第一章 午前七時二十分 半田 草はまだ濡れていた。夜のうちに降ったのではなく、川の湿りが下から上がってきているだけで、日が回れば乾く。堤防の内側へ軽トラックを入れ、荷台のあおりを下ろすと、蝶番が錆びた音を立てた。積んであるのは三寸が四十八本、四寸が二十二本、五寸が九本、それに尺が二本で、二尺の筒だけは別の車で九時に届くことになっている。打ち上げ場は上流から下流へ六つに区切られていて、半田煙火が受け持つのは下流から二つめの区画になる。埋め戻した跡は草の色が周りと違うので上から見れば分かるが、同じ穴は使わない。使えば土が緩んでいて、筒が沈む。草は先週刈ってあり、刈った匂いはもう抜けて、代わりに水の匂いがする。対岸ではもう有料席の椅子を並べていて、金属の脚が土を噛む音が、水の上を渡って途切れ途切れに届いた。 石灰の線はもう引いてある。 及川が来たのは二十五分だった。軽自動車を斜めに停め、降りるときに助手席側のドアの縁へ手をつき、それから腰を伸ばした。伸ばしきるまでが長い。 「その線、ちっと右に寄ってねっかね」 「寄ってない」 「去年より川に近いろ」 「水位が低い」 線を踏まないように歩いて、及川は途中で足を止め、地下足袋の裏で土を押した。跡が薄く残った。膝をつくのを嫌うので、腰から折るようにして人差し指を土へ差し、第二関節まで入ったところで抜いて、指先を親指でこすり合わせながら砂の粒を落とした。水を落としてから日が浅いので、砂は乾いた上澄みの下がまだ重い。掘れば手に来る。 「重いすけ、朝のうちに二尺の穴だけ空けとくかね」 「筒が来てからだ」 「そりゃそうだ」 スコップを二本降ろし、水のポリタンクを堤防の斜面が作る細い日陰へ置いた。九時を過ぎればその帯は消えて、あとは日が落ちるまで、影のない場所に立つことになる。軍手をはめると、左の親指の付け根から手首へ抜ける薄い皮膚に、内側の縫い目が当たった。そこだけ汗が出ない。出ないかわりに、周りが余計に出る。三寸の穴から掘りはじめ、二十九本目まで一度も休まずに来たことに気づいて、スコップの柄へ額を当て、掘った数を頭の中で数え直した。四十八という数は朝のうちに二度確かめてある。それでも三度目を数えるのは、途中でやめると最初からになるからで、砂の中に石が混じるたびに数が飛ぶ。八時になると影の帯が細くなり、ポリタンクを日陰の残っている側へ寄せ直した。塩の錠剤は助手席のダッシュボードに入れたままで、取りに戻る手間を惜しんで、紙コップの水を二杯飲んだ。 午前のうちに玉を出すことはしない。玉は倉庫から運んできた車に積んだままにして、日が傾いてから下ろす。紙の玉皮は湿気を吸うと重くなり、重くなった玉は上がりきる前に開く。それだけのことを、講習では四十五分かけて教える。 市村が来たのは八時四十分で、原付を堤防の上へ停め、ヘルメットを腕にかけたまま斜面を降りてきた。 「すんません、道が規制されてて」 「規制は五時からだ」 「あ、そうすか。じゃ関係ないっすね」 ヘルメットを草の上に置き、首の後ろを拭いてから、市村は軍手を裏返しにはめた。二年目でまだ裏表を間違える。 「先輩、原付、こないだキャブ見てもらって一万三千八百飛んだんすよ。今日のぶんで消えるっす」 「そうか」 「今日いくらでしたっけ」 「あとで言う」 「先輩、水飲まないんすか」 「飲んだ」 「先輩、うちの区画って何発出すんすか」 「二千百四十」 「ポスターには一万二千発って書いてあったすよ」 「六つに分けてる」 「二十八万人来るらしいっすよ。長岡の人口より多いじゃないすか」 「多い」 「有料席が九千四百あって、一席四千五百円っすよ。去年、付き合ってた子に取ってやろうとしたんすけど、抽選で落ちて。今年は誘う相手がいないんで関係ないっす」 及川が笑い、そのあと続けて咳をした。手の甲で口を押さえたまま、しばらく背中を丸めて、それから何もなかったように土嚢の袋を広げはじめた。袋の口は三度折ってから縛る。二度でも保つのに、この人はずっと三度折る。 「病院、なじだった」 「まだ結果が出ん。九日にまた行くんだ」 「そうか」 「歳だすけ、どっか悪いに決まってるろ」 「さっきの席の話だけどもね、そんげにあったかね」 「ありますって。ネットに出てました」 「昔は土手にゴザ敷いて、みんな勝手に見てたろ」 二尺の筒は九時十八分に着いた。四トンの平ボディの荷台に横たえてあり、鉄と鉄の間に毛布が三枚かませてある。全長二百八十センチ、内径六十一センチ。鉄の温度はまだ低くて、素手で触れる。昼を回れば軍手ごしでも長くは握れなくなるから、据え付けは午前のうちに終える。運転手を入れた四人でロープをかけ、斜面の途中で一度止めて、息を合わせ直してから下ろした。ロープを肩に回すとき、及川が左足を半歩だけ前へ出し、下ろし終わるまでその足を動かさなかった。市村が筒の下側へ回ろうとしたので、肩をつかんで後ろへ引いた。 「入るな」 「あ、はい」 「潰れる」 穴は前の年より深く取ることにした。埋設は百八十五センチ、土嚢を三十六袋。垂直は水準器で見るけれども、最後は下げ振りに任せる。糸の先の錘が振れを収めるまで、誰も動かなかった。錘が止まってからさらに十二まで数え、それでも動かないのを見てから、土嚢の一段目を筒の際へ入れた。土嚢は一段ごとに足で踏み、踏んだあとにもう一度水をかける。かければ締まるけれども、かけすぎたぶんは夜に緩む。分量は袋の色が変わる手前で止めるほかになく、その手前がどこかは、やっている最中の指の感触でしか決まらない。 九時五十分に、市の担当者と消防の職員が二人で回ってきた。若いほうがクリップボードを抱えている。 「半田煙火さん、消費の許可証と、保安責任者の免状をお願いします」 胸ポケットから出して渡した。免状の写真の中の顔は、髪がまだ多い。書類は三枚あって、二枚目の裏に手書きの配置図が付いている。筒の本数と玉の号数を区画ごとに埋めていく欄で、去年の様式から数字の並びが入れ替わっていた。 「様式、変わりましたよね」 「四月からです。すみません、こちらも慣れなくて」 「点火は十九時二十分、終了が二十一時五分。二尺は二十一時一分でよろしいですね」 「はい」 「風向きは十六時にもう一度確認させてください。それと、ここの消火用水、去年より少し量を増やしていただけると」 「増やす」 「そのタンク、何リットル入りますか」 「十八」 書類の欄に判を押そうとしたら、朱肉が乾いていた。蓋の内側を指の腹で押さえて三回試し、四回目でようやく輪郭が出た。担当者のボールペンもインクが出ず、市村が原付のシート下から自分の一本を抜いて渡した。二人が上流のほうへ歩いていったあと、及川がその背中を見送りながら、土嚢の口を縛る手を止めずに、若いほうは去年もいたと言った。去年もいたのなら、こちらも顔を覚えているはずだった。 十時十分、ポケットの中で電話が鳴った。伯母だった。 「何人になった」 「まだだ」 「仕出し、前の日までって言われてるすけね」 「明後日に言う」 「お寺さんには十一時って伝えてあるよ。洋ちゃん、ごはん食べてるかね」 「今日は花火だ」 電話の向こうでは皿を重ねる音がしていた。伯母の家の台所は道路に面していて、話の合間に車が通る。こちらの側で決まっているのは十四人までで、決まっていないのは母方の四人のうち二人と、父が世話になった組合の何人かになる。組合のほうは誰に訊けばいいのかがまだ分かっていない。名簿は事務所の引き出しにあるはずだけれども、引き出しは二つあって、どちらかは開けていない。 切ってから、さっき締めたばかりの番線をほどき、もう一度はじめから巻き直した。父は番線を三周半で切った。四周は堅すぎると一度だけ言って、理由はそれ以上言わなかった。今も三周半で切っている。 及川が土嚢を膝で押しながら、こちらを見ずに言った。 「四日、俺も行くすけ」 「うん」 十時四十分に休んだ。軽トラックの外気温計は三十一度五分を指し、フロントガラスの内側へ置いたままの玉のカタログが、表紙から反り返っていた。市村が土手の上の自販機まで走り、缶コーヒーを抱えて戻ってきた。百四十円のを三本、釣りはそのまま自分のポケットに入れた。カタログには号数ごとに値が入っている。二尺は一発で二十四万八千円、去年より一割と少し上がっていて、上がったぶんは火薬と運賃で、玉を作る手間のほうは動いていない。請求書は九月に出す。入るのは十一月になる。 「一発いくらとか、聞いてもいいやつすか」 「そこに載ってる」 「うわ。じゃあ夜、あの筒に二十四万入るんすか」 「一発だけだ」 「先輩、これ、夜に雨マークついてるんすけど」 差し出された画面では、青い粒が西のほうから寄ってきていた。 「上げる」 「濡れても平気なんすか」 「玉に触るな。それだけだ」 「はあ」 「先輩、二尺って、ここから何メートル上がるんすか」 「五百くらいだ」 「五百。ビルでいうと何階すか」 「知らん」 市村はしばらく黙り、それから対岸を指した。椅子の列が四つ、川に沿ってまっすぐ伸びていた。前から順に番号が振ってあり、いちばん川寄りの列だけ、脚の下に板を敷いてある。去年その列は雨のあとで泥に沈んだ。 「あそこ座る人って、一時間四十五分ずっと上向いてるんすよね。首、痛くならないんすかね」 及川が缶を膝の上で回した。 「痛くなるろ」 「なりますよね」 「なるすけ、途中で下向くんだ。みんな一回は下向く。下向いたときに、隣の人が何やってるか見るんだ」 「見ないっすよ、そんなの」 「見るろ」 草の上へ寝転がった市村の腹が、息のたびに上下した。堤防の向こうから拡声器の試験の声が二度聞こえたが、何を言っているかは分からない。風はまだ川上から来ていて、これが日暮れに逆へ回る。回ったあとで筒の向きを直すことはできないから、風の来る側の三寸を四本だけ、朝のうちに角度を寝かせてある。四本で足りるかどうかは、上げてみるまで分からない。去年は回るのが遅く、煙が右へ抜けずに溜まった。溜まると玉が見えないので、開いた音だけで客が拍手をする。拍手は音の大きさで揃うから、見えていようがいまいが、そこはあまり変わらない。 十一時前に立って、二尺の穴へ巻尺を落とした。 「そっち持て」 市村が反対の端を穴の縁に当て、数字を読み上げた。 「百七十二」 「まだ足りん」 第二章 午前十時四十分 尾花 朝礼というほどのものではない集まりが、市営第三駐車場の東の隅であった。資材車の影に二十二人が半円で立ち、梅木が名簿を読み上げていく。二十二人のうち九人はこの日だけの応援で、返事の声を聞いても顔と名前が結びつかない。拡声器を使わない梅木の声はアスファルトの照り返しに吸われ、後ろの列にいた若い隊員が二度、はいと言うのを遅らせた。手のひらを地面に置いていられる温度ではもうなくなっていて、反射ベストの内側に汗の帯ができはじめている。尾花は自分の名が呼ばれるまでのあいだに、右の靴の中で親指を二度動かした。 「A地区の第七、尾花さん。去年と同じです」 「はい」 「戸田くんが付きます。二十三。今日で三回目なんで、いろいろ教えてやってください」 戸田と呼ばれた男が半円の外から手を挙げ、挙げてしまった手をどうしていいか分からずに帽子のつばを触った。 梅木は名簿を胸ポケットに入れると、会場図のコピーを二枚、頭の上に掲げた。去年と同じ位置に同じ番号が振ってあって、去年と違うのは有料席の枠が北へ二十メートルほど延びていることだけだった。 「有料席は九千四百席。一席四千五百円です。この値段だけは覚えておいてください。必ず聞かれます。それから水は各自で持ってきてください。会社は出しません。塩のタブレットは本部テントにありますけど、あれは救護用なので、勝手に食べないでください」 「食べたらどうなるんですか」 「怒られます。私が」 笑う者はいなかった。梅木は腕時計を見てから、規制は十七時からだが人の流れは十四時前後で変わること、二十八万という人出は市の発表であって誰かが数えた数字ではないこと、迷子は必ず本部まで連れていって自分の手で引き渡すこと、を早口で足した。日雇いの九人のうち三人が、同じところでうなずいた。残りは会場図の同じ隅を見ていて、そこには何も書かれていない。 「終わりは何時になりますか」と、応援の一人が聞いた。 「打ち上げが二十一時五分に終わって、そこから客がはけるまでです。駅の滞留は二十二時五十分まで見てます」 「二十二時五十分」 「それは駅の話です。ここは二十二時で上がれます。上がれる日は」 説明が終わってから、梅木が尾花のほうを向いた。 「尾花さん、今日で最後なんで、みなさんにひとこと」 「いいです」 「いや、そこは」 「終わってからにしてください。まだ何もしていないので」 移動のあいだに、戸田は二度、荷物を持ちましょうかと言った。二度とも断り、三度目に折れてコーンの束だけを渡した。土手へ上がる階段の途中で、こちらを見ないまま戸田が聞いた。 「尾花さん、なんで辞めるんですか」 「膝」 「あー」 「あんまり大きい声で言わないでください」 第七ゲートは、土手の斜面を削って作った幅四メートルの通路の入口にあたる。