FFAVENIA

小説 · text · 2026-09-07

訳者あとがき

しゅう1
訳者あとがきのカバー

第一章 一月十四日の、まだ夜と呼んでさしつかえのない時刻に、モルナール・イシュトヴァーン(Molnár István)を眠りから引き上げたものは、物音ではなく、物音の欠けているというその一事だった。〔訳註:ハンガリーでは姓を先に置く。モルナール(Molnár)は「粉ひき」を意味する普通名詞でもある。〕五十四年のうち最初の数年を別にすれば、この家の寝台の脚には、水輪の軸から太い梁を伝って上がってくる細かな震えが、一日の四分の三ほどのあいだ絶えず届いていたのであり、その震えは、目を覚ましているあいだは誰にも意識されないという性質のものでありながら、止まればただちに人を起こすという性質をも同時に備えていた。上体を起こし、寝台の縁から床板へ足を下ろし、その冷たさを踵の裏で確かめてから、枕の脇に置いてある燐寸の箱を手探りした。 エルジェーベト(Erzsébet)は起きていた。呼吸の間隔が、眠っている者のものではなくなっていた。それでも声はかけてこなかったし、こちらからもかけなかった。 灯りをつけるまでに燐寸を三本使った。指の動きが思うようにならなかったためで、寒さのほかに理由は考えられなかった。窓の内側の面には、前の晩に部屋のなかで立った息が、羊歯の葉の形をして厚く張りついており、爪を立てても崩れないほどになっていた。戸口の外側に打ちつけてある寒暖計へ灯りを近づけて読むと、目盛りの下の端に近いところで水銀は止まっていて、二十一度と二十二度のあいだを指していた。 外套は、前の晩に釘から下ろしたままの位置に落ちていた。 母屋の戸から製粉所の戸までは三十七歩あり、その距離を、イシュトヴァーンは灯りを持たずに歩いた。雪は一昨日の午後に降ったきり足されておらず、日中に一度ゆるんでから凍り直した表面は、体重をかけても沈まず、長靴の底が当たるたびに、乾いた板を膝で折るときのような音を立てた。空はよく晴れていて、東の稜線の上にだけ、まだ色とは呼べない程度の明るみが横に伸びていた。息を吐くと、顎の下の毛のあたりで、それがすぐに固くなった。 製粉所の南の壁に沿って、上流の堰から引いてきた導水路が走っており、その幅は、いちばん狭いところで人ひとりが横になれるほど、水輪の掛かる末端でその倍ほどある。イシュトヴァーンが立ち止まったのは、水輪の手前の、水の音のいちばんよく届く位置だった。水輪は、祖父が据え、父の代の一九一一年に軸受けだけを替えたもので、直径は四メートルと少し、樫の羽根板が三十二枚あり、そのうち下の九枚がふだんは水に浸かるようにできている。羽根板は、九枚ではなく、十四枚めまでが灰色の氷のなかに入っていた。堰の側の水門は、二十日ほど前から半分だけ落としてある。これは、水量が減る時期に流れを細い側へ寄せて、羽根板の裏に氷を付けさせないための、この土地の粉ひきが代々やってきた手当てで、去年までの冬は、それで足りていた。導水路の面は、水門の下から製粉所の壁をくぐる出口まで、雪をかぶったひと続きの板になっており、流れてくるはずの音は、どこを探しても無かった。水輪の下の縁からは氷柱が垂れ、太いものは腕ほどになって、その先端が下の氷に届き、そこで一本につながっていた。つながった部分の色だけが、まわりより濃く、青みを帯びていた。壁を貫いて中へ入っている軸は、外へ出ている部分に霜が回り、軸受けの上に置かれた油差しの口も白くなっていた。羽根板を締めている鉄の輪は、四年前に新しいものが届いて掛け替えてあり、その一本だけが、まわりの黒ずんだ鉄よりも明るい色をしていて、霜のつきかたも他とは違っていた。ふだんなら、この時刻には、上の窓から入ってくるだけの明るさで石の上を見ながら、最初の袋の口を開けている。手のほうが先に動きはじめていて、握るものが無いことに気づいたのは、袋の口の高さで指を閉じたあとだった。父の代のいちばんひどい冬、一九二九年の二月には、川はまる一日と半分だけ止まり、そのあいだ祖父は水輪の下で火を焚いたと聞いている。焚いたのは羽根板の氷を落とすためで、氷を割るためではなかった。その区別を、イシュトヴァーンは十六の年に、同じ場所で、火を焚く側から教わっている。川の氷は、村の者が渡って向こう岸の道へ出られるほどの厚さになる年もあり、そういう年には、渡ってよいかどうかを決めるのが粉ひきの役目のようになっていて、それは誰かが定めた役目ではなかった。 指の関節が、外套の中で二度鳴った。 道具は、粉ひき台の下の、粉袋を積む場所の奥に置いてある。鉄梃は、祖父の代に村の鍛冶が打ったもので、長さは背丈よりわずかに短く、片方の端が平たく、もう片方が鉤になっており、平たい側は、何十年ぶんかの氷と石とで、もとの幅の三分の二ほどまで丸くなっていた。それを両手で持って導水路の縁まで戻るあいだに、東の明るみは、指の幅ひとつぶんだけ上へ広がっていた。 最初の一打で、氷は割れず、打った場所を中心にして白く濁った。二打目からは、割るというより削るのに近い当て方に変え、平たい端を斜めに入れて、破片を少しずつ外へ弾き出していった。破片は雪の上を滑り、遠いものは水輪の下まで行って、氷柱の根もとに当たって止まった。手袋は使わなかった。使えば柄の中で手が回り、当てたい場所から刃先が逃げるからで、そのかわり、五打ごとに両手を外套の下へ入れて、脇の下で温め直さなければならなかった。七打目のあたりから、返ってくる音が変わりはじめた。高くなったのではなく、打った先で音が終わるようになり、氷の下へ抜けていく響きの部分が無くなっていった。十一打目で、鉄梃の先が、氷の下の何かに触れた。触れた感じは、水のものではなく、また川床の土のものでもなく、下にもう一枚別の氷が張っているときのものだった。穴の縁に人差し指を入れて厚みを測ると、二アラスに少し足りなかった。〔訳註:アラス(arasz)は、親指と中指をひらいた長さ。およそ二十センチ。〕 膝をつき、外套の襟を横へ倒して、頬を氷の面につけた。 上流の水門の落ち口から、水の落ちる音が、どれほど細くなっていても伝わってくるはずの位置だった。伝わってきたのは、自分の耳のなかで鳴っている音だけだった。それがやむのを待って、もう一度待ったが、二度目に聞こえたものも、一度目と変わらなかった。頬を離して立ち上がるとき、膝の下で氷が短く鳴り、その鳴りかたは、割れる前のものではなく、厚いものが厚いまま軋むときのものだった。 穀物置き場の上の部屋に寝ているヴァルガ・ペーテル(Varga Péter)が、南京錠の鍵と手提げ灯を持って下りてきたのは、そのあとだった。国営化のあとで地区から配属されてきたこの二十三歳の助手にとって、ここで迎える冬は、まだ二度目に入ったばかりである。灯りを穴に向け、それから水輪の下の氷柱へ向けてから、「割れましたか」と言った。イシュトヴァーンは、鉄梃を持ち直した。「割っても、」とペーテルは、鍵を握ったほうの手を外套の隙間に入れながら続けた、「今夜のうちにまた張りますね」。それについての返事はしなかった。ペーテルは、規則では停止は当日のうちに地区へ届け出ることになっていると言い、次に、その届けの用紙が去年の秋から手もとに一枚も無いことを言い、最後に、水門の上の氷はここより薄いかもしれないから見てきましょうかと言った。三つは同じ調子で並べられ、どれにいちばん力が入っているのかは分からなかった。それから、話の途中で片足に体重を移し、支給された長靴の右のほうが親指の付け根に当たるので、去年の秋に地区へ交換を頼んだが、まだ返事が来ない、と言った。氷の話と長靴の話のあいだに、区切りは無かった。 「戸を閉めておけ」とだけ言った。粉袋の積んである側の戸のことなのか、水門へ行くなという意味なのか、ペーテルは聞き返さず、灯りを下げて、製粉所の角を曲がっていった。 山羊の桶は、母屋の東の壁の下に置いてある。 エルジェーベトが母屋から出てきたのは、東の明るみが色を持ちはじめたころで、肩に毛布を巻き、手には何も持っていなかった。水輪も導水路も見ないまま、母屋の戸の蝶番のことを言った。夜のあいだに三度鳴った、直すなら今日のうちがいい、と。それから、山羊が昨日から水を飲んでいないことを言い、桶の氷を割ってやったが口をつけなかった、と付け足した。粉のことは言わなかった。毛布の端が雪に触れているのを引き上げてから、ペーテルは食べたのか、とだけ聞いて、返事を待たずに戻っていき、母屋の戸は、閉まりきる前に一度、途中で止まった。 蝶番の話は、その日のうちには片づかなかった。 イシュトヴァーンは、鉄梃を氷の上に置いたまま、穴の縁の、白く砕けたところを長靴の先で内側へ落とした。破片が下の氷に当たる音は、思っていたより高かった。二度目に落としたぶんも、同じ音を返した。それから鉄梃を拾い、肩に載せ、導水路の縁を一度だけ上流のほうへ目で追ってから、製粉所の戸を開けて中へ入った。中の空気は、外より二度か三度ぶん暖かく、その暖かさは、石の重さと、壁に染みた油と、四十年ぶんの粉とが持っているぶんの暖かさで、火の暖かさではなかった。上の石は、動かなくなってから七時間ほど経っており、掌を置くと、外の鉄よりは冷たくなかった。目の立て直しは去年の十一月にやってあり、次にやるとすれば春の終わりで、そのための鏨は、柄を替えたばかりのものが二本、窓の下に並べてある。ホッパーの下の受けには、前の日の終わりに挽ききらなかった粉が、掃いたあとの薄さで残っていた。鉄梃を、粉袋を積む場所の奥の、二本の釘に掛け直したとき、鉤の側が壁の漆喰をわずかに落とし、その白いものが床の粉の上に落ちて、区別がつかなくなった。 製粉所は、その日から休みに入った。〔訳註:原語は szünet。「休止」と「休憩」の両方を指す。表題の語でもある。〕 粉ひき台の脇の棚には、挽いた量と、持ち主の名と、日付とを書きつけていく帳面が置いてある。表紙は麻布で、四隅がすり切れ、背の綴じ糸は、去年の秋にエルジェーベトが太い糸で掛け直したままになっている。イシュトヴァーンはそれを開き、前の日の行のすぐ下に、一月十四日、と書いた。秋の終わりからこちら、まだ挽いていない麦を置いている家の名を、帳面をめくらずに、置いてある順に並べることができた。並べられたが、量の欄にも、名前の欄にも、線は引かなかった。何も書かないまま表紙を閉じ、鉛筆は、綴じ目に挟んだままにした。 第二章 夜のうちに風が止み、風が止んだためにかえって寒さは底のほうへ沈んで、六時になってもまだ暗いケレシュハーザ(Kereszháza)の空の下で、製粉所の水車は、前の日の夕方に止まったその位置から、指の幅ほども動いていなかった。粉ひきのモルナール・イシュトヴァーン(Molnár István)は、前の晩に自分の手で下ろしたことをはっきりと覚えている水門の板を、それでももう一度見にゆき、板と枠とのあいだにできた氷の縁が夜のうちにどれだけ厚くなったかを、親指の爪で削って確かめた。爪の先の色がもとに戻るまでに、いつもより長くかかった。水門から製粉所の壁までは二十七歩あり、その二十七歩を、前の日の夕方から数えて四度目に歩いたことになる。止まった水車の内側では、桶の一つ一つに張った氷が、外の、川の面の氷よりも青く見え、上から三本目の羽根の付け根のところだけ、水がまだ落ちきらずに、細い柱の形で下がっていた。建物のなかは、いつもなら床板を通して足の裏に伝わってくるはずのものが伝わってこないので、歩幅が自然に狭くなった。厩の裏で犬が二度吠え、それきり吠えなかった。 〔訳註:ケレシュハーザは架空の村名。「十字架の家」とも読める。〕 台所では、妻のエルジェーベト(Erzsébet)が炉の口を開け、前の晩に燃え残った薪を火掻き棒で奥へ寄せていた。 三日前に焼いたパンが半分だけ残っており、それを切るとき、刃が皮のところで二度すべった。切った端を皿に置いたまま、イシュトヴァーンは脂の壺のほうへは手を伸ばさず、立ったままで窓の外を見ていた。窓の下半分は内側から白く、手のひらで拭いても、拭いたそばからまた白くなった。夜のあいだに二度、目が覚めた。二度とも、何かの音がしたためではなく、いつもの音がしないために覚めたので、起き上がって何かを確かめるということもせず、そのまま毛布の下で足のほうを妻の側へ寄せて、また眠った。妻は、パンのことも、川のことも、粉のことも言わずに、去年の秋に買った塩がもう底に近いことを、量りの上に載せた袋を持ち上げて、重さのほうで確かめていた。秋に痛めた右の親指を使わないやり方、つまり袋の底を左の手首に載せて持ち上げるやり方をするので、量りの皿が二度、傾いた。 七時に近いころ、戸を叩く音がした。叩き方が弱く、二度目までは、庇の氷が落ちる音と区別がつかなかった。 フェケテばあさん(Fekete néni)は七十九で、村の東のはずれの、教会よりもさらに向こうにある家から、粉にするための麦の袋を胸に抱えて歩いてきた。距離は千四百歩ばかりであり、その道を、途中で三度立ち止まりながら、四十分かけて来た、と、戸口に立ったままで自分から言った。