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小説 · text · 2026-09-06

最後の夏服

月瀬 灯 →無料で読む ↓
最後の夏服のカバー
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一 六センチ 制服は、身体より長く学校に残る。三年着た生徒が卒業しても、ボタンを替え、襟の汗染みを抜き、資料番号を縫いつければ、次の誰かが昔の形として見る。浜丘高校が三月で閉校すると決まった年、被服部は歴代制服展を任された。冬のセーラー服、男子用の詰襟、平成のブレザー。校史資料室と同窓会から集めた二十七着を年代順に並べ、最後に現在の制服を置く。私と三木理子は、夏休みのほとんどを被服室で過ごした。 「これ、昨日より長くない?」 理子が言ったのは、二〇〇四年度の夏服だった。白い半袖ブラウスと、紺のプリーツスカート。見た目は現行とほとんど同じだが、襟の角度が少し狭く、胸ポケットに灰色の縁取りがある。 私は展示台帳を見た。 〈資料番号D-04-3。ブラウス丈六十一センチ。スカート丈五十七センチ〉 巻尺を当てる。 ブラウスは六十七センチあった。 「私たち、測り間違えた?」 「二人で三回測った」 裾を裏返すと、縫い代が六センチ出されていた。元のミシン目は残り、新しい縫い目は細かい。布を切らず、折り込まれていた分だけ丈を戻している。 「田代さんが補修したんじゃない」 文化祭実行委員会は、古い制服の傷みを直すため、町の仕立師へ仕事を頼んでいた。田代玲子。商店街の二階で〈たしろ洋装〉を営み、卒業式の裾上げや演劇部の衣装を引き受けている。 「補修指示は、ほつれとボタンだけ」 私は作業票を確認した。「寸法は変えない契約」理子はブラウスをトルソーへ着せ直した。肩が落ち、裾が腰骨を越える。昨日までより、明らかに大きい。被服室の鍵を持つのは、顧問の富樫先生、教頭、用務員。私たち部員は職員室で借り、帰るときに返す。窓は三階で、内側から閉まっていた。 「怪談にする?」理子が言った。「閉校前、制服が昔の持ち主を探して伸びる」 「誰が信じるの」 「一年生」 「もう入ってこないよ」 今年、浜丘高校は新入生を取らなかった。二年生と三年生が卒業すれば、八十二年続いた名前が消える。私は新しい寸法を台帳へ書き、日付を入れた。翌朝、別の夏服の袖が四センチ短くなっていた。 二 九着 二〇〇四年度の夏服は九着あった。ほかの年代は一着か二着なのに、その年だけ多い。資料札には〈被服実習製作品〉とあり、生徒が授業で作った見本と説明されている。三日目には、三着目の脇が左右二センチずつ詰められた。四日目には、四着目の肩幅が広がった。どれも布は切られていない。古い縫い代をほどき、別の位置で縫い直している。元へ戻すことはできる。それでも学校の備品を許可なく変えれば、破損扱いになる。 縫い方も、毎回同じではなかった。一着目の裾は、表から針目がほとんど見えない流しまつり。二着目の袖は丈夫な千鳥がけ。三着目の脇は家庭用ミシン、四着目の肩は手縫いで仮止めしてから工業用ミシンをかけてある。 「同じ人が直してない?」と理子が言った。 「針目は同じ」 糸を引く力と、返し縫いの長さに癖がある。方法を変えても、縫った手は同じだった。 「元の持ち主の縫い方を再現してるのかも」 被服実習なら、課題ごとに仕上げ方が決められる。けれど九人が自分用に作ったのなら、先生に直されたところと、自分で最後まで縫ったところが混ざる。侵入者は寸法だけでなく、どの糸をどの方法で戻すかも知っていた。富樫先生は、文化祭実行委員へ報告しようと言った。 「展示を中止されたら困ります」 「だから黙る、は通らないでしょう」 「犯人を見つけて戻せばいいです」 自分で言ってから、学校の先生にいちばん嫌われる台詞だと思った。富樫先生は四十歳で、被服の専門ではない。