第一部 十三の火 第一章 火皿 送り火の皿は、十三枚あった。 光照寺の過去帳で、今年、白背谷に新しく加わった死者は六人である。 去年から残る新盆を足しても九人。 千世は庫裏の縁側に火皿を並べ、欠けを指で確かめた。 山土を焼いた浅い皿。縁へ一から十三まで、細い刻みがある。死者の名ではなく、家を数える印だった。 「また数えているの」 油壺を運んできた真壁登勢が言った。 「数えないと、足りなくなります」 「足りなければ、半分ずつ使えばいい」 登勢は四十九歳。小野沢村の油搾りを一人で切り回し、寺と三村へ灯明油を納めている。紺の単衣に白い手拭い。右手の親指へ、古い火傷があった。 千世は火皿の受取帳を開いた。 大葛村、四枚。 小野沢村、五枚。 砥石村、四枚。 合計十三。 「どの家の火ですか」 「山へ上がれば分かるよ」 「帳面に残したいんです」 「残さないから、残ってる火もある」 登勢は油壺を置き、受取の丸を押した。 丸の中には、壁という字を崩した印がある。 千世が八年前の夏にも見た印だった。 その年、過去帳には四十一人が加わった。 飢饉で白背谷の人が最も多く死んだ年である。 第二章 死者を書く女 千世は僧ではない。 光照寺の寺男だった父の娘で、庫裏の勘定と筆写を任されている。 檀家が死ねば、住職の慈周が戒名を付ける。千世は俗名、没年、家、葬具の受払を別の帳面へ写す。 女が過去帳に触れることを嫌う檀家もいた。 字の間違いを見つけると、その者たちも千世を呼んだ。 「死んだ年が違う」 「妻でなく妹だ」 「先妻の名を同じ頁へ置くな」 死者は黙っている。 残った人は、並べ方を争う。 慈周は六十一歳になり、細い字を読む時だけ片目を閉じた。 「火皿は揃ったか」 「十三枚」 「ならよい」 「どの家が出すのです」 「盆の火に、名札はいらぬ」 慈周は過去帳を閉じた。 千世は指を挟み、閉じ切る前に止めた。 天明三年、七月。 四十一名の戒名が、三頁にわたって同じ筆で並ぶ。 千世の字だった。 二十三歳の時、慈周から渡された紙片をそのまま写した。 飢えと病で、一日に十人も死んだと聞いた。 棺が足りず、菰へ包んで埋めたとも。 だが四十一の名に、十三の家はない。 「あの年の火ですか」 慈周の片目が開いた。 「山へ上がれば分かる」 登勢と同じ答えだった。 第三章 新しい縄 柊坂藩は、秋から白背谷の検地をやり直す。 古い検地帳は七十年前のものだった。 川が変わり、崩れた畑もある。新しく開いた焼畑は帳面にない。藩は田畑の実りを測り直し、年貢の元を揃えるという。 検地役の榊原伊織が、光照寺へ挨拶に来た。 二十七歳。袴の裾に山泥が付き、刀の鐺にも傷がある。馬を下りて歩いたのだろう。 「寺の過去帳と宗門送りを拝見したい」 「検地に死者が要りますか」と千世。 「田畑の名請人が死んだか、村を出たかを確かめます」 伊織は新しい間縄を持っていた。 麻縄へ一間ごとに小さな瘤。十間ごとに赤糸を巻いてある。 千世は手を伸ばさなかった。 女が検地縄に触れれば長さが狂う、と言う者がいる。 実際には、湿れば誰が触れても縮む。 伊織は縄を縁側へ置いた。 「前の帳面と畦が合いません」 「七十年あれば、畦も動きます」 「畦だけなら」 彼は古い検地帳の写しを開いた。 大葛村の北境。 〈東、榧林。西、岩尾。南、源治畑。北、道〉 次の筆では、榧林が御林になっている。 「榧林という字名はありますか」 千世は知らなかった。 慈周が庫裏の奥で、数珠を一つ鳴らした。 第四章 庄屋の印 大葛村庄屋の馬淵源左衛門は、伊織より遅れて寺へ来た。 五十七歳。夏でも厚い羽織を着て、汗を見せない。 「新しいお役人は、古い字名に熱心だな」 伊織は頭を下げた。 「古い帳面から始めるのが役目です」 「畑は帳面より先にある。歩けばよい」 源左衛門は笑った。 千世へ、細長い包みを渡した。 中は三村分の今年の年貢割付状だった。藩の割印が、紙の端へ半分ずつ押されている。もう半分は郡役所の控えに残る。 「盆が明けたら、寺で読み合わせをする」 「年貢のものを、なぜ寺で」 「百姓が集まりやすい。去年もした」 去年は大葛村の集会所だった。 千世は違いを口にしなかった。 源左衛門が伊織の縄を持ち上げる。 「良い麻だ。一間は一間か」 「乾いていれば」 「役人が測れば田が増え、百姓が測れば減る」 「縄は同じです」 「持つ手が違う」 源左衛門は縄を戻した。 瘤の一つに、爪を立てた。 帰り際、千世へ小声で言った。 「今夜の火を、よく数えろ」 「十三枚です」 「皿でなく、人をだ」 第五章 山へ上がる油 日が落ちる前、三村の者が光照寺へ集まった。 火皿、油、火縄、供えの団子。 送り火は寺の裏山に十三か所、弓なりに並べる。 祖先を送る火だと、誰もが言う。 どの祖先かを訊くと、答えが曖昧になった。 登勢の娘、澪が油壺を大八車へ載せていた。 三十四歳。左の手首から指先まで、白い火傷の痕がある。幼い頃、油釜を倒したためだと千世は聞いている。 「母上は?」 「先に山へ」 「さっき油小屋の方で見ました」 「支度を見てから行くと」 澪は右手で壺を支え、左手を添えた。 白い手拭いを姉さん被りにし、登勢と同じ紺の単衣を着ている。 母娘で祭礼衣を揃えるのは珍しくない。 千世は受取帳を差し出した。 「十三壺」 澪は母の印を探した。 「私でよい?」 「運んだ方が押してください」 澪は自分の小さな丸印を押した。 その時、山上で一つ目の火が上がった。 白い手拭いの女が、火皿の前へ屈んでいる。 「お登勢さん、もう着いた」と誰かが言った。 澪は山を見上げた。 左手を単衣の袖へ隠した。 第六章 十三番目 送り火は一つずつ灯された。 大葛の四火。 小野沢の五火。 砥石の四火。 十三番目は、山腹の最も高い場所にある。 千世が着いた時、登勢が火縄を皿へ移していた。 右手で持っている。 「最初の火も、お登勢さんでしたか」 「油屋だからね」 登勢は火縄を振って消した。 山の下で、寺鐘が六つ鳴る。 十三の火が揃った。 火ごとに家族が集まり、団子を置く。 数えると、三村の顔だけではなかった。 山向こうから来た炭焼き。 見覚えのない子ども。 頭へ木地椀を載せた老人。 彼らは火の後ろへ立ち、村人と話さない。 源左衛門の姿はなかった。 「庄屋様を見ませんでしたか」 大葛の組頭は、寺へ戻ったと言った。 伊織は検地縄を肩へ掛け、火を見ていた。 「十三は、村の家数ではない」 「火の家数なのでしょう」 「ここにない村の」 千世は振り向いた。 伊織が古い写しを見せる。 余白に薄く、〈榧平十三軒〉とあった。 墨は削られている。 火だけが、削られずに残っていた。 第七章 年貢蔵 寺へ戻る道で、子どもが先に源左衛門を見つけた。 年貢蔵の戸が、指一本分開いている。 中は暗い。 呼んでも返事がない。 千世は灯明を持って入った。 米俵の間に、源左衛門が座るように倒れていた。 背を柱へ預け、両脚を伸ばしている。 首に紫の帯。 喉の横へ、等しい間隔で五つの窪みがあった。 伊織が千世の前へ腕を出す。 「触れるな」 源左衛門の右手は開き、爪の間に黒い滓がある。 左手は懐へ入っていた。 伊織が同心を呼ぶよう命じた。 寺の門を閉める。 山の送り火は、まだ見えている。 十三の火を囲んでいた人々が、一人ずつ寺へ下りてきた。 誰も蔵へ入れない。 慈周が源左衛門へ短い経を唱えた。 千世は蔵の床を見た。 薄い米粉の上に、源左衛門の足跡がない。 あるのは、大八車の車輪跡。 右側だけが深かった。 第八章 ない村の割付 源左衛門の懐から、一通の年貢割付状が出た。 〈榧平村〉 当寛政三亥年。 高百二十石。 納米四十二石余。 山役銀、炭竈役、楮役。 末尾に柊坂藩郡奉行の割印がある。 伊織は紙を灯りへ透かした。 「榧平という村は、郷帳にない」 「古い検地帳の余白にはあります」 「だからこそ、おかしい」 今年の割付状なら、郡役所で伊織も見ているはずだった。 「印は本物に見えます」 印影の端に、虫食いの欠けがある。郡奉行印の傷と同じ位置。 だが紙は黄ばみ、折り目に古い煤が入っていた。 本文の墨も褐色。 〈寛政三〉と〈榧平村〉だけが、青みのある黒だった。 「古い割付を使い回した」と千世。 「古い藩印が、なぜ馬淵の懐にある」 源左衛門は三村の旧状を保管していた。 紙の端へ押された割印は、役所控えと合わせて初めて円になる。 この紙の印は、左半分だけ。 「控えが役所にあれば、元の村が分かる」 伊織は紙を包んだ。 千世は高百二十石という数字を覚えていた。 八年前に写した四十一名の横へ、慈周が小さく書いた数だった。 第九章 半間の瘤 翌朝、藩医が源左衛門の首を改めた。 死因は、縄で首を締められたこと。 後頭部に打撲はあるが、致命傷ではない。 「検地縄でしょう」と大葛の組頭が言った。 伊織の新しい縄は、一間ごとに瘤がある。 首の痕へ当てると合わなかった。 五つの窪みは、瘤と瘤の間が半間。 「荷を締める節縄だ」と伊織。 炭俵、油樽、紙束。谷では多くの者が使う。 縄痕には、細かな黒い粒があった。 藩医は煤と言った。 千世は指先へ少量を取り、匂いを嗅いだ。 菜種を搾った後の滓だった。 火にくべれば黒くなる。 油屋だけでなく、三村の家が焚き付けに使う。 源左衛門の背にも、同じ滓が付いている。 年貢蔵には菜種を置かない。 足袋の裏は赤土。 寺の境内は灰色の山砂。 「別の場所で殺され、運ばれた」と千世。 藩医が彼女を見た。 「女が口を出すな」とは言わなかった。 「なら、どこからだ」 白背谷で赤土の場所を、千世は三つ知っていた。 一つは登勢の油小屋だった。 第十章 蔵の鍵 年貢蔵の本鍵は、慈周が持っていた。 昨夜、庫裏の鍵箱から出していない。 封蝋も切れていなかった。 予備鍵は源左衛門に預けていた。 遺体の腰へ鍵束がある。 蔵の錠へ入れると、回らない。 「別の鍵です」と千世。 形は似ているが、先端の歯が一つ短い。 源左衛門の家を捜すと、本物の予備鍵は文箱から見つかった。 誰かが腰の鍵を入れ替えた。 蔵を開けた合鍵が、もう一本ある。 鍵師を呼べば、作った者を覚えているかもしれない。 「この錠は二十年前の物です」と慈周。 千世は鍵箱の底に、薄い板を見つけた。 米糠と蝋を練ったもの。 鍵の歯形が押されている。 古く乾き、端へ鼠の噛み跡。 伊織が息を吹き、埃を除いた。 「合鍵の型だ」 「なぜ寺に」 慈周は答えなかった。 八年前、飢饉の救米を年貢蔵へ入れた夜がある。 藩へ届けず、帳面にも載せなかった米だった。 第十一章 封じる帳面 伊織は光照寺の帳面を封じた。 過去帳。 葬具勘定。 宗門送りの控え。 施餓鬼料の受取。 寺の物を藩士へ渡すことに、慈周は反対しなかった。 「千世殿にも、触れぬよう願う」 「私が書いたものです」 「だからだ」 千世の筆跡は、証拠になり得る。 彼女が後から書き換えたと疑われることもある。 伊織は封紙の継ぎ目へ印を押した。 「必要な記録は、立会いの上で開く」 「死者が出た時は?」 「新しい帳面を使ってくれ」 過去帳を二冊に分ける。 昨日までの死者と、今日からの死者。 千世は白紙の仮帳を出した。 最初の行に、馬淵源左衛門と書く。 没日は七月十六日。 死因は書かない。 戒名は慈周がまだ決めていない。 「生前の行いで変えるのですか」と千世。 「遺族が納める布施で変わる」 慈周は自分で言い、目を伏せた。 死者の名も、金と都合から自由ではなかった。 第十二章 山の人 伊織は、十三の送り火にいた見知らぬ者を探した。 三村の庄屋は、炭焼きの季節奉公人だと答えた。 名は分からない。 宗門人別帳には、奉公人の出入りも書く。 今年の帳に、該当する者はいなかった。 「無宿を匿っているのか」と同心。 千世は、最も高い火の後ろにいた男を思い出した。 木地椀を頭へ載せ、雨を避けていた。 椀の縁に、榧の葉を彫った印がある。 谷の市で、同じ印の椀を見たことがあった。 売り手は名乗らない。 品札には〈山出し〉とだけ書く。 千世は寺の台所を探した。 欠けた椀の中に、一つ同じ印がある。 底へ墨で〈弥平〉。 過去帳を開けなくても、名を覚えていた。 天明三年七月二十日。 清岳道心。 俗名、雨宮弥平。 八年前に死んだはずの男は、昨夜、送り火のそばに立っていた。 第十三章 九つの葬具 封じた帳面を、伊織と慈周の前で開いた。 天明三年の葬具勘定。 菰、九枚。 麻衣、九領。 縄、九本。 棺はゼロ。 飢饉の年、四十一人を過去帳へ書いた。 葬る物は九人分しかない。 「物が足りなかったのでは」と伊織。 「菰一枚へ、四人は包めません」 慈周は数珠を繰った。 「山で死んだ者は、山で土へ返した」 「なら、寺で戒名を付けた者と、山で埋めた者をどう照らしたのです」 返事はない。 施餓鬼料の受取にも、九家分の印だけがある。 残る三十二人には、戒名しかなかった。 千世は過去帳の字を一名ずつ読んだ。 雨宮弥平。 当時三十歳と付記してある。今なら三十八。 山で見た男の年頃に合う。 「死んでいない人を、私に書かせたのですか」 慈周は言った。 「書かねば、もっと死んだ」 答えになっていなかった。 伊織は帳面を閉じなかった。 「三十二人は、どこにいる」 寺の裏山、そのさらに向こう。 十三の火が並んだ斜面の先に、帳面にない道がある。 第十四章 源左衛門の文箱 源左衛門の家から、材木の見積が出た。 榧、杉、栗。 伐採面積、二十七町歩。 買手は城下の紙問屋、鳴海宗七。 紙問屋が木を買うのは、箱、薪、楮を蒸す桶に使うためだという。 見積の裏へ、〈御林明渡し後〉とある。 「御林は藩の物です」と伊織。 「庄屋が売れるのですか」 「伐採請負の口利きならできる」 源左衛門への礼銀、百二十両。 村の庄屋が一生かけても容易に貯められない額だった。 別の文箱には、榧平村の偽割付状を作った切り紙がある。 〈榧〉の字を三度練習している。 本文と筆癖が同じ。 新しい墨も、源左衛門の硯箱から出た。 「この割付状は、被害者が作った」と千世。 「何のために自分の懐へ入れた」 生きて役所へ出すつもりだった。 殺した者は、それを戻した。 偽状を隠すのでなく、死体と一緒に見つけさせた。 榧平の者が、偽の年貢を作ったように見せるためか。 それとも、源左衛門の企みを告げるためか。 犯人は、紙の意味を知っていた。 第十五章 赤土 白背谷の赤土を三か所から採った。 登勢の油小屋。 大葛村南の焼畑。 砥石村の瓦土場。 源左衛門の足袋には、赤い粘土と細い黒砂が混じる。 焼畑は赤土だけ。 瓦土場は雲母が多い。 油小屋の土には、搾り滓を乾かすため川砂を撒く。赤土と黒砂。 「油小屋で殺された」と同心が言った。 登勢は否定しなかった。 「昨日、源左衛門様は来たよ」 「いつ」 「寺鐘の五つ前」 送り火の第一火は、六つ鐘の少し前。 「何の用だった」 「油の値を下げろと」 油小屋の床には、洗った跡がある。 祭礼前に毎年洗うと登勢は言った。 節縄は七本。 一本だけ新しい。 「古い縄は?」 「切れたから、火へくべた」 送り火の灰を調べれば、金具や太い瘤が残るかもしれない。 登勢は白い手拭いを締め直した。 「私が第一火を点けたところを、谷中が見ている」 千世も見た。 山の上に、白い手拭いの女がいた。 第十六章 火の灰 十三の火皿は、夜明けまでに燃え尽きていた。 千世と伊織は、皿ごとに灰を分けた。 一番から十二番までは、藁、松葉、菜種滓。 十三番には、太い麻の燃え残りがある。 半間ごとの瘤。 同心が登勢を呼んだ。 「切れた節縄だね」 「人を締めた縄か」 「そんなことは灰に訊きなさい」 藩医は燃えた縄と首痕を比べた。 太さは合う。 瘤も合う。 だが焼けた繊維から、同じ一本かは分からない。 「隠すなら、なぜ十三番へ」と伊織。 十三番の火は最も高く、最後に点ける。人目も多い。 「どの火へ入れても見られる」と千世。 「油小屋の釜なら」 登勢は油小屋に大きな焚口を持つ。縄一本を灰にできたはずだ。 送り火へ入れたのは、見つけさせるためかもしれない。 千世は灰の中から、青い小石を拾った。 縄の瘤へ結び込まれていたものだった。 荷縄の持ち主を見分ける印。 青石は砥石村の沢でしか採れない。 「登勢の縄ではない?」 「油樽を運ぶ者から借りることはある」と登勢。 持ち主は砥石村の炭問屋だった。 三日前、縄を一本なくしている。 登勢を指す灰が、別の村へ道を伸ばした。 第十七章 紙問屋 鳴海宗七は、城下から駕籠で来た。 紙問屋だが、指に墨も楮傷もない。藩札と借財の取次で財を作った男だった。 「馬淵様とは、材木の見積をしただけです」 「百二十両の礼銀も?」と伊織。 「成れば、の話」 榧林は油分の多い実を採り、木は水に強い。大木を一度伐れば、次に同じ太さになるまで人の一生より長い。 「御林なら、藩から買うのでしょう」 千世が訊くと、宗七は笑った。 「御林に住む者がいれば、先に片づける必要がある」 「何を」 「炭小屋や畑です」 人と言わなかった。 源左衛門の偽割付状を見せる。 宗七は初めて見たと答えた。 紙の漉き目を見る目は速かった。 「これは当年の紙ではない。十五、六年前の楮です」 「なぜ分かる」 「寒晒しの筋が違う」 右下の虫食いを見て、口を閉じた。 「同じ紙を知っている?」 宗七は、古い割付状を担保に取ったことがあると認めた。 柊坂藩が八年前、大坂商人へ差し入れた証文の添付だった。 高百二十石。 村名は切り取られていた。 第十八章 筆跡 偽割付状の〈榧平村〉は、千世の字に似ていた。 横画を右上がりにし、榧の木偏を細く書く。 伊織は、過去帳の雨宮弥平と並べた。 「同じ手に見える」 「私ではありません」 「馬淵家の練習書きも似ていた」 「真似たのでしょう」 「なぜ、あなたの字を」 八年前、榧平の名を死者として書いた筆。 同じ筆跡で村名を書けば、偽状に古い秘密のつながりを作れる。 源左衛門が自分で真似たなら、千世を巻き込むつもりだった。 千世は紙へ〈榧平村〉と書いた。 比べる。 似ている。 違いは、榧の右払いだった。千世は筆を止め、払いを二度に分ける。偽状は一息に引いてある。 「この癖を知る者は?」 「寺の帳面を見た者」 三村の庄屋。 郡役所の宗門改め。 慈周。 死者として書かれた本人たち。 千世自身。 伊織は彼女の筆を預かった。 「疑うのですか」 「疑わず預かれば、後であなたの字が全て疑われる」 千世は筆を渡した。 父の形見だった。 第十九章 二つの半印 郡役所から、古い割付状の控えが届いた。 十五年前、大葛村へ出したもの。 紙の右半分が残り、割印の右半分がある。 偽状の左半分と合わせる。 虫食いまで一つの円になった。 元は大葛村の年貢割付状だった。 源左衛門の父が保管し、代替わりの時に息子へ渡したはずの紙。 本文の村名部分だけを薄く削り、千世に似せた字で榧平と書いた。 年号も寛政三へ変えた。 石高百二十は、元の大葛村の枝高だった。 「真正な印で、偽の村を作った」と伊織。 印を盗んだ者はいない。 古い正文と控えを切り離して保管する仕組みが、偽状へ本物の半印を与えた。 源左衛門が作った証拠は揃う。 だが筆跡だけが千世へ戻る。 慈周が言った。 「あの字を教えた者がいる」 「誰です」 「お前の父だ」 寺の帳面だけでなく、馬淵家の若い源左衛門も、千世の父から算筆を習っていた。 二人の字は、同じ根から分かれていた。 第二十章 家の火 十三枚の火皿の裏に、墨書きが見つかった。 灰を洗うと、薄い屋号が出る。 雨家。 榧屋。 曲木。 沢端。 三村の名寄帳にはない屋号だった。 千世は受取帳の空欄へ、一つずつ写した。 慈周が止めた。 「それは寺の帳面ではない」 「だから、新しく作ります」 「誰に見せる」 「まず自分に」 送り火は死者を数えると思っていた。 裏の名は、家を数えている。 三村の誰が皿を持ち、誰が油を出し、誰が山へ運ぶか。その受渡しだけを公の帳面に書き、火の持ち主は裏へ隠した。 「榧平の十三戸ですか」 慈周は否定しなかった。 「昨夜、火のそばにいた人たちは」 「山で働く者だ」 「死者ですか」 慈周は千世を見た。 「過去帳では」 千世は十三の屋号を写し終えた。 死者の帳面から、生きている家の帳面が一冊生まれた。 第二部 死んだ三十二人 第二十一章 隠れ道ではない道 榧平へ続く道は、隠されていなかった。 小野沢村の外れから、炭俵の轍を辿ればよい。 橋もある。 道標もある。 ただし道標には〈御林炭場〉と書かれ、村名がない。 千世は伊織、同心二人と山へ入った。 杉林を越えると、斜面へ畑が開く。 蕎麦の白い花。 楮を蒸す湯気。 軒下の薪。 水路で大根を洗う女。 廃村でも、落武者の隠れ里でもなかった。 人が朝の仕事をしている場所だった。 十三戸。 火皿と同じ数。 子どもが伊織の刀を見て家へ走った。 戸が閉まる。 「役人を連れて来たのか」 木地椀を持った男が道へ出た。 送り火で見た顔。 「雨宮弥平さん」と千世。 男の目が細くなった。 「その名の者は、八年前に死んだ」 「私が書きました」 弥平は椀を地面へ置いた。 「なら、あんたが殺したのか」 第二十二章 生きた戒名 弥平は清岳道心という自分の戒名を知っていた。 「寺から紙が来た」 八年前、三村への移住証文と一緒に、四十一人分の戒名が榧平へ届けられた。 生きている者は、以後その俗名を公の場で使わない。 三村の人別帳では別の家の弟、奉公人、伯母、養子として記された。 「雨宮弥平は死んだ。大葛村では、雨屋平吉という炭焼きだ」 年齢は二つ若くした。 妻は砥石村の寡婦として別帳。 同じ家に住みながら、紙では別の村にいる。 「なぜ受け入れたのです」と伊織。 弥平が笑った。 「受け入れなければ、米をくれたか」 飢饉の夏、榧平の蔵は空だった。 藩は村を下へ移し、働ける者を城下普請へ出すと命じた。高齢者と幼子は寺へ預ける。 慈周と三村の役人が、別の案を持ってきた。 帳面の上で全員いなくなれば、ここへ非公式に米を運べる。田畑は三村の出作として残せる。 「選べたのは、どちらへ死ぬかだった」 弥平は、自分の戒名を口にした。 生きた声で聞くと、千世の書いた四字が重かった。 第二十三章 九つの墓 榧平の墓地には、墓石が九つあった。 大きさは不揃い。 名のない石も三つ。 過去帳の四十一名のうち、実際に死んだ九人だった。 弥平は一つずつ俗名を言った。 たま、九歳。 作兵衛、六十四歳。 さき、二十七歳。 赤子は名を付ける前だったが、過去帳には春泡童子とある。 千世は、たまを覚えていた。 寺の井戸で水を飲み、柄杓を戻さず怒られた子。 八年前、四十一名の紙片にたまの名を見つけた時、一人だけ顔が浮かんだ。 ほかの四十を、同じ死として書いた。 「葬具は九人分でした」 「九人しか死んでいない」 「なぜ、墓石を隠さなかったのです」 「死んだ者まで、帳面に合わせて消せと言うのか」 送り火の十三皿は、家を送る火。 墓地の九つは、死者を弔う小火。 毎年、同じ夜に別々に灯す。 三村から見えるのは十三皿だけ。 九つの小火は、山のこちら側に隠れる。 隠したのは村ではない。 どの数を誰に見せるかだった。 第二十四章 澪の婚姻 登勢の娘、澪は榧平に住んでいた。 弥平の弟、雨宮朔と夫婦になり、子が二人いる。 宗門人別帳では、澪は小野沢村の油屋にいる。 朔は八年前に死亡。 子どもは、登勢の家の養子と奉公人。 四人家族が、紙では一人ずつ別の形だった。 「送り火の夜、母上と入れ替わりましたか」 澪は返事をしなかった。 左手の火傷を袖へ隠す。 「第一火を点けたのは、あなたですね」 「誰が点けても、火は火です」 「お登勢さんのアリバイになります」 「ありばい?」 伊織が、疑いを避ける証しだと説明した。 澪は母の白い手拭いを借りたことを認めた。 登勢が油小屋の戸締まりをする間、先に山へ上がった。 第一火を左手で点けた。 途中で登勢と入れ替わり、自分は寺へ油壺を届けた。 「毎年そうするのか」 「今年だけ。母が遅れたから」 何に遅れたのか。 澪は知らないと答えた。 母を庇うための嘘か、本当に知らないのか。 千世は、二つを同じ欄へ入れなかった。 第二十五章 庄屋の使い 源左衛門は死ぬ前日、榧平へ使いを出していた。 偽割付状へ十三戸の連印を求めた。 〈これまで年貢を隠して村を立てた詫びとして、御林を明け渡す〉 印を押せば、榧平が自ら不正を認めた形になる。 拒めば、郡役所へ無宿者三十二人を訴える。 「三十二ではありません」と澪。 八年の間に、五人が死んだ。 子どもが七人生まれた。 今は三十四人。 帳面の脅しは、八年前の数で止まっていた。 「源左衛門は、ここへ来ましたか」 「盆の日、油小屋で登勢さんと会うと言って下りた」と弥平。 「なぜ登勢さんと」 榧平十三戸の連印を集められるのは、登勢だった。 救米を運び、三村の名義を割り振り、毎年の送り火を整えた。 「私たちの庄屋は、紙では三人いる」と弥平。 「実際には?」 「登勢だ」 役目も名もない女が、帳面の外で村を動かしていた。 第二十六章 帰る人数 伊織は榧平の者を、一人ずつ数えようとした。 弥平が止めた。 「数えた後、どうする」 「宗門改めと検地へ載せる」 「どの村に」 伊織は答えられない。 榧平を村と認める権限は、彼にない。 三村へ正式に入れれば、今の虚偽が確定する。 無宿として捕らえれば、八年前の藩役人の命令を住民へ罰として返す。 「今は、殺人の聞き取りだけ」と千世。 「役人を連れて来た人が、今だけと言うのか」 弥平の言葉は正しい。 千世は自分の帳面を閉じた。 「名を聞かず、人数だけでも」 「何のためだ」 「帰る時、一人足りないと分かるように」 山へ入った同心は二人。 伊織。 千世。 合計四人。 榧平から案内に弥平一人。 下りる時は五人。 弥平は、村の人数を教えなかった。 千世たちの人数を数えた。 「五人、下へ返す」 誰を数える権利があるかが、初めて逆になった。 第二十七章 洗った片輪 寺の年貢蔵前に残った車輪跡を、雨が薄くした。 右の轍だけ深い。 左には赤土が残り、右は表面が洗われている。 近くの水路へ車輪を一つ落とした跡があった。 大八車の荷が右へ偏り、片輪を水へ入れて泥を落とした。 「人一人の重さで、どれほど沈む」と伊織。 米俵を一つずつ載せて試した。 二俵で、右轍の深さに近づく。 源左衛門の体重とほぼ同じ。 油樽の空箱なら、外から荷が見えない。 祭礼の日、寺へ大八車を入れた者は三組。 登勢と澪の油。 砥石村の団子。 大葛村の薪。 団子の車は二輪とも細い。 薪車は鉄輪。 轍は、登勢の木輪と幅が一致した。 「車は誰が押した」と同心。 澪は、寺まで自分が押したと答えた。 受取帳にも澪の印。 その時、荷台に遺体はなかったという。 「箱の中を見ましたか」と千世。 澪は油壺を載せた。 空樽箱は、母が先に積んでいた。 第二十八章 後から鳴った鐘 祭礼油の受取札は十三枚あった。 一壺につき一枚。 寺鐘の回数を、時刻の代わりに端へ書く。 十二枚は〈五つ前〉。 一枚だけ〈六つ前〉。 墨が新しい。 千世の受取帳では、十三壺全て五つ鐘の後に届いている。 「この札は誰が書いたのです」 登勢は自分だと答えた。 「山から戻って、書き忘れに気づいた」 六つ鐘より前に油が寺へ着いたように見せるための後筆だった。 だが受取帳に澪の印がある。 消せない違い。 「源左衛門様が油小屋へ来たのは、五つ前と言いましたね」 「来て、帰った」 「どちらへ」 「寺だろう」 「足跡はありません」 源左衛門の足袋には油小屋の赤土。 年貢蔵に足跡はない。 大八車の右轍。 登勢は、答えの代わりに受取札を見た。 「字だけで、人を縛るのか」 「首の縄だけで決めないために、字を見ています」 千世は言った。 登勢の目が、初めて揺れた。 第二十九章 父の教え字 千世は父の手本帳を開いた。 寺へ入る子ども、庄屋の跡継ぎ、商家の娘へ算筆を教えた記録。 馬淵源左衛門、当時十二歳。 千世、当時七歳。 同じ頁に〈榧〉の字がある。 父は木偏を細く書き、右払いを一息に引いた。 源左衛門は、その癖をそのまま残した。 千世は途中で、払いを二度に分けるよう変わった。 