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小説 · text · 2026-09-06

庭師は雪を数えない

月瀬 灯

一 真壁源造が最初に見たのは、足跡がないことではなかった。 赤松の三番枝から雪が落ちている。それも、夜半に降った粉雪ではなく、明け方の湿った雪を巻き込んで、下の苔を楕円に露出させていた。枝の付け根には新しい裂け目がある。去年の冬、鉄線を一本増やしておくべきだった、と源造は思った。 七十四歳になっても、庭へ出たとき最初に考えるのは仕事の遅れだった。 母屋の縁側から、榊隆文が呼んだ。 「真壁さん、こっちです。庭はあとでいい」 声がひっくり返っていた。隆文は紺のカーディガンの上に外套だけを羽織り、裸足で濡れ縁に立っていた。十年前に榊家の当主となってから、彼が人前で裸足を見せたことはない。 源造は竹箒を雪へ伏せ、長靴を脱いだ。 離れの夕坐敷には、榊家が〈雪見観音〉と呼ぶ木像が安置されている。像高は一尺五寸ほど。片膝を立て、右手を頬へ添えた姿が、庭の雪を眺めているように見えることから、そう呼ばれてきた。地方仏としては珍しく、春から県立博物館へ貸し出される予定だった。 その観音が、台座から消えていた。 座敷の障子は閉まり、欄間の小窓には内側から掛け金が下りている。廊下側の杉戸にも損傷はない。錠前は古いが、昨夜、家政婦の越智澄江が施錠し、鍵を母屋の金庫へ戻したという。 黒漆の台座には、像の底と同じ形の薄い埃だけが残っていた。 「警察には?」 源造が訊くと、隆文はすでに呼んだと答えた。返事をしながらも、目は空になった台座から離れない。 「夜のうちに盗まれた。だが見てください。雪ですよ」 庭は離れの縁まで白く埋まっていた。飛び石にも、蹲踞にも、築地塀の内側にも、人が踏んだ跡はない。母屋と離れをつなぐ渡り廊下には昨夜から内鍵が掛かり、鍵を持っていたのは隆文だけだった。 「雪は何時からです」 「九時過ぎから、ずっとです。天気台帳をつけているでしょう」 源造は返事をしなかった。 庭師は雪をセンチで見ない。雪囲いの縄がどれだけ沈んだか、椿の葉がいつ裏返ったか、竹がどの方角へ頭を垂れたかを見る。同じ白でも、九時の雪と明け方の雪では重さが違う。 黒漆の台座の手前に、小さな水滴が一つあった。源造が屈むと、隆文もようやく気づいた。 「濡れている」 源造は指で触れず、鼻を近づけた。水ではない。微かに樟脳の匂いがした。 そのとき玄関の方で、門の鈴が鳴った。 二 高嶺署から来た笹原綾は、源造の予想より若かった。三十代の半ばほどで、髪を耳の下で切り揃え、雪国の刑事らしくない薄い靴を履いていた。だが玄関へ上がる前、靴底の雪を落とす時間は誰より長かった。 笹原は像の寸法と重量、最後に確認された時刻を一つずつ聞いた。 「午後八時四十分です」 家政婦の澄江が答えた。「毎晩、灯明を下げます。ご当主と奥さまも一緒でした」 奥さまと呼ばれた弓子は、座敷の隅で膝掛けを整えた。七十八歳。腰を悪くしてから杖を使うが、背筋は今も榊家でいちばんまっすぐだった。 「像には触れましたか」 「いいえ」と弓子は言った。「戸口から拝んだだけです」 「照明は」 「灯明と、廊下の明かりだけ。あの方は明るすぎる場所を嫌いましたから」 死んだ夫のことなのか、観音のことなのか、笹原は問い返さなかった。 隆文の妹、千佳は東京から朝一番の新幹線で戻るはずだった。博物館で木造彫刻の保存修復に携わり、貸し出しの実務も担当している。昨夜は金沢で学会があり、ホテルに宿泊していた。隆文の息子の一成は二階で寝ており、雪が降ったことさえ朝まで知らなかったという。 笹原は一通り話を聞くと、源造を庭へ連れ出した。 「何センチ降りました」 「場所によります」 「気象台は十二センチと言っています」 「気象台の庭には、この赤松はありません」 笹原は怒らなかった。赤松の下へしゃがみ、雪の抜けた楕円を見た。 