、キャスターを一つずつ落としていく。四つ目が落ちたとき、畳が鳴った。 毛布を外した。KAWAI BL-51。天板に埃が積んでいて、蒲生が持ってきた雑巾で拭くと、木目が出た。 千歳は椅子を部屋の隅から出して、畳のへこみに戻した。半歩ずれた位置は、鍵盤の中央の正面だった。 蒲生が壁の合板に触った。 「これ、動くんですか」 「三段ある」 蒲生はピンを抜いて、板を手前に引いた。カチ、と鳴って下の穴に落ちた。手を叩く。もう一度叩く。 「変わりましたよ、今」 「四十ミリで変わる」 「うわ」 郷田は何も言わずに、ドアのパッキンを指で押していた。 「郷田さん」千歳は言った。「七月に言ったこと、取り消します」 郷田はチェーンの端を腕に巻きながら、こっちを見なかった。 「聞いてねえよ、そんなもんは」 十一時四十分に単管をばらした。 弁当は一階の事務所で食った。蒲生は倉庫のシャッターが開くのに十分かかったと言い、鍵の穴に油を差しておいたと続けた。相良は畳んだ毛布を膝に置いたまま食っていて、途中で顔を上げた。 「あの部屋、外は完璧なんですよね」 「完璧です」 「中は」 「中は、そういう中です」 相良はそれ以上聞かなかった。空になった容器の蓋を閉めて、袋に入れて、自分の軽トラックへ持っていった。 相良は一時前に出ていった。郷田と蒲生は二時に単管を積んで帰った。 間宮は一時ちょうどに来た。白の軽自動車で、道具は革のケース一つと、木の箱が一つだった。五十六歳、髪が薄くて、指の関節が太い。 「沼田さんに聞きました」 「ああ、ヌマの」間宮は靴を脱ぎながら言った。「二階ですか。ピアノは一番、階段が嫌いなんですけどね」 「窓から入れました」 「それがいいです」 木の箱の中には、音叉が一本と、革の袋に入ったくさびが十いくつか入っていた。間宮はそれを畳の上で並べ替えてから、大きいほうを三つ手前に出した。 部屋に入ると、間宮はまず手を叩いた。二回叩いて、天井を見た。 「よく返りますね、ここ」 「〇・四二です」 「何がです」 「残響。五百ヘルツで」 「デッドな部屋は合わせづらいんですよ。狂いが分からなくなるんで」間宮はケースを畳に置いた。「ここは楽です」 上前板を外して壁に立てかけ、下前板も外した。鍵盤蓋を上げ、鍵盤の上に赤いフェルトを一本渡す。弦が出た。低音側の巻線が茶色くなっている。間宮は懐中電灯を口にくわえて、内側の板を照らした。鉛筆の書き込みが縦に並んでいる。 「八一の六、八四の三、八七の十……」間宮は指でなぞって下まで行った。「最後がこれですね。〇九の四」 千歳は数えた。 「十七年」 「そうなりますね。売る前に触った形跡も無い」間宮は一本の弦をハンマーで軽く鳴らして、音叉を膝で叩いた。二つの音が重なって、波が速く打った。「半音、下がってます」 「上げられますか」 「一回では上げません。切れますから」間宮はチューニングハンマーをピンに嵌めた。「三回に分けます。今日は二回。二週間したら、また来ます。戻りますんで」 そこから、部屋の中には音が一つずつしか出なくなった。 くさびをフェルトごと弦の間に押し込んで、一本だけ鳴るようにする。鳴らして、ピンを回して、また鳴らす。二本を同時に鳴らすと、波が打つのが遅くなって、止まる。止まったところで次へ移る。八十八の鍵の、その繰り返しだった。 間宮は真ん中の一オクターブから始めた。その中だけを行ったり来たりして、一度も外へ出ない。左手はハンマーの柄に置いたままで、動くのは手首から先だけだった。二十分ほどそこにいて、それから低いほうへ下りていった。 一本目が終わったのが二時五十分。間宮は鍵盤の蓋を一度閉めて、腰を伸ばした。 「一回で三十セントまでです。