偽割付状は、源左衛門の字だった。 千世の真似ではない。 二人とも父の字を使っていただけだった。 伊織は千世の筆を返した。 「疑いは晴れたと言えますか」 「村名を書いた疑いは薄い」 「殺した疑いは」 「あなたには油小屋の赤土も、荷車もない」 完全な否定ではなかった。 千世は筆を受け取った。 父が教えた字は、死者を偽る過去帳と、村を陥れる偽割付状の両方に使われた。 教えた者の責任ではない。 使った手の責任だった。 第三十章 黒い杉煤 源左衛門の袖に、黒い煤が付いていた。 同心は送り火の煤だと考えた。 送り火には松と菜種滓を使う。 灰は軽く、煤に油の匂いが残る。 袖の煤は粒が粗く、杉皮を低い温度で燃やしたものだった。 登勢の油小屋では、搾り釜を杉皮で焚く。 釜の横へ、源左衛門の羽織と同じ織目の糸が引っ掛かっていた。 口論で柱へ押しつけられた時のものか。 殺された時か。 藩医は、死亡は六つ鐘より前と見た。 腹に残った昼飯、首の死斑、体の冷え。 第一送り火より少なくとも半刻前。 山で登勢に見えた女は澪だった。 その頃、登勢は油小屋にいた。 源左衛門もいた。 「捕らえますか」と同心。 伊織は首を振った。 登勢が油小屋にいたことは、殺害の機会を示す。 縄、車、合鍵を使ったことはまだ直接結びつかない。 榧平を守りたい者は三十四人。 三村で秘密を知る者は、さらに多い。 一人の女へ、村全部の動機を載せてはいけなかった。 第三十一章 青石の縄 送り火で焼けた節縄は、砥石村の炭問屋、笹木屋の物だった。 主人の庄助は、登勢へ貸したことを否定した。 「盆前、油樽を二つ運んだ時は俺が使った。その帰りになくした」 油小屋まで樽を運び、空荷で砥石村へ戻る途中。 最後に縄を見たのは登勢の庭だった。 「あの女なら、黙って借りて黙って返すことはある」 「返っていない」と伊織。 「だからなくしたと言ってる」 庄助の家を改めると、同じ青石を結んだ縄が五本あった。 瘤の間は半間。 油樽の荷締めに使う。 一本を藩医へ渡した。 首痕の太さ、撚り、瘤の形は合う。 だが谷の荷縄は同じ縄師が作る。 青石だけが笹木屋の印だった。 「源左衛門を恨んでいたか」 庄助は笑った。 炭山の年貢を二重に取られた。 娘の婚礼へ貸した米を、利息ごと差し押さえられた。 恨んでいない者を探す方が難しい。 送り火の夜、庄助は十三番の火にいた。 縄が焼けるところを見たかと訊くと、見ていないと言った。 「見ていたら、止めた?」 「縄より先に、あの庄屋が燃えると思った」 冗談にしては、目が笑っていなかった。 第三十二章 新検地の得 源左衛門が死ねば、新検地で得をする者がいる。 大葛村の隠し田を知る庄屋が消える。 伊織は藩士であり、検地の成績を上げれば加増の望みがある。 同心は、伊織の間縄を調べた。 一本欠けていない。 それでも伊織は、送り火の前に寺を離れ、一刻近く行先が分からない。 「古い畦を見ていた」と彼は答えた。 供は連れていない。 草履には赤土。 油小屋へ続く道も赤土だった。 千世が、藩士の草履を調べることはできない。 同心も遠慮した。 伊織は自分で脱ぎ、縁側へ置いた。 赤土に白い石灰が混じる。 検地予定地の境界へ打った目印の粉。 油小屋の土にはない。 「私も疑いから外すな」と伊織。 「役人を疑って、誰が帳面を見せます」 「疑わない役人なら見せるのか」 千世は答えなかった。 伊織の荷物から、大坂商人の借財写しが出た。 彼も榧林と百二十石を、寺へ来る前から知っていた。 第三十三章 借財のただし書き 柊坂藩は、天明三年の春、大坂の蔵元から三千両を借りた。 担保は翌年以降の年貢米と、御林の伐採権。 証文のただし書きに、〈領内高三万二千石を下らざること〉とある。 飢饉で村が潰れ、荒地として高を落とせば、蔵元は期限前に返済を求められる。 「榧平百二十石を消せなかった」と千世。 「村名を消し、高だけ三村へ移した」と伊織。 帳面上、柊坂藩の石高は減らない。 生き残った者を三村へ移したことにすれば、救米と年貢免除を公に出す必要もない。 榧林は無人の御林として担保へ入れる。 「誰が決めたのです」 証文には前郡奉行の名。 八年前に病死している。 下書きをした書役も死んだ。 三村の庄屋のうち、源左衛門の父と登勢の夫は死去。砥石村の前庄屋は隠居して寝たきり。 生きている中心人物は慈周と登勢だった。 「二人が殺人をしたとは限らない」と伊織。 「古い口を塞ぐなら、源左衛門でなく二人を殺すでしょう」 源左衛門は秘密を暴く側ではない。 秘密を使って、新しい金を得ようとした側だった。 彼を殺す動機は、昔の役人だけでなく、現在の榧平にあった。 第三十四章 三村の余分 大葛、小野沢、砥石の三村は、榧平の百二十石を分けて背負っていた。 大葛、五十石。 小野沢、四十石。 砥石、三十石。 名寄帳では、榧平の田畑が三村の名請人へ割られている。 実際に耕すのは榧平の者。 年貢は三村がまとめて納める。 豊作なら問題は小さい。 凶作なら、榧平が足りない分を三村が負担する。 「私たちも盗られた」と砥石村庄屋。 「榧平だけを守った話にするな」 八年間で、三村が肩代わりした米は合計三十七石。 一方、榧平から出た炭と楮の利益を、三村の商人が得た。 笹木屋もその一人。 肩代わりより多く儲けた年もある。 「得と損を一つにできますか」と千世。 「免割帳ならできる」と庄屋。 人の家へ、石高と率を割り当てる。 だが、誰が道普請をし、誰が病人を運び、誰が婚礼の保証人になったかは載らない。 三村の者が榧平を守った。 榧平の労働で三村が儲けた。 余分な年貢を負わされた。 同じ家が、三つの側にいた。 第三十五章 生まれた後の移住 宗門人別帳を照合すると、年の合わない子が七人いた。 天明三年に榧平から移住した者の〈同道の子〉。 生年は天明五年、六年、七年。 移住した後に生まれた子が、二年前から一緒に来たことになっている。 「後から書き足した」と伊織。 「毎年の改めで、家族を増やしたのでしょう」 三村の帳面には、別々の筆。 書き方だけが同じだった。 子の続柄を〈同道〉とし、生地を書かない。 一人の指図で作った型だ。 小野沢村の帳面では、澪の長男が登勢の養子になっている。 父の欄は空白。 千世は榧平で、その子が朔を父と呼ぶのを聞いた。 「帳面を直せば、この子は誰になります」 「雨宮朔の子」と伊織。 「朔は死者です」 まず父を生き返らせる。 次に婚姻を入れる。 相続する土地を戻す。 三村で養子として得た権利をどうするか決める。 一行の虚偽を直すために、別の村の家が変わる。 真実は、上から新しい墨を塗れば出るものではなかった。 第三十六章 慈周の米 慈周は八年前、年貢蔵から救米を榧平へ送ったと認めた。 蔵の合鍵は、そのために作った。 藩から預かった備荒米を、郡奉行の口頭命令で夜に出した。 正規の払帳にはない。 「盗みでは」と伊織。 「飢えた者へ渡した」 「帳面では盗みです」 「帳面のために死なせるのか」 慈周の声が初めて強くなった。 米糠蝋で本鍵の型を取り、城下の鍵師へ別の蔵の鍵だと頼んだ。 合鍵は登勢へ渡した。 「今も持っている?」 「返してもらっていない」 登勢には年貢蔵を開ける鍵がある。 源左衛門の遺体を入れられる。 「なぜ昨日まで言わなかった」と千世。 「米を盗んだ者として、登勢が先に捕らえられる」 「今は人殺しの疑いがあります」 慈周は数珠を止めた。 守るために黙ったことが、疑いを濃くした。 八年前も同じだった。 慈周は人を守ったと信じ、守られた者が後で何を失うかを言わなかった。 第三十七章 返さない鍵 登勢は合鍵を持っていると認めた。 油小屋の床下から出した。 歯に米糠蝋が残る古い鍵。 年貢蔵の錠へ入る。 「八年前から、一度も使っていない?」 「三度使った」 天明四年、残った粟を出した。 天明六年、榧平で赤子が続けて生まれ、米を足した。 去年、鼠に食われた備荒米を捨て、代わりを入れた。 全て帳面にない。 「送り火の夜は」 「使っていない」 鍵には新しい油が付いていた。 錆止めの菜種油。 登勢は毎月塗ると言った。 使った痕か、手入れの痕か分からない。 同心は鍵を取り上げた。 榧平への救米の罪も調べると告げる。 「米を返せと言うなら、返すよ」 「何石だ」 「人が生きた分」 数字で答えなかった。 登勢は捕らえられなかった。 鍵、赤土、縄、車、入替り。 疑いは揃う。 遺体を載せた時、車を押した証拠が足りなかった。 第三十八章 輪の外の金 鳴海宗七は、源左衛門へ手付金二十両を渡していた。 「御林の明渡しが成らなければ返す約束です」 源左衛門が死ねば、返済を遺族へ請求できる。 殺して得る金ではない。 だが宗七は、榧平の者を移す先まで用意していた。 城下外れの紙漉き場。 男は楮蒸し。 女と子どもは紙干し。 住居と食事を出し、賃金から引く。 「追い出すのでなく、仕事を与える」と宗七。 「断れますか」 「御林に残れぬなら、ほかを探すより良い」 選べる前に、良い方を決めていた。 宗七は送り火の夜、城下の芝居小屋にいた。座元、役者、客二十人が見ている。 殺人はできない。 源左衛門の企みには金を出した。 「死人へ全部載せて、取引をなかったことにするつもりですか」と千世。 宗七は扇を閉じた。 「商いは、人が死ねば止まる」 「止まったところまでの帳面は残ります」 手付証文を伊織へ渡した。 第三十九章 千世の罪 三村へ、過去帳の三十二人が生きているという噂が広がった。 寺の門へ、死者を売った女と墨で書かれた。 千世は水で落とした。 翌朝、また書かれた。 「私の命令だと言えばよい」と慈周。 「命じられても、書いたのは私です」 「知らなかった」 「訊かなかった」 四十一人分の葬具がないことに、当時も気づけた。 一日に十人死んだのに、埋葬を見なかった。 慈周が渡す紙を、整った字へ変えることが自分の役目だと思った。 「辞めますか」と伊織。 「寺を?」 「筆を」 辞めれば、潔いと褒める者がいるかもしれない。 過去帳は別の者が続ける。 三十二人の行は残る。 「書きます」 千世は門の墨書きを、日付と共に写した。 悪口まで帳面にするのかと伊織が訊いた。 「私が責められたことを、慈周様の命令で消さないためです」 第四十章 三十二の声 榧平の三十四人が、光照寺へ来た。 八年前に死者とされた三十二人のうち、生存二十七。 その後に生まれた子、七人。 死者五人は榧平の墓へ加わっているが、光照寺の過去帳にはない。 紙で生きた者が死に、紙で死んだ者が生きている。 弥平は寺の庭で、自分たちを今すぐ人別帳へ戻せと求めた。 澪は反対した。 「戻したら、御林を出ろと言われる」 炭焼きの庄吉は、砥石村へ正式に入りたいと言った。 息子が村の娘と婚約している。 老婆のうめは、名前など要らないから冬の道を直してほしいと言った。 三十四人の意見は一つではない。 伊織は、全員を一つの訴状へまとめようとした。 「一枚にしないでください」と千世。 「藩へ三十四通出すのか」 「同じ願いではありません」 その日の寺には、三十二の生きた声と、七つの子どもの声があった。 数が重なる。 千世は、合計を書かなかった。 第三部 畦の輪 第四十一章 東の隣 新検地は延期されなかった。 殺人捜査と榧平の発覚があっても、秋の刈入れ前に測る必要がある。 伊織は最初に、大葛村北端の畑へ間縄を置いた。 古い検地帳の境界を読む。 〈東、雨屋畑〉 次の筆には、雨屋畑がない。 代わりに〈西、孫平畑〉とする別の畑がある。 西の隣があるなら、その東に土地がなければならない。 帳面には名のない空白。 千世は、隣接記述を小札へ一つずつ書いた。 東と西。 上と下。 道と沢。 名請人が消えても、隣の畑から位置が分かる。 小札を地面へ並べると、空白の周りに線ができた。 「榧平の畑です」と弥平。 「証文は」と大葛庄屋代理。 「畦がある」 「畦は証文ではない」 「証文が消した畦だ」 伊織は、間縄を空白へ伸ばした。 第四十二章 百二十石の穴 三日かけて隣接記述をつないだ。 空白は十三の屋敷、二十七の畑、八つの焼畑、榧林を囲んだ。 推定高、百十九石七斗。 偽割付状の百二十石と、ほぼ同じ。 「三勺足りない」と伊織。 「畦が動いた分でしょう」と千世。 「三勺ではない。三斗」 千世は算盤を入れ直した。 違いを笑われると思ったが、伊織は訂正した札を渡しただけだった。 百二十石の土地は、どこにも消えていなかった。 大葛、小野沢、砥石の名寄帳へ細かく分け、御林の中へ溶かしてある。 名請人の花押は別人に見える。 末尾に、逆向きの小さな鉤。 八年前の郡書役の癖だった。 一人が、三村の名で書いた。 伊織は空白の中央へ杭を打った。 〈榧平・仮〉 弥平が杭を抜いた。 「仮の村に住んでいない」 「調べるための名だ」 「調べる時だけ名をくれるのか」 杭は地面へ戻らなかった。 千世は小札の上に石を置き、風から守った。 第四十三章 測る前の持主 検地役は、土地を測る前に名請人を訊く。 榧平では、その順が使えなかった。 「この蕎麦畑は誰のものだ」 伊織の問いに、三人が答えた。 耕すのは雨宮朔。 名寄帳では小野沢村の真壁藤兵衛。 榧平では十三戸の共有地。 「一つ選ばねば帳面に入らない」 「選ぶ前に測ってください」と千世。 名請人欄を空け、面積、等級、作物だけを記す。 藩の検地手引に、空欄は認められていない。 伊織は欄外へ〈名義争い中〉と書いた。 三村の庄屋代理が反対した。 空欄の土地は、年貢を誰へ割り付けるか決まらない。 今年の納めが遅れる。 「なら去年の名で取ればよい」と藤兵衛。 榧平の者は、また別人の名で納めることになる。 弥平は、決まるまで年貢を蔵へ入れないと言った。 未納になれば、田畑を取り上げられる。 測ることが、土地を戻す前に罰を作った。 伊織は今年分を仮受けとし、誰の納付とも定めない封印俵にする案を出した。 藩の許しはまだない。 「勝手が過ぎる」と同心。 「勝手に名を決めるより小さい」 最初の蕎麦畑は、持主空欄のまま測られた。 第四十四章 低くなる縄 検地縄は、斜面へ沿わせれば長くなる。 水平に張れば短い。 古い帳面は斜面なりに測り、新しい検地は水平を原則とした。 同じ畑が狭くなる。 年貢は減るはずだった。 藩の手代は、減った分を等級の引上げで補おうとした。 「土は同じです」と弥平。 「日当たりが良い」と手代。 「八年前から日が増えたのか」 伊織は土を握り、水分と石を見た。 下畑のままにした。 別の畑では、榧平の者が縄をたるませようとした。 千世が見つけた。 「狭く測られたら困るのでは」 「狭ければ、御林へ戻る土地が減る」 面積が小さい方が年貢は軽い。 同時に、返される権利も小さくなる。 弥平は縄を張り直した。 「大きく書け。取るなら取れ」 村人が止めた。 年貢を払うのは皆だ。 真実の面積を求める声と、生きられる面積を求める声が、同じ畦で争った。 千世は両方を検地帳の余白へ書いた。 手代は、百姓の言い争いは不要だと消そうとした。 伊織が墨を乾かした。 「誰が縄を持ったかも測定のうちだ」 第四十五章 昔の村絵図 砥石村の隠居庄屋が、床下から村絵図を出した。 天明三年より前。 三村と榧平を、四つの違う色で塗っている。 榧平は黄土色。 十三の屋敷が小さな四角で描かれ、榧林には共同の入会印がある。 「なぜ隠したのです」と千世。 老人は耳が遠く、三度聞いてようやく答えた。 「焼けと言われた」 前郡奉行は、古い絵図と帳面を全て焼くよう命じた。 大葛村は従った。 小野沢村は写しを寺へ預けたが、所在不明。 砥石村は、庄屋が自宅へ隠した。 「村を助けるためか」 「自分を助けるためだ」 後で責められた時、命令の証拠になると思った。 しかし絵図に命令は書かれていない。 ただ榧平があったことだけを示す。 老人は送り火の夜、寝床にいた。 源左衛門を殺す体力はない。 それでも八年前の不正を選んだ一人だった。 「今、出したのはなぜ」 「源左衛門が死んだからではない」 老人は弥平を見た。 「あいつらが寺まで来たからだ」 見える場所へ出てきた人に、隠す理由を失った。 第四十六章 写しの行方 小野沢村の村絵図写しは、光照寺の経蔵から見つかった。 経典の帙に折り込まれている。 入れたのは慈周だった。 「燃やせなかった」 「出すこともできなかった?」 「出せば、米を盗んだことも分かる」 絵図の裏に救米の配分がある。 榧平十三戸へ、粟二十三石、米七石。 三村から出した分。 年貢蔵から出した分。 登勢が運んだ分。 最後に、〈不足三石、寺持〉。 光照寺が負担したように見える。 寺の勘定では、その年、仏具修理に三石相当を使ったことになっていた。 架空の修理だった。 「寺を守るために隠したのですね」と千世。 「榧平を守るためだ」 「寺が潰れれば、救米の話も守れないと思った」 慈周は否定できなかった。 善い理由の中へ、自分を守る理由が混じる。 源左衛門も、村の年貢を保つためと称して榧林を売ろうとした。 千世は絵図を伊織へ渡した。 寺の虚偽勘定も一緒に。 第四十七章 油小屋の柱 油小屋の柱には、源左衛門の羽織糸だけでなく、爪の傷があった。 五本。 高さは肩の位置。 柱の下に、折れた扇骨が落ちている。 源左衛門の扇は、遺体の懐にあった。 一本だけ骨が足りない。 登勢は、口論した時に源左衛門が柱へ扇を打ちつけたと答えた。 「その後、歩いて帰った」 油小屋から寺までの道に、彼の草履跡はない。 盆の人出で消えた可能性はある。 しかし油小屋裏の赤土には、草履の踵が深く沈んだ跡が二つ。 つま先の跡がない。 人が立ったのでなく、後ろへ引かれた足。 その先に大八車の轍。 「倒れた源左衛門を、車へ運んだ」と伊織。 登勢一人で持ち上げるのは難しい。 空樽箱の底には、縄を通す穴がある。 滑車を使えば、体を引き上げられる。 油小屋の梁へ新しい擦れ。 登勢は毎日、重い油樽を一人で載せていた。 人の重さだけが特別ではなかった。 第四十八章 箱の長さ 空樽箱は、油小屋へ戻っていた。 長さ五尺八寸。 源左衛門の身長より短い。 膝を曲げれば入る。 底板の右側へ、黒い杉煤と血の薄い染みがあった。 登勢は、豚を運んだ血だと言った。 油屋は豚を飼わない。 藩医が布へ取り、湯と薬を使って人血の色を確かめた。 血は源左衛門の後頭部の傷から出た量と合う。 箱の内側に、羽織の糸。 外側には、澪の手形がある。 油と灰で黒く残っていた。 「寺へ押したのは澪です」と同心。 「中身を知っていたかは別」と千世。 澪は油壺を載せた時、箱の蓋が閉まっていたと証言した。 重いと思わなかったか。 大八車の右輪が沈み、坂で何度も止まった。 「母は、壊れた石臼を入れたと言った」 石臼なら、同じほど重い。 澪は疑った。 開けなかった。 知らなかったことと、知ろうとしなかったことの境が、箱の蓋にあった。 第四十九章 藤兵衛の証言 小野沢村庄屋の真壁藤兵衛は、登勢の義兄だった。 送り火の夜、五つ鐘から六つ鐘まで油小屋で登勢と帳面を合わせたと証言した。 これまで言わなかったのは、男女二人で小屋にいた噂を避けるためだという。 「義理の兄妹でしょう」と伊織。 「人は面白い方へ言う」 藤兵衛の足袋にも赤土。 油小屋へ行った証拠になる。 源左衛門の殺害を手伝った可能性もある。 だが登勢は、藤兵衛は来ていないと否定した。 自分に不利な証言だった。 「庇われる理由は?」 登勢は笑った。 「村の庄屋だから、村のためと思ったんだろう」 藤兵衛の帳面を調べる。 送り火の日、油代の勘定はない。 翌日、前日の日付で一行を足している。 墨が乾かないうちに砂をかけた跡。 「会っていないな」と伊織。 藤兵衛は黙った。 殺人を知って庇ったのか。 疑われている義妹を、後から助けようとしただけか。 「遺体のことは知らない」 その言葉だけは早かった。 第五十章 左手の火 第一送り火を見た子どもがいた。 大葛村の十歳、米吉。 山上で火を点けた女が、左手を使ったと覚えている。 「どうして分かる」 「右で持つと、こっちへ火が見える」 米吉は斜面の下にいた。 女が左手で火縄を伸ばしたため、体の外側に炎が見えた。 右手なら背に隠れる。 さらに、風で手拭いが外れ、左手に白い痕が見えた。 澪の火傷。 「お登勢さんだと思った?」 「皆がそう言ったから」 顔は見ていない。 白い手拭いと紺の単衣。 呼ばれた名。 遠くの姿へ、周りの言葉が人を決めた。 澪は自分が第一火を点けたと認めている。 米吉の証言は、入替りを確かめただけだった。 それでも第一火の時、登勢が山にいなかったことは明確になった。 源左衛門の死亡推定と重なる。 「母が殺したのですか」と澪。 千世は、はいと言わなかった。 「お母上が、油小屋にいた時間が分かりました」 分かったことの大きさを、言葉で増やさなかった。 第五十一章 十三番の灰を持つ者 焼けた節縄を十三番の火へ入れたのは、登勢ではなかった。 澪が見ていた。 火が弱くなった時、藤兵衛が麻束を足した。 「縄とは知らなかった」と藤兵衛。 登勢から、焚き付けに使えと言われた袋を渡されていた。 袋の中身を見ず、十三番へ入れた。 「なぜ十三番」 「一番遠く、火が弱かった」 登勢は、殺害に使った縄を自分で焼かず、義兄へ運ばせたことになる。 見つけさせるためではない。 自分が火へ近づかず処分するため。 青石は焼け残った。 「袋を受け取った時、登勢はどこに」 油小屋裏の道。 五つ鐘の後、六つ鐘の前。 大八車はすでに寺へ向かった後だった。 藤兵衛は登勢の袖に血を見なかった。 手は洗われ、着物は祭礼の紺へ替わっていた。 彼は何も疑わず袋を受け取ったと言う。 「今も何も疑わないか」と伊織。 藤兵衛は答えなかった。 庇うためについた嘘が、知らずに証拠を運んだ自分へ戻った。 第五十二章 石臼 登勢が箱へ入れたと言った壊れた石臼は、油小屋の裏にあった。 上臼だけ。 重さは米俵二俵分。 表面に雨の跡があるが、箱底に残るはずの円い擦り傷はない。 「以前に運んだ」と澪。 「いつ」 「盆の三日前」 その日の車輪跡を、送り火の日の重さと取り違えたという。 だが寺の受取帳には石臼がない。 登勢は、寺へ寄らず砥石村の石工へ運んだと説明した。 石工は受け取っていない。 壊れた臼は、ずっと油小屋にあった。 澪は母の言葉を信じた。 車を押す時、箱が片側へずれるたび、源左衛門の体も動いたはずだった。 「音は?」と千世。 「した。石が当たる音と思った」 「蓋を開けようとは」 「母が、急げと言った」 澪は両手を見た。 左の火傷は、幼い時、母を手伝って負ったものだった。 母の仕事を疑わず手伝うことが、家を守ることだった。 その習慣が、遺体を運ばせた。 第五十三章 登勢の勘定 登勢の油帳は、欠けなく付けられていた。 菜種の仕入。 搾り高。 寺への十三壺。 三村への灯明。 源左衛門が来た時刻だけがない。 代わりに、〈油滓一袋、藤兵衛へ〉とある。 殺害縄を入れた袋だった。 「なぜ書いたのです」と千世。 「物を出したら書く」 「隠したい物でしょう」 「縄とは書いてない」 登勢は、帳面を正しく付けることで、自分は嘘をついていないと思おうとしたのかもしれない。 あるいは、普段通りの帳面が一行欠ければ、かえって疑われると考えた。 「源左衛門様を殺しましたか」 「殺していない」 「油小屋で倒れた?」 「歩いて帰った」 「箱に何を入れた」 「石臼」 三つの答えは、物証と合わない。 登勢は榧平を守った話をしなかった。 功を先に出せば、殺人の言い訳になると知っているようだった。 第五十四章 寺までの道 油小屋から光照寺まで、大八車を押して歩いた。 空荷で半刻。 米俵二俵を右へ寄せると、坂で一度休む必要がある。 澪は五つ鐘の直後に油小屋を出た。 六つ鐘の少し前、寺へ着いて受取印を押した。 時間は合う。 登勢が源左衛門を殺し、箱へ入れたなら、五つ鐘より前。 澪が知らずに寺まで運ぶ。 千世が油壺を受け取る間、箱は年貢蔵の横に置かれた。 澪が山へ戻った後、登勢は別道で寺へ下りる。 合鍵で蔵を開け、箱から遺体を移す。 偽割付状を懐へ戻す。 縄は袋に入れ、山へ戻る途中で藤兵衛へ渡す。 十三番目の火を点け、皆の前へ現れる。 道を実際に歩くと、六つ鐘までに間に合った。 「一人でできる」と同心。 「できることと、したことは別です」と千世。 箱の血。 合鍵。 後筆の札。 縄の袋。 一つずつ、登勢の手へ近づいていた。 第五十五章 返された筆 伊織は登勢を呼び、物証を順に示した。 油小屋の赤土と煤。 首痕に合う節縄。 源左衛門の体を入れた箱。 大八車の轍。 年貢蔵の合鍵。 澪との入替り。 藤兵衛へ渡した縄袋。 登勢は、全てに別の説明を繰り返した。 最後に伊織が、偽割付状を置いた。 「これは馬淵自身が作った。榧平を追い出すためだ」 登勢の目が紙へ落ちた。 「知っていたな」 「知らない」 「村名の筆は馬淵。千世殿ではない」 登勢は千世を見た。 一瞬だけ、安堵した。 自分の疑いが晴れたからではない。 千世が偽状を作った疑いから外れたことへ。 その安堵を、千世は見逃さなかった。 登勢は守る相手を選ぶ。 榧平。 澪。 千世。 源左衛門は、その外へ置かれた。 「あなたが守った人の数と、殺した人の数は引き算できません」 登勢の口がわずかに開いた。 まだ自白はなかった。 伊織は捕縛を命じた。 第四部 油の道 第五十六章 縄を掛ける手 同心が登勢の腕へ捕縄を回した。 澪が前へ出た。 「母は村を助けた」 「今、調べるのは源左衛門の死だ」と伊織。 「同じことです」 「同じにしたら、助けた人数で一人の死が消える」 澪は登勢を見た。 登勢は首を振った。 庇うな、という意味に見えた。 榧平の者が寺の門へ集まった。 弥平は、証が揃うまで連れて行くなと求めた。 箱の血も、縄も、合鍵も見せた。 「全部、榧平を守るために使った物だ」と弥平。 大八車は救米を運んだ。 合鍵は年貢蔵を開けた。 節縄は炭俵と油樽を運んだ。 同じ物が殺人にも使われた。 「物に善し悪しはない」と弥平。 「使った手を調べます」と千世。 登勢は、自分の足で門を出た。 白い手拭いだけ、澪へ渡した。 捕縄を掛けられた手は、右も左も同じに縛られていた。 第五十七章 口書の余白 登勢の吟味は、郡役所の板間で行われた。 伊織が問い、書役が口書を作る。 登勢は文字を読める。 油帳も自分で付ける。 それでも口書は、最後に読み聞かせて爪印を取る決まりだった。 「五つ鐘前、馬淵源左衛門、油小屋へ来る」 「来た」 「言い争う」 「油値のこと」 「偽割付状を見せられたか」 「見ていない」 「節縄を首へ掛けたか」 「掛けていない」 同じ問答が続く。 書役は、登勢が答えなかった時間を書かない。 声の震えも書かない。 視線も書かない。 千世は立会いの席で、別紙へ間を書いた。 〈偽状の問い、息二つ分の後に否認〉 伊織が覗いた。 「証にはならない」 「分かっています」 後から、ためらいを自白に変えないためだった。 登勢の口書には、言ったことだけを入れる。 言わなかったことは、千世の観察として分ける。 第五十八章 最後に会った男 油小屋から寺へ続く裏道で、登勢を見た男がいた。 砥石村の紙漉き、伊助。 五つ鐘を少し過ぎた頃、登勢が空の油壺を二つ持ち、山へ急いでいた。 大八車は見ていない。 袖に血もない。 「何か話したか」 「十三番が遅れる、と」 伊助は最初の聞き取りで黙っていた。 登勢が捕らえられてから名乗り出た。 「助ける証になると思った」 実際には、登勢が澪の車より後に油小屋を出たことを示す。 遺体を箱へ入れ、澪に運ばせる時間があった。 「見たのは本当に登勢か」と伊織。 「近くで顔を見た」 「白い手拭いは」 「持っていなかった」 登勢は寺へ着く前、澪と入れ替わって手拭いを受け取った。 伊助の証言は細い時間の隙間を埋めた。 彼は登勢を助けようとして、捕縛の証を増やした。 第五十九章 源左衛門の免割 源左衛門の免割帳には、榧平を追い出す理由が書かれていた。 大葛村の年貢未納、十八石。 