第一章 五時五十分に目が覚める。目覚ましは六時十分に合わせてあるが、たいてい鳴る前に止めてしまう。 流しに母の湯呑みが浸かっている。底に茶葉が沈んで、水が薄く濁っている。玄関の三和土でサンダルが片方裏返しになっているのを直してから、冷蔵庫のいちばん下の段に入れた食パンを出す。マーガリンは先週の木曜に切れて、それから二度買い忘れている。焼かずにそのまま食べる。テーブルには市営住宅の収入申告の用紙が広げたまま置いてあって、母が明け方に帰ってきて、鞄から出して、そこで寝てしまったらしい。提出は五月三十一日まで。給与支払報告書の写しがいるから、総務に頼む前に梅木さんに一言いる。そういう順番が決まっていることは二年目のときに教わった。用紙の世帯主の欄には母の名前が入っていて、その下の同居者の欄が空いたままになっている。 自転車の前輪は空気が抜けかけている。 県道に出て信号を五つ渡ると、右手に工場の壁が見えてくる。もとは白かったはずの壁が、下から一メートルほどのところまで排水の跡で灰色になっている。駐輪場に屋根はない。七時三十八分にカードを読ませる。始業は八時で、着替えと入室の手順に二十分かかるから、七時四十分より遅く来る人はまずいない。 更衣室のロッカーは四十四ある。私のは下の段の二十九番で、扉の内側に去年の衛生講習の受講票が貼ってあり、角がめくれて曲がっている。上下の白衣に着替える。白衣は年に二回まとめて替わって、支給されるのはМで、袖が指の付け根まで来る。ヘアネットは二枚かぶる。内側で髪を全部押し込んで、外側でその上から押さえる。前髪が一本でも出ていたら外側の縁で挟む。マスクをつけて、その上から帽子をかぶる。横に長い鏡は一枚しかなくて、二人が並ぶと肩が触れる。 粘着ローラーは入口の壁に六本掛かっている。 肩から胸、腹、腿、裾の順にかけていく。前は自分でできるが、背中と尻は見えないので隣にいる人に頼む。 「安西さん、背中お願いします」 「はい。ちょっとそっち向いて」 「まだ付いてます?」 「肩んとこ。江口ちゃん、昨日もここ付いてたよ」 テープが白い毛でいっぱいになったら一枚めくる。たいてい二枚で足りる。母の店の匂いがついた服を着てきた日は三枚めくることもあって、そういう日は肩のあたりを念入りにやる。かけ終わってからもう一度、袖口だけをかける。袖口はみんなが忘れる。エアシャワーは二人ずつ入って、扉が閉まると上と横から風が出て、十五秒でブザーが鳴る。風の音は掃除機に近い。中で喋る人もいるが、何も聞こえない。 手袋は青い。入ったばかりの戸倉さんに聞かれたことがある。 「これ何で青なんですか。白のほうが清潔っぽくないですか」 「食べ物に落ちたとき、青は見えるから」 「あー。じゃあ髪も青くすればいいのに」 第3ラインはきんぴらごぼうとひじき煮とポテトサラダを作っている。午前中はきんぴらのことが多い。充填機がトレーにごぼうを落とし、シーラーがフィルムを熱でつけて、そこから検品台まで一メートル四十センチある。私の立ち位置は右から二番目で、二年前からずっと同じところに立っている。左に安西さん、右に戸倉さん。 一枚が目の前を通り過ぎるのに〇・八秒かかる。 一枚ずつ見ているわけではない。見ようとすると間に合わない。流れているものの中でそこだけ速さの違うものがあって、手のほうが先に出ている。フィルムの端が浮いているもの、ごぼうがシールの縁を噛んでいるもの、印字がかすれて日付の6が5に見えるもの、詰め方が片側に寄ってトレーの底の白が見えているもの。取り上げて横のバットに置く。置いてから、いま何を見たのかを思い出す。順番はいつも逆で、思い出せない日もある。一日でおよそ二万六千枚が流れていく。数える人はいないので、数えているのは機械のカウンターだけになる。 検品台の先に金属検知機があって、その先にX線の機械がある。私たちが見たあとで機械がもう一度見ることになっていて、順番が逆でないのは、機械のほうが疲れないからだと思っている。 一時間ごとに、ラインの端の人から順に十分ずつ抜ける。抜けた分は隣が広く見る。十分のうち三分は歩いて往復するのに使うから、腰を下ろしていられるのは五分くらいになる。トイレは班長に言ってから行くことになっていて、言わずに行くと戻ったときに聞かれる。梅木さんは怒鳴らない。誰がいつ何分抜けたかを、事務所の机の上のノートに鉛筆で書いている。書いているのを一度見てから、自分でも時計を見るようになった。五月でも室内は二十三度あって、蒸気の出るところが近くに二つあるせいで湿度のほうが高い。冷房は動いている。効いているかどうかは別の話で、二時間立っていると白衣の背中が肌に貼りつく。足の裏は昼前から重くなる。 休憩室には自販機が二台と長机が三つある。缶のコーヒーが百二十円で、ペットボトルのお茶は百四十円する。安西さんは水筒を持ってきているので自販機を使わない。今日は長机の端に座って、蓋を開けたまま飲まずにいる。 「昨日の夜、うるさかったでしょ、雷」 「聞いてない」 「うちの人が起きちゃってさ。四時に出るのに」 戸倉さんが自販機の前で小銭を数えている。三十円足りない、と言って、結局買わずに戻ってくる。 「江口さん、あれ何で分かるんですか。今日の、シールのちょっとズレてたやつ」 「ズレてたから」 「いや、そうなんですけど。私、真横で見てたのに全然でした」 「見なくていい。流れてるほうが変だから」 「変、ですか」 「速さが」 「うーん」 戸倉さんは分からない顔のまま、駐輪場の三番の猫の話を始める。 「白と茶で、耳が片っぽ欠けてるやつ。去年の秋からいますよね。名前つけたいんですけど、つけると情湧くじゃないですか」 安西さんが水筒の蓋を閉める。 「あたし、来月から」 「え?」 「ううん。いい」 水筒を持って出ていく。梅木さんが入口のところまで来る。 「午後はひじき先な。ポテトは三時から」 理由は言わない。理由を聞く人もいない。 去年一年で四十七件見つけている。 内訳は毛髪が三十一件、ビニール片が九件、虫が四件、金属らしきものが三件で、金属らしきものは三件とも、あとで機械の塗装の欠けだと分かった。班の平均は十二件で、三月の全体朝礼のときに人事の人が名前と件数を読み上げた。壇上には上がらない。拍手が三秒くらい鳴って、そのまま次の議題に移った。朝礼のあと、通りすがりに梅木さんが足を止めた。 「江口。助かってる」 その日はほかに何もなかった。四月の給与明細を封筒から出すと、手取りは十六万二千円で、三月と同じだった。二月とも同じだった。契約社員になって三年目になる。四十七件が十二件でも、二件でも、たぶん十六万二千円のままだと思う。そのことは誰にも言っていない。言うと、何かを要求している人になる。工場には正社員が二十八人いて、パートと契約が百四十一人いる。百四十一人のほうにいる人間が要求している人になると、話が長くなる。 午後はひじきになり、三時からポテトサラダに変わる。 ポテトサラダは重い。トレーが白いので、緑のきゅうりと橙色のにんじんがよく見える。よく見えるということは、混ざったときにも見えるということで、ポテトサラダの日は見つける数が増える。増えるのは私の目のせいではなくて、じゃがいもの色のせいだと思っている。四月に一度、にんじんの間に細い透明なものがあって、取り上げてバットに置いて、五味さんを呼んだ。バットにはロット番号と時刻を書いた札を一緒に置くことになっていて、書くのは見つけた本人で、鉛筆は検品台の脚のところに紐でぶら下がっている。 「札は」 「書きました」 五味さんはそれを照明にかざして、二秒くらい見た。手袋の切れ端でも、フィルムの切れ端でもなかった。玉ねぎの薄皮だった。 「原料由来なので、異物ではないです」 「はい」 「でも、呼んでもらって構いません」 淡々とした人で、そのときも声の高さが変わらなかった。呼んでよかったのか、呼ばなくてよかったのかは、今も分からない。 定時は五時で、今日は五時二十分に上がる。 白衣を脱いで、ヘアネットを二枚とも外して、ロッカーの扉を開けたまま髪をゴムで縛り直す。更衣室の外に出ると外がまだ明るくて、五月はそれで少し得をした気持ちになる。自転車の前輪はやっぱり抜けている。県道沿いのスーパーに寄って、卵とマーガリンを買う。惣菜の棚の下から二段目に、うちで作ったポテトサラダが並んでいる。値札は百九十八円で、奥のほうに三割引のシールが貼られたものが二つ残っている。手に取って裏を見ると、製造所固有記号が印字されていて、それは第二工場のものだ。日付は一昨日になっている。私が見た日かもしれないし、私が抜けている十分の間に流れた分かもしれない。どちらであるかは書いていない。書く仕組みがそもそもない。棚に戻して、卵とマーガリンだけを持ってレジに並ぶ。前の人が支払いに時間をかけていて、財布から小銭を出して、また戻して、札を出す。待っている間に、いま裏を見たトレーのフィルムの端が少しだけ波打っていたのを思い出す。あれは規格の中に入っている。入っているものは弾かないことになっていて、二年やっていると、規格の内と外の線が指の先のほうに移ってくる。 家に着くと母が鏡の前で化粧をしている。 「ごはん炊いてある」 「うん」 「あんた、保険証どこやった。この前の」 「引き出しの二段目」 「探したけどなかったわよ」 行って開けると、いちばん上にある。母が後ろから覗く。 「あった」 そのまま鏡の前に戻って、眉を描き足しながら喋る。 「新しい子、二週間で来なくなっちゃって。挨拶もなしよ。ママは夏までに看板作り替えるって言ってるし」 「腰は」 「三月からずっとよ」 「病院」 「だから休み火曜しかないでしょ」 その火曜はたいてい昼まで寝ている。話が終わらないうちに時計を見て、七時十分に出ていく。玄関のドアが閉まる音がして、それから外階段を降りる足音が三十段分聞こえる。数えたわけではないが、いつも同じくらいの長さで消える。 炊飯器を開けると米が黄色くなりかけている。 卵を二つ割ってごはんにかけて、醤油を回して食べる。テーブルの上の収入申告の用紙はまだそのままで、母の字で名前のところだけが書いてある。明日、梅木さんに紙を頼む。頼むのを忘れると来週になる。食器を流しに置いて、母の湯呑みも一緒に洗う。 スマホを開いてゲームを起動する。パズルを一面ずつ進めていくやつで、去年の十月から続けている。今は千二百四十七面まで来ている。同じ色のブロックを三つ揃えると消える。四つ揃えると横一列が消える。消えるところは見なくても分かる。二十分やって、スタミナが切れる。回復は三時間後で、時計は九時四十分になっている。 第二章 昼の休憩は四十五分ある。そのうちの七分ほどは手を洗って白衣を脱ぐことに消えて、戻るときにも同じ手順をもう一度やるから、椅子に座っていられるのは正味二十九分になる。それでも一時間ごとの十分の交代よりはましだと思う。あっちは往復だけで終わる。しかも交代のあいだラインは止まらないから、抜けている一人分を隣の人が引き受けて、二人分の幅を見ることになる。戻るのが一分遅れれば、隣の人が一分だけ余計に二人分を見る。それを誰も口に出さないというだけで、遅れたかどうかは全員が分かっている。 ラインが止まると耳がおかしくなる。ベルトの音が抜けた分だけ、蛍光灯の細い音と、壁の向こうの第2ラインのシール機が閉じる音が急に近くなって、しばらく耳の中に残る。青い手袋を外して脱衣室に出て、肘まで洗う。爪ブラシは三十秒と決まっていて、脱衣室の壁にその三十秒の砂時計が下げてある。ひっくり返して最後まで待つ人は、第3ラインの十九人のうち四人だと思う。わたしは待つ。目がいいと言われるけれど、自分の爪の内側だけは見えない。 白衣は裏返さずに脱いで、ロッカーの三十一番に掛ける。ヘアネットを二枚とも取ると、髪に細い線が二本残っている。マスクの跡は頬の途中で止まっていて、消えるまでに十七、八分かかるから、休憩が終わる頃にようやく顔が元に戻る。 みのりさんはいつも二番目に出てくる。 一番はたいてい沙也香ちゃんで、休憩室の奥の、テレビの見える席を取っている。テレビは音を消してある。誰が消したのかは知らないけれど、わたしがここに来てから五年、音が出ているのを一度も見ていない。昼のニュースの字幕だけが下に流れていて、誰も見ていない。長机が三つとパイプ椅子が二十四脚あって、みんなだいたい同じ席に座る。決めたわけではないのに動かない。壁には異物混入の継続日数を手で書き換えるボードが下がっていて、今日のところは百十八になっている。数字を書き換えるのは梅木さんで、書き換えるときにマーカーのキャップを口にくわえる。前の数字を消してから新しいのを書くまでのあいだ、そこは白いままになる。百十八を逆に数えると一月の終わりに行き着く。そのときに何が出たのかは覚えているけれど、あの日ボードをゼロに戻したのが誰だったのかは思い出せない。 自販機は二台あって、左は去年の秋から動いていない。調整中と書いた紙がセロテープで留めてあって、紙よりテープのほうが先に茶色くなっている。右の機械の前で、みのりさんが財布から百円玉を一枚と、十円玉を三枚出す。炭酸水は百三十円で、前に飲んでいた微糖の缶コーヒーは百二十円だから、毎日十円分だけ高いものを買っていることになる。ひと月に二十二日出るから、二百二十円になる。