二〇二三年五月十八日 梶田様、はじめてお手紙を差し上げます。千葉刑務所におります戸苅秋生と申します。年は四十四になりました。教育担当の職員から、文通を引き受けてくださる方がおられると聞きまして、それで名前を出していただいた次第です。 こういうものを書くのは十何年ぶりのことで、便箋を前にして三十分ほど、何も書けずにおりました。 自己紹介というものを書こうとしたのですが、名前と年のほかに何を書けばよいのか、いくら考えても出てまいりません。好きな食べ物、と書きかけて、ここで出るもののことしか思い出せませんでしたので、消しました。消したところが汚くなってしまい、申し訳ありません。 罪名と刑期については、書いてよいものかどうか分かりませんので、今回は控えさせていただきます。差し支えなければ、次のときに書きます。 昼間は木工の工場に出ております。家具の組立てです。手を動かしているあいだは、時間の経つのが早いように思います。 今日は朝から雨で、工場の窓が下のほうから曇っておりました。窓は高いところに横長についていて、立って作業をしておりますと、空の下の端だけが見えます。雲の色で、外の明るさの見当はつきます。 どうぞよろしくお願いいたします。 こちらから差し上げられるものは何もございません。ご迷惑でしたら、お返事はくださらなくて結構です。手紙は月に四通まで出すことが許されておりますので、そのうちの一通をこうして使わせていただきました。便箋は七枚までと決められておりますが、今日は一枚で足りてしまいました。 字が汚くて申し訳ありません。 戸苅 秋生 二〇二三年六月十一日 梶田様、お返事をいただきました。届いたのは先週の水曜で、工場から房に戻りましたら、机の上に置いてありました。封は開いた状態で渡されます。検査を通ってから手元に来るものですので、そういうことになっております。 前の手紙で書かなかったことを書きます。傷害致死です。懲役八年で、令和元年の十一月からここにおります。満期は令和九年の十一月になります。 書いてしまうと、思っていたよりも短い行数でした。 工場のことをお尋ねでしたので、そちらを書きます。私のいる工場では学習机と、事務用の袖机を作っております。刑務作業で仕上げたものはキャピックという名で外にも出ますので、どこかでご覧になったことがあるかもしれません。私の持ち場は組立ての三番目で、引き出しの側板と向板をつなぐところです。ラワンの合板にあらかじめ穴が開けてありますから、そこへダボを差し、木工用の接着剤をつけて、直角を見ながら押し込みます。押し込んだらクランプで締めて、はみ出した接着剤を濡らした布ですぐに拭き取ります。拭き取りが甘いと、あとで塗料が乗らずに白く残りますので、そこだけは念を入れております。一日にこれを四十本から五十本ほどやります。手が覚えておりますので、頭のほうは別のことを考えていられます。 同じ列に二十三の男がおります。三月に工場へ来た者で、ダボ穴の位置を毎回三ミリずつ手前に取ります。目で見て取ろうとするからで、治具に押しつければ済むことなのですが、二度教えても同じところで手が浮きます。私が横から手首を押さえてやると、そのときだけは合います。教えるのは下手です。昔から下手でした。ラワンは軽くて素直な材ですが、面を落とすときに毛羽が立ちます。紙やすりは百八十番で当たりを取って、二百四十番で仕上げます。タモを使う日は音がまるで違います。かんなを入れると、削り屑の出方が変わりますので、目をつぶっていても分かるだろうと思います。 木の匂いのことを書こうとして、うまく書けません。接着剤の匂いのほうが強いので、木の匂いというのは、朝いちばんに工場の戸を開けた十秒くらいのものです。指を怪我したことは、今のところありません。 前は内装の仕事をしておりました。天井の石膏ボードを一人で持ち上げて、片手で支えながらビスを打ちます。粉が目に入ります。二日やると肩が上がらなくなりますが、あれは体ごと使う仕事でしたので、今の作業とは別の種類のものです。出たら、また内装に戻るつもりでおります。四十四で八年ですから、五十を過ぎておりますけれども、体さえ動けば使ってくれるところはあると思います。 手のことだけは、書くことがいくらでも出てきます。 戸苅 秋生 二〇二三年七月九日 梶田様。お尋ねの件ですが、まだうまく書けそうにありません。もう少し先になってから書かせてください。逃げているように思われても仕方のないことだと思います。 こちらは梅雨で、房の中がよく湿ります。便箋を出したままにしておくと端が波を打ってきますので、封筒に戻して、本の間に挟んでおります。書いている途中で腕の内側が紙に触れますと、そこだけインクがにじみますから、下に新聞を一枚敷いております。 庭のことを書いてくださって、ありがとうございました。トマトの支柱が風で倒れて、実のついた枝を折ってしまったというところを、二度読みました。支柱は麻ひもで八の字に結ぶと緩みにくいと、昔いた現場の親方が言っておりました。仮設の足場の話ですので、庭の話に当てはまるかどうかは分かりません。 こちらには土がありません。 手紙は出すときも届くときも検査があります。ですので、そちらが投函されてから私の手に来るまでに、数日かかります。梅雨だから遅れるということはございません。前の手紙の消印を見ましたら、六日かかっておりました。本は房に三冊まで置けます。今は文庫を二冊借りておりまして、一冊は山の遭難の話で、もう一冊は前にいた者が返し忘れていたらしい園芸のものです。園芸のほうは字が大きくて写真も多く、読むというより眺めております。土の作り方のところに、腐葉土と赤玉土をどれだけの割合で混ぜるかという表が載っておりました。梶田様のところの土には、何を入れておられるのでしょうか。 聞いたところで、私にはどうにもならないことばかり聞いております。 奥歯が痛みます。