FFAVENIA

小説 · text · 2026-09-07

わたしは覚えている

しゅう1
わたしは覚えているのカバー

第一章 記録を残すことにした。 ノートはコクヨのキャンパスノート、B5のA罫、三十枚綴りを二冊買った。二〇二六年十月六日、火曜日の午後六時すぎ、藤沢本町の駅前の文具店で、いちばん下の棚から取った。二冊で三百三十円だった。一冊で足りるかどうか分からなかったので二冊にして、レジで小銭を数えているあいだ、店の人は横を向いて待っていた。 表紙の白い枠に、油性のボールペンで書きはじめの日付だけを入れた。終わりの日付の欄は空けてある。十三年間、他人の記録を書いてきた人間の手はそういうふうに動く。診療報酬の明細書は月初の十日で締める決まりで、その期間は昼を抜くこともあった。返戻された分には赤いふせんを貼り、理由を鉛筆で書き添えて、まとめて院長の机の左端に置いた。右手の親指の付け根が痛むようになったのは二〇一八年の冬で、整形外科では腱鞘炎だと言われた。湿布を巻いたまま打っていた。クリニックの受付は八時四十五分に開ける決まりで、そのためには八時十五分には裏の勝手口から入って、レジの釣り銭を数え、待合の椅子を拭き、加湿器の水を替え、前の日に届いた検査結果の封筒を診察室の机に並べておかなければならなかった。順番はいつも同じにしていた。順番を変えると、必ずどこかが抜ける。電話は三コール以内に取ること、保険証は月に一度必ず預かること、患者さんの前で他の職員の名前を呼び捨てにしないこと、この三つは自分で紙に書いて受付の内側に貼っていた。あとから入ってきた人は、それを見ずに覚えた。二〇二四年三月三十一日付で辞めるまで、一日も休まなかった。 書いているボールペンは、クリニックで使っていたのと同じ〇・五ミリの油性で、辞めるときに自分の筆記具は全部持って帰った。持って帰っていいものと、いけないものの区別はついている。 自分のことを書くのは初めてだった。 部屋は駅から歩いて十一分、二階の角部屋で、六畳とダイニングキッチンが四畳半ついている。家賃は六万二千円、共益費が三千円、更新は来年の二月末になる。二〇一九年の秋に隆が出ていってから、ここにいる。台所の換気扇のフィルターは七月十二日に替えた。流しの下の排水パイプの継ぎ目から水がにじむので、去年の八月十九日に管理会社へ書面で連絡して、その控えを二穴ファイルの三番目に綴じてある。返事の葉書も同じファイルに入れた。まだ直っていない。ベランダに出ると、隣の家の物干し竿と、その向こうに屋根瓦が並んでいて、晴れた日の午前中だけ洗濯物に日が当たる。夜は台所の蛍光灯が切れかけていて、点けてしばらくは端のほうがちらつく。二十形の直管で、型番は手帳に控えてある。 まだ買いに行っていない。 朝は六時十分に目が覚める。目覚ましは掛けていない。十三年ぶんの習慣というものは辞めたあとも体のほうに残っていて、起きてしまってから、行くところがないことを思い出すまでに四十分ほどかかる。その四十分のあいだに洗濯機を回しておくと、干す頃にちょうど日が当たる。掛け布団は五月に薄いものへ替えて、十月一日にまた厚いほうへ戻した。 九月の終わりに、毎月出ていくものを一枚の紙に書き出した。 ・家賃 六二、〇〇〇円 ・共益費 三、〇〇〇円 ・国民健康保険料 六、八〇〇円(減免を申請中) ・国民年金 全額免除(七月に承認) ・電気、ガス、水道 平均して八、四〇〇円 ・携帯 二、九七八円 ゆうちょの通帳には三十一万二千五百四十円あって、横浜銀行のほうは四万千二百八円あり、こちらは引き落とし専用にしている。失業給付は去年の二月十三日で終わった。果林の学費は隆が出している。これは果林から聞いた。食費は一日七百円までと決めていて、レシートは月ごとに封筒に入れてある。九月は二万一千四百三十円だった。美容院には二〇二五年の四月から行っていない。前髪は洗面所の鏡の前で自分で切っていて、耳の上のあたりが少しずつ短くなっていくのは分かっている。冬物のコートは十四年前に買ったもので、袖口の裏地が擦り切れているが、腕を下ろしていれば見えない。 十月一日、木曜日、市役所へ行った。国民健康保険料の減免の件で、同じ申請を六月にも一度出している。八時半に着いて、番号札は四十七番だった。呼ばれるまで二十分かかった。前に座っていた男性の相談が長引いていたので、待っているあいだに壁の掲示を三回読んだ。マイナンバーカードの受け取りの案内と、庭の水たまりから蚊が出るという注意書きと、市の献血バスの日程が横に並べて貼ってあった。窓口の職員は若い女性で、たぶん二十代の半ばだった。机の端に、ピンクの付箋の束と、透明なケースに入った印鑑と、飲みかけのお茶のペットボトルが置いてあった。書類を上から順に確かめて、指の腹で一枚めくってから、こう言った。 「園部さんの場合ですと、昨年の所得の証明がもう一枚必要になるかたちですね」 「六月にお出ししています」 「六月にいただいたのは、前の年度のぶんになりますので」 「同じ紙です」 「はい。ただ、年度が切り替わっておりまして」 「わたしの収入は六月から変わっていません。ゼロです」 「そうですよね。ただ、申請の要件のほうを年度で見るかたちになっておりまして、こちらではそこを動かせないんです」 それから少し黙って、三番の窓口で先に取ってきてほしいと言われた。三番には、来たときにいちばんに行っている。 「三番には最初に行きました」 「すみません、こちらの説明が足りていませんでした」 謝られたので、それ以上は言わなかった。三番でまた十五分待って、証明書は一通三百円だった。五番の窓口に戻ったのは十一時を回ってからで、そのときには別の職員に替わっていた。 「恐れ入ります、番号札をもう一度お取りいただけますか」 「さっきの続きです」 「はい。ただ、こちらの画面で一度閉じてしまっておりまして」 八十二番だった。前に十九人いた。市役所の一階は暖房が入っていて、コートを脱いで膝に置いていたら腿の上が汗ばんできたので、その日は申請を出さずに帰った。 帰りに藤沢橋の手前のスーパーで、見切りの札が貼られた鶏むね肉を二枚と、もやしを一袋、六枚切りの食パンを買った。鶏むね肉は二枚で二百十八円、もやしは十九円だった。レジで前に並んでいた母親と子どもが、袋を買うかどうかで少し揉めていて、三円のことだった。家に帰って塩をして焼いて、皿に取り、箸置きも出した。作る量が二人分になるのはまだ直らない。残りはタッパーに詰めて、次の日の昼に自分で食べた。テレビは点けない。音がないと落ち着かないという人がいるけれど、こちらは十三年間、受付で人の声を聞き続けてきたので、静かなほうがいい。 十月二日、金曜日の九時二分に管理会社へ電話をかけた。担当は二年前から同じ人で、早口だった。 「園部さま、下の階への水漏れではないんですよね」 「にじむだけです。バケツを置いています」 「バケツですね。えー、すみません、それいつからでしたっけ」 「去年の八月十九日に書面でお出ししています。控えがあります」 「あー、はい、はい。ちょっとこちらでも確認しまして、大家さんに上げるかたちになるんですけれども」 「前も同じことを言われました」 「そうですよね、すみません。業者さんの手配がいま立て込んでいて、今月中にはご連絡できると思います」 「バケツは、どのくらいで替えたらいいですか」 「あー、そうですね、あふれない範囲で」 今月中、と言われた。どの月なのかは聞かなかった。電話を切って、通話の日時と内容をファイルの表紙の裏に書き足した。八行目になる。書き足すときは、日付、時刻、相手の名前、言われたこと、この順番と決めている。言われたことは言われたとおりに書く。日をまたいでから書くと言葉が変わってしまうので、その日のうちに書く。 十月四日、日曜日、十九時四分に果林に電話をかけた。三年生の後期が始まってから、こちらからかけるのは三度目だった。日曜の夜なら手が空いているだろうと思って、七時になるのを待ってからかけた。二回鳴って出た。 「もしもし」 「あ、お母さん」 「元気にしてる」 「うん。いま外にいる」 「ごはんは」 「これから食べる。あのさ、自転車の鍵なくしちゃったんだけど、合鍵ってどこで作るんだっけ」 「自転車屋さんで作れる。防犯登録の番号がいるから、車体のうしろに貼ってあるシールを見て」 「シール。うしろね」 「白いシールで、数字とアルファベットが入ってる。剥がれてたら登録し直しになる」 「うわ、めんどくさ」 「引っ越したときの書類の袋、まだ持ってる?」 「たぶん、どっかにはある」 「防犯登録の控えもその中。青い紙」 「わかった。あ、それとさ、こないだの、いい」 「なに」 「ううん、いい。あとで送る」 「ちゃんと食べてる?」 「食べてるよ。バイト戻るね」 「じゃあ、また」 「うん、またかけるね」 通話時間は二分十一秒だった。今年に入ってから、こちらからかけたのが十九回、果林からかかってきたのが四回になる。LINEは、すぐ既読になる日と、二日おいてから既読になる日がある。あとで送る、と言われたものは、まだ来ていない。実家のことは聞かなかった。 十月五日、月曜日の夕方に、姉から着信が一件あった。留守番電話が十九秒ぶん残っていた。 「志乃ちゃん、里美です。お母さんのことで一回、電話ください。夜でもいいので」 かけ直していない。用件は日付といっしょに書き取って、ファイルの表紙の裏に足した。 夜、十時をすぎてから、ノートを開いて書くことを順番に並べた。 一、二〇一一年四月に入職したこと。 二、二〇一六年に佐々木千夏さんが来たこと。 三、仕事が少しずつこちらから離れていったこと。 四、二〇一九年に隆が出ていったこと。 五、二〇二一年のクレームのこと。 六、二〇二三年にシフトを減らされたこと。宮内院長に相談したこと。 七、二〇二四年三月に辞めたこと。体調のためだった。 八、母のこと。 九、果林のこと。 順番はこれでいい。日付はすべて分かる。手帳は二〇一一年から一冊も捨てずに残してあって、抜けているのは二〇二〇年の一冊だけで、その年のことなら手帳がなくても覚えている。書けば長くなるところと、三行で済むところがある。長いほうから書く必要はない。 手帳は一冊ずつ輪ゴムで束ねて、押し入れの上の段の、いちばん手前の紙袋に入れてある。二〇一四年のものだけ表紙が反っているのは、その年の九月に駅からの帰りに雨に濡らしたからで、どこで濡らしたかもその日のページに書いてある。人は忘れると言う。忘れるのは、書かなかった人だけだ。 外で自転車のスタンドを立てる音がして、そのあとしばらく、上の階の人がベランダの窓を開けたり閉めたりしていた。十時四十分になっていた。ノートの一ページ目に、二〇二六年十月六日と書いた。それから、二〇一一年四月一日、と書いた。 明日は九時に市役所へ行く。五番の窓口は八時半から開いている。申請書には通帳の写しがいるので、コンビニでコピーを取っていく。一枚十円で、二枚いる。 第二章 二〇一一年から二〇一五年までのことを、順に書く。入ってからの四年と七か月で、わたしはあのクリニックの仕事を全部覚えた。 面接は二〇一一年五月二日、月曜日の午後二時だった。宮内クリニックは藤沢駅から歩いて十二分、内科と消化器内科で、院長は履歴書を裏返したり表に戻したりしながら、わたしの前の勤め先の名前を二度読み違えた。診察室の机には湯呑みが二つ出ていて、片方には何も入っていなかった。 「えーと、園部さん。藤沢の方じゃ、ないんだ」 「藤沢です。実家も藤沢です」 「あ、そう。ああ、ここに書いてあるね。うん。医療事務は、長いの」 「六年と四か月です。前は整形外科にいました」 「整形。じゃあ、うちは内科だから、なんていうか、まあ、慣れかな。あと、レセプトは、その、一人でやってもらうことに、なるんだけど」 「できます」 採用の電話は水曜の夕方に来た。台所で果林の水筒を洗っている最中で、手を拭かずに受話器を取ったから、切ったあとで受話器に水の輪が残っていて、布巾で拭いた。果林はその四月に一年生になったばかりで、わたしの足のうしろに立って、電話が終わるまで洗いかけの水筒を両手で持っていた。初めての給料で買ったのは、あの子の上履き入れである。 働きはじめたのは五月九日、月曜日だった。 前の医事の人は五月二十日で辞めた。引き継ぎは十二日しかなくて、日曜をのぞけば十一日、その十一日で、受付と会計とレセプトを全部渡された。渡されたというより、机の引き出しを順に開けて中を見せられただけで、説明はどこに何をしまうかで終わった。いちばん上の引き出しには輪ゴムと期限の切れた診察券の見本が入っていて、二段目が保険の一覧表、三段目が前の年の返戻の控えで、いちばん下の段は丸ごと空だった。ノートは出さなかった。書き取っている手もとを見ているより、動いている手を見ているほうが早い。四日目に、返戻が来たときにどうするのかを聞いた。 「返戻はあんまり来ませんから。来たら院長に見せてください」 「院長が直すんですか」 「うーん、直したことはないと思います。あ、この引き出し、鍵が固いんで、少し持ち上げてから回してくださいね」 「戻ってきた分は、どこかに数えてあるんですか」 「数えてないです。