第一章 音が先にある。低く続く空気の音があって、それより高いところで一定の間隔を刻むものがあって、もっと遠くで誰かが金属の台を押している。目を開けようとする。開かない。開けようとしている感覚だけが額から目のあたりに残っていて、それが実際にまぶたを動かしているのかどうかは分からない。 暗い。 夢の続きだろうと思う。腕を顔にやろうとして、腕がどこにあるのかが分からないことに気づく。肩から先が動かないという話ではなくて、腕という部品の在処そのものが分からない。指を折ってみるが、折れたかどうかを確かめる手段がない。確かめるには目を開けるか、指をこすり合わせて音を立てるかしかなくて、そのどちらもこちらの側には残っていない。喉には何かが入っている。舌の付け根より奥のところを太さのあるものが通っていて、息の道をまるごと横取りしている。吸おうと思うより先に胸が持ち上がり、持ち上がる速さも深さも、こちらの都合とは関係のないところで決められている。 体の下は固いが板ではなくて、腰のあたりだけがゆっくり沈み、沈んだぶんがまたゆっくり戻ってくる。その戻り方に空気の弾力がある。 しばらく、何も起こらない。 どのくらいの長さのしばらくなのかが分からない。数を数えていれば分かるはずだと思いついて、二百まで数えたところで、何のために数えはじめたのかを忘れた。忘れたあとも数だけが勝手に続いていて、途中からひとつずつ飛ぶようになった。 足音が二人ぶん近づいてくる。片方はサンダルで、踵が床に貼りついてから離れる音を立てる。もう片方は靴底が薄くて速い。 「三十二番、こっち先やっちゃっていいですか」 「いいよ。左向きね、右はさっきやったから」 体の右側にいっせいに手が入る。肩と腰の二か所を同時に持ち上げられ、背中の下を布が滑っていって、そのあとで体が横に倒される。マットレスから空気の抜ける音がして、抜けた場所に何かが差し込まれる。膝と膝のあいだにも、踵の下にも、固いものが挟まる。 「あー、また肩ここに来てる。位置戻すよ」 「すみません」 「謝んなくていいって。このマット、左だけ落ちるのよ。前から言ってるんだけどね」 耳のすぐ横で、シーツを引っぱって皺を伸ばす音が続く。手つきに迷いがない。急いでいるというより、順番が全部決まっていて、その順番を何年もなぞってきた人の速さだった。 「明日、日勤ひとり足りないんだって」 「またですか」 「三階から来てくれるって。でも十時からだって」 「十時って、いちばん忙しいとこ終わってますよね」 「言ってもね。この人、まだ若いのよ。五十八だって」 「うちの父より下です」 「そう。だからみんな来るのよ、まだ」 「黒木さん、右向きましたよー。苦しかったら言ってくださいねー」 言えない。言えないということを説明する手段も、こちらにはない。 そのあと少しして、機械の音が変わった。低い唸りが立ち上がって、ホースの中を空気が引かれていく。何が始まるのかを、このときはまだ知らない。 「じゃあ引きますねー。ちょっと苦しいですよー」 喉の管に細いものが差し込まれる。差し込まれた先が下へ落ちていって、途中でどこかに当たり、当たったところを削るようにしながら進む。咳をしたいのに、咳の始まりの形だけが胸の底で起こって、そこから上に上がってこない。上がってこないのに、吸い上げる音だけが耳の奥でずっと続いている。喉から胸にかけて、内側を乾いた布でこすられている。息の道が細くなって、細くなったところをさらに吸われる。数を数えて、十二まで来たところで管が抜かれ、間をおかずにまた入ってくる。二度目は一度目より深い。 顔の横で誰かがガーゼの袋を破った。 「痰、けっこう硬いね」 「朝も硬かったです」 「先生、今日の午後入ってましたっけ」 「木曜は二時から。今週は来ないかも、学会だって」 「岸くん、記録あとで書いてよ。溜めると忘れるから」 「はい」 抜けたあと、胸が勝手に速く動く。落ち着くまでのあいだ、何も考えられない。痛いというのとは少し違っていて、痛む場所が自分の内側の、手の届かないところにあることだけが分かる。口の中に薬とも樹脂ともつかない匂いが残り、薄れかけたころにまた同じ唸りが立ち上がる。その日のうちにあと五回来た。数えるつもりがあったわけではないが、ほかにすることがなかったので数えていた。 やがて誰もいなくなった。 空気の音と、電子音と、それから窓の外の音が残る。 乾いたアスファルトを転がる音がしていて、濡れた路面を切るときの張りついた音ではない。車の通る間隔は短いが、途切れ方に規則がある。二十秒ばかり続けて流れて、それから四十秒ほど途切れて、また流れるので、近くに信号がある。信号の向こうから加速してくる音の伸び方に、坂を上がるときの粘りも、下るときの抜けもない。平らな道で、片側は一車線、路肩はいくらか広い。二十七年、そういう音の中に座っていた。客を乗せていないときはラジオを消して、次の交差点の信号が変わるまでの秒数を数えていて、数えておけば信号に引っかからずに走れる道順が組み立てられる。ほとんど役に立たない癖だったが、やめられなかった。 エアブレーキの抜ける音がして、バスが停まり、扉が開いて、また閉まった。次のバスまでを数えると十二分あって、そのあとの一本も十二分だったから、まだ朝の便が詰まっている時間だと思う。 遠くからサイレンが近づいてきて、途中で音の高さが下がり、建物のどこかにあたって一度こもってから、こちらより下のほうで止まった。止まった位置が下だということは、この体は地面の上にはない。 前に住んでいた家では、中にいても踏切の音が届いて、鳴りはじめてから遮断機が下りきるまでの長さで、上りか下りかが分かった。ここにはその音がない。かわりに、遠くの高いところを走る車の音が、地面を走る音に混ざって届いてくる。高架のある方角がひとつ、それだけは分かる。 まぶたの向こうが明るくなっている。 声が増えて、若い男の声が、ひとりで喋りながら病室に入ってきた。誰かに向かって話しているのかと思って耳を向けたが、返事をする者はいなかった。 「えーと、血圧ね。百二十の、七十四。うん、いい。おれのほうがひどいんですよ、健診で引っかかって」 「誰に言ってんの」 「独り言です」 「黒木さんに言ってんのかと思った」 「言ってるかもしれないです」 その男が来ると、部屋の中の物の位置がひとつずつ音を立てる。 「あー、このスタンド、脚が引っかかるんだよなあ。誰か直してくれないかな。おれが直すか」 「体位変換、っと。えーと、次は三時か。三時って、おれ休憩なんだよなあ」 別の日には、鼻歌が入ってきた。歌詞は聞き取れないが、同じところを何度も繰り返す。口の中に湿ったスポンジのようなものが入ってきて、歯の外側から順に回り、最後に上あごを撫でていって、その水が冷たい。 「黒木さん、お口きれいにしますねー。冷たいですよー」 「はい、じゅうぶん。はい、終わり。上手ですねー」 名前を呼ばれている。呼ばれているのは自分で、自分がここにいることは、この人たちのあいだではとうに前提になっている。前提になっているのに、こちらからは何ひとつ返せない。 部屋の広さも、窓がどちら側にあるのかも分からない。分かるのは、人が決まった間隔で入ってきて、決まった順序で体に触り、決まった言葉を残して出ていくということだけで、そういう場所を病院と呼ぶことは知っている。 隣に人がいることは、その日の夜に分かった。布一枚ぶん向こうで、息が長く、途中で二度引っかかる。年寄りの息の仕方だった。ときどき自分の力で咳をしていて、咳ができるということが、こちらとは違っている。 夜のあいだにも二度、体の向きを変えられた。そのたびにマットレスの空気が鳴る。変えられてから次に変えられるまでが、たいそう長い。 長いあいだ、することがない。 何日か経ったころ、聞き覚えのある足音が来た。廊下の途中で一度止まって、それから入ってくる。スリッパではなく、外の靴のままの音だった。 「黒木さん、奥さん来てますよー」 椅子が引かれ、ビニール袋の口が開かれて、中で何かが擦れた。 「タオル、置いとくね」 都だった。長く一緒にいるが、耳のすぐ横でこの声を聞くのは初めてだと思う。泣いている音はしない。鼻をすする音もなく、袋の中のものを一枚ずつ広げては畳み直しているらしい音が、同じ間隔で続いている。 「洗濯物、持って帰るね。家で洗うから。ここのタオル、ごわごわしてるでしょう」 そこで黙り、袋がまた鳴った。 「今日ね、隼から電話あった。仕事、休めないって。来月来るって言ってた。あの子、言うだけだから」 「妙子は毎日来てるよ。夕方、仕事の帰りに寄ってるみたい。あなたの携帯、充電しといたって。かかってきても出られないのにって言ったら、怒られた」 「あのね、家、静かなの。テレビつけっぱなしにしてる。ごはんも、あなたのぶんまで作っちゃって、二日食べたわ」 手が額に触れて、生え際のあたりを二度、撫でるでもなく押さえるでもない触り方をしてから離れた。それから手は膝の上に戻ったらしく、しばらく何も動かない。 「テレビカードって、いるのかしらね。いらないか」 「十日たったよ」 十日という言葉が、どこに掛かるのかが分からない。 「二月の十一日。祝日だったでしょう。あなた、二階に上がって、それで、階段のとこで」 そこで切れて、息を吸い直す音がした。吸い直したあとは、別の話になっていた。 「駐車場、氷が残ってたのよ、あの日。だから車で来なかったの。ここの駐車場は一日で八百円もするのよ。月ぎめにしたほうがいいのかしらね」 二階に上がった理由を思い出そうとする。上がったことも出てこない。出てこないということだけが、はっきりしている。 「あなた、こういうとこ嫌いだったでしょう。病院。健診も行かなかったし」 「先生から話があるって。木曜って言われたけど、たぶん来週になると思う」 「明日は来られないの。仕事が遅番で。あさっては来る」 「保険の証書、どこにあるか分からなくて。あなたの机の、いちばん下の引き出しは開けたのよ。そこにはなくて、それで」 廊下から車輪の音が近づいてきた。四つのうち一つだけが鳴っている。都が椅子を引いて立ち上がる音がして、そのあとは、鳴っている車輪のほうがよく聞こえた。 第二章 椅子が二つ運ばれてくる。脚の先のゴムが片方だけすり減っているらしく、床を擦る音が左右で違うので、廊下の隅に重ねてあるほうの折りたたみだと分かる。二脚だ。三脚ではない。 隼は来ていない。 今朝は順序がずれている。六時のカーテンは十四回で終わって、そこまではいつもと同じだったが、配膳車の車輪の鳴るのが早く、清拭の湯の音が来る前に、詰所のあたりで受話器を置く音が二度した。九時に首の後ろへ入ってきた手は迷わなかったから富永さんで、富永さんの日はタオルが熱いうちに届く。岸さんだと生ぬるい。湯から上げて絞るまでに手間取るからで、その手間取っているあいだ、岸さんは誰にともなく、今日は寒いっすねとか、あー足りないなとか言っている。リーさんは鼻歌をうたう。曲の名前は知らない。同じところを二回うたって、三回目でやめてしまう。 回診の靴音は他と違う。革の底が硬くて、踵から入って爪先で抜けるまでが速い。それが十時に来なかった。 そのかわりに吸引が来た。 管を入れる前に、必ず器械のモーターが立ち上がる。その音が一段高くなったところで数えはじめるのが癖になっていて、今日は八まで数えた。喉の奥のいちばん狭いところを、細いものが探りながら通っていく。そこはいま、自分の体のうちでいちばんはっきり分かる場所になっている。息は入らない。入らないと分かるだけで、苦しいという言葉が出てくるまでには少し間がある。八まで数えて、いったん抜けて、また入ってきて、二度目は五で終わった。浅いほうがあとに残る。抜けてからしばらく、喉の内側に線を引かれたままになっていて、その線が消えるまでには、配膳車が一往復するくらいはかかる。生理食塩水の落ちる音だけは嫌いではない。 窓の外では大型が続けて三台通った。空荷だと、道の継ぎ目を越えたあとに荷台が一度跳ね返って、その跳ねる音が積んでいるときより高くなる。三台とも空で、市場から帰るのではなく、朝の配送を終えて営業所へ戻るほうの流れだから、この時間にこの向きで続くのなら、下の通りは千葉街道へ抜ける裏道のほうだろう。乗用車は詰まっている。詰まっているというのは、アイドリングの数が減らないまま七台か八台がまとめて動いて、また止まるということで、その周期が二分に足りない。信号は二つ先にある。二十七年この街で客を乗せて、こういう詰まり方を体のほうで覚えた。覚えたところで、いまはただ順番に鳴るのを聞いている。 カーテンが引かれた。レールの終わりのところで、走る音が必ず一度つっかえる。 「黒木さん、失礼します」 高梨先生は、話しはじめる前に一度、息を整える。 「奥さん、そちらの椅子に。