わたしは人の買うものの値段をだいたい覚えている。 「それ、おいしいですか」 「べつに」 「じゃあなんで」 「口の中が」 みのりさんはそこで話をやめて、蓋を閉めて、机の縁に置く。開けたばかりの炭酸のペットボトルは、置いたあとも中で細かい泡がまっすぐ上がっていく。それを見ている。 わたしはコンビニのおにぎりを二個と、家から持ってきたお茶を出す。おにぎりは百二十九円のと百四十円ので、合わせて二百六十九円になる。母は夜に仕事があるから朝は寝ていて、弁当を作ってもらうという発想がそもそもうちにない。手取りは十六万二千円で、そこから市営住宅の家賃に一万九千二百円入れて、電気とガスと水道でだいたい一万三千円台になる。スマホの本体の分割があと十一回残っている。残りをどう使っているのかを人に聞かれると説明できない。使っていないつもりでいるのに、二十五日を過ぎると口座の数字が四桁になっている月がある。 みのりさんは弁当箱を持ってきているのに、蓋を開けない日がある。先週は火曜と水曜と金曜に開けなかった。開けないまま鞄に戻して、そのあと自販機のところへ行った。今日は開いている。白いご飯があって、その上に何も載っていない。梅干しもない。端のほうに、汁気のないゆで卵が半分だけ入っている。塩は振っていないように見える。 窓は開かない。 換気の口が天井にあるだけで、休憩室にはきんぴらの匂いがずっと溜まっている。ごま油と醤油の焦げたのが服の繊維に入るから、家に帰って脱ぐときにも同じ匂いがする。洗っても二回目までは残る。みのりさんが立って、窓のところまで行って、ガラスに近い位置で少し息をする。片手を窓枠の下の縁に置いて、そこから動かさない。追いかけて見に行くようなことはしない。 「暑いんですか」 「うん」 戻ってきて、ご飯を三口だけ食べて、蓋を閉める。 沙也香ちゃんが弁当箱を両手で下から持って移動してきて、みのりさんの正面に座る。二十歳で、四月に入ったばかりだ。わたしのことは江口さんと呼ぶ。みのりさんのことは安西さんと呼ぶ。梅木さんのことも梅木さんと呼ぶから、たぶん区別がついていない。 「江口さん、去年四十七件だったって本当ですか」 「うん」 「梅木さんが言ってました。班の平均が十二だって」 数字は事務所の廊下に貼ってある。名前と件数が縦に並んでいて、去年の分がまだそのままになっていて、上から二番目の人とわたしのあいだには倍以上の開きがある。 「それ、見つけると何か増えるんですか」 「増えない」 「えっ、なんもないんですか」 「うん」 基本給の欄も、賞与の欄も、去年の紙と同じ位置に同じ数字が印字されている。変わったことがあるとすれば、梅木さんがわたしの立ち位置を二年半動かしていない、というくらいのことになる。 「契約って、何月に決まるんですか」 「入った月の前」 「じゃあわたし三月ですか」 「二月の終わりに紙が来る」 「紙」 「意向確認書っていうやつ。丸をつけて出す」 みのりさんは箸を持ったまま説明をして、説明が終わるとまた箸を置く。 「丸つけて出したら、それで通るんですよね」 みのりさんは炭酸水を持ち上げて、口をつけずにまた置く。沙也香ちゃんがわたしのほうを見る。 「江口さんのときも、それで通りましたか」 「通った」 面談は事務所の二階でやる。階段の途中に段ボールが積んであって、二人並ぶと通れない。上の部屋には長机が一つとパイプ椅子が三つあって、梅木さんと、総務の人と、呼ばれた人が座る。中で何を言われるのかは、出てきた人が言わないから知らない。七分で出てくる人がいて、二十二分かかった人がいる。長いのと短いのとどちらがいいのか、五年いてもまだ見当がつかない。 一昨年の三月に、ポテトサラダの計量のところに立っていた人がいなくなった。四十を二つ三つ過ぎたくらいで、髪をいつも耳にかけていて、休憩室では携帯を見ないでずっと壁のほうを見ていた人だった。二月の面談のあとから休みが増えて、三月の途中から来なくなって、四月には別の人が同じ場所に立っていた。その前の年にもいる。ひじきの充填のところで、左手の薬指にいつも青いテープを巻いていた人で、名前が出てこない。顔は出てくる。二人とも、いなくなったことについて誰かが何かを言ったのを聞いていない。ロッカーの名札のテープが剥がされて、次の人の名前が上から貼られる。前の糊が残るから、しばらくは名前が二重に見える。二人が同じ理由でいなくなったのかどうかも、わたしは知らない。並べて数えているのは、たぶんわたしだけだと思う。 「五年やると、会社が断れなくなるって聞いたことある」 みのりさんが言う。箸の先で卵の白いところをつついている。 「えっ、正社員になれるんですか」 「そうじゃない。断れなくなるだけ」 「なんですかそれ」 「知らない。誰かが言ってただけ」 みのりさんは来年の四月で五年になる。わたしは契約になってから三年目で、その前にパートで二年いたから、通算だと同じくらいになるはずなのに、たぶん数え方が違う。会社の紙にどう書いてあるのかを、わたしは一度も自分で確かめていない。 みのりさんの旦那さんは運送会社にいて、夜に出て朝に帰ってくる。帰ってきてすぐ寝るから、洗濯機は昼にしか回せない。その昼にみのりさんはここにいる。 「じゃあ洗濯、いつやるんですか」 「夜」 「干すのは」 「部屋の中。冬は乾かないうちに次のが溜まる」 「乾燥機、買っちゃえばいいのに」 「調べた」 「いくらでした」 「六万八千円のがあった」 「高っ」 みのりさんは弁当の蓋を持ち上げて、また戻す。買ったのかどうかは、そのあと聞いていない。 「江口さん、原付の試験、来週なんですよ」 沙也香ちゃんが急にそう言って、卵焼きを箸で半分に割る。 「受かったら、雨の日も来れるんで」 「濡れるよ」 「合羽買います。もう見てて、上下で四千八百円のやつ」 「原付、置くとこ裏だよ」 「裏でいいです」 みのりさんが少し笑う。笑ったあとで、ペットボトルの蓋を開けて、今度は飲む。飲むときに喉が動くのを見てから、わたしはおにぎりの海苔をはがして食べる。海苔が湿っていて、指に貼りつく。 十二時三十四分に、休憩室の時計を見た人から順に立ち上がる。誰も声をかけない。 脱衣室でヘアネットを二枚かぶり直して、髪を全部押し込む。前髪は特にしつこくやる。白衣を着て、袖口のゴムを手首まで下ろして、粘着ローラーを取る。上から順にかける。肩、胸、腹、それから背中を自分で回して届くところまでやって、届かないところを近くにいる人にやってもらう。今日は沙也香ちゃんの背中をわたしがかけて、わたしの背中を沙也香ちゃんがかける。ローラーの紙は毛が付くと灰色になる。一枚めくって捨てる。 エアシャワーの手前に鏡があって、その前で二人一組になり、相手のヘアネットから毛が出ていないかを見る。見る側は相手の後頭部を上から下まで追って、いいですと言う。言われたほうは振り返らずに前へ進む。エアシャワーは三人ずつ入る。ドアが閉まって、上と横から風が来る十五秒のあいだ、話しても声が通らないから誰も話さない。白衣の裾が持ち上がって、脛に当たる。風が止まると、向こう側のドアが開く。 第3ラインに戻ると、ベルトはまだ止まっている。梅木さんが操作盤の前で紙を見ている。午後の予定の数字が入った紙で、きんぴらが何ケース、ひじきが何ケースと書いてある。わたしは自分の立ち位置に入って、手袋をはめ直して、指を一本ずつ引っぱって根元まで入れる。 「安西は」 梅木さんがこっちを見ないで聞く。 「トイレだと思います」 「言ってったか」 「聞いてないです」 「言ってから行けって、いつも言ってんだけどな」 梅木さんは腕時計を見て、それから紙をポケットに入れて、操作盤のスイッチに手を置く。ベルトが動き出す。空のトレーが左から来て、充填の機械の下を通って、シールを貼られて、わたしの前を〇・八秒で通っていく。 第三章 六月に入って、ひじき煮の日が増えている。きんぴらのほうは切ったごぼうの断面が斜めに光るので、黒いものが乗っていればそれだけが浮いて見える。ひじきは違う。全部が黒くて、全部が細くて、湯気で少し濡れている。見るのは異物だけではなくて、盛りが規定より軽そうなトレー、シールの端が右に寄っているもの、フィルムの肩に入っている日付の印字がかすれているもの、そのどれもが同じ〇・八秒のあいだに一緒に来る。トレーが目の前を通っていく時間は〇・八秒で、そのあいだに見る場所を四つに決めてある。左上の角、シールの掛かる縁、盛りのいちばん高いところ、右下。順に追うのではなく、焦点をトレーの手前の空気のあたりに置いて、そこへ入ってくるものを待つ。合わせにいくと遅れる。合わせずにいると、違うものだけが勝手に立ち上がってくる。二年目の途中からそうなって、それからは、前の晩に寝ていなくても落ちない。右隣が沙也香で、ベルトを挟んだ向かいにみのりが立っている。充填機はここからは見えなくて、シーラーの蒸気の向こうに金属検知機があって、その先で箱詰めをしている人たちの背中だけが動いている。室温は二十六度と壁の貼り紙に出ているが、湯気の立っているものを流しているので、実際には手の甲がずっと湿っている。 手袋は青い。食品に落ちたときに見つけやすい色だと、入った年の講習で教わっている。 「江口さん、昨日のやつ見ました?」 沙也香が言う。ヘアネットとマスクのあいだに出ている目だけがこっちを向いて、手のほうはちゃんと動いている。三か月でそこまでできるようになる人と、半年経ってもならない人がいる。 「見てない」 「録っといたほうがいいですよ、絶対」 返事をしないでいると、そのまま携帯の話に移る。 「江口さん、どこの使ってます? わたし二年縛りがまだ残ってて、機種代も一万八千円あるんですよ。ありえなくないですか」 ベルトの音とシーラーの音が混ざって、語尾のほうが来ない。 「え?」 「だから、機種代。あと一万八千円」 「盛り、軽いのが続いてる」 「あ、はい」 はいと言ってから、また二年縛りの続きに戻る。喋りながら、シールが右に寄っているのを二枚続けて通す。二枚とも取ってこっちのコンテナに落とす。落としたことには気づいていない。三か月前は、こっちが取ったことにいちいち気づいて謝っていた。謝らなくなったのが仕事に慣れたということなのか、こっちの手元が見えなくなったということなのかは、聞いていないので分からない。 十時二十六分。 ひじき煮の、何枚目か分からないトレーの、盛りの左の裾に細い線が乗っている。ひじきの上ではない。脇にこぼれている人参の、橙の上に乗っている。橙の上だから見える。線は途中で一度折れて、毛先が少し持ち上がっている。手はもう伸びていて、指がトレーの縁を押さえて流れから外している。外してから、支柱の赤いボタンを押している。トレーはまだ温かくて、指の腹に、フィルム越しの熱と、その下のひじきの重みが伝わってくる。ごま油の匂いがマスクの中に入ってくるのは、いつも顔を近づけたあとになる。順番が逆だと、あとで五味に言われる。 ブザーが鳴る。支柱の上の回転灯が回りだす。ベルトが止まるのは押してから一秒くらいあとで、そのあいだにトレーは三枚か四枚、下流へ行ってしまう。シーラーの蒸気が抜ける音がして、そのあとに機械の音の低いところだけが残る。コンプレッサーは止まらない。上流の充填機のところにいる人が首を伸ばしてこっちを見て、それから機械の横のパネルに手を置いたまま、動かないでいる。ラインの端から端まで、手が全部止まる。箱詰めの年配の人がコンテナを裏返して腰を下ろす。向かいでみのりが、押さえていたトレーを置いて、口のところに手の甲を当てる。当ててから、ベルトの手すりに指を掛ける。掛けたまま、下を向いている。 事務所の窓が開く。梅木がこっちを見て、窓を閉めてから出てくるので、出てくるまでに十秒ある。 「どこ」 「ここです。人参の上」 腰を曲げてトレーに顔を近づけて、すぐ離す。老眼鏡は白衣の胸ポケットに刺さっているが、掛けない。掛けないまま、二歩下がってラインの上流のほうを見る。 「触ってないな」 「触ってません」 「品管」 梅木が言って、沙也香が内線のところへ行く。走るなと言われているので、途中から早歩きになる。受話器を肩で挟む。 「第3ラインです。検品で毛が一本。はい。お願いします」 五味は三分で来る。クリップボードと、ジッパーの付いた小さい袋と、ピンセットと、透明な定規を持っている。挨拶をしない人で、来るとすぐトレーの前に膝を折る。 「何時何分」 「二十六分です」 「何枚目か分かりますか」 「分かりません。ロットは0610-3Aです」 定規を毛の横に置いて、五・二センチと書く。ピンセットでつまんで、袋に入れて、袋の白い枠にボールペンを走らせる。出ない。三回振って、それでも出ないので、胸から同じ色の別のを出す。二本刺さっている。膝を折ったまま袋の口を二回押さえて空気を抜いて、日付と時刻とロットを枠の順番どおりに埋めていく。書いている途中で腕時計を見る。 「梅木さん、来週の分、まだ上がってきてない」 「明日出す」 「金曜まででいい」 こっちにではなく梅木のほうへ言って、手元に戻る。 前の定期点検が九時四十分だから、そこからの分を全部保留にする。四十六分は二千七百六十秒で、〇・八で割ると三千四百五十枚になる。頭の中で数字が出てから、口に出すかどうかを迷って、出さない。