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小説 · text · 2026-09-06

踊り場の女王

月瀬 灯 →無料で読む ↓
踊り場の女王のカバー
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一 戻らないもの 青葉台団地では、落とし物は三日以内に帰ってくる。一号棟の鍵は一号棟へ、名前の消えた水筒は持ち主の学年まで調べられて学校へ、片方だけの手袋はもう片方が入っている家の郵便受けへ。戻ってきた品には、黄色い紙で折った小さな王冠が結びつけてある。誰が戻しているのかは、誰も知らない。子どもたちは〈踊り場の女王〉と呼んでいた。 「女王っていうくらいだから、五号棟の坂東さんだよ」 弟の翔太はそう決めつけていた。坂東さんは自治会長で、銀色の髪を頭の上へ高く巻いている。毎朝すべての棟を見回り、廊下に植木鉢を出す家には、火事になったらどうするとすぐ注意する。 「あの人は女王じゃなくて校長」と私は言った。 「学校じゃないじゃん」 「だから、みたいなもの」 朝の食卓で、母はトーストを三口かじったまま鞄の中身を全部出していた。レシート、リップクリーム、青いボールペン、薬局でもらった試供品。財布だけがなかった。 「昨日、最後に使ったのどこ」 「駅前のスーパー。牛乳を買った」 「帰ってきて、廊下で鍵を出したよね」 「鍵はポケット。財布は鞄」 母の答えは速かった。速すぎて、前もって覚えていた台詞のように聞こえた。財布は紺色で、角に貝殻の型押しがある。お祖母ちゃんからもらった革で、母は十年使っていた。現金は八万二千円。五万二千円が家賃、三万円が私の修学旅行費だった。ほかに健康保険証、銀行のカード、私と翔太の図書館カードが入っている。 「旅行、行けないの」 訊く順番を間違えたと分かったが、言葉は戻せなかった。母は鞄を逆さにした。パン屑しか落ちなかった。 「学校には相談する。まず財布を探す」 「女王が返してくれるよ」 翔太が明るく言った。 その日の夕方、駅前交番とスーパーからは見つかっていないと連絡が来た。二日目にも、三日目にも、私たちの玄関には黄色い王冠がなかった。四日目の朝、母は学校へ出す修学旅行の申込書を、冷蔵庫から剥がした。そのとき私は、女王を捜そうと決めた。 二 踊り場の地図 私の家は三号棟の四〇三号室にある。青葉台団地は五階建てが七棟、二列に並んでいる。エレベーターはない。各階のあいだに四角い踊り場があり、磨りガラスの窓と、消火器と、古い灰皿の跡がある。雨の日は洗濯物が干され、晴れの日は誰かの折り畳み椅子が置かれる。住んでいる人には通路だが、子どもには部屋だった。一年生は二階半でシールを交換する。三年生は三階半でカードゲームをする。中学生は五階半に上がる階段がないことを知っていて、五階の屋上扉の前をそう呼ぶ。私たち六年生はもう踊り場で遊ばないふりをして、誰も来ない四階半で話をした。私は大学ノートへ七棟分の階段を書いた。 「女王の正体を暴く地図」と翔太が言った。 「落とし物の流れを調べるだけ」 「同じじゃん」 最初の証言は、二号棟の水谷さんだった。先月、診察券入れを落とした。翌朝、玄関の取っ手に掛かっていたという。 「王冠は?」 「黄色だったよ。スーパーの折り込み広告を切ったような紙でね」 四号棟の一年生、海斗は赤い恐竜の手袋を砂場でなくした。三日後、学校の下駄箱へ戻った。王冠は黄色。名前を書いていなかったのに、持ち主を間違えなかった。六号棟の伊原さんは、夫の遺した腕時計を集会所で落とした。戻ったのは九日後。女王にしては遅い。 「電池が替えてあったのよ」と伊原さんは言った。「誰だか知らないけど、余計なことまでして」 そう言いながら、腕にはその時計を着けていた。七号棟の田辺さんは、現金の入った封筒を落としたが戻らなかった。