家庭科教員が不足し、去年まで保健体育を教えていた先生が顧問になった。ミシンの下糸を替えるときは私を呼ぶ。 「文化祭まで十日。三日だけ待つ」と先生は言った。「次に切られたら、すぐ報告する」 犯人は布を切らない。 それを知っている言い方だったのか、ただの偶然か。理子が先生を疑う目をした。 私たちは九着の裏側を調べた。 縫い代には、色の違う小さな印がある。青、桃、緑、黄土。洗えば消えるはずのチャコが、折り目の中だけ薄く残っていた。一着目の新しい裾は青い線。二着目の袖は桃色。三着目の脇は緑。侵入者は、適当にサイズを変えているのではない。二十二年前につけられた印へ、縫い目を戻している。 「持ち主の寸法かな」と理子が言った。 「見本なら、持ち主はいない」 「生徒が作ったんでしょう。自分用に」 校史資料の説明には、誰が縫ったか書かれていなかった。二〇〇四年の卒業アルバムを開いた。三年生は百八十七人。被服部の集合写真には十五人いる。九着と結びつく名前はない。 「卒業生名簿で、洋裁関係の人を探す?」 「百八十七人に電話するの?」 「閉校記念の同窓会名簿、住所もあるよ」 理子は、できないことを言うときほど楽しそうだった。私は制服のポケットへ手を入れた。一着目の底に、白い糸が引っかかっている。引くと、布の隙間から小さな紙片が出てきた。 〈胸囲78 背丈39 袖24 ミナ〉 卒業名簿に、ミナという名前はなかった。 三 採寸表 資料室の棚は、卒業年度で分かれていた。出席簿、成績会議録、学校新聞。保存期限を過ぎた文書も、閉校が決まってから処分を止めてある。捨てるか資料館へ送るか、教育委員会が判断する予定だった。二〇〇四年度の箱から、〈技能連携被服実習〉という薄いファイルが見つかった。浜丘高校には二〇〇一年から五年間、地元の縫製会社と組んだコースがあった。午前は学校で普通教科を学び、午後は東浜縫製の工場で実習する。賃金ではなく、実習単位が与えられる。九人分の採寸表が綴じられていた。 小寺美奈。胸囲七十八、背丈三十九、袖二十四。 紙片の〈ミナ〉と一致する。 ほかに、阿部早苗、呉愛琳、藤森千秋、野々村景子、古賀聡美、立石由香、尾崎明日香、田代玲子。九人の名前を卒業名簿で検索した。 一人もいない。 転校者の一覧にもなかった。在籍簿では、二〇〇四年十二月二十日付で全員が自主退学となっている。 「同じ日に九人?」理子が言った。 「工場のコースがなくなったんじゃない」 「なくなっても、普通科へ移ればいい」 出席簿は十二月以降も続いていた。小寺、阿部、呉。三月四日まで九人の印がある。成績も学年末までついている。在籍していない生徒が、授業へ出ていた。ファイルの最後に、退学届が九枚あった。理由はすべて〈一身上の都合〉。筆跡は違うが、保護者欄の印鑑だけが同じ朱色で、欠け方まで同じだった。 「これ、偽物?」 「分からない」 「九人の家が同じ判子を持ってるわけない」 退学の処理日は十二月。届出用紙の右下には、翌年一月に改訂された校章が印刷されていた。書類は、書かれた日より後に作られている。 廊下で足音がした。 私たちはファイルを閉じた。 入ってきたのは教頭だった。資料室の鍵を借りた理由を訊かれ、制服の年代確認と答えた。 「生徒だけで古い個人記録を見てはいけない」 教頭はファイルの背を見た。「それは廃棄予定だ。棚へ戻しなさい」 「九人は、どうして卒業名簿にいないんですか」 「二十年以上前のことは分からない」 「出席簿では三月までいます」 教頭の目が、一瞬だけ退学届の挟まった位置へ動いた。 「文化祭に関係のない調査はやめなさい」 教頭はファイルを持って出ていった。翌日、資料室の棚から二〇〇四年度の箱がなくなった。 四 田代玲子 〈たしろ洋装〉は、学校から歩いて十五分の商店街にある。 一階は空き店舗で、外階段を上ると、曇ったガラス戸に小さく店名が書いてある。中には工業用ミシンが二台、裁断台が一つ。