一日に二万六千枚のうちの三千四百五十枚を、これから人が手で運ぶ。箱詰めまで行った分はパレットに積んであって、五味が赤い保留の札を紐で結ぶ。結び目を二回作る。まだシールを掛けていない分はコンテナに戻して、台車で保留の棚まで押していく。台車の車輪が一つだけ横を向いていて、まっすぐ進まない。押している人は途中で持ち手を持ち替えて、体ごと斜めに向けて押す。保留の棚は箱詰めの奥の壁ぎわにあって、先月の分がまだ二段のこっているので、上の段まで持ち上げないと入らない。冷房は入っているが効かないので、白衣の中が背中から濡れてくる。マスクの内側も濡れる。誰も喋らない。喋らないでいると、換気扇の音が急に大きく聞こえる。 「これ、金属検知で分かんないんですか」 沙也香が言う。 「毛は金属じゃない」 五味が書きながら言う。それだけで、あとは何も足さない。金属検知機は金属を見つける機械で、そのために置いてある。掛からないものは、ここで止めるしかない。 五味がラインの端から順に、一人ずつネットの縁を見ていく。首の後ろと、耳の上と、こめかみ。二重にしていない人はいない。五味は誰の顔も見ないで、縁のところだけを見て、次の人へ体をずらしていく。列の後ろのほうの人たちは、順番が来る前から自分でこめかみを押さえ直している。沙也香のところで少しだけ長く止まる。沙也香の髪は明るい茶色で、袋の中の毛は根元が黒くて毛先のほうだけ色が抜けている。同じにも見えるし、違うようにも見える。 「わたしのですか」 「誰のとも言ってない」 「言ってないだろ」 梅木が横から言う。沙也香が黙る。黙ってから、ヘアネットの縁を両手で引っぱって、耳の上を押さえ直す。押さえ直したところは、もともと一本も出ていない。 報告書は複写になっていて、上の一枚が品管に行き、下が班に残る。発見者のらんに自分の名前を書く。江口千夏。工程のらんに検品と書く。時刻は五味が書く。用紙の右下にトレーの略図の枠があって、そこに位置を×で入れろと言われる。丸を書いてから、盛りの左の裾のところに×を置く。置いてから、少し左にずらして書き直す。 「上から見つけたのか、横からか」 「上からです」 そのままの言葉では書かないで、目視位置、上方、と直して書く。原因のらんはしばらく空のままで、二十分くらいしてから、特定できず、と入る。再発防止のらんには、ヘアネット着用状況の再徹底、と書かれる。字が小さくて、枠の左に寄っている。同じ文を去年の秋の報告書でも見ている。あのときは髪ではなくて青いビニールの切れ端で、書いたのは五味ではなかった気がするが、文はたぶん同じだった。 ラインが動きだすのは十一時二分で、止まっていたのは三十六分になる。 保留の三千四百五十枚は捨てない。抜き取りで、一箱から三枚ずつ開けて見る。開けた分だけが廃棄になる。ボードは縦に線が引いてあって、左から日付、出来高、停止、廃棄の順に並んでいて、いちばん右の空いている列には何も書かない日が続いている。梅木がホワイトボードの前で電卓を打って、日付の下の数字を消して書く。書いてから、また消して、書く。二回目のほうが小さい。マーカーのキャップを閉めて、ボードの端の古い汚れを親指でこする。取れない。こすった指を白衣の腿でぬぐって、そのまま立っている。額のところが濡れていて、ヘアネットの縁に沿って線になっている。 「よく見つけたな」 ボードを見たまま言う。 「はい」 「次からさ、押す前に一回、俺呼べるか」 「はい」 「止めるなとは言ってない」 「はい」 三回同じ返事をして、四回目を言う前に梅木が事務所へ戻る。戻り際にみのりのところで一度止まる。 「安西、顔色わるいな」 「平気です。すみません」 「昼、先に上がっていいから」 「平気です」 みのりが首を横に振る。二人ともこっちを見ない。みのりはそのあとで梅木を呼び止めて、手を挙げて、トイレのほうへ歩いていく。戻ってくるまでに八分かかる。戻ってきたときには、マスクを新しいのに替えている。持ち場に入るときにこっちを見ないで、ベルトの手すりの高さを一度直してから、いつもより半歩うしろに立つ。 十一時二分から、またひじきが来る。止まっていたあいだに体の中で数えるのをやめてしまっているので、最初の何枚かは、見ているのに何も入ってこない。トレーの手前に焦点が戻るまでに、たぶん二十枚くらい流している。手はちゃんと動いていてシールのズレは拾えるのに、盛りの上に何が乗っているかだけが入ってこない時間があって、それが何分続いたのかは自分では計れない。交代の十分は飛んで、次は十二時になる。トイレに行きたかったのは十時前で、今はもうそうでもない。 「江口さん、よく見つかりますね」 沙也香が言う。ネットの縁をまだ触っている。 「たまたま」 「わたし、たぶん見えてないです。見えてても、言えないと思う」 「言えばいいよ」 言ってから、ひじきの列に目を戻す。面接みたいな席で、去年は四十七件だと梅木に言われたことがある。 「ほかは十二くらいだ。江口は目がいい」 言われても手取りは十六万二千円のままで、そのことは言われたその日のうちに分かっている。その席で来年度の更新の話が出なかったことについては、そのときも聞かなかったし、今も聞いていない。分かっていても、橙の上に線が乗っていれば手が伸びる。伸びるほうが先で、考えるのはいつもそのあとになる。 報告書の下の一枚が、班のファイルの、六月の三枚目に綴じられる。 第四章 六月十三日の朝、起きると母はまだ帰っていなくて、流しにコップが一つも伏せていない。玄関にあるのは私のサンダルと、去年の夏に母が買ってきて一度もはいていない白いサンダルで、白いほうは埃をかぶったまま端に寄せてある。麦茶をコップに注いで、立ったまま飲む。自転車で二十分、工場の駐輪場に着くころには、背中のTシャツが下着の線のかたちに湿っている。 更衣室で私服を全部脱ぐ。下着の上に作業ズボンをはいて、白衣を着る。白衣にポケットはない。ヘアネットを一枚かぶって耳をしまい、その上からもう一枚かぶる。マスクの針金を鼻の形に合わせて、頬のところを指で押さえる。粘着ローラーは三本あるうちの一本だけ紙の減りが早くて、朝いちばんに来た人がそれを使うことになっている。私は二番目に来ることが多い。肩から始めて、腕、脇、腰、太もも、足首の順に転がしていき、自分の背中だけは前に立った人にかけてもらう。沙也香の背中にはいつも猫の毛が付いている。 「それ、たぶんウチのミケっす。すいません、朝ちゃんと転がしたんですけど」 「取れてる」 「あの子だけ爪を切らせないんですよ。もう一匹はさせるのに。三月に拾ったときは二匹とも同じ大きさだったんですよ、なんでですかね」 四月から同じ話を聞いている。ローラーの紙を剥がすと、剥がした面に何が付いていたかが全部見える。手を洗って、アルコールを噴いて、青い手袋をはめる。手洗いの記録表に判子を押す。判子は自分のを持ってきている。 第3ラインは今日、ポテトサラダから始まる。 充填機がトレーに山を落として、シーラーがフィルムを引いて、そこから先が私たちの持ち場になる。一トレー〇・八秒。一日でおよそ二万六千枚が目の前を通っていく。全部を見ようとすると何も見えないので、私は白の面積だけを見ている。ポテトサラダは白いから、黒いものと赤いものはよく浮く。難しいのはひじき煮のほうで、黒の中に黒い毛が乗ってしまうと、光の当たる角度を変えるしかない。首を三センチ動かす。それだけで、さっきまで無かったものが出てくることがある。 入って三ヶ月のころ、それを教えたのはみのりだった。 「目を凝らしても出てこないよ。凝らすんじゃなくて、首」 「首」 「そう。向こうは動かないんだから、こっちが動くしかないでしょ」 みのりは自分の首を横に倒してみせた。手のほうは勝手に動く。左手でトレーの縁を送り、右の親指でフィルムの端をなぞり、シールのズレが二ミリを超えていたら弾く。印字は日付と時刻とロット番号の三段で、どこか一段でも掠れていたら弾く。充填量は目方ではなく山の高さで分かる。二年もやっていれば分かる。目のほうは、二時間を過ぎると焦点が浅くなる。トレーの表面ではなくてフィルムの一枚手前あたりに勝手に合ってしまうので、そうなったら一度天井の蛍光灯を見て、それからまた手元に落とす。目薬は持ち込めない。 冷房は入っているけれど、蒸気の出る釜が同じ棟の一階にあるせいで、室温は二十六度から下がらない。下がらないうえに湿気ていて、ヘアネットの内側を汗が耳の後ろまで伝ってくる。それを拭くには手袋を替えるところからやり直しになるので、首を傾けて白衣の襟に吸わせる。一時間に十分の交代が入る。トイレは班長に言ってから行く決まりで、言うだけでいいのだが、言うということは、誰かに数えられるということでもある。 みのりは二つ先に立っている。 朝から顔が白い。マスクをしているので見えているのは目の下の一センチくらいなのだが、その一センチで分かることがある。九時の交代のあと、みのりは梅木さんのところへ行って何か言う。機械の音でこちらまでは届かない。梅木さんが顎で更衣室のほうを指して、それから私のほうを見る。 「江口、そっち二つ、見といてくれ」 「はい」 「すぐ戻るから。すぐだからな」 みのりの受け持ちの右半分に体を寄せる。手を伸ばす幅が広がるぶん、目より先に腰が痛くなる。梅木さんは時計を見ない。見ないようにしているのか、本当に見ていないのかは分からない。九時半すぎにもう一度、みのりは梅木さんのところへ行く。二回目のとき、梅木さんは書きかけの数字から顔を上げないで、顎だけを動かす。 十時の交代で休憩室に上がる。長机が三つあって、扇風機が一台、首を振らない設定のまま壁のほうを向いている。みのりは上がってこない。上がってこない日は前にもあるし、上がってきても水を飲んで座らずに出ていく日もある。自販機の缶コーヒーは百二十円で、去年の秋までは百十円だった。沙也香が隣に座る。 「聞いてくださいよ。姉の結婚式、会費が二万ですよ。ご祝儀じゃなくて会費で二万。妹から取ります?」 「取る人は取ると思う」 「取りますかね、普通。あと髪、もうちょっと明るくしたいんですけど、どうせネットかぶるじゃないですか」 「見えないよ」 「見えないですよね。でも根元だけ暗いのって、自分だけずっと気になるんですよ。江口さんは染めないんですか」 「面倒くさい」 「あたし最初、この青い手袋が無理で」 沙也香は缶を三回振ってから開ける。振る意味はないと思うけれど、言わない。 母からLINEが来る。濃口、とだけ書いてある。 梅木さんが通路を通って、ラインの端の白板に午前の実績を書き込む。数字の隣が廃棄の欄になっている。廃棄はいつも一桁で、二桁になった日は昼までに理由を書いた紙が要る。紙を書くのは梅木さんで、書いているところを去年の冬に一度だけ見たことがある。鉛筆で下書きをしてから、その上をボールペンでなぞっていた。梅木さんは書き終えてから白板を少し下にずらす。掛けてある釘が曲がっていて、放っておくと片側が上がってくる。 昼前に五味さんが来て、金属検知機のテストピースを流す。鉄の二・〇ミリとステンレスの二・五ミリを、トレーの上と下と真ん中に置いて、三回ずつ。機械が鳴るたびに腕が出て、トレーが横に落ちる。五味さんは落ちたのを拾い上げ、バインダーに挟んだ紙に丸を書く。沙也香が寄っていく。 「これ、何でも鳴るんですか」 「金属だけ」 「じゃあ、髪とかビニールとかは」 「前で見る」 「前って、どこのことですか」 「あんたたちのとこ」 五味さんはバインダーを脇に挟んで、第4ラインのほうへ歩いていく。 三時前にラベルのロールが残り少なくなって、予備を取りに行く。 予備の棚はラインの終わりを回り込んだ突き当たりにあって、手前に段ボールが胸の高さまで積んである。充填機の音がここで壁に二度跳ね返るので、少し離れると人の声は届かない。段ボールの陰になって、しゃがんでいる人の背中は通路からは見えない。角を曲がると、みのりがしゃがんでいる。こちらに背を向けて、右の手袋を外して、外した手袋を左の脇に挟んでいる。白衣の裾を持ち上げ、作業ズボンのポケットから銀色のシートを出す。親指の腹で錠剤を押し出そうとして一度失敗し、シートを持ち替えて、今度は人差し指の爪で押す。押したときの音が、機械の音の合間に一つだけ乾いて聞こえる。錠剤を舌の上に乗せて、顎を上げて、水なしで飲む。喉が二回動く。それからシートを二つに折ってポケットに戻す。ふちに一度引っかかって、指の背で押し込む。手袋を右手に戻すとき、指の股のところがうまく入らなくて、手首の側から引っぱって直す。立ち上がる前に、壁のアルコールを一度だけ噴いて、両手をこすり合わせる。手袋の上から噴いている。 顔を上げる。マスクとヘアネットで、顔はほとんど残っていない。目はこちらを向いているけれど、焦点が私にあるのか、私の後ろの棚にあるのかは分からない。みのりは膝を伸ばして、白衣の裾を直して、私の横を通ってラインへ戻っていく。すれ違うとき、袖が私の腕に当たる。当たったことに気づいたのがどちらなのかも、分からない。 私はラベルの箱を棚から下ろす。 箱は思ったより重くて、抱え方が悪いと角が肋骨に当たる。途中で一度床に置いて、持ち替えてから戻る。自分の位置に立ってロールを差し替え、紙の端を引き出して、ローラーの下をくぐらせる。指の先が少し滑る。