頭に巻いた布は、耳のところで二重になっていて、その下から出ている髪は、生え際の三センチほどだけが黄色く、あとは白かった。靴の上からは、それぞれ別の柄の布が脛の下まで巻きつけてあり、右のほうの布の端が解けて、床の土の上へ三十センチほど垂れていた。袋の口は、もとは靴下であったらしい紐で二重に結わえてあり、結び目には、去年の夏に牛の飼料袋を縛ったときの藁が一本、まだ残って絡んでいた。息は、口からではなく布の内側から出ているらしく、布の、鼻の当たるあたりが白く固まっていた。差し出す仕草をせず、抱えたままで、老婆は敷居の内側へ半歩だけ入った。その朝、袋を持ってこの戸を叩いた者は、村のうちで、この老婆が最初であった。 〔訳註:néni は年長の女性への呼びかけで、姓のうしろに付ける。〕 「回っていないのは、外から見て、分かりました。」と、老婆は言い、それから、袋を抱え直して、「けれども、少しでいいのです。」と言った。 イシュトヴァーンは、断るかわりに、朝のうちに自分が見てきたものを、見てきた順序のとおりに、上から下へ並べはじめた。「上の堰から、ここまでの水が、いま、動いていません。」と、老婆の顔ではなく袋の結び目のほうを見て言い、それから、水門の板の厚さのこと、板と枠のあいだに立った氷のこと、水車の桶のなかで四本目までが氷で埋まっていることを、一つずつ言った。「桶の氷は、割れます。割れますが、割れた氷は下へ落ちずに、次の桶へ入ります。入りますと、羽根が一枚、持っていかれます。羽根は一枚が二十一フォリントで、いま、乾いた楢の板は、デブレツェンにしかありません。」老婆が何も言わないので、そのまま続けた。「軸受けには、去年の十一月に脂を入れました。この寒さでは、脂が固まります。固まったところへ無理に回しますと、軸が焼けます。焼けた軸は、削って入れ直すのに、人が二人と、二日、要ります。」そこまで言うと、壁の釘に掛けてある帳面を外し、去年の十一月に脂を入れた日付のところを、指の腹で押さえて老婆のほうへ向けた。帳面には、日付と、袋を持ってきた者の名と、受け取った分量とが、どの行も同じ大きさの字で並んでおり、いちばん新しい行は一月十三日で終わっていた。老婆は、字のほうではなく、帳面を持っているほうの手を見ていた。粉ひきは帳面を釘へ戻し、それから、自分の父が一九二九年の冬に同じことをやって、そのときは川が下流で先に緩んだので助かった、という話を、そこで一度はさみ、その話には結びを付けずに、また機械のほうへ戻った。「上の石は、二十日ほど前に目立てをしましたから、まだ持ちます。持ちますが、石というものは、粉を挟まずに回すと、熱を持ちます。熱を持った石は、その日のうちには冷えません。」老婆が、手で回す臼ならどうか、と言いかけたが、そのことには答えずに、ヴァルガは去年の八月に来たばかりで、この水車をまだ冬に見ていない、ということを言った。それから、風が北から西へ回れば二日、回らなければ三日か四日だと言い、そのあとで、川のことは四十年見ているが当てたのは半分だ、と付け加えた。話しているあいだじゅう、右の手は、水車から石へ力を伝えるための革帯の、垂れている端をつかんでおり、寒さで板のように固くなったその革を、親指で、同じところばかり撫でていた。声の高さは、初めから終わりまで変わらなかった。老婆はまだ動かず、抱えた袋の底を、片方の手で下から支え直していた。「袋は、そこの、戸の内側の、石の上でないところに置いておかれるのが、いちばんよい。石の上は冷えます。」 そこまでで、断るという言葉は一度も使われなかった。 「なんですって。」と、老婆は言い、耳の悪くないほうの側を前に出したが、返事を待たずに、自分の家の煙突の話を始めた。煙が上へ抜けずに部屋のほうへ戻ってくること、去年の春に娘の亭主が梯子を借りていったきり返さないこと、その梯子はもとは自分の父が作ったもので、横木が七本あり、上から三本目だけが新しいこと。「あれさえあれば、自分で上がるんですけどね。」と言い、それから麦のことには戻らずに、教会の話をした。梯子のことを話しているあいだ、老婆の目は、天井の梁に積もった粉の層のほうへ何度も上がった。梁の粉は、前の日の朝までは白かったが、そのときにはもう、上のほうから水気を吸って、縁が灰色になりかけていた。「サボー(Szabó)神父さまのところは、蝋燭が二本、点いていました。今朝、前を通りましたら。」 イシュトヴァーンは、梯子ならうちのをヴァルガに持たせる、と答えた。そのときの言い方は、水車のことを言っていたときよりずっと短く、語尾のところで低くなった。それが麦の返事になっていないことに気づいたようすはなく、老婆のほうも、返事の中身が入れ替わったことを咎めなかった。教会の蝋燭が二本というのが多いのか少ないのかということについても、どちらも何も言わなかった。 老婆は袋を差し出さずに、戸から一歩だけ内側の、土の床の上へ置いた。イシュトヴァーンがそれを持ち上げると、十二キロには足りない重さで、片手で提げたときに、粒のあいだで石が二つか三つ、鳴った。口の紐を解かずに、袋の腹に手のひらを当てると、外の空気よりもわずかに温かく、それは老婆が胸に抱えてきたためであった。粉ひきは、袋を壁ぎわの、薪を積んである台の横へ移し、床の石から二十センチほど浮かせて置いた。置いてから、紐の結び目をいったん解いて、口を手のひらの幅だけ開き、なかへ手首まで入れた。麦は去年のもので、上のほうの粒は乾いていたが、深いところへ指を入れると、粒どうしが離れずに、いくつかまとまってついてきた。手を抜き、掌に載った分を鼻のところまで持っていってから、袋の口の上で掌を傾けて全部戻し、紐を、老婆が結んでいたのと同じ二重の結び方で結び直した。 〔訳註:この地方には、製粉の代金を粉そのもので受け取る慣習があり、その取り分は「粉ひきの分」と呼ばれた。〕 老婆は礼を言わなかった。礼を言うかわりに、来週になれば娘が町から戻るはずだということと、そのときには自分は家にいないかもしれないということを言い、戸を自分で開けて出ていった。戸は下の縁が凍りついていて、肩で二度目に押したときに開いた。開いたとき、外の空気が膝の高さのところを這って入ってきて、炉の火が一度、横へ倒れ、梁の上の粉が、戸口に近いところだけ細く舞った。 窓の下半分をもう一度手で拭いて、イシュトヴァーンは老婆が道を戻ってゆくのを見ていた。来るときには三度立ち止まったと言っていたが、帰りに立ち止まったのは一度だけで、その一度は道の真ん中で、何かを見るためではなく、しばらく西のほうへ顔を向けて立っていた。雪の上に残った足跡は、行きと帰りとで重なっておらず、帰りのほうが道の端に寄っていた。道の両側の柵の杭は、根元まで雪が来ているために、去年の同じころよりも低く見えた。姿が柵の角で見えなくなってからも、拭いたところがまた白くなるまでのあいだ、そこに立っていた。それから台所へ戻り、量りの皿に載せたままになっていた塩の袋を棚へ上げ、切ったまま置いてあったパンの端を、皿ごと妻のほうへ押した。妻は、それを自分の前へ引き寄せてから、脂の壺の蓋を開けた。二人とも、袋のことも、あと何日という数のことも言わなかった。 〔訳註:原文では、粉ひきはこの老婆を一度も名で呼んでいない。〕 戸が鳴って、ヴァルガ・ペーテル(Varga Péter)が入ってきた。手袋を脱がずに炉の前へ行き、指を火のほうへ向けて開いたり閉じたりしてから、壁ぎわの袋を見た。袋については何も言わなかった。去年の八月に地区から配属されてきたときから履いている靴は、寸法が一つ大きく、爪先に布を詰めてあるので、歩くたびに踵のところが鳴った。帽子を取ると、髪の生え際が濡れていて、それを手の甲で一度だけ上へ押しやった。 「上の石の楔は、外していいですか。」と、手袋をはめたままの手で天井のほうを指して訊いた。 第三章 正午をいくらか回ったころ、製粉所の、川に面した側の、石灰の剥げかけた壁に掛けてある寒暖計は、氷点下十一度を指していた。前の日の朝から一度も回っていない水車の、下の三枚の羽根は氷の中に埋まったままで、その上の羽根から垂れた氷柱は、根もとが太く、先へゆくにしたがって細くなって、いちばん長いもので、大人の腕ほどの丈があった。モルナール・イシュトヴァーン(Molnár István)は、扉のかんぬきを外して外へ出、水車の外側を、輪に沿って半分だけ回り、水門の板の、上から二枚目に亀裂が入っていないことをたしかめた。川は、岸から三歩ほどのところまでは白く濁って厚く、その先は、板を並べたように灰色で、水がまだ動いている中ほどだけが、日の当たる時刻には、緑を薄くしたような色に見える。上の家から下りてくる道は、二日のあいだに踏まれたところだけが固くなり、その両側で、雪が、脛の高さのまま残っていた。氷柱を一本も折らずに中へ戻り、かんぬきを、上げたときと同じ位置まで下ろした。 中では、助手が、床に麻袋を広げていた。 ヴァルガ・ペーテル(Varga Péter)は、前の年の秋に配属されてきた二十三の若者で、この土地の生まれではなく、川から二百キロ以上離れた町の、機械の課程を六か月だけ置いていた学校を出ており、水で動く機械については、ここへ来るまで図でしか見たことがなかった。十月の、雨の日の午後に、紙を一枚持って歩いて来て、その紙を、読んでください、と言わずに差し出した。今は奥の、麦の袋を積んである部屋の、窓のない側に寝ている。イシュトヴァーンのことを、名では呼ばず、職の名でだけ呼ぶ。町からの手紙が、十一月に一通、十二月に一通来ていて、二通とも同じ女の字で、二通とも返事を出していない。麻袋は四枚あって、継ぎ目が重ならないように床へ並べてから、大歯車の、いちばん低いところに来ている歯に手をかけ、木槌と、刃を潰した鑿とを使って、根もとの楔を、上から二度、横から一度、叩いて緩めた。歯はシデでできていて、五十年のあいだに、粉を挽くときに当たる面だけが、指の腹で押せばわかるほど窪んでいる。 「これは、抜いてしまってもいいものですか」と、若者は、緩めた楔に鑿の先を当てたまま、振り向かずに訊いた。粉ひきは、答える代わりに、粉箱の蓋を閉め、掛け金を下ろし、箱の縁に腰を掛けて、下の奥歯の、去年の夏から欠けたままになっているところへ舌を当てた。 〔訳註:原語では、機械について言うときの「止める」と、人について言うときの「休ませる」とが、同じ一つの動詞である。以下、文脈によって訳し分けた。表題もこの語による。〕 水が凍っているあいだ、大歯車は一本の歯も要らない。要らないというだけでなく、かりに翌朝に氷が割れて水が来たとしても、四十七本の歯を抜き、番号を確かめ、当たりを見て、削って、入れなおし、楔を打ちなおすという仕事は、日の長い時期に、二人がかりで三日かかる。イシュトヴァーンの父も、その父も、この歯には一度に手を入れず、傷んだものだけを、一年に一本か二本、粉を挽く合間に入れ替えてきた。替えの歯は、屋根裏の、煙突の暖まる側に、六本、立てて乾かしてある。父が切って、まだ使わずに死んだもので、若者はそれを見ていない。そのやり方には、抜いた歯を戻す場所を間違えないための、決まりが一つだけある。歯車の、輪の内側の、外からは見えない面に、小さな十字が、鑿の先で二本、浅く切ってあって、その十字のすぐ隣の歯から数えはじめる。祖父が切ったものだと父から聞かされていて、いつ切られたかは誰も知らない。若者は、いちばん低いところに来ていた歯から数えはじめていた。最初の一本を、両手で、まっすぐ手前へ引く。抜けたあとの穴には、木の粉と、黒くなった獣脂とが残った。歯を、麻袋の上の、いちばん端に置き、白墨で、側面に「1」と書き、書いた字の上を、親指の腹で、一度だけ撫でて、それから二本目の楔に木槌を当てた。並べ方は、扉のほうから奥へ、まっすぐ一列である。歯を何本か抜いた歯車は、水が来ても回せない。回せないというより、回してはならない。残った歯が、抜けたところの前後で、二本ぶんの力を受けることになり、根もとから折れる。折れれば、相手の小歯車の軸まで曲がり、軸は樫で、父が三十七年に一度だけ替え、そのときは、上流の村から人を二人頼んでいる。イシュトヴァーンは、そのことを口に出さなかった。木槌の音は、粉を挽いていないときの製粉所の中では、壁と、低い天井と、麦の入った袋とのあいだで、二度跳ね返ってから戻ってきた。水車が回っているあいだは出てこない鼠が、床の隅を、二度、横切った。上臼の目は、去年の秋から立てていない。立てるなら、梃で臼の縁を起こし、綱を掛けて、二人で押さえながら横へ倒し、鑿の刃を寝かせて当てる仕事になり、水があってもなくてもできて、三日あれば終わる。イシュトヴァーンは、そのほうを見なかったし、指もささなかった。 粉と、獣脂と、濡れた木の匂いのほかに、この二日のあいだに、冷えた石の匂いが加わっていた。 若者は、上着の内側に、糸で綴じた小さな帳面を入れていて、歯を三本抜くごとに、それを出し、鉛筆の先を口で湿らせてから、何かを書いた。