数えるものなんですか、それ」 「あと、院長は締切の前の日にいなくなることがあるので、そのつもりでいてください」 「いなくなる」 「学会とか、そういうのだと思います。行き先は聞いたことがないです」 数えるものである。わたしは入った年から、返戻の件数と、戻ってきた理由と、直した日をノートに書いた。二〇一二年に戻ってきたのは三件で、三件とも病名の付け方だった。そのノートは今も持っている。 朝の手順を書いておく。 ・八時二十分に裏口を開け、待合の窓を二か所開ける。 ・ブラインドを上げ、長椅子を固く絞った布巾で拭く。 ・前の日の夕方に数えた釣銭を金庫から出して、もう一度数える。 ・その日みえる方と、検査の結果が返ってきている方のカルテを先に出す。 ・九時に受付を開ける。 そのころクリニックにいたのは、院長と、常勤の看護師が二人と、火曜と金曜だけ来る看護師が一人と、事務のわたしである。時給は九百五十円で、二〇一三年の四月に千五十円になった。上がったのは、わたしが上げてくださいと頼んだからではない。 月の初めの、一日から九日までがどういうものかは、やったことのない人に説明しにくい。うちは月に七百四十枚から八百二十枚あって、前の月の診療をぜんぶ、レセコンの画面と紙のカルテを並べて一件ずつ突き合わせ、病名が抜けていないか、検査と病名が合っているか、摘要欄に書くべきことが書いてあるかを見ていく。院長は病名を書き落とす人で、二〇一一年の六月分だけで十四件あった。落ちているところはカルテの記載から見当をつけて入れ、付箋を貼って、あとで見てもらう。二日までは定時に帰れて、四日までは九時、五日から八日は十時を過ぎるまで残った。十時を回ると駅前の店はもう閉まっていて、自動販売機の温かいお茶を買い、待合のいちばん端の椅子に座って飲んだ。締切は十日で、うちは九日の午前に持って出ることにしていた。国保と社保に分けて封をし、返戻の直しを上に載せ、駅前の郵便局まで歩いて行く。雨の日は、書類が濡れないようにレジ袋を二重にして胴に抱えた。受付の上の蛍光灯はひとつ切れかけていて、二〇一一年の秋から翌年の二月まで、点くまでに四秒かかった。そのうち替えるよ、と院長は言った。替わったのは二月の終わりで、脚立に乗ったのは業者ではなく中村さんの旦那さんである。腰は最初の年の秋に痛くなった。椅子の高さが合っていなかったから、家から座布団を持っていって、二つに折って背中に当てた。座布団は辞める日まで同じものを使った。 出勤簿は二〇一一年の九月からわたしがつけた。それまでは月末に看護師さんがまとめて書いていて、日付の飛んでいる月があった。わたしは毎朝、裏口の鍵を開けたらすぐに時刻を書いた。月末に自分の分を清書して、写しを一部取ってから院長に出した。写しは家の押し入れに、月ごとにまとめて置いてある。十三年間、一度も遅刻をしていない。自慢で書いているのではなく、記録に残っていることを書いている。 家のことも書く。隆はそのころ市の課で窓口に出ていて、たいてい六時半には帰ってきた。夕飯のあとで、返戻が戻ってきた話をした。 「病名の付け方だって。去年の秋の分まで戻ってきてる」 「ふうん。うちも地番の振り直しでもめててさ、前の番地で覚えてる人が多いから、窓口で一人二十分かかるんだよ。地図を出して、指でなぞって」 「三件よ。三件とも同じところなの」 「うん。あ、そうだ、学童の終わる時間、来月から変わるって紙が来てた」 わたしは食器を片づけ、果林の連絡帳に判子を押した。果林はその年、二学期に一度だけ熱を出した。九月二十七日の夜に八度四分まで上がって、次の朝には七度台に下がっていたけれども、大事を取って休ませ、わたしは午前を休んで午後から出た。隆は休まなかった。あの子の記録は大学ノートにつけていて、その晩の欄には、八度四分、水分二百ミリリットル、九時二十分に眠る、と書いてある。ノートは今も押し入れの段ボールに入っている。 二〇一二年四月に電子カルテを入れた。四月は診療報酬の改定の月でもあるから、点数の変わったところに付箋を貼りながら、同じ月に入力の場所を覚えることになった。業者の説明会は平日の午後で、診療をやりながら出るわけにはいかない。四月八日と十五日の日曜日に、わたしは自分で出て操作を覚えた。鍵は前の週に院長から借りた。日曜の待合は暗くて、暖房を入れずに上着を着たまま、画面の前に二時間十分ずつ座った。伝票の種類で入力の順番が変わるところと、月をまたいだときの扱いだけ、紙に書き写して持ち帰った。二日目は昼を食べるのを忘れて、帰りに駅前で肉まんを買い、歩きながら食べた。リースは四年契約だった。 翌週、院長が受付の窓から顔を出した。 「日曜に来たんだって。いいのに、そんなの。業者なんて、何回でも呼べばいいんだから」 「呼ぶとお金がかかります」 「え、そう。かかるの。……そうか。ありがとうね。あ、それと、水曜の午後、休診にしようかと思ってるんだけど、どう」 「わたしはどちらでも」 「うん。まあ、また考える」 水曜の午後の話は、それきり出なかった。 二〇一三年の四月から、シフトの原案をわたしが作るようになった。事務長のいないクリニックでは、勤続の長い者が作る決まりになっている。作った表に文句を言われたことは一度もない。 久保田みつさんは大正十五年のお生まれで、娘さんが車で送ってきて、待合の椅子の右から二番目に座った。受付台に両手をついてから顔を上げる人で、話は決まって途中で別のところへ行った。 「あなた、この頃痩せたんじゃないの」 「そんなことないです」 「うちの孫がね、去年から横浜のほうに行ってて、電話もよこさないの。若いうちはそんなものだって、みんな言うけどね。あなた、傘は持ってきた」 「持ってきました」 「そう。降るからね、午後から。……先生、今日は白いのを着てるのね」 久保田さんは飴を受付台に置いていく人で、断ると次の回に二つ置いた。二〇一三年の一年で、引き出しにその飴が三十四個溜まった。 二〇一四年二月十四日は金曜日で、前の晩から雪が降っていた。六時に家を出て、藤沢の駅で一時間三十五分待った。ホームは人が三列に並んでいて、駅員が同じ放送を八回繰り返した。改札を出て歩くことも考えたけれども、その日の靴は底の薄いほうで、雪は歩道の縁石が見えないくらい積もっていた。動き出した電車が二駅先で止まり、また動いて、クリニックに着いたのが九時十五分だった。長靴は持っていなかったから、靴下は膝の下まで濡れていた。受付はもう開いていて、中村さんが保険証のコピーを取っていたのだが、二人分を取り違えて別の方のカルテに挟んでいた。午後の空いた時間に全部出して並べ直し、それから午前の入力を頭から見直した。院長はその日、雪の話しかしなかった。 「すごかったね。うちの前、膝まであったよ」 「電車が止まっていました」 「ああ、うん。スコップ、どこだっけ。去年、待合の裏に置いた気がするんだけど」 二日後の日曜、二月十六日に出て、二月分の下ごしらえを済ませた。時間はそれで足りた。 同じ年の九月に、一度だけ受付番号がずれた。朝の立ち上げの順番が逆になると、その日の番号は前の日の続きから振られる。ずれた日の朝、電子カルテの端末のほうが先に立ち上がっていた。呼ばれない方が三十八分待つことになり、頭を下げて、番号札を刷り直した。その日の午後、院長は休憩室に十七分黙って座っていた。立ち上げの順番は、そのあと紙に書いて端末の脇に貼り、全員に知らせた。 二〇一五年の四月から、そのノートに、返戻のほかのことも書くようになった。誰が、いつ、何を、どう間違えたか。日付と時刻を入れて、一行で書く。四月の一か月で二十二行になった。責めるために書いたのではない。同じことが二度起きないようにするために書いた。ノートは引き出しの奥の、茶封筒の下に入れておいた。 その年の忘年会で、院長がわたしのほうを見ないで言った。 「園部さんがいないと、もう回んないからね、ここ」 わたしは烏龍茶を飲んでいた。返事はしなかった。 二〇一五年十二月三十日、大掃除の日に、自分の机の引き出しを空にして、中身を台の上に並べた。 ・ボールペンは黒が四本、赤が二本あった。 ・輪ゴムは、引き継いだときからいちばん上の段に入っていたものを、そのまま使っている。 ・久保田さんの飴が十一個、袋に入れて残っていた。 ・前の医事の人が置いていった判子が一本出てきた。名前が違うので、使わないまま入れてある。 ・出勤簿の写しは、二〇一一年五月からの分を全部、茶封筒に入れて置いてある。 第三章 佐々木千夏さんが宮内クリニックに来たのは、二〇一六年四月十八日、月曜日でした。その前の週の金曜、診療が終わってから院長に呼ばれて、来週から人がひとり入るからよろしく、とだけ言われました。わたしはその日のうちに受付の奥のロッカーをひとつ空け、中に残っていた前の人の湯呑みと、期限の切れた栄養ドリンクを二本捨て、名札の台紙を余分に二枚切っておきました。台紙は一枚八十円の厚紙を四つに割って使います。八十円のうち、佐々木さんに使ったのは二十円です。 面接には立ち会っていません。 四月は診療報酬の改定の月です。二年に一度、点数が変わり、算定の要件が変わり、こちらは三月の末から新しい早見表に付箋を貼って身構えます。二〇一六年の改定では、紹介状を持たずに大きな病院にかかると別にお金が要るようになりましたから、そのことを一日に何度も説明しました。うちは藤沢駅から歩いて十二分、内科と消化器内科で、常勤は院長と看護師が二人、それに火曜と木曜の午前だけ来る看護師がひとり、受付と医事はわたしを入れて二人でした。改定の月に新しい人を入れるのはやめてください、と院長に申し上げたのはわたしです。院長は、まあまあ、とおっしゃって、湯呑みを持ったまま診察室に戻られました。そのころ院長は電子カルテのサーバーのリースの切り替えでずっと機嫌が悪く、業者の見積もりを二社から取り直させたあげく、もとの会社に決めました。差額は月に三千二百円でした。 それでも来ました。 四月十八日、佐々木さんは八時四十分に来ました。始業は九時ですから、早いほうです。白いスニーカーで、髪をうしろでひとつに結んで、紙袋を提げていて、中身は上履きと、横浜の駅ビルに入っている店の菓子折りでした。十二個入りで、うちは全部で六人でしたから、二日に分けて出しました。 「佐々木千夏です。前は横浜の総合病院の医事課におりました」 「園部です。ここは総合病院とはやり方が違いますから、そのつもりでいてください」 「はい」 「朝は、電子カルテを立ち上げる前にレセコンのほうから触ってください。順番を逆にすると、その日の受付番号がずれます」 「ずれると、どうなるんですか」 「休憩は交代です。十二時半からと、一時からで、わたしが後です」 「はい」 「二〇一一年から、後です」 わたしはそのとき、番号のことには答えませんでした。ずれたときにどうなるかを説明するには、ずれた日のことを話さなくてはなりません。二〇一四年の九月にいちど番号がずれて、患者さんを三十八分よけいに待たせ、そのあと院長が休憩室で十五分ほど黙って座っていました。来たばかりの人に話すことではありません。 五月と六月は、わたしが教えました。保険証は必ず両面を確認すること、期限の近いものは鉛筆で薄く印をつけて翌月のはじめに声をかけること、公費の受給者証はコピーを取ってから返すこと、月初の五日間はレセプトの点検で必ず残業になること、返戻が戻ってきたら日付と病名の順で見ること。口で言ってもわからないところは、返戻の実物を三枚並べて見せました。 「これ、去年のですよね」 「去年の九月です。同じ間違いが三回続きましたので、取ってあります」 「取ってあるんですか」 「取っておかないと、また同じことをします」 「園部さん、南口のパン屋さんって、まだありますか。学生のころ、このあたりに住んでいたので」 「わかりません」 「そうですよね。すみません」 佐々木さんはそれきりパン屋の話をしませんでした。わたしは南口にパン屋があるかどうかを、いまも知りません。十三年通って、駅の南口には一度も用がありませんでした。 佐々木さんは細かい字で手帳に書き取っていました。書き取るのは悪いことではありません。わたしは書き取ったことがありません。前の医事の人が辞めるまでの十一日で、全部覚えました。 覚えるのが仕事です。 六月八日の水曜に、給湯器の点検のはがきが来ました。その日は月初の直しが残っていて、家に着いたのは十時十五分でした。隆はテレビの前で録画した野球を見ていて、果林はもう寝ていました。連絡帳にサインをするのを忘れていたのを思い出し、台所の電気だけつけて書きました。果林はそのとき小学五年で、上履きのかかとをいつも踏んでいました。かかとを踏むと減りが早いので、上履きは年に三足買いました。 「今日から入った人、三十五だって」 「ふうん」 「横浜の総合病院にいたって。うちみたいな小さいところは初めてらしいけど」 「点検さ、平日しか来ないって。はがき、冷蔵庫に貼っといた」 「平日は無理」 「うん」 隆は野球の続きを見ました。その次の週も、その次の週も、はがきは冷蔵庫に貼ったままでした。九月にお湯の出が悪くなって、そのときにようやく電話をしたのはわたしです。電話は平日の昼休みにかけました。十二分かかりました。 台所で連絡帳を書いていると、果林が起きてきて冷蔵庫を開けました。 「麦茶ない」 「作ってない。