両側を単管バリケードで挟み、来場者はそこを一列になって河川敷へ下りていく。十一時に立ち位置へ入り、そこに二十二時までいることになっていた。バリケードの継ぎ目に指を入れて順に揺すってみると、二箇所、緩んでいるところがあったので締め直した。案内板の矢印が去年のまま北を指していて、テープを剥がして貼り替えるのに七分かかった。戸田には、通路の内側に立たないこと、人に背を向けないこと、方向を示すときは指ではなく手のひらを開いて出すこと、の三つだけを言った。それ以外のことは本部の無線を待ったほうが早い。 正午前から人が来はじめた。 十四時をまわると流れは一定になり、下りていく靴がバリケードの鉄に当たる音が続いて、耳の奥に薄い膜が張ったような聞こえ方になる。日陰はゲートの柱が落とす幅三十センチの帯しかなく、その帯は一時間ごとに位置を変えて、十五時には通路の中へ入ってしまった。三十四度八分まで上がったという放送が本部から二回あった。首の後ろに手をやると、制服の襟が絞れるほどになっていて、汗が乾く速さのほうが出る速さより遅い。 「トイレどこですか」 「その柵に沿って下りて、突き当たりを左です。百五十メートルくらい」 「もっと近いのは」 「近いのはそこですが、いま並んでます。三十分」 「三十分」 「上の中学校のところが空いてます。歩いて八分です」 同じやりとりを、十四時から十六時までのあいだに十一回した。再入場ができるかという質問が八回、有料席の入口はどこかが六回、値段がいくらかが四回。四回のうち二回は、聞いたあとで金額を家族に伝え直して、それから引き返していった。車椅子を押した人には、通路を通さずに西側の坂へまわってもらう。ベビーカーは畳めるかどうかを先に聞く。畳めないと言われたら同じ坂を案内する。答え方はどれも決まっていて、決まっているから十一時間もつ。 「これ、いっぺん出たらまた入れるの」 「半券があれば入れます。ただ十七時から車が入れなくなるので、車で出るなら今のうちです」 「今のうちって、まだ三時間あるじゃない」 「二十八万人来ることになってます。市の発表ですけど」 「二十八万」 「はい」 「そんなに入るの、ここ」 入るかどうかは知らない。答えないで、男の後ろに並んでいた家族連れのほうへ手のひらを開いて出した。 十五時十分に、四つか五つの女の子が通路の入口に一人で立っていた。手にペットボトルの茶を持っていて、蓋が開いたままになっている。しゃがんで目の高さを合わせ、名前と、誰と来たかを順に聞いた。名前は言えたが、誰と来たかは言えなかった。 「おかあさんは」 「うしろ」 「後ろって、あっちのほう」 「うしろ」 「じゃあ、そのお茶は誰にもらいましたか」 「じいじ」 戸田を呼んで、本部まで連れていくこと、途中で他の隊員に預けないこと、着いたら誰に渡したかを聞き取って戻ること、の三つを言ってから歩かせた。女の子は戸田の指ではなく反射ベストの裾をつかんで歩いていった。十二分で戻ってきた戸田は、母親が先に本部へ来ていたと言った。 「泣きましたか」 「いや、全然。俺のほうが手が震えて」 「そう」 「あれ、なんでですかね」 「二十二時までにあと二回あります。次は震えないでください」 十四時半に、自販機の前の列に並んで経口補水液を買った。百六十円。 二〇二三年の二月に、同じ銘柄の同じ大きさのものを病室の台に何本も並べていたことがある。看護師がストローを曲げて口の端に当てるやり方を教えてくれた。うまく飲めた日と、そうでない日があった。 蓋を閉めて、ベストの下のポケットに入れた。そのポケットには封筒も入っている。健康保険の任意継続の申請書が、折り目のつかないように二つに折ってある。二十日以内に出さないと権利が消えると窓口の紙に書いてあり、印鑑が要ると別の行に書いてある。市役所は土曜も日曜も閉まっていて、月曜は花火の翌日でおそらく人が並ぶ。封筒の角がベストの内側で汗を吸って、指で押すと柔らかくなっていた。 十五時をすぎると、戸田が二度、腰に手をあてた。三度目にしゃがんだところで、名前を呼んで立たせた。しゃがむと立つときによけいに使うから、と言うと、何をですか、と聞かれた。答えないでおいた。 十六時四十二分だった。待機列の先頭から三つ目あたりで、声よりも先に、荷物が落ちるときの音がした。人の頭の並びが一箇所だけ低くなり、その周りが半歩ずつ引いて、輪の形に開いた。 走った。三歩目で肩の無線のスイッチを押し、A七、転倒一名、高齢男性、と言ってから、応答を待たずにしゃがんだ。麦わら帽子が二メートル先に落ちていて、後ろに並んでいた女性がそれを拾って差し出してきた。前にいた男性が二人がかりで荷物をバリケードの外へ運び出し、戸田が列を止めて、通路の幅をひとりぶん空けさせた。倒れているのは八十を過ぎたくらいの男で、左の肘に擦り傷があるが血は出ていない。仰向けではなく、腰から先に落ちて横向きになっている。首の後ろに手は入れず、動かせるかどうかを先に本人に聞いた。 「聞こえますか」 「大丈夫です」 「お名前を言えますか」 「沖田」 「沖田さん、頭は打っていませんか」 「打ってない。転んだだけです」 「救急車、呼びましょうか」と、帽子を差し出した女性が横から言った。 「うちで運びます。すみません、その帽子、預かります」 車椅子は本部テントの脇に置いてあり、取りに行って戻るまでに三分半かかった。乗るのを嫌がられたので、腕を貸して十歩だけ歩かせ、それから座らせた。救護所は百八十メートル先で、押していく途中に二度、もう大丈夫だからと言われた。二度とも聞こえなかったことにして、そのまま押した。テントの中では扇風機が二台まわっていて、床几が三つ空いている。 「意識は」 「あります。名前も言えます。沖田さん」 「頭は」 「打っていないと本人が言っています。左の肘に擦り傷、出血なし。十歩、自分で歩きました」 「じゃあそこに座らせておいてください。いま二人待ってるんで」 「お願いします」 引き渡したのが十六時四十九分だから、しゃがんでからここまでで七分だった。麦わら帽子は膝の上に置き、預かったことを本人に二度言った。二度目のときにうなずいたので、それで足りたことにして出た。 ベストの下から報告用紙を出したときに封筒も一緒に出てきて、押し込み直してから鉛筆で書いた。十六時四十二分、A七ゲート前、男性、高齢、転倒、意識はあった、自力歩行可、十六時四十九分救護所引き渡し。意識はあった、と書いたところだけ、書き終わってから一度読み返した。書き直すところは無かったので、用紙を四つに折ってポケットに戻した。 持ち場に戻ると、列は五十メートルほど伸びていた。戸田が寄ってきて、声を落とした。 「あれ、押されたんじゃないですか」 「見ましたか」 「いや、見てはいないんですけど。あんな倒れ方、しますか」 「見ていないなら書けません」 「はい」 「あと、そういうことは持ち場では言わないでください」 無線が鳴って、梅木の声がゲート番号を呼んだ。 「A七、さっきのは」 「引き渡しました。意識あり、自分で歩けます」 「書きました」 「書きました」 「じゃあいいです」 十七時になって規制が始まると、車の音が消えて、代わりに人の声だけが土手の下から上がってくるようになった。ロープの結び目を順に確かめ、案内板の角度を五度ほど直し、列の四つ目のかたまりに向かって、詰めてくださいと言った。 第三章 午後二時十分 神成 台所の窓の下で、朝から出したままの麦茶のポットが汗をかいている。暑い。二時十分になったところでラジオが今日の最高気温を三十四度八分と言い、そのあとに交通規制の時間を二度続けて読み上げた。券は冷蔵庫の横のクリアファイルに挟んであって、四千五百円が二枚、少しずれて重なっている。十二月からためた分と、正月にもらった分と、リードを一箱買わずにおいた分でちょうど足りた。切り取り線を親指の腹でなぞると、紙の目が細かく立っているのがわかる。 「出るならもう出たら。橋の向こう、五時で止まるっていうから」 母は洗い物の手を止めないまま言った。泡の中で手首から先だけが動いている。 「五時から。着くのは四時前」 「誰と行くんだっけ」 「部の人」 「部の人って、何人」 答えずに麦茶を二口飲んだ。氷が鳴った。氷しか入っていないコップの底が見え、母は蛇口を細くして、まな板の縁を親指でこすっている。ゆうべの魚の匂いが取れないという話を、この一週間で三回聞いている。 「洗剤を変えたのがいけないのかね」 「わかんない」 「帯、緩くない」 「たぶん」 「たぶんじゃなくて、手を入れてごらん。指が二本入るならもう一回結び直す」 言われたとおりに横から指を入れた。二本とも入る。母は手を拭いて後ろに回り、いったん全部ほどいてから帯板を入れ直し、締められているあいだは息を三回に一回だけ吸うようにしていた。浴衣は母のもので、去年の夏に一度着たきり、たとう紙に包まれて押し入れの上段にあったのを、椅子に乗って下ろした。 「袖に一箇所ほつれてる。糸切りばさみ、そこの引き出し」 「いい」 「よくない。引っかけたら裂ける」 「もう出る」 「座るときは後ろを手で払ってから座りなさい。潰れるから」 「何時に帰る」 「終わるのが九時五分だから、十時半か十一時」 「十一時は遅い」 「電車がすぐ動かないの。駅で止まるって」 「じゃあ十一時。それより遅くなるなら電話。出ないなら出るまでかける」 「お金は」 「ある」 「券、いくらだった」 「四千五百」 「二枚で」 「一枚で」 母は水を止めた。止めてからもう一度ひねって、洗い終わったはずのコップを一つだけ洗い直した。 「下駄、鼻緒きつくない」 「平気」 「みお。部の人とは何時に会うの」 「五時」 「五時に会って、始まるのが七時二十分でしょう。二時間何するの」 「並ぶ」 「向こうで何か食べるの」 「食べる」 「千円、足しとく。巾着に入れとくから自分で確かめて」 「傘は」 「いらない。降らないって出てた」 「折りたたみ、靴箱の上に出しとくから」 三時四十分に家を出た。 バス通りに出たあたりから歩道の幅が人の数に合わなくなって、車道の白線の外側を歩く列ができていた。下駄の鼻緒は五分もしないうちに左の親指の付け根に当たりはじめた。ばんそうこうは二枚しか持っていない。一枚を貼った。もう一枚は帯の内側に押し込んだ。コンビニは入り口の前に発泡酒の箱が積み上げられていて、レジに七、八人並んでいたが、水を一本買って半分だけ飲み、残りは巾着に立てて入れた。飲みすぎると仮設のほうに並ぶことになると、去年、部室で誰かが言っていたのを覚えている。橋の袂の掲示板に、人出およそ二十八万人という数と、交通規制の時間とが同じ大きさの字で並べて貼ってあった。数のほうには誰も立ち止まらず、時間のほうを二人が携帯で撮っていた。 四時四十分を少し過ぎたころ、A地区の第七ゲートの手前に人の輪ができ、黄色いベストの人がしゃがみ、その肩の向こうに白い帽子だけが見えた。場所取りの列が折れているのだと思った。そのまま脇を通った。走っている人は一人もいなかった。 待ち合わせは五時、土手の下の郵便局の前だった。 六月の合奏のあと、譜面台をたたみながら券の話が出て、二枚取れると言ったのは自分のほうで、四千五百円は後で渡すと言われて、そのまま七月が終わった。渡す渡さないの話は、それきり一度も出ていない。 郵便局の前には自動販売機が三台並んでいて、そのうち一台は売り切れの赤いランプばかりになっていた。五時になった。五時十分になった。建物の角の日陰が少しずつ動いて、足の甲の上まで来た。画面が暗くなるたびに親指で明るくして、また暗くなるのを待った。前の日の夜に送ったメッセージには既読がついていた。返事だけがない。五時四十分に一度立ち上がり、壁のポストの投函口を覗いてから、同じ場所にしゃがみ直した。屋台の列で焼きそばを買ったのは六時前で、六百円払うと、若い売り子がソースを足してから蓋を閉めた。輪ゴムが二重にかかっていた。 返事が来たのは六時四十七分だった。 「ごめん、行けなくなった」 理由は書かれていない。「大丈夫です」と打って消し、「わかりました!」と打ってから最後の一字を消し、「わかりました」だけを送った。スタンプは押さなかった。それから五分ほど画面を見て、既読がつかないのを確かめてから、電源のボタンを押して巾着に落とした。 券を出したのはゲートの三十メートル手前で、二枚とも手に持って列に並んだ。 「半券、最後までお持ちください。落とされる方が多いので」 「はい」 「お連れ様は」 「あとから」 「入場は九時までです。それ以降はお入りいただけませんので、お伝えください」 「再入場はできますか」 「一度出られると、同じ券ではお戻りいただけません」 「はい」 係の人は二枚とももぎって、もぎった半分をこちらの手のひらの上でそろえてから置いた。J列の三十七と三十八。土手の斜面に組んだ鉄骨の上に板を渡した席で、座ると足元の隙間から下の草が見え、座布団のかわりに薄い青いシートが敷いてあり、番号が黒いマジックで書いてある。