壁のハンガーに、裾上げを待つ制服が並んでいた。田代玲子は、私たちを見ると作業の手を止めた。 「学校の補修なら、昨日納品したけど」 「二〇〇四年の夏服を直しましたか」 「ボタンを三つ替えた。襟ぐりのほつれを一箇所」 「サイズは?」 「触ってない」 玲子は三十九歳。採寸表の田代玲子が当時十七歳なら、年齢が合う。 「浜丘の卒業生ですか」 「違う」 返事が早かった。 私はポケットから、制服の縫い代に残っていた糸を出した。生成り色で、少し毛羽立っている。 「今、この糸を使いますか」 玲子は触れずに見た。 「しつけ用の綿糸。今も売ってる」 「田代さんの店にありますか」 「何を疑ってるの」 理子が、毎晩制服のサイズが変わることを話した。玲子は笑わなかった。 「戻せる?」と訊いた。 「できます」 「なら、まだ服は壊れてない」 「学校の備品です」 「着る人のために作った服を、誰も着ない備品にしたのは学校でしょう」 玲子は作業台の布を畳んだ。 「帰って。先生に言われた仕事以外は答えない」 外階段を下りると、理子が小声で言った。 「犯人だね」 「名前が同じだけ」 「年齢も。糸も知ってた」 「仕立師なら知ってる」 「服を壊してないって言った」 それは私も引っかかっていた。 学校へ戻る途中、理子はスマートフォンで田代玲子を検索した。店の紹介、商工会の名簿。浜丘高校との関係は出ない。代わりに、二〇〇五年一月の地方紙の記事が見つかった。 〈東浜縫製、実習生の受け入れを停止〉 記事は小さかった。業績悪化のため、学校との技能連携を解消。生徒は全員、本人の希望で退学したとある。その下に、もっと小さな訂正があった。 〈前号記事中「本人の希望」は、学校発表によるものです〉 誰が訂正を求めたのかは書かれていなかった。 五 夜の被服室 五着目が変わる夜、私たちは被服室に残った。富樫先生には、文化祭の縫い物が終わらないと嘘をついた。午後八時、先生が見回りに来たときは机へ布を広げ、九時の施錠前に廊下へ出るふりをした。被服室の奥に、舞台衣装庫がある。体育館の演劇で使った甲冑、昭和の看護服、紙で作った大木。私と理子は衣装の間へ隠れた。 「犯人が包丁を持ってたらどうする?」 「仕立師なら裁ち鋏」 「そっちの方が怖い」 十時を過ぎると、学校は別の建物になった。昼は気にならない冷蔵庫の音が、廊下の向こうから聞こえる。配管が鳴り、理子が私の袖を掴んだ。スマートフォンの画面を最低の明るさにして、時間だけを見る。 午前零時十二分。 衣装庫の奥で、木が擦れる音がした。壁だと思っていたベニヤ板が動いた。細い隙間から人が入り、板を元へ戻す。懐中電灯は使わない。被服室の常夜灯だけで、夏服のハンガーへ向かった。 田代玲子だった。 玲子は五着目を作業台へ置き、裁縫箱を開いた。糸を切る小さな鋏、目打ち、指貫。縫い目を一つずつほどく。 私たちは衣装庫から出た。 「田代さん」 玲子の手は止まったが、驚かなかった。 「帰りなさい」 「どこから入ったんですか」 「旧講堂の搬入口。舞台衣装を運ぶために、昔はここまで廊下がつながってた」 ベニヤ板の向こうは細い倉庫になり、体育館裏の外扉へ続く。閉校準備で図面を見るまで、先生たちも知らなかった通路だという。 「学校の鍵は?」 「補修業者として預かった」 「なぜ夜に」 「昼にやれば、止められるから」 玲子は五着目の縫い代を開いた。黄土色のチャコ線が出てくる。 「これは古賀さんの寸法?」 私が訊くと、初めて玲子の顔が変わった。 「採寸表を見たの」 「九人は三月まで学校にいた。退学届はあとで作られた」 玲子は針へ糸を通した。 「だから何」 「卒業できなかったんですか」 「卒業させなかった」 針は黄土色の線へ入った。 六 冬の退学 東浜縫製では、浜丘高校の夏服を作っていた。技能連携コースの九人は、午後一時から五時まで実習する契約だった。繁忙期は七時まで。十一月からは、夜十時を越える日が続いた。 