水にして」 「明日、上履き」 「それ、連絡帳に書いてあった」 「言った」 「いつ」 「言った」 果林はコップに水を汲み、口をつけずに流しの縁に置いて、部屋へ戻りました。上履きは翌朝、袋に入れて玄関に出しておきました。買ったのは前の日曜の午前です。二十三センチはその一足が最後で、棚には二十四センチしか残っていませんでした。 九月になると、佐々木さんは受付にひとりで立てるようになりました。患者さんのほうから佐々木さんに話しかけることが増えました。血圧のお薬をもらっている方が、待合の椅子からわざわざ立ち上がって、佐々木さんの前まで来て話していきます。十月の火曜に聞こえたのは、こういうやりとりでした。 「新しい人なの」 「四月からです」 「若い人が入るとねえ、なんだか明るくていいわ」 「ありがとうございます」 「わたしね、来月から膝のほうもこっちで診てもらおうかと思ってるの」 「先生にお伝えしておきますね」 膝は整形外科の領分です。うちでは診られません。お伝えしておきますね、と言えばその場は済みます。わたしは、済ませたことがありません。整形の紹介先を三軒、待ち時間と駐車場の有無まで頭に入れて、そのつど紙に書いてお渡ししていました。わたしのところへは来ません。わたしは会計の窓口にいて、釣り銭の百円玉が切れていないかを見ていました。百円玉は月曜の朝に両替に行きます。銀行は駅の反対側で、往復で二十六分かかります。その二十六分は、これまでに二百六十二回です。誰も数えたことがありません。 十月の月初、レセプトの点検の日に、佐々木さんが端末で患者さんを探しているのを見ました。名前の読みを入れて、生年月日で絞って、それから保険の情報を出す。時計で計ったら二十八秒でした。わたしにはその二十八秒が要りません。頭に入っているからです。 今でも書けます。 ・相川とし江さん、昭和六年三月九日のお生まれで、国民健康保険、記号は藤、番号は四四五二八です。木曜の午前にみえて、診察券をいつも定期入れに挟んでいらっしゃいました。 ・大場誠一さん、昭和二十二年十一月二日のお生まれで、協会けんぽ、記号は一二三、番号は八〇六です。糖尿のお薬を三か月分まとめて出してほしいと毎回おっしゃいました。 ・久保田みつさん、大正十五年一月二十日のお生まれで、後期高齢者医療、被保険者番号は〇七三一二九四五です。娘さんが車で送ってきて、待合の椅子の右から二番目に座られました。 ・野々村剛さん、昭和四十八年六月十四日のお生まれで、組合健保、記号は四〇、番号は一一〇二です。会社の健診で引っかかったとおっしゃって、はじめの半年は二週間に一度みえました。 十年七か月たっても順に出てきます。番号だけではありません。その方が何曜日の何時ごろにみえて、待合のどこに座って、どのお薬をいやがって、どの季節に咳をされたかまで出てきます。わたしは覚えています。覚えているというのは、一人ずつちゃんと見ていたということです。端末を二十八秒のぞく人には、それはできません。見ていない人は、その方が定期入れを開ける手つきを知りません。 十一月一日の朝礼で、院長が、金曜の午後だけ会計を佐々木さんに任せる、と言いました。会計の待ちが長いという声が二件あったそうです。二件というのは、七月から十月までの四か月で二件です。同じ期間に受け付けた患者さんは四千百七十二人です。 「いや、あの、園部さんのやり方が、その、悪いというね、そういう話ではなくてね」 「悪いとは思っておりません」 「うん、うん」 「金曜の午後は返戻の直しに充てています。会計に人を増やすと、直しが翌週へ回ります」 「まあ、やってみて、だめならまた考えるから」 だめならまた考えるから、と院長は年に何度もおっしゃいました。だめだったときにまた戻したことは、わたしの記憶では一度もありません。 その日の昼、休憩室で看護師の中村さんに言われました。 「園部さん、真面目すぎるのよ。院長は決めるのが苦手なだけなんだから、いちいち気にしなくていいの」 「気にしていません」 「うちの子も来年受験でね、それどころじゃないの」 「そうですか」 「だから気にしないの」 中村さんはお弁当の蓋を開けて、卵焼きから食べました。わたしは気にしていません。気にしていないことを人から気にするなと言われたのは、そのときがはじめてでした。 十二月の第二週、佐々木さんが二日続けて休みました。静岡のお父さんが入院した、と院長から聞きました。わたしはその二日、受付と会計の両方に立って、二百三十七人を通しました。両方に立つと、昼は立ったまま食べます。パンの袋を左手に持って、右手で受付の呼び出しを押します。 「大変でしたね。二日で二百三十七人でした」 「すみませんでした」 「明日からの金曜の会計は、予定どおりお願いします」 「はい。あの、園部さん」 「なんでしょう」 「いえ、なんでもないです」 佐々木さんはロッカーのほうへ行きました。静岡のお父さんの話は、それきり出ませんでした。わたしは訊きませんでした。訊かないのが礼儀だと思ったからです。 その年、わたしは有給を一日も使いませんでした。十一月に十八日もらって、前の年の残りが十六日、合わせて三十四日です。繰り越せるのは前の年の分までですから、古いほうから、年が明けると消えます。佐々木さんは十二月二十九日から一月四日まで休みました。わたしは十二月三十日の午前、誰もいない受付で返戻を七枚直し、そのあとロッカーの上の埃を拭いて、菓子折りの空き箱を潰して紐でくくって捨てました。四月からずっと、ロッカーの上に置いてあった箱です。 第四章 二〇一七年と二〇一八年のことを、順を追って書く。この二年で、わたしの仕事は一つずつ無くなった。無くなった、という書き方は正確でない。一つずつ、手から外された。 クリニックの受付は間口が二つあって、右が保険証と問診票の受け取り、左が会計と次回予約に分かれていた。入職した二〇一一年からわたしはずっと右にいて、朝は八時二十分に裏口を開け、ブラインドを上げ、待合の長椅子を固く絞った布巾で拭き、加湿器の水を替え、電子カルテの端末三台に電源を入れて、九時の受付開始までに全部を終わらせていた。釣銭は前の日の夕方に数えて、五百円玉が十枚を切っていたら、朝の開店前に駅前の銀行の両替機まで歩いた。往復で十四分かかる。手順は決まっていて、決まっているのだから、誰かに言われる前に済ませた。二〇一七年一月四日、水曜日、仕事始めの朝も同じようにした。自動ドアの内側に年末年始の休診案内が貼ったまま残っていたので、剥がして、新しい掲示に替えた。剥がした紙はその場で捨てず、日付を確かめてから捨てた。 その月から、レセプトの点検が二人体制になった。 朝礼で院長が言った。 「あの、今月からね、レセ、二人で見てもらえると、その、目が二つあると、うん、いいと思って」 「二人というのは、どちらが最終ですか」 「え」 「最終確認をどちらがやるか、ということです」 「ああ、それはまあ、そのつど、ね。佐々木さん、そのへん、うまくやってもらって」 「月末の締めのところだけでも、決めておいたほうがいいと思います」 「うん、まあ、決めるというかね、その、ほら、二人でやるんだから」 「はい」 佐々木さんの返事はそれだけで、返事をしながらもう手元のバインダーを開いていた。院長は最後まで言い切らない人で、語尾はいつも机の上に置き忘れられていた。 レセプトは月初の十日で仕上げる。前の月の診療分を全部、病名と検査と投薬の整合で見て、返戻や査定で戻ってきた分を直し、期限までに送る。うちは月に八百枚前後あって、そのうち十枚ほどが必ず引っかかった。二〇一一年から一人でそれをやってきて、六年のあいだに戻ってきたのは二十二件だけだった。数えているのは、数えておかないと自分の仕事の形が分からなくなるからで、そのノートは今も持っている。戻ってきた二十二件のうち十四件は、検査に対して傷病名が足りないという理由で、疑いの病名を入れ忘れたのではなく、院長が診察のときに口で言ったことをカルテに書かないまま次の患者さんを呼んでしまうからだった。その分は診察室に行って、順番の切れ目を待って、書き足してもらった。二人体制になった一月の分は、佐々木さんが後ろから半分を見た。付箋が七枚ついて返ってきた。七枚のうち五枚は摘要欄の書き方で、二枚は病名を並べる順番についてだった。どちらもそれまで一度も指摘されたことのない書き方で、六年間、そのやり方で通っていた。付箋の色は薄い緑で、うちの受付では使っていない色だった。直しに二時間かかって、その日は七時四十分まで残った。残業の申請は月に十時間までと決まっていたので、七時以降の分は書かなかった。 三月十四日のことは、一字一句そのまま書ける。 その日は火曜で、朝から雨で、傘立てが足りずに玄関マットの端が濡れていた。予約外の人が続けて七人来て、午前の診察が三十分押し、昼の休憩がそのぶんずれた。朝のうちに佐々木さんから「あ、園部さん、レセの三番のとこ、あれ、あとでわたし見ますね」と言われていて、その三番は前の週にもう直してあった。廊下でパートの人が誰かと話していた。 「それ、明日でいいって、ねえ」 「うん、でも今日中って、書いてあった気が」 「書いてあった」 「たぶん。ううん、どうだったかな。ねえ、傘、誰の」 給湯室でわたしが自分の湯呑みを洗っていると、佐々木さんが入ってきて、後ろで立ち止まり、こう言った。 「園部さん、あなたのやり方は非効率で、患者さんに迷惑をかけています」 一字一句、この通りだった。湯呑みは十年前に果林が母の日にくれたもので、内側の底に茶渋の輪が二本ついていて、洗っても取れない。それを伏せて、布巾で手を拭いてから振り返った。ポットの湯が沸いてスイッチの上がる音がして、給湯室にはもう誰もいなかった。壁の時計は一時二十分を指していた。それから午後の受付に出て、五時半までに三十七人を通した。夕方に雨が上がって、忘れ物の傘が三本残った。 電話が減ったのは六月からだった。二台あるうちの一台が佐々木さんの席の脇に移されて、コール音が二回鳴る前に取られるようになった。六月の第二週にわたしが取った電話は四本で、前の月の同じ週は六十一本だった。数えたのは、減っていく速さを自分で確かめておきたかったからで、正の字ではなく、時刻と用件を横に書いた。十時四分は予約の変更で、十時十一分は薬の残りの問い合わせだった。四本のうち二本は同じ患者さんからで、耳が遠くて、一度切ってからもう一度かけてくる人だった。 十月には、材料の発注が佐々木さんに移った。ディスポの手袋と、消毒綿と、検尿のコップと、レセプト用紙の在庫を見て、月末に業者へファックスを流す仕事で、二〇一二年からわたしがやっていた。 「あの、手袋、Mが残り二箱ですけど」 「あ、それ、わたし、電話しときました、もう、先週」 「先週だと、納品が月をまたぐので」 「うん、まあ、来たら入れます、棚に」 来たのは十一月の二日で、Mではなく、Sが六箱だった。返品の連絡はわたしがした。 手から外れていった仕事を、日付と一緒に書いておく。 ・二〇一七年一月 レセプト点検(二人体制、以後は佐々木さんが最終確認) ・二〇一七年六月 電話の一次対応 ・二〇一七年十月 業者との発注のやりとり ・二〇一八年二月 新しく入った人への指導 ・二〇一八年十一月 右の窓口 五つある。五年かけて覚えたものが、二年で五つ減った。 二月に入った人は二十四歳で、前は調剤薬局にいたと言っていた。爪を短く切っていて、書くときに指を紙から浮かせた。わたしは受付の手順書を作って、机に置いておいた。十六ページあって、月末の締めのところだけ紙の色を変えた。 「園部さん、これ、机に置いてあったんですけど」 「手順書。読んでおくと楽だから」 「あ、はい、ありがとうございます。あの、でも、佐々木さんに教わったので、だいじょうぶです」 「順番が違うと、月末に困る」 「はい」 「困るのはあなたじゃなくて、締めのほう」 「あの、紙の色が変わってるところは、なんですか」 「月末の締め。そこを間違えると、月初の十日が全部やり直しになる」 「はい、すみません」 手順書は持って行かれて、翌週、棚の上に戻っていた。 二〇一八年の四月に診療報酬の改定があった。改定の年は、三月のうちに新しい点数を頭に入れておかないと、四月一日の朝に手が止まる。わたしは二月から家で準備をした。夕食の片づけを終えてから、ダイニングの端に通知を印刷したものを積んで、うちのクリニックで実際に取る項目だけを抜き、三十二ページの手引きにまとめた。家のプリンタの黒がすぐ切れるので、途中からコンビニで刷った。一枚十円で、二部で六百四十円かかった。終わるのはたいてい十二時を過ぎていて、隆が水を飲みに起きてきて、つけっぱなしの廊下の電気を消してから、何も言わずに寝室へ戻った。表紙をつけて、四月の初めに受付の棚へ置いた。四月三日、火曜日に、佐々木さんがA4一枚の対照表を作って、二つの窓口の壁に貼った。よく使う十四項目だけが、旧点数と新点数で並べてあった。看護師の子が「これ見やすい」と言って、写真に撮っていた。わたしの三十二ページは、六月の棚卸しのときにも、表紙のまま棚にあった。 隆はその頃、市役所の税の部署にいて、滞納の整理を担当していて、帰りは七時半だった。窓口で怒鳴られた日は玄関で靴を揃えるのに時間がかかる。