お嬢さんも、どうぞ」 椅子が二つとも軋んだ。ペンのノックの音が一度した。 「二月十一日のことを、もう一度、順番にお話ししておきます。ご自宅の階段の下で倒れておられるのを奥さんが見つけられて、通報までが、記録では四分。隊が着いた時点で心臓が動いておりませんでした。そこから戻るまでに、また時間がかかっています。合わせて十分から十五分のあいだ、というのが、いまお伝えできるいちばん正確なところです。この幅は、これ以上狭くなりません」 「脳というのは、酸素が来ない時間が続きますと、弱いところから順に戻らなくなります。全部が一度に駄目になるわけではないので、呼吸や体温をつかさどる古い部分は残ります。実際、ご主人はご自分で息をされています。ただ、その上の、ええ、意識をつくっているあたりですね、そこが今回いちばん長く酸素の足りなかった場所にあたります」 「画像も、脳波も、運ばれてきた日から今日まで、良いほうへ動いた所見がありません。ですので、はっきり申し上げておきますが、回復の見込みは低いと考えています」 「ゼロだとは申しません。医者はゼロとは言えないんです。ただ、低いです」 都は何も言わなかった。鼻をすする音はしない。かわりに、椅子の上でコートの袖が擦れて、たぶん膝の上で手を組み直した。 「あの」 「聞こえてますか、これ」 高梨先生の息が、いつもの整え方とは違う入り方をした。 「その質問が、いちばん多いです。聞こえているという証拠は、いまのところありません。ないという証拠も、同じようにありません」 「わかりました」 都の返事は早かった。早いというより、間を置かなかった。 「食事は、これからもずっとこのままですか」 「いまは鼻から管を入れて栄養を落としています。ただ、鼻の管は長く続けますと、鼻の中も喉も荒れてきますし、なにかの拍子に抜けてしまうこともありますので、どこかの時点で、お腹のほうから直接入れる方法に替えるかどうかを、ご家族に決めていただくことになります。胃ろう、という言葉はお聞きになったことがあると思いますが、あれです。今日決めていただく話ではありません。ただ、いずれ出てきます」 「痰は、毎回あんなにやるんですか」 「ご自分で出せませんので、溜まれば取ることになります。一日に六回から八回といったところですね。減らせば楽になるかというと、そうではなくて、肺炎になります」 六回から八回というのは合っている。昨日は七回で、その前の日は数え損ねたが、たぶん六回だった。合っていると分かったところで、こちらの一日のうちでいちばん長いものを、向こうの数え方で言い直してもらっただけになる。 「リハビリは、何のためにやってるんですか」 「関節が固まってしまうと、清拭も着替えもできなくなります。戻すためというよりは、これ以上固くしないためのものです」 「爪は、こっちで切っていいんですか」 「それは看護のほうに聞いてください」 「洗濯物は、週に何回、持って帰ればいいですか」 「それも看護のほうで」 「お母さん、それ、あとにしよ」 妙子の声はカーテンの内側にあるのに遠い。この十二日、一日も欠かさずに来ている。来ているのに、着いてからいちばん最初に喋ったのが、今日はこれだった。 「面会は、何時から入れますか」 「日中でしたら、いつでも。夜間だけ、詰所に声をかけていただければ」 「お金のことは、どこで聞けばいいですか」 「一階に相談員がおりますので、そちらで。来週でしたら、火曜と木曜がいるはずです」 ペンが二度走った。妙子はメモを取っている。都は取らない。二十九年いっしょに暮らして、家の予定を紙に書く人ではなかったが、それでも鍵を持って出るのを忘れたことは一度もない。 椅子が軋んで、床を擦る音がした。畳もうとして、途中でやめた音だ。 「先生」 「聞こえてますか、これ」 同じことを、同じ順序で聞いた。高梨先生は、今度は前置きをしなかった。 「わかりません」 椅子が畳まれ、革底の靴が遠ざかっていく。廊下でいちど止まって、それからもう一度歩き出した音がしたから、詰所の前で誰かに呼び止められたのだろう。 カーテンはそのままだった。 都だけが残った。ビニール袋を膝に置いて、いちど広げて、また畳んだ。クリーニング屋の袋のさばき方は、家にいたころから速かった。仕事から真っ直ぐ来る日は、コートの襟のあたりから溶剤の匂いがする。今日はそれが薄い。休みをもらったか、遅番と替えてもらったか、どちらかだろう。 「爪、伸びてる」 爪切りが袋の中で金属に当たった。母指の付け根を押さえられて、指を一本ずつ起こされていく。切るときの音は、思っていたよりも大きい。左手が終わって、右手に移るまでに、いちど手が止まった。止まったのは十秒か、もう少し長かった。それから、切った爪をティッシュに包む音がして、包んだものをまた袋に入れた。捨てるのはここではないらしい。手は冷たかった。二月の外を歩いてきた手の冷たさで、握られはしなかった。切り終えてからも、都はしばらく袋の中を探っていて、出しては入れ直すのを三度か四度くり返した。持ってきたものの置き場所が決まらないときの手つきで、結局は棚のほうへ二度往復して、二度目に何かをそこへ置いた。置いたときの音からすると蓋のある容器で、重さはあまりない。それが何なのかは分からないまま、いまも棚にあるはずだ。 そのあと、都は何も喋らなかった。椅子は畳まれたままだから、ベッドの脇に立っているのか、窓のほうへ行ったのか、床の音が少ないので分からない。咳をひとつした。喉の奥で止める、人前でする咳のしかただった。 「また水曜に来るから」 出ていくときにドアの前でいちど立ち止まって、それは忘れ物ではなくて、たぶん靴の踵を直していた。 そこから昼までのあいだが長い。長いというのは、痛くもなく、誰も来ず、するべきことが一つもないという意味で、日によっては吸引が来るのを待っている自分に気がついて、それがいやになる。最初のころは家の中を順番に思い出して時間を使っていた。玄関を上がって右が風呂で、廊下のいちばん奥が北向きの部屋で、そこの窓は建て付けが悪く、閉めるときに框をいちど持ち上げないと鍵が下りない。二度目からは順序を変えて、押し入れの中身のほうから始めた。それも十日ほどで尽きた。いまは詰所のラジオを聞いている。昼のあいだだけ小さい音で鳴っていて、話している中身までは届かないので、曲と曲のあいだの間の長さだけを数えている。一分近く空ける局と、まるきり空けない局がある。その二つを聞き分けられるようになったところで、伝える相手がいない。 昼を過ぎて、リハビリの人が来た。膝を曲げて伸ばす。肩を回す。回すというより、行けるところまで持っていって、そこで三つ数える。三つ数えるあいだが痛い。痛いのは肩の付け根の内側で、この痛みだけは、はっきりと自分のものだと分かる。分かるからといって、どこがどう痛いのかを誰かに渡す方法がない。渡せないものを、毎日十四時に受け取っている。 三時に掃除機が入った。ベッドの脚に二度ぶつけて、二度目のあとに、あ、すいません、と誰かが言った。 十七時三十分の配膳車は朝より速い。速いのは、車輪の鳴る間隔が詰まるからで、あの人たちは夕方のほうが急いでいる。二十一時に空気の音が変わって、それからしばらくして、二時間ごとの体位変換が来て、右を下にされた。夜勤のサンダルは二種類あって、今日は薄いほうが先だった。 第三章 数えることにしたのは、三度目か四度目の夜だ。ここへ来て何日たつのかを数えていなかったから、数えはじめた夜を一日目にするしかない。夜のあいだに二度、廊下の端のほうから人が入ってきて、そのサンダルの音には二種類ある。ひとつは踵を落とさずに足の裏の真ん中から降ろす歩き方で、床に吸いつくような短い音をふたつ続けて出す。もうひとつは踵から落として、爪先で床を撫でてから離れていく。あとのほうが先に入ってきて、点滴の台の脚にかならず一度ぶつかる。鳴った。それから隣の寝台へまわる。私のところでは、どちらも何も言わないが、言わないというより、言うことがないだけだと思う。 眠っていないので、退屈だ。 痛みは退屈を消してくれないし、痛いあいだも時間は同じ速さで流れて、痛くない時間のほうがずっと長い。何もすることがないというのがどういうことなのか、五十八年生きてきて、ここへ来てはじめて分かった。二十七年、夜のあいだ流していたときには、赤信号のひとつも退屈だと思ったことがない。信号が変わるまでのあいだに、次の角をどちらへ折るか、駅とホテルのどちらへ着けるかを考えていた。考えた先には必ず何かがあったのに、いまは考えた先に何もない。数える。明るくなるより先に、金属の輪が棒の上をすべる音が、窓のがわから順に来る。この部屋は寝台が四つで、仕切りの布は八枚あるはずなのに、聞こえるのは十四回だ。廊下の向かいの部屋の分まで入っているのだろうと思うが、扉が閉まっている日も十四で、なぜ同じだけ届くのかが分からない。分からないまま数える。十四。そのうち三番目と九番目だけ音が硬い。輪がひとつ曲がっているのか、引く人の手が速いのか、そこまでは決められない。 十四のあとに、何もない時間がしばらくある。 やがて廊下の遠くで車輪が鳴りはじめて、四つのうちのひとつが、一回転ごとに引っかかる。前輪のベアリングが焼きつく二、三週間前に出る音とよく似ていて、はじめのころは毎朝、あれは早く替えたほうがいいと思っていた。車輪が近づく。止まった。それから扉の手前で向きを変える。そこから配る音がはじまるまでのあいだが、この病棟でいちばん長い。四つの寝台の息の速さが、そのあいだだけ、はっきり違って聞こえる。朝の吸引は配る音のあとに来て、袋から管を出すビニールの音がして、それから機械が回りはじめる。喉に入ってくるものは細くて硬くて、当たる場所が毎回すこしずつ違う。息の道に別のものが入るのは、痛いというより、そこだけ取り上げられることに近い。咳の形は喉まで来る。外へ出ていかない。十五まで数えると、たいてい終わる。数えている。二十を越える日もあって、越えた日は、そのあとしばらく耳が音をうまく拾わない。 「黒木さん、失礼します。吸いますね。はい、いち、に、はい、もう一回だけ、ごめんなさいね。すぐ終わりますから。……はい、終わり。今日ちょっと固かったな。水分のこと、先生に言っときますね」 富永さんは手が速くて、声もその速さに合っている。管が抜ける。掌が肩から胸のほうへ二度続けて動くのは、撫でるというより、位置を確かめる手つきだった。それから枕の下に手を入れて、首の角度を三度変える。 三度目でやめる人は、この病棟では富永さんだけだ。 八時になると詰所のほうで声が増えて、何人かが同時に喋るので、言葉の意味までは届かない。届くのは語尾の上がり方と、笑いの混じる位置だけだ。岸さんの声だけは、そのなかでも分かる。ひとりで喋る人で、こちらに話しかけているのか、自分の手順を口に出しているのか、いまだに区別がつかない。 「えーと、次、右、右から。あ、逆か。すいません、逆でした。黒木さん、腕いきますよ。今日ちょっと寒いですよね。俺、朝、原付で来るんで。手袋、片っぽ落としちゃって、駐輪場のとこ探したんですけど、ないんですよ。片っぽだけって困りますよね。両方なくなったほうがまだ諦めがつくっていうか。はい、いきます」 言い終わってから、腕を持ち替える。順番が戻る。誰にすいませんと言ったのかは、いまも分からない。 九時に湯の音がして、桶に湯を張る音は途中で高さが変わり、変わったところでいったん止まる。タオルが来る。首の後ろからだ。熱いと思う手前の温度で、脇と、肘の内側と、指のあいだを順に通っていく。二度目に絞る音がして、そこからは少しぬるい。リーさんの日は、鼻歌のほうが先に入ってくる。曲は毎回違って、同じ日のうちに二つも三つも変わる。 「くろきさん、おはよう。今日ね、あついですよ、お湯。あつい、だいじょうぶ? だいじょうぶね。私、あつくないと、ふいた気がしないです。前の病院の人、みんな、ぬるいの好きでしたけどね。はい、手、ひらきますよ。ここ、ためやすいから。指のあいだ、いちばん。はい、きれいきれい。あとでね、爪も切ります。今日じゃなくて、あした」 清拭のあとに体位変換が入る。マットレスの空気が抜ける。また入る。二時間ごとに同じ音がして、右と左が入れ替わる。向きが変わると下になる耳が替わるので、部屋の音の並びが左右で反転する。慣れるまで、それがいちばん落ち着かなかった。 靴が入ってくる。十時前後だ。踵が床を一度叩き、そのあとに革の鳴る音が続く、ほかの誰の足とも違う入りかたをする。 「熱は落ち着いてますね。痰はまだ多いですけど、今週は肺のほうは大丈夫です。前にお話ししたとおりで、こういう状態だと、どうしても分泌が増えるんですね。で、増えたぶんをご自分で出す力が弱いので、こちらで引く回数が増える。