第一章 火皿 送り火の皿は、十三枚あった。 光照寺の過去帳で、今年、白背谷に新しく加わった死者は六人である。去年から残る新盆を足しても九人。千世は庫裏の縁側に火皿を並べ、欠けを指で確かめた。山土を焼いた浅い皿。縁へ一から十三まで、細い刻みがある。死者の名ではなく、家を数える印だった。 「また数えているの」 油壺を運んできた真壁登勢が言った。 「数えないと、足りなくなります」 「足りなければ、半分ずつ使えばいい」 登勢は四十九歳。小野沢村の油搾りを一人で切り回し、寺と三村へ灯明油を納めている。紺の単衣に白い手拭い。右手の親指へ、古い火傷があった。 千世は火皿の受取帳を開いた。 大葛村、四枚。 小野沢村、五枚。 砥石村、四枚。 合計十三。 「どの家の火ですか」 「山へ上がれば分かるよ」 「帳面に残したいんです」 「残さないから、残ってる火もある」 登勢は油壺を置き、受取の丸を押した。丸の中には、壁という字を崩した印がある。千世が八年前の夏にも見た印だった。その年、過去帳には四十一人が加わった。飢饉で白背谷の人が最も多く死んだ年である。 千世は僧ではない。 光照寺の寺男だった父の娘で、庫裏の勘定と筆写を任されている。檀家が死ねば、住職の慈周が戒名を付ける。千世は俗名、没年、家、葬具の受払を別の帳面へ写す。女が過去帳に触れることを嫌う檀家もいた。字の間違いを見つけると、その者たちも千世を呼んだ。 「死んだ年が違う」 「妻でなく妹だ」 「先妻の名を同じ頁へ置くな」 死者は黙っている。 残った人は、並べ方を争う。 慈周は六十一歳になり、細い字を読む時だけ片目を閉じた。 「火皿は揃ったか」 「十三枚」 「ならよい」 「どの家が出すのです」 「盆の火に、名札はいらぬ」 慈周は過去帳を閉じた。 千世は指を挟み、閉じ切る前に止めた。 天明三年、七月。 四十一名の戒名が、三頁にわたって同じ筆で並ぶ。 千世の字だった。 二十三歳の時、慈周から渡された紙片をそのまま写した。飢えと病で、一日に十人も死んだと聞いた。棺が足りず、菰へ包んで埋めたとも。だが四十一の名に、十三の家はない。 「あの年の火ですか」 慈周の片目が開いた。 「山へ上がれば分かる」 登勢と同じ答えだった。 柊坂藩は、秋から白背谷の検地をやり直す。古い検地帳は七十年前のものだった。川が変わり、崩れた畑もある。新しく開いた焼畑は帳面にない。藩は田畑の実りを測り直し、年貢の元を揃えるという。検地役の榊原伊織が、光照寺へ挨拶に来た。二十七歳。袴の裾に山泥が付き、刀の鐺にも傷がある。馬を下りて歩いたのだろう。 「寺の過去帳と宗門送りを拝見したい」 「検地に死者が要りますか」と千世。 「田畑の名請人が死んだか、村を出たかを確かめます」 伊織は新しい間縄を持っていた。麻縄へ一間ごとに小さな瘤。十間ごとに赤糸を巻いてある。 千世は手を伸ばさなかった。 女が検地縄に触れれば長さが狂う、と言う者がいる。実際には、湿れば誰が触れても縮む。 伊織は縄を縁側へ置いた。 「前の帳面と畦が合いません」 「七十年あれば、畦も動きます」 「畦だけなら」 彼は古い検地帳の写しを開いた。 大葛村の北境。 〈東、榧林。西、岩尾。南、源治畑。北、道〉 次の筆では、榧林が御林になっている。 「榧林という字名はありますか」 千世は知らなかった。 慈周が庫裏の奥で、数珠を一つ鳴らした。大葛村庄屋の馬淵源左衛門は、伊織より遅れて寺へ来た。五十七歳。夏でも厚い羽織を着て、汗を見せない。 「新しいお役人は、古い字名に熱心だな」 伊織は頭を下げた。 「古い帳面から始めるのが役目です」 「畑は帳面より先にある。歩けばよい」 源左衛門は笑った。 千世へ、細長い包みを渡した。 中は三村分の今年の年貢割付状だった。藩の割印が、紙の端へ半分ずつ押されている。もう半分は郡役所の控えに残る。 「盆が明けたら、寺で読み合わせをする」 「年貢のものを、なぜ寺で」 「百姓が集まりやすい。去年もした」 去年は大葛村の集会所だった。 千世は違いを口にしなかった。 源左衛門が伊織の縄を持ち上げる。 「良い麻だ。一間は一間か」 「乾いていれば」 「役人が測れば田が増え、百姓が測れば減る」 「縄は同じです」 「持つ手が違う」 源左衛門は縄を戻した。 瘤の一つに、爪を立てた。 帰り際、千世へ小声で言った。 「今夜の火を、よく数えろ」 「十三枚です」 「皿でなく、人をだ」 第二章 山へ上がる油 日が落ちる前、三村の者が光照寺へ集まった。 火皿、油、火縄、供えの団子。 送り火は寺の裏山に十三か所、弓なりに並べる。祖先を送る火だと、誰もが言う。どの祖先かを訊くと、答えが曖昧になった。登勢の娘、澪が油壺を大八車へ載せていた。三十四歳。左の手首から指先まで、白い火傷の痕がある。幼い頃、油釜を倒したためだと千世は聞いている。 「母上は?」 「先に山へ」 「さっき油小屋の方で見ました」 「支度を見てから行くと」 澪は右手で壺を支え、左手を添えた。白い手拭いを姉さん被りにし、登勢と同じ紺の単衣を着ている。母娘で祭礼衣を揃えるのは珍しくない。 千世は受取帳を差し出した。 「十三壺」 澪は母の印を探した。 「私でよい?」 「運んだ方が押してください」 澪は自分の小さな丸印を押した。その時、山上で一つ目の火が上がった。白い手拭いの女が、火皿の前へ屈んでいる。 「お登勢さん、もう着いた」と誰かが言った。 澪は山を見上げた。 左手を単衣の袖へ隠した。 送り火は一つずつ灯された。 大葛の四火。 小野沢の五火。 砥石の四火。 十三番目は、山腹の最も高い場所にある。千世が着いた時、登勢が火縄を皿へ移していた。 右手で持っている。 「最初の火も、お登勢さんでしたか」 「油屋だからね」 登勢は火縄を振って消した。 山の下で、寺鐘が六つ鳴る。 十三の火が揃った。 火ごとに家族が集まり、団子を置く。数えると、三村の顔だけではなかった。 山向こうから来た炭焼き。 見覚えのない子ども。 頭へ木地椀を載せた老人。 彼らは火の後ろへ立ち、村人と話さない。 源左衛門の姿はなかった。 「庄屋様を見ませんでしたか」 大葛の組頭は、寺へ戻ったと言った。伊織は検地縄を肩へ掛け、火を見ていた。 「十三は、村の家数ではない」 「火の家数なのでしょう」 「ここにない村の」 千世は振り向いた。 伊織が古い写しを見せる。 余白に薄く、〈榧平十三軒〉とあった。 墨は削られている。 火だけが、削られずに残っていた。寺へ戻る道で、子どもが先に源左衛門を見つけた。年貢蔵の戸が、指一本分開いている。 中は暗い。 呼んでも返事がない。 千世は灯明を持って入った。 米俵の間に、源左衛門が座るように倒れていた。背を柱へ預け、両脚を伸ばしている。 首に紫の帯。 喉の横へ、等しい間隔で五つの窪みがあった。 伊織が千世の前へ腕を出す。 「触れるな」 源左衛門の右手は開き、爪の間に黒い滓がある。 左手は懐へ入っていた。 伊織が同心を呼ぶよう命じた。 寺の門を閉める。 山の送り火は、まだ見えている。十三の火を囲んでいた人々が、一人ずつ寺へ下りてきた。 誰も蔵へ入れない。 慈周が源左衛門へ短い経を唱えた。 千世は蔵の床を見た。 薄い米粉の上に、源左衛門の足跡がない。 あるのは、大八車の車輪跡。 右側だけが深かった。 源左衛門の懐から、一通の年貢割付状が出た。 〈榧平村〉 当寛政三亥年。 高百二十石。 納米四十二石余。 山役銀、炭竈役、楮役。 末尾に柊坂藩郡奉行の割印がある。 伊織は紙を灯りへ透かした。 「榧平という村は、郷帳にない」 「古い検地帳の余白にはあります」 「だからこそ、おかしい」 今年の割付状なら、郡役所で伊織も見ているはずだった。 「印は本物に見えます」 印影の端に、虫食いの欠けがある。郡奉行印の傷と同じ位置。だが紙は黄ばみ、折り目に古い煤が入っていた。 本文の墨も褐色。 〈寛政三〉と〈榧平村〉だけが、青みのある黒だった。 「古い割付を使い回した」と千世。 「古い藩印が、なぜ馬淵の懐にある」 源左衛門は三村の旧状を保管していた。紙の端へ押された割印は、役所控えと合わせて初めて円になる。 この紙の印は、左半分だけ。 「控えが役所にあれば、元の村が分かる」 伊織は紙を包んだ。 千世は高百二十石という数字を覚えていた。八年前に写した四十一名の横へ、慈周が小さく書いた数だった。 第三章 半間の瘤 翌朝、藩医が源左衛門の首を改めた。死因は、縄で首を締められたこと。後頭部に打撲はあるが、致命傷ではない。 「検地縄でしょう」と大葛の組頭が言った。 伊織の新しい縄は、一間ごとに瘤がある。首の痕へ当てると合わなかった。五つの窪みは、瘤と瘤の間が半間。 「荷を締める節縄だ」と伊織。 炭俵、油樽、紙束。谷では多くの者が使う。縄痕には、細かな黒い粒があった。 藩医は煤と言った。 千世は指先へ少量を取り、匂いを嗅いだ。 菜種を搾った後の滓だった。 火にくべれば黒くなる。 油屋だけでなく、三村の家が焚き付けに使う。源左衛門の背にも、同じ滓が付いている。 年貢蔵には菜種を置かない。 足袋の裏は赤土。 寺の境内は灰色の山砂。 「別の場所で殺され、運ばれた」と千世。 藩医が彼女を見た。 「女が口を出すな」とは言わなかった。 「なら、どこからだ」 白背谷で赤土の場所を、千世は三つ知っていた。 一つは登勢の油小屋だった。 年貢蔵の本鍵は、慈周が持っていた。昨夜、庫裏の鍵箱から出していない。 封蝋も切れていなかった。 予備鍵は源左衛門に預けていた。 遺体の腰へ鍵束がある。 蔵の錠へ入れると、回らない。 「別の鍵です」と千世。 形は似ているが、先端の歯が一つ短い。源左衛門の家を捜すと、本物の予備鍵は文箱から見つかった。 誰かが腰の鍵を入れ替えた。 蔵を開けた合鍵が、もう一本ある。鍵師を呼べば、作った者を覚えているかもしれない。 「この錠は二十年前の物です」と慈周。 千世は鍵箱の底に、薄い板を見つけた。 米糠と蝋を練ったもの。 鍵の歯形が押されている。 古く乾き、端へ鼠の噛み跡。 伊織が息を吹き、埃を除いた。 「合鍵の型だ」 「なぜ寺に」 慈周は答えなかった。 八年前、飢饉の救米を年貢蔵へ入れた夜がある。藩へ届けず、帳面にも載せなかった米だった。 伊織は光照寺の帳面を封じた。 過去帳。 葬具勘定。 宗門送りの控え。 施餓鬼料の受取。 寺の物を藩士へ渡すことに、慈周は反対しなかった。 「千世殿にも、触れぬよう願う」 「私が書いたものです」 「だからだ」 千世の筆跡は、証拠になり得る。彼女が後から書き換えたと疑われることもある。伊織は封紙の継ぎ目へ印を押した。 「必要な記録は、立会いの上で開く」 「死者が出た時は?」 「新しい帳面を使ってくれ」 過去帳を二冊に分ける。 昨日までの死者と、今日からの死者。 千世は白紙の仮帳を出した。 最初の行に、馬淵源左衛門と書く。 没日は七月十六日。 死因は書かない。 戒名は慈周がまだ決めていない。 「生前の行いで変えるのですか」と千世。 「遺族が納める布施で変わる」 慈周は自分で言い、目を伏せた。死者の名も、金と都合から自由ではなかった。伊織は、十三の送り火にいた見知らぬ者を探した。三村の庄屋は、炭焼きの季節奉公人だと答えた。 名は分からない。 宗門人別帳には、奉公人の出入りも書く。今年の帳に、該当する者はいなかった。 「無宿を匿っているのか」と同心。 千世は、最も高い火の後ろにいた男を思い出した。木地椀を頭へ載せ、雨を避けていた。