手袋を替えてもいいのだが、替えるには一度ラインを離れて、手を洗って、記録表にもう一度判子を押さなければならない。 白板の横に、異常があれば班長まで、と書いた紙が貼ってある。角が二箇所めくれていて、テープが黄色くなっている。 三時半から四時のあいだに、充填の少ないトレーを七枚弾く。フィルムの端がめくれているのを二枚。毛髪はない。弾いたトレーは足元のコンテナに入れる。コンテナが一杯になると、中身は手で形を直して詰め直され、また同じラインを流れてくる。捨てるのは中身が床に落ちたときだけで、床に落ちたものは廃棄の欄の数字になる。同じトレーを二度見ていることに、二度目の途中で気づく。二度目を見ているあいだにも次は来るので、そのあいだの三枚か四枚は誰も見ていない。誰も見ていないものは、次の工程で鳴らなければそのまま箱に入る。 みのりの背中は動いている。腕の振りが朝より小さい。 五時十五分にラインが止まって、清掃に入る。トレーの受け皿を外して洗い場に運び、コンベアのふちを白い布で拭く。拭くと布が薄い黄色になる。マヨネーズの油で、洗剤を二回替えないと落ちない。洗い場の湯は熱くて、手袋の指先が縮む。沙也香が受け皿を落として、床でひっくり返った音に第4ラインの人が振り向く。 「すいませーん。あー、びっくりした」 更衣室で、みのりが隣のロッカーを開ける。扉が薄いので、閉めると隣の扉まで一緒に鳴る。首の汗をタオルで拭いてから話す。 「更新の紙、もう配られた?」 「まだ」 「去年は六月の頭だったよね」 「たぶん」 「じゃあ今年もそのくらいか。……江口さんさ、去年の、あの」 みのりはタオルを畳んで、畳んだのをまた開く。 「ううん、いい。うちの、車検が来月で、それが十四万だって。タイヤは別で」 みのりはロッカーの内側の鏡を見ないで、髪をゴムでまとめる。夫が運送会社に勤めているのは前に聞いている。十四万が高いのか安いのか、私は車を持っていないので分からないし、聞かない。みのりは制服の入った袋を持って、私より先に出ていく。歩き方は普通で、階段も普通に降りていく。 帰りにスーパーに寄る。醤油の棚で濃口の一リットルを取ってかごに入れ、惣菜の冷ケースの前を通る。マルシンのポテトサラダが四つ並んでいる。うちの工場のものかどうかは、ロット番号の頭を見れば分かる。四つのうち二つは期限が明日で、二つは明後日になっていて、明後日のほうが奥に置いてある。手前から取っていく人のほうが多いのだから並べ方としては逆だと思うけれど、これは私の仕事ではない。私はフィルムの上から一つを持ち上げて、ラベルの位置を見る。三ミリずれている。親指で外から押しても直らない。元の場所に戻して、隣の三つと向きだけ揃える。 レジで、醤油と、母に頼まれていない菓子パンを一つ買う。小銭入れに十円玉が七枚たまる。自転車の鍵を出すのに、袋を一度アスファルトに置く。 第五章 六月十四日。更衣室の棚の上で粘着ローラーの替えの箱が空になっていて、誰も補充していない。芯に粘りの残っているところを探しながら、腕、胸、背中の順に転がしていく。白衣の袖の内側に糸くずが一本ついていて、これはローラーでは取れない。指でつまんで床に落とし、そのまま踏んで出る。 ヘアネットは二重にかぶる。一枚目を耳の後ろまで引き下ろし、二枚目を生え際に合わせて、こめかみのところを親指で押さえて留める。マスクの紐をかけると右の耳の上が痛む。去年の冬から同じ場所が痛くて、痛いままにしてある。 エアシャワーは三十秒。 両腕を上げ、体を半分回し、また正面に戻す。天井の吹き出し口から風が落ちてきて、白衣の背中が膨らんでから萎む。三十秒は思っているより長い。ブザーが鳴って前の扉が開き、ラインの音が入ってくる。 今日の第3ラインはひじき煮を流している。先週はきんぴらが四日続いて、ごぼうの匂いが白衣に残った。ひじきは匂いが弱いかわりに黒がよく目立つ。人参の細切りが上に乗り、大豆が三粒か四粒、散らばって落ちる。充填機がトレーに落とし、フィルムをかぶせて熱で押さえ、そこから検品に来る。検品の先に金属検知とX線があって、そのあとが箱詰めになる。わたしはシールの出口の正面に立つ。 一トレー〇・八秒。 数えたことはないけれど、体のほうが覚えている。〇・八秒というのは、見るというより、目の前を通ったものが残していった形を後から確かめる速さで、だから手より先に目のほうが疲れる。ひじきの黒の中に人参の赤があって、その赤がだいたい同じ間隔で来る。間隔が崩れていれば充填のどこかが詰まっている。フィルムの端が波打っていればシールの熱が高い。印字は左下に打たれて、26.6.16という二日後の日付が二秒に一回ずつ通っていく。この工場に来て五年目で、契約になってからは三年目になる。 隣は戸倉さんが入っている。今年入った子で、まだ二か月しか経っていない。 「江口さん、これ毎日おんなじの見てて、飽きないんですか」 「飽きる」 「ですよね」 戸倉さんは飽きるという返事のあとで、髪を切ったら親に怒られた話を始める。マスクの中で喋るので語尾が聞き取れず、聞き返すのはやめる。喋りながらでも手は動いていて、そこは悪くない。ただ、見ているところがトレーの真ん中に寄っている。異物は端に出る。 安西さんは二つ向こうの充填の脇に立っている。 朝から水筒にしか口をつけていない。九時の交代のとき、休憩室には行かずに廊下の突き当たりの窓のところに立っていた。あそこは夏でも風が通らなくて、ガラスの下半分がいつも曇っている。昨日、手袋を外して掌に何か落として飲んだのを見た。銀色のシートを親指で押して、割れる音がした。白衣のポケットに戻すとき、角のところが白く尖って見えた。 十時になって交代が来る。十分のうち、水を飲むのに二分、便所に三分、あとは休憩室の椅子に座って両方の靴を脱ぐ。長靴の中で足の指が湿っていて、指の股のところが白くふやけている。室温は二十六度と壁の温湿度計に出ているが、湿度のほうが七十を超えていて、そちらは誰も見ない。 十時四十一分。 壁の時計を見たのは、交代から戻って十分ほど経ったころに腰の右側が痛みだしたからで、それで時刻を覚えている。時計は白い丸で、秒針が跳ねるたびに小さい音を出しているはずだけれど、ラインの音で聞こえたことはない。 トレーが来る。ひじきの上、九時の方向の、縁から一センチくらいのところに白いものが乗っている。 大豆ではない。大豆はもっと黄色くて、丸くて、光り方が鈍い。それは白くて、平たくて、角がある。四角い角が二つ見えて、片側にだけ薄い銀色が張りついている。大きさは指の腹の半分より小さくて、六ミリくらい。ひじきの黒の上だから、白は端にあってもすぐ分かる。分かるように毎日ここに立っていて、去年の一年で四十七回、こういうものを拾い上げて、そのたびに紙を書いた。金属検知は樹脂に反応しない。X線も、あの厚みで、あの密度ではまず映らないと五味さんが去年の秋の勉強会で言っていて、その日は椅子が足りなくて壁ぎわに立って聞いた。だから検品で止めないと、そのまま検知機を通り抜けて箱に入る。それは覚えている。頭で順番に思い出すのではなくて、体の中に置いてあるものに触れるみたいに、確かめる前からそこにある。 手は右から出る。いつもそうで、考える前に肘が先に動く。 肘が動かない。 トレーが目の前を通って、シールのフィルムが光を返して、白いものはそのまま行く。それが〇・八秒になる。次のトレーが来る。次のトレーには何も乗っていない。その次にも乗っていない。人参の赤が同じ間隔で来る。 非常停止は右の柱についている。赤くて、掌より小さくて、腰の高さにある。体を三十センチ横に寄せて腕を伸ばせば届く。届くということだけが分かっている。 押せば音が変わる。ベルトが止まって、充填機のモーターが下がっていく音がして、五秒くらい経ってから梅木さんが事務所のほうから歩いてくる。歩いてくるまでのあいだに、見つけたものをアルコールで拭いた小皿に載せて、日時とライン番号を紙に書く。梅木さんが見て、五味さんを呼びに行き、五味さんが来て、写真を撮って、その前後の便がどこまで進んでいるかを確認する。この前、毛髪が出たときは、ロットの隔離と原因調査で二時間十五分止まった。止まっているあいだ、班の全員がラインの脇に立ったまま何もしないでいて、誰も座らなかった。梅木さんはそのあいだに二度、事務所と現場を往復して、二度目に戻ってきたときには首から下げた鍵の束を握ったままにしていた。廃棄の枚数は月末に紙になって、貼り出される。 一つ行った。二つ目が通っていく。三つ、四つ、五つと数えて、十を過ぎたあたりで数えるのをやめる。やめてからも口の中で数の続きが動いていて、二十いくつまで行って、そこで止まる。手袋の中が濡れている。青い手袋は汗をかくと内側が指に張りつくので、一本ずつ曲げ伸ばしして剥がす。剥がしても、また張りつく。 「江口さん、汗すごいですよ。エアコン、今日死んでるらしいです」 戸倉さんが自分の額をこすってみせる。マスクの上のところが濡れて、線になっている。 「先週から死んでる」 「まじですか」 まじですか、と言ってから、戸倉さんは今度は免許の合宿の話を始める。八月に行きたいけれど、二十万かかると言う。二十万という数字だけがはっきり聞こえて、あとは音になる。うなずくかわりに、流れてくるトレーの端を見る。端を見ている。ずっと端を見ている。 白いものは、そのあと来ない。 昼の休憩は十二時から四十五分ある。休憩室へ行く前に、ラインの端に下がっているクリップボードのところで足を止めて、指先で紙の角を上げる。生産指示票の一枚目には、ロット番号が0614-3Aと印字してある。予定数のところに一九〇〇と入っていて、その下に開始時刻と、充填の設定重量と、担当者の欄がある。担当者の欄には梅木さんの字で名字だけが五つ並んでいて、上から三番目が自分の名字になっている。紙をめくると次の便の分になるので、めくって、戻して、クリップの金具を押さえて音を立てないようにする。 壁の配送表は先週から貼り替えられていない。0614-3Aの行に、店の名前が八つ並んでいる。藤代の店が二つ、隣の市が三つ、あとの三つは行ったことのない町の名前で、そこに何があるのか知らない。売り場に出るのは明日の朝で、消費期限は明後日までだから、遅くとも明後日の夜には棚から下ろされて、その先のことは工場では誰も見ない。八つ、と口の中で言ってみる。声にはならなくて、マスクの内側が湿っただけになる。 弁当には昨日の残りの唐揚げを二つと、冷や飯を詰めてきた。電子レンジは一台しかなくて六人並んでいるので、温めない。冷えた唐揚げは衣が歯にくっついて、飲み込むのに水がいる。向かいに安西さんが座って、水筒の蓋にお茶を注いで、口をつけないまま置いている。喋らないので、こちらも喋らない。安西さんは携帯を見ていて、画面の明かりが顎の下を白くしている。 「暑いね」 安西さんがそう言って、水筒の蓋を持ち上げて、また置く。 「うん」 うん、と言って、唐揚げの二つ目を食べる。 疲れているのだと思う。朝から立っていて、腰が痛くて、昨日は三時前まで携帯のゲームをしていた。そういうことだと思う。イベントが今日の朝五時までで、報酬の枠をあと二つ埋めたかった。埋めた。埋めたのに、何が出たのか覚えていない。 午後は一時から。 ひじきの黒が帯になって流れていく。赤が等間隔で来て、フィルムの端は波打っていないし、印字も滲んでいない。異常がないというより、異常の出るところが一つずつ順番に頭に浮かんできて、そのどれでもないと確かめているうちに、次のトレーが通っている。午前と同じ速さで、午前と同じものが来ているのに、目の焦点がトレーの手前で止まって、その先まで行かない。二時の交代のときに便所へ行って、手を洗って、爪の先を見る。爪は短く切ってある。ここで働きはじめた月に切って、それからずっと同じ長さにしてあって、伸びると先が白くなって、白いものを見つけたときに自分の爪と見間違えるからそうしている。石鹸を二回押して、指の股まで洗って、ペーパーで水気を取って、また手袋をはめる。手袋の箱の残りが少ないので、あとで梅木さんに言うつもりでいて、言わずに戻る。 三時の交代までに、何も見つけない。四時までにも見つけない。四時を過ぎてから、赤が二つ続けて近い位置に来たので手を出して、トレーを一つ横に落とす。充填の偏りで、異物ではない。安西さんがこちらを見て、機械のほうへ歩いていく。ハンドルを回して、戻ってくる。それだけで、あとは終業まで通る。 終わりの十分は箱詰めの手伝いに回る。段ボールの底をテープで留めて、十二枚入りに組んで、伝票を貼る。伝票の右上にロット番号が印字されていて、剥離紙を剥がして角を合わせて押さえるたびに、その数字が親指の下を通っていく。四枚目までは店の名前を読んでいたが、五枚目からは読まずに貼る。何枚貼ったかは数えない。 梅木さんが機械の音の中で数を読み上げる。今日は二万六千ちょっとで、廃棄は四十二枚、そのうち三十がシール不良だと言う。数字を言うときの梅木さんの声は、他のことを言うときより高い。 「江口、明日ポテサラ入っから、七時な。六時五十分」 「はい」 更衣室で長靴を脱いで、白衣を洗濯かごに入れる。ヘアネットは二枚まとめてごみ箱へ落とす。ロッカーの鍵が指から落ちて、拾って、また落とす。