FFAVENIA

小説 · text · 2026-09-07

三十七分

しゅう1
三十七分のカバー

第一章 午後二時四十一分 四階と五階のあいだで、かごが止まった。減速がふくらはぎから膝の裏へ抜けていって、そこで途切れ、床は足の裏を押し返さないまま静止した。かごが最後に立てた音は、金属の板を平らな手で一度叩く音に近かった。天井の照明は点いたままで、埋め込まれた四本の管のうち左端の一本だけが、ほかの三本より白い光を出している。扉の上の行先階表示から数字が消えて、黒い横長の窓だけが残った。天井の吹き出し口から出ていた風の音が途中で切れて、切れたあとに耳の内側で細い音が鳴りはじめた。神門悠三はA4の封筒を二通まとめて右手に持ったまま扉のほうを向いていて、左手の折り畳み傘の石突きが、床から二センチほどのところで一度だけ揺れて止まった。奥平まりもは背面の壁の前に立ち、トートバッグの持ち手を両手で握っている。牧原大河は左の耳からイヤホンを外したままで、背負った四角い保冷バッグの重さを、肩の上でわずかに前へ送った。葉山敦の電動車椅子は扉に対して斜めに入っていて、右の前輪が乗り場側の敷居の手前で止まっている。 四人とも動かなかった。 操作盤の階数ボタンは三と五と八と九が橙色に点いていて、その下の開閉のボタンには指の脂が白く曇って残っている。非常呼び出しのボタンだけが黄色く、縁の塗装が半円形に剥げていた。盤の右下に定期検査報告済証が貼ってあり、検査年月日の欄には二〇二六年三月十九日と印字されている。その下の行に積載量七五〇キログラム、十一名とあって、さらに下に東和昇降機の社名と電話番号が並び、番号の下四桁だけが新しい白いシールで貼り替えられていた。 神門が封筒を左の脇に挟み、右手の人差し指で五のボタンを三回押した。押すたびに爪が盤に当たる硬い音がして、橙色の光は消えも強まりもしなかった。開くほうのボタンにも指をあてて、二秒ほど押したままにした。扉は動かない。 かごの内側は、扉の面をのぞいた三方が壁で、床から一・一メートルより上に鏡が張ってある。鏡には神門の後頭部と、奥平の肩から上と、牧原の保冷バッグの上の縁と、天井の管の白い列が映っている。葉山の頭は鏡の下の縁に届いていない。背面と左面には金属の手すりが通っていて、右の面だけ何もない。床は灰色の樹脂のタイルで、五十センチ角の目地が黒い線になって縦横に走り、扉の前の二枚だけが、ほかより表面が明るく擦れている。扉の合わせ目には一ミリほどの隙間があって、その向こうに、灰色のざらついた面が縦に立っている。神門の右の靴の踵は外側だけが斜めに減っていて、左はそれよりも減っていた。上着の内ポケットが胸のところで四角く膨らみ、脇に挟んだ封筒は、二通とも下の角が同じ向きに折れている。奥平の事務服の胸のポケットには、ボールペンが二本とペンライトが一本挿してあって、カーディガンの袖口の糸が右だけ長く出ていた。牧原の保冷バッグの下の角には銀色のテープが二重に巻いてあり、縫い目の白い糸が右の側面で三センチほど飛んでいる。肩のベルトが乗っているポロシャツの布は、そこだけ色が濃くなっていた。葉山の膝の上には黒いファイルケースが載っていて、ゴムのバンドが二本、縦にかかっている。背もたれの後ろのポケットから、丸めた透明の傘袋が半分出ていた。車椅子の前輪の溝には、小指の先ほどの灰色の石が挟まっている。ハンドルの手前の表示灯は三つに区切られていて、いちばん左の一つだけが緑に点いていた。天井の隅には点検口の四角い枠があって、四本の皿ねじのうち一本だけ、溝が潰れて縁が銀色に光っている。その隣の吹き出し口の格子には、灰色の綿が三筋、風の出ていた向きに寝たまま張りついていた。鏡には縦の傷が一本、右の端から二十センチほどのところを上から下まで走っていて、映った牧原の肩が動くたびにその線を横切る。背面の手すりの金属には、指の跡が四つ並んで白く曇ったまま残っている。神門のこめかみの生え際に汗が一粒出て、そこから下りなかった。 奥平が体重を左の足に移した。トートバッグの角が車椅子の背もたれの後ろに触れて、離れた。牧原の右の耳に残ったイヤホンから、二拍ごとに戻ってくる小さな音が漏れている。においは三つあった。誰かの整髪料と、床の樹脂と、天井のほうから降りてくる乾いた埃の匂い。外の、通りのほうで、後退する車の電子音が鳴って、六回で切れた。頭の上のほうで、床を踏む音が二度した。 一分のあいだ、誰も何も言わなかった。 神門の肩と奥平の肩のあいだは四十センチほどあいていて、奥平の靴の爪先から背面の壁までは十五センチもない。牧原の膝は車椅子のフットレストの縁から十センチのところにあり、その十センチのあいだへ、背中の保冷バッグの下の角が斜めに下りてきている。葉山の左のグリップと左の壁のあいだには、神門の折り畳み傘が縦に一本入るだけの幅が残っていた。四人の靴とタイヤは、床の目地が区切る枡の、どれか一つの中にはおさまっていない。息の音が四つ、別々の間隔で重なっては離れた。かごの床は、止まったときの位置から一ミリも下がっていない。 神門が左の手首を返して腕時計を見た。秒針が文字盤の下半分を回りきってから、封筒を持ち直して、半歩だけ操作盤のほうへ寄った。膝が車椅子の右のアームレストに当たった。葉山が右手の指先をジョイスティックの上に置いて、車椅子が十センチほど後ろへ下がった。牧原がその分だけ体を斜めにして、保冷バッグの角を背面の手すりの下へ入れた。奥平は動かなかった。神門が非常呼び出しのボタンを親指の腹で押した。 ボタンの中で光が点いた。何も聞こえない時間が二十秒あって、それから、天井のスピーカーから乾いた雑音が出た。 「もしもし」と神門が言った。「もしもし。動かないんですが」 「はい、東和昇降機、保守センターでございます」と女の声が言った。「かごの中の方でいらっしゃいますか」 「そうです。止まってます。急に」 「失礼いたします。建物のお名前をお願いできますでしょうか」 「新橋の、新橋MSビルです。港区の、四丁目の」 「新橋MSビル様ですね。少々お待ちください」 キーボードを叩く音が、スピーカーの向こうで七つか八つ続いた。神門は封筒を右手に持ち替え、それからまた左に持ち替えた。 「恐れ入ります、そちらは何号機になりますでしょうか。操作盤のどこかに、番号の入った小さなプレートがついているかと存じますが」 神門が盤の上から下まで顔を近づけて見た。指が検査済証の紙の角を持ち上げて、裏を見て、戻した。「番号は、ちょっと分からないですね。書いてないな。一台しかないんじゃないですか、ここ」 「かしこまりました。こちらでお調べいたしますので、けっこうでございます」 「お待たせいたしました。かごの中には何名様いらっしゃいますか」 神門が首を回して、扉の側から順に目を動かした。「四人です。四人」 「お怪我をされている方はいらっしゃいませんか」 「怪我は、ないです」そこで振り返った。「ないですよね」 誰も答えなかった。奥平がトートバッグの持ち手を握り直した。牧原は正面を向いたまま、目だけを操作盤のほうへ動かして、また戻した。 「かご内の照明は点いておりますでしょうか」 「点いてます。明るいです。ふつうに」 「恐れ入ります、お客様のお名前を頂戴できますでしょうか」 「神門です。神様の神に、門構えの門」 「神門様、ありがとうございます。かごの中に、お体の具合のすぐれない方はいらっしゃいませんか」 神門がまた首を回した。奥平は背面の壁のほうを向いたまま、動かなかった。「いないです。たぶん、いないです」 「携帯電話は、おつながりになりますでしょうか」 神門が上着の左のポケットから携帯電話を出して、目から四十センチほど離して持った。画面の右上に、電波の三角の代わりに小さな輪が出ている。牧原がズボンの後ろから自分の携帯を抜いて、親指で画面を起こした。角の割れがそのまま白い線になって液晶の中まで伸びている。奥平はトートバッグの中を上から見ただけで、手を入れなかった。葉山が膝の上のファイルケースのゴムの下に指を差し入れて、携帯を抜き、片手のまま画面を上に向けた。出ている三つの画面の右上に、どれも同じ輪があって、数字はどれも十四時四十四分を示していた。 「圏外ですね。うちのは圏外です」 「かご内は電波の入りにくい構造になっております。このインターホンでうかがいますので、ご心配なさいませんように。ありがとうございます。ただいま技術員が向かっております。到着までに三十分ほどお時間をいただくことになります。扉をご自分で開けようとなさらないでください。かごの中は安全ですので、そのままの状態でお待ちいただけますでしょうか」 「三十分」 「三十分ほどで到着の見込みでございます。このインターホンはつないだままにしておきますので、お困りのことがございましたらお声をおかけください」 「あの、いま、四階と五階のあいだだと思うんですけど。それはそっちで分かりますか」 「かごの位置はこちらの遠隔で確認しております。四階と五階のあいだで停止しております」 「そうですか。はい」 神門が親指をボタンから離した。光は点いたままだった。首だけ後ろへ回して、三十分ほどだそうです、と言った。 返事はなかった。牧原が右の耳からイヤホンを外し、コードを指に三度巻きつけて、ズボンの前のポケットに入れた。奥平は背面の壁のほうを向いたまま、肩を一度上げて、下ろした。葉山は右手をジョイスティックの上に置いたまま動かさない。携帯はファイルケースのゴムの下へ戻され、ゴムが糸をはじく音を一度立てた。神門が尻のポケットからハンカチを出して、生え際を一度押さえた。白い布の端に、青い糸で線が一本縫ってある。四つにたたみ直して、同じポケットに戻した。奥平が息を長く吐いて、吐き終わるまでに三秒ほどかかった。 第二章 午後二時四十四分 神門の親指は非常呼出のボタンに乗ったままで、押している時間が四秒を越えた。ステンレスの操作盤は指の脂で曇っていて、ボタンの縁の丸いところだけが白く残っている。その下に東和昇降機の白いステッカーが貼ってあり、印刷された電話番号の下四桁は擦れて、七と一の区別がつかない。スピーカーから短い雑音が二度出て、それから女の声になった。 「はい、東和昇降機、東京サービスセンターでございます」 神門が盤面のほうへ首を寄せた。前に出した足の踵が床から一度浮いて、下りた。 「あの、エレベーターが止まっておりまして」 「ビル名かご住所をお願いいたします」 「新橋の四丁目の、新橋MSビルです」 女の声の後ろで、キーボードを叩く音が三度した。 「新橋MSビル、一号機でお間違いないでしょうか」 「一号機……たぶんそうです。一台しかないので」 「かごの中に何名様いらっしゃいますか」 神門が振り返り、口を閉じたまま人数を数えた。立てた指が三本まで行って、それから四本になった。 「四人です」 「お怪我をされた方はいらっしゃいますか」 「いないです。怪我された方、いませんね」 奥平が首を横に振った。牧原は、イヤホンの入っているほうの耳を神門に向けたまま動かない。葉山の左手はジョイスティックの上にある。 「いません」 「ありがとうございます。かごは現在、四階と五階のあいだで停止しております。制御盤の異常を検知しておりまして」 「ああ、そうですか。地震じゃないんですね」 「地震の記録は出ておりません」 「はい」 「係の者が向かっております。三十分ほどでお伺いできると思います」 「三十分」 「はい」 「それは、今からですか」 「ただいまから三十分ほどでございます。道路の状況によって前後いたします」 「かごの中に、お子様やご高齢の方はいらっしゃいますか」 神門が振り返って、奥のほうへ首を伸ばした。葉山の顔はまっすぐ扉に向いていて、動かない。 「いないです。あ、車椅子の方が一人いらっしゃいます」 「車椅子をご利用の方が一名。係の者に申し送りいたします」 「復旧までのあいだ空調は停止いたしますが、換気は生きております。扉をお手で開けようとなさらないでください」 「開けません」 「恐れ入ります、ご連絡先のお電話番号をいただけますでしょうか」 「携帯、入らないんですけど」 「復旧後に、こちらからご確認のお電話を差し上げますので」 神門が上着の内側から名刺入れを出した。