前年の冷害と、二軒の逃散が原因。 今年も足りなければ、源左衛門家の田を差し出す約定がある。 榧林の礼銀百二十両で、未納を埋め、逃散した家の田を買い戻すつもりだった。 私腹だけではない。 自分の家と、大葛村の名請地を守る金だった。 帳面には、未納分を各家へ割った計算がある。 最も貧しい三軒へ、負担を付けていない。 代わりに源左衛門家が六石を被る。 「善い庄屋だったのか」と同心。 千世は答えなかった。 貧しい家を守るため、榧平の三十四人を追い出す。 自分の田も守る。 その三つを一つの行へ書いた。 登勢と似ていた。 守る輪の内側が違う。 源左衛門が殺されたからといって、輪の外へ人を置いた計画は消えない。 輪の内側で免除した六石も、嘘にはならない。 第六十章 母へ持っていく飯 澪は毎朝、郡役所の仮牢へ飯を運んだ。 麦飯と漬物。 登勢は受け取るが、澪と話せない。 格子の向こうで、二人は同じ白い手拭いを見た。 「私が火を点けたから?」 澪が訊いた。 登勢は返事をしなかった。 「私に箱を押させた」 同心が、問いかけを止めた。 事件の話は吟味で行う。 澪は飯椀を床へ置いた。 「母が村を守ったと言う人がいる。母が人を殺したと言う人がいる。どっちを私に信じさせたいの」 登勢が初めて格子へ近づいた。 「どちらも、人に決めさせるな」 「なら、自分で言って」 登勢は背を向けた。 澪は空の飯籠を持ち帰った。 母を信じることと、母の言葉を待つことが、同じではなくなった。 第六十一章 傷のない手 源左衛門の首を締めた縄は、背後から回されていた。 藩医は首痕の上がり方を示した。 右側が高い。 犯人は左手で縄を押さえ、右手で引いた可能性が高い。 登勢は右利き。 澪は火傷のため、右手を主に使う。 どちらにもできる。 源左衛門の爪には、菜種滓のほか、皮膚片がなかった。 犯人へ掴みかからなかった。 不意を突かれたか、最初は縄を脅しと思ったか。 油小屋の床へ、二人が向かい合った足跡が残る。 登勢の草履は小さい。 源左衛門の踵跡は後ろへ引かれる。 登勢が正面で節縄を持ち、源左衛門が取り上げようと背を向けた時、首へ回したと考えられた。 「計画した者なら、正面から縄を見せるか」と伊織。 計画殺人ではない可能性。 源左衛門が何を言ったかで、動作が変わる。 物証は手の向きを示す。 怒りの言葉までは残さない。 第六十二章 印を押せ 源左衛門の使いが、口上を詳しく語った。 登勢へ伝えたのは、油値の話ではない。 榧平十三戸の連印を、偽割付状の添え状へ集めること。 翌朝まで。 断れば、澪と二人の子を最初に無宿として訴える。 「なぜ娘から」と千世。 「小野沢の帳面と榧平の暮らしが最も違うから」と使い。 澪の夫は死者。 子どもの父は公にはいない。 登勢の家が虚偽の中心だと示しやすい。 源左衛門は、娘を捕らえたくなければ村の印を集めろと伝えた。 使いは言葉をそのまま届けた。 「脅しと分かっていた?」 「庄屋の用だ」 役目として伝えた言葉が、殺人の直前へ届いた。 使いは自分の責任ではないと言った。 実際、殺せとは言っていない。 それでも、何を運んだかは口書へ残した。 第六十三章 締めた時間 登勢は、源左衛門へ縄を掛けたことを認めた。 「印を押させるため、あの人が持ってきた節縄だ」 使いの口上と違う。 源左衛門自身が、榧平の連印を一つの縄へ結び、戸ごとに瘤へ札を付けるつもりだった。 十三の札。 登勢は縄を取り上げた。 源左衛門が、澪を先に牢へ入れれば皆が押すと言った。 「怖がらせるつもりで、首へ掛けた」 「引いたか」と伊織。 「引いた」 「死ぬまで?」 登勢は黙った。 源左衛門は最初、縄を外そうとした。 柱へ爪を立てた。 膝が落ちた。 それでも登勢は手を緩めなかった。 「止めれば、明日、澪を連れていくと思った」 一息の過ちではない。 人が抵抗しなくなった後も、縄を引いた時間がある。 「殺すつもりはなかった」と登勢。 「死ぬと分かって、いつ手を離した」と伊織。 答えは、口書へ入らなかった。 第六十四章 歩いて帰った人 登勢は、源左衛門が歩いて帰ったという供述を撤回した。 油小屋で死んだ。 石臼を入れたという箱には、遺体を入れた。 澪には知らせなかった。 年貢蔵へ運ばせた。 合鍵で蔵を開けた。 偽割付状を懐へ戻した。 節縄を藤兵衛へ渡した。 「なぜ死体を隠した」と伊織。 「朝まで見つからなければ、榧平へ知らせられる」 実際には送り火の夜に見つかった。 蔵の戸を閉め切らず、指一本分開けたままにしたのは登勢だった。 「見つけてほしかったのでは」 「閉め忘れた」 偽割付状を懐へ戻した理由も、登勢は源左衛門の企みを知らせるためと答えた。 「榧平の者が殺したように見える」と千世。 登勢は目を伏せた。 そこまで考えなかったと言う。 殺害後の周到さと、都合の悪い部分だけの無思慮。 口書は、どちらか一方へ整えなかった。 第六十五章 澪の爪印 澪にも、遺体運搬の疑いで口書が作られた。 箱の中身を知らなかったか。 坂で音を聞いた。 車が重かった。 血が底から滲まなかったか。 澪は一つずつ答えた。 音は石と思った。 重さは母が言った臼と思った。 血は箱の右隅に少量で、油滓の黒に隠れた。 「開けなかったことは、罪ですか」 書役は答えない。 伊織は、知らずに遺体を運んだ者を罰する定めはないと告げた。 ただし母との入替りを最初に隠したことは、吟味を妨げた。 澪は詫書を出す。 爪印を求められた。 左手の親指は火傷で紋が薄い。 右手を使った。 宗門人別帳では、澪は文字を書けない奉公人になっている。 実際には自分の名を書ける。 「署名します」と澪。 爪印でなく、真壁澪と書いた。 雨宮の姓は、まだ公には使えなかった。 第六十六章 藤兵衛の咎 藤兵衛は偽証を認めた。 登勢が捕らえられそうになり、油小屋にいたことにした。 殺人を知っていたわけではない。 「榧平を守れるのは登勢しかいない」 だから事実を確かめず、アリバイを作った。 「庄屋が虚偽を言えば、人別帳も年貢帳も何になる」と伊織。 藤兵衛は笑った。 「今さら、それを言うのか」 八年前、郡奉行の命令で三村全部が虚偽を書いた。 今回だけ正しさを求める役所を、彼は信じない。 それでも源左衛門殺しの吟味を妨げた咎は残る。 藤兵衛は庄屋職を一時停止され、家へ戻された。 村の年貢をまとめる者がいなくなる。 代わりを選ぶまで、登勢の油帳を読める澪へ手伝いを頼む案が出た。 「殺人の被疑者の娘だ」と反対が出た。 「帳面を読める者です」と千世。 澪は断った。 母の穴を、自分がすぐ埋めるつもりはなかった。 第六十七章 殺された側の言葉 源左衛門の妻、加代は、夫の免割帳を返すよう求めた。 「あの人が村を守ったところも書くのですか」 千世は、書くと答えた。 「榧平を追い出そうとしたことも?」 「書きます」 加代は帳面を抱いた。 「両方書いたら、どちらが本当になるの」 「両方です」 「便利な答えね」 夫を悪人にすれば、殺した登勢を理解しやすい。 夫を善人にすれば、登勢の殺人だけを見られる。 加代はどちらも拒んだ。 源左衛門が百二十両のうち、三十両を自分の家へ入れる計算をしていたことも知っていた。 「私も止めなかった。田を失いたくなかったから」 加代は免割帳を伊織へ戻した。 「写しをください。夫を返してもらうのは、その後にします」 被害者の家にも、調べられる側の時間があった。 第六十八章 吟味の結び 登勢の口書は十八枚になった。 最後に読み聞かせる。 登勢は三か所を直した。 〈激情に駆られ〉を削る。 「激情だったかは、私が言っていない」 〈榧平を救うため〉を〈澪を捕らえさせぬため〉へ。 村全体を理由に使わない。 〈思わず縄を引き〉を〈源左衛門が動かなくなるまで縄を引き〉へ。 自分のした時間を短くしない。 書役は、刑が重くなると教えた。 「軽くするための口書か」 登勢は右手の親指へ墨を付けた。 爪印を押す。 千世は立会人の欄へ署名を求められた。 女の名は正式な立会いに使えないと、上役が止めた。 伊織が、記録係として別紙へ署名させた。 同じ十八枚を綴じる紐へ通す。 本文の外に置かれた名でも、紙から離さなかった。 第六十九章 油屋を閉める日 登勢が城下の牢へ移され、油小屋は閉じた。 三村の灯明油が足りなくなる。 笹木屋は城下から買えばよいと言った。 値は二倍。 榧平の菜種を買う者もいなくなる。 澪は油小屋を継ぐか迷った。 母の仕事を継げば、殺人の道具まで受け継ぐように見える。 閉めれば、村の暮らしが止まる。 「油は人を殺していない」と弥平。 「母の言い方と同じ」と澪。 登勢は、縄も車も鍵も、物に罪はないと言った。 だが物を使う仕事を続ける者には、使い方の記憶が残る。 澪は油小屋を開けた。 節縄を全てほどき、半間の瘤をなくした。 荷を締めにくくなる。 新しい縄には、持ち主と貸した日を木札で付ける。 殺人を防ぐ仕組みではない。 誰の手を通ったか、後で嘘をつきにくくする仕組みだった。 第七十章 別の取り調べ 登勢の殺人吟味が結んでも、榧平の帳面は終わらなかった。 藩は三村の庄屋と慈周へ、八年前の虚偽を問い始めた。 救米の横流し。 宗門人別の偽り。 検地帳の改変。 御林への不法居住。 登勢が人を殺したことで、古い全ての不正も彼女の指図にされようとしていた。 「女一人が郡奉行を動かせますか」と千世。 上役は、郡奉行は死んでいると答えた。 生きた者へ責任を集めれば、調べやすい。 慈周は、自分が計画したと言おうとした。 それも一人へ集める嘘だった。 千世は砥石村の村絵図、寺の救米配分、三村の名寄帳、借財証文を一列に置いた。 「殺人の口書と、八年前の帳面を別に綴じてください」 登勢は両方に関わった。 同じ一冊へ入れれば、殺人犯の作った虚偽として藩の命令が消える。 新しい吟味は、別の表紙から始まった。 第五部 飢饉の帳面 第七十一章 朱のない命令 八年前の郡奉行命令は、原本がなかった。 口頭で受けたと、三村の旧役人は言う。 郡役所の日記には、榧平について一行だけある。 〈三村出作の儀、内々にて相済ますべし〉 朱印がない。 誰の命令かもない。 上役は、村役人が勝手に行った証だと読んだ。 千世は〈内々にて〉の筆を見た。 前郡奉行の書役、河原崎の字。 借財証文も同じ手だった。 「書役が書いただけで、奉行の命令とは限らない」 「村役人が郡役所の日記へ書けますか」 上役は答えない。 命令を正式に残さないこと自体が命令だった。 藩が後で否定できるよう、朱を押さない。 三村は、その余白を承知で従った。 命じられた証が薄いほど、従った側の責任は重く見える。 千世は日記の前後を写した。 同じ日に、備荒蔵の米三十石が〈虫損〉として減っている。 榧平へ運ばれた量と同じだった。 第七十二章 虫に食われた米 備荒蔵の払帳では、三十石の米が虫に食われ、家畜用に捨てられた。 捨場の記録はない。 蔵番の子が生きていた。 当時十五歳、今二十三歳。 「米は白かった」と証言した。 俵の外へ虫食い米を少量塗り、検分役へ見せた。その後、夜に俵を寺へ運んだ。 「誰の指図」 父は死んでいる。 父から、郡奉行の書役に従えと言われた。 書役河原崎も死去。 命令した者だけが、順に死んでいた。 「登勢はいましたか」 「寺から山へ運ぶ車を用意した」 米を蔵から出したのは藩の蔵番。 寺へ入れたのは慈周。 榧平へ運んだのは登勢。 三つの行為をつなぐ命令は、誰も持っていない。 「盗んだのは誰だ」と上役。 蔵番の子は言った。 「皆で盗んだ。だから、誰の米か分からなくなった」 備荒米は、飢えた領民のために積んだものだった。 正規に出せなかったため、出した行為が盗みになった。 第七十三章 大坂の控え 鳴海宗七は、大坂の蔵元から借財証文の控えを取り寄せた。 藩の証文と違う部分がある。 柊坂側の正文には、領内高三万二千石を下らないこと。 大坂控えには、その後へ一行。 〈凶作・水損の年は、双方吟味の上、三か年まで猶予〉 猶予条項が、藩の正文では切り取られていた。 「榧平を消さなくても、借財はすぐ返さずに済んだ」と千世。 宗七は、必ず猶予されたとは限らないと答えた。 蔵元が凶作を認めるか。 利息を増やすか。 ほかの御林まで担保に求めるか。 それでも選択肢はあった。 前郡奉行は、猶予交渉を藩主へ報告しなかった。 財政が弱いと知られることを恐れた。 「なぜ一行を切った」と伊織。 宗七は、当時の取次が行ったと述べた。 鳴海家の先代、宗七の叔父。 宗七はその店を継いでいる。 「叔父の罪で、私の商いを止めますか」 「源左衛門の取引は止まっています」と千世。 「死んだからだ」 「一行を切った商いの続きだからです」 宗七は控えを引っ込めなかった。 家を守るなら、見せない方がよい紙だった。 第七十四章 選ばなかった道 慈周は、八年前の評定を語った。 榧平を谷下へ移す案。 男二十人を城下普請へ出す。 女と子を三村へ奉公に割る。 老いた者は寺で養う。 村の形はなくなるが、人別には残る。 もう一つが、紙上の死と移住だった。 人は榧平へ残る。 公の道普請と救米を受けられない。 「どちらを住民へ示したのです」と千世。 「時間がなかった」 雪が早く、三日分の米しか残っていなかった。 「選ばせれば、争っている間に死ぬ」 だから慈周と庄屋たちが決めた。 登勢は家々を回り、印を集めた。 印の意味を、全員へ同じようには話さなかった。 山に残れる印だと言った。 死者になる印とは言わなかった。 「救った」と慈周。 「救われました」と弥平。 「では」 「救われたから、選ばなくてよかったとは言わない」 結果が良ければ、選択を奪ったことが正しくなるわけではなかった。 第七十五章 牢の中の昔 登勢は、八年前の吟味にも答えた。 殺人の刑が決まる前だった。 古い不正を認めれば、さらに咎が加わる。 「四十一人を死者にする案を、誰が出した」 「前郡奉行」 「直接聞いたか」 「慈周から」 慈周は、書役河原崎から聞いた。 伝言が二人を通る。 「お前が三村へ別名を割った?」 「庄屋と一緒に」 「榧林を御林にすることは」 「後で知った」 登勢は、山に残れるなら土地名義も残ると思っていた。 翌年、榧の実を採った者が御林盗伐で捕らえられ、初めて知った。 「その時、なぜ訴えなかった」 「訴える名がなかった」 榧平村は存在しない。 雨宮弥平は死亡。 登勢個人が訴えれば、救米と虚偽を自ら明かす。 彼女は沈黙を選んだ。 後に源左衛門を殺すまで、その選択を毎年続けた。 第七十六章 死んだ五人 紙上で死者になった三十二人のうち、八年間で五人が本当に死んだ。 光照寺の過去帳には記せなかった。 すでに一度死んでいるからだ。 榧平では、木札へ俗名と没日を書き、墓へ埋めていた。 千世は五枚を掘り出す場に立ち会った。 雨宮さよ。 清水兵作。 うめの夫、甚八。 乳児二人。 土で墨が薄い。 「過去帳へ二度書きますか」と澪。 最初の行を消せば、八年前の虚偽が見えなくなる。 残せば、同じ人が二度死ぬ。 千世は追記欄を作った。 〈右、天明三年帳面上の処理により死亡と記すも、実際は生存。寛政元年八月十日没〉 長い一行になった。 慈周は、過去帳へ役所の事情を書くものではないと反対した。 「事情で死ぬ日が二つになりました」 五人の死を直すには、八年前の嘘を同じ頁へ残す必要があった。 第七十七章 たまの九年 実際に飢饉で死んだ九人の墓を改めた。 たまの墓には、没年がない。 石を彫る金がなく、小さな川石を立てただけ。 過去帳では、天明三年七月十八日。 慈周の手元紙では七月十七日。 葬具勘定は七月十九日。 三つの日がある。 弥平は、十八日の明け方だったと覚えていた。 「鐘の前か後か」 「鐘を鳴らす人がいなかった」 飢饉の日に、正確な時はなかった。 千世は過去帳の日を直さなかった。 〈七月十七日夜から十八日明け方。葬送十九日〉と追記した。 一つに決めない。 たまの年齢も、過去帳は九歳、宗門帳は十歳。 数え年なら十、満ちた年なら九。 どちらかを誤りにしなかった。 四十一名を同じ三日へ並べたことで、たまの本当の死が薄くなった。 千世は九人分だけ、墓、葬具、証言を別冊へまとめた。 生きた三十二人を戻す作業と、死んだ九人を確かめる作業を分けた。 第七十八章 封印俵 秋の収穫が始まった。 名請人を決められない榧平の年貢は、封印俵として光照寺へ運ばれた。 米十八俵。 蕎麦十二俵。 炭と楮は銀に換算。 三村の名でも榧平の名でも受け取らない。 俵札には、耕した者の屋号だけを書く。 藩の蔵役は、正式な村名がなければ皆済目録を出せないと拒んだ。 皆済にならなければ未納が残る。 「米は目の前にあります」と千世。 「帳面に入らぬ米は、ないのと同じだ」 八年前と同じ言葉だった。 慈周は寺の米として納める案を出した。 それでは榧平が納めた証が消える。 伊織は仮受証文を自分の名で書いた。 権限外だった。 「処分されますよ」と千世。 「受け取らず腐らせても処分される」 俵は藩蔵へ入った。 皆済ではない。 未納でもない。 決まるまで米が存在するための、仮の一行だった。 第七十九章 追徴の算盤 勘定方は、榧平へ八年分の追徴を試算した。 本年貢。 山役。 夫役の不足。 利息。 合計、米百十四石、銀二十三貫。 村が三度潰れる額だった。 三村名義で納めた分を引けば、大半は消える。 だが誰の田から納めたか、免割帳が分散している。 勘定方は、証明できない分だけ追徴すると言った。 「帳面を分けたのは藩です」と伊織。 「藩の命令はない」 朱のない一行。 虫損とした米。 切られた借財条項。 直接の命令証文がないため、三村と寺の勝手にされる。 千世は三村の免割帳を、屋号と畑の隣接でつなぎ直した。 雨屋平吉は雨宮弥平。 小野沢の真壁名義畑は澪と朔。 砥石の炭役は榧平三戸。 納めた米、百九石。 不足五石。 その五石は、凶作時に三村が肩代わりした三十七石の内側にある。 追徴するどころか、榧平は別名で多く納めていた。 第八十章 村を戻す者 榧平で、今後を決める寄合が開かれた。 村名を戻す。 三村へ正式に分かれる。 今のままにする。 弥平は村名回復を求めた。 「榧平で生まれ、榧平で死ぬ」 炭焼きの庄吉は砥石村へ入りたい。 息子の婚姻と炭問屋の取引がある。 うめは、どの村でもよいから冬道を直せと言う。 澪は、村名を戻せば母の殺人で名が知られることを恐れた。 「榧平と言えば、登勢の村になる」 「源左衛門を殺す前から、ここはある」と弥平。 「外の人は知らない」 千世は採決を勧めなかった。 多数で一つへ決めれば、別の村へ入りたい家をまた紙で移すことになる。 家ごとに希望を取る。 榧平枝郷を望む八戸。 砥石村二戸。 小野沢村一戸。 未定二戸。 十三戸の火皿は揃っていた。 行先は揃わなかった。 第八十一章 婚姻の三枚 澪と朔の婚姻を正式にするには、三枚の帳面を直す必要があった。 澪を小野沢村の実家から除く。 死者の朔を生存へ戻す。 二人の子を登勢の養子と奉公人から実子へ移す。 小野沢村は、登勢家の跡継ぎがいなくなると反対した。 澪の長男は帳面上、油屋を継ぐ者だった。 榧平へ戻れば、油小屋の名請地が空く。 「母の家を潰せと言うのですか」と澪。 朔は、子を一人ずつ分ける案を拒んだ。 夫婦は榧平。 油小屋は澪が小野沢の別家として持つ。 一人が二つの村に家を持つことを、庄屋は認めたがらない。 伊織は、油屋の営業名義と居住人別を分ける案を出した。 「また帳面を分けるのか」と澪。 八年前と違うのは、本人が内容を知り、選べることだった。 同じ仕組みでも、隠して使うか、開いて使うかで意味が変わる。 婚姻は三枚に記された。 どの一枚にも、全ては入らなかった。 第八十二章 藤兵衛の村 藤兵衛の庄屋停止で、小野沢村の年貢割が遅れた。 村人は、榧平のために自分たちが罰を受けていると不満を言った。 登勢の救米。 藤兵衛の偽証。 澪の婚姻。 全て真壁家の話に見える。 小野沢村には四十七戸ある。 秘密を知らなかった家が三十戸以上。 八年前に余分な年貢を払った。 今また庄屋不在の手間を負う。 「榧平を切り離せ」と寄合で声が上がった。 別の者は、榧平の油と炭がなければ冬を越せないと言った。 澪は油値を上げなかった。 同情を買うためだと噂された。 値を上げれば、母の不始末を村へ払わせると言われる。 何をしても、殺人の娘という意味が付く。 千世は油帳の仕入と労賃を計算した。 今の値では、澪の取り分がほとんどない。 村寄合へ数字を出す。 油値は一割上がった。 母の罪とも榧平の恩とも切り離し、仕事の値として決めた。 第八十三章 寺の咎 光照寺には、救米横流しと過去帳虚偽の咎が言い渡された。 寺領の一部召上げ。 慈周は半年の逼塞。 宗門改めの取次停止。 千世は、寺の正式な役僧ではないため処分書に名がなかった。 「書いた者がいないことになっています」と彼女は言った。 上役は、女へ公の咎を科す定めがないと答えた。 罰を受けないことが、無関係にされることだった。 千世は自分の申述書を出した。 四十一名を清書した。 葬具勘定を照合しなかった。 今年まで疑わなかった。 処分を求めるのではなく、記録へ名を入れるため。 上役は受け取りを拒んだ。 伊織が、榧平吟味の参考書として綴じた。 慈周は、千世まで罪を背負う必要はないと言った。 「必要かどうかも、私に決めさせてください」 寺領を失えば、千世の食い扶持も減る。 責任は、墨だけでなく冬の米へ変わった。 第八十四章 八年前の印 前郡奉行の決裁を示す物が、登勢の油帳から見つかった。 天明三年の裏表紙。 紙を二枚貼り合わせて厚くしてある。 剥がすと、救米運搬の小札が出た。 〈寺蔵より夜五つ、榧平十三戸へ。郡方承知〉 末尾に、小さな黒印。 正式な朱印ではない。 前郡奉行が私用の手紙に使う黒檀印だった。 印影は、郡役所に残る俳諧会の短冊と一致した。 公文書の印ではないため、上役は命令の証にならないと言う。 「私用印で公の米を動かしたから、内々なのでしょう」と千世。 登勢は小札を隠していた。 自分を守るため。 榧平を守るため。 いつか藩へ示すため。 三つの理由を、本人は語らなかった。 殺人犯の家から出た証だから信用できないという声もあった。 紙の古さ、墨、印影、貼り合わせの虫穴。 物は、持ち主の罪と別に調べられた。 第八十五章 切られた端 小札の左端が、斜めに切れていた。 同じ切り口が、郡役所の日記の一頁にある。 〈三村出作の儀〉と書いた行の下へ、紙片を貼っていた跡。 八年前、黒印の小札を日記へ仮留めし、後で剥がして登勢へ渡した。 虫穴の位置も合う。 「河原崎書役が、控えを残した」と伊織。 前郡奉行の正式命令ではない。 少なくとも郡役所が承知し、日記と同じ場所で小札を扱った証になる。 三村だけの勝手という説明は崩れた。 勘定方は、前郡奉行個人の越権だと主張した。 藩の責任ではない。 「奉行は藩から俸禄を受け、郡役所で米を動かしました」と伊織。 「藩主の命はない」 「百姓は、奉行の命と藩主の命をどう見分けます」 上役は答えなかった。 切られた紙の端が、命令した側と従った側を一枚へ戻した。 第八十六章 家老の前 榧平吟味は、郡役所から城の評定所へ移った。 家老、勘定奉行、寺社方、郡方。 畳の上に、村絵図と帳面が並ぶ。 千世は廊下の板間に座った。 女を評定の席へ入れない決まりだった。 帳面について問いがあれば、襖越しに答える。 「三村庄屋が、藩高を保つため勝手に人別を改めた」 勘定奉行がまとめた。 「郡方の日記があります」と伊織。 「正式な決裁でない」 「備荒米は藩蔵から出ています」 「蔵番の不正」 「借財証文の猶予条項は、藩控えだけ切られています」 「先代取次の不正」 一つずつ、死んだ者と村方へ渡す。 家老が、襖の向こうの千世へ訊いた。 「そなたは何を求める」 「私が決めることではありません」 「では、なぜ来た」 「決める方が、何を見たか残すためです」 評定の要点を、自分の別帳へ書いてよいか求めた。 許しは出なかった。 千世は記憶し、寺へ帰ってから書いた。 公の議事録に入らない評定を、女の私記が残した。 第八十七章 伊織の不適合 伊織は検地役を外された。 名請人空欄の検地帳。 権限のない仮受証文。 女の申述書を吟味帳へ綴じたこと。 役目に適さない、と上役は言った。 「帳面を正しく作るためにした」と伊織。 「正しい帳面とは、定め通りの帳面だ」 後任は三十年勤めた手代だった。 榧平の測量を最初からやり直すと告げた。 名請人欄は、三村の旧名義で埋める。 「処分を受け入れますか」と千世。 「受け入れなければ、役目へ戻るのか」 伊織は刀を預け、閉門を命じられた。 家で三十日、外へ出られない。 千世は検地小札の写しを持って訪ねた。 門番に渡す。 「役を外れた者へ、公の写しは見せられない」 小札は千世が書いた私物だった。 それでも受け取りを拒まれた。 千世は門前で、東西の隣接を声に出して読んだ。 中から返事はない。 翌日、門の隙間から訂正札が一枚出ていた。 伊織は聞いていた。 第八十八章 紙の値 鳴海宗七は、榧林の伐採契約を諦めなかった。 源左衛門との手付は無効になったが、藩は借財返済のため木を売る必要がある。 「全部伐らず、年ごとに区画を分ける」と宗七。 榧平の者へ伐採賃も払う。 弥平は、御林ではなく共有林だと拒んだ。 「共有と証す帳面は?」 昔の村絵図に入会印がある。 宗七は、絵図だけでは木の所有まで決まらないと言う。 千世は榧の実の油帳を探した。 飢饉前、十三戸が実を分け、寺へ初穂油を納めた記録。 木を育て、実を採った使用の証にはなる。 「使うことと持つことは違う」と宗七。 「使わせず、持っていると言う方は、どこにいます」 藩は城下にある。 木は山にある。 宗七は伐採見積を三つに分けた。 全伐。 択伐。 倒木と枯木だけ。 利益は小さくなる。 交渉できる形になった。 第八十九章 最初の雪 十一月、榧平への道に雪が降った。 村名がないため、藩の道普請割には入らない。 三村は自分たちの道を先に直す。 榧平の者だけで雪を踏み、崩れた木橋を直す。 うめが寺へ薬を取りに来る途中、橋で転んだ。 骨は折れなかった。 背負って戻るのに半日かかった。 「村の名より道」と言った老婆だった。 千世は三村へ人足を求めた。 大葛は年貢蔵の修理。 小野沢は油搾り。 砥石は炭出し。 どの村にも仕事がある。 藤兵衛は庄屋停止中だが、自分の家の者を二人出した。 笹木屋も炭車を止め、一人出した。 道普請は二日で終わった。 公の割当ではない。 恩として行えば、来年は続かない。 千世は働いた人数と日数を記し、三村の夫役から引くよう願書を作った。 道が先にでき、名は後から追った。 第九十章 皆済でない冬 榧平の封印俵は藩蔵にある。 仮受のまま冬を迎えた。 皆済目録がないため、三村の帳面には百二十石分の未納が残る。 未納村は、春の種籾貸付を受けられない。 榧平だけでなく、三村全ての作付が遅れる。 勘定方は、旧名義で皆済にすればすぐ出せると言った。 弥平は反対した。 「また一年、別の名になる」 砥石村は受け入れを求めた。 「名が決まる前に畑が死ぬ」 千世は封印俵を二つに分ける案を出した。 今年の納付として受けた事実。 誰の名義かの決定。 皆済目録に〈納付済・帰属吟味中〉と書く。 定めにない文言だった。 家老は、今年限りとして認めた。 三村へ種籾が出た。 榧平にも、十三戸分。 仮の一行が、春の作物へ変わった。 第九十一章 死一等 登勢の刑について、評定が開かれた。 故意に縄を引き続け、死後に遺体を隠した。 柊坂藩の定めでは、死罪に当たる。 一方、事前に殺害を企てた証はない。 娘の捕縛を告げる脅しがあった。 八年前から三村の救米と生活を支えた。 家老は、死一等を減じて永牢とした。 財産の半分を没収。 油小屋と道具は、澪の生業として残す。 「村を救った褒美で、命を助けた」と噂された。 加代は反発した。 「夫を殺した値が、油小屋半分ですか」 刑は値段ではないと説明されても、失った側には秤に見える。 