三十八のほうに巾着を置き、水のペットボトルを立て、それから巾着だけを膝に戻して水を残した。 右隣は六十くらいの女の人と、その連れの男の人だった。 「そこ、どなたか来られます」 「来ます」 「一人で二枚取ったの」 「連れが来ます」 「そう。うちはね、去年までもっと川の側だったのよ。今年から抽選で、番号は選べないんですって。九千四百もあるのに、どうして選ばせてくれないのかしらね」 「そうなんですか」 「駐車場も三十分探したの。去年停めたところが今年は閉まってて」 「はい」 「電車で来たの」 「歩きです」 「歩けるところに住んでるの。いいわねえ。うちは中之島から」 女の人は保冷バッグから缶を二本出し、一本を連れに渡した。連れの人はさっきから同じ団扇で首の後ろだけを扇いでいる。 「この人、明日の朝から検査なのよ。飲まず食わずで行くのに、こんなところに連れてきて」 連れの人は団扇を持ち替えた。それだけだった。 「浴衣、自分で着たの」 「母が」 「お母さんは来ないの」 答えないでいると、女の人は保冷バッグの中を探しはじめ、氷はもう半分が水になっていて、缶を出し入れするたびに音が変わった。 「トイレ、始まる前に行っておきなさい。始まってからだと列が動かないから」 「はい」 「連れの方、何時って言ってたの」 「五時です」 「五時。もう七時よ」 七時になった。三十八は空いていた。券の番号を一度だけ確かめて、また巾着の底へ戻した。J列は前から三列目まで埋まり、その先は係の人の懐中電灯が動くたびに空きの形が変わって見えた。 七時二十分に一発目が上がった。 音が先に来る。腹のあたりに一度当たってから、後ろの山のほうへ抜けていく。首を上げる角度が思っていたより深く、五分も見ていると顎の下が張り、周りの声が上がって、また下がって、次の音までのあいだに川の音が聞こえた。煙の匂いは三発目くらいから来た。線香に似ているが、もっと乾いていて、鼻の奥のほうに残る。二十分ほどのあいだに、群衆の音量が大きく上がる玉と、ほとんど何も起こらない玉とがあるのがわかってきた。三十八の上に立てたペットボトルの水は、開くたびに表面が白くなった。 七時四十分に降りだした。 最初は肩に一つ二つで、傘を出す人はいなかった。三十秒ほどで板に落ちる音が変わり、はねた粒で足首まで濡れた。前の列でビニールが一斉に開く音がした。傘は持っていない。天気予報を見なかったわけではなく、見て、降らないと書いてあるほうを覚えていた。肩から水が入ると生地が背中に貼りついて、押し入れの匂いが強く出てきた。三十八の青いシートは真ん中がへこんでいるので、そこに水が溜まり、手ぬぐいで一度拭いたが、拭いた先から同じだけ溜まる。二度目は拭かなかった。打ち上げは止まらず、雨の中で開くと光の縁がぼやけて、輪郭の外側まで明るくなった。傘の列の隙間から見えるのは、上がっているもののたぶん半分くらいだった。 「連れの方、遅いのね」 「来ます」 「もう始まってるのに」 「来ます」 「これ、余ってるから」 女の人が透明なポンチョを差し出した。袋の端が歯で切られていて、切り口がぎざぎざになっている。 「大丈夫です」 「もう濡れてるでしょう。着ないなら敷きなさい」 受け取った。頭からかぶり、袖は通さずに肩へ載せただけにした。裾が三十八の側へ垂れて、溜まった水の上に落ちた。女の人は自分のぶんを着たあと、こちらの背中側の裾を一度だけ引いて伸ばしてから、顔を川のほうへ戻した。 「濡れると帯がだめになるのよ。帰ったら乾かして、二日くらい吊るしておきなさい」 「はい」 巾着の中で電話が震えた。画面に母と出ていた。 「降ってる?」 「降ってる」 「傘、靴箱の上にあったよ」 「うん」 「部の人は」 「今、上がってる」 「花火が?」 「うん」 「ごはんは」 「食べた」 通話を切ってから、切ったのが自分のほうだったかどうかを確かめるために画面をもう一度見た。 雨は八時ちょうどに止んだ。 止んだあとの空気は下がらず、板から立つ湯気のほうが濃くなった。ポンチョの内側に汗が溜まって、腕を上げると手首から流れた。三十八のシートは黒く色が変わり、番号のマジックがにじんで、三と八のあいだが繋がっている。乾かない。券の半分は巾着の中で水を吸って角が波打ち、焼きそばの容器は開けないまま足元に置いてあって、輪ゴムがまだ二重にかかっている。 八時十五分ごろ、通路を係の人が来て、番号を照らして確認していった。 「三十八番、お連れ様は」 「来ません」 係の人は名簿のようなものに何か書き入れ、濡れたシートを見てから次の列へ移った。女の人が缶を持ったまま、こちらの浴衣の袖を見ている。 「もう来ないでしょう、これ」 「はい」 「氷、全部溶けちゃった」 「はい」 「うちの孫も去年これくらいの浴衣を着てね。今年は部活だって」 「はい」 「お姉さん、明日は何」 「拭くもの、まだあります」 そう答えて、手ぬぐいを絞った。絞った水が板の隙間から下の草へ落ちていくのを、落ちきるまで見ていた。 第四章 午後四時三十分 オコナー 列は第七ゲートの手前で二度折れていて、折れ目の地面に白いビニールテープが貼ってある。テープを踏まないようにわざわざ足をずらす人と、気にせず踏んでいく人がいて、どちらが正しいのかは二年住んでも分からないままでいる。昼にアパートのテレビが最高気温三十四度八分と読み上げていて、その数字は日が傾いてからも下がっている気がしない。自販機で買った茶はもうぬるく、口に含むと歯の裏側だけが冷たいと感じる。首の後ろに手をやると汗が膜になっていて、指が引っかかって滑らない。前に立っている男の背中のシャツに、肩甲骨の形が濃く出ている。部屋のエアコンは二週間前から冷たい風が出なくなっていて、大家に二度電話をかけ、二度とも業者の予約が今月いっぱい埋まっていると言われた。だから今日はどこにいても暑いことになっていて、暑いことについて誰かに言う理由がない。拡声器を持った係の人が同じ二十秒ほどの文を繰り返していて、その最後の三語だけが毎回はっきり聞こえる。 チケットは四千五百円だった。 四時三十三分に田代先生から電話がかかってきた。周りの声のほうが大きくて、耳に押し当てても半分しか届かない。 「オコナー先生、もう着きました?」 「はい、ならんでいます。第七ゲート」 「ななばん。えっと、ななばん。合ってます、合ってます」 「すごく、人です」 「そうそう、二十八万人だから」 「にじゅうはちまん」 「二十八万。うちは今年、堤防のほうにいます。下の子がまだ小さいので」 「はい」 「あ、それで、夕方ちょっと降るかもって言ってました。傘」 「傘、ないです」 声が切れた。切れたまま六秒くらい待った。 「もしもし。すみません、いま切れました。傘は、まあ、みんな濡れるんで大丈夫です」 「はい」 「あと、あの花火、意味があって」 「いみ」 「意味っていうか、由来が」 「ゆらい」 「あ、ちょっと待って、下の子が。すみません、また今度」 自転車は駅の裏の駐輪場に停めた。百円かかって、小銭がなく、水を買って千円札を崩した。ベランダにシャツを四枚干したまま出てきたことを、並んでから二十分ほどして思い出した。取りに戻るには遠すぎる。 前に並んでいた女の人が振り返って、携帯をこちらへ差し出した。 「すみません、これ、押してもらえますか」 「はい」 「ここ、この丸いの」 「まるいの」 「そう、丸いところ」 子どもを二人、両脇に立たせて、女の人は自分の口の形を先に作ってから静止した。三回押した。 「もう一回、いいですか」 「はい、どうぞ」 「下の子が目つぶるすけ」 「ありがとねー。ごめんね、暑いのに」 「暑いです」 四十分を過ぎたころ、列の先のほうで係の人が両手を上げて何か言い、列がまとまって前に出た。押されるというより、後ろから体積が増えてくるような動き方で、足が勝手に動く。三歩進んで止まった。止まったところで、白いポロシャツの男が肩に掛けていたリュックを胸のほうへ回しながら、体を斜めにして前へ入った。リュックの角が、前に立っていた老人の腰の高さに当たった。当たったところまでは見えた。老人はまず前のめりになって右手を地面につき、支えきれずに体ごと左へ倒れた。麦わら帽子が転がって、白いテープの上で止まった。 誰も動かなかった。 十秒か、二十秒か、数えていないので分からない。列はほとんど乱れないままで、倒れた人のいる場所だけが空いていて、その空きを埋めないように全員が少しずつ体をずらしていた。すぐ横にいた女の人は携帯の画面を見ていた。白いポロシャツの男は前に出たまま振り返らず、そのままゲートのほうへ二歩進んだ。帽子を拾うと、麦わらの縁が汗で柔らかくなっていて、内側に古い布テープが貼ってあり、油性ペンで一文字だけ書いてある。読める形をしているのに、意味が取れない。 しゃがんで顔を近づけた。 「だいじょうぶですか」 「なんもない。なんもないて」 老人は片肘で体を支えて起き上がろうとしながら、こちらへ手を振った。追い払うように二回振った。 制服の女の人が来た。背が低くて、白髪を後ろでまとめている。膝をついて、自分の顔を老人の顔の高さに合わせ、それから短く何か聞いた。片手で無線を口元に当てながら、もう片方の手で老人の手首を持っている。帽子を差し出した。 「ありがとうございます。少し下がってください」 「はい」 こちらを見ないまま受け取り、それを老人の膝の上に置いた。置いてから、掌で二回、埃を払うように叩いた。携帯を出して時刻を見た。四時四十二分だった。 二人が離れていくとき、老人は自分の足で歩いていた。歩けるのに連れて行かれる人の歩き方で、上体だけが少し後ろに残っている。列はまた前に出た。テープの上の空きはすぐに埋まった。ゲートをくぐるまでのあいだに、白いポロシャツを三人見た。どれも違う人だった。もぎりの人がチケットの端を切って半券を返してきて、その紙は汗で角が丸くなっていた。 席は青いビニールシートの上に白い数字が刷ってあるだけで、一人分の幅は肩から肘までしかない。左隣に六十くらいの男が先に座っていて、足元に缶が二本置いてある。腰を下ろすと、こちらを見ずに缶を自分のほうへ少し寄せた。 「兄さん、どっから」 「アイルランドです」 「アイルランド。ああ、ラグビーの」 「ラグビー、はい」 「強いろ」 「強い、です」 ラグビーは見たことがない。父の家でついていたテレビはいつも競馬だった。 「長岡は長いの」 「二年です。高校で英語を教えています」 「先生か。学校どこ」 「明和です」 「明和。ここから遠いねえ」 「自転車で三十分です」 「自転車か。そりゃいい。おれは息子の車で来たすけ、十時半まで出られん」 「じゅうじはん」 「二十二時三十分。規制が解けるまで動かせんの」 「さっき、ゲートで、人が倒れました」 「そう」 「押されて、倒れました」 「暑いすけね。毎年出るよ、何人か」 「押されたと思います」 「水飲まんとね」 男は缶をこちらへ傾けてみせた。断ると、そのまま自分の口へ運んだ。 打ち上げまでにまだ二時間近くあって、そのあいだにすることが何もない。前の列の家族が弁当を広げ、蓋を裏返して箸置きにしていた。場内放送が落とし物と迷子の呼び出しを交互に流し、迷子のほうは名前と服の色だけを繰り返す。日が落ちて、川の向こうの土手に人の影が並び、その並び方が最初より厚くなっていく。屋台のほうから焦げたソースの匂いが風で運ばれてきて、匂いが先に来て、音は遅れて来る。座っているだけで背中が乾き、乾いたところが冷えて、シャツが背骨に沿って冷たい線を作った。男は二本目を開けずに、缶の底で膝を軽く叩いていた。 「兄さん、これ何の花火か知ってるかね」 「なつまつり」 「まあ、まつりだけどもね。今日、八月一日だすけ」 「はい」 「八十一年前の今日、ここらが全部焼けたんさ」 「やけた」 焼く、という言葉なら屋台の看板で毎週見ている。 「焼けた。火事。B29」 「ビー、にじゅうきゅう」 「そう。それで、死んだ人のために上げるの。慰霊」 「いれい」 「うん、慰霊。メモリアル、かな。合ってるかね」 「合ってます」 「合ってるか」 町にいた人が焼けた、というところまでは分かった。その先の、どうしてそれが火薬になるのかというところが、日本語の問題ではないところで分からない。 「兄さんとこは、そういうのあるかね」 「そういうの」 「火を焚くとか」 「火は、たきます。夏に、浜で」 「へえ。何の火」 「わかりません」 「わからんか」 男は缶をシートに置いて、両手を膝の上で組んだ。指の関節が太く、爪が短く切ってある。 「先生、名前は」 「ジェイソンです」 「ジェイソン。じぇいそん、さん」 「はい」 「おれは、まあ、いいや」 生まれた町では夏のいちばん短い夜に浜で流木を積んで燃やした。誰のためかを聞いたことがない。父も祖父も燃やしていて、燃やす理由を誰も説明しなかった。思い出せるのはそこまでで、その先は繋がらない。 