腰が悪くて、椅子の背に薄い座布団を二枚重ねて敷いていた。夕食のあいだに、その日にあったことを話した。返ってくるのはたいてい「ふうん」で、たまに「そう」だった。夏の終わりに対照表の話をしていたら、隆が箸を置いて、炊飯器の内釜を流しへ運んだ。 「あの表、項目の並びが、去年わたしが作った表と同じで」 「ふうん」 「十四のうち、十一まで同じ順番なの」 「炊飯器、また保温のままだった」 「電気代の話は今しなくていい」 「もういいよ、その話は」 「まだ途中」 「うん、だから、聞いたよ。先週も、その、佐々木さんの」 「先週のは電話の数の話」 「明日、朝いちで差押えの説明が二件あるんだよ。座ってるだけで腰にくる」 「湿布、洗面所の下」 果林が台所に来て、冷蔵庫を開けて、麦茶を出した。 「お母さん、明日、お弁当いる」 「いる。何時に出るの」 「七時十五分。あと、体操服、洗った」 「洗ってない」 「じゃあいい、自分でやる」 果林はテレビの音量を二つ下げてから自分の部屋に入って、ドアを閉めた。制服のスカートが椅子の背にかかったままだった。皿を洗ったのは隆で、洗い終わるまで台所に立っていた。わたしは食卓に残って、翌日の受付の当番表を見ていた。 時給は二〇一七年四月に千五十円から千七十円になった。上がったことは給与明細に挟まった紙一枚で知らされて、面談は無かった。 十一月一日、木曜日に当番表が張り替えられた。右の窓口に佐々木さんの名前が入り、わたしの名前は「書類・ファイル」の欄に移っていた。誰からも説明は無く、朝、貼り替えられた紙を見て知った。奥の部屋は診察室の裏にあって、窓が無く、蛍光灯が一本切れかけていて、点くまでに二度またたいた。三畳ほどの広さに、スチールの棚が四本と、レントゲンの袋を入れる箱が積んである。カルテの返却と、紹介状の控えの整理と、袋の入れ替えをした。昼はそこで食べるようになって、パンの袋を膝の上で開けると音が響いた。壁ごしに受付の呼び出しの声が聞こえて、誰が呼ばれているかは全部分かった。患者さんの顔を見ない日が続いたけれど、名前は覚えていた。棚の並びも体に入っていて、目をつぶっても五十音の切れ目に指が入った。十二月に一度、左の窓口が混んだときに応援に呼ばれて、二十分だけ会計に立った。そのあいだに七人を通して、釣銭の間違いは無かった。 十二月二十八日、金曜日、仕事納めの日に、廊下で院長と行き会った。 「園部さん、あのね、来年のことなんだけど」 「はい」 「あ、いや、今じゃなくてね、年明けに、ちょっと時間もらえるかな」 「今でも大丈夫です」 「うん、まあ、その、来年度のね、ええと。園部さん、うちに来てもう十年になる」 「二〇一一年の四月からなので、来年の四月で八年です」 「そうか。八年か」 「はい」 そこへ看護師の子が「先生、三番の方」と呼びに来て、院長は診察室に戻った。年が明けて、その話は出なかった。わたしは机の引き出しを一つずつ拭き、輪ゴムとクリップを分けてから帰った。 第五章 夫の園部隆が家を出たのは、二〇一九年三月十九日の火曜日、午前十時四十分だった。わたしはその日、午後から半休を取っていて、三時半に歯科の予約が入っていた。年度末で有給の消化期限が来ていたから、隆が平日の午前に家にいるのはその月に入って三度目で、めずらしいことではなかった。 洗濯物は八時前に干し終えていた。よく晴れて、風の少ない日だった。 住んでいたのは辻堂の、駅から歩いて十四分の2LDKで、家賃は八万二千円、更新料は二年に一度で一か月分ずつ払っていた。契約の名義は隆で、保証会社の書類にも隆の名前しか入っていない。 前の晩、わたしは決めておきたいことを紙に書いて隆に渡した。四つあった。 一、光熱費と通信費は、これまでどおり隆の口座からの引き落としにすること。 二、果林の春期講習の費用、三万八千円を今月中に振り込むこと。 三、平日の夕食が要らない日は、前の日の夜までに知らせること。 四、玄関に靴を三足以上出したままにしないこと。 怒って書いたのではない。口で言えば角の立つことでも、紙にして渡せば互いに読み返せるし、日付を入れておけばあとで確かめられる。医療事務を八年やって身についたのはそういうやり方で、言った言わないでもめるのは、たいてい誰も書いていないからだ。隆は紙を二つに折って、パジャマの胸のポケットに入れた。翌朝その紙は、同じ折り目のまま、食卓の隆の湯呑みの下に敷いてあった。 「これ、いつまでのつもり」 何のことかと聞き返すと、隆は湯呑みを持ち上げて、下の紙をしばらく見てから、また同じところに戻した。 「四番はやめてもいい。靴のことは細かすぎたと思う」 「靴は、うん、まあ」 「そうじゃなくて、いつまでのつもりかって聞いてるんだけど」 「先週の水曜は五足出てた。玄関はうちの入口だから」 「五足も出してたか」 「三月六日に一度、片づけてほしいって言ってる」 隆は湯呑みの縁を親指でなぞって、それから、車の任意保険の更新が五月だと言った。話が変わったので、わたしは書類の場所を聞いた。 「どこだったかな」 「去年は電話台の引き出しに入ってた」 「ああ」 「まだ胃は痛むの」 「たまに。前ほどじゃない」 「駅前のところ、薬は変えてもらった」 「いや」 その年のわたしは、月の初めの一週間はレセプトで九時前に帰れたことがなく、五時に起きて三人分の弁当を作ってから自転車で駅まで出ていた。隆は前の年から胃の調子を悪くしていて、うちのクリニックには来ないで、駅前の内科に通っていた。同じ市内で、わたしが受付にいれば待ち時間の見当もつくのに、そちらのほうがいいと言って聞かなかった。そういう人だから、この朝もわたしは急がなかった。食器を洗って、洗い終えてから水切りかごの位置を右に寄せて、三角コーナーの茶殻を捨てた。隆はテーブルの木目のところを親指で何度もこすっていた。十時を過ぎて、寝室でクローゼットの戸が動く音と、それから金具の当たる音が続けて聞こえた。 持って出たのは紺のボストンバッグが一つと紙袋が二つで、中身はスーツが二着、下着と靴下、髭剃り、通帳と印鑑、車の鍵、それに枕だった。枕は結婚したときに二つ買ったうちの、隆の側の一つだった。玄関でスニーカーの踵を指で起こしながら、隆はこう言った。 「志乃は仕事を頑張りすぎたんだと思う。おれはそれについていけなかった。だから悪いのはおれのほうだ」 「果林には自分で言って。今日じゃなくていい、テストが近いから」 「うん」 「傘は」 「いい」 ドアが閉まったあと、チェーンをかけた。理由ははっきりしている。わたしが仕事を頑張りすぎたからだ。十九年いっしょにいて、わたしはこの人に一度も大きな声を出したことがない。出ていくとは、その朝まで考えていなかった。 歯科は昼のうちに電話で断った。次に取れた予約は五月の連休明けだった。鍵屋には三日前に電話をしてあった。当日に頼むと出張費が二千円上がると聞いていたので、わたしはこういうことの段取りを先に決めておくことにしている。四時十分に来た職人は六十くらいの人で、玄関の錠を見るなり、これは美和ロックのU9だからシリンダーだけで足りる、錠前ごと替えると三万を超えると言った。 「シリンダーだけでお願いします」 「合鍵は一本目が本体に付いてます。二本目からが七百円。急ぎますか」 「急ぎません」 「うちの息子がね、継がないって言うんですよ。東京で車の営業やってて、そっちのほうが休みが多いって。多いですかね、車屋さん」 「わかりません」 「わかりませんよね。奥さん、この扉、下のほうが擦れてますよ。蝶番、いつか見てもらったほうがいい」 「そのうちお願いします」 「うちは鍵屋なんで、蝶番はやらないんですよ。やれるけど、やらない」 「そうですか」 「奥さん、鍵の番号、控えておいてくださいね。無くすと面倒だから」 職人は玄関に新聞紙を敷いて、膝をつく前に一度だけ腰のあたりを押さえた。作業は二十分で終わった。締めて一万六千五百円で、合鍵は一本だけ頼んだ。二本目は七百円かかると言われたから、月末まで待つことにした。果林は部活のない日は五時前に帰ってくるので、それで困ることはない。外した古いシリンダーは紙袋に入れて渡された。捨てておきましょうかと聞かれたが、置いていってもらった。いまも下駄箱の上の段にある。新しい鍵は縁が鋭くて、二日目に親指の腹を薄く切った。 果林が帰ったのは六時四十分だった。 鍵を差し込む音が二度して、それからインターホンが鳴った。ドアを開けると、果林は鞄を肩にかけたまま、鍵を持った手をゆっくり下ろした。 「開かない」 「鍵を替えたの、今日」 「なんで」 「お父さんが出ていったから」 果林は靴を脱いで、そろえないで上がって、洗面所で長いこと手を洗ってから台所に来た。冷蔵庫を開けて、閉めて、また開けた。 「いつ帰ってくるの」 「帰ってこない」 「ふうん」 「あたしの鍵は」 「三十一日に作る。それまでは五時前に帰ってきて」 「部活は」 「休んでいい」 「休めないよ」 「じゃあ、終わったらすぐ帰ってきて。寄り道しないで」 「わかった」 「ごはんは」 「いらない」 その晩、果林は部屋から出てこなかった。十一時前に台所へ来て、皿に残しておいた春巻きを二本食べていた。皿は流しに置いたままになっていて、油の膜が白く固まっていたから、洗ったのはわたしだ。中学二年の三月で、志望校の話をしようと思っていたけれど、翌朝は果林のほうが先に家を出た。三月の残りの日、果林が帰ってきた時刻はぜんぶ書いてある。いちばん遅い日で六時五十五分、いちばん早い日で四時二十分だった。 隆が来たのは三月二十四日の日曜だった。自分の家のインターホンを鳴らして、玄関の外に立ったまま、廊下にまとめておいた段ボール三箱を車まで二往復で運んだ。中身は本と釣りの道具と冬物で、箱の側面には何が入っているかを油性ペンで書いておいた。運び終えてから、ジャンパーの内側から封筒を出した。 「車、どこ停めたの」 「下。コインパーキング」 「来客用が空いてるのに」 「いい」 「鍵、替えたんだな」 「替えた。十九日に」 「そうか。じゃあ、おれのは」 「使えない。持っていていいけど」 「いや、置いてく」 「果林は」 「部活」 「そうか」 「これ、果林に」 「わかった」 「トースター、あれ、まだ片側だけ焦げるだろ。去年おれが落としたせいだ」 隆は鍵を三和土の隅に置いてから、封筒を差し出した。謝ったのはトースターのことだけだった。封筒には三万円入っていた。そのお金は五月の電気代と、果林の自転車のブレーキの修理に使った。果林のために使ったのだから同じことである。 四月に、平日の午前を空けたい日が二度あって、シフトの交代を頼んだ。佐々木さんは、わたしが代わりますよと言った。そのあと院長のところへ行って別のことを言っていたのは、翌週のシフト表を見ればわかる。 四月十七日の夜に隆から電話があった。九時二十二分から九時二十五分まで話した。 「保険の書類、電話台にあった」 「あったでしょう」 「うん。それだけ」 「果林、代わる」 「いや、いい。もう遅いから」 「起きてる」 「そう。何か言ってたか」 「何も」 三者面談は四月十一日で、わたしが一人で行った。担任は果林の欠席が二学期に四日あったことを気にしていたが、二日は風邪で、あとの二日は腹痛だった。 五月の第二週はゴミ集積所の当番だった。朝の六時半に網とバケツを出して、八時半までに片づける決まりで、これまでは隆がやっていた。仕事のある日は果林に頼んで、頼めない日は自転車で一度戻った。携帯の家族割が外れて、二台分で月に千八百円上がった。六月の初めに、隣の部屋の人から、夜中に洗濯機を回さないでほしいと言われた。十時前には終わっていると答えたが、次の週からは朝に回すようにした。 離婚届を出したのは六月二十八日の金曜で、藤沢市役所の本庁舎の四番窓口、番号札は四十一番だった。呼ばれるまでに二十六分待った。職員は届の二か所に訂正印が要ると言った。捨印を押していなかったからで、朱肉は持っていた。証人の欄は、姉の里美と母の光代に書いてもらった。実家の茶の間で、里美はボールペンを持ったまま二度も同じことを聞いた。 「これ、はみ出してる。書き直せるの。もう一枚もらってきたほうがいいんじゃない」 「枠から出てなければ通る」 「出てるって言ってるの」 母は判子を押して、朱肉の蓋を閉めてから言った。 「隆さんはいい人だったのにね」 それについてわたしは何も言い返していない。 「志乃、痩せたんじゃない」 「そう」 「ちゃんと食べてる」 姉が湯呑みを下げに立って、母は座布団の縁を指でならしていた。 手続きで要ったものを順に書いておく。戸籍謄本は一通四百五十円で、これを三通取った。年金分割の合意書は公証役場で作って一万一千円かかった。ほかに児童扶養手当の申請書、健康保険の資格喪失証明と加入の届け、学校に出す保護者変更の用紙、それに賃貸契約の名義変更で保証会社が求めてきた収入証明と源泉徴収票の写しがある。市役所も公証役場も平日の四時までしか開いていないから、六月と七月で半休を四回使った。名義変更の審査が通ったという電話が来たのは七月十二日の昼だった。 「園部さま、失礼ですが、お勤め先はいつまで続きそうでしょうか」 「続きます」 「そうですか。いえ、書式に欄がありまして」 養育費は月五万円で、果林が二十歳になる月までと決めた。面会は月に一度、場所と時間は前の週までに知らせると決めた。