鉛筆は、小指ほどの長さまで短くなっていて、削り口は小刀の刃のあとが荒い。帳面には、縦の線が引いてあって、左の欄が狭く、右の欄が広い。書いているあいだ、口が少し動く。イシュトヴァーンは、帳面のことを訊かず、書き終わるのを待ってから目を戻し、粉箱の縁の、木のささくれを、爪の先で削いだ。 「歯車の歯は、ぜんぶで四十七ですね」と、若者は、六本目を麻袋の上に並べてから、数えなおすでもなく言った。粉ひきは、四十七だ、と答えた。それから、去年の春に一本だけ入れ替えたこと、その一本がシデではなく樫であること、樫は堅すぎて相手の木を減らすので、本当は入れてはいけなかったことを、言わなかった。 三時になる前に、エルジェーベトが、上の家からブリキの罐を提げて来て、扉の内側の、風の来ないところに置いた。中には、厚く切った黒パンが四枚と、脂身が、紙に包んで入っていた。罐を置くとき、肩掛けの端を口に咥えて両手を空け、置いてから、また肩へ回した。若者に、手を洗ってからにしなさい、と言い、それから、床に並んだ歯を数えるでもなく見て、扉の隙間から外の水車のほうへ一度だけ目をやり、返事を待たずに出ていった。罐の把手には、去年の秋に切れたところを麻縄で継いだあとがある。 若者の左の靴は、底が爪先のところで剥がれかけていて、針金を二重に回して留めてある。パンを食べるあいだも麻袋の上に膝をついたままで、食べ終わると、両手をストーブの煙突に、触れるか触れないかのところまで近づけ、指を開いたり閉じたりしてから、鑿を持ちなおした。指の付け根には、皹が、右手に三つ、左手に一つあって、いちばん深いものには黒い線が入っている。抜いた歯は一本ずつ布で拭き、穴のほうにも息を吹き込んで、木の粉を落としてから、番号を書いた。字は、十を過ぎたあたりから、少しずつ大きくなっていく。窓は東と南の、どちらも人の背より高いところにあって、南の窓から入る光の四角が、午後のあいだに、向かいの壁を、腰の高さから床のほうへ、少しずつ下りていく。その四角が床に届くころには、耳の先と、鼻の頭とが、赤くなっていた。息は、木槌を振り下ろすたびに、二つに切れて見える。四時前に、川の上のほうで氷が鳴った。低い音が、川床に沿って、下から上へ抜けていくように聞こえ、それきり何も続かなかった。若者は音のしたほうへ顔を上げ、鑿を持った手を膝の上に置いたまま、しばらくそのままでいて、また手もとへ戻った。イシュトヴァーンは戸口を見なかった。粉箱を降り、上臼のところまで歩いて、縁の埃を手のひらで払い、外周に近い目の一本に親指の腹を当て、縁から中心のほうへ、途中まで動かして、離した。指の腹には、粉が薄くついただけで、石の粉はつかなかった。それから、麻袋の上に並んだ歯のうち、九番目のものを取り上げ、窪んだ面を上にして、置きなおした。若者は見ていなかった。 〔訳註:一九七四年の初版では、このあとに二行が続く。一九七六年の版では、その二行が組み替えられたうえで削られている。本訳は初版に拠った。〕 壁ぎわには、粉を待っている袋が十一、口を縛って並べてあった。どの袋にも、白墨で、家の名と、持ち込んだ嵩とが書いてある。二ヴェーカ、一ヴェーカ半、三ヴェーカ。トート、バログ、ナジ、それからもう一度ナジ。いちばん端の、麻の目のもっとも粗い袋にだけ、名がなく、数だけがあった。朝にフェケテばあさんが提げてきた袋は、そこには無い。 〔訳註:ヴェーカは穀物の嵩を量る古い単位。地方によって大きさが異なる。〕 名の無い袋は、二日のあいだ、誰も取りに来ていない。 イシュトヴァーンは、十一の袋の位置を、朝から一度も動かしていない。動かす必要はなかったし、動かせば、順が変わる。箒を取り、麻袋を敷いていないところの床を、扉のほうから奥の壁のほうへ掃いた。掃きながら、一度だけ、鑿を持つ若者の手のほうへ手を伸ばしかけ、途中で箒の柄を持ちなおして、そのまま奥まで掃いた。掃き集めたものには、粉と、木の粉と、獣脂の削りかすと、鼠の糞とがまじっていて、鉄の塵取りに入れるとき、軽いものだけが、いったん浮いた。塵取りの中身は、扉を細く開けて、雪の、踏まれていないほうへ捨てた。落ちたところは、白の上に、薄い灰色の輪になった。扉を閉めるとき、外の空気が、床を這って、麻袋の上の歯の列を、端から順に撫でていくのが、足首のところで分かった。閉めてから、掛け金を、いつもより浅くかけた。 白墨は、三本のうち二本が、その日のうちになくなった。 暗くなるのが早く、四時を回ると、窓の高いところから来る光では、白墨の字が読めなくなった。若者は、二十九本目の楔を叩き終えたところで手を止め、その一本は抜かずにおいた。それから、明日も、これを続けていいですか、と訊いた。粉ひきは、ランプの芯を鋏で切っていた。切った芯の先を親指と人差し指でつまんで、床へ落としてから、獣脂は、罐の底に、指の三本ぶんほどしか残っていない、と答えた。若者は、そうですか、と言い、鑿を布で拭いて、麻袋の端に置き、帳面を出して、この日の最後の数字を書き、上着の内側へ戻した。 その晩、麻袋の上には、歯が二十八本、番号を上にして並んでいた。 第四章 一月十六日の朝、前の日の午後から夜にかけて一度ゆるみ、それからまた締めなおした寒さのために、製粉所の庭にできていた轍は、鋤で削り出したような鋭い稜を持つ幾筋かの線になっていて、そのうえを自転車で走ってくることは、地区の書記であるコヴァーチ(Kovács)にとっても無理であった。門から二十歩ほどのところで降り、そこから先は押してきたのだが、車輪が轍にはまるたびに鎖が外れ、外れた鎖をはめなおすたびに手袋を脱がなければならず、手袋を脱ぐたびに、指の先は、鉄に触れているあいだだけ、熱いものに触れているのと区別がつかなくなった。門を入ってから戸口までの三十歩ばかりを、四十一歳の書記は、自転車を押しながら、川のほうも、氷に包まれた水車のほうも、一度も見ずに歩いた。 自転車は小屋の壁に二度立てかけられ、二度とも滑って倒れた。三度目に、粉袋を積むための台の脚に把手を引っかけて置かれ、それでようやく動かなくなった。 戸を開けたとき、コヴァーチは、外の光を背にして立ったまま、まず自分の来訪があらかじめ知らされていたはずであることを述べ、次に、知らされた日から二日遅れたことについて、道のことと、上の事務所のことと、自分の自転車のことを、順に理由として挙げた。粉ひきのモルナール・イシュトヴァーンは、竈の前の椅子から立たずに、戸を閉めるように言った。それだけを言った。 ヴァルガは、前の日に外した部品を布のうえに並べたまま、顔を上げなかった。 三日目になっても、部屋のなかは、水車が回っていたころとは音の残り方が違っていた。石が回っていれば床の板を通して足の裏まで来ていた低い震えがなく、そのぶん、竈の薪の音と、外の風の音と、ヴァルガが小さな部品を布のうえで動かす音とが、それぞれ別のものとして聞こえた。鞄から出された紙挟みは、表紙の角が湿気で波打っていて、それを平らにしようとするかのように、コヴァーチは両手で二度押さえた。中の用紙は三つの欄に分かれていて、左の欄には去年の受け入れ量が、真ん中の欄には、その受け入れ量から出た粉の量が、右の欄には、その二つから割り出される数字が入ることになっていた〔訳註:マーザ(mázsa)は百キログラム。作中の量はすべてこの単位で数えられている。〕。万年筆の先は、外の寒さのために、最初のひと文字を書こうとしたときに何も出さず、コヴァーチはそれを竈の煙突に近づけて温め、掌のなかで何度か振り、それから自分の親指の腹に試し書きをして、ようやくインクが出ることを確かめた。四つの製粉所を回る予定で、ここが二つめだと、聞かれないうちに言った。三つめの村までは、川ぞいの道が通れるかどうか分からないとも言った。それについて、この部屋の誰も何も答えなかったが、答えがないことは、コヴァーチが次の話に移るのを妨げなかった。 去年の歩留まりを教えてほしい、というのが、その朝の用件であった〔訳註:原語は kihozatal。挽いた穀物に対して得られた粉の割合を指す語で、粉ひきの側でも役所の側でも同じように使われる。〕。イシュトヴァーンは、聞こえなかったのではないことが分かる程度には顔を動かし、しかし答えなかった。竈の口が細く開いていて、そこから薪の割れる音が続いていた。しばらくして立ち上がり、壁ぎわに積んであった薪のいちばん上の一本を取って火のなかに入れ、火掻き棒で位置を二度直し、それから掛けてあった布巾で手を拭いて、椅子に戻った。この一連の動作のあいだ、コヴァーチは万年筆を、紙の上、左の欄の少し上のあたりに、紙に触れさせないまま構えていた。構えたままでいることが待っている姿の表明になるのを避けようとして、途中で一度だけ、手首の向きを変えた。同じことが、少し言葉を変えて、二度目に尋ねられた。三度目には、去年の秋の受け入れ量だけでもいい、粉になったほうの量は後日でも構わない、という形に分けて尋ねられた。イシュトヴァーンは、そのつど顔を上げ、そのつど、答えずに、別のことをした。二度目のときには竈のうえの薬缶に水を足しに立ち、三度目のときには戸口まで歩いていって、外の掛け金がきちんと落ちているかどうかを掌で確かめ、それから戻ってきて、椅子の位置を机から半歩ぶんだけ遠ざけて座り直した。答えないでいるあいだにおこなわれた動作は、どれも、この製粉所で毎日おこなわれている動作であって、そのためにあらたに作られたものは一つもなかった。床には窓の桟の影が二本落ちていて、その二本は、話の止まっているあいだに、板の継ぎ目を一つぶん、机のほうへ寄った。四度目にコヴァーチが言ったのは、正確でなくてもいい、おおよその見当で構わない、ということであって、そう言ったあとで、自分の使った言葉のうちの一つを、別の言葉に置き換えて言い直した。置き換えられたほうの言葉は、前のものより短かった。イシュトヴァーンは膝のうえの布巾を畳みなおし、畳んだものを、膝の同じ位置に戻した。 時刻を計るものは、その部屋には一つも掛かっていない。 紙挟みを少し持ち上げ、それから元の位置に戻して、「去年の分です」と、コヴァーチは言った。「今年のことを聞きに来たのではありません」。この言い方は、上の事務所で使われている言い方ではなく、コヴァーチ自身が四十一年のあいだにどこかで身につけた言い方であって、そのことは、言われた側にも分かるはずのものであった。イシュトヴァーンは窓のほうを見た。窓の外には、氷に包まれたままの水車の、上半分だけが見えていた。 それから、また竈のほうを見た。 帳面はあるはずだと、コヴァーチは言った。三代のあいだ挽いた量を書いてきた帳面がこの部屋のどこかにあることを、自分は前の書記から聞いて知っている、とも言った。棚は戸口の右手にあって、そこには油の缶と、麻紐の束と、背の厚い本が三冊、置かれていた。三冊のうちいちばん右の一冊だけが、背の革を擦り切らせて、下地の色を出していた。イシュトヴァーンは棚のほうを見なかった。見なかったので、コヴァーチも見なかった。二人が同時に見ないでいる場所というものが部屋のなかに一箇所できて、その一箇所は、話がそこから離れていくあいだも、そこにあり続けた。前の書記の名前が出たときにも、イシュトヴァーンは、その名前を繰り返さなかったし、知っているとも知らないとも言わなかった。 奥の戸が開いて、エルジェーベトが、湯を入れた鉢と、布に包んだものを持って入ってきた。鉢は机の、紙挟みから離れたほうの端に置かれ、包みは開かれないまま、その横に置かれた。手の甲に、赤くなった筋が二本あった。何も言わずに出ていき、戸は、閉まりきる前に一度こちらへ戻ってきて、それからきちんと閉まった。 鉢からは、まだ湯気が立っていた。 コヴァーチは鉢に手を触れたが、持ち上げはしなかった。隣の村の製粉所では去年七十六という数字が出ていて、その前の年は七十四だったと、紙を見ながら言った。ケレシュハーザについては、一昨年の欄に七十九と書かれていて、それを書いたのは自分ではない、と付け加えた。三つの数字を並べたあとで、そのどれかを選んでくれればそれで足りるというふうにも聞こえる言い方をし、しかしそうとは言わずに、待った。イシュトヴァーンは両手を膝のうえで組んで、指の関節を順に押していった。左の手から始めて、右の手に移り、それからまた左に戻った。教会の鐘が鳴った〔訳註:この村では鐘は朝と昼と日没前に鳴らされる。作中の時刻はすべてこれによって示される。〕。鳴っているあいだ二人とも動かず、鳴りやんでからも、しばらくは同じ姿勢であった。 外で、風の向きが変わった。 靴の底が濡れていて、竈の熱で乾きはじめると、革の匂いがした。コヴァーチは片方の足をもう片方の甲のうえに乗せ、しばらくしてから下ろした。上の事務所へは今日じゅうに四枚出すことになっていて、四枚のうち二枚には、まだ一字も書かれていない。そのことを言おうとして、途中で言い方を変え、結局、道が凍っている話に戻した。 コヴァーチが立ち上がったのは、鉢の湯がぬるくなってからで、立ち上がってはみたものの行くところがなく、竈のそばまで三歩歩いて、そこで両手を火にかざした。