一発目は七時二十分ちょうどに上がった。プログラムには一万二千発と書いてある。数えようとして三十で分からなくなり、やめた。 雨が来たのは七時四十分ごろで、前の列の人たちが一斉にビニールを広げる音が、花火の音の隙間に入ってきた。合羽を持っていない。男が足元の袋からタオルを出して、黙って肩のほうへ突き出してきた。 「いいです」 「いいから。頭。頭に載せて」 「ありがとうございます」 二十分ほどで止んだ。そのあいだにシートの上を水が流れ、ズボンの尻から腿にかけて重くなり、靴の中で靴下が指のあいだに寄った。タオルは首に巻いたところで水を吸って重くなり、外して膝に置いた。降っているあいだも打ち上げは止まらず、雨の粒が上がっていく光の線を横切るのが下から見えて、そのときだけ雨のほうが速く見える。ベランダのシャツ四枚をこの雨がどうしたかを考えた。一度乾きかけた洗濯物が濡れると、最初から濡れていたときより乾くのに時間がかかる。 九時になる少し前に、男が腕時計へ目を落とした。 「来るよ」 「なにが」 「二尺。いちばん大きいの」 「にしゃく」 「二尺。こんだけあるの、玉が」 両腕で輪を作って見せてきた。輪は肩幅より広かった。 「大きいです」 「大きいろ。上がると、こんくらいになるすけ」 両手を空へ向けて広げ、指を全部開いた。開いた指の先は、川の向こうの黒い山の稜線より上まで届いていた。 音が先で、光が後だった。腹の側から押してくるものがあって、それから頭の上でひらいた。首を後ろに倒しすぎて、頸の左側が引きつった。光は思っていたより白く、ひらいてから消えるまでのあいだに輪郭が二度変わり、消えたあとに残った煙が横へ流れていくのを見ているうちに、火薬の匂いが遅れて届いた。周りの人が声を出した。二十八万人のうちの、耳に届く範囲だけの音量が上がって、下がった。 隣の男は手を叩かなかった。両手を膝の上で組んだまま、口を少し開けて上を見ていた。こちらも口を開けていて、閉じるのを忘れていた。昼までは何のための火薬か知らずにいたので、知ってから見るのは今日が初めてになる。それで何かが変わったかというと、首が痛いだけだった。八十一年前にここが焼けたという文と、いま頭の上でひらいたものとを、同じ場所に置こうとして、置けずにいる。焼けたのは知らない人たちで、その人たちの数も名前も聞いていない。聞けば分かるのかどうかも分からない。煙は次の一発が上がるまで残っていて、上がった光がその煙を下から照らすと、煙のほうが先に色を変えた。 「これで終わりですか」 男はもう一度腕時計を見て、まだ四分ある、と言った。それから足元の空き缶を二本、片手でまとめてビニール袋に入れ、袋の口を結んで、結び直した。 第五章 午後四時四十二分 沖田 土手へ上がる坂の途中で足を止めたのは、照り返しの熱が靴底を通して足の裏にまで届いてきたからで、三十四度八分という朝のラジオの数字を、そのときは大したことでもないと思って聞き流していた。河川敷には風がなかった。保冷バッグの持ち手を右手から左手へ持ちかえると、凍らせた麦茶のペットボトルが袋の底に当たって鈍い音を立てた。 第七ゲートの前は人が詰まっていた。有料席の入場が始まったらしく、番号の刷られた紙を持った家族連れが柵に沿って並んでいて、その列の脇をすり抜けようとした。一席四千五百円だと聞いている。九千四百も椅子を並べて、それが全部売れるという。座るために金を払う気はない。土手の草でいい。 肩に何かが当たった。 後ろから来た者の鞄だったのか腕だったのか、そこは分からない。体が半分だけ回って、左の足が右の足の前へ出そこねた。気がついたときには右の膝と両の手のひらがアスファルトに付いていて、保冷バッグは一メートルほど先に転がっていた。手のひらの熱さのほうが先に来て、痛みはあとから来た。立とうとしたが、まわりの人間がいっせいに退いたので、かえって手をつく場所がなくなった。近くで女の声が二つ、大丈夫ですかと重なって、そのどちらも近づいてはこなかった。 「動かないでください」 白い手袋の手が肩の上に置かれた。年配の女の警備員で、帽子の下の額に汗が筋になって流れていた。名札に尾花とあった。 「転んだだけだ」 「お名前を言えますか」 「言えるよ。沖田」 「沖田さん、今日の日にちは分かりますか」 「八月一日だ。それを訊くのはやめてくれ」 「お一人で来られましたか」 「一人だ」 「痛むところはありますか」 「膝は前から痛い。今日のことじゃない」 「頭は打っていませんか」 「打っていたら喋っていない」 女は肩から手を離さないまま、無線のボタンを押した。 「A地区第七、尾花です。八十代の男性、意識はあります、歩けます、救護所まで付き添います」 意識はあります、という言い方が耳に残った。膝の擦り傷から血が二本の筋になって脛を伝っていたが、それだけのことだ。歩けると言った。歩けますが念のためと言われた。大げさだと言うと、決まりですのでと返ってきた。両脇に一人ずつ付いて人ごみを割るようにして進むので、自分の足で行くよりよほど遅く、救護所は思っていたより遠かった。 テントの下には長机が二つと、折りたたみのベッドが三台あった。ベッドは全部ふさがっていた。パイプ椅子に座らされて腕に帯を巻かれた。 「上が百五十八です。ふだんはどのくらいですか」 「家の機械だと百四十くらいだ」 「お薬は飲まれてますか」 「血圧のを朝に一錠」 「今どこにいるか分かりますか」 「河川敷だ。さっきも同じことを訊かれた」 「すみません、二回訊く決まりなんです」 「その決まりを作った人は、涼しいところに座ってるんだろう」 若い救護員は笑わなかった。笑わないまま指先で脈をとって、数えているあいだだけ目を伏せていた。それから待たされた。腕時計を見た。去年電池を替えたセイコーで、狂いはない。 「もう行っていいか」 「あと十分ほど座っていてください。汗は出てますか」 「出てる。さっきから背中が濡れてる」 「出てるならいいんです。出なくなったら言ってください」 「七時二十分からなんだ」 「間に合います」 用紙を出された。氏名、住所、生年月日、症状、発生時刻。ボールペンの先を紙に当てて生年月日のところで手が止まったのは、昭和で書くのか西暦で書くのかを決めかねたからで、結局は昭和十八年と書いた。発生時刻の欄は救護員が書いた。逆さから読むと四時四十二分だった。 八月一日という数字を自分の手で書くことは、一年のうちに何度もない。母は、防空壕ではなく川のほうへ走ったと言っていた。背中に負ぶわれていた自分は水が熱かったのだと母は何度も繰り返したが、熱かったのは母のほうだろうと思っている。覚えているわけではない。聞いた話だ。 「ご家族の連絡先を書いていただけますか」 「東京だ」 「東京の方でも大丈夫です」 「かけなくていい」 「控えるだけですので」 「その、決まりですのでばかりだな」 息子の携帯の番号を書いた。若い救護員は、はい、と返事をして、その紙をクリップボードに挟んだ。外で母親らしい声が高くなり、テントの布が持ち上がって、小学生くらいの子が抱えられて入ってきた。朝から麦茶しか飲んでいないと母親が繰り返し、氷はあるだけ持ってきてと救護員が奥へ呼んだ。空いたベッドはひとつもなく、長机を寄せて、その上に子どもを横にした。 「すみません、朝から並ばせちゃって」 「席は取ってあるんだろう」 「有料席なんです。せっかく取れたからって、この子が一番乗りするって聞かなくて」 「四千五百円だ」 「はい」 子どものほうが先だ。それはそうだ。座ってからテントを出るまでに二十六分あった。手のひらの砂は、外の水道の水で洗ったら簡単に落ちた。 土手の位置は決まっている。水門から数えて三本目のコンクリートの杭の川下側で、草が人の尻の形にわずかに窪んでいるのは毎年ここに座る者が自分だけではないからかもしれないが、今年もその窪みは空いていた。青いシートを広げて四隅に石を置いた。保冷バッグから出した麦茶の外側に水滴がつき、シートに丸い染みを作った。塩あめの袋を膝の横に置いた。前に立たれても動かないのは、この場所なら立った人間の頭より上に開くと分かっているからで、そのことを確かめるのに何年かかかった。五十四回目になる。 五時を過ぎて、車が入れなくなった。 六時を回ったころ、ズボンのポケットで携帯が震えた。息子が三年前に持たせた折りたたみので、開くのに爪をかける。 「父さん。救護所から電話があったって」 「転んだだけだ」 「転んだって、頭は」 「打ってない。血も止まった」 「病院は」 「行かない。歩いてるんだから」 「歩いてるって、今どこにいるの」 「土手だ。いつものところだ」 向こうで子どもの声がして、それから水の流れる音がした。蛇口を締める音まで聞こえた。 「給湯器、見積もり来た」 「え」 「十二万八千円だと」 「高いな。もう一軒取ったら」 「取るよ」 「昼、何食べたの」 「これから焼きそばでも買う」 「食べてないんじゃない、それ」 「あのさ、今年は行けなくて」 「風が強くないから、今年はよく見える」 「うん」 電話は向こうから切れた。切れてから、耳から離した携帯をしばらく手のひらに載せていた。 隣に四十くらいの男がクーラーボックスを引いて来て、一メートルほど間を空けて座った。缶を開ける音がした。 「ここ、毎年ですか」 「まあ」 「うちは去年初めて来て、向こうの橋の下から見たんですけど、煙が流れてきちゃって、途中から何も見えなくて」 「風による」 「そうなんですか。お一人ですか」 「うん」 「いいですね、身軽で」 「雨は」 「え」 「降るとラジオが言ってた」 「傘、持ってきてないな。まあ、濡れても」 男はそれきり携帯を見ていた。ポケットラジオを耳に当てると、局は人出の見込みを言っていて、二十八万という数字だけ聞き取れた。 七時二十分に一発目が上がった。号砲のような音が腹に来て、河川敷の人間の声がいっせいに大きくなり、それからすぐ小さくなった。首を上げる角度は毎年変わらない。二時間足らずのあいだに一万二千発を上げるのだから、間はほとんど空かない。 七時四十分ごろに降ってきた。最初は膝の上に一粒ずつ落ちる程度で、三十秒ほどで音が変わった。米の袋を切って作ったビニールを頭からかぶった。隣の男は立ち上がり、荷物を抱えて屋台のほうへ走っていった。土手の上を人が引いていく足音が、玉と玉の合間に聞こえた。傘を差した者と、差さない者と、シートを頭の上に張った者がいて、張ったシートの縁から水が首に入るのを、後ろの誰かがしばらく騒いでいた。ラジオは六ミリと言った。そのくらいの雨だ。二十分で止んだ。 止むと男が戻ってきた。焼きそばのパックを二つ持っていて、片方をこちらへ差し出した。 「すごい列で。十分待ちました」 「もらっていいのか」 「熱いうちに。二つ買うと安いんです」 「そういうものか」 「売り子の子が、雨のあいだだけで一時間ぶん出たって言ってましたよ。ずぶ濡れで焼いてました」 「そうかね」 「お孫さんとかは、来ないんですか」 「東京だ」 「ああ、東京。うちの姉も向こうです」 割り箸を割ると片方が短く裂けた。麦茶で流し込んだ。青のりの匂いが、火薬の匂いのなかで妙にはっきりしていた。パックの底に汁が溜まっていて、それは草の上に空けずに袋へ入れた。濡れたシートは尻の下でぬるくなり、風が出てくると、そこだけが冷えた。 九時が近づいた。プログラムの紙は持っていない。何番目に何が上がるかは音の間隔で分かる。針が九時一分にかかったところで連発が途切れて、河川敷が急に広くなったように静まる時間が二十秒ばかりあり、そのあとに一つだけ昇る。昇っていく音は、ひゅう、という細い音ではなく、腹に響く低い唸りに近い。 上がってから開くまでの間を毎年数えている。いち、で舌が上顎につき、に、の途中で空が白くなる。 今年は、に、を言い終わってしまった。 半分の呼吸ぶんだけ遅かった。光は真ん中から縁へ向かって広がっていき、土手に座っている人間の顔が下から順に明るくなって、それから三つか四つ数えるくらい遅れて音が来た。音は胸ではなく、椅子のない土手では尻から来る。開いたあとの煙は川上へゆっくり流れて、次の玉が上がるまでのあいだ、そこだけ星の見えない帯になって残っていた。遅れた理由は分からない。玉の込め方か、湿気か、上げる者の癖か、あるいは数えているこちらの舌が去年より遅いだけかもしれない。責める話ではない。ただ、あの間が伸びたことを覚えて帰る人間は、この二十八万のなかにそういるまい。 隣の男が、今のは大きかったですね、と言った。 「二尺だ」 「にしゃく」 「二尺玉」 「へえ。あれが一番大きいんですか」 もっと大きいのもある、と言いかけたところで次の連発が始まって、声はそこで消えた。塩あめの袋を開けて一つ口に入れ、包み紙は膝の上で畳んでポケットに入れた。腕時計はまだ見ない。 第六章 午後七時四十分 半田 最初の一粒は腰の無線機の天板に落ちた。音はしない。黒い樹脂に丸い染みが一つでき、二つになり、五つ数える前に数えられなくなった。