椀の縁に、榧の葉を彫った印がある。谷の市で、同じ印の椀を見たことがあった。 売り手は名乗らない。 品札には〈山出し〉とだけ書く。 千世は寺の台所を探した。 欠けた椀の中に、一つ同じ印がある。 底へ墨で〈弥平〉。 過去帳を開けなくても、名を覚えていた。 天明三年七月二十日。 清岳道心。 俗名、雨宮弥平。 八年前に死んだはずの男は、昨夜、送り火のそばに立っていた。 第四章 九つの葬具 封じた帳面を、伊織と慈周の前で開いた。 天明三年の葬具勘定。 菰、九枚。 麻衣、九領。 縄、九本。 棺はゼロ。 飢饉の年、四十一人を過去帳へ書いた。 葬る物は九人分しかない。 「物が足りなかったのでは」と伊織。 「菰一枚へ、四人は包めません」 慈周は数珠を繰った。 「山で死んだ者は、山で土へ返した」 「なら、寺で戒名を付けた者と、山で埋めた者をどう照らしたのです」 返事はない。 施餓鬼料の受取にも、九家分の印だけがある。残る三十二人には、戒名しかなかった。千世は過去帳の字を一名ずつ読んだ。 雨宮弥平。 当時三十歳と付記してある。今なら三十八。 山で見た男の年頃に合う。 「死んでいない人を、私に書かせたのですか」 慈周は言った。 「書かねば、もっと死んだ」 答えになっていなかった。 伊織は帳面を閉じなかった。 「三十二人は、どこにいる」 寺の裏山、そのさらに向こう。 十三の火が並んだ斜面の先に、帳面にない道がある。源左衛門の家から、材木の見積が出た。 榧、杉、栗。 伐採面積、二十七町歩。 買手は城下の紙問屋、鳴海宗七。紙問屋が木を買うのは、箱、薪、楮を蒸す桶に使うためだという。見積の裏へ、〈御林明渡し後〉とある。 「御林は藩の物です」と伊織。 「庄屋が売れるのですか」 「伐採請負の口利きならできる」 源左衛門への礼銀、百二十両。 村の庄屋が一生かけても容易に貯められない額だった。別の文箱には、榧平村の偽割付状を作った切り紙がある。 〈榧〉の字を三度練習している。 本文と筆癖が同じ。 新しい墨も、源左衛門の硯箱から出た。 「この割付状は、被害者が作った」と千世。 「何のために自分の懐へ入れた」 生きて役所へ出すつもりだった。 殺した者は、それを戻した。 偽状を隠すのでなく、死体と一緒に見つけさせた。榧平の者が、偽の年貢を作ったように見せるためか。それとも、源左衛門の企みを告げるためか。犯人は、紙の意味を知っていた。 白背谷の赤土を三か所から採った。 登勢の油小屋。 大葛村南の焼畑。 砥石村の瓦土場。 源左衛門の足袋には、赤い粘土と細い黒砂が混じる。 焼畑は赤土だけ。 瓦土場は雲母が多い。 油小屋の土には、搾り滓を乾かすため川砂を撒く。赤土と黒砂。 「油小屋で殺された」と同心が言った。 登勢は否定しなかった。 「昨日、源左衛門様は来たよ」 「いつ」 「寺鐘の五つ前」 送り火の第一火は、六つ鐘の少し前。 「何の用だった」 「油の値を下げろと」 油小屋の床には、洗った跡がある。祭礼前に毎年洗うと登勢は言った。 節縄は七本。 一本だけ新しい。 「古い縄は?」 「切れたから、火へくべた」 送り火の灰を調べれば、金具や太い瘤が残るかもしれない。登勢は白い手拭いを締め直した。 「私が第一火を点けたところを、谷中が見ている」 千世も見た。 山の上に、白い手拭いの女がいた。十三の火皿は、夜明けまでに燃え尽きていた。千世と伊織は、皿ごとに灰を分けた。一番から十二番までは、藁、松葉、菜種滓。十三番には、太い麻の燃え残りがある。 半間ごとの瘤。 同心が登勢を呼んだ。 「切れた節縄だね」 「人を締めた縄か」 「そんなことは灰に訊きなさい」 藩医は燃えた縄と首痕を比べた。 太さは合う。 瘤も合う。 だが焼けた繊維から、同じ一本かは分からない。 「隠すなら、なぜ十三番へ」と伊織。 十三番の火は最も高く、最後に点ける。人目も多い。 「どの火へ入れても見られる」と千世。 「油小屋の釜なら」 登勢は油小屋に大きな焚口を持つ。縄一本を灰にできたはずだ。送り火へ入れたのは、見つけさせるためかもしれない。千世は灰の中から、青い小石を拾った。縄の瘤へ結び込まれていたものだった。 荷縄の持ち主を見分ける印。 青石は砥石村の沢でしか採れない。 「登勢の縄ではない?」 「油樽を運ぶ者から借りることはある」と登勢。 持ち主は砥石村の炭問屋だった。三日前、縄を一本なくしている。登勢を指す灰が、別の村へ道を伸ばした。 第五章 紙問屋 鳴海宗七は、城下から駕籠で来た。紙問屋だが、指に墨も楮傷もない。藩札と借財の取次で財を作った男だった。 「馬淵様とは、材木の見積をしただけです」 「百二十両の礼銀も?」と伊織。 「成れば、の話」 榧林は油分の多い実を採り、木は水に強い。大木を一度伐れば、次に同じ太さになるまで人の一生より長い。 「御林なら、藩から買うのでしょう」 千世が訊くと、宗七は笑った。 「御林に住む者がいれば、先に片づける必要がある」 「何を」 「炭小屋や畑です」 人と言わなかった。 源左衛門の偽割付状を見せる。 宗七は初めて見たと答えた。 紙の漉き目を見る目は速かった。 「これは当年の紙ではない。十五、六年前の楮です」 「なぜ分かる」 「寒晒しの筋が違う」 右下の虫食いを見て、口を閉じた。 「同じ紙を知っている?」 宗七は、古い割付状を担保に取ったことがあると認めた。柊坂藩が八年前、大坂商人へ差し入れた証文の添付だった。 高百二十石。 村名は切り取られていた。 偽割付状の〈榧平村〉は、千世の字に似ていた。横画を右上がりにし、榧の木偏を細く書く。伊織は、過去帳の雨宮弥平と並べた。 「同じ手に見える」 「私ではありません」 「馬淵家の練習書きも似ていた」 「真似たのでしょう」 「なぜ、あなたの字を」 八年前、榧平の名を死者として書いた筆。同じ筆跡で村名を書けば、偽状に古い秘密のつながりを作れる。源左衛門が自分で真似たなら、千世を巻き込むつもりだった。千世は紙へ〈榧平村〉と書いた。 比べる。 似ている。 違いは、榧の右払いだった。千世は筆を止め、払いを二度に分ける。偽状は一息に引いてある。 「この癖を知る者は?」 「寺の帳面を見た者」 三村の庄屋。 郡役所の宗門改め。 慈周。 死者として書かれた本人たち。 千世自身。 伊織は彼女の筆を預かった。 「疑うのですか」 「疑わず預かれば、後であなたの字が全て疑われる」 千世は筆を渡した。 父の形見だった。 郡役所から、古い割付状の控えが届いた。十五年前、大葛村へ出したもの。紙の右半分が残り、割印の右半分がある。 偽状の左半分と合わせる。 虫食いまで一つの円になった。 元は大葛村の年貢割付状だった。源左衛門の父が保管し、代替わりの時に息子へ渡したはずの紙。本文の村名部分だけを薄く削り、千世に似せた字で榧平と書いた。 年号も寛政三へ変えた。 石高百二十は、元の大葛村の枝高だった。 「真正な印で、偽の村を作った」と伊織。 印を盗んだ者はいない。 古い正文と控えを切り離して保管する仕組みが、偽状へ本物の半印を与えた。 源左衛門が作った証拠は揃う。 だが筆跡だけが千世へ戻る。 慈周が言った。 「あの字を教えた者がいる」 「誰です」 「お前の父だ」 寺の帳面だけでなく、馬淵家の若い源左衛門も、千世の父から算筆を習っていた。二人の字は、同じ根から分かれていた。十三枚の火皿の裏に、墨書きが見つかった。 灰を洗うと、薄い屋号が出る。 雨家。 榧屋。 曲木。 沢端。 三村の名寄帳にはない屋号だった。千世は受取帳の空欄へ、一つずつ写した。 慈周が止めた。 「それは寺の帳面ではない」 「だから、新しく作ります」 「誰に見せる」 「まず自分に」 送り火は死者を数えると思っていた。 裏の名は、家を数えている。 三村の誰が皿を持ち、誰が油を出し、誰が山へ運ぶか。その受渡しだけを公の帳面に書き、火の持ち主は裏へ隠した。 「榧平の十三戸ですか」 慈周は否定しなかった。 「昨夜、火のそばにいた人たちは」 「山で働く者だ」 「死者ですか」 慈周は千世を見た。 「過去帳では」 千世は十三の屋号を写し終えた。死者の帳面から、生きている家の帳面が一冊生まれた。 第六章 隠れ道ではない道 榧平へ続く道は、隠されていなかった。小野沢村の外れから、炭俵の轍を辿ればよい。 橋もある。 道標もある。 ただし道標には〈御林炭場〉と書かれ、村名がない。千世は伊織、同心二人と山へ入った。杉林を越えると、斜面へ畑が開く。 蕎麦の白い花。 楮を蒸す湯気。 軒下の薪。 水路で大根を洗う女。 廃村でも、落武者の隠れ里でもなかった。人が朝の仕事をしている場所だった。 十三戸。 火皿と同じ数。 子どもが伊織の刀を見て家へ走った。 戸が閉まる。 「役人を連れて来たのか」 木地椀を持った男が道へ出た。 送り火で見た顔。 「雨宮弥平さん」と千世。 男の目が細くなった。 「その名の者は、八年前に死んだ」 「私が書きました」 弥平は椀を地面へ置いた。 「なら、あんたが殺したのか」 弥平は清岳道心という自分の戒名を知っていた。 「寺から紙が来た」 八年前、三村への移住証文と一緒に、四十一人分の戒名が榧平へ届けられた。生きている者は、以後その俗名を公の場で使わない。三村の人別帳では別の家の弟、奉公人、伯母、養子として記された。 「雨宮弥平は死んだ。大葛村では、雨屋平吉という炭焼きだ」 年齢は二つ若くした。 妻は砥石村の寡婦として別帳。 同じ家に住みながら、紙では別の村にいる。 「なぜ受け入れたのです」と伊織。 弥平が笑った。 「受け入れなければ、米をくれたか」 飢饉の夏、榧平の蔵は空だった。藩は村を下へ移し、働ける者を城下普請へ出すと命じた。高齢者と幼子は寺へ預ける。慈周と三村の役人が、別の案を持ってきた。帳面の上で全員いなくなれば、ここへ非公式に米を運べる。田畑は三村の出作として残せる。 「選べたのは、どちらへ死ぬかだった」 弥平は、自分の戒名を口にした。生きた声で聞くと、千世の書いた四字が重かった。榧平の墓地には、墓石が九つあった。 大きさは不揃い。 名のない石も三つ。 過去帳の四十一名のうち、実際に死んだ九人だった。 弥平は一つずつ俗名を言った。 たま、九歳。 作兵衛、六十四歳。 さき、二十七歳。 赤子は名を付ける前だったが、過去帳には春泡童子とある。 千世は、たまを覚えていた。 寺の井戸で水を飲み、柄杓を戻さず怒られた子。八年前、四十一名の紙片にたまの名を見つけた時、一人だけ顔が浮かんだ。ほかの四十を、同じ死として書いた。 「葬具は九人分でした」 「九人しか死んでいない」 「なぜ、墓石を隠さなかったのです」 「死んだ者まで、帳面に合わせて消せと言うのか」 送り火の十三皿は、家を送る火。墓地の九つは、死者を弔う小火。 毎年、同じ夜に別々に灯す。 三村から見えるのは十三皿だけ。九つの小火は、山のこちら側に隠れる。 隠したのは村ではない。 どの数を誰に見せるかだった。 登勢の娘、澪は榧平に住んでいた。弥平の弟、雨宮朔と夫婦になり、子が二人いる。宗門人別帳では、澪は小野沢村の油屋にいる。 朔は八年前に死亡。 子どもは、登勢の家の養子と奉公人。四人家族が、紙では一人ずつ別の形だった。 「送り火の夜、母上と入れ替わりましたか」 澪は返事をしなかった。 左手の火傷を袖へ隠す。 「第一火を点けたのは、あなたですね」 「誰が点けても、火は火です」 「お登勢さんのアリバイになります」 「ありばい?」 伊織が、疑いを避ける証しだと説明した。澪は母の白い手拭いを借りたことを認めた。