回数が増えると、今度は粘膜のほうに負担がかかるので、そこの兼ね合いを見ながら、加湿と水分の量でなんとかしていく、というところです。あと、拘縮のほうは、リハビリの記録を見るかぎりでは──」 高梨先生の説明は長いのに、こちらへ向けて言っているのは、はじめの二言だけだ。あとは廊下へ出てからも続いていて、どこかの扉が閉まる。切れた。 その日は、それきり昼まで誰も来なかった。 昼前が、外のいちばんよく聞こえる時間だ。車の音には周期がある。三十秒ほど流れる。切れる。十数秒だ。また流れる。信号は窓の右手にあって、そこからここまでが二百メートルない。切れているあいだに、上ってくる音がひとつだけ残る日がある。勾配のあるところでは、速さが同じでも回転が落ちないので、音が平らに伸びる。この道は片側一車線で、大型はほとんど通らない。継ぎ目を踏む音が二度続けて来るのは後ろの車軸が二本ある車で、それが通る時間はだいたい決まっている。九時台に一台、昼前に一台。ごみの車は火曜と金曜の、十時をすこし過ぎたころだ。もうひとつ、下で止まるものがある。LPGの、乾いた回り方をする古い型が、たまに止まって、一分ほどして、また出ていく。流しでこの病院に着ける運転手はいないから、無線か迎車のどちらかだ。二十七年やって、迎車で来た車が客を乗せないまま出ていくときの、回転をすこし上げてから離れる音を、私は間違えない。昼の配膳が下がって、しばらくして、二時に岸さんが来る。肩、肘、手首、股、膝、足首の順に動かしていくと、腕は途中まで素直に上がって、ある角度から先で、骨と骨のあいだに小石が挟まったような手応えに変わる。止まる。そこから先を、岸さんは毎回ひと押しだけ余分に押す。声が出ないので、そのひと押しは毎回来る。 「はい、いきますよ。ん、昨日より硬いかな。硬いですね、今日。こういうの、痛いって言ってもらえたら、こっちも加減できるんですけどね。まあ、そうも言ってられないんで。動かさないと、もっと固まっちゃうんで。もうちょっと、あと三つ。いち、に、さん。はい、終わり。お疲れさまでした」 三時に掃除機が入って、廊下の端から端まで二往復し、コンセントを抜き差しする音がする。四回だ。掃除機のあいだは外の車がまったく聞こえないので、その十数分だけ、数えるものが何もない。 妙子は毎日来て、掃除機の前に来る日と、後に来る日がある。 「今日ね、駅前のパン屋、シャッター閉まってた。潰れたのかな。あそこのカレーパン、お父さんが好きだったやつ。あ、明日はお母さんの日だから、あたしは夕方になるかも。棚卸しなんだよね、月末。あのね、それで、店長がまた辞めるって言っててさ、三人目だよ、去年から。もう慣れたけど。お母さん、最近、寝るの早いよ。九時に電話しても出ないもん。前はあんな人じゃなかったのにね。あ、指、なんか冷たい。エアコン強くない、ここ。あ、そうだ、車は隼が乗ってるって。あっちで使うって言うから」 そこまで言って、しばらく何も言わないでいて、椅子を引く音がして、また喋りはじめる。話の半分は前の日と同じで、残りの半分に、前の日にはなかった話が混じる。混じるほうがいつも短い。 夕方の配膳車は朝より速くて、同じ車輪が同じところで鳴るのに、鳴る間隔が短くなる。鳴った。夜勤に替わる前に配り終えたいのだろうと思う。 九時に消灯になり、灯りが落ちると空気の音が変わる。天井のどこかで回っているものの音は変わっていないのに、消灯のあとだけよく聞こえる。まぶたの外が暗くなるのは、そのすこし後だ。隣の人のアラームは、たいてい十一時ごろに一度鳴って、誰かが来て、止める。止めるまでの時間は日によって違って、長い日は、鳴りかたのほうが先に変わる。 七日目に、時計が壊れた。 十時の靴が来ない。二時に岸さんが来ない。三時の掃除機がない。かわりに廊下で子どもの声がして、その声が同じところを三度往復した。午後の遅い時間に、都が来た。都が来るのは月と水と金と日だから、日曜だと分かる。そこから逆に数えて、数えはじめた夜が水曜だったことになった。七日かかって、曜日がひとつ手に入った。 「洗濯物、これ、こっちの袋でいいですか。タオル、あと何枚いりますか。そうですか。じゃあ次、水曜に持ってきます。あの、フェイスタオルでいいんですよね。バスタオルのほうがいいのかと思って、この前、多めに持ってきちゃったので。それと、髭って、こちらでやってもらえるんでしたっけ。道具は家にあるんですけど、持ってきたほうがよければ」 看護師との話が終わると、都は椅子に座る。肘の下に手を一度置いて、それきり動かさない。喋らない時間が長くて、そのあいだ、膝の上で袋のビニールが鳴っていた。帰るときに、明日は来ないから、と言った。 それは分かっている。月と水と金と日だ。 翌朝、十四のはずのところが十五あった。十五。数え違えたのか、向かいで何かが増えたのか、決める材料がない。もう一度朝が来るまで、どちらなのかは分からない。 第四章 カーテンが十四回鳴り終わってから配膳車の来るまでが、この日はいつもより長かった。廊下のどこかで台車を止めたまま誰かが紙を繰っていて、その音が三十を数えるあいだ続いていたせいだと思う。車輪の一つが鳴る配膳車は突き当たりでいちど止まり、それから手前の部屋へ順に戻ってくる。口から入るものはもう何もない。何もないのに、あの車輪が近づくと喉の奥が勝手に動く。 まぶたの向こうが明るくなっている。 朝の吸引は二度目までなら我慢が利く。三度目からは、機械の立ち上がる音のところで首の裏に汗が出る。今日はベッドの脇に何かを置く音がして、接続部をねじって締める短い金属の音が二つ続いた。管が喉に入るまでのあいだに六つ数えられる日と、四つで足りなくなる日がある。今日は五つだった。入ってくるものは冷たくないはずなのに、内側の粘膜はそれを冷たいものとして扱う。奥のほうで何かが剥がれて、剥がれた場所から、まだ剥がれていない場所を探しにいく動きがある。息を吐こうとしても、吐くための順番が回ってこない。手のひらが濡れているのは分かるが、それが自分の汗なのか、さっき拭いてもらった湯の残りなのかは区別がつかない。富永さんの手は速い。速いというのは乱暴とは違って、迷っている時間が短いということだと、この二か月で分かってきた。管が抜けたあと、口の端をガーゼで押さえる指がしばらく動かないでいて、そのあいだにこちらの息の間隔が戻る。 「はい、終わり。上手でしたよ」 上手も下手もない。こちらは何ひとつしていない。それでもそう言われると、次の一回までの時間が少しだけ長く感じられるので、言うほうも分かって言っているのだろうと思う。 清拭はそのあとに来る。湯を絞る音が二回して、最初の一枚が首のところに当たる。熱いと感じるのは最初の三秒だけで、そのあとは温度が急に落ちていくから、拭かれている場所が背中のどこまで進んだかは、熱さではなく冷たさの位置のほうで分かる。リーさんの日には鼻歌がつく。歌詞のない曲で、途中で切れて、しばらくしてまた同じところから始まる。腕を持ち上げるあいだだけ歌をやめて、下ろすとまた続きをうたう。脇の下の湯気が残っているうちに次のタオルが来るので、この人の日は二枚目までの間が短い。 「黒木さん、足、あったかいね。きょう」 足のことは分からない。分かるのは、タオルが当たっているあいだだけそこに足があるということで、離れたあとは当たっていた輪郭がしばらく残り、それも薄れて消える。 回診の靴音は他の誰の靴とも違う。踵から入って爪先で抜ける音が短く、廊下の真ん中をまっすぐ歩いてくる。その日、靴音は入口のところで止まって隣のベッドのほうへ折れ、こちらへは来なかった。数字を読み上げる声が二つ重なり、紙をめくる音が四回して、それで終わった。 昼の配膳車が戻っていったあとの時間が、一日のうちでいちばん長い。 窓の外の音を数える。この建物の前の道は片側一車線で、二百メートルほど先に信号がある。青のあいだに抜けた車がひとかたまりで通り過ぎ、そのあと十秒ほど何も来ない。この波の厚さと間隔で時刻の見当がつく。波が薄くなって間隔がばらばらに崩れるのが朝の掃除の前あたりで、また厚くなって間が詰まりはじめると、じきに廊下が騒がしくなる。バスは一時間に三本、坂の下で必ずいちど回転を落とす。あの落とし方をする車体の後ろには、二十七年のあいだに何度もついた。風の向きによっては、道の音の向こうに踏切が鳴っているのが届く。二度聞こえる日と、一度も聞こえない日がある。遮断機が下りてから上がりきるまでに数えられるのは四十いくつで、上がりきる前に前の車が動きはじめる位置も、だいたい決まっていた。前が詰まっているのが分かっていて、それでも一台ぶんだけ前に出たがる癖が、こちらにはあった。 玄関の車寄せに一台入ってきた。エンジンの回り方が乗用車と少し違って、下から上がってくる音がアイドリングの震えのなかに残る。LPガスの車だった。後ろの扉が開く音がして、閉まるときにモーターが最後だけ急に止まった。調整の甘い車で、ああいうのは乗るほうも降りるほうも一拍待たされる。うちの前からここまでなら、初乗りのあと加算が二十回か二十一回、迎車を付けて二千円を少し超えるくらいだろう。妙子が来たのだと思った。 リハビリは午後の早いうちに来る。膝を曲げて伸ばし、足首を回して、腕を肩の高さまで上げてから戻す。関節の内側で乾いたものが擦れる。ここが痛いと言えたら、たぶん少し弱くしてくれる。言えないので、決められた回数まで同じ強さで進んでいく。数えているのは向こうで、こちらも数えている。二十回の十七回目あたりで、肩の付け根に細い線が走る。 それが終わってしばらくして、廊下で二人の声がした。都と妙子だった。妻は月と水と金と日に来る。妙子はいまのところ毎日来ている。二人はドアの手前、手を洗う流しのあたりで立ち止まったらしく、声が入ってきたり抜けたりした。 「区分が二っていうのは、医療の必要度が高いほうなんだって。痰の吸引の回数とか、経管栄養とか、そういうのが全部点数になってて、それが足りてるあいだはここにいられる。足りなくなると、出てくださいっていう話になるらしい」 「出されるって、どこに」 「わかんない。老健とか、家とか」 「お父さん、あれで動かせるの」 流しの水が出て、止まった。 「食費と部屋代は保険の外なんだって。一日で千三百八十円と、三百七十円」 「合わせて」 「千七百五十」 「ひと月で五万ちょっとね」 「うん。それと医療のほうの上限が八万百円。限度額の認定証は出しといたから、窓口でそれ以上は取られない。出しとかないと、いったん全部払って、あとから戻ってくるやつになる」 「四回目からは安くなるって、この前」 「四万四千四百円。まだ二回目」 紙を折る音がして、鞄の口を閉める金具が鳴った。 「介護保険は」 「申請した。先週の火曜。要介護がつかないと、ケアマネさんもつかない」 「意見書は」 「高梨先生に頼んである。二週間かかるって」 「二週間」 「うん」 「そのあいだは」 「そのあいだも、これは毎日かかる」 「保険は。入院のやつ、入ってたよね」 「日額五千円。百二十日まで。もう三十日過ぎてる」 「百二十日って、いつ」 「八月の頭」 「そのあとは」 「そのあとは出ない」 「お父さん、爪、伸びてたよ。今日、看護師さんに言っといた」 「うん」 「聞いてるの」 「聞いてる。八月の頭ね」 「隼、なんか言ってきた」 「先月来たきり。仕事が変わったばっかりだから」 「お金のこと、言ったの」 「言ってない」 「言いなよ、そういうのは」 「言うけど。いま言うと、来なくなる」 後部座席の話は、全部聞こえていた。運転席で聞いていない顔をするのが仕事だったし、そのほうが客も楽なのだと思っていた。金の話をする客がいちばんよく喋る。喋りながら、こちらの後頭部に向かって喋っているのに、こちらがいないものとして数字を並べていく。夫婦は数字だけで喧嘩をする。理由のほうは車を降りてからやるつもりでいて、車のなかでは金額の確認しかしない。八千円と一万二千円の差でもう五分黙る組もいれば、単位が二桁違っても平気で笑う組もいた。降りるときには二人とも礼を言って、扉が閉まって、それきり誰なのかも分からない。割増の付く時間に乗ってくる客ほど、金額を声に出す回数が多かった。メーターの上がる音のたびに後ろの話が途切れて、また同じところから続く。聞いていない顔をするのが仕事だった。いまは顔のほうが勝手にそうなっている。 「先生の話、次はいつ聞けるの」 「呼ばれたら。こっちから言うと、催促してるみたいになる」 「催促じゃないでしょ、そんなの」 「じゃあ妙子が言ってよ」 「わたしが行くと、若いからって最初から全部説明し直しになる。高梨先生、長いから」 流しのところでまた水が出て、今度はしばらく止まらなかった。 「お母さん、シフト減らせないの」 「減らしたら減った分そのまま」 「そうだけど」 「今月から火曜と木曜を入れた。