「授業だから残業じゃない、と工場は言った」 玲子は縫いながら話した。「学校は、現場でしか学べない技術だって」製品になった制服は県の共同購入へ納められた。九人に賃金は出ず、実習単位だけがついた。最初の半年、九人は工場へ行くのを楽しみにしていた。学校のミシンは八台中三台が故障していたが、工場の本縫い機は踏んだ分だけ素直に進む。裁断台は布を一反広げても余り、蒸気アイロンは一度で折り目をつけた。美奈は型紙を引くのがいちばん速く、愛琳は直線縫いで針目を乱さなかった。早苗はポケットの角だけ必ず丸くした。検品では規格違反になるので、出荷品は先生がほどいた。自分たちの夏服にだけ、その丸いポケットを残した。 玲子は、九人の中で縫うのがいちばん遅かった。 「え」と理子が声を出した。 「今うまい人が、最初からうまいと思わないで」 玲子はボタンホールを三度失敗し、前立てを作り直した。布が足りなくなり、美奈が自分の余り布を渡した。九着のうち玲子の一着だけ、右と左で白の色がほんの少し違う。文化祭で自分たちの夏服を着る予定だった。九人で同じ型を使い、襟の内側に好きな色の糸を一本だけ縫い込んだ。制服として外からは見えず、裏返せば誰の物か分かる。 「あのチャコの色?」と私は訊いた。 「そう。洗えば消えると思ってた」 九人は完成前に工場へ行かなくなった。袖や裾を仮縫いしたまま、服は被服室の棚へ置かれた。十二月、小寺美奈が裁断機で左手の薬指を切った。救急車を呼べば、未成年を夜まで働かせていたことが分かる。工場長は自分の車で病院へ運び、個人的な怪我として処理するよう求めた。 九人は拒否した。 翌日から全員で実習へ行かず、学校の被服室に集まった。工場の時間外作業と賃金について、労働基準監督署へ説明した。 「先生たちも味方になった?」 理子が訊いた。 「担任はなった。校長と県は違った」 技能連携コースは、正規の職業訓練として必要な届出をしていなかった。学校が生徒を工場へ派遣し、製品を作らせていたと認定されれば、県の制服契約と補助金に問題が出る。学校は、九人が十二月で自主退学したことにした。 「でも三月まで授業に出てる」 「担任が、せめて単位だけは取らせようとした。名前を出席簿に残した。卒業式の日も、私たちは被服室にいた」 卒業証書はなかった。 担任は卒業名簿の余白へ九人の名前を書いたが、校長がその頁を外した。九人が自分用に縫っていた夏服は、工場の所有物だとされた。工場が倒産したあと学校へ戻り、誰が作ったかを消して実習見本になった。 「小寺さんの指は?」 「曲がらなくなった。縫製の仕事には就かなかった」 「田代さんは続けた」 玲子は針を止めた。 「卒業してないから、専門学校へは行けなかった。洋装店で十年働いて、技能検定を取った」 五着目の裾ができあがった。玲子はアイロンを当て、線を落ち着かせる。 「九人全員のサイズへ戻すんですか」 「返事が来た順に」 玲子は携帯電話を見せた。七人分の短いメッセージ。 〈袖を二十四へ〉 〈あの頃より長めだったと思う〉 〈好きにして〉 一人だけ、返信がない。 「文化祭で名前を出す?」 「出さない。会いにも来ない人がいる」 「じゃあ、なぜ」 「服が学校の見本になる前に、一度だけ、着るはずだった人の形へ戻す」 「展示が終わったら?」 「元の寸法へ戻す」 玲子は、正しいことをしている顔をしなかった。夜の学校へ侵入し、備品を無断で変えている。文化祭で誰も気づかなければ、九着はまた匿名の見本へ戻る。 「それで何が変わるんですか」と私は訊いた。 「私が縫ったという事実だけ」 廊下の非常灯が消えた。 時刻は午前一時だった。 七 学校のもの 被服室の扉が開いた。 富樫先生が立っていた。ジャージの上に薄いコートを着て、片手に職員室の鍵束を持っている。 「三日だけ待つと言ったよね」 「まだ三日目です」と理子が言った。 「午前一時は四日目」 先生は玲子を見た。