「枝が折れたのはいつです」 「四時よりあとです」 「なぜ分かります」 源造は枝の下の雪を竹箒の柄で指した。窪みの底に、ざらついた白い層が覗いている。 「最初の雪は軽かった。二時前にいったん止み、三時半ごろから水気の多い雪になりました。この枝は両方を抱えて折れた。軽い雪だけなら、まだ持ったでしょう」 「夜中に庭を見たんですか」 「五十二年見ています」 答えになっていない、と笹原の目が言った。 築地塀には乗り越えた跡がなく、裏門の錠も凍りついたままだった。庭の中央を流れる細い遣り水は、石蓋の下を通って北の用水へ抜ける。冬は水を止めるため、落ち葉と雪が溝を覆っていた。 笹原は離れの濡れ縁を見上げた。 「像は十五キロ。抱えてこの庭を横切れば、いくら雪が降り直しても沈みは残る。そうですね」 「人が歩けば、です」 「空を飛んだと?」 源造は赤松の裂け目を見た。枝から落ちた雪の縁は柔らかく、まだ陽に崩されていない。 「盗んだ者が、足で運んだとは限りません」 笹原は手帳へ何も書かず、源造の顔を見た。 三 雪見観音が榊家へ来た経緯は、家の者によって少しずつ違った。 隆文によれば、祖父の宗一郎が昭和二十一年、廃寺となった雪峰寺から正式に譲り受けた。弓子によれば、戦時中に空襲を避けて預かったまま、寺から引き取りの申し出がなかった。一成は「先祖が山から拾ってきた」としか聞かされていなかった。 千佳は昼前に到着した。黒い旅行鞄を玄関へ置いたまま夕坐敷へ入り、台座の前で長く黙っていた。 「保険評価額は?」と笹原が訊いた。 「去年の評価で八千万円。ただし、由来が確認できることが前提です」 「確認できていないんですか」 隆文が口を挟んだ。「父の書類があります」 千佳は兄を見なかった。「譲渡証は昭和二十一年八月の日付です。でも雪峰寺は、その年の五月に宗教法人として解散している。署名した住職は前年に亡くなっています」 部屋の空気が変わった。隆文だけでなく、弓子も顔を上げた。 「その話は今することじゃない」 「今しないで、いつするの。博物館に出せば必ず調べられる」 「だから、貸し出しは取りやめる。管理会社を通して別の――」 隆文はそこで口を閉じた。 笹原が促した。「別の?」 千佳が代わりに答えた。「兄は海外の収集家へ売る相談をしていました。会社の借入金があるんです」 隆文は、像は榊家の資産だ、と低い声で言った。真贋も来歴も専門家の議論にすぎない。父も祖父も守ってきた。家を守るために使って何が悪い。 源造は障子の外でその声を聞いた。庭師は家族の言い争いに立ち会わない。だが五十二年も同じ家に通えば、聞かないふりのできる距離は少しずつ失われる。 笹原が廊下へ出てきた。 「昨夜、観音を見ましたか」 「見ました」 「何時に」 「八時半より少し前です。雪吊りの縄を確かめて、帰る前に」 「像に異常は」 「ありません」 これは最初の嘘だった。 異常はあった。右肩に入っていた細い割れが消えていた。昨秋、千佳が胡粉で充填したが、斜めから見れば白い線が残るはずだった。灯明の下に座っていた像には、それがない。 源造は近づかなかった。代わりに、いつもより強い樟脳の匂いを嗅いだ。 「庭の出入口を使える人は?」 「家の者と、私です」 「あなたの鍵は」 源造は腰の鍵束を出した。裏門、道具小屋、温室。夕坐敷の鍵はない。 笹原は一本ずつ確かめた。真鍮の輪に、鍵を外したばかりの空きが一つあった。 「ここには何がついていました」 「古い物置の鍵です。先月、錠ごと替えたので捨てました」 二つ目の嘘だった。 四 午後、博物館から学芸員が来た。台座に残った木屑を採取し、寸法を測り、千佳と小声で話した。県警の鑑識は杉戸と窓から指紋を採ったが、新しいものは家人と澄江の分だけだった。 源造は庭へ戻された。 刑事が見張っている前で、折れた赤松の枝を下ろした。鋸を入れると、雪の塊が肩へ落ちた。冷たさが作業着を通り、鎖骨のあたりへ広がる。 五十二年前、最初にこの庭へ入った日も雪だった。 当時の当主、榊宗一郎は、源造の父・庄吉を名人と呼んだ。