背中を向けたまま、去年の秋は雨が少なかったから、どこの数字も低いはずだと言った。低いことを責めに来たのではないとも言った。この二つの文のあいだにはかなりの間があって、その間に、ヴァルガが、布のうえの小さな部品を一つ、指で押して位置を変えた。イシュトヴァーンはそのときになって初めて口を開き、薪をもう一本入れるかどうかをヴァルガに聞いた。入れなくていいとヴァルガが答え、それでその話は終わった。 用紙の左の欄は、空のままであった。 机に戻ったコヴァーチは、万年筆の蓋を外し、三つの欄に続けて何かを書いた。書き終えるまでに、思ったよりも時間がかかった。書いたものをイシュトヴァーンのほうへ向けることはせず、紙挟みを閉じ、革の紐を通して、鞄に入れた。それから、この訪問について残るのは今書いた三つの数字だけであることを、誰に言うともなく、はっきりした声で言った。机のうえの包みは、最後まで開かれなかった。 鞄の留め金をとめてから、コヴァーチは、教会の前を通る道の、川に近いほうの端が、いつごろ抜けられるようになるかを聞いた。氷のことを聞いていた。イシュトヴァーンは椅子から立ち、窓のところまで行って、外を見ながら答えた。浅瀬の氷は上から見ると厚いが、下では水が抜けていて薄くなっている。抜けるのは割れる音が高くなってからで、低い音のあいだはまだ動かない。父親は氷のうえに掌をついて、耳ではなく掌のほうで聞いていた。今朝の音はまだ低かった。答えは長く、途中で二度言い直され、最後には、明日か、明後日の明け方だろうという、日付を伴うものになった。「明日の、明け方だ」と、そのあとでもう一度言った。コヴァーチはそれを書き留めなかった。 外に出ると、自転車の鎖はまた外れていた。コヴァーチは片膝を轍のなかについて、指で鎖を歯車にかけ直し、そのあいだイシュトヴァーンは把手を両手で押さえて、車体が動かないようにしていた。二人とも何も言わなかった。かけ直された鎖を、コヴァーチは油の付いた指のまま二度回して確かめ、それから指を、鞄の内側の布で拭いた。門のところで一度だけ振り返ったが、そのときにはもう、戸は閉まっていた。 戸が閉まってから、ヴァルガが、外した小さな部品を箱に入れておくか、布のうえに置いたままにしておくかを聞いた。布のうえに、とイシュトヴァーンは答えた。 第五章 窓の内側の硝子には、日が落ちてからの二時間のあいだに、下から三分の一ほどの高さまで霜が伸びていて、その霜の、まだ薄く、水にちかい縁のあたりを、エルジェーベト(Erzsébet)は、洗い終えた手を拭かないまま、爪の先で削っていた。削ったところは、じきに白く戻った。かまどの上には、去年の秋に妹が寄越した、縁の一箇所が欠けている青い深皿が置かれ、そのなかで、豆と玉葱と豚の脂を煮たものが、湯気を立てるというほどでもなく、ただ温かいという程度に温まっていた。かまどに近い側の壁の漆喰には、二十年よりも前からある粉の白さが、拭いても落ちないまま残っていて、その白さの上端の高さは、袋を肩に担いだ男が壁をこすって通るときの、肩の高さと同じだった。硝子の外側では、日のあるうちに解けかけて、また凍りついた雫が、下の桟のところで、灰色の、粒のそろわない列になっていた。 戸が鳴った。 外套を着たまま入ってきて、後ろ手に戸を押さえ、掛け金の落ちる音を確かめてから、イシュトヴァーンは外套を脱いだ。肩のあたりは、外の空気の色をしたまま、しばらく硬かった。長靴を、乾いた泥の剝がれ落ちている入口の板の上で脱いで、片方を、いつも右に置く場所に置き、もう片方は、置いてから、少しだけ向きを変えた。上着の右の隠しから、親指ほどの長さの、油の染みた小さなボルトを出して、窓の下の棚に置いた。何も言わなかった。エルジェーベトも、それを見て、何も聞かなかった。〔訳註:原語は kemence。パンを焼くための据えつけの土窯で、この地方では暖房を兼ねている。〕 「食べる」と、鍋のほうを見ずに、エルジェーベトは言った。「それとも、あとで」 「あとで」 そう答えてから、イシュトヴァーンは卓に着き、皿を引き寄せた。パンは土曜に焼いたものの残りで、外側は、指で押しても戻ってこないほどに硬くなっていた。硬い側を上にして持ち、親指の付け根で二つに割り、割った断面を、皿の底に残っている脂に押しつけて、それから口へ運ぶという順序を、四度くりかえした。右の親指の爪の付け根に、一昨日の朝についた、深くはないが端の開いた切り傷があって、パンを持ちかえるたびに、その指だけが、ほかの指よりわずかに立っていた。 「妹から来たわ」と、エルジェーベトは言い、それから、来たのが木曜だったか金曜だったかを、声に出して考えた。「小麦は、あちらでは去年の半分ですって。半分ということはないでしょう。手紙に書くときは、みんな半分って書くのよ。それから、上の娘に話があるって、相手は南のほうの人で、家に土地があって、母親が達者で、その母親が達者なのがいちばん困る、そういうことを、四枚も書いてくるの。字が、年々大きくなる。大きくなったぶんだけ、書いてあることは減っているのに、封を切ると、こっちは四枚ぶんだと思ってしまう」 「四枚か」 「三枚めは、屋根に上った人の話。屋根に上って、下りられなくなって、下で人が集まって、笑って、それだけ。あの子が笑ったことは、こちらでもう二度、笑えないの。手紙の笑い話というのは、そういうものね」 「あの子は昔から大袈裟なのよ。十四のとき、指を切ったといって泣いて帰ってきて、見せてごらんと言ったら、爪の、白いところだけ」 イシュトヴァーンは、パンの最後の一片を、皿の縁に沿って回した。 村では、モルナール・イシュトヴァーン(Molnár István)を名のほうで呼ぶ者はほとんどなく、年上の者も、年下の者も、たいていは姓だけで呼んだ。〔訳註:ハンガリーでは姓を先に置く。モルナールは姓であると同時に「粉ひき」を意味する普通名詞でもあり、村の者がこう呼ぶとき、姓と職とを同時に呼んでいることになる。〕 エルジェーベトは、卓のもう一方の端に、針の函と、糸巻きと、袖口のほつれた麻のシャツを並べた。函は一九三八年の秋の市で買ったもので、蓋の内側には、そのときの値が鉛筆で書いてある。糸は黒しかなかった。シャツは白に近い生成りで、黒い糸で縫えば、縫った線は、洗うたびに目立つようになるはずだったが、糸を選ぶのには時間をかけず、針の穴に糸を通すのに、長いあいだ手を止めていた。通してから、ランプを少しだけ自分のほうへ寄せた。寄せられたぶんだけ暗くなった手元で、イシュトヴァーンは、皿を、指の腹で押して向こうへやった。 「あの子、外套はあるの」 「誰の」 「ヴァルガの」 「持ってる」 「どんなの」 「灰色の」 「灰色。丈は」 「丈は」 そう繰り返して、それきりになった。エルジェーベトは、針を持った手を膝の上に下ろし、丈がどのあたりまであるものかを、自分の肩から自分の膝までを目で測るようにして考えてから、手をまた上げた。 「膝の上でしょう。あれでは足りない。二十三で、あの背丈で、この村へ寄越されて、外套が膝の上。母親は何をしているの。持たせないなら持たせないで、こちらへ一行、書いて寄越すものよ。あの年の子は、寒いと言わないの。言わないで、朝いちばんに、こっちの都合の悪い顔をするの。あなたにはそれが見えない。見えないというより、見ても、あれは寒いのではなくて何か考えているのだと思うでしょう。思うのよ、あなたは」 イシュトヴァーンは、卓の上の、パンの屑を、指の腹で一箇所に集めていた。 「あの子、下宿のほうでは、何を食べているの」 「知らん」 「知らんって、朝から晩まで一緒でしょう」 「一緒だが、食う話はせん」 「男の人は、何の話をしているの、一日じゅう」 「ボタンがない」 「え」 「あれのは、上から二番目がない」 「なら、こっちへ寄越しなさい。糸は黒しかないけれど」 「灰色に黒でも、遠くからは見えん」 「遠くから見る人のために縫うんじゃないでしょう」 糸を歯で切る音がして、切り口を指の先で撚りながら、エルジェーベトは、「あなたのお父さんのときも」と言いかけ、そこで言葉を止めた。撚った糸の先を、明かりのほうへ持っていって、しばらく見ていた。 「塩は、あれで足りる」 「足りる」 「十月に買ったきりよ」 「足りる」 外の風は、夕方より落ちていた。落ちてはいたが、家の北側の、去年の夏に立てかけたままになっている板が、風の来るたびに壁を打ち、打ったあと、板がひとりでに戻るまでのあいだが、いつも同じ長さではなかった。犬が、村の下のほうで、二度鳴いた。 「サボー神父に会った。橋のところで」と、エルジェーベトは言った。「わたしがどこへ行くところなのかは聞かないで、そのかわりに、自分がどこへ行くところなのかを、長いこと話していらした。鐘の綱がもう限界で、去年から言っているのに誰も寄越さない、屋根のことは自分は言わないことにした、言うと、言った者が直すことになるから、と。それから、エゲルの妹さんの話。妹さんの家の窓が、こちらの家の窓の倍あるんですって。神父さまが、窓の大きさを両手で示すのよ、橋の上で、手袋をしたまま。両手を広げて、そのままの形で、しばらく下ろさないの。こちらが、大きいですねと言うまで下ろさない。だから言ったわ。大きいですねって」 「教会には」 「行っていない」 「そうか」 「あの人は、誰も来ないことを、誰にも言わないでしょう。言わないから、こっちが橋の上で、窓の話を聞くことになるの」 イシュトヴァーンは、卓の木目の、節のあるところを、爪でなぞっていた。この卓は、板の継ぎ目が三本あって、その真ん中の一本だけが、四十年のあいだに、指の入るほどに開いている。開いたところへ落ちた塩や粉を、掻き出すのに使う細い木片が、いつも窓側の端に置いてあり、その木片は、削られて、はじめの半分の太さになっていた。なぞっていた指を、なぞりおえてから、まだ温かい皿の底につけた。 「エルジ」〔訳註:エルジ(Erzsi)はエルジェーベトの愛称。〕 「何」 「いや」 エルジェーベトは、針を布に刺したまま、顔を上げなかった。上げないまま、母親のことを話しはじめた。母親の最後の冬に、指の関節が腫れて、結婚のときの輪がどうしても抜けず、村の獣医が糸を巻いて抜いたこと、抜いたあとの指に、輪のあった場所だけ、白い筋が残っていたこと、その筋は、母親が死ぬまで消えなかったこと。話しているあいだ、手は止まらなかった。針は、布の同じ場所を、三度、行ったり来たりした。 「獣医は、牛の脚を診るのと同じ顔で、母の手を持っていたわ。糸を、指の先のほうから、きつく、隙間なく巻いていくの。巻き終わったところで、輪を、糸のほうへ回して押していく。時間がかかった。母は、痛いとは言わないで、そのあいだじゅう、その人の名前を、二度、間違えて呼んでいた。二度めに間違えたとき、その人は、はいと返事をしたのよ」 「わたしは、いなかったな」 「いなかった。あなたは、あの年の冬は、下の水路にかかりきりで」 そこで言葉を切って、エルジェーベトは、針の穴のほうへ、糸をもう一度通しなおした。 「あの輪、どこへやったかしら」 「箱だろう」 「箱のどれ」 「上の」 「上のには、あなたの父さんの証書と、家の書付しか入っていない」 「なら下だ」 「下は、去年、開けていないの」 そう言って、開けようとはしなかった。 ランプの芯を、エルジェーベトは二度に分けて下げた。下げるたびに、部屋のなかで、卓のまわりだけが残り、壁のほうから順に、物の輪郭が失われていった。窓の下の棚に置かれた小さなボルトは、二度目に下げたときも、まだ光っていた。イシュトヴァーンは立ち上がり、戸のところへ行って、掛け金を上げ、指一本ぶんだけ開けた。開けたまま、そこに立っていた。入ってきた空気は、床の高さを這って、卓の脚のあたりまで来た。それから戸を閉め、掛け金を下ろし、戻ってきて、座った。座るときに、椅子が、前の脚のところで一度鳴った。 「ひとりでに開くのよ、この風のときは」と、イシュトヴァーンの立っていたあたりではなく、自分の手元のほうを見たまま、エルジェーベトは言った。〔訳註:原語は magától。「ひとりでに」。ハンガリー語には、ものが自分の側から動きだすことを言いあらわす言い方がいくつかあり、これはそのうちで最も日常的なものである。〕 返事のかわりに、イシュトヴァーンは、上着の袖を、肘のところまで折り上げた。折り上げてから、また下ろした。腕には、脂と埃の混ざったものが、手首の内側にだけ、線になって残っていた。エルジェーベトは、シャツの袖口の、縫い終わったほうを引っぱって、糸の締まりを確かめ、確かめてから、まだ縫っていないほうの袖口を、指の先で軽く払った。払っても、そこには何もついていなかった。それから、シャツを膝の上でたたみはじめ、袖を内側へ折り、肩の線を合わせ、合わせたところを掌で二度押さえた。押さえた手を、そのまま、たたんだものの上に置いていた。ランプの、下げたはずの芯が、油を吸って、いつのまにか少し明るくなっていて、卓の上には、皿の縁の影が、さっきよりも遠くまで伸びていた。 