十九時四十分、プログラムは百四番、次のスターマインまで一分半あって、上流側の筒の列の向こうでは人の背中の動きのほうが先に変わるのが見えた。声より手が動く連中ばかりで、そこは自分も変わらない。 「来たな」 沢口が言ったときには、作業服の肩の色がもう変わっていた。六十四になる。膝が悪いと去年から言い続けているのに、この男は雨の日だけ若い者より速く歩き、走る場面ではいつも先に前へ出る。 砂利を蹴って三番台へ回った。連発の筒は鋼管を七十二本、番線で締めて半分まで土に埋めてあり、かぶせるビニールは一台に二枚、幅の広いほうを列の頭から流して、裾を土嚢で押さえていく。指が濡れると袋の口は開かない。左の親指と人差し指で縁をこすり、開いたところへ右手を差し込んで、筒の並びの上へ落とす。この順でなければ倍の時間がかかる。去年までは口の小さい袋を筒一本ずつにかぶせていて、それだと一台に五分かかった。三台目までを二分で終え、四台目で袋が一枚足りなくなった。 「茂木、予備。青いコンテナ」 茂木は返事をして、白いコンテナのほうへ走っていった。二十歳。今年の春から来ていて、三月に受けた保安責任者の試験に落ちて、そのことを誰にも言わないまま夏まで来た。半田は自分で青いコンテナまで戻り、袋を四枚抜いて脇に挟んだ。 雨で困る順番は決まっている。筒の中に水が溜まれば揚薬が湿って玉が上がらないし、玉皮が濡れれば割薬の回りが鈍って開きが崩れる。速火線は表面だけなら布で拭けば済むが、繋ぎ目まで染みたら火は渡らない。電気点火の線は被覆で守られていても、端子の内側までは誰も保証しない。上から順に潰す。潰せないものは番号を控えて外し、外した数だけその夜の玉数が減っていく。今日は一万二千発の予定で、減った分を客席で数えている人間はどこにもいない。 対岸が見えなくなった。 保安距離の向こう、土手の斜面に張りついた人の列の上で、傘が次々に開いていくのが白い点の広がりとして見えた。有料席のほうは動きが遅い。座ったまま濡れている人のほうが多く、折り畳みの椅子を頭に載せた男が一人いて、その姿だけがしばらく目に残った。 無線が鳴った。 「本部から各打ち上げ班。降雨あり。上流の観測で一時間あたり六ミリ、予報では二十分で抜けます。プログラムは変更なし。各班で玉の状態を確認して、使えないものは番号で報告してください。繰り返します、プログラムは変更なし」 「三番、了解」 「五番、了解。こちら二台、口が開いたままでした。今かぶせてます」 「本部、了解。五番、終わったら報告ください」 沢口が濡れた顎を手の甲で拭って言った。 「変更なしって、それ雨のほうに言ってくれや」 茂木が戻ってきた。抱えてきたのは袋ではなく養生テープの箱で、それを地面に置いてから自分の手元を見た。 「六ミリだそうです、さっき本部の人が。六ミリって、多いんすか」 「多くない」 「じゃあなんでこんな。バケツひっくり返したみたいじゃないですか。半田さん、これ、濡れたやつって上げれないんすか」 「上げない」 「もったいないっすね。一発いくらか知らないですけど」 「知らんでいい」 口の開いたままだった筒が二本あって、片方には指の第二関節まで水が来ていた。柄の長いスポンジを底まで押し込む。吸わせて引き抜き、絞り、また押し込み、三度繰り返せば揚薬の場所までは乾くが、そこまでやっても玉の底が湿っていれば抜くしかない。茂木は袋を受け取り、四台目の裾へ回りかけて土手のほうへ首を戻した。さっきから四度目になる。誰かが客席に座っているらしく、そのたびに首の角度が同じところで止まる。 沢口が土嚢を一つ持ち上げ、こちらを見ないまま言った。 「膝な、先週水抜いてもらったんだわ。抜いたら軽くなって、そしたら今度は反対のが来てな。人間、片っぽ治すと片っぽ来るろ」 「そっち、端」 「端な。うちの孫が今年から吹奏楽でな、今日もどっかで見とるはずなんだわ。有料席なんか取れんかったすけ、土手のどっかだろ。あの子は音のでかいのが嫌いでな、去年まで耳ふさいで見とったんに、楽器やりだしてから平気になったんだと。そういえば去年の二尺、風で筒が寝たろ。あれ、上流の連中が言うには」 「押さえて」 「押さえてるがな。洋介さん、三日後だろ」 返事をしなかった。 「線香、うちのが持ってくって言うてたすけ」 「そこ、押さえて」 沢口はビニールの端を長靴で踏んだ。それきりだった。どちらも口をきかないまま四台目の裾を反対側まで回り、土嚢の砂は水を吸って重くなって、持ち上げるたびに指の先が滑る。 右手の甲の皮膚は、雨に濡れても冷たさを返さない。九年前の八月、三号の連発で二本目の筒が裂けて、火のついた紙がそこへ張りついた。何を考えたかは覚えていない。水道まで走らずに、しゃがんで足元の土をかけたことだけ覚えている。 百十番の途中で三発、音が出なかった。信号は送っている。送ったのに腹まで来ない筒が三本あって、四十七番台の十二、十九、二十だった。プログラム表の裏に控えようとして、濡れた紙にボールペンのインクが乗らず、二度なぞって、それでも薄かった。ヘルメットの縁から垂れた水が、書いたばかりの数字の上に落ちて、指の腹で押さえたので、二十の丸が潰れた。 「三番から本部。四十七番台、十二、十九、二十、不発。三発です」 「本部、了解。四十七の十二、十九、二十。打ち上げ終了後の確認をお願いします」 「三番、了解」 上流の班からも同じ報告が上がっていたが、本部はそれを読み上げなかった。 雨がやんだのは二十時ちょうどで、やんだことは音でわかった。ビニールを叩く粒の音が消えた。代わりに下から昼の熱が戻ってきて、日中の三十四度八分が土と砂利にまだ残っていて、濡れた作業服の内側が急に蒸れた。袋を外していく作業は、かぶせるときの三倍の速さで進む。外した袋は丸めずに畳む。一度丸めた袋は口がよじれて、次に使えなくなる。 それから一時間、手はほとんど同じ動きを繰り返した。次の台の蓋を外し、速火線の繋ぎを一本ずつ指で辿り、湿りの残る玉を二発抜いて足元の箱に寄せ、番号を控える。控えた数字が増えるほど、プログラムの余白が減っていく。連発が上がるたびに対岸の音が一拍遅れて返ってきて、人の声は玉と玉の切れ目にだけ聞こえる。歓声の大きさで玉の出来がわかると言う人がいる。半田は信じない。大きい玉には大きい声が出るというだけの話で、開きの良し悪しとは繋がらない。 「半田さん、三月のあれ、十一月にもあるらしいんすよ」 「そうか」 「受けます、たぶん。十一月って、雪降る前ですよね」 「箱、そこ置かないで」 「あ、はい」 作業服は雨と汗の境がわからなくなっていて、腰から下だけが乾かない。水は生温い。ペットボトルの二本目に口をつけると、抜いた玉を寄せた箱の中から、湿った紙の匂いが強くなって上がってきた。 二尺玉の筒は、連発の列から二十メートル以上離してある。長さは二メートル余り、内径は六十センチ、八割方を地面に埋めて、周りの土を突き固めてから水をかけてある。玉は昼のうちに運び込んで、木箱のまま台の上に置いてあった。二十時五十五分、蓋を外した。紙の表面に手のひらを当てて湿りを見ると乾いていたが、もう一度、玉の腹の側にも当てた。 「本部から三番。二十番、二尺、二十一時〇一分。前後の連発は止めます」 「三番、了解。二十番、二尺、二十一時〇一分」 「装填が終わったら報告ください」 木箱の内側には籾殻が詰めてあり、玉を起こすと手のひらに殻の匂いが残った。揚薬の袋は先に落としてある。玉袋の吊り紐を二本通して、沢口と二人で持ち上げた。七十キロある。沢口が息を止めるのが背中越しにわかって、同じ速さで腰を伸ばした。持ち上げてから筒の口までは三歩あって、腰を落とし、口の真ん中に来るまで足でにじり寄ってから、まっすぐ下ろす。斜めに入れると玉皮を擦る。底に着いた音が、鋼を通って腹に返ってきた。 「重いな。去年のより重いろっか」 「同じ」 「同じか」 「持ちます」 「離れてろ」 速火線の先を点火器の端子に繋いで番号を二度確認し、下がる位置を間違えた茂木に、腕を伸ばして砂利の上を指した。 「本部、二十番、二尺、装填完了」 「了解。二十一時〇一分」 「二十一時〇一分」 残り十秒から沢口が声に出して数えた。半田は数えない。手のひらを乾いた布で拭いてから、キーを回した。 音は下から来る。地面が一度沈んで戻って長靴の底から膝まで抜け、筒の口から出た熱が顔の右側に当たり、硫黄と炭の匂いが遅れて届いた。首を上げると、白い尾が高さを増しながら上がっていく。一、二、三、四、五。開いた。いつもの数で開いた。 光が先に来て、音は後から追いついた。花の縁が広がりきる前に対岸で声が上がり、それが河原の端まで届くのにさらに二秒ほどかかった。首の角度を変えないまま、外側の星が消える位置まで見た。燃え残りが尾を引いて落ちてくることはなかった。色の変わる境目で輪が二重になり、外の輪の消えるほうがわずかに早い。合格の範囲に入っている。 煙は開いたところに丸く残って、次の風でゆっくり河下へ流れていった。灰の粒が落ちてきて顔に当たり、まばたきで払った。 「開いたな」 「開いた」 玉皮の紙片は、しばらく経ってから落ちてきた。一枚が肩に乗った。一枚は沢口のヘルメットの上に残ったが取ってやらず、沢口も気づかないまま点火器の線を巻き取りはじめた。茂木は空を向いて動かず、そのうちまた土手のほうへ首を回した。 最後の連発が終わったのは二十一時五分だった。音が消えて最初に聞こえたのは、拍手ではなく川の音だった。 「本部から各班。二十一時五分、全プログラム終了です。けが人の出た班は無線で、無ければ後で紙のほうへ」 「三番、了解」 懐中電灯を持って筒の列へ戻る。上がらなかった三本に赤いテープを巻き、口に蓋をして、離れた場所へ寄せていく。消防の人が二人来て、控えた番号を読み上げた。 「四十七の十二」 「十二」 「四十七の十九」 「十九」 「四十七の、二十で合ってるすけ」 「合ってる」 「三本とも、このまま置いときますか」 「置いといて」 「テープ、一本でいいですか」 「二本」 「明かり、こっち向けてもらえますか。数字が見えんもんで」 第七章 午後七時四十五分 森本 雨は五分ほど前から降りだしていて、天幕の縫い目から三本の筋になって垂れ、そのうちの一本が鉄板の右の端に落ちて短く鳴るので、そこにだけソースを流さないようにして焼いた。また鳴った。湯気とも煙ともつかないものが天幕の下にたまり、風が抜けないせいで外へ出ていかず、目にしみて、瞬きの数だけ手が半拍おくれる。ゴムの前掛けの内側はとうに汗で貼りついていて、雨が降ったからといって涼しくなったわけではない。むしろ重い。 最初に来たのは、髪を手で押さえた女の二人連れだった。 「二つください」 「六百円が二つで、千二百円になります」 「ちょっと待ってね、いま出すから、傘があるから」 傘があることと財布を出すことがどうつながるのか分からないまま、レジ袋を一枚ひらいて口を広げて待った。開かない。指が乾いていて袋の口が吸いつき、鉄板のふちについた水で人差し指を湿らせてから、もう一度こすると、ようやく端が分かれた。女は畳んだ傘を脇にはさみ、濡れた千円札を二枚、指の腹でこすって剥がした。札はやわらかい。トレーの上でうまく平らにならなかった。 そのうしろに、いつのまにか列ができていた。 列は天幕の外まで伸び、そこから先は雨の中に立っている人たちだったが、誰も抜けなかった。大貫が缶を置いて立ち上がり、鉄板の左半分を空けて、麺の玉を袋のまま六つ、押しつぶしてから落とした。もう三つ足していいと言われて足すと、鉄板の温度が下がって水が出て、湯気が一度に上がった。キャベツは昼のうちに切ったぶんが二つのコンテナに分けてあり、そのひとつを傾け、両手でつかんで載せる。豚バラは冷えると一枚の板になって離れないので、指を差し込んで引きはがしながら三枚ずつ置いた。粉末のソースは計量カップで量る決まりだったが、この十分のあいだだけは袋から直接振った。爪が割れた。パックは五十個ずつ輪ゴムでまとめてあって、外すときに右の親指の爪が縦に割れ、割れたところに輪ゴムが引っかかるようになったので、そのつど手首を振ってほどいた。割り箸を一膳ずつ載せ、蓋を斜めに押さえて閉め、レジ袋に二つ入れて渡し、次の人の顔を見る前に金額を言う。発電機の音は雨に消されて聞こえなくなり、扇風機だけが煙を客のほうへ送り続けていた。 「六百円です」 「千円」 「四百円のお返しです」 「どうも」 「六百円です」 「三つ」 「千八百円になります」 「五千円しかない」 「大丈夫です」 同じ言葉を、二分のあいだに十回以上言った。口が先に動く。 「これ、ペイペイ使えます?」 「現金だけです」 「あー、じゃあ、ちょっと待って」 「すみません」 「いや、こっちが悪いんだから、いいの」 その人は連れの財布から千円札を借りて戻ってきた。列は待たない。借りるまでのあいだも列は動いていて、戻ってきたときには前に四人入っていたが、割り込ませてくれと言う人はいなかったし、こちらから呼び戻すこともしなかった。 