実際の庄吉は、酒を飲むと手が震え、庭石の据え方より徴用先の工場の話をよくした。山寺が焼けた夜、軍需工場の倉庫から火が移り、庄吉は雪峰寺まで走った。住職と二人で本尊を担ぎ出し、榊家の土蔵へ避難させた。 戦争が終わり、住職は亡くなった。寺は無住となり、土地は榊家の製材会社が買った。本尊だけが返らなかった。 庄吉は死ぬ前、源造に一度だけ言った。 ――預かった物は、返すまで自分の物じゃない。 その言葉を、源造は長く臆病者の愚痴だと思っていた。榊家がなければ自分たち親子は食べていけなかった。像は雨漏りする本堂に置くより、手入れされた夕坐敷にある方がよかった。守ることと所有することは、同じ方向を向いているように見えた。 昨年、千佳が古文書を持って庭へ来た。 「真壁さんのお父さんの字だと思う」 庄吉が住職へ宛てた書付だった。〈御本尊、終戦後必ず御返却申し上げ候〉。榊家の蔵で、偽造された譲渡証と一緒に見つかったという。 千佳は寺を再興した宗教法人へ返還する準備をしていた。隆文は反対し、弓子は何も言わなかった。話が動いたのは一週間前、像が海外業者の下見に出されると決まってからだ。 源造は切った枝の年輪を見た。中心近くに黒い空洞がある。外からは健康に見えても、松は内側から傷む。 「真壁さん」 笹原が雪を踏まずに濡れ縁から声をかけた。「遣り水の石蓋を開けてもらえますか」 「冬は水がありません」 「だから見たいんです」 源造は鋸を置いた。 遣り水は幅一尺、深さは膝ほどしかない。北端で築地塀の下をくぐり、市の用水へつながっている。昔は池へ水を引いたが、下水道が整備されてからは雨水を逃がすだけになった。 石蓋を三枚上げると、暗い溝に落ち葉が詰まっていた。その表面に、麻縄の毛羽が一本引っかかっている。 笹原は手袋をした指で拾った。 「像は足で運ばれなかった。あなた、そう言いましたね」 源造は黙っていた。 「ここへ橇を通したんじゃないですか。人は雪の前に庭を横切る。像は溝の中を、雪のあとに動かす。塀の外から縄で引けば、庭に足跡は残らない」 「溝は曲がっています。十五キロの木像は通らない」 「裸なら、でしょう」 笹原は夕坐敷を振り返った。 「何か滑る物に載せた。あるいは、浮かせた」 源造は三つ目の嘘を用意した。だが口に出す前に、門の外で車の扉が閉まる音がした。 五 やって来たのは、雪峰寺の現住職、三田村だった。 寺は旧地から三キロ離れた高台に、小さな本堂だけを再建している。三田村は榊家と返還交渉中で、事件を聞いて駆けつけたという。警察へ呼ばれたわけではなかった。 「昨夜はどこにいました」 笹原に訊かれ、三田村は寺に一人でいたと答えた。証明する者はいない。寺の軽トラックには冬用タイヤがつき、荷台に濡れた藁が残っていた。 隆文はすぐに三田村を疑った。 「返せと何度も脅された。盗む理由があるのはこの人だけだ」 「脅してはいません」と三田村は言った。「返還請求の通知を出しただけです」 「同じことだ」 笹原は二人を離し、三田村から昨夜の行動を聞いた。午後十一時半まで本堂で事務をし、その後は庫裏で寝た。午前二時ごろ除雪車の音で目を覚ましたが、外へは出ていない。 源造は住職の長靴を見た。溝の泥はついていない。荷台の藁は、正月飾りを作った残りだろう。 三田村が帰るとき、源造と目が合った。住職は何も言わず、ほんの僅かに頭を下げた。 笹原はそれを見ていた。 夕方、隆文が源造を道具小屋へ呼んだ。 「警察に余計なことを言っていないでしょうね」 「余計なこととは」 「昔の話です。父上の書付だとか、寺の土地だとか。あれは千佳が騒いでいるだけだ」 隆文は土間を行き来した。会社の借入金は三億を超え、自宅だけでなくこの屋敷も担保に入っている。像を売れなければ、春まで持たないらしい。 「あなたの父親だって、祖父から金を受け取った。今さら正義面はできない」 源造は棚の剪定鋏を布で拭いた。 「父はいくら受け取りました」 「知らない。帳簿にある。