FFAVENIA

小説 · text · 2026-09-07

供述

しゅう1
供述のカバー

供述調書 本籍  神奈川県相模原市中央区〇〇 住居  同市南区〇〇 職業  学習塾講師 氏名  柏木郁子     昭和六十三年四月生(三十八歳)     身長一六三センチメートル  右の者は、令和八年三月十八日、相模原南警察署において、本職に対し、任意次のとおり供述した。 一 わたしは平成三十一年四月から、相模原市南区のミナミハラ・プラザ四階にあります学習塾ゆうゆう館相模原教室で、講師として勤めております。勤務は週に四日で、火曜、水曜、金曜、土曜に出ております。担当は小学四年から六年までの国語と、中学一年と二年の英語であります。給与は時間給で、授業一コマ八十分につき二千二百円、事務の時間は一時間につき九百七十円で計算されます。先に申し上げておきますが、教室のお金にわたしは関わっておりません。月謝の袋をお預かりして職員室の金庫に入れるところまでがわたしの仕事で、金庫を開ける番号は江藤先生と本部の方しかご存じないはずであります。こういうことは後で必ずお尋ねになると思いましたので、順番が前後いたしますが最初に申し上げました。 二 三月十七日は、午後二時に教室へ入りました。四時四十分から六時までが小学生のコマで、その日は五名でありました。本来はそのあと七時四十分から中学二年の英語が入っておりましたが、二人とも学級閉鎖の連絡が昼のうちに入っておりまして、そのコマは無くなりました。ですので六時から後は、春期講習の名簿を作ったり、教材を五十部ほど複写したりしておりました。職員室の複写機は前の年に本部から回ってきた古いもので、両面で刷ると三十枚に一度くらい紙を詰まらせます。その日も二度詰まりまして、二度目は奥まで手を入れて取らなければなりませんでしたので、その時間のことはよく覚えております。用紙の残りが一束を切っておりましたので、明日買いに行かなければならないと思っておりました。 三 江藤先生と話をしましたのは、午後七時二十分ごろであります。場所は四階の職員室で、ほかには誰もおりませんでした。話の中身はシフトのことであります。四月からの春期講習で、わたしの担当が週五日に増える予定になっておりましたので、それを四日に戻していただきたいとお願いをいたしました。母が去年の十一月に右の膝の手術をしまして、退院してからは火曜と木曜の午前に通院の付き添いをしております。前の週にも同じお願いをしておりましたが、返事をいただけないままになっておりましたので、その日にもう一度申し上げました。江藤先生は湯呑みを持ったまま名簿の紙をこちらに向けて、もう本部に出してしまったとおっしゃいました。わたしが、出す前に一言おっしゃってくださればと申しましたところ、少し声が大きくなりました。それから、四月からは人が足りないのだから誰かが埋めるしかない、というようなことを言われました。言葉のとおりであったかは自信がありません。わたしのほうも、それでは辞めさせていただくことになりますと申しました。そこまで言うつもりはなかったのですが、口から出てしまいました。口論と申し上げましたけれども、怒鳴り合ったというようなことではありません。ただ、あの部屋は狭くて壁も薄いものですから、廊下に声が漏れていたかもしれません。持田さんが聞いていたとしましたら、そう思われたかもしれないと思います。五分ほどで終わりました。わたしは自分の机に戻って、複写の続きをいたしました。 四 江藤先生が職員室を出て行かれたのは、七時三十分より少し前だったと思います。行き先は伺っておりませんし、こちらから尋ねてもおりません。 五 持田さんは、七時半を過ぎたころに職員室を出ました。飲み物を買いに行くと申しておりました。四階の自動販売機は先月から故障の札が貼ったままになっておりますので、上か下の階へ行ったのだと思います。戻ってまいりましたのは十分ほど後でありました。何か言っていたかもしれませんが、わたしは複写機の前におりましたので、覚えておりません。 六 可燃のごみは水曜の朝に回収がありまして、前の日の夜八時以降に一階北側の集積所へ出す決まりになっております。管理会社の張り紙にもそのように書いてあります。ただ、わたしはいつも八時より前に出しておりました。一度、管理会社の男の方に注意されたことがあります。その日は七時四十分からのコマが無くなっておりましたので、片付けを早めに済ませて帰るつもりでおりました。職員室の袋を二つまとめて、七時五十分ごろに四階を出ました。市の指定の四十五リットルの袋で、片方は生徒の飲みかけのお茶が入っていたぶん重うございました。時計は見ておりません。エレベーターが上の階で止まったまま下りてまいりませんでしたので、しばらくボタンを押して待っておりました。一分か、もう少し長かったかもしれません。両手が塞がっておりましたので、肘のところでボタンを押しました。降りましたのは一階で、そのまま北側の通用口から外へ出ました。あの扉は建て付けが悪くて、押しても半分しか開きません。 七 外へ出て、集積所のほうへ十歩ほど歩きましたところで、右手のあたりに人が倒れているのが見えました。最初は、酔って寝ている方だと思いました。ビルの裏には自転車が並んでおりまして、その先に街灯が一つあるだけであります。だってあそこ、夜は本当に暗いんです。近づいてから、上着の色でうちの先生だと分かりました。灰色のジャンパーで、袖のところに塾の名前が入っております。声をかけましたが、返事はありませんでした。わたし、袋を持ったままでしたので、両方とも落としました。片方が破けて、中身がその辺に散らばりました。うつ伏せだったか仰向けだったか、はっきりとは申し上げられません。眼鏡が少し離れたところに落ちておりまして、片方の靴が三メートルほど先にありました。上着のポケットに携帯電話を入れておりましたので、その場でかけました。何時何分であったかは覚えておりませんが、記録が残っていると伺いました。住所を聞かれて、ビルの名前は出てくるのに何丁目何番かが出てこなくて、二度言い直しました。それから救急車が来るまで、そばに立っておりました。上を見上げたかどうかは覚えておりません。救急の方に、どこから落ちたのかと聞かれて、分かりませんとお答えしました。 八 体には触れておりません。間違いありません。 九 その日六階へ上がったかというお尋ねでありますが、上がっておりません。六階はテナントが入っておらず、わたしどもには用のない階であります。ただ、去年の八月に一度だけ、保護者の方と外のデッキでお話をしたことがあります。教室では他の生徒さんに聞こえてしまう話でしたので、江藤先生に言われて、そちらをお借りしました。デッキへ出る扉に鍵はかかっておりませんでした。八月のことは、聞かれる前に申し上げておいたほうがよいと思いましたので申し上げました。 十 江藤先生のことでありますが、悪い人ではないんです。生徒の前では冗談ばかり言う方で、辞めそうな子がいると自分で家まで電話をかけておられました。ただ、その場で決めたことを次の日には忘れておられるようなところがありました。シフトの表も、三月に入ってから二度書き直しております。去年の暮れには、教室の忘年会の店を押さえたと言っておられて、当日になって予約が入っていなかったこともありました。二月の終わりごろから、職員室で電話を切ったあとにしばらく座っていることが増えたようには思いますが、わたしが見ましたのは二度か三度で、それがどういう電話であったかは存じません。十八日に本部の方が来られることは、職員室の予定表に書いてありました。誰が何のために来るのかは伺っておりません。 十一 悩んでおられたかというお尋ねについては、仕事のこと以外は存じません。ご家族のお話も、ほとんど伺ったことがありません。 十二 なお、その日は階段を使っておりません。上りも下りもエレベーターであります。                     柏木 郁子 ㊞    以上のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名押印した。    令和八年三月十八日    相模原南警察署       司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞ 供述調書 本籍  神奈川県横浜市戸塚区〇〇 住居  同県相模原市南区〇〇 コーポ〇〇二〇三号 職業  学生(学習塾アルバイト講師) 氏名  持田大輔     平成十六年十一月生(二十一歳)     身長一七六センチメートル  右の者は、令和八年三月十九日、相模原南警察署において、本職に対し、任意次のとおり供述した。 一 私は、私立〇〇大学理工学部の二年に在学しており、昨年五月から学習塾ゆうゆう館相模原教室でアルバイトの講師をしております。求人はインターネットの掲示で見つけまして、面接をしてくださったのは江藤先生であります。出勤は火曜、木曜、土曜の週三日で、時給は千二百円であります。受け持ちは中学二年と三年の数学と理科で、一コマは八十分であります。自宅から教室までは自転車で十五分ほどかかりますので、駐輪場はビルの地下に停めております。 二 三月十七日は火曜でありますので、私は出勤しておりました。教室に入ったのは午後五時十分ごろで、タイムカードの記録は五時十二分になっていると思います。一コマ目は五時四十分から七時までの中学三年の数学で、生徒は四人でありました。そのうち二人は受験が終わっておりましたので、実際に問題を解かせたのは残りの二人であります。授業が終わったあと、私は自習室に入りまして、先週の確認テストの採点をしておりました。残りは二十三枚でありました。自習室には生徒が三人おりまして、いちばん奥の席に私が座っております。採点には赤のボールペンを使っておりますが、途中で一本が出なくなりましたので、筆箱の奥に入っていた細いほうに替えました。二コマ目は八時十分からの予定でありましたので、それまでの時間は採点と、二コマ目に配るプリントを数えることに使っておりました。プリントは三十六枚数えて、机の左側に置いております。 三 午後七時四十分ごろ、私は六階の自動販売機へ行きました。 四 四階の自動販売機は二月の末から釣銭切れの表示が消えなくなっておりまして、千円札を入れても戻ってきてしまいます。五階のものは無糖のコーヒーが売り切れておりました。六階のものは階段室の扉を出てすぐの壁際にありまして、上から二段目の左から三番目が無糖のコーヒーであります。私は火曜と木曜には、二コマ目の前にそこへ行くことが多くなっておりました。数えたことはありませんが、二月に入ってからは十回近く行っていると思います。エレベーターは待つのが面倒でしたので、行きも帰りも階段を使いました。四階から六階までなら、そのほうが早いです。 五 買ったのは無糖の缶コーヒーで、百六十円であります。財布に小銭が入っておりませんでしたので、千円札を入れました。釣りは八百四十円で、百円玉が八枚と十円玉が四枚落ちてきましたので、それを右のポケットに入れました。釣り銭の受け皿は浅くて奥が見えませんので、残っていないかどうか指で二度なぞりました。取り出し口の蓋は下から押し上げる型でありまして、手を入れましたら缶の底が濡れておりました。私は冷たいほうを押しました。缶は自習室に戻ってから開けるつもりでおりましたので、そのときは開けておりません。 六 自動販売機のところから外のデッキには出ておりません。デッキに通じるガラスの戸は、自動販売機から五、六歩ほど先にあります。あの日、その戸が開いていたか閉まっていたかは、見ておりませんので分かりません。六階には教室がありませんし、ほかのテナントの用事もありませんので、私があのフロアに用があるのは自動販売機だけであります。デッキそのものには、去年の夏に一度だけ出たことがあります。低いコンクリートの囲いのようなものがあって、中は土だけだったように思いますが、何か植わっていたかどうかまでは覚えておりません。 七 缶を持って階段室の扉を開けたところで、人とすれ違いました。場所は六階の踊り場で、扉のすぐ内側であります。