登勢が油小屋の戸締まりをする間、先に山へ上がった。 第一火を左手で点けた。 途中で登勢と入れ替わり、自分は寺へ油壺を届けた。 「毎年そうするのか」 「今年だけ。母が遅れたから」 何に遅れたのか。 澪は知らないと答えた。 母を庇うための嘘か、本当に知らないのか。千世は、二つを同じ欄へ入れなかった。 第七章 庄屋の使い 源左衛門は死ぬ前日、榧平へ使いを出していた。偽割付状へ十三戸の連印を求めた。 〈これまで年貢を隠して村を立てた詫びとして、御林を明け渡す〉 印を押せば、榧平が自ら不正を認めた形になる。拒めば、郡役所へ無宿者三十二人を訴える。 「三十二ではありません」と澪。 八年の間に、五人が死んだ。 子どもが七人生まれた。 今は三十四人。 帳面の脅しは、八年前の数で止まっていた。 「源左衛門は、ここへ来ましたか」 「盆の日、油小屋で登勢さんと会うと言って下りた」と弥平。 「なぜ登勢さんと」 榧平十三戸の連印を集められるのは、登勢だった。救米を運び、三村の名義を割り振り、毎年の送り火を整えた。 「私たちの庄屋は、紙では三人いる」と弥平。 「実際には?」 「登勢だ」 役目も名もない女が、帳面の外で村を動かしていた。伊織は榧平の者を、一人ずつ数えようとした。 弥平が止めた。 「数えた後、どうする」 「宗門改めと検地へ載せる」 「どの村に」 伊織は答えられない。 榧平を村と認める権限は、彼にない。三村へ正式に入れれば、今の虚偽が確定する。無宿として捕らえれば、八年前の藩役人の命令を住民へ罰として返す。 「今は、殺人の聞き取りだけ」と千世。 「役人を連れて来た人が、今だけと言うのか」 弥平の言葉は正しい。 千世は自分の帳面を閉じた。 「名を聞かず、人数だけでも」 「何のためだ」 「帰る時、一人足りないと分かるように」 山へ入った同心は二人。 伊織。 千世。 合計四人。 榧平から案内に弥平一人。 下りる時は五人。 弥平は、村の人数を教えなかった。 千世たちの人数を数えた。 「五人、下へ返す」 誰を数える権利があるかが、初めて逆になった。寺の年貢蔵前に残った車輪跡を、雨が薄くした。 右の轍だけ深い。 左には赤土が残り、右は表面が洗われている。近くの水路へ車輪を一つ落とした跡があった。大八車の荷が右へ偏り、片輪を水へ入れて泥を落とした。 「人一人の重さで、どれほど沈む」と伊織。 米俵を一つずつ載せて試した。 二俵で、右轍の深さに近づく。 源左衛門の体重とほぼ同じ。 油樽の空箱なら、外から荷が見えない。祭礼の日、寺へ大八車を入れた者は三組。 登勢と澪の油。 砥石村の団子。 大葛村の薪。 団子の車は二輪とも細い。 薪車は鉄輪。 轍は、登勢の木輪と幅が一致した。 「車は誰が押した」と同心。 澪は、寺まで自分が押したと答えた。 受取帳にも澪の印。 その時、荷台に遺体はなかったという。 「箱の中を見ましたか」と千世。 澪は油壺を載せた。 空樽箱は、母が先に積んでいた。祭礼油の受取札は十三枚あった。 一壺につき一枚。 寺鐘の回数を、時刻の代わりに端へ書く。 十二枚は〈五つ前〉。 一枚だけ〈六つ前〉。 墨が新しい。 千世の受取帳では、十三壺全て五つ鐘の後に届いている。 「この札は誰が書いたのです」 登勢は自分だと答えた。 「山から戻って、書き忘れに気づいた」 六つ鐘より前に油が寺へ着いたように見せるための後筆だった。 だが受取帳に澪の印がある。 消せない違い。 「源左衛門様が油小屋へ来たのは、五つ前と言いましたね」 「来て、帰った」 「どちらへ」 「寺だろう」 「足跡はありません」 源左衛門の足袋には油小屋の赤土。 年貢蔵に足跡はない。 大八車の右轍。 登勢は、答えの代わりに受取札を見た。 「字だけで、人を縛るのか」 「首の縄だけで決めないために、字を見ています」 千世は言った。 登勢の目が、初めて揺れた。 第八章 父の教え字 千世は父の手本帳を開いた。 寺へ入る子ども、庄屋の跡継ぎ、商家の娘へ算筆を教えた記録。 馬淵源左衛門、当時十二歳。 千世、当時七歳。 同じ頁に〈榧〉の字がある。 父は木偏を細く書き、右払いを一息に引いた。源左衛門は、その癖をそのまま残した。千世は途中で、払いを二度に分けるよう変わった。偽割付状は、源左衛門の字だった。 千世の真似ではない。 二人とも父の字を使っていただけだった。 伊織は千世の筆を返した。 「疑いは晴れたと言えますか」 「村名を書いた疑いは薄い」 「殺した疑いは」 「あなたには油小屋の赤土も、荷車もない」 完全な否定ではなかった。 千世は筆を受け取った。 父が教えた字は、死者を偽る過去帳と、村を陥れる偽割付状の両方に使われた。 教えた者の責任ではない。 使った手の責任だった。 源左衛門の袖に、黒い煤が付いていた。 同心は送り火の煤だと考えた。 送り火には松と菜種滓を使う。 灰は軽く、煤に油の匂いが残る。袖の煤は粒が粗く、杉皮を低い温度で燃やしたものだった。登勢の油小屋では、搾り釜を杉皮で焚く。釜の横へ、源左衛門の羽織と同じ織目の糸が引っ掛かっていた。口論で柱へ押しつけられた時のものか。 殺された時か。 藩医は、死亡は六つ鐘より前と見た。腹に残った昼飯、首の死斑、体の冷え。第一送り火より少なくとも半刻前。山で登勢に見えた女は澪だった。 その頃、登勢は油小屋にいた。 源左衛門もいた。 「捕らえますか」と同心。 伊織は首を振った。 登勢が油小屋にいたことは、殺害の機会を示す。縄、車、合鍵を使ったことはまだ直接結びつかない。 榧平を守りたい者は三十四人。 三村で秘密を知る者は、さらに多い。一人の女へ、村全部の動機を載せてはいけなかった。送り火で焼けた節縄は、砥石村の炭問屋、笹木屋の物だった。主人の庄助は、登勢へ貸したことを否定した。 「盆前、油樽を二つ運んだ時は俺が使った。その帰りになくした」 油小屋まで樽を運び、空荷で砥石村へ戻る途中。最後に縄を見たのは登勢の庭だった。 「あの女なら、黙って借りて黙って返すことはある」 「返っていない」と伊織。 「だからなくしたと言ってる」 庄助の家を改めると、同じ青石を結んだ縄が五本あった。 瘤の間は半間。 油樽の荷締めに使う。 一本を藩医へ渡した。 首痕の太さ、撚り、瘤の形は合う。だが谷の荷縄は同じ縄師が作る。 青石だけが笹木屋の印だった。 「源左衛門を恨んでいたか」 庄助は笑った。 炭山の年貢を二重に取られた。 娘の婚礼へ貸した米を、利息ごと差し押さえられた。恨んでいない者を探す方が難しい。送り火の夜、庄助は十三番の火にいた。縄が焼けるところを見たかと訊くと、見ていないと言った。 「見ていたら、止めた?」 「縄より先に、あの庄屋が燃えると思った」 冗談にしては、目が笑っていなかった。源左衛門が死ねば、新検地で得をする者がいる。大葛村の隠し田を知る庄屋が消える。伊織は藩士であり、検地の成績を上げれば加増の望みがある。 同心は、伊織の間縄を調べた。 一本欠けていない。 それでも伊織は、送り火の前に寺を離れ、一刻近く行先が分からない。 「古い畦を見ていた」と彼は答えた。 供は連れていない。 草履には赤土。 油小屋へ続く道も赤土だった。 千世が、藩士の草履を調べることはできない。 同心も遠慮した。 伊織は自分で脱ぎ、縁側へ置いた。 赤土に白い石灰が混じる。 検地予定地の境界へ打った目印の粉。 油小屋の土にはない。 「私も疑いから外すな」と伊織。 「役人を疑って、誰が帳面を見せます」 「疑わない役人なら見せるのか」 千世は答えなかった。 伊織の荷物から、大坂商人の借財写しが出た。彼も榧林と百二十石を、寺へ来る前から知っていた。 第九章 借財のただし書き 柊坂藩は、天明三年の春、大坂の蔵元から三千両を借りた。担保は翌年以降の年貢米と、御林の伐採権。証文のただし書きに、〈領内高三万二千石を下らざること〉とある。飢饉で村が潰れ、荒地として高を落とせば、蔵元は期限前に返済を求められる。 「榧平百二十石を消せなかった」と千世。 「村名を消し、高だけ三村へ移した」と伊織。 帳面上、柊坂藩の石高は減らない。生き残った者を三村へ移したことにすれば、救米と年貢免除を公に出す必要もない。榧林は無人の御林として担保へ入れる。 「誰が決めたのです」 証文には前郡奉行の名。 八年前に病死している。 下書きをした書役も死んだ。 三村の庄屋のうち、源左衛門の父と登勢の夫は死去。砥石村の前庄屋は隠居して寝たきり。生きている中心人物は慈周と登勢だった。 「二人が殺人をしたとは限らない」と伊織。 「古い口を塞ぐなら、源左衛門でなく二人を殺すでしょう」 源左衛門は秘密を暴く側ではない。秘密を使って、新しい金を得ようとした側だった。彼を殺す動機は、昔の役人だけでなく、現在の榧平にあった。大葛、小野沢、砥石の三村は、榧平の百二十石を分けて背負っていた。 大葛、五十石。 小野沢、四十石。 砥石、三十石。 名寄帳では、榧平の田畑が三村の名請人へ割られている。 実際に耕すのは榧平の者。 年貢は三村がまとめて納める。 豊作なら問題は小さい。 凶作なら、榧平が足りない分を三村が負担する。 「私たちも盗られた」と砥石村庄屋。 「榧平だけを守った話にするな」 八年間で、三村が肩代わりした米は合計三十七石。一方、榧平から出た炭と楮の利益を、三村の商人が得た。 笹木屋もその一人。 肩代わりより多く儲けた年もある。 「得と損を一つにできますか」と千世。 「免割帳ならできる」と庄屋。 人の家へ、石高と率を割り当てる。だが、誰が道普請をし、誰が病人を運び、誰が婚礼の保証人になったかは載らない。 三村の者が榧平を守った。 榧平の労働で三村が儲けた。 余分な年貢を負わされた。 同じ家が、三つの側にいた。 宗門人別帳を照合すると、年の合わない子が七人いた。天明三年に榧平から移住した者の〈同道の子〉。 生年は天明五年、六年、七年。 移住した後に生まれた子が、二年前から一緒に来たことになっている。 「後から書き足した」と伊織。 「毎年の改めで、家族を増やしたのでしょう」 三村の帳面には、別々の筆。 書き方だけが同じだった。 子の続柄を〈同道〉とし、生地を書かない。 一人の指図で作った型だ。 小野沢村の帳面では、澪の長男が登勢の養子になっている。 父の欄は空白。 千世は榧平で、その子が朔を父と呼ぶのを聞いた。 「帳面を直せば、この子は誰になります」 「雨宮朔の子」と伊織。 「朔は死者です」 まず父を生き返らせる。 次に婚姻を入れる。 相続する土地を戻す。 三村で養子として得た権利をどうするか決める。一行の虚偽を直すために、別の村の家が変わる。真実は、上から新しい墨を塗れば出るものではなかった。慈周は八年前、年貢蔵から救米を榧平へ送ったと認めた。蔵の合鍵は、そのために作った。 藩から預かった備荒米を、郡奉行の口頭命令で夜に出した。 正規の払帳にはない。 「盗みでは」と伊織。 「飢えた者へ渡した」 「帳面では盗みです」 「帳面のために死なせるのか」 慈周の声が初めて強くなった。 米糠蝋で本鍵の型を取り、城下の鍵師へ別の蔵の鍵だと頼んだ。 合鍵は登勢へ渡した。 「今も持っている?」 「返してもらっていない」 登勢には年貢蔵を開ける鍵がある。 源左衛門の遺体を入れられる。 「なぜ昨日まで言わなかった」と千世。 「米を盗んだ者として、登勢が先に捕らえられる」 「今は人殺しの疑いがあります」 慈周は数珠を止めた。 守るために黙ったことが、疑いを濃くした。 