一 戻らないもの 青葉台団地では、落とし物は三日以内に帰ってくる。 一号棟の鍵は一号棟へ、名前の消えた水筒は持ち主の学年まで調べられて学校へ、片方だけの手袋はもう片方が入っている家の郵便受けへ。戻ってきた品には、黄色い紙で折った小さな王冠が結びつけてある。 誰が戻しているのかは、誰も知らない。 子どもたちは〈踊り場の女王〉と呼んでいた。 「女王っていうくらいだから、五号棟の坂東さんだよ」 弟の翔太はそう決めつけていた。坂東さんは自治会長で、銀色の髪を頭の上へ高く巻いている。毎朝すべての棟を見回り、廊下に植木鉢を出す家には、火事になったらどうするとすぐ注意する。 「あの人は女王じゃなくて校長」と私は言った。 「学校じゃないじゃん」 「だから、みたいなもの」 朝の食卓で、母はトーストを三口かじったまま鞄の中身を全部出していた。レシート、リップクリーム、青いボールペン、薬局でもらった試供品。財布だけがなかった。 「昨日、最後に使ったのどこ」 「駅前のスーパー。牛乳を買った」 「帰ってきて、廊下で鍵を出したよね」 「鍵はポケット。財布は鞄」 母の答えは速かった。速すぎて、前もって覚えていた台詞のように聞こえた。 財布は紺色で、角に貝殻の型押しがある。お祖母ちゃんからもらった革で、母は十年使っていた。現金は八万二千円。五万二千円が家賃、三万円が私の修学旅行費だった。ほかに健康保険証、銀行のカード、私と翔太の図書館カードが入っている。 「旅行、行けないの」 訊く順番を間違えたと分かったが、言葉は戻せなかった。 母は鞄を逆さにした。パン屑しか落ちなかった。 「学校には相談する。まず財布を探す」 「女王が返してくれるよ」 翔太が明るく言った。 その日の夕方、駅前交番とスーパーからは見つかっていないと連絡が来た。二日目にも、三日目にも、私たちの玄関には黄色い王冠がなかった。 四日目の朝、母は学校へ出す修学旅行の申込書を、冷蔵庫から剥がした。 そのとき私は、女王を捜そうと決めた。 二 踊り場の地図 私の家は三号棟の四〇三号室にある。 青葉台団地は五階建てが七棟、二列に並んでいる。エレベーターはない。各階のあいだに四角い踊り場があり、磨りガラスの窓と、消火器と、古い灰皿の跡がある。雨の日は洗濯物が干され、晴れの日は誰かの折り畳み椅子が置かれる。 住んでいる人には通路だが、子どもには部屋だった。 一年生は二階半でシールを交換する。三年生は三階半でカードゲームをする。中学生は五階半に上がる階段がないことを知っていて、五階の屋上扉の前をそう呼ぶ。私たち六年生はもう踊り場で遊ばないふりをして、誰も来ない四階半で話をした。 私は大学ノートへ七棟分の階段を書いた。 「女王の正体を暴く地図」と翔太が言った。 「落とし物の流れを調べるだけ」 「同じじゃん」 最初の証言は、二号棟の水谷さんだった。先月、診察券入れを落とした。翌朝、玄関の取っ手に掛かっていたという。 「王冠は?」 「黄色だったよ。スーパーの折り込み広告を切ったような紙でね」 四号棟の一年生、海斗は赤い恐竜の手袋を砂場でなくした。三日後、学校の下駄箱へ戻った。王冠は黄色。名前を書いていなかったのに、持ち主を間違えなかった。 六号棟の伊原さんは、夫の遺した腕時計を集会所で落とした。戻ったのは九日後。女王にしては遅い。 「電池が替えてあったのよ」と伊原さんは言った。「誰だか知らないけど、余計なことまでして」 そう言いながら、腕にはその時計を着けていた。 七号棟の田辺さんは、現金の入った封筒を落としたが戻らなかった。黄色い王冠だけが玄関に置かれ、内側に〈交番〉と書かれていた。現金はその日のうちに警察へ届いていたという。 「じゃあ、女王が盗ったんじゃないんですね」 「当たり前だ。だいたい女王だなんて、子どもが勝手に——」 田辺さんは途中で言葉を止めた。ベランダ側の水道管が、こん、こん、こん、と三度鳴ったからだ。