あの扉は重くて、手を放すと自分で閉まる型でありますので、私は左手で扉を押さえたまま、右手に缶を持っておりました。閉まりきるときに金属の当たる音がします。あの階段室は幅が狭く、手すりから壁までが大人二人でいっぱいになりますので、私は缶を持った手を胸の高さに上げて、体を扉の側へ寄せました。相手は私の右側を通って行きました。肩が触れたかどうかは覚えておりません。私は足元のほうを見ておりました。段の縁が擦り減っていて、一度そこで踏み外したことがありますので、下りるときも上るときも足元を見る癖がついております。あの階段室は蛍光灯が一本切れておりまして、四階の廊下よりも暗くなっております。顔は見ておりません。 八 その人が男であったか女であったかは分かりません。背が高かったか低かったかも申し上げられません。上着は暗い色だったように思いますが、これは後になってそう思っただけかもしれませんので、確かなことではありません。においも、声も、荷物を持っていたかどうかも覚えておりません。私が階段を下りはじめてから、足音が上のほうへ遠ざかっていくように聞こえました。ただ、あの階段室は音が回りますので、上か下かは本当のところ分かりません。なんとなく、そう聞こえた気がしただけです。何度も同じことをお尋ねになりますが、見ていないものは思い出しようがありません。 九 四階に戻ってから、私は自習室で携帯電話を見て、同じ学科の友人にメッセージを送りました。あとで確認しましたところ、七時四十六分と表示されておりました。金曜までに出さなければならない実験のレポートが二本残っておりまして、その相談であります。力学の実験の分で、二本のうち一本は先月出すはずのものを、教員から書き直しを言われて持ち越しております。返事は来ておりません。 十 江藤先生とはその日、口をきいておりません。挨拶をしたかどうかも覚えておりません。江藤先生は教室長でありますので、シフトや教材のことで話すことはありましたが、私への指示は柏木先生から出ることが多く、直接のやりとりは多くありませんでした。私が入ったころは、江藤先生が授業の前に教室の入口に立って、生徒の名前を一人ずつ呼んでおられましたが、去年の秋からはそれをしなくなっております。理由は聞いておりません。七時二十分ごろに事務室で何かなかったかとお尋ねでありますが、私はその時間、自習室のいちばん奥で採点をしておりましたので、分かりません。事務室と自習室のあいだには廊下と壁がありますので、話し声が聞こえることはあまりありません。江藤先生の様子がふだんと違ったかと聞かれましても、私はふだんの江藤先生をそれほど見ておりません。別に、いつもどおりに見えました。 十一 柏木先生は、私が入ったときからおられる先生であります。ふだんは事務室におられて、七時台は個別の授業に入っておられることが多いと思いますが、あの日の七時四十分前後にどこにおられたかは分かりません。柏木先生からの指示は、事務室の机に置いてある連絡帳に書かれていることが多く、私は出勤したときにそこを見て動いております。あの日、私の欄に何が書いてあったかは覚えておりません。私が六階へ上がるときも下りるときも、四階の廊下では誰にも会っておりません。すれ違ったのが柏木先生ではなかったかとお尋ねでありますが、顔を見ておりませんので、分かりません。違うと申し上げることもできません。 十二 八時十分の授業の前に、外で音がしました。何の音であったかは分かりませんが、教室の窓が一度鳴りました。生徒が窓のところに集まりましたので、私は生徒を席に戻して、それから階段で一階へ下りました。下りたときには、もう何人か立っておりました。誰が最初に見つけたのかは知りません。私は近くまでは行っておりません。四階に戻って、生徒を教室に入れ、そのあとは事務室で待っておりました。生徒を先に帰したのは八時四十分ごろだと思いますが、そのとき時計を見ておりませんので、はっきりしたことは申し上げられません。缶コーヒーは自習室の机の上に置いたままにしてしまいました。                     持田 大輔 ㊞    以上のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名押印した。    令和八年三月十九日    相模原南警察署       司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞ 実況見分調書                       令和八年三月十八日                相模原南警察署                司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞  変死者江藤芳文に係る件につき、下記のとおり実況見分を実施したので報告する。 一 見分の日時は、令和八年三月十七日午後九時十分から同日午後十一時四十分までの間、及び翌十八日午前七時四十分から同日午前九時二十分までの間である。二回目の見分は、日照のもとで位置関係及び土壌の状況を再度確認する目的で実施した。一回目の見分時の天候は曇、気温は摂氏一一度、風速は毎秒一・二メートルであり、降水を認めない。二回目の見分時の天候は晴、気温は摂氏九度である。 二 見分の場所は、神奈川県相模原市南区〇〇一丁目〇番〇号所在の商業ビル「ミナミハラ・プラザ」の六階外周デッキ北東角部分、並びに同ビル北東側敷地内の駐車場舗装面である。位置関係は別紙第一号図面に、状況は写真第一号ないし第二十七号に示すとおりである。 三 見分の目的は、令和八年三月十七日午後七時五十二分ごろ、右場所において江藤芳文(五十二歳)が地表面に転落するに至った経緯に関し、現場の構造、寸法及び位置関係を記録することにある。 四 立会人は、当該建物の管理業務を受託する株式会社ミナミハラ興産施設課主任鵜飼卓也(四十一歳)である。同人の立会いのもとに見分を実施した。 五 建物は鉄骨鉄筋コンクリート造地上七階地下一階建てであり、建築面積は一、六二〇平方メートル、軒の高さは二九、四〇〇ミリメートルである。一階から三階までを物品販売店舗、四階及び五階を事務所及び学習塾、六階を飲食店舗、七階を事務所の用に供している。六階の飲食店舗三区画のうち二区画は、見分の時点で営業を行っていない。敷地の北東側は幅員六メートルの市道に接し、建物の外壁面から市道との境界線までの距離は九、二〇〇ミリメートルである。当該部分は平面駐車場として使用され、区画数は十一である。転落の時刻において駐車していた車両の有無について、立会人は記憶していない旨を述べた。 六 六階外周デッキは、建物の北側及び東側の外壁に沿って設けられており、平面はL字形をなす。北側部分の長さは一八、六〇〇ミリメートル、東側部分の長さは一一、四〇〇ミリメートルであり、いずれも幅は二、三〇〇ミリメートルである。床面はコンクリート金ごて仕上げの上にウレタン塗膜防水を施したものであり、外壁面から手すり側へ向けて一〇〇分の一の勾配が付されている。床面には外壁面に沿って幅一〇〇ミリメートルの排水溝が設けられ、北側部分に排水口二箇所、東側部分に排水口一箇所を備える。デッキに面する外壁には、六階店舗の窓五箇所及び出入口一箇所が設けられているが、いずれも見分の時点で閉鎖されている。北東角から西方へ数えて一番目の窓の東端まで、距離は七、四〇〇ミリメートルである。北東角の床面に、破損、亀裂及び水の滞留を認めない。床面に堆積した塵埃を認めない。 七 手すりは亜鉛めっき鋼管製であり、床面から笠木上面までの高さは一、一〇〇ミリメートルである。支柱の外径は六〇・三ミリメートル、支柱の間隔は一、五〇〇ミリメートル、笠木の外径は四八・六ミリメートルである。横桟は二本であり、床面からそれぞれ三七〇ミリメートル及び七三〇ミリメートルの高さに水平に取り付けられている。北東角の支柱二本に手をかけて水平方向に力を加えたところ、動揺を認めない。笠木の上面及び外側面の塗膜に、擦過による剥離、付着物並びに変形を認めない。 八 北東角の床面上には、コンクリート製の花壇一基が設置されている。花壇の長辺は東西方向であり、長さ三、二〇〇ミリメートル、幅六〇〇ミリメートル、床面から上端までの高さは四〇〇ミリメートルである。花壇の上端から手すりの笠木上面までの高さは七〇〇ミリメートルである。花壇の外側面と手すりの支柱内側面との水平距離は一二〇ミリメートルである。花壇の上面は土壌で満たされ、ツツジ十二株が東西に等間隔で植えられている。花壇の内部に充填された土壌の深さは三二〇ミリメートルであり、その下に厚さ六〇ミリメートルの砕石層を認めた。東端の一株に、地上高二三〇ミリメートルの位置で枝の折損一箇所を認めた。折損面に変色及び乾燥を認めない。 九 花壇上面の土壌のうち、東端から西方へ二三〇ミリメートル、南北方向へ一四〇ミリメートルの範囲において、周囲の土壌面から最大二〇ミリメートル下方へ沈下した箇所一箇所を認めた。当該箇所の土壌に、履物の底面の紋様に相当する形状を認めない。当該箇所を除き、花壇上面の土壌に沈下、掘削及び堆積を認めない。土壌は含水状態にあり、指先で押圧した場合に押圧の形状が保持される程度である。当該箇所の土壌を試料として採取し、別途領置した。 十 デッキ床面から地表面までの垂直距離は二二、四〇〇ミリメートルである。手すりの外側鉛直線は、建物北東側外壁面から水平距離二、三〇〇ミリメートルの位置にある。江藤芳文が発見された位置は、同外壁面から水平距離二、八〇〇ミリメートル、花壇東端の直下点から北方六〇〇ミリメートルの地点であり、路面はアスファルト舗装である。当該位置の舗装面に、長径一、九〇〇ミリメートル、短径一、一〇〇ミリメートルの範囲で血液の付着を認めた。発見時における身体の位置及び向きは、通報者及び救急隊員の指示説明に基づき、路面に白色テープをもって表示した。右位置から西方三〇〇ミリメートルの舗装面上に、携帯電話一台が落下しており、画面のガラスに破損を認めた。同機は別途領置した。デッキ北東角の直下の鉛直線上には、庇、看板、外部階段その他の突出物を認めない。建物の北東側外壁面は、六階の床面の高さから地表面まで同一の面をなし、五階及び四階の窓に手すり並びに面格子を認めない。 十一 六階デッキへの出入口は、北西側に一箇所設けられている。扉は鋼製の片開きであり、開口の幅は八〇〇ミリメートル、自動閉鎖装置を備え、施錠装置は設けられていない。出入口の内側は幅二、一〇〇ミリメートルの共用廊下であり、廊下の北側壁面に沿って飲料自動販売機二台が設置されている。自動販売機の中心は、階段室出入口の中心から北方四、二〇〇ミリメートルの位置にある。階段室は廊下の西端に接し、五階から七階までの階段は各階につき二折り、蹴上一七五ミリメートル、踏面二七〇ミリメートル、一階分の段数は二〇段である。階段室から六階廊下への出入口までの距離は一、八〇〇ミリメートルである。エレベーターは二基であり、廊下の南側に並んで設置されている。デッキ出入口からデッキ北東角までの距離は一七、二〇〇ミリメートル、自動販売機の前面からデッキ出入口までの距離は九、三〇〇ミリメートルである。防犯カメラは、五階及び七階のエレベーターホール天井にそれぞれ一台が設置されている。六階には設置されていない。五階の防犯カメラの設置位置から同階の階段室出入口までの距離は六、六〇〇ミリメートル、七階の階段室出入口から同階の防犯カメラの設置位置までの距離は五、九〇〇ミリメートルである。この点につき立会人は、「六階だけ、順番がいちばん最後に回ってたんです。四月から工事をやる予定でした」と指示説明した。 十二 見分時における六階デッキの照明は、床面に立てられたポール灯四基による。北東角から西方六、二〇〇ミリメートルの位置にある一基は点灯しておらず、他の三基は点灯していた。北東角の床面における照度は一二ルクス、出入口前の床面における照度は八六ルクスである。花壇の東側の床面上、北東角から西方一、一〇〇ミリメートルの位置に、内容量三五〇ミリリットルの缶入りビールの空缶一個が置かれている。