この二つは公正証書に入れてある。振り込みは二〇一九年七月から一度も遅れていない。 表札は替えなかった。園部という姓は果林の姓でもあるから、替える必要がない。合鍵の二本目は三月三十一日に作って、その日のうちに果林の机の上に置いた。 第六章 果林は二〇〇五年二月十九日の午前四時五十二分に生まれた。三千百四十グラム、四十九センチ。予定日より六日早くて、夫は分娩室に間に合わなかった。生まれてから小学校を出るまでの記録は全部わたしがつけている。授乳の時刻、離乳食の献立、熱を出した日とその日の最高体温、抜けた歯の順番、補助輪なしで初めて自転車に乗れた日。大学ノートで六冊あって、押し入れの右側の段ボールの、いちばん上に入っているのが二〇一二年からのものだ。あの子のことで、わたしが覚えていないことは一つもない。 中学に上がったのは二〇一七年四月六日、木曜日だった。制服の採寸は二月十一日に駅前の指定店で済ませて、スカートは二本買っている。一本では洗い替えが利かないし、三年のあいだに伸びる分の丈直しも見ておかなければならない。自転車は荷台のついた二十六インチを三万二千円で買った。家から校門まで千二百メートル、途中に坂が一つある。 一年生のあいだ、あの子は一日も休まなかった。 崩れたのは二年の秋である。二〇一八年十月九日、火曜日。前の日が祝日で、三連休の明けだった。わたしは六時十分に起きて、前の晩の味噌汁を温め直し、卵を二つ茹でた。果林は六時四十分に台所へ来て、椅子に座ったまま卵に手をつけなかった。制服は着ていたし、靴下も履いていた。鞄は玄関に出してあった。 「行きたくない」 背中を丸めたまま、そう言った。 「どこが痛いの」 「痛くない」 「お腹。それとも頭」 「痛くないってば」 戸棚から体温計を出して渡した。テルモの、脇に挟んで二十秒で鳴るものだ。三十六度四分だった。平熱より一分ぶん低いくらいで、顔色も悪くなかったし、口を開けさせて見た喉も赤くはなかった。十三年ものあいだ受付に座っていれば、熱のある人間とない人間の区別くらいはつくようになる。あの子は熱のある人間ではなかった。 「理由を言いなさい」 「別に」 「別にで休む人はいません」 「わかってる」 「わかってるなら支度をしなさい。遅れても行けばいいの。二時間目からでも、保健室でもいいの」 「そういうことじゃない」 「じゃあどういうことなの」 殻を剥いてやると、卵を半分だけ食べて、残りを皿の端に置いた。時計は六時五十二分を指していて、わたしは自分の弁当箱に蓋をして布巾で拭き、それから流しの三角コーナーに溜まっていた殻を新聞紙にくるんだ。あの子は椅子の脚に片方のかかとを載せたまま動かなかった。 「今日だけだからね」 「うん」 「明日は行くの」 「わかんない」 八時二分に学校へ電話をして、体調不良で休ませますと伝えた。それからわたしは仕事に出た。その日も、その次の日も、十二月九日までのあいだ、わたしは一日も休んでいない。休めばシフトの穴を佐々木さんが埋めることになり、そうなればいない日のことを好きに言われる。実際、十月の終わりに、わたしが座っていない時間帯の受付でどんな不手際があったかという話が、わたしのいないところで出ていた。 十月の欠席は七日だった。九日、十一日、十二日、十五日、十六日、二十四日、二十五日。十一月は十一日で、一日、五日、六日、七日、八日、十二日、十四日、十五日、十九日、二十一日、二十六日。合わせて十八日になる。三十日を超えると学校から市へ長期欠席として報告が上がる決まりになっているので、そこまでは絶対に行かせないつもりでいた。弁当は休んだ日にも作った。前の日の夜に卵焼きを二切れとブロッコリーを詰めて、朝は冷凍の唐揚げを揚げるだけにしてある。休むと分かった日は、その弁当をわたしが持って出て、昼に休憩室で食べた。教材費は年度の初めに一括で引き落とされているので、休んだ日数分が返ってくるということはない。部活動費も同じで、二年生は年額四千八百円を六月に納めていた。返金の対象になるのは、三年の修学旅行のキャンセル料の一部だけだと、事務室の女の人が電話口で説明してくれた。あの子が三年になる前の話をされたことについては、わたしは何も言わなかった。 「出席日数のことを伺いたいんですが」 「はい」 「長期欠席の日数は、年度の合計ですか。学期ごとではなく」 「年度の合計ですね。ただ、お母さん、そこを気にされるご家庭は、あまり」 「二年の出席が推薦のときに見られると聞きました」 「見る学校もありますけど、まだ、そういう段階では」 紙をめくる音がして、少し待たされた。事務室のその人は、こちらが名乗るとすぐ果林の名前を出してきたので、電話の相手として覚えられているのだと分かった。電話を切ってすぐ、台所のカレンダーの十二月の余白に、残り十二日と書いた。 担任から電話が来るようになったのは十月の半ばからで、いつも夕方の五時過ぎだった。こちらが帰り着いて手も洗わないうちに鳴るので、受話器を取るのはたいてい鞄を肩にかけたままになる。話す内容は毎回ほとんど同じで、今日は昼まで寝ていたのか、食事は摂れているか、こちらから何か伝えることはあるか、そういう順番で進んだ。 面談は十一月二日、金曜日の午後四時に、二階の会議室であった。担任は二十代の男の先生で、社会科を教えていて、バスケット部の顧問もしている。机の上に灰色のファイルを置いて、開いたり閉じたりしていた。 「お母さん、おうちでは何か話しますか」 「話します。毎日話しています」 「そうですか」 「今朝も、おにぎりの中身の話をしました。鮭が続いていると言うので、明日は昆布にすると言いました」 先生はファイルをもう一度開いた。 「果林さん、九月の合唱コンクールのあとに、少し……」 「合唱」 「いえ、パートを決めるときに、その、あったという話を、女子から聞いていまして」 「誰から聞いたんですか」 「それは、ちょっと、名前は」 「うちの子は伴奏に立候補して、落ちました。九月十一日です。その日は普通に帰ってきて、ハンバーグを食べています」 「そうですか」 そこから急に別の話になった。バスケット部の県大会が再来週で、三年生が抜けたあとの新しいチームが六人で、そのうち一人は足首を痛めていて、あと一人でも風邪をひくと試合が成立しない、そういう話を二分ほどされた。それが終わると、今度は家のことを聞かれた。 「お父さんのお帰りは、何時ごろですか」 「八時前後です。遅くても九時には」 「お母さんは」 「六時にあがって、七時十五分には家にいます。買い物をした日でも七時半を過ぎたことはありません」 「夕飯は、皆さんで」 「食卓に三つ並べています。テレビは消しています」 「日曜は」 「洗濯と、買い出しです。夏には江の島に行きました」 要するに、家庭に問題があると言いたかったわけだ。わたしが答えたことは全部事実で、時刻まで正確に言えたのはわたしだけである。先生は灰色のファイルに何も書き込まなかった。窓のところに卓球の玉が二つ転がっていて、暖房が入っていないので足の裏が冷たかった。 「明日から、わたしが毎朝送っていきます」 「送る、というのは」 「校門までです。あの子は行きたくないんじゃなくて、朝に一人になるのが嫌なだけですから」 そう言って会議室を出た。四時四十分だった。 夫が果林の部屋に入ったのは十一月十七日、土曜日だった。三十四分出てこなかった。わたしは廊下でアイロンをかけていた。制服のブラウスが二枚と、あの人のワイシャツが四枚あって、襟の裏に霧を吹きながら順に片づけていた。 「果林から聞いた」 部屋から出てきて、あの人はそう言った。 「何を」 「言わないでくれって言われてる」 「親に言えないことなんてないでしょう」 「お前には言えないってことだろ」 「あなたは知っていて黙っているんですね」 「そうなるな」 「それでよく父親が務まりますね」 「志乃」 「なんですか」 「送るの、やめてやったらどうだ」 「学校と約束しました。十一月二日に、会議室で」 あの人は洗面所で手を洗って、廊下の電気を消して、寝室に入った。九時前だった。アイロンはワイシャツが二枚残っていて、コードが引かれた分だけコンセントの根元がゆるんでいた。夕飯のとき、あの人はビールを一本だけ飲んで、テレビの天気予報を見ていた。果林が何かを言ったのなら、まずわたしに言うはずである。あの人は市役所の窓口を二十一年やってきて、人の話を聞くのが仕事だったから、聞いたふりをするのが上手いだけだ。翌日、果林の学習机を片づけた。教科書はすべて揃っていて、数学のノートは十月九日のページで止まっていた。プリントが二十二枚、日付順ではない順番でクリアファイルに入っていた。リップクリームが二本、どちらも同じメーカーの同じ色。鍵のついた日記帳が引き出しの奥にあったけれど、あれは読んでいない。鍵は台所の、輪ゴムとレシートを入れてある引き出しの、いちばん奥に落ちていた。 十一月二十日の夜、おじやを作って、部屋の前に置いた。 「ごめんね」 ドアの向こうから、そう聞こえた。 「謝らなくていいの。明日は行こうね」 「うん」 「お母さん」 「なに」 「仕事、大丈夫なの」 「大丈夫。お母さんは十三年、一日も穴を空けたことがないから」 それきり物音がしなくなった。廊下の板が冷えていたので、わたしは膝を立てて座り直し、ドアの下の隙間から漏れている明かりが消えるまでそこにいた。消えたのは九時五十二分で、それから風呂を沸かした。 翌朝、あの子は起きてこなかった。おじやの茶碗は空になって、ドアの外に出してあった。箸は洗ってから戻してあった。 十二月十日の月曜から、あの子はまた通いはじめた。わたしが毎朝送っていったからである。七時五十分に家を出て、坂の下まで並んで歩き、校門を入るのを見届けてから、そこで向きを変えて駅まで走った。雨の日は自転車を置いていくことになるので、傘を二本持って出た。坂の途中に赤い自動販売機があって、そこから先は生徒が増えるので、あの子はいつも半歩ぶん前を歩いた。校門で振り返ったことは一度もない。振り返らずに入っていくのを見て、それでいいと思っていた。クリニックには八時二十八分に着いて、白衣に着替えてレセプトの箱を出すまでに二分あった。あの三か月のあいだ、わたしは自分の仕事を一日も落としていない。落とせば、それこそいない場所で何を言われるか分からなかった。 十二月の欠席は二日だった。十一日と、二十一日。 二年の学年末にもらった通知表の、所見欄は四行だった。一年のときは六行あった。通知表は小学校の分から全部とってある。押し入れの右側の段ボールの、ノートの下だ。 第七章 二〇二一年のことは、日付まで書ける。全部書ける。あの年はどの日も同じ形をしていて、同じ形の日が続くと、かえって細かいところのほうが残った。朝は八時四十分に裏口を開け、換気のために窓を三箇所開け、待合の椅子に貼った×印のシールが剥がれていないかを一脚ずつ見て回るところから一日が始まる。八時五十分に佐々木さんが入る。九時二分に院長が入り、その院長はわたしが勤めた十三年のあいだ、一度も九時前に来たことがない。 受付のカウンターには、三月にアクリル板が立った。高さは六十センチある。下の受け渡し口が十二センチしか開いていないので、保険証と診察券をまとめて出されると一度では通らず、通らないぶんを二回に分けて受け取ることになり、一日に四十回も五十回も同じことをしていると、頭より先に腕の角度のほうが覚える。消毒のスプレーは一日に四本使った。手の甲がひび割れて、十一月には指の付け根にテープを巻いたままキーボードを打っていた。月の初めの十日間は、そのカウンターの内側にレセプトが積まれる。前の月の分を一件ずつ点検して、病名の抜けと算定の重複を拾い、十日までに国保連へ出す。二〇二一年の四月分は九百七十二件あって、返戻は三件だった。三件のうち二件は、院長の記載漏れである。 ワクチンの予約が始まってからは、電話が鳴りやまなかった。二台ある回線の一方は問診票の書き方の問い合わせで埋まり、もう一方は市の集団接種と間違えた人からの電話で埋まった。受話器を置くと同時に次が鳴る。置かずに指でフックを叩いて次を取る取り方を覚えた。その癖は、いまでも家の電話で出てしまう。 「もしもし、あの、うちの母がね、市から紙が来たんですけど」 「接種券でしょうか。封筒の色は」 「封筒。……水色みたいな、うすい。それでね、これ、そちらで打てるんですか」 「当院は今月分の枠が終了しておりまして」 「終了。終了って、じゃあどこで打つんですか」 「市のコールセンターの番号をお伝えします」 「番号ね。ちょっと待って、ペンがない、ペン」 「お待ちします」 「うちの母、耳が遠いもんだから、わたしが代わりにかけてるんですけどね」 「ご家族の方でも承ります」 「じゃあ、その番号、もう一回言ってください。ゆっくりね」 そういう電話を一日に六十本ほど取って、そのあいだにも窓口には人が並んでいる。 六月八日は火曜日で、朝から曇っていた。 午前の予約は二十七人。午後は十九人だった。九時四十分に熱があるという申し出が電話であり、駐車場の車の中で待っていただく段取りに切り替えた。動線を切り替えると、二人でやっていた受付が一人になる。ガウンと手袋と防護のゴーグルを着けて外へ出る役は、その日は佐々木さんではなくわたしだった。