革の合わせ目のところが白くひび割れている。一枚抜いて裏返し、印刷された数字を読み上げる途中で、下の四桁を言い直した。 「〇九〇の、四七三の、二一……二一五八です。すみません、二一五八」 「〇九〇、四七三、二一五八でお預かりいたします。お名前も頂戴できますでしょうか」 「神門です。神様の神に、門構えの門で、神門」 「神門様。受付番号を申し上げます。〇七二八の、四四一でございます」 「〇七二八の、四四一」 名刺を持っていないほうの手が、脇の封筒を引き出した。上の一通の白い余白にボールペンの先を当て、線が出ないので尻を二度押してから、数字を書いた。四の横棒だけ紙に引っかかって、二度なぞってある。ペンは封筒と一緒に脇へ戻された。 「その番号も、ここじゃ入らないと思いますけど」 「かしこまりました。ビルの管理会社様へは、こちらからご連絡いたします。このインターホンはこのまま繋がっておりますので、ご用の際は押してください」 「はい」 「失礼いたします」 雑音が一度出て、切れた。ボタンから親指が離れ、盤面に楕円の跡が残って、五秒ほどで消えた。階数のボタンは一から九まで縦に二列に並んでいて、そのうち三と五の二つに橙の輪が点いている。開のボタンの表面はほかより白く濁り、閉のボタンには縁に沿って細い傷が三本入っている。点いている二つは、点いたままでいる。 かごの内寸は幅が一メートル四十、奥行が一メートル三十五で、四人と車椅子が入ると、床の見えている部分は扉の前の細長い一列だけになる。葉山の電動車椅子は奥の右寄りに斜めに入っていて、前輪のタイヤの溝に黒い砂粒が三つ挟まっている。フットレストの先は壁の手前三センチで止まっている。左のアームレストの前に細長い表示窓があって、三つ並んだ目盛りのうち、いちばん左の一つだけが緑に点いている。牧原は左の隅に立ち、四角い保冷バッグを背負ったままでいる。バッグの角は擦れて白くなり、右の肩紐の付け根から糸が二本出ている。上蓋に貼られた店名の下から、剥がしきれなかった別の店名の文字が三つ透けている。奥平は背面の鏡の前にいて、鏡は床から一メートル十センチより上にしか張られていないから、そこに映るのは胸から上だけになる。鏡の中には、神門の後頭部と、保冷バッグの上の角が入っている。 誰も座っていない。 「三十分だそうです」 答えた者はいない。奥平がトートバッグの外ポケットに携帯を戻し、ファスナーを半分だけ閉めた。 「さっきの人が、三十分ほどでって」 神門が上着の裾を引いて直し、脇に挟んでいたA4の封筒を持ち替えた。二通のうち下の一通は角が三センチ折れて、宛名のシールの右下に赤い判が半分だけ掛かっている。折り畳み傘は封筒と一緒に脇に挟まっていて、握りのマジックテープが外れ、布が指の幅ほど開いている。神門が封筒の折れた角を親指と人差し指で挟み、二度伸ばした。角は元の位置に戻らない。 牧原が携帯を尻のポケットから半分だけ出して、画面を見ずに戻した。半分だけ出た画面の右上には、角から中心に向かって罅が一本走っている。靴は白かったところが灰色になり、左のつま先のゴムが縁から一センチ剥がれている。 扉は中央で合わさっていて、その線が上から下まで通っている。合わせ目のゴムは黒く、下のほうだけ灰色になっている。線の隙間の奥にコンクリートの面があり、縦に油の筋が三本走っていて、いちばん左の筋の下に、白い塗料で書かれた数字の上半分が出ている。かごが止まってから、その数字は動かない。扉の右上に三角の鍵穴があり、その周りの塗装が円く剥げている。 細い音が天井から続いていて、途切れない。どこかの階で携帯の着信音が四小節鳴って、途中で止まった。その音のほうへ顔を上げた者はいない。 天井には四角い照明のパネルが二枚あって、二枚とも点いていて、右のほうがわずかに青い。その手前に細い格子の吸込口がある。神門が顔を上げてそこを見た。手のひらを上に向けて、肩の高さから頭の上まで持ち上げ、手首を返し、もう一度同じところを通した。 「空調、止まってますね」 奥平が壁から半歩離れた。 「そうですね」 「風が来ないな。さっきの人は換気は生きてるって言ってましたけど、風は来ないですね。ここ、上に穴は開いてるんですけど」 「はい」 神門のワイシャツは、脇の下から肋のあたりまで色が濃くなっている。襟の内側の折り返しにも横に線が出ている。上のほうで、車輪の小さい台車を押す音が右から左へ通り、扉の閉まる音が二度した。水の流れる音がどこかで始まって、十秒ほどで止まった。かごの床は五センチ角の灰色のタイルで、目地には黒い線が残っているが、扉の前の三列だけ、その線が薄い。神門の革靴の踵は外側が斜めに減っていて、片方の縁に、乾いた白いものが小指の爪ほど付いている。 神門がハンカチを出した。紺の縁のついた白い木綿を四つに畳んだままで額に当て、生え際から耳の前まで一度拭いて、同じ形に畳み直し、左手に握った。 名刺入れが内ポケットに戻り、上着の前が一度たわんで、元に戻った。操作盤の上の壁には、定員十一名、積載七五〇キログラムと打ってある金属の板が貼ってある。その隣が定期検査報告済証で、印字された年月は二〇二六年五月、右下の欄には手書きの数字が入っている。板の四隅のビスのうち、右下の一本だけ頭が二ミリ浮いていて、その下に細かい埃が溜まっている。証の右端に、剥がされた古い証の紙が、爪の幅ほど残っている。 牧原が右の肩紐に親指を掛け、位置を二センチ上げた。肩紐の当てのスポンジは押し潰れて、片方だけ厚みが半分になっている。保冷バッグの上蓋のファスナーの引き手に緑のプラスチックのタグが付いていて、それが胴に当たって一度鳴り、二度目は鳴らなかった。バッグの底の四隅には黒い樹脂の脚が付いていて、前の二つは角が丸くなっている。 奥平が体重を右足に移した。左の踵が床から一センチ浮いて、下りた。手が背面の手すりの下へ伸び、タイルの継ぎ目のところで止まって、指が三本そこに残る。息を吐く音が長く続き、途中で切れた。カーディガンの袖口は伸びていて、右の袖だけ肘の下まで上げてある。トートバッグの口は開いたままで、中には折り畳んだ紙の束と、三分の一ほど減った五百ミリリットルのペットボトルが立っている。事務服の胸のポケットにボールペンが二本挿さっていて、二本とも同じ黒で、一本は軸に赤いテープが巻いてある。 葉山は左手をジョイスティックに置いたまま、右手を膝の上の黒いバッグに置いている。指は動かない。表示窓の緑は点いている。座面のクッションは前の縁が擦れて、生地の織り目が出ている。フットレストのゴムの溝は、右側だけ潰れて平らになっている。背もたれの後ろに雨傘が一本挟んであり、その先が床から二十センチのところで、揺れずにいる。 神門が足の位置を変えた。革靴の底が床のタイルで短く鳴り、それから鳴らなくなった。 神門がハンカチをもう一度開いた。首の後ろに回して襟の中を左から右へ拭き、畳み直すときに角が合わなかった。 「暑くなってきましたね」 誰も答えなかった。牧原が外しているほうのイヤホンを、シャツの襟の内側に落とした。白いコードが胸のところで一度揺れて、止まった。 第三章 午後二時四十八分 二時四十八分を過ぎても扉は動かず、天井のダウンライト四つのうち右手前の一つだけが他の三つより白く、その一つの下だけかごの隅の壁板の木目が細かく浮いていた。かごの床は五階の敷居より一メートル二十下にあって、扉の合わせ目の上端の隙間から廊下の照明が細い筋になって斜めに入り、床のタイルの目地を二本またいだところで途切れている。空気は動かない。四人の位置は停まったときのままで、幅一メートル四十、奥行一メートル三十五の中に、神門が操作盤の側、奥平がその斜め向かい、牧原がいちばん奥、葉山の車椅子が扉の正面からいくらか右に寄って据わっていた。 神門がまたハンカチを出した。 操作盤の下のステンレス板に貼られた紙は端が反り返り、四隅のうち右上だけが両面テープから浮いている。定期検査報告済証という文字の下に検査年月日、二〇二六年二月十七日、その下に東和昇降機株式会社の社名と電話番号が刷ってあって、番号の頭の三桁のあたりに誰かの指の跡が黒く残っていた。紙の左には定員十一名、積載七百五十キログラムと打った金属のプレートがねじ二本で留められ、ねじの頭の溝に埃が詰まっている。階数ボタンは地下一階から九階まで縦に並び、五のボタンだけ数字の白が薄くなって、周りの塗装が指の形に磨れ、下の金属が細長く出ていた。神門の親指が四と五のあいだの隙間に触れ、そこから離れて、非常呼び出しのボタンの縁を一周なぞってから戻った。押しはしない。ハンカチが首の後ろから襟の内側に入り、出てきたときには布の色が濃くなって、たたみ直した折り目が前の折り目と合っていなかった。足元の床は三十センチ角のタイルが縦四枚、横四枚と半端で、扉際の二枚に台車の車輪が引いた黒い線が斜めに残り、その線をまたいで直径五センチほどの輪の跡が乾いている。神門の靴は踵の外側が斜めに減って、減った面に爪先から回ってきた埃が薄く載っていた。操作盤の右上、鏡の縁より低い位置に黄色いステッカーが一枚あり、かご内に閉じ込められた場合はインターホンで連絡し扉を開けようとしないでくださいという二行の文が、日本語と、その下に少し小さな英語で並んでいる。ステッカーの角は四つとも丸く、右下の角だけ誰かが爪で起こしかけて、二ミリほど反っていた。扉の合わせ目は下のほうで一ミリ、上のほうで三ミリ開いていて、その差の分だけ廊下の光の筋が上へいくほど太い。 奥平のトートバッグの持ち手は肘の内側で二重に巻かれていて、その手が一度だけバッグの口を開け、中を見て、閉じた。取り出したものはない。もう一方の手が携帯を胸の高さまで上げると画面が点き、上端の左に圏外の二文字、中央に二時四十九分、その下に七月二十八日火曜と出て、五秒ほどで暗くなった。暗くなった画面の面に、天井のダウンライトの白い点が四つ並んで映っている。 神門が息を吸う音がした。 「暑いですね、これは」 「朝の予報で三十五度まで行くと言ってましたよ。うちのが洗濯物を出すか出さないかで、玄関でずっと揉めてましてね。まあ、そんな話はどうでもいいんですけども。空調が止まると、この箱は早いんです。壁が薄いんですよ、こういう年式のは」 誰も答えなかった。牧原の右耳から外れたイヤホンが胸の前に垂れ、白いコードが保冷バッグの肩ベルトの下に潜って、そこから裏拍だけが規則正しく漏れている。左耳のほうは入ったままで、コードは顎の下を横切っていた。保冷バッグは背中と壁のあいだで潰れず、四隅の縫い目が角を保って立ち、上端の反射テープに天井の光が二筋映っている。外側の生地に水滴はまだ浮いていない。半袖の袖口から下だけ腕の色が濃く、境目が肘の少し上を一周していた。左手の人差し指の第二関節に絆創膏が巻いてあって、端が汗で丸まり、下の皮膚が見えている。膝から下は動かず、靴の爪先だけが二拍に一度、床を三ミリほど叩いた。 「このビル、昭和六十三年でしょう。下の銘板に出てます。築三十八年だ。躯体はね、三十八年くらいどうということはないんですよ。参るのは機械のほうで、基板が湿気を吸う。夏場は特にね」 葉山の右手はジョイスティックに載っていない。手首から先が肘掛けの端をつかんで、親指の腹が革の破れ目に入り、中の白い詰め物に触れている。コントローラーの箱の上面では、バッテリーの表示灯が三つのうち左の一つだけ緑に点いて、残りの二つは消えたままだった。前輪のタイヤの溝に五ミリほどの石が挟まり、その手前のタイルに、入ってきたときの黒い弧が二十センチばかり残っている。膝の上には薄いクリアファイルが一枚、角を揃えて置かれ、四分ほどのあいだ一度も動かなかった。フットプレートの端が扉の敷居から十五センチのところで止まっている。後輪の脇のフレームには黒いナイロンのベルトが二本垂れ、片方の先の金具が床のタイルに触れて、車体がわずかに沈むたびに金具の位置が一センチずつ変わった。座面の下から出ているコードは束ねられ、結束バンドの余りが三本とも切られずに同じ方向へ反っている。 上の階で扉が閉まる音がして、それから靴の音が二つ、頭の上を斜めに横切って遠ざかった。 「兄ちゃん、それ、重いだろ」 牧原は顔を上げなかった。少し置いてから左耳のイヤホンを指で抜き、コードごと手のひらに握り込んだ。口は開かない。