八年前も同じだった。 慈周は人を守ったと信じ、守られた者が後で何を失うかを言わなかった。 第十章 返さない鍵 登勢は合鍵を持っていると認めた。 油小屋の床下から出した。 歯に米糠蝋が残る古い鍵。 年貢蔵の錠へ入る。 「八年前から、一度も使っていない?」 「三度使った」 天明四年、残った粟を出した。 天明六年、榧平で赤子が続けて生まれ、米を足した。去年、鼠に食われた備荒米を捨て、代わりを入れた。 全て帳面にない。 「送り火の夜は」 「使っていない」 鍵には新しい油が付いていた。 錆止めの菜種油。 登勢は毎月塗ると言った。 使った痕か、手入れの痕か分からない。 同心は鍵を取り上げた。 榧平への救米の罪も調べると告げる。 「米を返せと言うなら、返すよ」 「何石だ」 「人が生きた分」 数字で答えなかった。 登勢は捕らえられなかった。 鍵、赤土、縄、車、入替り。 疑いは揃う。 遺体を載せた時、車を押した証拠が足りなかった。鳴海宗七は、源左衛門へ手付金二十両を渡していた。 「御林の明渡しが成らなければ返す約束です」 源左衛門が死ねば、返済を遺族へ請求できる。 殺して得る金ではない。 だが宗七は、榧平の者を移す先まで用意していた。 城下外れの紙漉き場。 男は楮蒸し。 女と子どもは紙干し。 住居と食事を出し、賃金から引く。 「追い出すのでなく、仕事を与える」と宗七。 「断れますか」 「御林に残れぬなら、ほかを探すより良い」 選べる前に、良い方を決めていた。宗七は送り火の夜、城下の芝居小屋にいた。座元、役者、客二十人が見ている。 殺人はできない。 源左衛門の企みには金を出した。 「死人へ全部載せて、取引をなかったことにするつもりですか」と千世。 宗七は扇を閉じた。 「商いは、人が死ねば止まる」 「止まったところまでの帳面は残ります」 手付証文を伊織へ渡した。 三村へ、過去帳の三十二人が生きているという噂が広がった。寺の門へ、死者を売った女と墨で書かれた。 千世は水で落とした。 翌朝、また書かれた。 「私の命令だと言えばよい」と慈周。 「命じられても、書いたのは私です」 「知らなかった」 「訊かなかった」 四十一人分の葬具がないことに、当時も気づけた。一日に十人死んだのに、埋葬を見なかった。慈周が渡す紙を、整った字へ変えることが自分の役目だと思った。 「辞めますか」と伊織。 「寺を?」 「筆を」 辞めれば、潔いと褒める者がいるかもしれない。 過去帳は別の者が続ける。 三十二人の行は残る。 「書きます」 千世は門の墨書きを、日付と共に写した。悪口まで帳面にするのかと伊織が訊いた。 「私が責められたことを、慈周様の命令で消さないためです」 榧平の三十四人が、光照寺へ来た。八年前に死者とされた三十二人のうち、生存二十七。 その後に生まれた子、七人。 死者五人は榧平の墓へ加わっているが、光照寺の過去帳にはない。紙で生きた者が死に、紙で死んだ者が生きている。弥平は寺の庭で、自分たちを今すぐ人別帳へ戻せと求めた。 澪は反対した。 「戻したら、御林を出ろと言われる」 炭焼きの庄吉は、砥石村へ正式に入りたいと言った。 息子が村の娘と婚約している。 老婆のうめは、名前など要らないから冬の道を直してほしいと言った。三十四人の意見は一つではない。伊織は、全員を一つの訴状へまとめようとした。 「一枚にしないでください」と千世。 「藩へ三十四通出すのか」 「同じ願いではありません」 その日の寺には、三十二の生きた声と、七つの子どもの声があった。 数が重なる。 千世は、合計を書かなかった。 第十一章 東の隣 新検地は延期されなかった。 殺人捜査と榧平の発覚があっても、秋の刈入れ前に測る必要がある。伊織は最初に、大葛村北端の畑へ間縄を置いた。 古い検地帳の境界を読む。 〈東、雨屋畑〉 次の筆には、雨屋畑がない。 代わりに〈西、孫平畑〉とする別の畑がある。西の隣があるなら、その東に土地がなければならない。 帳面には名のない空白。 千世は、隣接記述を小札へ一つずつ書いた。 東と西。 上と下。 道と沢。 名請人が消えても、隣の畑から位置が分かる。小札を地面へ並べると、空白の周りに線ができた。 「榧平の畑です」と弥平。 「証文は」と大葛庄屋代理。 「畦がある」 「畦は証文ではない」 「証文が消した畦だ」 伊織は、間縄を空白へ伸ばした。三日かけて隣接記述をつないだ。空白は十三の屋敷、二十七の畑、八つの焼畑、榧林を囲んだ。 推定高、百十九石七斗。 偽割付状の百二十石と、ほぼ同じ。 「三勺足りない」と伊織。 「畦が動いた分でしょう」と千世。 「三勺ではない。三斗」 千世は算盤を入れ直した。 違いを笑われると思ったが、伊織は訂正した札を渡しただけだった。百二十石の土地は、どこにも消えていなかった。大葛、小野沢、砥石の名寄帳へ細かく分け、御林の中へ溶かしてある。 名請人の花押は別人に見える。 末尾に、逆向きの小さな鉤。 八年前の郡書役の癖だった。 一人が、三村の名で書いた。 伊織は空白の中央へ杭を打った。 〈榧平・仮〉 弥平が杭を抜いた。 「仮の村に住んでいない」 「調べるための名だ」 「調べる時だけ名をくれるのか」 杭は地面へ戻らなかった。 千世は小札の上に石を置き、風から守った。検地役は、土地を測る前に名請人を訊く。榧平では、その順が使えなかった。 「この蕎麦畑は誰のものだ」 伊織の問いに、三人が答えた。 耕すのは雨宮朔。 名寄帳では小野沢村の真壁藤兵衛。 榧平では十三戸の共有地。 「一つ選ばねば帳面に入らない」 「選ぶ前に測ってください」と千世。 名請人欄を空け、面積、等級、作物だけを記す。藩の検地手引に、空欄は認められていない。伊織は欄外へ〈名義争い中〉と書いた。 三村の庄屋代理が反対した。 空欄の土地は、年貢を誰へ割り付けるか決まらない。 今年の納めが遅れる。 「なら去年の名で取ればよい」と藤兵衛。 榧平の者は、また別人の名で納めることになる。弥平は、決まるまで年貢を蔵へ入れないと言った。未納になれば、田畑を取り上げられる。測ることが、土地を戻す前に罰を作った。伊織は今年分を仮受けとし、誰の納付とも定めない封印俵にする案を出した。 藩の許しはまだない。 「勝手が過ぎる」と同心。 「勝手に名を決めるより小さい」 最初の蕎麦畑は、持主空欄のまま測られた。検地縄は、斜面へ沿わせれば長くなる。 水平に張れば短い。 古い帳面は斜面なりに測り、新しい検地は水平を原則とした。 同じ畑が狭くなる。 年貢は減るはずだった。 藩の手代は、減った分を等級の引上げで補おうとした。 「土は同じです」と弥平。 「日当たりが良い」と手代。 「八年前から日が増えたのか」 伊織は土を握り、水分と石を見た。 下畑のままにした。 別の畑では、榧平の者が縄をたるませようとした。 千世が見つけた。 「狭く測られたら困るのでは」 「狭ければ、御林へ戻る土地が減る」 面積が小さい方が年貢は軽い。 同時に、返される権利も小さくなる。 弥平は縄を張り直した。 「大きく書け。取るなら取れ」 村人が止めた。 年貢を払うのは皆だ。 真実の面積を求める声と、生きられる面積を求める声が、同じ畦で争った。千世は両方を検地帳の余白へ書いた。手代は、百姓の言い争いは不要だと消そうとした。 伊織が墨を乾かした。 「誰が縄を持ったかも測定のうちだ」 第十二章 昔の村絵図 砥石村の隠居庄屋が、床下から村絵図を出した。 天明三年より前。 三村と榧平を、四つの違う色で塗っている。 榧平は黄土色。 十三の屋敷が小さな四角で描かれ、榧林には共同の入会印がある。 「なぜ隠したのです」と千世。 老人は耳が遠く、三度聞いてようやく答えた。 「焼けと言われた」 前郡奉行は、古い絵図と帳面を全て焼くよう命じた。 大葛村は従った。 小野沢村は写しを寺へ預けたが、所在不明。砥石村は、庄屋が自宅へ隠した。 「村を助けるためか」 「自分を助けるためだ」 後で責められた時、命令の証拠になると思った。しかし絵図に命令は書かれていない。ただ榧平があったことだけを示す。老人は送り火の夜、寝床にいた。 源左衛門を殺す体力はない。 それでも八年前の不正を選んだ一人だった。 「今、出したのはなぜ」 「源左衛門が死んだからではない」 老人は弥平を見た。 「あいつらが寺まで来たからだ」 見える場所へ出てきた人に、隠す理由を失った。小野沢村の村絵図写しは、光照寺の経蔵から見つかった。 経典の帙に折り込まれている。 入れたのは慈周だった。 「燃やせなかった」 「出すこともできなかった?」 「出せば、米を盗んだことも分かる」 絵図の裏に救米の配分がある。 榧平十三戸へ、粟二十三石、米七石。 三村から出した分。 年貢蔵から出した分。 登勢が運んだ分。 最後に、〈不足三石、寺持〉。 光照寺が負担したように見える。寺の勘定では、その年、仏具修理に三石相当を使ったことになっていた。 架空の修理だった。 「寺を守るために隠したのですね」と千世。 「榧平を守るためだ」 「寺が潰れれば、救米の話も守れないと思った」 慈周は否定できなかった。 善い理由の中へ、自分を守る理由が混じる。源左衛門も、村の年貢を保つためと称して榧林を売ろうとした。 千世は絵図を伊織へ渡した。 寺の虚偽勘定も一緒に。 油小屋の柱には、源左衛門の羽織糸だけでなく、爪の傷があった。 五本。 高さは肩の位置。 柱の下に、折れた扇骨が落ちている。源左衛門の扇は、遺体の懐にあった。 一本だけ骨が足りない。 登勢は、口論した時に源左衛門が柱へ扇を打ちつけたと答えた。 「その後、歩いて帰った」 油小屋から寺までの道に、彼の草履跡はない。盆の人出で消えた可能性はある。しかし油小屋裏の赤土には、草履の踵が深く沈んだ跡が二つ。 つま先の跡がない。 人が立ったのでなく、後ろへ引かれた足。 その先に大八車の轍。 「倒れた源左衛門を、車へ運んだ」と伊織。 登勢一人で持ち上げるのは難しい。空樽箱の底には、縄を通す穴がある。滑車を使えば、体を引き上げられる。 油小屋の梁へ新しい擦れ。 登勢は毎日、重い油樽を一人で載せていた。人の重さだけが特別ではなかった。空樽箱は、油小屋へ戻っていた。 長さ五尺八寸。 源左衛門の身長より短い。 膝を曲げれば入る。 底板の右側へ、黒い杉煤と血の薄い染みがあった。登勢は、豚を運んだ血だと言った。 油屋は豚を飼わない。 藩医が布へ取り、湯と薬を使って人血の色を確かめた。血は源左衛門の後頭部の傷から出た量と合う。 箱の内側に、羽織の糸。 外側には、澪の手形がある。 油と灰で黒く残っていた。 「寺へ押したのは澪です」と同心。 「中身を知っていたかは別」と千世。 澪は油壺を載せた時、箱の蓋が閉まっていたと証言した。 重いと思わなかったか。 大八車の右輪が沈み、坂で何度も止まった。 「母は、壊れた石臼を入れたと言った」 石臼なら、同じほど重い。 澪は疑った。 開けなかった。 知らなかったことと、知ろうとしなかったことの境が、箱の蓋にあった。 第十三章 藤兵衛の証言 小野沢村庄屋の真壁藤兵衛は、登勢の義兄だった。送り火の夜、五つ鐘から六つ鐘まで油小屋で登勢と帳面を合わせたと証言した。これまで言わなかったのは、男女二人で小屋にいた噂を避けるためだという。 「義理の兄妹でしょう」と伊織。 「人は面白い方へ言う」 藤兵衛の足袋にも赤土。 油小屋へ行った証拠になる。 源左衛門の殺害を手伝った可能性もある。だが登勢は、藤兵衛は来ていないと否定した。 