古い団地では、上の階が蛇口を急に閉めると管が鳴る。田辺さんは音のする天井を見てから、私たちへもう帰れと言った。 私は戻った場所と日数を地図へ書き込んだ。規則は見えなかった。棟も階もばらばらだ。ただ、品物を拾った人は、誰一人として女王を見ていない。 「拾った人が女王なんじゃないの」 同じクラスの三崎舞が言った。 舞は一号棟の三〇五号室に住んでいる。髪を自分で短く切っていて、工作用の鋏を筆箱に入れている。 「拾った人が全員、同じ王冠を折る?」 「王冠の折り方をみんな知ってるとか」 「私は知らない」 「理緒は団地のこと、住んでるくせに知らなすぎ」 舞は私のノートへ勝手に線を引いた。落とした場所から戻った場所ではなく、戻るまでの日数が同じ品をつないでいく。三日で戻ったものが一本、七日で戻ったものが一本、九日で戻った腕時計だけが外れた。 「曜日だよ」と舞は言った。「火曜に落としたものは金曜。木曜なら日曜」 「三日ってこと?」 「違う。燃えるごみの日」 団地のごみ置き場は、火曜と金曜の朝に開く。各棟の当番が鍵を持ち、六時半から七時半まで立つ。 女王が動くのは、ごみの日だった。 三 黄色い紙 金曜の朝、私は六時に家を出た。 母には朝練だと言った。運動部には入っていないので、翔太が笑いそうになったが、前の晩にプリンを渡して黙らせた。 空は曇っていた。三号棟のごみ置き場では、管理人の津田さんが青い網を広げている。津田さんは団地ができた年からここに住み、七年前に会社を辞めて管理人になった。右手の小指が曲がらず、書類へ判を押すときだけ左手を使う。 「早いな。旅行か」 私のリュックから、学校でもらった行程表が覗いていた。 「朝練です」 「何部だ」 「まだ決めてません」 津田さんは深く訊かなかった。ごみ袋の山から、資源ごみに混じったスプレー缶を抜き出した。 六時二十分、四〇一号室の長谷川さんが生ごみを持ってきた。六時二十五分、五階の大学生。六時三十二分、母が下りてきた。 私は植え込みの裏へ隠れた。 母は夜勤明けのような顔をしていた。けれど昨日は、弁当工場の勤務は休みだった。小さな紙袋を津田さんへ渡す。津田さんは中を見ず、ごみ当番の腕章の下へ隠した。 母が去ってから、津田さんは紙袋を清掃用具の籠へ入れた。ごみ置き場を閉め、二号棟へ向かう。 私は後を追った。 二号棟の二階半で、津田さんは手すりの下へ紙袋を置いた。代わりに、消火器の裏から白い封筒を取った。 三階の扉が開き、赤ん坊を抱いた女の人が降りてきた。津田さんと挨拶をし、すれ違う。踊り場には私と紙袋だけが残った。 私は手を伸ばした。 「それ、津田さんの忘れ物じゃないよ」 後ろから舞の声がした。 驚いて頭を手すりへぶつけた。 「なんでいるの」 「うちの棟だから。あと理緒、尾行が下手。階段で足音を消すなら、踵から歩いちゃだめ」 舞は紙袋を持ち上げた。口は黄色い紙片で留めてある。広げれば王冠になる形だった。 「母が渡してた」 「開ける?」 私は頷いた。 中には五千円札が一枚と、折り畳まれたメモがあった。 〈電気代、今月分。返すのはいつでも〉 宛名も署名もない。母の字だった。 舞はメモを戻し、紙袋を元の場所へ置いた。 「これが女王?」 「少なくとも、落とし物だけじゃない」 七時前、二〇二号室の老人が新聞を取りに出てきた。紙袋を拾い、買い物袋へ入れた。私たちはまた尾行した。老人は棟を出て、一号棟のごみ当番へ何かを渡した。 品物は、人から人へ移っていた。 女王は一人ではないのかもしれない。 一号棟の階段へ入る前、舞は立ち止まった。 「今日はここまで」 「まだ追える」 「学校、遅れるよ」 「財布も同じ道を通ったかもしれない」 舞は一号棟を見上げた。三階の窓だけ、カーテンが外されている。 「理緒のお母さん、財布を落としてないよ」 「どうして舞に分かるの」 「分かるから」 それ以上は言わず、舞は先に学校へ走った。 四 いなくなる部屋 放課後、舞は休んだ。 