神門のほうも返事を待たずに続けた。 「昔はね、こういうときのために、かごの中に折り畳みの椅子を置いてたビルがあったんですよ。今は消防がうるさいから置けない。……置けないんですけども、まあ、あったほうがいいに決まってる。誰だって立ってるより座ってたほうがいいんだから」 神門の左手にはA4の封筒が二通あって、二通とも口が開いたままだった。一通の角が汗で柔らかくなり、指の形に凹んでいる。封筒を顔の前で二度あおぎかけて、途中で止め、脇に挟み直した。上着の内ポケットから名刺入れが半分出て、また戻った。 「皆さん、携帯、入らないでしょう。私のもさっきから圏外でね。ここは鉄骨に囲まれてますから、真ん中の階がいちばん入らないんです。上か下なら入ることもあるんですけどね」 言い終わってから、神門は自分の携帯を出して画面を上に向け、そのまま七、八秒持っていて、ポケットに戻した。 奥平が体重を右足に移した。左の踵が床から二センチほど浮いて、爪先だけが残る。それから息を長く吐いて、吐き終わるまでに四秒かかった。カーディガンの袖口は手の甲の半分を覆い、袖口の縁の糸が一本、指の付け根のところで輪になっている。 鏡は床から一メートル十のところで始まり、その下は壁板とステンレスの縁だった。映っているのは神門の後頭部と背中、奥平の肩とカーディガンの襟、牧原の保冷バッグの上端の反射テープ、それに葉山の髪のてっぺんの一部だけである。鏡の面はまだ曇っていない。背面と左面には直径三センチ半の手すりが支柱三本ずつで通っていて、背面のものは中央の三十センチほどだけ細かい傷で白く曇り、両端は磨いたまま光っている。神門の手のひらの跡が扉のステンレスに残って、三秒ほどで消えた。鏡の下の壁板は縦に三枚継いであり、継ぎ目の一本が奥平の肩の高さで、そこに髪の毛が一本、縦向きに貼りついたまま動かない。壁板の右下の隅、床から二十センチほどのところに、丸い打ち傷が三つ、同じ高さに並んでいる。 「東和さん、あの女の人、落ち着いてましたね。ああいうのは訓練してるんだろうな。三十分ほどでって言われたけども、こっちは三時に一本入ってましてね、遅れると連絡することもできないんだから、しょうがない。しょうがないんですよ」 腕時計の秒針が文字盤の上を二周した。神門の左手首でベルトの穴は六つあり、三つ目が縦に伸びて楕円になっている。針が十二を通り過ぎたところで、また喋りはじめた。 「五階、クリニックさんでしたっけ。あそこは午後、混みますね。私も前に下の階で三十分待たされたことがある。いや、あれは歯医者だ。歯医者のほうだった」 奥平は答えなかった。トートバッグの持ち手を肘から外して巻き直し、壁から十センチのところに立ったまま、爪先の位置を五センチだけ扉のほうへずらした。パンプスの踵の内側が両方とも同じ形に擦れている。 「あれはね、上の機械室から手で巻くんですよ。ブレーキを緩めて、少しずつね。だから来てからも時間はかかる。着いたらすぐ開くというものじゃないんです。開いたら開いたで、床が合わないことがある」 葉山の親指が肘掛けの破れ目から出て、革の上を五センチほど滑って止まった。それきり手も車体も動かない。牧原の保冷バッグの肩ベルトの余りが背中の脇に垂れ、その先の縫い付けたタグの文字は摩耗して、末尾の二文字だけが読める。 二時五十一分。牧原の握ったイヤホンから音が漏れ続け、その裏拍のあいだに、どこか下のほうで配管の水が動く音が二度あった。かごの天井の換気口は格子が十二本で、そのうち手前の三本から埃が三ミリほど垂れ下がり、垂れたまま揺れない。インターホンのスピーカーの穴は横六列縦七列で、そのうち左下の四つが塗料で塞がっていて、どの穴からも音は出てこない。塗装の匂いに、整髪料と汗の匂いが混ざりはじめている。四人のうち三人が扉のほうを向き、一人だけが鏡のほうを向いたまま、誰も足の位置を変えなかった。 神門がハンカチを額に当て、そのまま眉の上を横に拭いて、たたんで、また広げた。 「去年の十一月にもね、五反田で止まりましてね。同じことです、基板です。あのときは十二分だった。十二分ですよ。担当がたまたま同じ通りにいたとかで、運が良かった。運です、こんなものは。あのビルは九年前に入れ替えたばかりのやつでね、新しくても止まるときは止まる。今日のは、そうだな、この調子だと──」 第四章 午後二時五十二分 神門の声はかごの中で二度鳴る。天井と壁に当たって戻る分だけ後のほうが半拍遅れ、その遅れが重なって語尾のところが濁る。話は築年数から新橋の区画整理へうつり、うつった先で一度切れて、また築年数へ戻ってくる。 「八八年ですからね、この建物。バブルの前ですよ、前。このへんは当時、十階の申請がなかなか通らなくてね、九階で止めた建物がずいぶんあるんです。うちの取引先にも一軒ありまして、そこなんか八階で止めてる。八階で止めて、屋上に室外機を並べてね」 誰も引き取らない。 扉は左右に割れる型で、合わせ目に指の入らない幅の隙間が縦に通っている。隙間の奥は黒く、下から三分の一のところで黒が切れて、そこから上はコンクリートの灰色になる。灰色の面には型枠の跡が横に走り、跡の一本に沿って白い粉が吹いている。隙間からは何も流れてこない。扉の内側の面は指の跡が肩の高さに集まっていて、集まったところだけ艶が落ちている。 操作盤の階数表示は四と五のあいだで消えていて、数字の窓の縁にだけ薄い緑が残っている。ボタンは一階から九階までが縦二列に並び、その下に開閉と非常呼出が付いている。五のボタンの縁だけ塗装が薄く、指の腹の形に地の金属が出ている。盤の右下に貼られた点検票は角が一つ剥がれて垂れ、東和昇降機の社判の朱肉が印刷の枠から少しはみ出している。票の上段には定期検査報告済証とあり、検査年月日の欄が令和八年五月十二日で埋まっている。その下の余白にボールペンで数字が書かれ、二重線で消してある。消した線のほうが濃い。積載量の銘板は扉の上にあって、十一人、七五〇キログラム、と二段に打ってあり、数字の縁に集まった細かい傷の底だけが磨いたように光っている。かごの中のにおいは、機械油と、湿った紙と、それに神門の側から来る整髪料のにおいが層になっていて、扉に近いところほど油が強い。 牧原が右の肩を前に落とす。 親指を肩紐にかけて内側から浮かせ、胸の前の留め具を左手で外す。留め具はプラスチックで、外れるときに二度鳴った。四角い保冷バッグは背中から離れる途中、牧原の腰の高さで一度止まる。そこから床までを、腕を伸ばしきらずに送る。底が床に触れる音は、止まってからいままでにこの四人が立てたどの音よりも小さい。置いた場所は葉山の車椅子のフットレストから十センチほど手前で、床のタイルの目地に底の縁が合わせてある。銀色の生地は角のところが擦れて白く毛羽立ち、縫い目に沿って糸が一本だけ外に出ている。表の面に貼られた配送票のビニールが内側から曇っていて、印字は上半分しか読めない。バッグが背中から離れたあとの牧原のTシャツには、肩紐の幅で二本、色の濃い帯が残っている。帯と帯のあいだの布は乾いている。バッグの上の面には持ち手のほかに黒い引き手がついていて、引き手の金具が生地の上に倒れたまま動かない。生地の内側から音はしない。 牧原の首から下がっているイヤホンは左だけが耳に入っていて、右のほうは胸の前で揺れている。揺れているほうの先から、金属を細かく叩くのに似た音が漏れる。三拍あって、四拍目が抜ける。抜けたところにまた三拍が入る。牧原の指は音に合わせて動かない。 「重いでしょう、それ」 牧原はイヤホンの外れているほうの耳を手で触る。それから床に置いたバッグの取っ手の向きを、指先で二センチだけ直す。 「配達なの。何時までのやつ」 取っ手を直し終えると、牧原は背面の手すりの下に膝を寄せて、片方の靴の踵をもう片方の甲に乗せた。 神門が左の袖口を引いてめくる。文字盤の秒針が数字の三を過ぎたあたりを通っていて、長針は十のところにある。袖は戻され、そのままの手でズボンの右のポケットからハンカチが出てくる。四つに畳んだままの角で額の生え際を左から右へ拭き、こめかみで一度止め、それから首の後ろに手を回してえりの内側を拭いた。畳み目は最後まで開かない。ハンカチはポケットに戻り、戻すときに脇の封筒の角がジャケットの内側で鳴る。 「五階の方でしたね。クリニックの」 「はい」 「あそこは午後、二時からでしたか」 「二時半からです」 「ああ、そう。二時半」 封筒が持ち直される。二通のうち上にあったほうが下に来て、角が揃わないまま脇に挟まれる。上に来た封筒の窓から、宛名の一行目の途中までが見えている。封筒と一緒に脇に入っている折り畳み傘は、袋の口の紐が解けたままで、柄の先が神門の腕からニ十センチほど後ろへ出ている。袋にも柄にも濡れた跡はない。 「私は三時からなんですよ、七階で。まあ、先方も出られないんだから同じことでね。ここに入る前に電話しとけばよかったんだ、下で。下は入るんですよ、電波」 「そうなんですね」 「入るんです。ロビーのポストのところまでは入る。あそこから奥へ行くと駄目でね。前にも一度、下で切れたことがあって、そのときはまだ外に出れば済んだんですけども」 天井の吹き出し口は扉の側の隅にあり、格子の羽根が四枚とも同じ角度で止まっている。羽根の縁に灰色の綿が細く付いていて、それが動かない。照明は格子の反対側で、乳白のカバーの内側に小さな虫の影が二つ沈んでいる。背面の鏡は高さ一メートル十センチから上で、その下は化粧板が張ってある。鏡には四人の後頭部と、天井と、天井に映った照明の丸が入る。鏡の面はまだ曇っていない。曇っていない面に、奥平のカーディガンの肩と、神門のワイシャツの背中の、色の濃くなったところが映っている。四人のうち鏡のほうを向いている顔は一つもない。 葉山の左手はジョイスティックの上にある。親指の付け根がノブに触れているだけで、ノブは中立の位置から動かない。肘掛けの内側、膝の高さのところに残量表示があって、三つの目盛りのうち左の一つだけが緑に点いている。あとの二つは黒い。表示の横に電源のスイッチがあり、緑の丸で、指一本ぶんの大きさで、指が乗ればそれで隠れる。誰もそこを見ていない。前輪のタイヤの溝には小さな石が二つ噛んでいて、片方の溝には濡れた紙が薄く貼りついている。背もたれの裏に黒い袋が下がり、袋の口からファイルの角が二つ出ている。角の一つに輪ゴムが二重に巻いてある。フットレストの上の靴は左右とも爪先が同じ向きで、靴底の減りは左右で違っていない。膝掛けは膝の上で四つに畳まれ、畳んだ辺の一つが膝の外側から垂れて、垂れた先が車輪の泥よけに触れる手前で止まっている。 葉山は顔を上げない。 外で、どこか上のほうを水が落ちていく音がする。管の中を、太いのが一度、細いのが続けて二度。そのあと通りの側から、後退するトラックの電子音が四回入ってきて、四回目の途中で切れた。切れたところに、遠くの、たぶん同じ通りの、別の車の音が残る。 床のタイルは三十センチ角で、扉から数えて奥へ四枚、横に五枚。目地は灰色で、扉に近い二列だけ黒く詰まっている。四人の靴とタイヤが占めているぶんを除くと、空いている床は奥の右の隅に一枚と、扉の前に半分だけになる。奥の一枚の上に、乾いた葉の破片が親指の爪ほどの大きさで落ちていて、誰の足も動かないので、それも動かない。奥平の靴は黒の低いヒールで、右の爪先が葉の破片から十センチ足らずのところにあり、そこから先へは出ない。 奥平が体重を右足に移す。トートバッグの持ち手を握り直し、握った手を腹の前まで下ろす。吸う音はしない。吐くほうだけが長い。カーディガンの袖口が手の甲の半分までかかっていて、その袖口を、もう片方の手の指が内側から一度だけ引いた。 「去年もね、止まったんですよ。どこだったかな、虎ノ門の……いや、あれは違うな。もっと古いビルだ。あのときは十五分ぐらいで開いたけども、二階と三階のあいだでね、下からでも上からでも近かったから。今日はここが四階と五階でしょう。上から来るか下から来るかで、ずいぶん違うんですよ、こういうのは」 神門の右の靴が半歩ぶん前に出て、そこで止まる。踵の外側が斜めに減っていて、減った面が床の照明を返す。革の甲のところに横の皺が三本、深いのが一本と浅いのが二本、入っている。靴の先から扉までは、大人の靴一足ぶんもない。 