第一章 八月十七日、三ツ矢典礼の車庫は油と線香の混ざった匂いがして、亘は軽ワゴンのバックドアを開けたまま、折りたたんだ簡易浴槽を横向きに立てて奥へ押し込んだ。底に貼った補修テープが去年の暮れから剥がれかけていて、押し込むたびに端が引っかかる。給湯器、ホース二本、ポリタンク、養生シート、脚立、道具箱、それに着替えの入った紙袋。積む順番は十四年変えていない。ドライアイスの箱は最後に助手席の足元へ置き、保冷袋の口を二度折って輪ゴムを掛けた。 島が事務所の窓から顔を出した。 「養生は広めに取れよ。畳だからな」 それだけ言って引っ込み、すぐまた出てきて伝票を窓の桟に置いたが、老眼鏡は車のダッシュボードに置いたままらしい。 「悪ぃ、字が小せえんだ。読んでくれ」 「中里保さん、七十九。一昨日の晩、自宅の布団の中で」 「ドライアイスは昨日の夕方に一回入ってる」 「うち、エアコン壊れたんですよ」澪が助手席のシートベルトを引きながら言った。「修理、二週間待ちだそうです。二週間って、どこで寝ればいいんですか」 亘はエンジンをかけた。外気温計は三十四度を指していて、国道を外れて田んぼのあいだの農道へ入ると、稲の上で熱がゆれ、軽トラックが来るたびに路肩へ寄せて停まった。 「首振りのやつ、三千円ちょっとで売ってるんですよ。羽根が五枚のと七枚のがあって、七枚のほうが音は静かなんだそうです。でも七枚は風が弱いって書いてる人もいて、どっちなんですかね」 澪は羽根の枚数の話を十分ほど続け、それから黙って窓の外を見ていた。空調の風がフロントガラスの下から上がってきて、道具箱の金具が信号のたびに鳴った。 十三時五分に着いた。 家は農機具小屋と棟を並べて建っていて、玄関の三和土に長靴が四足そろえて置いてあった。出てきた長女は五十一だと伝票にあり、前掛けをつけたまま盆を運んできた。 「暑いでしょう。麦茶しかないんですけど」 「どうも、お構いなく」 長女は盆を畳に置いて台所へ戻った。仏間は六畳で、北向きに布団が敷かれ、顔の上に白布、腹と胸のあたりが盛り上がっている。ドライアイスは掛布団の下でもう角を丸くしていた。亘は白布を取り、瞼と顎と手の甲の硬さを順に見て、腕を持ち上げて肘の曲がりを確かめた。夏の二日は冬の五日にあたる。窓を開けて扇風機を回さなかったのだろうと思ったが、それは聞かなかった。長女の夫は縁側で新聞を折りたたんでおり、孫は高校の運動着のまま柱にもたれて立っていた。 「爺ちゃん、髭のびてた」 「あとで剃ります」 孫はそれきり何も言わず、最後まで一度も座らなかった。 亘は仏間の畳に養生シートを敷き、玄関から廊下まで幅を二枚分取り、角をテープで留めた。簡易浴槽を組み立てるあいだ、澪が湯を運ぶ経路を歩いて確かめ、風呂場の給湯器のリモコンを見た。 「四十二度で止まってますね」 台所の勝手口から外の水栓までホースを引き、給湯器の湯とポリタンクの水を浴槽の脇に並べる。手袋はLでは指の付け根が突っ張るのでLLを使う。はめる前に自分の爪を見て、右の親指だけ伸びかけているのを爪切りで落とし、切った先を作業着の胸のポケットに入れた。 十三時四十分。 浴槽にはまず水を張り、それから柄杓を長女に渡した。 「この水に、お湯を足していただきます。順番は決まっていませんので、近い方からで結構です」 長女は柄杓を両手で受け取り、湯の入った桶から一杯すくって水面に落とした。次に孫、そのあと夫。三人が足し終えたところで亘が棒温度計を沈め、三十九度になるまで自分で湯を足した。逆さ水は儀礼だが、温度は儀礼では作れない。冷たい湯は皮膚を締めて、剃刀の刃が滑らなくなる。 「これ、逆なんですよね。普通と」 長女が柄杓を戻しながらそう言い、亘は、はい、と答えた。逆さ水の由来を訊かれることは年に何度かあるが、うまく答えられたことがないので、いつも、そういう決まりです、と続ける。今日は続けなかった。 「お湯が足りなくなったら、勝手口をお借りしてもいいですか」澪が長女のほうを向いて訊いた。 「どうぞ。外にも水道がありますから」 「ありがとうございます」 澪はそう言って、自分でホースを見にいった。 洗いは頭からにする。首の下に腕を差し入れて頭を少し起こし、耳に湯が入らないよう左手を耳の縁に当てて、右手で湯をかけた。髪は白く、後頭部だけ量が残っている。香りの弱いシャンプーを手のひらで泡立ててから地肌に置き、指の腹で二度、生え際から後ろへ動かす。爪は立てない。泡を流すあいだ、湯が首筋を通って浴槽の底で音を変えるのが聞こえた。二度洗いはしない。乾いたタオルで髪の水を吸わせ、頭を布団の枕に戻したときには、湯は三十八度を切っていた。 全身はバスタオルを掛け替えながら洗った。掛けてある側は絶対に開けない。開けるのは今洗う場所だけで、洗い終えたら濡れたタオルを外して乾いたタオルを掛け、次へ移る。右腕、右の脇、右の手と順に移り、手のひらを上に返して指を一本ずつ開いて、指の股に石鹸を通した。中里の右の人差し指の第一関節から先が、内側に曲がったまま伸びなかった。左手にはない曲がり方だった。腰の右に十円玉ほどの床ずれがあり、周りだけ湯を落とすようにして、そこは擦らなかった。足の裏の踵は角質が厚く、白い粉のようになったところをガーゼで撫でると、粉が湯に散った。膝から下は思ったより細い。夏だから腹が張っていて、押すと空気の音がした。口の端から少し出たものを、脱脂綿を折って押さえ、二枚取り替えた。澪が湯の追加を持ってきて、無言で桶を置き、無言で汚れた綿の袋を替えた。五年目の手つきは早くはないが迷いがなく、掛けるタオルの角を必ずそろえて置く。 長女は台所で氷を足していた。 拭き上げに十分かかった。水気が残ると衣類が張りつくので、指の間、耳の後ろ、脇、膝の裏を順に押さえていく。着せるものは家族の希望で経帷子ではなく、洗って畳んであった襟つきの半袖と綿のズボンだった。生地に糊がきいている。腕の関節が固く、袖が通らないので、四十五度ほどの湯に浸したタオルを絞って肘と肩に三分ずつ当てた。温めると関節はゆるむ。ゆるんだところで肘を支え、袖口から自分の手を先に通して中里の手首を迎えにいく。指を引っ張らない。引っ張ると皮膚が動く。ズボンは腰を澪と二人で持ち上げて、一度で上げた。持ち上げるとき澪が、せーの、と言わずに息だけで合わせてきたので、亘もそれに合わせた。 「うちの父、これ好きだったんです。青いの」 長女が襖のところから言い、亘は襟を直した。 「そうですか」 「去年の盆も、これ着て、そこに座って……あ、洗濯機」 長女は立ち上がってそのまま出ていき、戻ってきたのは五分ほど後で、その話の続きは出なかった。 髭を剃った。 柄の白い剃刀に新しい替刃を入れ、クリームを手のひらで温めてから顎と頬に置く。皮膚が冷たいと刃が引っかかるので、蒸しタオルを一分当ててから始めた。左手の指二本で頬の皮膚を耳の方へ張り、刃を寝かせて、生えている向きに沿って動かす。逆には剃らない。逆に剃ると、切れなくても後で青く出る。頬から顎、顎から首。喉は最後にする。喉の皮膚は薄く、たるみの底に短い毛が残るので、指で伸ばしてから刃先だけを使った。一往復ごとに刃を湯にくぐらせ、泡を落とした。耳の前の産毛は白くて短く、光の角度を変えないと見えないので、膝の位置をずらして窓のほうから当てた。手袋の内側に汗がたまってきて、指の腹の感覚が鈍るのが分かったので、いったん外して手を拭き、新しいのに替えてから続けた。鼻の下の左側に、剃り残しが二本あった。もう一度クリームを置いて、そこだけやり直した。剃り終えてタオルで拭き、乳液を薄くのばすと、顔の色が少し変わった。刃を包んで道具箱の蓋の裏のケースへ戻すところまでが手順に入っている。孫が柱から離れて、一歩だけ近づいた。 爪を切った。 死んだ人の爪も切れる。白い部分だけを、丸く残るように少しずつ落とし、切った先を懐紙の上に集めていく。右手の十枚と左手の十枚を一枚の懐紙に包んだ。 「お納めください」 長女はそれを両手で受け取り、仏壇の前に置いた。手のひらに残った角質を、亘は作業着の腿で拭いた。 顔をつくるのに二十分かかった。 頬のこけたところに含み綿を入れる。脱脂綿をちぎって丸め、上の歯茎の外側へ、左右で大きさを変えて詰めた。左の頬のほうが落ちていたので、そちらを一回り大きくする。詰めすぎると膨らんで、生きている人の顔でも死んだ人の顔でもなくなる。口は閉じきっていなかったので顎バンドを掛け、後頭部で留めた。 「これは一時間で外します。こちらでやりますので、そのままで」 瞼は右が二ミリほど開いていた。指の腹を睫毛の上に置いて三十秒押さえ、離すとまた少し戻る。乾いているからで、目の周りに保湿のクリームを薄く置いてもう一度押さえると、今度は戻らなかった。 「生前のお写真を、一枚お借りできますか」 長女は仏壇の引き出しから一枚出してきた。去年の敬老会の集合写真で、後列の左から三人目、麦わら帽子をかぶって、口を開けて笑っている。亘はその顔を三十秒見てから伏せて置いた。下地を薄く、ファンデーションは写真より一段暗い色を選ぶ。明るくすると、顔だけが浮く。スポンジで叩かずに、指で押し込むように広げ、首との境目を必ずぼかす。耳たぶまで入れる。口紅は男性でも使う。唇の色が抜けているので、細い筆で薄い茶に近いものを二度重ね、はみ出た分を綿棒で取った。 「柔らかい顔ですね」澪が小さい声で言った。 亘は答えず、写真を長女に返した。 手を組ませ、数珠を掛けた。左右の指を重ねて胸の上へ運ぶとき、右の人差し指の曲がりが最後まで真っ直ぐにならなかったので、その指だけ下の段に隠れるように組み直した。数珠は家族のものを使った。玉が二つ欠けている。 納棺は十五時十分に終わった。棺を仏間の入口の側に寄せ、頭を先に、四人で持ち上げて入れた。長女の夫が足の側を持ち、持ち上げる瞬間だけ新聞を縁側に置いた。布団を整え、腹の上に一枚、胸の上に一枚、ドライアイスを新聞紙で包んで置く。一回に三・五キロを使う。 「夏場ですので、明日の朝にもう一度替えます。お通夜は明日の十八時でしたね」 「はい、六時からです」 「でしたら、朝と夕方の二回で」 長女は前掛けで手を拭いた。誰も泣かなかった。孫は最後まで立ったまま、棺の縁に手を置いて、置いたまま何も言わなかった。 浴槽の湯を抜くのに時間がかかった。ホースの先が水栓の高さより上がってしまい、澪が外でホースを持ち上げているあいだ、亘は室内側の口をつまんで空気を送った。抜けたあとの浴槽の底に、白い粉と髪が三本残っていた。それを拭き、折りたたみ、養生シートのテープを剥がして、畳に糊が残っていないのを膝をついて確かめた。三和土の長靴は、来たときと同じ向きに四足そろっていた。 外に出ると、日は傾いていたが地面はまだ熱かった。 「明日の朝、九時に本社です」澪がバックドアを開けながら言った。「エアコン、レンタルってあるんですかね」 亘は簡易浴槽を横に倒して奥へ押し込み、補修テープの剥がれた角を内側へ向けた。作業票の開始欄に十三時四十分、終了欄に十五時十分と書き、所要のところに九十分と入れて、島に見せるために助手席のバイザーに挟んだ。外気温計は三十五度になっていた。 第二章 搬送車が裏口に着いたのは八月十七日の午後一時四十分で、荷台の扉を開けた途端に、車内の冷えた空気が外の熱に押し返された。ストレッチャーの脚を伸ばす金具の音が、打ちっぱなしの床に高く跳ねた。前橋の大学からの戻りだった。書類の封筒が胸の上に載っていて、角が汗で柔らかくなっている。亘はそれを片手で取り、もう片方の手で車輪の向きを変え、廊下の段差を後ろ向きに越えた。 作業場のエアコンは去年から効きが悪い。 天井の吹き出し口の下だけが冷えて、台の周りには届かないので、夏は業務用の扇風機を二台、壁に向けて回す。人に当てると乾く。消毒液と、洗剤と、湯を落とした排水口の匂いが、朝からずっと同じ濃さで溜まっている。亘は入口で長靴に履き替え、前掛けの紐を腰の後ろで二重に回して結んだ。 島が奥の流しで手を拭きながら出てきて、額に上げていた老眼鏡を下ろして封筒の中を覗き、すぐまた上げた。細かい字は澪に読ませることにしている。 「二十二。バイク。十七号の、玉村のあたりの交差点だと」 「立ち会いは」 「母親がひとり。もう応接に来てる。うちの葬儀じゃない。明日、太田のほうに出す」 預かって縫うだけの仕事になる。年に三百十件ほどのうち、こういうのは十いくつで、たいてい夏に寄る。 午前中は高崎の団地で八十代の男をやってきた。息子夫婦は最後まで泣かずに、居間のテレビをどっちの壁に寄せるかという相談を、亘が布団を上げて敷き直しているあいだじゅう続けていた。玄関の外で待っていた孫らしい男の子は、ずっと携帯を見ていた。 タオルを胸まで下ろして、上から順に見た。頸の下から恥骨まで一本、解剖の切開が通っていて、その上を太い糸が大きく返して縫ってある。法医の縫合は速い。速くて構わないのだが、針の間隔が広いので、合わせ目のところどころに段ができている。そこは触らない。顔は左の頬骨の下から耳の前まで裂けていて、縁がめくれ、乾いて色が変わりかけていた。額の生え際にもう一本、短いのが走っている。左の前腕は開いた骨を大学で戻してあって、皮膚だけが余っていた。右の半分は無傷で、髭が三日ぶんほど伸びている。肩から二の腕にかけて日に焼けた線がはっきり残っていて、そこから先が白い。首も、襟の形に境がある。外で働いていたか、外で遊んでいたかのどちらかで、どちらであっても縫う手順は変わらない。踵の皮が厚く、足の指の間に砂が入っていた。 指の腹で頬の縁を寄せてみると、寄った。 澪が保冷庫からドライアイスを出してきて、新聞紙を敷いた台の上で、三・五キロぶんを二つに割った。