「ラヨシュは、いくつになったのかしら」 「四十一だ」 針を、明かりのほうへ寄せて、エルジェーベトは、糸の先を見た。 「誰の話をしているの」 第六章 三日目の夜のあいだに寒さがゆるみはじめていたことを、モルナール・イシュトヴァーン(Molnár István)は、目を覚ましたときにではなく、目を覚ますより前に、寝床のなかで片方の足を毛布の外へ投げ出したまま眠っていたらしいと気づいたときに知った。足の甲が冷たくなっていない。二晩のあいだ、その同じ足の指先は明け方には感覚を失っていて、起きあがるまえに毛布のなかで十を数えるほど揉まなければならなかったのに、この朝はその必要がなかった。となりで妻が息をしていて、その息と息のあいだに、外から、遠い、太い木の裂けるような音が一度だけ届き、それきり止んだ。十を数えてから、数えおわったことに意味はないと思いながら、上体を起こした。 上着は昨夜のまま着ていた。 外へ出るための手続きは、この三日で短くなっていた。長靴の中へ藁を詰めることをやめ、耳を覆う帽子の紐を顎の下で結ぶこともやめ、扉の内側の掛け金を上げて、押した。凍っていない。二日前の朝には蝶番の下のほうが白く膨れていて、肩を三度当てなければ開かなかった扉が、この朝は指の力だけで動き、そのことを確かめるためにもう一度閉めて、もう一度開けた。庭の雪は、表面が粒ではなく面になっていて、踏むと、乾いた音ではなく、少し下のほうで水を含んだ音がした。 〔訳註:ケレシュハーザ(Kereszháza)を流れる川の名は、原文では最後まで一度も出てこない。〕 製粉所の建物は母屋から三十歩ほど離れており、その三十歩のあいだに二度立ち止まった。一度目は空を見るためで、雲は低いところにあるが動いていて、東のほう、家並みの向こうの、丘とも呼べない盛り上がりの上が、色というほどではない程度に薄くなりはじめていた。二度目には、立ち止まる理由がなかった。石を積んだ建物のなかは外よりも暗く、入ってすぐの床に油をしみこませた布が広げてあって、その上に、ヴァルガ・ペーテル(Varga Péter)が一昨日の午後から外しつづけた部品が、大きいものを奥に、小さいものを手前にして、二列に並べてあった。数えたことはないが、四十は超えているはずだった。ヴァルガはその布の脇の空の粉袋に背をあずけて眠っていて、拭くための布切れを片手にまだ握っていた。布の上の部品のうち、イシュトヴァーンが名前を言えるものは半分ほどで、残りの半分は、名前を言えないまま四十年ちかく使ってきた。手前の列の右から三つめに、掌に収まるほどの、片側だけ磨り減った鉄の環があり、それは軸受けの当たりを見るために父の代からときおり外していたもので、外し方も戻し方も知っていたのに、それを何と呼ぶかは、父も言わなかったし、聞かなかった。奥の列のいちばん端には、どこにも当てはまらない部品が一つ置いてある。ヴァルガが外したのではなく、外したあとの床に落ちていたものらしく、油の乗り方がほかの部品と違っていて、それがどこから来たのかを、この三日のあいだ二人とも口にしていない。イシュトヴァーンはその部品の前でしゃがみ、指先で向きを九十度だけ変え、変えたところで変えたことに意味がないと分かり、もとに戻さずに立った。 作業台の上には、二日前まで何も置かれていなかった。いまは紙が一枚あり、去年の歩留まりを書きこむための欄は空のままで、紙の端が、火を焚いていない部屋の乾いた空気で少し反り返っていた。イシュトヴァーンはその紙を裏返し、裏も白いことを確かめてから、もとの向きに戻し、それから、置いてあった場所より指二本ぶんだけ壁のほうへ寄せた。壁ぎわには、フェケテばあさん(Fekete néni)が一昨日の朝に運んできて、断られたあとも持って帰らずに置いていった袋が立っている。口を紐で縛ってあり、その紐の結び方は、粉ひきの家の者なら誰でもすぐにほどける結び方ではなく、指の力の弱くなった者が、ほどけないようにと思って何度も回した結び方だった。袋の下の隅は、床の石から吸い上げた水気で色が変わっている。中のものは三日のあいだにその隅から傷みはじめているはずで、そうなることをフェケテばあさんが承知の上で置いていったのか、承知せずに置いていったのかは、断った側からは分からなかった。 袋には手を触れなかった。 川までは、建物の東の壁沿いに下りていく。水路は建物の下をくぐって外へ抜け、そこで川に戻るのだが、その水路の口のところに、三日前の朝からずっと、割れずに残っている灰色の板のような氷があって、イシュトヴァーンは毎朝そこへ行き、毎朝、長い柄のついた鉄の棒を持って行き、そして三日とも、その棒を氷に当てないまま戻ってきていた。棒は、柄の先が三年前に折れて鍛冶屋のところで継いであり、その継ぎ目に、指の腹が引っかかる小さな段がある。三日のあいだ、その段を親指で撫でながら水路の口の前に立っていて、撫でおわると戻った。氷を割れば水は通る。通ったところで上の水路の氷はまだ割れておらず、割れていない上の氷が下りてきて、割った場所に詰まる。三日目の朝にそう考えたのか、一日目の朝からそう考えていて、二日目と三日目はただ同じところに同じ長さだけ立っていたのか、順番は自分でも分からなかった。この朝は棒を持ってこなかった。水路の口の氷は、まだ同じところにある。ただ、氷と石垣とのあいだに、昨日はなかった細い線が入っていて、その線に沿って、水の色が違っていた。屈んで、手袋を外し、指を差し入れた。 冷たいが、動いている。 〔訳註:原語では、水車の心棒を指す語と、荷車の車軸を指す語が同じである。以下、いずれも「軸」と訳した。〕 背後で、藁のこすれる音がした。ヴァルガが起きて、布を持ったまま立っていて、それから、自分が布を持っていることに気づいたらしく、それを作業台に置きに戻り、また出てきた。イシュトヴァーンは指を水から出して、太腿で拭いた。二人は並んで水路の口を見ていたが、そのあいだ、どちらも氷について何も言わなかった。ヴァルガが先に口を開いて、「軸受けの、下の受け皿ですが」と言い、そのあと少し黙ってから、「錆びていたのを落としました。落としてから、落とさないほうがよかったかもしれないと思いました」と続けた。イシュトヴァーンは水路のほうを見たまま、落としたのなら落としたのだ、と答え、そのあとで、油はどこのを使ったのかと聞いた。ヴァルガは棚の右のほうの缶の名前を言った。イシュトヴァーンはうなずかず、そうか、とも言わず、水路の口から目を離さなかった。 村のほうで鐘が鳴った。三日のあいだ毎朝この時刻に鳴っていて、そのたびにサボー神父(Szabó atya)が一人で綱を引いているのだと村じゅうが知っていながら、誰も出ていかない鐘だった。鐘のあいだ、二人は黙って立っていた。 〔訳註:一月十七日は、ハンガリーでは家畜の守護に結びつけられる祝日にあたる。原文に説明はない。〕 戻って、上の水門を開けにかかった。三日前に閉めたときには一人で下ろせたものが、この朝は、木の枠が水を含んで膨れていたために、ヴァルガと二人がかりで、しかも上げ下げを三度くりかえしてようやく持ち上がった。二度目のときに歯車の爪が受け金から外れかかり、そのまま落ちれば下にいるほうの指が挟まれるという位置だったのに、どちらも位置を変えなかった。上げおわったあと、ヴァルガは息を切らして枠にもたれ、イシュトヴァーンは切らしていないふりをして、掌の付け根を石の上で拭いた。水はすぐには来ない。水路の上のほうで、まだ何かが引っかかっているらしく、来ないままの時間が、思っていたより長く続いた。そのあいだにイシュトヴァーンは建物の中へ戻り、上の石をわずかに持ち上げるための楔を三本、それぞれの位置に差しなおし、粉を受ける箱の底に、去年の秋の粉が薄く残っているのを手のひらでかき集めて、指で潰し、匂いを嗅いでから、床に落とした。 エルジェーベト(Erzsébet)が扉のところに来て、両手で持てるだけのものを持って立っていた。「外まで聞こえた」と言い、それが水門の音のことなのか、鐘のことなのか、あるいは氷のことなのかを言わずに、持ってきたものを作業台の、紙の載っていないほうの端に置いた。ヴァルガが立ち上がろうとするのを、置いたままの手で押しとどめた。それから、袋のほうへ目をやり、フェケテばあさんの袋がまだそこに立っているのを見て、何も言わずに、袋の口の位置を少しだけ壁から離した。手を戻しながら、「あの人の家は、坂の上のほうだから」と言い、坂の上であることが袋とどう関係するのかを言わずに、それきり黙った。イシュトヴァーンは、坂の話にも袋の話にも返事をせず、作業台の端に置かれたものの湯気が、暗い空気のなかで細く上がっているのを見てから、そちらへは行かなかった。 イシュトヴァーンは軸のところへ行き、掌を当てた。 木は冷えていた。三日のあいだ、この木は一度も回らず、一度も温まらず、そのために表面の油が固くなっていて、掌を離すと、皮膚に薄く付いた。上の梁のあたりで、雫が落ちる音が、間隔をあけて三度した。石の目は秋のうちに自分で立て直したもので、そのときに右の手首を痛め、痛めたことを誰にも言わないまま二週間ほど左手だけで水門を上げていて、その二週間のことを、掌が冷えていくのと一緒に、この朝はじめて思い出した。ヴァルガが何か言いかけ、言い終える前に自分でやめ、エルジェーベトは扉のところから動かず、外の光が、そこだけ床の石を四角く濡れたように見せていた。イシュトヴァーンは掌を軸に当てたまま、目を閉じもせず、水路のほうを見もせず、ただ、掌の下で起こることを待っていた。待っているあいだに、この三日のうちで一度も考えなかったことを考え、それが去年のことでも今年のことでもなく、父が同じ場所に掌を当てていたときのことであると気づき、気づいたことをすぐに手放した。 軸の内側で、何かが一度、鳴った。 水路の口の氷が、下から押されて持ち上がり、石垣の縁に引っかかり、そこで割れずに向きを変え、板のまま滑って、外の流れのほうへ出ていく音が、建物の壁を通して、鈍く、長く、続いた。羽根板の一枚目に水が当たり、当たっただけでは足りずに戻り、二枚目に当たったところで、車が、半分の歯の高さぶん、動いた。止まった。ヴァルガが水門のほうへ走り出そうとして、イシュトヴァーンが上げた手を見て止まった。三つ数えるあいだ、何も起こらなかった。それから、車の重さそのものが向きを決めたように、上の縁が下へ落ち、掌の下の軸が回り、石と石が触れる音が、三日ぶりに、建物の中の空気を全部押しのけた。 水が、動いた。 第七章 ここまでお読みくださった方は、三日のあいだ何も起こらない小説を読み終えたところです。川が凍る。粉が挽けない。氷が動く。それだけの本です。 以下は作者についての事実を並べたもので、小説そのものとはほとんど関係がありません。関係の無いものを本の終わりに付けるのが日本の翻訳書の慣習で、わたしもそれに従います。ただ、あとがきを先に読む方がいることも知っていますので、この章には筋に触れることを書きません。 バラージュ・ケメーニ、原綴は Kemény Balázs、一九二一年、デブレツェンの生まれです。デブレツェンは国の東にある第二の都市で、ブダペストからは汽車で三時間ほどかかります。生まれた年は、国境が引き直された翌年にあたります。町には、東から移ってきて貨車に住んでいる人たちがまだいました。ケメーニの一家がその中にいたのかどうかは分かりません。父親が何をしていた人か、家に本があったかどうか、学校で誰に教わったか、そういうことをわたしは調べきれませんでした。町には四百年続く学校があり、そこに通ったと書いている事典が二つありますが、入学の年次が二通りに分かれていて、どちらが正しいのか、あるいはどちらも書き写しの間違いなのか、決め手がありません。調べきれなかったと書くのは、調べようとしなかったことを隠すためではありません。地方の役所の書類は一九四四年から翌年にかけて二度焼けていて、無いものは今も無いのです。生年の一九二一年にしても、根拠は本人が晩年に書いた短い文章一つで、その文章の中で、自分は雪の日に生まれたと聞かされて育ったと書いています。デブレツェンの雪は十一月にも三月にも降ります。日付のほうも、事典によって二通りあります。どちらかが写し間違いで、どちらかが正しいのでしょうが、正しいほうを選ぶ根拠がわたしには無いので、この本では月日を書かないことにしました。年だけは動きません。 姓についてひとつだけ。ケメーニは「硬い」という意味の語から来ています。そして、この小説の主人公の姓であるモルナールは、「粉ひき」です。ハンガリーでは五指に入る多さの姓で、職業がそのまま姓になった時代の名残というだけのことかもしれません。粉ひきの姓が粉ひきであることに作者が何かを込めたのかどうか、わたしには判断がつきませんでした。日本語にしてしまうと、この重なりは音のほうに残らず、意味のほうにも残りません。訳す前から失われているものが、どの本にも必ずいくつかあります。 長編は生涯に四つしかありません。