「三十分と言ってましたからね、さっき。三十分と言ったら、まあ、この業界の三十分ですけども。あの人たち、電話ではそう言うんです」 かごが小さく鳴る。上のほうの何かが、木のたわむ音に近い音を一度だけ立てて、それきりになる。牧原の顎が上を向き、二秒たって下りた。葉山の親指はノブの上から動かない。奥平は背面の手すりのほうへ半歩寄り、手すりの手前で止まって、上げかけた手をトートバッグの持ち手に戻した。 神門はワイシャツの襟のいちばん上のボタンに手をかけ、外さずに指を離す。ネクタイの結び目は上がったまま、結び目の下の生地に汗が入って色が変わっている。 「暑いね。空調がね、こういうときは真っ先に落ちるんですよ。落ちるようにできてる。安全側に倒すっていう考えでね、うちの製品でもそうです。人が閉じ込められてるかどうかは、盤のほうは知りませんから」 奥平の視線が扉の上の階数表示に上がって、消えている窓のところで止まり、下りる。トートバッグの口から折れた雑誌の背が出ていて、背の折れ目のところで印刷が白く割れている。持ち手を握っている指の、人差し指と中指の第二関節が白い。 「まあ、じきに来ますよ。じきに。こういうのは、来るときは急に来ますから。上に人が乗ってきたら音でわかります。天井のね、この上に点検口があって、そこを開ける音が先に来るんです。がたん、と一つ。それが聞こえたら、あとはもう」 牧原が保冷バッグの取っ手に指を二本かけ、床から一センチだけ持ち上げて、同じ場所に戻す。目地の線と底の縁は、戻したあともずれていない。 「あとはもう早いですよ。かごを近いほうの階まで手で回して、それで開ける。手で回すんです、本当に。ハンドルを差してね、二人がかりで。見たことありますか、あれ」 第五章 午後二時五十六分 奥平が左の壁に手をついた。 手すりの下の化粧板に指を四本かけ、親指だけ手すりの裏へ回して、体重を右の足へ寄せた。腕は震えない。カーディガンの袖が手首まで下りていて、袖口の折り返しに汗の筋が縦に一本ついている。袖は捲らない。トートバッグは肘にかけたままで、持ち手が二重に折れ、口の開いたところから折り畳んだ紙の角と白い箱の縁が出ていた。壁の板は冷たくなかった。手をどけたあとに手のかたちの曇りが残って、指の付け根のところから先に消えた。足の位置を五センチほど内側へずらし、それからまた同じ場所に手を戻した。爪は短く切られていて、薬指の付け根に細い跡があり、指輪はない。 長く息を吐いた。吸うときの音はしなかった。吐き終わるまでのあいだに肩の縫い目が首のほうへ二センチ寄り、布が浮いて、下りるときにもとの位置へは戻らなかった。 「この建物ね、昭和六十三年ですよ。竣工が。一階の、郵便受けの脇に銘板が出てましてね、私は入るときに必ず見るんです。職業病というやつで。八八年でしょう。ということは三十八年だ。いや、三十七か。三十七ですね」 床のタイルは一辺が三十センチで、目地が縦に四本、横に四本走っている。かごの奥行きの半端が扉の側に出て、そこの一列だけ幅を切り詰めてある。その狭い列にかかって、牧原の保冷バッグが置かれている。タイル一枚には収まらない四角い形が崩れずに床へ着いて、背負い紐の二本が左右へ落ち、片方の金具が目地の溝にはまっていた。紐は動かない。バッグの底の角、縫い目の折り返しのところに水の粒が三つ四つ並び、いちばん下のひとつが膨らみきってから離れた。落ちた先は目地で、粒は吸われずにとどまり、形を保ったまま少しずつ低くなっていく。音はしない。表の生地には縦に細かい起毛があって、光の当たる面だけが白っぽく起きている。ファスナーの引き手は上を向いたまま動かない。かごの空気に、甘い匂いが混じりはじめている。牛乳と、それより濃いものの匂いで、扉の側のほうが強い。 牧原は動かなかった。 かごの中で音を出しているのは四人の衣ずれと、神門の声だけだった。天井の吹き出し口からは何も出ていない。紙の垂れも、髪も、封筒の口も動かず、匂いだけが扉の側から後ろへ回ってくる。 「十一人乗りって書いてありますでしょう、そこに。七百五十キロ。ええ、七百五十です。それで我々は四人だ。四人で、椅子のぶんを足したって、半分もいっていない。ですから重さじゃないんですよ、これは。基板ですね。基板だと思いますよ、この止まり方は」 葉山の車椅子は扉に対して斜めに入っていて、右の前輪と壁の角のあいだが二センチほど空いている。肘掛けの先の操作桿は真ん中に立ったままで、その手前の表示灯は三つのうち左の一つだけが点いていた。橙の色をしている。両手は肘掛けの上に置かれ、指は伸びも曲がりもしていない。甲に毛がある。靴の踵はフットレストの縁より前へ出て、爪先は扉のほうを向いている。タイヤの溝に細かい砂利が二粒挟まったままで、溝の底に乾いた土が白く残っていた。砂利は落ちない。座面の下の枠の銘板には型式と製造年が刻まれ、その下の数字の並びの最後だけが擦れて読めない。膝の布は左右で寄り方が違い、右のほうが五センチばかり上がっていた。上がったほうの裾から靴下の縁が出て、編み目が二重のところに糸が一本、輪になって外へ出ている。切れていない。 葉山の右手が操作桿の頭に触れた。二センチほど手前へ倒しかけて、戻す。かごは動かない。手は肘掛けへ帰り、指はまた伸びも曲がりもしなくなり、操作桿の頭に残った指の跡が、丸いまま縁のほうから薄くなった。 「君は、五階かい。……ああ、いや。いいです。聞いてない。イヤホンだ」 神門が上着の内側からハンカチを出した。折り目のついた白いもので、広げずに二つに折ったまま額の生え際に当て、こめかみから顎の下まで一度で拭いた。拭き終わると同じ折り方に戻し、上着の内側ではなくズボンの右の後ろへ入れた。皺は残らない。入れてから、その手で上着の前の釦を確かめた。釦は留まっている。左の脇に折り畳み傘が挟まったままで、留め具の面ファスナーが半分だけ剥がれ、中の骨の先が一本、布を押して出ていた。 操作盤の下には二枚の紙が並べて貼ってある。片方は昇降機の定期検査報告済証で、報告年月日の欄に令和八年五月十二日と印字されていた。もう一枚は保守点検の記録で、東和昇降機という社名の下に担当者の判が縦に六つ並び、六つ目だけが薄い。二枚とも四隅を透明のテープで留めてあり、右上の一箇所だけ剥がれて、紙の角がめくれて反っている。反りは戻らない。その反りの下に、前の紙を剥がしたときの糊が黒く残っていた。非常呼び出しの釦だけが他より一段低く、周りの塗りが四方向にすり減って、地の金属が丸く出ている。指の跡はない。扉の合わせ目には髪一本ぶんの隙間があり、そこだけ光の色が違う。向こう側は塗られていない灰色の面で、縦に一本、上から下まで途切れずに続いている。 「東和さんね。東和昇降機。名前はよく聞きます。悪い会社じゃないんですよ。悪い会社じゃないんだけども、三十分と言ってね、三十分で来た例がない。いや、来ることは来る。来ますよ。来るんだけどね」 背面の鏡は床から一・一メートルより上にあって、四人の腰から上と、天井の照明の四角い枠を写している。まだ曇っていない。扉の内側は鏡ではない金属で、そこには輪郭のない色だけが縦に伸びて写っていた。照明カバーの中に虫が一匹入っていて、乾いた影が二つ、離れて並んだまま動かない。影は薄い。かごの高さは二・三メートルあり、天井の隅から扉の上枠にかけて塗りの筋が斜めに走っている。空気の吹き出し口の羽根は開いたままで、手前に貼られたテープの端が垂れているが、垂れたまま揺れない。壁の温度は手をついたぶんだけ変わり、離すと戻る。跡は消える。鏡の中では神門の頭が照明の枠にかかり、奥平の肩から先が手すりの支柱で切れている。牧原の頭は鏡の上の縁を越えて写っていない。車椅子の背もたれの上端は鏡の下の縁とほぼ同じ高さにあって、そこから葉山の頭だけが出ていた。 神門の上着の背中、肩甲骨のあいだに縦長の濃い部分ができていて、その縁が動くたびに外へ広がった。靴は黒の紐で、右の踵の外側だけが斜めに減っている。減った側へ体重が移るたび、踵が目地をまたいで小さく鳴った。ズボンの折り目は膝の下で消えている。膝の裏の布は立ったまま横に皺を作り、谷のところだけ色が濃くなって、その濃さが腿の外側へ細く伸びていた。そこで止まる。 トートバッグの底が車椅子の肘掛けに触れ、金具が一度鳴った。奥平がバッグを反対の肘へ移す。 「すみません」 葉山は肘掛けから手を上げなかった。首をわずかに動かして、それだけだった。 神門が腕を返して時計を見た。文字盤を目から二十センチほど離してから近づけ、また壁の掲示のほうを向いた。 「十七分ですね。まだ十七分だ」 奥平の手が化粧板の上で少し下がった。手すりを握り直し、握った手の甲に筋が浮く。指は白い。膝が一度内側へ入って戻り、爪先の向きが左右で揃わなくなった。揃わないままだ。カーディガンの前は開いたままで、事務服の襟に小さな染みが二つ、間隔をあけて並んでいる。靴は黒のかかとの低いもので、右の甲に縫い目に沿った薄い皺が寄っていた。左の踵が浮き、床から一センチほどのところで止まって、そのまま下りない。 「大丈夫ですか」 奥平が顔を上げた。 「大丈夫です」 「そうですか。いや、こういうところはね、立っているのがいちばん疲れるんです。座れれば座ったほうがいいんですよ。座れませんけどね、ここじゃ。床がね。床がこれだから」 「お嬢さんは五階でしょう。当てずっぽうですけどね。この時間に五階から降りてくる人が多いんですよ、この建物は。私はもう八年か九年、月に二度は来てましてね。二度か、三度かな。一階の、受付の前の緑の椅子、あれが去年から一脚減ってる」 神門は上着の裾を引いて、封筒を持ち直した。二通のうち下の一通の角が折れていて、折れた角を親指でこすってから、二通の順番を入れ替えた。厚いほうが上になった。封筒の窓のセロファンが湿気を吸って波打ち、その下の宛名の文字が一部だけ膨らんでいる。波は戻らない。 「これね、二通あるんですけど、片方だけ判が要るんです。片方は要らない。要らないほうが厚いんですよ。おかしいでしょう。厚いほうは置いてくるだけでいい。判の要るほうは薄くてね、これがまた、先方が三時からでね。まあ、待つでしょう。待ちますよ。待たないってことはないでしょう」 牧原が尻のポケットから携帯を出した。画面が明るくなり、上の隅に圏外の表示が出ている。棒は立っていない。指で一度だけ下から上へ払い、数字が二時五十九分から変わらないうちに明るさが落ちた。ポケットに戻す前に、その手を腿で二度拭いた。ポロシャツの襟は首の後ろで内側に折れ込み、首筋を汗が一本、折れ目まで下りて止まっている。襟は戻らない。外していないほうのイヤホンから細い音が漏れていた。拍の頭だけが規則正しく届き、あいだの音は届かない。靴の爪先が保冷バッグの角に当たり、当たったところで止まって、押さなかった。 奥平の肩が上下する間隔は、はじめの三度と、そのあとの三度で違っている。肩は止まらない。手すりの金属は握られた部分だけが人の温度になっていて、手を五センチ滑らせると、その先で冷たさが戻った。上着の内ポケットの上端からは名刺入れの角が出て、神門が裾を直すたびに沈み、また出てくる。床の目地に落ちた水の粒は数が増え、二つが端で繋がりはじめていた。繋がった。 上のほうで金属が一度鳴った。鳴った場所は扉の上枠より高く、天井の板を通ってきた音の尾が途中で切れて、あとに続くものがなかった。それきりになった。 「今の、聞こえましたか。いや、上ですね。上で何か。そうでもないか。この建物、四階と五階のあいだってのは、機械室が近いんですよ。近いと音が回る。回ると、上から来たんだか下から来たんだか分からなくなる。ねえ」 誰も答えなかった。神門はもう一度ハンカチを出し、今度は広げてから首の後ろへ回して、襟の内側を拭いた。白い布に生え際の色が薄くついた。湿っている。畳み直す手が途中で止まり、そのまま握って、また開いた。 「暑いですね。これはね、私の勘ですけどね、あと十分」 第六章 午後三時 背面の鏡の下、ステンレスの化粧板に水の粒が並んでいる。壁の継ぎ目に沿って横へ連なり、下へ行くほど粒が大きく、いちばん下の一列だけはもう細い筋になって床の際まで垂れていた。粒と粒のあいだには、まだ何もついていない乾いた面が残っている。 