弥平は、登勢を死なせれば藩の罪を口封じできるから減刑したのだと言った。 どちらの見方も、登勢の刑を別の目的へ使う。 判決文は、救米を有利な事情としつつ、殺人を正当化しないと書いた。 紙に分けても、人の受け取り方は分かれた。 第九十二章 加代の面会 加代は登勢との面会を求めた。 牢役人は、被害者の妻が何をするか分からないと拒んだ。 加代は刃物も紐も持たず、格子の外に座るだけだと願った。 許されたのは、役人二人の立会いで半刻。 千世も記録係として呼ばれた。 「夫は最後に何を言った」 登勢は、澪を牢へ入れると言ったと答えた。 「その前」 油値の話。 大葛村の未納。 伐採の礼銀。 「私のことは?」 「田を手放せば、加代が暮らせないと言った」 加代は目を閉じた。 夫は最後まで、自分が守る家の話をした。 「謝らないの」 「謝って、何を受け取らせる」 「それを私に決めさせて」 登勢は頭を下げた。 許しを求める言葉は言わなかった。 加代も、許すとは言わなかった。 面会記録には、謝罪ありと書かれた。 千世は、〈許しの応答なし〉と追記した。 第九十三章 永牢の油代 登勢は牢内で灯明油を使う。 費用は囚人の家が負担する定めだった。 澪の油小屋から、毎月一升を納める。 母を閉じ込める灯りを、娘が作る。 澪は城下油屋から買うと言った。 自分の油を渡したくない。 値は三倍。 弥平は、意地へ金を使うなと止めた。 「誰の意地です」と澪。 家計と感情を、同じ算盤で扱えない。 澪は半年、城下油を買った。 春から自分の油へ変えた。 許したからではない。 子どもの冬着を買う金が足りなくなったからだった。 登勢は油の匂いで、いつ変わったか分かったはずだ。 面会では何も言わなかった。 牢の受払帳だけが、〈真壁澪納〉と記した。 生活の決定が、和解の物語へ変えられないよう、千世は理由を別帳へ残した。 第九十四章 枯木の値 冬の嵐で、榧林の木が七本倒れた。 鳴海宗七は、枯木と倒木だけを買う案を実行したいと申し出た。 藩は御林として売る。 榧平は共有林として、自分たちへ代金を払えと言う。 木を放置すれば腐る。 先に伐り出し、代金を封印することになった。 誰の金か決まるまで使わない。 榧平の者が伐採と運搬を行い、労賃だけ先に受け取る。 宗七は木目を見て、一本ずつ値を付けた。 弥平は安すぎると争った。 「倒れた木は割れが入る」 「倒れた原因は、藩が林を手入れしなかったからだ」 所有を主張する双方が、手入れを相手の責任にした。 結局、売値の一割を植林費として先に取り分けた。 持主が決まる前でも、次の木を植えることはできる。 七本を伐った跡へ、榧の苗を十四本植えた。 誰の木になるか、まだ分からなかった。 第九十五章 閉門の外 伊織の閉門が解けた。 検地役には戻れない。 城の文庫で古帳整理を命じられた。 左遷に見える。 彼は喜んだ。 「歩かなくて済むからではありません」と千世へ言った。 文庫には、前郡奉行の往復書状がある。 正式な決裁でない私信。 八年前の大坂蔵元との交渉も残るかもしれない。 「勝手に持ち出せば、次は閉門では済みません」 「持ち出さない。目録を作る」 文庫の目録は、箱番号と年だけ。 内容を一通ずつ記せば、後から探せる。 伊織は自分の役目を、検地から文書の畦づくりへ変えた。 千世は、寺の写しを照合するため城へ呼ばれた。 女は文庫へ入れない。 伊織が書状を廊下へ持ち、襖の境で読む。 二人の間に、開いた戸が一枚あった。 第九十六章 奉行の私信 前郡奉行の私信が見つかった。 宛先は家老。 〈榧平の儀、村高を落とさず人別のみ三村へ預け、山は御林へ組み入るるほか、当座の凌ぎなし〉 家老からの返書はない。 ただ、同じ束に短冊が挟まれている。 〈左様取り計らい、表向きへ出すべからず〉 署名なし。 紙は家老家で使う雁皮紙。 筆跡も当時の家老に似る。 現在の家老の父だった。 「正式な命令ではない」と勘定奉行。 また同じ答え。 伊織は、私信、小札、郡日記、備荒米払帳を順に並べた。 一枚では命令にならない。 四枚が同じ日に同じ動きを示す。 「藩の関与なしとは言えません」と現家老。 父の責任を認める言葉だった。 同時に、藩主の命令までは認めない範囲を残した。 完全な自白ではない。 三村だけへ責任を渡す説明を止めるには足りた。 第九十七章 追徴停止 評定所は、榧平への過去年貢追徴を停止した。 免除ではない。 吟味が終わるまで取り立てない。 三村名義の納付を正式に照合する。 弥平は、停止では来年また請求されると反発した。 勘定方は、免除すれば榧平を村として認めたことになると答えた。 「追徴する時だけ村にするのか」 評定所の廊下で声が響いた。 千世は追徴算盤の写しを出した。 八年で納付百九石。 三村肩代わり三十七石。 合計百四十六石相当。 帳面上の不足は五石。 むしろ三十二石多い。 勘定方は、肩代わりは三村の納付であり榧平のものではないと言う。 「なら三村へ返してください」と砥石庄屋。 藩は返せない。 追徴だけを続ければ、同じ米を二度取ることになる。 停止は、免除へ向けた最初の言葉になった。 第九十八章 十三戸の境 後任の検地役は、榧平の十三戸を三村へ割り直そうとした。 川の東は大葛。 西は小野沢。 北の炭場は砥石。 一本の境界で分ければ簡単だった。 雨宮家の屋敷は東、畑は西、炭窯は北にある。 一戸が三村に分かれる。 「家を動かせ」と手代。 「帳面のために?」と弥平。 八年前は、人の名を動かした。 今度は家を動かそうとする。 千世は昔の村絵図を見せた。 榧平の境は川や尾根でなく、十三戸が使う水路と入会林を囲む。 自然の線ではない。 暮らしが作った線だった。 後任は、複雑すぎると拒んだ。 現家老は、榧平を枝郷として一つにすれば検地帳が簡単になると気づいた。 権利ではなく、帳面の都合から承認が近づいた。 理由が不純でも、結果を使うか。 弥平は、使うと答えた。 第九十九章 春を待たない種 雪の下で、榧の苗の半分が鹿に食われた。 植林費を取り分けても、柵を作る費用は入れていなかった。 宗七は、苗を売った者の責任だと言った。 榧平は、御林番がいない藩の責任だと言う。 持主争いの間に、残る苗も食われる。 澪が油小屋の古い簀を持ってきた。 弥平たちが囲いを作る。 宗七は縄を出した。 藩の林方は、人足二人を出した。 費用は、封印した材木代から仮に引く。 誰の負担か、後で決める。 「仮ばかりですね」と千世。 「春は評定を待たない」と澪。 苗を守る仕事だけが先に進んだ。 翌月、九本に新芽が出た。 枯れた五本も記録した。 成功した数だけを残さなかった。 第百章 枝郷の条件 評定所は、榧平を大葛村の枝郷として認める案を出した。 条件がある。 年貢は大葛村がまとめる。 訴願は大葛庄屋を通す。 榧林の三分の二は御林のまま。 道普請は三村と分担。 榧平独自の庄屋は置かない。 源左衛門がいた大葛の下へ入る。 加代は庄屋家を継がないと決めている。次の庄屋が誰になるか分からない。 弥平は、一村として認めろと反対した。 十三戸では村役を支えられないと勘定方。 「八年前は百二十石を支えられると言った」 言葉が詰まる。 澪は枝郷案を受けてもよいと言った。 「名が帳面へ戻る。後でまた変えられる」 弥平は、仮の承認が永久になると恐れた。 三年間の試しとし、満了時に一村昇格を再評定する条項を求めた。 家老は、再評定だけ認めた。 昇格は約束しない。 完全な村ではない。 存在しない村ではなくなる案だった。 第六部 名のある畑 第百一章 十三戸の返事 枝郷案を榧平へ持ち帰ると、弥平は十三戸を寄せた。 誰かが代表して受ければ済む話ではない。 屋敷、畑、山、墓。それぞれに失ったものが違う。 雨宮家は名を戻したい。 炭焼きの宇吉は御林へ入る鑑札が欲しい。 婆さま一人の久世家は、年貢より雪の道普請を恐れた。 砥石村の人別にいる姉夫婦を頼る家もある。 千世は賛否の数を取ろうとした。 「何への賛否だ」と弥平が止めた。 条件が家ごとに違うまま、一つの返事へ丸めれば、八年前と同じになる。 千世は紙を十三枚に分けた。 名を書く欄の前に、望むことと恐れることを書く欄を置いた。 字のない者の言葉は、皆の前で読み返してから記した。 その夜に決まったのは、決める順だけだった。 第百二章 二つの移住 原田家は砥石村へ移ると言った。 紙上では、すでに八年前から砥石の住人だった。 だが実際には、榧平の屋敷を畳み、炭窯も明け渡す。 「死んだことにされた村へ戻りたい者ばかりではない」 原田の主はそう言った。 妻の実家が砥石にあり、娘はそこで縁談が進んでいる。 榧平の名が戻ることで、その娘まで偽りの家の者と噂されるのを嫌った。 もう一戸、深見家は小野沢を選んだ。 澪は引き留めなかった。 移る二戸の畑を、榧平へ置いたままにするか。売るか。分けるか。 名だけを移した八年前と違い、今回は屋根も鍬も動く。 千世は移住の一行に、屋敷畑の処分を別紙で添えた。 一つの行為を一行で済ませないためだった。 第百三章 返事をしない家 二戸は返事をしなかった。 一戸は、実際に九人の死者を出した杉生家。 もう一戸は、飢饉後に榧平へ入った塩谷家だった。 杉生の老夫婦は、名を戻せば死んだ子らの名まで掘り返されると言う。 塩谷は、過去帳にも古い人別帳にも名がない。 「戻る名がない」と主は笑った。 枝郷を認める日を基準に新住人として載せればよい、と役所は言う。 すると八年間、彼らがここで払った米と人足は誰のものか。 千世は返事を迫らなかった。 返事なし、とも書かなかった。 協議継続、と記した。 曖昧な言葉だが、無視とは違う。 塩谷の妻は、その三文字を何度も読ませた。 第百四章 庄屋のいない枝 枝郷には庄屋を置かない。 それでも、道普請の日を伝え、年貢を集め、山の争いを聞く者は要る。 大葛の後任庄屋が月に一度登る案が出た。 雪の月には来られない。 弥平を「山世話」として置く案が出た。 藩の役名ではない。印も持てない。給もない。 責任だけがある。 弥平は断った。 「名のない役で、名のある村を扱うのか」 現家老は、枝郷世話人という呼び名なら認めると言った。 年二俵の扶持は出せない。 榧林から枯枝を拾う権利を、役料の代わりにする。 宇吉が、山を役人の給に使えば共有林でなくなると反対した。 千世は、役と山の権利を切り分けるよう書いた。 一つを渡す代わりに別のものを削る交渉が、また始まった。 第百五章 庄屋家の座敷 加代は、夫の死後も庄屋屋敷に残っていた。 帳箱だけが役所へ運ばれ、床の間には四角い埃の跡がある。 大葛の百姓代と組頭が後任を選ぶ会合へ、加代は呼ばれなかった。 庄屋職は家に付くものとされながら、女が継がないと決めれば意見も消える。 千世は加代に、榧平を枝郷にする案を告げた。 「あの人の下へ戻されるように見えるでしょうね」 加代は言った。 源左衛門の企みで損をした三戸について、庄屋家の田を処分し補う考えがあるという。 それで殺されたことが帳消しになるわけではない。 受け取れば、口止めの金と見られるかもしれない。 「私の金でなく、あの人があの人の名で償うようにしたい」 千世は遺産目録に、損害弁済の留保と記す案を出した。 加代は、弁済の相手が拒む権利も書かせた。 第百六章 免除という字 未納分を取り立てない。 評定所の最初の文言は、そうだった。 千世は「取立停止では、後で再開できます」と伊織へ言った。 伊織は役を外されている。意見書を出す資格はない。 それでも控えの余白に、停止と免除の違いを書いた。 榧平の石高は八年間、三村の皆済目録に混ぜて納められている。 未納ではない。 名義の食い違いを理由に、二度取れば二重取りになる。 現家老は免除を認めると、藩が過去の誤りを認めたことになると渋った。 千世は言った。 「納め済みと認めれば、免除するものがございません」 家老は長く黙った。 新しい下知は、追徴を免ず、ではなく、各年皆済済みと確認す、と書かれた。 謝罪ではない。 だが将来の取立てを塞ぐ字だった。 第百七章 山の古文書 光照寺の経櫃から、虫に食われた山論の和解状が出た。 百二十年前、大葛と小野沢が榧の実を争った時のものだった。 境の木に傷をつけること。 実は榧平十三戸が拾うこと。 枯木は三村が橋材に使うこと。 生木を伐る時は寺の鐘を合図に立ち会うこと。 砥石の名は後筆で足されている。 榧平が村であった証明にはならない。 だが、山を使う者として存在した証にはなる。 慈周は、その文書を父から見せられたことがあると言った。 八年前、御林へ変える際には出さなかった。 「救米を得るためと、自分に言い聞かせた」 千世は、見つかった日と、慈周の記憶を分けて記した。 古文書そのものより、隠した判断が新しかった。 第百八章 三分の一の森 評定所は、榧林の三分の一を枝郷の持山へ戻すと決めた。 三分の一の場所が問題になった。 人里に近い斜面は若木が多く、材木として安い。 奥は太い木があるが、運べない。 藩は奥を返したい。 榧平は手前を求めた。 宗七は、材木の値だけでなく実の採れる年を数えろと言った。 彼は材を買う側でありながら、榧油の値も知っている。 榧平は斜面を帯状に分け、手前と奥を一筋ずつ取る案を出した。 境は直線でなくなる。 検地役は嫌がった。 千世は、地図の美しさで木は育たないと書いた。 最後には三つの帯が返され、御林にも実拾いと下草刈りの入会が残った。 所有と利用が、同じ線で分かれなかった。 第百九章 鳴海の証文 宗七の伐採契約は、源左衛門の死で消えなかった。 前金はすでに藩の大坂返済へ回っている。 契約を破れば、違約銀を払う。 藩にその余裕はない。 宗七は御林の三分の二から、四年間で百八十本を伐る権利を持つ。 榧平が使う水路の上も含まれた。 弥平は契約そのものを無効にしろと迫った。 「私も金を借りて前金を出した」と宗七。 木を切らなければ紙問屋が潰れ、紙漉きの村へ銭が回らない。 千世は契約を、木の本数でなく区画と年次へ書き換える案を写した。 水路の上は切らない。 一度に同じ斜面を裸にしない。 榧平から山見役を二人雇う。 百八十本は百二十本へ減り、残る前金は榧油の買付けで返す。 損を誰か一人へ集めない代わり、誰も無傷ではなかった。 第百十章 藩の算盤 千世は城の勘定所で、藩の借財を初めて見た。 大坂の鴻池屋へ銀四百二十貫。 江戸詰の費用。 川普請の借入れ。 凶作年の買米。 利が利を呼び、今年の年貢だけでは埋まらない。 下級藩士の扶持は二月遅れていた。 伊織の母も、簪を質へ入れていた。 「だから村を消してよいとはならない」と伊織。 「でも、何も払わず戻せるともならない」と千世。 現家老は自分の俸禄を三割返す案を出した。 それで埋まるのは借財の二日分だった。 千世は、藩が苦しいという一文を意見書から削らなかった。 苦しさは理由になる。 正しさにはならない。 両方を残さなければ、次の者はまた都合のよい方だけを読む。 第百十一章 光照寺の処分 光照寺にも咎めが下った。 宗門人別の証明を誤り、過去帳へ生者を入れたこと。 寺領二石を三年間召し上げる。 慈周は住職を退き、隠居せよ。 寺がなくなれば谷の葬送が困るため、閉門は免れた。 檀家は反発した。 救米を運んだ寺を罰するのか、と。 杉生の老爺は、死んだ子と生きた者を同じ戒名に並べた寺だ、と言った。 どちらも本当だった。 慈周は弁明しなかった。 ただ、寺領を失う三年の薪と米をどうするか、千世と計算した。 善悪の評定より先に、冬の粥の量が決まる。 千世は罰を書き、同じ頁に檀家からの寄進を強いてはならぬと添えた。 寺の咎を村へ払わせないためだった。 第百十二章 千世の給金 寺領が減れば、千世の給金も出ない。 これまで米一石と、盆暮れの銭百文を受けていた。 住み込みではない。寺男だった父の小屋を借りている。 慈周は、自分の隠居扶持を回すと言った。 千世は断った。 勘定方から、城の文庫で控えを整える仕事が出た。 ただし女に役名は付かない。 日雇いの筆耕。月ごとに切られる。 寺の記録を離れれば、誰が過去帳へ追記するのか。 千世は午前を寺、午後を城にする条件を出した。 給金は半分ずつ。 どちらからも、片手間だと言われた。 「片手で持てぬ帳面なら、二つの場所で持ちます」 採用状に名はなく、女筆耕一人とだけ書かれた。 千世はその控えの裏へ、自分の名を書いた。 第百十三章 見えない字 慈周は、千世の顔を輪郭でしか見られなくなっていた。 退任の届けへ花押を書く時、二度筆を置き直した。 「見えなくなる前に、見なかったことが多い」 千世は返事をしなかった。 慈周は、過去帳の鍵を差し出した。 「私に預けるのですか」 「次の住職へ渡すまでだ」 権限を譲るのではない。 仮に保管させるだけだった。 八年前も仮の処置だった、と慈周は言った。 「仮は、人より長く生きます」 千世は鍵を受けた。 赦したわけではない。 拒めば帳面を守れない。 慈周は毎朝、本堂の階段を数えて上るようになった。 千世は段数を教えなかった。 自分で数える音を聞いた。 第百十四章 牢の油 登勢へ枝郷案が伝えられた。 牢番を通した短い書状だった。 榧平の名が戻る。 一村ではない。 林は三分の一。 追徴なし。 登勢は、よかった、とも、足りない、とも言わなかった。 澪への返書には、油槽の底板を替える時期だけを書いた。 千世が面会すると、登勢は判決文を読み直させた。 そこには、榧平救済への尽力が情状として記されている。 「これを削れますか」 「判決は直せません」 「なら、私の手柄のように読むなと澪へ言って」 村を守った者が村のために殺した。 その形へ整えれば、聞く者は安心する。 登勢はその安心を拒んだ。 「私は、あの時あの人を殺した。村はその前から生きていた」 第百十五章 九人の葬り 実際に死んだ九人の記録を確定する仕事が始まった。 過去帳だけでは足りない。 棺板の勘定。 麻衣の代。 墓石の文字。 死んだ日に借りた鍋。 弔いへ出した蕎麦粉。 たまの墓には、年が書かれていなかった。 母は、九つだったと言う。 寺の勘定では小児の麻衣。 人別帳では十歳。 数え年の扱いが違う。 千世は、九歳と断定しなかった。 天明三年、幼年、と記し、母の口述に九つとある、と添えた。 曖昧さを残すのは怠りではない。 分からないものを、分かった形にしないためだった。 第百十六章 三十二の朱 生者三十二名の戒名を削ることはできなかった。 紙を削れば薄くなる。 墨で塗れば、何を隠したか分からなくなる。 千世は各名の脇へ細い朱線を引き、別冊の追記へ番号を振った。 生存を確認した二十七名。 八年の間に本当に死んだ五名。 その五名には、本当の没日と葬りを記した。 飢饉後に生まれた七人は、元の過去帳にいない。 彼らは宗門人別帳の続柄を正す必要がある。 四十一、三十二、二十七、五、七、九。 足せば合う数と、足してはいけない数が混じる。 千世は追記の冒頭へ書いた。 「以下の数は目的を異にする。総数として合算せず」 数の誠実さは、正確な足し算だけではなかった。 第百十七章 消せない養子 三村の人別帳では、榧平の者は親類の養子や奉公人になっている。 枝郷へ戻すため、その線を消そうと役所は言った。 だが紙上だけの養子が、八年のうちに本当の家族になった例もある。 砥石の老夫婦は、帳面上の養子へ実際に田を継がせる約束をしていた。 小野沢の女は、奉公先で夫を亡くし、そこの墓を守っている。 弥平の名も、大葛の雨宮分家へ入っていた。 「全部偽りだったとは言えない」と千世。 偽りから始まった関係が、本当になることがある。 本当になったから、最初の強制が消えるわけでもない。 旧記は抹消せず、枝郷復帰、養縁継続、養縁解消を一人ずつ選ばせた。 三十二人を一度に死者にした帳面は、一人ずつでしか直せなかった。 第百十八章 子の名乗り 澪の長男は九つになっていた。 人別帳では、父なし。母は小野沢の奉公人。 実際には弥平の子として榧平で育った。 役所は雨宮家の長男へ直すと言った。 子は、小野沢の祖父の姓も捨てたくないと言った。 二つの姓を並べる仕組みはない。 澪は雨宮を選んだ。 登勢の家との縁が切れるのではない、と言い聞かせた。 子は納得しなかった。 千世は人別帳の欄外へ、母方真壁家との往来を妨げず、と書けないか頼んだ。 役所は身分帳に情は書かないと退けた。 代わりに、寺の檀家帳へ両家の祭祀を担うと記した。 一冊で人の全部を表せないなら、冊子どうしを切らさない。 第百十九章 初めての割付状 春、榧平枝郷への初めての年貢割付状が届いた。 高は百九石。 御林へ残る分を除き、戻された畑と屋敷を測り直した数字だった。 大葛村枝郷榧平、とある。 大葛庄屋の印と、枝郷世話人の請印を並べる欄がある。 弥平は世話人を引き受ける代わり、任期を一年とした。 再任は十三戸――いまは十一戸――の寄合で決める。 役料は米三斗。各戸から取らず、山見役の雇銭から藩と宗七が半分ずつ出す。 弥平は印を押す前に、百九石の一筆を読み上げた。 存在しない村の偽文書ではない。 本物だからこそ、間違いがあれば来年まで残る。 三箇所の字名を直し、ようやく印を押した。 第百二十章 皆済の札 米蔵の前へ十一戸の俵が並んだ。 原田と深見の畑分は、それぞれ移住先から納める。 塩谷家は新住人として割付けられたが、八年分の働きを考慮し、初年の夫役を半減された。 大葛がまとめて藩へ納める。 榧平の名だけで皆済目録は出ない。 枝郷だからだ。 それでも大葛の目録の内訳へ、榧平枝郷百九石分、と初めて書かれた。 弥平は控えを山へ持ち帰った。 軒ごとに見せた。 文字を読めない者には、米の量、夫役、未納なしの三点を読み上げた。 杉生の老婆は、紙へ触れなかった。 「子らの命を戻す紙ではない」 「はい」と千世。 「でも、生きた者から二度取らぬ紙です」 老婆は、最後に指先で印の凹みをなぞった。 第百二十一章 離れた屋根 原田家が砥石へ移る日、雪解け水が道を泥にした。 家財は大八車二台。 屋根板は外さない。 空いた家を榧平の共同小屋にするため、買い取ることになった。 代金は十一戸で払えない。 返された林の榧実を三年分、原田家へ渡す約束にした。 「戻って拾ってよいのか」と原田の妻。 移った者が旧村の山へ戻るのを、裏切りと呼ぶ者もいた。 弥平は、証文へ原田家の採取権を書いた。 縁を切る移住ではなく、場所を変える移住にする。 車が峠を越える時、誰も万歳をしなかった。 村名を取り戻す話の中に、村を離れる家がある。 千世は空いた屋根を、減った一戸と数えなかった。 共同小屋一棟、と数え直した。 第百二十二章 油槽の底 澪は登勢の言いつけどおり、油槽の底板を替えた。 板を剥がすと、黒い滓の下から細いひびが出た。 このままなら冬までに油が漏れる。 登勢は牢から見抜いていた。 油搾りを続けるか、澪は迷った。 殺害の場所として知られ、客は減っている。 一方で祭礼と灯明の油は必要だった。 藤兵衛が店を買い取ると言った。 澪は断った。 母を庇って偽証した叔父へ頼れば、また真壁家の内側で話が閉じる。 宗七から前借りし、榧実油と菜種油の二本立てにした。 利は高い。 千世は証文を読んだ。 返せない時、店だけでなく澪の畑まで取る条項を見つけた。 宗七は条項を削った。 「読める者がいると商いは面倒だ」 「面倒なまま、お続けください」と千世。 第百二十三章 水口の石 春の検地で、源流の水口に古い石組みが見つかった。 榧平の田へ引く水路と、大葛の棚田へ落とす水路の分かれ目だった。 石の向きを変えれば、一方が潤い、一方が乾く。 八年前から大葛側へ多く流されていた。 源左衛門の指図だと大葛の者は認めた。 榧平が帳面にない以上、用水権もないとされたのだ。 弥平は半分を求めた。 大葛は田の広さに応じ三分の一しか譲れないと言う。 雨の年と旱の年で必要量が違う。 検地帳に水は一筆として載らない。 千世は水口に刻まれた九つの溝を写した。 古い山論状には、鐘九つで榧平側、鐘六つで大葛側へ石を動かすとある。 時間で水を分けていた。 土地の面積でなく、時を割る昔の知恵が戻った。 第百二十四章 鐘九つ 用水の試しが始まった。 朝、寺の鐘九つで榧平側へ水を流す。 昼、六つで大葛へ戻す。 鐘は谷へ届くが、風の日には聞こえない。 初日、石を戻すのが遅れ、大葛の苗代が乾いた。 大葛の若者が榧平の水路を塞いだ。 弥平も鍬を持って下りた。 殴り合いになる前に、加代が庄屋屋敷の半鐘を持ち出した。 水口のそばへ吊るす。 寺の鐘が聞こえた者が、半鐘を打つ。 誰が打ったか木札に刻む。 「夫の家の物です」と加代。 「大葛の村の物でもあります」 半鐘の縁には源左衛門の祖父の名がある。 榧平は名を削らなかった。 水の合図に、人の罪を移さなかった。 第百二十五章 雨の量 梅雨は長かった。 水を奪い合った二村が、今度は水を捨てる場所を争った。 榧平の山腹から落ちる濁流が、大葛の苗を埋める。 伐採予定地の木を残さなければならない。 宗七は契約違反だと言った。 林方は、水路を掘れば済むと答えた。 掘った先は小野沢の楮畑だった。 千世は三村と枝郷の者が土を入れた籠の数を記した。 誰が何籠働いたか。 何のための普請か。 昔の夫役帳には人数だけがあり、榧平の働きは大葛の名に入っていた。 今回は榧平四十七籠と書いた。 雨量を測る道具はない。 杉樽に溜まった深さを、指の節で毎朝測った。 正確ではない。 同じ樽、同じ刻で続けることに意味があった。 第百二十六章 崩れた畦 七月の夜、戻された林の斜面が崩れた。 木を切っていない場所だった。 鹿除けの杭から水が集まり、土へ筋を作っていた。 九本の苗を守った柵が、畦を壊した。 宇吉の小屋の壁が押され、牛一頭が脚を折った。 誰の責任か。 苗代から費用を出した榧平か。 縄を出した宗七か。 人足を出した林方か。 誰も崩すつもりはなかった。 千世は原因を一人の名へ結ばなかった。 柵の下へ横溝を入れなかったこと、雨の増加、古い炭窯跡の空洞を並べた。 牛の代金は三者で割った。 宇吉は、牛は三分の一ずつ歩かないと言った。 それでも全額を誰かへ負わせるよりよいと受け取った。 第百二十七章 紙漉きの女たち 小野沢の楮畑が水をかぶり、紙漉きが止まりかけた。 千世たちの帳面に使う紙も、そこから来る。 女たちは、伐った榧の皮を燃料に回すよう求めた。 林方は御林の皮まで藩の物だと拒んだ。 宗七は、濡れた楮を安く買うと言い出した。 登勢の妹・志乃が、女たちを集めた。 濡れた楮を共同で蒸し、傷む前に表皮を剥ぐ。 榧平から共同小屋と薪を貸す。 代わりに、過去帳の追記用紙を無償で漉く。 千世は無償を断った。 寺の責任を、紙漉きの女の働きで償わせることになる。 安値ではなく、翌年払いにした。 志乃は笑った。 「帳面は、紙の借りも忘れないのね」 第百二十八章 新しい墓標 九人の墓標を直すことになった。 たまの母は、古い石を捨てるなと言った。 字が薄くても、娘を埋めた日に置いた石だ。 新しい石へ替えれば、正確になる代わりに記憶が新しくなる。 千世は古い石を残し、その脇へ小さな木札を立てる案を出した。 木札には、分かる範囲だけを書く。 ほかの八人も同じにするかで揉めた。 立派な石を建てたい家。 貧しさを隠したくない家。 墓を谷の共同墓地へ移したい家。 九人を一列へ揃える案は退けられた。 同じ飢饉で死んでも、同じ墓である必要はない。 たまの木札は母が書いた。 震える字で、名だけが大きかった。 第百二十九章 割られた庄屋印 大葛の新庄屋には、百姓代だった庄兵衛が選ばれた。 源左衛門の遠縁だが、屋敷を継がない。 庄屋印は村の物として作り直す。 古い印を割る日、加代も呼ばれた。 源左衛門が偽割付状に使った割印とは別の印だった。 それでも木槌の音に、加代の肩が揺れた。 庄兵衛は、榧平の訴願を自分が止められる条件を嫌った。 枝郷は庄屋を通す、と下知にある。 「通すのと、許すのは違う」と彼は言った。 榧平の訴えは封をせず受け取り、三日以内に城へ送る。 