担任は風邪だと言った。前の席の椅子に、理科の教科書が置かれたままだった。教室の後ろに貼った修学旅行の班表には、舞の名前が私と同じ三班にある。 帰宅すると、一号棟三〇五号室の前に段ボールが積まれていた。 舞の父親が、ガムテープを剥がして中身を調べている。工事用の作業着を着た大きな人で、学校の授業参観にもその服で来た。舞の家から怒鳴り声が聞こえることはあったが、団地の壁は薄い。どの家からも聞こえるものだと思っていた。 「舞、いますか」 父親は私を見た。「おまえ、三号棟の子か」 「同じクラスです」 「母親が連れてった。どこにいるか知らないか」 私は知らなかった。 「学校は風邪だって」 「学校も騙されてるんだよ」 段ボールの中から、子どもの服が引き出された。舞が去年まで着ていた黄色いパーカーだった。父親はポケットを探り、何もないと床へ投げた。 「三号棟の相沢って女、知ってるな」 母の名字だった。 私は答えなかった。 「あいつがおまえの母親か。人の家庭に首を突っ込みやがって」 父親が一歩近づいたとき、上の踊り場から掃除用のバケツが落ちた。派手な音がして、水が階段を流れる。 「あら、ごめんなさい」 坂東さんが四階から顔を出した。銀色の髪は今日も王冠のようだった。 「自治会長さんよ」と坂東さんは私へ言った。「廊下で子どもを脅している人がいたら、確認する義務があるの」 舞の父親は舌打ちし、部屋へ入った。 坂東さんは私を一階まで連れていった。何を見たのか、母から何を聞いたのか、一つも訊かなかった。 「女王なんですか」 階段の出口で、私は訊いた。 「何の話」 「落とし物を返す」 「この団地の落とし物は、管理人室へ届ける決まりです」 「黄色い王冠」 坂東さんの目が一度だけ、私のリュックへ動いた。そこに調査ノートが入っている。 「王冠は、上から見ると立派ね」と彼女は言った。「裏返せば、ただの折り目よ」 答えになっていなかった。 家へ戻り、私は母の箪笥を開けた。母のものを勝手に探すのは初めてではない。三年生のとき、誕生日プレゼントを見つけようとして叱られた。そのときは、探してはいけない理由を知っていた。 今回は分からなかった。 下着の奥に、銀行の封筒があった。残高は四万六千三百十二円。家賃と旅行費をもう一度払える金額ではない。 別の封筒には、父の名前が入った離婚届があった。父の署名だけ済んでいる。母の欄は空白だった。 父は二年前から別の県で働いている。月に一度、日曜の夜に電話をくれる。離婚という言葉を、母から聞いたことはなかった。 電話をかけると、母は工場の休憩中だった。 「財布、ほんとは落としてないでしょう」 沈黙があった。機械の動く音だけが聞こえた。 「帰ってから話す」 「舞はどこ」 母は電話を切った。 五 女王の規則 母が帰ったのは十一時過ぎだった。 私は寝たふりをした。翔太の呼吸が深くなったころ、母は台所で水を飲み、冷蔵庫から修学旅行の申込書を出した。捨てたと思っていた。皺を伸ばし、また扉へ貼った。 翌朝、食卓に封筒が置いてあった。中には旅行費三万円と学校への手紙が入っている。 「どうしたの、このお金」 「借りた」 「誰に」 「旅行には間に合わせる。それでいいでしょう」 「よくない。財布をどうしたの」 母は翔太を学校へ送り出すまで話さなかった。玄関が閉まると、椅子へ座った。 「舞ちゃんのお母さんに渡した」 「八万円全部?」 「引っ越すためのお金が足りなかった。今日の午後、舞ちゃんとこの町を出る」 「舞は転校するの」 「そうなると思う」 「本人から何も聞いてない」 「言えない決まりなの」 「誰の決まり」 母は答えなかった。 舞の父親は、給料を全部自分の口座へ入れさせていた。舞の母親が家を出ようとすると、通帳と携帯電話を取り上げた。相談窓口へ行ったことが知られ、昨日から仕事を休んで家にいる。母たちは、舞と母親を別々の棟から出し、駅ではない場所で合流させる計画を立てた。 