「五つ、いや、六つ」 「六つで、三千六百円になります」 「六つで合ってる? 四人なんだけど」 「六つですね」 「じゃあ六つで」 「まだ焼けてないの、それ」 「二分ください」 「二分ね」 「すみません、二分です」 「じゃあいいや、あっち行く」 「はい」 行った人は四分ほどで戻ってきて、何も言わずに列の最後尾に並びなおした。上着の色で分かった。並びなおしたことについて、こちらから言うことはなかった。 「トイレどこですか」 「すみません、分からないです」 「え?」 「分からないです」 「じゃあ一つください」 青のりを抜いてほしいと言った子どもの母親には、粉に混ざっているので抜けないと答えた。母親は黙った。それからしばらくして二つ買い、子どもは天幕の柱にぶら下がって、鉄板のほうへ首を伸ばし、麺の返る音のたびに柱ごと少し揺れていた。 「ここ、入っててもいいですか」 「どうぞ」 「買わないのに、ごめんなさいね」 「大丈夫です」 「これ、いつまで降るんですかね」 「分からないです」 「予報は一時間って言ってたのよ。でもあの人たちの予報だから」 「はい」 「あなた、地元の人?」 「新発田です」 「新発田。あら、うち、聟島のほうに親戚がいたのよ」 「そうですか」 「聟島、分かる?」 「たぶん、通ったことはあります」 「もう誰もいないんだけどね。家だけあるの」 「はい」 「焼きそば、一つもらおうかな。やっぱりいいわ、さっき食べたから」 「はい」 それきり女は何も言わず、髪の水を手のひらで払って、天幕の柱と柱のあいだから外を見ていた。ソースが跳ねた。前掛けに新しい点が三つ増えて、どれが今夜のもので、どれが先週のものかは、もう区別がつかなくなった。 「さっき、あっちで人が倒れたって」と、パックを受け取った男が連れに言った。「四人だってさ。運ばれたのは一人らしい」「熱中症だろ、昼間あんなに暑かったんだから」。倒れたところは二人とも見ていないらしく、話はそこで途切れた。傘も差さずに雨の中へ出ていった。 「玉、あと何箱」 「二箱です」 「二箱か」 「一箱三十で、二箱です」 「足りるか」 「分かりません」 十九時をすぎてからの一時間は三十四食で、段ボールの切れ端に正の字で書いてある。十三時に入って二十三時まで、休憩は三十分。日給は一万三千円で、終わってから封筒で渡される。割ると千二百三十八円になるという計算は、面接の日に一度しただけで、それきりしていない。前の晩は十時から朝の六時まで倉庫で仕分けをしていて、そのあと眠っていない。眠っていない。そのことは、鉄板の前に立っているあいだは一度も分からなかった。 五百円玉が消えた。釣り銭のトレーの底には百円玉と十円玉しか残っておらず、大貫のズボンのポケットから出てきたのも百円玉ばかりで、四百円を百円玉四枚にして渡すと、受け取った男は手のひらの上でそれを数えなおした。数えるのを待った。そのあいだに、うしろの人が傘を畳んで、水を天幕の内側へ振った。硬貨はどれも湿っていて、一枚ずつは剥がれずに、二枚が貼りついたまま指に乗ってくる。 「四千五百円払ってこれだもんな」 有料席のリストバンドをつけた男が、空をいちども見ないでそう言い、焼きそばを二つ提げて土手のほうへ戻っていった。こちらも見ない。次の客は同じ場所に立って、財布を出しながら、七時二十分から上がっているのに音しか聞いていないと連れに言った。連れは、それでも来ないよりはいいと答えた。 音が変わったので、やんだと分かった。 二十時ちょうどだった。天幕を叩いていた音が抜け、あとに残ったのは川のほうから来る低い音と、遠くの人の声と、鉄板の上で水が飛ぶ音だけになった。列は前から順にほどけていき、最後の三人が受け取って離れると、そのあとは誰も来なかった。天幕の外の地面は踏み固められて黒く光り、そこに空の色が短く映っては消え、映るたびに一拍おくれて音が来た。 雨が降っているあいだ、奥歯のことは一度も思い出さなかった。 左の手首の内側に、鉄板の縁が当たった痕が横に一本ついていた。いつ当たったのかは分からない。ペットボトルの水をかけて冷やすと、そこがはっきり痛みだして、痛みが引いたあとから、三週間しみている左の奥歯が戻ってきた。しみる。歯医者には二度電話をかけて、二度とも留守番電話につながった。かけ直す時間はいくらでもあったはずで、実際には一度もなかった。長靴の中の靴下は、雨よりずっと前から濡れている。 新発田の家では、母がキャベツを大きく切った。焼きそばのキャベツは大きいほうがうまいというのが母の言い分で、口の中に形が残っているほうがいいのだと言い、それに反対したことはない。屋台のキャベツは細い。細いほうが早く火が通って、早く出せる。 大貫はパイプ椅子に座り、缶コーヒーの飲み口を親指でこすっていた。名前は森本だが、森下と呼ばれている。三年のあいだ、直したことはない。 「いくら入った」 「まだ数えてないです」 「玉は」 「一箱と、十四です」 「十四か。じゃあ足りるな」 「はい」 「うちの娘、これ食わないんだよ」 「そうですか」 「ソースの匂いが嫌なんだと。焼いてる横で言うんだよ、それを」 「はい」 「森下さんは、夜、なんかやってんの」 「倉庫です」 「倉庫」 「仕分けです」 「休みは」 「火曜です」 「火曜な」 「はい」 「雨、また来ると思う?」 「分からないです」 「来ないよ。もう来ない」 火曜だと答えたあと、大貫は缶の底を段ボールに置いて、それきり何も聞かなかった。バケツの水をどこへ流すかと聞くと、側溝ではないほうへ流せ、怒られるから、と返ってきた。草は水を吸わず、水は低いところへ集まってから土に消えた。屋台の裏には空のコンテナが六つ積んであり、その上に大貫の合羽が広げてあって、まだ乾いていない。ソースの一斗缶が口を開けたまま置いてあったので蓋を探した。無かった。パックの空き箱を切って被せ、缶の縁に沿って指で押さえると、乾いたソースが爪の先に貼りついた。 「ねえ、B地区ってどっち」 「反対側だと思います」 「思いますって」 「すみません、行ったことがなくて」 「三年もここにいて?」 「今年で三年です」 「まあいいや。焼きそば一つ」 「六百円です」 「連れが向こうで待ってるんだけどさ、電話が繋がらないんだよ、さっきから」 「はい」 空で音が鳴って、天幕の外の地面が明るくなり、水たまりの中の色が変わって、また暗くなった。首は動かさなかった。鉄板に残った油の膜に同じ色が薄く乗り、すぐに消えた。人の声の高さがそろって少し上がって、下がった。上がった玉の形は分からないままで、分からなくても支障はない。 また降ればいいと考えて、その考えは口に出さなかった。 昼のうちに三十四度八分まで上がったことと、この河川敷に二十八万人ほど来ることは、入る前の集まりで一度に聞かされた。そのうちの何人がここへ来たのかは分からない。数えたのは食数だけで、顔は一つも憶えていない。それでも、声をかけられた数でいえば、この街に来てからの三年でいちばん多い夜になっていた。誰かに何かを聞かれて、答えて、また別の誰かに聞かれるということが、二十分のあいだ一度も切れなかった。 段ボールは端から濡れていて、ボールペンが滑って線にならなかった。二度なぞって、三度目で紙が破れた。乾いているところを探し、そこへ正の字の続きを書いた。七時四十分からの十分で四十一食、そのあとの十分で三十食だった。 「森下さん、それ、あとでいいから」 「はい」 「キャベツ、まだあるか」 「一コンテナあります」 「切っといて。八時半でまた来るから」 言われたとおりに包丁を出し、濡れていない段ボールを一枚、まな板の下に敷いた。 第八章 午後九時一分 尾花 背中の遠くで筒が鳴った。半拍おくれて、正面に詰まっている顔が一度に白くなり、白はすぐに青へ寄り、青が黄へ流れ、最後に赤の残りが土手の斜面をなめてから消えた。正面の、百七十か百八十の首が同じ角度に傾いて、そのまま二秒か三秒とまっている。振り向かない。何が上がったのかは分かる。開くまでの間と、腹のほうに来る低い音の長さと、こちらの顔まで届いた明るさが消えきるまでの秒数で、号数はだいたい当たる。今日は一万二千発だと朝の打ち合わせで聞いた。数える人間がどこかにいるということだけは分かるが、その数え方は知らない。 二尺だ、と口の中だけで言った。 右手には赤い誘導灯を持ち、左手はいつも空けてある。空けておくのは何かを掴むためではなく、掴まれるためで、この十一時間で四人に掴まれた。四人のうち二人は七十を越えた女で、一人は杖をついた男、残りの一人は酔って足がもつれただけだった。目は上げない。上がっているあいだも正面の下のほう、ロープと足元のあいだの三十センチを見ている。そこが最初に動く。人の重心は肩より先に爪先へ出て、爪先が出た人は二秒後にロープを越える。 遅れて来た音でゲートの鉄枠が短く鳴り、ひとつ置いた仮設フェンスの合板が続けて震え、山のほうへ行った音が戻ってきて、二度目はもっと平たい鳴り方をする。ロープ際の男が煙草を出しかけ、火をつけないまま箱に戻した。肩車をされていた子が、上がりきったあとの暗いところをまだ見ていて、父親の額を両手で挟んで下を向かせようとしている。煙は遅れる。風で下流へ流れて、ここまで届くのは十秒ほどあとになる。火薬の匂いと川の匂いと、屋台のソースの焦げた匂いが順番に来て、細かい灰が制帽のつばに落ちた。 「尾花さん」 「なに」 「見なくていいんすか、あれ」 「電池、替えた」 「え」 「誘導灯の。予備を腰につけとけって朝に言った」 「替えました。さっき」 「いつ」 「雨んとき」 「雨のときに替えたなら、それはもう予備じゃない」 都築は何か言いかけてやめ、腰のポーチを探る音を立てた。二十二の大学生で、この現場は三回目になる。手が遅い。七時四十分に降りだしたとき、雨具を出すのに四分かかって、その四分のあいだにゲートの前で傘の骨がぶつかる音が三度した。 「いまの、二尺ってやつですよね。一番でかいの」 「今日は一発だけ」 「見ないで分かるもんすか」 「分かる」 「すげえな」 「俺、来週テストなんすよ」 「そう」 「これ終わったら二日しか空いてなくて」 「ロープの左、緩んでる」 都築が持ち場を三歩ぶん離れて、結び目を締め直しに行った。また逆だ。引けば緩むほうの結びになっていて、朝にも同じことを言って、同じように直されて、それから半日そのままだった。三度目は言わなかった。 十時四十分からここに立っている。十一時間立つ仕事だと聞いて受けたのに、本当に十一時間立った日は、二年と十か月でそう多くない。左の膝は昼過ぎから内側でこすれる音を出していて、体重を右へ寄せる癖がついたぶん腰が右下がりになり、編み上げの靴は中敷きを二枚重ねてあって、それでも小指の外側が朝から当たっている。汗は塩になる。制帽の内側で乾いたぶんが額に残って、触れると指の腹に粉がつく。日中の三十四度八分は河川敷の舗装に残っていて、日が落ちてからも靴底を通して上がってくる。七時四十分から二十分だけ降った雨は六ミリで、反射ベストの内側はまだ乾いていない。休憩は十五分が二回。二回目は詰所のパイプ椅子に座ったまま、おにぎりの包みを開けずに終わった。水は二リットル飲んで、汗で全部出たので、まだ一度もトイレに行っていない。塩のタブレットは午後のうちに切らし、都築が自分のぶんを一つよこした。 イヤホンが鳴った。 「本部よりA七」 「A七」 「夕方の傷病者の氏名、字の確認をお願いします。報告書のほうで一箇所、読めないところがありまして」 記録用紙を胸ポケットから抜いた。折り目のところでボールペンのインクが滲んでいる。 「沖田逸郎。沖は沖縄の沖、田は田んぼの田。逸は逸品の逸に、郎は太郎の郎です。八十三歳」 「生年月日は確認されましたか」 「されていません。ご本人が年だけおっしゃったので、そのまま書いています」 「付き添いの方は」 「いません。おひとりでした」 「連絡先の欄も空のままですが」 「聞きました。要らないと言われました」 「要らない、というのは」 「そのまま言われたので、そのまま書いていません」 「搬送先の欄が空欄になってますが」 「救護所どまりです。歩いて出られました。時刻は十六時四十二分、A地区第七ゲート前で転倒。意識はありました。救護所まで七分」 「七分ですね」 「はい。呼びかけに応答あり。自分で立とうとされたので、押さえて座っていただきました」 「了解です。原本は月曜に事務所へお願いします」 「月曜には行きません」 「そうでしたね。じゃあ今夜のうちに、詰所の書類受けに入れておいてください」 返事をして、記録用紙をもとの折り目でたたみ、ポケットに戻した。 都築が横から言った。 「あの人、怒ってましたよね」 「そう」 「大声出してたじゃないですか。触るな、って」 「そう」 「歩けるって、ずっと言ってました。周りの人、誰も動かないで見てるだけで」 そういう欄はない。