それ以上やると、明日には落ちてます」 「二回目は」 「今からです。上げたぶんで、また下がってますから」 千歳は一時間ほど畳に座って見ていた。それから下りて、事務所で来週の見積を二本作った。上から音が落ちてくる。ドアが閉まっているから、廊下に出ないと聞こえない。階段の途中まで上がると聞こえて、下りると消えた。三段目のところが境目だった。 三時に冴子が来た。麦茶のペットボトルを二本、流しに置いた。 「入れたの」 「入れました」 「上でしょ。よく上げたわね」 「窓から吊りました」 冴子は階段の下から上を見て、それきり上がらなかった。 「倉庫代、二年九か月ぶん、私の口座から出てるから。あとで回すわよ」 「回してください」 「そうする」 冴子は帰りぎわに、玄関で靴を履きながら言った。 「社長が生きてるうちに、私が一回、上げてやればよかったのよ」 返事を待たずに引き戸を閉めた。 千歳は事務所の机で野帳を開いて、今日のぶんを書いた。九月十九日。搬入、窓吊り、四人。重量およそ百九十。ドア有効開口七百八十。最終調律〇九年四月。十七年。書いてから、その下に何も足さずに閉じた。 五時四十分に音が止んだ。 上がると、間宮は前板を戻して、鍵盤を端から順に押していた。ペダルを踏むと、軸のところで軋みが出た。間宮は床に膝をついて、突き上げ棒の頭に油を一滴だけ落とし、指で伸ばした。もう一度踏む。音は出なくなった。 それから間宮は座って、右手と左手を同時に落とした。和音が四つ、階段を下りるように続いて、最後に低いところで止まった。指を離してからも、しばらく鳴っていた。間宮は天井をまた見た。 「返りますね」 「〇・四二です」 「聞きました、それは」 低いほうで一つ、戻りの遅い鍵があった。間宮は鍵盤を抜いて、軸の穴に何かを差し込んで回し、また戻した。押すと、まっすぐ上がってきた。 「今日はここまでです」間宮は道具をケースに落とし込んだ。「二週間で、四十セントは戻ります。戻ってから、もう一回」 「弾いていいですか」 「弾いてください。弾かないと、狂いが分からないんで」間宮は立ち上がって、譜面台の埃を親指で拭いた。「二週間後に、どこが気持ち悪いか言ってくれれば、そこをやります」 「金額は」 「二回目まで込みで、三万五千で」 間宮は玄関で靴の踵を入れ、それから路地に出て、二階の窓を見上げた。 「窓、また外すんですか」 「もう外しません」 「そのほうがいいです」 軽自動車のエンジンがかかって、路地の突き当たりで曲がって、聞こえなくなった。 六時二十分。千歳は台所で水を一杯飲んで、コップを流しに伏せた。居間を通ると、ピアノがあった壁際に、去年からの段ボールが三つ積んである。 二階へ上がった。三段目が鳴った。 ドアを開けて、中に入って、閉めた。廊下の音が敷居の内側で切れた。 千歳は三枚の合板のピンを順に抜いて、下の穴に落とした。カチ。カチ。カチ。下端の浮きが四十から八十になった。 椅子に座った。座面が鳴った。 蓋を上げると、象牙は白くなくて、縁のところが黄色い。右手をドに置いて、一オクターブ上がった。四の指で転んだ。もう一度上がって、下りた。 インヴェンションの一番を、右手だけで八小節。指は覚えていた。左手を足すと、三小節で止まった。頭から弾き直して、また三小節で止まった。 音が切れたあとに、少し遅れて壁から戻ってきた。 千歳は手を膝に置いた。それから四回目を弾いた。左手は五小節まで行った。 そこでやめた。 蓋は閉めなかった。棚の上のDA-P1は、アダプタがコンセントから抜けたままだった。 廊下には、朝外した網戸が二枚、立てかけてある。
小説 · text · 2026-09-07