「警察に言えばいいじゃん」 「相談はしている。でも今すぐ迎えに来て、どこかへ隠してくれるわけじゃない」 「八万円あればできるの」 「できるところまで行くの」 母は紺色の財布を、自分で二号棟の踊り場へ置いた。中には現金と、舞の家の合鍵が入っていた。誰かが手に持っているのを見られても、落とし物を戻しているように見える。財布は棟から棟へ運ばれ、最後に舞の母親へ届く。 「保険証も銀行のカードも入れたの?」 「それは抜いた」 母は食器棚の一番上から透明な袋を出した。私と翔太の図書館カードまで入っている。財布をなくしたと信じ込ませるため、中身もいつものままだと嘘をついたのだ。 「私たちに嘘をつく必要あった?」 「舞ちゃんのお父さんがここへ来たら、翔太は訊かれたことを全部話す。嘘をつかせたくなかった」 「知らないまま答えさせたかっただけじゃん」 母は袋をしまった。私の言ったことを否定しなかった。 「女王って、母さんなの」 「違う」 「津田さん?」 「誰か一人の名前を知ったら、その人を問い詰めれば全部止められるでしょう。だから、いないことになってる」 落とし物を拾った人は、いちばん近い踊り場の消火器の裏へ置く。見つけた住民は黄色い紙を付け、次のごみ当番へ渡す。持ち主が分かる人に届くまで、誰も二つ先を知らない。 診察券や手袋が戻るのは、その仕組みを隠すためでもあった。助けを必要とする人だけに使えば、何かを運んでいると気づかれる。団地じゅうの落とし物を扱えば、どの手も普通の親切に見える。 「じゃあ女王は、仕組み?」 「そう思っていい」 「舞は知ってた」 「あの子は知らないはず」 「知ってたよ。財布を落としてないって」 母の顔が変わった。 「舞ちゃんと会ったの」 「昨日まで」 「今どこにいるか聞いた?」 「知らない」 「本当に?」 私まで疑われたことが腹立たしかった。私は封筒の三万円を母へ押し返した。 「人のお金を勝手に渡して、別の人から借りて、何も言わなければ親切なの?」 「理緒のお金じゃない」 「私の旅行のお金だって言った」 「家のお金よ」 「同じじゃない」 母も私も声を大きくした。壁の向こうで、隣の家のテレビが消えた。 「舞には逃げるって言う時間があった。私には旅行へ行けなくなるかもしれないって言う時間もくれなかった」 母は何も言わなかった。 私は封筒を持ち、自分の部屋へ入った。 六 王冠の裏 学校で、舞の机は空だった。 担任は家庭の事情とだけ説明した。三班の行程表から舞の名前を消すかどうかは、まだ決まっていない。私は鉛筆でその名前を囲んだ。 昼休み、筆箱の底から黄色い紙が出てきた。 昨日までなかった。折ると王冠になり、開くと内側に文字があった。 〈理緒へ。四時、三号棟の四階半。ひとりで〉 舞の字だった。 四時までの授業は、時計の針しか覚えていない。下校のチャイムと同時に走り、団地へ戻った。 四階半の踊り場には誰もいなかった。 磨りガラスの窓が少し開いている。消火器の裏を探すと、母の紺色の財布があった。 現金は入っていた。八万二千円、全部。舞の家の鍵もある。 財布の下に、もう一枚メモがあった。 〈お母さんが行かないって。お父さんに見つかった。五時に集会所〉 私は時計を見た。四時十二分。 母へ電話をかけた。出ない。工場の勤務は六時までだ。 集会所は五号棟の隣にある平屋だ。自治会の会議と子ども会に使う。窓が大きく、隠れる場所には向かない。 財布を持って階段を下りかけ、止まった。 舞の父親が、三号棟の入口にいた。 作業着ではなく黒い上着を着て、郵便受けの名前を一つずつ見ている。私の家を探している。 私は四階へ戻った。屋上へは出られない。廊下を走れば、行き止まりだ。 磨りガラスの窓の外に、物干し竿が一本通っていた。各踊り場の窓辺に洗濯物を掛けるため、昔の住民が勝手に付けたものだ。隣の階段まで壁沿いに続いているわけではない。 黄色い紙を王冠に折り、財布の金具へ結んだ。 