神門の声は途切れていない。 「──だからね、ああいうのはたいてい基盤なんですよ。モーターじゃない。モーターが焼けるときは音がしますし、焦げた匂いもしますから。しなかったでしょう、さっき。何も」 奥平は右の壁に手のひらをつけたまま、体重を左の足に寄せている。カーディガンの袖は手首まで下りていて、袖口の内側が濃い色に変わっていた。トートバッグは肘にかけたままで、床には下ろしていない。口の開いたところから、ラベルの剥がれかけた五百ミリリットルの水と、二つ折りにした紙の束が覗いている。水は半分ほど残っていて、表面に水滴はついていない。息を吸う音は聞こえない。吐くときだけ、鼻から長く出る。壁から手を離すと、化粧板に手のひらの跡が白く残り、五つ数えるほどの間に消えた。 「五階でしたよね、押してたの」 「はい」 「うちも昔ね、五階でしたよ。まあ、ぜんぜん別のビルですけど。虎ノ門のほう。あそこも古くてね、六十三年か、四年か、そのくらいに建ったやつでね、ここと同じくらいですよ、たぶん」 奥平は顎を引いた。それだけで、口は動かない。 「そういうビルってね、外はきれいにするんですよ。中はやらない。中はお金が出ないから」 床のタイルは一辺が三十センチほどで、どの列も四枚並んだところで端まで届かず、壁ぎわの一列だけが半分の幅に切ってある。目地は白く、交点のいくつかが黒い。神門の革靴は踵の右の外側だけが減っていて、その踵から二十センチほど離れたところに車椅子の前輪がある。タイヤの溝は横向きの筋が等間隔に並んだ形で、溝の底に細かい砂が残っていた。左の壁の手すりの下、床から十センチほどの高さに、同じ方向へ走る擦り傷が三本ある。牧原の靴は白かった部分が灰色になっていて、紐の先のプラスチックが片方だけ取れている。四人の足はそれぞれ壁に近い側へ寄っていて、かごの真ん中に、人ひとりぶんには足りない広さが空いていた。 扉の合わせ目には五ミリほどの隙間があり、その奥に縦の暗い線が通っている。隙間から風は来ない。左の壁の手すりは丸い金属で、握りやすい高さの一箇所だけ表面の梨地が落ちて光っている。背面の手すりには、右の端から三十センチのあたりに、指を横に引いた跡が二本残っていた。 牧原が尻のポケットから携帯を出した。画面の上に15:01と出て、その左の電波の印には斜めの線がかかっている。三秒ほどで画面を伏せ、また同じポケットへ戻した。 鏡は床から一メートル十センチの高さから上に張ってあり、その下端の隅から曇りが出はじめる。はじめに右の角へ親指ほどの白い場所ができ、それが横へ伸び、少し遅れて左の角にも同じものが現れた。曇りの縁ははっきりしない。鏡のなかには神門の後頭部と、奥平の肩から上と、牧原の額から上が入っている。葉山の頭は下端の線にかかっていて、髪の生え際から上だけが映っていた。曇りはその生え際のあたりから先に広がっていく。保冷バッグも、トートバッグも、車椅子の車輪も、鏡には入らない。 「曇ってきましたね、鏡。ほらもう、下のほう」 神門が鏡のほうへ半分だけ体を向け、それからすぐ戻した。天井を見上げて、右の手を上げる。 「ここね、開くんですよ。四角いの、あるでしょう。あそこから上に出られる。まあ我々は出ませんけどね。出ちゃいけないの。危ないから。あれは向こうが開けるやつだから」 天井の板の一枚は、周りより線が太く四角く切ってあり、四隅に十字の頭の螺子が入っている。右下の一本だけ溝に塗料が入って埋まっていた。板は動かない。 操作盤の階数のボタンは、三と五と七と八の四つが点いている。八の数字だけ、押されたところの塗装が薄くなっていた。 「八、きみだよね」 「はい」 「きみ、それ、中身は」 神門が保冷バッグのほうへ顎を向けた。牧原は外していないほうの耳に指をやって、それから外した。掌のなかのそれには線がついていない。 「アイスです」 「アイス」 「六個」 「六個か。まいったね、それは」 「もう、たぶん」 「弁償とかね、ああいうの、店が持つの。それともきみが」 「え」 「いや、いいんですよ。いいの、答えなくて」 牧原はそこで言うのをやめた。 保冷バッグは黒い四角で、背負い紐の付け根に当て布が縫ってある。縫い目は二重で、右の付け根だけ糸が一本浮いていた。上面のファスナーは端から三センチほど開いていて、そこに中の銀色が覗いている。外側の布には細かい水の粒が広く散っていて、床と接している底の縁のまわりに、幅一センチほどの濡れた輪ができていた。輪の外側はまだ乾いている。牧原の靴の爪先はその輪から二センチ離れたところで止まっていて、動かない。 かごのなかには金属と整髪料とゴムの匂いがあって、甘いものの匂いはまだ来ない。 操作盤の上の壁に、二枚の紙が並べて貼ってある。左は定員と積載量で、十一人、七百五十キログラムと印刷されている。右は定期検査報告済票で、検査の年月日の欄に六月十二日と入り、その下に東和昇降機の名前と、市外局番から始まる十桁の番号が刷ってあった。数字の上半分が日に焼けて薄い。 「東和さんね。ここ、東和さんなんだ」 神門が紙へ顔を近づけて、そのまま二度、上から下へ目を動かした。 「番号、ちゃんと書いてありますよ。書いてあるんだよねえ、こういうところは、必ず」 答える者はいない。神門はズボンの右のポケットからハンカチを出し、額から生え際にかけて押さえた。折り目は四つのままで、広げていない。押さえてから畳み直し、同じポケットへ入れる。脇に挟んだ二通の封筒は、角が丸くなって毛羽立っていた。上の一通の宛名のあたりだけ、紙が波を打っている。同じ腕に折り畳み傘が下がっていて、袋の口を留めるマジックテープは留まったままで、生地は乾いている。 「二時半でね、約束が。三階じゃなくて、七階のほう。まあ向こうも、こっちが来ないなと思ってるだけでしょうけどね。電話が入らないから。入らないんですよ、ここ。さっきから見てるんですけど、一本も立たない」 封筒を持ち替え、下の一通を上にした。 「まあ、こういうのはね、しょうがないんです。誰が悪いって話じゃないから。誰も悪くないんですよ、こういうのは」 葉山の右手はジョイスティックの上に置かれていない。手すりのほうへも伸びていない。膝の上で組まれて、親指の腹が反対の手の甲を、決まった間をおいて押している。操作部の脇に緑の表示灯が三つ並び、点いているのは左の一つだけで、その一つも点きっぱなしではなく、ときどきふっと弱くなる。フットレストの上で靴の爪先が内側を向いている。ズボンの膝には四角い折り目が二本ついていた。背もたれの後ろにナイロンの袋が下がっていて、角の四角い封筒と、細長い筒が一本入っている。神門が話しているあいだ、顔は操作盤の下の壁に向いたまま動かない。口は開かない。 「そちら、暑くないですか。そこ、いちばん風の来ないところだから」 葉山の親指が甲を押す間は変わらない。神門は二拍か三拍ぶんだけ待って、体の向きを戻した。 天井の送風口から音は出ていない。 羽根の陰に埃が細く並んで、こちらも動かない。照明の乳白色の板は四隅だけ色が濃く、その内側で虫の影が二つ、同じ位置に留まっている。かごの外の、頭の上のほうで金属を叩く音が二度した。間があって、もう一度。道路のほうから車の警笛が短く鳴り、その後ろで工事の機械が同じ調子を続けている。壁を通ってくるので、音はどれも低い。扉の向こうの、上へ伸びているどこかで、太いものが軋む音が一度だけした。床は揺れない。鏡の曇りは、そのあいだにも下から二十センチほどまで上がってきていて、いちばん濃いところは向こうが白一色になっている。 奥平が壁から手を離し、離した手をカーディガンの裾で拭いてから、また同じところに戻した。指の位置は前より少し下になっている。もう一方の手はトートバッグの持ち手を握り直し、握り直したところで止まった。踵が床から浮いて、また下りる。持ち手が食い込んでいた腕の内側に、赤い筋が二本ついている。息を吐く時間が、さっきより長い。吐ききってから吸うまでのあいだに、肩が一度だけ落ちた。壁につけた手のひらの下から、また白い跡が広がっていく。 神門はその手のあたりを一度見て、目を戻した。 「去年もね、あったんですよ、こういうの。さっきも言いましたけどね。あのときは十五分でしたよ、たしか。十五分。あれは楽でしたね」 「上着ね、脱いだほうがいいんだけどね。脱ぐと、置くところがないから。畳んで持つと皺になるしね。まあ、もうちょっとしたら脱ぎます」 神門が首の後ろへ手をやり、襟の内側を指で引いた。シャツの背中は肩甲骨のあたりが濃くなって、上着の下からその形が浮いている。ハンカチをもう一度出したときには、角のひとつが色を変えていた。 「あの」 牧原が壁から背を離した。保冷バッグの上の、開いたファスナーの端に指をかけたまま、そこで止める。 「それ、押したら、さっきの人また出ますか」 「出ますよ。出ると思いますよ、たぶん」 牧原は指を離し、離した手をズボンの腿で拭いてから、また壁のほうへ背を戻した。爪の先が短く切ってあって、右の親指だけ横に長い傷が入っている。 「三十分って、言ってましたからね。さっきの人。三十分ね」 左の袖を上げる。文字盤の針は三時三分をすぎたところにあり、ガラスの内側は曇っていない。秒針は動いている。 「もう一回、押してみますね」 返事を待たずに操作盤のほうへ体を回した。上着の裾が車椅子の肘掛けに触れ、封筒の角がその上を滑った。 第七章 午後三時四分 神門がインターホンの蓋をもう一度開けた。蓋は薄い金属の板で、蝶番のところに白い粉が吹いている。押しボタンの縁は塗装が剥げ、その下の地金が爪のかたちに光っていた。誰も動かない。ボタンから指を離したあとも神門は顔を金網に近づけたままで、呼び出しの信号は金網の奥から出て、幅一メートル四十センチの壁と壁のあいだを往復し、四人の背中の後ろにある鏡に当たって戻ってきた。ボタンの上の小さな銘板には、定員十一名、積載七百五十キログラムと打ち出してあり、数字の溝に埃が詰まって白くなっている。 十一回鳴った。 「はい、東和昇降機でございます」 金網から出てきたのは男の声で、語尾を伸ばさない喋り方をした。 「あの、さっきの方は」 「代わりました。ビル名をお願いできますか」 「新橋MSビルです。港区新橋四丁目の、九階建ての」 「少々お待ちください」 保留の音は鳴らず、金網の奥で紙をめくる音と、椅子の脚が床をこする音と、遠くで別の電話が鳴りつづける音が重なって続いた。神門はそのあいだ、左手のA4の封筒二通を胸の高さに持ち上げたまま動かさなかった。誰も喋らない。封筒の口を留めた赤い糸が二通とも同じ向きにほどけていて、上の一通は角が斜めに折れ、折れ目のところだけ色が濃くなっている。二十秒ほどして金網の奥の音が全部消え、それからまた戻ってきた。 「お待たせしました。四階と五階のあいだで停止、でお間違いございませんか」 「ええ。二時四十四分に一度こちらから話しまして、三十分ほどで、と伺ったんですが」 「係の者が現場に向かっております」 「もう二十分以上経ってるんですよ」 「もう少しお時間をいただきます」 「あとどのくらいでしょうか」 「もう少しお時間をいただきます」 同じ言葉が同じ速さで二度、金網の丸い穴から出てきて、神門は顔を金網から五センチ離し、それからまた近づけた。 「あの、中に、車椅子の方がいらっしゃるんですが」 葉山の手は操作レバーの上に置かれたまま、指も手首も動かなかった。 「お怪我をされた方はいらっしゃいませんか」 「怪我はないです。ただ暑くて。空調が止まってるんですよ、さっきから」 「かご内には換気口がございますので、そのままお待ちください。扉を無理にお開けになりませんよう、お願いいたします」 「開けませんよ、そんなもの。開けられるわけがないでしょう、こっちは手ぶらなんだから」 「ご協力ありがとうございます」 「あの、もう一つだけよろしいですか」 金網の奥は何も返さなかった。神門はもう一度ボタンを押し、押してすぐに指を離した。 蓋が閉じた。閉じるときの音は、開けたときの三倍ほどの大きさで壁に当たり、壁から背面の鏡へ渡って、四人の足元まで下りた。 四人はほぼ同じ場所に立っている。神門は扉の右、操作盤の前に立ち、奥平はその斜め後ろで左の手すりに寄っていた。牧原は背面の鏡を背にして、保冷バッグを挟んだ向こう側にいる。