六月の車の中は暑い。窓を五センチだけ下ろしてもらい、その隙間から問診票と体温計を渡して、書き終わるまで日なたに立っていると、ゴーグルは十分で曇り、曇ると相手の顔が見えなくなるので、少し上にずらして下から覗くようにした。ガウンの中は汗で貼りつき、脱いで手を洗うと手首から先が白くふやけていた。着圧のソックスを履くようになったのもその年からで、夕方になると左のふくらはぎの裏に血の管が浮いた。 岩瀬さんが受付に来たのは十時五分である。五十七歳、男性、二〇一四年からのかかりつけで、血圧の薬を三か月ごとに取りに来る。順番は十一番目である。麦わらの帽子を脱いで膝の上に伏せ、薬の説明書を折りたたんだものを胸のポケットに入れていた。保険証は四月に会社が変わって記号番号が切り替わっており、その日が新しいほうの初回だったので、入力にいつもより一分よけいにかかっている。待合の椅子は十四脚あるが一つ置きにしか座れないので、実際に座れるのは七人になり、あとの人は入口の外の、自販機の横のベンチで待つ。曇っていたその日は、外で待つことを嫌がる人がいなかった。 「まだですか」 十一時二十分に、カウンターの前でそう言われた。 「申し訳ありません。いま六番の方が入られたところです」 「そう」 十二時前にもう一度立ってきて、受付の前で黙っていた。こちらから声をかけた。 「あと二人です」 「二人」 「はい」 椅子に戻ってからは立ってこなかった。診察室に入ったのは十二時三十八分で、来院から二時間三十三分が経っており、会計を済ませて出ていくとき、返された番号札がカウンターの上で音を立てた。 わたしはその日、昼を食べていない。 六月十日の木曜日、午前十時十二分に、岩瀬さんの娘さんから電話が入った。受けたのは佐々木さんである。わたしはそのとき裏口で検体の受け渡しをしていて、戻ったときには通話は終わっていた。佐々木さんはメモを一枚書いて、院長室の机に置いた。わたしには何も言わなかった。その日の残りの時間、わたしと佐々木さんは同じ受付の中に八時間いて、業務のこと以外を一言も話していない。 翌十一日の金曜日、十三時四十分に院長室へ呼ばれた。昼に食べた蕎麦の丼が机の端に残っていて、割り箸が縁に斜めに渡してあった。院長は椅子を半分だけこちらに回した。腕を組んだり解いたりした。 「あのね、園部さん。ゆうべ、というか、おとといか。電話がね、あったんだよ」 「はい」 「聞いてるよね、佐々木さんから」 「いえ」 「あれ、そう。……そうか」 机の上のメモを二回持ち上げて、二回とも同じ場所に置き直した。ブラインドは半分だけ下りていて、机の上に細い影が何本ものっており、話しながら眼鏡を外し、白衣の裾で拭いて、また掛けた。 「岩瀬さんね、火曜日の。娘さんのほうから、まあ、その、いろいろ」 「はい」 「二時間近く待たせちゃったってことでね」 「はい」 「まああの日はほら、発熱の方が入っちゃったから、しょうがないんだけどね。しょうがないんだけど、うん」 「申し訳ありません」 「いや、園部さんが謝ることじゃないんだよ。ないんだけど、まあ、ねえ。こういうご時世だから、みんな気が立ってるっていうか」 「はい」 「うちも去年からずっとこうだからね。人を増やすっていったって、増やしたところで教える人がいないでしょう」 「はい」 「園部さんはよくやってくれてるんだよ。それはわかってる。わかってるんだけどね」 「だからまあ、気にしないで。気にしないでいいから」 クレームの内容は、待ち時間のことだった。あの日の遅れの理由は記録に残っているので、書き出しておく。 一、九時二分に院長が入り、一人目の診察が始まったのは九時十一分である。 二、九時四十分から十時二十分まで、発熱の対応でわたしが外に出ていたため、受付は一人になった。 三、十時五十分に、二〇一九年の胃の内視鏡の画像を出してほしいという依頼が診察室から来て、書庫で十七分かかった。 四、十一時三十分から十一時五十五分まで、院長は製薬会社の担当者と電話で話していた。 五、午前の最後の患者さんが診察室を出たのは十三時六分で、予定より一時間六分の遅れになっている。 このうち、わたしの手が止まっている時間は一つもない。 院長室を出て廊下に入ったところで、佐々木さんとすれ違った。廊下の幅は一メートル二十しかなく、すれ違うにはどちらかが体を斜めにしなければならない。斜めにしたのはわたしのほうだった。言われたことを、そのまま書いておく。 「園部さん、受付は医院の顔ですから、お待たせしている方には一定の間隔でお声がけをしていただけると、患者さんの不安も少なくなると思います」 言い終わるまで足は止まらなかった。 その晩、果林に話した。夕飯は前の日の肉じゃがの残りと、駅前で買ってきた春巻きが四本だった。春巻きは温め直さずにそのまま皿に出した。果林は高校一年で、その春から電車で通うようになり、帰りが七時を過ぎる日が増えていて、その日も制服のままで、鞄を椅子の背に掛けて、掛けたところがずり落ちるのを直しもしないで食べていた。 「二時間待たせたのはこっちが悪いにしてもね、それをわざわざ娘さんが電話してくるっていうのが」 「ふうん」 「あなたなら電話するの」 「しない」 「そうよね」 「その人、もう来ないの」 「来るわよ。薬が切れるんだから」 「ふうん」 「模試、来週の火曜まで」 「なに」 「申込み。五千五百円」 「現金なの」 「そう。封筒に入れて出すって」 財布から出してテーブルに置くと、果林はそれを取って、ありがとう、と言った。それから自分の皿と茶碗を流しに運んで二階に上がっていき、残った春巻きを一本食べ、皿を洗い、風呂の湯を張った。その家に住んでいるのは、二〇一九年の秋から果林とわたしの二人だけである。 七月に入っても車出しは続いた。夏の賞与は前の年より三万二千円少なく、明細を封筒から出したのは駐輪場で、自転車の鍵を口にくわえたまま数字を見た。 六月十日の電話について、正確に書いておく。 娘さんが言ったのは、待ち時間のことではない。受付の対応の仕方についてだった。番号札を無言で置かれた、あと二人です、としか言われなかった、こちらの顔を一度も見なかった、と。父親が家に帰ってそう話したのを聞いて、二日おいてから電話をしてきたということだった。七年通っていて医院のことを悪く言ったことのない人が家で口にしたのだから、と娘さんは言ったそうである。 アクリル板とマスクを隔てて話すと、声は通らない。通そうとすれば語尾は短くなり、短くなれば冷たく聞こえるので、二〇二一年に受付の言い方が冷たいと言われた医院は、藤沢じゅうにいくらでもあったはずである。それに、顔を見なかったのではない。診察券の番号と、保険証の有効期限と、問診票の記入漏れを見ていた。一人あたり十四秒で済ませなければ、午前の四十六人は回らない。その週、わたしは月曜から金曜まで一件も取りこぼしていない。予約の変更が十九件、当日の追加が七件、そのうえに車での待機が四人で、それを全部さばいて五時半に窓口を閉めている。 岩瀬さんはその年の九月十四日にも、十二月十四日にも来ている。九月のほうの会計のときに、暑いね、と言われた。 六月十一日の面談は、十三時四十分に始まって十三時五十八分に終わった。十八分である。その日わたしは定時で上がっていない。十九時十分まで残って、六月分の返戻を十一件片づけた。佐々木さんが書いたメモは、コピーを取って持っている。二〇二一年六月十日、十時十二分、岩瀬様御息女より入電、と佐々木さんの字で書いてある。用件の欄は空白のままになっている。佐々木さんは、そこを書かなかった。 第八章 二〇二三年一月十一日の朝八時四十分、更衣室の壁に貼られた二月分のシフト表を見た。更衣室というのは三畳ほどの細長い部屋で、ロッカーが九つと折りたたみの椅子が二脚、それから薬の会社の名前が入ったハンガーラックが押し込んである。表はA4の紙を二枚横に並べてマスキングテープで留めたもので、上の四段が看護師、下の四段が事務、事務のいちばん上がわたしの欄になっている。丸を数えると十六あった。 数え直した。十六だった。 自分の丸の数は毎月、手帳のいちばん後ろのメモ欄に書き写している。二〇二二年は四月から順に、二十一、二十一、二十、二十一、二十一、二十一、二十、二十一、二十一だった。クリニックは日曜と祝日が休診で、土曜は午前だけだったから、丸が二十一というのは出られる日にはほとんど全部出ていたということになる。五日ぶんの穴がいきなり開いたのは二〇二三年の二月分が最初で、その二月分は、佐々木さんがシフトの原案を作るようになって二枚目の表だった。事務長のいない九人のクリニックでは原案を勤続の長い者が作る決まりになっていて、二〇一三年の四月から二〇二二年の十二月まで、百十七枚をわたしが作った。文句を言われたことは一度もない。 給料は日額で九千二百円だった。二十一日なら十九万三千二百円、十六日なら十四万七千二百円になる。四万六千円の差は家賃の八万一千円には届かないけれど、果林の模試代と定期代と、冬のあいだの灯油をぜんぶ足したよりは多い。果林はその年の四月から三年生になって、六月の記述模試が六千六百円、夏の講習が七万四千円、十二月の終わりに私立二校の検定料として、一校三万五千円ずつ、七万円を振り込んだ。国民健康保険と市民税の納付書は、こちらの丸が減ったからといって額を減らしてくれるわけではないので、六月に届いた通知書は前の年の所得のままの数字で来た。国保は十期に分けて一期あたり二万三千円、市民税は四期で三万八千円ずつ、それに部屋の更新が二〇二三年の九月に来て、家賃の一か月ぶんと保証会社の一万八百円を合わせて九万一千八百円を出した。更新の書類は八月の頭に管理会社から簡易書留で届き、二枚に印鑑を押して返送するようになっていたが、印鑑は離婚したときに作り直したもので、園部の三文判をわざわざもう一本買ったのを、返信用の封筒に宛名を書きながら思い出した。二〇二三年に貯金から下ろした額は、合計で三十一万四千円だった。 一月十一日は、診療が終わって受付のシャッターを半分下ろしたあと、診察室に入った。 「宮内先生、二月のシフトのことなんですけど」 「ああ、うん」 院長は椅子を半分だけこちらに回して、机の上の紙の端をそろえた。電子カルテの入れ替えの見積りが三社から届いていて、いちばん上の一枚は右上の角が折れていた。 「五日、減っています」 「減ってるの」 「減っています。十二月は二十一日でした」 「うちさ、去年の九月から一日の患者数が二十人くらい落ちてるんだよ。発熱の外来をやめたでしょう。あれで来てた人が、そのまま駅の向こうの内科に流れちゃって。あそこは日曜もやってるからね。うちは日曜はやらないから。父の代からずっとそうだし、いまさら開けたって、ぼくの手がもたないよ」 「先生、二月のシフトです」 「うん」 院長は右手の親指のつけねを左手で押さえたまま、しばらく紙のほうを見ていた。春から週に一度、駅前の整形外科に通っていることは、レセプトを締める日に本人の口から聞いていた。 「佐々木さんに、聞いてみるね」 「わたしから聞いたほうがよければ、聞きます」 「いや、いいよ。ぼくが聞く」 「お願いします」 「あのさ、園部さん」 「はい」 「カルテのやつ、どこがいいと思う。二番目の、この、名前の長いところ。うちみたいな規模だと、あんまり大きいのを入れても持て余すって言われたんだけど、そのぶん保守が高いんだよね」 三社の名前を上から読み上げて、二番目の会社のものは去年の研修で触ったことがあるので操作の癖を知っています、と答えた。院長はうなずいて、三枚とも引き出しにしまった。シフトの話はそこで終わった。 三月分の表も十六だった。四月分は十五になった。 わたしがそのころ受け持っていた仕事を書いておく。朝は八時半に開けて、電子カルテを立ち上げ、釣り銭を数え、待合の加湿器の水を替えてから、九時の受付をひとりで回した。月の初めの五日はレセプトで、返戻と査定の分を全部突き合わせて紙に起こし、月曜の朝に院長の机の右端へ置いた。二〇二二年度の返戻は年間で十九件あり、そのうち十七件はわたしが理由を調べて再請求し、通した。多いのは資格喪失後の受診で、転職した患者さんが古い保険証をそのまま出してくるものだから、新しい保険者を電話で探すところから始めることになる。国保連の窓口は昼のあいだ繋がらないし、企業の健保組合はこちらが医療機関だと名乗ってもなかなか教えてくれないので、一件に八日かかったこともある。予防接種の在庫表と、特定健診の判定と、労災の様式第七号と、生活保護の医療券の期限も見ていた。医療券は月が替わるたびに市の担当が変わることがあって、変わったことは誰も教えてくれない。誰かに教わったのではない。医事の本を三冊買って、夜に台所で読んで覚えた。 四月十一日の昼、更衣室で佐々木さんと二人になった。ロッカーの扉が二回鳴って、それから声がした。 「園部さん、五月の火曜、午前だけなら入れますか」 「入れます」 「じゃあ書いときますね」 佐々木さんはボールペンのノックを二回押して、シフト表のほうを見ないまま先に出ていった。五月分の表に火曜は書かれなかった。五月二日にもう一度院長のところへ行って、そのことを話した。院長は「うん」と言って、聴診器を首から外した。 六月十三日にも行った。