消火器の裏へ戻す。 下の階から足音が近づく。 四〇二号室の扉を叩いた。出てきたのは、いつもベランダで煙草を吸っている大野さんだった。 「落とし物があります」 「管理人へ」 「五時までに集会所へ」 大野さんは私の後ろにいる父親を見た。何も訊かず、消火器の裏から財布を取った。 「次は?」 「知りません」 「それでいい」 大野さんは自分の部屋を通り、反対側のベランダへ出た。 外壁に沿った水道管を、箒の柄で三度叩く音がした。 舞の父親が踊り場へ上がってきた。 「相沢理緒だな」 私は頷いた。 「母親はどこだ」 「仕事」 「舞から何か預かってるだろ」 「何も」 嘘は、母より下手だったと思う。 父親は消火器の裏を調べた。黄色い紙の切れ端だけが残っている。 「子どもが大人の真似をするな。家族のことは家族が決める」 「舞も家族でしょう」 「だから連れて帰る」 「舞が帰りたくないって言ったら?」 頬を叩かれると思った。父親の手が上がった。 その前に、上の階から一斉に扉が開いた。 五〇一号室の若い夫婦、五〇三号室の伊原さん、五〇四号室の外国人家族。誰も階段へは出ず、ただ玄関に立ってこちらを見ていた。 父親は手を下ろした。 王冠は、上から見れば一人の頭に載る。裏返せば、たくさんの折り目だった。 七 空の財布 舞の父親が棟を出てから、私は集会所へ走った。 五時まであと二十分。財布がどこを通っているかは分からない。大野さんの次を追えば、道を知らせることになる。 私は近道を選んだ。駐輪場を抜け、砂場を横切る。途中で津田さんが落ち葉を掃いていたが、私を見ても止めなかった。 集会所の前には誰もいない。 扉は施錠され、カーテンも閉まっている。裏へ回ると、室外機の陰に舞がいた。黄色いパーカーを着て、膝を抱えている。 「風邪じゃないじゃん」 最初に出たのは、そんな言葉だった。 「ごめん」 「転校するなら言ってよ」 「言ったら、理緒が止めると思った」 「止めない」 「怒ってるじゃん」 「怒るのと止めるのは違う」 舞は顔を上げた。左の頬に薄い赤い線があった。 母親は朝、迎えに来た支援員の車へ乗る直前に、夫に見つかった。財布を運ぶ途中の人が異変に気づき、現金と鍵を引き返させた。舞だけが学校へ行くふりをして別の家へ隠れた。 「お母さんは?」 「お父さんと家にいる。私が戻らなかったら、お母さんだけでも出るって言った」 「どうやって」 「分かんない」 五時の鐘が鳴った。 集会所の正面に、母が来た。工場の白い帽子を手に持っている。坂東さん、津田さん、知らない女の人も一緒だった。 大野さんは少し遅れて現れ、紺色の財布を母へ渡した。 母は中を確かめた。現金を抜き、知らない女の人へ渡す。女の人は支援団体の名札を見せた。 「今度は、どうするの」 私は母へ訊いた。 「警察に同行してもらう。舞ちゃんのお母さん本人が出たいと言えるように、玄関の外で待つ」 「お父さんが出したくないって言ったら」 「今日は記録を残す。昨日までは、記録を残さないための方法だった。でも見つかった以上、同じ方法は使えない」 母は、私を子どもだから外そうとはしなかった。けれど連れていくとも言わなかった。 舞は財布の中から自分の家の鍵を取った。 「私も行く」 支援員は首を横に振った。「あなたは安全な場所へ行きます」 「お母さんが私を探す」 「居場所は警察から伝えてもらう」 舞は鍵を握ったまま動かなかった。 私は手を出した。 「預かる」 「何を」 「鍵。落とし物にしておけば、あとで戻るから」 舞は笑わなかったが、私の掌へ鍵を置いた。 その夜、舞の母親は家を出た。 八 家のお金 舞と母親がどこへ行ったのか、私は教えてもらえなかった。 学校には転校手続きの書類だけが届いた。担任は班表から舞の名前を消した。私は消し跡を指でこすり、紙を少し破った。 母の財布は帰ってきた。中は空だった。貝殻の型押しに新しい傷がつき、黄色い王冠が結ばれていた。 