割れた端が白く煙って、床の低いところを流れていく。 「上、先に当てておきますか」 「縫ってから。手が冷えると持てない」 澪は清拭の道具を先に並べはじめた。桶、手桶、蒸し器から出したタオルを重ね、剃刀の刃を新しいものに替え、含み綿を箱から二つつまんで金属の受け皿に置く。五年目で、手は速い。縫合の器械には触らない。先月から車の車検が切れそうだという話を一日に二度する日があって、今日はまだ一度も出ていない。 縫いを島に教わったのは、この会社に入って四年目の冬で、最初は豚の皮でやった。肉屋から譲ってもらったものを板に張り、切って、縫って、切ってを一日中やらされた。人の皮膚のほうが薄いと聞いていたが、実際に持ってみると、豚と大きくは違わなかった。班のうちで縫うのは今も島と亘の二人だけで、あとの者は縫えなくても困らないことになっている。 島が応接から母親を連れてきた。五十を少し過ぎたくらいで、黒い半袖のカーディガンを腕に掛け、コンビニのペットボトルを持っていた。パイプ椅子を作業台から一メートル半ほど離して開くと、そこへ座り、掛けていたカーディガンを膝の上でたたんだ。 「見ていて、構いませんか」 「構いません。気分が悪くなったら、そこの戸を開けて外に出てください。鍵は掛かっていません」 それだけ言って、母親の顔は見なかった。 生理食塩水を紙コップに取り、ガーゼを浸して裂け目の中を洗った。乾いて縮れた縁は、そのまま合わせても線が太くなるだけなので、剪刀の先を寝かせて、めくれた薄いところを一ミリだけ落とす。落としすぎると寄らなくなる。ここで時間を使うかどうかで、あとの化粧の乗りが変わってくる。手袋を二重にして、台の右手に器械を並べた。持針器、有鉤のピンセット、剪刀、縫合用の白糸、半円の針。皮膚は思ったより厚い。生きている人のものと違って張りが抜けているので、針先は滑らずに入るが、引くと縁がよれる。頬の裂け目の、下の端から始めた。縁から三ミリのところに針を垂直に立て、手首を回して弧をそのままなぞらせ、向かい側の縁の同じ深さから出す。糸を三回、二回、二回で結び、結び目は裂け目の外へ落とす。剪刀で五ミリ残して切る。次は八ミリ離してまた入れる。強く引きすぎると縁が持ち上がって、そこだけ土手になり、乾いてから余計に目立つので、糸は合わさったところで止める。合わさったかどうかは、引いた指に返ってくる重さで分かる。耳に近づくにつれて皮膚の下が薄くなり、針の弧が骨に当たるので、そこは角度を寝かせて、浅く小さく拾っていく。母親の椅子の脚が、一度、短く床を擦った。額のライトが近くて、手袋の中に汗がたまり、指の腹が糸を滑らせるようになったので、途中で一度、外して替えた。 丸めた手袋は、ペダルを踏んで蓋を開けた缶に捨てた。 「この子、去年の秋に免許を取ったんです」 亘は針を止めずに、はい、と言った。 「原付から乗り換えて、四百の。音がうるさいって、下の階の人に何度も言われて、それで朝は押して出てたんです、坂の下まで」 澪が手を止めて母親のほうを見た。亘は見なかった。糸を結ぶあいだだけ息が浅くなる癖は、この仕事に入って何年かのうちについたもので、直そうとしたことはない。 「明日の朝、職場に電話しないといけないんですけど、何時に掛けたらいいものか、わからなくて」 「九時前は出ないところが多いです」と澪が言った。 母親はペットボトルの蓋を開け、開けたまま膝に戻した。 「朝は食べていかない子で、だから、握って持たせてたんです。小さいのを二つ。ゆうべの分が、まだ台所に置いてあって」 澪が何か言いかけて、やめた。亘は針を持ち替えて、次の一針を入れた。母親はそのあと、十五分ほど何も言わなかった。扇風機の首が振れるたびに、置いてあった伝票の端が持ち上がって、また落ちた。 頬は十四針で閉じた。閉じたあとの線は、肌の色より白く残る。ここへ後で下地を入れて、ファンデーションを二度に分けて重ねると、正面からは分からなくなるが、斜めから光が当たれば分かる。斜めから見る人はいる。額は生え際にかかっていたので、髪を左右に分け、頭皮の側へ二針逃がして、残りを四針で寄せた。前腕は九針で足りた。ここは服の下に入るから、間隔を少し広く取ってある。糸の端を全部指でたどって確かめてから、剪刀と持針器を受け皿へ戻した。壁の時計は三時二十分を指していた。 四十五分かかった。 蒸したタオルを持ってきて、肘と手首に巻いた。関節が固くなっているときは、温めてから曲げる。指も一本ずつ湯に浸したタオルで包み、開いた形から順に戻していく。急ぐと折れる。左の手のひらにアスファルトの粒が残っていたので、ピンセットでひとつずつ取って、ガーゼの上に並べた。七つ出た。爪はほとんど伸びていなかったが、右の親指だけ縦に深く割れていたので、そこだけ切って、やすりで角を落とした。亘は自分の爪も短く切る。深爪の手前で止める切り方を、工場にいたころに覚えた。 澪が髭を剃った。 石鹸を泡立てて、右の頬から顎へ順に当て、左は縫った線を避けて先に周りを剃り、線の上だけ後から刃を寝かせて滑らせる。含み綿は頬がこけていなかったので使わなかった。顎バンドを掛けて、口の合わせを横から見て、少し緩めて掛け直した。それからドライアイスを晒に包み、腹と胸に一つずつ入れて、上から浴衣を掛けた。 「写真、お借りできますか」と澪が言った。 母親は膝の上のカーディガンを持ち上げ、その下に置いていた手提げから財布を出して、カード入れのところから一枚抜いた。制服の写真だった。高校のものらしく、髪が今より短い。 「これしか、すぐ出るのがなくて」 「充分です」 亘は写真を受け取り、ライトの下で少し傾けて、耳の位置と眉の高さを見た。左の眉は、写真では右より低い。裂けた側だった。化粧のときに左右を揃えてしまわないよう、澪に言っておかなければならない。写真をクリップでライトの支柱に留めると、紙の反りで少し斜めになったので、下の角にテープを一枚貼った。 母親が椅子から立って、台の横まで来た。手はカーディガンを持ったままで、しばらく何にも触れなかった。 「触っても、いいんですか」 「大丈夫です。冷たいですけど」 母親は右手を伸ばし、縫っていないほうの、髭を剃ったばかりの頬に手のひらを当て、三つ数えるくらいそのままにして、離した。それから椅子へ戻って、また座った。ペットボトルの蓋はまだ閉めていない。 島が入ってきて、伝票を台の端に置いた。老眼鏡は額に上げたままだった。 「四時に高崎の斎場。渋川のは明日の朝イチに回してもらった」 「はい」 「ドライアイス、明日の分が足りない。夕方に発注しといて」 亘は手袋を外し、流しで肘まで洗った。業務用の白い石鹸を二度つけて、指の股と爪の際を先に洗い、それから腕を洗う。水は生ぬるく、いくら流しても冷たくならない。振り返ると、澪が母親に明日までの安置のことを説明していて、母親は聞きながら、太田の会館の駐車場は何時から入れるのかを訊いていた。澪が答えられずに、島のほうを見た。 「六時半には開いてます。門は自動じゃないんで、閉まってたら押してください」 母親は手提げから小さな手帳を出し、そこに書いた。書き終えて、ペンをしまうときに、蓋の閉まっていないペットボトルを膝から落とした。中身は三分の一ほど残っていて、床のわずかな傾斜に沿って、排水口のほうへ細く走った。澪がモップを取りに走り、亘は屈んで、転がったボトルを拾い、蓋を閉めて母親に渡した。 拭き終わるまで、母親は椅子の前に立ったままでいた。 亘は伝票を三つに折って前掛けの胸に入れ、器械を洗いに流しへ戻った。持針器は蝶番のところに糸くずが挟まりやすいので、開いてブラシを通す。剪刀は刃を合わせたまま拭いて、水気を残さない。縫った針は本数を数えて、専用の容器に落とす。今日は三本使って、一本も曲げていない。棚の上のカレンダーには、四時の高崎と、明日の朝六時半の太田が、島の字で書き足してあった。渋川の名前は消して、その下に移してある。四時までは、あと二十分あった。 第三章 三ツ矢典礼の裏の流しで、石鹸を三度使った。一度目で手袋の粉を落とし、二度目で指の股と爪の際に爪ブラシを入れ、三度目は手首から肘の内側まで泡を伸ばしてから、蛇口を全開にして流した。爪ブラシの毛は右の端だけが減って寝ている。作業着はロッカーの下の段に丸めて押し込む。金曜にまとめて洗うことになっていて、今日は水曜だから、袋はもう膨らんでいた。事務所を出るとき、ホワイトボードに明日の予定が書き足してあり、八時半に一件、十三時に一件、通夜が十九時からと入っていた。着替えれば匂いは残らないことになっているが、車に乗って窓を閉めて八分ほど走ると、シートのどこかから戻ってくる。駐車場を出たのは十九時四十分だった。十一年目の軽自動車で、走行は十三万八千キロを超えている。エアコンの効きが落ちていて、送風口を顔のほうに向けたまま走った。助手席には作業靴の入った袋と、先週の伝票の綴りが置いたままになっている。国道十七号の下り線が動かず、倉賀野の交差点で三回信号を待った。橋の上で一度だけ窓を開け、外の空気のほうが重かったのですぐに閉めた。途中でドラッグストアに寄り、尿素二十パーセントのハンドクリームを買った。税込みで四百九十八円だった。同じものを二か月に一本使う。手袋の中でふやけた指の腹は、家に着くころには乾いて、指紋のあたりが白く粉を吹いている。 玄関でひかりのサンダルが片方裏返っていた。 裏を返して揃えてから上がった。夜になっても風はなく、門扉の錠に触れると鉄がまだ温かった。玄関の網戸に小さい蛾が二匹止まっていて、戸を引いても動かなかった。台所から換気扇の音と、フライパンに何かを落とす音がしていた。居間のテレビは高校野球の再放送を流していて、誰も見ていなかった。買ってから七年になる建売で、前の持ち主が居間の壁の一面だけを違う色に塗り替えている。塗り替えた面は日に焼けて、境目のところで色が二段になっていた。ローンはあと十一年ある。 「おかえり。先、入っちゃって。ごはん、あと十分」 浴室の戸を閉めて、浴槽に水を張ってから、給湯のパネルを四十二度にして湯を足した。順番を変えたことはない。湯を足しているあいだに頭を二度洗い、二度目は泡を立てずに指の腹だけで地肌を擦った。それから指を一本ずつ立てて爪の間に湯を当て、右の親指の付け根にある、木曜にできた五ミリに足りない切り傷に沁みるのを確かめた。傷は縁が白くふやけて、押すと少し開く。浸かっているあいだも換気扇の音は壁越しに聞こえていて、途中でそれが止まり、しばらくしてまた回りはじめた。目地のカビは先月落としたところが二か所だけ白いままで、あとは元に戻っている。肩まで沈むと湯が縁から溢れ、洗い場のタイルを鳴らしてから排水口へ落ちた。膝を立てて、湯の面が鎖骨のところで止まる高さに体を沈めたまま、換気扇が二度目に止まるまで動かなかった。十分と言われた時間は十六分になった。上がってからハンドクリームの蓋のフィルムを爪の先で切り、指の背と関節にだけ塗った。掌には塗らない。滑ると道具が持てない。 食卓には麻婆茄子と冷奴と、わかめの味噌汁と、冷凍しておいた飯を温めたものが並んでいた。ひかりは先に半分ほど食べていて、麦茶に氷を足しに立ったところだった。佳奈は右の手首に黒いサポーターを巻いたままで、皿を持ち上げるときだけ左の手を下に添えた。 「二学期、二十八日から。あさってから釜洗い」 「ああ」 「今年、七百二十六食。去年より十九減ったのに、人は一人減るんだよ。九月から山口さんが来ない」 「そう」 「腱鞘炎、あの人もだったの。うちのは軽いほうだって」 釜が四つあって、洗うのに二人ずつつく。ボイラーが古いので湯の出るまでが長く、始業式の前の点検の日にはだいたい何かが止まる。去年の九月には始業式の朝に湯が出なくなり、寸胴で沸かして間に合わせたことがある。除去食の対象が今年は十一人に増えて、トレイに貼る赤いシールを間違えないように、名簿の並びを覚え直しているという話を、佳奈は自分の皿を流しに運びながら続けた。手首のサポーターは食べているあいだも外さず、箸を持つ手の甲だけが赤くなっていた。ひかりが氷を三つ入れて戻ってきて、椅子に座る前から話しはじめた。二学期の係決めのじゃんけんで飼育に負けた話で、六人で回してあいこが四度続き、最後にまた最初と同じグーを出したのがいけなかったのだと言った。何の係になったのかと佳奈が聞くと、配りだと答えた。配りは楽でいいじゃないと佳奈が言い、楽だけど毎日だよ、とひかりが言った。それから二人は、プールの授業が今週で終わることと、飼育小屋のうさぎが二羽とも同じ名前で呼ばれていることと、担任が九月に結婚するらしいという話をした。缶を開けて半分飲み、それから箸をとった。茄子は皮が紫のまま油をよく吸っていて、噛むと汁が出た。 「今日、何件だったの」 「二件」 「遅かったね」 「ふつう」 「明日は」 「八時半と、一時。あと通夜がある」 「じゃあ、また遅いね」 佳奈はそれ以上聞かずに、明日の朝の見守り当番が誰の親なのかをひかりに確かめはじめた。飯を二膳食べ、冷奴の醤油を皿に残さないように箸で寄せて、味噌汁の椀を持ち上げた。喋らないことを家で言われたのは、結婚して二年目の冬に一度あったきりで、その後は佳奈もひかりも、返事のいる聞き方をしない。食べ終えると、皿の縁についた油をおしぼりで拭き、テーブルの自分の前だけを拭いて、おしぼりを畳んで端に置いた。 それから新聞の折込を一枚テーブルの端に広げて、爪を切った。爪切りは貝印の一番大きいもので、買って九年になる。左の小指から始めて、右の親指で終える。深爪の手前まで落として、切り口を指の腹で撫でて確かめ、引っかかるところだけをもう一度当てる。