空缶は開口部を上に向けて直立しており、内容物の残留を認めない。缶の外面から指紋を採取した。デッキ床面上に、その他の遺留物件を認めない。デッキの清掃の実施状況につき立会人は、「毎日、夕方に一回、業者さんに入ってもらってます。何時に入ったかまでは、こっちも見てないもんで」と指示説明した。  右のとおり実況見分を実施した。    令和八年三月十八日    相模原南警察署       司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞       立会人        鵜飼 卓也 ㊞ 供述調書 本籍  神奈川県相模原市南区〇〇 住居  同所 職業  パート従業員(食品小売業) 氏名  江藤由紀     昭和五十一年十一月生(四十九歳)     身長一五四センチメートル  右の者は、令和八年三月二十日、相模原南警察署において、本職に対し、任意次のとおり供述した。 一 わたくしは、去る三月十七日に死亡いたしました江藤芳文の妻であります。婚姻いたしましたのは平成十七年の三月で、二十一年になります。式は挙げておりません。その前の年から夫の母が入院しておりましたので、写真だけを南区の商店街の写真館で撮りまして、その写真は今も玄関の下駄箱の上に置いてあります。そのときのネクタイは夫の兄から借りたもので、返しそびれたままになっております。家族は夫とわたくしと、長女の陽菜の三人で、陽菜は今年の四月から高校三年になります。住まいは平成二十二年に買いました中古のマンションの四階で、駅から歩いて十四分ほど、階段は五階までしかない古い建物であります。夫の母は二年前の十月に、市内の病院で亡くなりました。入院しておりましたのは足の骨を折りましてからで、一年八か月であります。その間、夫は日曜のたびに病院へ通っておりました。それからは三人であります。 二 夫は大学を出ましてから七年ほど文具の会社におりましたが、平成十六年に今の学習塾の会社に移り、それからは会社を変えておりません。教室長になりましたのは四年前の四月だと聞いております。 三 夫の普段の生活について申し上げます。塾の仕事でありますので、家を出ますのは昼前のことが多く、帰りますのは午後十一時を過ぎることが普通でありました。夕食は教室で済ませてくることが多く、家では缶ビールを一本だけ飲んで、テレビの音を小さくして、録画しておいた相撲や釣りの番組を見ておりました。二本目を開けるところは、この二十年でも数えるほどしか見ておりません。そんなに飲める人ではないんです。休みは日曜と、平日にもう一日ありましたが、平日の休みは教材を作ると申しまして家におりました。通勤は車で、平成二十九年式のフリードという車であります。車検は四月の末でありまして、二月に葉書が来ておりました。鞄は黒い布のもので、中に手帳とプリントの束と、教室の鍵を入れておりました。手帳は毎年、暮れに文具の会社の後輩の方から送られてくるものを使っておりました。 四 夫は、物を捨てられない人でした。 五 三月十五日の日曜日のことを申し上げます。その日は夫の休みで、朝は九時ごろに起きてまいりました。午前中に二人で愛川インターの近くのホームセンターへ行き、陽菜の部屋のカーテンレールと、洗濯機の下に敷きます台と、球根の土を買いました。土は義母がベランダで作っておりました鉢に入れるもので、義母が亡くなりましてからは夫が水をやっておりました。レシートは家に取ってありますので、必要でしたらお出しいたします。買い物のあいだ、夫は駐車場でしばらく電話をしておりました。誰とかは存じません。塾は日曜も自習室を開けておりましたので、そういう電話は前からございました。カーテンレールは陽菜が去年から言っておりましたもので、業者を呼ぶという話もありましたが、夫が自分で付けると申しまして、その日の夕方に付けました。ねじが一本足りないと言って、一階の共用の物置へ工具箱を取りに二度降りております。昼は帰り道の国道沿いの中華の店に入りまして、夫は五目そばと餃子を頼みました。餃子は半分残しましたので、わたくしがいただきました。夕方に陽菜が塾から戻りましてからは三人でおりましたが、変わった話はしておりません。夜は旅の番組を見て、夫は十一時前に寝ました。その日に夫が陽菜へ何かを送ったというようなことは、こちらで伺うまで存じませんでした。陽菜からも聞いておりません。 六 二月の終わりごろからでありますが、夫は朝早く目が覚めるようになったと申しておりました。四時ごろに起きてまいりまして、ベランダに立っていることが何度かありました。三月に入りましてからも、洗濯物の下に立っているところを二度見ております。わたくしは花粉症の薬を替えたせいだろうと思いまして、そのように申しましたところ、夫もそうかもしれないと申しました。それ以上は聞いておりません。うちは、そういうことを言わない家です。 七 お金のことについて申し上げます。家のローンは平成二十二年に組みましたもので、残りが八百三十万円ほど、月々の返済が六万四千円であります。車のローンはございません。給料は夫の口座に入りまして、そこから引き落としになりますので、わたくしは毎月十二万円を生活費として受け取っておりました。その十二万円が遅れたことは、二十一年で一度もありません。夫の口座の通帳は寝室のたんすの一番上の引き出しに入っておりますが、わたくしが開いて見ましたことは、この五年ほどありません。二年前の十二月に、定期預金を解約したいと夫が申しました。理由は車の車検と、陽菜の修学旅行の積立だと聞きましたので、そのようにいたしました。八十万円ほどであったと思います。去年の秋に一度だけ、名前を存じない会社から夫あてに封筒が届いたことがございます。宛名のところに窓のついた薄い封筒で、片仮名の四文字の社名であったと思いますが、正確には覚えておりません。わたくしが受け取って食卓の上に置いておきましたところ、夫はその晩のうちに、職場の人の保証人の話で、断ったところだと申しました。翌朝には食卓にありませんでした。それで納得いたしました。借金があったことは知りませんでした。教室のお金に手をつけていたという話も、二百十七万円という金額も、こちらで伺うまでまったく存じませんでした。 八 監査という言葉は、今回はじめて聞きました。三月十八日に本部の方が来るという話も、夫からは何も聞いておりません。 九 三月十七日のことを申し上げます。その日は火曜で、燃えるごみの日でありますので、わたくしは六時四十分に起きております。夫は七時前に起きてまいりまして、玉子焼きと味噌汁を食べ、ごみの袋を持って先に出ました。玉子焼きは半分だけ食べて、残りを皿に置いたままにしておりましたが、これは前からたびたびあったことであります。ごみは一階の集積所に出しますので、そのまま車で出たのだと思います。わたくしのパートは九時からでありますので、それから支度をいたしました。夫が出ましたのは七時五十分ごろかと思いますが、時計を見たわけではありませんので、確かではありません。傘は持って出ておりません。午後一時ごろに、薬局のポイントカードのことでこちらから一度連絡をしておりますが、返事はありませんでした。午後六時十二分に、今日は遅くなる、とだけ携帯に入りました。それには返事をしておりません。夜の九時二十分ごろに家の電話が鳴りまして、陽菜が出ました。 十 教室の先生方については、名前を存じている程度であります。柏木さんという方からは年賀状をいただいたことがあり、去年も今年も来ておりました。お会いしましたのは、七年前の暮れに忘年会のお店まで夫を迎えに行きましたときの一度だけであります。 十一 夫の左の腕に傷はなかったかとお尋ねがありましたが、わたくしは見ておりません。三月に入りましてから夫が半袖でいたことはありませんし、風呂は夫が最後に入りますので、脱いだところを見ることはございません。腕をぶつけたとか、擦りむいたとかいう話も聞いておりません。十五日にカーテンレールを付けましたときにも、そのようなことは申しておりませんでした。あの日、洗面所の薬箱を開けた覚えもありません。 十二 夫がどうしてあのようなことになりましたのか、わたくしにはわかりません。心当たりを申し上げることができません。申し上げましたことに間違いありません。                     江藤 由紀 ㊞    以上のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名押印した。    令和八年三月二十日    相模原南警察署       司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞ 画像解析報告書 科捜研法二第一〇七号 令和八年三月三十一日 相模原南警察署長 殿           神奈川県警察本部刑事部科学捜査研究所            法科学第二課 主任研究員 真鍋 克典 ㊞  令和八年三月十八日付相南刑発第八四号をもって嘱託のあった標記の件について、下記のとおり報告する。 一 嘱託を受けた事項は次の三点である。  (一) 令和八年三月十七日午後七時台の記録のうち、五階エレベーターホールを通過した人物および七階エレベーターホールを通過した人物について、身長を推定できるか。  (二) 右の各人物について、性別を判別できるか。  (三) 右の各人物について、顔貌の識別が可能な程度まで画像を増強できるか。 二 解析に供したのは、令和八年三月十八日に貴署から送付を受けた、ミナミハラ・プラザ内に設置された録画装置二台(管理会社における管理番号MP―〇三およびMP―〇五)の内蔵ハードディスクから作成した複製データである。複製の作成にあたっては、原データとの同一性を確認するため、ファイルごとに要約値を算出して照合した。当該装置は、記録容量に達した場合に古い記録から順に上書きする方式であり、複製を作成した時点で保存されていたのは令和八年三月四日以降の記録である。記録方式はH.264、記録画素数は横六四〇縦三六〇、記録速度は毎秒三コマと設定されているが、実測値は毎秒二・七コマないし二・九コマであり、動きの速い部分では前後のコマの情報が混じって記録されている。カメラは五階および七階のエレベーターホールに各一台であり、いずれも天井面から下向きに設置され、光軸は水平面に対しおよそ二十七度下方を向いている。六階には録画装置およびカメラのいずれも設置されていない。この点について管理会社に照会したところ、六階を含む機器の更新工事を令和八年四月から実施する予定であったとの回答を得た。 三 両装置の内蔵時計には標準時との差があった。MP―〇三は一分十二秒進んでおり、MP―〇五は二十六秒遅れていた。以下に記す時刻は、いずれも右の差を補正した後の値である。補正前の表示値は別表一のとおりである。 四 五階の記録には、午後七時四十八分八秒から同十四秒までの間に、エレベーターホールを北側から南側へ横切り、階段室の扉を開けて中へ入る人物一名が記録されている。上衣は濃い色の長袖であり、下衣は上衣より明るい。右手に細長い物を提げているが、形状および材質は判別できない。歩行の途中で一度立ち止まり、扉の手前で上体を左へ向ける動作がある。着衣の色および体格は、貴署から提供された江藤芳文の当日の着衣に関する情報と矛盾しない。ただし本装置の記録のみから同人であると認定することはできない。 五 七階の記録には、午後七時五十一分十三秒から同十九秒までの間に、階段室の扉から出て、画面の右手前方向へ歩行する人物一名が記録されている。この間に得られた有効なコマは十七コマであり、そのうち全身が画角に入っているのは九コマである。上衣、下衣ともに暗い色であり、両者の境界は判別できない。頭部は最初の三コマにおいて下方を向いており、以後は画角の外へ出るまで撮影方向に対して背面を向けている。頭髪の長さについては、襟の位置と頭部の輪郭とが同程度の輝度であるため区別できない。画角内における移動距離は約三・二メートル、所要時間は六秒であり、歩行の速度はおよそ毎秒〇・五メートルと算出される。