修学旅行費の三万円は、団地の助け合い積立から借りた金だった。 積立の帳簿を、母は私へ見せた。毎月一世帯二百円。自治会費とは別で、払えない月は空欄。誰が借りたかは数字で記され、名前はない。母は財布の八万二千円を三年かけて返し、旅行費は半年で返すことになっていた。 家賃の五万二千円は、給料日まで十一日遅らせてもらった。管理事務所へ一緒に行くと、津田さんではない職員が延滞の書類を出した。理由を書く欄は三センチしかなかった。母は〈家庭の事情〉とだけ書き、遅延損害金の八百円を翌月払う約束をした。 「舞ちゃんのことを書かないの」と帰り道で訊くと、母は書かないと答えた。 「いいことをした理由なら、待ってもらえるかもしれない」 「家賃を遅らせた理由としては、私が勝手に使ったことに変わりないから」 自分のしたことを、母は正義と呼ばなかった。だからといって、正しくなかったとも言わなかった。 「私が払う」と言うと、母は首を振った。 「家のお金だから、大人が払う」 「この前は、私のお金じゃないって言った」 「言い方を間違えた」 母は、すぐには謝らなかった。 「理緒に相談したら、反対した?」 「分からない」 「反対されても、私は渡したと思う」 「じゃあ相談じゃない」 「そうね」 台所の時計が秒を刻んだ。翔太は床で漫画を読み、会話を聞いていないふりをしていた。 「でも、旅行へ行けなくなるかもしれないことは話すべきだった。あなたに我慢させる可能性を、立派なことみたいに私だけで決めた」 母は箪笥から離婚届を持ってきた。私が探したことには気づいていたらしい。 「お父さんから、先月これが来た。養育費の取り決めをしないなら判を押すって」 「押すの」 「取り決めをしてから」 父は暴力を振るう人ではなかった。大きな声も出さない。その代わり、家にいた頃は電気代から私の靴下まで、何にいくら使ったか母へ毎晩訊いた。母が夜勤を増やしてから、遠い工場への異動を選び、一人で行った。 私は父との電話が好きだった。父は宿題の答えを先に言わず、翔太の好きな電車の名前を全部覚えている。その父と、舞の父親を同じ箱へ入れることはできなかった。 「お父さんにも、舞ちゃんのことを話す?」 「話さない。あなたが知ったことも、勝手には話さない」 「私が誰かを助けたいって言ったら、旅行のお金を使っていい?」 母はすぐに答えなかった。 「まず、ほかの方法を一緒に探す」 それが相談なのだと思った。許可をもらうことでも、決めたことを知らせることでもない。二人とも答えを持っていないうちに、話し始めること。 私は封筒を卓へ置いた。 「これ、借りない」 「締切は明日よ」 「先生に相談する。分けて払えるか訊く」 母は止めなかった。 翌日、私は職員室へ行った。担任と学年主任と事務の人が、順番に同じことを訊いた。家計が苦しいのか。就学援助を申請しているか。父親からの支払いはあるか。 恥ずかしくて、途中で帰りたくなった。 分割払いはできた。最初に一万円、残りを二か月で払う。制度は前からあったが、申込書のどこにも書かれていなかった。 「みんなに言わないでください」と私が頼むと、担任は言わないと約束した。 隠すことと、守ることは同じ形をしている。でも、同じではなかった。 九 女王選挙 舞の父親は団地に残った。 郵便受けから妻と娘の名前を黒いテープで隠し、夜になると酒瓶をベランダへ並べた。逮捕はされなかった。接近を禁じる命令が出るまで時間がかかり、母たちは、彼が誰に何を訊いたか記録し続けた。 女王の道は使えなくなった。 警察が踊り場を調べ、消火器の裏に物を置かないよう自治会へ指導した。津田さんは管理人として知っていたことを問われ、始末書を書いた。坂東さんは集会所の鍵を一か月預けることになった。 落とし物は戻らなくなった。 一年生の帽子が砂場の柵に三週間掛かり、四号棟の宅配便は違う家で開けられた。伊原さんは買い物袋をなくし、誰も届けなかった。 