白いところを残すと、手袋をはめるときに先が裂ける。水曜と日曜に切ると決めているので、一度に出る屑は少ない。三つ目か四つ目を切ったあたりで、ひかりが麦茶のコップを持ったまま椅子を引いた。 「その音、やだ」 折込ごと持って洗面所に移り、鏡の前に立ったまま残りを切った。洗面台の照明は電球色で、爪の切り口が見えにくい。切った爪は紙の上に集め、丸めて捨て、指を洗ってから戻った。ひかりの席は空いていて、階段の上で戸の閉まる音がした。居間のテレビはまだついたままで、再放送の試合は九回に入っていた。リモコンを取って消すと、窓の外の室外機の音が残った。 椅子の上にクリアファイルが残っていた。 中に藁半紙のプリントが一枚挟んであって、上に「はたらく人にインタビューしよう」と横書きの見出しがあり、下に質問の欄が、仕事の名前、一日の流れ、うれしいとき、むずかしいとき、子どものころの夢、という順に並んでいた。刷りが薄くて、右の端の罫線が途中で消えている。いちばん下に提出は九月四日と印刷され、名前の欄には鉛筆で五年二組ほさかひかりと書いてある。字は濃く、枠より少しはみ出していて、名字のところだけ一度消した跡が残っていた。どの質問の欄も空いていた。去年の二月にも似たものがあって、そのときは枠からはみ出すほど書き込んであり、うれしいときの欄には家族が持ってきた写真の話が入っていた。読んでから、もとの折り目のとおりに畳み、ファイルの同じ側に入れて、椅子の上の、置いてあった向きのまま戻した。二階で水の流れる音がした。 洗い物は亘の担当になっている。結婚した年にそう決めて、それきり変えていない。油の多い皿を先に分け、洗剤をスポンジに二度足して、湯は出さずに洗った。麦茶のポットを最後に洗い、注ぎ口の中まで細いブラシを通してから水を入れ、パックを落として冷蔵庫の一番下に寝かせた。手を拭かずに水切りかごの向きを直し、椀の伏せてあるところだけ入れ替えた。佳奈は流しの端に寄りかかり、茶碗を拭く布を持ったまま、しばらく拭かずにいた。台所の蛍光灯が一本切れかけていて、十数秒おきに端のほうから暗くなる。 「お義父さん、今日も出なかった。二回かけて、留守電に入れといた」 「ああ」 「先週の火曜からずっとだよ。鳴ってるのに出ない」 「うん」 「五月に行ったとき、庭、すごかったでしょう。あれ、そのままだと思う」 連休に行ったときは、玄関から仏間までの畳に新聞と広告が積んであり、母の位牌の前の水だけが新しかった。台所の流しには鍋が一つ伏せてあって、他には何も出ていなかった。洗い終えた皿を立てる位置を、いつもより一段ずらした。 「工場のほう、まだシャッター開けてるの」 「開けてない」 「そう」 「悟さんに一回言っといたら。あの人には出るでしょう」 「忙しいんだろ」 佳奈は布を置いて、冷蔵庫の扉に磁石で留めてある紙を見た。八月の予定が四つと、九月の欄には給食の再開の日と、ひかりの検診の日だけが書き入れてある。 「車検、十月だっけ」 「二十一」 「見積もり、いくらだった」 「十一万八千」 「電球、まだ買ってないよ」 裁縫箱は押し入れの上の段の、アイロン台の裏にある。プラスチックの二段で、上に針山と鋏、下に糸と釦の缶が入っている。針山は緑の布に綿を詰めたもので、底の布だけ色が違い、縁の縫い目が一か所ほどけている。ひかりの体操着は洗濯籠の上に畳んで置いてあり、胸のゼッケンは左上と右下の角が糸から浮いて、洗濯のたびに巻き込まれた跡が布に残っていた。ゼッケンは白の綿で、油性ペンで学年と組と名前が書いてあり、名前のところだけ滲んで太くなっている。白い木綿糸を選び、針は針山の右端の、いちばん細いものではなく二番目に細いものを抜いた。糸切り鋏が上の段にも下の段にも見当たらないので、肘の先まで引き出して歯で切った。糸の端を指の腹で三度撚ってから玉結びを作る。ゼッケンの角を布の目に合わせて左の親指で押さえ、針を寝かせて入れ、三ミリの間隔で運んだ。体操着の生地は薄く、針はほとんど抵抗なく抜けていく。指ぬきは使わない。縫っているあいだに佳奈が麦茶のパックを捨てにきて、電球のことをもう一度言い、それから明日の弁当に卵を使うかどうかを一人で決めていた。四つの角を縫い直し、浮いていた辺の途中も二か所すくった。玉止めは布の際で作らないと洗濯機の中でほどけるので、糸を布に押しつけたまま二度巻いて締めた。余った糸をまた歯で切り、針は針山の同じ位置に戻して、蓋を閉めて押し入れに返した。九分かかった。 畳み直して、階段の下に置いてある籠に入れた。 階段の三段目にひかりの靴下が片方落ちていて、拾って同じ籠に入れた。 「ひかり、風呂」と佳奈が階段の下から声を上げた。返事はなかった。もう一度呼んで、それでも返事がないまま、佳奈は冷蔵庫を開けて中を覗きはじめた。 「あさっての燃えないゴミ、瓶も一緒でよかったっけ」 第四章 九月十八日は朝のうちに一件だけ、ドライアイスの交換が入っていた。安置室は十度。入ると手の甲のほうから先に冷える。腹部と胸部に分けて三・五キロ、前の交換から二十二時間が経っていて、包みの角は湿気を吸って丸くなり、指で押すと凹んだまま戻らなかった。古いほうを引き上げる。白い霧が布の下から横向きに流れ出て、しばらく足元に溜まってから消えた。持ち上げた包みは入れたときの半分ほどの重さになっていて、外側の新聞紙が濡れて破れ、指の腹に活字の黒が移った。汗は手のひらだけだ。手袋の中のそこだけが湿っていて、部屋の冷たさとは重ならない。亘は新しい包みを新聞紙で二重に巻いてから同じ位置に入れ、白布を戻す前に故人の両手を組み直して、数珠の房が右の手首の内側へ落ちるように置いた。爪は四日前に自分が切っている。通夜は明日の午後六時からで、それまでにもう一度替えることになるから、次に使う分は保冷庫の扉の内側へ寄せておいた。伝票の交換時刻の欄に十時四十分と書いた。室温の欄も埋めた。それから事務所へ持っていった。 島は伝票を受け取った。前の交換から何時間空いたかを、親指を折るところから順に指で数え、それから判子を押した。二十年以上この仕事をしていて、数えずに押したところを見たことがない。 「午後、抜けます」 「聞いてる」 「三時までには戻れません」 「戻らなくていい」島は朱肉を紙の隅で拭った。「お前、もう十四年だろう。半日で揉めるか」 判子を押したあと、島は先週から机の端に出しっぱなしになっている搬送の記録簿を開いて、亘の欄の空いているところを二か所、爪の先で叩いた。到着した時刻と、先方で受け取った人の名前が入っていない。ボールペンを借りた。手帳をめくって日付を合わせ、二か所とも同じ濃さで埋めた。島は埋め終わるまで机の脇に立っていて、それから記録簿を棚の元の位置に戻し、背の高さをそろえた。 戸川はロッカーの前で髪をゴムでまとめ直しながら、壁の予定表を見上げていた。九月の欄は白い。亘が一年に受け持つのはおよそ三百十件で、そのうち九月と二月はどういうわけか毎年薄くなり、線を引いただけの枡が横に三つ四つと続く。戸川は五年目だ。湯灌も死化粧も一人で最後まで通せるが、縫合はまだ持たせていない。 「午後の二件、島さんと二人で回します」 「頼む」 「保坂さん、今朝も爪切ってましたよね。自分の」 手袋を外し、ゴミ箱の縁で裏返してから捨てた。 家に寄った。佳奈が玄関の三和土に出していった紙袋を助手席に載せる。タオルが四枚、下着、湯呑み、油性ペン。袋の口に付箋が貼ってあって、全部に名前を書くこと、と佳奈の字で書いてある。給食の調理は十一時から二時まで手が離せないので、電話をしても出ない。冷蔵庫にひかりの字で、金曜は五時間、と書いた紙がマグネットで留めてあり、めくって裏返すと先月の学校からの手紙で、行事の日付のところに折り目がついたままだった。同じところに戻した。ひかりの水筒が流しに出したままになっていたから、パッキンを外して洗い、逆さに伏せてから出た。 病院の駐車場は最初の一時間が二百円、以後三十分ごとに百円で、一日の上限が八百円だった。一階は満車。立体の二階まで上がって、出口に近い側の端にようやく一つ空きがあった。 入院受付は一階の五番窓口で、番号札の三十二番が呼ばれるまでに十二分かかった。書類は三枚。入院の申込書と、身元を引き受ける一枚と、食事の希望を書く一枚だった。食事の紙には塩分を控えるかどうかの欄と、刻みにするかどうかの欄が並んでいる。生年月日の下に年齢の欄があって、七十三と入れた。保証人の欄に自分の名前と住所を書き、印鑑を出そうとして車まで戻った。ダッシュボードの奥、車検証の袋の下に転がっていた。窓口に戻ると、パジャマとタオルのレンタルは一日四百四十円だが申し込むかと聞かれ、袋にタオルは入れてきたと答えたら、では洗濯は誰が何日おきに持ち帰るのかと聞かれた。そこは決めていない。決めてからまた来ますと言った。限度額の認定証は市役所で先に出しておくものだと教えられ、その申請の紙をもう一枚渡されて、折らずに鞄へ入れた。 五階の五一二号室は四人部屋で、誠一のベッドは廊下側の手前だった。窓側の二つはカーテンが引いてある。斜め向かいの老人は、音を消したテレビで相撲の再放送を見ていて、力士が土俵を割るたびに口だけを動かした。入口の壁に面会時間の札。平日は十四時から二十時までと書いてある。ベッドの足元の名札は差し込み式で、保坂誠一の四文字は事務の人の字だった。 誠一は起きていた。掛け布団の上に両手を出して、右の親指の爪を左の親指の腹で押していた。爪は厚い。縦に筋が入り、先のほうだけ白く濁って、押されて白くなったところがゆっくり色を戻していく。手のひらの皮は鉄工所を畳んで十五年経ってもまだ固く、指の腹が四角い。左の手首の内側に丸い痕が二つ。そこだけ色が抜けている。点滴は左の甲から取ってあり、テープの下で血管が浮いていた。 「来たのか」 「五番の窓口で判子を押してきた」 「悟は」 「四時には間に合うと言ってた」 パジャマを袋から出して、胸のポケットの下に油性ペンで名前を書いた。保坂誠一。書いてから、襟の裏にもう一度小さく書いた。三枚とも同じ場所に同じ大きさで書き入れ、インクが乾くまで広げて待ってから畳んだ。タオルは四枚とも角に書いた。湯呑みは底に書けないので、側面の絵柄の切れ目に小さく入れた。名前を書き終えるのに十七分かかり、その間に検温が一度と、点滴の残りを見に来たのが一度あった。誠一はそれを見ていた。何も言わない。書いたものを床頭台の引き出しに順に入れていくとき、下の段に入っていた前の入院の説明書きが引っかかって、いったん全部出してから入れ直した。 面談室は五階のエレベーターの脇にあって、丸いテーブルと椅子が四つ、壁にペーパータオルの箱が掛かっていた。呼吸器内科の医師は四十前後。CTの画像を三枚並べてから話しはじめた。右の肺の下のほうに影があり、同じものが背骨と肝臓にも出ている。画像は上から下へ順に並べてあって、医師はボールペンの先で影の縁をなぞりながら、これが八月に近くの医院で撮ったもので、こちらが今朝のものだと言った。縁は動いている。二枚のあいだで、位置の違いは素人の目にも分かった。組織を取ったのは先週で、結果はまだ半分しか出ていないという話だった。ステージⅣという言葉が出たのは、話しはじめて二分ほど経ってからで、そのあと医師は同じ言葉をもう一度、今度は数字を漢字で紙に書いて見せた。 悟は四時五分に入ってきた。上着を椅子の背に掛け、鞄から手帳とボールペンを出して、医師が言った検査の名前をその場で書き取った。四十六。腹のあたりに肉がつき、ネクタイの結び目が緩んでいる。 「手術は」 「この段階では選びません」 「じゃあ薬ですか」 「一つ試して、効くかどうかを二か月ほど見ます」 「効かなかったら」 医師は書類の角をそろえてから、治療をしない場合でということで、と前置きをして、数か月と言った。悟は書かなかった。ペンの尻でテーブルを二回叩いてから、高額療養費の限度額は月にいくらになるのかと聞いた。医師が答えられずに一階の事務窓口を教えると、悟は窓口の名前と階を書き取り、それから今日はもう閉まっているのかと聞いた。亘はテーブルの下で右手の指を、数珠を持たせるときの形に組み、また外した。医師は席を立つ前に、ご家族はどれくらい来られますかと聞いた。悟が東京からなので週末になると答え、亘は高崎に住んでいると答えた。それ以上は聞かれない。医師は画像を袋に戻して先に部屋を出た。 医師が出ていったあと、悟は廊下に出て電話をかけた。ガラス越しに、話しながら反対の手で腕時計のベルトを回しているのが見えた。三分ほどで切る。戻ってきたが、椅子に座る前にもう一度かけ直しに出ていった。 「悪い。町田の物件で揉めてる」 「いい」 「金な。限度額があるから月にそんなにはいかないはずだ。超えたら言え」 「まだ何も来てない」 病室に戻ると、誠一はベッドを起こして、備え付けのテレビのイヤホンを耳から外すところだった。悟が入ってきたのを見て、まず、暑かったかと聞いた。 「新幹線は涼しい」 「東京はまだ暑いんだろう」 「先週よりはまし」 「仕事は」 「まあ動いてる。九月は動く月だから」 誠一は頷いた。それから亘のほうへ顔を向けて、車はまだあれかと聞いた。九年乗っているワゴンで、去年ドアミラーを一度替えている。まだあれだと答えると、燃費を聞かれた。街乗りで十を切るくらいだと答えると、そんなものかと言い、そこで終わった。 しばらくして、この病院は母さんのときと同じかと聞いた。同じではない。芳子が入っていたのは二〇〇九年で、市内の別の病院の、廊下の突き当たりの三階の部屋だった。違うと答えると、そうかと言って、閉まっている窓側のカーテンのほうを見た。 