「田代さん、作業をやめてください」玲子は針を布から抜き、五着目を畳んだ。富樫先生は、私たちが夜まで残ると初めから疑っていた。帰ったふりをして校門の外で待ち、零時過ぎに戻ったという。 「警察を呼びますか」と玲子が訊いた。 「教頭へ報告します」 「同じことです」 午前二時、教頭と警備会社の担当者が来た。旧搬入口は施錠され、玲子が持っていた鍵を回収された。五着の夏服は透明な衣装袋へ入れられ、校長室の保管庫へ移された。私と理子は、保護者が迎えに来るまで進路指導室で待たされた。母は、私の顔を見る前に富樫先生へ頭を下げた。夜中に学校へ隠れた理由を聞いても、最初は怒らなかった。その方が怖かった。 「警察に捕まるかもしれないことなの?」 「田代さんは不法侵入になるかも。私は残ってただけ」 「だけ、って言わない」 母はそれから、先生たちへ黙っていたのは悪いこと、古い書類を勝手に見たのも悪いこと、でも見つけたことまでなかったことにする必要はない、と順番に言った。 家へ帰ったのは三時だった。 翌日、私たちは校長室へ呼ばれた。校長、教頭、富樫先生、文化祭実行委員長。机の上に九着の資料台帳がある。 「この制服は県の備品です」と校長が言った。「寸法を変えることも、個人のものだと主張することも認められない」 「九人が自分の寸法で作った服です」 「実習の成果物は学校に帰属する契約だった」 「契約を見たんですか」 校長は答えなかった。 二〇〇四年度の技能連携ファイルは教育委員会へ送ったという。廃棄予定だったのではないかと訊くと、個人情報を保護するためだと説明された。 「九人が卒業していないことを、文化祭で扱うのは個人情報ですか」 「実名を出さなくても、当時の関係者には分かる」 「学校が退学届をあとから作ったことも?」 校長は、推測を事実のように言ってはいけないと注意した。退学届の用紙の日付と印鑑の欠けは、推測ではない。けれど原本はもう私たちの手元にない。 九着の展示は中止になった。 玲子との補修契約も解除された。 「ほかの制服だけで、歴代展を続けてください」と実行委員長が言った。「閉校式に問題を起こしたくないんです」 文化祭まで六日だった。 八 戻さない一着 玲子の店は閉まっていた。 外階段の下で待っていると、夕方、玲子が紙袋を持って戻った。学校から返却された裁縫道具だという。 「あなたたちのせいじゃない」と最初に言った。 「見つかるように縫ってたでしょう」と理子が返した。「チャコの色も、紙片も残して」 「見つけても、先生へ言うと思ってた」 「私たちを使った?」 玲子は否定しなかった。 夜中に八着を直し、文化祭の朝までに元へ戻す。一着ごとに写真を撮り、九人へ送る。それだけのつもりだった。だが採寸表が学校に残っていると知り、被服部員なら気づくかもしれないと思った。 「正しいことなら、自分で公表すればいい」と理子が言った。 「正しいことか、九人で同じ答えにならなかった」 玲子は携帯電話の画面を見せた。八人目からの返信が届いていた。 〈私は戻さないでください。名前も寸法も出さないで。あの服を着たかったと思わない〉 小寺美奈だった。 「怪我をした人?」 玲子は頷いた。 美奈は現在、県外の物流会社で事務職をしている。夫にも子どもにも、工場実習のことを詳しく話していない。左手の薬指は、小学生の頃の怪我だと説明してきた。 「嘘を守りたいんじゃない」と玲子は言った。「説明する相手と時期を、自分で決めたいんだと思う」 「でも学校は、それを利用して黙るよ」 理子は納得しなかった。 「一人が嫌だと言えば、八人のことも出せないの?」 「一人の名前を隠して、八人だけ出せば、誰が嫌だと言ったか分かる」 「じゃあ全員、またいなかったことになる」 「名前を出すことだけが、いた証明じゃない」 二人の声が大きくなった。 私は、どちらに賛成かすぐ決められなかった。学校が隠したことを、本人が望む沈黙と同じにしてはいけない。