右の下の、いちばん奥です。歯科は月に一度、外から先生が来られる日があって、願箋を出して順番を待つことになっております。今のところ、私の前に四十人ほどおられるそうです。冷たいものを飲むときに、舌でよけて飲む癖がつきました。 切手は自弁で買います。八十四円のものを十枚買いました。先月の作業報奨金は三千九百四十円でしたので、そこから引かれます。 戸苅 秋生 二〇二三年八月二十日 梶田様。先にお尋ねいただいたのは、たぶん母のことだったのだろうと思います。それでしたら書けます。 母は戸苅静といいます。今年で七十二になりました。市原の施設に入っております。入ったのは一昨年の春で、私はもうここにおりましたから、手続きはすべて姉がやりました。書類に私の判が要るところがあったそうで、そのやりとりだけは覚えております。 母はもう分からなくなっています。私のことも、姉のことも分からないと聞きました。名前を呼ばれても、返事の代わりに笑うのだそうです。 母は小学校の給食の調理員を長くやっておりました。手がいつも荒れていて、冬になると指の関節のところが割れて、そこにバンドエイドを巻いて、その上からゴム手袋をはめて出て行きました。台所の吊り棚にハンドクリームが三つも四つも並んでおりまして、どれも蓋が開けっぱなしになっていて、母は帰ってくるとその中のいちばん近いものを取って、両手をこすり合わせておりました。私はそれを見ながら、テレビの前で宿題をしておりました。匂いのことも書こうとしましたが、思い出せません。姉は由美といいます。四十九です。最後に面会に来たのは、収監の翌年の二月でした。アクリルの板の向こうに座って、施設の書類の話を十五分して、それで終わりました。もう三年半、顔を見ておりません。それきり、こちらから出した手紙にも返事がありません。怒っているのだと思います。怒られる理由のほうは、いくらでもあります。 施設の費用は姉が立て替えております。私はここで働いておりますが、報奨金は月に四千円に届きません。出るまでのあいだに何ができるかと考えることはありますが、考えたところで、今すぐ送れる金はございません。 面会に行けるものなら行きたいかというと、そこも自分ではよく分かりません。ここからは出られませんので、考えても仕方のないこととして、途中でやめてしまいます。姉の話では、施設の部屋は南向きで、窓から駐車場と、その向こうの畑が見えるそうです。母は昔から日の当たるところに座るのが好きでしたから、その点はよかったのだろうと思います。畑に何が植わっているかまでは聞いておりません。 私はそこを見たことがありません。 家族といえるのは、母と姉だけです。 母が分からなくなったのがいつからなのかは、私には分かりません。私が入ってからあとのことですので、そのあたりのことは全部、人から聞いた話になります。 戸苅 秋生 二〇二三年九月三日 梶田様、暑中のお見舞いをいただきまして、ありがとうございました。こちらは思っておられるほどのことはございませんので、ご心配なさらないでください。 舎房の窓は上のほうが十五センチほど開きます。それより下は開きません。廊下に扇風機が二台ありまして、首を振っておりますので、風は十秒に一度ほど来ます。うちわは官給で一人に一本です。破れたら願箋を出して、月に一度の交換の日を待ちます。私のは骨が二本折れておりますが、折れたところを内側にして持てば、まだ風は起こります。 麦茶は昼の食事のときだけ出ます。 風は夜のほうが弱いように思います。 工場のほうが暑いです。屋根が鉄板ですので、午後になると天井のあたりに塗料の匂いが溜まってきて、それが降りてくるような感じになります。八月の初めに、隣の班の人が組立ての台の前で膝から落ちました。作業は十分ほど止まって、その人が担架で出て行ってから、また始まりました。翌日には戻っておられました。夏のあいだは入浴が週に三回になります。冬は二回です。脱衣から出るまでで十五分と決まっておりまして、体を洗う時間と湯に浸かる時間が号令で分かれております。湯は終わりのほうになるとぬるくなりますけれども、汗さえ落ちればよいので、私はあまり気にしておりません。工場から戻ってすぐの日は、背中のところがしみます。 盆のあいだも作業はありました。 就寝は九時です。寝るときは顔を布団の外に出しておく決まりで、灯りも豆球が点いたままになります。背中に汗疹が出ましたので、願箋を出して薬をもらいました。塗ると白く残るので、朝の点検の前に手拭いで拭き取ります。 規則が細かいのは、私には助かっております。次に何をするかを自分で決めなくて済みます。 窓の外で蝉が鳴いておりましたが、いつのまにか聞こえなくなりました。いつからかは分かりません。工場にいるあいだは機械の音でかき消されますので、鳴きやんだ日というものを、私は毎年知らずに過ぎております。 そちらは夜になれば涼しくなるのでしょうか。庭のある家というのは、風の通り方が違うと聞いたことがあります。 戸苅 秋生 二〇二三年十月十五日 梶田様。そういうことを聞かれるとは思いませんでした。 令和元年の六月の、金曜の夜のことです。会社の飲み会でした。社長と職人が四人で、一次会が船橋の駅前の焼鳥屋で、そのあと二軒目に行きました。私はビールを三杯と、あとは焼酎を薄いのを二杯ほど飲んでおります。強いほうではありませんが、その日は昼間ずっと天井を張っていて、腕が上がらないほど疲れておりましたので、いつもより早く回っておりました。店を出たのは十一時を過ぎておりました。駅の北口のほうへ歩いていて、歩道の狭くなっているところで、前から来た人と肩が当たりました。相手の方は、私と同じくらいの年に見えました。言い合いになりました。何を言われたかは覚えておりません。私が何を言い返したかも覚えておりません。 向こうが先に、こちらの胸を突きました。両手で、押すというより突く形でした。 それで私が殴りました。