コマ間における頭部の移動量は一定ではなく、扉から数えて二歩目と三歩目との間に、他の区間より長い間隔がある。ただし記録速度が低いため、右の間隔をもって当該人物が立ち止まったと認めることはできない。 六 身長の推定は、令和八年三月二十四日に現場において実施した標定に基づいて行った。カメラの設置位置および光軸を実測したうえ、既知の高さを有する物体として、七階エレベーターホールの消火器収納箱の上面(床上八百二十ミリメートル)、掲示板の下縁(床上千四百五十ミリメートル)および床仕上げ材の目地(一辺三百ミリメートル)を用い、レンズの歪曲を補正した後、各コマにおける頭頂部および足底の位置を投影して算出した。得られた値は、九コマの平均で一六五センチメートル、最小一六一センチメートル、最大一六九センチメートルである。歩行時における頭部の上下動、姿勢による伸縮および画素の量子化に由来する誤差を見込み、推定値は一六〇センチメートルないし一七〇センチメートルとする。なお右の値は履物の踵の高さを零として算出したものであり、踵の高い履物を着用していた場合、実際の身長はこれより低くなる。本手法については、当研究所において、身長の判明している者五名を同一の機種および同一の照明条件で撮影して検証を行っており、その際の推定値と実測値との差は、最も大きいもので四センチメートルであった。五階の人物については、足底が画角の下端に接している時間が長く、標定に必要な条件を満たさないため、身長の推定は実施していない。 七 性別は判別できない。記録された画素数では、顔貌、喉頭隆起、手指および頭髪のいずれについても輪郭を得ることができず、着衣にも性別に結びつく特徴は認められない。歩行の様態から性別を推定する手法については、その妥当性が確立されておらず、当研究所において取り扱っていない。なお貴署担当官から口頭で、歩き方で女性と分かるかとの照会を受けたが、これについては答え得ない。分からないというのは、女性ではないという意味ではありません。 八 顔貌の識別を目的として、フレーム間の位置合わせによる重ね合わせ、輝度の伸張、および学習に基づく超解像の処理を試みた。いずれの処理によっても、目、鼻および口の位置を示す濃淡は現れなかった。この種の処理は、複数のコマに分散して記録されている情報を集めるものであって、記録されていない情報を作り出すものではありません。したがって、増強後の画像を人物の同一性の判断に用いることは相当でないと思料する。 九 五階に記録された人物の下衣と、七階に記録された人物の下衣とは、床面を基準とした相対輝度において明らかな差がある。両階の照明は同一の器具であり、令和八年三月二十四日に実測した床面照度は、五階において三百二十ルクス、七階において三百五ルクスであって、色温度にも差は認められない。したがって、両者は別人であると認めるのが相当である。ただし、この間に上衣または下衣を脱ぐなどの変更があった場合、右の判断は成り立たない。 十 当日午後七時から同八時までの記録の全体を確認した。五階の記録には、右のほか、午後七時二十八分四十一秒に台車を押してエレベーターに乗る人物一名と、午後七時三十八分五十二秒に同一と認められる台車を押してエレベーターから降り、南側の通路へ向かう人物一名とが記録されている。午後七時三十八分五十二秒から同四十八分八秒までの間、五階の記録に人物の通過はない。七階の記録には、午後七時五十一分十九秒より後、午後八時までの間に人物の記録はない。なお、両カメラはいずれもエレベーター籠内および階数表示器を撮影しておらず、当該階に停止しない籠の昇降は記録されない。また、七階の階段室の扉から北側非常階段に至る経路は画角の外にある。六階に立ち入る経路は、エレベーター、階段室および北側非常階段の三つであり、このうち出入りを本件の記録によって確認し得るのは、五階または七階のエレベーターホールを通過した場合に限られる。 十一 以上により、嘱託事項に対する所見は次のとおりである。  (一) 七階に記録された人物の身長は、一六〇センチメートルないし一七〇センチメートルと推定される。五階に記録された人物については推定できない。  (二) 両人物のいずれについても、性別は判別できない。  (三) 顔貌の識別が可能な程度への増強はできない。 十二 本報告に添付するのは、別表一、別紙一ないし九および別紙十である。別表一は補正前後の時刻を対照したものであり、別紙一ないし九は七階の記録から抽出した静止画像、別紙十は標定図である。原資料は本報告書とともに貴署へ返還する。写っていないものについて、これ以上申し上げられることはありません。    右のとおり報告する。    令和八年三月三十一日    神奈川県警察本部刑事部科学捜査研究所       法科学第二課 主任研究員 真鍋 克典 ㊞ 供述調書 本籍  神奈川県相模原市南区〇〇 住居  同市南区〇〇 職業  清掃業 氏名  森 やす子     昭和三十七年十一月生(六十三歳)     身長一五二センチメートル  右の者は、令和八年三月二十四日、相模原南警察署において、本職に対し、任意次のとおり供述した。 一 わたしは株式会社ケイユウビルサービスに雇われております、パートタイムの清掃員であります。契約は火曜から土曜までの週五日、午後五時から午後八時までの三時間で、時給は千百二十円であります。ミナミハラ・プラザの担当になりましたのは平成三十年四月からで、この四月で丸八年になります。それまでは同じ会社で相模大野の方の建物を三年ほど回っておりました。夕方の時間帯に入っておりますのはわたし一人だけであります。朝の班は二人おりまして、七階と、各階の便所と、正面玄関の硝子は朝の班が受け持っております。六階の外のデッキは朝の班の受け持ちには入っておりません。あそこは夕方にわたしが掃くことになっております。 二 三月十七日は火曜日でありますので、通常どおりの勤務であります。地下一階の控室に着きましたのが午後四時五十分ごろで、タイムカードを押しましたのは四時五十二分であります。あの機械は古くて、押しても音の出ない日がありますので、押したあとに必ず紙の面を返して、時刻が印字されているのを目で確かめる癖がついております。着替えて、道具のワゴンを出して、控室を出ましたのが五時三分であります。ワゴンは前の右の車輪が傷んでおりまして、押すと右へ右へ寄っていきますから、廊下の壁に当てないように押すだけで余分に時間がかかります。会社には去年の十一月に言ってありますが、まだ替えてもらっておりません。軍手も、以前は月に四組いただいておりましたのが、去年から三組になりました。 三 火曜日は五階には入りません。五階は水曜と金曜だけであります。 四 順路は下から上へ上がる順であります。五時から六時十分ごろまでかけて地下一階と一階と二階のごみを集めまして、それから三階、四階と上がってまいります。四階の廊下に入りましたのは七時十四分であります。日誌に書いておりますので間違いありません。学習塾ゆうゆう館さんの扉は開いておりまして、中に人のいる気配はありましたが、どなたがいらしたのかまでは見ておりません。四階の廊下は端から端まで四十歩ほどで、モップを二度往復させます。四階を出ましたのが七時二十一分であります。 五 六階へはエレベーターで上がりました。三号機であります。三号機は扉の閉まるのが遅くて、四階から六階まで一分近くかかります。六階に着きましたのは七時二十三分か二十四分だと思います。六階でわたしが受け持っておりますのは、エレベーターの前の廊下と、その角を曲がった先の自動販売機の置いてある一角と、外のデッキの三か所だけであります。中の区画は契約に入っておりませんので、扉の内側には入りません。区画の鍵もわたしは持たされておりません。ワゴンはいつもデッキに出る扉の内側の壁ぎわに置きまして、ほうきとちりとりと袋だけを持って動きます。まず自動販売機のところを済ませました。あそこは機械が二台ありまして、片方は去年の秋から準備中の札が出たままで、飲物は入っておりません。機械の下に一寸ほどの隙間がありますので、そこに溜まった埃を柄の長いブラシで掻き出して、それから空き缶の入れ物を空にいたします。その日に入っておりましたのは三本で、二本が缶コーヒー、一本がお茶のペットボトルであります。ビールの缶は入っておりませんでした。中身の残っている缶を先に流しへ持っていかないと袋の底が濡れますので、一本ずつ持ち上げて振ってみて、それから青い袋に入れます。空き缶は青、燃えるごみは黄色と決まっておりまして、混ざっていると警備室で受け取ってもらえません。ここを終えましたのが七時三十分の少し前であります。なお、自動販売機の一角はエレベーターの前の廊下から見ますと角の先になりますので、エレベーターを降りたところからは見えません。六階の廊下は天井の蛍光灯が四本のうち一本切れております。去年の暮れから三度報告しておりますが、まだ替わっておりません。 六 デッキに出ました。時刻は七時三十分であります。腕時計を見て出ましたので間違いありません。わたしの時計は毎朝、駅の改札の上にある時計に合わせております。デッキは建物の外側をぐるりと回っておりまして、扉を出て左へ、つまり南の側から回って、西、北と歩いて、北東の角まで行きます。順番はいつも同じであります。あそこは吹き通しでありますから、砂と、枯れた葉と、煙草の吸殻がたまります。吸殻は本当はいけないことになっておりますが、月に何本かは落ちております。あの日は四本拾いました。ほうきで掃いて、ちりとりに取って、袋に入れます。デッキの床は防水の塗ってある床でありますので、モップは使いません。膝が悪いものですから、しゃがむのはなるべくしないようにしております。左の膝に水がたまりまして、去年から月に一度、注射をしていただいております。デッキには灯りがありません。中の廊下の灯りが硝子越しに届くだけでありまして、北東の角はいちばん暗くなります。ただ、わたしは目は悪くありません。老眼鏡は近くの字を読むときだけであります。 七 花壇は北東の角と南西の角の二か所にあります。コンクリートで囲ってあって、高さはわたしの膝の少し上くらいで、囲いの上の面の幅は手のひらほどであります。中にはサツキが植わっておりますが、北東の方は去年の夏に半分枯れました。水は、前は管理会社の方が朝に来てやっておられましたが、担当の方が替わりまして、去年の秋からどなたもやっておりません。わたしの仕事にも入っておりません。ですから土はいつも乾いております。乾いた土は風で飛びますので、囲いの上の面と、その下の床にこぼれていることがよくあります。鳩も来ます。鳩が土を掘って荒らしますと、株のまわりに穴のような窪みができて、土が囲いの外まで散ります。そういうときは掃くのに十分ほど余分にかかります。こぼれていれば掃きます。掃かないと、次の日に言われますから。三月十七日は、北東の花壇の囲いの上にも、その下の床にも、土はこぼれておりませんでした。囲いの上に人の足の跡のようなものもありませんでした。鳩の荒らした跡もありませんでした。土の面もいつもどおりに見えました。いつもどおりというのは、わたしがそれまでに何十回も見てきた面と、違って見えなかったという意味であります。ただ、わたしは立ったまま上から見ておりますので、しゃがんで近くから見たわけではありません。そこまでは……植込みの奥の方までは見ておりません。北東の花壇はサツキが枯れて枝だけになっておりますので、上から見れば土の面はだいたい見えますが、枝の下に隠れる部分はあります。手すりのすぐ内側でありますから、掃くときは囲いに腰を当てるようにして、体を前に倒して、ほうきの先だけを伸ばして掃きます。囲いと手すりのあいだは、わたしの足が横にやっと入るくらいしか空いておりません。ですからあそこは囲いの手前側に立って、ほうきの柄を長く持って、向こう側の床まで届かせます。ほうきは毛先が減っておりまして、替えていただきたいと去年から申しておりますが、いまのは十一月から使っております。囲いの上には乗りません。