黄色い王冠だけが玄関に置かれ、内側に〈交番〉と書かれていた。現金はその日のうちに警察へ届いていたという。 「じゃあ、女王が盗ったんじゃないんですね」 「当たり前だ。だいたい女王だなんて、子どもが勝手に——」 田辺さんは途中で言葉を止めた。ベランダ側の水道管が、こん、こん、こん、と三度鳴ったからだ。古い団地では、上の階が蛇口を急に閉めると管が鳴る。田辺さんは音のする天井を見てから、私たちへもう帰れと言った。私は戻った場所と日数を地図へ書き込んだ。規則は見えなかった。棟も階もばらばらだ。ただ、品物を拾った人は、誰一人として女王を見ていない。 「拾った人が女王なんじゃないの」 同じクラスの三崎舞が言った。 舞は一号棟の三〇五号室に住んでいる。髪を自分で短く切っていて、工作用の鋏を筆箱に入れている。 「拾った人が全員、同じ王冠を折る?」 「王冠の折り方をみんな知ってるとか」 「私は知らない」 「理緒は団地のこと、住んでるくせに知らなすぎ」 舞は私のノートへ勝手に線を引いた。舞は、戻るまでの日数が同じ品を線でつないだ。落とした場所も戻った場所も無視した。三日で戻ったものが一本、七日で戻ったものが一本、九日で戻った腕時計だけが外れた。 「曜日だよ」と舞は言った。「火曜に落としたものは金曜。木曜なら日曜」 「三日ってこと?」 「違う。燃えるごみの日」 団地のごみ置き場は、火曜と金曜の朝に開く。各棟の当番が鍵を持ち、六時半から七時半まで立つ。女王が動くのは、ごみの日だった。 三 黄色い紙 金曜の朝、私は六時に家を出た。母には朝練だと言った。運動部には入っていないので、翔太が笑いそうになったが、前の晩にプリンを渡して黙らせた。空は曇っていた。三号棟のごみ置き場では、管理人の津田さんが青い網を広げている。津田さんは団地ができた年からここに住み、七年前に会社を辞めて管理人になった。右手の小指が曲がらず、書類へ判を押すときだけ左手を使う。 「早いな。旅行か」 私のリュックから、学校でもらった行程表が覗いていた。 「朝練です」 「何部だ」 「まだ決めてません」 津田さんは深く訊かなかった。ごみ袋の山から、資源ごみに混じったスプレー缶を抜き出した。六時二十分、四〇一号室の長谷川さんが生ごみを持ってきた。六時二十五分、五階の大学生。六時三十二分、母が下りてきた。 私は植え込みの裏へ隠れた。 母は夜勤明けのような顔をしていた。けれど昨日は、弁当工場の勤務は休みだった。小さな紙袋を津田さんへ渡す。津田さんは中を見ず、ごみ当番の腕章の下へ隠した。母が去ってから、津田さんは紙袋を清掃用具の籠へ入れた。ごみ置き場を閉め、二号棟へ向かう。 私は後を追った。 二号棟の二階半で、津田さんは手すりの下へ紙袋を置いた。代わりに、消火器の裏から白い封筒を取った。三階の扉が開き、赤ん坊を抱いた女の人が降りてきた。津田さんと挨拶をし、すれ違う。踊り場には私と紙袋だけが残った。 私は手を伸ばした。 「それ、津田さんの忘れ物じゃないよ」 後ろから舞の声がした。 驚いて頭を手すりへぶつけた。 「なんでいるの」 「うちの棟だから。あと理緒、尾行が下手。階段で足音を消すなら、踵から歩いちゃだめ」 舞は紙袋を持ち上げた。口は黄色い紙片で留めてある。広げれば王冠になる形だった。 「母が渡してた」 「開ける?」 私は頷いた。 中には五千円札が一枚と、折り畳まれたメモがあった。 〈電気代、今月分。返すのはいつでも〉 宛名も署名もない。母の字だった。舞はメモを戻し、紙袋を元の場所へ置いた。 「これが女王?」 「少なくとも、落とし物だけじゃない」 七時前、二〇二号室の老人が新聞を取りに出てきた。紙袋を拾い、買い物袋へ入れた。私たちはまた尾行した。老人は棟を出て、一号棟のごみ当番へ何かを渡した。品物は、人から人へ移っていた。女王は一人ではないのかもしれない。一号棟の階段へ入る前、舞は立ち止まった。 