右で一度です。相手の方は後ろに倒れて、車道との境の縁石に後頭部を打ちました。 音がしました。 そのことを言い訳にするつもりはありません。突かれたから殴ってよいということにはなりませんし、私のほうが体は大きいのですから、押し返して離れれば済んだ話です。裁判でもそう言われました。 救急車が来るまで、私はそこに座っておりました。逃げてはおりません。まわりに人が集まってきて、社長が私の名前を何度も呼んでおりましたが、返事をしなかったように思います。警察官が二人来て、それからのことはあまり順番どおりに思い出せません。あとから聞いたところでは、私が殴ってから救急車が着くまでに七分ほどだったそうです。長かったのか短かったのか、私には見当がつきません。そのあいだに自分が何をしていたかは、調書に書かれたとおりだろうと思いますけれども、私が覚えていることと、調書に書いてあることは、細かいところで少しずつ違っておりました。裁判で読まれるのは調書のほうです。 三日後に亡くなったと聞いたのは、留置場です。朝の食事のあとに呼ばれて、立ったまま聞きました。そのときに私が何を思ったかは、うまく書けません。書けるように思って書き始めたのですが、書けません。 毎日思い出すのかとお尋ねになるかもしれませんが、正直に申しますと、そうでもありません。ひと月ほど何も思い出さずに過ごしていて、あるとき作業の途中で急に来ます。来るのは顔ではなく、靴です。茶色の革靴で、爪先のところに乾いた土がついておりました。倒れたときに片方だけ脱げて、歩道の縁のところに横になっておりました。それだけを、四年ずっと覚えております。 相手の方のお名前は、ここには書きません。 今日は工場が休みで時間がありましたので、書きました。 戸苅 秋生 二〇二三年十一月二十六日 梶田様、謝っていただくようなことではありません。お尋ねになったから書いたのではなく、書ける日だったから書いたのだと思います。前の手紙を読んで気を悪くされたのではないかと、こちらのほうが一か月ほど気にしておりました。 十一月十四日で、ここに来て四年になりました。刑期は八年ですので、ちょうど半分です。半分と書くと切りのいい数字ですが、実際には前の半分と後ろの半分は同じ長さではないだろうと、工場の年上の人が言っておりました。その方はもう二度目だそうです。 一日の順番を書いておきます。六時四十五分に起きて、布団をたたんで、房の前に立って点検を受けます。七時に朝食で、七時四十分に工場へ出ます。午前中は途中で十分の休みが一度あって、十二時に昼食、午後も一度休みがあって、十六時四十分に工場を出ます。帰りに身体検査があって、房に戻ってから夕食で、それから就寝までのあいだが自分の時間になります。手紙を書くのはそこです。九時に消灯です。これが月曜から金曜まで同じで、土曜と日曜は工場がありません。四年やっておりますと、時計を見なくても十分ほどの誤差で分かるようになります。 日で数えるのは、二年目でやめました。数えると、残りのほうを見てしまいますので。 今は引き出しの数で数えております。組立ての三番目を通った引き出しは、私の手を必ず一度は通りますから、その数がそのまま自分の過ごした時間になります。今年に入ってから、たぶん三千二百枚は超えていると思います。正確な数は分かりません。工場の記録にはありますが、私が見られるものではありませんので、これは自分で頭の中に足していっただけの数字です。ときどき足し忘れます。 房から工場までの通路は二百七十歩です。数えたのは二年目の秋に一度きりで、それきり数えておりません。二度目を数えて数が違っていると困りますので。 それだけのことです。 不思議なもので、一日はたいへん長く、一年はあっという間です。夕方の、房に戻ってから夕食までのあいだの三十分ほどが、一日でいちばん長く感じます。何もしていないからだと思います。本を読めばよいのですが、その時間はどうも読めません。壁のほうを向いて座っております。前は膝を立てておりましたが、この頃はあぐらにしております。そのほうが腰に来ません。四年経って変わったことを挙げるとすれば、待つのが下手でなくなったことだろうと思います。前は信号でも待てませんでした。現場へ向かう軽トラの中で、赤になるたびに舌打ちをしておりましたし、材料が昼までに届かない日は事務所へ三度も四度も電話を入れて、若い事務の人を困らせておりました。今はそういうことがありません。願箋を出せば、返事は早くて三日、遅ければ二週間かかります。腹が立たないわけではありませんが、立てたところで日にちのほうは動きませんので、立てるだけ無駄だということを、頭より先に体が覚えました。 これを直ったと言ってよいのかどうかは分かりません。出たあとに現場でこの調子でおりましたら、たぶん使ってはもらえないだろうとも思います。 工場の窓からは、外の銀杏の木の上の枝だけが見えます。葉が出るのと落ちるのは、そこで分かります。この前の日曜に、廊下の窓から見ましたら、下のほうはもうほとんど落ちておりました。掃いても掃いても追いつかないと、外の掃除に出ている者が申しておりました。梶田様の字は、少し小さいように思います。四十を過ぎたころから、細かい字が房の灯りの下では読みにくくなりました。老眼というものです。工場では作業のものしか見ませんので気づかなかったのですが、この二年ではっきりしました。眼鏡は願い出れば作れると聞いておりますので、そのうちに出そうと思っております。今は朝の点検の前、いちばん明るい時間に読んでおります。ですから梶田様のお手紙は、私はいつも朝に読んでおります。 読みにくいと書きましたが、大きく書いてくださいということではありません。あの字のままで結構です。 膝のこと、無理をなさらないでください。庭のものは放っておいてもたいてい枯れませんし、枯れたら枯れたで、そういうものだと思います。