乗ればわたしの靴の跡が残りますし、そんな高いところに上がるようなことは、膝のこともありますので、いたしません。この日のことをこれだけ覚えておりますのは、翌日の朝に会社から電話がありまして、昨日の六階をどうしたか思い出せと言われたからであります。それまでは、前の週の火曜のことも先週の木曜のことも、一つに混ざっておりました。わたしが見落としているということは、あるかもしれません。三時間で六つの階を回りますので、隅から隅まで見ていると申し上げることはできません。 八 六階では、どなたにも会っておりません。 九 デッキから中に戻りましたのが七時四十一分であります。廊下には誰もおりませんでした。 十 江藤さんのことは、四階の塾の先生だということは存じております。挨拶をする程度で、まとまった話をしたことはありません。一度、四階のごみに紙とプラスチックが混ざっておりましたので袋を替えていただいたことがありますが、そのときも嫌な顔をなさいませんでした。夜、四階の灯りが遅くまでついていることがよくありまして、わたしが上がる八時にはまだついておりました。あの人は、灯りを消さないで帰る人でした。三月に入ってからご様子が変わっていたかとお尋ねでありますが、廊下ですれ違うだけでありますので、わたしにはわかりません。六階のデッキに出ておられるのをお見かけしたことは、これまでに一度もありません。 十一 三号機で地下一階まで降りて、控室に入りましたのが七時四十六分か七分であります。それから流しでモップとちりとりを洗って、日誌を書いておりました。外の音に気がつきましたのは七時五十五分ごろだと思いますが、この時刻ははっきり申せません。控室は地下でありまして、外の音はよく聞こえません。救急車の音が近くなって、そのあとで警備の方が控室の扉を開けて、上から人が落ちたと言われました。そのときの時刻は控室の壁の時計で八時二分でありました。あの時計は少し進んでおりますので、実際には八時ちょうどくらいかもしれません。わたしは主人の送りがありますので八時には上がることになっておりますが、その日は上がらずに、九時十分ごろまで控室におりました。日誌には、六階デッキ、七時三十分から七時四十一分までと書きました。 十二 日誌の控えは会社にございます。                     森 やす子 ㊞    以上のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名押印した。    令和八年三月二十四日    相模原南警察署       司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞ 供述調書 本籍  東京都板橋区〇〇 住居  埼玉県さいたま市南区〇〇 職業  会社員 氏名  上垣潤     昭和五十六年一月生(四十五歳)     身長一七四センチメートル  右の者は、令和八年四月二十一日、相模原南警察署において、本職に対し、任意次のとおり供述した。 一 私は株式会社ゆうゆう館の本部業務部に所属し、直営教室の会計監査を担当しております。入社は平成十九年で、教室勤務が七年、本部に移りまして十二年になります。関東ブロックの四十一教室を私ともう一名の二名で受け持っておりましたが、もう一名は二月二十八日付で退職いたしました。後任は四月一日付で補充される予定でありましたところ、本日現在まだ決まっておりません。そのため三月は土曜も回っておりました。監査には年二回の定期監査と、必要に応じて行う臨時監査の二種類があり、定期監査は帳票の形式を確認するのが主なもの、臨時監査は個別の事案について行うものであります。帳票を運ぶキャリーケースの車輪が三月の初めに割れまして、三月はそれを引きずって回っておりました。関係のない話であります。 二 江藤芳文さんとは、年に二回か三回、ブロック会議の席で同席する程度の関係でありました。個人的な付き合いはございません。 三 相模原教室は平成二十九年四月の開設であります。ミナミハラ・プラザの四階に入っており、教室が三室と事務室、廊下側に自習席が八席という造りであります。江藤さんが教室長に着任したのは令和三年四月で、それ以前は町田の教室の副室長をしておられたと聞いております。在籍生徒は百二十名前後、四十一教室のうち売上では七番目か八番目でありました。授業は平日が午後四時二十分から九時四十分までの三コマ、土曜が午前からであります。継続率は上位でありました。正直、数字だけ見ればよく回っている教室だったんです。 四 教室の現金の取扱いについて申し上げます。授業料は本部指定口座への振込を原則としておりますが、教材費、季節講習の追加コマ分、模試の実費など、教室の窓口で現金でお預かりするものが残っております。領収書は三枚綴りの複写式で、一枚目を保護者にお渡しし、二枚目を本部へ送付、三枚目を教室で保管する定めであります。用紙は教室ごとに連番の綴りを配付しており、使い切った綴りは表紙に開始番号と終了番号を書いて本部へ返すことになっております。現金は事務室のダイヤル式金庫に入れ、原則として毎週月曜の午前中に、教室長が本部口座へ入金いたします。相模原教室で窓口にお預かりする現金は、平常月で十万円台、講習の申込期にはその三倍から四倍になります。金庫を開けられるのは教室長と常勤講師の二名で、相模原教室の常勤講師は柏木郁子さん一名でありました。非常勤の講師は事務室に入れますが、金庫の番号は知らされておりません。 五 差額に気づいたのは経理課であります。私ではありません。令和七年十一月の月次消込の際に、教室から送られた領収書控えの合計と、本部口座への入金額とが合わないという指摘が出ております。二枚目の送付が飛んでいる番号がある、というのが最初の指摘であったと聞いております。この件が業務部に回ってきたのは令和八年二月十日でありました。それまでの三か月間、どこでどのように扱われていたかにつきましては、私の所管ではございませんので分かりかねます。担当されていた方は一月の異動で経理課を離れておられます。 六 相模原教室の定期監査は当初、令和八年五月の予定でありました。二月十日の資料を受けまして、臨時監査に切り替えることになりました。三月十八日という日取りは、二月二十六日の部内打ち合わせで決まっております。どなたが決めたのかというお尋ねでありますが、部としての決定でありまして、議事メモにも発案者の名前は残っておりません。 七 事前の通知について申し上げます。臨時監査は本来、前日または当日に通知することになっております。日を置きますと帳票を先に整えられてしまい、行う意味がなくなるからであります。ただ実務のうえでは、当日に教室長が不在で金庫が開けられなければ何もできませんので、在室の確認だけは前もって入れるのが通例であります。その連絡の際に監査という言葉を使うか使わないかは、担当者の判断に委ねられております。文書の様式は定まっておりません。令和六年に川口の教室で臨時監査を行いました折には、私が前日の夕方に電話をいたしまして、明日そちらへ伺いますので帳票と金庫の中身をそのままにしておいてくださいと申し上げております。そのときは相方がおりましたので、二名で入りました。今回どうであったか、というお尋ねであります。 八 三月十三日の午後四時十二分から、江藤さんの携帯電話に六分間、私のほうから架電しております。通話記録で確認いたしました。場所は本部の三階の非常階段の踊り場で、そこは電波が入りやすいものですから、外線をかけるときはたいていそこに出ております。用件は四月の講習会の帳票様式が変わることについてであったと記憶しております。様式変更の通知文は前の週に全教室へ一斉送信しておりましたが、相模原からは受領の返信が来ておりませんでしたので、その確認であります。その電話の中で十八日のことに触れたかどうか、というお尋ねでありますが──触れたと思います。ただ……はっきりとは覚えておりません。言った言わないの話になってしまいますので、記憶で申し上げるのは控えたいと思います。メールの送信済みフォルダを四月十日に確認いたしましたが、十八日の日程に関する文面は残っておりませんでした。個人の携帯からの短文送信は行っておりません。電話の終わりのほうで、四月から講師が一人減るという話が江藤さんのほうから出ました。人員の補充は教室長の裁量でありますので、私は聞き置いただけであります。声の様子がいつもと違ったかどうかは、私には判断がつきません。六分のうち三分ほどは私が様式の説明をしておりました。 九 三月十七日は千葉県内の二教室を回っておりました。船橋と津田沼であります。夕方に本部へ戻り、退勤は午後七時を少し過ぎておりました。相模原には行っておりません。翌十八日は午前十時に相模原教室へ入る予定でおりまして、前夜のうちに帳票の綴りと電卓を鞄に入れてございました。当日の朝八時前に教室の講師の方からお電話をいただき、そこで初めて知りました。教室を今日開けていいのかというお尋ねで、私にはお答えできないことでありましたので、業務部の課長へ回しております。お名前は伺ったはずでありますが、失念しております。監査は中止といたしました。 十 四月に入りましてから、令和六年六月から令和八年二月までの全期間につきまして、改めて突合を行いました。教室に残っておりました三枚目の控えと、本部に届いている二枚目とを一枚ずつ照らし合わせ、番号の欠けている分について保護者の方へ発行の有無を書面で確認する、という手順であります。判明した差額の合計は二百十七万円であります。毎月一定の額ではなく、多い月と少ない月とがあり、夏期講習と冬期講習の直後に大きくなる傾向がございました。令和六年六月より前の分は綴りが本部に返っておりませんので、そこから先は確認できておりません。補填や返還の記録はございません。江藤さん個人の口座との出入りにつきましては、本部では確認いたしておりません。それは本部の権限の外であります。 十一 柏木さんの関与についてのお尋ねがありましたが、本部として何らかの判断を行ったという事実はございません。鍵を持っていたということと、何かをしたということは、別のことであります。私からはそれ以上申し上げられません。 十二 監査は責任を追及するための手続きではありません。是正のための手続きであり、本部はそのように運用しております。差額が出ました場合には、返還誓約書という様式がございまして、分割の期間を書き入れて署名をいただくことになっております。私が本部に移りまして十二年のうちに、その様式を使ったのは二度であります。二度とも、その方は退職なさいました。私の一存で警察に届け出るというようなこともございません。ただ、それが江藤さんに伝わっていたかどうかは、私には分かりません。ご遺族への通知は総務課の所管でありまして、私は関与しておりません。私が十三日にはっきり申し上げていれば、というのは、そういう意味ではありません。                     上垣 潤 ㊞    以上のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名押印した。    令和八年四月二十一日    相模原南警察署       司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞ 供述調書 本籍  神奈川県相模原市中央区〇〇 住居  同市南区〇〇 職業  学習塾講師 氏名  柏木郁子     昭和六十三年四月生(三十八歳)     身長一六三センチメートル  右の者は、令和八年四月八日、相模原南警察署において、本職に対し、前回の供述に引き続き、任意次のとおり供述した。 一 三月十八日に申し上げたことのうち、直さなければならないところがありますので、本日、こちらへ参りました。呼び出されたのではなく、わたしから電話をいたしました。 二 三月十七日のことを、はじめから順に申し上げます。火曜日でありまして、わたしは午後二時に出勤し、三時から四時二十分まで小学生の算数、四時三十分から六時まで中学一年の英語、六時十分から七時十分まで中学三年の理科を担当いたしました。