控えを榧平と寺へ一通ずつ残す。 庄屋の裁量を減らす自分用の規則を、最初の印で認めた。 印は権威だけでなく、手を縛るためにも使えた。 第百三十章 最初の訴え 榧平からの最初の訴えは、村名でも林でもなかった。 産婆の賃金だった。 枝郷の妊婦を診た小野沢の産婆へ、どの村が米を出すか。 人別は榧平へ戻った。 寺は光照寺。 夫の田は大葛名義。 母の実家は小野沢。 三村が互いに払うべきだと言った。 産婆は、子は評定を待たないと言った。 千世は山崩れの時と同じ言葉を思い出した。 結局、榧平が半分、大葛と小野沢が四分の一ずつ出した。 次から枝郷の共有米に産婆分を積む。 訴状は三日以内に城へ送られた。 城からは、村内で取り決め済みにつき承知、と返った。 大きな不正を暴いた後、最初に制度を動かしたのは、一人の子が生まれる費用だった。 第百三十一章 名のある子 生まれたのは女の子だった。 父は榧平、母は小野沢。 届けには、榧平枝郷生まれと書かれた。 八年前以後、その五文字を持つ初めての子だった。 祖母は、縁起が悪いと村名を外したがった。 消えた村の名を背負わせるのか、と。 父は、消えたままにしないための名だと言った。 千世はどちらにも決めさせなかった。 生まれた場所を書く欄は、願いを書く欄ではない。 だが場所の呼び名そのものに、願いと恐れが染みている。 寺の産帳には、家の軒下で出生、とだけ記した。 人別帳には、榧平枝郷。 二冊が違うのは誤りではない。 それぞれが何を記す帳面かを守った結果だった。 第百三十二章 夏の伐採 宗七の契約による最初の伐採が始まった。 山見役には宇吉と、砥石へ移った原田の主が選ばれた。 枝郷に住まない者を山見にすることへ反対が出た。 原田は古い根道を知っている。 伐る木には白墨で輪をつけた。 百二十本を四年。初年は二十六本。 二本は中が腐っていた。 宗七は代わりを求めた。 契約には、生木一、本とあるだけで健木とはない。 榧平は数へ入れろと言う。 腐りを隠して印をつけたのではないかと宗七。 原田は怒った。 千世は倒した切株の断面を紙へ写し、白い腐朽が外から見えなかったことを林方に確かめさせた。 一本を数え、一本は数えない。 等分でなく、腐り方の違いで決めた。 第百三十三章 木の下の骨 三本目を倒した跡から、小さな骨が出た。 人の指に見えた。 伐採は止まった。 榧平の者は、飢饉の死者が山へ捨てられたのではないかと恐れた。 慈周は九人をすべて葬ったと答えた。 千世は骨を寺へ運ばず、その場を囲った。 砥石の猟師が見て、鹿の前脚だと言った。 人の骨と鹿の骨を比べる知識は、千世にない。 城の医師も呼ばれた。 鹿で間違いない。 骨は何年も前のものだった。 噂は判定より早く谷を下り、夕方には「四十二人目の死者」になっていた。 千世は翌朝、三村の掲げ板へ鹿骨と書いた札を出した。 本当の九人を増やす噂も、減らす帳面と同じく乱暴だった。 第百三十四章 伐った年輪 倒した榧の切株には、細い輪が密に重なっていた。 伊織は輪を数えた。 百六十を越えたところで分からなくなった。 その木が幼木だった頃、今の境界はなかった。 弥平は、だから榧平の木だと言った。 林方は、古いからこそ藩の木だと言う。 年輪は所有者を書かない。 千世は切株の位置、太さ、輪のおよその数、材の行先を伐採帳へ加えた。 契約には不要な欄だった。 「何のためだ」と宗七。 「切った後に、何があったか分からなくならないためです」 材は城下の橋桁になる。 榧平を消す担保だった木が、人を渡す橋になる。 美しい話にするには、代金と切株が残りすぎていた。 第百三十五章 半鐘の違い 水口の半鐘が、夜中に鳴った。 榧平側へ水を盗んだ合図だと大葛の者が駆けつけた。 石は動いていなかった。 翌夜も鳴った。 三度目、千世も水口で待った。 音は半鐘より低い。 谷向こうで、伐採した丸太を留める鉄の楔が風に揺れていた。 半鐘と同じ間隔で岩に当たる。 大葛の若者は、榧平がわざと鳴らしたと言い張った。 千世は鐘の縁の煤を見せた。 水番が打てば松明の煤がつく。 三夜、増えていない。 鐘を鳴らした者はいない。 殺しの夜、煤は時刻を崩す手掛かりだった。 今度は、鳴っていないことを示した。 同じ物も、問うことが違えば証すものが変わる。 第百三十六章 初盆の後 源左衛門の初盆を、加代は庄屋屋敷で営んだ。 村人は来たが、榧平から来たのは千世と澪だけだった。 澪は登勢の娘として来たのではない。 油を納める商いとして来た。 加代は代金を払い、受取札を求めた。 十三枚の札の一枚が殺人の証拠になってから、澪は時刻を自分で書かない。 受け取る側に書かせ、二人で読む。 加代は寺鐘四つ、と記した。 「母は鐘を使って嘘をつきました」と澪。 「夫は紙を使いました」と加代。 二人はそれ以上、家族の罪を交換しなかった。 位牌の前の灯明は、朝まで消えなかった。 油の売上として、澪は帳面に載せた。 第百三十七章 十三と九 その年の送り火は、藩の役人も見に来た。 榧平が存在する証として、十三の火を数えるためだ。 しかし二戸は移住している。 空いた屋敷へ火を置くか。 寄合では、今の戸数に合わせ十一にする案が出た。 原田家は砥石から戻り、自分の旧屋敷にも点けたいと言った。 深見家は戻らなかった。 結局、十三枚の火皿を並べた。 十一は今の家。 一つは原田家が点ける。 一つは共同小屋となった深見家の跡へ置く。 少し離れ、九人の死者へ小さな火を灯した。 役人は二十二と数えた。 千世は訂正した。 「戸の火十三、死者の火九。二十二の火、ではございません」 役人は面倒そうに、二行へ書き直した。 第百三十八章 火の消えた家 夜半、深見家跡の火だけが消えた。 風ではない。 油が抜かれていた。 枝郷に残った者の誰かが、去った家に火を置くなとしたらしい。 犯人探しが始まった。 弥平は全員の油差しを調べようとした。 澪が止めた。 油を盗んだ量など、どの差しにも残らない。 深見家の主は、翌朝小野沢から来た。 消えた火を見て笑った。 「家は空けた。火まで持つとは頼んでいない」 共同小屋にしたなら、共同の火として点ければよい。 旧家の名を守るつもりが、本人の選択を置き去りにしていた。 翌年から、戸の火は住む家だけ。 共同小屋には道具の無事を願う一灯、と別に決めた。 消した者の名は分からなかった。 分からないまま、間違いは直せた。 第百三十九章 秋の不足 収穫後、枝郷の共同米を量ると三俵足りなかった。 産婆賃、山崩れの見舞い、雪道の備えに積んだ米だ。 世話人の弥平が鍵を持つ。 蔵の板戸に破りはない。 原田家へ渡す榧実の代わりに、米を流したという噂が出た。 弥平は鍵を千世へ渡した。 「源左衛門の次は俺か」 千世は蔵を封じなかった。 冬前の配給まで止めれば、疑いの代金を弱い家が払う。 出入り帳には、入れた量と出した量が合っている。 俵の数も合う。 一俵あたりの米が少ない。 誰かがすべての俵から少しずつ抜いたように見えた。 第百四十章 二つの枡 蔵には二つの枡があった。 大葛から来た古い枡。 枝郷承認後に城から渡された新しい枡。 底板の厚みが違う。 古い枡で入れ、新しい枡で量り直せば不足が出る。 だが三俵分には届かない。 千世は各俵の縄の結び目を見た。 秋の早い日に詰めた俵だけ、口が緩い。 米が乾く前に詰め、後から水分が抜けて沈んでいた。 盗難でなく、枡の差と乾燥が重なった。 弥平は疑った者へ怒った。 「俺も、鍵を持つ自分だけが疑われると思った」と言った。 千世は不足なしとは書かなかった。 帳面上の不足三俵。 原因、枡差および乾減り。 冬に配れる量が減る事実は残る。 第百四十一章 乾いた米 原因が分かっても、米は増えない。 大葛は貸すと言った。 春に一割増しで返す条件だった。 枝郷内では、疑いをかけた家が余分に出すべきだという声が出た。 それでは罰で米を作ることになる。 澪は油の売上から一俵を買うと言った。 登勢の罪への償いだと受け取られるのを嫌い、貸付にした。 残り二俵は各戸が余裕に応じて出す。 同じ量ではない。 翌春、榧実油の売上で返す。 杉生家は米を出せず、共同蔵の俵を干し直す働きをした。 千世は米と労働を同じ欄へ無理に換算しなかった。 別々に記し、どちらも返済と認めた。 第百四十二章 蔵番の印 弥平は鍵を一人で持つのをやめた。 鍵は二つにできない。 そこで蔵を開ける時、世話人ともう一戸が立ち会う。 月ごとに立会人を替える。 戸口へ小さな札を掛け、開けた日と目的を刻む。 字を読めなくても、刻みの数は分かる。 城の役人は、正式な印判でない札は証拠にならないと言った。 千世は、証拠にするのは札だけではないと答えた。 帳面、二人の記憶、俵の縄、札の刻み。 一つを偽っても、すべては合わせにくい。 源左衛門の偽割付状は、本物の印一つへ頼りすぎた。 枝郷の蔵は、弱い印をいくつも重ねた。 第百四十三章 雪道の番 二年目の冬、雪は早く来た。 枝郷の条件にある三村との道普請が始まる。 大葛は本道を開ける。 砥石は炭道。 小野沢は川沿い。 榧平は三つすべてへ人を出すことになった。 十一戸では足りない。 弥平は一戸一人と決めた。 杉生家には働ける男がいない。 塩谷家には女二人しかいない。 代わりに銭を出せと言われた。 千世は古い普請帳を開いた。 女の雪踏み、老人の炊出し、子どもの標縄も働きとして記されている年がある。 後の帳面で人足だけに狭められていた。 杉生家は炊出し、塩谷家は標縄を作る。 一人という数を、男一人という意味にしなかった。 第百四十四章 峠の行き倒れ 雪道で旅の薬売りが倒れた。 原田が見つけ、共同小屋へ運んだ。 男は熱を出し、名を言えない。 どの村の費用で養うか、また揉めた。 榧平の小屋だが、見つけたのは砥石の者。 倒れた場所は古い境の上。 千世は、境を決めるまで粥を待たせるのかと言った。 共同米から出した。 男は三日後に起き、越後の薬札を見せた。 帰りの路銀を求めず、足の凍傷が治るまで薪割りをした。 後日、城は無宿者を勝手に留めたと枝郷を咎めた。 弥平は最初の訴願規則を使い、三日以内に経緯を送っていた。 日付のある控えが、後からの隠匿でないと示した。 第百四十五章 牢からの薬 薬売りが置いていった膏薬を、澪は登勢へ送ろうとした。 冬の牢で手が腫れると聞いたからだ。 牢番は差入れを拒んだ。 毒が混じる恐れがある。 城医師の検めを受ければよいが、銭が要る。 澪は油代から払った。 登勢は膏薬を受け取らず、隣の牢の老女へ渡した。 澪は怒った。 「私が母へ買ったものです」 登勢の返書には、だから自分が誰へ渡すか決めた、とあった。 守るという言葉で相手の選択を奪ったのは、八年前だけではない。 澪は返書を油で汚した。 それでも捨てなかった。 第百四十六章 凍った墨 城の文庫は底冷えした。 千世の硯の水が凍り、午前の寺仕事が遅れた。 日雇い筆耕の契約は月末で切れる。 勘定方は、榧平の一件が終われば女筆耕は不要だと言った。 一件は終わっていない。 三年後の再評定まで、控えを揃える必要がある。 千世は自分の雇用を守るために、事件を長引かせていると思われたくなかった。 伊織は文庫整理の仕事を、榧平だけでなく藩内全村へ広げる案を出した。 水損、山論、無住地の古記録を目録にする。 千世一人で終わらない量だった。 勘定方は、だから始めるなと言った。 現家老は試しに一年を認めた。 雇用は延びたが、給金は上がらなかった。 千世は凍った墨へ息を吹き、目録の一行目を書いた。 第百四十七章 たまの母 たまの母が倒れた。 九人のうち、死者を直接知る最後の親だった。 千世は枕元で、たまの没日をもう一度尋ねそうになった。 記録を確かにする最後の機会かもしれない。 だが母は水を欲しがっていた。 千世は質問をしなかった。 三日後、母は回復した。 「聞きたいことがあった顔だ」と言われた。 千世は正直に話した。 母は、日は覚えていないと言った。 雨が降らず、井戸の底へ白い石が見えた日。 たまが最後に欲しがったのは、熟していない柿だった。 千世は没日を変えなかった。 別冊へ、白石の見えた日、青柿を望む、と書いた。 日付より残るものがある。 日付の代わりにはならない。 第百四十八章 早春の火事 油小屋の隣から火が出た。 夜明け前、澪が煙に気づいた。 新しい底板の削り屑へ火が移り、壁を焦がした。 殺しの場所を焼こうとしたのだという噂が立った。 澪自身が火をつけ、母の痕跡を消そうとしたとも言われた。 火元は、店の外へ置かれた灰桶だった。 前夜、通りの者が煙管の火を捨てている。 誰かは分からない。 千世は焼けた壁の前で、八年前の救米鍵を作った蝋型がまだ残っているか確かめた。 証拠としてはすでに城へ移してある。 澪は壁を塗り直さなかった。 焦げた柱を残し、隣に新しい棚を組んだ。 隠さないことと、暮らしを止めることは違った。 第百四十九章 六人目の死 生存を確認した二十七名のうち、一人の老人が亡くなった。 八年前の偽りの没日と、本当の没日を二つ持つ者だった。 寺は新しい戒名を授けるか迷った。 古い戒名を使えば、虚偽を認めるように見える。 新しくすれば、一人に二つの死者名ができる。 本人は生前、古い戒名を気に入っていたという。 「生きているうちに自分の戒名を知るとは得だ」と笑っていた。 家族はその名を望んだ。 千世は古い戒名を本葬に用い、過去帳には寛政四年の没日を本文とした。 天明三年の行へは、当時生存、後年同戒名を本人希望により用う、と追記した。 一度の嘘から生まれた名を、本人が自分のものへ変えていた。 第百五十章 二年目の検地 寛政五年の春、枝郷の畑をもう一度測った。 前年の山崩れで二筆が狭くなり、水路替えで一筆が広がった。 石高を直せば年貢が変わる。 榧平は減った分だけ下げろと言う。 勘定方は、広がった畑も上げると言う。 弥平は、八年間余分に払った分を忘れたのかと怒った。 皆済済みと認めた以上、過去と今年を混ぜるなと千世は言った。 過去の補いを毎年の測量へ隠せば、いつ終わったか分からなくなる。 二筆を下げ、一筆を上げる。 別に、枝郷復帰に伴う三年の種籾扶助を残す。 年貢と救済を同じ数字の中で相殺しなかった。 第百五十一章 伊織の復役 伊織に復役の内示が出た。 検地方ではなく、文庫改め役。 格は一つ下がる。 給は同じ。 榧平の不正を見抜けなかった咎と、その後原本を揃えた働きを併記した処分だった。 伊織は受けた。 「畦へ出られなくなる」と残念がった。 千世は、帳面だけを信じた頃へ戻らぬため、月に一度は現地を歩く条件を出せと言った。 下級役人が条件を出せる立場ではない。 それでも伊織は願書に書いた。 許されたのは年二度だった。 春の水損と秋の収穫後。 十分ではない。 ゼロでもない。 復役の日、伊織は最初に水口の石を見に来た。 第百五十二章 名寄せの穴 伊織が藩内の名寄帳を目録にすると、別の穴が見つかった。 砥石村の奥に、持主の名が三代前で止まった畑が七筆ある。 榧平のような消された村かと噂になった。 現地へ行くと、畑はすべて林へ戻っていた。 持主の家が絶え、隣家が薪を拾っている。 事件ではない。 古い帳面が直されなかっただけだった。 「穴を見るたび、誰かが隠したと思うようになった」と伊織。 千世も同じだった。 疑うことは必要だ。 疑いに似合う悪人を探し始めれば、帳面を読む目が曇る。 七筆は無主地として改められ、薪拾いの慣行を残した。 小さな訂正だった。 榧平の一件がなければ、さらに三代放置されたかもしれない。 第百五十三章 加代の田 加代が留保していた弁済案に、三戸の返事が来た。 一戸は受け取る。 一戸は拒む。 一戸は、田でなく金を求めた。 源左衛門の計画で切られた楮の補償に使いたいという。 加代は三つとも受けた。 受け取る家には田一反。 拒む家には何も渡さない。 金を求めた家には田を売った代金から払う。 同じ被害へ同じ償いを押しつけなかった。 加代自身は屋敷を離れ、姉のいる城下へ移る。 庄屋屋敷は大葛が買い、寄合所にした。 床の間の四角い埃は拭われた。 源左衛門の位牌は、加代が持っていった。 村の物にしなかった。 第百五十四章 登勢の病 登勢が牢で高熱を出した。 城医師は肺の病を疑った。 永牢の者を療養小屋へ移すかで評定になった。 逃亡を恐れ、鎖を外さない案が出た。 澪は、母を家へ戻して看ることを願った。 許されない。 殺された源左衛門の家族へ意見を聞くべきだという者もいた。 加代は、病の扱いを自分へ尋ねるなと答えた。 「私は刑を決める者ではありません」 登勢は牢内の療養部屋へ移された。 鎖は昼だけ外す。 澪が買った膏薬を渡した老女は、先に牢を出ていた。 置いていった綿入れが、登勢の布団へ足された。 善行の報いとは、千世は書かなかった。 誰の綿入れかだけを記した。 第百五十五章 罪人の口述 熱が下がった登勢は、自分が知る八年前の道順を残したいと言った。 救米を運んだ夜、どの家へ何升渡したか。 誰が荷を担いだか。 途中で一俵を失った場所。 千世は牢へ筆を持ち込んだ。 登勢は、藤兵衛の名を何度も外そうとした。 「それでは口述でなく、庇い書きになります」 「あの人には子がいる」 「あなたが守る相手を決める記録にはしません」 登勢は黙った。 翌日、藤兵衛の名を含めて語った。 ただし、自分が命じたことは自分が命じたと明確にした。 口述の末尾へ、殺人の弁明に用いないことを望む、と付けた。 史料の使われ方を、語った者だけでは決められない。 それでも望みとして残した。 第百五十六章 藤兵衛の退き際 藤兵衛は小野沢の庄屋を退いた。 登勢を庇う偽証と、八年前の帳面操作の責任を取る。 藩は処罰として一年の閉門を命じた。 村は、紙漉きの売買を知る者がいなくなると困った。 藤兵衛は閉門中、家の中から値段を教えると言った。 それでは閉門の意味がない。 志乃たちは、自分たちで宗七と値を決めることにした。 初回は相場より安く売ってしまった。 藤兵衛は障子の内で歯ぎしりした。 二回目、女たちは三軒の問屋へ見本を送った。 宗七は値を上げた。 庄屋の知識が消えた穴を、失敗しながら埋めた。 藤兵衛が必要でなかったことにはならない。 必要だったから任せ続けた、という言い訳だけが弱くなった。 第百五十七章 枝郷の婚礼 榧平の若者と砥石の娘の婚礼が決まった。 娘の父は、枝郷へ嫁がせれば身分が下がると反対した。 一村でない。 庄屋がいない。 三年後にどうなるか分からない。 若者は砥石へ婿に入ると言い出した。 榧平では炭窯を継ぐ者が一人減る。 弥平は村のため残れと説いた。 澪が、村のためという言葉を止めた。 登勢が使わないでほしいと望んだ形へ、また人を押し込めかけていた。 二人は婚礼後、夏は榧平、冬は砥石で暮らすと決めた。 人別帳は一方しか選べない。 砥石へ置き、榧平の炭窯を出作として名寄せした。 暮らしを帳面に合わせず、帳面を二つの暮らしへ近づけた。 第百五十八章 半分の冬 二拠点の暮らしは、書くほど簡単ではなかった。 冬、砥石にいる間も榧平の道普請が割り付けられる。 砥石でも人足を求められる。 一人が二村分働く。 若者は片方を欠き、罰米を取られた。 千世は出作人の夫役を半分ずつにする案を出した。 役人は、半人の人足は出せないと言った。 年ごとに交互とし、災害時は居場所の村へ出ることにした。 帳面上は榧平一、砥石零の年と、その逆になる。 平均すれば半分でも、その年の雪は平均では降らない。 両村は不足時に互いから一人借りる条項を加えた。 人を数で割らず、働く日の貸借にした。 第百五十九章 失われた一俵 登勢の口述にあった、八年前に失った救米一俵を探す者が出た。 峠で谷へ落ちた、と登勢は語っている。 米はとうに腐っている。 それでも俵に藩の焼印があれば、不正の決定的証拠になると弥平は考えた。 三日掘って、縄の切れ端も出なかった。 千世は止めた。 すでに決裁の控え、皆済目録、口述がある。 一俵を見つけなければ真実にならない段階ではない。 弥平は、手で触れられる証が欲しいと言った。 帳面に殺された者ほど、帳面だけの回復を信じにくい。 千世は一緒に谷を下り、最後にもう一度探した。 見つからなかった。 見つからなかった日付を記した。 第百六十章 二年目の皆済 二年目の皆済は、期限より三日遅れた。 山崩れと楮畑の水損で、銀納分が足りなかった。 大葛は枝郷分を立て替えた。 翌年の利を取らない代わり、榧平の道普請から二人を借りる。 一見、穏当な条件だった。 だが借りる日は大葛が決める。 炭焼きの最盛期に呼ばれれば、銀より高くつく。 千世は日数だけでなく、農繁期を避けると加えさせた。 庄兵衛は、細かすぎると言った。 「細かくない所へ、強い者の都合が入ります」 三日遅れの皆済目録には、延滞の咎めなし、と書かれた。 完全な納入ではない。 遅れた理由と、埋め方が残る納入だった。 第百六十一章 大坂からの使い 秋の終わり、大坂の鴻池屋から手代が来ると城下に触れが出た。 藩へ金を貸した商家の者だ。 御林の材と領内高を検める。 榧平の名を借財先へ明かせば、八年前に高を偽ったことまで知られる。 即時返済の条項が、まだ証文に残っていた。 現家老は評定所へ千世と伊織を呼んだ。 「枝郷は新開地として見せる」 消した村を、今度は新しく生まれた村とする。 百九石は三村の高から移したのではなく、新田開発で増えたと説明する。 伊織は、検地帳の年次が合わないと言った。 家老は帳面を直せとは言わなかった。 見せる帳面を選べ、と言った。 嘘を書くのでなく、本当の一部だけを出す。 八年前と同じ扉が、別の言葉で開いた。 第百六十二章 見せ帳 勘定所には、客へ見せるための帳面があった。 領内高、産物、御林の本数、蔵米。 すべて嘘ではない。 水損の村は小さく書かれ、豊作の村は大きく書かれる。 借財を続けるには、藩を実際より丈夫に見せる必要がある。 千世は榧平の新しい割付状を、見せ帳へ綴じるよう求めた。 勘定奉行は拒んだ。 「百九石で、三万石を危うくするのか」 藩が即時返済を迫られれば、来春の買米ができない。 凶作が来れば榧平だけでなく、全領が困る。 千世は答えられなかった。 帳面の正しさを選ぶことで、まだ見ぬ人の粥を減らすかもしれない。 正しい字は、人を飢えさせないとは限らない。 第百六十三章 秘密の相談 現家老は、榧平の世話人だけへ事情を話す案を出した。 弥平が同意すれば、三年後の再評定まで名を外へ伏せる。 千世は十三戸――今は十一戸――全てへ聞くべきだと言った。 借財の条項を村中へ広めれば、取り付け騒ぎが起きると家老。 また、知る者を選ぶ。 また、守るためだと言う。 弥平は一人で決めるのを拒んだ。 榧平の寄合は、夜中に共同小屋で開かれた。 火を小さくし、戸を閉める。 秘密を皆で知れば、秘密でなくなるという者がいた。 塩谷の妻は言った。 「知らないまま死んだことにされた。知って困る方を選ぶ」 十一戸は、借財の話を聞いた。 誰もすぐに答えなかった。 第百六十四章 百九石の重さ 寄合で、伊織が藩の算盤を説明した。 即時返済なら銀四百二十貫。 蔵米を売っても足りない。 家臣の扶持を止め、追加年貢を取り、御林をさらに切ることになる。 「それは、うちの名を隠せば避けられるのか」と宇吉。 確実ではない。 鴻池屋が他の不振を理由に貸し増しを断るかもしれない。 杉生の老婆は、隠してよいと言った。 死んだ子の名をまた使わなければよい、と。 若い者は反対した。 三年後の一村昇格を求める時、外へ存在を示せない村が何を証すのか。 百九石は藩全体には小さい。 十一戸には、屋根と畑の全部だった。 重さは割り算で同じにならなかった。 第百六十五章 猶予の文 千世は借財証文を読み直した。 「領内高に偽りある時、残銀一時に相済ますべし」 ただし末尾に、天災その他やむを得ぬ変動は双方評議、とある。 榧平の処理は天災ではない。 飢饉を契機にした人為の偽りだ。 それでも、現在の領内高は減っていない。 三村へ付けた百二十石を百九石へ測り直し、差十一石を下げただけだ。 伊織は、偽りを認めた上で、即時返済でなく条件変更を求められないかと言った。 勘定奉行は笑った。 「貸す側へ、こちらの首縄を渡すのか」 千世は半間縄の痕を思い出した。 縄は渡さなくても、すでに相手の手にある。 隠している間だけ見えないふりができる。 第百六十六章 宗七の値踏み 宗七は鴻池屋と取引がある。 現家老は、手代の考えを探らせた。 宗七は先に、自分の損を数えた。 貸し増しが止まれば、榧材の買付金が出ない。 伐採契約を減らした分も回収できない。 「商人は嘘に怒るのでなく、返らぬことを恐れます」 榧平を明かすなら、百九石が今後安定して納められる証を添えるべきだという。 二年分の皆済。 伐採の年次計画。 榧油と紙の売上。 用水の取り決め。 村名の回復を、道徳でなく返済能力として見せる。 弥平は腹を立てた。 「生きている証が、払える米か」 宗七は頷いた。 「貸す側の目には」 その冷たさを使うかどうかが、榧平へ返された。 第百六十七章 十一戸の決 寄合は夜明けまで続いた。 隠す案へ四戸。 明かす案へ五戸。 決められない家が二戸。 多数で決めれば、四戸と二戸はまた他人の選択で危険を負う。 弥平は全員一致を求めた。 若者は、それでは何も変えられないと言った。 千世は、何を全員で決め、何を各戸で選べるか分けた。 村名を見せ帳へ載せるかは、枝郷全体で一つしか選べない。 個々の名前、家の収入、借財まで見せるかは、各戸が選べる。 榧平の存在は明かす。 個人名は、年貢代表の弥平以外を伏せる。 家ごとの困窮は出さない。 二戸はその条件で明かす側へ回った。 四戸は反対のまま、決定に従うと記した。 賛成に塗り替えなかった。 第百六十八章 隠さない控え 現家老は十一戸の決を聞き、しばらく目を閉じた。 「藩を潰した家老と書かれるかもしれぬ」 千世は、何も答えなかった。 家老は鴻池屋へ出す説明書を自分で起草した。 天明三年、凶作救済のため枝郷を三村へ仮付けしたこと。 届けを怠ったこと。 御林担保の範囲を誤って示したこと。 現在は枝郷を復し、百九石を二年皆済したこと。 「偽った」とは書かず、「届けを怠った」とある。 弥平は直せと言った。 家老は、交渉の文には逃げ道が要ると拒んだ。 千世は控えへ、旧処理に虚偽の過去帳・人別帳を伴う、と添えた。 相手へ出す文と、内に残す文を同じにしなかった。 違いそのものを、隠さなかった。 第百六十九章 黒い羽織 鴻池屋の手代・佐平は、煤けた黒い羽織で来た。 豪商の使いというより、長旅に疲れた算盤方に見えた。 城の馳走を断り、まず蔵を見たいと言った。 米俵の縄を指で押し、湿りを確かめる。 御林の伐採帳を、一頁ずつ合計する。 榧平の説明書へ来ると、目を上げなかった。 「八年前に聞きたかった話です」 現家老は詫びた。 佐平は謝罪を帳面へ書かなかった。 即時返済を求める権利は保つ。 ただし三日間、現地を見る。 千世は案内役に選ばれた。 「寺の女を?」と佐平。 「字を直した者です」と家老。 直した、だけでは足りない。 千世は「誤った字を書いた者でもあります」と名乗った。 第百七十章 商人の検地 佐平は畑の広さより、人の手を見た。 荒地へ鍬が入っているか。 屋根に新しい板があるか。 蔵の鼠穴を塞いでいるか。 年貢を取り立てる役人とは違う。 来年も払えるかを見る目だった。 榧平の共同蔵で二つの枡を見つけた。 千世は前年の不足を説明した。 隠せば分からない小さな失敗だった。 佐平は、古い枡を捨てろと言った。 弥平は捨てないと答えた。 不足がどう起きたか示すため残す。 佐平は初めて笑った。 「商家なら穴を開けて使えぬようにする」 底へ穴を一つ開け、比較用と墨書した。 道具を史料へ変えた。 第百七十一章 払えない家 佐平は杉生家の畑で足を止めた。 蕎麦の出来が悪い。 老夫婦だけでは耕しきれない。 来年の割付けを払えないのでは、と問う。 弥平は共同で補うと言った。 