「今日はここまで」 「まだ追える」 「学校、遅れるよ」 「財布も同じ道を通ったかもしれない」 舞は一号棟を見上げた。三階の窓だけ、カーテンが外されている。 「理緒のお母さん、財布を落としてないよ」 「どうして舞に分かるの」 「分かるから」 それ以上は言わず、舞は先に学校へ走った。 四 いなくなる部屋 放課後、舞は休んだ。 担任は風邪だと言った。前の席の椅子に、理科の教科書が置かれたままだった。教室の後ろに貼った修学旅行の班表には、舞の名前が私と同じ三班にある。帰宅すると、一号棟三〇五号室の前に段ボールが積まれていた。舞の父親が、ガムテープを剥がして中身を調べている。工事用の作業着を着た大きな人で、学校の授業参観にもその服で来た。舞の家から怒鳴り声が聞こえることはあったが、団地の壁は薄い。どの家からも聞こえるものだと思っていた。 「舞、いますか」 父親は私を見た。「おまえ、三号棟の子か」 「同じクラスです」 「母親が連れてった。どこにいるか知らないか」 私は知らなかった。 「学校は風邪だって」 「学校も騙されてるんだよ」 段ボールの中から、子どもの服が引き出された。舞が去年まで着ていた黄色いパーカーだった。父親はポケットを探り、何もないと床へ投げた。 「三号棟の相沢って女、知ってるな」 母の名字だった。 私は答えなかった。 「あいつがおまえの母親か。人の家庭に首を突っ込みやがって」 父親が一歩近づいたとき、上の踊り場から掃除用のバケツが落ちた。派手な音がして、水が階段を流れる。 「あら、ごめんなさい」 坂東さんが四階から顔を出した。銀色の髪は今日も王冠のようだった。 「自治会長さんよ」と坂東さんは私へ言った。「廊下で子どもを脅している人がいたら、確認する義務があるの」 舞の父親は舌打ちし、部屋へ入った。坂東さんは私を一階まで連れていった。何を見たのか、母から何を聞いたのか、一つも訊かなかった。 「女王なんですか」 階段の出口で、私は訊いた。 「何の話」 「落とし物を返す」 「この団地の落とし物は、管理人室へ届ける決まりです」 「黄色い王冠」 坂東さんの目が一度だけ、私のリュックへ動いた。そこに調査ノートが入っている。 「王冠は、上から見ると立派ね」と彼女は言った。「裏返せば、ただの折り目よ」 答えになっていなかった。 家へ戻り、私は母の箪笥を開けた。母のものを勝手に探すのは初めてではない。三年生のとき、誕生日プレゼントを見つけようとして叱られた。そのときは、探してはいけない理由を知っていた。 今回は分からなかった。 下着の奥に、銀行の封筒があった。残高は四万六千三百十二円。家賃と旅行費をもう一度払える金額ではない。別の封筒には、父の名前が入った離婚届があった。父の署名だけ済んでいる。母の欄は空白だった。父は二年前から別の県で働いている。月に一度、日曜の夜に電話をくれる。離婚という言葉を、母から聞いたことはなかった。電話をかけると、母は工場の休憩中だった。 「財布、ほんとは落としてないでしょう」 沈黙があった。機械の動く音だけが聞こえた。 「帰ってから話す」 「舞はどこ」 母は電話を切った。 五 女王の規則 母が帰ったのは十一時過ぎだった。私は寝たふりをした。翔太の呼吸が深くなったころ、母は台所で水を飲み、冷蔵庫から修学旅行の申込書を出した。捨てたと思っていた。皺を伸ばし、また扉へ貼った。翌朝、食卓に封筒が置いてあった。中には旅行費三万円と学校への手紙が入っている。 「どうしたの、このお金」 「借りた」 「誰に」 「旅行には間に合わせる。それでいいでしょう」 「よくない。財布をどうしたの」 母は翔太を学校へ送り出すまで話さなかった。玄関が閉まると、椅子へ座った。 「舞ちゃんのお母さんに渡した」 「八万円全部?」 「引っ越すためのお金が足りなかった。今日の午後、舞ちゃんとこの町を出る」 「舞は転校するの」 「そうなると思う」 「本人から何も聞いてない」 「言えない決まりなの」 「誰の決まり」 母は答えなかった。 