クリーニングは年度末が動くから、四月に入ればまた戻す」 「わたし、帰りだけバスにした。行きは駅から歩いてる。それと、四月から一人減るらしくて、たぶん残業になる」 昼前に入ってきたあの車は、うちの娘ではなかったことになる。二千円と少しの見当も、初乗りのあとの加算の数も、当てる相手がいなければどこにも行き着かない。 「通帳、郵便のほうしか見てない。定期は──」 そこで掃除機が入ってきた。 掃除機は毎日、廊下の突き当たりから始まる。モーターの音は敷居をまたぐたびに一段低くなり、ベッドの脚のあいだに入るところで詰まったような唸りに変わる。この二分ほどのあいだ、外側の音は全部なくなる。この病室の四床ぶんを往復して、ノズルが壁にぶつかる音が三回して、それから隣の部屋へ移っていく。音が戻ってきたとき、廊下に二人の声はもうなかった。 証書の入った封筒は、車庫のロッカーの上から二段目にある。二十年ぶんの領収書の束と一緒にしてあるから、探すほうは束のほうを先に見つけて、あとは要らないものだと思って手を止める。定期のほうは一昨年に一度動かしてある。それを言えば十五秒で済む。十五秒がどこにも出ていかないまま、こちらの側に溜まっていく。 「はい、体位変換します。右手こっちですね」 マットレスの空気が抜けて、腰の下が硬くなり、また入って柔らかくなる。岸さんは作業のあいだ、手順を口に出しながら進める。誰に言うでもなく言っていて、途中から手順ではないものが混じる。 「黒木さん、俺、自転車の前かご盗られたんですよ。かごだけ。本体はそのまま置いてあって、かごだけ外して持ってかれてた。しかもボルト、ちゃんと戻してあるんです。ご丁寧に。あれ新品で二千円くらいしますからね。売っても二百円とかでしょ。何に使うんですかね」 肩甲骨の下にタオルが折り込まれ、膝のあいだにも一枚挟まれる。踵が浮いて、そこに何かやわらかいものが当たる。 「はい、左向き。二時間したらまた来ます」 第五章 配膳車が鳴らずに入ってきた。四つある車輪のうち右の後ろが軋んで、廊下の突き当たりを曲がるところで必ず二度、細い金属の音を立てる。その二度で六時四十分を知っていたのに、今朝はそれが無い。夜のあいだに誰かが油を差したらしい。詰所で耳障りだと言った人がいたのか、決まった日の点検だったのかは分からない。断りもなく、時計をひとつ直された。 十四回のカーテンと、二時間ごとに鳴る空気の音が残っているから、数え直せばいい。 カーテンは六時に開く。この部屋は四床だから鳴るのは四回で、あとの十回は廊下の向こう側から来る。合わせて十四回。十四まで数え終えたころにまぶたが明るくなる。二月の終わりには明るくなってから二回鳴る日が続いていたが、今はずれていないので、日が伸びたのだと思う。リーさんが先週、詰所の前で桜がどうとか話していた。 朝の吸引は、来る前に分かる。廊下をカートが来て、ベッドの右側で止まる。手袋の箱から二枚引き抜く音、袋を破る音、機械のスイッチ、それから水を吸わせる音が短く鳴る。ここまでが二十秒ほどで、この二十秒がいちばん長い。岸さんは手を動かしながら自分に喋る癖がある。 「はいはい、ちょっとごめんね、うん、すぐ終わるからね、はい、いきますよ、うん」 誰にも向いていない声で、返事を待つ間が無い。管が入ると、喉から下へ、体の内側に道が一本できて、その道を上から順に引っ掻かれていく。息の代わりに音だけが出ていく。声を出す機械が、こちらの都合と関わりなく体の中でひとりで動いている。長さは機械の唸りでだいたい分かる。十五秒。管が抜けたあとの三回か四回、空気が甘い。一日に六回か七回これがあって、そのうちの一回だけがこの甘いところまで来る。あとは途中で終わって、途中で終わった日は昼まで喉の奥に砂が残る。 「あー、今日ちょっと硬いなあ。ね。うん。水分だね、水分。あとで師長さんに言っとくね、うん、言っとく」 言っとく、と言った次の日も同じことを言っていたから、言ったのかどうかは分からない。 九時の湯は日によって温度が違う。今朝のタオルは熱く、富永さんの日はいつも速い。脇の下から先に来て、両手が一度も止まらないまま、足の指のあいだまで一続きに進んでいく。手を動かしながら、入口のほうの誰かと喋っていた。 「シーツ、あと二枚しか無いよ」 「日曜は洗濯が昼過ぎだから。それまで持たせて」 「持たせてって言われても、こぼす人がいるから」 体位変換で、マットレスが空気を吐いた。片側が沈み、片側が持ち上がって、左の肩の下に重さがしばらく残る。そのあとでリーさんが入ってきて、窓のところで鼻歌をやめた。 「クロキさん、窓ね、少しあけますよ。ね。風、つめたくない、ね」 訊いたあとで自分で「ね」と付ける人なので、返事の要る訊き方に聞こえない。窓は指の幅ぶんだけ開いたらしく、外の音がはっきりした。 日曜の午前は回診が無いので、十時のところに置くものが無い。 代わりに当直の医師が一度だけ入ってきて、記録の紙をめくって、名前を言わずに出ていった。靴の底が薄い人で、廊下では看護師の足音と区別がつかない。高梨先生は踵から来て、話しはじめる前に必ず椅子を引く。あの音がすると十分は同じ話が続くので、聞き流す用意をする。 隣の人は、今朝は静かだった。七十代だと富永さんが誰かに言っていた。あの人の吸引はこちらより回数が少なくて、痰が絡んでいる音がしていても、看護師がすぐには来ないことがある。夜中に一度、モニターのアラームが鳴って、三十秒ほどで止まった。誰かが来て止めたのではなく、鳴っていた理由のほうが先に消えたらしい。土曜には家族らしい声が来る。女の人と、若い男の人で、テレビをつけて、当人にではなく二人のあいだで喋って、四十分ほどで帰る。 「テレビ、消していい?」 「まだ聞いてるかもしれないよ」 「聞いてないって」 することが無い時間は、車を出す。京成八幡の南側で客を乗せて、まず市川橋まで出る。橋の継ぎ目を踏むとタイヤの音が三つ、間隔をあけて鳴る。継ぎ目は四つあるはずなのに、四つ目は速度が乗っていると前の音と重なって一つに聞こえる。渡りきると音が変わる。国道十四号を西へ行くと、小岩の手前は信号が短くて、二つ目で必ず引っかかる。二十七年走ったから、道は覚えているというより体の側に残っていて、ハンドルの重さもまだ手のほうにある。それでも同じところで先へ進めなくなる。十四号のどこかに片側交互通行の区間があって、最後に走ったときは鉄板が敷いてあった。あれがどうなったかを知らない。知らないところへは車が入らない。そこで一度止めて、八幡へ戻って乗せ直すのを、日に何度もやっている。 外の音は平日と日曜で違う。ディーゼルが低いところで唸って坂の手前で一段落ちる音が、平日の午前なら三分に一台は通るのに、今日は十分近く空いた。代わりに乗用車が増えて、急いでいない車はアクセルの抜き方が長い。角の信号が青になってから七台通って途切れたら、たいてい日曜の昼過ぎだと思っていい。平日は十一台、多い日には十四台まで数えたことがある。バスのエアが抜ける音だけは曜日で変わらないので、あれを聞くと数がやり直しになる。 日曜には関節を伸ばしに来る人が来ない。木曜に肘をゆっくり伸ばされたときの痛みは、その場で終わる種類のもので、来ない日の痛みは膝の裏と肩に同じ強さで一日続くので、途中から飽きる。 妙子は四月に入ってからも毎日来ていて、扉が開いた時点で歩き方で分かる。かかとから来て、ベッドの手前で一度止まって、荷物を椅子に置いてから声を出す。 「暑くない? これ、一枚多いよね」 暑い季節ではないのに、掛け物の枚数の話をよくする。足の甲に手が触れて、それからふくらはぎを二回さすった。爪切りの音が、いつもと同じ左の親指から始まる。 「あのさ、自転車の後ろ、また空気抜けてて。パンクじゃないんだって。虫ゴムっていうやつ。二百円で直った。二百円だよ」 「自転車屋のおじさん、あたしのこと覚えててさ。前に前輪もやってるから」 「お母さん、今日お兄ちゃんと来るって。三時くらい。お兄ちゃん、電話だと元気そうなんだけどね」 「うち今週、棚卸しなの。だから昨日ちょっとしか居られなかったじゃん。棚卸しって、数えるだけなのになんであんなに時間かかるんだろ。数えて、合わなくて、また数えるの。二回目のほうが早く終わるんだよ。おかしくない?」 「ねえ、爪、こっちの手だけ伸びるの、なんでなんだろ」 昨日は掃除機のあとに来て、十五分いなかった。あれを毎日続けるのは、勤め先を持っている人間には無理だと思う。 三時の少し前に、足音が二人ぶん来た。片方は都で、もう片方は歩幅が広く、床を擦らない。隼が来るのは月に一度で、今年になってから、前に来た日との間隔が三十四日より短くなったことはない。 「親父、また痩せた?」 「体重は先週と同じだって。四十八キロ」 「四十八って、俺が高校のときの親父より十五キロ少ないよ」 「そういう計算しないの」 紙袋を椅子に置く音がして、中でプラスチックが鳴った。何を持ってきたのかは最後まで分からなかった。 「駐車場、混んでてさ。三周した」 「日曜だから」 「駅から歩けばよかった」 「歩くと二十分かかるよ」 「二十分ならいいじゃん」 「荷物があるでしょ」 「なんか買ってくる。お茶でいい?」 「なんでもいい」 「お財布持った?」 「持ってる」 妙子が出ていって、扉の外の足音が階段のほうへ折れた。エレベーターを待たない子だ。 しばらく誰も喋らなかった。隼が歯のあいだから息を吸う音がする。前からある癖で、歯が痛むのか、言うことを選んでいるのか、こちらには分からない。椅子が半分ずれた。 「あのさ。延命って、どこまでやるの」 聞こえた。都は答えなかった。紙袋を折りたたむ音が三度して、それから掛け物の端を引く手が動いて、膝の上のあたりが平らになった。手はそのまま脛のほうへ下りていって、シーツの皺を二度伸ばした。 「駐車券、下で判もらってきた?」 「もらった」 「四時までなら三百円ですむから。過ぎると倍」 「三百円って、こないだと違わない?」 「土日は違うの」 「うん」 「先生には、その、聞いてるんだよね。この先のこと」 「高梨先生は話が長いから、半分は分からない」 「長いって、何を長く言うの」 「わからないから、長くなるんだと思う」 隼はそれ以上言わなかった。ペットボトルの蓋を開ける音がして、すぐに閉める音がした。飲んでいない。 妙子が戻ってきた。袋の中で缶が三つぶつかっている。 「二人とも、なんかあった?」 「別に」 「お母さん、これしか無かった。お茶」 「ありがと」 それから、角の信号で車がまとまって走り出す音を十三まで数えるあいだ、都と隼と妙子は雨樋の話をした。 「東側の雨樋、外れかかってるでしょ。二軒に電話した。一万五千と、二万八千」 「そんなに違うの」 「安いほうは足場を組まないから。隣との境のところ、届かないって」 「届かないところは、どうするの」 「そのままだって」 「そのままでいいの?」 「よくはないけど」 「お母さん、どっちにするの」 「あんた、何時の電車なの」 妙子が笑って、笑ってから話題が止まった。そこへ廊下を行く配薬のカートの音が入ってきた。 帰るときの音の順序は決まっている。椅子が戻り、荷物が持ち上がり、カーテンが半分だけ動いて、足音が三つ、扉のところで一度かたまる。 「じゃ、また来月」 「電車、混むから座りなさい」 「あの時間は座れないよ」 足音が離れていく。今日は妙子だけが戻ってきて、掛け物の下に手を入れ直して、また出ていった。指が冷たかったのは、缶を持っていたせいだと思う。 扉の斜め向かいで都が電話をしていた。声を落としているつもりの声で、この部屋には届く。相手が誰かは分からない。 「うん。まだ、なんにも決めてない」 「そう。うん、そうなんだけど」 「あの子はあの子で、いろいろあるから」 「うん、こっちは変わりないから。うん」 そのあとは返事のほうが長かったらしく、都は三度ばかり相槌を打って、足音が遠くなった。 夕方の配膳車は朝より速い。今日はその音でも、右の後ろが鳴らなかった。夜勤に代わる前の体位変換で左を下にされて、左を下にされた日は外の音が枕に潰れて遠くなる。それでも十四号を行く車の音は聞こえる。八幡の南で客を乗せて、市川橋まで出て、継ぎ目を三つ踏んだところで止めた。橋の先へは、今日は行かなかった。 第六章 右へ回されるとき、背中の下でマットレスの空気が細く抜ける。夜勤の人の手は速い。速いぶん二度に一度は枕がずれて、今夜は耳が枕の縁に乗った。この乗り方になると廊下の音が近くなって、詰所で椅子を引く音まで拾える。得をしたとも損をしたとも思わない。朝までの向きが決まった、それだけだ。 外の道が軽い。 二百メートルほど先を千葉街道が通っていて、舗装の継ぎ目を踏む音の間隔で、混み方はだいたい分かる。今夜は一台が行ってから次が来るまでに、こちらの息が三つ入る。平日の同じころなら二つで足りる。