その日は診察室ではなく、裏の休憩室で、院長がカップの味噌汁に湯を注いでいるところだった。 「園部さん、母がね、去年から施設に入ってるんだけど、先週から食べなくなっちゃってね。食べないっていうか、口に入れても出しちゃうの。それでうちの姉が毎日行ってるんだけど、その姉ももう六十八でしょう。ぼくが行くと機嫌が悪くなるんだよ。なんでか知らないけど、昔からそうでね」 「先生、七月の表を見たんですが」 「うん」 「十五でした」 「そうか」 湯気が上がっているあいだ、割り箸を袋から出して、二つに割って、それをカップの縁に載せる音がした。院長は味噌汁を持って診察室へ戻っていった。休憩室に残された流しには、朝から誰かが浸けたままにしてある湯呑みが三つあって、そのうちの一つは縁が茶色くなっている。わたしはそれを洗ってから、白衣を着て受付に戻った。 相談した日は、その日のうちに手帳の日付欄へ鉛筆で「院長」と書いた。手帳は製薬会社が年末に置いていく縦長のもので、一日ぶんの欄が三行しかないから、書けるのは短い言葉だけになる。診察と診察のあいだや、昼休みの終わりや、閉めてから鍵をかけるまでの数分に、廊下で捕まえて話したこともある。院長は予約を取る人ではないし、わたしも取らなかった。相談というものは、相手のいる場所へこちらから行くものだと思っている。だから記録はわたしの手帳にしかない。その手帳は今も台所の食器棚の上の段に、二〇二一年のぶんと二〇二二年のぶんと並べて立ててある。三冊とも輪ゴムを二重に掛けてある。 念のため、二〇二三年に院長へ相談した日を全部書いておく。一月十一日、一月十五日、一月二十三日、一月三十一日、二月五日、二月十四日、二月二十日、二月二十八日、三月二日、三月十二日、三月二十二日、四月二日、四月十一日、四月十九日、四月二十七日、五月二日、五月十四日、五月二十三日、六月一日、六月十三日、六月十八日、六月二十九日、七月四日、七月九日、七月二十五日、八月一日、八月二十日、八月二十九日、九月三日、九月十二日、九月二十六日、十月三日、十月十五日、十月二十四日、十一月七日、十一月二十六日、十二月五日。全部で三十七回だった。 三十七回のうち、返事らしい返事をもらったのは四回だった。二月二十日に「佐々木さんも家庭があるからね」と言われ、五月十四日に「経営が上向いたら戻すから」と言われ、八月二十日に「園部さんは体力あるから大丈夫だと思ってた」と言われ、十二月五日に「無理しなくていい」と言われた。四つとも、わたしが持っていった数字への返事にはなっていない。 八月分の丸は十四になった。その夏は待合のエアコンの効きが悪くて、七月の終わりに業者を呼んだら基盤の交換で十四万円と言われ、院長が保留にしたので、九月の半ばまで扇風機を二台足して回していた。年配の患者さんに扇風機の風が当たると具合が悪くなると言われるから、位置を三十分おきに直した。汗をかいた手で保険証を受け取ると、紙のほうの被保険者証はふやけて角が丸くなる。そういう日は、返してから自分の手をおしぼりで拭いた。 八月二十九日の夜、果林が台所に来て、冷蔵庫を開けたまま麦茶のポットを持ち上げた。 「お母さん、講習のぶんの引き落とし、口座どっちにする。前のとき残高足りなくて、学校から電話きたやつあったじゃん。あれ、私が職員室で謝ったから、もう一回はやだ」 「こっちでいい」 「こっちって、ゆうちょのほう」 「そう」 果林はポットをテーブルに置いて、コップを二つ出した。ひとつはわたしのぶんだった。 「あのさ、私、指定校でいいかも」 「なんで」 「なんとなく。あと、学校の説明のとき、指定校だと入学金の締切が一月なんだって。一般だと三月までに二校ぶん置いとかなきゃいけないらしくて、それ、たぶん無理でしょ」 「無理じゃない」 「うん」 氷が落ちる音がして、話はそれで終わった。指定校の校内選考は十月で、果林は書類を自分で職員室に取りに行き、自分で書いて、自分で出した。わたしは判子を押した。 十月十五日に相談したとき、院長は来年から「ちょっと形を変えようと思ってて」と言った。何をどう変えるのかは言わなかった。十一月七日にもう一度聞いたが、返事は同じだった。十一月二十六日には、佐々木さんが受付の並びを変える案を紙にして院長に見せたという話を、看護師の若い子から聞いた。わたしはその紙を見ていない。見せてくださいとも言わなかった。十二年やってきた者の目を通さずに受付の動線を変えるというのが、どういうことなのかは、その紙を見なくても分かる。 十二月五日、一月分の表が貼られた。わたしの丸は十三だった。夕方、待合の椅子を並べ直し、加湿器のフィルターを外して洗ってから、診察室に入った。 「先生、一月、十三です」 「うん、聞いてる」 「聞いてる、というのは」 院長は白衣の左のポケットから眼鏡ケースを出して、机の上で開けた。中身は入っていなかった。 「園部さん、無理しなくていいからね」 「無理はしていません」 「うん」 「先生、十三です」 「うん」 第九章 二月分の表が貼られたのは二〇二四年一月十日、丸は十一で、三月分は九になった。十を切る欄というのは、その人がもうそこにいないことを前提にして作られている。 電子カルテは二月一日に入れ替わった。実際に入ったのは三社のうち三番目の会社で、二番目なら操作の癖を知っていますと二〇二三年一月十一日に院長へ伝えてある。移行の作業は一月二十日の土曜の午後で、立ち会ったのは佐々木さんと看護師の若い子だった。わたしはその日、午前で上がる番だった。上がる前に旧い画面の受付設定を紙に書いてキーボードの下に挟んでおいたが、二月に入ってからその紙のことを聞かれたことはない。新しい画面では保険証の期限切れの警告が灰色で出るので見落としやすく、二月の一か月で四件拾った。 一月二十九日、月曜日に退職届を書いた。 便箋と封筒で百八十円だった。一身上の都合により、二〇二四年三月三十一日をもって退職いたします、と縦書きにした。診療のあとに持っていくと、院長は封筒を机の上で一度ひっくり返し、宛名の面を上にしてから置いた。 「園部さん、あのさ」 「はい」 「三月ってほら、年度末だから、いろいろあるよね」 「三月分のレセプトの締めは四月十日ですから、佐々木さんに引き継ぎます」 「うん、そうじゃなくてね」 引き出しを開けて、何も出さずに閉めた。それから、体調のことにしておこうか、そのほうが園部さんも次のところでね、と言った。悪くありません、と答えると、うん、でもまあそのほうが、と言った。離職票の理由の欄には体調のためと書かれていて、わたしはそれを受け取った。有給は十四日残っていたが、丸が九しかないのだから消化のしようがない。三月の給与は九日ぶんで八万二千八百円だった。 最終の出勤は三月三十日の土曜で、午前だけだった。十一時三十四分に最後の会計を終え、シャッターを半分下ろし、レジを締めて釣り銭の袋を九万二千円ちょうどにして金庫に戻した。ロッカーの名前のシールは爪で端を起こして剥がし、糊が残ったので消毒用のアルコールで拭いた。九つあるロッカーの下の段の、右から二番目が十三年ぶんのわたしの場所だった。白衣は二着とも洗って返した。裏口の鍵は二〇一一年四月に渡された一本のままで、鍵山が丸くなっている。持って帰った紙袋は二つで、中身は自分で買った二穴ファイルと、自分で作った一覧表と、手帳が十三冊、湯呑みと上履きだった。医院のものは何一つ入れていない。一覧表は返戻の理由と保険者ごとの連絡先を二〇一五年から足していったもので、よく返戻になる方の記号番号を余白に鉛筆で控えてある。あれが無ければ、あの医院の再請求は通らなかった。 佐々木さんは花を用意していた。ガーベラとかすみ草の、四百八十円の束だった。 「園部さん、十三年、おつかれさまでした」 「ありがとうございます」 「わたし、あのとき教えていただいて、助かりました」 袋の底の水が鞄に染みたので、駅の手前のごみ箱に入れた。 四月一日から行くところが無くなった。 二日に国民健康保険に切り替えた。任意継続だと月に二万九千円を超える。離職票は届かなかった。五月十四日に電話をかけると佐々木さんが出て、事務所のほうで出していると思うので確認して折り返します、と言った。折り返しは無い。七月九日にもう一度かけたら院長が出た。 「あれ、行ってない? おかしいな」 「行っていません」 「じゃあ調べるよ。園部さん、体はどう」 「変わりません」 離職票が届いたのは七月三十一日で、消印は二十九日だった。 ハローワークは藤沢の朝日町にある。八月一日の木曜、九時十分に着いて受給資格が決まった。丸は二〇二三年十月から順に十四、十三、十三、十三、十一、九で、合わせて七十三になる。離職前六か月の賃金は六十七万一千六百円、これを百八十で割った賃金日額が三千七百三十一円、基本手当の日額はその八割の二千九百八十四円だった。二十八日ごとの認定で八万三千五百五十二円、所定給付日数の欄は百八十だった。丸が二十一あったころの賃金で計算すると日額は五千百五十二円になるので、減らされた三年ぶんがそのまま出た。減らした人は、そこまでは考えていない。 二〇二五年二月までに応募は十四件、面接に進んだのが七件だった。十月十七日の辻堂の内科では、院長と事務長が並んで座っていた。 「前の医院は、どうしてお辞めになったんですか」 二〇一六年に人が一人入ってからのシフトの動きを、年ごとの丸の数と相談の回数まで順に話すと、十二分かかった。事務長の人は途中で手元の時計を二度見て、院長のほうを見た。不採用の葉書は十月二十四日に来た。一月には藤沢の歯科で二次まで行ったが、週二日の午後だけという条件で、こちらは週五日の朝からを希望していたから合わなかった。合わせるつもりはない。十三年やってきた人間を週二日の午後で使うというのは、その人を数に入れていないということだ。 二〇二五年二月十三日の認定で、給付は終わった。 果林は二月十九日に二十歳になった。養育費は二十歳になる月までの取り決めだから、二月二十七日の振込が最後になった。隆の名前で五万円が六十八回、二〇一九年七月から一度も遅れずに入っていた。取り決めのとおりだ。あの人は取り決めのとおりのことしかしない。二月と三月で、貯金から十九万八千円下ろした。 五月十三日の火曜に実家へ行った。父の十三回忌の相談で姉から電話が来たからだ。実家は藤沢本町から歩いて七分の平屋で、玄関の三和土には父の長靴がまだ置いてある。父は二〇一三年十月十一日に亡くなった。仏壇のある部屋は北向きで、五月でも足の裏が冷たい。母は座布団を二枚重ねて座っていた。腰が悪くて、去年から自分では立てなくなっている。姉が最中を出した。 「お寺さん、六月の第二日曜なら空いてるって」 「六月八日ですね」 「ああ、そう、八日。お布施は三万五千でいいと思う。去年ね、おばさんとこがそうだったから」 「お膳は」 「いらないでしょ、四人だし」 「四人」 「あたしと、お母さんと、あんたと、果林ちゃん」 「果林には、まだ言っていません」 「言ったよ。こないだ来たとき」 母は最中の袋を開けようとして二度手を滑らせ、姉が代わりに開けて皿に載せた。 「志乃ちゃん、あんた、痩せたね」 「同じです」 「果林ちゃんね、二月に来たの。二十歳のお祝いに、一万円あげたのよ」 「聞いていません」 「あら、言ってないの。そう」 半分に割って片方を皿に戻し、指についた皮を膝で払った。 「志乃ちゃん、あの子はもう大人なんだからね。そろそろ、放しておやり」 「放しています」 「中学のときも、あんた、毎朝ついていったろう。あの子、坂の下で、あんたが見てるのがわかったって言ってたよ」 あの子は自分で行っていた。二〇一八年の秋に休んだ時期はあったけれど、十二月からは自分で自転車に乗ってあの坂を上って行った。わたしは八時十五分には裏口を開けてレジの釣り銭を数えている。校門まで送っていける時間ではない。母はあの坂を一度も上ったことがないし、果林の中学の校門がどちら向きに開くのかも知らない。運動会に来たのは二〇一四年の一度きりで、そのときも昼で帰った。 「あんたのやり方はね、あの子を縛るやり方だったよ」 「縛っていません」 「あたしは、あんたをそんなふうに育てた覚えはないの。あんたのあれは、どこから来たんだかね」 母はわたしの育て方を否定した。十九年、月に二度は電話をして、盆と正月には果林を連れて行き、父の入院のときには半休を六回使ってこの家に通った人間に向かって、そう言った。 わたしは答えた。声は大きくしていない。 母は座布団に手をついたまま、こちらを見なかった。姉が台所から出てきて、母の背中のうしろに座った。 「志乃」 「はい」 「もういい。帰って」 「六月八日の件は、また電話します」 「いいから」 玄関で、父が使っていた長い靴べらには手を伸ばさず、かかとを指で押し込んだ。門を出たのが三時四十分で、バスは三時五十二分だった。 五月十六日の金曜、夜八時二十分に姉から電話が来た。 「お母さん、あれから食べてない。火曜の晩から」 「病院には」 「行くわけないでしょ、あの人が」 「行かせてください」 「志乃、あたし、台所で聞いてたからね」 「はい」 「あれは、人に言うことじゃないよ」 「事実です」 「事実かどうかの話をしてるんじゃないの」 「では何の話ですか」 受話器の向こうでテレビの音が小さくなって、しばらく何も聞こえなかった。 