「何年まで?」 答えられない。 佐平は、払えない家を枝郷から外し、大葛の救恤へ入れる案を出した。 老婆は拒んだ。 「払えぬから名を取るのか」 佐平は、取るのでなく負担を外すのだと言う。 八年前も、助けるという説明で名が消えた。 千世は、家の所属と年貢能力を切り分けるよう求めた。 三年間、屋敷高を残し、耕地を共同請けにする。 杉生家は村に残り、耕す者へ収穫の一部を渡す。 佐平は、返済見込みとしてその方が弱いと記した。 それでも案を消さなかった。 第百七十二章 油の利 澪の油小屋では、榧実油が三瓶並んでいた。 灯明には菜種油より煙が少ない。 値は高い。 佐平は大坂へ売れると言った。 年間いくつ作れるか。 澪は十五瓶と答えた。 宗七は三十瓶と言った。 榧の実が豊作なら、という数だった。 佐平は少ない方を採った。 「貸す者は多い方を聞きたがるのでは」と千世。 「返す時には少ない方しか残らない」 源左衛門なら三十と書いたかもしれない。 藩の見せ帳も、豊作の数を重ねてきた。 佐平の冷たい算盤が、ここでは誠実に見えた。 だが彼は十五瓶の売上の一部を、追加の担保に求めた。 正確さは、榧平に有利なだけではなかった。 第百七十三章 九人の頁 佐平は光照寺で、過去帳の追記を見た。 三十二人の虚偽。 実死者九人。 八年の間に亡くなった五人。 復帰後に亡くなった一人。 現在生存二十六人。 生まれた七人。 朱線と別冊番号を、長い時間読んだ。 「この帳面を、大坂へ持ち帰れますか」 慈周が首を振った。 寺の過去帳は貸し出さない。 写しなら作る。 佐平は、藩が都合よく写す恐れを口にした。 千世が写し、榧平から一人、藩から一人、寺から一人が毎頁に割印することになった。 三つの側の誰も、完全には信じられていない。 信頼がないから作れないのではなく、信頼がなくても変えにくい形を作る。 千世は三日三晩、四十一の名をもう一度写した。 今度は命じられたままではなかった。 第百七十四章 即時返済 検分の最終日、佐平は即時返済を求める書付を出した。 評定所の空気が止まった。 ただし、全額ではない。 虚偽に関わる担保価値の減少分、銀三十六貫。 残りは契約を改め、返済を二年延ばす。 利は一分上がる。 榧材百二十本と榧油十五瓶の売上を、優先して充てる。 三十六貫でも藩には重い。 家臣の扶持一月分と、城の修繕を止める案が出た。 現家老は、榧平へ追加負担を求めないと先に決めた。 それは責任を認めるためか、再び揉める時間がないためか。 どちらでも、書付に残した。 弥平は、利が上がった分で領民全体が払うと指摘した。 無傷の告白ではなかった。 第百七十五章 三十六貫 銀を作るため、城中の不用物が売られた。 古い陣太鼓。 馬具。 予備の屏風。 藩士からも禄高に応じて借上げる。 下級藩士は米で受け取る扶持が遅れており、貸す銀などない。 伊織は母の簪をまた質へ入れようとした。 千世は止められなかった。 榧平の者から銭を出したいという声が出た。 現家老は受け取らなかった。 「八年前の借りを、同じ村へ返させられぬ」 宗七は銀五貫を貸した。 利を取る。 善意の顔はしなかった。 三十六貫は期日に揃った。 城下では榧平のせいで藩が貧しくなったと噂された。 真実を明かした費用だけが見え、隠した八年の費用は見えなかった。 第百七十六章 石を投げる子 城下へ油を売りに来た澪の子へ、石が投げられた。 「三十六貫」と囃された。 額が切れた。 投げたのは下級藩士の子だった。 父の扶持が止まり、家で榧平を恨む話を聞いていた。 弥平は役所へ訴えようとした。 澪は子どもの喧嘩にするなと言った。 負傷は子どもの喧嘩でも、言葉は大人の帳面から来ている。 千世は傷の治療代だけを求めた。 父は払えず、母が仕立物で返すことになった。 相手の子は榧平まで謝りに来た。 澪の子は許すと言わなかった。 石を拾い、共同小屋の礎へ埋めた。 何の印かは、誰も決めなかった。 第百七十七章 藩内触れ 現家老は藩内へ触れを出した。 榧平枝郷の成立と、借財条件の変更。 八年前の処理に誤りがあったこと。 追加負担は榧平の責ではないこと。 「誤り」という字へ弥平は不満を持った。 虚偽と書け、と。 勘定奉行は、旧役人の家族まで罪人扱いされると反対した。 千世は本文を誤りのままにし、付記に、過去帳・人別帳・検地帳を事実と異なる形へ改めた、と具体を書いた。 名詞で罪を決めず、何をしたかを記す。 触れは三村と城下の辻へ掲げられた。 翌朝、城下の一枚が破られていた。 貼り直した。 三度破られ、四度貼った。 読む者の数は、破る者より多かった。 第百七十八章 古い郡奉行 八年前の郡奉行は、隣国で隠居していた。 藩の触れを聞き、書状を寄越した。 すべては自分の指図であり、寺と三村へ咎めを負わせるな。 救米によって三十二人を救った。 当時ほかに道はなかった。 整った告白だった。 千世はその文に違和感を覚えた。 藤兵衛の口述では、最初に紙上移住を提案したのは慈周。 登勢が救米路を決め、庄屋たちが土地を割った。 郡奉行は最後に承認した。 一人がすべてを引き受ける形も、責任を隠す。 旧奉行は部下や村を守ろうとしている。 千世は書状を証言の一つとして綴じた。 総指図の自称は、他記録と一致せず、と注記した。 立派な自己犠牲も、事実より上には置かなかった。 第百七十九章 慈周の反論 慈周は、自分が紙上移住を提案したのではないと言った。 死者を増やせば救米を出せる、と郡奉行が先に口にした。 自分は過去帳を使う案を出しただけだと。 藤兵衛の記憶と食い違う。 八年の間に、誰もが自分の責任を少しずつ動かしてきた。 千世は両方を並べた。 どちらが嘘か決めろ、と慈周。 「決められる材料がありません」 「私の言葉を信じぬのか」 「信じることと、確定することを分けます」 慈周は怒り、過去帳の鍵を返せと言った。 千世は次の住職が来るまでの預かり状を見せた。 慈周自身の花押がある。 見えない目で書いた花押が、彼の手を縛った。 第百八十章 鍵の返却 翌朝、慈周は謝った。 千世へではなく、まず帳面へ頭を下げた。 「自分の記憶が最後の原本だと思っていた」 視力を失い、読める者に頼るほど、口述の力を強くしたかったのだという。 千世は鍵を机へ置いた。 「お返しします」 慈周は受け取らなかった。 返す、返さないの争いにすれば、また二人だけで記録の行方を決める。 寺総代と次の住職候補を呼び、四人で鍵箱を開ける規則を作った。 鍵は二本作る。 一つは住職。 一つは総代が月替わりで持つ。 千世は記録係として開帳に立ち会うが、鍵は持たない。 力を失った。 同時に、疑われた時に一人で背負う危険も減った。 第百八十一章 新しい住職 光照寺の後任には、城下の末寺から玄道が来た。 四十二歳。よく通る声と、早い筆を持つ。 寺の咎を聞いており、最初に過去帳をすべて清書し直すと言った。 汚れた旧帳を別に封じ、日々使うものを正確にする。 千世は反対した。 清書には、何を本文にし、何を脇書きへ落とすかの判断が入る。 三十二人の朱線も、紙の厚みも、後から加えた墨も一様になる。 玄道は、誤りを残すことが正義なのかと問うた。 「誤りを使い続けるのではありません」 旧帳を原本として守り、日々の検索用に索引を作る。 千世は二冊を置く案を出した。 玄道は三日考え、認めた。 早い筆で、清書しないと決めた最初の住職になった。 第百八十二章 索引の名 索引は、死者名をいろは順に並べた。 寺の過去帳は没日順で、名だけでは探しにくい。 三十二人の虚偽の戒名を、索引へどう載せるか。 載せなければ、後にその名を探す者が旧帳だけを読み、死者と思う。 載せれば、死者の索引に生者を入れる。 千世は名の頭へ小さな三角を置き、「生存追記あり」とした。 玄道は記号の意味が後世に失われると心配した。 各頁の上へ説明を繰り返し刷る紙はない。 そこで索引の表紙裏だけでなく、十頁ごとに凡例を入れた。 無駄な紙と見える。 意味を忘れないための無駄だった。 第百八十三章 白い輪が増える 三年目の伐採前、宇吉が白墨の輪を数えた。 予定は三十一本。 印は三十八本にある。 林方の控えでは三十一。 誰かが七本を足した。 宗七は自分の手代を疑った。 榧平では、藩が三十六貫を埋めるため密かに伐るのだと噂された。 白墨は雨で薄れ、筆跡のように比べられない。 印の高さも、木の太さで違う。 千世は前年の伐採帳に、木の位置を字名でしか記していなかったことを悔いた。 同じ字に百本以上ある。 切られる前なら、七本を止められる。 誰が足したか分からなくても、まず三十八本すべてへ縄を巻いた。 伐採は再び止まった。 第百八十四章 白墨の粉 林方の白墨は、城の左官が作る。 石灰へ少量の膠を混ぜ、雨に流れにくくしてある。 増えた七本の印は、指で擦ると粉になった。 ただの焼石灰だった。 村でも買える。 宗七の伐り手は十五人。 林方の役人は二人。 榧平の山見は二人。 千世は全員の家を調べる権限を持たない。 城役人は、山見役の宇吉を拘束しようとした。 最初に見つけた者が、自分で増やして騒いだ可能性があるという。 宇吉は逃げなかった。 だが弥平は、榧平の者を先に疑うなら訴願を出すと言った。 新庄屋の庄兵衛は封をせず、その日のうちに城へ送った。 最初に作った規則が、最初に本気で使われた。 第百八十五章 高すぎる印 増えた七本のうち、二本は印が肩の高さにあった。 正式な印は腰より下につける。 雪が積もる前に選木したため、冬には低く見えたかもしれない。 だが今年の印は雪解け後につけている。 印を足した者は、林方の決まりを知らない。 伐り手たちは皆、腰下の印を見慣れていた。 榧平の者も前年に学んでいる。 新しく山へ入った者がいる。 宗七は、城下から来た荷宰領・茂助を挙げた。 木を伐らない。丸太の数と車を手配する男だ。 茂助は白墨を持っていないと言った。 彼の草鞋の踵には、白い粉が詰まっていた。 山道の標石にも石灰がある。 それだけでは証にならない。 第百八十六章 七本の向き 伊織は増えた木の位置を絵図へ落とした。 七本は道沿いに並んでいない。 三本、二本、二本。 谷から見えにくい窪地にまとまっている。 切った後、正規の丸太へ混ぜやすい場所だった。 茂助は荷車の都合なら道沿いを選ぶはずだと言った。 そのとおりだった。 千世は切らずに運び方を試した。 縄を木へ掛け、倒す方向だけを地面へ示す。 三つの窪地からは、古い炭出し道へ丸太を滑らせられる。 荷車を使わず、沢でまとめて受ける。 その道を知るのは宇吉と原田、古参の伐り手たち。 疑いはまた榧平へ戻った。 千世は、道を知ることと印をつけることを同じにしなかった。 第百八十七章 欠けた荷札 共同小屋の床下から、木の荷札が一枚出た。 宗七の印。 番号は四十七。 今年の札は一から三十一までしか使っていない。 前年は二十六まで。 四十七は存在しないはずだった。 札の端が新しく欠けている。 弥平は、誰かが小屋へ置いて榧平を陥れたと言った。 宗七は自分の帳場を調べ、荷札の板を五十枚作らせていたと認めた。 未使用は十九枚あるはずが、十二枚しかない。 七枚が消えた。 増えた木と同じ数。 荷札を保管していたのは、茂助だった。 茂助は、鼠に齧られ捨てたと答えた。 出た札に齧り跡はなかった。 第百八十八章 足りない駄賃 茂助は七本を足したことを認めた。 丸太を盗み、城下の材木屋へ売るつもりだった。 理由は賭けではなかった。 前年、山崩れで道が延び、伐り手への駄賃が契約額を超えた。 宗七は追加分を払ったと言う。 茂助は受け取っていない。 帳場の支払帳では、茂助へ銀二分を渡したとある。 受取印もある。 印は本物だった。 宗七の手代が、別の借金と相殺していた。 茂助が酒代を前借りしていたためだ。 茂助は相殺を知らされず、伐り手へ自腹で払った。 盗みは盗みだった。 だが七本の根は、一人の欲だけで生えていなかった。 第百八十九章 切らなかった木 七本の印は水で洗い落とされた。 茂助は宗七の雇いを解かれ、盗み未遂で藩へ引き渡された。 伐っていないため、入牢ではなく所払いと弁済になった。 弁済する物はまだ失われていない。 白墨、荷札、止めた日数の人足賃を払う。 宗七の手代も、無断相殺で給金を減らされた。 茂助は榧平へ詫びた。 宇吉は受け取らなかった。 「七本でなく、最初から俺を疑ったことは誰が詫びる」 城の林方役人は頭を下げなかった。 訴願の返答に、拘束を見送ったとだけ書いた。 弥平は再訴願を出した。 謝罪は得られなかったが、今後は物証確認前に山見役を拘束せず、という一文を得た。 第百九十章 木札の番号 翌年から、伐る木には白墨だけでなく番号札を打つことになった。 木を傷めぬよう、縄で結ぶ。 札は林方、宗七、山見役の三者が割印する。 伐った後は切株へ移す。 運び出す丸太にも同じ番号を墨書する。 手間は三倍になった。 宗七は人足賃を誰が払うかと問うた。 偽札を生んだ管理は宗七側、山を守る利益は藩と榧平側。 三者で分けた。 千世は前年に書いた年輪の欄を残した。 林方は不要だと言った。 一本の木が番号だけになると、また数のために切られる。 太さ、腐り、実の多寡、周囲の苗。 伐らない理由も書く欄を加えた。 第百九十一章 三年目の春 寛政六年の春、枝郷認定から三年目に入った。 再評定は秋の皆済後に行う。 一村へ上げる条件は示されていない。 弥平は、石高、戸数、皆済、道普請の実績を揃えた。 勘定方は十三戸以上を暗黙の目安にしていた。 榧平は十一戸。 夏冬に分かれて暮らす新婚夫婦を数えれば十二。 共同小屋を一戸に数えるかという冗談まで出た。 千世は戸数を増やすために、砥石の原田家へ戻れと頼む案を退けた。 村になるため人を動かせば、八年前の逆をするだけだ。 弥平は、戸数を条件として明示せよと願書へ書いた。 隠れた基準では、満たすことも争うこともできない。 第百九十二章 条件のない試し 現家老は、三年前に再評定を約したが、昇格条件は約していないと答えた。 枝郷のままで不都合は減ったはずだ、と。 弥平は不都合を列挙した。 訴願は大葛経由。 皆済目録は単独で出ない。 庄屋印を持てない。 道普請が三村分へ重なる。 水と山の取り決めに常に従属する。 一方、単独村になれば庄屋扶持、蔵、帳面、祭礼費を十一戸で負担する。 杉生家の共同請けも村内で支える。 澪は枝郷のままを望んだ。 「名前が大きくなって、腹が満ちるわけではない」 弥平は、腹だけで名を消されたと言い返した。 三年経っても、望みは一つにならなかった。 第百九十三章 庄屋になりたい者 榧平の若い炭焼き・直吉が、単独村なら庄屋を務めると言った。 読み書きは寺で習い始めたばかり。 算盤は速い。 弥平が世話人を続けるものと皆が思っていた。 弥平自身も、口にはしないがそう思っていた。 直吉は、八年前のことを知る者だけで役を回せば、村はいつまでも事件の中にあると言った。 弥平は、若造に山論が扱えるかと怒った。 千世は二人へ、共同蔵の秋勘定を任せた。 直吉は数字を合わせたが、杉生家の労働返済を米へ換算しようとした。 弥平は別欄の理由を説明した。 弥平は慣行を知り、直吉は古い不満を知らない。 どちらも欠けていた。 第百九十四章 選ぶ稽古 世話人を一年任期にした規則に従い、初めて選び直すことになった。 弥平と直吉が候補になった。 声の大きい者の前で手を挙げれば、自由な選択にならない。 紙へ名を書く案は、字の書けない者を除く。 豆を二つの箱へ入れることにした。 白豆は弥平。 黒豆は直吉。 どちらでもない者は小石。 一戸一つ。 杉生家は夫婦で意見が違った。 一戸を誰が代表するかで揉めた。 二人が半分ずつ投じる仕組みはない。 二人は話し合い、小石を入れた。 結果は白五、黒五、石一。 決まらなかった。 選ぶ稽古の最初の成果は、選べないと分かったことだった。 第百九十五章 半年ずつ 弥平は春夏、直吉は秋冬を務める案が出た。 農事の途中で帳面を渡せば混乱する。 二人一緒にすれば、意見が割れる。 澪は、世話人の仕事を分けるよう提案した。 年貢と訴願。 山と道。 弥平は山を選ぶと思われた。 彼は年貢と訴願を選んだ。 「山しか知らぬと思われるのが嫌だ」 直吉は山と道を受けた。 「算盤しかできぬと思われるのが嫌です」 二人の印は並べず、担当の文だけへ押す。 全体の決定には両方が押す。 役が増え、責任の境目も増えた。 千世は引継帳を作った。 最初の頁へ、互いの担当でないことも読む、と書かせた。 第百九十六章 寺子の帳面 玄道は共同小屋で、冬だけ寺子を教え始めた。 子ども七人、大人四人。 最初に自分の名を書く。 澪の長男は雨宮と書いた後、隣へ小さく真壁と書いた。 玄道は消させようとした。 千世は練習紙なら残してよいと言った。 公の帳面に二姓を置けなくても、自分の紙には置ける。 直吉は年貢の割り算を習った。 杉生の老婆は、自分の子らの名を読みたいと通った。 九人の追記を指で追い、たまの名ではない所で止まった。 同じ日に死んだ弟の名だった。 「これで、誰かが違う日を言えば分かる」 読む力は帳面を信じるためでなく、疑うためにも使われた。 第百九十七章 夏の旱 梅雨が短く、水口の石が再び争いになった。 朝九つを榧平、昼六つを大葛へ流す約束では足りない。 上流の水そのものが細い。 大葛は人の多さで配分を変えろと言う。 榧平は古文書を守れと答える。 古い取り決めは、水が普通にある年のものだった。 守るだけでは田が枯れる。 千世は雨樽の記録を持ち出した。 前年同月の三分の一。 正確な寸ではないが、同じ樽で続けた数だ。 非常時として、三日ごとに一昼夜を交替する案が出た。 遠い田へ届く前に水が替わるためだ。 鐘の回数でなく、日の札を水口へ掛けることになった。 古い知恵を捨てず、足りない年の別則を加えた。 第百九十八章 青い穂 水を替えても、棚田の端は枯れた。 榧平の蕎麦は早播きが功を奏した。 大葛の稲は青いまま穂が止まった。 榧平が水を奪ったという声が強くなる。 庄兵衛は水番札を全部広げた。 榧平側の日に大雨はなく、大葛側の日にも流量は増えていない。 取り決めどおりでも、被害は等しくならない。 大葛は水の多い下田を持ち、榧平は乾きに強い蕎麦を多く作る。 同じ日数で分けたことが、公平だったか。 千世は答えを出せなかった。 収穫後、余った蕎麦を大葛へ売り、代金の半分を米で受け取る取引が決まった。 水の損を賠償と呼ばず、作物の違いを交換にした。 第百九十九章 井戸の白石 旱で、榧平の井戸底に白い石が見えた。 たまの母が語った景色と同じだった。 村人は不吉だと言った。 八年前の飢饉が戻る。 千世は井戸へ下り、石の高さに墨線をつけた木尺を立てた。 毎朝、水面を測る。 白石は記憶の印であり、水位の基準にもなった。 三日後、さらに一寸下がった。 共同米をまだ配らず、城の買米を待つか。 現家老は借財条件の変更後、買米を減らしていた。 弥平は蔵を開けた。 三年前に作った立会い規則で、塩谷の妻が一緒に鍵を見た。 一家二升ずつ。 救米を秘密の夜道でなく、昼に名を読み上げて渡した。 第二百章 青柿 たまの母が、井戸端の青柿を一つ取った。 娘が最後に欲しがった実と同じ固さだった。 仏前へ置くのかと千世が尋ねた。 老婆は自分で齧った。 渋さに顔をしかめた。 「あの子にも、食べさせなくてよかった」 長い間、最後の願いを叶えられなかったことを悔いていた。 願いが青柿なら、叶えない方がよいこともある。 千世はその言葉を追記へ入れるか迷った。 たまの記録は、母の悔いを収める箱ではない。 口述控えの末尾へ、母の希望により記録せず、とだけ書いた。 書かない選択も、誰かが勝手に消したのとは違う。 第二百一章 買米の列 城の買米は、予定の半分しか届かなかった。 借財の利が上がり、商人が前金を求めたためだ。 城下の蔵前に列ができた。 村ごとの割当ては石高で決まる。 榧平は大葛の内数にされた。 庄兵衛が先に大葛分を取り、枝郷へ回す形だった。 弥平は直接受け取る権利を求めた。 枝郷のままでは認められない。 大葛の一部の者は、自分たちも足りないと反対した。 庄兵衛は割付状の内訳に従い、百九石分を分けた。 自分の村から榧平へ恵む形にしなかった。 それでも運ぶ車は大葛の物で、車賃が必要だった。 枝郷である不便は、米一粒ごとの費用になった。 第二百二章 空の俵 買米の一俵が、榧平へ着く前に空になった。 縄は切られず、底が抜かれている。 大葛の車夫が疑われた。 車夫は、蔵で受け取った時から軽かったと言う。 城の蔵番は全俵を量ったと答える。 千世は空俵の底を見た。 新しく縫い直した糸がある。 蔵印は縄口にしか押されない。 底から抜き、糠を詰め、運ぶ途中で糠を落としたらしい。 道に白い筋が残っていた。 筋は城下の蔵から始まっていた。 車夫ではない。 蔵番でも、受取検めをする者が別にいる。 旱の米を盗む者を探すことになった。 第二百三章 糠の筋 白い筋は、蔵の裏口で途切れた。 そこには鶏小屋がある。 糠は鶏の餌にもなる。 蔵番の妻が毎朝掃き、鶏へ運んでいた。 盗んだ米を糠と入れ替えたのか。 妻は否定した。 鶏小屋の糠を篩うと、米粒が多く混じっている。 盗む者が落とす量ではない。 古い米を搗き直す時、割れ米ごと捨てていた。 買米が足りない一方で、規格に合わない米を餌にしていた。 空俵とは別の問題だった。 千世は一緒にしなかった。 鶏小屋の割れ米は回収し、粥用へ回す。 空俵の糠は、もっと細かく、油の匂いがした。 第二百四章 油糠 澪は匂いを嗅ぎ、菜種を搾った後の滓だと言った。 普通の米糠より黒く、固まりやすい。 俵を重く見せるため、油滓を混ぜた。 城下で油滓を大量に買うのは、肥料商と藍染屋だった。 澪の店の売上帳にも、先月一人の名がある。 城蔵の受取検めをする足軽・牧田。 畑の肥料にする、と一俵分買った。 牧田の畑は小さく、一俵も要らない。 家を調べると米はなかった。 すでに売ったらしい。 牧田は、空俵は一つだけだと認めた。 だが蔵にある二十俵の底にも、同じ新糸が見つかった。 第二百五章 二十俵 牧田一人で二十俵を抜くのは難しい。 夜の蔵鍵は蔵番が持つ。 牧田は受取時、商人の蔵で底を開けたと言った。 買米商の手代と組み、量を一割抜く。 城では俵数と縄口だけを検める。 足りない一俵が出たのは、油滓を詰め忘れたためだった。 抜いた米は城下の米屋へ流した。 旱で値が上がるほど儲かる。 牧田は、遅れた扶持を補うためだと言った。 家では子が粥を食べている。 源左衛門も、村を守る事情を口にした。 茂助にも、払われない駄賃があった。 事情は違う。 他人の米を抜いた行為は同じだった。 千世は二十俵すべてを量り直した。 第二百六章 戻った米 米屋から十四俵分が回収された。 残る二俵分はすでに売れ、四俵分は油滓との量差だった。 買米商は知らなかったと主張した。 手代は逃げていた。 藩は牧田を追放し、商人へ不足分の納入を命じた。 牧田の家族まで城下を出すかで揉めた。 妻は関与していない。 子は幼い。 家臣団は家の罪として扶持屋敷を取り上げるべきだと言う。 現家老は本人だけを追放し、家族は妻の実家へ移すと決めた。 家制度の中で完全に切り分けることはできない。 それでも全員を同じ罪人にはしなかった。 榧平へは不足の一俵と、量り直しで出た差分が届いた。 弥平は受取帳へ、回収米、と明記した。 救恤と書かなかった。 第二百七章 見つけた者の名 城は米盗難の褒美を、千世へ出そうとした。 千世は空俵を最初に見つけたのは車夫だと言った。 車夫は榧平へ着いた時、軽さを申告した。 黙って底を縫えば、自分が疑われずに済んだかもしれない。 褒美は車夫と澪、千世の三人へ分けられた。 澪は油糠を見分けた。 千世は帳面を追った。 一人一人の働きは違う。 同じ額へ三等分する案を、澪が断った。 車夫へ半分。残りを二人。 千世は受け取った銭を寺の紙代へ入れた。 自分の働きへの褒美を寄進にすれば美しく見える。 給金の足りない自分が使ってもよかった。 迷った末、半分だけ紙代、半分は冬の薪にした。 第二百八章 旱の皆済 三年目の収穫は少なかった。 榧平の蕎麦で、大葛から買った米の代を一部埋めた。 銀納は榧油が支えた。 それでも年貢は一割足りない。 再評定前に未納を出せば、一村昇格は遠のく。 弥平は各戸の食い扶持から削ろうとした。 直吉は反対した。 村の形のために人を飢えさせれば、名が人より先になる。 二人は初めて担当印を押さず、寄合へ戻した。 十一戸は未納を申告し、旱損見分を求めると決めた。 皆済の実績を守るため、被害を隠さない。 伊織が年二度の現地見分で、青いまま止まった穂と雨樽の記録を確認した。 年貢一割が減免された。 帳面は未納でなく、旱損免と閉じられた。 第二百九章 試しの満了 秋の終わり、三年の試しが満了した。 評定所へ、三年分の帳面が積まれた。 割付状。 皆済目録。 道普請帳。 用水札。 伐採帳。 訴願控え。 出生、死亡、移住。 共同蔵の開閉札。 一村昇格の願書。 枝郷継続を望む四戸の添書。 榧平の中でも意見が割れていることを、隠さず出した。 勘定奉行は、村が一つにまとまらないのは昇格に不適だと言った。 千世は口を挟んだ。 「一つに見えた八年前は、聞かなかったからでございます」 評定所で、誰もすぐに反論しなかった。 第二百十章 十一戸の村 勘定方は単独村に必要な費用を示した。 庄屋役料。 蔵の修繕。 印と帳面。 伝馬役。 藩役人の巡回費。 十一戸で割れば、一戸あたり大葛の二倍になる。 榧林の収入を充てれば、凶作年に枯れる。 弥平は、それでも自分たちで決めると答えた。 澪は、決められる者だけが言っていると反論した。 杉生家は負担を担えない。 塩谷家は枝郷になって初めて正式な住人になったばかりだ。 直吉は、昇格を今すぐでなく、条件付きにする案を出した。 庄屋を置かず、二人世話人のまま。 年貢は大葛経由だが、訴願は直接。 名は「榧平村」とする。 形と名を同時に全部変えない案だった。 第二百十一章 名前だけの村 現家老は直吉の案を、名前だけの村だと言った。 庄屋も蔵も皆済も大葛に頼るなら、村と呼ぶ理由がない。 弥平は、名前だけでも必要だと答えた。 八年前に奪われたのが、その名前だったからだ。 千世は二人の間で、同じ言葉が違う重さを持つのを聞いた。 役所にとって名は、権限の束を結ぶ札だ。 榧平にとって名は、権限がなくても暮らした場所の証だった。 「名だけを認めれば、権限があると誤解する者が出る」と勘定奉行。 「権限だけを列挙して名を認めねば、また誰のものか忘れます」と千世。 評定は翌日に延びた。 夜、弥平は宿で、名前だけと言われた紙へ何度も指を置いた。 第二百十二章 四戸の添書 枝郷継続を望む四戸は、昇格反対の理由を読み上げた。 杉生家は負担。 澪の家は油商いの往来。 久世家は雪道。 塩谷家は、また身分が変わる不安。 弥平は、名を戻すことへ反対なのかと尋ねた。 四戸とも違うと答えた。 名は戻したい。 だが一村の費用と役は引き受けられない。 願書が「一村昇格」の四字で束ねたため、名と負担が一つになっていた。 千世は願いを三つへ分けた。 榧平の名を公称とすること。 訴願を直接出せること。 年貢・伝馬・蔵は大葛と共同のままとすること。 十一戸すべてが最初の二つへ賛成した。 三つ目は、当面という言葉を加えてまとまった。 第二百十三章 大葛の返事 大葛にも意見を聞く必要があった。 枝郷が直接訴願を持てば、庄屋の権限は減る。 年貢と蔵の責任は残る。 不利な組合せだった。 庄兵衛は、年貢を共同にするなら榧平の帳面をいつでも見せるよう求めた。 弥平は、また大葛に監督されると反対した。 共同の責任なら、共同の検めが要る。 千世は相互にした。 大葛は榧平内訳を、榧平は大葛の総納入控えを見る。 年二回、同じ日に帳面を開く。 写しを寺へ置く。 庄兵衛は印を押した。 