けれど、公表する側が正しいからといって、他人の過去を開けていいわけでもない。 「寸法だけなら?」 私は言った。 「名前と、誰の寸法か分かる色を外す。九人がいたこと、九着を作ったこと、同じ日に退学扱いになったこと。個人を当てる展示にしない」 玲子は考えた。 「美奈に訊く」 翌日の夜、玲子から店へ来るよう連絡があった。小寺美奈とは、画面をつながず音声だけで話した。玲子は私たちの名前と展示案を説明し、録音しないことを最初に約束した。 「九人いた、までは出していいです」と美奈は言った。「私が怪我をしたことは出さないで」 「労災が隠された事実を説明できなくなります」と理子が言った。 「別の人の話としてなら書ける?」 「誰か一人が怪我をした、なら」 「それでお願いします」 美奈の声は穏やかだった。怒っている人の声を予想していた自分が恥ずかしくなった。 「どうして、一着を元へ戻したくないんですか」 私は訊いた。 電話の向こうで、少し時間が空いた。 「あの採寸は、怪我をする前の手で測った数字です。あの服を着れば、卒業式に出られたかもしれない。でも私は、あの頃の身体へ戻りたいわけじゃない」 美奈は怪我のあと、左手を隠すため、袖口をいつも強く握っていた。仮縫いの夏服も、左袖だけ一センチ長く直そうとした。採寸表の数字へ戻せば、その直しまでなかったことになる。 「学校は、私たちが生徒だったことを消した。今度は、きれいだった頃の生徒に戻されるのが嫌なんです」 「じゃあ今の寸法に直しますか」 「制服は着ません。今の寸法は、今の服のためにあります」 理子は、しばらく何も言わなかった。 「九着目を空白にしてもいいですか」と訊いた。 「空白なら、私だと分かりませんか」 「八着とも名前を出しません。どの一着が誰か分からなくします」 「だったら」 美奈はそこで、初めて少し笑ったようだった。「何も縫わないでください」理子は、学校が許さないと言った。 「許可される案を考えてない」 「また夜中に入るの?」 「それはもうしない」 私は初めて、理子より先に規則を破る話をした。 九 九人分の空気 九着の制服は校長室にある。 取り戻せないなら、服を展示しない展示を作る。被服室に残ったトルソーを九体並べ、白い薄布だけをかけた。採寸表の数字を直接使わず、直された五着を測った記録から、肩、胸、袖、丈の位置へ細い縫い糸を渡す。六着目から八着目は、玲子が返信を見せてくれた。本人の了承が取れた寸法だけを使う。 九着目には糸を張らなかった。 空白のトルソーへ、同じ白布をまっすぐ掛けた。 展示文を、私は書いた。 〈二〇〇四年度、技能連携被服実習の採寸表には九人が記録されています。出席簿では三月まで授業へ参加し、在籍簿では前年十二月に全員が自主退学となっています。九着の夏服は、その後、制作者名のない学校資料になりました〉 理子は最後に一文を足した。 〈九人の実名は、本人全員の同意を確認できないため展示しません〉 「学校みたいな文章」と私が言った。 「個人情報を守ってるから」 皮肉ではなかった。 退学届の偽造とは書かなかった。用紙の改訂時期と印鑑については、教育委員会が原本を調べるまで断定できない。代わりに、私たちが測った制服の縫い代と、資料台帳の記載を写真にした。富樫先生は、展示案を見て頭を抱えた。 「これを出せば、被服部の公式展示ではいられない」 「公式じゃなくていいです」 「文化祭の教室は、学校が貸すものだよ」 理子が、では校門の外でやると言った。県道沿いの歩道は狭く、九体のトルソーを置けない。雨が降れば布も濡れる。実際には無理だった。富樫先生は展示文を三回読んだ。 「顧問として許可は出せない」 「はい」 「鍵を閉め忘れることはあるかもしれない」 先生は被服室を出た。 扉の鍵は、机の上に置かれたままだった。 十 文化祭前夜 九体のトルソーを展示室へ運んだのは、文化祭前日の午後七時だった。ほかの部活は準備を終え、体育館で軽音部が音合わせをしている。