舞の父親は、給料を全部自分の口座へ入れさせていた。舞の母親が家を出ようとすると、通帳と携帯電話を取り上げた。相談窓口へ行ったことが知られ、昨日から仕事を休んで家にいる。母たちは、舞と母親を別々の棟から出し、駅ではない場所で合流させる計画を立てた。 「警察に言えばいいじゃん」 「相談はしている。でも今すぐ迎えに来て、どこかへ隠してくれるわけじゃない」 「八万円あればできるの」 「できるところまで行くの」 母は紺色の財布を、自分で二号棟の踊り場へ置いた。中には現金と、舞の家の合鍵が入っていた。誰かが手に持っているのを見られても、落とし物を戻しているように見える。財布は棟から棟へ運ばれ、最後に舞の母親へ届く。 「保険証も銀行のカードも入れたの?」 「それは抜いた」 母は食器棚の一番上から透明な袋を出した。私と翔太の図書館カードまで入っている。財布をなくしたと信じ込ませるため、中身もいつものままだと嘘をついたのだ。 「私たちに嘘をつく必要あった?」 「舞ちゃんのお父さんがここへ来たら、翔太は訊かれたことを全部話す。嘘をつかせたくなかった」 「知らないまま答えさせたかっただけじゃん」 母は袋をしまった。私の言ったことを否定しなかった。 「女王って、母さんなの」 「違う」 「津田さん?」 「誰か一人の名前を知ったら、その人を問い詰めれば全部止められるでしょう。だから、いないことになってる」 落とし物を拾った人は、いちばん近い踊り場の消火器の裏へ置く。見つけた住民は黄色い紙を付け、次のごみ当番へ渡す。持ち主が分かる人に届くまで、誰も二つ先を知らない。診察券や手袋が戻るのは、その仕組みを隠すためでもあった。助けを必要とする人だけに使えば、何かを運んでいると気づかれる。団地じゅうの落とし物を扱えば、どの手も普通の親切に見える。 「じゃあ女王は、仕組み?」 「そう思っていい」 「舞は知ってた」 「あの子は知らないはず」 「知ってたよ。財布を落としてないって」 母の顔が変わった。 「舞ちゃんと会ったの」 「昨日まで」 「今どこにいるか聞いた?」 「知らない」 「本当に?」 私まで疑われたことが腹立たしかった。私は封筒の三万円を母へ押し返した。 「人のお金を勝手に渡して、別の人から借りて、何も言わなければ親切なの?」 「理緒のお金じゃない」 「私の旅行のお金だって言った」 「家のお金よ」 「同じじゃない」 母も私も声を大きくした。壁の向こうで、隣の家のテレビが消えた。 「舞には逃げるって言う時間があった。私には旅行へ行けなくなるかもしれないって言う時間もくれなかった」 母は何も言わなかった。 私は封筒を持ち、自分の部屋へ入った。 六 王冠の裏 学校で、舞の机は空だった。 担任は家庭の事情とだけ説明した。三班の行程表から舞の名前を消すかどうかは、まだ決まっていない。私は鉛筆でその名前を囲んだ。昼休み、筆箱の底から黄色い紙が出てきた。昨日までなかった。折ると王冠になり、開くと内側に文字があった。 〈理緒へ。四時、三号棟の四階半。ひとりで〉 舞の字だった。 四時までの授業は、時計の針しか覚えていない。下校のチャイムと同時に走り、団地へ戻った。四階半の踊り場には誰もいなかった。磨りガラスの窓が少し開いている。消火器の裏を探すと、母の紺色の財布があった。現金は入っていた。八万二千円、全部。舞の家の鍵もある。財布の下に、もう一枚メモがあった。 〈お母さんが行かないって。お父さんに見つかった。五時に集会所〉 私は時計を見た。四時十二分。 母へ電話をかけた。出ない。工場の勤務は六時までだ。集会所は五号棟の隣にある平屋だ。自治会の会議と子ども会に使う。窓が大きく、隠れる場所には向かない。財布を持って階段を下りかけ、止まった。舞の父親が、三号棟の入口にいた。作業着を脱ぎ、黒い上着を着ていた。郵便受けの名前を一つずつ見ている。私の家を探している。私は四階へ戻った。