「うちの帳面も、見られれば困るほど綺麗ではない」 隠れた未収、身内への猶予、古い枡の差がある。 榧平の回復は、大葛の内側にも光を入れた。 第二百十四章 被害者の名誉 加代から評定所へ書状が届いた。 源左衛門の不正を、榧平承認の下知へ記すかどうかに関するものだった。 大葛では、死者をいつまで辱めるのかという声がある。 加代は、夫の名を削らないでほしいと書いた。 偽割付状を作り、伐採で利益を得ようとしたこと。 同時に、村の未納を自分の米で補った年があること。 貧しい三戸を守ろうとしたこと。 どちらも記してほしい。 「良い行いを添えれば罪が薄まるのでは」と弥平。 「罪だけなら、分かりやすい悪人へ全部を預けられます」と千世。 八年前の虚偽は源左衛門一人の仕事ではない。 現在の殺人も、彼の悪事への処罰ではない。 下知の別紙へ、関与と功過を分けて載せることになった。 第二百十五章 登勢の名誉 登勢についても、同じ問題が出た。 榧平の者の一部は、救米の功を下知へ刻みたいと言った。 殺人犯の名を村の始まりに置くな、と反対する者もいる。 澪は、母を恩人にも恥にも使わないでほしいと述べた。 救米の運搬者は登勢だけではない。 藤兵衛、慈周、村の女たち、名の残らない担ぎ手がいた。 特定の一人を顕彰すれば、また物語が整いすぎる。 下知には個人の功を入れない。 別紙の救米口述に、関わった者を分かる範囲で列記する。 登勢の名の横へ殺人のことは書かない。 殺人記録は裁判の帳にある。 一つの名へ、すべてを詰め込まないためだった。 第二百十六章 別紙の厚み 評定所の机に、別紙が増えた。 源左衛門の功過。 救米運搬者。 三村の負担。 寺の責任。 御林の契約。 十一戸の異なる希望。 下知本文より厚い。 勘定奉行は、誰が読むのかと呆れた。 千世は、必要な者だけが必要な別紙を引けるよう目次を作った。 すべてを一枚に書けば簡単になる。 簡単な文ほど、一つの原因と一つの結末を欲しがる。 目次の表題をどうするか。 「榧平一件」とすると、殺人も飢饉も村の昇格も一件になる。 千世は「榧平関係諸記録」とした。 まとまっているが、一つではない。 第二百十七章 下知の朝 寛政六年十一月、下知が読まれた。 榧平は大葛村の枝郷として存続する。 公称は「榧平」とし、村絵図、往来札、産地名へ用いることを認める。 独立村への昇格は見送る。 訴願は大葛庄屋を経ず、二名の世話人連印で郡方へ直送できる。 年貢、蔵、伝馬は大葛と共同。 榧林三分の一は枝郷持山。残る御林にも実拾い、下草、枯枝の入会を認める。 三年ごとに負担を再検する。 過去年貢は皆済済み。 古い過去帳、人別帳、検地帳は削らず、訂正別冊を添える。 一村にはならなかった。 枝郷という字も消えなかった。 だが、三年前より増えた権限は本文に残った。 第二百十八章 喜ばない寄合 下知を持ち帰っても、万歳は起きなかった。 弥平は昇格見送りを悔しがった。 四戸は負担が増えなかったことへ安堵した。 直吉は直接訴願を得たことを喜んだ。 宇吉は御林の入会範囲が曖昧だと心配した。 杉生の老婆は、何が変わるのか分からないと言った。 千世は一条ずつ読み、昨日と今日の違いを説明した。 道の荷札に榧平と書ける。 城へ訴えを直接送れる。 枯枝を拾って咎められない。 年貢は今までどおり大葛へ運ぶ。 「なら、明日も同じだね」と老婆。 「ほとんどは」 大きな決着の翌日も、井戸の水と薪の量は同じだった。 第二百十九章 村絵図の文字 新しい村絵図が作られた。 中央に「大葛村」。 山腹に少し小さく「枝郷榧平」。 弥平は字の大きさを同じにしろと求めた。 絵図師は、本村と枝郷を見分ける決まりだと言う。 千世は小さい字を見た。 以前の絵図には、そこが空白だった。 小さいから受け入れろ、と言えば、弱い立場を永く正当化する。 空白でないから勝ちだ、と言えば、求めたものを縮める。 下知どおり、小さい字で作る。 別に榧平内絵図を作り、十三の旧屋敷、十一の現住戸、二つの移住先、共同小屋、墓、井戸、水路を大きく描いた。 一枚の中で小さいなら、別の一枚を持つ。 第二百二十章 往来札 宗七の荷車が城下へ入る時、初めて「榧平産榧油」と書いた往来札を掲げた。 門番は、そんな村は知らないと言った。 枝郷だと説明しても、通行名簿にない。 下知の写しを見せる。 門番は字を読めず、上役を呼んだ。 半刻、荷車は止められた。 油の納め先は怒った。 名を認める下知が、名を使うすべての帳面へ届いていない。 千世と伊織は城門、蔵、問屋座、伝馬所の名簿を洗った。 七冊に榧平がない。 一つの下知で世界の字は一度に変わらない。 七冊へ追記し、門番には読みではなく印形で札を見分けるよう教えた。 次の荷車は止まらなかった。 第二百二十一章 榧平の印 往来札へ押す印が必要になった。 村印ではない。 枝郷産物改め印、と限定された。 弥平は「榧平」の三字だけを彫りたいと言った。 役所は、独立村と紛らわしいと拒んだ。 印判師が小さな枠へ六字を詰めた。 榧平産物改。 字が潰れ、榧平だけが読めない。 直吉は縦長にし、右へ榧平、左へ産物改と分ける案を描いた。 役所は認めた。 最初に押した油札は、力を入れすぎて右端が欠けた。 弥平は押し直そうとした。 千世は二つとも残した。 印は初めから完全だったわけではない。 第二百二十二章 弥平の辞意 下知が出たあと、弥平は世話人を辞めると言った。 一村にならなかった責任を取る。 直吉は、負けたから投げるのかと怒った。 弥平は三年間、榧平の名を戻すことだけで人を測ってきたと認めた。 移った原田家。 枝郷を望んだ四戸。 二姓を書いた澪の子。 自分の願いへ合わない選択を、弱さと呼んだ。 「世話をする者が、それではいけない」 千世は辞意を帳面へ載せる前に、一月置くよう勧めた。 反省した者が去れば、残る者は反省していない者だけになることもある。 弥平は山の担当を直吉へ任せ、年貢と訴願を次の春まで続けるとした。 第二百二十三章 直吉の誤算 直吉は御林の枯枝入会を始めた。 一戸一束、週二回。 下知に量は書かれていない。 初週、若者は背負えるだけ積んだ。 老人の束は小さい。 同じ一束でも量が違う。 直吉は縄の長さを決め、同じ太さにした。 すると杉生の老婆は運べない。 家族の多い家には足りない。 弥平が笑った。 直吉は腹を立てず、縄を二種類にした。 大束と小束。 一戸あたり大一、または小二。 運べない家は共同で集め、炭焼きの帰り荷へ載せる。 算盤の等しさを、背負う体へ合わせ直した。 第二百二十四章 紙の産地名 小野沢の紙問屋が、包みに「榧平入会榧皮入」と刷ろうとした。 榧皮を燃料に使っただけで、紙の原料ではない。 名を売り物へ使いたいのだ。 志乃たちは、榧平へ名代を払うべきだと言った。 宗七は地名に代金はないと笑った。 澪は、油札で榧平の名が値を上げたことを知っている。 寄合は、実際に榧の灰を漉きへ使う紙だけ名を許し、一帖ごとに一文を共同蔵へ入れると決めた。 藩にそのような権利の決まりはない。 商人同士の約束として証文にした。 初めての一文は、寺子の墨代になった。 消された地名が、今度は勝手に飾りへ使われないようにした。 第二百二十五章 原田家の墓参り 砥石へ移った原田家が、彼岸に榧平へ来た。 旧屋敷の共同小屋には、別の家の鍬と縄が積まれている。 妻は、よその家になったようだと言った。 売ったのだから当然だと主は答えた。 二人の父母の墓は榧平にある。 枝郷の名が戻っても、墓参りの道は砥石の夫役では直されない。 原田家は採取権の榧実一籠を、道普請の銭へ換えると申し出た。 弥平は、出ていった者から取るなと断った。 妻は、自分の墓へ行く道でもあると言った。 移住した者の負担か、権利か。 一籠分を「墓道寄進」とし、強制でないことを証文へ書いた。 翌年出さなくても、採取権は減らさない。 第二百二十六章 深見家の知らせ 小野沢へ移った深見家から、子が生まれたと知らせが来た。 出生地は小野沢。 父母の旧籍として榧平の名は人別帳へ出ない。 深見は寺の檀家帳へ、榧平より移住、と添えてほしいと頼んだ。 去年、旧屋敷の火は要らないと言った者だ。 過去との縁を切りたいのではなかった。 他人に火を守られたくなかっただけだ。 玄道は小野沢寺の領分だと渋った。 千世は光照寺の往来控えに、出生祝いの使者が来た事実を記した。 人別でも檀家でもない。 知らせが道を渡った記録だった。 深見はそれでよいと言った。 人の縁を、必ず身分の欄へ入れる必要はなかった。 第二百二十七章 加代の帰郷 加代が城下から大葛へ戻った。 庄屋屋敷が寄合所になった後、初めてだった。 床の間には村の用水絵図が掛かっている。 夫の刀掛けがあった柱へ、半鐘の予備縄が巻かれていた。 加代は三戸への弁済が終わったことを確認した。 拒んだ一戸の分は、まだ留保金として残る。 いつまで残すか。 子もなく、加代が死ねば相続人が処分する。 拒んだ家は、五年後まで考えると言った。 加代は十年置くとした。 受け取るまで利を付ける。 拒否を永遠の答えにせず、変える余地へ金を残した。 源左衛門の位牌を寄合所へは置かなかった。 帰りに半鐘を一度鳴らし、水口の音を確かめた。 第二百二十八章 牢の春 登勢の牢にも春が来た。 窓から見えるのは、城壁の梅の先だけだった。 澪は新しい下知の写しを読んだ。 直接訴願、榧平の公称、入会権。 登勢は、弥平が喜んだかと尋ねた。 「喜んでいない」 登勢は笑った。 「あの人らしい」 澪は、母なら何を選んだかと尋ねそうになった。 八年前なら、登勢は皆を守るため一つに決めただろう。 今の登勢が何と答えても、村の決定にはならない。 澪は尋ねなかった。 代わりに、油札へ押された欠けた印を見せた。 登勢は指で「榧平」の字をなぞり、印泥を爪に残した。 第二百二十九章 慈周の旅立ち 慈周は隠居寺へ移ることになった。 光照寺に残れば、玄道の決定へ口を出す。 本人がそう言った。 出立の朝、千世は寺の階段を下りる手を貸した。 慈周は一段ずつ数えた。 十三段。 「前は十二だと思っていた」 最下段が土に埋もれ、見えにくかった。 千世は、教えなかったことを詫びなかった。 慈周も尋ねなかった。 荷物には経巻二冊と着物、榧平記録の写しがある。 過去帳原本は置いた。 「持っていけば、また私の話になりますから」 駕籠が谷を出るまで、千世は段の上に立っていた。 第二百三十章 千世の任期 城の文庫整理は一年の試しを終えた。 目録は全体の三割しか進んでいない。 勘定方は遅いと評した。 千世は、誤綴じを四十三件、無主地を七筆、重複する人別を二十一名見つけたと報告した。 速く写すだけなら、倍できる。 だが目録の目的は、古い誤りを新しい順序へ移すことではない。 正式な役名を求めた。 女には藩役を与えられないと退けられた。 代わりに「文庫記録方手伝」として三年雇いになった。 手伝の二字が残る。 給金は米一石二斗へ上がった。 千世は受けた。 肩書を拒んで仕事を失うより、肩書が足りないことを雇状ごと残す方を選んだ。 第二百三十一章 四年目の二十本 宗七との伐採契約は、最後の年を迎えた。 残り二十本。 白墨、番号札、割印、年輪、伐らない理由。 手順が増え、初年の倍の日数がかかる。 宗七は、これでは材の値より検めの費用が高いと言った。 榧平は契約後も同じ手順を続けたい。 自分たちだけで払えるかが問題だった。 直吉は、全木へ番号をつけず、伐採候補を選ぶ年だけでよいとした。 三者割印も、御林には必要だが持山は二者で足りる。 事件から生まれた決まりを、すべて儀式にしない。 必要な場所へ軽くして残す。 二十本のうち一本は、梟の巣が見つかり外された。 契約数は十九本で満了とされた。 一本足りないことを、違約にしなかった。 第二百三十二章 橋桁 初年に伐った榧は、城下の橋になっていた。 千世は帳面の材番号を確かめに行った。 橋桁の内側へ、二、七、十一の墨が残る。 行き交う者には見えない。 榧平の名もない。 弥平は産地を刻めと求めた。 大葛は橋普請へ多く人を出した。 砥石は石を運び、小野沢は縄を作った。 一つの名だけを刻めば、別の働きが消える。 橋のたもとへ、材の産地と人足を列記した小札を置く案が出た。 雨で三年も持たない。 石碑にすれば費用がかかる。 木札を傷んだら替える。 永く残すためでなく、替えるたび読み直すためだった。 第二百三十三章 橋を渡る名 最初の木札には、榧平の字が「榧原」と誤って彫られていた。 彫師が耳で聞き、馴染みの地名へ直したのだ。 小さな間違いだった。 意味も通る。 弥平は作り直させた。 彫師は、榧の平らと覚えたと詫びた。 千世は誤った札も捨てず、文庫へ納めた。 地名が帳面へ戻っても、人の口へ戻るには時間がかかる。 新しい札を打つ日、原田家も橋を渡った。 砥石から炭を運ぶ途中だった。 「うちの山の木だ」と原田の子。 父は、今は榧平の木だと訂正した。 子は、前もうちの山だった、と言い返した。 所有の線より、子の記憶の方が曲がっていた。 第二百三十四章 源左衛門の帳箱 加代が源左衛門の私物帳箱を寺へ預けた。 公の帳面はすでに役所へ渡している。 箱には家の借用証、薬代、贈答控え、子どもの頃の手習いがあった。 千世は受け取りをためらった。 被害者の私生活まで、事件の資料にする必要はない。 加代は、処分する前に榧平に関わる紙だけを見てほしいと言った。 二人で一枚ずつ分けた。 材木商との書付は文庫へ。 三戸の未納を肩代わりした控えも文庫へ。 夫婦の薬代は加代へ戻す。 破れた手習いに「正直」の二字が何度もある。 千世は読んだが、写さなかった。 子どもの文字を、大人の罪への皮肉に使わなかった。 第二百三十五章 赦免の噂 城下で、登勢が赦免されるという噂が流れた。 榧平の名が戻った功により、永牢を三年で終えるという。 澪の店に祝いを言う者まで来た。 裁きに変更はない。 誰かが、救米口述と下知を混ぜて話したらしい。 澪は店先へ「赦免なし」と札を出そうとした。 玄道は罪人の家と自ら掲げる必要はないと言った。 千世は藩へ、判決変更の有無だけを触れで示すよう求めた。 役所は噂へ答えれば権威を損なうと渋った。 噂のままなら、登勢の刑も加代の喪失も村の都合で変えられる。 短い触れが出た。 「真壁登勢の裁許、先達ての通り」 祝いに来た者は、翌日から姿を見せなかった。 第二百三十六章 判決の重さ 澪は触れの写しを牢へ持っていった。 登勢は、自分が出られると思っていなかった。 だが榧平の者が赦免を望んだと聞き、黙った。 「嬉しい?」と澪。 「怖い」 村を守った者だから殺しも赦される、と子どもたちが覚えることを恐れた。 澪は、母の刑が重いと今でも思うと告げた。 源左衛門の脅しがなければ殺さなかった。 計画もなかった。 登勢は否定しなかった。 「重いと思っていていい。でも軽くするために、殺した人を悪人だけにしないで」 加代と同じ場所には立てない。 それでも、夫の別紙を作った加代の意志を知っていた。 澪は帰り道、判決の写しを二つ折りにした。 破らなかった。 第二百三十七章 藤兵衛の開門 一年の閉門を終え、藤兵衛の家の戸が開いた。 村人は商いの相談を持ってきた。 志乃たちは、すでに三軒の問屋と値を決めている。 藤兵衛の知識はまだ役立つ。 だが彼の返事を待たなくても紙は売れる。 最初の仕事は、八年前の名寄帳の花押を説明することだった。 逆鉤の癖を持つ旧書役は、藤兵衛の叔父だった。 藤兵衛は叔父の名を伏せてきた。 叔父はもう死んでいる。 家名を守るためだった。 藤兵衛は口述へ名を加えた。 死者へ罰は下らない。 残る家族へ噂は及ぶ。 それでも、名のない筆跡へ責任を押し込めないと決めた。 第二百三十八章 逆鉤の教本 旧書役の花押を、寺子の教本に使う案が出た。 同じ癖が三村の名寄帳を結び、榧平の土地を見つけた。 玄道は、子どもへ偽造の技を教えるようだと反対した。 千世は花押そのものではなく、筆跡だけで人を決めない例として用いたかった。 逆鉤は強い手掛かりだった。 紙、年次、屋号、畦の位置と重なって初めて意味を持った。 一つの印で真実が分かる物語は、覚えやすい。 だから危うい。 教本には三つの似た花押を並べた。 どれが同じ手か、と問う。 答えは「これだけでは決められない」。 子どもたちは不満を言った。 正解のない問いを、玄道は毎月一つだけ入れることにした。 第二百三十九章 父の算盤 千世は父の小屋を修繕するため、床板を上げた。 下から古い算盤と、油紙に包んだ寺男の勘定控えが出た。 天明三年の頁がある。 救米を運ぶ夜、父は寺にいたはずだった。 控えには、荷車二、縄四、米糠蝋一、と記されている。 合鍵の蝋型に使った米糠蝋かもしれない。 父も知っていた。 千世は、自分だけが知らされず清書したと思っていた。 父が娘を守るため黙ったのか。 寺に命じられただけか。 すでに尋ねられない。 父を共犯とも、守った者とも断定できない。 控えを発見日とともに文庫へ入れた。 その夜、父の算盤を初めて一度も弾かなかった。 第二百四十章 守られた娘 慈周へ父の控えの写しを送った。 返事は玄道に読ませた。 父は、千世へ榧平の生存を知らせるべきだと主張したという。 慈周が止めた。 知れば娘も罪を負う。 知らずに写せば、命じられた手として守れる。 千世は二十三歳だった。 子どもではない。 父も最後には沈黙を選んだ。 守られていたことが、千世を軽くしなかった。 知らずに書いた罪と、知る選択を奪われた怒りが同じ場所にある。 慈周の返書の末尾には、許しを乞うとあった。 千世は返事を書いた。 「事実を知らせてくださったこと、受け取りました」 許すとも、許さないとも書かなかった。 第二百四十一章 父の名 救米口述の運搬者へ、千世の父の名を加えるか。 荷車と縄を用意した控えはある。 本人の口述はない。 登勢は、父が谷口で見張ったと覚えていた。 藤兵衛は、姿を見ていないと言った。 千世は自分の父だけを確かな側へ寄せたくなかった。 「物資準備の記録あり。現地同行は登勢口述のみ」と記した。 名前の横に、確度を置く。 父は英雄の列にも、罪人の列にも入らなかった。 一つの夜に、荷車二台を用意した寺男として残った。 小さく見える。 千世には、その小ささが真実に近かった。 第二百四十二章 千世の朱 過去帳の最初の追記から三年が経ち、朱が薄くなり始めた。 小野沢の紙は丈夫だが、朱墨は湿気に弱い。 千世は線を重ねるか迷った。 後から濃くすれば、最初の追記時期が分からなくなる。 玄道は、薄い線の外へ新しい細線を引き、日付を添えるとした。 三十二名の頁を一枚ずつ開く。 千世が引いた最初の線の隣へ、寺子を終えた直吉が二本目を引いた。 手が震え、線は平行にならない。 「やり直します」 千世は止めた。 訂正を守る線まで、美しく一つに見せる必要はない。 二人の朱が、違う太さで並んだ。 第二百四十三章 新しい没日 塩谷の老母が亡くなった。 塩谷家は飢饉後に榧平へ入ったため、彼女は偽の過去帳に載っていない。 正式な住人となってから初めて死ぬ者だった。 没日、享年、戒名、葬具。 すべて通常どおり書ける。 千世は筆を置く手が重かった。 普通の一行が、これほど難しく見えたことはない。 家族は、榧平の共同墓地へ葬ると決めた。 戻る名がないと言った家に、初めてこの土地の死者ができた。 過去帳の行には「榧平枝郷塩谷」と書いた。 枝郷の二字を外したいと思った。 勝手には外さなかった。 今ある名を正確に書いた。 第二百四十四章 空いた欄 新しい人別帳には、各戸の出生、死亡、出入りを追記する余白がある。 八年前の帳面は余白が少なく、無理な線と貼紙で人を動かした。 伊織は一戸につき半頁多く取った。 紙がもったいないと勘定奉行。 「人は増え、減り、移ります」 空欄は無駄ではない。 まだ起きていない変化の場所だ。 榧平の頁には、移住した二戸への参照番号を残した。 深見家の出生知らせは身分欄へ入れず、往来控えの番号だけを欄外に置く。 杉生家の共同請けも、年限を更新できる空所を取った。 千世は白い頁をめくった。 かつて空白は村を隠した。 今の空白は、次の字を待っていた。 第二百四十五章 林の返済 鴻池屋への改定後、最初の返済期が来た。 榧材十九本、榧油十五瓶、紙の売上。 宗七が大坂へ運び、佐平から受取状が届いた。 予定より銀一貫二分少ない。 材一本を梟の巣で外した分と、油瓶が一つ割れた分だった。 藩は不足を次期へ繰り越した。 榧平へ補填を求めない条項が効いた。 ただし利は増える。 弥平は、梟一羽が利息を生んだと苦笑した。 宗七は巣のあった木の実を拾い、油にすれば少し返せると言った。 木を残した価値を、伐った材と同じ年に測ることはできない。 直吉はその木を伐採帳から保育帳へ移した。 巣あり、実少なし、翌年再見、と記した。 第二百四十六章 九本の苗 鹿から守った九本の苗は、四年で人の腰ほどになった。 一本は山崩れで流れ、二本は病んだ。 六本が残る。 最初の帳には新芽九本とある。 成功の話だけを聞いた子どもは、九本すべて育ったと思っていた。 直吉は六本の前へ子どもを連れていった。 枯れた場所の杭も見せた。 一本ずつ名を付けたいという。 千世は止めなかった。 ただし、死んだ九人の名をつける案には反対した。 木が枯れるたび、また死を重ねることになる。 子どもたちは、山、川、風、雪、朝、梟と呼んだ。 保育帳には通称として記した。 木の所有者ではなく、見分ける呼び名だった。 第二百四十七章 弥平の印 春、弥平は世話人を退いた。 年貢と訴願は澪が引き継ぐ。 女を世話人にする決まりはない。 禁じる決まりもなかった。 勘定方は、連印に女の名がある前例がないと渋った。 油商いで帳面を扱い、三村の往来を知る。 十一戸の豆は、澪へ七、別候補へ三、小石一だった。 弥平は自分の印箱を渡した。 中には初年の割付状、欠けた産物印の試し紙、訴願控えがある。 「母のことを言う者がいる」と澪。 「言わせればいい。言った名も控えればいい」 弥平はもう、守るため黙らせると言わなかった。 最後の印は、引継ぎ済みの一行へ押した。 第二百四十八章 女世話人 澪の最初の仕事は、油小屋の自分へ産物改め印を押すことだった。 売る者と改める者が同じになる。 弥平の時には問題にならなかった。 彼は木地師で、榧材の選定に関わっていたのに。 澪は油札だけを直吉にも検めさせると決めた。 代わりに、直吉が扱う薪札は澪が見る。 役所は、二人の手間が増えると心配した。 「自分を信じない仕組みです」と澪。 母の受取札一枚が後筆だったことを、皆が知っている。 母を否定するためではない。 自分も同じように、守りたい者のため字を動かすかもしれない。 最初の油札には、澪と直吉の二つの小印が並んだ。 第二百四十九章 半間縄の行先 証拠の半間縄は、裁判後も城の罪具蔵にあった。 湿気で麻が腐り始めている。 廃棄する前に写しを取ると伊織が言った。 縄目を紙へ墨拓し、長さと瘤間隔を測る。 千世は立ち会った。 首痕と一致した物。 登勢が焼いたと思われたが、送り火の灰から切れ端が出て、残りが油小屋の梁に隠されていた。 物は朽ちる。 写しは物そのものではない。 縄は裁断して焼く案が出た。 加代と澪へ尋ねる。 加代は見たくない。 澪も家へ戻すなと言った。 罪具蔵で封を新しくし、十年ごとに保存を評議することになった。 永遠に残すとも、すぐ消すとも決めなかった。 第二百五十章 年貢蔵の床 源左衛門の遺体が置かれた年貢蔵の床板を替える時が来た。 血は洗われ、黒い染みだけが残っている。 蔵を使うたび、村人はそこを避けて歩いた。 板を外せば証拠を消すと言う者がいる。 残せば、死者を踏まないため蔵の動線が狭い。 裁判記録には床の寸法と染みの絵図がある。 加代は替えてほしいと答えた。 澪も同意した。 古板は燃やさず、寺の物置へ移した。 いつまで置くかは決めない。 新しい板には、何の印もつけなかった。 最初の俵を運び込んだ若者が、染みのあった場所へ普通に足を置いた。 蔵は再び、米を置く場所になった。 第二百五十一章 普通の誤り 新しい検地帳に、雨宮家の蕎麦畑が「雨宮前」と書かれていた。 正しくは「雨宮向」。 前と向では、屋敷から見た方角が違う。 面積も石高も名請人も合っている。 年貢額は変わらない。 伊織は次の改帳で直せばよいと言った。 弥平はすぐに訂正を求めた。 以前なら、そんな小さな字へこだわらなかったかもしれない。 千世は原本へ朱を入れず、訂正願と現地見分を添えた。 翌月、向に直った。 誰の陰謀でもない。 書き手が聞き違えただけだった。 榧平の帳面にも、普通の誤りが生まれるようになった。 普通だから放置してよいのではない。 普通の手続で直せたことが、新しかった。 第二百五十二章 庄兵衛の未収 大葛との最初の相互検めで、庄兵衛の帳面に未収米二俵が見つかった。 叔母の家へ猶予した分だった。 水損で払えないことは皆が知っている。 だが皆済目録では、庄兵衛が自分の米で埋めた形になっていた。 実際には埋めていない。 藩へ納めた総額は合う。 別の余剰米を一時借り、翌年戻す予定だった。 源左衛門も似た肩代わりをしていた。 家を助けるための融通が、庄屋一人の頭の中だけにある。 庄兵衛は、叔母の恥になると記録を避けた。 叔母本人へ聞くと、猶予と書けと言った。 恵まれたのではなく、来年返すのだから、と。 未収の理由、返済期、利なしを記した。 助ける仕組みも、隠せば次の不正の形になる。 第二百五十三章 旅の読本屋 城下へ読本を売る旅商人が来た。 死んだ村に生者がいた話を聞き、千世を訪ねた。 江戸で刷れば売れるという。 死者四十一人が盆の夜に戻り、庄屋を呪い殺す筋にしたい。 千世は断った。 呪いではない。 死んだのは九人。 源左衛門を殺したのは登勢。 商人は、事実のままでは話が散らばると言った。 飢饉、偽帳、殺人、山論、借財。悪人が多すぎ、善人も汚れている。 「一人の庄屋へ集めれば、読みやすい」 千世は、読みやすさのために人を死なせた帳面を見せた。 商人は原本に触れず、帰った。 後日、城下で「送り火の亡村」という噺が語られた。 榧平の者は笑い、少し怒った。 第二百五十四章 噺の訂正 弥平は噺を禁じるよう役所へ訴えようとした。 澪は止めた。 どこまでが誤りかを示す札を、油小屋へ出した。 四十一人全員は死んでいない。 実死者は九人。 源左衛門は呪いでなく絞殺。 榧平は廃村でなく、現在十一戸。 客は札を読み、噺より面白くないと言った。 「本当は、もっと長いから」と澪。 読本屋が戻り、札を写してよいか尋ねた。 澪は、写すなら訂正ごと、と条件を出した。 彼の次の噺では、幽霊は消えた。 代わりに女記録係が一目で墨を見破り、すべてを解く。 千世はまた訂正札を書いた。 一目ではない。多くの者の証言と物を照合した、と。 噺は訂正より速かった。 それでも訂正を置いた。 第二百五十五章 千世の失敗 千世自身も、新しい索引で一人の番号を取り違えた。 久世家の久助を、同名の大葛久助へ結んでいた。 檀家が法事の日を尋ね、違う没日が出て発覚した。 玄道は千世だけを責めなかった。 二人で読み合わせた頁だった。 だが筆を置いたのは千世だ。 索引の誤番号へ横線を引き、正しい番号を添えた。 訂正者欄に、自分の名を書く。 寺子の子どもがそれを見た。 「千世さんも間違うの」 「間違います」 「なら、誰が直すの」 「見つけた人が言って、確かめた人たちが直します」 子どもは安心せず、索引をもう一度最初から見始めた。 それでよいと千世は思った。 第二百五十六章 慈周の訃報 冬の初め、隠居寺から慈周の訃報が届いた。 朝の勤行を終え、座ったまま亡くなったという。 没日は明確だった。 看取った僧が二人。 葬具の勘定も届いた。 千世は過去帳へ、光照寺前住、慈周と書いた。 八年前、彼は生者を死者として入れた。 今度は本当に死んだ彼を、千世が記す。 罰のようにも、赦しのようにも書かなかった。 享年六十五。 隠居寺にて寂。 