二度目は鍵が奥の壁ぎわまで滑っていったので、しゃがんで、腕を伸ばして取る。床の隅に埃と髪の毛がたまっている。ここは掃除の当番がない。 第六章 十二時四十五分にコンベアが低く唸って、それから平らな音になる。午後の品はポテトサラダに替わっていて、午前のきんぴらより白い。白の上の茶色はよく見えるが、白の上の白は別だ。青い手袋の親指の腹を人差し指に押しつける癖が出る。手袋の中で汗が回ると指の腹が滑って、シールの端をつまみそこねる。ヘアネットの内側で髪が一本、耳の後ろに落ちているのが分かる。直すには手袋を外して、部屋を出て、ローラーを全身にかけ直してから戻らないといけない。そのままにする。室温は二十六度をいくらか超えているはずで、汗は額ではなく背中から出て、白衣の内側を腰のゴムのところまで下りて止まる。左に体重をかけている時間が長くなると右の膝の裏が張るので、夕方までに二度、立ち位置を半歩ずらす。目の動かし方は決まっている。まず中身の面を見て、それからトレーの四隅を見て、最後にシールの端と印字を見る。印字は日付と記号が二行で、掠れていないかどうかだけを確かめる。三つを別々に見ているのではなく、一つのものとして入ってくる。入ってこないときは、たいてい手のほうが先に止まる。 トレーは〇・八秒に一つ流れてくる。 午後の三時間で、シールのズレを二つと、充填の足りないのを一つ抜く。抜くというのはラインを止めることではない。手を伸ばしてコンベアから持ち上げ、右手側の赤いコンテナに入れる。それだけだ。数はあとで梅木さんが事務所の紙に書き写す。三つは多いほうでも少ないほうでもない。 十時四十一分から、四時間と少しが経っている。 三時の交代のすこし前に、ポテトサラダの表面に細い黒っぽいものが見える。一瞬だけ、手が止まる。コンベアが半歩ぶん進んでから追いかけて持ち上げると、それは人参の繊維で、皮の際の硬いところが黒く見えているだけだ。赤いコンテナに入れるほどのものでもないので、そのままレーンに戻す。戻したトレーは前後より一つぶん遅れて、シール機のところで詰まりかけて、それから吸い込まれていく。安西さんが顔を上げてこちらを見る。首を横に振って見せると、また下を向く。手袋の中の指がまだ少し曲がったままなのに気づいて、握って開く。二回やって、力の入り方がいつもと変わらないことを確かめる。 背中の側では金属検知機がずっと同じ間隔で回っている。何も出なければ音は変わらない。今日は変わらない。箱詰めのほうから、段ボールの底をテープで留める機械の音が、四つに一つくらいの割合で混ざってくる。 交代は一時間ごとに十分ずつだ。二回目の交代で二階に上がると、休憩室の自販機の前で沙也香が小銭を数えている。 「江口さん、百円ある?」 財布から百円玉を出して渡す。沙也香は缶のコーンスープを押して、取り出し口から拾い上げて、両手で持ったまますぐには開けない。 「明日返します。ほんとに返します」 「いい」 「よくないですよ。姉の式で二万飛んでるんです。ご祝儀って三万って聞いてたのに、姉が二万でいいって言うから二万にしたら、母親に恥かかせる気かって怒られて」 沙也香は喋りながら缶を開けて、熱かったらしく指を離してテーブルに置く。式は八月の末で、美容院を朝の六時に予約したという話と、着ていくものを従姉に借りるという話を、順番を入れ替えて二度する。二度目のほうが従姉の職業まで詳しい。それから急に話が飛ぶ。 「班長が言ってましたよ。江口さん去年、四十七だって」 「そう」 「班の平均が十二なのに四十七って、意味わかんないです。あたし三月に入ってからまだ一個も見つけてないのに」 「そのうち出る」 四十七という数字は、去年の三月に事務所の壁に貼り出された紙に載っていたもので、名前の横に数字が並んでいるだけの紙だった。二週間ほどで剥がされた。給料の明細は前の年と同じで、手取りは十六万二千円のまま、変わったのは健康保険の欄の数字が二百円ほど上がったところだけだ。沙也香は缶の底を指で叩いて、まだ半分あるのを確かめている。 安西さんは十分の後半に入ってくる。水筒の蓋にお茶を注いで、少し飲んで、蓋を持ったまま座っている。壁の掲示は先月の生産計画のままで、右下の隅が湿気で反り返っている。 「梅雨入り、遅いってさ」 「らしいね」 「洗濯物が乾かないよりはいいけど」 昨日の休憩室のことは出てこない。手袋の話も、薬の話も、出てこない。安西さんはお茶をもう一口飲んで、蓋を水筒に戻して、立ち上がるときにテーブルに手をついてから体を起こす。沙也香が缶を持って追いかけていって、階段の途中まで式の話を続けている声が聞こえる。窓の下でフォークリフトがパレットを二枚重ねて運んでいく。 四時を過ぎると首の後ろが重くなる。 定時は五時十五分で、今日は残業がない。更衣室で白衣を脱ぐ順番は決まっている。マスク、外側のヘアネット、内側のヘアネット、白衣、その下の作業着。ヘアネットは二枚とも足元の回収箱に落とす。ロッカーの中は下の段に靴、上の段に鞄とタオルと制汗剤で、制汗剤は去年の夏に買ったものがまだ半分ある。タイムカードを押す機械は打刻の音がひときわ乾いていて、押した紙を確認しないまま棚に戻す。 自転車で市営住宅まで十八分かかる。工場を出て、砂利の駐車場を抜けて、県道に出るまでのあいだに信号が二つある。二つ目で必ず引っかかる。夕方の県道は大型が多くて、後ろから来る風でハンドルが取られるので、白線の内側を走る。県道沿いのスーパーの駐輪場には、この時間だと自転車が十台くらい並んでいて、自動ドアが開くたびに冷気が歩道まで出てくる。惣菜の売場は入って右の奥で、五時半を回ると値引きのシールを貼りに人が出てくる。ブレーキを握って、片足を地面につける。前輪が駐輪場の白線を半分だけ踏んでいる。そのまま数秒いて、足をペダルに戻して漕ぎ出す。買うものを思いつかない。財布には千円札が一枚と、あとは小銭しか入っていない。信号を渡って、川沿いの道に入って、団地の手前の坂を立ち漕ぎで上がる。 坂を上がりきったところで、いつも一度だけ息が上がる。 エレベーターがないので四階まで階段で上がる。三階と四階のあいだの踊り場に自転車のタイヤが一本、去年からずっと置いてある。鍵を回すと中から換気扇の音がして、母がもう起きて台所に立っている。母は夕方の五時ごろに起きて、七時前には家を出る。 「おかえり。手ぇ洗って」 流しの横に皿が三つ出ている。豚こまと玉ねぎを炒めたもの、冷凍のいんげんを茹でて胡麻をかけたもの、それからポテトサラダが小鉢に移してある。小鉢のポテトサラダは表面がきれいに均されていて、上に胡瓜の薄切りが二枚だけ乗っている。乗せたのは母だ。 「それ、半額だったの。二百九十七円のが」 母は自分の分をよそいながらテレビをつける。夕方のニュースはどこかの県の水道管の話をしている。座って、味噌汁を先に飲む。昨日の残りで、豆腐が煮崩れて汁が白く濁っている。豚こまは玉ねぎの水が出ていて甘い。ポテトサラダは冷えていて、じゃがいもの粒が大きく残してある。うちの第三ラインのものは、粒をもっと細かく潰す。潰さないと充填のときに重量がばらつくからで、目で見て分かるほどの違いではないけれど、口に入れれば分かる。酢の効き方も違う。うちのは酸が立っていて、冷蔵庫から出したてだと舌の脇のところに来る。これはマヨネーズのほうが勝っていて、玉ねぎの辛みが残っている。二口食べて、小鉢を母のほうへ少し押す。母は気づかずに、いんげんの皿を手前に寄せる。 流しの三角コーナーの横に、ゴミ袋の口が開いたまま置いてある。買ってきたものの包装が上に載っていて、いちばん上が透明なパックだ。ラベルの端が見えている。座っている位置からだと、印字の一行目の数字がいくつか読める。読めるところまで読んで、それ以上は動かない。箸を持ち替えて、いんげんを取る。 「おいしいね、これ」 「うん」 「あんたんとこの、じゃないよね」 「たぶん違う」 母は納得したような音を喉で出して、テレビのほうに向き直る。ここのスーパーに入っているのがどこの工場なのか、母は聞いたことがあるはずだが、覚えていない。覚えていないことを責める気にならない。 食べ終わるころに、母が思い出したように立ち上がって、テレビ台の引き出しから茶色い封筒を出してくる。市営住宅の収入報告の書類で、締切が今月の三十日だと赤い字で刷ってある。 「あんたの去年の、あるでしょ。源泉のやつ」 「探しとく」 「探しとくじゃなくて、今週。去年もぎりぎりで持ってって、窓口の人にまた来たんですかって顔されたんだから」 「うん」 「あと、ママんとこの息子、帰ってきたって。二十六で。仕事はまだ決まってないらしいけど」 母はその話をしながら化粧を直しに洗面所へ行って、そこから続きを喋るので、水の音に混じって半分しか聞こえない。息子が何をしていたのか、どこから帰ってきたのかは聞き取れない。聞き返さない。六時五十分に玄関の戸が閉まって、廊下を歩く音が階段のほうへ遠ざかっていく。 皿を洗う。洗いながら、ゴミ袋の口を縛って、玄関の外に出しておく。 風呂は洗濯機を回しながら入る。湯船に肩まで浸かると、左の腰の外側が押されるように痛む。立ち仕事の日は必ずここが来る。膝を抱えて、水面に浮いた髪の毛を一本つまんで、風呂の縁に貼りつける。上がって、洗濯物を干す。作業着は乾きが遅いので、竿ではなくハンガーにかけて鴨居に吊るす。靴下は左右を離して干したほうが早く乾くと母が言うので、そうしている。実際に早いのかどうかは確かめたことがない。扇風機を洗濯物の下に置いて、首を振らない設定にして回す。 十時前から、ベッドに座ってスマホを触る。今やっているのは戦艦を集めて編成するやつで、六月十九日の朝十時までのイベントが走っている。交換所の景品が三つ残っていて、いちばん上のを取るには周回があと四十回ちょっと要る。スタミナは十二分で一つ回復するから、寝るまでにできるのは十回か十一回だ。倍速にして、指を画面の右下に置いたまま、終わるたびに同じところを押す。ギルドのチャットに誰かが「今日おわり おつかれ」と書き込む。「お疲れ様です」と返す。既読の丸が三つ増える。 十二時を過ぎたあたりで、スタミナ回復の薬を一つ使うかどうかで少し迷って、使わない。無課金でここまで来ているのを崩したくない、というのとは少し違って、明日も同じ時間に同じことをするなら、今日一日で足りるところまでやっておけばいいという気がする。画面の中では船が三隻並んで、同じ角度で砲を撃っている。撃つたびに数字が出て、数字が消える。 一時十分過ぎに、玄関の鍵が回る音がする。母が靴を脱いで、廊下の電気をつけて、洗面所で手を洗って、それからこっちの部屋の戸を半分だけ開ける。煙草と、店の消臭剤の匂いが入ってくる。 「まだ起きてんの。あんた明日、休みだっけ。あのさ、市役所の、」 第七章 粘着ローラーを肩から腰、腿、脛の順に転がしていく。七月に入ってから、白衣の背中は入室の時点でもう湿っている。粘着面には糸くずより先に自分の髪が一本ついて、それを剥がして丸め、足元の箱へ落とす。ヘアネットを二枚かぶり直し、フードを引き上げ、耳の裏に指を入れて浮きがないかを確かめる。ローラーは一人に一本ずつあって、持ち手に名前のシールが巻いてある。入室前に全身をやるのは決まりで、やらなくても誰も見ていないが、やらずに入ると肩のあたりがずっと気持ち悪い。エアシャワーは扉が閉まってから風が二十秒あって、その間は目を閉じるなと二年前に言われたので閉じない。風は温い。 第3ラインは今日もきんぴらだ。 充填機が具を落とし、シール機がフィルムを熱で貼りつけ、それが目の前を通っていく。〇・八秒に一枚。一枚ずつ見てはいけない。一メートルほど先のコンベアの白い縁のあたりに目を置いておいて、流れてくるものは視野の端で拾う。目が動くと拾えなくなる。誰かに教わったわけではなく、二年目の途中で勝手にそうなった。見るものは決まっていて、異物と、具の寄りと、シールの端と、日付の印字の四つを、順番ではなく一度に見る。充填量は山の高さで分かる。ひじきは指一本ぶん低ければ軽いし、きんぴらは高さが同じでも隙間が多ければ軽い。一時間に一度、梅木さんが上流から一枚抜いて秤に載せる。秤の数字は私の位置からは見えない。見えなくても、抜かれたのがどのトレーだったかは覚えている。 七月に入って、それができない。 目が動く。トレーの一枚ずつに焦点が合ってしまって、ごぼうの繊維の向きだとか、フィルムの端に寄った細かい皺だとか、そういうものが一つずつ読めてしまう。読めているのに、赤いものが通っても赤いと思わない。手のほうが先に伸びるということが起きない。三十分でこめかみの上が重くなって、そこから先は流れているものが全部おなじ色に見える。一日に二万六千枚、そのうちの何枚かが自分の前を通ったという事実だけが残る。何枚だったかは残らない。三日に一度くらい、通り過ぎたあとで何かがあった気がして首が動く。動かしたときにはもう二十枚は先へ行っていて、そのうちのどれだったかは分からないから、止めない。止めれば前後の十枚が抜かれて、用紙の原因の欄に何か書かなければならなくなる。何もなかったと書く欄はない。 湿度計は壁の高いところに掛かっていて、朝は六十八、昼を回ると七十を超える。室温のほうは二十六度から動かない。動かないので誰も見ない。