廊下には絵の具と模擬店の油の匂いが混じっていた。私たちは歴代制服展の奥、九着分が空いた場所へトルソーを並べた。校長室の夏服を持ち出してはいない。名前もない。学校の備品を壊してもいない。それでも、見つかれば撤去される。 「閉校するのに、停学ってあるかな」と理子が訊いた。 「卒業延期」 「それは困る」 「町を出るから?」 理子は来年、京都の服飾専門学校へ行く。私は市内の短期大学へ進む。小学生から同じクラスだったが、四月からは電車で三時間離れる。 「真帆は、卒業したい?」 「するでしょう。閉校するんだから」 「そうじゃなくて、ここから出たい?」 私は糸の高さを直した。 浜丘高校が好きだったわけではない。制服は暑く、校則は細かい。被服室に残った理由の半分は、理子がいたからだ。けれど、なくなると決まってから好きだったことにするのも違うと思った。 「出るよ。好きでも嫌いでも」 「答えになってない」 「理子も、服が好きだから進学するの?」 「好きじゃなくなっても、作れるようになりたい」 私たちは同じことを言っていた。理子は白布の端を折り、待針で留めた。いつもなら私が曲がっていると言い、理子が引き抜いて留め直す。けれどその夜は、二人とも一本目の針を見たまま動かなかった。 「卒業したら、このことを書いていいと思う?」 「どこに」 「服飾学校の課題とか。九着のこと」 私は、書けばいい、と言いかけた。私たちは証拠を見つけ、展示を作った。その経験まで学校のものではない。けれど、理子が書きたい九着の中には、美奈が戻したくない一着もある。 「誰の話か分からない形なら」 「そうすると、私の手柄みたいにならない?」 「手柄にしなければいい」 「課題は評価されるために出すんだよ」 理子は笑わなかった。 私は、今夜の写真を撮らないことにした。記録がなければ、あとで説明できないことが増える。それでも、他人の沈黙を材料にして私たちだけが前へ進むのは違うと思った。理子もスマートフォンを鞄へしまった。 「忘れないことと、使わないことは、両立するかな」 「たぶん。できなかったら、そのとき謝る」 「誰に?」 「忘れなかった人に」 理子はようやく、曲がった待針を抜いた。 午後九時、玲子が来た。 正式な入校許可はないので、校門の外から窓越しに展示を見た。八人から、匿名展示への同意が届いたという。美奈も、九人いたという事実だけなら構わないと返事をした。 「一着だけ戻さなかった意味は、書かないで」と玲子は言った。 「書きません」 「本人が拒んだことも」 「はい」 隠すことになった。 学校がしたのと同じようで、違う理由だと信じるしかなかった。理子はガラス越しに、掌を上げた。玲子も上げた。触れない手が同じ位置に重なった。 十一 九着目 文化祭の朝、九体はまだ立っていた。富樫先生が見回り順を最後にしたらしい。校長と教頭が来たのは、一般公開が始まって二十分後だった。すでに卒業生や保護者が白布のまわりへ集まり、糸で描かれた肩や袖を、触れずに見ていた。 「直ちに閉めなさい」 教頭の声で、展示室が静かになった。 「理由も貼ってください」と理子が言った。 「無許可展示だからだ」 「それなら、そう書きます」 教頭が一体目の白布へ手を伸ばしたとき、胸に同窓会の来場証をつけた女性が、その手首を掴んだ。 「触らないで」 田代さんではない。初めて見る人だった。 「この肩は、私が測ったの」 女性は二体目を指した。採寸表にあった阿部早苗という名を、自分の口で言った。 「私の肩幅は、こんなに広くなかった。玲子、間違えてる」 窓の外に田代さんがいた。校門の外から、口元だけで、ごめん、と言った。早苗さんは笑い、二本の糸を指でつまんで内側へ寄せた。その場で名乗ったのは彼女だけだった。昼過ぎ、呉愛琳さんから田代さんへ電話があった。匿名でも町の人には分かる。自分の形を外してほしいという。 「どれですか」と訊くこと自体が、誰の身体かを特定することになる。