私は坂東さんに、誰が最初の王冠を折ったのか訊いた。 「知らないわ」と彼女は答えた。 「自治会長なのに?」 「自治会ができる前から人は物を拾っていたもの」 二十年以上前、三号棟の子が上履きをなくし、折り紙の王冠を片方へ結んで探したという話がある。もっと前には、新聞の集金人が黄色い領収紙を目印にしたという話もある。坂東さん自身も、どちらが本当か知らなかった。 「一人が始めたことにすると、その人がいなくなった日に終わるでしょう」 「仕組みなら終わらないって、母も言ってた」 「仕組みだって終わるわ。人が使わなくなれば」 坂東さんは、始末書の控えを四つ折りにした。王冠ではなく、ただの四角になった。 「秘密だったから守れた人がいる。でも秘密だったから、何をしているか確かめられなかった。あなたのお母さんが、旅行費を相談せず使えたのもそう。次は、全部を元へ戻そうとしてはいけないのよ」 「じゃあ、どうするの」 「残す折り目と、開く折り目を決める。それを話し合うの」 「女王、死んだの?」と翔太が訊いた。 「仕組みだから、死なない」 「じゃあ休み?」 「たぶん」 十一月、自治会の臨時総会が開かれた。議題は〈遺失物取扱い方法の改善〉。大人は難しい名前を付ければ、前と別の話にできると思っている。 坂東さんは、管理人室に鍵付きの拾得箱を置く案を出した。拾った日時と場所だけを書き、持ち主の名前は分かる人が記入する。現金や身分証は警察へ。生活相談の品は混ぜず、別に連絡先を作る。 「それじゃ女王じゃない」と翔太が小声で言った。 子ども会の席から、私は手を挙げた。 「黄色い紙は残していいですか」 大人たちが振り返った。 「なぜ?」と坂東さんが訊いた。 「戻ってきたって分かるから」 「箱から受け取れば分かるでしょう」 「誰かが拾ったってことが分かる」 しばらくして、伊原さんが賛成した。電池の替わった腕時計を着けていた。 黄色い王冠は、正式な規則に残った。 十 四階半 修学旅行の日、私は舞のいない三班で京都へ行った。 団体写真では、舞が立つはずだった場所を空けなかった。先生は人数を詰め、私は知らないうちに中央にいた。 お土産は買わなかった。買えなかったのではなく、欲しいものがなかった。駅の売店で黄色い折り紙だけを一束買った。 冬休みの前、舞から葉書が届いた。 住所は書かれていない。海の写真の裏に、〈元気。制服が緑。前髪は失敗した〉とあった。謝る言葉も、帰りたいという言葉もなかった。 私は葉書を四階半へ持っていった。 磨りガラスの外では、初雪が団地の駐輪場へ落ちている。消火器の裏は空だった。黄色い紙を一枚取り出し、王冠を折る。 舞から預かった鍵は、まだ私の机にある。返す先はない。警察へ渡せば処分され、父親へ返せば扉を開ける道具へ戻る。母は、舞が決めるまで持っていていいと言った。 それは落とし物ではなかった。 誰かが捨てたものでもない。 私は王冠の内側へ、舞の新しい制服の色と、前髪をまた自分で切ったらしいことを書いた。鍵には結ばず、葉書にも結ばず、手すりへ置いた。 しばらくすると、五〇三号室の扉が開いた。 伊原さんは私を見て、王冠を見た。 「持ち主は分かっているの?」 「分かっています」 「戻せる?」 「今はまだ」 伊原さんは王冠へ触れず、階段を下りた。 女王なら、どんな物でも持ち主へ戻せると、昔は思っていた。 本当は、戻すことが正しいとは限らない。持ち主から遠ざけなければならない鍵もある。名前を書いてはいけない場所もある。誰かのためにしたことが、別の誰かの旅行費になることもある。 雪が踊り場へ吹き込んだ。 私は黄色い王冠を拾い、濡れないようポケットへ入れた。 家へ戻ると、舞の鍵を机のいちばん奥へしまった。見えない場所に置いても、持っている責任まで消えるわけではない。いつか返す日が来るのか、返さない方がいいのか、まだ私には決められなかった。 折り目だけは、掌に残った。
小説 · text · 2026-09-06