長靴の中敷きは去年の暮れに百円で買ったのがまだ入っていて、踵の下のところだけ薄くなって、立って三時間ほどで痛みが膝の裏まで上がってくる。それは去年もおととしも同じだったので、七月のせいにはできない。 検知機の向こうで箱詰めの人が段ボールを組む音がする。あの機械が拾うのは金属だけだ。 休憩は一時間ごとに十分で、交代の順番は入口の貼り紙で決まっている。二番目が私になる。 自販機は麦茶と微糖が売り切れていて、残っているのは炭酸と甘いミルクティーだけだ。沙也香はミルクティーを二本買って、ヘアネットを取らないまま座る。 「江口さん、これ飲みます? 一本目、落ちてこなかったと思って押しちゃって」 受け取って、缶の腹にかいている汗を手のひらで拭く。冷たいところが手袋の跡の内側にしみる。手袋は青で、外すと指の腹が白くふやけていて、爪の際に線が残っている。沙也香は四月に入ったばかりで、休憩のたびに何かしら喋る。喋りながらプルタブを起こして、起こしただけで缶を膝に置く。 「わたし、親知らずが横向きなんですって。市民病院じゃ抜けないから紹介状もらってきてくださいって言われて、その紹介状をもらうのにまた予約なんですよ。八月の二十日とか言われて」 「痛いの」 「痛くはないです。まだ」 「あ、そうだ、梅木さんの下の娘さんって、わたしの出た高校の二つ下らしいですよ。制服おんなじです。襟に緑の線が入ってるやつ」 「ふうん」 「二つ下って、かぶるとしても一年だけなんですよね。だからたぶん、すれ違ってもいないです」 沙也香は缶を両手で持ったまま、私が返事をしないうちに壁の時計を見て立ち上がる。十分のうち三分は行き来で消える。エアシャワーをもう一度通らないと戻れないので、飲みきれなかったぶんは流しに捨てる。 戻る途中の廊下に、月ごとの異物摘出件数を書く白い板が下がっている。名前の下に正の字を足していくやり方で、書くのは梅木さんだ。私の欄には縦の線が三本ある。毛髪が二本とビニールが一本で、いちばん新しいのが八日のぶんだ。去年の七月は九件あった。九という数字を覚えているのは私だけで、板は月末に写真も撮らずに消される。板の前で梅木さんがペンの尻をカチカチやっているのを、六月に一度だけ見ている。件数が多ければ廃棄も多くなるので、多いほどいいという話でもないらしい。らしい、というのは、そう言われたことが一度もないからだ。 十六日の午後、ひじきに切り替わって二十分ほどしたところで、一つ下流に立っている沙也香が右手を上げて、左手で赤いボタンを叩く。 コンベアが止まるときの音は、モーターの落ちる音より先に、トレーどうしが軽くぶつかる音で来る。列が詰まって、フィルムの下でひじきが片側に寄る。沙也香が指さしているのは、シールの内側に噛み込んだ赤いビニールの帯で、五ミリあるかどうかというところだ。原料袋の口を縛ってあるやつと同じ色をしている。梅木さんが来て、少し遅れて五味さんが来る。五味さんは手袋を新しいものに替えてから、そのトレーを両手で持ち上げて、底の番号を読み上げ、前後の十枚を抜く。写真は工場の白いほうの携帯で撮るので、消せないシャッター音が二回鳴る。用紙には時刻の欄と、発見者の欄と、工程の欄がある。工程の欄に五味さんは検品と書き、発見者の欄には戸倉と書く。 「江口さん、これ通ってますよね」 「通ってます」 五味さんは私の名前を書く欄を持っていないので、そのまま次の行に進む。声の調子は朝の挨拶と変わらない。三十八で、品質管理は事務所の二階にあるから、ラインに降りてくるのは呼ばれたときだけだ。白衣は私たちのより新しくて、袖の折り返しが伸びていない。 「どのへんで気づきました」 「なんか、手が止まって」 「手」 「あ、目です。目が止まって」 沙也香は言い直してから、言い直したほうが合っているかどうかを確かめるみたいに、自分の手のほうを見る。五味さんは目の欄も手の欄も持っていないので、そこは書かない。 梅木さんは隔離用のコンテナに自分でテープを貼って、抜いた十枚を数え直してから、そこにマジックで日付を入れる。廃棄の枚数を数えるのも梅木さんの仕事で、月末にそれを紙にして本社に送る。 原因の調査は五味さんが一人でやる。原料袋の帯を切るのは下の階で、そこの床と、上がってくる階段と、台車の車輪を順番に見て回る。答えが出ないことのほうが多い。出なければ用紙の原因の欄に推定と書いて、対策の欄に注意喚起と書く。注意喚起は次の日の朝礼で読まれる。 「昨日、第3ラインで赤いビニールが出ました。原料袋の結束帯です。切ったら手に持って歩いてください。床に落ちてるのを見つけたら拾ってください。以上です」 読むのは梅木さんで、読み終わってから一度、全員のほうを見る。 「まあ、止まってよかった」 そう言って、梅木さんはラインを起こすスイッチのところへ戻る。私のほうは見ない。見ないのが不自然かどうか、判断するための材料を私は持っていない。 ラインが動き出して、また〇・八秒に一枚になる。 「江口さん、目いいんですよね。去年四十七件だって、梅木さんが最初の日に言ってました」 「去年の話」 「え」 「七月はみんな落ちるよ。暑いから」 「あー、たしかに。じゃあ八月のほうがやばいんですね」 言ってから、班の平均が十二件だということを自分が今も正確に覚えているのに気がつく。暑さの話をしたのに、頭の中に出てきたのは数字のほうだ。沙也香はコンベアの縁に手を置いて、また前を向く。 みのりさんは四時から箱詰めに回っている。箱詰めは十二キロの段ボールを胸の高さまで上げる工程で、みのりさんはそれを腰から先に回して、膝で受けてから抱え直している。五年やっている人の上げ方ではない。私も去年の秋に半月ほど回されたことがあるから、そういう上げ方をすると次の日に肩が上がらなくなるのを知っている。台車を押すときも腰を落とさずに腕だけで動かすので、曲がり角でいちど止まる。缶コーヒーは飲まなくなって、この頃は水筒の麦茶だ。手袋は両手とも青いままはまっている。私はそれを見て、見たということを誰にも言わない。トイレに立つとき、みのりさんは梅木さんではなく私のほうに顔を向けて、行ってくると口だけ動かす。私は手を上げる。 七月の残りは、何も起きない日が続く。二十四日にシールのズレを一件、二十九日に印字のかすれを一件見つけるが、どちらも異物ではないので板には載らない。板に載るのは異物だけだ。私の欄の線は三本のまま月末になる。 上がりの打刻をして、自転車で十五分、市営住宅の階段を四階まで上がる。三階と四階のあいだの電球が二週間前から切れている。母は出る前で、鏡の前で口紅を塗っている途中に振り返る。五十二にしては手が速い。色は去年からずっと同じで、名前は知らない。 「ごはん、鍋にある」 「うん」 「電球、市役所に言った?」 「言うわよ。来週、通帳持ってくついでに」 「先月もついでって言ってた」 「今週行く」 「あんた最近、寝てる?」 「寝てる」 母はそれ以上聞かずに、口紅を戻して、ハンドバッグの中で鍵の音をさせる。店は九時からで、いつも十分前に出る。玄関の三和土に立ったまま、置いてある自分のサンダルの片方を爪先で直してから出ていく。 鍋の中は麻婆豆腐で、二日目のほうが味が濃い。豆腐の角が全部取れている。食べ終わってから、財布に折り込んだままだったコンビニのレシートを出して、一番下の、店番号とレジ番号と時刻が並んでいる行を明かりに寄せる。明るいところでやると分からないので、台所の蛍光灯を落として、換気扇の下の小さいほうだけ点ける。読める。8と6も、0と6も見分けられる。裏返すと薄く抜けている印字があって、それも読める。二回やって、たたんで、財布に戻す。目が悪くなったのなら、そのほうがまだ話が早い。 充電器に挿す前にゲームを開くと、スタミナが上限まで溜まっていて、放っておくと溢れる。イベントの周回を四回して、五回目に入ったところで、玄関の鍵が外から回る音がする。母はいつも、閉めてから一度だけノブを引いて確かめる。 第八章 八月四日、粘着ローラーは一本目が一番よく取れる。右肩から袖へ、袖から脇の下へ、腰、腿の外側、裾、と決まった順に転がしていくと、白衣の胸のあたりで紙の音が湿った音に変わる。ヘアネットは内側を先にかぶって耳の後ろまで引き下ろし、そのうえから外側をかぶる。マスクの針金を鼻の形に折る。エアシャワーの十五秒のあいだ、天井の吹き出し口を見上げていると、首すじの汗が背中の真ん中あたりまで落ちていく。扉が開くのと同時に音が来る。 壁の紙には室温二十六度と書いてある。湿度のことは書いていない。 午前はひじき煮で、午後からポテトサラダに切り替わる。トレーが来る。0.8秒に一つ、右から左へ、間隔は動かない。ひじきの黒に対して探すのは白と透明と赤で、白は樹脂とビニール、透明は水滴とフィルムの切れ端、赤は自分の指の傷から出たものだ。ひじきはきんぴらより難しくて、ごぼうの茶色には濃淡があるから黒い毛が一本でも浮くのに、ひじきのほうは黒が隙間なく詰まっていて、そこに黒が落ちても黒のままになる。だから白と透明のほうに目の重心を寄せて、黒は最初から捨てる。同時にシールの角が浮いていないか、印字のインクが掠れていないか、充填の高さが端まで揃っているかを見る。目は一点に留めない。トレーの中心ではなく、中心より少し手前の空気を見るようにすると、動いているものと動いていないものが勝手に分かれて、違うものだけが浮いて残る。三年目にそのやり方に気づいてから、一日の終わりでも目の奥が痛くならない。手袋の中は昼前には汗が溜まって、指を曲げるたびに指先で小さな音がする。冷房は入っていることになっているが、蒸し器の口がラインの上手にあるので、湿った空気が背中側から降りてきて白衣の襟が首に貼りつく。前の年度の四十七という数字を書いた紙は、まだ休憩室の壁に画鋲で留めてある。班の平均は十二件と、同じ紙の下のほうに小さく刷ってある。手取りは十六万二千円で、四十七でも十二でも変わらない。 七月の欄は三件で止まっている。 沙也香が右隣で喋っている。 「江口さん、あたし昨日、花火の場所取り行ったんですよ。朝の五時四十分ですよ。もう河川敷ぜんぶブルーシートで、何時から来てんのって話じゃないですか」 「うん」 「で、結局、橋の下」 沙也香は先月まで、口を動かすと目のほうが止まっていた。今は喋りながら手が出る。出た先には、たいてい何かある。先週も、シールを貼る手前でトレーの縁に載っていたビニールの切れ端を、花火の話をしたまま二本の指でつまみ上げた。つまんでから自分がつまんだことに気づいて、そこから声が大きくなった。帰りの自転車で始まった話が翌朝の更衣室で続き、更衣室で切れた話がラインで再開する。誰も終わらせないので、話はいつまでも同じところをぐるぐるしている。 梅木さんが後ろを通る。通り過ぎてから戻ってくる。班長の白衣は肩に青いテープが縫い付けてあって、それが視界の右の端を二度横切る。 「江口さん、十時の交代んとき、ちょっといい」 「はい」 「すぐ終わっから」 十時十二分に手袋を外して、事務所の手前の部屋に入る。パイプ椅子が四脚と長机が一つ、壁には指差し確認のポスターが貼ってあって、右上の角だけ剥がれて垂れている。首振りの扇風機が机の端の紙をめくっては戻す。梅木さんは先に座って、老眼鏡をかけたり外したりしている。パートの二年目に、ローラーは肩から裾へ一方向にしか転がすなと教えたのはこの人だった。往復させると剥がれた毛が戻ると言って、自分の袖で二回やってみせた。そのころ第3ラインには班長が二人いて、梅木さんは下のほうだった。壁の向こうでシール機が鳴りつづけている。この部屋に入っても音は消えず、高いところだけが抜けて低いところが残り、机の脚を伝って足の裏から上がってくる。 「暑いな」 「はい」 「二階はもっと暑い。あっちは冷房入ってんのに、なんでだろな」 梅木さんが紙を一枚、机の上で回してこちらに向ける。班の名前が縦に並び、横に四月から順に月が並んでいる。指が自分の行をなぞって、七月の列で止まる。爪が短く切ってあって、人差し指の腹だけ紙より白い。 「三件」 「はい」 「去年の七月が九件な」 「はい」 扇風機が首を回して、紙の端が二回めくれる。梅木さんは老眼鏡を外し、レンズを白衣の裾で拭いてからかけ直す。 「疲れてんのか」 「はい」 言ってから、膝の上の自分の手を見る。左手の爪の白いところだけが短い。利き手でないほうが減るのは、そちらでトレーの縁を押さえているからだ。梅木さんが椅子を少し引いて、机との間に手のひら一枚ぶんの隙間をつくる。パイプ椅子の脚が床で短く鳴り、その音が鳴っているあいだだけ壁の向こうの機械が聞こえなくなる。 「はいって言われるとな、こっちも困るんだけどな」 紙は回されたままなので、こちらの向きで読める。目がいいので、離れていても、隣の行も、その隣の行も読める。安西みのりの七月は二件で、六月も二件で、五月は八件になっている。沙也香の行は入ったばかりの四月が空欄で、七月に六と入っている。梅木さんはそこを隠さない。隠すつもりがないのか、隠すものだと思っていないのかは分からない。いちばん下の行に班の合計が入っていて、七月は二十一、去年の七月は三十四になっている。差の十三のうち六つが自分の行から出ていることは、足し算をしなくても数字の並びを見れば見えてしまう。 「別にな、責めてんじゃねえの。