しゃがむのがいけないと聞いたことがあります。 歯の順番が先月まいりまして、右下の奥を抜きました。麻酔が効くまで椅子で待っているあいだ、外から来られた先生が看護の方と、道が混んでいたという話をしておられました。抜いたあとは楽になりました。四か月待った割に、終わってみると十五分ほどでした。 書きたいことがまだございましたが、七枚目の裏まで来ました。枚数が決まっておりますので、ここで切ります。 戸苅 秋生 二〇二三年十二月十七日 梶田様。猫が炬燵に入るというのは、本当なのですね。テレビでしか見たことがありませんでした。うちには子どものころ犬がおりましたが、外につないでおりましたので、家の中に動物がいるというのがどういうものか、あまり想像がつきません。名前がタロだったということだけ覚えております。 年末年始は二十九日から三日まで作業がありません。免業日といいます。そのぶん房にいる時間が長くなりますので、静かに過ごせるかというと、そうでもありません。その前に大掃除があります。畳を上げて、下の板を拭いて、廊下の腰板まで拭きます。私は工場で使う布を余分に持ち出すわけにはまいりませんので、官給のちり紙を湿らせて使います。窓の桟の埃が思いのほか出ます。大掃除の日は、房の中のものを全部いったん廊下へ出します。畳の下から、前にいた者が落としたらしい鉛筆の芯が三本出てまいりました。担当の方に見せて、そのまま渡しました。誰のものかは分かりません。畳を戻すときは目の向きを合わせないと入りませんので、角を持ち上げて、二度やり直しました。 掃除は嫌いではありません。 面会は、この四年で二度です。二度とも姉でした。年末に誰か来るということも、これまでありませんでした。来ないと分かっているものを待つのは、そう難しいことではありません。 年賀のために発信の枠が増えるということはございませんので、この一通が今年の最後になります。今年は雪が早いそうですね。切手をまた十枚買い足しました。報奨金の残りは八千円ほどです。母のところへ回せる額ではありません。 来年もどうぞよろしくお願いいたします。良いお年をお迎えください。 戸苅 秋生 二〇二四年一月十二日 梶田さんへ 年賀のお便りは六日に受け取りました。正月は三日まで免業といって作業が休みになりますので、四日の朝から工場に出ております。発信できる手紙が月に四通と決まっておりまして、十二月の分をすでに使い切っておりましたから、月が替わるのを待っておりました。松の内のうちにお返事を差し上げられず、申し訳ありません。 前のお手紙の終わりのほうに書いてくださったことですが、こちらだけ黙っているのは失礼にあたると思いましたので、書きます。 娘がおります。 ひなのといいます。平仮名です。名づけたのは向こうの母親で、私は図書室から画数の本を借りてきて調べただけで、結局その本に載っていない字のない名前になりました。今年で十五になりますから、この春は高校の受験だろうと思います。思いますと書いたのは、そういう連絡がこちらに来ないからで、住んでいる町までは分かっておりますが、こちらから出せるものではありません。認知はしております。養育費のほうは送れておりません。私がいま受け取っている作業報奨金は先月の計算で四千八百二十円ですので、送るという話にはなりません。出たら払いますと書くのは簡単ですけれども、四十八の男が内装に戻れるかどうかも分からないうちに書くことではないと思っております。名前を平仮名にしたのは向こうの母親の考えで、字を当てると重くなるから、と聞かされました。当時の私はその意味がよく分かっておりませんでしたし、いまも分かっているとは申せません。ただ、木に名前を彫る仕事のことを考えますと、画数の少ないほうが割れにくいのは確かです。 三回だけ会いました。 一度目は生まれて半年ほどのころで、これは会ったとは言えないのかもしれません。二度目は三つの誕生日の前で、向こうの母親の実家の近くにあった、駐車場の広いファミリーレストランでした。三度目は小学校に上がった年の夏です。何を話したかと聞かれると困ります。抱いたときの重さのようなものが残っているつもりでおりますが、その重さを思い出しているのか、後から作っているのか、自分でも見分けがつきません。木の重さなら手が覚えております。板は持ち上げた瞬間に、乾いているか湿っているかまで分かります。人の子どもの重さは、どうもそういう覚え方をしないようです。 写真は一枚だけ持っております。向こうの母親が一度だけ封筒に入れて送ってきたもので、三つか四つのころのものだと思います。青いサンダルを履いて、右手にソフトクリームの空になったコーンを持っています。左の頬にクリームがついたままで、拭いてやらずに撮ったのが分かります。房に置いておけるものは数が決まっておりますので、官本の厚いのに挟んで、角が折れないようにしております。ときどき挟んだ場所を忘れて、何十ページも繰ることになります。繰っているあいだは、他のことを考えずに済みます。同じ房の者に一度だけ見られまして、似ていないな、と言われました。似ているかどうかを言えるほど私の顔を見ているのかと思いましたが、黙っておりました。それきり人のいるところでは出しておりません。 年が明けてから、工場に入る時刻がまだ暗いです。梶田さんのお宅のお庭は、この時期には何か咲いておりますか。 戸苅 秋生 二〇二四年二月二十三日 梶田さんへ 絵をありがとうございました。封筒に厚みがありましたので、いったん預かりになりまして、私の手元に来たのは十九日です。中身を検められるのは決まりですから、遅れたことを気になさる必要はありません。 葉書ほどの大きさの紙に、お庭を描かれたのだと思って見ております。左の三分の一に木が一本あって、幹が下から二尺ばかりのところで二つに分かれています。分かれ方が少し不揃いで、右の枝のほうが太い。その太いほうに実が固まってついていて、色は朱に近い赤です。