「十三回忌、あんたは来なくていい」 「わかりました」 「果林ちゃんには、あたしから言うから」 「果林はわたしの娘です」 「知ってるよ」 わたしが言ったのは事実だけだ。日付も、金額も、間違っていない。二〇〇八年の暮れのことも、二〇一三年に父が入院していた四十二日のあいだにこの家で誰が何をしていたかも、こちらは全部書いて残してある。事実を言われて食べられなくなる人がいるとして、それは事実のほうの問題ではない。六月八日の日曜日、わたしは部屋で洗濯を二回した。お布施のぶんの一万一千七百円は、五月二十日に姉の口座へ振り込んである。控えはファイルの六番目に綴じた。 果林が実家に泊まるようになったのは、その年の夏からだ。 八月十四日の木曜、七時四十分に電話をかけた。三回鳴って出た。 「もしもし」 「いま、どこ」 「え、おばあちゃんち」 「泊まるの」 「うん、明日まで」 「聞いてない」 「言ってなかったっけ。ごめん」 「ごはんは」 「食べた。赤飯炊いてくれた」 後ろで姉が果林の名前を呼んで、風呂が沸いたと言っていた。 「お母さん」 「なに」 「あのさ、おばあちゃんの腰、前より」 「そう」 「切るね」 通話は三分四秒だった。わたしが手を出しすぎたと言った人間が、いまあの子を泊めて赤飯を炊いている。 筋が通らない。 あの家は北向きで、夏でも布団が湿る。二〇一二年の八月に、あそこで寝た果林が熱を出した。母はその日、電話口で、子どもは熱を出すもんだと言った。 二〇二五年に果林がこの部屋へ来たのは二回だ。三月三十日と、十二月三十日。三月は自転車の防犯登録の控えを取りに来て四十分いた。十二月は年越しの買い物のついでで一時間十分いて、鍋にして、ねぎを一本半使った。帰りに駅まで一緒に歩き、改札の手前で、また来るね、と言われた。 十一月二十日に姉から電話があり、母が風呂場で転んで腰の骨を折って藤沢の病院に入ったと言われた。見舞いには行っていない。来なくていいと言われたのだから、行かない。病室は四階の四〇六号で、面会は午後二時から四時までだと聞いた。その二つは書き留めてある。 年が明けてから、雇用保険の受給資格者証と求職活動の記録を二穴ファイルの五番目に綴じた。求職の申込みは二〇二五年三月で切れていて、更新はしていない。ハローワークからは八月に一度、はがきが来た。 第十章 一冊目のノートは十月十九日の夜、二十二時四十分に終わった。三十枚を両面まで使い切って、最後の四行だけ空けてある。空けておいたのは、あとから手帳と突き合わせて書き足すためで、その場所には鉛筆で薄く印を入れた。書き方は仕事のときと同じにしている。日付、時刻、相手の名前、言われたことを、この順番で書く。書き間違えたところは二重線を引いて、余白に正しいほうを書き、脇に訂正した日付を入れる。修正液は使わない。消してしまうと、消したという事実まで一緒に消えてしまうからである。レセプトの訂正でも同じ決まりで、十三年そう教わってきたし、あとから入ってきた人にもそう教えた。ボールペンは辞めるときに持って帰った〇・五ミリの油性で、十月の半ばに二本目へ移った。手帳は二〇一一年から今年までで十五冊あり、押し入れの紙袋から一冊ずつ出して、書く年のものだけ台所のテーブルの右上に置いて開いておく。抜けているのは二〇二〇年の一冊だけで、その年のことは手帳がなくても順番どおりに書けた。二冊目は十月二十日の夜から使っていて、今日で三十一ページ目になる。 十月十四日、水曜日の午前中に、駅前のホームセンターで蛍光灯を買った。二十形の直管が四百九十八円で、点灯管は二個入りの二百二十円だった。台所に椅子を運んでカバーを外し、管と点灯管の両方を替えた。それでも点けてから四十秒ほどは端のほうが暗いままで、売り場の人には安定器が古いのだろうと言われた。器具ごと替えるとなると部屋の設備の話になるので、十月十五日の九時六分に管理会社へ電話をかけた。担当は二年前から替わっていない。 「園部さま、器具ごととなりますと、大家さんの負担になるかどうかの確認からになりまして」 「去年の八月十九日にお出しした書面と、同じ扱いになりますか」 「あー、そちらは水回りですので、別件で上げるかたちですね」 「別件だと、順番はうしろになりますか」 「いえ、そういうことではなくて、はい、ちょっとこちらでも確認します」 やりとりを表紙の裏に書き足した。九行目になった。バケツの水は、五日に一度で足りる。 国民健康保険料の減免は、十月十三日に出し直した申請が、十月二十三日付の決定通知で非該当になった。理由の欄には、前年に比べて所得が減少していないため、と印字されていた。二〇二五年の所得はゼロで、その前の年も三月までの分しかないので、制度の上では減っていないことになる。二十六日の月曜、九時十二分に五番の窓口へ電話をかけた。 「収入がゼロのままだと、減っていないことになるんですか」 「はい。比べるほうの年にも所得がありませんと、この減免では見られないかたちになりまして」 「二年続けてゼロだと通らないということですね」 「制度の作りとしては、そうなります。ただ、納付のご相談でしたら別にお受けできますので」 「相談は六月にしました」 「……申し訳ありません、こちらの記録を確認します」 翌日の午前に窓口へ行った。番号札は二十九番で、待ち時間は十二分だった。残っている五期分を、月ごとに四千二百円ずつの十四回に分けてもらった。一度でも遅れると分割は取り消しになると、紙のいちばん下に赤い字で刷ってある。署名して、園部の三文判を押した。控えは二穴ファイルの、管理会社の書面の次に綴じた。市役所を出たのは十時四十分で、帰りは藤沢橋まで歩いて、豆腐を一丁と、値引きの札の貼られた食パンを買った。ゆうちょの残高は十月二十六日の時点で二十九万八千二十円になっている。 十月十八日、日曜日の十四時二分にインターホンが鳴った。モニターに里美が映っていた。ドアは二十センチだけ開けた。姉は紙袋を提げていて、白いスニーカーを履いていて、髪を後ろで留めていた。 「志乃ちゃん、お母さん、九月の二十八日に転んだの」 「聞いています。留守番電話に入っていました」 「入れたけど、かけてこなかったでしょう」 「十月二日の十七時四十一分です。十九秒ありました。用件は書き取ってあります」 「右の脚の付け根を折ってね、手術して、いまはリハビリのほうの病院。十二月には出られるって」 「そうですか」 「一回、顔だけでも見せてあげて」 「行きません」 「志乃ちゃん」 「行かないと決めたのはわたしです。理由はそちらが知っているはずです」 姉は紙袋を右手から左手へ持ち替えて、それから、果林が先週の土曜に来てくれたのだと言った。あの子が部屋に入ると母は起き上がって座るのだと言い、寝間着の襟を直してもらっているのだとも言った。 「先週の土曜というのは、十月十七日ですか」 「そう。夕方から泊まって、日曜のお昼に帰った」 「何度目ですか」 「そんなの数えてないわよ」 ドアの縁に掛けていた手を下ろした。姉は靴の先で廊下のタイルの目地をなぞってから、鞄の中を探して、母のいる病院の名前と面会の時間を書いた紙を出そうとした。出す前に手を止めて、鞄のふたを閉じた。 「志乃ちゃん、痩せたね」 「食べています」 「そう」 「姉さん、果林には何も言わないでください」 「言うって、何を」 話は十四時十九分に終わった。紙袋は受け取らなかったが、外の三和土に置いていったので、翌日、姉の住所へ宅配便で送り返した。着払いにはしていない。送料は八百四十円で、中身は開けていない。伝票の控えは、二穴ファイルの最後に入れた。 十月二十日、火曜日、市役所の帰りにクリニックの前を通った。自転車が四台停めてあって、そのうちの一台は籠に園芸店の袋が入ったままになっていた。受付の窓の位置が右へ一つぶんずれていて、ガラスの内側に貼ってある案内の紙は、わたしの字ではなかった。中には入っていない。三分ほど立ってから駅のほうへ歩いた。看板の診療時間は十七時までのままで、そこだけ十三年前と同じだった。 十月四日の電話で、あの子のほうから会いたいと言った。だから二十四日の土曜に行った。持っていったものを書いておく。 ・米 五キロ ・冬物のセーター 二枚(去年の暮れに買って、一度も着ていないもの) ・タッパー 三つ(鶏むね肉の煮たもの、ひじき、切り干し大根) ・単三の電池 八本 ・ばんそうこう、胃薬、のど飴 乗り換えを一度して四十分、駅からは十二分歩いた。バスは十五分に一本しか来ないので使わない。アパートは二階建ての二階で、いちばん奥から二つ目の部屋になる。呼び鈴を二度押して、返事がないので階段の下に座って待った。十四時十分から十七時五十二分まで、三時間四十二分待ったことになる。途中で自動販売機の茶を一本買い、百三十円をちょうど入れた。米の袋は重いので階段の一段目に置いて、その上に自分の鞄を載せておいた。四時ごろ、隣の部屋の男の人がごみ袋を提げて出てきて、目が合ったので会釈をした。待っているあいだに二冊目のノートを鞄から出して、二〇一七年のところを二ページ書いた。膝の上では字が右上がりになるので、あとで読み返すときのために、そのページの上の隅に「外」と入れておいた。郵便受けは階段の下の壁に並んでいて、五号室のところに折り込みの広告が二枚だけ挟まっていたので、奥まで押し込んでおいた。電気のメーターは回っていた。留守にしていても冷蔵庫は動くので、これは何の目安にもならない。二階の物干しには洗濯物が出たままで、風が出てきたのは五時前だった。踊り場の非常灯が、部屋の明かりよりも先に点いた。ここへ来るのは去年の三月に引っ越しを手伝って以来で、そのときは布団と本棚だけで軽トラックの荷台に隙間ができた。 果林は自転車を押して帰ってきた。 「お母さん?」 「来たよ」 「なんで。連絡してくれればよかったのに」 「先に言うと気を遣うでしょう」 「そういうことじゃなくて。ずっといたの、ここに」 「二時すぎから。米、重いから運んで」 部屋は六畳の一間で、カーテンは閉まったままだった。冷蔵庫を開けると、麦茶のポットと卵が四つと、コンビニのサラダが二つ入っていた。タッパー三つを入れる場所を作るために、上の段の紙パックを二本、下の段へ移した。テーブルの上に白い封筒があって、表に「かりんちゃんへ」と書いてあった。母の字は昔から縦の線が右に倒れる。封は切ってあったが、中は見ていない。流しには茶碗が一つと箸が二膳あって、片方の箸は使っていないほうの端だけが濡れていた。壁のカレンダーは製薬会社のものではなく、写真の入っていない薄いもので、二十四日の欄に六時からの丸だけが書いてあった。ほかの日の欄は空いていた。 「バイト、何時から」 「六時。今日は八時までだから、すぐ終わるけど」 「ごはんは」 「まかない出る」 「セーターは洗ってあるから、そのまま着られる」 「ありがと。……ねえ、お母さん」 「なに」 「ううん。前も言おうとして、やめたやつ」 「言いなさい」 「遅れるから、行くね」 階段の下まで一緒に降りて、そこで別れた。十八時六分だった。自転車の前籠にはコンビニの袋が入ったままで、あの子はそれを取らずに鍵だけ外して押していった。帰りの電車で手帳に書いた。痩せてはいなかったし、爪も切ってあった。玄関に並んでいた靴は四足で、どれもあの子のものだった。 十月二十五日、日曜日の二十一時半に、ノートの写真を撮って果林に送った。二〇一六年のところを三ページと、二〇二三年のところを四ページ、文字が小さいので一ページを上下二回に分けて撮ったから、送ったのは合わせて十四枚になる。既読は二十六日の朝についた。 二冊を通して読み返した。日付はすべて手帳と合っている。二〇一一年四月一日から二〇二四年三月三十一日までのあいだに、わたしが落とした仕事は一つもない。果林が学校へ行かなかった三か月も、隆が出ていった週も、レセプトは十日に間に合わせている。返戻は年に十九件あって、そのうち十七件は保険者を自分で探して通した。受付の決まりを紙に書いて内側に貼ったのはわたしで、あとから入ってきた人はそれを見ずに覚えた。母に言われたことも、佐々木さんに言われたことも、日付と時刻のついたかたちでこの二冊に入っている。院長に相談した三十七回は、手帳の鉛筆の字と一つずつ照らして写した。数え違いのないように、写したあとで下から数え直してもいる。書き足すところはまだ残っているが、直すところは一つも無い。 十月二十七日、火曜日の二十三時十八分に、果林からLINEが来た。全文を書き写しておく。 お母さん この前は急に来てびっくりしたけど、来てくれてありがとう セーター着てる 写真、全部読んだよ 四日の電話のときに言おうとして言えなかったのは、これです お母さん、病院に行ってほしい 心療内科でも、お母さんが行きやすいところならどこでもいい 私が予約してもいいし、当日も一緒に行く おばあちゃんのことも、佐々木さんのことも、お母さんが書いてることと、私が聞いてることが違うんだよ 嘘をついてるって言ってるんじゃない 私は逃げてないし、ずっとお母さんの娘だから 返事はいつでもいいから、消さないで読んで

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