葉山の車椅子が左の壁沿いを占めていて、残った床は大人が二歩で横切れるだけしかない。誰かが体の向きを変えるたび、別の誰かの肘が動いて、動いた分だけまた元に戻る。かごの中の匂いは三種類ある。汗と、扉の下の隙間から上がってくる油と埃の匂いと、保冷バッグのあたりから出ている甘い匂いで、甘いほうは蓋が閉じてからのあいだに濃くなった。窓はない。 背面の鏡は床から一メートル十センチのところで始まって、天井の手前まで続いている。その鏡が、上のほうから白く濁ってきていた。濁りの下の縁はゆっくり下りてきて、四人の頭のあたりを横切り、肩の高さで止まっている。鏡に残っているのは四つの胴体と、六本の腕と、車椅子の背もたれの上に出た葉山の頭のてっぺんだけになった。顔はない。壁は手のひらを当てると濡れる。天井の照明の四角いカバーの内側に細かい水滴が点々と付き、その一つが下の縁まで走って落ちた。床のタイルは五十センチ角で、目地が十字に交わるところに黒いものが溜まっている。牧原の保冷バッグを置いた場所のまわりだけタイルの色が濃くなり、その濃い輪郭が少しずつ外へ広がっていた。シャフトのどこか下のほうで金属がひとつ鳴って、それきりになった。天井の四隅にある換気の穴の下に紙を近づけても、紙は動かない。 奥平は左の手すりに手をかけていた。手すりは背面と左面にあって、左面のものは奥平の腰の高さで水平に走っている。指は金属を握るのではなく、上から押さえるかたちで乗っていた。体重は右の足にかかり、左の踵が二センチほど浮いている。カーディガンの袖を二度めくり上げ、二度とも肘の手前でやめた。息を吸うときの音は聞こえず、吐くときだけが長く聞こえる。吐き終わるまでのあいだに、手すりを押さえた指の関節の色が白から元に戻る。膝が一度、五センチほど折れた。折れたところで手すりを押さえた腕に力が入り、膝はまた伸びた。トートバッグの持ち手が肩から滑って肘に掛かり、そのまま直されなかった。バッグの口は開いたままで、中に折り畳んだエコバッグと、細長い紙の箱と、鍵の束が見えている。箱は開いていない。鍵の束には五階と書いた紙の札が輪ゴムで留めてあった。 バッグの口から携帯電話を出して、画面を点けた。右上の電波の表示には棒が一本も立っておらず、その二段下にある数字だけが三時五分になっている。画面が消えた。 「もう五分ですか」 神門は右の壁のほうへ半歩寄った。透明な板に挟まれた紙が二枚、目の高さより少し上に貼ってあり、上の一枚は運行の管理者の名前と電話番号で、下の一枚に点検の日付の欄がある。板は曇っている。 「点検、五月の十九日って書いてありますよ。二か月ちょっとしか経ってない。ちゃんとやってるんですよ、これでも。やってても止まるときは止まる」 「そうですか」 「そうなんです。むしろね、点検してるから今こうやって、こっちの声が向こうに届いてるわけで」 奥平は携帯を持った手をバッグの口に入れて、そのまま出さなかった。 牧原の左の耳にはイヤホンが入ったままで、右のイヤホンは襟の脇にぶら下がっている。ぶら下がったほうから、一定の間隔で細い音が漏れていた。速さは変わらない。曲が変わるところで二秒ほど何も鳴らない時間があり、それからまた同じ速さで始まる。靴の先が床の目地を横になぞって、突き当たって戻った。同じ動きが四度あって、四度目だけ途中で止まった。保冷バッグは背負い紐を上にして床に寝かせてあり、四つの角のうち二つが擦れて白くなっている。ファスナーの引き手には黒いゴムの輪が通してあり、輪の一部が伸びて平たくなっていた。バッグの側面の縫い目は二本で走っていて、内側の一本の糸が三センチほど抜けている。上面に伝票を挟むビニールのポケットが縫い付けてあり、そこに折った紙が半分だけ入っていた。字は読めない。 「君、ちょっと」 牧原は左のイヤホンを外し、神門のほうを向いた。 「いや、その荷物、中はまだ冷えてるの」 外したイヤホンが耳に戻った。神門は同じことをもう一度言わなかった。 葉山の車椅子は左の壁に寄せてあり、前輪のタイヤが壁から三センチのところで止まっている。肘掛けの先に操作レバーがあって、その手前の小さな窓に緑の目盛りが並んでいた。枠は三つ分あり、点いているのは左の一つだけだった。窓の下の丸いつまみは、赤い点のついた側を上に向けている。タイヤの溝には細かい砂が挟まり、溝の一本に赤い紙の切れ端が噛んでいる。フットレストの左側のゴムが半分めくれて、その下の金属が擦れて光っていた。レバーの頭を包んだ右手は、親指だけがゴムの表面を二度なぞって、そこで止まった。左手は膝の上に伏せたままで、指の関節に日に焼けていない線が一本ずつ入っている。動かない。半袖のシャツの襟の内側が濡れていた。前輪の脇に汗が二滴落ち、床のタイルの上で丸いまま残った。落ちた場所は、さっきタイヤが乗っていた線の内側だった。 「このビル、八八年ですからね。八八年の建物っていうのは、まあ、そういうものですよ。私の知ってるところだと去年も、九段のほうで、やっぱり同じことがありましてね。あのときは四十分でした。四十分ですよ。それに比べたら今日なんて、まだ」 返事はなかった。神門は銘板の数字を指の腹で二度こすった。 「十一人乗りって書いてあるでしょう。十一人ですよ。四人でこれなのに、十一人でどうやって立つのか、私はね、一度も見たことがない」 「そうですね」 「ないんですよ。書いてあるだけで」 三時七分、神門が上着の前を開いた。右手に持っていた封筒二通を左の脇に挟み、右腕を袖から抜いた。抜くときに封筒の一通が脇から滑り、膝の外側に当たってから、もう一度腕で押さえられた。左腕を抜くには封筒を持ち替えなければならず、神門は封筒を口のほうへ上げて顎で挟もうとし、やめた。折り畳み傘が右のポケットから半分出ている。上着を右手に持ったまま体を半分ひねると、靴の踵が車椅子のフットレストに当たって、金属の音がした。あ、失礼、と神門が言った。葉山は動かなかった。上着の背中は襟の下から腰まで色が変わっていて、持ち上げると布が自分の重さで縦に伸びた。神門はそれを左の手すりに掛け、掛けてから袖の先が床に触れているのを確かめて、掛け直した。掛け直したあとで内側に手を入れ、名刺入れを取り出してズボンの後ろのポケットに移した。ワイシャツの背中も、肩甲骨の下のあたりが二か所、濃くなっている。 ハンカチをポケットから出して首の後ろを拭き、そのハンカチは四つに畳んであって、広げると真ん中に濃い部分がある。首はまた濡れた。同じところをもう一度拭いてから畳み直し、ズボンの右のポケットに入れた。 奥平がもう一度、膝を折った。今度は手すりを押さえた手が、押さえたまま数センチ下へ滑った。滑ったところで止まり、腕がまた伸びて、体が元の高さに戻った。カーディガンの前を留めていた一番上のボタンだけが外された。 牧原が首を回して、左の手すりの下の、何も置かれていない床を見た。 「今、何時ですか」 奥平が携帯の画面をもう一度点けた。 「三時八分です」 「三時八分」 神門はそれを繰り返し、手すりに掛けた上着の袖の先を指でつまんで、まっすぐに引いた。 第八章 午後三時八分 神門の声は途切れずに続いていた。上着は左の腕にかけられ、裏地が肘のところで折れて、袖口のボタンが手すりの支柱に触れるたびに硬い音を鳴らす。汗が出ている。ワイシャツの脇には色の濃い部分が広がり、背中の中ほどにも同じものがあり、右の脇に挟んだA4の封筒は二通とも角が湿気を吸って反り返って、上の一通は宛名の印字の上に細い筋が浮いていた。 「三時の約束は、これでもう駄目になりました。先方は先方で、来ないと分かれば次の予定を入れるでしょう。それはそれでかまわないんです。ただ、電話が一本も入らないというのがいちばん困る。連絡さえつけば、たいていのことは大ごとにならないものですから」 誰も返事をしなかった。 牧原が膝を曲げた。左の肩を壁の板に預けたまま、かかとを手前へ引き、背中で板をこすりながら腰を落として、床に尻をつけた。板と背中のあいだで、乾いた紙をゆっくり裂くのに似た音が一度だけ鳴った。ズボンの裾が上がる。くるぶしの上に日焼けの境目が出て、スニーカーは両方とも踵の内側が踏み潰されていて、右の靴紐だけが二重に結んである。保冷バッグは床に置かれてから十五分が過ぎていて、四角い底の左の角に、生地の色が濃くなった部分が指の腹ほどの大きさで広がっている。肩ベルトの付け根の縫い目は二か所ほつれ、ファスナーの引き手には黒いビニールテープが巻いてある。牧原は膝を立て、その上に両腕をのせ、右の手首を左の手で握った。爪は短い。右の親指の付け根にばんそうこうが横向きに貼ってあり、首から垂れたイヤホンの片方からは、拍だけの音が細く漏れている。座ると頭の上半分だけが鏡に入り、髪の生えぎわのあたりで像が切れた。 神門が半歩、扉のほうへ寄った。 床の空きが牧原の膝の分だけ減り、四人の靴の先が三十センチ角のタイル二枚のなかへ集まった。鏡の下半分は曇っている。そこに映っているのは腰から下の四つの影で、輪郭の境が溶けて一つに続き、曇りのない上のほうには神門の頭と肩だけが残った。 神門の話が一度止まり、また同じ調子で続いた。 奥平が壁から手のひらを離した。板には手の形が濡れて残り、外側の縁から細くなって、十秒ほどで指の跡だけになる。顔を牧原のほうへ向けた。それから床のタイルの目地に目を落とし、トートバッグの持ち手を握り直して、もう一方の手を背面の手すりにかける。 「あの、よかったらこれ、敷いてください」 神門が上着を腕から外し、両手で持った。 「いえ、けっこうです」 「洗えば済むものですから」 「けっこうです。ありがとうございます」 奥平はトートバッグを先に床へ置いた。手すりを握った腕にいったん体重を移し、左の足のほうへ重心を寄せてから、膝をそろえて横向きに、ゆっくりと降り、降りきるまでに手すりから手は離れず、指の関節が白くなって、床についたところで色が戻った。事務服のスカートの裾を膝の下に押さえ、かかとを合わせ、カーディガンの前を引き寄せる。カーディガンは薄い水色で、右の袖口が内側へ折れたままになっている。息を長く吐いた。吐き終わるまでに四秒かかった。それから同じ息をもう一度吐いた。背中は壁につけず、五センチほど離したところで止めている。 神門は上着を持ったまま立っていた。しばらくして畳み直し、また左の腕にかける。折り畳み傘が上着の下から滑った。柄の先が床に当たり、二度はねてから車椅子の前輪の手前で止まり、神門が腰を折って拾い、握りのところをワイシャツの腹で拭いてから、上着の内側へ深く差し込んだ。ハンカチがズボンの右のポケットから出て、額の生えぎわから顎の下まで二度往復する。今度は畳まれずに、握ったまま拳の中へ収まった。革靴の踵は外側が斜めに減っていて、体重が移るたび、減った側の縁だけがタイルに当たる。 「これはね、朝の予報が四十パーセントだったから持ってきたんです。四十だと私は持って出ます。三十なら置いていく。それで持って出た日にかぎって降らない。降る日は、たいてい五十から上を出しているのに、そういう日は鞄が別のもので埋まっていて入らないんですよ」 上着の内側で傘の柄が動き、生地の下に細長い形が浮いた。神門が上着を持ち直し、封筒を脇に挟み直す。 かごの内側は幅一メートル四十センチ、奥行き一メートル三十五センチある。二人が床に座り、一人が立ち、車椅子の前輪から扉までは大人の靴で二足ぶんほどしか空いていない。鏡は床から一メートル十センチのところから上に張られていて、その下の縁から白い曇りが上へ広がり、いまは鏡の高さの半分あたりまで来ている。曇っていない上のほうには天井の照明が映り、乳白色の四角いカバーの中に、虫の影が二つ入っている。影は動かない。壁の板は触れられたところだけ色が変わり、そのまま乾かない。天井の吹き出し口の羽根は止まったままで、その下に垂れた奥平の髪の先も動かなかった。扉の上には十一人、七百五十キロと打った金属の板があり、その下に東和昇降機の電話番号が三行で貼ってある。数字の四つ目が擦れて、白い下地が出ていた。床は三十センチ角のタイルで、目地に黒い線が入り、扉に近い二枚は角が欠けていて、欠けたところの脇に丸い跡があって、灰色に固まっている。