数ってのは、多けりゃいいってもんでもねえんだ。多いと多いで、なんでそんな出んのって二階に呼ばれる。去年の江口さんの四十七だって、あれ、褒められた話じゃねえんだよ。工程に問題があんじゃねえかって、そういう話になるから」 「はい」 「ただ、下がったら下がったで聞かれる。そういうもんなの」 梅木さんがペットボトルの麦茶を一口飲んで、蓋を閉め、すぐまた開ける。 「人がいねえんだよ。三ラインだけで今年、四人抜けた。募集はかけてんの。かけてんだけど、来て、四日目から来なくなる。だから江口さんが立っててくれるうちは、俺のほうから言うことなんか何もねえんだ。ほんとに」 「はい」 「何もねえのに、こういう紙が二階から回ってくるから、こうやって呼ぶわけ。呼んで、何話したか書いて出さなきゃなんねえ」 机の隅に、面談記録と刷られた用紙が伏せて置いてある。梅木さんはそれをまだ触らない。 梅木さんが紙を綴りに戻す。日報の綴りで、六月の分が開いたままになっている。ロット番号の列が親指の下から上へ流れて、0614-3Aと刷られた行が目の高さを通る。梅木さんがページを押さえて閉じ、ゴムバンドを掛ける。バンドが太くて、二回めで掛かる。 「六月も七月も、うちのライン、一回も止めてねえんだよ」 「はい」 「それはそれで、上は見るから」 机の下から段ボール箱を引き出して、塩飴の袋を一つ寄越す。事務所でまとめて配っているやつで、袋の口がもう切ってある。 「持ってけ」 袋を受け取って、口の切ってあるほうを上にして持つ。 「うちの上の子、来年受験でな。夏の講習だけで二十八万」 飴の袋を白衣のポケットに入れる。梅木さんは言い終わってから紙の束を机に二回打ちつけて角を揃え、それから箱を足で押して机の下に戻す。 「下のがまた再来年だから」 「そうですか」 「そうですかって」 梅木さんが笑う。笑って、それきり紙のほうを見ている。去年の暮れに一度、休憩室でこの人の携帯の写真を見せられたことがある。制服の襟に手をやって顎を引いた子が写っていて、上のほうだと言っていた。名前は聞いていない。時計は十時二十一分で、交代の終わりまであと四分ある。ポスターの垂れた角が扇風機の首の向きに合わせて小さく動き、そのたびに紙の擦れる音がして、音がやんでいる間だけ機械の低いところが戻ってくる。 「トイレ、我慢すんなよ。言ってくれりゃ代わるから」 「はい」 「安西さんにも言っといて。あの人、言わねえから」 「はい」 飴の袋の角がポケットの中で腰骨に当たる。位置を直そうとして、直さないまま立つ。 廊下で五味さんとすれ違う。バインダーを胸に抱えて、こちらを見ずに、後ろから出てきた梅木さんのほうへ言う。 「梅木さん、九日の立ち会い、十時からになりました」 「十時な」 「変更の紙、あとで回します。あと先月の記録、六日ぶん判子が抜けてます」 「見とく」 判子の抜けている六日ぶんが誰の判子なのかは言わないまま、五味さんは立ち止まらずに歩いていく。廊下の幅が狭いので、壁側に寄って通す。長靴の底が濡れていて、廊下に半分だけの足跡が三つ残っている。乾きかけた縁のところだけが白い。四つ目はもうない。 手を洗う。掌を合わせてから指の股、親指の付け根、手首の内側まで、壁の絵のとおりに三十秒かける。温風で乾かして青い手袋をはめ直し、粘着ローラーを肩から裾へもう一度だけ一方向にかけてから、エアシャワーの十五秒をまた立って過ごす。扉が開くと音が戻ってくる。 ラインに戻ると、トレーは来ている。0.8秒に一つという間隔は午前と変わらず、ひじきの黒の上に白と透明と赤を探す手順もそのままで、目は中心の少し手前に置く。置いているつもりでいる。十一時までにシールの浮きを三つ抜いて脇のバットに積み、十二枚たまったところで沙也香が奥へ運んでいく。バットの底に汁が溜まっていて、運ぶときに沙也香の踵が二度、床の水で滑りかける。異物は出ない。出ないのか、出ていないのか、手が先に動かないので分からない。ときどき、通り過ぎたトレーをもう一度見ようとして首が動きかけ、そのぶん次の二つが流れていく。二つぶんは一秒六だ。一日に二万六千あるうちの二つで、それも今朝の分の話で、昨日の分は数えていない。飴の袋はポケットに入れたままで、腰を折るたびに袋の角が腰骨の内側に当たる。 十一時をまわったころ、みのりが交代でラインを離れる。戻ってくるのが早い。手袋を外していないから、飲み物には触っていない。持ち場に戻ったみのりの白衣は、腰の紐が後ろではなく前で結んであって、結び目が右にずれている。梅木さんに言っておいてくれと言われたことは、言わない。言う場面が来ないまま、そのまま一時間が過ぎる。 昼前に沙也香が肘でこちらを突く。 「江口さん、これ、印字薄くないですか」 トレーを止めて手元に引く。賞味期限の8の、下の輪の左側が半分かすれている。二つ前のトレーも同じところが薄い。印字は一枚ずつ段々に薄くなっていくものだから、どこから駄目になっていたのかは、流れていったほうを見ないと分からない。流れていったほうは、もう箱に入っている。 「班長呼んで」 「え、これで呼ぶんですか」 「呼んで」 「江口さんが言ったって言っていいですか」 第九章 九月に入っても、第二工場は外より中のほうが息が重い。冷房は動いている。効いているという感じはしない。壁の温度計は二十六度のあたりで止まったまま動かず、湿度の針だけが日によって右へ左へずれる。第3ラインは午前がポテトサラダで、昼をはさんできんぴらに替わる日が多い。ポテトサラダの日は視界が白で続く。目の慣れが早い。白の上の白を見つけるのがいちばん難しいと、入った年に教わった。トレーは〇・八秒に一つ来る。自分で数えたことはないが、一日でおよそ二万六千だと聞かされている。見るものは四つある。異物と、充填量の過不足と、シールのズレと、印字を順に見るのだが、順にといっても別々に見ているわけではなく、一つの絵として全部が同時に来て、そのどこかがおかしいときにだけ、指のほうが先に止まる。手袋は青い。食品の中に落ちたときに見つけやすいからその色だと、入った日に説明された。ほかの色を使っている工場を見たことがないので、比べようがない。肘から先だけを動かす。目は左から右へ行って、また左へ戻る。同じことを繰り返しているうちに、自分の目がどこを見ているのか分からなくなる時間帯があって、十時二十分から十一時前のあいだに来る。膝の裏が固くなって、足の指を靴の中で握ったり開いたりする。壁の時計を見ると十時四十一分で、それから、なるべく時計を見ないようにする。 安西さんは右隣にいる。 八月の終わりごろから、安西さんの粘着ローラーのかけ方が長い。入室前に肩から袖、腰、腿の裏と順にかけて、それをもう一度やって、三度目にまた肩へ戻る。二回かける人は珍しくない。三回はあまりいない。紙をめくる音が更衣室の壁のこちら側まで聞こえてくる。ヘアネットは二重の決まりで、その上のほうを前より深くかぶっている。エアシャワーの中でも、風が止まってから二秒か三秒、動かずに立っている。ラインについてからは前と同じで、手の速さも、トレーを寄せるときの角度も変わらない。ただ、二時間に一度くらい、左手を台の縁に置いて体重をそちらへ乗せる。班長に断ってトイレへ行く回数は、夏より増えている。数えてはいない。数えてはいないのに、覚えている。マスクから上しか出ていない人の調子は、目だけ見ていても分からない。分かると思っていた時期があって、たぶんそれは間違っていた。 一時間ごとに十分の交代が入る。休憩室は蛍光灯が一本切れていて、七月からそのままになっている。自販機は麦茶が百三十円、缶コーヒーが百六十円で、麦茶のボタンだけ塗装が薄い。椅子は四つしかなく、そのうち二つは班長たちが座るので、たいていは壁際に立って飲む。十分のうち、行って戻ってで三分は使うから、実際に立っていられるのは七分になる。九月は更新の面談が始まる月で、事務所の前の廊下に名前と時間の紙が貼り出される。自分の面談は来週の火曜の四時十分からで、去年は四分で終わった。終わったところで手取りは十六万二千円のままになる。安西さんは自分の水筒を持ってきている。白いやつだ。蓋を回すときに一度手が止まる。前は缶コーヒーを買っていたのに、夏のあいだにやめている。 「今月いっぱいで辞めます」 声の大きさは、シフトの話をするときと変わらない。ボトルのキャップを締めながら聞いている。 「主人の転勤で」 「そうですか」 「急に決まって、すみません」 「いえ」 「九月って、三十一日まででしたっけ」 「三十までです」 「あ、そうか」 カレンダーのことしか出てこない。転勤先がどこかとか、いつ決まったのかとか、そういうことは聞かない。聞かないでいるのは難しくもなんともない。口を開かなければいいだけで、実際に開かない。安西さんは水筒の蓋を二回まわして、締め直して、壁の貼り紙のほうを見ている。手の洗い方の手順が六枚の写真で並んでいる紙で、去年から同じものだ。四枚目の写真だけ日に焼けて色が薄い。 戸倉さんが入ってくる。 「江口さん、聞きました? 安西さん辞めるんですって」 小銭を数えながら自販機の前に立って、こちらを見ずに喋る。先週親知らずを抜いていて、右の頬がまだ少し腫れている。 「頬、まだ腫れてる」 「もう痛くはないんですけど、戻らないんですよ、これ。抜くときより、麻酔が切れてからのほうがきつくて。あ、この話しました?」 「聞いた」 「何回目ですか」 「四回目」 「看護師さんの手、ほんとに冷たかったんですよ」 「安西さん、どこ行くんですかね、転勤って」 「さあ」 「送別会とかやらないんですか、ここ」 「やらない」 「一回も、ないんですか」 「入ってからは、一度も」 戸倉さんは百円玉を落として、拾って、はじめから数え直す。この人が二十四日に毛を一本見つけて、ラインが止まった。ポテトサラダの上の、三センチ足らずの黒いやつで、見つけたときの声がひっくり返っていた。手順のとおりに赤いボタンが押されて、ブザーが鳴って、コンベアが惰性で少し進んでから止まる。五味さんが二階の事務所から下りてきて、トレーを一つ抜いて、袋に入れて、番号を書く。前後のロットを隔離して、原因は上の作業台の照明カバーの緩みだろうということになって、二十二分でラインが戻った。止まっているあいだに、自分の担当していた区間のトレーを百八十ほど見返して、何も出なかった。出ないのが普通なのか、出せないのかは、見返したところで分からない。戸倉さんはそのあと一日じゅう機嫌がよくて、更衣室でもその話をしていた。 十月のシフト表が貼られるのは、たいてい二十五日を過ぎたころになる。今年もそうで、二十六日の朝に掲示板の紙が新しくなっている。画鋲は四つのうち一つだけ錆びていて、その角にだけ茶色い輪がつく。十月の欄には名前が縦に十四並んでいる。上から読んでいって、安西の二文字がないことを確かめて、自分の名前のところで止まる。ライン3、早番、日曜休み。翌週も同じで、その次の週も同じになっている。長く立っていたらしく、うしろから来た人にどいてくれと言われる。 最後の日は晴れて、残暑が戻る。 午前はひじきに替わる。ひじきの日は視界が黒く続くので、黒の中の黒を探すことになって、目の使い方がポテトサラダの日と逆になる。黒はごまかしが利くと梅木班長が前に言っていた。言い方はもっと短かった。 「黒は楽だ」 楽ではない。黒の上では、白いものと透明なものだけがよく浮く。浮くのに、六月から後、白いのも透明なのも、一度も自分の目のところへ来ない。七月に上げたのは三件で、去年の同じ月は九件だった。三件はどれも髪と虫で、つまり黒いものと動くものだけを拾っている。拾えないのではなくて、拾ったあとの手のほうが動かないだけではないか。そう考えかけて、そこで止める。 最後の日だからといってラインの速度が変わるわけではない。〇・八秒はそのままで、交代も普通に回る。十時の交代で安西さんが先に休憩に入って、戻ってきて、また立つ。昼前に金属検知機の警報が一度鳴るが、機械の感度のほうで、五味さんが来て七、八分で終わる。金属検知機は検品の後ろにあって、そこを通ってから、X線に入る。金属でないものは鳴らない。鳴らないものは手前で見る、という順番になっている。手前というのは、この台のことになる。 帰りぎわ、五味さんが梅木班長を廊下でつかまえて、報告書の様式が今月から変わったことを説明している。 「写し、二部から三部になりました」 「三部目はどこへ行くんだ」 「本社の品証です。工場の控えとは別で」 「別に出すのか」 「別に出します」 「面倒だな」 「面倒です」 三部目に判子が要るのかどうかという話を、二人が四分ばかりしている。 終業は五時十分になる。更衣室で白衣をクリーニングの袋に入れて、名札を外す。名札は安全ピンで、外すときに親指の腹をいつも少し押す。安西さんのロッカーは奥から二番目で、扉の裏に去年配られた安全標語のシールが貼ってあって、剥がすと跡が残るので、そのままにするらしい。ロッカーの表のテプラの名前だけを爪でめくって、四つに折って、袋に入れる。中身はコンビニの袋一つに全部入る。ハンドクリームと、替えのマスクと、輪ゴムでまとめた領収書。それだけを五年分と呼ぶには少ないが、こういうものだと思う。着替えているあいだ、誰も何も言わない。