屋上へは出られない。廊下を走れば、行き止まりだ。磨りガラスの窓の外に、物干し竿が一本通っていた。各踊り場の窓辺に洗濯物を掛けるため、昔の住民が勝手に付けたものだ。隣の階段まで壁沿いに続いているわけではない。 黄色い紙を王冠に折り、財布の金具へ結んだ。 消火器の裏へ戻す。 下の階から足音が近づく。 四〇二号室の扉を叩いた。出てきたのは、いつもベランダで煙草を吸っている大野さんだった。 「落とし物があります」 「管理人へ」 「五時までに集会所へ」 大野さんは私の後ろにいる父親を見た。何も訊かず、消火器の裏から財布を取った。 「次は?」 「知りません」 「それでいい」 大野さんは自分の部屋を通り、反対側のベランダへ出た。外壁に沿った水道管を、箒の柄で三度叩く音がした。舞の父親が踊り場へ上がってきた。 「相沢理緒だな」 私は頷いた。 「母親はどこだ」 「仕事」 「舞から何か預かってるだろ」 「何も」 嘘は、母より下手だったと思う。父親は消火器の裏を調べた。黄色い紙の切れ端だけが残っている。 「子どもが大人の真似をするな。家族のことは家族が決める」 「舞も家族でしょう」 「だから連れて帰る」 「舞が帰りたくないって言ったら?」 頬を叩かれると思った。父親の手が上がった。その前に、上の階から一斉に扉が開いた。五〇一号室の若い夫婦、五〇三号室の伊原さん、五〇四号室の外国人家族。誰も階段へは出ず、ただ玄関に立ってこちらを見ていた。 父親は手を下ろした。 王冠は、上から見れば一人の頭に載る。裏返せば、たくさんの折り目だった。 七 空の財布 舞の父親が棟を出てから、私は集会所へ走った。五時まであと二十分。財布がどこを通っているかは分からない。大野さんの次を追えば、道を知らせることになる。私は近道を選んだ。駐輪場を抜け、砂場を横切る。途中で津田さんが落ち葉を掃いていたが、私を見ても止めなかった。 集会所の前には誰もいない。 扉は施錠され、カーテンも閉まっている。裏へ回ると、室外機の陰に舞がいた。黄色いパーカーを着て、膝を抱えている。 「風邪じゃないじゃん」 最初に出たのは、そんな言葉だった。 「ごめん」 「転校するなら言ってよ」 「言ったら、理緒が止めると思った」 「止めない」 「怒ってるじゃん」 「怒るのと止めるのは違う」 舞は顔を上げた。左の頬に薄い赤い線があった。母親は朝、迎えに来た支援員の車へ乗る直前に、夫に見つかった。財布を運ぶ途中の人が異変に気づき、現金と鍵を引き返させた。舞だけが学校へ行くふりをして別の家へ隠れた。 「お母さんは?」 「お父さんと家にいる。私が戻らなかったら、お母さんだけでも出るって言った」 「どうやって」 「分かんない」 五時の鐘が鳴った。 集会所の正面に、母が来た。工場の白い帽子を手に持っている。坂東さん、津田さん、知らない女の人も一緒だった。大野さんは少し遅れて現れ、紺色の財布を母へ渡した。母は中を確かめた。現金を抜き、知らない女の人へ渡す。女の人は支援団体の名札を見せた。 「今度は、どうするの」 私は母へ訊いた。 「警察に同行してもらう。舞ちゃんのお母さん本人が出たいと言えるように、玄関の外で待つ」 「お父さんが出したくないって言ったら」 「今日は警察の人と一緒に行く。昨日までのやり方は、もう見つかったから使えない」 母は、私を子どもだから外そうとはしなかった。けれど連れていくとも言わなかった。舞は財布の中から自分の家の鍵を取った。 「私も行く」 支援員は首を横に振った。「あなたは安全な場所へ行きます」 「お母さんが私を探す」 「居場所は警察から伝えてもらう」 舞は鍵を握ったまま動かなかった。 私は手を出した。 「預かる」 「何を」 「鍵。落とし物にしておけば、あとで戻るから」 舞は笑わなかったが、私の掌へ鍵を置いた。 その夜、舞の母親は家を出た。 八 四階半 舞とお母さんがどこへ行ったのか、私は教えてもらえなかった。