南天でしょうか。下のほうは葉を描かずに、紙の白のまま残してあります。私は絵のことを何も知りませんので、そこは残されたのか、途中で置かれたのか分かりません。右の端に縁側らしい横の線が二本引いてあって、その二本だけ他より濃く、定規を当てたように真っ直ぐです。実の粒は、重なっていないものだけで十九ありました。数えたのは、見ているうちに手が空いたからで、それ以上の意味はありません。紙の縁が少し波打っておりますので、乾かないうちに何度も水を置かれたのだろうと思います。 木の絵を見ると、どうしても板にしたときのことを考えます。 工場に入ってくるのはラワンとタモと、あとは集成材ばかりですので、南天のような細い木を扱うことはありません。細いものは木工には向きません。ただ、幹が二つに分かれているあの股のところは、どの木でも目が渦を巻いていて、鉋を当てると刃が持っていかれます。持っていかれる代わりに、うまく挽けたときには模様が出ます。絵の中の分かれ目のところを何度も見てしまうのは、たぶんそのせいです。 いただいた絵は、房の壁に貼ることができません。決まりで貼れないというより、貼るための糊もテープも手元にないからです。ですので、写真と同じ本に挟んであります。挟むものが二つになりました。厚い本を選んでおいてよかったと思っております。 先月の手紙に書いたことについて、何かお書きくださるだろうと思っておりましたが、絵のほうが先に届きました。それでよかったのだと思います。手紙の返事が絵で来ることがあるというのを、この歳になって知りました。 工場は今月から新しい型の椅子に切り替わりまして、脚の角度が前のものと三度違います。三度でも、治具を作り直さなければ組めません。治具というのは同じものを何十も作るための当て木で、角度を写しておく板です。これがあれば、誰が組んでも同じ形になります。私は今回その係に回されました。人の手を揃えるための道具を、手先の器用な者が作ることになっております。 戸苅 秋生 二〇二四年三月九日 梶田さんへ おめでとうと書いてくださいましたが、こちらでは誕生日に何かがあるわけではありません。身分帳に生年月日が載っておりますので、書類の上ではきちんと歳を取ります。四日で四十五になりました。 四十五という数字を紙に書いてみて、しばらく見ておりました。収監が二〇一九年の十一月で、満期が二〇二七年の十一月です。半分を過ぎたことになります。ただ、ここで半分という言い方をする人はおりません。あと何年と言うか、あと何回の正月と言うか、そのどちらかです。私はあと三回の正月と数えております。数え方を変えると、同じ長さが違う長さに見えるのが妙です。 歳のことで実際に困っているのは目です。 去年の秋の健康診断で、近くが見えにくくなっていると言われました。工場で墨を打つときに、鉛筆の線と罫書きの線が重なって見えます。手を伸ばせば見えるのですが、木工の作業で手を伸ばして見る場面はほとんどありません。眼鏡は願い出れば作れますし、そうしている人もおります。担当の先生に言うのが億劫で、まだ言っておりません。億劫というのは、たぶん正確ではありません。言えば、自分がここで歳を取っていくことを認めることになる気がします。もう五年目ですから、いまさら認めるも何もないのですが。見えにくくて本当に困るのは手紙を書くときで、便箋の罫線に沿って書いているつもりが、あとで読み返すと右のほうが下がっております。梶田さんのお便りは字が大きいので助かります。大きいのはわざとかもしれないと、途中から思うようになりました。 梶田さんは私より少し上でいらっしゃると、前に書いておられました。膝のほうはいかがですか。冬のあいだはお辛かったのではないかと思います。こちらの工場には暖房が入りませんので、朝のうちは指がうまく曲がりません。曲がらない指で鉋を持つと、必ず削りすぎます。木は削りすぎたぶんを戻せませんので、寸法を間違えた材はそのまま持ち場の脇に積んでおいて、あとで別の用に回します。 戸苅 秋生 二〇二四年四月十七日 梶田さんへ お返事が遅くなりました。左の人差し指を切りまして、しばらくペンが持ちにくかったものですから。 大したことはありません。鑿の刃が滑って、爪の付け根の斜め下のところを五針縫いました。工場には決まった曜日に医務の職員が来ますが、その日は縫うところまで手が回らず、順番を待つあいだに手拭いが赤黒くなりました。血の量というのは、痛みとあまり関係がないようです。三日ほど作業を外されて、そのあいだは工場の掃除に回されました。掃除のほうが手は楽ですけれども、木屑の匂いのするところで箒だけ持って立っていると、時間の進み方が違います。 事故のあとは必ず理由を書かされます。私は刃の研ぎが甘かったと書きました。担当の先生は、それだけかと二度お尋ねになりました。 刃は前の日に研いでおりました。 三月の終わりごろから、夜中に目が覚めることが増えました。二時か三時ごろです。目が覚めると、起床までにどれだけあるかを計算します。計算しても仕方がないのに、必ず計算します。その晩も三時に目が覚めて、四時間五十分あると数えてから、また眠りました。眠ったつもりでおります。翌日の作業で、鑿の柄を握る左の親指に力が入っておりませんでした。滑ったのはそのあとです。 刃が滑る前には、たいてい前触れがあります。木のほうが少し鳴きます。鳴いたのは覚えているのですが、手が止まりませんでした。 掃除に回されているあいだ、班の者が組んでいる音を背中で聞いておりました。木槌の音を聞けば、どこを叩いているかは分かります。分かるのに手が出せないというのは、傷そのものより始末が悪いです。三日目に、隅に積んであった端材の面を取っておりました。頼まれてはおりません。頼まれない仕事を勝手にやると、あとで面倒になることがありますので、途中でやめて元のように積み直しました。 