口止め料でしょう」 庄吉が晩年まで手の震えを恥じた理由を、源造は酒のせいだと決めつけていた。違ったのかもしれない。守った庭の中心に、返せなかった像が座り続けていた。 「真壁さん。あなたは榊家の人間だと思っている」 隆文は言った。「父もそうだった。会社が苦しいとき、あなたの息子さんを雇った。事故の後も給与を払い続けた。それを忘れないでほしい」 源造の息子は二十年前、榊木材の製材機で右手の指を二本失った。安全覆いは外されていたが、息子は自分の不注意だと証言した。会社は解雇せず、倉庫係へ移した。 恩を返すという言葉には、勘定を終わらせない働きがある。 「忘れてはいません」 源造は鋏を棚へ戻した。「忘れられないようにされてきましたから」 隆文の顔から血の気が引いた。 外へ出ると、笹原が道具小屋の軒下に立っていた。聞いていたかどうかは分からない。 「赤松の枝を落としたのは、証拠を消すためですか」 彼女は訊いた。 源造は初めて、笹原の靴が薄い理由を理解した。彼女は雪面の硬さを、足の裏で確かめている。 六 笹原は、雪を四つに分けた。 昨夜九時から一時五十分までの乾いた雪。深夜二時前後の止み間。三時半から四時半に降った湿雪。そして、赤松の枝から落ちた雪。 「枝が落ちた場所だけ、二層目の上に一層目が載っている。順番が逆です」 夕坐敷に家族を集め、笹原は庭の見取図を広げた。 「犯人は一時五十分から二時十分の止み間に庭へ出ています。ただし、像を抱えて飛び石を渡ってはいない。遣り水の石蓋を外し、溝の中に小さな橇を置いた。像を載せ、北の用水まで動かした。三時半からの雪が足跡と蓋の継ぎ目を覆った。朝には、誰も庭を横切っていないように見えた」 隆文は鼻で笑った。「像は八時四十分にあった。どうやって鍵を開けた」 笹原は源造の鍵束を机へ置いた。空いた真鍮の輪に、新しい擦り傷がある。 「夕坐敷の合鍵が、昨夜までここについていた。錠前屋に確認しました。榊宗一郎さんは三十年前、庭師用の合鍵を一本作らせている」 弓子が目を閉じた。 「真壁さんは午後八時前、像を台座から下ろした。代わりに置いたのは、木枠へ布を巻いた模型です。樟脳を染み込ませた古い保存布で覆い、暗い戸口から本物に見えるようにした。家族が拝んだあと、鍵を使って入り、模型を畳んだ。水滴に見えたのは、防虫剤を溶かしたエタノールです」 千佳の手が膝の上で動いた。保存修復用の布と樟脳液を用意できるのは彼女だった。 「像を橇に載せたのは二時。北の用水まで引き、そこで三田村住職へ渡した。住職は寺にいたという嘘をついた。真壁さんは、雪が降り直せば足跡も作業跡も消えると知っていた」 「証拠は?」隆文が立ち上がった。「想像じゃないか。寺を捜せばいい。像があるなら――」 「ありません」 弓子が言った。 部屋の全員が彼女を見た。 「雪峰寺には、もうありません。今朝、県立博物館へ運びました。盗品としてではなく、所有権に争いのある文化財として保全を申し入れました」 千佳が息を呑んだ。「お母さんが?」 「私が三田村さんへ頼みました。真壁さんと千佳には手伝ってもらいました」 弓子は杖を脇へ置き、背筋を伸ばした。「警察へ行きます。像を動かしたことも、夫と義父が書類を偽ったことも、知っていることを全部話します」 隆文は母を見下ろした。「家を潰す気か」 「もう潰れていたのよ。私たちが、門だけ立てていた」 笹原は源造へ向いた。 「あなたも同行してください。鍵と縄を提出してもらいます」 源造は頷いた。 「赤松の枝は、どこへやりました」 「焼却場へ運ぶため、軽トラックに」 「まだ焼いていませんね」 「ええ」 「それなら、切断面と落下時刻を調べられます」 笹原は手帳を閉じた。「証拠を消すところまでは、手伝わなかったんですね」 源造は窓の外を見た。切り口から松脂が滲み、雪の上で琥珀色に固まりかけていた。 「切らなければ、春に幹まで裂けます」 笹原はしばらく源造を見たあと、「そうですか」とだけ答えた。 七 高嶺署の取調室には、庭の匂いが一つもなかった。 