大型は連休だろうと走るから、腹の底に残る低いのは減らない。減るのは乗用車のほうで、この軽さは四月の終わりに来て、五日か六日続いて、それからまた重くなる。連休の最後の日の夕方だけは別で、下りの音が切れずに繋がる。帰ってくる車がいっぺんに江戸川を渡るからで、あの時間に空車で下りに入るのは二十七年やって一度もしなかった。体の側が勝手に数えている。数えた先に行く場所はないのに、やめられない。 五月に入ってから、娘の来る日が減った。 四月は毎日来ていた。日曜に来て、月曜に来て、雨の日にも来た。妻の来る日が月と水と金と日曜だから、こちらは妻を暦にしている。その暦で数えると、五月は金曜から日曜まで続けて来て、二日空いて、母親と重なった水曜に来て、そこから三晩空いた日曜に来た。来た日が五日、来なかった日が五日。責める気は起きない。駅の向こうからここまで自転車で二十分ほどのはずだが、二十分というのは毎日出せば二十分ではなくなる。それに、来ない日のほうが廊下の音はよく聞こえる。音の総量は減らない。減るのは種類のほうだ。 来たときの音が変わった。 四月までは、椅子を引いて、座って、こちらが四百まで数えるあいだに立った。荷物を床に置く音がしなかった。五月に入ってからは、座る前に鞄を下ろす音がして、椅子の脚を二度動かして、それから長い。この前は千二百を越えても椅子が鳴らなかった。そして喋る。四月までほとんど喋らなかった娘が、切れ目なく喋る。誰かに聞かれて答えているのではなく、黙る時間を作らないための喋り方に聞こえた。 「今日ね、駅の階段のとこで自転車のカゴが前の人の傘に引っかかって、それで謝ったんだけど、聞こえてなかったみたいでそのまま行っちゃったの。ああいうの、追いかけたほうがいいのかな。追いかけて謝られるのも、向こうからしたら怖いよね。傘、たぶん壊れてないと思う。骨のとこじゃなくて、布のとこだったから」 「お母さん、店の人が二人辞めたんだって。だから土曜も出てる。文句言ってたけど、たぶん出たいんだと思う。家にいても、ね」 「あ、洗剤変えたよ。前の、匂いがきついってお父さん言ってたでしょ。だからちがうやつにした。ちょっと高いんだけど、そんなに変わらない気もする。お母さんはどっちでもいいって。あの人、最近ビール買ってこないんだよ。やめたのって聞いたら、やめてないって言うの。買ってないだけだって。それ、やめたって言うよね、ふつう」 そんなことを言ったのは、隼が高校に上がった年だから十四年前になる。洗剤の話をした覚えはないが、言いそうではある。娘の中では、それが去年あたりの棚にしまわれているらしかった。こちらも二十年前に客から聞いた話を、昨日仕入れたもののように次の客へ渡していたことが何度もあったはずで、渡された側はいまごろそれを自分の話として誰かに喋っている。喋りつづける娘を止める手立てはないし、止めたいとも思わない。喋っているあいだは、椅子の脚が動かない。 途中で岸さんが入ってきた。 「黒木さん、ちょっと吸引しますねー。すみません、廊下で待っててもらっていいですか」 カーテンの輪が横へ走って、椅子が鳴って、足音が二歩で切れる。肩を一度叩かれる。岸さんは必ず叩いてから入れる。管の先が喉のいちばん奥の、いちばん触られたくないところに当たって、当たった先から息の順番が入れ替わる。吸われているあいだは入ってこない。入らないと分かっていても体のほうが勝手に入れようとして、入らないので、そのぶんだけ長くなる。数を数えることにしている。三十まで行かずに済む日もあるし、六十を越える日もある。今日は四十七だった。四十を過ぎたあたりから、数えているのが自分なのか外の誰かなのか、境が薄くなる。管が抜けたあとで喉の奥が熱くなり、その熱は五分ほど残って、それから舌の付け根まで落ちてくる。岸さんは吸っているあいだ中ずっと何か喋っている。はい、いきますよ、もうちょっと、はい、おしまい。誰に向けて言っているのかは分からない。たぶん自分に言っている。富永さんのほうが速いし、速いほうが楽なのだが、肩を叩かれる分だけこちらは支度ができる。一日に六回か七回、その支度をしている。 娘が戻ってきた。 「ごめん、待ってた? 廊下、寒くてさ。あそこの窓、開いてるんだよ。誰が開けてるんだろ」 椅子の脚がまた鳴って、さっきより近い。息の継ぎ方が短くなっていて、喋る速さも上がったように聞こえた。 「あのね、さっきの続きなんだけど、追いかけたほうがいいのかってお母さんに言ったら、そんなの気にしてたら仕事にならないって。そういうとこあるよね、お母さん。でもあの人、自分は謝りすぎるの。店でお客さんに、シミが落ちませんでしたって謝るとき、二回言うんだよ。一回でいいのに。あれ聞いてると、こっちが先に謝りたくなる。あ、そうだ、隣の家、足場組んでる。建て替えるのかな。夜のうちに囲いだけ立ってて、朝になったら人がいるの。うるさいけどお母さんは何も言ってない。文句言う相手がいないと言わない人なんだと思う」 「聞こえてる? お父さん」 聞こえている。返事はできない。娘は返事を待たずに次を喋りはじめた。待たないのが当たり前になってきていて、そのほうが助かる。四月のころは、聞いたあとにしばらく黙る時間があって、そのあいだこちらは廊下の足音を数えていた。三十四歩数えたところで、娘は洗濯物の袋を持って立った。 昼の配膳車が行ってしばらくするとリハビリの人が来る。肩から始めて、肘、手首、股関節、膝の順で回すが、いちばん痛いのは肩だ。関節可動域訓練という名前だと、二月に一度だけ説明された。名前を覚えても痛みは減らないが、順番を覚えると次にどこが来るかが分かって、来ると分かっているものは少しだけ短くなる。肘のところで手が一度止まって、こちらの腕の重さを持ち直してから曲げる。持ち直すときに息の漏れる音がして、その音の長さで、この人が今日この部屋へ来るまでに何人まわってきたのかがだいたい知れる。四人を越えたあとだと、持ち直しが一度で決まらずに、腕がいったん下がってから上がる。膝まで来ると終わりが近い。終わったあと、脚を伸ばした位置がいつもより二センチほど下がっていて、踵の当たるところが変わる。この二センチが、夕方まで気になり続ける。 掃除機が終わってから夕方の配膳車までのあいだ、この病棟にはほとんど音がなく、ここがいちばん長い。二月からずっと同じ問題で、いまのところ道を走るのがいちばん保つ。南口のロータリーを出て、一つ目を左に入って線路沿いに東へ行く。京成の踏切でだいたい引っかかる。上りと下りが続けて来る時間だと二回ぶん待たされて、その待ちのあいだに客が後ろで携帯を出す音がする。踏切を越えて坂を上がると、二速のままエンジンの音が半分低くなる場所がある。あそこを通るとき、客はたいてい黙った。理由を聞いたことはない。坂を上がりきって、真間の方から松戸へ抜ける道に出て、右に折れると、道幅が急に広くなって前の車の音が遠くなる。そこまで来ると一度で終わってしまうので、また南口へ戻して、今度は逆の順で走る。三往復すると、たいてい夕方の配膳車が来る。車輪の一つが鳴る。朝より速い。夕方の配膳は職員の数が少ないのだと、二階の人が廊下で言っていた。 水曜に妻が来た。 袋のジッパーを開ける音、洗濯物を出す音、たたんだものを入れる音。妻はほとんど喋らない。廊下で富永さんを呼び止めて、短く何か聞いた。妙子、来てますかと聞こえた。昨日いらしてましたよ、と富永さんが答えた。妻は、そう、とだけ言って、それきり何も言わなかった。二人は連絡を取っていない。取っていないというより、取る用がないのだと思う。妻はこちらの手のほうに戻ってきて、袖を直して、指を二本、手首の内側に置いた。脈を数えているのか、置いただけなのかは分からない。置いたまま、何も言わずに、たぶん十分ほどいた。帰る前に袋の口を締める音が二度した。一度目で締まりきらずにやり直したらしく、二度目のほうが遅かった。二月からずっと同じ袋を使っていて、ジッパーの走る音は最初のころより短くなっている。 消灯で空気の音が変わる。 隣の人の咳は、四月より短くなった。前は続けて五回か六回出て、そのあと痰を切る音がしていたが、いまは二回で終わる。夜中に一度ナースコールが鳴って、サンダルが二人ぶん来て、しばらくして一人ぶんが戻った。残ったほうは何も喋らずに、ただ何かを取り替える音を立てていた。袋を替える音が二度して、それを吊るす金具が一度鳴った。仕事の順番が決まっている人の音で、迷いがない分だけ早く終わる。終わったあとで、隣の人の呼吸に合わせるように、掛けものを直す音が短く三回した。それからこちらの体位変換が来て、左へ回された。左だと外の道が遠くなる。 木曜に娘が来た。 妻の暦でいくと金曜の前の日で、五月に入って七度目になる。鞄を下ろす音がして、椅子の脚が二度鳴って、缶を開ける音がした。 「うちの部署、来月から人が入るんだって。二人。派遣じゃなくて、ちゃんと採るらしい。だから私、いなくてもいいのかもね。あ、そういう意味じゃなくて、仕事が減るってこと。楽になるってこと。前に言った、あの引き継ぎのやつも、たぶん私じゃなくなる。まあ、なくなったらなくなったで、べつに困らないし。あの部屋、暖房が効きすぎるんだよね。窓側の人がずっと寒いって言うから、みんな厚着してるの。変な会社。お父さんの会社って、そういうのどうだった。あ、タクシーは会社にいないか」 「あのね、そういえば」 そこで配膳車が来た。車輪が廊下の端で鳴って、こちらの部屋の前で止まる。 「もうごはんなんだ。まだ五時半じゃん、早いね。お父さんのじゃないけど。廊下の人、これ待ってるのかな。お母さんもごはんの時間だけはずらさない人だから、そういうとこ似るのかもね、歳とると。あ、じゃあ、また来るね。次は……木曜は来ちゃったから、来週の、」 第七章 隣の人の息の間隔が変わったのは、夜勤の見回りが二度目に来るより前だった。 四か月ちかく同じ部屋にいるので、あの人の呼吸はだいたい覚えている。吸うときに喉の途中で一度引っかかり、そこを越えてからもう半分だけ吸う、二段の吸い方をする人だった。痰が溜まってくると引っかかっている時間が長くなって、吐くほうの終わりに細い笛の音が混じる。名前も歳も知らないまま、日曜の昼に来る家族の靴の数と、枕元でいつも小さすぎる音量にしてあるラジオと、月に二度ほど誰かが差し込んでいくテレビカードの音だけで、あの人のことはずいぶん長く聞いてきた。二十七年、他人の車の音ばかり聞いて走ってきた。悪くなっていくものには順番があって、順番が狂ったときだけは、理屈より先に分かる。その夜は二段目が来なかった。一度引っかかって、そのまま止まって、ずいぶんしてから吐いた。それが三度続き、四度目は吸うほうが浅くなって、あとが長く空いた。 声を出す手順は、頭の中では最後まで組み立てられる。腹に力を入れて、喉を閉じて、開く。そこまでは分かっているのに、分かっているところから先が、どこにも繋がっていない。 呼べない。 アラームが鳴るまでに、十分か、二十分か、そのくらいあったと思う。点滴が終わったときに鳴るものより高くて、間隔が詰まっていた。足音が二つ、廊下の遠いところから近づいてきて、片方は底の薄いサンダル、もう片方はもう少し厚いもので、走ると床の鳴り方が変わる。カーテンのレールが一気に鳴り、途中で一度つっかえて、また鳴った。名前を呼ぶのが聞こえた。二音か三音の、こもった呼び方で、聞き取れなかった。一メートル半ほど離れたところに四か月寝ていて、まだ知らない。 「サチュレーション、出ない」 「もう一回、指変えて」 「変えました。出ません」 「先生、何分で来るって」 「いま下から上がってます」 「ご家族、電話して。長男さんのほうから」 「一回目、出ませんでした」 「もう一回かけて。だめなら次男さん」 「次男さんの番号、古いままかもしれないです」 「そこ、あとで直しといて」 「岸くん、記録、時間だけ先に入れて」 「入れました」 「ロッカーの鍵、誰か持ってっちゃったんだけど」 「知らないです」 医師の靴は他の音と違う。硬い底が踵から入って、爪先で抜けていく。歩幅も病棟の誰より広い。高梨先生の歩き方ではなかった。 「経過は」 「二十一時の巡回では変わりなくて、一時のときも、いつもの感じでした」 「ご家族は」 「連絡中です」 「じゃあ、待ちましょうか」 ベッドの脇で何度か短いやりとりがあって、そのあと一つだけ、はっきりした声で数字が言われた。 「二時三十四分」 「二時三十四分」 復唱する声が続いた。ここに来てから、時刻を正確に知ったのは初めてだった。数えられる場所をもらったので、そこから数えはじめた。 詰所のほうで電話をかけている声が、扉の開き加減で切れたり戻ったりした。 「もしもし、夜分に申し訳ありません、第二青葉台病院です」 「はい。……はい。