夕食の配膳車は五時五十八分に廊下の端に着いて、五一二号室まで来るのに四分かかった。誠一は米を半分残した。味噌汁の椀を持ち上げるときに右手が揺れて、汁が縁のところまで上がり、椀の外側を伝って底の輪のところで止まった。箸は使わない。添えてあったスプーンで魚をほぐしていた。トレーを廊下のワゴンに下げてから、亘は売店へ下りた。閉店は六時半だと入口に貼ってあり、着いたときにはシャッターが半分下りていた。爪切りは日用品の棚の、耳かきと毛抜きの並びに二種類あって、大きいほうを取った。四百十八円。下の段に吸い飲みが並んでいたので一つ手に取り、値札を見てから同じ向きに戻した。 病室に戻った。爪切りを袋から出し、誠一の右手を布団の上で取ると、親指の爪が伸びて、先が黄色く反っている。 「風呂に入ってからでいい」 「入れるのは明後日だと言われた」 「じゃあ明後日でいい」 爪切りを床頭台の引き出しに入れた。歯ブラシの隣に置く。引き出しを閉めるときに二つが当たって音がしたので、もう一度開けて、間に前の入院の説明書きを一枚挟んでから、ゆっくり閉めた。 八時前に看護師が点滴の残りを見に来て、それを合図にしたように悟は上着を取った。乗るのは高崎発二十時五十四分の上りだと言う。駅まで送ると言うと、タクシーでいいと答えた。エレベーターの前で、来週の土曜にまた来ると言い、それから、来られなかったら電話する、と言い直した。扉が閉まるまでのあいだ、鞄の持ち手を二度持ち替えていた。 精算機は八百円の上限にちょうど当たっていた。千円札を入れると二百円と領収書が出てきて、領収書の日付は九月十八日、出庫の予定時刻は二十時十九分と印字されていた。スロープは一方通行。立体の二階から出口まで下りきるのに五分近くかかり、遮断機の前でもう一台待った。運転席に戻ってからドアポケットの爪切りを出し、ルームランプを点けて左手の指を五本とも切った。深爪の手前で止める加減はもう考えなくてもつく。切ったものを手のひらに集め、コンビニの袋に入れて口を二回結んだ。右手は風呂で切る。 エンジンをかけると、ラジオが関越の下り線の事故渋滞を伝えていた。家まではおよそ二十二分の道で、途中の信号で佳奈から電話が来た。 「どうだった」 「四時に説明があった」 「それで」 「洗濯を何日おきに持って帰るか、決めてこいと言われた」 「四日にいっぺんでいいでしょう。ひかりが」 「水筒、洗って伏せてある」 第五章 九月二十四日。七時四十分に作業場の鍵を開けた。前の晩に降った雨が搬入口の三和土に残っていて、台車を引くと車輪が目地に一度引っかかった。一件目は十時、九十二歳の女で、自宅ではなく式場の安置室に行く。前の日に洗ったバスタオルがまだ生乾きだったので、乾いているほうから八枚数えて棚に積み、足りない二枚は新しい袋を開けて出した。経帷子の袋の口紐を確かめ、櫛とガーゼと含み綿の袋、顎バンドを一本、青いコンテナに入れた。剃刀の替刃は箱に五枚あって、二枚を出し、三枚は戻した。手袋はLを二組。エプロンは前の日のものが乾いていたのでそのまま使い、生前の写真は家族が式場に持ってくることになっている。伝票の余白に、湯灌九十分、着せ替えは故人の平服、と前の日の電話で聞いたとおりに書き足して、コンテナの蓋に挟んだ。ホースは緩んでいた。いったん全部伸ばして巻き直した。 湯灌の桶にはまず水を張る。水道の水は十一月を待たなくても、蛇口を止めるころには指の腹が痛くなっている。 そこへ給湯器の湯を細く足していく。湯温計の目盛りが三十四度を過ぎたところでいったん止め、桶の縁を両手で持って前後に揺らし、それからまた足して、人差し指を第二関節まで沈めた。三十九度。栓を閉めた。 澪がドライアイスの箱を足で押しながら入ってきた。 「保坂さん、お父さんの病院、どこでした」 「総合の」 「うち、祖母がそこでした。立体駐車場の三階から渡るとこですよね」 返事をしないでいると、ガムテープを剥がす音のほうが長く続いた。 水が先だ。湯はあとから足す。十三年前の十一月にも、同じ順で湯を足す手を卓の向かいから見ていて、そのときは焼酎が先にあって、湯があとだった。 二〇一三年十一月十六日。悟が東京から高崎に来た。その前の週に鉄屑の業者が二人で見に来て、見積だけ置いていったのを、悟は電話で聞いていたらしい。鉄工所は二年前に閉めたきりで、シャッターの下から吹き込んだ砂が土間に筋を作り、六尺の旋盤とフライス盤が一台ずつ、ベルトを外したまま据わっている。見積書は台所のテーブルにあった。醤油差しの横だ。鉄が一キロ二十六円で、二台と付属品と棚と端材を合わせ、引き取りの手間賃を差し引くと七万に少し足りず、悟はその紙を二度折り直してから、菓子折りの包装を解いてテーブルの端に寄せた。折詰の下に敷いてあった業者の名刺には、若いほうの男の携帯番号が手書きで足してあった。 父はその紙を見なかった。 悟は先に茶の間の仏壇に行って、菓子折りの中身を四つ供え、線香を一本立てた。写真は四年前のまま、母が公民館の花の会で撮ってもらったものが入っている。亘は座らなかった。灰の中に立ったままの燃え残りを二本、指で摘んで屑籠に落とし、灰ならしで表面を撫でた。仏壇の下の抽斗には、母の使っていた裁縫箱がそのまま入っている。四年前の秋に一度だけ開けて、待ち針の頭の赤い玉が三つ欠けているのと、白い木綿糸の巻きが二つ残っているのを見た。蓋の閉まりが悪い。押し込むと中で糸巻きが鳴った。線香は途中で灰に折れて落ち、悟がそれを摘んで立て直した。 ストーブは茶の間から台所に移してあって、上に薬缶が載っている。テレビは点けたままで、音は絞ってあった。テーブルにはスーパーの折詰が二つ、半額の札を貼ったまま並べてあり、五百の缶ビールが二本、麦焼酎の四リットルの紙パックが椅子の下に置いてある。灰皿の吸い殻は七本。そのうちの三本は半分より長いところで消してあった。血圧の薬の袋が、朝の分だけ切られないまま新聞の上に載っている。ポットは十年以上前のもので、押すたびに一度空気の音がしてから湯が出る。父は湯呑みに焼酎を三分の一ほど入れ、ポットのボタンを二度押して湯を足し、それから湯呑みの腹を指で触って、もう一度だけ押した。湯呑みは縁が一か所欠けている。欠けている側を自分の口のほうに向けて持つ。 悟は缶ビールを一本空けたきりで、あとは烏龍茶に替えた。奥歯が冷たいもので染みると言って、頬の外から人差し指で押さえ、東京は歯医者の予約が三週間先だと言った。携帯が二度鳴った。二度とも画面を見てから裏返した。 「トラックは横づけできないから、手で出すんだって。二人で二日、そのぶんが引かれてる」 「フォークは入らねえよ、あの間口じゃ」 「機械屋に見せたら、旋盤のほうは値が付くかもしれないよ。年式は古いけど、まだ回るんだろ」 「あれは売らねえ」 悟はそれ以上聞かずに、割り箸の袋を細く折りはじめた。父は川向こうの小暮さんが先週死んだ話をした。八十いくつで、朝、風呂場で見つかって、葬式は木曜だったという。その通夜と葬儀は三ツ矢が受けていて、亘は水曜の午後に安置室で顔を拭いているが、それは言わずに、缶を持ち上げて、残っていた分を飲んだ。父は続けて、玄関の引き戸が閉まらない話をした。去年から重くなって、いちばん最後の五センチで引っかかる、鉋をかければ直る、と言った。前にも聞いた。二年前の暮れだ。 亘は湯呑みを置いて、廊下に出た。 廊下の電球は二つのうち一つが切れていて、玄関のあたりだけ暗い。サンダルは片方が裏返しになっていたので、爪先で返してから履いた。三和土に降りて、引き戸を両手で持ち上げると、戸車が敷居の溝から浮いて、砂の擦れる音がした。溝には砂と、綿埃と、犬の毛のようなものが詰まっている。持ち上げたまま二十センチほど動かして、片手を離し、指の腹で溝をなぞって掻き出した。掌に集めた砂は見た目より重い。戸車は片方だけ樹脂が減って、軸のほうが先に敷居に当たっていた。鉋の問題ではない。それは言わずに戸を元の位置に戻し、二度、開けて閉めた。最後の五センチはまだ重かった。ガラスの桟に埃が溜まっていたので、指で拭って、拭った分だけ縦の筋が残り、台所に戻って流しに砂を捨て、水を出して掌を洗った。水は冷たい。指の関節から先が赤くなった。 父は湯呑みに焼酎を足していた。 「悟、おめえのとこは生きてる人間が客だからいいやな」 「まあね。決めるのは奥さんのほうだけどさ」 「こいつは死人の世話してんだ」 悟は折詰の透明な蓋を持ち上げて、中を覗いた。 「これ、どっちが鯛だ」 「白いほうだんべ」 「じゃあ黒っぽいのは」 父は答えなかった。テレビの音量を二つ上げた。天気の画面が出ていて、翌日の高崎は晴れ、最低気温は四度と出ている。亘は前の年の六月に三ツ矢に入ってまだ一年半で、その週は搬送と安置ばかり、湯灌に付いたのは一件だけだった。テーブルの上の空き缶を二本まとめて流しに運び、折詰の容器を洗った。醤油の付いた蓋は洗剤を足して二度洗い、水を切って重ね、その上にラップの芯を載せた。大根のつまと、剥がした半額の札は、三角コーナーの網の隅に寄せた。水切り籠には、洗って伏せたものが茶碗一つと湯呑み一つ、箸が一膳だけあって、その脇の空いた場所に洗ったばかりの蓋を並べた。ふきんは端が固い。絞って広げ直し、蛇口の首に掛けてから、勝手口の鍵を開けた。 外の空気は台所より十度は低い。 灯油のポリタンクは勝手口の脇に二つあって、片方は空だったので、重いほうを両手で提げてストーブの給油口の前まで運び、蓋を回して外し、手動のポンプを差した。蛇腹を三十回ほど押すあいだ、缶の中の音が高くなっていくのを聞いて量を計り、口まで二センチ残したところで止めた。抜くときにポンプの先から数滴垂れて、右手の甲と、床のビニールシートに落ちた。床の分はティッシュを三枚重ねて押さえ、押さえたまま十秒待ってから、勝手口のごみ袋に入れた。石鹸で洗っても匂いは残る。残ったまま翌朝、六十九歳の男の髭を剃った。一人で剃るのは四度目だった。 点火した。炎が青くなるまで、しゃがんで窓を見ていた。ガラスの内側が下から白くなっていき、外の電柱の灯が滲んだ。父は座椅子を、台所と茶の間の境の畳のところまで十センチほどストーブのほうへずらして、湯呑みを畳に直に置いた。 戻る前に、母屋の裏の建屋の前をひと回りした。シャッターは下半分が錆びていて、南京錠は掛かっていない。中には入らなかった。シャッターと地面の隙間から漏れてくる油の匂いを嗅いで、それから錠を掛けた。鍵は建屋の脇のブロックの下に置いてある。旋盤に触らせてもらったのは十九のとき、一度だけだ。三爪のチャックに丸棒をくわえさせ、ダイヤルゲージの針が振れなくなるまで叩き直すのに三十分かかって、そのあいだ父は横で何も言わずに立っていた。足元の切粉が長く繋がって靴の縁に絡み、それを剥がすところまでは覚えている。 台所では、父がテレビの前の座椅子で口を開けて眠っていて、テレビは通販の番組に変わり、包丁が何本も並べて映っている。湯呑みは半分残っている。畳に置いたときに少しこぼれたらしく、湯呑みの回りに丸く濡れた跡があって、その縁だけ畳の目が濃くなっていた。悟が押入れから毛布を出して掛け、それから流し台の縁に寄りかかって、まだ頬を押さえていた。 「明日、何時に出るの」 「六時」 「じゃあ寝るわ。おれは昼まで居るから、鍵は掛けてかなくていい」 亘は茶箪笥の二番目の抽斗から爪切りを出した。テーブルに新聞紙を広げ、右手の爪を四本切ったところで刃を親指で拭き、左手に持ち替えて残りを切り、深爪の手前で止めた。切った先を新聞紙ごと畳み、ストーブの脇の屑籠に押し込む。爪切りは抽斗の、輪ゴムの束と、期限の切れた薬の箱の横に戻した。抽斗は最後まで入らない。二度引き直してから閉めた。 十時四十分に家を出た。二十五分で自分の家に着いた。国道は空いていて、途中で信号に二回しか止まらず、車の暖房は効きはじめるまでに十分近くかかり、その間ずっと右手の甲の匂いがハンドルのあたりに残っていた。信号の二回目でラジオを消し、そのまま家まで消したままにした。佳奈は起きていた。台所の蛍光灯だけを点けたまま、車の任意保険の更新の書類に判を押している。朱肉が薄かったらしく、同じ欄に二度押して、二度目のほうを丸で囲んでいた。 「どうだった」 「別に」 「お義父さん、飲んでた」 「飲んでた」 「兄さん、いつまでいるの」 「昼まで」 コップに水を汲んで飲み、風呂の残り湯を抜いてから寝た。翌朝は五時二十分に起きた。それから十三年、その話は家で出ていない。 作業場の桶の湯は、指を入れ直すと三十八度に落ちていた。島が搬入口から顔を出した。 「九時半に出るぞ。車は二号車だ」 写真は先方が持ってくる、寒くなったら現場でストーブを借りろ、去年みたいに手をかじかませたまま剃るなと続けて、返事を待たずに引っ込んだ。澪が三・五キロのドライアイスを二袋、台車に載せて数を読み上げ、伝票の枚数を二度数え直した。亘は給湯器の栓をもう一度開けて湯を細く足し、湯温計が三十九度を指すまで、桶の縁を両手で持って揺らした。 第六章 十月九日は昼に一件あって、片づいたのが四時前だった。団地の四階で、エレベーターが担架の入る大きさではなかったので、階段を使うぶんの手順を先に組んでから上がった。会社の駐車場でワゴンの荷台を拭き、使ったタオルを回収袋と洗濯袋に分け、封を切っていないドライアイスの三・五キロを庫に戻し、伝票の控えを事務所の箱に入れてから、上だけ着替えて車を出した。国道十七号が工事で片側交互になっていて、病院の立体駐車場に入ったのは六時四十分をまわってからになった。三階の隅に停め、エンジンを切ってからしばらく手を見ていた。爪の脇に細い線が二本入っているのは手袋の縁の跡で、朝までには消える。 