最初の二つは一九五六年より前に出ています。三つ目がこれです。四つ目はこの本のあとに書かれ、それが最後になりました。日本語で読めるものは、いまのところこの一冊だけです。 一九五六年の秋に何があったかは書きません。年号だけで通じてしまう出来事というものが、どの国にもいくつかあります。そのときケメーニがブダペストにいたのか、東の実家に帰っていたのか、わたしには確かめられませんでした。はっきりしているのは、そのあと十二年、この名前が活字にならないということだけです。 発表を止められた、と書きましたが、そういう通知が届くわけではありません。禁止された者の一覧に載るのでもありません。原稿を送っても返事が来ない。編集者が席を外している。今年の枠はもう埋まっていて、企画は来年に回る。それが十二回続きます。あとから年表にすれば一本の線が引けますが、渦中にいる人の側から見れば、運の悪い年が十二回あっただけです。しかも一年ごとに、今年はたまたま調子が悪かったのだと思うことができます。思うことができるという点が、この仕組みのいちばんよくできたところで、はっきり禁じられていたなら怒ることも隠れて書くこともできますが、返事が来ないだけの相手には何もできません。十二年目の暮れに、この人が自分を止められている作家だと考えていたのか、書けなくなった作家だと考えていたのか、資料からは分かりません。 十二年です。 わたしがこの十二年を確かめたのは、二〇一七年の秋でした。別の用があって十日ほどブダペストに行き、大学の紀要に十五枚ばかりの紹介を書くつもりでいたので、あとがきのためではありません。図書館の閲覧室で、雑誌の合本を一年分ずつ出してもらいます。一日に運んでもらえるのは六冊まで、閲覧は五時までです。請求票に一冊ずつ番号を書き、係の人が台車で運んできたものを台に載せて、目次の頁だけを見ていきます。無い。次の号。無い。合本は厚いところで七センチあり、めくるというより持ち上げる作業になって、二日目の午後から左の手首が痛みました。暖房が効きすぎていて、途中から老眼鏡が曇ります。昼は下の売店でパンを買い、階段のところで食べました。複写は一枚いくらと決まっていて、目次の頁を撮ることは認められず、必要なところだけ申し込んで翌日受け取ります。三日目に、紙の粉で指の腹が黒くなっているのに気がつきました。同じ日の閉室前、係の女性が、誰を探しているのかと訊きました。名前を言うと、少し黙ってから、隣の書庫にある地方の文芸誌も出しましょうか、と言ってくれました。そちらにも名前はありませんでした。無いことを確かめる作業には終わりがありません。終わりが無いというより、どこで終わりにしてもよいので、わたしは十二年目の十二月号で手を止めて、鉛筆を置きました。台車が戻っていく音を聞きながら、この十二年ぶんの空白を紀要に何行で書くかを考えていて、結局、三行で書きました。帰りの飛行機で申し込んだ複写の枚数を数えたら四十七枚あり、そのうち使ったのは二枚です。残りは封筒に入れたまま、いまも机の右の引き出しにあります。捨てられないのは大事だからではなく、もう一度あの三日をやり直す気力が無いからです。 その十二年に何をしていたかについては、いくつかの説があります。工場にいたという人、親戚の農場にいたという人、ずっと書き続けていたという人。どれも本人が言ったことではありません。わたしはどれも採りません。 禁が解けたのが一九六八年、この本が出たのが一九七四年です。あいだの六年について、わたしは何も言えません。書けるようになってすぐ書ける人と、そうでない人がいる、という程度のことしか言えません。 出版は国営の出版社からで、初版の部数は分かりませんでした。当時の書評は二つだけ見つかりました。一つは十二行、もう一つは半頁ほどです。二つとも、製粉所の機械の描写が正確であることを褒めています。歯車の噛み合わせ、水の落ちる高さ、粉の等級の分け方が挙げてあります。二つとも、三日のあいだ何も起こらないことについては触れていません。触れないことが、あの頃の褒め方でした。半頁のほうを書いた評者は、二十年ほどのちにこの作品についてもう一度書いていて、そちらでは機械の話を一行もしていません。同じ人が同じ本について書いた二つの文章を並べて読むと、変わったのは本ではないということがよく分かります。 一九二一年の生まれですから、本が出た年に五十三になります。作中のモルナール・イシュトヴァーンは五十四です。一つ違いということになります。研究者はこういうところにすぐ意味を載せたがるので、数字だけ書いて、意味は載せないでおきます。 ハンガリーでは姓を先に書きます。ケメーニ・バラージュ、が本来の順です。この本の表紙では慣例に従って逆さにしました。ところが小説の中の人物は、モルナール・イシュトヴァーン、ヴァルガ・ペーテルと、姓が先のままにしてあります。同じ一冊の中に二つの流儀が同居しているわけで、理由を問われれば理由らしいものは言えますが、実際のところは、表紙では版元の慣習に従い、本文では自分の耳に従っただけです。校正の段階で、姓と名の順を統一しますかと赤で訊かれました。統一しないでください、と余白に書いて返しました。理由は書きませんでした。翻訳の判断というのは、たいていこの程度のものです。訳註をいくつか本文に入れたのも同じで、註は本来なら少ないほうがよく、少ないほうがよいと分かっていながら、粉の等級と教区の呼び名のところだけはどうしても補いました。読者を信用していないのではなく、自分が読者だったころに知りたかったことを書いた、というだけです。註を入れるかどうかで迷った箇所は全部で三十いくつあり、入れたのはそのうちの数えるほどで、入れなかったもののほうが、いまでも気になります。入れなかったところは印が残らないので、あとから見て確かめることもできません。 ハンガリー語の三人称には男女の別がありません。ő という一語で足ります。訳しているあいだ、この一語を日本語の代名詞に置き換えるたびに、原文に無いものを足している気がしていました。この文章でその語を使わずに済ませているのは、たぶん癖が残っているだけです。 一九七四年に本を出すということは、検閲を通るということです。通ったということは、通るように書かれたということでもあります。この小説に国営化も供出も出てこないのはそのためで、出てこないことがどう働いているかは、次の章に書きます。 一九八八年、ブダペストで亡くなりました。六十七になる年です。翌年に何が起きたかを、この人は見ていません。 わたしがブダペストにいたのは一九八二年からの三年で、そのあいだ、この人は生きています。市電の四番か六番に乗り合わせていた可能性もあります。名前は知っていました。読んではいませんでした。留学生が読むべき作家の一覧というものが配られていて、その中に入っていなかったからで、一覧を作ったのはわたしではありません。一覧に入っている作家は十九人いて、三年のあいだに十四人まで読みました。読んだ順に番号を振っていたノートがまだ手元にあります。日本からの手紙は二週間かかり、そちらの返事を書くほうに時間を使っていました。ただ、会いに行くという発想がそもそも浮かばなかったことについては、いま思い返しても、うまく説明ができません。二十四で、まだ何十年もあると思っていたのだろうと書けば、それらしくはなります。それらしい説明ほど当てにならないということも、この歳になると分かります。 以上が、確かめられた範囲の事実です。この先は推測になりますので、書きません。 底本にしたのは一九七四年の初版で、わたしが買ったものではありません。夫が古書店で見つけて、持って帰ってきました。一九九八年です。見返しに鉛筆で四〇〇と書いてあり、消さないままにしてあります。 「これ、訳したら」と言いました。 第八章 この小説に出てこない言葉を、はじめに挙げておきます。 国営化、供出、党、密告、人民、同志、ソヴィエト、収容所の八つです。原書を二度、通しで見ましたが、どれも一度も出てきません。数えたのはわたしですから、見落としはあるものとして読んでください。それでも、二度とも出てきませんでした。 出てこないだけなら、べつに珍しいことではありません。恋愛小説に麦の等級が出てこなくても、誰も文句を言いません。この小説が奇妙なのは、これだけの言葉が一つも無いのに、読み終えた人がそれを読んだ気になるところです。ここまでお読みくださった方の中にも、供出や密告の話を読んだ覚えがある、という方がいるはずです。読んでいません。どこにも書いていません。 わたしもそうでした。 一九七四年、ケメーニは十二年ぶりに長編を発表しました。前の章に書いたとおり、そのあいだに書いていたものは一行も活字になっていません。十二年の沈黙のあとに出したのが、川が凍って水車が三日止まるというだけの話だった、ということを、当時のブダペストの読者がどう受け取ったのか、わたしは知りません。同時代の書評は四本ほど残っていて、どれも粉と、川と、冬の話しかしていません。書評までがこの小説の書き方を真似しているようにも読めますし、単に書くことがなかったのかもしれません。四本のうち二本は、退屈だと書いています。 検閲という言葉から思い浮かべるのは、原稿に赤い線が引かれ、行がまるごと消され、著者がそれをどうにか元へ戻そうとする、という光景だと思います。わたしも最初はその光景を探しました。二〇二二年の春に、ブダペストの文学館へ校正刷りの複写を申し込みました。手続きは郵便で、返事が来るまでに二か月、現物が届くまでにさらに二か月かかり、送料と手数料で二万三千円ほどになりました。年金と、少しの蓄えで暮らしている人間には、それなりの額です。届いた複写は縮小がきつくて、註の文字がつぶれていました。拡大鏡を買い足して、机の電気を一つ増やして、一日に十枚ずつ見ていきました。校正刷りは二種類ありました。赤の入り方を一行ずつ見ました。直っているのは、綴りの揺れと、句読点と、粉の量の単位の表記だけです。政治に関わるところは一か所も直っていません。直す必要が無かったからです。束の最後に、出版社の読み手が書いた意見書が一枚だけ挟まっていました。三行しかありません。おおむね、思想的に問題となる箇所は見当たらない、という趣旨のことが書いてあります。この三行が書かれてしまったこと自体が、この小説の書き方が目的を果たしたという証拠だと、わたしは受け取りました。受け取ってから、しばらく複写を片づけられませんでした。 消された跡はありません。はじめから書いていないものは、消せません。 そこまで分かるのに、二年かかりました。 ハンガリー語には、誰がしたのかを言わずに済ませる言い方があります。動詞を三人称の複数にして、主語を置かない。日本語にすると「よこした」「持っていった」「決めた」となり、よこしたのが誰なのかは、文のどこを探してもありません。ハンガリーの人はこの言い方を毎日使います。役所の話をするときと、天気の話をするときで、使い方が変わりません。 ヴァルガ・ペーテルがこの製粉所へ来た経緯は、一行しか書かれていません。その一行が、まさにこの形です。ハンガリーでは日本と同じように姓を先に書きますから、ヴァルガが姓で、ペーテルが名です。二十三歳のこの助手は、自分から来たとも、村が呼んだとも書かれません。よこされて、来ています。わたしは「配属されてきた」と訳しました。「よこされた」のまま日本語にすると、原文には無い恨みの色がつきます。「配属されてきた」と置くと、今度は事務の言葉になって、よこしたのが誰なのかという穴のほうが塞がってしまいます。塞いだのはわたしです。原文はどちらでもなく、ただ、よこされたと書いてあるだけです。 いまも決めかねています。 同じことが、第二章のフェケテばあさんの場面にもあります。七十九歳の人が袋を抱えて歩いてきて、粉を挽いてくれと言い、イシュトヴァーンが断ります。断るだけの場面です。ところが、この断りが長い。川が凍っていること、氷の厚さ、去年の冬との比べ方、袋の口の縛り方、帰り道で足元に気をつけること、そういう話が続いて、そのあいだ一度も、なぜ挽けないのかという肝心のところに触れません。水車が止まっているからだ、と言えば一行で済みます。言いません。ばあさんのほうも聞きません。二人とも理由を知っていて、知っているという話をしないために、氷の厚さの話をします。断り方が長くなるのは、断る理由が短く言えないときです。この場面を訳しながら、わたしは役所の窓口で聞いた説明をいくつも思い出しました。長い説明は、たいてい何かの代わりに置かれています。 第四章の、地区の書記であるコヴァーチが来る場面について書いておきます。本書では百二十九ページから百五十一ページまで、二十三ページあります。用件は一つだけです。去年の歩留まりの数字を教えてほしい、それだけのために、四十一歳の男が雪の残る道を歩いてきます。歩留まりというのは、持ち込まれた麦の量に対して、どれだけの粉が出たかという比率のことです。製粉所には必ずこの数字があり、帳面に残ります。イシュトヴァーンは答えません。