私たちは展示室の外へ出て、田代さんだけが電話を聞いた。戻ってきた彼女は、一番奥を見た。 理子と二人で、糸を外した。 胸の横糸。肩から袖へ下る糸。腰までの丈。一本抜くごとに白布は身体をやめ、ただ掛けられた布へ戻っていった。トルソーも衝立の裏へ運んだ。九人と書かれているのに、立っているのは八体になった。 「数が合わないじゃないか」 来場者の男性が言った。二〇〇四年度の卒業生だという。 「一人が外してほしいと言いました」 「それじゃ学校の思うつぼだろう。いなかったことにされる」 私は答えられなかった。理子が新しい紙に、午後一時四十分、とだけ書いた。 「なぜ外したかは?」と男性が訊いた。 「書きません」 「誰が言ったかも?」 「書きません」 理子は紙を九人という文字の下へ貼った。説明のない時刻だけが残った。学校が空白を作れば、隠したことになる。本人が空白を選べば、それは本人のものだ。見た目では区別がつかない。そのことが、私は怖かった。男性は長い間その紙を見ていた。それから、卒業式の日、被服室の窓だけ灯っていたことを覚えていると言った。校長は展示を閉めるよう富樫先生へ命じた。 先生は入口の赤い紙を剥がし、裏返した。油性ペンを取り出し、〈学校非公認〉と書いて貼り直した。 「これで閉めました」と言った。 教頭が先生の名を呼んだ。先生は聞こえないふりをして、実習机の脚を直した。午後三時、早苗さんは帰る前に、二体目の肩の糸を元の位置へ戻した。 「さっきは見栄を張った。十七のときも、これくらいあった」 「直さなくていいんですか」 「いいの。玲子が覚えてた方で」 彼女は白布の脇に手を入れた。そこへ腕があるように、肘の辺りを軽く叩いた。 「着たかったなあ」 小さな声だった。 私は写真を撮らなかった。 夕方、最後の客が出るまで八体は残った。衝立の向こうには、九体目が誰にも見えないまま立っていた。 十二 最後の縫い代 三月、卒業式の日は雪になった。式のあと、理子と被服室へ行った。トルソーは運び出され、ミシンには白い布がかかっている。文化祭の調査がどうなったか、学校は私たちへ教えなかった。田代さんからも、その後九人全員が同じ答えを選んだわけではない、とだけ聞いた。理子はロッカーから自分の夏服を出した。 「これ、ほどいていいと思う?」 「自分のなら」 「田代さんと同じこと言うね」 商店街の店まで歩いた。シャッターの降りた店が増え、〈たしろ洋装〉の階段にも雪が薄く積もっていた。田代さんは理子の夏服を裏返した。 「縫い代、ほとんど切られてる」 大量生産の現行制服は、昔より余分な布が少ない。身体が変われば、買い直す前提で作られている。 「専門学校の課題に使いたいんです。別の服にしてもいい?」 「着た人が決めればいい」 理子はその場で袖を外し始めた。卒業した日に制服へ鋏を入れるのは、思ったより大きな音がした。私は自分の夏服を膝へ広げた。母は記念に取っておけばと言った。学校の資料室には新品が一着残る。私の汗染みや、理子がふざけて付けた袖裏の赤い糸まで保存する人はいない。裾を少しほどき、正方形を二枚取った。 何にするの、と理子が訊いた。 「まだ決めてない」 田代さんは、決まってから切ればよかったのに、と笑った。三人で小さな巾着を縫った。口を絞る紐だけ青にした。制服の形はなくなったが、胸ポケットの灰色の縁を片側へ残した。駅で理子と別れた。彼女はほどいた夏服を持って京都へ行き、私は何を入れるか決めていない袋を持ち帰った。泣かなかったし、毎日連絡するとも言わなかった。家で巾着を裏返すと、縫い代に青いチャコの線が残っていた。田代さんが引いたのか、理子なのか、自分なのか分からない。 洗えば消える。 私は水を張った洗面器へ袋を入れた。青はすぐには消えず、薄く滲んで、白い布の別の場所へ移った。

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