操作盤の階数ボタンは地下一階から九階まで縦に二列で並び、数字の白い印字は上へ行くほど擦れて細くなっている。開くほうのボタンは三角の印字が半分消え、閉じるほうは残っている。ボタンの左に貼られた点字の板は、角が一か所だけ浮いていた。インターホンのボタンの周りだけ、金属の地が押した指の形に磨り減って光り、その下に差してある点検済の札は、社名と担当者の欄が黒く印字され、日付の月のところで文字がかすれている。読めない。汗と、柔軟剤と、それから甘いものの匂いがした。 「二人目の人、声が若かったでしょう」 神門が扉のほうを向いたまま言った。 「最初の人と、まるきり別の人でね。ああいうのは交代の時間なんでしょう。三時までの人と、三時からの人と。うちの会社もそうです。電話番だけは切らさないようにする。切らすと、あとで何を言われるか分からないから。このビル、昭和六十三年ですよ。さっきも言いましたけどね。私は三年前からこちらに出入りしていて、一階の看板が三度替わったのを見ています。喫茶店が入って、次が保険の代理店で、いまは何も入っていない。空調が止まるのがいちばん堪えます。止まってから、もう三十分近くになる。動いているあいだは誰も気にしないんだ。動かなくなってはじめて、あれがどれだけ回っていたか分かる」 奥平が膝の上でトートバッグの口を開けた。中に折り畳んだエコバッグと、蓋の開いていないペットボトルの水と、口を紐で締めた紺のポーチが入っている。ポーチをよけて携帯を取り出すと、画面に三時十分と出て、電波の欄には棒が一本も立たず、指が画面を二度こすってから、伏せてバッグに戻した。口を閉め、持ち手をそろえ、両手をその上に置く。膝が動いた。向きが車椅子の側から扉の側へ、少しだけ変わった。 「五階、今日は午後の予約が四件しか入っていないんです」 「そうですか」 「はい」 「四件ですか」 神門はそれ以上聞かなかった。牧原が右の手首を握り直す。保冷バッグの底の角の濃い部分は、さっきより一センチほど外へ広がっていた。 「傘、私も入れてきました」 奥平がトートバッグの持ち手のあいだへ指を入れて言った。 「そうですか」 「朝の、四十の」 神門は上着の位置を直しただけで、そのことについては何も言わなかった。水が落ちた。壁の板を上から下へ、筋が一本だけ、途中で二度止まりながら降りていく。 外の音が二つした。シャフトのどこかで水が短く流れて止まり、それから道路のほうで救急車が鳴りながら遠ざかっていって、サイレンが聞こえなくなるまでのあいだ、神門は口を開けたまま待ってから、続きを言った。 「学校は、もう休みに入ったんですか」 牧原は膝の上の腕を組み替えた。イヤホンの音は変わらない。 「そのバッグ、冷えるやつでしょう。中身は保つんですか。いや、保たないでしょうね」 返事はない。イヤホンの音が一度切れた。二拍おいて別の拍で戻り、牧原は膝を抱えた腕をゆるめ、シャツの襟の内側で首の後ろを一度こする。鏡の曇りの上の縁は、さきほどの位置から指一本ぶん上へ動いていた。 葉山の右手が肘掛けの内側へ動いた。肘掛けの張り革は角が擦れて下地の布が出ていて、そこだけ色が薄い。前輪は太く、溝の底に道路の砂が白く詰まり、右のタイヤのほうにだけ、三ミリほどの石が縦に挟まっている。足置きの縁は塗装が剥げ、剥げた縁から錆が二筋、下へ伸びていた。指先がコントローラの縁をなぞり、親指がスイッチの上で止まる。残量の表示は三つの目盛りのうち左の一つだけが点いていて、隣の二つは枠だけが黒く残っている。親指が押し込まれた。目盛りが消え、ジョイスティックの根元の緑の点も消え、それまで足もとで鳴っていた細い高音が途切れ、床へ伝わっていた震えが抜ける。止まった。前輪のタイヤの溝には小さな石が挟まったままで、位置は変わっていない。葉山は両手を膝の上で重ね、靴底の外側についた乾いた土を扉のほうへ向けている。神門は喋っていた。牧原は音を漏らしたまま床を見ていた。奥平は目地の黒い線に指を沿わせ、扉の側の一本をなぞってから、手を膝へ戻した。誰も車椅子のほうを向かなかった。 神門のハンカチがまた出た。今度は首の後ろへ回り、襟の内側を一往復してから、握ったままの拳に戻り、ワイシャツの背中の濃い部分は肩甲骨の下まで届いていた。 「あと五分か、十分でしょう。二人目の人は、はっきりした時間を言わなかった。言わないというのは、つまり、もう上に人が着いていて、それで」 第九章 午後三時十二分 鏡は高さ一・一メートルの縁から上だけが白く曇っていて、その白の下の端に水の粒がいくつも並び、粒はときどき重さに負けて縁の下のステンレスの面へ落ちた。落ちた筋は途中から細くなり、床に届く前に止まって、そこで動かなくなる。乾かない。床は灰色の樹脂のタイルで、目地が五十センチの正方形に切ってある。その目地の一本の上に牧原の右の踵が乗っていた。踵は動かない。背中を左の壁の手すりにあずけ、膝を立てて、腕を膝の上でゆるく組んでいる。片方のイヤホンは耳に入ったままで、白いコードは首の後ろを回り、外れたほうの耳栓がシャツの裾のあたりで床に寝ている。音は漏れていない。四角い保冷バッグは牧原の左、扉のほうへ角を向けて置かれ、背負うためのベルトが二本、床に伸びたままになっている。バッグの側面には印刷された文字の上から灰色のテープが貼られ、テープの端が湿気で浮いて、下の赤い線が二センチほど覗いていた。扉の下の隙間は指が二本入るだけ開いていて、その奥は塗装のされていない灰色の壁で、隙間からは光も風も来ていない。扉は閉じている。 奥平は牧原の斜め向かい、扉の右の隅に座っている。 膝を胸のほうへ寄せ、トートバッグを腿の上に置いて、両手をその上で重ねている。カーディガンは脱いで畳み、床とのあいだに敷いてある。事務服の襟は片側だけ内へ折れ、胸の名札の留め具が布を引いて、そこに小さな山ができていた。左の胸のポケットにボールペンが二本、片方はノックの部分が欠けていた。二本とも黒い。息を吸う音は聞こえないが、吐くときだけ細く長い音が出て、その音が終わるまでに五秒ほどかかった。肩は上がらない。吐き終えると腿の内側へ手を移し、少しのあいだそこに置いて、また手をバッグの上へ戻す。二度目だ。トートバッグの口は開いていて、中に折り畳んだ紙の袋と、丸い缶と、鍵の束が見えた。 神門は扉の左の隅に立っていた。上着は左の前腕にかけ、A4の封筒を二通、上着の上に重ねて押さえている。封筒の口を留めていた糊が湿気で緩み、上の一通は蓋が半分めくれて反り返っている。靴は揃っている。 「この壁のやつね、去年の九月に検査を受けてます」 指が扉の枠の上、壁に貼られた紙の一枚を指した。 紙は三枚が縦に並ぶ。いちばん上が定員十一名と七百五十キログラムを刻んだ金属の板で、その下に薄い緑の枠の紙、いちばん下に東和昇降機の名前と電話番号の入った白いシールが貼ってある。薄い緑の紙は横に六つの枠が並び、いちばん左に二〇二五年九月十二日と印字され、右の二つは空欄のまま、下の余白の数字が横線で消してある。シールの角は三箇所とも剥がれて丸まり、電話番号の下の桁が二つ、擦れて薄くなっている。読めない。操作盤は一から九までと地下一階の丸いボタンが二列に並び、四のボタンだけ数字の白が減って、地の金属が出ていた。三と五の二つは縁の内側が薄い橙に光り、停まってからその二つだけが光ったままになっている。いちばん下の黄色いボタンには受話器の絵があり、絵の縁の塗りが円く欠けていた。光っていない。 「二〇二五年九月十二日、定期検査報告済証。一年に一回やるんです。積載七百五十キロ、十一人乗り。四人ですから、重さの話じゃない。基板ですよ。基板が一枚どうかしただけ。私の勘ですけどね」 誰も返さなかった。神門は封筒の位置を直し、上着ごと右の腕へ持ち替えた。ワイシャツの背中は肩甲骨のあいだから腰まで色が変わり、生地が肌に貼りついて、下の肌着の縫い目の線が浮いている。 「このビル、昭和六十三年です。私が今の会社に入った年だ。あのころの箱はもっと揺れましたよ。止まるときもがくんと来た。今のはきれいに止まる。きれいに止まって、それから動かない」 「立ってるほうが楽なんです、私は。座ると膝がね、伸びなくなるから。遠慮してるわけじゃないですよ」 牧原の顔は上がらなかった。奥平はトートバッグの持ち手を一度握り直し、指を持ち手から離して、また同じところを握った。 「扉はね、開けないほうがいい。押せば少し動くんです。動くから、みんな開けようとする。ここは床が合ってませんからね、開いたところで下は壁ですよ。無理をすると、こっちが動いた分だけ箱も動く。動かないほうがいいんです、いまは」 「三十度は超えてるでしょう、これ。人の熱でね、箱の中はすぐ上がる。四人でこれだから、朝の混んでるときだったら大変だ」 「来たらね、上の階の扉を先に開けるんです。それから機械室で手で巻く。ゆっくり巻いて、階の高さに合わせる。合わせてから開けるんですよ。だから、いま音がしないのは、まだ誰も上に着いてないってことだ」 神門は首の後ろを手のひらで一度こすってから、ズボンの右のポケットからハンカチを出した。角は乾いている。畳んだままの角で額を押さえ、こめかみから顎へおろし、そのまま握って手を下げた。 「三十分って言ったんだ、最初の人は。三十分って。次に出た人はそれを言わなかったな。名前も言わなかった」 「二時半に着く約束でね。先方はもう待ってないでしょう。それはいい。遅れるとひとこと入れられないのが困るんです。ひとこと入っていれば、向こうも午後の順番を動かせる。こっちが黙って消えたことになるのが、いちばんまずいんだ」 「この中身はね、判子をもらうだけなんですよ。判子ひとつ。急ぐ話じゃないんだ。今日じゃないと先方が動かないというだけで、明日でも来月でも、紙は同じ紙です」 「同じ話を二度してますね、私は。かまわないでしょう。ほかにすることがない」 顎が牧原の左の床のほうへ向いた。 「それ、保冷剤は入ってるの」 牧原の指が膝の上でわずかに動いて、また止まった。イヤホンの入っているほうの耳は扉に向いたままで、顔は動かない。何も言わない。神門は返事を待つ形のまま四秒ほど顎を上げていて、それから顎を戻し、上着の下で封筒の角をそろえた。奥平は額を上げず、立てた膝の位置を三センチだけ手前へ寄せた。 「あと五分か、十分でしょう」 「まあ、いいや」 神門はもう一度何か言おうとして口を開け、そのまま閉じた。音は出なかった。ハンカチを畳み直し、皺を伸ばしてから、ズボンのポケットではなく上着の内側へ押し込んだ。腕時計の文字盤を袖口で拭いて、数字を見て、袖を戻した。それから壁の紙のほうへ顔を戻し、そこに書かれている行を上から下まで目で追った。 壁のどこか向こうで、水が管を流れる音が短く鳴って、途切れた。 葉山の車椅子は、かごの奥、鏡の下の手すりの前で止まっている。右の肘掛けの先についた操作桿は前へも横へも倒れていない。その根元の四角い窓に、細い緑の線が三つのうち一つだけ灯っていたが、今はその窓が肘掛けと同じ黒さになっていて、光っている点はどこにもない。前の車輪は溝の深いタイヤで、右のタイヤの溝には灰色の砂利が一粒挟まっている。足のせ板の上で靴の先が内側を向き、踵が板の縁から一センチほど出ている。操作桿の握りはゴムが黒く光り、親指の当たる面だけ艶が落ちて白くなっている。背もたれの裏には黒い袋が掛かり、口から折り畳んだ雨具の袖が垂れていた。膝の上には透明のファイルが一枚あり、中の紙は表が横書きの表で、数字の列が下まで埋まっていた。余白は無い。ファイルの角は膝の骨に押されて反っている。葉山は手のひらを腿で二度拭いてから、両手を肘掛けにのせた。指は動かない。窓の消えていることに顔を向けた者はいない。 牧原が体を起こし、床に置いたバッグの上蓋のファスナーに指をかけた。 蓋の表には透明の差し込みがあり、そこに折られた伝票が一枚挟んである。上の行に手書きの数字が並び、いちばん右の欄だけ丸で囲ってあって、その丸の中の数字は15と00で、あいだの点は印刷ではなく同じペンで打たれていた。差し込みのふちには先に付いた水がたまり、伝票の下の角は色が濃くなって、字の一部が滲んで太くなっている。数字は残っている。 ファスナーは角のところで一度引っかかり、二度目で回った。