二十三ページのあいだ、歩留まりについてはひとことも言いません。断るとも、忘れたとも、帳面が見つからないとも、来年にしてくれとも言いません。そのあいだ書かれているのは、たいてい手のことです。何を持ったか、どこへ置いたか、置いてからその手で何をしたか。粉袋の口を折り返す、折り返したのを開き直す、篩を持ち上げて明かりに透かす、透かしてから元の釘に掛ける。動作ばかりが積み上がって、二十三ページが過ぎます。原書の紙で十九ページですから、日本語のほうが少し長くなりました。ここは削れませんでした。長さそのものが、この場面の中身だからです。訳しはじめた年に一度だけ、思いきって縮めた稿を作ったことがあります。四日で捨てました。縮めると、イシュトヴァーンがただの無愛想な男になります。コヴァーチのほうは悪い人ではありません。書き方に悪意の気配がまったくなく、この人にも仕事があり、道は雪で、長靴が濡れています。数字を持って帰らないと、この人も困ります。困るとどうなるのかは書かれません。その数字が何に使われるのかも書かれません。挽いた麦の量と、できあがった粉の量には必ず差が出ます。その差がどこへ行くのかを、ケメーニは最後の行まで書きません。一九七四年にこれを買った人は、書かれなくても知っていました。数字が低ければ隠していると疑われ、高ければ来年の割り当てが上がる、というところまで含めて、知っていました。日本語で読む方は知りません。この差をどう埋めるかで、三日迷いました。 註は入れませんでした。 本書の訳註は、暦と、単位と、地名と、教会の行事のことだけにしてあります。一度は「ここで話題になっているのは供出量である」という註を作りました。作って、その頁を読み返して、消しました。註がそう言ってしまうと、コヴァーチが帰るまでの二十三ページが、答え合わせになります。答えを知って読む二十三ページは、たぶん十分で読み終わります。知らずに読めば、長くて、退屈で、なぜこんなに長いのかと思いながら読むことになります。ケメーニが書いたのは後者のほうです。訳者が読者に親切にすると、その親切のぶんだけ小説が短くなる、ということを、この二十三ページで教わりました。 サボー神父の場面も、同じものを読者に求めます。六十六歳のこの人の教会は、三日のあいだ扉が開いています。開いているのに、誰も来ません。来ない理由はどこにも書かれません。神父自身も、来ないという話をしません。粉がまだかと言いに来る村人の口からも、教会の話は出ません。一九五二年のハンガリーの村で教会に人が来ないことに説明が要るかどうかは、読む人がどこで生まれたかによって変わります。原書の読者には要りませんでした。本書の読者には要ります。要るとわかっていて、わたしは書きませんでした。 第五章で、イシュトヴァーンとエルジェーベトは長く話します。この小説でいちばん会話の多い章です。屋根の話をします。パンの話をします。ずいぶん前に死んだ犬の話もします。同じ話題が何度か戻ってきて、そのたびに少しだけ言い方が変わります。三日間のことは、一度も出てきません。念のために数えました。二人の言葉に「三日」という語は一度も出てきません。窓の外で起きていることが、部屋の中の言葉にほとんど入ってこないという書き方が、十四ページ続きます。夫婦が二人だけでいる部屋で、三日も止まっている水車の話をしない。この書き方を、一九五二年のハンガリーの家庭の話し方として読むことは、できます。わたしはそう読みました。読んだうえで、本文にも註にも書けませんでした。 証明ができないからです。 書かれていないものを読むというのは、読む側が勝手に何かを入れることでもあります。入れたものは、たいてい入れた人に似ます。一九五六年のあとの十二年を知っている人が読めば、この三日間はその十二年に似てきます。粉を待った経験のある人が読めば、粉の話になります。順番が来るのを待つことに慣れた人が読めば、ただ待つ話に見えます。わたしがこの章に書いたことも、たぶんわたしに似ています。ここに並べた読み方は、どれも証明されていません。原文にそう書いてある、と言えるところは一行もなく、書いていないことをこれだけの分量で説明している時点で、わたしはもう批評をしています。訳者があとがきで批評を始めるのは、あまり行儀のよいことではありません。それでも、何も入れずに読むと、これは本当にただ粉を待つだけの話です。それはそれで読めてしまいます。読めてしまうところが、この小説のいちばん扱いにくいところだと思っています。ケメーニがどちらの読者を想定して書いたのかは、もう誰にも聞けません。 一九五二年の一月に、ハンガリー東部で川が凍るほどの寒波があったのかどうかを、気象の記録で確かめました。ありました。ついでに、その年の一月に何があったのかも読みました。夫は中学校の社会科の教師でした。ハンガリー語は読めません。日本の教科書の年表には、この年のハンガリーは一行も出てこないそうです。 第九章 この本を訳すのに六年かかりました。奥付に出るのは刊行の年だけですから、あいだの六年はどこにも残りません。残さなければならないものでもありませんが、あとがきというのは残さなくてよいことを書く場所だと思っていますので、少しだけ書きます。 二〇一九年の八月十一日に、夫が亡くなりました。膵臓で、見つかってから四か月です。そのあとの半年は、ほとんど書類を出しに行く仕事でした。市役所の二階と三階を三度ずつ往復し、年金の窓口では番号札が九十二番まで進むのを廊下の椅子で待ち、銀行では名義の書き換えに印鑑証明が二通いると言われて、一通しか持って行かなかったので出直しました。生命保険の請求書には、死亡の原因を遺族が自分の字で書く欄があります。医師の診断書を添えるのに、それとは別に遺族も書きます。平仮名で書きかけて、書き直しました。そういう用事が二月の終わりまで続いて、三月に、部屋の机の上を片づけました。 四月に、一行目を訳しました。 なぜ始めたのかと聞かれると、時間ができたからです、と答えてきました。今もそう答えています。 机は夫のものです。中学校の社会科は、定期テストの採点が一度に二百枚を超えます。それを二十年以上この天板の上でやっていましたから、右の端に赤い染みが四つ、輪のように残っています。消す方法はあるのでしょうが、消していません。引き出しには赤の水性ペンが、使いかけのものを合わせて十一本入っていました。捨てるつもりで出して、数えて、そのまま戻しました。二巻の辞書をその輪の上に置くと座りがいいので、六年のあいだ、いつもそこに置いていました。一九八二年にブダペストで買ったもので、背が二度剥がれ、二度とも製本テープで留めてあります。 一年目は第一章だけで終わりました。原書で三十二ページ、日本語にして四十一ページです。手が鈍っていました。前の訳書から十年空いていましたし、その十年のあいだに訳したものは、紀要に載せた短いものが二本だけです。一日に何行進んだかを手帳の隅に書く癖があって、いま見返すと、最初の月は三行、四行、〇、〇、五行、と並んでいます。〇の日は辞書を引いていた日です。引いても出てこない語は、たいてい辞書に無いのではなく、こちらが品詞を取り違えています。名詞だと思って引き、無いので動詞のところを見て、そこにも無くて、三十分ほどしてから、語尾を切り離す位置が一つずれていたことに気がつきます。若いころはこれが十分で済みました。三十分かかるようになったことを、老いと呼ぶのか、丁寧になったと呼ぶのかは、呼び方の問題です。第二巻の s の項だけが開き癖でひとりでに開くのは、ハンガリー語に s で始まる語が多いからではなく、粉をふるうという意味の szitál を、六年のあいだに四十回以上引いたからです。意味は最初から知っています。知っているのに引きます。 〇の日は、その月に十一日ありました。 ハンガリー語は、語の後ろに助詞のようなものを付けて格を示します。日本語と似ていると言われますし、習い始めた頃はわたしもそう思っていました。ただ、日本語の助詞は語から離れて立っていますが、あちらのそれは語にくっついて、前の語の母音に合わせて自分の形を変えます。製粉所は malom(マロム)で、その中でと言うときは malomban、中へなら malomba、中からなら malomból になります。n が一つあるかないかで、いる場所と、行く場所が分かれます。しかも同じ助詞が、前の語の母音の種類によって二つの顔を持ちます。malomban に対して、水は víz ですから vízben で、a が e に替わります。意味は一つも変わりません。音のそろえ方の規則があるというだけで、ハンガリーの人はこれを考えずにやります。日本語の「で」は、前に何が来ても「で」のままです。だから訳文には、この規則の痕跡が一つも残りません。 一文字です。 第一章に、イシュトヴァーンが malomból 出て、氷を見て、malomba 戻る、という短い一続きがあります。日本語のほうは、外へ出るところと、戸を開けて中へ入るところとで、別々の言い方になりました。それで意味は足ります。足りるのですが、原文では、出るのと戻るのが同じ語の尾の違いでしかなく、この男が一日に何十回も通る戸口が出るときも入るときも同じ一つであることが、文字の並びとして目に入ります。日本語にすると、出るときと入るときで助詞が別の字になり、別の字になった時点で、行き来が二つの動作に分かれます。分けたのはわたしです。分けずに済ませる書き方を、六年かけて思いつきませんでした。 もう一つ書いておきます。ハンガリー語の動詞は、目的語が特定のものかどうかで形が変わります。ただ待っているときと、あれを待っているときとで、語尾が違います。村の者が粉を待つ場面で、原文には「粉を」に当たる語が置かれていないのに、動詞の形のほうが、みんなの知っているあれを、と言っています。日本語にすると、待っていた、としか書けません。「例の粉を待っていた」と補えば意味は通りますが、そう書いた瞬間に、書かなくても分かるという小説の呼吸が消えます。フェケテばあさんが袋を提げて坂を上ってくる第二章は、この形の動詞で始まります。七十九歳のこの人が何を待っているのかは、村の中では説明の要らないことで、原文もそれを説明しません。断られる場面がなぜあれほど長いのかも、そこに関わります。イシュトヴァーンは、待たれているものが何かを知っているという前提の上で断りますから、断る言葉が、そのものの名前を避けて長くなります。日本語では、避けているということ自体が見えません。何も補いませんでした。補わなかったので、日本語で読む方には、ただ待っていた、としか見えないはずです。 こう並べると、細かいところをよく見ている訳者のように見えます。実際には、見えているのに日本語にできなかった箇所を並べているだけです。 二年目に第二章と第三章が終わって、速くなったと思いました。三年目のはじめに第一章から読み返し、二年目のぶんを半分ほど訳し直しました。速いというのは、迷わなかったという意味でしかありません。 二〇二二年は、前の章に書いた校正刷りの取り寄せで、四か月ほど翻訳が止まりました。止まったというより、原稿を開かない日に別の用事を作っていました。その年に進んだのは第四章の二十三ページだけで、六月から十二月までかかっています。 二〇二三年については、手帳の行数の欄が、三月から八月まで白いままです。訳していた覚えはありますので、書くのをやめていただけだと思います。思いますと書くのは、確かめようがないからです。 専任にはなりませんでした。あとがきに書くことではないのかもしれませんが、訳者の紹介欄に「非常勤講師」とだけ出て、それが何であるかを説明する場所が、ほかにありません。そもそも大学でハンガリー語を選んだ理由もたいしたものではなく、大阪外国語大学の、その年のその語科に、たまたま入れたというだけです。公募には、三十代の終わりから五十代の初めまでで、二十七回出しました。書類は毎回、履歴書と、教育研究業績書と、主要業績の写しを三部、それに返信用の封筒に切手を貼って同封します。写しは駅前の店で取って、一枚十円が二百枚を超えると、それだけで一回分の交通費になります。締切は消印有効ですから、前の晩に封をして、朝いちばんの窓口で計ってもらいます。厚みで料金が変わるので、封筒を一つ大きいものに替えたほうが安く済む回があり、そういうことばかり詳しくなりました。封筒はたいてい返ってきません。切手を貼るのは夫の役目でした。舐めると紙の味がする、と言って、湯呑みの縁を濡らして、そこへ切手の裏を押しつけてから貼っていました。二十七回のうち面接まで行ったのが三回です。一度目は、業績の欄に共訳が一冊しかないことを、五人並んだ真ん中の人に二度聞かれました。二度目は、語学の教員というより、学部の英語の授業を何コマ持てるかという話でした。三度目は、着いてから、募集の分野がハンガリー語ではなくロシア語だと知らされました。要項にはスラヴ・東欧語とだけありました。読み違えたのはこちらです。