自分に不利な証言だった。 「庇われる理由は?」 登勢は笑った。 「村の庄屋だから、村のためと思ったんだろう」 藤兵衛の帳面を調べる。 送り火の日、油代の勘定はない。翌日、前日の日付で一行を足している。墨が乾かないうちに砂をかけた跡。 「会っていないな」と伊織。 藤兵衛は黙った。 殺人を知って庇ったのか。 疑われている義妹を、後から助けようとしただけか。 「遺体のことは知らない」 その言葉だけは早かった。 第一送り火を見た子どもがいた。 大葛村の十歳、米吉。 山上で火を点けた女が、左手を使ったと覚えている。 「どうして分かる」 「右で持つと、こっちへ火が見える」 米吉は斜面の下にいた。 女が左手で火縄を伸ばしたため、体の外側に炎が見えた。 右手なら背に隠れる。 さらに、風で手拭いが外れ、左手に白い痕が見えた。 澪の火傷。 「お登勢さんだと思った?」 「皆がそう言ったから」 顔は見ていない。 白い手拭いと紺の単衣。 呼ばれた名。 遠くの姿へ、周りの言葉が人を決めた。澪は自分が第一火を点けたと認めている。米吉の証言は、入替りを確かめただけだった。それでも第一火の時、登勢が山にいなかったことは明確になった。 源左衛門の死亡推定と重なる。 「母が殺したのですか」と澪。 千世は、はいと言わなかった。 「お母上が、油小屋にいた時間が分かりました」 分かったことの大きさを、言葉で増やさなかった。焼けた節縄を十三番の火へ入れたのは、登勢ではなかった。 澪が見ていた。 火が弱くなった時、藤兵衛が麻束を足した。 「縄とは知らなかった」と藤兵衛。 登勢から、焚き付けに使えと言われた袋を渡されていた。袋の中身を見ず、十三番へ入れた。 「なぜ十三番」 「一番遠く、火が弱かった」 登勢は、殺害に使った縄を自分で焼かず、義兄へ運ばせたことになる。 見つけさせるためではない。 自分が火へ近づかず処分するため。 青石は焼け残った。 「袋を受け取った時、登勢はどこに」 油小屋裏の道。 五つ鐘の後、六つ鐘の前。 大八車はすでに寺へ向かった後だった。藤兵衛は登勢の袖に血を見なかった。手は洗われ、着物は祭礼の紺へ替わっていた。彼は何も疑わず袋を受け取ったと言う。 「今も何も疑わないか」と伊織。 藤兵衛は答えなかった。 庇うためについた嘘が、知らずに証拠を運んだ自分へ戻った。登勢が箱へ入れたと言った壊れた石臼は、油小屋の裏にあった。 上臼だけ。 重さは米俵二俵分。 表面に雨の跡があるが、箱底に残るはずの円い擦り傷はない。 「以前に運んだ」と澪。 「いつ」 「盆の三日前」 その日の車輪跡を、送り火の日の重さと取り違えたという。だが寺の受取帳には石臼がない。登勢は、寺へ寄らず砥石村の石工へ運んだと説明した。 石工は受け取っていない。 壊れた臼は、ずっと油小屋にあった。 澪は母の言葉を信じた。 車を押す時、箱が片側へずれるたび、源左衛門の体も動いたはずだった。 「音は?」と千世。 「した。石が当たる音と思った」 「蓋を開けようとは」 「母が、急げと言った」 澪は両手を見た。 左の火傷は、幼い時、母を手伝って負ったものだった。母の仕事を疑わず手伝うことが、家を守ることだった。 その習慣が、遺体を運ばせた。 第十四章 登勢の勘定 登勢の油帳は、欠けなく付けられていた。 菜種の仕入。 搾り高。 寺への十三壺。 三村への灯明。 源左衛門が来た時刻だけがない。代わりに、〈油滓一袋、藤兵衛へ〉とある。 殺害縄を入れた袋だった。 「なぜ書いたのです」と千世。 「物を出したら書く」 「隠したい物でしょう」 「縄とは書いてない」 登勢は、帳面を正しく付けることで、自分は嘘をついていないと思おうとしたのかもしれない。あるいは、普段通りの帳面が一行欠ければ、かえって疑われると考えた。 「源左衛門様を殺しましたか」 「殺していない」 「油小屋で倒れた?」 「歩いて帰った」 「箱に何を入れた」 「石臼」 三つの答えは、物証と合わない。登勢は榧平を守った話をしなかった。功を先に出せば、殺人の言い訳になると知っているようだった。油小屋から光照寺まで、大八車を押して歩いた。 空荷で半刻。 米俵二俵を右へ寄せると、坂で一度休む必要がある。澪は五つ鐘の直後に油小屋を出た。六つ鐘の少し前、寺へ着いて受取印を押した。 時間は合う。 登勢が源左衛門を殺し、箱へ入れたなら、五つ鐘より前。 澪が知らずに寺まで運ぶ。 千世が油壺を受け取る間、箱は年貢蔵の横に置かれた。澪が山へ戻った後、登勢は別道で寺へ下りる。合鍵で蔵を開け、箱から遺体を移す。 偽割付状を懐へ戻す。 縄は袋に入れ、山へ戻る途中で藤兵衛へ渡す。十三番目の火を点け、皆の前へ現れる。道を実際に歩くと、六つ鐘までに間に合った。 「一人でできる」と同心。 「できることと、したことは別です」と千世。 箱の血。 合鍵。 後筆の札。 縄の袋。 一つずつ、登勢の手へ近づいていた。伊織は登勢を呼び、物証を順に示した。 油小屋の赤土と煤。 首痕に合う節縄。 源左衛門の体を入れた箱。 大八車の轍。 年貢蔵の合鍵。 澪との入替り。 藤兵衛へ渡した縄袋。 登勢は、全てに別の説明を繰り返した。最後に伊織が、偽割付状を置いた。 「これは馬淵自身が作った。榧平を追い出すためだ」 登勢の目が紙へ落ちた。 「知っていたな」 「知らない」 「村名の筆は馬淵。千世殿ではない」 登勢は千世を見た。 一瞬だけ、安堵した。 自分の疑いが晴れたからではない。千世が偽状を作った疑いから外れたことへ。その安堵を、千世は見逃さなかった。 登勢は守る相手を選ぶ。 榧平。 澪。 千世。 源左衛門は、その外へ置かれた。 「あなたが守った人の数と、殺した人の数は引き算できません」 登勢の口がわずかに開いた。 まだ自白はなかった。 伊織は捕縛を命じた。 同心が登勢の腕へ捕縄を回した。 澪が前へ出た。 「母は村を助けた」 「今、調べるのは源左衛門の死だ」と伊織。 「同じことです」 「同じにしたら、助けた人数で一人の死が消える」 澪は登勢を見た。 登勢は首を振った。 庇うな、という意味に見えた。 榧平の者が寺の門へ集まった。 弥平は、証が揃うまで連れて行くなと求めた。箱の血も、縄も、合鍵も見せた。 「全部、榧平を守るために使った物だ」と弥平。 大八車は救米を運んだ。 合鍵は年貢蔵を開けた。 節縄は炭俵と油樽を運んだ。 同じ物が殺人にも使われた。 「物に善し悪しはない」と弥平。 「使った手を調べます」と千世。 登勢は、自分の足で門を出た。 白い手拭いだけ、澪へ渡した。 捕縄を掛けられた手は、右も左も同じに縛られていた。 第十五章 口書の余白 登勢の吟味は、郡役所の板間で行われた。伊織が問い、書役が口書を作る。 登勢は文字を読める。 油帳も自分で付ける。 それでも口書は、最後に読み聞かせて爪印を取る決まりだった。 「五つ鐘前、馬淵源左衛門、油小屋へ来る」 「来た」 「言い争う」 「油値のこと」 「偽割付状を見せられたか」 「見ていない」 「節縄を首へ掛けたか」 「掛けていない」 同じ問答が続く。 書役は、登勢が答えなかった時間を書かない。 声の震えも書かない。 視線も書かない。 千世は立会いの席で、別紙へ間を書いた。 〈偽状の問い、息二つ分の後に否認〉 伊織が覗いた。 「証にはならない」 「分かっています」 後から、ためらいを自白に変えないためだった。登勢の口書には、言ったことだけを入れる。言わなかったことは、千世の観察として分ける。油小屋から寺へ続く裏道で、登勢を見た男がいた。 砥石村の紙漉き、伊助。 五つ鐘を少し過ぎた頃、登勢が空の油壺を二つ持ち、山へ急いでいた。 大八車は見ていない。 袖に血もない。 「何か話したか」 「十三番が遅れる、と」 伊助は最初の聞き取りで黙っていた。登勢が捕らえられてから名乗り出た。 「助ける証になると思った」 実際には、登勢が澪の車より後に油小屋を出たことを示す。遺体を箱へ入れ、澪に運ばせる時間があった。 「見たのは本当に登勢か」と伊織。 「近くで顔を見た」 「白い手拭いは」 「持っていなかった」 登勢は寺へ着く前、澪と入れ替わって手拭いを受け取った。伊助の証言は細い時間の隙間を埋めた。彼は登勢を助けようとして、捕縛の証を増やした。 源左衛門の免割帳には、榧平を追い出す理由が書かれていた。 大葛村の年貢未納、十八石。 前年の冷害と、二軒の逃散が原因。今年も足りなければ、源左衛門家の田を差し出す約定がある。榧林の礼銀百二十両で、未納を埋め、逃散した家の田を買い戻すつもりだった。 私腹だけではない。 自分の家と、大葛村の名請地を守る金だった。帳面には、未納分を各家へ割った計算がある。最も貧しい三軒へ、負担を付けていない。代わりに源左衛門家が六石を被る。 「善い庄屋だったのか」と同心。 千世は答えなかった。 貧しい家を守るため、榧平の三十四人を追い出す。 自分の田も守る。 その三つを一つの行へ書いた。 登勢と似ていた。 守る輪の内側が違う。 源左衛門が殺されたからといって、輪の外へ人を置いた計画は消えない。輪の内側で免除した六石も、嘘にはならない。澪は毎朝、郡役所の仮牢へ飯を運んだ。 麦飯と漬物。 登勢は受け取るが、澪と話せない。格子の向こうで、二人は同じ白い手拭いを見た。 「私が火を点けたから?」 澪が訊いた。 登勢は返事をしなかった。 「私に箱を押させた」 同心が、問いかけを止めた。 事件の話は吟味で行う。 澪は飯椀を床へ置いた。 「母が村を守ったと言う人がいる。母が人を殺したと言う人がいる。どっちを私に信じさせたいの」 登勢が初めて格子へ近づいた。 「どちらも、人に決めさせるな」 「なら、自分で言って」 登勢は背を向けた。 澪は空の飯籠を持ち帰った。 母を信じることと、母の言葉を待つことが、同じではなくなった。 第十六章 傷のない手 源左衛門の首を締めた縄は、背後から回されていた。藩医は首痕の上がり方を示した。 右側が高い。 犯人は左手で縄を押さえ、右手で引いた可能性が高い。 登勢は右利き。 澪は火傷のため、右手を主に使う。 どちらにもできる。 源左衛門の爪には、菜種滓のほか、皮膚片がなかった。 犯人へ掴みかからなかった。 不意を突かれたか、最初は縄を脅しと思ったか。油小屋の床へ、二人が向かい合った足跡が残る。 登勢の草履は小さい。 源左衛門の踵跡は後ろへ引かれる。登勢が正面で節縄を持ち、源左衛門が取り上げようと背を向けた時、首へ回したと考えられた。 「計画した者なら、正面から縄を見せるか」と伊織。 計画殺人ではない可能性。 源左衛門が何を言ったかで、動作が変わる。 物証は手の向きを示す。 怒りの言葉までは残さない。 源左衛門の使いが、口上を詳しく語った。登勢へ伝えたのは、油値の話ではない。榧平十三戸の連印を、偽割付状の添え状へ集めること。 翌朝まで。 断れば、澪と二人の子を最初に無宿として訴える。 「なぜ娘から」と千世。 「小野沢の帳面と榧平の暮らしが最も違うから」と使い。 澪の夫は死者。 子どもの父は公にはいない。 登勢の家が虚偽の中心だと示しやすい。源左衛門は、娘を捕らえたくなければ村の印を集めろと伝えた。 使いは言葉をそのまま届けた。 「脅しと分かっていた?」 「庄屋の用だ」 役目として伝えた言葉が、殺人の直前へ届いた。使いは自分の責任ではないと言った。 実際、殺せとは言っていない。 それでも、何を運んだかは口書へ残した。登勢は、源左衛門へ縄を掛けたことを認めた。 