こういうことを書くと、心配なさるかもしれません。心配していただくようなことではありません。工場では年に何件かは起きますし、私のは軽いほうです。同じ班の六十を過ぎた人が、去年、右の中指の先を落としました。その人はいま、指の短いままで細工の仕事をしております。私よりよほど早く、よほど正確です。仕事というのは、手が減っても腕は減らないものらしいです。 戸苅 秋生 二〇二四年五月二十日 梶田さんへ 去年の五月に最初のお手紙を差し上げましたので、これでちょうど一年になります。数えてみましたら、これが十三通目でした。数えるまでは、もっと出しているつもりでおりました。 一年で変わったことを書こうとして、書くことがないのに気がつきました。工場は同じで、班も同じ、作っている椅子の型も番号が一つ変わっただけです。房も移っておりません。変わったといえば窓の外の桜が咲いて散ったことくらいですが、それは去年もありました。椅子の型の番号が一つ変わったことを、去年の私なら書かなかったと思います。書くことがないと分かってくると、細かいことを書くようになるようです。 指はふさがりました。爪の付け根に白い線が残っております。糸を抜いた日に、医務の職員が、うまく寄っていると言いました。褒められたのが自分の傷なのか、縫った人の腕なのかは分かりません。 こういう場所では、変わらないことを悪く言う人はあまりおりません。変わるときは、たいてい悪いほうに変わるからです。 一年前に最初の手紙を書いたとき、何を書けばよいのか分からなくて、書き損じた便箋が四枚出ました。便箋は月に買える枚数が決まっておりますので、無駄にすると翌月まで響きます。一枚目には天気のことしか書いてありませんでした。二枚目には生まれた年を書いて、それきり進みませんでした。いま読み返せるものなら読み返したいのですが、書き損じは処分しております。 いただいたお手紙のほうは数えておりません。数えれば、こちらが出した数と合っているかどうかが分かってしまいます。どちらに転んでも、次から書きにくくなると思います。 梅雨の前は、庭の草が伸びる時期だろうと思います。膝を折る格好の作業は、どうか人にお任せください。 戸苅 秋生 二〇二四年六月三十日 梶田さんへ そういうことを聞かれるとは思いませんでした。 一年以上お便りをいただいて一度も聞かれませんでしたので、聞かないでいてくださるのだと思っておりました。思っていたというより、そのほうが楽でしたから、そういうことにしておりました。ここから出す手紙は全部読まれます。読まれて困ることは書けませんし、書けないことを書こうとすると途中で手が止まって、その日はもう何も書けなくなります。ですので今日は、調書に載っている事実だけを書きます。それなら書けます。 二〇一九年の六月でした。勤めていたのは内装の会社で、その日は現場が一つ終わった打ち上げでした。会費が四千円で、私は三軒目まで行きました。三軒目を出たのが十一時四十分ごろだと、あとで防犯カメラの時刻をもとに言われました。自分の記憶では、もっと早い時間のつもりでおりました。駅の北口を出て、線路沿いの、片側にブロック塀の続く道です。幅は二間ほどで、自転車がすれ違うのがやっとという道でした。三軒目を出たとき、私は一人でした。二人と別れたのがその手前の信号だったのか、店の前だったのかは、はっきりしません。何を飲んだかも覚えておりません。覚えているのは、二軒目で出た揚げ物が冷めていたことと、それを誰も言わなかったことです。そういうことばかり残ります。 肩が触れました。 先に手を出したのは自分です。 相手の方は四十三でした。私より一つ下です。その晩まで一度も会ったことのない方で、どこの誰かも知りませんでした。お子さんが二人いたことは、検察官が法廷で読み上げたときに初めて知りました。上のお子さんがそのとき中学一年、下のお子さんが小学四年だと聞きました。どういう仕事をされていた方かも、そのとき初めて知りました。書き写せば覚えてしまいますので、ここには書きません。 殴ったのは一度です。一度で、そのまま後ろに倒れて、縁石で頭を打ちました。私は立っておりました。しばらく何もせずに立っておりました。救急車を呼んだのは通りかかった若い二人連れで、私はそのあいだ、その二人が電話に向かって道の名前を言うのを聞いておりました。自分が住んでいる区の道の名前を、私はうまく言えなかったと思います。逃げませんでしたが、逃げなかったことを自分の手柄のように言う人が周りにいて、私はそれが嫌でした。足が動かなかっただけです。 三日後に亡くなりました。私はそのときすでに留置場におりましたので、亡くなる場面を知りません。知らないということが、いまだに落ち着きません。人が死ぬところを見ていないのに、自分がそれをやったことだけは間違いがないという状態を、五年かかってもうまく飲み込めずにおります。飲み込むという言い方も、たぶん違います。教えられたのは取調べの部屋でした。机の向こうの人が、罪名が変わりますと言いました。亡くなりましたではなく、変わりますという言い方が先に来ました。あとから考えれば、その人はその人の仕事の言葉で言っただけです。ですが私は、その順番のまま覚えてしまいました。 翌朝、右手の中指の付け根が腫れておりました。気がついたのは指紋を取られたときで、押しつけられて痛みが走るまで、自分の手を見てもおりませんでした。前の晩に何をしたかを、体のほうが先に知っていて、私が最後に知らされたような順番でした。 公判は三回ありました。三回目に、奥様が意見陳述をなさいました。読み上げる紙を持つ手が震えていて、途中で一行飛ばして、戻って読み直されました。飛ばした一行と、読み直したときの声と、両方を私は覚えております。私はそのあいだ、証言台のほうを見てはいけないと言われていたわけではありませんのに、机の木目を見ておりました。合板の、印刷された木目でした。