いま、こちらに来ていただけますか」 「お気をつけて。正面玄関は閉まっておりますので、夜間の通用口のほうから」 「はい。お待ちしています」 三十分ほどして、こちらのカーテンが引かれ、吸引の器械が動きだした。順番が来ただけで、夜中の順番は隣で何があっても動かない。管が鼻から入って、喉のいちばん奥まで届く。届いたところを、自分のものではない手が引っ掻いて、引っ掻いたまま戻っていく。息を止めるという判断が、判断の形のまま、行き先を失って止まっている。体のほうは勝手に暴れて、咳になりそこねた音を立てて、それが自分から出ている音だと分かるまでに少し間があった。終わったあと、何秒か、耳が何も拾わなくなる。音が消えるのではなく、拾う側が働かなくなって、それから空調、廊下、遠くの道路の順に、ひとつずつ戻ってくる。 「はい、終わり。よく我慢した」 富永さんの手は速い。速いというのは雑という意味ではなくて、迷いが挟まらないという意味で、管の入り方も抜き方も、毎回ほとんど同じ長さで終わる。 窓の外の道は、ここから百五十メートルくらい離れている。片側二車線で、夜中は信号の間隔が長くなるから、車は一台ずつ、間を置いて通る。三時を回ると音の種類が変わる。空荷の四トンは荷台が鳴るので、積んでいるかどうかはすぐに分かる。コンビニの前でバックする電子音が二度続けて聞こえて、そのあと新聞のバイクが路地に入ってきた。四時に近づくと、ゆっくり流している車が通る。信号の手前で速度を落として、渡ってからまた上げる。客を探して走る車の走り方で、二十七年、自分がそう走っていた。踏切はまだ鳴らず、鳴りはじめたのは、たぶん五時になる少し前だった。 そのあいだ、病棟のほうは止まらなかった。二つ隣の部屋で点滴のアラームが鳴って、誰かが行って消して、戻ってくる。三時の体位変換は三時に来て、マットレスの空気が抜けて、また入る。廊下の端では洗い物の音がずっと続いていて、隣で人が死んでも、こちらに回ってくる順番は一つも飛ばずに来た。 家族が来たのは、数えはじめてから二時間ほど経ったころだった。エレベーターの扉が開いて、廊下を早足で来る音が二人分。どちらも底の平たい靴だった。 「すみません、遅くなりました」 「いえ、遠かったでしょう」 「電車がもう無くて、タクシーで」 「こちらです。どうぞ」 「あの、もう」 「先生からお話がありますので」 「はい」 年配の女の声と、四十くらいの男の声だった。男のほうは同じことを二度言った。カーテンの内側に入ってからは、声が低くなって、単語がいくつか届くだけになる。泣き声は聞こえなかったが、聞こえなかっただけで、無かったとは言えない。 「暑かったろうに」 「クーラー、効いてたのかな」 「効いてたよ」 「兄さんには、朝でいいよ」 「起こしたって、来られないんだから」 椅子を引く音がして、それから長いこと、誰も喋らなかった。 まぶたの向こうが明るくなって、しばらくしてカーテンが順に開きはじめた。いつもは十四回、廊下の分まで数えて十四回だが、その朝は十二で終わった。数え直すことはできない。 九時の少し前に、湯の音が隣で始まった。いつもより湯を使う時間が長くて、袋を開ける音と、何かを絞る音が何度も混じった。途中で、病院の匂いではない匂いがした。花に似ているが花ではなくて、髪につけるものか、化粧に使うものだと思う。四か月のあいだ、この部屋でその匂いを嗅いだことは一度もなかった。作業のあいだ、二人はほとんど喋らなかった。手だけが動いている時間のほうが長かった。 「お湯、換えてきます」 「これ、ご家族にお渡しするやつ」 「櫛、ある」 「持ってきます」 「ここ、押さえてて」 「ご家族、下で待ってらっしゃるから」 それから、モーターの音が止まった。 隣のマットレスに空気を送る機械が、四か月、低いところでずっと鳴っていた。鳴っていたと分かったのは、止まってからだった。冷蔵庫と同じで、止まった瞬間に、そこにあった音の形がそのまま穴になって残る。自分の下でも同じ機械が動いていて、二時間ごとに硬さを変えている。同じ型のはずなのに、隣のほうがわずかに高かった。もう比べられない。 ベッドが動きはじめたのは、十時を回ってからだった。回診の靴音が来る前に運び出したかったのだと思う。そういう順番だった。車輪は四つとも鳴らない。配膳車は一つだけ鳴るので、あれは油をさす順番が回っていないだけで、鳴らないほうが普通なのだと、その時に知った。廊下に出て、突き当たりで一度止まって、扉が開いて、閉まったが、降りていく音までは聞こえない。 三日、隣は空いていた。 空いた場所は、音が無いのではなく、音の返り方が変わる。声も車輪の音も、そこで一度跳ね返ってからこちらに来ていた。跳ね返るものが無くなると、同じ声が少し遠くなる。何度か、無くなったほうへ耳を向けている自分に気がついて、そのたびに、向ける先はもう無いのだから別のものを聞けばいいと考えるのだが、しばらくすると、また同じほうを聞いている。二日目は昼から雨で、道路の音が変わった。濡れた路面はタイヤの音が伸びるので、降りだしたのは音で分かる。ワイパーの速さまでは分からない。岸さんは相変わらず独り言を言っている。あの夜だけは一言も喋らなかった。 「駐車場、来月から千円上がるんだって。千円って、なあ」 「傘、どこやったかな」 「この靴、もう限界だ」 誰に言っているのでもない。返事を期待していないから、こちらが返せないことも、たぶん困らない。 都が来たのは二日目だった。月曜と水曜と金曜と日曜に来る。時間は決まっていない。 「あら」 一度そう言って、荷物を置く音がいつもより静かになった。廊下で誰かに何か訊いている。内容までは届かない。戻ってきてからは、隣のほうを向く気配がなかった。 「暑いね、今日。じめじめして」 「さっきね、駅前で妙子と会ったの。あの子、明日、車検なんだって。車のことなんにも分からないのに、自分でディーラー行くって言うのよ」 「お姉ちゃんの膝、まだ良くならないみたい。手術したら早いって言われてるのに、しないの、あの人」 「町内会の当番、今年うちなの。回覧板、いまだに回ってるのよ。知ってた」 「そういえば、ゆうべ、うちの前でずっと車が停まってたの。エンジンかけっぱなしで、二時間くらい。ああいうの、警察って呼んでいいのかしらね」 「……あ、そうだ。冷蔵庫の氷、作るとこ、あれ、直したから」 手は握っていて、握っているあいだ、親指だけが動いている。爪の生え際のところを、行って戻ってを繰り返す。三十分ほどで話すことがなくなったらしく、そのあとは黙っていた。黙っている時間のほうが、こちらは楽だ。 四日目の午後、車輪の音が四つ入ってきた。 「せーの」 「もう一回、せーの」 「頭、こっち。そう」 「シーツ、下に一枚入れて」 「ご家族の方、こちらでちょっとお待ちくださいね」 「よろしくお願いします」 「洗面用具は、名前を書いて、この袋に入れておいてください」 「はい。よろしくお願いします」 「面会は、この時間なら大丈夫です。夜は九時までになります」 「あの、洗濯は」 「そこに出していただければ、業者が週に二回入ります」 「あの、テレビは」 「そこの機械でテレビカードを買っていただいて」 「はい。よろしくお願いします」 「よろしくお願いします」 四度、同じことを言った。数えたのは、ほかにすることがなかったからだ。スイッチが入って、送気が始まった。前のより少し高くて、モニターの電子音も型が違い、間隔がわずかに短い。新しい人の息は静かで、二段ではない。吸うのも吐くのも同じ長さで、途中で引っかからない。覚えるのに、何日かかかると思う。前の人のときは、たしか十日ほどかかった。 第八章 夜勤の巡回のサンダルは二種類ある。片方は踵を擦り、片方は爪先から降りてくる。擦るほうが先に入ってきて、点滴のところでいちど止まり、足の側を回って出ていく。爪先のほうは入り口から動かないまま、ボールペンのノックを二回鳴らして、紙を一枚めくる。ここまでが一日の最初で、そのあとには何も起きない時間が長くある。痛くも苦しくもない時間で、私はこれをいちばん長く感じる。 カーテンが順に開くのは、それから小一時間あとになる。数えると十四回になる日と、十三回で終わる日があって、この部屋は四床だから、残りは廊下の向かいのぶんを音の遠さで数えているだけだ。六月の終わりに三日だけ十三回が続いて、四日目にまた十四回に戻った。 配膳車は右の前の車輪が鳴る。 詰所の前の継ぎ目でいちど沈み、この部屋の入り口でもういちど沈む。その二度の間隔で、今日の車が速いか遅いかが分かって、速い日はたいてい人が足りていない。トレイの置かれる音が四つ続いて、そのうちの一つが足元の台に置かれる。腹が温かくなるのはもっとあとのことで、それは音では始まらない。 窓の外は七月に入ってから騒がしくなった。蝉が鳴きだす前に路線バスの空気の抜ける音があって、それが十二分おきに来ているうちは、まだ人が出勤している時間だ。間隔が十五分に開いたら九時を過ぎている。信号の周期も朝は長く、八十秒くらいあったものが昼には七十秒に落ちる。今朝は大型が二台続けて入ってきて、二台目が先の一台の後ろに浅く止まった。道を知らない運転手の詰めかたで、二十七年やっているうちに、聞くだけで舌打ちが出るようになっていた。今は舌打ちも出ない。出ないというより、出しかたのほうを忘れている。 吸引が来ることは、器械よりも先にカートが知らせる。 車輪の一つに何か挟まっているのか、廊下の遠いところから乾いた音を立てて近づいてきて、それが枕元で止まり、引き出しが二段ぶん開く。手袋の口を吹いて広げる音がして、袋を破る音がして、スイッチが入り、管が水を吸って喉を鳴らす音を立てる。ここまでで私はいつも喉の奥を締めようとする。締まらない。締めるための筋肉がどのあたりにあったのかは覚えているのに、そこへ行く道のほうが塞がっている。 「黒木さん、おはようございます。岸です。吸引しますね、ちょっとだけ我慢してください」 管が入ってくる。奥まで来ると体は勝手に反りたがって、反りきれないまま途中で止まる。息の通り道を、内側から棒で掃除されている。秒を数える手立てがないので、岸さんの独り言の数で測ることにしている。今日は三つだった。 「あー、暑いなあ。今日は三十八度って言ってましたよ」 「内陸のほうなんか四十度いくらしいですからね、四十度」 「うちのアパート、西日でね。帰ってもサウナなんですよ」 「昨日なんか駐輪場で鍵なくして、三十分探しましたからね」 管が抜けて、口の端をガーゼで拭かれる。息が戻ってくるまでのあいだ、耳の中で自分の脈が鳴っていて、その速さからさっきのが何秒だったのかを逆算しようとする。意味のないことを考えるための時間だけは、いくらでもある。 清拭は、その少しあとに来る。二人で来る日は早く終わる。 「富永さん、こっち先でいいですか」 「うん、黒木さん先にして。あとで高梨先生が回るから」 「じゃあ回します」 「右向けて。もっと肩、奥まで入れて」 「タオル、もう一枚もらえますか」 湯を絞る音が二度して、タオルが首の後ろに入ってくる。熱い。熱いと思った次にはもうぬるくなっていて、そのぬるくなるまでのわずかなあいだだけ、自分の首がどこからどこまでなのかがはっきりする。背中に回ったところで手がいちど止まって、指の腹で二度押される。押されたところは、あとで薬を塗られる場所だ。 「クロキさん、つめたくない。だいじょうぶ」 リーさんの日は鼻歌がある。同じところを二度繰り返して、三度目で別のところへ行く。曲は知らないまま四か月ほど聞いていて、たぶんこの先も知らない。 隣に人が入ったのは、前の人がいなくなって三日後だった。夜のあいだに来たらしく、朝には呼吸の音が右にひとつ増えていた。この人は自分で寝返りを打つ。私のところはマットの空気が抜けて入る音がするけれど、向こうは布が擦れて、それで終わる。 回診の靴音はほかと違う。踵が硬くて、廊下の端から近づいてくる速さで、どの先生かが分かる。私のところは短く、脈と、痰の量と、それだけで終わる。隣は長い。 「ええとですね、前回お話しした続きになるんですが、腎臓のほうの数値が、先月と比べますと、少しですけれども上がっておりまして」 「はあ」 「これ自体はすぐにどうこうという話ではないんです。ないんですが、お薬の量をこのまま続けるとなると、ご相談したいことが出てまいりまして」 「はあ」 「ご家族の方、次にいらっしゃるのはいつでしょうか」 「土曜に来ます」 「では土曜に、もういちど同じ話をさせてください。同じ話になりますけれども」 「はい」 「それとリハビリのほうは、無理のない範囲で続けていただいて」 「はい」 「暑いですから、水分は摂ってくださいね」 説明が終わるまでに、外を路線バスが二本通った。私に説明する人はいない。説明することがないからで、そこは筋が通っている。 