「印を押させるため、あの人が持ってきた節縄だ」 使いの口上と違う。 源左衛門自身が、榧平の連印を一つの縄へ結び、戸ごとに瘤へ札を付けるつもりだった。 十三の札。 登勢は縄を取り上げた。 源左衛門が、澪を先に牢へ入れれば皆が押すと言った。 「怖がらせるつもりで、首へ掛けた」 「引いたか」と伊織。 「引いた」 「死ぬまで?」 登勢は黙った。 源左衛門は最初、縄を外そうとした。 柱へ爪を立てた。 膝が落ちた。 それでも登勢は手を緩めなかった。 「止めれば、明日、澪を連れていくと思った」 一息の過ちではない。 人が抵抗しなくなった後も、縄を引いた時間がある。 「殺すつもりはなかった」と登勢。 「死ぬと分かって、いつ手を離した」と伊織。 答えは、口書へ入らなかった。 登勢は、源左衛門が歩いて帰ったという供述を撤回した。 油小屋で死んだ。 石臼を入れたという箱には、遺体を入れた。 澪には知らせなかった。 年貢蔵へ運ばせた。 合鍵で蔵を開けた。 偽割付状を懐へ戻した。 節縄を藤兵衛へ渡した。 「なぜ死体を隠した」と伊織。 「朝まで見つからなければ、榧平へ知らせられる」 実際には送り火の夜に見つかった。蔵の戸を閉め切らず、指一本分開けたままにしたのは登勢だった。 「見つけてほしかったのでは」 「閉め忘れた」 偽割付状を懐へ戻した理由も、登勢は源左衛門の企みを知らせるためと答えた。 「榧平の者が殺したように見える」と千世。 登勢は目を伏せた。 そこまで考えなかったと言う。 殺害後の周到さと、都合の悪い部分だけの無思慮。口書は、どちらか一方へ整えなかった。 第十七章 澪の爪印 澪にも、遺体運搬の疑いで口書が作られた。 箱の中身を知らなかったか。 坂で音を聞いた。 車が重かった。 血が底から滲まなかったか。 澪は一つずつ答えた。 音は石と思った。 重さは母が言った臼と思った。 血は箱の右隅に少量で、油滓の黒に隠れた。 「開けなかったことは、罪ですか」 書役は答えない。 伊織は、知らずに遺体を運んだ者を罰する定めはないと告げた。ただし母との入替りを最初に隠したことは、吟味を妨げた。 澪は詫書を出す。 爪印を求められた。 左手の親指は火傷で紋が薄い。 右手を使った。 宗門人別帳では、澪は文字を書けない奉公人になっている。 実際には自分の名を書ける。 「署名します」と澪。 爪印でなく、真壁澪と書いた。 雨宮の姓は、まだ公には使えなかった。 藤兵衛は偽証を認めた。 登勢が捕らえられそうになり、油小屋にいたことにした。殺人を知っていたわけではない。 「榧平を守れるのは登勢しかいない」 だから事実を確かめず、アリバイを作った。 「庄屋が虚偽を言えば、人別帳も年貢帳も何になる」と伊織。 藤兵衛は笑った。 「今さら、それを言うのか」 八年前、郡奉行の命令で三村全部が虚偽を書いた。今回だけ正しさを求める役所を、彼は信じない。それでも源左衛門殺しの吟味を妨げた咎は残る。藤兵衛は庄屋職を一時停止され、家へ戻された。村の年貢をまとめる者がいなくなる。 代わりを選ぶまで、登勢の油帳を読める澪へ手伝いを頼む案が出た。 「殺人の被疑者の娘だ」と反対が出た。 「帳面を読める者です」と千世。 澪は断った。 母の穴を、自分がすぐ埋めるつもりはなかった。源左衛門の妻、加代は、夫の免割帳を返すよう求めた。 「あの人が村を守ったところも書くのですか」 千世は、書くと答えた。 「榧平を追い出そうとしたことも?」 「書きます」 加代は帳面を抱いた。 「両方書いたら、どちらが本当になるの」 「両方です」 「便利な答えね」 夫を悪人にすれば、殺した登勢を理解しやすい。夫を善人にすれば、登勢の殺人だけを見られる。 加代はどちらも拒んだ。 源左衛門が百二十両のうち、三十両を自分の家へ入れる計算をしていたことも知っていた。 「私も止めなかった。田を失いたくなかったから」 加代は免割帳を伊織へ戻した。 「写しをください。夫を返してもらうのは、その後にします」 被害者の家にも、調べられる側の時間があった。 登勢の口書は十八枚になった。 最後に読み聞かせる。 登勢は三か所を直した。 〈激情に駆られ〉を削る。 「激情だったかは、私が言っていない」 〈榧平を救うため〉を〈澪を捕らえさせぬため〉へ。 村全体を理由に使わない。 〈思わず縄を引き〉を〈源左衛門が動かなくなるまで縄を引き〉へ。 自分のした時間を短くしない。 書役は、刑が重くなると教えた。 「軽くするための口書か」 登勢は右手の親指へ墨を付けた。 爪印を押す。 千世は立会人の欄へ署名を求められた。女の名は正式な立会いに使えないと、上役が止めた。伊織が、記録係として別紙へ署名させた。 同じ十八枚を綴じる紐へ通す。 本文の外に置かれた名でも、紙から離さなかった。 第十八章 油屋を閉める日 登勢が城下の牢へ移され、油小屋は閉じた。 三村の灯明油が足りなくなる。 笹木屋は城下から買えばよいと言った。 値は二倍。 榧平の菜種を買う者もいなくなる。 澪は油小屋を継ぐか迷った。 母の仕事を継げば、殺人の道具まで受け継ぐように見える。閉めれば、村の暮らしが止まる。 「油は人を殺していない」と弥平。 「母の言い方と同じ」と澪。 登勢は、縄も車も鍵も、物に罪はないと言った。だが物を使う仕事を続ける者には、使い方の記憶が残る。 澪は油小屋を開けた。 節縄を全てほどき、半間の瘤をなくした。 荷を締めにくくなる。 新しい縄には、持ち主と貸した日を木札で付ける。 殺人を防ぐ仕組みではない。 誰の手を通ったか、後で嘘をつきにくくする仕組みだった。登勢の殺人吟味が結んでも、榧平の帳面は終わらなかった。藩は三村の庄屋と慈周へ、八年前の虚偽を問い始めた。 救米の横流し。 宗門人別の偽り。 検地帳の改変。 御林への不法居住。 登勢が人を殺したことで、古い全ての不正も彼女の指図にされようとしていた。 「女一人が郡奉行を動かせますか」と千世。 上役は、郡奉行は死んでいると答えた。生きた者へ責任を集めれば、調べやすい。慈周は、自分が計画したと言おうとした。 それも一人へ集める嘘だった。 千世は砥石村の村絵図、寺の救米配分、三村の名寄帳、借財証文を一列に置いた。 「殺人の口書と、八年前の帳面を別に綴じてください」 登勢は両方に関わった。 同じ一冊へ入れれば、殺人犯の作った虚偽として藩の命令が消える。新しい吟味は、別の表紙から始まった。八年前の郡奉行命令は、原本がなかった。口頭で受けたと、三村の旧役人は言う。郡役所の日記には、榧平について一行だけある。 〈三村出作の儀、内々にて相済ますべし〉 朱印がない。 誰の命令かもない。 上役は、村役人が勝手に行った証だと読んだ。千世は〈内々にて〉の筆を見た。 前郡奉行の書役、河原崎の字。 借財証文も同じ手だった。 「書役が書いただけで、奉行の命令とは限らない」 「村役人が郡役所の日記へ書けますか」 上役は答えない。 命令を正式に残さないこと自体が命令だった。藩が後で否定できるよう、朱を押さない。三村は、その余白を承知で従った。命じられた証が薄いほど、従った側の責任は重く見える。 千世は日記の前後を写した。 同じ日に、備荒蔵の米三十石が〈虫損〉として減っている。榧平へ運ばれた量と同じだった。備荒蔵の払帳では、三十石の米が虫に食われ、家畜用に捨てられた。 捨場の記録はない。 蔵番の子が生きていた。 当時十五歳、今二十三歳。 「米は白かった」と証言した。 俵の外へ虫食い米を少量塗り、検分役へ見せた。その後、夜に俵を寺へ運んだ。 「誰の指図」 父は死んでいる。 父から、郡奉行の書役に従えと言われた。 書役河原崎も死去。 命令した者だけが、順に死んでいた。 「登勢はいましたか」 「寺から山へ運ぶ車を用意した」 米を蔵から出したのは藩の蔵番。 寺へ入れたのは慈周。 榧平へ運んだのは登勢。 三つの行為をつなぐ命令は、誰も持っていない。 「盗んだのは誰だ」と上役。 蔵番の子は言った。 「皆で盗んだ。だから、誰の米か分からなくなった」 備荒米は、飢えた領民のために積んだものだった。正規に出せなかったため、出した行為が盗みになった。 第十九章 大坂の控え 鳴海宗七は、大坂の蔵元から借財証文の控えを取り寄せた。 藩の証文と違う部分がある。 柊坂側の正文には、領内高三万二千石を下らないこと。 大坂控えには、その後へ一行。 〈凶作・水損の年は、双方吟味の上、三か年まで猶予〉 猶予条項が、藩の正文では切り取られていた。 「榧平を消さなくても、借財はすぐ返さずに済んだ」と千世。 宗七は、必ず猶予されたとは限らないと答えた。 蔵元が凶作を認めるか。 利息を増やすか。 ほかの御林まで担保に求めるか。 それでも選択肢はあった。 前郡奉行は、猶予交渉を藩主へ報告しなかった。財政が弱いと知られることを恐れた。 「なぜ一行を切った」と伊織。 宗七は、当時の取次が行ったと述べた。 鳴海家の先代、宗七の叔父。 宗七はその店を継いでいる。 「叔父の罪で、私の商いを止めますか」 「源左衛門の取引は止まっています」と千世。 「死んだからだ」 「一行を切った商いの続きだからです」 宗七は控えを引っ込めなかった。家を守るなら、見せない方がよい紙だった。慈周は、八年前の評定を語った。 榧平を谷下へ移す案。 男二十人を城下普請へ出す。 女と子を三村へ奉公に割る。 老いた者は寺で養う。 村の形はなくなるが、人別には残る。もう一つが、紙上の死と移住だった。 人は榧平へ残る。 公の道普請と救米を受けられない。 「どちらを住民へ示したのです」と千世。 「時間がなかった」 雪が早く、三日分の米しか残っていなかった。 「選ばせれば、争っている間に死ぬ」 だから慈周と庄屋たちが決めた。登勢は家々を回り、印を集めた。印の意味を、全員へ同じようには話さなかった。 山に残れる印だと言った。 死者になる印とは言わなかった。 「救った」と慈周。 「救われました」と弥平。 「では」 「救われたから、選ばなくてよかったとは言わない」 結果が良ければ、選択を奪ったことが正しくなるわけではなかった。登勢は、八年前の吟味にも答えた。 殺人の刑が決まる前だった。 古い不正を認めれば、さらに咎が加わる。 「四十一人を死者にする案を、誰が出した」 「前郡奉行」 「直接聞いたか」 「慈周から」 慈周は、書役河原崎から聞いた。 伝言が二人を通る。 「お前が三村へ別名を割った?」 「庄屋と一緒に」 「榧林を御林にすることは」 「後で知った」 登勢は、山に残れるなら土地名義も残ると思っていた。翌年、榧の実を採った者が御林盗伐で捕らえられ、初めて知った。 「その時、なぜ訴えなかった」 「訴える名がなかった」 榧平村は存在しない。 雨宮弥平は死亡。 登勢個人が訴えれば、救米と虚偽を自ら明かす。 彼女は沈黙を選んだ。 後に源左衛門を殺すまで、その選択を毎年続けた。紙上で死者になった三十二人のうち、八年間で五人が本当に死んだ。光照寺の過去帳には記せなかった。 すでに一度死んでいるからだ。 榧平では、木札へ俗名と没日を書き、墓へ埋めていた。千世は五枚を掘り出す場に立ち会った。 雨宮さよ。 清水兵作。 うめの夫、甚八。 乳児二人。 土で墨が薄い。 「過去帳へ二度書きますか」と澪。 最初の行を消せば、八年前の虚偽が見えなくなる。 残せば、同じ人が二度死ぬ。 千世は追記欄を作った。 〈右、天明三年帳面上の処理により死亡と記すも、実際は生存。寛政元年八月十日没〉 長い一行になった。 