本物の木目なら、どこで継いであるかまで見てしまいますので、あれが印刷でよかったと思っております。内容はここには書きません。書けば、私が自分のためにそれを使うことになります。使わないつもりでも、書いた時点で使ったことになると思います。 謝罪の手紙は二度出しました。二度とも、開かれないまま戻ってきました。封筒の口を留めた糊がそのままの形で戻ってくるというのを、あのとき初めて知りました。差出人の欄には、自分の名前とここの住所を書かなければなりません。その封筒が相手のお宅の玄関まで運ばれていくところを考えますと、一度目のあと、二度目を出すまでに半年かかりました。三度目は出しておりません。出さないのが誠意だと言う人もおりますし、出さないのは逃げだと言う人もおります。私はどちらでもよいと思っております。どちらでもよいと思っていることが、いちばんよくないのかもしれません。 八年という数字は、私が決めたものではありません。どういう計算でその数字になったのかは判決文に書いてありましたけれども、いま思い出せるのは数字のほうだけです。数字は覚えやすくできております。八年で足りるのか足りないのかを考えたことはありますが、誰に向かって足りると言えばよいのかが分かりませんので、途中でやめました。 ここまでで便箋が五枚になりました。長くなりまして申し訳ありません。今月の発信はこれで終わりです。来月は工場の話にします。 戸苅 秋生 二〇二四年七月十一日 梶田さんへ あんなに長く書くつもりはありませんでした。 読みました、とだけ書いてくださればよかったのに、あそこまで書いていただくと、かえって困ります。困りますという言い方は失礼かもしれません。梶田さんが悪いのではなくて、私が、返事をもらえるように書いてしまったのではないかと思っております。書いているうちは自分でも気がつかないものですが、五枚も書くというのは、そういうことのような気がします。 前の手紙に書いたことに、嘘はありません。 ただ、書いた順番は違っていたかもしれません。あの晩のことは、思い出すたびに前後が入れ替わります。肩が触れたのが先か、何か言われたのが先か、そこがどうしても定まりません。定まらないものを紙に書くと、書いたほうの順番で固まってしまいます。固まったものを、私はあとから本当のことのように覚え直します。五年もそれをやっておりますので、いまさら何が最初だったのかを掘り返す気にはなれません。 訂正はいたしません。書いたものは出したのですから、それが私の書いたことです。 七月に入って、工場が暑くなりました。窓は上のほうが少し開くだけで、扇風機が三台、天井から吊るしてあります。首が振る間隔は決まっておりますので、風の来る番が回ってくるのを待つようになります。汗が板に落ちると染みになりますから、みな首に手拭いを巻いております。梅雨のあいだは木が湿気を吸って、朝に合わせた寸法が昼には合わなくなります。〇・五ミリほどのことですが、ダボの穴は〇・五ミリで入らなくなります。担当の先生は、木が動くのは木のせいではないとおっしゃいました。私はその言い方が気に入っております。工場の暑さのことばかり書いておりますが、書くことがこれしかないわけではありません。他のことを書き始めると、また五枚になります。 お返事は、無理になさらないでください。私は月に四通しか出せませんので、こちらのほうが先に息が切れます。 戸苅 秋生 二〇二四年八月二十四日 梶田さんへ 七月にお出しした手紙のお返事が、まだこちらに届いておりません。郵便のことは分かりませんので、行き違いということもあるかと思います。 六月の手紙のことで、お気を悪くされたのなら、私の書き方が悪かったのだと思います。あれは聞かれたから書いたのであって、読ませたくて書いたのではありません。書いたあとで読ませたことになるのは、こちらの都合を先に考えなかったからです。 お盆のあいだは免業で、工場が四日休みました。房にいると蝉の声が上のほうから聞こえます。木が高いのだろうと思います。外の木は見えません。封筒の宛先はいつもと同じに書きました。書き間違いがないかどうか、二度確かめました。 指の白い線は消えません。夏になって少し目立つようになりました。 体調を崩されていないかと、それだけ気にしております。膝のことも書いておられましたので、暑さで悪くなっていないかと思います。お返事はご無理をなさらないでください。無理をしないでくださいと書いておいて、また出すのは勝手だと分かっております。今月はあと一通残っておりますので、それも出すかもしれません。残しておいても、来月には繰り越せない決まりになっております。 戸苅 秋生 二〇二四年九月十日 梶田さんへ。八月に出した手紙が届いているかどうか、こちらから確かめる方法がありません。戻ってきてはいませんので、届いてはいるのだと思います。届いていて返事がないのと、届いていないのとでは、話がまるきり違ってきますが、こちらではどちらとも分かりません。 変わりありません。 工場では椅子の背の部品を削っています。同じ形のものを三十六本です。三本目までは一本ごとに寸法を当てますが、十本を過ぎるあたりから手が形を覚えてしまって、頭のほうが空きます。空くと、六月に出した手紙のことを考えます。あれを読んで気分を悪くされたのでしたら、こちらが悪いので、詫びます。ただ、書いたことのどれが余計だったのかが分からないままですので、次に何を書かないでおけばよいのかも分かりません。 お体のほうで何かあったのでしたら、無理に返事をくださらなくて結構です。庭の草はこの時期にいちばん伸びると伺いました。膝を折ってする仕事は、どなたかに頼まれたほうがよいと思います。 用件はありません。すみません。 戸苅 秋生 二〇二四年十月八日 十月に入って、朝の点検のときに息が白く見えるようになりました。舎房の窓は上のほうが十五センチだけ開きます。