五一二号室は四人部屋で、誠一の寝台は窓側の奥にある。カーテンは半分だけ引いてあった。枕元の壁の白板には担当の看護師の名前と食事の形態が書いてあって、粥の欄に丸がついている。入っていくとテレビの画面が消え、イヤホンの線が枕の上に落ちた。九月十八日にここへ入ったときより寝間着の襟の空きが広くなっていて、鎖骨の下の窪みに影ができている。酸素の管を鼻に掛けたまま、誠一は左手で背を起こすリモコンを探した。亘は渡さずに、自分でボタンを押して三十度ほど立てた。 「めしは」 「食った」 配膳のトレーには煮物も汁もほとんど残っていて、粥だけが三分の一ほど減っていた。下膳の台車が来るまでには間があったので、蓋を戻して枕元の台の端へ寄せた。 袋から梨を出した。佳奈が朝のうちに買ってきたもので、二玉四百八十円の値札が貼ったままになっている。棚の上でむいた。皮は途中で切らさずに一本につなげ、芯を落として八つに割り、紙皿に並べて楊枝を一本だけ刺した。誠一は二切れ食べ、三切れめの途中で楊枝を置いた。残りにラップを掛け、窓際へ寄せた。 それから爪切りを出した。会社の道具ではなく家の洗面所にあったもので、刃の合わせが少し甘い。左手から始めた。親指の爪は厚く湾曲が強いので、一度に噛ませると縦に割れる。端から三回に分けて入れた。切るたびに小さい音がして、隣の寝台のテレビの音がそのあいだだけ耳につく。切った爪は膝に広げたティッシュの上へ落ちていく。指の腹の皮が乾いていて、爪切りを当てると指ごと動くので、左手で第一関節を押さえて固定した。人差し指から小指まで進んで右手に移ると、今度は誠一のほうから手を寄せてきた。指の背に点滴の跡が黄色く残っている。薬指の爪だけ根元に横の筋が一本走っていて、そこを越えるときに刃が滑ったので、角度を変えて入れ直した。白いところを一ミリだけ残して止め、最後にやすりの面で角を撫でた。ティッシュを包んで作業着のポケットに入れた。 切り終わるまで誠一は何も言わなかった。 「痛みは」 廊下を配膳車が通っていった。前の車輪が一定の間隔で鳴っている。 「あれは玉が焼けてる」 天井のほうを見たまま誠一が言った。「油が切れると、ああいう鳴り方になる」 それから旋盤の話になった。 「池貝の六尺だ。昭和五十四年に中古で入れた」 「いくら」 「百二十万。手形を三本に切った」 誠一は右手の指を三本立ててから下ろした。 「六尺ってのは削れる長さじゃねえぞ。ベッドの長さだ」 そこを間違える人間が多いらしい。前の持ち主は線路の向こうで鉄工所をやっていた男で、畳むときに出た三台のうちの一台だった。据えるのに床のコンクリートを打ち直し、水平を出すのに丸一日かかった。ベルトは月に一度張りを見た。伸びてくると音が変わるので、朝いちばんに空で回して聞けば分かる。 亘は窓のクレセントに手を掛け、五センチだけ開けた。暖房の空気が動いて、スタンドに吊るした点滴の袋がわずかに揺れた。 芯出しの話になると、誠一は右手を胸の上で動かしはじめた。チャックに咥えて、ダイヤルゲージを当てて、爪を銅ハンマーで叩いていく。 「〇・〇二まで追い込む。図面の指示が〇・〇五でもだ」 そこまで出しておくと後の工程が楽になる、と誠一は言った。 仕事は農機具屋の下請けで、軸物が多かった。ロットは五十本、単価は何十円の世界で、一本あたりの取り分より段取りの時間のほうが利く。 「段取りが八分だ。朝の一時間で決まる」 朝の手順の話にもなった。六時半にシャッターを二枚上げてストーブに火を入れ、旋盤を空で回しながら事務所のヤカンを掛ける。 冬は油が固いので、回しはじめてから十分ほどは寸法が動いていく。 「だから朝いちばんの一本は捨てるつもりで削る」 長い軸を挽くときには振れ止めを噛ませ、心押し台のセンターに油を差す。差し忘れると焼き付いて、加工物のほうに黒い跡が残る。テーパーを削るときは刃物台を振るが、角度は計算どおりには出ないので、削っては測り、〇・〇一ずつ振り直していく。 バイトは自分で研いだ。グラインダーの前に立ち、すくい角と逃げ角を目で決める。 「ゲージ当てるやつもいたがな」 研ぎながら指の腹で刃先を横に撫でて、引っかかる場所がなくなるまで戻す。ハイスと超硬では持ちが違うので、数の出る仕事は超硬、一本ものはハイスにした。ねじ切りの話も出た。親ネジのレバーを倒す位置を体で覚えていないと山がずれる。 「入れて、逃がして、戻して、また入れる。同じ道を何遍も通るだけだ。最後の一回だけ音が変わる」 話の途中から息を継ぐ間隔が短くなったが、誠一はやめなかった。亘が吸い飲みを持ち上げると、左手を振って先を続けた。 切粉の色の話は長かった。青が混じったら送りが速く、茶色く縮れるのは刃物が鈍っている。 「銀色に出てるうちはいいんだ」 調子がいいときは刃先から一本の帯になって伸び、床に届く前にひとりでに折れる。誠一はその折れ方を指で示した。二本立てた指の、第二関節だけを途中で曲げた。 「焼ける匂いがしてから慌てるのは素人だ。匂うより先に音が変わる」 ビビリが出るのは刃物の突き出しが長すぎるか心押しの当たりが弱いかで、音が高くなったらその場で止める。止めずに通してしまうと表面に細かい波が残り、削り上がりを見ただけでは分からず、指を当てると分かる。 「熱は手で見た」 右の手のひらを上に返して見せた。「触っちゃいかんのだけどな」 どの指も第一関節から先が太く、人差し指の腹に横向きの切れ目の痕が残っている。 「伝票は母さんがやってた」 事務机は入口の脇に置いてあって、ストーブの熱が届かないので、冬は膝掛けを二枚使っていた。集金の電話も芳子がかけて、先方が出なければ日を置いてまた掛けた。 「俺が書いたのは終いの二年だけだ」 桁を一つ間違えて相手先から電話が来たことがある。 悟は工場に入らなかった。油で服が汚れるのを嫌って、玄関からまっすぐ自分の部屋へ上がった。亘は中学の夏休みにバリ取りを手伝ったことがある。時給の話は出ず、終わってから千円札を一枚渡された。 二〇一一年に畳んだあと、旋盤は売り先がつかなかった。スクラップ屋がユニックで積んでいって、鉄はキロ二十円そこそこにしかならず、六尺一台で三万に届かなかった。 建屋はまだ残っていて、シャッターは下りたままになっている。 「床にアンカーの穴が四つ空いてる」 「穴、埋めなかったの」 「埋めてどうする」 そこで話が止まった。誠一が水を欲しがったので、吸い飲みを取り、飲み口を下唇に当ててから傾けた。二口で顎を引いたので、ガーゼで口の端を拭いた。 七時五十分に看護師が検温に来た。右の親指にテーピングをしている人で、体温と血中酸素の値を読み上げながら端末に入れていった。酸素は九十四だった。 「保坂さん、指の先、冷たくないですか」 「冷たかねえ」 カーテンの向こうでは、隣の寝台の家族が保険の話をしていた。 「証書は」 「簞笥の上の段だって、さっきから言ってるでしょう」 「掛け金、いつまで残ってんだよ」 名義が誰になっているかという話になり、そこからまた証書の場所へ戻った。声を落としているつもりの声が、こちらまで全部届いた。 亘は水差しを満たし、洗濯物の袋の口を結んで提げ、面会票に退室の時刻を書いた。八時五分。精算機に千円札を入れて三百円を払い、釣りを取ってから遮断機の前へ車を進めた。 二十三日は湯灌が延びた。九十分で組んであったところに、家族が生前の写真を捜すのに二十分かかった。仏間の押入れから出てきたのは免許証を引き伸ばしたもので、それでは口紅の色まで分からず、嫁いだ娘が自分のポーチから一本出してきた。桶に水を張ってから湯を足していく順序を家族の前でやって見せ、湯温を測って三十九度で止めた。洗髪のあいだ、立ち会った四人のうち誰も泣かなかった。会社へ戻って洗い物と道具の消毒を済ませたのが六時半になり、病院に着いたのは七時二十分をまわっていた。 詰所で紙を一枚渡された。 「限度額適用認定証の写しをいただけますか。窓口は平日の五時十五分までです」 「火曜に取ります」 「それと、個室が一つ空きます。差額が一日六千六百円になりますが」 「このままで」 火曜の午前に休みを取ることにして、シフト表の余白に鉛筆で印を入れた。誠一には言わなかった。前の週に持ち帰った洗濯物は佳奈が二度洗ってから干していて、袋の底にタオルが一枚湿ったまま残っていた。病衣を借りると一日いくらか付くと聞かされたので、寝間着は家のものを回している。 旋盤の話は出なかった。テレビはついていて、音は消えている。画面では地方局の中継が終わりかけていて、点数の表示だけが右上に残っていた。誠一は途中から画面のほうを見ていなかった。 給湯室で吸い飲みを洗った。突き当たりの窓が内側から曇っていて、駐車場の照明が滲んで見えた。蛇口の湯が熱すぎたので、先に水を張り、そこへ湯を足して四十度ぐらいにしてから、飲み口の溝をブラシで回した。パッキンを外すと内側に白い輪ができていたので、そこも回した。ついでに湯呑みも洗い、水を切って戻った。誠一は目を閉じていたが、寝てはいなかった。 「ひかりは何年になった」 「五年」 「そうか」 台の上に落ちた水滴を拭き、吸い飲みを誠一の左手が届く位置へ寄せた。ひかりの話はそこで終わった。 「悟から電話があった」 「うん」 「仕事が立て込んでて、月内は来られねえとさ」 誰がいつ何を言ったかまでは聞かず、洗濯物の袋の紐を結び直した。九時の消灯まで四十分あって、隣の寝台では家族が帰ったあとの椅子が出したままになっていた。窓の外の駐車場では、車が一台バックの警告音を鳴らしながら向きを変えている。 「あの車、まだ乗ってんのか」 「乗ってる」 「何年になる」 誠一は指を折りはじめた。三本目まで折ったところで数えるのをやめ、湯呑みのほうへ手を伸ばした。亘は先に取って、飲み口を向こう側へ回してから渡した。 第七章 七時四十分に裏口の鍵を開けた。作業場は北向きで、十月の終わりになると日が高くなっても室温が十五度までしか上がらない。石油ストーブの芯を出して火をつけ、天板に薬缶を載せてから、安置室の引き戸を開けた。三番の台には六日前から七十九歳の女が寝ていて、火葬場の予約が三日先まで詰まっているせいで通夜が二度延びている。壁の温度計は十一度を指していて、ストーブの前だけが先に暖まるので、引き戸は半分までしか開けない。台の高さは七十五センチあり、腰を落とさずに手だけを伸ばすと肩から先が動かなくなるので、右足を半歩引いて立つようにしている。掛け布をめくり、腹と胸に当てたドライアイスを抜いて、新しい一回分の三・五キロを二つに割り、袋の口を下にして同じ位置へ戻した。抜いた分は流しの脇のバケツへ落とし、白い煙が縁を越えて床のタイルを這っていくあいだ、手袋の中で指を握ったり開いたりしていた。壁の記録用紙に交換の時刻と重さを書き、前回の欄と見比べて、間隔が半日ぶん詰まっているのを確かめた。六日も置くと顔の水気が減って含み綿の張りが落ちるので、綿を出して新しいものに替え、目尻から頬骨のあたりまで保湿剤を薄く伸ばした。掛け布を戻すときに、女の左手の指が前より内側へ入っているのに気づき、数珠の輪をひとつ回して親指の付け根まで寄せた。 左手の親指の爪だけを、切り忘れていた。 八時ちょうどに女の息子が来た。六十くらいで、作業服のまま線香をあげ、火葬場がいつ空くかを二度聞き、安置を延ばした分でいくら足が出るのかを聞いた。予約は市の窓口が受けていて、こちらから電話をかけても順番は動かない。延長は一日ごとの計算になり、ドライアイスの代金はそれとは別に立つ。金額の書いてある紙を渡すと、折らずに作業服の胸のポケットへ入れ、上からもう一度押さえた。泣かなかった。玄関の引き戸を閉めてから、軽トラックのエンジンをかけっぱなしにしていたことに気づいて走っていった。 八時二十分に戸川澪が入ってきて、マスクを外さないまま口の左側だけを動かしてしゃべった。 「親知らず、横向きに生えてるそうです」 「そうか」 「抜くのに紹介状が要るって言われて。大学病院まで二回行くんですよ、二回」 袖をまくって手を洗い、水を止めてからも同じ話をつづけていた。この仕事に入って五年目になる。洗髪のときに耳の後ろを二度なぞる手順を教えたとおりの順で守るし、しゃべっている最中でも指の速さは落ちない。 八時半から二人で三番の台にかかった。通夜が延びたぶん経帷子の紐が寄れていたので、いったん胸の合わせをほどき、右が上になるように直してから結び目を体の脇へ回した。澪が肩を支え、こちらが腰の下に手を入れて三センチだけ動かす。持ち上げるのではなく、掛け布ごと滑らせる。爪は月曜に切ってあり、伸びているのは左の親指だけで、手袋の上からその一本を何度か押さえた。澪は数珠を掛け直しながら、大学病院の予約が十二月まで埋まっていることと、抜いたその日は風呂に入れないことを、順番を入れ替えて二度話した。 九時十二分に島がバインダーを抱えて来て、二枚目をめくり、天板の薬缶のほうを見ながら午後の分を読み上げた。 「一時に搬送だ。六十六歳、男。解剖のあと。胸は向こうで縫ってあるが、下のほうがほどけてるらしい」 「糸、ありましたっけ」 「昨日、二番の引き出しに補充した」 「わたし、見ててもいいですか」 島は五十八で、この仕事を二十年以上やっていて、手順を飛ばした者には相手が誰でも同じ声を出す。バインダーを閉じ、右膝を手で押さえながら屈んでストーブの前の灰皿を拾い上げ、それからこちらを見た。 「見るだけなら俺はかまわんが」 ストーブの芯を一度下げてから、また上げた。薬缶が鳴りはじめていた。島はバインダーの角をボールペンの尻で二度叩き、別の紙をめくって名前を呼んだ。 