倒れた人が何を言ったかを書く行はあの用紙になくて、書けるのは時刻と場所と、意識の有無と、搬送に何分かかったかだけで、それを埋めれば報告としては足りる。足りることと、あれが何だったのかということは、別のところにある。腕が太かった。手を貸したときに思っていたより太くて、着ていたポロシャツの背中が乾いていたので、この暑さのなかで、あの人は長いあいだ日陰にいたのだと思った。それも欄にはない。 この仕事に就くとき、夫は立ち仕事はやめておけと言ったのに、二〇二三年の二月十九日に死んで、その年の十月からここに立っている。言葉は覚えている。どういう顔で言ったのかは思い出せない。 手が挙がった。正面のロープの内側で、六十一か二くらいの女が孫らしい子の手を引いて、トイレの場所を聞き、三つ目の照明塔の裏だと答えると、こんどは列がどのくらいかと聞いた。二十分ですと答えた。女は子どもを見下ろして、もう少し我慢できるかと聞いた。子どもは返事をしない。二人は人の壁のあいだへ戻っていった。 その少しあとで、こんどは若い男に携帯電話を差し出されて、花火を背にして二人で写りたいという。受け取らない。決まりでそうなっていると言うと、男は隣の女に何か言って、自分の腕を伸ばして撮った。 警備員は花火を見ない。見るなと書いてある規則があるわけではなく、見ればその二秒か三秒のあいだ正面の百七十いくつが消えるからで、消えている二秒に人は前へ出る。ロープをまたぐのはいつも、上がっている最中ではなく、上がりきって明るさが落ちた直後になる。だからこの十一時間、空については音と匂いと、目の前の顔の明るさしか受け取っていない。それで足りないと思ったことは一度もない。連発のときは顔が細かく点滅して、単発のときは一度きり白くなって長く戻らない。上がらなかった時間が七時四十分から三度あって、そのあいだだけ顔がぜんぶ暗く、誰も声を出さなかった。三度目のときに、前のほうで舌打ちがひとつ聞こえた。 九時五分に音の間隔が詰まって最後の連発が始まり、正面の顔が明るくなったまま戻らなくなって、それから一段暗くなり、拍手が起きた。拍手そのものは大きくないのに、ここから見える範囲のぶんだけでも、遠くの水音のように途切れずに続いた。首の角度が戻る。人の壁の厚みが変わる瞬間があって、そこからがこちらの仕事になる。 拡声器のスイッチを入れた。 「立ち止まらないでください。前の方から順にお進みください」 場内放送が重なって、迷子の呼び出しが二度入った。四歳。水色のTシャツで、名前は二度とも同じ言い方で読まれ、二度目の途中で音が割れて、係の女の声が最後だけ低くなった。三度目は入らなかった。見つかったのだと思う。 誘導灯は振らない。腰の高さで進む向きに倒して止めておくだけで、振ると人はそちらへ寄ってきて、寄られると通路が細くなる。声は前の三列にだけ届けばよく、あとは前の人が動けば後ろは動く。 喉が鳴らない。声はもう昼のようには出ず、夕方までに同じことを二百回は言って、奥のほうが乾いたまま張りついている。有料席の九千四百席から人が出てくるのは十分ほどあとで、その列がゲートの手前で合流すると、幅四メートルの通路が二列ぶん足りなくなる。去年はそこで押し合いになってコーンが三本倒れた。今年は間隔を一メートル詰めて、トラロープを腰の高さに張り直してある。雨のあいだに、席が濡れたと言ってゲートまで下りてきた男がいて、一席四千五百円だと三度言われて、三度とも本部の番号を書いた紙を渡した。男は紙を受け取った。まだ何か言い足りない顔で列に戻っていった。交通規制が解けるのは二十二時三十分で、駅の滞留は二十二時五十分まで続くと打ち合わせで聞いている。そこまでは、ここに立っている人間の数を減らせない。 班長の樋口が土手の上から下りてきた。無線を持つ手と反対の手にペットボトルを二本ぶら下げていて、一本を都築に渡し、もう一本をこちらへ差し出した。ぬるい。 「尾花さん、あの、今日で」 「コーンの回収は何時から」 「十一時です」 「じゃあ、それまでいます」 樋口は口を開けたまま、無線のボリュームを意味もなく回した。若い。二十九か三十で、去年の春に班長になって、人に礼を言うのが下手なのは前から知っている。 「制服は、洗ってからでいいですか」 「洗わなくていいです。こっちでクリーニング出すんで」 背中に新越警備保障と白抜きで入った上着は、この二年十か月で二度しか替えていなくて、左の脇の下が薄くなり、指で押すと生地が伸びる。 「そう」 「あと、離職票の送り先、いまの住所のままでいいんですよね」 「はい」 「アパート、引っ越さないんですか」 「引っ越しません」 「そうですか。健康保険のほうは市役所で切り替えになるんで、月曜のうちに行ったほうがいいです。うち、そこだけは何もしてくれないんで」 「月曜は行きます」 「ロッカーの鍵は」 「詰所の机に置いてあります。番号札もつけてあります」 「明日でよかったのに」 ペットボトルの蓋を回して二口飲み、腰の後ろのホルダーに挿した。飲む前に、指が濡れているのを制服の腿でぬぐった。 「あの報告書、俺が見ときますよ」 「見なくていい。書いてあることしか書いてない」 イヤホンがまた鳴った。 「本部よりA七、A七」 「A七」 第九章 午後九時一分 神成 九時になる少し前から、上がる間隔が広くなった。間が長い。板に残った水はまだ引かず、腰の下だけが体温で乾いて、そこの生地だけが肌から離れている。膝から下は八時前と同じ濡れ方のままで、下駄の台に溜まったぶんを親指の付け根が押し出すたびに、貼ったばんそうこうの端がめくれる感じが指の中まで伝わってくる。帯は朝に母が締め直したときより二本ぶん緩んで、座っているあいだに前のほうへずり上がってきた。もらったポンチョは袖を通さずに肩へ載せたままで、垂れた端が三十八の板の窪みに溜まった水に浸かっていて、その水は板の継ぎ目から少しずつ落ちてはいるが、落ちる速さのほうが溜まる速さより遅かったので、九時前になってやっと縁の内側まで下がった。ペットボトルは三十八に立てたままで、残りは指二本ぶんある。 右の女の人が保冷バッグの口を締めて、連れの人の膝の上に手を置いた。 「ねえ、これ終わったらすぐ出たほうがいいのかしら」 「わかりません」 「去年はね、動けるようになるまで四十分かかったの。座ってたほうが早いって言う人もいるけど、この人は座ったままだと立てなくなるから」 「はい」 「中之島のほうへ帰る道が一本しかなくてね。去年はそこでまた一時間よ」 「はい」 「お姉さん、歩きって言ってたわね」 「はい」 「歩けるのがいちばんいいわ。うちは免許がこの人しかないの」 「終わりは」 連れの人が、初めてこちらを向いて聞いた。 「九時五分です」 「そうか」 今夜その人が声を出したのは、それだけだった。放送は土手の上の柱から来るので、風の向きによって語尾のところだけが届き、番号らしい数字と、寄贈という言葉と、そのあとに続いたはずの名前とが、途中で人の声にまぎれて聞こえなくなった。通路をはさんだ向こうでは男の人がまだ係の人に何か言っていて、四千五百円という言葉だけが二度こちらまで来た。前の列で子どもが立ち上がり、親に腕を引かれて座った。空が黒い。それから二十秒ほど何も上がらず、周りの声がいちど落ちて、川の音と、遠くのほうで誰かが同じ文句を繰り返している声だけが残った。 音のほうが先に来た。 低いところで腹に一度当たって、そこから開くまでの間が、今夜のどれよりも長かった。首を上げて、上げきったと思ったところよりさらに上で開いた。音はない。白くなってから遅れて来て、その音は前からではなく足の下の鉄骨を伝って板から上がってきた。輪郭は目の端まで届き、端まで届いてからも外へ広がった。まわりの声は上がらず、二秒か三秒たってから後ろの斜面のほうで声が起きて、それが前へ流れてきた。首の後ろが自分の頭の重さで痛んだので、板に手をついて支えると、ついた手のひらの下から水が押し出されて、指のあいだを通っていった。光が落ちるまでのあいだに、三十八の窪みの水がいっぺんに白くなって、縁のほうから順に暗くなり、水の中にあるあいだは形が崩れず、消えるのは空より半呼吸ぶん遅かった。隣の女の人は口を開けたまま上を向いていて、缶を持った手だけが下がっていった。三十八の背もたれの角に残っていた雨粒は、明るいあいだだけ数えられるくらいの数に見えて、暗くなると背もたれごと消えた。 膝の上で画面をつけると、九時一分と出た。 カメラにして腕を伸ばした。画面の下の三分の一は前の列の人の後頭部で、残りは何も映っていない黒だったが、明るさが上がったときに、自分の手の甲の血管まで画面の縁に入っているのが見えた。親指をボタンのところに置いたまま次が開くのを待って、開いてから押さなかった。もう一度待って、それも押さなかった。重い。腕を下ろして画面を消し、裏返して膝に置いたが、裏返した面が濡れていたので、浴衣の膝で拭いてからもう一度置いた。 「撮らないの」 「はい」 「みんな撮ってたわよ、今の。写らないのにね」 「はい」 「うちの人ね、昔は撮るほうの人だったの。カメラを三つ持ってて、そのうち二つはもう動かないんだけど、捨てないのよ」 「そうなんですか」 「今日は持ってこなかったの。明日の朝が早いから」 「はい」 「受付が八時半でね、それまで水も飲んじゃいけないんですって。お茶も駄目、飴も駄目。何のための検査だか、こっちが持たないわ」 連れの人は団扇を膝の上に置いて、両手を腿に組んでいる。動かない。煙は下流へ流れずにいちどこちらへ下りてきて、板の上に残った水に細かい灰が浮き、指ですくうと、指紋のあいだにだけ残った。九時五分の連発は間を置かずに上がって、最後のひとかたまりは、開ききる前に次が重なった。明るさが戻らないまま板の上まで届いて、隣の女の人の缶の縁が白いままになっているのが見えた。終わったのかどうか分からない時間が四、五秒あって、それから斜面の下のほうで拍手が起きた。拍手を二回して、やめた。手のひらが濡れていて音が出なかったので、膝で拭いてからもう一度打ったが、周りはもう終わっていた。斜面の上のほうから順に人が立ちはじめて、立った背中のぶんだけ、下の段から見える範囲が減っていき、板の下で鉄骨が人の重みにきしんで、その音のほうは、打ち上げがやんだあとになってからよく聞こえた。 六月の終わりに、宮下先輩からリードを一枚もらった。ケースの三番目に挟まっていたのを指で抜いて、湿ってるからもう使えない、と言って渡された。まだ袋から出していない。吹く前にケースを開けて、それが入っているのを確かめる癖だけがついた。 放送がもう一度入った。 「本日は最後までご観覧いただき、ありがとうございました。お帰りの列車は大変混雑いたします。駅までは係員の誘導に従ってお進みください」 「臨時、何本出るんだって」 「知らない」 後ろの席で男の人が二人そう言い合って、それきり黙った。係の人が通路を上ってきて、列ごとの案内が始まった。 「J列の方、もう少しお待ちください。今、L列とK列をご案内しています」 「はい」 「足元、板が濡れておりますのでお気をつけて」 「はい」 「三十八番の方、お連れ様はもうお帰りになりましたか」 「来ませんでした」 「そうですか。こちらのペットボトル、お持ちになりますか」 「置いていきます」 「では回収します。半券はお持ち帰りください。来年のご案内が行きますので」 「二枚ともですか」 「二枚ともです」 J列が動きはじめたのは九時十七分だった。 立ち上がると、膝の裏から腿の後ろまでが板の形に冷えていて、最初の二歩は膝が伸びきらなかった。巾着を持ち上げたら底が重く、開けると千円札が水を吸って折り目のところが柔らかくなっていた。半券は二枚が貼りついていて、剥がすと片方の印字が薄くなり、三十八の八のところだけが読めなくなった。帯の内側に押し込んでおいたもう一枚のばんそうこうを出したが、濡れた皮膚には貼れないのが触ってすぐ分かったので、指ではさんだまま歩いた。袖の下のほうが席の枠の金具に引っかかって、引くと、朝に母が言っていたところから糸が五センチほど出た。裂けはしなかった。切らずに指へ二重に巻きつけて、そのまま握った。 「ポンチョ、返さなくていいから」 「ありがとうございます」 「畳んでも汚いだけよ。どこかで捨てて」 「はい」 「お姉さん、明日は何」 「朝から部活です」 「なんの話」 「さっき、聞かれたので」 「そうだったかしら。氷、全部溶けちゃったのよ」 女の人は連れの人の肘の下に手を入れて、二人で通路のほうへ出ていったが、通路に出るまでに三度止まって、そのたびに連れの人は板の縁を手で探した。出るときに保冷バッグの角が三十八の背に当たって、溜まっていた水がもう一度こぼれた。シートは黒いままだ。マジックの三と八のあいだがつながったところに、灰が二つ三つ載っている。 足元の容器を持ち上げると、底のほうにまだ温かさが残っているように思ったが、蓋を開けても湯気は立たなかった。蓋の下に挟んであった割り箸は、袋が湿ってふやけている。