三年生のコマは本来、江藤先生の担当でありますが、二月の終わりごろから週に一度、わたしが代わりに入っておりました。そのシフトのことが、前回申し上げた話であります。教室には、ほかに大学生のアルバイトの持田さんが五時から入っておりました。持田さんとは、その日、廊下で二回すれ違いましたが、話はしておりません。授業のあと、答案を返し忘れた生徒がおりましたので、それを机に置いて、職員室に戻りました。七時十五分ごろだったと思います。時計は見ておりません。七時十分にコマが終わって、生徒を三人見送って、そのあとでありますから、それくらいであろうということであります。三年生のコマを代わりましたのは、二月の十日ごろに江藤先生から頼まれたからで、三月いっぱいまでという話でありました。四月からどうするのかは、決まっておりませんでした。前回、七時二十分にシフトの話でもめたと申し上げましたのは、四月以降の分をはっきりさせていただきたい、とわたしが申し上げた、その話であります。 三 前回、江藤先生と話をしたのは七時二十分ごろで、内容はシフトのことだと申し上げました。シフトのことは話しました。そこは間違いありません。ただ、それだけではありませんでした。お金のことも少し話しました。 四 お金のこと、と申しますのは、二月分の教材費のことであります。うちの教室では、教材費は現金で集めます。生徒に封筒を渡し、封筒ごと持ってこさせて、受け取った講師がその日のうちに職員室の金庫へ入れることになっております。二月分は対象の生徒が二十二名、一人三千二百円で、全部で七万四百円になるはずでありました。二名が未納でしたので、実際に集まったのは六万四千円であります。封筒は茶色の小さいもので、表に生徒の名字を鉛筆で書かせております。その封筒を、三月の頭に、わたしが赤い輪ゴムで束ねて金庫へ入れました。金庫は職員室の一番奥、コピー用紙の段ボールの陰に置いてあります。入れたことは間違いありません。それが、十七日の夕方に、江藤先生の鞄の中にありました。鞄は職員室の椅子の上に置いてあって、口が開いておりました。わたしが中を見に行ったわけではありません。棚のプリントを取ろうとして横を通ったときに、輪ゴムの束が見えたということであります。それで七時二十分に、あれはどうしてそこにあるのですか、と聞きました。江藤先生は、立て替えた分の精算をするから預かっている、来週には戻す、とおっしゃいました。わたしは、分かりました、と申し上げて、そのままシフトの話に戻りました。お金のことは、正直、わたしの口から言うことではないと思っておりました。でも、袋が鞄の中にあったら、見なかったことにはできないです。 五 わたしは会計には関与しておりません。金庫の鍵は江藤先生とわたしの二本でありますが、これは講師が集金を入れるためのもので、出すほうは江藤先生だけであります。月末の締めの書類は江藤先生が本部へ送っておられました。中身は見たことがありません。わたしの給与は本部からの振込でありまして、教室の現金とは別であります。この点は、はっきりさせておいていただきたいと思います。 六 三月に入ってから、江藤先生は、授業の合間に職員室の電話をよくお使いになりました。携帯をお持ちなのに、教室の電話でかけておられました。相手は存じません。声を落とすということもなく、わたしがいても普通に話しておられましたので、聞かれて困る話ではなかったのだろうと思います。本部の上垣さんが十八日にいらっしゃると知ったのは、事故のあとであります。監査という言葉を、わたしはあのときまで聞いたことがありませんでした。 七 七時二十分の話のあと、四階の教室へ戻りました。自習で残っていた生徒が一人おりまして、二年の女子です。名前を申し上げてよいのか分かりませんので、必要でしたら教室の名簿でご確認ください。その生徒は七時三十五分に帰りました。玄関のところで傘を忘れましたので、廊下まで追いかけて渡しました。それから印刷室におりました。翌週の小テストを刷るためであります。枚数は、二十枚だったか四十枚だったか、そこは覚えておりません。コピー機が紙を噛んで、二回止まりました。五年ほど前から入っている一台きりのもので、両面で刷りますと三十枚に一度くらいは止まります。裏の蓋を開けて、ローラーの間に指を入れて抜くのですが、そのときに指が黒くなりましたので、廊下の突き当たりの流しで洗いました。石鹸では落ちませんので、しばらくこすっておりました。印刷室には窓がありませんので、外の音は聞いておりません。持田さんが職員室へ戻ったのは七時四十分より少し後だったと聞いておりますが、これはわたしが見たのではなく、あとで人から聞いた話であります。 八 六階には上がっておりません。 九 わたしは、ふだんから階段を使います。あのビルのエレベーターは待ち時間が長く、四階でしたら歩いたほうが早いからであります。ただしそれは一階と四階の間の話でありまして、五階から上へ行ったことは、三年勤めておりますが、数えるほどしかありません。六階のデッキは、去年の夏に一度、生徒の親御さんと立ち話をしたときに出たきりであります。あの花壇には何も植わっておりませんでした。 十 江藤先生を見つけたときのことは、前回申し上げたとおりでありまして、直すところはありません。何度も同じことを話すのは構わないのですが、同じようには話せないと思います。 十一 江藤先生が腕を擦りむいておられたかどうかは、分かりません。十七日は薄手のセーターで、袖はまくっておられませんでしたので、腕は見ておりません。前の週に教室の棚を動かすのを手伝っていただきましたが、それは九日か十日のことで、そのときも怪我はしておられなかったと思います。痛そうにしているところを見た覚えもありません。江藤先生は、生徒に配るプリントの端を、必ず三角に折る癖がありました。折ってから渡されるんです。理由を聞いたことはありません。十七日の夕方に机に出ていた分も、そうなっておりました。関係のない話でしたら、削っていただいて構いません。 十二 前回の供述と本日の供述が違っている理由をお尋ねになりましたが、思い出したから、ということであります。 (この点につき、供述人はさらに問われたが、答えなかった。)                     柏木 郁子 ㊞    以上のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名押印した。    令和八年四月八日    相模原南警察署       司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞ 供述調書 本籍  神奈川県相模原市南区〇〇 住居  本籍地に同じ 職業  高等学校生徒 氏名  江藤陽菜     平成二十年十一月生(十七歳)     身長一五四センチメートル  右の者は、令和八年三月二十六日、相模原南警察署において、本職に対し、任意次のとおり供述した。  なお、同人が十七歳であることから、本職は母江藤由紀の立会いを求めたが、同人の申出により立ち会わせていない。 一 亡くなった江藤芳文はわたしの父であります。家族は父と母とわたしの三人で、南区の借家に住んでおりました。わたしは県立の高等学校の二年で、四月から三年になります。父の仕事は学習塾ゆうゆう館相模原教室の教室長で、教室はミナミハラ・プラザという建物の四階にあります。わたしはその教室に通ったことはありません。父が家で塾の話をすることは、生徒が何人入ったという程度で、それ以上のことはほとんどありませんでした。 二 三月十五日日曜日の午後十一時三十七分に、父からメッセージのアプリで連絡がありました。文面は「ごめん」の三文字だけで、ほかには何も書いてありません。画像も、スタンプも、ついておりません。わたしはそのとき自分の部屋で起きていて、机の上に置いていた携帯電話の画面が光ったので、そのまま手に取って読みました。既読の表示がついたのは午後十一時三十八分だと思います。返事は出しておりません。何を謝られているのか分からなかったので、朝になってから聞けばいいと思って、そのまま寝ました。次の日の朝、聞いておりません。母にも見せておりません。今も消しておりません。 三 父からそういう連絡が来たのは、それが初めてであります。 四 三月十六日月曜日のことをお尋ねですので、覚えていることを申し上げます。父は塾が終わってから戸締まりをして帰るので、いつもは家に着くのが午後十一時を過ぎます。その日は、わたしがテレビで見ていた番組がまだ終わっていないうちに帰ってきましたので、午後八時より前だったと思います。玄関の鍵の音がして、階段を上がってくる音がしました。長袖の白いシャツで、上着は腕にかけておりました。夕飯は母が作った豚汁とコロッケで、父は豚汁だけ食べて、コロッケには手をつけませんでした。食べ終わったあと、自分の弁当箱を流しで洗っておりました。父が弁当箱を洗ったのを見たのは、わたしの記憶ではその一回だけであります。母がやるからいいと言いましたが、父は蛇口を止めずに最後まで洗いました。洗いながら、進路の紙はもう出したのかと聞かれました。三月十九日までに担任へ出すことになっていたので、まだ出していないと答えました。父は、そうか、とだけ言って、それ以上のことは何も言いませんでした。そのあと玄関に置いてあった鞄を開けて、鍵の束を出して、いったん鞄に戻して、もう一度出して確かめておりました。二回確かめたのは見ましたが、わたしが台所を出たあとにもう一度やっていたかどうかは分かりません。午後九時前に自分の部屋に入って、その日はもう顔を見ておりません。次の朝、わたしが起きたときには、父はもう家におりませんでした。 五 三月十七日の朝は、父と会っておりません。母の話では、六時四十分ごろに家を出たとのことです。 六 その日の夜のことを申し上げます。わたしは吹奏楽部の練習で学校に残っていて、校門を出たのが午後八時十五分ごろであります。母から着信が二回ありました。一回目は午後八時二十三分で、そのときは自転車に乗っていて、鞄の中で鳴っているのに気がつきませんでした。二回目の午後八時二十六分に出ました。母は、お父さんが仕事場で落ちたから、すぐ病院に来てほしい、と言いました。落ちた、という言い方でした。わたしは自転車を学校の駐輪場まで戻してから、バスで病院に向かいました。着いたのが午後九時十分ごろで、母と、塾の本部の方が一人おられました。その晩は父に会わせてもらえておりません。顔を見たのは次の日の昼であります。 七 父のお金のことは、わたしは何も聞いておりません。ただ、二月の初めごろに、大学は国公立にしてくれると助かる、と言われたことがあります。わたしは私立の推薦のことも考えておりましたので、そのときは分かったとは言いませんでした。父はそれきりその話をしておりません。父が亡くなったあとで、母にその話をしましたら、そんなことを言ったのか、と聞き返されました。母は聞いていなかったようであります。うちは、お金のことを三人で話す家ではありませんでした。父が財布を出すところも、あまり見た記憶がありません。 八 柏木郁子先生のことをお尋ねですので、申し上げます。柏木先生には、わたしが小学校の五年生のときに算数を教えていただきました。父が相模原教室に移る前にいた教室であります。そのあとは、年に一度か二度、駅の近くで会って挨拶をする程度であります。お通夜のときに来てくださって、最後まで残って、母と二人で台所の洗い物をしておられました。何を話しておられたかは知りません。わたしは別の部屋で、親戚の相手をしておりました。柏木先生は帰るときに、何かあったら連絡してねと言って、番号を書いた紙をわたしにくださいました。その紙はまだ持っております。 九 進路希望調査票は、三月十九日に担任へ提出いたしました。保護者の欄は母に書いてもらいました。もともとは父に書いてもらう予定でありました。担任の先生からは、事情が事情だから期限は延ばしてよいと言われましたが、そのまま出しました。 十 父が自分から落ちたのかどうかは、わたしには分かりません。そういうことをする人ではないと思いますが、わたしは父のことをそんなに知らないと思います。