奥のほうでは、明日の早番が二人来ないという話をしている。 「これ、七月に借りたやつ」 白い充電ケーブルを袋から出して、こちらへ寄こす。差し込み口のゴムが裂けているのは貸す前からで、そのことは言わない。ポケットに入れて、いえ、と言いかけて、ありがとうございます、に変える。 梅木班長が入口のところに立っている。中までは入ってこない。 「安西、長いことお疲れさん」 「お世話になりました」 「離職票な、月末締めだから、郵送は来月の八日か九日になる。住所が変わるんだったら総務に言っといて」 「はい」 「引っ越しはいつ」 「まだ、決まってなくて」 班長はそれ以上聞かず、ああ、と言って、事務所のほうへ歩き出す。二歩行ってから戻ってくる。 「月曜から一人入る。四日ばかり横について、やり方を教えてやってくれ」 「はい」 八月に呼ばれたときと同じ返事をしていることに、言ってから気づく。 通用口を出ると外はまだ明るい。駐車場の白線が先週引き直されたばかりで、白が強い。安西さんは自転車のかごにコンビニの袋を入れて、サドルを手のひらで一度拭いてから跨がる。ハンドルを持ったままこちらを向いて、頭を下げる。深くはない。こちらも下げる。 「安西さん」 呼んだところで続きがない。転勤先も、荷造りのことも、体のことも、この場で聞けば聞ける距離にいる。 「なんでもないです」 自転車は正門のほうへ出ていって、坂の下で右に曲がる。曲がったあとも、しばらく同じところを見ている。 別に、何とも思っていない。人が辞めるのはよくあることで、去年はこの班から四人抜けている。一人は腰で、一人は親の介護で、一人は別の工場へ移って、残りの一人は理由を聞いていない。 駐輪場のいちばん端に停めた自分の自転車のところまで歩いて、鍵をポケットから出して、鍵穴に差す。回らない。逆さまに持っている。 市営住宅の階段を三階まで上がってから、郵便受けを見ていないことに気づいて、下りる。電気の検針票と、市の広報と、母あての封書が一通入っている。封書は市役所からで、去年の同じころにも同じ色のものが来ていた。母は今日は早く出ていて、台所には朝の洗い物がそのまま残っている。流しの縁に洗剤の泡が乾いてついている。冷蔵庫の中に、半額のシールを貼った刺身が一パック。立ったまま食べて、パックを洗って、資源ごみへ入れる。工場で一日じゅう食べ物を見ていても、家で食べ物を見るのが嫌になることはない。そこは自分でも変だと思っている。 風呂に入る前にゲームを開く。イベントは今夜の二十三時五十九分までで、周回はあと十一回残っている。充電が二十六パーセントしかないので、ケーブルを探して、ポケットに入れたままだったのを思い出す。差し込むと、ちゃんと充電が始まる。 第十章 四時半に母が帰ってくる音で一度目が覚めて、また寝て、五時五十分に起きる。台所の卓に湿布の箱が出したままになっている。先週の火曜に整形外科へ行ってレントゲンを撮って、骨には異常がないと言われて、それが出た。腰は三月から痛い。貼るのは自分では手が回らないというので寝る前に私が貼ることになっていて、撮った晩は一枚目を貼りながら聞いた。 「先生、なんて言ってた」 「骨はどこもなんともないって。きれいなもんだって」 「じゃあ痛いのは何なの」 「なんだったかしらねえ。まだ若い先生でね、白衣がぶかぶかなの」 二枚目のときに、白衣がぶかぶかだという話がもう一度出た。箱の中身は十四枚のうち九枚残っている。昨日は帰りが行き違いになったから貼っていない。冷蔵庫のいちばん下の段からパンを出して、マーガリンを塗る。マーガリンは今は切らしていない。 二階と三階のあいだの電球が切れている。 三階と四階のは八月の終わりにやっと替わって、替わった二週間後に下のほうが切れた。市役所に電話するのは母の役目ということになっていて、母は前のときに一度かけている。かけたことがあるのだから今度もかけられるはずだと思っていて、そのまま九月が終わった。降りるときは手すりを持つ。自転車の前輪は九月の三連休にスタンドで入れてもらったのに、ひと月もたないでまた柔らかくなっている。県道に出て信号を五つ渡ると工場の壁が見えてくる。下から一メートルほどが排水の跡で灰色になっているのは去年からで、今年の夏にその灰色の上へ苔が出た。七時三十八分にカードを読ませる。 更衣室の窓は十月に入ってから閉めてある。 ロッカーは下の段の二十九番で、扉の内側に貼ってあった去年の衛生講習の受講票は九月のうちに落ちた。糊のあとが四角く残っていて、その縁にだけ埃がついている。白衣の下に長袖を着てくる人が先週から増えた。半袖のままでいるのは、腕に鳥肌が立つのが最初の三十分だけだからで、寒いと言うと自分の二枚目を貸そうとする人が出てくる。粘着ローラーの持ち手のシールは、去年の秋にセロテープで留め直したところが端から巻き上がって字の上に固まっているので、自分のは持ち手の裏につけたボールペンの点で見分ける。肩から袖へ、脇の下、腰、腿の外側、裾。一方向に転がす。かけ終わってからもう一度、袖口だけをかける。袖口はみんなが忘れる。夏は一本目で紙が湿ったのに、今は三周しても白いままで、粘りのほうが先になくなる。空気が乾くと毛が服から離れにくくなると入ったころに教わったが、離れにくいのか、離れているのに取れていないのかを確かめる方法はない。背中は隣にいる人に頼む。左に立っていた人が九月の末で辞めてから、背中を頼む相手が日替わりになった。第1ラインから応援が来る日と来ない日があって、来ない日は入口のところで二分ほど待ってから、自分で腕を後ろに回す。肩甲骨の間には届かない。 エアシャワーの十五秒は、十月になっても風が温い。 今日はきんぴらで、三時からポテトサラダに替わる。充填機がトレーにごぼうを落として、シーラーがフィルムを熱で押さえて、そこから検品台まで一メートル四十センチある。立ち位置は右から二番目で、ずっと同じところに立っている。右に沙也香がいる。左は今日、第1ラインから来た人で、名前は朝に聞いたが、二日前にも別の人が入っていて、その人の名前と混ざっている。〇・八秒に一枚。きんぴらは茶色に濃淡があるから、黒い毛が一本浮けば分かることになっている。分かることになっているというのは、去年まで実際にそうだったからで、今もそのやり方のまま立っている。見るものは四つあって、異物と、具の寄りと、シールの端と、日付の印字を、順番ではなく一度に見る。充填量は山の高さで分かるが、きんぴらは高さが同じでも隙間が多ければ軽い。目はトレーの中心より少し手前の空気に置く。置くと、動いているものと動いていないものが勝手に分かれて、違うものだけが残る。残らない。残らない日が続いている。手袋の中は乾いていて、指を曲げても音がしない。夏のあいだは汗で内側が指に張りついたので、一本ずつ曲げ伸ばしして剥がしながら見ていた。張りつかないぶん、指の先にフィルムの端が触れている感じが遠い。 一日に二万六千枚が流れる。 数えるのは機械のカウンターで、機械のほうが検品より後ろにあるのは、機械が疲れないからだと思っている。金属検知の先にX線がある。拾うのは金属で、それは五年目でも新しく入った人でも同じように知っていることになっていて、勉強会は年に一度ある。今年の分は十一月にやるらしい。日付はまだ貼り出されていない。 廊下に月ごとの板が下がっていて、梅木さんが正の字を足していく。 八月の私の欄は二本、九月は一本、十月はまだ何も引かれていない。今日で十六日になる。沙也香の欄は八月が四本で、九月が五本で、十月がすでに三本ある。第1ラインと第2ラインの欄も同じ板にあって、うちの欄が上にあるのは番号の順に並べてあるからで、それ以上の意味はない。板は月末に消される。写真は撮らない。梅木さんはペンの尻を二回カチカチやってから書いて、書き終わるとキャップを閉めずにポケットへ入れる。去年の十二月の板に何が書いてあったかを覚えているのは、たぶん私だけで、覚えていても使うところがない。 九時の交代で自販機の前に行くと、微糖が復活している。百二十円。 「江口さん、抜きましたよ、親知らず」 「いつ」 「先週の木曜です。三十分で終わって、そのあと二日、顔がこっちだけこう」 沙也香が右の頬を指で押してみせる。マスクを顎まで下げているので、そこだけ日に焼けていないのが分かる。 「合宿、行けたの」 「あー、それはもう無理でした。来年です。二月にしたんですよ、二月ちょっと安いんで。十七万八千」 「そう」 「予約金だけ一万払いました。返ってこないやつ。返ってこないほうが行くじゃないですか、絶対」 沙也香はミルクティーの缶を両手で持ったままでいる。 「部屋、四人と二人で一万五千違うんですよ。四人でよくないですか。どうせ寝るだけだし」 「二人のほうが寝られる」 「あー。あー、たしかに」 それから、駐輪場の猫が夏の終わりから来なくなったと言う。白と茶で、片方の耳が欠けていたやつだ。去年の秋から三番の柱のところにいた。名前はつけていない。つけると情が湧くから、と言ったのは沙也香で、四月の話になる。 「江口さん、あれ、名前つけときゃよかったですかね」 「わかんない」 「つけてたら探すじゃないですか、まだ」 十分のうち三分は行き来に使う。飲みきれないぶんは流しに捨てて、手を洗って、温風で乾かして、エアシャワーをもう一度通ってから戻る。 梅木さんが検品台の脇に来て、上流から一枚抜いて秤に載せる。数字は私の位置からは見えない。抜かれたのがどのトレーだったかは覚えていて、覚えていることを書く欄はない。 「江口さん、来週の火曜、二階の面談な」 「はい」 「十分で終わる。俺も出るから」 「はい」 「人、ほんとに来ねえんだ。来週から二ラインの人が二人、こっち入る」 「はい」 「教えんのは江口さんな」 梅木さんは秤の数字を紙に書き写して、ペンの尻で二回、紙の端を叩いてから上流へ戻っていく。娘さんの話はしない。八月に一度したきりで、私は塩飴の礼を言っていない。飴の袋は白衣のポケットから出して、更衣室の棚の上に置いたままにしてある。 昼の前に、ラインの端のクリップボードのところで足を止めて、指先で紙の角を上げる。 生産指示票の一枚目に、ロット番号が1016-3Aと印字してある。予定数のところに二二〇〇と入っていて、その下に開始時刻と充填の設定重量と担当者の欄がある。担当者の欄には梅木さんの字で名字が四つ並んでいて、上から二番目が自分のになっている。紙を戻して、クリップの金具を指で押さえて音を立てないようにする。壁の配送表の同じ行には店の名前が六つ並んでいる。上の二つは藤代の店で、そこから先は読まない。三つ目の名前の途中で目のほうが先に離れて、離れたあとで紙の角を戻している。 一時から午後が始まって、三時にポテトサラダに替わる。 三時二十分に、右で沙也香が手を上げて、左手で赤いボタンを叩く。コンベアが止まるときは、モーターの落ちていく音より先に、トレーどうしが軽くぶつかる音のほうが来る。列が詰まって、フィルムの下でポテトサラダの表面が片側に寄る。沙也香が指しているのは、きゅうりの緑の脇に立っている白い毛で、長さが二センチある。ヘアネットの中から落ちる長さではない。梅木さんが来て、少し遅れて五味さんが来る。五味さんは手袋を新しいものに替えてから両手でトレーを持ち上げ、底の番号を読み上げて、前後の十枚を抜く。工場の白いほうの携帯で撮るので、消せないシャッター音が二回鳴る。用紙の発見者の欄に戸倉と書かれ、工程の欄は検品になる。 「江口さん、こっち通ってますよね」 「通ってます」 「何枚くらい前か、分かります」 「分かりません」 五味さんは、分からないという返事を用紙に書かない。書く欄がないからで、代わりに時刻の欄へ十五時二十二分と入れる。声の高さは朝の挨拶と変わらない。前後の十枚を数え直すのは梅木さんで、数え直しているあいだにテープの端が手袋に貼りついて、一度剥がしてからコンテナの角に貼り直し、その上にマジックで日付を書く。廃棄の枚数は月末に紙になって貼り出される。原因の調査は五味さんが一人でやって、出なければ用紙の原因の欄に推定と書いて、対策の欄に注意喚起と書く。注意喚起は明日の朝礼で読まれる。読むのは梅木さんで、読み終わってから一度、全員のほうを見る。 十五時三十一分にラインが起きる。 音が戻って、また〇・八秒に一枚になる。ポテトサラダのトレーは白いので、緑と橙がよく見える。よく見えるということは混ざったものも見えるということで、ポテサラの日は数が出ると去年までは思っていた。じゃがいもの色のおかげだと思っていた。手袋の中はやはり乾いている。目はトレーの中心より少し手前に置いてある。置いてあるつもりでいる。四時までにシールの浮きを二つ抜いて脇のバットに積み、十枚たまるのを待たずに沙也香が奥へ運んでいく。異物ではないので板には載らない。四時を過ぎたころ、通り過ぎたあとで何かがあった気がして首が動きかけて、そのぶん次の二つが行く。二つで一秒六になる。首は戻す。戻したところから、また同じ速さで来る。 「江口さん、それ、さっきの──」 右で沙也香が言っている。マスクの中なので語尾が聞こえない。聞き返さない。 印字は左下に打たれていて、26.10.18が二秒に一回ずつ通っていく。終業まであと五十分ある。
小説 · text · 2026-09-07