家族が来ると、この部屋はしばらく声でいっぱいになる。 「お父さん、これ。首んとこに巻くやつ。ドラッグストアで買ってきた」 「いらん」 「いらんことないでしょ。今日三十八度だよ」 「テレビでやっとった」 「じゃあ知ってるじゃない」 「知っとるよ」 「知ってるなら巻きなって」 「巻いたら暑いわ」 「そのために冷やすんだって、これ」 そこで椅子が鳴って、しばらく誰も喋らない。それから、まるきり違う話が始まる。 「兄ちゃんとこ、下の子が中学だって」 「制服が高いんだと」 「そら高いわ」 「上だけで三万だってさ」 「三万」 「それで三年で背が伸びるから、また買うんだって」 「馬鹿らしい」 「馬鹿らしいけど、みんな買うんだよ」 「じゃあ持って帰るよ、これ」 「置いとけ」 「昨日の先生の話、なんて言ってた」 「長かった」 「長かったって、内容は」 「長かった」 娘さんらしい人は三十分ほどいて、次に来る日を二回言ってから帰った。私はしばらく三万という数字を持てあましていた。うちの子らの制服がいくらだったのかを思い出そうとして、思い出せない。都に任せていたからだ。任せていた、という言い方も、たぶん正確ではない。 昼を過ぎるとリハビリが来て、膝と股関節を、動く分だけ動かされる。動かないほうへ押し込まれるとき、体の内側で乾いた紐を引かれるような感じがして、声が出るならそこで出ている。掛け声だけがはっきり聞こえて、「はい、ゆっくり」と「はい、もう一回」が交互に来る。 そのあと掃除機が来て、ベッドの下を二往復する。 三往復する日はたいてい夕方に何かあって、そこから夕方までがまた長い。 都は月と水と金と日曜に来る。時間はばらばらで、水曜は夕方の配膳車の前に来た。足音で分かって、スニーカーの右だけが擦れていて、歩きかたを直したほうがいいと前にいちど言ったことがあるが、直っていない。 その日は十分ほどしかいなかった。手をとって、指を一本ずつ伸ばしてから、手のひらのところをまとめて握った。爪のあいだを親指で押される。押されているのが分かるということは、そこはまだ生きているということで、生きているとして、それが何かの役に立つわけでもない。 「金曜、妙子が来るって。仕事の帰りに寄れそうだって言ってた」 そう言って出ていった。妙子は金曜に来て、三十分いた。来る回数は先月から週にいちどになっている。 「田口さんっていう人がね、去年からずっと辞める辞めるって言ってるの。まだいるんだよ。もう慣れちゃった」 「お父さんとこにもいたでしょ、そういう人。会社のとき」 「わたし覚えてるよ、名前は忘れたけど」 「エアコン寒すぎるんだよね、うち。七月なのに上着持っていってる」 そのあいだ、ずっと私の右手を握っていた。喋りながら握る癖は、都にはない。 日曜は、朝から蝉がうるさかった。 都が来たのは掃除機のあとで、いつもより遅かった。椅子を引く音がして、鞄が床に置かれる。ファスナーが半分だけ開いて、また閉まる。ペットボトルの蓋が開いて、飲んで、閉まる。それから、何も起きなかった。 洗剤とアイロンの匂いがした。店から直接来ると、いつもこの匂いを連れてくる。日曜も出ていたのかと思ったが、それを訊く方法が私にはない。訊けたとして、たぶん短い返事しか返ってこない。 うちわが始まったが、私に向けてではなく、自分の首のあたりで動かしている風の音だ。携帯が二度震えた。出なかった。三度目で、うちわが止まって、それからまた動きはじめた。 衣擦れが窓のほうへ動く。外ではバスが停まって、扉が開いて、閉まって、走り出す。次のバスが来るまでのあいだ、都は何も言わなかった。二本目が来て、三本目が来た。そのころには蝉の位置が変わっていて、窓に近い一匹が途中で鳴きやんで、飛んでいった。 手は、その日は握られなかった。腕にも触れられなかった。触れられていないと自分の輪郭がどこにあるのか分からなくなって、輪郭が薄れると、押されている場所だけが浮いてくる。左の肩の下と、踵と、腰の右のあたりが、順に熱を持ってくる。 椅子が鳴って、鞄のファスナーが鳴った。立ち上がるときに椅子の脚が床を短く擦って、その音のした位置で、だいたい一時間だったと分かる。バス五本ぶんだ。 「すみません、洗濯物、来週まとめて持って帰ります」 「はい。じゃあ袋、そこに掛けておきますね」 「ありがとうございます」 「暑いですから、気をつけて帰ってくださいね」 出ていく足音は、入ってきたときと同じ速さだった。 夜の体位変換は二時間ごとに来る。消灯のあとは空気の音が変わって、廊下の光が落ちるのが、まぶた越しにも分かる。明るくなったり暗くなったりだけは、まだ私に残っている。 右を向かされるまでのあいだ、私は道を走ることにしている。市川駅の北口を出て、真間の坂を上って、菅野のほうへ抜ける道を選ぶ。あの踏切は遮断機が降りてから電車が来るまでが長く、夜は上りと下りが続けて来る。待たされているあいだ、後ろの客が何も言わないと、こちらから天気の話をした。今日は暑いですね。そう言うと、たいていの客は何か返した。返さない客もいた。 二時間たてば、また向きを変えられる。その前にもういちど、吸引が来る。 第九章 隣に来た人の息は、二か月たってもまだ覚えきれない。前の人には吸うときに喉の途中で一度引っかかる癖があったので、悪くなればその日のうちに分かったのだが、この人は吸うのと吐くのが同じ長さで並んでいるだけで、手がかりになるところがどこにもない。日に何度か、咳になりそこねたような短い音を立てる。それも決まった時間には来ない。夜のうちに寝返りを打つ回数だけは数えられるようになって、多い日で十一回、少ない日は四回だった。テレビは点けない。ラジオも鳴らない。日曜の昼に一人だけ来る人がいて、椅子を引いて、三十分ほどして帰っていく。そのあいだ、向こうからは声がしない。こちらは数えるものがなくなるので、その三十分は長い。 空調の吹き出し口は左の肩の上にある。二時間ごとに向きを変えられるたびに、風の当たるところが首から耳へ、耳から額へと移っていって、右を向かされている日はどこにも当たらない。当たらないほうが楽かというと、そうでもない。 盆の週に入ると、道の音が薄くなった。 朝のバスは平日でも十八分おきになって、十二分で来ていたころの詰まった感じがなくなる。大型はほとんど通らない。代わりに背の高い車が増えて、あれは荷物を積んで高速へ向かう走り方をしている。信号で止まってから動きだすまでが遅い。積んでいる車は出足が重いので、聞いていれば分かる。二十七年のあいだ、私はこの週にはたいてい出ていた。休む者が多いから車は余っているが、そのぶん客もいない。駅前に並んでも列は動かず、乗ってくるのは荷物の多い客ばかりで、迎えの来る家族連れはタクシーに乗らない。それでも三日に一度くらいは成田までの客がついて、そういう日は一万八千円くらいになった。行きは高速で、帰りは空車のまま湾岸を流して戻る。誰も乗せていないので、窓を開けて走った。今の私にはその音のほうがよく残っていて、道の順番も、どこで風が変わるかも、いまだに順に思い出せる。 清拭のときに、岸さんが今年は実家に帰らないと言っていた。 「盆に帰ると、みんな免許の更新の話するんですよ。なんでですかね」 「俺、去年切らしたんですよ。三か月。バレたら親父に殺される」 「三か月って、けっこう大ごとなんですよ、あれ」 「更新センター、遠いんですよね。みんなバスで行くんですよ、あそこ」 「あ、すみません、ちょっと腕、こっち向けますね」 湯を絞る音が二度して、タオルが脇の下に入ってくる。熱いところからぬるいところへ変わっていくあいだの、その短い時間だけ、腕がどこまで自分のものなのかがはっきりする。免許のことは、私も一度やった。四十のときに更新を忘れて、営業所で頭を下げた。あのときも三か月だった。同じことを言ってやれるのに、言う先がない。 妙子は八月に三度来た。七月からは週にいちどになっていたので、三度ということは、一度は来ていない週があったことになる。数えているわけではないが、数え終わってから数えていたと気がつく。 「田口さん、ほんとに辞めた」 「三年ずっと辞める辞めるって言ってたのに、辞めるときは十日だったよ」 「代わり、来ないんだって」 「うちの課、二人減ったままなの」 「田口さんの席、まだそのままなんだよ。荷物だけ無くなって、机だけ残ってるの」 「そこ、誰も座らないの。近いのに」 「お母さん、日曜も店に出てるの知ってた? この前、駅で会っちゃった」 「ここ、涼しくていいね。……あ、いま変なこと言った」 そのあと三十分ほど、職場の人の名前が四人ぶん出てきた。誰が誰の下にいるのかは分からないまま聞いていた。分からないままでいい。分かる必要のある話は、この部屋にはもう入ってこない。 隼が来たのは、盆が終わって最初の土曜だった。 来るのは月に一度で、たいていは電車だが、その日は車で来たらしい。廊下を歩いてくる音がいつもより重く、床に置かれたものが鞄のほかにもう一つあった。 「参った。駐車場、三周した」 「歩いてくればいいのに」 「この暑さで、あの距離は歩けないよ」 「時間、あるんでしょ、今日は」 「昼までって言ったろ」 「じゃあ、無いじゃない」 「一時間はあるよ」 「お父さん、隼が来たよ」 椅子が二つ引かれて、片方が私の腰のあたり、もう片方が足のほうに置かれた。しばらく、氷の入った袋を鳴らす音と、うちわの音だけがしていた。それから、鞄のファスナーが開いた。 紙の束が出てくる音は、ほかの紙とは違う。一枚ずつではなく、厚みのまま滑り出てくる。留め金を外す音が一度して、そのあとで何枚かめくられた。封を切る音はしなかったので、口の開いたままのものに入れて持ってきたのだと思う。台の上に置かれたとき、机の板の鳴り方から、そこそこの重さがあることは分かった。 「これ、母さん、一回ちゃんと見て」 「見たわよ」 「見てないでしょ」 「見た」 「じゃあ、下のほう。ここ」 「……」 「ほら、見てない」 「見たけど、分からないもの」 「分からないなら訊いてよ、俺に」 「訊いたら、あんた怒るじゃない」 「怒ってないだろ」 「いま、声が大きい」 「大きくない」 「向こうで訊いてきたの」 「訊いてない」 「訊いてから言ってよ」 「訊いたら、そのぶん向こうの話になるだろ」 紙が二枚めくられて、そこで止まった。ボールペンのノックが二度鳴って、書かないまま、しばらくしてまた鳴った。都は椅子の上で座り直したらしく、脚が床を短く擦った。うちわは止まったままだった。 「別に急がないけど、いつまでも置いとくもんじゃないから」 「急がないなら、置いといていいでしょ」 「そういう意味じゃなくて」 「じゃあ、どういう意味」 「妙子には」 「言ってない」 「言っといてよ」 「母さんが言って。わたしが言うと、あの子すぐ来ちゃうから」 「わたし、来月からシフト増えるの」 「なんで今その話なんだよ」 「今しか、言うとこないもの」 そこへ、車輪の音が入ってきた。 廊下の遠いところで一度止まって、それから近づいてくる。あの車輪は何かを挟んでいて、乾いた音を立てる。今日は自分の番だと分かるまでに、間はいらなかった。 「すみません、処置しますので、少しのあいだ外でお待ちいただけますか」 「あ、はい」 「すみません」 カーテンが引かれて、二人が出ていった。掛け金の落ちる音がしなかったので、扉は途中までしか閉まらなかったのだと思う。 私はそのとき、廊下の声を聞いていようとしていた。壁の向こう側の話は、扉の開き加減によっては単語まで届くことがある。準備の音がしているあいだは、まだ届いていた。低いほうが隼で、高いほうが都で、二人とも早さは変わっていなかった。そこから先は残っていない。管が喉に入ると、耳のほうが先に降りてしまう。音が消えるのではなく、拾う側が止まる。器械の圧が変わるときの音の高さで、どのあたりまで来ているのかは分かるようになった。高いままなら浅い。低く、鈍く沈んだら、いちばん奥にいる。その日は低いところで二度止まって、二度目のほうが長かった。体が勝手に反りたがって、反りきれないまま途中で止まる。その途中に、私がいる。終わって、管が抜けて、口の端を拭かれて、空調と廊下と遠くの道路の順に耳が戻ってきたときには、外の声はもう無かった。 「はい、終わりました。どうぞ、お入りください」 戻ってきた二人は、別の話をしていた。 「上限あるって書いてあった? 駐車場」 「知らない」 「まあいいや」 「お茶、飲む?」 「いい」 「今日、何時に出たの」 「九時過ぎ」 「混んでた?」 「そんなでもない」 「盆、終わったからね」 九時過ぎに出てそんなでもないというのは、たぶん外環のほうを使ったのだと思う。盆の明けた最初の土曜なら、あの時間の湾岸は上りが必ず詰まる。詰まるのを承知で湾岸を選ぶ運転手もいて、私は選ばなかったほうだった。