同じ家に住んでおりましたが、面と向かって話したのは、進路の紙のことと、ごはんのことくらいであります。「ごめん」が何のことなのかも、今も分かっておりません。分からないまま書いていただいてよいのですかとお尋ねしたところ、それでよいと言われましたので、そのとおりに申し上げました。                     江藤 陽菜 ㊞    以上のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名押印した。    なお、読み聞かせの際、同人は、三月十五日午後十一時三十二分に父からの着信が一回あり、これに応答しなかった旨を付け加えた。呼出しは六秒間であったという。右の点を第二項に加えるかを問うたところ、同人は、そのままでよい旨を申し立てた。    令和八年三月二十六日    相模原南警察署       司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞ 鑑定書  令和八年三月十八日付をもって相模原南警察署長から嘱託のあった死体解剖鑑定(相南刑第一二七号)について、下記のとおり鑑定を行ったから、その結果を報告する。  鑑定資料は、令和八年三月十七日午後八時二十七分に搬送先の医療機関において死亡が確認された江藤芳文、男性、五十二歳の死体一体、ならびに解剖に際して採取した血液、尿、胃内容および各臓器の一部である。解剖は令和八年三月十八日午前十時十分から同日午後零時五十分まで、本学法医解剖室において、嘱託者側から巡査部長山之内徹ほか一名の立会いを得て執刀した。嘱託された鑑定事項は、死因、死亡時刻、損傷の成因および受傷機転、ならびにその他参考となるべき事項の四項目である。 一 死体は搬入時、灰色の長袖ワイシャツ、同色のスラックス、黒色の靴下および革靴を着用していた。革靴は左足のみ着用しており、右足のものは現場において別途領置されている。ワイシャツの左袖は肘関節の上方まで捲り上げられた状態にあり、右袖は手首まで下ろされて釦が掛かっていた。着衣の破損および汚損は背面と右側面に集中し、左袖には破損を認めない。ポケット内には名刺入れ、五本の鍵を通した鍵束および携帯電話一台があり、いずれも解剖に先立って嘱託者に返還した。 二 身長は一七四センチメートル、体重は六十八キログラムを計測した。栄養状態は中等度である。死斑は背面および右側面に暗赤紫色に強く発現しており、指圧によって退色しない部位を含む。死体硬直は顎関節、肘関節および膝関節のいずれにも強く発現している。解剖開始時の直腸温は測定していない。搬送および冷蔵保存の経過が介在するため、死体現象から死亡時刻を推定することについては、嘱託者の示す発見時刻と矛盾しないという以上に踏み込むことができない。 三 主要な損傷は次のとおりである。頭部には右側頭部から後頭部にかけて長さ約九センチメートルの挫裂創があり、その深部において頭蓋冠から頭蓋底に及ぶ広範な骨折を認める。頭蓋腔を開くと硬膜下および蜘蛛膜下に出血があり、右大脳半球の下面はほぼ挫滅している。胸部では胸骨体部、左の第三から第十まで、右の第四から第八までの肋骨がそれぞれ骨折し、胸大動脈の峡部に長さ約三センチメートルの不完全断裂を認める。胸腔内に貯留した血液は左が約八百ミリリットル、右が約六百ミリリットルであった。腹部では肝右葉に長さ約十二センチメートルの破裂があり、腹腔内に約一千二百ミリリットルの血液を認める。骨盤輪は左仙腸関節部および恥骨結合部で離開し、右大腿骨は骨幹中央部で骨折している。以上の損傷はいずれも明瞭な生活反応を伴う。損傷の分布と骨折線の走行は、身体の右側面が先に地表に接したことを示している。 四 右の各損傷は、嘱託者の作成にかかる実況見分調書に記載された高さからの墜落によって生じたものとして矛盾しない。墜落高については当教室において計測を行っていないから、同調書記載の数値によった。 五 右の各損傷とは別に、左前腕伸側の、肘頭から遠位へ約七センチメートルの部位に、帯状の表皮剥脱一個を認める。長軸は前腕の長軸におおむね一致する。大きさは長さ四十一ミリメートル、幅六ミリメートルであり、その内部を幅一ミリメートル前後の線状痕が四条、ほぼ平行して走っている。創面は既に乾燥し、褐色調の薄い痂皮を形成している。周囲に軽度の発赤があるが、腫脹は認めない。組織学的検索において創底および創縁に好中球の浸潤を認めるから、生前に生じた損傷であると判断する。浸潤の程度、痂皮の性状および表皮基底層の再生所見を総合すると、受傷から死亡までに経過した時間は、おおむね数時間以上、二十四時間以内と推定される。本損傷は、第三項に記載した各損傷と比較して治癒過程の進行度が明らかに異なる。したがって、墜落の際に生じたものではない。 六 右の表皮剥脱の成因について。粗糙な面に前腕を接して擦過した場合にも、爪その他の平行して並ぶ硬固物によって引かれた場合にも、同様の所見を生じうる。創面を洗浄する前後にわたって実体顕微鏡下に観察したが、土砂様、塗料様、金属様その他の異物を検出しなかった。前記のとおり左袖は捲り上げられており、着衣による対応する破損も存在しないから、着衣を介して生じたものではないと考える。線状痕の間隔は約一・五ミリメートルから二ミリメートルまでの間にあり、成人の手指の爪による擦過の際に見られる間隔と重なるが、この間隔をもって成因を特定することはできない。当教室内においても、この点について意見の一致を見なかった。爪によると考えることも、縁のある金属や樹脂の面に擦れたと考えることも、同じ程度にできる。 七 血中エタノール濃度は〇・四二ミリグラム毎ミリリットルであった。この値は、体重六十八キログラムの成人男性が缶ビール一本、すなわち三百五十ミリリットルでアルコール分五パーセントのものを摂取した場合に到達しうる濃度の範囲にある。ただし飲酒から死亡までの経過時間によって最高濃度は右の値を上回っていた可能性があり、摂取量そのものを確定することはできない。この程度の濃度において、歩行、平衡感覚および判断力に明らかな障害を生じることは通常ない。嘱託事項に基づき、ブロチゾラム、ゾルピデム、エチゾラムを含む睡眠導入剤および一般薬毒物について免疫学的検査と液体クロマトグラフ質量分析による検索を行ったが、いずれも検出限界を超えて検出されなかった。 八 胃内容は約六十グラムで、米飯様および麺類様の残渣を含む。消化の程度から、最終の摂食は死亡のおおむね三時間から五時間前と推定する。 九 顔面、頸部、手掌、手背、指間および口腔内に、防御創または他者との争いを示す損傷を認めない。両手の爪は短く切られており、爪床から採取した付着物について検索したが、有意な所見を得なかった。ただし、これらの所見が存在しないことは、第三者の関与がなかったことを意味しない。実効高さが七百ミリメートルにとどまる位置において、一回の押圧または牽引によって身体が手すりを越えた場合、体表に痕跡が残らないことは十分にありうる。 十 死因は多発外傷である。 十一 以上を総合し、次のとおり鑑定する。 (一) 死因は多発外傷であり、その成因は高所からの墜落として矛盾しない。 (二) 死亡時刻は、死体現象からは特定できない。嘱託者の示す令和八年三月十七日午後七時五十二分ごろという時刻と矛盾する所見は得られなかった。 (三) 左前腕伸側の表皮剥脱は、墜落とは別の機会に、死亡前二十四時間以内に生じたものである。その成因を特定することはできない。 (四) 被鑑定人が自らの意思で手すりを越えたか、第三者の力によって転落したか、または過失によって転落したかは、死体所見からこれを判定することができない。この点について、いずれか一つを他より確からしいとする根拠を、当教室は持たない。 (附記) 嘱託者から、関係者の供述中に左前腕の受傷に関する記載が一件もない旨の教示を受けた。当教室においても、この一箇所だけは説明がつかない。断定できる所見はなく、断定できないという以上のことも言えない。左前腕の写真、番号一四から一八までの五葉を本書に添付する。  右のとおり鑑定する。           令和八年四月十三日           相陽医科大学医学部法医学教室             教授 医学博士 網野 達彦 ㊞             助教 医師   久保寺 萌 ㊞ 供述調書 本籍  静岡県沼津市〇〇 住居  神奈川県相模原市南区〇〇 職業  大学生(学習塾ゆうゆう館相模原教室アルバイト講師) 氏名  持田大輔     平成十六年十一月生(二十一歳)     身長一七六センチメートル  右の者は、令和八年五月十二日、相模原南警察署において、本職に対し、任意次のとおり供述した。 一 私は令和八年三月十九日にも同じ署で話を聞いていただき、調書を作っていただいております。本日また出頭するようにとの御連絡をいただいたのは五月九日の金曜日の午後で、そのときは大学の図書館におりまして電話に出ることができず、外に出てから折り返しました。前回の調書の内容を変えていただきたいと私の方から申し出たことは、一度もありません。 二 お尋ねの三月十七日の勤務について申し上げます。当日は火曜でありましたので、午後四時二十分ごろに四階の教室へ入っております。私の担当は中学二年生の数学で、六時十分から七時三十分までの一コマであります。生徒は五人の予定でありましたが、当日は一人が風邪で休みましたので四人でした。授業が終わったあとは、答案の丸つけと、翌週の小テストの印刷が残っておりました。印刷機は職員室の入口の横にありまして、七時三十五分ごろから使い始めましたが、二枚目でトナーの交換表示が出て止まってしまいました。予備のトナーの場所を柏木先生に伺おうと思いましたが、職員室におられませんでしたので、印刷はその日は諦めております。それで喉が渇きましたので六階へ上がりました。時計を見て上がったわけではありません。コマが七時三十分に終わって、丸つけを少しして、印刷機が止まって、それから上がりましたので、七時四十分ごろだろうと申し上げただけであります。前回の調書では七時四十分と言い切ったように書いていただいておりますが、そこは自分でもはっきりしておりません。 三 六階の自動販売機を使いましたのは、四階の機械が三月の初めから釣銭切れの表示のままになっていたからであります。 四 六階で買いましたのは微糖の缶コーヒーで、百四十円であります。百円玉一枚と十円玉四枚を入れました。財布を出すのに一度カバンを床に置いております。缶は温かい方を押しました。四階へ戻ってから職員室の自分の席で飲みましたので、缶は右手に持ったまま階段を降りております。レシートの出る機械ではありません。 五 お尋ねの、通路ですれ違った人のことを申し上げます。六階はエレベーターを降りて北側に通路があり、自動販売機はその通路の突き当たりの手前に置いてあります。突き当たりが外のデッキに出る扉で、自動販売機からは五、六メートルほど離れております。六階は空いている区画が多いためか、通路の蛍光灯が一本おきに消してありまして、明るい所と暗い所が交互になっております。私が缶を取り出して振り返ったところで、通路の奥の方から歩いてきた人と、自動販売機の少し手前ですれ違いました。距離は一メートルくらいだったと思います。私は缶が熱かったので持ち替えながら歩いており、相手も足を止めませんでしたので、すれ違っていた時間は一秒あるかないかであります。顔は見ておりません。これは前回申し上げたことと同じであります。 六 その人が女の人であったと三月十九日に申し上げなかったのは、そのときは思い出せなかったからではなく、聞かれなかったからであります。 七 本日、女の人であったかと重ねてお尋ねをいただきましたので申し上げますと、女の人だったと思います。そう思いました理由は二つあります。一つは、髪が肩より下にあったように見えたことであります。もう一つは、すれ違ったときに柔軟剤のような匂いがしたことであります。ただ、髪につきましては、その辺りは照明が一本おきに消えている暗い側でありまして、上着のフードを見間違えている可能性を否定できません。