麺は一つの塊になっていて、箸を入れると全体が持ち上がった。三口食べて、四口目でキャベツの芯を噛み当てた。ぬるい。ソースは底に溜まって、上のほうと色が分かれている。蓋を戻して輪ゴムを一本だけかけ直し、ゲートの外のごみ袋のところまで持っていって、口の縁を手で押し下げてから入れた。もう一本の輪ゴムは手首にはめたままにしておいた。 土手を下りるのに十分かかった。 人の背中と背中のあいだが一足ぶんしか空かず、下駄では歩幅が合わないので、踵を上げたまま進むと、前の人の鞄の金具が二度ぶつかって、二度目は腰の骨のところに当たった。有料席から下りる列が下の通路で一般の人の流れと合わさるところにコーンが並べ直してあって、そこから先は進む速さが半分になった。詰まる。ゲートの手前に黄色いベストの人が立っていて、誘導灯を振らずに腰の高さで倒して持っている。声はもう掠れていて、前の三列くらいにしか届いていない。 「立ち止まらないでください。前の方から順にお進みください」 言われたから進んだのではなく、前の人が動いたので動いた。四時四十分ごろにこのあたりに人の輪ができていて、黄色いベストの人がしゃがんでいたのを、通り過ぎるときに思い出した。同じ人かどうかは分からない。ベストの背中の白い文字は、来るときに見たものと同じ並びに見えた。橋の手前で流れが二度止まって、そのたびに後ろから押されて、押されるほうへ半歩ずつ出た。 列が止まっているあいだに、後ろの人に肩を叩かれた。 「駅、こっちで合ってます?」 「まっすぐです」 「ありがとう。臨時が出るって聞いたんだけど、何時まで出るか知ってます?」 「わかりません」 「そうだよね。誰も分かんないんだよね」 橋の上は風が通っていて、濡れた背中のところだけが冷たくなった。押し入れの匂いは薄くなり、かわりに火薬と、ソースの焦げたのと、人の汗の匂いとが順番に来た。川のほうを見ると、水の上に煙がまだ層になって残っていて、対岸の照明の光がその中で止まっていた。 橋の途中で電話が鳴った。 「今どこ」 「橋」 「まだ橋なの」 「進んでる」 「濡れてない?」 「乾いた」 「折りたたみ、靴箱の上にあったでしょう」 「あった」 「持ってけばよかったのに」 「うん」 「ごはんは」 「食べた」 「部の人は」 「帰った」 母は台所のほうで何かを置く音を立ててから、少しあいだを置いた。 「明日、何時に起きるの」 「六時半」 「洗剤ね、前のに戻したの」 「うん」 「まな板に熱湯かけてみたら、少しましになった」 「うん」 「玄関で脱いでね。ハンガー、出しとくから」 「うん」 「下駄はそのまま上げないで。新聞紙、敷いとくから、その上に置いて」 第十章 午後十時五十分 森本 鉄板にスクレーパーを立てて手前へ引くと、焦げついたソースが黒い粉になって縁の溝にたまった。ガスはとうに落としてあるのに鉄の芯には熱が残っていて、手の甲を近づければ湯気の立ちはじめる高さで分かる。九十センチ四方を頭の中で四つに割り、右の奥から順に削っていった。左の手前がいちばん黒い。客に向いている側でばかり焼いていたということで、つまり十四時間、体をそこから動かさなかったことになる。安全靴の中で足の裏が膨らんでいるのが分かっていて、いま脱げばもう履けなくなるので脱がなかった。 テントの外を人が流れていく。 交通規制が明けたのが二十分前で、川沿いの道にもう車が入りはじめていた。ヘッドライトが土手の斜面をなめるたび、草の色が緑から白へ飛ぶ。駅の方へ向かう列はほとんど一本になっていて、進みは人が歩く速さよりも遅い。肩車をしたまま止まっている男がいて、上に乗った子供は完全に眠っていて、首が横に折れていた。桃果はその首をしばらく見ていた。落ちるだろうと思ったが、落ちなかった。 「桃果ちゃん、ヘラ、あと二本あるすけ」 コンテナの向こうから戸倉さんが二本まとめて放ってきて、受け損ねた一本がブルーシートの上に落ちた。拾うとき、腰の付け根で紙を裂くような音がした。「すみません」と言うと、「ええて、落ちたぐらいで割れるもんじゃねえ」と返ってきて、それから、麺どうする、という声が続いた。 「十七玉、残りました」 「十七か。去年は二十二残ったすけ、まあ、ええ方だて」 「持って帰りますか」 「持って帰るわ。冷凍しとけば食えるすけ」 「冷凍って、味、落ちないんですか」 「落ちるわ。落ちるけど食えるっちゅう話だて」 戸倉さんは六十四で、腰にコルセットを巻いている。夏のあいだだけ屋台を出して、ほかの季節は新潟市の立体駐車場を管理していると去年聞いた。聞いたのはそれだけで、家族がいるのかどうかも知らない。訊けば答えるのだろうが、鉄板の前には訊く機会というものが無い。この街に来て三年で分かったのは、隣に立っている時間の長さと、その人について知っている量とのあいだには、ほとんど関係が無いということだった。 削り終えた面に柄杓で水を打つと、白い煙が一気に立ち上がって目に沁みた。煙が薄れるのを待たずに、こんどはウエスを押しつけて拭く。油の膜を残しすぎると翌年まで匂いが取れないと言われていて、残さなすぎると錆びるとも言われていて、その加減はまだ分かっていない。ソースの一斗缶は口を塞いでコンテナへ、キャベツの残りは二箱ぶんあったのを一箱にまとめた。紅生姜の容器の底に赤い水が溜まっていたので草むらへ流したら、思ったより遠くまで色が伸びていった。ガスボンベの元栓を閉め、ホースを外し、二十キロのボンベを二本、テントの外へ転がして立てる。発電機はまだ回していた。ライトを消すと手元が見えなくなるからで、消せるのは最後の最後になる。ゴミ袋は四十五リットルのが十一枚できて、割り箸と紙皿と、なぜか片方だけのビーチサンダルが入っている。水道はここから五十メートル離れた仮設の場所にしかなくて、桶を提げて往復しているうちに、腕がだんだん自分のものでなくなってくる。三年目でも、この往復の回数だけは減らせなかった。 「まだやってる?」 Tシャツの男が二人、テントの支柱に手をかけて覗きこんできた。片方はビニール袋に空き缶を四本ぶら下げている。 「すみません、もう火を落としちゃって」 「マジか。腹減った」 「あっちのフランクフルトのところ、まだやってたと思うんですけど」 「行ったって。終わってた」 「そうですか」 「そうですかって」 「駅の方だと、コンビニ、たぶん開いてます」 「あそこ、人すごいでしょ。入れんて」 「じゃあ、ちょっと分かんないです」 男は笑って、支柱を二度叩いてから離れていった。もう一人は最初から桃果の方を見ていなくて、川に向かって腕を上げたまま、何かを撮っているのか、ただ持ち上げているだけなのか分からない格好で立っていた。二人が土手を上がっていく背中を見送ってから、鉄板のいちばん熱かったあたりに指を近づけて、もう焼けないことを確かめた。焼こうと思えば焼けた。麺は十七玉あって、ソースも残っている。それでも一度落とした火をつけ直す手順のほうが、いまは思い出せなかった。 ブルーシートの端を折り返していたら、下から濡れた紙が出てきた。 有料観覧席の半券だった。四千五百円と印字してあって、雨を吸ってふやけ、番号のところにソースの茶色が染みている。九千四百席のうちの一枚がどういう順路をたどってここまで来たのか、その順路のほうは想像がついた。二十八万人もいれば紙は落ちる。桃果は三年ここで働いていて、席に座ったことは一度もない。座ってみたいと思ったことも、たぶん無い。夜勤が明けたのが二十時間近く前で、そのまま自転車でここへ来て、今日の日給は一万三千円で、一万三千円では席の三枚に足りない。半券は捨てずに支柱の金具へ挟んでおいた。取りに来る人はいないと思ったし、実際、誰も来なかった。 懐中電灯の光が足元を横切った。 「こちら、二十三時までにお願いしますね」 年配の女性の警備員だった。光を下へ向けたまま近づいてきて、テントの中を覗きこむような角度で首を伸ばした。制服の肩に新越警備保障と入っている。声は落ち着いていて、朝から同じことを同じ調子で言い続けた人の声をしていた。 「はい、間に合います」 「ゴミは向こうの集積ね。青いネットのとこ」 「分かりました。段ボールも一緒でいいですか」 「段ボールは潰して、ネットの手前。潰さんと持ってってくれんのよ」 「潰します」 「車、そこ停めてる?」 「軽トラが一台、土手の下に」 「出るとき、上の道はまだ詰まってるすけ、下から回った方が早いですよ」 女性はそこで一度立ち止まって、拭き上げたばかりの鉄板を見ていた。 「これ、毎年やってるの」 「三年目です」 「そう」 それきり黙って、光を足元で小さく回した。桃果は何か言った方がいい気がして、暑かったですね、と言いかけて、昼の三十四度八分をこの人はどこで立っていたのだろうと考えて、途中で止めた。 「私、今日で終わりなんですよ」 顔は見えなかった。返す言葉を探しているうちに、女性はもう隣のテントの方へ光を振っていて、そちらのおじさんに向かって、二十三時までにお願いしますね、と同じ調子で言っているのが聞こえた。おめでとうございますでも、お疲れさまでしたでも違う気がして、結局、桃果は何も言わなかった。終わりというのが今日の勤務のことなのか、それよりも先まで含んでいるのかも分からないままだった。 尻ポケットで携帯が震えた。母だった。 「終わった?」 「片付け中」 「花火どうだった」 「見てない」 「見てないの。あんた、あれのために行ってるんじゃないの」 「働きに行ってるんだって」 「そうだけどさ」 母はそこで少し黙って、それから伯母の膝の話を始めた。手術をするとかしないとかで、するなら十月で、新発田の病院ではなく新潟市まで出るらしい。 「日帰りじゃ無理なんだって。一週間入るって」 「そうなんだ」 「お父さんが送るって言うんだけどね、車、来月車検なのよ」 「来月なの」 「上がるんだって、二万くらい。もう十二年乗ってるからって」 「ふうん」 「そっち、雨降った?」 「降ったよ。二十分くらい」 「傘、持ってったの」 「持ってない」 「こっちは降らんかったわ。全然。洗濯物、出しっぱなしで出かけて、平気だったもん」 「そう」 「あんた、ちゃんと食べてるの」 「食べてる」 食べたのは十六時ごろで、自分で焼いた焼きそばを、立ったまま半分だけだった。電話は四分ほどで切れた。画面が暗くなるまでの数秒、油の指紋がついたガラスに自分の顔の輪郭が薄く映っていて、それが消えてから、携帯を尻ポケットに戻した。 「桃果ちゃん、あの二尺、見たかね」 戸倉さんがコンテナの蓋を膝で押さえながら言った。 「二尺?」 「二十一時ちょうどぐらいの、いっとうでっかいやつ。あれ上がったとき、みんな声出したろ」 「焼いてました」 九時を回ってすぐ、テントの前に並んでいた列がいっせいに同じ方を向いて、背中だけが揃った。腹の底に来る音が二度あって、鉄板の上の油が細かく震えた。麺をひっくり返し、キャベツを足し、その音の下で紅生姜の蓋を開けた。空は見なかった。 「もったいねえな」 「そうですね」 「見たら、次の年も来るんだわ、人は。だから毎年二十八万も来るんだて」 「そういうものですか」 「そういうもんだて」 戸倉さんは自分で言って自分で笑い、コンテナを持ち上げて腰を庇う姿勢になった。桃果は反対側の持ち手を掴んだ。二人で軽トラの荷台まで運ぶあいだ、戸倉さんは息を吐きながら数を数えていて、それが荷物の数なのか歩数なのかは分からなかった。荷台に載せるとき、角が指の付け根に当たって、そこだけ痺れたまま戻らなかった。 荷台の縁に腰を当てて、戸倉さんが封筒を出した。中を確かめる前に、桃果は手のひらをズボンの尻で二度拭いた。それでも封筒の端に薄い茶色がついた。一万円札が一枚と、千円札が三枚。一度数えてから、指が滑ったような気がしてもう一度数えた。二度目も同じだった。 「来年もやる?」 「たぶん」 「たぶんじゃ困るわ。人、押さえとかんなんすけ」 「やります」 「そう言えばいいんだて。三年やっとる子はもう桃果ちゃんしかおらんのよ」 封筒を折って、腹のポーチに押しこんだ。土手の上の道は詰まったままで、赤いテールランプが二百メートルほど途切れずに続いている。駅の方角からは、まだ人の声が塊のようになって届いていた。二十三時が近いのに、あの列はまだ動いていないらしかった。 「コンテナ、六個?」 「七個あるはずだ」 数え直しても六個で、荷台の下も覗いたが無かった。七個目は、テントを畳んだ跡の草の上に、蓋を開けたまま伏せもせずに置かれていた。中は空で、雨のぶんの水が二センチほど溜まっている。傾けて草へ流し、縁についた泥を手のひらで拭ってから、荷台のいちばん奥へ押しこんだ。 「明日、十時に倉庫な。鉄板だけ先に降ろすすけ」 「はい」 「その靴、明日も履くんか」 「履きます」 戸倉さんは運転席に乗ってエンジンをかけ、道が空くまでそのまま窓を開けて座っていた。桃果はまだ発電機のところにいて、延長コードを肘に巻き取りながら、あと何周で終わるかを数えていた。
小説 · text · 2026-09-07