「保坂、十一月の希望休、まだ出てないぞ」 「火曜を三回、空けてもらえますか」 「三回な」 書き込んで、それ以上は何も聞かずに事務所へ戻っていった。 十時から器具を出した。ステンレスのトレーに半円の針を八本、頭を同じ向きに揃えて並べ、縫合用の白糸を三十センチずつ切って十二本作り、持針器と鑷子を消毒液から上げて乾いた布の上へ置いた。引き出しの奥から爪切りを出し、朝から気になっていた左の親指を切った。深爪にすると縁がめくれて手袋の中で引っかかるので、白いところを一ミリだけ残す。切った先は新聞紙に包み、屑入れの底のほうへ押し込んだ。皮膚は見た目よりも厚い。指で押したときの沈み方と、針の先が入っていくときの手応えはまったく別のもので、二〇一〇年まで通っていた部品工場でプレスの下に敷くゴム板を刃で抜いていた、あの厚みのほうがまだ近い。年に三百十件ほどを扱ってきたが、縫うのはそのうち十件に届かない年のほうが多く、この班で針を持つのは今のところ一人だけになっている。糸は切りすぎても捨てるだけなので、十二本にしてある根拠は、これまでのだいたいの平均でしかない。トレーに布をかけ、上に何も置かないようにしてから、事務所の隅の椅子に座って、湯を入れた紙コップを両手で持った。 携帯の着信履歴に兄の名前が二回あって、折り返さなかった。 一時二十分に寝台車が着いた。娘は五十を少し過ぎたくらいで、黒いカーディガンの前を左手で合わせたまま入ってきて、夫のほうは車の鍵を指で回しながら入口の柱の横に立っていた。二人とも泣かなかった。夫が最初に聞いたのは駐車券をどこで押してもらうかで、次が領収書の宛名だった。娘は台の脇まで来て顔を見てから、財布に折り目をつけて入れてきた写真を出した。三年前に伊香保で撮ったもので、髪はこのくらいの長さでした、と自分の耳の下を指で押さえた。写真の中の男は帽子をかぶっていて、額の生え際は見えなかった。夫は駐車券を上着の内ポケットへ入れ、少ししてからまた出して、押してある印の位置を確かめた。娘は火葬場が四日後になったことを、こちらが説明を始める前に自分のほうから言い、それから、解剖に出したのは自分が決めたのだと言った。決めたのだと言っただけで、あとはつづけなかった。 白布をかけ直し、上半身だけを出した。 向こうで縫った糸は太く、間隔が二センチ近く空いていて、みぞおちから下の三針分が抜けていた。抜けた糸を鑷子でつまんで根元で切り、皮膚の縁をガーゼで押さえて水気を取り、消毒液を含ませた綿で二度拭いた。持針器で半円の腹を挟み、右の縁の内側から刺して左の縁の内側へ抜き、糸を引いて縁と縁を合わせる。一針ごとに人差し指の腹で両側の高さをそろえ、結び目は内側へ落として、糸の端は五ミリだけ残して切った。間隔は一センチよりわずかに狭くとった。針が肋骨の縁に近いところで一度止まり、持針器を握り直して角度を三十度ほど寝かせてから入れ直した。糸を引く力が強すぎると縁が波打ち、弱いと隙間が残るので、引いたあとに親指で二度押さえて具合を見る。手袋の中は十五度の部屋でも湿ってきて、二針ごとに指の腹を布で拭った。途中で二度、下からにじんだのでガーゼを替え、そのたびに手袋の上からもう一枚を重ねた。壁の時計の秒針が動く音より、鑷子をトレーへ置く音のほうが大きく響いた。澪は台の反対側に立ってガーゼと糸を出す係をしていて、そのあいだ余計なことを一言も言わず、こちらの右手が上がるより先に次の糸を持ち替えていた。娘は椅子に座ったまま、鍵を回しつづけている夫の手を一度だけ押さえて止めさせた。縫い終わるまでに四十分かかった。経帷子ではなく本人の平服にすると聞いていたので、肩と肘に温めたタオルを五分ずつ当ててから袖を通し、左の肘だけ固くて二度やり直した。ズボンのベルトの穴は、いちばん内側から二つ目に跡がついていた。 含み綿を頬に入れ、顎バンドを締め、口紅を三本並べて娘に選ばせた。真ん中を取って、これは自分のだと言った。 四時五分に道具を洗った。洗い桶に四十度の湯を張り、そこへ水を足してぬるくしてから洗剤を溶かす。持針器は関節のところに糸くずが噛むので、ブラシの先を差し込んで前後に動かし、開いた状態で湯に沈めておく。澪が横に来て、乾いた布を三枚、流しの縁に重ねた。 「縫うの、教えてください」 水を出したまま、鑷子の先を布でぬぐった。 「だめだ」 「見てるだけじゃなくて、持たせてもらえませんか。糸だけでも」 「だめだ」 二度目のほうが一度目より小さい声になっていた。桶の湯がぬるくなっていたので、蛇口をひねって足した。澪は蛇口を少しだけ閉め、洗い終えた鑷子を一本ずつ立てて水を切り、それから台の縁に両手をついた。前に立ったまま、こちらの手元から目を離さない。 「島さんは、持たせるかどうかは保坂さんが決めることだって」 桶の底に沈めた持針器を上げ、関節を開いたり閉じたりして水を落とした。 「去年の十二月、当番がわたしだけの日に、ご家族から縫えないんですかって聞かれました。呼びますって言って、二時間待ってもらって」 「そうか」 「そのあいだ、わたし、手を拭いてただけで」 薬缶の火を止め、顎バンドの在庫を見に行った。棚の下から二段目に七本残っていて、発注は五本を切ってからでいいことになっている。数え終えて戻ると、澪は明日の予定表を書き写していて、抜歯の話を、今度は歯医者の駐車場が二台分しかないという話に変えていた。 トレーの針を数えると七本だった。 もう一度数えても七本だった。出した本数と戻した本数が合わないまま帰った者は、この十四年でこの班に一人もいない。布を裏返して振り、流しの排水口の網を上げ、床にしゃがんで台の脚のまわりを手のひらで撫でた。膝をついた澪が、笊の中の使用済みの糸を一本ずつ広げていく。八本目は、汚れたガーゼをまとめた袋の口のところに、糸を三センチつけたまま外から刺さっていた。指で抜いて、頭のほうから布に置いた。島が来て、袋を持ち上げ、蛍光灯に透かして底のあたりまで確かめてから、何も言わずに戻した。記録簿の欄に針の本数と糸の残りを書き、日付の下に名前を書いて、島に判をもらった。判はまっすぐには押されず、少し右へ倒れていた。それから五時十分まで、明日の分の白糸を切って束ねた。 帰りぎわに澪が、明日は八時に来ますと言った。シャッターを半分まで下ろしてから、ストーブの火を消し忘れているのを思い出して、もう一度上げた。安置室の引き戸は半分だけ開けたままにして、三番の台の掛け布の裾を、床から二センチのところで揃えた。着信履歴はそのままにしてポケットへ入れた。 第八章 十一月一日の午後は湯灌が二件あった。二件目は九十二歳の女で、娘と孫が最初から最後まで座って見ていた。洗髪のあいだ、湯を掛けるたびに孫の方が椅子を半歩ずつ後ろへ引いて、終わるころには壁に背がついていた。畳の上で礼を言われたとき、二人とも泣いていなかった。道具を洗ってステンレスの桶を伏せ、棚に上げ終えたのが四時五十分だった。タオルは十二枚。そのうち顔にしか当てない三枚は別の籠に分けて出す。手袋を外したあとの指の腹はふやけて白くなっていて、運転しているあいだに元へ戻る。作業着のまま車に乗り、環状を東へ回って病院の駐車場に入るまでに四十分かかった。一階の洗面所で手を三度洗い、爪の際にまだ何か残っている気がして四度目を洗った。夜間の出入口では、警備員に病棟の番号を言えばそれでよかった。 面会の時間はとうに過ぎていたが、四階のナースステーションでは八月の終わりごろから何も言われなくなっていた。 四〇八号室の引き戸は音が重い。 窓際で加湿器が動いていて、壁の温湿度計は二十四度五分と四十二パーセントを指していた。点滴は先週の木曜で止まっている。鼻カニューレの流量は毎分一リットルのままで、酸素の器械が決まった間隔で音を立てた。誠一は仰向けのまま、掛け布団は胸まで、両腕は布団の上に出してあった。左の手の甲に留置針の跡が三つ並んでいて、いちばん新しいものだけが紫がかっている。布団の位置を直したときに人差し指の背が父の指に触れて、そのまま二秒ほど置いた。爪の色が抜けているのは、指を離してから分かった。床頭台には老眼鏡と、飲みかけの白湯が入ったままの湯呑みが置いてある。眼鏡の右のつるの折れたところに黒いビニールテープが五、六周巻いてあって、巻き終わりの端が斜めに切ってあった。ベッドの脇に垂れている袋の目盛りは、前の日に見たときより下の線で止まっている。吸引の器械は挿したままだった。廊下の突き当たりの部屋で、夜のあいだに二度、ナースコールが鳴った。看護師は走らなかった。歩いていくのが引き戸の隙間から見えた。 佳奈は七時前に来た。洗濯物を入れる袋と替えのタオルを置き、床頭台の湯呑みを流しで洗って伏せた。持ってきたタオルは四枚で、去年の暮れに町内会で配られたものの残りだった。汚れ物の袋の口を縛る前に中を一度覗いて、下着の枚数を指で数えていた。 「シャツ、あと二枚しかないよ」 「洗ってあるのは」 「それが二枚。明日は持ってこられないから。仕込みが六時半なの」 コートは着たままで、座らなかった。九時十分の電車に間に合わせるつもりでいて、ひかりを家に一人にしていると二度言った。廊下で靴を履き替えるときに顔を上げた。 「あのね、ひかり、明日の」 給湯室の湯沸かし器が鳴りはじめて、そこから先が聞こえなかった。聞き返さないうちにエレベーターの扉が閉まった。 十時を過ぎて、誠一が一度だけ口を動かした。顔を近づけた。 「コンマ五」 間があった。 「二十五」 返事をしなかった。しばらくして同じ順番でもう一度言い、二度目は二十五まで届かずに終わった。枕の下に手を入れて高さを少し下げると、喉の鳴りが小さくなった。綿棒の先にスポンジのついたものを看護師から渡されていて、水を含ませて唇を湿らせた。二時間おきに三回やり、三回目は口の中まで入れなかった。 悟が着いたのは日付が変わって十五分後だった。コートを脱ぐより先に喋りはじめた。 「花園の先で事故だよ。全然動かねえの、一時間半」 「ああ」 「練馬から二時間十分だぞ。ETCの履歴、あれ深夜割引をまたぐとどっちで付くんだったかな」 膝が悪いらしく、椅子に座るときに右足を先に投げ出した。コンビニの袋から缶コーヒーを二本出して、片方をこちらへ寄越した。砂糖の入っている方だった。受け取って窓際の台に置いた。ふたは開けなかった。 「痩せたな」 「先月からもう一段落ちた」 「そうか」 椅子を枕元ではなく足の側に置いて座り、しばらく携帯の画面を見ていた。 「町田のあれ、まだ抜けねえんだよ。駅から十二分で、南向きでさ」 黙っていると、画面を消して、また点けた。下の子の模試の判定の話を始めて、途中でやめた。三時前に頭が前に落ちて、それきり動かなくなった。 一時を回ったころから息の形が変わった。顎が下がって、喉から上だけで吸うようになった。腕時計の秒針で間隔を計った。仕事の日は湯灌の前に外してロッカーに入れるので、夜にこれを着けているのは久しぶりだった。十八秒、二十三秒、十六秒、それから三十秒を超えたものが二回続いた。掛け布団の裾を上げて左の足の甲に掌を当てると、膝から下だけが冷たかった。親指の爪を三秒押してから離し、白く抜けたところが元の色に戻るまでを数えると六つかかった。もう一度、同じ指で試した。九つだった。手首から先も同じで、指のあいだに自分の指を差し込んで挟んでみたが、温かくなったのは自分の側だけだった。指輪をしていない左の薬指に、締めつけていたころの跡が細く残っている。腕の甲を軽く抓んで離すと、皮膚の山が下りるのが遅かった。血圧の器械は夕方のうちに外され、指のクリップも外れていて、器械の側の数字は消したままになっている。息の音は喉の奥ではなく、もっと上の、口のあたりだけで鳴るようになった。窓の外は暗い。駐車場の出入口の照明と自動販売機の光のほかに見えるものはなかった。二時四十分に廊下へ出て自動販売機で温かいものを買い、缶を両手で持って戻り、そのまま台の上の缶コーヒーの横に並べて置いた。 口が開いていた。タオルを一本取って四つに折り、細く丸めて顎の下に差し入れ、閉じる角度を作った。三時五十分の見回りで来た看護師はタオルを見て、それから酸素の器械の数字をボードに書き写した。 「ご家族、いま何名ですか」 「二人です」 「先生、呼んでおきますね」 当直の医師は白衣の下がスクラブで、名札の字が読めないほど若かった。ペンライトで両方の瞳孔を見て、聴診器を胸骨の左に一分近く当て、それから手首を取った。自分の腕時計を見た。 「十一月二日、午前四時十二分です」 悟の肩に手を置いて二度揺すった。目を開けてから立ち上がるまでに少し間があり、ベッドの横に来て、父の顔を見て、それからこちらの顔を見た。何か言おうとして口を閉じ、廊下へ出て、二分ほどして戻ってきた。引き戸は閉め切っていなかったので、電話の声が途中まで聞こえた。相手は義姉だった。 「いいって、来なくていい。無理に出てくるな」 同じことを二度言い、それから土曜の予定を確認していた。戻ってきたときには携帯を上着の内側にしまっていて、椅子は元の位置に戻さなかった。 看護師が二人でカーテンを引き、悟に廊下で待つように言った。部屋を出るときに、自分も出るのかと訊いた。残ってよいと言われたので、洗面台の横の壁際に立った。ステンレスの桶に湯が張ってあった。縁に手を掛けて、指を二本だけ入れた。 「四十二度くらいですか」 「四十度で作ってます」 「はい」 と言って指を引き、タオルで拭いた。作業場では逆さ水にする。桶に水を先に張り、そこへ湯を足しながら温度を作る。ここでは蛇口から直接張ってあった。そのことは言わなかった。清拭は顔から始めて、腕、胸、腹、足、それから体を横にして背中へ回った。 「持ち上げないで。