机、椅子、壁、蛍光灯。どれも、季節によって形を変えない。源造は求められるまま鍵束と作業手袋を机へ置き、笹原の質問に答えた。 計画を最初に口にしたのは弓子だった。 一週間前の午後、彼女は誰にも見つからないよう温室へ来た。白い息を吐きながら、像を寺へ返したいと言った。 「隆文さんを説得してください」 源造はそう答えた。 「説得できるなら、ここへは来ません」 弓子は、隆文の会社が像の売却代金を担保に短期融資を受けようとしていると話した。三日後には運送会社が梱包に来る。所有権の争いを申し立てても、手続きの間に像が国外へ出る可能性がある。 「警察か博物館へ相談すればいい」 「偽造を知りながら四十七年黙っていた女の話を、誰が急いで聞くでしょう」 弓子は温室のガラスに積もった去年の埃を、杖の先でなぞった。 嫁いだ翌年、夫から偽造譲渡証を見せられたという。家を守るために必要だった、寺はもうなくなった、と説明された。弓子は信じたのではなく、問い直さなかった。隆文が像を金額で呼ぶたび、夫と同じ声を聞くようになった。 「盗んで返せと?」 「私たちが盗んだ物を、もう一度動かすだけです」 言葉を替えても、することは変わらない。源造は断った。 その夜、息子から電話があった。榊木材の倉庫が春に閉鎖され、退職金の一部が支払われないかもしれないという。息子は隆文を責めなかった。「会社も大変だから」と言った。その言い方が、事故のあと安全覆いについて証言したときと同じだった。 翌朝、源造は弓子へ電話をかけた。 像を離れから出すだけなら、雪は必要なかった。必要だったのは、榊家が「外から盗まれた」と主張できない形で消すことだった。警察が来れば、偽造譲渡証と売却計画まで調べる。弓子は家の罪を、家の中だけで処理することをやめたかった。 千佳は保存布と木枠を用意した。本物の像と同じ寸法で、正面からの輪郭だけを作った。源造は夕坐敷の灯明を一つ減らした。弓子と澄江が戸口から拝んだとき、千佳の模型は像に見えた。隆文は電話を耳に当てたまま、頭さえ下げなかった。 午前一時五十分、乾いた雪が止んだ。 源造は合鍵で離れへ入り、像を桐箱へ収めた。橇は、松の根鉢を運ぶために自作したものだった。底へ竹を二本渡し、中央を浅くくぼませてある。遣り水の石蓋を外し、箱を溝へ下ろした。 桐箱は千佳が像の実測から作った仮箱で、幅は八寸。観音を横向きに寝かせれば、一尺幅の溝を通る。ただし、右手を頬に添えた部分だけは箱の内側へ触れやすく、一度でも角へぶつければ指先が欠ける恐れがあった。 予定では、そのまま北の用水まで押すはずだった。だが像は最初の曲がり角で止まった。布越しに木が軋んだ。源造は、父と住職が火の中から運び出した像を、自分が暗い排水溝へ押し込んでいることに気づいた。 手が動かなくなった。 「戻しますか」 背後で千佳が訊いた。彼女は長靴の跡を残さないよう、源造が外した石蓋の上に立っていた。 戻せば、三日後に売られる。進めば、自分も書類の上で犯罪者になる。どちらを選んでも、五十二年勤めた庭は同じ庭ではなくなる。 源造は橇の縄を引いた。 用水の出口で待っていた三田村は、箱を受け取ると「重い」と言った。一度ではなく、何度も言った。仏の重さではない。これまで返さなかった年月の重さを、自分の腕だけで量ろうとしていた。 「あなたは、最初から捕まるつもりだったんですか」 笹原が訊いた。 「足跡が消えても、溝は残ります」 「質問に答えてください」 源造は机の上の手袋を見た。右の掌に、縄で擦れた細い裂け目があった。 「見つけてほしいと思っていたのかもしれません」 「誰に」 源造は答えられなかった。警察にか、隆文にか、死んだ父にか。あるいは、庭の外へ出られなかった自分自身にか。 笹原は供述調書を源造の前へ置いた。 そこには、雪の深さが十二センチと書かれていた。源造は訂正を求めなかった。 八 像は三か月、県立博物館の収蔵庫に置かれた。 警察は窃盗の成否だけでなく、虚偽の申告で捜査を動かした行為についても調べた。