学校には転校の紙だけが届いた。先生は三班の名前を一本の線で消した。私は消しゴムをかけたかったが、消せば舞の名前まで薄くなるのでやめた。母の財布は帰ってきた。中は空だった。貝殻の型押しに新しい傷がつき、黄色い王冠が結ばれていた。 「旅行のお金、どうするの」 「学校に待ってもらえないか訊く」 「待ってくれなかったら?」 「そのとき考える」 私はその答えが嫌いだった。大人は、分からないことを〈考える〉という箱へ入れて、見えない棚へ上げる。 「先に言ってほしかった」 「うん」 母はすぐ頷いた。 「反対しても、使った?」 「たぶん」 「じゃあ訊く意味ないじゃん」 「反対されたことを知って使うのと、理緒は平気だって勝手に決めるのは、違うと思う」 「どっちも使うくせに」 「そうだね」 母は、いいことをした顔をしなかった。私はその顔を見て、少しだけ怒りにくくなった。それがまた腹立たしかった。翌日、職員室へ行った。先生は家のお金のことをいくつも訊いた。私は、舞のことは言わなかった。 「一万円なら今週持ってこられます。残りは来月と、その次」 事務の人は電卓を叩き、紙へ丸を三つ書いた。 「それで大丈夫」 私はもっと大変な顔をされるつもりだったので、拍子抜けした。修学旅行の日、舞のいない三班で京都へ行った。団体写真では、舞が立つはずだった場所を空けなかった。先生は人数を詰め、私は知らないうちに中央にいた。お土産は買わなかった。欲しいものがなかったからだ。駅の売店で、黄色い折り紙だけ一束買った。団地へ帰ると、女王はいなくなっていた。警察の人が踊り場を調べたので、消火器の裏へ物を置いてはいけないことになった。津田さんは管理人室へ届いた手袋や鍵を、透明な箱へ入れた。そこには王冠がついていない。一年生の海斗が、赤い恐竜の手袋をまた片方なくした。今度は三日たっても帰らなかった。 「女王、死んだの?」と翔太が訊いた。 「女王なんて最初からいない」 「じゃあ誰が返してたの」 「みんな」 「みんな死んだの?」 「死んでない」 説明するのが面倒になり、私は海斗の手袋を探した。砂場、学校の下駄箱、四号棟の駐輪場。見つけたのは二号棟の一年生だった。ブランコの下に落ちていたという。その子は手袋を持ったまま、どうすればいいか困っていた。私は京都で買った紙を一枚渡した。 「王冠にして結ぶの」 「折れない」 「私も最初は折れなかった」 嘘だった。私は最初から折れた。でも女王は、そのくらいの嘘ならついていい気がした。二人で王冠を作り、四号棟の郵便受けへ手袋を入れた。海斗は翌朝、女王が帰ってきたと騒いだ。それから、落とし物を見つけた子へ黄色い紙を一枚ずつ渡した。大人が何を運んでいたかは教えなかった。診察券と逃げるための鍵を、同じものにするつもりはなかった。冬休みの前、舞から葉書が届いた。 住所はない。海の写真の裏に、〈元気。制服が緑。前髪は失敗した〉と書いてあった。謝る言葉も、帰りたいという言葉もなかった。私は葉書と、舞から預かった鍵を持って四階半へ行った。磨りガラスの外では、初雪が駐輪場へ落ちていた。消火器の裏は空っぽだ。そこへ鍵を置けば、女王がいつか舞へ戻してくれる気がした。 でも、鍵は落とし物ではない。 持ち主へ戻してはいけない物もある。私はポケットへ戻した。代わりに黄色い王冠を手すりへ置いた。内側には、舞の制服が緑で、前髪をまた自分で切ったらしい、と書いた。五〇三号室の伊原さんが階段を下りてきた。王冠を見つけ、私へ訊いた。 「誰の落とし物?」 「私の友達です」 「友達を落としたの?」 そう言われると、私は少し笑った。 「まだ、見つけてる途中」 伊原さんは王冠へ触らず下りていった。雪が吹き込み、黄色い紙の尖ったところが震えた。飛びそうになったので、私は透明なビー玉を一つ置いた。 王冠は潰れなかった。

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