応募の条件に「四十五歳以下が望ましい」と書かれるようになったのがいつからか、正確には覚えていません。書かれていない年もありました。書かれていても、書かれていなくても、結果は同じでした。二十七という数は、いま数えたものではなく、そのつど手帳の後ろに正の字を書いていたので分かります。正の字が五つと、線が二本です。 最後に出したのが二〇一一年です。 非常勤は二〇二四年の三月で辞めました。二つの大学で週に三コマ、一コマにつき月に二万七千円ほど、交通費は片道分に上限があります。ハンガリー語の授業は、最後の年に登録が六人で、最後まで来たのが二人でした。二人とも語学が好きだったのではなく、単位の都合です。辞めた理由は体力で、それ以上のものはありません。辞めれば時間ができると思っていました。実際にできました。二〇二四年は、六年のうちでいちばん進みませんでした。朝のうちに机に着いて、辞書を輪の上に置いて、昼までに二行ということが続きます。二行のうち一行は、次の日に消しています。時間が足りないから進まないのだと、それまで二十年ほど思っていたわけで、そうではないと分かるのに一年かかりました。分かってからは、午前中の二時間だけと決めました。午後は、洗濯と、買い物と、玄関に出しっぱなしの植木鉢を並べ替えることに使いました。並べ替えても置き場所は三通りしかありませんので、月に一度は元の並びに戻ります。第五章と第六章は、その決め方で訳しました。いちばん多く進んだのは、いちばん時間の無かった二〇二一年です。 訳書は、この本を入れて四冊です。一冊目は一九九三年の共訳の短編集で、三人で分けたうちのわたしの担当は四篇でした。二冊目が二〇〇一年、二千部で重版はありません。七年目に版元から葉書が来て、倉庫の都合で残りを断裁するので、要るなら送りますと書いてありました。二十冊もらいました。三冊目が二〇一〇年、これも重版はありません。一冊目から数えて三十三年で四冊ですから、一冊に八年かかっている勘定になります。次に訳したいものはもう決まっていて、原書も手元にありますが、選び直すのに二年、訳すのに六年、出るまでに一年を見ておくと、八十まで生きて五冊です。六冊にする方法は、いまのところ思いつきません。 二冊目は、まだ十四冊あります。 締切がありますので、この章はここまでにします。あとは最後の一行の訳のことだけが残っていて、それだけで一章になります。 第十章 最後の一行の話をします。 原文は三語です。A víz megindult. A は英語の the にあたる冠詞で、víz が水、megindult が動詞にあたります。辞書を引けば、ここまでは誰がやっても同じところに着きます。三つ目の語だけが、六年のあいだ片づきませんでした。 indul という語があります。出発する、動きだす、という意味で、日常でいちばんよく耳にするのは駅です。汽車が出る、市電が出る、と言うときにこの語を使います。頭に meg をつけると、その動きが一つの区切りとして起こったことになります。megindult はその過去形で、日本語にすれば「動きはじめた」でひとまず足ります。ここで止めておけばよかったのだと、いまは思います。 この語には対になるものがあります。indít といって、何かを動かす、始動させる、という意味です。二つは並んで辞書に載っていますし、習いはじめの年に必ず一緒に教わります。indul は動くもの自身が主語に立ち、indít は動かす者が主語に立ちます。汽車が出る、と、汽車を出す、の違いだと思っていただければ、それほど外れません。ケメーニが最後の行に置いたのは、前のほうです。 後のほうを使えば、水を動かした者がどうしても要ります。その者を名指ししないで済ませる書き方も、第八章で触れたとおり、この言語にはちゃんと用意されています。動詞を三人称の複数にして、主語を置かない。megindították a vizet と書けば、語が一つ増えるだけで、誰の手も見せないまま、水は動かされたことになります。一九七四年の読者にはごく普通の言い方で、役所の説明にも、天気の話にも出てきます。 使っていません。 ついでに書いておきますと、いまのハンガリー語には、日本語の「動かされる」にあたる受動の形がほとんど残っていません。古い文章には出てきますが、現代の散文ではまず使いません。ですから、動かされたと言いたければ、さきほどの三人称の複数を借りてくるか、動いたと書いて後は察してもらうか、そのどちらかになります。逆に言えば、この言語で indul のほうを選ぶというのは、動かした者を隠したのではなく、はじめから居ないと書いたということです。二つの動詞の差だけで、それが済んでしまいます。日本語でこれと同じことをしようとすると、どうしても語を足すことになります。足せば足したぶんだけ、原文から遠くなります。 もう一つ、この動詞には行き先があります。ハンガリーでは、春に川の氷が割れて流れはじめることを、これと同じ語で言います。誰かが割ったのではなく、気温が上がったから動く。氷が megindul する。一九五二年一月の村で、三日止まっていた水車の下の氷について、明け方に megindult と書けば、その言い方が背後から一緒に立ち上がってきます。原書を読む人は、たぶんそれを意識しません。意識しないまま受け取っているものを訳すのが、いちばん厄介なところです。 まとめます。この三語は、水が自分から動いた、と書いています。誰も割っていません。イシュトヴァーンは一日目に氷を割ろうとして、途中でやめています。やめた人が三日待って、その掌の下で、水のほうが動く。何も起こらない三日間を一冊ぶん書いたのは、この一語を最後に置くためだったと、わたしは読んでいます。 日本語には、この含みだけを運ぶ形がありません。 訳の候補を並べたノートが手元にあります。最初に書きつけたのは二〇二〇年の五月で、そのときは「水が動きはじめた。」でした。翌年の春に「水は動きはじめた。」に変えています。は、と、が、のどちらにするかで三か月かかった形跡が余白に残っていて、いま見ても何をそんなに迷っていたのか思い出せません。「ひとりでに、水が動いた。」と書いた日もあります。二日で消しました。原文に無い語を足すと、そこだけ訳者の声が混じって、六行前から続いてきた地の文の温度が変わります。「水が、自分から動きだした。」も試しました。長すぎます。原文は三語で、そのうち一つは冠詞です。ほかにも十いくつあり、どれも書きつけた日付が入っていますが、並べたところで意味がないので書きません。ノートの最後の頁だけ、二行おきに同じ一文が少しずつ違う形で並んでいて、他人が見たら何かの書き取りの練習に見えると思います。 「水が、動いた。」に決めたのは、二〇二五年の十一月です。 決めたというより、そこで手が止まりました。 誤訳です。 はっきり書いておきます。日本語で「動いた」と置くと、自分から動いたのか、何かに動かされたのかが消えます。正確には、消えるのではなく、読む人がどちらでもよいと感じる状態になります。原文はどちらでもよくありません。ケメーニは並んでいる二つの動詞の一方を選び、選んだことが分かるように、その一行だけを独立した段落にしています。わたしの訳は、そこを平らにしました。訳註で補うこともできたはずです。註を入れるかどうかで迷った三十いくつのうち、最後まで残して、いちばん最後に落としたのがこれでした。註がそこにあると、最後の一行が説明つきで終わります。 説明つきで終わる小説の終わり方を、わたしはいまだに一度も好きになれません。 読点についても書いておきます。「水が、動いた。」の読点に、原文で対応するものはありません。原書のこの行はコンマを打たずに三語が続いて終わります。日本語にしたとき、直前の段落が三行半あって、そこから改行して「水が動いた。」と置くと、目がそのまま滑って、次の白い頁まで行ってしまいました。息を継ぐところが一つ要ると思いました。それだけの理由です。 校正刷りが出たのが今年の六月で、最後の頁にだけ、鉛筆で小さく書き込みがありました。原文は megindult ですが、ここは動きはじめた、ではないでしょうか、という意味のことが、一行に収まる字で入っていました。誰が入れたのかは聞いていません。ハンガリー語の綴りを見ていただいた方かもしれませんし、編集の方が辞書を引いたのかもしれません。その日は雨で、宅配の人が濡らさないようにビニールで包んで持ってきて、居間の卓の上でしばらくそのままにしてありました。夕方に封を切って、最後の頁から見ました。鉛筆の字はやわらかく、疑問符が小さく、こちらが直さなくてもいいように書いてありました。わたしは赤で、ママ、と書きました。ママというのは、このままでよいという意味の、校正の場で使う印です。三文字を書くのに、たぶん十秒もかかっていません。理由は余白に書きませんでした。書けたはずですが、そこに書いてしまうと、直さない理由が印刷所の人の目にだけ触れて、読者には届かないことになります。それで、こうしてあとがきのほうに書いています。 読点は残します。理由が言えるからです。 言えないのは、「はじめた」を落としたほうです。 夫がこの原書を古書店で見つけて持って帰ったのは一九九八年です。見返しに四〇〇と鉛筆で書いてあることは、前の章に書きました。判型が日本の文庫より少し縦に長く、表紙の紙が厚くて、角が四つとも丸くなっています。背の布が上のほうだけ剥がれかけていて、それは買ったときからです。台所の机の、わたしが辞書を置く側に本を置いて、「これ、訳したら」と言いました。訳しませんでした。当時は別の仕事があった、とわたしは方々でそう説明してきましたし、嘘ではありません。その本は二十一年、家にありました。そのあいだ、催促されたことが一度もありません。訳したのかと聞かれたことも、まだかと言われたことも、あの本はどうなったと言われたことも、ありません。中学校で社会科を教えていて、答案の返却が一日遅れただけで自分で気に病むような人でしたから、忘れていたのとは違うと思います。二〇一九年の八月十一日に亡くなりました。六十四です。夏のあいだに痩せて、最後の三週間は病院で、ハンガリーの話は一度も出ませんでした。机の上のものを片づけたのはその年の秋で、原書だけは動かしませんでした。訳しはじめたのが、翌年の春です。 ここまで並べると、話が一つの形にまとまります。誰にも動かされなかった人間が、動かす人のいなくなったあとで動きだした、という形です。まとまるので、たぶん違います。あとから作った説明ほどよくまとまるものだということは、この歳になると分かります。わたしは自分がなぜ二十一年訳さなかったのかを知りませんし、二〇二〇年の春になぜ机に向かったのかも知りません。あの春はほかにすることが無かった、というのがいちばん実際に近い言い方で、それを理由と呼んでよいのかどうかは、判断がつきません。 六十八になりましたが、自分のことは、いまだにこの程度しか分かりません。 分かっているのは、あの三語の含みを、わたしが日本語のほうへ持って帰れなかったということだけです。訳せなかったのか、訳したくなかったのかも、区別がつきません。 直しません。 理由は二つあります。一つは、直した文が耳に入ってこないことです。「水が動きはじめた。」と置いて、前の三行半から続けて声に出して読みます。これを、六月の校正刷りが来てから七月の頭まで、朝の同じ時刻に繰り返しました。声に出すのは、訳しているあいだじゅうやっていた癖で、他に人のいない家だからできることです。何度読んでも、そこだけ紙から手前に出てきます。正しいほうが浮くというのは、こちらの訳文全体のつくりが正しいほうを受けとめられていないということで、そうなると直すのは一行では済みません。もう一つは、この一行が六年かけて着いたところだからです。着いた先が間違っていたとしても、間違って着いたことまで含めて、一冊の翻訳になっています。 謝辞を書きます。柊書房の編集の方には、六年待っていただきました。原稿を渡す約束を三度延ばし、そのたびに、いつでもいいですと言われました。註を三十いくつ落としたときも、表紙と本文とで姓名の順が違うのをそのままにしてほしいと余白に書いたときも、理由を聞かれませんでした。聞かれなかったので、説明していません。第四章の、二十三ページ答えない場面について、少し縮めましょうと言われたことも一度もありません。校閲の方には、ハンガリー語の綴りを一つずつ当たっていただきました。三か所、こちらの写し間違いがありました。地図と暦の註の日付も、二か所直していただいています。 この本は十一月に出ます。誤訳のあるまま出ます。ここまでお読みくださった方には、もう一度、いちばん最後の行を見ていただくことになります。そこには「水が、動いた。」と書いてあります。原文には、誰にも動かされずに動きだした、と書いてあります。 二刷があれば直します、とは書きません。

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