弓子は偽造譲渡証の原本と、宗一郎の日記を提出した。日記には、庄吉へ渡した金額が書かれていた。口止め料ではなかった。焼けた雪峰寺の屋根を直すため、庄吉に託した金だった。庄吉は寺へ届けようとしたが、その前に住職が亡くなり、金は戦後の混乱で行方が分からなくなった。 父が金を盗んだのか、誰かに奪われたのか、源造には分からなかった。 分からないことが残るのは、真相が足りないからではない。死んだ者の選択には、どれだけ記録を集めても届かない部分がある。 榊家は像の所有権を放棄した。雪峰寺側も、すぐに本堂へ戻すことを望まなかった。保存環境が整うまで博物館へ寄託し、展示札には両者の記録を併記することになった。 源造と弓子と三田村は、半年後に不起訴となった。所有者を一人に決められず、像を隠匿せずに保全先へ届け、翌日に全員が申し出たことが考慮された。ただし無罪になった気はしなかった。捜査へ使われた費用の一部を三人で弁償し、源造は庭師組合から一年の除名処分を受けた。 隆文の会社は春を待たずに民事再生を申請した。屋敷は売りに出された。 源造は警察から戻った翌日も庭へ行った。隆文からはもう来なくていいと言われていたが、赤松の切り口だけは塞いでおきたかった。癒合剤を塗り、雪吊りの縄を締め直した。 弓子が縁側へ出てきた。 「長いこと、ご苦労さまでした」 五十二年に対して、それだけだった。けれど源造も、「お世話になりました」としか言えなかった。 弓子は庭を見た。「あの人は、家を守ることしか知らなかった」 「私もです」 「あなたは最後に、家の外を守ったでしょう」 源造は首を振った。「戻すのが遅すぎました」 「遅いことと、しないことは同じではありません」 それは慰めとしては整いすぎていた。源造は受け取らず、癒合剤の缶を道具箱へしまった。 四月、雪峰寺の新しい庭を手伝ってほしいと三田村から連絡が来た。報酬は出せないという。源造は週に二日だけ通うことにした。 寺の庭には名木も池もなかった。斜面を削った裸地に、豪雨で土が流れないよう低木を植える。観音はまだ博物館にあり、本堂の厨子は空だった。 ある朝、笹原が一人で訪れた。私服で、あの薄い靴を履いていた。 「赤松は持ちそうですか」 「三年は見ないと分かりません」 「雪見観音は、来月から展示されます」 「新聞で読みました」 展示名は〈雪見観音――所有と保護の七十五年〉になるという。榊家が像を保管してきた事実も、雪峰寺へ返さなかった事実も、同じ長さの文章で説明される。庄吉の書付は偽造譲渡証の隣に並ぶ。どちらか一枚だけなら、善人と悪人を簡単に決められただろう。二枚が並ぶことで、見る者はその間の年月について考えなければならない。 「あなたのお父さんの名前も出ます」と笹原は言った。 源造は土を返しながら、「そうですか」と答えた。父がそれを望むかは分からない。名誉を戻す、という言葉にも所有に似たところがある。本人のいない場所で、生きている者が扱いやすい形に整えてしまう。展示札がどれほど正確でも、父の震える手までは載らないだろう。 笹原は植えたばかりの馬酔木の前へしゃがんだ。「あの日、何センチ積もっていたんですか」 源造は鍬の柄に手を置いた。 「まだそれを訊きますか」 「調書に書く欄があるんです」 源造は山の稜線を見た。残雪は白い線になり、杉林の陰へ少しずつ退いている。十二センチだったか、十三センチだったか。そんな数字は覚えていない。 覚えているのは、赤松の枝が折れた時刻と、橇の縄が手袋を通して掌へ食い込んだ痛みと、用水の向こうで三田村が像を抱き取ったとき、何度も「重い」と言ったことだった。 「庭師は雪を数えません」 源造は答えた。「どこに残って、どこから消えたかを見るだけです」 笹原は手帳を開かなかった。 昼近く、寺の屋根から最後の雪が落ちた。空の厨子へ光が入り、金色ではない木目を照らした。

庭師は雪を数えない
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