それを言う場面は、この二十分ほどのあいだに何度かあって、そのたびに過ぎていった。 紙をまとめる音がして、留め金がかかって、それから鞄のファスナーが鳴った。どちらの鞄かは分からない。ファスナーの音では、中に何が入ったのかまでは分からない。 「じゃあ、俺、昼までに戻らないと」 「気をつけて」 「親父、また来るわ」 肩に手が置かれて、二度叩かれた。叩き方は都のよりも強くて、力の加減を決めかねている人の叩き方だった。足音は入ってきたときより速く、扉のところで一度止まって、それから遠くなった。 それから何日か、私はあの紙のことを考えていた。考えるといっても、材料は三つしかない。厚みのある束であること。留め金で留めてあって、綴じてはいないこと。下のほうに何か書く場所があるらしいこと。この三つで組み立てられるものを順に並べていくと、どれもそれらしくて、どれにも決め手がない。並べ終わると最初に戻って、また同じ順に並べる。そのうち、並べること自体が時間の潰し方になっていた。都は次に来たとき、その話をしなかった。訊く方法が私にはないので、訊かなかったのか、訊かせなかったのかも分からない。 昔、後ろの席に封筒を忘れていった客がいる。年の暮れで、船橋から乗って、市川の八幡のあたりで降りた。気がついたのは次の客を乗せる前で、その日のうちに営業所へ届けた。中は見ていない。厚みだけは手に残っていて、二センチはなかったと思う。一週間ほどして取りに来たと聞いたが、来たのがあの客だったのかどうかも、中に何が入っていたのかも、聞いていない。訊けば教えてもらえたはずだが、訊かなかった。二十七年で、そういう忘れ物をたぶん十いくつ拾って、中身を知ったものは一つもない。知らないままで、仕事はそのつど終わった。あのころは、それで困ることが何もなかった。 都は月曜に来て、水曜に来て、金曜に来た。日曜は少し遅く来て、掃除機のあとだった。 手は、握られる日と、握られない日がある。八月は握られた日のほうが多かった。爪の生え際のところを親指で行って戻ってされるのは、握られているときのやり方で、あれが始まると、そのあとは長い。 夕方の配膳車が入ってくる前に、二人で来て、体を起こしにかかる。 「黒木さん、失礼しますね。腕、上げますよ」 「富永さん、こっち、シーツ替えちゃっていいですか」 「替えて。あと、二番の人の吸引、まだだから」 「あの、それと、さっき廊下で」 第十章 九月に入って、夜のあいだの音がひとつ減った。八月の終わりまで、廊下のいちばん奥で機械が低く唸っていて、それが二時間ごとの体位変換のあいだじゅう鳴っていた。九月の一日か二日から鳴らなくなった。壊れたのか、止めたのか、夏のあいだだけ動かすものだったのかは分からない。分からないまま減っていくものが、この半年あまりでずいぶん増えた。減ったぶんだけ、自分の息の音が近くなる。夜のあいだに二度、マットの空気が抜けて入り、そのたびに体の重さのかかる場所が入れ替わって、入れ替わったばかりの数十分だけが楽になる。そのあとはまた、左の肩の下と踵と腰の右のあたりが順に熱を持ってくる。熱を持ってくるまでのあいだ、私は何もしていない。何もしないという言い方も正しくない気がするが、ほかに言いようがない。 夜中の体位変換は、二人で来る日と一人で来る日がある。一人の日は時間がかかって、そのぶん途中で何度も持ち替えられる。岸さんは独り言が多いので、一人でも二人でも喋っている。 「よいしょ、と。黒木さん、右いきますね」 「あー、腰が。俺のほうが先に潰れますよ、これ」 「あれ、枕。枕どこいった」 「はい、これで楽なはずです。たぶん」 たぶん、と言われて、楽になったかどうかを返す手立てが私にはない。楽にはなった。 カーテンは今朝も十四回だった。 数えはじめたのは三月で、そのころは十二までしか数えられなかった。廊下の向かいのぶんを数に入れていいと決めたのは自分で、決めたことを自分で忘れて、また一から数え直した時期もある。今は迷わずに十四まで行くが、行ったところで、朝が来る以外のことは起こらない。 窓の下の道は、先週から詰まりはじめた。夏のあいだ、七時半から八時半までのこの通りは空いていて、走るのはバスと、配送の軽が二台か三台だった。子どもが学校へ行きはじめると、あのあたりは通学路の規制がかかって、朝の一時間だけ抜けられない道が三本できる。抜けられない三本ぶんが、この窓の下へ全部まわってくる。だから信号の周期が長くなったように聞こえるが、変わったのは周期ではなく台数のほうだ。二十七年のあいだ、九月の第一週だけは迎車に五分よけいに取っていた。取っていても間に合わない日があって、そういう日は無線で先に謝った。謝ると、配車の女の人は決まって、はいはい、とだけ言った。 昨日の昼、外の拡声器が何か言っていたが、言葉までは届かなかった。毎年、九月のはじめにやるやつだ。 吸引は、今日は富永さんだった。 富永さんの手は速く、速い人の管は迷わないので、いちばん奥まで一息で行く。迷う人のほうが長くて、そのぶん浅いところで済む。どちらがましなのかは、半年あまりたってもまだ決められない。管が奥に触れたところで体が反りたがって、反りきれずに途中で止まるのはいつもと同じで、止まったところに力が溜まる。溜まった力は行き先がないので、そのまま抜けていく。三月ごろは秒を数えていた。岸さんの独り言の数で測っていた時期もある。今は数えていないし、数えたところで終わる時刻が早くなるわけではないと、いつのころからか分かった。分かってからのほうが、一回ぶんは長くなった。 「黒木さん、富永です。吸いますね」 「はい、いち、に、さん」 「痰、ちょっと硬いですね」 「もう一回だけいきます」 「はい、終わり」 富永さんは説明をしないので、そのぶん短い。終わったあと口の中に鉄の味が残る日があって、今日は残った。味は、まだ分かる。 そのあとは、何も来ない時間がしばらく続く。 水曜は回診がなく、高梨先生は外来に出ているらしい。廊下を通る靴音の中に、あの、踵から硬く降りてくる音が混ざらない。説明の長い人なので、来ない日は部屋の音の量そのものが減る。 リーさんの鼻歌は、八月の終わりから変わった。前のは同じところを二度繰り返して、三度目で別のところへ行った。今のは繰り返さないし、どちらの曲も知らないままだ。タオルは今日はぬるくて、ぬるいまま首の後ろに入ってきて、入った時点でもう自分の温度と変わらなかった。熱いほうが、首がどこからどこまでなのかがはっきりする。 隣の人は、六月に入ってきてからずっと自分で寝返りを打っている。布が擦れて、それで終わる。昼のうちはイヤホンから野球が漏れていたが、九月に入って漏れなくなった。試合の時間が変わったのか、聞くのをやめたのかは分からない。 リハビリは二時過ぎに来て、膝を三十回、股関節を二十回動かした。数はいつも同じで、数える声だけがはっきり聞こえる。動かないほうへ押し込まれるとき、体の内側で乾いた紐を引かれる感じがして、その紐が去年より短くなっているように思う。 「はい、ゆっくり」 「はい、もう一回」 「黒木さん、今日ちょっと硬いね。昨日より硬い」 痛いのは、終わってからのほうだ。 掃除機はそのあと、ベッドの下を二往復した。 都が来たのは掃除機の少しあとだった。 スニーカーの右だけが擦れる音は、廊下の途中から聞き分けられる。鞄が床に置かれ、椅子が引かれて、座るまでに間があった。座る前に窓のほうへ動いたらしく、衣擦れが一度そちらへ行って、戻ってきてから座った。洗剤とアイロンの匂いはしなかったので、今日は店を通っていない。 「お父さん、暑くないの。今日、外まだ三十度あるって」 「洗濯機、壊れた。日曜の夜。脱水のとこで止まって、そのまま動かなくなった」 「電話したら次の日に来てくれたんだけど、基板だって。二万八千円かかるって」 「十三年使ってるから、直してもまた別のとこが来るって、その人も言うのよ」 「近所の電気屋、去年閉めちゃったでしょ。だから駅前のとこ行ったの」 「配送、来週の火曜しか空いてないんだって」 「安いのだと五万九千八百円のがあるの。乾燥はつかないけど」 「乾燥、いらないよね。うち、干せるし」 防水パンのことを言おうとした。うちの脱衣所のは古い型で、奥行きが足りない。十三年前も一度それで返品して、二度目に持って帰ったのが今の機械だ。五万九千八百円のが入るかどうかは、値段とは関係がない。喉の下のあたりに力を入れる。入れているつもりの場所には、たぶんもう何もない。指も動かない。人差し指の付け根から先へ順に力を送る手順は覚えていて、覚えているのに、送った先で何が起きたのかが返ってこない。返ってこないものを送りつづけるのは、繋がっていない無線に向かって行き先を言っているのと同じで、二度か三度で口のほうが先にやめる。口も動いていない。動かそうとしていることのほうが、どこにも届かないまま私の中で終わる。終わったあとに残るのは、やり損なったという感じですらなくて、ただ、さっきまで何をしようとしていたかを思い出せなくなるだけだ。防水パンの寸法も、いま数えれば出てくるはずの数字なのに、出てこない。 都はペットボトルの蓋を開けて、飲んで、閉めた。 「裏の家、建て替えるって。三軒向こうじゃなくて、真裏」 「先週、挨拶に来た。菓子折り持って」 「解体が来週から。朝八時からだって。うるさいと思うよ」 「工事の車が停まるから、うちの前、朝は出しにくくなるって」 「十月いっぱいかかるって言ってた」 「あそこ、おじいさん亡くなってからずっと空いてたでしょ。息子さんが住むんだって」 「音、こっちまでは聞こえないよね、さすがに」 真裏の家の雨戸は、朝の六時に開いた。夜勤明けで車を置いて、鍵を出しているあたりで、決まって向こうの戸が動く音がした。すれ違えば会釈はしたが、話したことは、たぶん十回もない。犬がいて、その犬が死んだのがいつだったかは思い出せない。都に訊けば出てくるはずのことが、こちらでは順番を無視して出たり出なかったりする。 「妙子、仕事変わるって」 「十月から。前から言ってたやつ」 「面接、二回あったって。二回目は社長が出てきたって言ってた」 「給料は下がるの。一万五千円くらい」 「でも家から二十分近いんだって。今のとこ、乗り換えが二回あるから」 「保険証がいっぺん切れるらしいから、その間だけ気をつけなさいって言っといた」 「もう本人がいいならいいよ」 そこで話が止まった。廊下を、配膳車ではない車輪が通っていく。都は携帯を出したらしく、画面を触る音が四回して、それから膝のあたりに置いた。 「お父さん、あのさ。隼には、この前のこと、わたしから言っといたから」 それだけ言って、また黙った。この前のことが何なのかは、八月に廊下で二人の声が高くなったときにも分からなかった。紙をめくる音は聞こえたし、隼が同じことを二度言い直したのも聞こえた。中身のところだけが、いつも聞こえない。 そのあとは店の話だった。夏のあいだ減っていたワイシャツが、九月に入って急に増えたらしい。 「あの子ね、袖のとこ、四回教えたのよ。四回」 「わたしがやっちゃえば早いんだけどね、それやると覚えないから」 「悪い子じゃないんだけどね」 名前は出てこず、あの子、で最後まで通した。喋っているあいだ、手は握られなかった。片方の手が私の腕の上に置かれていて、置かれているだけで動かないので、重さだけが分かる。話は袖から襟に移り、襟から、店長が来年で辞めるかもしれないという話になった。辞めたらどうするのかは言わなかった。 「洗濯機、どうしようかね」 訊いたのではないと思う。訊く相手がいないときの言い方だった。それでも少し待った。待っている長さが、いつもの間より長かった。廊下で誰かが台車を切り返している。 「まあ、いいや。安いのにする」 配膳車が入ってきたのは、そのすぐあとだった。 「あ、ごはん来ちゃった。じゃあ帰るね」 「金曜また来る。妙子は来週来るって」 「洗濯物、これ持ってく」 「あと髭。今度、剃刀のいいやつ持ってくるね」 「タオル、新しいの二枚入れとくね」 袋の口を縛る音が二度して、椅子が元の位置に戻された。立ち上がるときに椅子の脚が床を短く擦る。その音のした位置で、今日は一時間半ほどいたことになる。 「お疲れさまです」 「お疲れさまでした。まだ暑いんで、気をつけて帰ってくださいね」 「はい、すみません、いつも」 「あの、来週から裏で工事が始まるんですけど、あ、うちの話です、すみません」 「あら、大変ですね」 出ていく足音は、廊下の途中で他の足音と混ざって、そこから先は分けられなくなった。 配膳車は詰所の前の継ぎ目でいちど沈み、この部屋の入り口でもういちど沈む。右の前の車輪が鳴る。朝より速い。トレイが四つ置かれて、そのうちの一つが私の足元の台に置かれた。
小説 · text · 2026-09-07