転がすように」 「はい」 二人の呼吸が合っていて、横向きにするときの掛け声が短い。タオルを絞る力は年上の方が強く、桶に落ちる水の音が二人で違った。背中に回ったとき、肩甲骨の下の皮膚が寝ていた形に赤くなっているのを、若い方が指の腹で二度撫でた。病衣を脱がせて新しい浴衣に替え、左前に合わせ、腰の紐を横に結んだ。作業場では縦に結ぶ。肘から先が動いて、途中で止めた。壁際からは動かなかった。顎の下と首筋に白いものが伸びていたが、二人とも髭には触れずに終えた。若い方が鼻に綿を持っていきかけ、年上の方が首を振ったのでやめた。詰めない病院が増えている。母のときの病院では詰めた。二〇〇九年で、あのときは兄がいなかった。 「入れ歯、先に入れた方が」 「あ、そうですね」 年上の看護師が床頭台の引き出しからケースを出し、洗面所で洗ってから戻ってきた。口はまだ動いた。腕を組ませるときに、両手の指の位置を若い方が直そうとして、少し迷ってから左を上にした。 廊下に出て、自動販売機の前まで歩いた。上着のポケットに爪切りが入っていた。作業着から移し替えたまま二日忘れていたもので、左の中指の爪が白い部分だけ伸びている。刃を当てて二度に分けて切り、切った先を左の掌で受けた。捨てる場所がない。そのままポケットに戻した。仕事で使うものより刃の合わせが甘くて、切り口に引っ掛かりが残ったから、親指の腹でその縁を何度か擦った。自動販売機の下の段の飲み物が二つとも売り切れの表示になっていた。 死亡診断書は五時前に渡された。 「文書料が五千五百円になります。お会計は日中の窓口でお願いします」 「今は無理なの」 「夜間は受け付けておりません」 悟が財布を出しかけて、そのまましまった。 「喪主、どうする」 「兄さんだろ」 「そうだな」 四時三十四分に佳奈へ送ったのは、終わった、朝はいつも通りでいい、の二行だった。既読がついたのは五時九分で、ひかりを学校に行かせるかどうかを訊かれたので、行かせてくれと返した。 五時五分に会社の夜間受付にかけた。出たのは委託のコールセンターの女だった。 「三ツ矢典礼でございます」 覚えのない声だった。昭和二十八年生まれの保坂誠一という氏名と、搬送先の住所を伝えた。自分が社員であることは言わなかった。六分後に島から折り返しがあった。 「親父さんか」 「はい」 「寝台、今から出す。着くまで四十分見てくれ」 「お願いします」 「ドライアイスは積んでいく。三・五キロで足りるな」 「足ります」 「明日の段取りは、着いてからでいい」 用件のほかは何も言わずに切れた。 寝台車が着いたのは五時四十分だった。運転してきたのは去年の四月に入った男で、名前を呼ぶと会釈をして、ストレッチャーの脚を下ろした。 「保坂さん、僕がやりますんで」 「足の方を持つ」 「あ、はい」 腰から下は看護師の一人が支え、頭の側は年上の方が両手で挟んで持ち上げた。三つ数えて一度で移した。関節はどこも固くなっていない。エレベーターの前の目地の段差で車輪が跳ね、シーツの端が落ちたのを掬い上げて挟み直した。一階の霊安室の前の廊下には暖房が入っておらず、息が白くなるほどではないにしても、上着の袖の口から入る空気が冷たかった。後ろの扉を開けると車内灯がつき、レールに合わせて押し込むときに金具が二度鳴った。悟は先に自分の車へ戻っていた。 車を出したのは六時二分だった。出庫の精算機に駐車券を通すと、三百円と表示が出た。小銭入れに百円玉が二枚しかなかったので千円札を入れた。釣りが七百円で、百円玉が七枚まとめて落ちてきて、受け皿から拾うのに二度手を入れた。後ろの車がライトを上げた。遮断機が上がるまでのあいだに、掌の上の七枚を数え直した。 第九章 十一月三日は六時二十分に座敷の雨戸を開けた。北向きの六畳で、朝のうちは廊下より二度ほど低い。前の日の午前六時四十分にここへ入れ、布団を敷いて、腹と胸にドライアイスを置き、記録の紙を鴨居の釘に吊るしてある。前回の交換は昨夜の九時十分で、三・五キロを二つに割って同じ位置へ戻した。紙の欄に六時三十分と書き、袋の口を下にして入れ替えると、白い煙が掛布の裾から出て、畳の目に沿って部屋の隅のほうへ低く流れた。抜いた分は勝手口の外まで持っていき、側溝の蓋を一枚ずらして、そこで袋の口を開けた。角が丸くなっているだけで芯はまだ残っていたので、次の交換までの間隔を十二時間で計算し直した。手袋の中で指を握って開き、それを二度やってから座敷に戻った。仏壇は母のときから何も替えていない。鈴の座布団は縁が擦り切れて下の綿が出ていて、芳子の写真は右の段に、二〇〇九年の四十九日に使ったものを縮めて入れてある。枕元には、昨日のうちに悟が置いていった線香の箱と、通夜の日程を鉛筆で書いた紙が並べてあった。柱の一メートル二十のところに、鉛筆で横線が三本引いてある。上の二本は消しかけて途中でやめた跡があり、いちばん下の線だけが濃い。 湯灌はやらないことにした。 七時に島の携帯にかけた。簡易浴槽を組むと畳を四枚分潰すことになり、風呂場の給湯器からは二十メートル引いてもホースが届かない。病院で清拭は済んでいる。 「湯灌はやらんのか」 「やりません。着替えと顔だけで」 「そうか」 「自分でやります」 「戸川をやる。八時半に着かせる」 それで通話は終わった。理由を聞かれなかったので、用意していた説明は言わずに携帯を作業着の胸に戻した。 悟は駅前のホテルに泊まっていて、七時四十分にコンビニの袋を提げて入ってきた。座るときに右足を先に投げ出すのは前の晩と同じで、座布団を二つに折って尻の下に入れた。寺に渡す金額を書いた紙を寄越し、香典返しの単価をこちらの返事より先に三千円のほうへ丸で囲った。 「火葬場は五日の午前十一時で押さえた。通夜は四日の十八時な。香典返しは三千円でいく。二千円だと必ず後で言われるやつだから」 返事はしなかった。 「精進落としは十四人。うち三人は鉄工所のころの取引先だと。畳んで十五年経ってるのに、まだ来るんだな」 名簿は仏壇の引き出しに入ったままだった。 「これ、どっちが屋号だ」 「上が屋号。下が社長の名前」 「字が細かいな」 腕を伸ばして紙を目から離し、それでも読みきれずに縁側の明るいほうへ持っていった。死亡届は昨日のうちに社の担当が預かっていったが、今日は市役所の窓口が閉まっていて、火葬許可証が出るのは明日の朝になる。印鑑は仏壇の下の段の茶筒に入っていた。朱肉が乾いていて、三度押しても届の欄の縁が欠けた。 「おれのでいいか。シャチハタだけど」 「それは使えない」 「そうか」 鞄の口を開けたまま、しばらく畳の一点を見ていて、それから留め金を閉めた。年金の停止と保険証の返却は先でよく、電気とガスの名義だけは今月中に動かすことになった。電話をかけるあいだ縁側に出ていて、戻ってきた。 「寒いな、ここ」 佳奈は八時に来た。ひかりを送り出してから駅前で花を買い、新聞紙にくるんだ二把を台所の流しに立てた。着せるものは箪笥の二段目から出てきた。紺のセーターと、洗って畳んだままの灰色のズボンだった。 「白いのは向こうで用意するんじゃないのか。経帷子っていう、あれ」 「これ、去年の暮れに着てましたよ。毛玉、まだ取ってないけど」 畳の上で袖を伸ばし、肩の縫い目を指で挟んで幅を見てから、二つに畳み直した。 「うちに来るとき、いつもこれでしたから。ひかりの運動会も」 悟はそれ以上言わなかった。 八時三十五分に社の軽ワゴンが門の前に停まった。澪は玄関で靴を揃えて、こちらの顔を見た。 「このたびは、」 そこで切って、続きは言わずに道具箱と保冷袋を三和土に下ろした。 「シート、二枚幅で敷きますね。廊下の角、テープ足しときます」 こちらが敷きはじめるより先に、廊下から座敷までの動線を養生していた。 九時から着替えにかかった。前の日の朝にはどこも固くなっていなかったが、肘と膝には来ていた。四十五度の湯にタオルを浸して絞り、肩と肘に三分ずつ当てる。ゆるんだところで肘を支え、袖口から自分の手を先に通して手首を迎えにいく。指を引っ張ると皮膚が動くので、引っ張らない。右の肘が最後まで伸びきらず、いったん袖を抜いて、向きを変えてから通し直した。襟のあるものではないので首の後ろに指を入れて生地を送り、セーターの裾は腰の下まで引いて、皺を脇のほうへ横に逃がした。毛玉が右の袖の内側に寄っていて、そこだけ色が薄い。ズボンは腰を澪と二人で持ち上げて一度で上げ、ベルトは通さずに畳んで棺へ入れることにした。左の踵に貼ったままの布のテープを剥がすと、下の皮膚が四角く白く抜けていた。剥がした分を丸めて、養生シートの上の袋へ落とした。靴下は履かせるかどうかを佳奈に訊いた。 「履かせてください。足が冷たいって、よく言ってたので」 箪笥から出てきた白いものを、口のゴムを伸ばしてから踵の側から入れた。指の先までは届かせず、爪先で二センチほど余らせておいた。 顔にかかったのは九時十分だった。 道具箱の蓋の裏のケースから柄の白い剃刀を出し、替刃を新しいものに入れ替えた。留め具は二度鳴る。クリームを手のひらに取って温め、蒸しタオルを一分当ててから頬と顎に置いた。皮膚が冷たいと刃が引っかかる。前の日の四時十二分から二十九時間が経っていて、顎の下の毛だけが指に引っかかるほど残っている。左手の人差し指と中指を頬に当てて耳のほうへ張ると、指の腹の下にすぐ骨があった。十月に梨をむいて渡したときより、頬はもう一段落ちている。右手で刃を寝かせ、耳の前のいちばん高いところへ持っていった。刃の先が産毛に触れる位置まで来て、そこで止まった。 刃は皮膚から二ミリほどのところにあった。手袋の内側に汗が出てくるのが分かったので、いったん柄の下のほうを握り直した。角度は変わらなかった。膝の位置を半歩ずらして、窓の側から光が入るようにした。障子の桟の影が頬の上を斜めに切っていて、その影が動かない以上、動いていないのはこちらのほうだった。台所で佳奈が水を出し、止め、また出した。廊下を悟が二度通り、二度目は縁側の戸を開けて外へ出た。線香が一本燃え尽きて、灰が香炉の縁から座布団の上へ落ちた。刃を二度、脇の桶の湯にくぐらせて泡を落とし、そのたびに同じ位置まで戻した。三度目に持ち上げたとき、湯の面に落ちたのは泡ではなくクリームの塊だけで、刃には何もついていなかった。右の膝から下が痺れてきたので、正座を崩して片膝を立て、また戻した。澪は布団の足の側で道具を並べ替えていて、鑷子の置き場所を二度変え、含み綿にする脱脂綿をちぎって三つ作り、大きさの順に手前から置いた。台所の換気扇が回り、しばらくして止まった。数を六十まで数え、そこからもう一度数えはじめて、途中でどこまで行ったか分からなくなった。左手を頬から離し、右の手首を上から握った。握ったまま、しばらく動かさなかった。手袋を外して掌を作業着の腿で拭き、新しいのに替えて、クリームを足した。蒸しタオルを温め直してもう一分当てた。左手の指二本を同じ位置に置き、刃を同じ角度で当てた。そこから先へは行かなかった。 澪が畳の上を膝で回って、布団の反対の側に来た。 「保坂さん」 「代わります」 返事を待たずに手を伸ばしてきた。剃刀の柄に澪の指が掛かり、こちらの指が開いて、柄はそのまま向こうの手に移った。 刃を湯にくぐらせ、泡を落としてから、耳の前に当て直していた。生えている向きに沿って、頬から顎、顎から首へ。逆には当てない。一往復ごとに湯で洗う。喉は最後にして、たるみの底を左手の指で伸ばし、刃先だけを使った。洗髪のときの手の速さと変わらず、しゃべっていないぶんだけ音が少ない。こちらは立ち上がって、襖の柱のところまで下がった。足の裏に、朝いちばんに自分で留めた養生シートの角があった。二歩ぶん離れて見ると、澪の右の肘が思ったより外へ開いていて、そのために刃が顎の下で一度浮いた。何も言わなかった。剃り終えて乳液を薄くのばしたあと、鼻の下の左側に二本残っているのが、こちらの角度からだけ見えた。澪の側からは見えない位置にあった。 佳奈がアルバムから抜いてきたのは平成三年の秋の一枚で、建屋の前に作業帽をかぶって立ち、左手にノギスを提げている。頬の肉が今より二回りある。 「これがいちばん写りがよくて。ほかのは全部、目をつぶってるんです」 澪はそれを畳の上に置き、ファンデーションを二色並べた。 「暗いほうですよね」 「ああ」 「含み綿、右を大きめに入れます。落ち方が左右で違うので」 上の歯茎の外側へ押し込み、外から指で押して膨らみを見て、一度出して丸め直してからもう一度入れていた。顎バンドは要らなかった。前の日の朝に病院の洗面台の横でタオルを丸めて顎の下に差し入れてあったので、口は閉じたままになっている。下地を薄く置き、ファンデーションはスポンジで叩かずに指の腹で押し込むように広げて、首との境目をぼかし、耳たぶまで入れた。写真の顔より一段暗いほうを使ったので、額と鼻の頭だけが浮かずに済んだ。口紅は細い筆で薄い茶に近いものを二度重ね、上唇の山からはみ出した分を綿棒の先で拭き取った。爪は澪が切った。白いところを一ミリだけ残し、切った先を懐紙の上に集めていく。左の親指だけ厚みがあって湾曲が強く、端から三回に分けて刃を入れていた。同じ切り方を十月九日に病室の膝の上でやっている。上着のポケットに指を入れると、二日前に病院の廊下の自動販売機の前で切った自分の爪の先が、まだ底のほうに残っていた。 数珠を掛けるとき、澪は左の手を上にした。 「逆だ」 「あ」 「すみません、右が上でした」 組み直して、房を胸の中心へ寄せた。数珠は仏壇の引き出しにあったもので、玉は木で、房の色が根元だけ濃く残っている。 納棺は十一時二十分だった。棺を廊下の側に寄せ、頭を先にして四人で持ち上げた。 「悪い、膝が。足のほうと替わってくれ」 そちらへ回った。