開いた蓋を手前に倒すと、中に白い紙のカップが三つずつ二列に並んでいて、蓋の紙はどれも湿って端が波を打っている。六つある。左の奥の一つは蓋の縁が持ち上がり、下から茶色の液が縁を伝って、隣のカップの外側に細い線を引いている。底には浅く水がたまり、板状の保冷剤は袋の角が丸くふくらんで、中身が下のほうへ寄っていた。牧原は人差し指の腹で手前のカップの蓋の中央を押した。紙は沈んだまま上がってこない。指を離し、蓋を戻し、ファスナーを元まで引いて、バッグの上に手のひらを置いた。手はそこに置かれたままになった。 奥平がトートバッグの中を手探りして、携帯を出した。画面が点いて、三時十四分と出た。上の隅の記号のところには斜めの線が入っていた。画面を伏せて腿の上に置き、両手をその上で重ね、それから膝を少し開いて、立てた膝のあいだへ額をつけた。顔は隠れた。カーディガンの畳んだ角が、動いたぶんだけ床の目地から外へ出た。 かごの中の空気は動いていない。扉の上の送風口の格子には埃が縞に溜まっていて、その縞は一本も崩れていない。壁の化粧板は指で触れば濡れる程度に曇り、天井の四隅から音は出ていない。誰も喋らない。神門のこめかみから顎までもう一度水が伝い、襟の縁に落ちた。上着の内側からハンカチを出して首の後ろに当てたが、布はすでに湿っていて、畳み直して乾いた面を探しても、どの面も同じ重さだった。ハンカチを丸めてポケットへ入れ、上着を左の腕へ持ち替え、片方の足へ体重を移す。靴の踵が床の樹脂を擦って短く鳴った。それきりだ。腕時計のバンドと手首のあいだに汗がたまり、金具のふちに沿って肌が白くふやけ、その外へ出たところは赤い。上着の上の封筒は二通とも紙の縁が波を打ちはじめ、下の一通は宛名の下に押された赤い印が、指で押さえていたところだけ滲んで広がっていた。神門が立っている場所の床には、靴のかたちに沿って濡れた面が残り、その外側は乾いていた。 鏡は縁まで一面が白くなり、床に座っている二人の頭も、立っている神門の肩も、そこには映らなくなった。 牧原が床に寝ていたイヤホンのコードを指先で引き上げ、人差し指に巻きはじめた。 第十章 午後三時十六分 天井の点検口の枠が二度鳴った。金属の縁に金属が当たる音で、二度目のほうが短く、そのあとに、四人の頭よりずっと上で板を踏む足の音が続いた。音は右から左へ移り、途中で止まり、また右へ戻った。何かの束が下ろされ、床に触れる手前で持ち直され、それから男の声が二つ重なった。言葉は聞き取れず、母音の高さだけが違っていた。低いほうが長く喋り、高いほうが二度、短く返した。工具が金属に当たる音が三つ続いて、四つ目からねじが回りはじめ、回る音は同じ間隔で二十ほど続いてから止まった。 神門が顎を上げた。ハンカチを握った拳は腰の高さで止まったまま動かない。 「もしもし。中の方、聞こえますかー」 声は天井のスピーカーからではなく、扉の合わせ目の隙間を通って入ってきて、語尾のところで板に当たってふくらんだ。 「東和昇降機です。いま五階の乗り場に来てます。四名さんでお間違いないですか」 神門は答えなかった。奥平が膝を立て、片手を壁の板について、扉のほうへ顔を向けた。 「四人です」 「お怪我をされてる方は」 「いません」 「これからかごを少しだけ動かします。音がしますが、そのままの姿勢でいてください。立ってる方は手すりを持っといてください」 天井のスピーカーが雑音を出した。雑音は三秒ほど続いてから声になり、上からの声とひと言だけ重なった。 「東和昇降機保守センターでございます。ただいま技術員が現場に到着いたしました。もうしばらくそのままの状態でお待ちいただけますでしょうか。かご内は安全な状態でございます」 「はい」と奥平が言った。 「扉をご自分で開けようとはなさらないでください」 「はい」 神門はインターホンのボタンに指をかけなかった。頭の上で、厚い布ごしに金属の板を叩く音が四つ鳴った。鏡の曇りは下の縁から上へ広がりきって、乾いて残っているのは上端の五センチほどの帯だけで、その帯に照明のカバーの乳白色の四角が映り、中の虫の影は二つとも位置を変えていない。壁の板は人の触れた高さのところが黒く濡れ、背面の手すりの下では水の筋が三本、別々の速さで下りている。神門のワイシャツは肩甲骨の下まで色が変わり、脇に挟んだ封筒の角は湿気を吸って上へ反り返っている。左の腕にかけた上着の裾から、折り畳み傘の柄の先が三センチほど出ていた。床では奥平のトートバッグが持ち手をそろえて置かれ、その横で牧原の保冷バッグの底の左の角に、生地の色の濃い部分が手のひらほどの大きさになっている。葉山の膝の上には黒いファイルケースが載り、ゴムのバンドが二本、縦にかかっている。コントローラの残量表示は三つの枠がどれも黒く、ジョイスティックの根元にも光はない。前輪の溝には三ミリほどの石が縦に挟まったままで、足置きの縁から下へ伸びた錆は二筋のまま増えていない。操作盤では五の数字だけが橙色に点いている。その右下の定期検査報告済証には、二〇二六年三月十九日と印字してある。においは三つあった。汗と、柔軟剤と、甘いもの。神門が左の手首を返した。文字盤は三時十七分を指していた。 「巻くぞ」 「はい、お願いします」 床が足の裏を押した。 奥平が両手を床につき、ペットボトルがトートバッグの口から転がり出て、車椅子の前輪に当たって止まった。牧原は保冷バッグの上の縁を右手で押さえ、左の手のひらを床の目地に置いた。神門は背面の手すりを両手で握り、握ったほうの肩が耳の高さまで上がった。かごは低い唸りを立てながら動き、扉の合わせ目の向こうの灰色のざらついた面を横に走る継ぎ目が隙間の中へ現れて、そのまま止まった。四人の重さが膝と尻へ戻ってきた。車椅子は動かなかった。タイヤは一度も回らず、足置きの下から乾いた土が二粒落ちて、目地の黒い線の上で止まった。唸りが消えたあと、頭の上で何かを二度、強く引く音がした。 「ブレーキ、戻すぞ」 「はい」 「十五センチしか上がらんな。これ以上は手が入らん」 「じゃあここで開けます。中の方、扉を開けますんで、扉には手をかけないでください」 扉が動いた。内側の板がまず二十センチほど左へ寄り、そこで一度つかえて、上から入った手袋の指が板の縁を掴んで押し、残りが一息に開いた。外側の扉も同じだけ遅れて開いた。開いた四角の下半分は灰色のざらついた面と、その上に載った金属の敷居で埋まっていた。敷居の上面はかごの床から一メートル二十センチのところにあって、そこから扉の上枠までの八十センチばかりの帯に、五階の廊下の光が入っていた。廊下の床はリノリウムで、継ぎ目に黒いテープが貼ってある。壁ぎわに消火器が一本と、透明のビニール傘が三本刺さった傘立てと、段ボールが二つ積んであった。廊下の空気が入ってきて、四人の首と額のところで温度が変わった。消毒の薬品のにおいが混じった。帯の中には、作業服の膝から下と、床についた手袋と、屈み込んだ二つの顔が入っている。一人は白い頭で、額から顎まで汗が垂れていた。もう一人は若く、右の手の甲に油の黒い筋が三本ついている。廊下のどこかで電話が鳴り、四回で切れた。 「順番に上がってもらいます。荷物は先に上へ渡してください。無理に足で登らないで、手をこっちに預けてもらえれば引き上げます」 「立てる方から。急がなくていいですから」 「そこの手すり、踏んでも折れませんので」 帯の外で二人が短く言葉を交わした。 「盤だな」 「基板ですね。部品が出るまで動かせないです」 「張り紙、あとで一階と各階に」 神門が上着を両手で持ち、封筒をその上に重ねて、敷居の向こうへ押し出した。折り畳み傘は上着の内側から滑って床へ落ち、拾って、同じところへ置いた。それから左の壁の手すりに右の足をかけ、体重を移した。手すりは靴の幅の半分しかなく、革の底が金属の上で二度滑った。 「足、そこ突っ張ってください。はい、そのまま」 若いほうが両の手首を掴み、白い頭のほうが肘の下へ手を入れた。腹が敷居の縁に乗ったところで神門の喉から息が出て、ワイシャツが腰まで引き上げられ、ベルトの内側の布が捲れた。膝が縁に二度当たり、靴の先が壁をこすって、下から見えていた靴の裏の減った縁が、帯の中へ消えた。廊下で膝をついたまましばらく動かず、上着を膝の上に引き寄せて、封筒の位置を直した。 「次の方。荷物、先にください」 奥平は立ち上がるのに、まず背面の手すりを両手で握って腰を浮かせ、そこで一度止まった。息を長く吐いた。吐き終わるまでに五秒かかった。体重を左の足へ寄せ、右の膝を伸ばしきらないまま、トートバッグを持ち上げて敷居へ載せた。底が金属に当たって鈍い音がした。カーディガンの前を合わせ、袖口の折れた右手を先に上げ、次に左を上げた。若いほうが手首を掴んだ。事務服のスカートの裾を左手で膝に押さえたまま、右手一本で引かれて、上体が帯の中へ入り、膝が敷居の角に当たって、そこで動きが止まった。白い頭が脇の下へ腕を差し入れ、二度目で上がった。廊下に膝をついてから、両手をリノリウムについて、しばらく頭を下げていた。 「立てますか」と若いほうが言った。 「はい」 牧原は座ったまま保冷バッグの肩ベルトを両手で握り、膝を立てて、一息に持ち上げた。床にはバッグの底の四角い跡が濡れて残り、跡の縁から中心へ向かって、細い糸が一本、切れずに垂れて、切れた。バッグを敷居の上へ押し上げると、若いほうが受け取った。 「これ、壁ぎわ置いときますね」 底の濃くなった側を下にして、廊下の壁とビニール傘の傘立てのあいだへ寄せられた。牧原は敷居に両手をかけ、足を壁につかず、腕だけで体を上げた。肘が伸びきったところで腰をひねって、片方の尻を敷居に載せ、そのまま廊下へ回った。スニーカーの踏み潰した踵が金属を擦る音が一度した。首から垂れたイヤホンの片方が敷居の縁に引っかかり、指で外して、ポケットに入れた。 葉山が残った。 若いほうが敷居に手をついて、かごの中へ降りてきた。着地した床が一度沈んで戻った。屈んでコントローラを覗き、手袋を外して、親指でスイッチを押した。表示の三つの枠は黒いままだった。もう一度押して、指を離し、車椅子の後ろへ回ってハンドルを握り、前へ押した。タイヤは回らなかった。 「これ、電源落ちてます。ブレーキが噛んでるんで、押しても動かないです」 「先に体だけ上げよう。椅子はそのあとだ」 葉山が膝の上の黒いファイルケースを肘掛けの外へ出し、そのまま指を離した。ケースは座面の脇から床へ落ち、ゴムのバンドの片方が外れて、中の紙の角が二センチほど出た。誰も拾わなかった。両手を肘掛けの上に置き、腰を前へずらす。足置きから左の足が外れ、床に降りた。若いほうが背中と腰のあいだへ腕を入れ、白い頭が上から両の手首を掴んだ。二人が同時に力を入れ、体が敷居の高さまで上がって、廊下の縁に尻がついた。ズボンの裾が捲れて、靴下の上のふくらはぎに車椅子のフレームの当たっていた跡が二本、赤く残っていた。靴の裏の外側についた乾いた土が、リノリウムの上に落ちた。 「これ、スロープとかは」 「一階からしか入れられないです。この段差だと上がらないですね」 車椅子だけが、かごの中に残った。 神門が敷居に腰かけ、両手で縁を押さえて、靴の先から床へ降りた。降りたところで一度膝が折れ、手すりを掴んで戻した。握っていたハンカチをズボンの右のポケットへ押し込み、押し込んだ端が外に出たまま、車椅子の前へ回った。若いほうがフレームの下の管の位置を指で示した。 「バッテリー、外れますか」 「工具がないと外れないです。座面も外れないタイプですね」 「じゃあこのまま持ち上げます。二人だと厳しいな」 「持ちます」と神門が言った。 「ここ、この横に渡ってる太いとこを持ってください。バッテリーはこの下です。全部で百十八キロあるんで、いっぺんに上げようとしないで、前輪を先に敷居へ載せます」 「はい」 「腰で持たないで、膝で上げてください。合図しますから」 三人が同じ側に並び、それぞれの手を管の下へ入れた。神門が膝を曲げ、腰を落として、革靴の踵の減った側がタイルの上で外へ滑った。ファイルケースは後輪の脇に落ちたままで、その角に神門の靴の先が触れ、十センチほど押した。 「そっち、持てましたか」 「はい」 「いち、に」

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