慈周は、過去帳へ役所の事情を書くものではないと反対した。 「事情で死ぬ日が二つになりました」 五人の死を直すには、八年前の嘘を同じ頁へ残す必要があった。 第二十章 たまの九年 実際に飢饉で死んだ九人の墓を改めた。 たまの墓には、没年がない。 石を彫る金がなく、小さな川石を立てただけ。過去帳では、天明三年七月十八日。 慈周の手元紙では七月十七日。 葬具勘定は七月十九日。 三つの日がある。 弥平は、十八日の明け方だったと覚えていた。 「鐘の前か後か」 「鐘を鳴らす人がいなかった」 飢饉の日に、正確な時はなかった。千世は過去帳の日を直さなかった。 〈七月十七日夜から十八日明け方。葬送十九日〉と追記した。 一つに決めない。 たまの年齢も、過去帳は九歳、宗門帳は十歳。数え年なら十、満ちた年なら九。 どちらかを誤りにしなかった。 四十一名を同じ三日へ並べたことで、たまの本当の死が薄くなった。千世は九人分だけ、墓、葬具、証言を別冊へまとめた。生きた三十二人を戻す作業と、死んだ九人を確かめる作業を分けた。 秋の収穫が始まった。 名請人を決められない榧平の年貢は、封印俵として光照寺へ運ばれた。 米十八俵。 蕎麦十二俵。 炭と楮は銀に換算。 三村の名でも榧平の名でも受け取らない。俵札には、耕した者の屋号だけを書く。藩の蔵役は、正式な村名がなければ皆済目録を出せないと拒んだ。皆済にならなければ未納が残る。 「米は目の前にあります」と千世。 「帳面に入らぬ米は、ないのと同じだ」 八年前と同じ言葉だった。 慈周は寺の米として納める案を出した。それでは榧平が納めた証が消える。伊織は仮受証文を自分の名で書いた。 権限外だった。 「処分されますよ」と千世。 「受け取らず腐らせても処分される」 俵は藩蔵へ入った。 皆済ではない。 未納でもない。 決まるまで米が存在するための、仮の一行だった。勘定方は、榧平へ八年分の追徴を試算した。 本年貢。 山役。 夫役の不足。 利息。 合計、米百十四石、銀二十三貫。 村が三度潰れる額だった。 三村名義で納めた分を引けば、大半は消える。だが誰の田から納めたか、免割帳が分散している。勘定方は、証明できない分だけ追徴すると言った。 「帳面を分けたのは藩です」と伊織。 「藩の命令はない」 朱のない一行。 虫損とした米。 切られた借財条項。 直接の命令証文がないため、三村と寺の勝手にされる。千世は三村の免割帳を、屋号と畑の隣接でつなぎ直した。 雨屋平吉は雨宮弥平。 小野沢の真壁名義畑は澪と朔。 砥石の炭役は榧平三戸。 納めた米、百九石。 不足五石。 その五石は、凶作時に三村が肩代わりした三十七石の内側にある。追徴するどころか、榧平は別名で多く納めていた。榧平で、今後を決める寄合が開かれた。 村名を戻す。 三村へ正式に分かれる。 今のままにする。 弥平は村名回復を求めた。 「榧平で生まれ、榧平で死ぬ」 炭焼きの庄吉は砥石村へ入りたい。息子の婚姻と炭問屋の取引がある。うめは、どの村でもよいから冬道を直せと言う。澪は、村名を戻せば母の殺人で名が知られることを恐れた。 「榧平と言えば、登勢の村になる」 「源左衛門を殺す前から、ここはある」と弥平。 「外の人は知らない」 千世は採決を勧めなかった。 多数で一つへ決めれば、別の村へ入りたい家をまた紙で移すことになる。 家ごとに希望を取る。 榧平枝郷を望む八戸。 砥石村二戸。 小野沢村一戸。 未定二戸。 十三戸の火皿は揃っていた。 行先は揃わなかった。 第二十一章 婚姻の三枚 澪と朔の婚姻を正式にするには、三枚の帳面を直す必要があった。 澪を小野沢村の実家から除く。 死者の朔を生存へ戻す。 二人の子を登勢の養子と奉公人から実子へ移す。小野沢村は、登勢家の跡継ぎがいなくなると反対した。澪の長男は帳面上、油屋を継ぐ者だった。榧平へ戻れば、油小屋の名請地が空く。 「母の家を潰せと言うのですか」と澪。 朔は、子を一人ずつ分ける案を拒んだ。 夫婦は榧平。 油小屋は澪が小野沢の別家として持つ。一人が二つの村に家を持つことを、庄屋は認めたがらない。伊織は、油屋の営業名義と居住人別を分ける案を出した。 「また帳面を分けるのか」と澪。 八年前と違うのは、本人が内容を知り、選べることだった。同じ仕組みでも、隠して使うか、開いて使うかで意味が変わる。 婚姻は三枚に記された。 どの一枚にも、全ては入らなかった。藤兵衛の庄屋停止で、小野沢村の年貢割が遅れた。村人は、榧平のために自分たちが罰を受けていると不満を言った。 登勢の救米。 藤兵衛の偽証。 澪の婚姻。 全て真壁家の話に見える。 小野沢村には四十七戸ある。 秘密を知らなかった家が三十戸以上。 八年前に余分な年貢を払った。 今また庄屋不在の手間を負う。 「榧平を切り離せ」と寄合で声が上がった。 別の者は、榧平の油と炭がなければ冬を越せないと言った。 澪は油値を上げなかった。 同情を買うためだと噂された。 値を上げれば、母の不始末を村へ払わせると言われる。何をしても、殺人の娘という意味が付く。千世は油帳の仕入と労賃を計算した。今の値では、澪の取り分がほとんどない。 村寄合へ数字を出す。 油値は一割上がった。 母の罪とも榧平の恩とも切り離し、仕事の値として決めた。光照寺には、救米横流しと過去帳虚偽の咎が言い渡された。 寺領の一部召上げ。 慈周は半年の逼塞。 宗門改めの取次停止。 千世は、寺の正式な役僧ではないため処分書に名がなかった。 「書いた者がいないことになっています」と彼女は言った。 上役は、女へ公の咎を科す定めがないと答えた。罰を受けないことが、無関係にされることだった。 千世は自分の申述書を出した。 四十一名を清書した。 葬具勘定を照合しなかった。 今年まで疑わなかった。 処分を求めるのではなく、記録へ名を入れるため。 上役は受け取りを拒んだ。 伊織が、榧平吟味の参考書として綴じた。慈周は、千世まで罪を背負う必要はないと言った。 「必要かどうかも、私に決めさせてください」 寺領を失えば、千世の食い扶持も減る。責任は、墨だけでなく冬の米へ変わった。前郡奉行の決裁を示す物が、登勢の油帳から見つかった。 天明三年の裏表紙。 紙を二枚貼り合わせて厚くしてある。剥がすと、救米運搬の小札が出た。 〈寺蔵より夜五つ、榧平十三戸へ。郡方承知〉 末尾に、小さな黒印。 正式な朱印ではない。 前郡奉行が私用の手紙に使う黒檀印だった。印影は、郡役所に残る俳諧会の短冊と一致した。公文書の印ではないため、上役は命令の証にならないと言う。 「私用印で公の米を動かしたから、内々なのでしょう」と千世。 登勢は小札を隠していた。 自分を守るため。 榧平を守るため。 いつか藩へ示すため。 三つの理由を、本人は語らなかった。殺人犯の家から出た証だから信用できないという声もあった。紙の古さ、墨、印影、貼り合わせの虫穴。物は、持ち主の罪と別に調べられた。 第二十二章 切られた端 小札の左端が、斜めに切れていた。同じ切り口が、郡役所の日記の一頁にある。 〈三村出作の儀〉と書いた行の下へ、紙片を貼っていた跡。 八年前、黒印の小札を日記へ仮留めし、後で剥がして登勢へ渡した。 虫穴の位置も合う。 「河原崎書役が、控えを残した」と伊織。 前郡奉行の正式命令ではない。 少なくとも郡役所が承知し、日記と同じ場所で小札を扱った証になる。三村だけの勝手という説明は崩れた。勘定方は、前郡奉行個人の越権だと主張した。 藩の責任ではない。 「奉行は藩から俸禄を受け、郡役所で米を動かしました」と伊織。 「藩主の命はない」 「百姓は、奉行の命と藩主の命をどう見分けます」 上役は答えなかった。 切られた紙の端が、命令した側と従った側を一枚へ戻した。榧平吟味は、郡役所から城の評定所へ移った。家老、勘定奉行、寺社方、郡方。畳の上に、村絵図と帳面が並ぶ。 千世は廊下の板間に座った。 女を評定の席へ入れない決まりだった。帳面について問いがあれば、襖越しに答える。 「三村庄屋が、藩高を保つため勝手に人別を改めた」 勘定奉行がまとめた。 「郡方の日記があります」と伊織。 「正式な決裁でない」 「備荒米は藩蔵から出ています」 「蔵番の不正」 「借財証文の猶予条項は、藩控えだけ切られています」 「先代取次の不正」 一つずつ、死んだ者と村方へ渡す。家老が、襖の向こうの千世へ訊いた。 「そなたは何を求める」 「私が決めることではありません」 「では、なぜ来た」 「決める方が、何を見たか残すためです」 評定の要点を、自分の別帳へ書いてよいか求めた。 許しは出なかった。 千世は記憶し、寺へ帰ってから書いた。公の議事録に入らない評定を、女の私記が残した。 伊織は検地役を外された。 名請人空欄の検地帳。 権限のない仮受証文。 女の申述書を吟味帳へ綴じたこと。役目に適さない、と上役は言った。 「帳面を正しく作るためにした」と伊織。 「正しい帳面とは、定め通りの帳面だ」 後任は三十年勤めた手代だった。榧平の測量を最初からやり直すと告げた。名請人欄は、三村の旧名義で埋める。 「処分を受け入れますか」と千世。 「受け入れなければ、役目へ戻るのか」 伊織は刀を預け、閉門を命じられた。 家で三十日、外へ出られない。 千世は検地小札の写しを持って訪ねた。 門番に渡す。 「役を外れた者へ、公の写しは見せられない」 小札は千世が書いた私物だった。 それでも受け取りを拒まれた。 千世は門前で、東西の隣接を声に出して読んだ。 中から返事はない。 翌日、門の隙間から訂正札が一枚出ていた。 伊織は聞いていた。 鳴海宗七は、榧林の伐採契約を諦めなかった。源左衛門との手付は無効になったが、藩は借財返済のため木を売る必要がある。 「全部伐らず、年ごとに区画を分ける」と宗七。 榧平の者へ伐採賃も払う。 弥平は、御林ではなく共有林だと拒んだ。 「共有と証す帳面は?」 昔の村絵図に入会印がある。 宗七は、絵図だけでは木の所有まで決まらないと言う。 千世は榧の実の油帳を探した。 飢饉前、十三戸が実を分け、寺へ初穂油を納めた記録。木を育て、実を採った使用の証にはなる。 「使うことと持つことは違う」と宗七。 「使わせず、持っていると言う方は、どこにいます」 藩は城下にある。 木は山にある。 宗七は伐採見積を三つに分けた。 全伐。 択伐。 倒木と枯木だけ。 利益は小さくなる。 交渉できる形になった。 第二十三章 最初の雪 十一月、榧平への道に雪が降った。村名がないため、藩の道普請割には入らない。三村は自分たちの道を先に直す。榧平の者だけで雪を踏み、崩れた木橋を直す。うめが寺へ薬を取りに来る途中、橋で転んだ。 骨は折れなかった。 背負って戻るのに半日かかった。 「村の名より道」と言った老婆だった。 千世は三村へ人足を求めた。 大葛は年貢蔵の修理。 小野沢は油搾り。 砥石は炭出し。 どの村にも仕事がある。 藤兵衛は庄屋停止中だが、自分の家の者を二人出した。笹木屋も炭車を止め、一人出した。 道普請は二日で終わった。 公の割当ではない。 恩として行えば、来年は続かない。千世は働いた人数と日数を記し、三村の夫役から引くよう願書を作った。道が先にでき、名は後から追った。 榧平の封印俵は藩蔵にある。 仮受のまま冬を迎えた。 皆済目録がないため、三村の帳面には百二十石分の未納が残る。未納村は、春の種籾貸付を受けられない。榧平だけでなく、三村全ての作付が遅れる。勘定方は、旧名義で皆済にすればすぐ出せると言った。 