重さは十月に団地の四階から下ろした人と変わらなかった。澪がドライアイスを新聞紙で包み、腹に一枚、胸に一枚を置いた。一回に三・五キロを使う。夏ではないので次は夜の九時でよかった。棺の蓋は載せずに、白い布を掛けただけにして、顔の上の窓は開けたままにした。悟が携帯を出して棺のほうへ向け、画面を一度見てから、撮らずに上着の内側へ戻した。 ひかりは三時過ぎに帰ってきた。ランドセルを廊下に置いたまま襖の隙間から中を見て、そのまま台所へ入った。 「二本立てるんじゃないの」 「一本でいいの。ここは一本」 「学校の子は二本って言ってた」 「よそはよそでしょう」 鈴を鳴らす回数のことで少し揉め、二回で落ち着いた。座敷には入ってこなかった。 四時十分に高崎駅の西口で澪を降ろした。車の中で出たのは親知らずの話だった。 「下の、横を向いて生えてるやつなんです。大学病院の予約、二月まで延びちゃって」 国道の手前の信号で止まった。 「二月ですよ。二月まで延びたんです、予約」 「窓、二センチだけ開けていいですか」 こちらの左手はハンドルの下のほうを握っていた。降りぎわに道具箱の蓋の留め具を掛け直していったので、家に戻ってから開けて中を見た。剃刀は刃を包んでケースへ戻してあり、柄は布で拭いてあった。鴨居の紙に次の交換の時刻を書いて、釘に掛け直した。九時と書いた。 第十章 十一月十六日、七時二十分に車庫のシャッターを上げた。簡易浴槽の底の補修テープは九月に貼り替えてあり、横向きに立てて押し込んでも端が引っかからない。給湯器、ホース二本、ポリタンク、養生シート、脚立、道具箱、着替えの入った紙袋を順に積んだ。順番は変えなかった。ドライアイスの箱は最後に助手席の足元へ置き、保冷袋の口を二度折って輪ゴムを掛けた。四日の葬儀から出していなかった作業着は洗って畳んだままロッカーの下の段にあって、折り目のところだけ生地が硬くなっている。 事務所の窓が開いて、島が伝票を寄越した。 「午前が一件、午後が二件。二件目は俺が行く」 窓が閉まり、すぐにまた開いた。 「作業場の灯油、半分切ってる。帰りに入れてこい」 「はい」 忌引きのことも、四日のことも出なかった。 小川シゲ、八十一歳。十四日の朝、自宅の居間で。 死因の欄には老衰と書いてあった。 家は市街から北へ八キロほど行った先の平屋で、庭に物置が三つ並び、いちばん左のものが前へ傾いていた。玄関の床は靴を脱ぐと冷たく、通された仏間は八畳あって、入口から遠いほうの壁で石油ファンヒーターが回っていた。設定は二十四度で、壁の温度計は十七度を指している。 「小川さんで、よろしいですか」 「コガワです。字はこれでコガワ。役所も病院もオガワで通ってますけどね」 息子は五十五で、伝票の読みと本人の名乗りが違ったので聞き直した。嫁は台所と仏間を行き来していて、鍋の前で足を止めるたびに戻ってきた。 「お鍋、いくつ出しときゃいいでしょう」 「大きいのが二つあれば足ります」 「二つですね。二つで、ほんとに足りますか」 近所の女が一人、こたつの脇に座っていて、帰るまで動かなかった。 養生シートを敷き、玄関から廊下まで幅を二枚分取って、角をテープで留めた。簡易浴槽を組み立てているあいだに澪が湯の経路を歩いて確かめ、戻ってきた。 「お風呂のリモコン、四十三度で止まります。それ以上は上がらないみたいで。あと勝手口の外の水栓、凍結防止でちょっと開けてあるんで、閉めないほうがいいと思います」 「わかった」 手袋はLLを使う。はめる前に自分の爪を見て、右の中指だけ白いところが伸びていたので爪切りで落とし、切った先を作業着の胸のポケットに入れた。 十時五分に浴槽へ水を張った。 柄杓を息子に渡した。 「この水に、お湯を足していただきます」 息子が一杯、嫁が一杯。 「わたしはいいわ。身内じゃないもの」 近所の女は手を振って、こたつから出てこなかった。棒温度計を沈めると三十四度までしか上がっていなかったので、そこから自分で湯を足して三十九度にした。冬は表面から先に冷めるので、九十分のあいだに二度足すことになる。 洗いは頭からにした。首の下に腕を差し入れて頭を少し起こし、耳の縁に左手を当てて右手で湯を掛ける。髪は全体に薄く、後ろのほうにだけパーマの跡が残っていた。香りの弱いシャンプーを手のひらで泡立ててから地肌に置き、指の腹で二度、生え際から後ろへ動かす。流し終えて乾いたタオルで水を吸わせ、枕へ戻すまでのあいだに、湯は一度目の追加が要る温度まで下がった。全身はバスタオルを掛け替えながら洗い、開けるのは今洗う場所だけにする。夏の終わりから寝ていたと聞いていたとおり、肘から先が細く、脇の皮膚が余っていた。膝は両方とも曲がったまま伸びず、湯を掛けながら膝の裏に手を入れて支え、伸ばそうとはしなかった。仙骨のところに五百円玉ほどの褥瘡があって、周りだけに湯を落として、そこは擦らなかった。手のひらは指を開かせると内側が湿っていて、四本とも第二関節から先が同じ角度で内へ向いている。踵の角質は厚く、ガーゼで撫でると粉が湯に散った。皮膚は乾いていて、掛けたそばから湯を吸っていく。腹は押しても音がしない。澪が湯の追加を二度持ってきて、二度目は浴槽の湯を柄杓で汲み出してから足した。拭き上げに十二分かかった。指の間、耳の後ろ、脇、膝の裏を順に押さえていく。 着せるものは経帷子だった。息子が仏壇の下の引き出しから出してきた包みには買ったときの値札が貼ったままになっていて、剥がすと下の紙が薄く持っていかれた。腕の関節が固いので、四十五度の湯に浸したタオルを絞って肘と肩に三分ずつ当ててから袖を通した。左だけ二度やり直した。紐は縦に結ぶ。 顔の毛を剃った。 柄の白い剃刀に新しい替刃を入れ、クリームを手のひらで温めてから、顎の下と唇の上に置いた。皮膚が冷たいので、その前に蒸しタオルを一分当てている。左手の指二本で皮膚を耳のほうへ張り、刃を寝かせて、生えている向きに沿って動かす。逆には剃らない。顎から首へ移り、喉は最後にした。喉のたるみの底に短い毛が三本残っていたので、指で皮膚を伸ばして刃先だけを使った。一往復ごとに刃を湯にくぐらせて泡を落とす。耳の前の産毛は白くて短く、光の角度を変えないと見えないので、膝の位置をずらして窓のほうから当てた。始めてから拭き終えるまでで七分だった。乳液を薄くのばすと顔の色が少し変わった。刃を外して包むとき、懐紙を二枚使った。いつもは一枚で足りる。 爪を切った。 白いところだけを、丸く残るように少しずつ落とし、切った先を懐紙の上に集めた。左右で二十枚を一枚の懐紙に包んで嫁に渡すと、嫁は両手で受け取って仏壇の前に置き、置いてから位置を二度直した。掌に残った角質は作業着の腿で拭いた。 顔をつくるのに二十七分かかった。頬は左右とも落ちていたので含み綿を大きめに詰め、詰めてから一度出して、右をひとまわり小さくした。口は閉じていたので顎バンドは要らず、瞼も開いていない。生前の写真は今年の五月の、デイサービスの誕生会で撮ったもので、紙に印刷して四つの角をセロテープで台紙に留めてある。紙が波打っていて、顔のところに折り目が一本走っていた。伏せて置いてから、下地を薄く入れた。ファンデーションは写真より一段暗いものを選ぶ。スポンジで叩かずに指で押し込むように広げ、首との境目をぼかして耳たぶまで入れた。口紅は本人のを使ってくれと言われたので、鏡台の引き出しから出てきた三本のうち、いちばん減っているものを取った。筆で二度重ね、はみ出た分を綿棒で取った。 手を組ませて数珠を掛けた。指は組めた。 十一時三十五分に納棺した。棺を仏間の入口の側へ寄せ、頭を先に、四人で持ち上げて入れた。近所の女がこたつから出てきて足の側に手を添え、そのあとまた同じ場所に座った。腹の上と胸の上に、新聞紙で包んだドライアイスを一回分の三・五キロで置く。冬なので通夜まで一度替えれば足りることと、明日の夕方に来ることを息子に伝えた。 「はい」 息子はそう言ってから、棺の縁に指を置いた。 「便所は、九月までは自分で行ってたんです。それが十月に入って、急に──」 「お父さん、お茶」 台所から嫁が呼んだ。息子は棺の縁から指を離し、膝に手をついて立ち上がり、そのまま台所へ行った。泣いた者はいなかった。 湯を抜くのに十八分かかった。外の水栓が浴槽より高い位置にあるので、澪がホースを持って庭を回り、傾いた物置の脇まで引いた。抜いたあとの底には髪が二本と白い粉が残っていて、それを拭き、折りたたみ、養生シートのテープを剥がして、畳に糊が残っていないのを膝をついて確かめた。作業票の開始欄に十時五分、終了欄に十一時三十五分と書く。終了の分を三十と書いてしまい、二重線で消してから書き直した。 外気温計は七度だった。 国道へ出る手前でスタンドに寄り、ポリタンク二つに灯油を十八リットルずつ入れた。会社のカードで払い、レシートをバイザーに挟んだ。 「九日に決まりました」澪がシートベルトを引きながら言った。「親知らずです。十二月九日の朝いちばん」 「そうか」 「入院じゃないそうです。麻酔が切れるまで座ってるだけで。でもあの歯医者、駐車場が二台分しかないんですよ。だから母に送ってもらおうかと思ったんですけど、あの人、どこ行くにも犬を乗せるんで」 「犬」 「実家の。柴の雑種で、もう歳なんですけど、置いていくと玄関で鳴くんです」 信号のたびに道具箱の金具が鳴った。犬の話が終わると窓の外を見ていた。父の納棺のことは、行きも帰りも出なかった。 十二月十一日、解剖のあとの遺体が一時二十分に着いた。六十九歳、男。腹の縫い目は病院で留めてあったが、右の脇腹から下の八針分が浮いていた。娘が一人で来て、駐車券のことも領収書のことも聞かず、椅子に座って両手を膝の上に置いていた。焼香のあいだも同じ姿勢で、線香を二本立ててから、こちらを見た。 「二本で、よかったんでしょうか」 「宗派によります。気になるようなら、一本にまとめても構いません」 「二本のままにします」 トレーに半円の針を八本、頭を同じ向きに揃えて並べ、縫合用の白糸を三十二センチずつ切って十二本作った。持針器と鑷子を消毒液から上げ、乾いた布の上に置く。澪は右の頬がまだ腫れていて、マスクの上から二度押さえた。 「二日目より四日目のほうが腫れるって、ほんとでした。冷やすと治りが遅くなるらしくて。保坂さん、抜いたことあります」 「ない」 澪は糸とガーゼを出す係についた。 浮いた糸を鑷子でつまんで根元で切り、皮膚の縁をガーゼで押さえて水気を取り、消毒液を含ませた綿で二度拭いた。持針器で半円の腹を挟み、右の縁の内側から刺して左の縁の内側へ抜く。皮膚は見た目より厚い。糸を引いて縁と縁を合わせ、一針ごとに人差し指の腹で両側の高さをそろえ、結び目は内側へ落として、端は五ミリだけ残して切った。間隔は一センチよりわずかに狭くとった。十六針で、三十二分かかった。持針器を握り直したのは一度きりで、それは肋骨の縁ではなく、糸が手袋の指に絡んだからだった。手袋の中は湿ってきて、二針ごとに指の腹を布で拭いた。澪はこちらの右手が上がるより先に次の糸を持ち替え、縫うことについては何も言わなかった。 道具を洗ってトレーの針を数えると八本あった。もう一度数え、記録簿に本数と糸の残りを書いて島に判をもらった。島は判を押してから正月の当番の紙を出した。 「三十一日と一日、どっちかに丸をつけろ」 「三十一日で」 「去年もそっちだったな」 紙は伝票の束の下へ入っていった。 十二月に入ってから悟に折り返した。実家の家財を運び出す業者の見積りが二社ぶんあった。 「安いほうでいいか」 「いい」 「年内は空きがないってさ。年明けの、たぶん半ばになる」 十二月十九日、家に着いたのは八時前だった。台所の蛍光灯は九月に替えてある。鍋の日で、ひかりは白菜の芯だけを皿の端に寄せていた。 「二学期の給食、二十二日で終わりなの。最後の日ね、唐揚げが二個つくのよ」 「一個じゃ足りないって毎年言われるから。あと除去食の子が一人増えて十二人。シールの色、来年から変えるんだって」 佳奈は火を弱めながら話し、ひかりは箸を持ったまま口を挟んだ。 「今日さ、総合で言った」 麦茶を一口飲んでから続けた。 「お父さんの仕事のこと。湯かんっていうのがあって、九十分かかるって」 「へえ」 「みんな、へえ、って」 鍋の蓋を取って、豆腐を半丁だけ入れた。ひかりは寄せた白菜の芯をもう一度端へ寄せ直した。 「明日、三時間目が書き初めの練習なんだけど、墨を忘れると先生のを借りるんだよ。借りると減るから、みんな貸したがらないの」 佳奈が、九十分て何、と聞き、ひかりは、知らない、と答えた。飯を二膳食べ、味噌汁ではなく鍋の汁を椀に取って飲んだ。 洗い物は変わらず担当で、油の多いものから先に洗った。鍋は湯を張って流しに置いておく。 階段の下の籠に、ひかりの手袋が片方だけ入っていた。濃い青のニットで、右の親指の付け根が三センチほど裂け、中の毛が出ている。 裁縫箱は押し入れの上の段の、アイロン台の裏にある。針山の右端から二番目を抜き、糸は手袋に近い色がなかったので黒にした。糸切り鋏はやはり見当たらず、七十センチほど引き出して歯で切った。裂け目の両側を左の親指と人差し指で寄せ、目のあいだに針を通して、引きすぎないところで止める。編んだものは引くと縮む。三ミリの間隔で運び、端まで行ってから同じ道をもう一度戻った。裏で玉止めを二度し、余った糸をまた歯で切った。指ぬきは使わない。手は一度も止まらなかった。七分かかった。 針を針山の同じ位置に戻し、蓋を閉めて押し入れの上の段へ返した。手袋は籠に戻さず、階段の三段目に、縫い目を上にして置いた。
小説 · text · 2026-09-07