一行を読み返し、父の件を知らせた返書を別箱へ入れた。 寺の鐘を一つ鳴らした。 谷には雪が降り始めていた。 第二百五十七章 慈周の別紙 慈周の死後、彼の責任をどこへ置くかで寺総代が揉めた。 過去帳の本人の行へ、榧平虚偽への関与を書くべきだという。 死者の没日を記す頁へ、生前の罪をすべて載せれば、過去帳は裁判帳になる。 何も書かなければ、後の住職が慈周を善僧だけと思う。 千世は寺歴へ別項を立てた。 天明三年救米に協力。 同年、郡方および三村役人と協議し、生者を過去帳へ記す案へ関与。 寛政三年、事実を認める。 寺領処分、退隠。 本人の口述に異同あり。 過去帳の行から寺歴の頁へ参照番号を置いた。 死者の名を汚さないためでなく、帳面の役割を混ぜないためだった。 第二百五十八章 米糠蝋の控え 父の勘定控えにある米糠蝋は、合鍵用だったか。 登勢は、寺男から蝋を受け取ったことはないと口述した。 藤兵衛は、鍵型を作る場に千世の父がいたと言う。 慈周の死で、確かめられる者が一人減った。 玄道は寺の古い灯明勘定を見つけた。 同じ月、仏具の鋳型修繕にも米糠蝋を使っている。 父の控えの一つは、その分かもしれない。 千世は先に書いた「合鍵用の可能性」を削らなかった。 脇へ、仏具修繕の可能性あり、と加えた。 新しい証拠が古い疑いを消すとは限らない。 確かさを一段下げることもある。 父の名は、さらに小さくなった。 その小ささに、千世は少し救われた。 第二百五十九章 春の引き継ぎ 玄道は寺子の記録係に、澪の長男を選んだ。 十三歳になっていた。 出席、墨、紙、薪を記す。 最初の日、薪一束を二束と書き、数が合わなくなった。 少年は紙を破ろうとした。 千世が止めた。 横線を一本引き、理由を書く。 「間違えたため」 それでは足りない。 数え直したら共同小屋の薪一束を寺へ運んだと分かった、と記した。 間違いという言葉だけでは、何が起きたか消える。 少年は雨宮と署名し、その下へ小さく真壁と書こうとした。 公の役帳では一つにする決まりだ。 彼は雨宮だけを書き、私用の控えには二つ書いた。 自分で分けた。 第二百六十章 たまの母の死 春の終わり、たまの母が亡くなった。 青柿の木に小さな実がついた朝だった。 看取った杉生の嫁が、没刻を寺鐘五つと伝えた。 千世は白石の見える井戸、青柿の口述を思い出した。 過去帳へは入れない。 母本人の没日と戒名を書く。 墓は、たまの古石の隣を望んでいた。 遺言は口頭で、三人が聞いている。 杉生家はそこへ葬った。 たまの木札は雨で薄れていた。 母が書いた大きな名を、千世はなぞらなかった。 薄れたまま屋根を付け、新しい読札を横へ置いた。 母の墓標は別の字で作った。 親子でも、同じ手にはしなかった。 第二百六十一章 十人目ではない 送り火の相談で、たまの母を九人の小火へ加えるかが話題になった。 榧平で亡くなった者だから、十にするべきだという。 九人は、天明の飢饉で実際に死んだ者を数える火だった。 その後に亡くなった者も、塩谷の老母もいる。 すべてを加えれば、火は年々増える。 先祖供養の火と、飢饉死者を確かめる火が混じる。 今年から、各家の仏へは家の火を置く。 飢饉の九人には、小火九つを別にする。 たまの母は杉生家の火で送る。 「十人目から外すのか」と杉生の嫁。 「外すのでなく、何を数えた九かを変えません」 死者を大事にすることと、同じ列へ入れることは違った。 第二百六十二章 十三戸の場所 元の十三戸のうち、榧平に住むのは十一戸。 原田は砥石。 深見は小野沢。 旧屋敷へ二つの火を置かないと決めている。 それでも、十三戸を消さずにどう数えるか。 澪は、同じ刻にそれぞれ今の家で火を点けてもらう案を出した。 榧平十一。 砥石一。 小野沢一。 三つの場所で十三戸。 見渡して一度に数えることはできない。 原田家は承知した。 深見家は、自分の家の盆火としてなら点けると答えた。 榧平のための火、と決められるのは嫌だという。 千世は「旧榧平十三戸の各家にて家火。同時刻」と記した。 所有の言葉を避けた。 第二百六十三章 時を合わせる 三村で同じ刻をどう知るか。 光照寺の鐘は砥石まで届かない。 小野沢には川音がある。 日暮れの影を目印にする案は、山の形が違う。 伝馬を走らせても、同時にはならない。 伊織は城の暮六つの鐘を使うよう提案した。 榧平では遠く、風向きで聞こえない。 結局、厳密な同時を諦めた。 それぞれの土地で暮六つを合図にする。 鐘が届かなければ、その村の日暮れ鐘。 時刻は少しずれる。 帳面には「各地の暮六つ頃」と書く。 揃えるために、誰かの火を待たせない。 十三は同じ瞬間に見える数でなく、同じ由来を持つ家の数になった。 第二百六十四章 九枚の皿 九人の小火には、新しい土皿を用意した。 去年までは古い欠け皿を使っていた。 澪は自分の油を無償で出すと言った。 寄合は代金を払った。 世話人の商いと村の祭礼を分けるためだ。 皿の裏へ死者名を書く案が出た。 一枚を割れば、その名を壊したように見える。 皿には一から九の番号だけ。 別の木札に九人の名と、どの皿かを記す。 たまは七番だった。 なぜ七かは、過去帳の順による。 年齢順でも、家格順でもない。 順序に意味がないことを木札へ添えた。 並びにも、人は理由を読み込むからだった。 第二百六十五章 火守り 九つの小火を誰が守るか。 九人の遺族だけでは、家が絶えた者もいる。 子どもが一つずつ受け持つ案になった。 澪の長男は、たまの七番を選んだ。 理由を尋ねると、同じ九歳だったことがあるからと言った。 今は十三歳。 たまは九歳のままではない、と千世は思った。 死者の年齢を、生きた子が追い越す。 少年は皿の油量を測り、途中で消えないよう芯を切った。 登勢から習った仕事だった。 殺人の縄も、祭礼の油も、同じ家の知識から出た。 千世は手つきを止めなかった。 受け継ぐものを、罪の形だけにしなかった。 第二百六十六章 加代の一灯 加代から、源左衛門のための火を榧平へ置いてよいかと書状が来た。 彼は榧平の者ではない。 そこで殺されたのでもない。 遺体が運ばれた寺の蔵は谷下にある。 弥平は反対した。 九人の火と並べれば、被害者であることが村の歴史へ入り込む。 澪も、母の罪を毎年ここで示すことになると嫌った。 千世は加代へ、光照寺の本堂で一灯を置く案を返した。 榧平から見えない場所。 九つとも十三とも数えない。 加代は自分で油を持ってきた。 澪の店から買った油だった。 二人は会わなかった。 受取札だけが、寺鐘五つの時刻とともに残った。 第二百六十七章 牢の一灯 澪は登勢の牢にも小さな油を差し入れた。 牢内で火は使えない。 牢番が廊下の灯明へ足す。 登勢だけの火にはならない。 ほかの囚人も同じ明かりを見る。 澪はそれでよいとした。 榧平の十三戸に登勢の家は含まれない。 小野沢の真壁家としても、登勢は牢にいる。 どの数へも入れにくい者だった。 千世は差入帳に、灯明油一合、真壁澪より、と書いた。 用途は廊下灯。 母へ、と脇に書かない。 澪は帳面を読み、頷いた。 伝わらないように見える形の中で、伝えることを選んだ。 第二百六十八章 祭りの雨 送り火の日、昼から雲が厚くなった。 雨なら火は点かない。 盆の火がなければ、今年の記録はどうするか。 弥平は屋根を作ろうと言った。 直吉は、火のため山火事を起こすと止めた。 日暮れ前、細い雨が降った。 九枚の皿は共同小屋の軒へ移す。 十一戸の家火も、それぞれ軒下に置く。 見晴らしの斜面に十三が並んだ昔の姿にはならない。 砥石と小野沢の空は分からない。 千世は濡れた道を寺から上った。 火を見に来た役人は、雨なら翌日に延期せよと言った。 盆を帳面の都合で延ばさない、と澪。 火は見せるためでなく、各家が置くものだった。 第二百六十九章 暮六つ頃 光照寺の鐘が、雨の谷へ六つ響いた。 榧平の十一戸で火が点いた。 遠く砥石の鐘は聞こえない。 小野沢の鐘も、水音に消える。 原田家が点けたか。 深見家が点けたか。 この場所からは確かめられない。 千世は、十三の火を見たとは書けないと思った。 九つの小火へ、子どもたちが芯を入れた。 七番の火が風で揺れ、澪の長男が手で囲う。 たまの名を読み上げる者はいなかった。 木札に九人の名がある。 読める者が静かに目で追い、読めない者には玄道が低く読んだ。 十一の家火と、九の死者火。 同じ視界にあっても、千世は二十と数えなかった。 第二百七十章 二つの使者 夜半、砥石から原田の子が来た。 雨の中、火を点けたと知らせるためだった。 少し遅れて、小野沢から深見家の隣人が来た。 深見家も自宅の軒で点けたという。 二つの使者は、時刻を正確には言えない。 どちらも自村の暮六つ頃。 千世はそれぞれの口述を別に記した。 十三戸すべて点火確認、とまとめることもできる。 だが見た者も、場所も違う。 榧平十一戸、現地確認。 原田一戸、子の口述。 深見一戸、隣人の口述。 十三という合計を末尾に置き、その前に三つの確かめ方を残した。 数は合った。 合い方を消さなかった。 第二百七十一章 消す火 夜が深くなると、家火は一つずつ消された。 風に任せず、水を掛ける。 送り火は燃やし尽くすものだという老人もいた。 雨で土が湿っていても、軒下の藁へ移ることがある。 直吉は山見役として、消火を優先した。 九つの小火は、玄道が名を読み終えるまで残した。 七番の芯が先に短くなった。 澪の長男は油を足そうとした。 千世は止めなかった。 九枚を同じ長さに燃やす決まりはない。 少年は考え、足さずに見送った。 たまの火が最初に消えた。 順序に意味を持たせる者がいるかもしれない。 記録には、雨中、七番より自然消火、とだけ書いた。 残る八つも、間もなく水で消した。 第二百七十二章 油の残り 翌朝、澪は九枚の皿に残った油を量った。 七番だけ空。 ほかは少しずつ違う。 同じ一合を入れたはずだった。 皿の深さと芯の太さが違う。 祭礼帳へ残量まで書くか。 直吉は、来年の油量を決めるため必要だと言った。 玄道は、供養を勘定にしすぎると心配した。 澪は残量を書き、死者名とは結ばなかった。 一番三勺、二番二勺。 七番零。 来年は皿を替えず、芯を揃える。 同じ時間燃えるためではない。 風で消えにくくするためだ。 目的を一行添えた。 物の数が、死者の価値へ変わらないようにした。 第二百七十三章 十三の報告 役所へ出す祭礼報告には、火二十二と書く雛形が用意されていた。 戸火十三、飢饉死者火九の合計だった。 千世は二十二を消した。 担当役人は、合計欄を空けては検算できないと言う。 「何を検算なさいますか」 油皿の数なら、榧平にあったのは二十枚。 原田と深見の火皿は、それぞれの村にある。 火を点けた家の数なら十三。 飢饉死者の数なら九。 二十二は算術として正しい。 祭礼の何を表す数か分からない。 報告は二段になった。 旧榧平戸火十三。うち現地十一、他村二。 飢饉実死者小火九。 合計欄には、合算せず、と書いた。 第二百七十四章 牢への報告 澪は送り火の報告を登勢へ読んだ。 原田も深見も今の家で点けたこと。 たまの七番が先に消えたこと。 加代が寺で一灯を置いたことは言わなかった。 隠したのではない。 自分が伝える話ではないと思った。 登勢は十三戸の数え方を聞き、しばらく黙った。 八年前、十三戸を守るため四十一人を同じ死者にした。 今は十三戸を数えるため、三つの場所と三つの証言を使う。 「面倒になったね」と登勢。 「うん」 「それでいい」 登勢は廊下灯の残り油を尋ねた。 澪には分からなかった。 次は牢番に量らせないで、と笑った。 第二百七十五章 本堂の一灯 加代の一灯は、本堂で朝まで燃えた。 玄道が芯を短くしたため、油が一勺残った。 加代は残りを位牌の寺へ持ち帰ると言った。 源左衛門の火は榧平の祭礼帳へ載らない。 光照寺の灯明帳には、施主加代、亡夫追善とある。 澪の油受取札は商い帳にある。 三冊を合わせなければ、同じ一灯だと分からない。 千世は参照番号をつけようとした。 加代は断った。 「この火まで、あの一件に綴じないでください」 夫を悼む行為を、事件資料にされたくない。 千世は番号を消した。 つながりがあるからといって、すべてを結ぶ権利はない。 一勺の油は、加代の小瓶へ戻った。 第二百七十六章 九人の家族 九人の死者名を記した木札は、寺へ納める予定だった。 遺族の一人が、家へ持ち帰りたいと言った。 九人は同じ飢饉で死んだ。 木札一枚へ連ねたことで、また一つの死に見える。 九枚に分ける案が出た。 紙と木が余分に要る。 家が絶えた者の札を誰が持つか。 千世は大札を寺に残し、希望する家だけ名の写しを受け取ることにした。 全員を同じ形へ直さない。 たまの名の写しは、杉生の嫁が受けた。 母の墓へ置かず、家の仏壇に入れる。 家が絶えた二人の名は、玄道が寺の位牌とは別に紙箱へ納めた。 持主なし、とは書かなかった。 寺預かり、と書いた。 第二百七十七章 佐平の受取状 大坂から二通目の受取状が来た。 繰越しの銀一貫二分を含め、予定どおり受領。 次年から利を元へ戻す、とある。 藩の借財が消えたわけではない。 返済の道筋が見えただけだった。 現家老は祝酒を出そうとした。 勘定奉行は、酒代を返済へ回せと言った。 評定所で笑いが起きた。 千世は受取状を見せ帳と内帳の両方へ記した。 今度は同じ文言にした。 悪い時だけでなく、良い時も多く見せない。 榧平の榧油十五瓶は、売上の柱になっている。 澪は来年、十二瓶しか約束しなかった。 実の付き方を見てから増やす。 佐平の少ない方を採る算盤が、谷に残っていた。 第二百七十八章 村明細帳 藩内の村明細帳を改める年が来た。 榧平は大葛の末尾に一項を持つ。 戸数十一。 人数三十七。 高百九石。 産物、蕎麦、炭、榧油。 持山三分の一、御林入会あり。 世話人二名。 原田、深見の二戸は含まれない。 元十三戸という歴史は明細本文に入らない。 千世は沿革欄を求めた。 勘定方は他村にない欄を作れないと言う。 別紙参照の一行を末尾へ加えた。 「天明三年処理および寛政三年以後復帰の次第、諸記録目録一番を見よ」 日常の帳面は短く、過去への道だけを残した。 第二百七十九章 三十七人 人数三十七を読み上げる時、千世は立ち止まった。 八年前の生存者三十二人とは違う。 生まれた者。 亡くなった者。 移った者。 入った者。 四年の間に数は動いた。 三十七が村の正しい姿だと固定すれば、また次の変化を誤りにする。 明細帳へ調査日を大きく入れた。 寛政八年二月十五日現在。 翌日、子が一人生まれれば三十八になる。 翌月、誰かが移ればまた変わる。 四十一人を死者にした帳面には、時の範囲がなかった。 いつまで真実のつもりだったのか、誰も決めていなかった。 千世は数字の横へ、現在、の二字を置いた。 第二百八十章 次の出生 明細帳を閉じた二日後、久世家に男の子が生まれた。 三十八人になった。 産婆は、最初の訴えで賃金を決めた小野沢の女だった。 共有米から定めどおり支払う。 誰も費用の村を争わなかった。 出生届には榧平と書く。 公称を認める下知により、枝郷の二字を出生地から省けるようになっていた。 所属欄には大葛村枝郷。 場所欄には榧平。 同じ紙に二つの形が並ぶ。 父親は、子の名を平太とした。 榧平の平ではなく、平らに育つように、と説明した。 人は地名から意味を読む。 父はそれを自分で否定する権利を持った。 第二百八十一章 四十一の戒名 過去帳を修繕するため、綴じ糸を替える日が来た。 頁を外すと、四十一の戒名がばらばらになる。 千世は順番札を挟み、玄道と寺総代、澪の長男が立ち会った。 古い綴じ穴の横へ新しい穴を開ける。 元の穴は残る。 紙が弱い頁には補紙を当てる。 三十二の朱線を糊で隠さない。 たまの頁は端が欠けていた。 名に触れない位置へ薄紙を重ねた。 綴じ直した帳面は、少し厚くなった。 同じ一冊であり、以前と同じではない。 千世は修繕記録へ、旧糸を廃棄せず別包み、と書いた。 糸まで残す必要があるか迷った末、十年後に再判断とした。 第二百八十二章 古い糸 外した綴じ糸には、八年前の煤と埃がついていた。 それを分析する術はない。 慈周の指が触れ、千世の父が帳面を運び、二十三歳の千世が頁を開いた糸かもしれない。 だから価値がある、と言えば何でも捨てられなくなる。 文庫はすでに物で埋まり始めていた。 伊織は保存年限を決めるべきだと言った。 事件の原本文書は永年。 写しは次の改帳まで。 作業札や余り糸は十年。 期限が来たら、自動で捨てず再評価する。 千世は古糸の包みに寛政十七年再見、と未来の日付を書いた。 その時、自分がいるか分からない。 次の者が捨てても、裏切りにはならない。 判断を渡すことも、記録を守る一部だった。 第二百八十三章 伊織の畦 春の見分で、伊織は雨宮向の畑へ行った。 訂正された字名を現地で確かめる。 畦には蕎麦の芽が出ていた。 「帳面に向とあっても、畑は変わらない」と伊織。 「帳面に前とあっても、畑はなくなりません」 千世は答えた。 八年前も、榧平は帳面から消えて暮らし続けた。 なら帳面は要らないのか。 そうではない。 畑が荒れ、持主が死に、境の記憶が薄れた時、字が次の手を導く。 今すぐ土を変えなくても、後の扱いを変える。 伊織は畦の端へ立ち、絵図と山を交互に見た。 紙を先に見ず、まず足元を見た。 それから帳面へ、現地一致、と書いた。 第二百八十四章 千世の家 父の小屋は、寺領ではなく千世の借家として改められた。 寺領処分の時、所属が曖昧になっていた。 玄道は寺に残ればよいと言った。 千世は年に米二斗の借料を払う契約を作った。 自分で自分を寺から追い出せる証文でもある。 守られるため曖昧に置くより、条件を知りたかった。 小屋の一角に父の算盤を置いた。 弾かないままでは道具が傷む。 薪代を計算するため、久しぶりに珠を動かした。 合計が一文合わない。 もう一度数え、油代の書き忘れを見つけた。 父の算盤は、秘密を告げなかった。 ただ足し算に使えた。 千世はそれを嬉しいと思った。 第二百八十五章 何を数えたか 翌年の盆帳を作る前に、千世は前年の頁を開いた。 旧榧平戸火十三。 榧平現住十一。 砥石原田一。 小野沢深見一。 飢饉実死者小火九。 源左衛門追善灯一、祭礼外、光照寺本堂。 牢廊下灯油一合、祭礼外。 数字が多い。 一つへ足せば二十四にも、二十三にもなる。 どこまでを火と呼ぶかで変わる。 千世は合計を置かなかった。 代わりに頁の上へ、去年と同じ文を写した。 「以下の数は目的を異にする。総数として合算せず」 三十二人の追記に使った言葉だった。 今度は死者だけでなく、生きる家と離れた家、被害者と罪人の家族を分けるために使った。 第二百八十六章 裁判帳を閉じる 源左衛門殺害の裁判帳に、保存確認の奥書を入れることになった。 判決から四年。 新しい証言はない。 半間縄の墨拓、油滓、車輪の轍図、受取札、合鍵の蝋型を、証拠目録と照合した。 縄は傷み、蝋型は角が欠けている。 受取札の後筆はまだ見える。 千世と伊織、罪具蔵役人が一つずつ印を押した。 役人は「一件落着」と書こうとした。 登勢の刑は続き、加代の夫は戻らず、澪の店には焦げた柱がある。 落着していない、と言えば裁判を閉じられない。 千世は「裁許済み、証拠保存を確認」と改めた。 裁きが終わったことと、出来事の影響が終わったことを分けた。 帳面の紐を結ぶ。 二度と開かない結び方にはしなかった。 第二百八十七章 療養の願い 登勢の咳が冬ごとに重くなった。 澪は赦免でなく、月二度の医師診察を願った。 永牢者には病時のみ診察という決まりがある。 病時がいつかを決めるのは牢番だった。 前の高熱も、三日目まで医師が来なかった。 願書に榧平救米の功を添えれば通りやすい、と役人は示唆した。 澪は添えなかった。 判決が重いと思うこと、母を生かしたいことだけを書いた。 加代へ同意を求める者がまた現れた。 加代は以前と同じく、囚人の医療を自分へ問うなと返した。 現家老は月一度を認めた。 望んだ二度の半分。 診察日と処方は牢帳へ記す。 登勢は薬を受け取り、功績の代価ではないことを確かめた。 第二百八十八章 伊織の異動 伊織は隣郡の文庫改めを命じられた。 白背谷を離れる。 古い水損帳と新田帳が食い違う村があるという。 榧平のような不正と決めつけるな、と千世は言った。 「名寄せの穴で学びました」 伊織は笑った。 現地見分は年二回という条件を、新しい役にも付けるよう願った。 今度は最初から認められた。 前例になったからだ。 引継ぎには、帳面を封じる順、異同の確度、住民の口述を本人に読み返すことが書かれていた。 千世は最後に一行を加えた。 「異同を見つけても、一事件の型へ直ちに当てはめず」 伊織はその横へ印を押した。 出立の日、水口の半鐘は鳴らなかった。 彼は自分で石の位置を見てから谷を下りた。 第二百八十九章 契約の終わり 宗七との伐採契約が正式に満了した。 当初百八十本。 改定後百二十本。 実伐百十九本。 腐朽二本の扱いと、梟の巣一本を含むため、帳面の数は単純に引けない。 前金の残りは榧油で返した。 宗七は、新しい買付契約を申し出た。 今度は伐採権を先に買わない。 毎年、榧平、林方、宗七が必要本数を決める。 値は木の太さと運び道で変える。 弥平は一本も切らない年を認めさせた。 宗七は、商いにならない年もあると承知した。 代わりに榧油の優先買付けを求めた。 澪は価格が城下相場を下回る時は他へ売れる条項を加えた。 四年前なら、二人とももっと強い条件を押しただろう。 互いを信じたからではない。 何を失うかを帳面で見たからだった。 第二百九十章 三村の寄合 用水と道普請の取り決めを改めるため、三村と榧平が集まった。 榧平は村でないため、公式には三村一枝郷の会合となる。 席は四つあった。 以前は大葛の席の後ろに、弥平だけが立った。 今回は澪と直吉が一枚の畳に座る。 旱の別則、雪道の役、墓道の修繕、産婆賃。 大きな下知では扱わなかった事柄を、七条にまとめた。 小野沢は、紙漉き女の炊出しも普請役として数えるよう求めた。 砥石は、二村暮らしの夫婦の役を年交替から季節交替へ変えたいと言った。 原田家は墓道寄進を任意のまま残した。 四つの印が並ぶ。 榧平の印は産物改め印で、会合用ではない。 二人世話人の個人印を押した。 弱い印でも、別の三村の印と同じ行に載った。 第二百九十一章 加代の余白 千世は加代へ、源左衛門別紙の確定写しを届けた。 加代は夫の功過を読んだ。 未納の肩代わり。 伐採計画。 偽割付状。 澪を脅したこと。 殺害された事実。 余白に、妻として何か書くかと尋ねられた。 加代は長く考えた。 夫は寝る前に必ず戸口の鍵を二度確かめた。 梅干しを嫌い、雨の日に膝を痛がった。 そのようなことは功過の別紙に要らない。 「空けておいてください」 千世は余白と書かなかった。 白いまま残した。 加代は写しを仏壇へ置かず、帳箱の底へ収めた。 読む日が来るかは、自分で決めるという。 第二百九十二章 次の者の目録 文庫記録方手伝に、若い筆耕が一人加わった。 城下の足軽の次女、志津。 千世より字が速く、紙の傷みを見つける目がよい。 最初に榧平の目録を渡すと、別紙が多すぎると言った。 一冊へ清書し直したい。 四年前の玄道と同じ提案だった。 千世は反対を先に言わず、なぜ一冊がよいかを聞いた。 探す時間が短くなり、貸出しの記録も一つで済む。 もっともだった。 原本群を残したまま、案内用の要約冊子を作ることにした。 要約には必ず原本番号を付ける。 志津は事件を知らない者として、分からない語へ印を置いた。 千世たちには自明になった「紙上移住」で、最初に筆が止まった。 次の読者の分からなさが、目録を直した。 第二百九十三章 雨樽を空ける 旱のために置いた雨樽は、二年後も寺の軒下にあった。 毎朝、千世か寺子の子が水深を測る。 雨の多い年は、誰も記録を見ない。 樽には落葉が入り、冬には割れそうになる。 玄道は片づけようと言った。 非常時の道具を平時まで守る費用も、ただではない。 直吉は残すべきだと主張した。 次の旱に、平年との違いが分かる。 千世は二年分の記録を並べた。 水深を指の節で測り始め、途中から木尺に変えている。 同じ数字として比べられない。 樽も一度、箍を替えた。口の広さが少し縮んだ。 長く続ければ正しくなるとは限らない。 測り方の変更をすべて添えれば、傾向は読める。 寺子の教材として、春から秋だけ続けることにした。 冬は樽を伏せ、帳面へ「降水なし」でなく「測定休止」と書く。 空の欄を、晴天の証にしなかった。 新しい樽には内径を墨で記した。 子どもが最初の雨を待ち、乾いた底へ木尺を立てた。 第二百九十四章 水口の当番 水口の石を動かす当番は、これまで大葛と榧平の男が一人ずつ出た。 半鐘を聞き、二人で向きを変える。 ある朝、大葛の当番が病み、榧平の者だけが来た。 規則では一人で動かせない。 待てば苗代が乾く。 澪は直接訴願の印を持っていたが、城の返事まで一日かかる。 水は評定を待たない。 彼女は小野沢の紙漉き女二人を立会人に呼び、石を動かした。 大葛では約定違反だと声が上がった。 庄兵衛は当番の病を認め、事後の木札を確認した。 誰が、いつ、なぜ立ち会ったか。 水量はどれほどだったか。 違反なしとするのでなく、緊急処置として追認した。 次の寄合で、片方が欠けた場合は第三の村から二人を呼べると加えた。 女を除く文言は入れなかった。 古い約定は二者が互いを見張るためだった。 新しい条項は、二者が動けない時に別の目を借りるためだった。 石の向きは同じでも、動かした手の記録が変わった。 第二百九十五章 名のある畑 盆の朝、千世は雨宮向の畑を通った。 蕎麦の花が斜面を白くしていた。 弥平は畦を直している。 世話人を退いても、畑仕事は残る。 澪は油を運び、直吉は火皿の台を確かめる。 寺子の子どもが新しい村絵図を持って走った。 小さな字の枝郷榧平と、大きな内絵図。 どちらも本物だった。 谷下から油搾りの槌が聞こえた。 四年前、源左衛門の背に付いた菜種滓と、釜の杉煤が、あの小屋を殺害場所だと示した。 いま同じ槌は、盆の灯明油を搾っている。 音に罪は残らない。 残らないから、何もなかったことになるのでもない。 焦げた柱、二人で検める受取札、油札の二つの小印が、仕事の中へ出来事を置いている。 畦の向こうでは、雨樽を測る子どもが木尺を逆さに差し、玄道に笑われていた。 測り直した数字を、最初の数字の横へ書く。 紙を破る者はいなかった。 千世は自分の二十三歳の筆を思った。 あの時の字も、破らずに残っている。 恥として見せるためだけではない。 誰かを守るという言葉が、本人へ聞かずに使われた時、どれほど整った筆でも人の場所を奪えると示すためだった。 三十一で始めた検めの間に、千世は三十五になっていた。 自分の年齢はどの帳にも大きく書かれない。 人別帳の寺抱え女の欄と、雇状の文庫記録方手伝の横に、小さく改められているだけだ。 その小さな字で十分だとは思わない。 不足したまま、仕事を続けられることは知った。 千世は畑の端で、土のついた標杭を読んだ。 字名、雨宮向。 名請人、雨宮弥平。 高、七斗二升。 隣接、東は水路、西は共有畦。 たった一筆の記述だった。 村を救うほど大きくなく、人を消すには十分な字でもある。 千世は帳面を閉じ、白い花の間を歩いた。 日暮れになれば、家ごとに火が点く。 今年も同じ数になるとは限らない。 生まれた子がいて、亡くなった母がいる。 移る家があるかもしれない。 数える前に、何を数えるのかを決める。 決める前に、誰の選択を数へ入れ、誰の声を外へ置いたかを確かめる。 それが千世の仕事だった。 鐘が一つ、谷へ下りた。 千世はまだ筆を取らなかった。 火が点き、人がそれぞれの場所で見届けるまで、頁は白いままにしておいた。
小説 · text · 2026-09-06