弥平は反対した。 「また一年、別の名になる」 砥石村は受け入れを求めた。 「名が決まる前に畑が死ぬ」 千世は封印俵を二つに分ける案を出した。 今年の納付として受けた事実。 誰の名義かの決定。 皆済目録に〈納付済・帰属吟味中〉と書く。 定めにない文言だった。 家老は、今年限りとして認めた。 三村へ種籾が出た。 榧平にも、十三戸分。 仮の一行が、春の作物へ変わった。登勢の刑について、評定が開かれた。故意に縄を引き続け、死後に遺体を隠した。 柊坂藩の定めでは、死罪に当たる。一方、事前に殺害を企てた証はない。娘の捕縛を告げる脅しがあった。八年前から三村の救米と生活を支えた。家老は、死一等を減じて永牢とした。 財産の半分を没収。 油小屋と道具は、澪の生業として残す。 「村を救った褒美で、命を助けた」と噂された。 加代は反発した。 「夫を殺した値が、油小屋半分ですか」 刑は値段ではないと説明されても、失った側には秤に見える。弥平は、登勢を死なせれば藩の罪を口封じできるから減刑したのだと言った。どちらの見方も、登勢の刑を別の目的へ使う。判決文は、救米を有利な事情としつつ、殺人を正当化しないと書いた。紙に分けても、人の受け取り方は分かれた。 加代は登勢との面会を求めた。 牢役人は、被害者の妻が何をするか分からないと拒んだ。加代は刃物も紐も持たず、格子の外に座るだけだと願った。許されたのは、役人二人の立会いで半刻。 千世も記録係として呼ばれた。 「夫は最後に何を言った」 登勢は、澪を牢へ入れると言ったと答えた。 「その前」 油値の話。 大葛村の未納。 伐採の礼銀。 「私のことは?」 「田を手放せば、加代が暮らせないと言った」 加代は目を閉じた。 夫は最後まで、自分が守る家の話をした。 「謝らないの」 「謝って、何を受け取らせる」 「それを私に決めさせて」 登勢は頭を下げた。 許しを求める言葉は言わなかった。加代も、許すとは言わなかった。面会記録には、謝罪ありと書かれた。千世は、〈許しの応答なし〉と追記した。 第二十四章 永牢の油代 登勢は牢内で灯明油を使う。 費用は囚人の家が負担する定めだった。澪の油小屋から、毎月一升を納める。母を閉じ込める灯りを、娘が作る。澪は城下油屋から買うと言った。 自分の油を渡したくない。 値は三倍。 弥平は、意地へ金を使うなと止めた。 「誰の意地です」と澪。 家計と感情を、同じ算盤で扱えない。 澪は半年、城下油を買った。 春から自分の油へ変えた。 許したからではない。 子どもの冬着を買う金が足りなくなったからだった。登勢は油の匂いで、いつ変わったか分かったはずだ。 面会では何も言わなかった。 牢の受払帳だけが、〈真壁澪納〉と記した。生活の決定が、和解の物語へ変えられないよう、千世は理由を別帳へ残した。冬の嵐で、榧林の木が七本倒れた。鳴海宗七は、枯木と倒木だけを買う案を実行したいと申し出た。 藩は御林として売る。 榧平は共有林として、自分たちへ代金を払えと言う。 木を放置すれば腐る。 先に伐り出し、代金を封印することになった。 誰の金か決まるまで使わない。 榧平の者が伐採と運搬を行い、労賃だけ先に受け取る。宗七は木目を見て、一本ずつ値を付けた。 弥平は安すぎると争った。 「倒れた木は割れが入る」 「倒れた原因は、藩が林を手入れしなかったからだ」 所有を主張する双方が、手入れを相手の責任にした。結局、売値の一割を植林費として先に取り分けた。持主が決まる前でも、次の木を植えることはできる。七本を伐った跡へ、榧の苗を十四本植えた。誰の木になるか、まだ分からなかった。 伊織の閉門が解けた。 検地役には戻れない。 城の文庫で古帳整理を命じられた。 左遷に見える。 彼は喜んだ。 「歩かなくて済むからではありません」と千世へ言った。 文庫には、前郡奉行の往復書状がある。 正式な決裁でない私信。 八年前の大坂蔵元との交渉も残るかもしれない。 「勝手に持ち出せば、次は閉門では済みません」 「持ち出さない。目録を作る」 文庫の目録は、箱番号と年だけ。内容を一通ずつ記せば、後から探せる。伊織は自分の役目を、検地から文書の畦づくりへ変えた。千世は、寺の写しを照合するため城へ呼ばれた。 女は文庫へ入れない。 伊織が書状を廊下へ持ち、襖の境で読む。二人の間に、開いた戸が一枚あった。 前郡奉行の私信が見つかった。 宛先は家老。 〈榧平の儀、村高を落とさず人別のみ三村へ預け、山は御林へ組み入るるほか、当座の凌ぎなし〉 家老からの返書はない。 ただ、同じ束に短冊が挟まれている。 〈左様取り計らい、表向きへ出すべからず〉 署名なし。 紙は家老家で使う雁皮紙。 筆跡も当時の家老に似る。 現在の家老の父だった。 「正式な命令ではない」と勘定奉行。 また同じ答え。 伊織は、私信、小札、郡日記、備荒米払帳を順に並べた。 一枚では命令にならない。 四枚が同じ日に同じ動きを示す。 「藩の関与なしとは言えません」と現家老。 父の責任を認める言葉だった。 同時に、藩主の命令までは認めない範囲を残した。 完全な自白ではない。 三村だけへ責任を渡す説明を止めるには足りた。 第二十五章 追徴停止 評定所は、榧平への過去年貢追徴を停止した。 免除ではない。 吟味が終わるまで取り立てない。三村名義の納付を正式に照合する。弥平は、停止では来年また請求されると反発した。勘定方は、免除すれば榧平を村として認めたことになると答えた。 「追徴する時だけ村にするのか」 評定所の廊下で声が響いた。 千世は追徴算盤の写しを出した。 八年で納付百九石。 三村肩代わり三十七石。 合計百四十六石相当。 帳面上の不足は五石。 むしろ三十二石多い。 勘定方は、肩代わりは三村の納付であり榧平のものではないと言う。 「なら三村へ返してください」と砥石庄屋。 藩は返せない。 追徴だけを続ければ、同じ米を二度取ることになる。停止は、免除へ向けた最初の言葉になった。後任の検地役は、榧平の十三戸を三村へ割り直そうとした。 川の東は大葛。 西は小野沢。 北の炭場は砥石。 一本の境界で分ければ簡単だった。雨宮家の屋敷は東、畑は西、炭窯は北にある。 一戸が三村に分かれる。 「家を動かせ」と手代。 「帳面のために?」と弥平。 八年前は、人の名を動かした。 今度は家を動かそうとする。 千世は昔の村絵図を見せた。 榧平の境は川や尾根でなく、十三戸が使う水路と入会林を囲む。 自然の線ではない。 暮らしが作った線だった。 後任は、複雑すぎると拒んだ。 現家老は、榧平を枝郷として一つにすれば検地帳が簡単になると気づいた。権利ではなく、帳面の都合から承認が近づいた。理由が不純でも、結果を使うか。 弥平は、使うと答えた。 雪の下で、榧の苗の半分が鹿に食われた。植林費を取り分けても、柵を作る費用は入れていなかった。宗七は、苗を売った者の責任だと言った。榧平は、御林番がいない藩の責任だと言う。持主争いの間に、残る苗も食われる。澪が油小屋の古い簀を持ってきた。 弥平たちが囲いを作る。 宗七は縄を出した。 藩の林方は、人足二人を出した。費用は、封印した材木代から仮に引く。 誰の負担か、後で決める。 「仮ばかりですね」と千世。 「春は評定を待たない」と澪。 苗を守る仕事だけが先に進んだ。 翌月、九本に新芽が出た。 枯れた五本も記録した。 成功した数だけを残さなかった。評定所は、榧平を大葛村の枝郷として認める案を出した。 条件がある。 年貢は大葛村がまとめる。 訴願は大葛庄屋を通す。 榧林の三分の二は御林のまま。 道普請は三村と分担。 榧平独自の庄屋は置かない。 源左衛門がいた大葛の下へ入る。加代は庄屋家を継がないと決めている。次の庄屋が誰になるか分からない。弥平は、一村として認めろと反対した。十三戸では村役を支えられないと勘定方。 「八年前は百二十石を支えられると言った」 言葉が詰まる。 澪は枝郷案を受けてもよいと言った。 「名が帳面へ戻る。後でまた変えられる」 弥平は、仮の承認が永久になると恐れた。三年間の試しとし、満了時に一村昇格を再評定する条項を求めた。 家老は、再評定だけ認めた。 昇格は約束しない。 完全な村ではない。 存在しない村ではなくなる案だった。 第二十六章 流さない頁 翌年の送り火に、榧平の名はまだなかった。大葛村枝郷として十三戸が帳面へ戻り、年貢も道普請もその名で割られた。それでも川辺へ並べる火皿には、大葛、小野沢、砥石の三村しか墨書されていない。 「今年は十三番を置くか」 弥平が訊いた。 千世は火皿を一つ余分に持ってきていた。名を書く面は白い。 「榧平と書けば、大葛の者が怒ります」 「書かなきゃ、また死んだ村だ」 「枝郷と書く?」と澪。 「死人に役所の呼び名を読ませるのか」 三人は白い皿を前に言い争った。去年なら、千世は正しい名が決まるまで火を入れないと言っただろう。今は、決まらないまま火が消えることも知っている。 澪が炭を一つ置いた。 「名なしでいい。うちの火だと、見る者には分かる」 油を垂らす。白い皿に火が立った。川辺には十三の灯りが並び、中央の一つだけ、文字がなかった。千世は寺から持ってきた帳面を膝へ置いた。最初の検地で、自分が書き換えた頁がある。庄屋源左衛門の印を写し、日付を一日早め、榧平の年貢米が飢饉前から納められていたように見せた。十三戸を救うためと、自分では言ってきた。 半分は違う。 女の書役が郡方の役人を出し抜いた、と知られたかった。自分の筆で村の名を戻したかった。名を残せない身分への腹立ちを、他人の田へ使った。偽りは、その後の調べでなくても足りた。千世の一頁がなくても、郡日記、小札、備荒米払帳、油帳は同じ方角を示した。 必要のない嘘だった。 「それも流すのか」 伊織が背後に立っていた。検地役の刀はなく、城文庫の煤けた袖を着ている。送り火では、死者の名を書いた紙を川へ流す。登勢の口書の写し、源左衛門の免割帳の抜書、紙の上で二度死んだ者の名。村人はそれぞれ一枚を選んだ。千世の手には、自分の偽造頁があった。 「流せば、なくなると思いますか」 「紙はなくなる」 「罪は?」 「腹の中で育つ」 伊織らしくない言い方だった。 「誰の言葉です」 「登勢だ」 城下の牢で聞いたという。母へ油を届けた澪にも言わず、なぜ伊織にだけ話したかは分からない。川上から、別の村の火が流れてきた。白い皿のそばを通り、一つは渦へ入り、一つは葦に引っかかった。死者が迷うのではない。水の浅いところと深いところが、火の道を勝手に選んでいる。 千世は頁を水へ近づけた。 墨が湿気を吸い、指へ移る。 流せば、偽りを捨てた女になれる。残せば、偽造した女のままだ。彼女は頁を畳み直し、帳面の元の場所へ戻した。 綴じ糸を通す。 「寺へ持ち帰るのか」と弥平。 「はい」 「誰に見せる」 「読みたい人に」 「誰も読みたがらなかったら」 「私が読みます」 白い火皿は、ほかの十二より遅れて川へ出た。名がないため誰も呼ばなかった。澪の子どもが走って追い、榧平の火だ、と一度だけ叫んだ。火は橋の影へ入り、見えなくなった。消えたのか、向こうで燃えているのか、千世は帳面へ書かなかった。
小説 · text · 2026-09-06
送り火の検地帳
月瀬 灯 →無料で読む ↓縦書き · 右から左へ左右にスワイプ / ← → キー
この作品の感想
よかったところも、気になったところも。あなたの言葉で。
まだ感想はありません。作品に触れた感想を最初に届けてみませんか。