匂いにつきましても、私がその日に着ておりましたパーカーが前の晩に洗ったばかりのもので、自分の匂いを相手の匂いだと思った可能性があります。(しばらく考えた上で)今のは取り消させてください。わかりません。何度も同じことを聞かれますと、思い出しているのか、思い出したことにしているのか、自分でも区別がつかなくなります。すいません、盛ったかもしれないです。 八 その人がそのあと階段室の扉を開けたのかどうかは、見ておりませんので分かりません。 九 お尋ねの、前回の聴取のあとに誰かとこの件で話したかという点についてお答えします。四月の半ばごろ、柏木先生から一度電話がありました。五月から私の担当曜日が火曜と金曜に変わるという連絡であります。柏木先生は用件が終わってからが長い人でありまして、そのあと十分ほど、教室が閉まるかもしれないという話と、生徒の保護者からの問い合わせの話をされました。電話の終わりに、警察からまだ何か言ってきているかと聞かれましたので、何も来ておりませんと答えました。それだけであります。母には話しておりません。大学の友人には、バイト先で人が亡くなったとだけ言っております。 十 江藤先生との関係について申し上げます。授業のことで注意を受けたことはありますが、怒鳴られたようなことは一度もありません。交通費は月末締めの翌月十日払いでしたが、一月分と二月分が振り込まれておりませんでした。二月の終わりに一度お尋ねしましたところ、本部への申請が遅れているとのことでありました。金額は一月分が四千三百二十円、二月分が三千七百八十円であります。三月分と合わせて、四月の末に本部の方から振り込みがありました。時給は千百八十円でありましたが、四月から通っております別の塾は千五十円であります。江藤先生がお金のことで困っておられるという話は、私は聞いたことがありません。教室のお金を触っていたということも、こちらで伺うまで知りませんでした。 十一 江藤先生の左の腕に傷があったかどうかは分かりません。三月十七日の江藤先生は白い長袖のワイシャツで、袖はまくっておられませんでした。夏でも袖をまくらない方でありました。 十二 六階のデッキに花壇があるということは、前回こちらで写真を見せていただくまで知りませんでした。自動販売機まで行って戻るだけでありましたので、あの扉から外に出たことは一度もありません。 十三 本日お話ししたことのうち、私が間違いないと申し上げられますのは、三月十七日の夜に六階の自動販売機へ行ったことと、通路で人とすれ違ったことの二つだけであります。その人が男であったか女であったかは、分かりません。三月十九日に申し上げたことと本日申し上げたことに違っている点がありましても、本日のものが正しいということではなく、私がもう覚えていないということであります。                     持田 大輔 ㊞    以上のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名押印した。    令和八年五月十二日    相模原南警察署       司法警察員 巡査部長 山之内 徹 ㊞ 捜査報告書 相南刑発第二三九号 令和八年六月二十六日 相模原南警察署長 殿           相模原南警察署刑事課             強行犯係 司法警察員 警部補 田路 康彦 ㊞  令和八年三月十七日に当署管内において発生した江藤芳文に係る変死事案について、所要の捜査を終えたので、下記のとおり報告する。 一 当署が本件を覚知したのは令和八年三月十七日午後七時五十六分である。同日午後七時五十三分四十秒に消防の指令センターが、相模原市南区〇〇一丁目〇番〇号所在の商業ビル「ミナミハラ・プラザ」の北東側駐車場に人が倒れている旨の通報を受け、その転送を受けたものである。通報者は同ビル四階に入居する学習塾ゆうゆう館相模原教室の講師柏木郁子である。救急隊の現場到着は午後八時二分、当署員の臨場は午後八時七分であり、搬送先の病院において同日午後八時四十一分に死亡が確認された。当夜の当直は別の事案の処理に当たっており、当初に臨場した署員は二名である。 二 死亡したのは、右教室の教室長江藤芳文(五十二歳)である。 三 現場の状況は令和八年三月十八日付実況見分調書のとおりである。転落した地点は同ビル六階外周デッキの北東角と認められる。同所の手すりは床面から一、一〇〇ミリメートルであり、手すりの内側に接して設置されたコンクリート製花壇の上端は床面から四〇〇ミリメートル、花壇の上に立った場合の手すり上面までの高さは七〇〇ミリメートルとなる。デッキ床面から地表面までは二二、四〇〇ミリメートルである。手すりの笠木には、擦過による塗膜の剥離、付着物及び変形のいずれも認められない。花壇上面の土壌には、東端付近に最大二〇ミリメートル沈下した箇所が一箇所あるが、履物の底面の紋様に相当する形状は認められない。 四 司法解剖は令和八年三月十八日に〇〇大学医学部法医学教室において実施され、鑑定書は同年五月十五日付で受領した。死因は多発外傷である。転落によって生じたものと認められない損傷として、左前腕の擦過傷一箇所が指摘されており、受傷の時期は死亡前二十四時間以内とされている。血中アルコールは〇・四二ミリグラム毎ミリリットルであって、缶入りビール一本程度に相当する量である。頸部、手指及び爪に、他者との争いを示す損傷は認められない。自ら手すりを越えたか、他から力を加えられたかについては、遺体の所見のみからは判定できない旨の記載がある。 五 防犯カメラの解析結果は令和八年三月三十一日付科捜研法二第一〇七号のとおりである。五階の記録には午後七時四十八分八秒から同十四秒までの間に階段室へ入る人物一名が、七階の記録には午後七時五十一分十三秒から同十九秒までの間に階段室から出る人物一名が記録されている。前者の着衣は江藤芳文の当日の着衣と矛盾しない。後者については身長が一六〇センチメートルないし一七〇センチメートルと推定されるにとどまり、性別、頭髪の長さ及び顔貌のいずれも判別することができない。六階にカメラは設置されていない。管理会社によれば、六階を含む機器の更新工事は令和八年四月から実施する予定であった。 六 供述、通信の記録及び店舗の売上記録によって確認し得た当日の経過は次のとおりである。午後六時二十二分、同ビル一階の食料品店において、現場に遺留された空缶と同一の銘柄の缶入りビール一本が販売されている。購入者は特定できていない。午後七時十四分から同二十一分まで、清掃員森やす子が四階廊下の清掃に従事している。午後七時二十分ごろ、四階職員室において江藤芳文と柏木郁子が話をしている。午後七時三十分から同四十一分まで、森やす子が六階デッキの清掃に従事しており、同人は花壇の上端にも土の面にも異状はなかった旨を述べている。午後七時四十分ごろ、アルバイト講師持田大輔が六階の自動販売機で缶コーヒーを購入し、その帰途、六階階段室において人一名とすれ違っている。午後七時四十六分、持田大輔が四階から知人あてに送信した記録がある。午後七時四十八分八秒、五階の記録に前記の人物が現れる。午後七時五十分ごろ、柏木郁子がごみ袋二袋を持って四階を出たと述べている。午後七時五十一分十三秒、七階の記録に前記の人物が現れる。午後七時五十二分ごろ、江藤芳文が地表面に転落した。 七 遺書に相当する書面は、現場、自宅、教室及び車両のいずれからも発見されていない。 八 江藤芳文の携帯電話については、解析の結果、下書きとして保存された文書はなかった。令和八年三月十五日に長女あて「ごめん」の三文字のみの送信が一通ある。同月十三日午後四時十二分から六分間、学習塾本部の上垣潤からの着信がある。令和七年十一月以降、貸金業者と認められる番号への発信が計十一回ある。照会に回答のあった一社との間に令和七年八月付の契約が確認され、三月十七日時点の残債は五十八万四千円である。右の借入と教室の現金との関係は明らかにならなかった。 九 鑑識の結果は次のとおりである。デッキに遺留された空缶から採取した指紋は江藤芳文のものと一致した。六階階段室の扉の押板及び手すりから採取した指紋のうち対照の可能なものは四点であり、江藤芳文、持田大輔及び管理会社従業員のものと一致した。花壇上面から採取した土壌と、江藤芳文の右の靴底に付着していた土壌とは、鉱物の組成において矛盾しない。ただし当該土壌は市販の園芸用土であって広く流通しており、同人の自宅ベランダの鉢から採取した土壌との間にも、区別すべき差は認められない。 十 金銭の関係について申し添える。学習塾本部が令和六年六月以降の帳票を突合した結果、判明した差額は二百十七万円である。それ以前の綴りは本部に返還されておらず、確認できない。本部は令和八年三月十八日に相模原教室の臨時監査を予定していた。江藤芳文が右の予定を了知していたかどうかについては、監査担当者上垣潤の供述からも本部の文書からも確認できなかった。妻江藤由紀は、監査、差額及び借入のいずれについても知らなかった旨を述べている。 十一 供述の変遷について記載する。柏木郁子は三月十八日の聴取において、当日午後七時二十分の話の内容はシフトのことであると述べたが、四月八日に自ら出頭し、金銭のことも話した旨を追加している。訂正の理由については、思い出したからと述べ、それ以上は答えなかった。答えなかったことを当職は不利益に扱っていない。持田大輔は三月十九日の聴取においてすれ違った人物の顔は見ていない旨を述べていたが、五月十二日の再聴取において、女の人だったと思う旨を述べ、直後にこれを撤回している。当職の問いが誘導にわたっていた可能性を否定できない。四月十六日から五月八日までの間、管内の別件に人員を要したため、再聴取はこの時期となった。当日の在館者については、判明した四十七名から聴取又は書面による照会を行い、六階に立ち入ったと述べた者は前記の二名のほかにない。エレベーターの運行記録は、保守業者に照会したところ、異常停止の履歴のみが残る仕様であって、当日の運行は保存されていない。北側非常階段の一階扉は、二月ごろから錠が破損しており、外部からの立入りが可能であった。当該扉の修理は三月二十六日に行われている。六階にカメラがあれば、本件の多くは記録されていた。工事は四月からであった。遺族に対しては六月二十四日に捜査の結果を説明し、携帯電話及び手帳を還付した。その際、左前腕の傷について重ねて質問を受けたが、答えることができなかった。なお柏木郁子は、四月三十日付で同教室を退職している。 十二 以上により、江藤芳文が自ら手すりを越えた可能性と、花壇に足をかけた際に均衡を失った可能性とがいずれも残り、第三者が関与したことを示す証拠は得られていない。犯罪の嫌疑を認めるに足りないものと思料し、被疑者不詳のまま捜査を終結する。捜査を尽くしたということと、明らかになったということとは、同じではない。未解明のまま残る点は次の三点である。  (一) 午後七時五十一分十三秒に七階に記録された人物が何者であるか、また同人が直前に六階へ立ち入ったかどうかが、いずれも明らかでない。推定された身長の範囲には、聴取した者のうち柏木郁子(一六三センチメートル)が含まれる。ただし当日の在館者は右のほかにも多数あり、身長の範囲のみによって人物を限定することはできない。同時刻に同人が七階にいたことを示す資料は得られていない。  (二) 花壇上面の土壌の沈下一箇所が、いつ、何によって生じたかが明らかでない。清掃員が六階デッキを離れた午後七時四十一分の時点で異状はなかったとされるが、同人は立ったまま上方から見たにとどまる旨を述べており、転落までの十一分間について記録も供述もない。  (三) 左前腕の擦過傷の成因が明らかでない。死亡前二十四時間以内の受傷であるが、この間に同人と接触した者のいずれからも、同人が腕を擦りむいたとする供述は得られていない。    右のとおり報告する。    令和八年六月二十六日    相模原南警察署刑事課       強行犯係 司法警察員 警部補 田路 康彦 ㊞

この投稿を通報