先月の終わりに台風が来ると聞いていましたが、こちらは雨が一日降っただけで済みました。そちらは風のほうが強かったそうですね。屋根に何もなかったのでしたら、それでよかったと思います。 お手紙は九月三十日に渡されました。日付が九月二十四日になっていましたので、六日かかったことになります。手紙は夕方の点検のあとに名前を呼ばれて受け取ります。呼ばれてから受け取るまでに、廊下を十歩ほど歩きます。その十歩のあいだは、誰からのものかも、何通あるのかも分かりません。三度読みました。二度目は夕食のあとで、三度目は就寝の前です。折り目のところから紙が薄くなりますので、三度目からは開かずに私物入れに寝かせて入れています。 猫のことは、心配しています。十四年も一緒におられたのでしたら、食べないというのはこたえるだろうと思います。点滴が一回七千円で、それが週に二回ということでしたら、通うほうも楽ではありません。無理に食べさせないほうがいいと聞いたことがありますが、こちらは猫を飼ったことがありませんので、あてになりません。 こちらは変わりありません。 九月から座卓の天板にかかっています。長さ百二十センチ、幅六十センチ、厚みは三十ミリの集成材です。天板は反りが出ると使いものになりませんので、木裏と木表を見て並べ替えてから接ぎます。ボンドがはみ出したところは、乾く前に固く絞った布で拭きます。乾いてしまうと透明になって目に見えなくなり、塗装をかけたときにそこだけ色が乗らないので、拭き残しは必ずあとで分かります。分かるころには直せません。班の若い者がそれを二度やって、二度ともこちらが気づかないまま通したので、同じだけ叱られました。若い者は不器用ではありません。手が早いだけで、早い者は拭くのを最後に回します。まだ二十二で、出たら父親の店を継ぐことになっていると言っています。継ぐ店があるというのは、こちらから見ると珍しいことです。継ぐと言いながら、その店が今どうなっているかは知らないそうです。 八月と、その次に出した手紙のことは、気になさらないでください。急かすつもりで書いたのではありません。 戸苅 秋生 二〇二四年十一月十二日 お尋ねの件ですが、こちらから先に書いておくべきことでした。娘がいます。名前はひなのといいます。今年で十六になりました。 生まれたのは平成二十年の秋です。名前は母親がつけました。字はひらがなで、届の欄にそのひらがなを書いたのはこちらです。三文字を書くのに、下書きを一度しました。認知の届は、生まれた次の年に市役所へ出しに行きました。窓口で職業の欄に何を書けばいいのか分からず、係の人に二度聞きました。内装と書けばいいと言われて、内装と書きました。判をどこに押すのかも聞きました。届を出したあとに、母親と三人で暮らす話は出ましたが、こちらが金を作れないまま延ばしているうちに、その話は消えました。消えたというより、向こうが言わなくなって、こちらも聞かなくなりました。養育費は月に二万四千円と決めました。通算で払えたのは七回です。最後に送ったのは事件の前の年の十二月で、それきりになっています。公判の前に、弁護人を通して母親から一枚だけ紙が来ました。娘にはこのことを話していない、これからも話さない、と書いてありました。返事は書きませんでした。書くなという意味の紙だと思いましたので、そのとおりにしました。 一度も会っていません。 顔も知りません。母親のほうから写真が送られてきたことはありませんし、こちらから頼めば送ってくれるのかもしれませんが、頼んだことはありません。頼まないでいるうちに十六になりました。どこの高校に行ったのかも知りません。ここで作業してもらえる報奨金は、いまの等工でひと月に四千二百円ほどです。出るときに一度に渡されるもので、途中で外へ送るには願箋を出して許可を取ります。一度だけ、その手続きを職員に聞いたことがあります。聞いて、書き方の紙をもらって、その紙は今も私物入れにあります。八年ぶんを全部足したところで、私立の一年ぶんにもならないと思います。だから送らないのだと書くと、順番が逆になります。送らないでいることの理由を、あとから金のほうに置いているだけです。 作業の合間に、端材にあの三文字を書いたことがあります。鉛筆で書いて、そのまま鉋をかけて削りました。削り屑は箒で寄せて、その日の他の屑と一緒に捨てます。書いたのは一度きりです。二度目をやるほどのことでもありません。 梶田さんは、会えるうちに会いに行きなさいと書かれるだろうと思っていました。そう書かれていませんでしたので、こちらは少し困りました。困ったというのは、責めているのではありません。 来月は納品が二つ重なりますので、工場は夕方の点検の時間まで動きます。 戸苅 秋生 二〇二四年十二月十八日 そうですか。 八日の朝だったと書いてありました。十四年半というのは、こちらがここへ来てからの三倍近くになります。人の三倍の速さで年を取るというのは、そういうことなのだと思います。 キジ縞で、背中の縞は右のほうが太くて、腹だけが白いのでしたね。右の前足の先が白くて、鼻の頭に胡麻粒ほどの黒い点があって、しっぽの先がわずかに折れている。耳の縁は左が欠けている。若いころに外で喧嘩をしたときのもので、獣医は縫わなくていいと言った。朝は五時前に枕元へ来て、低い声で二度だけ鳴く。返事をしないともう鳴かずに、布団の足のほうへ回って座っている。水は器から飲まずに、風呂場の蛇口の下で待っている。爪とぎは柱の、床から六十センチくらいのところがいちばん深く抉れている。日が回ると縁側を三十センチずつ動いていって、いちばん端の、板の少し反ったところで昼を過ごす。抱かれるのは嫌いで、膝には乗らずに膝の横まで来て、背中だけをつけて寝る。冬は炬燵に入らないで、その横の座布団に乗る。座布団は決まっていて、洗った日は乗らない。鳴きながら入ってくることはなくて、気がつくと部屋にいる。呼んでも来ないが、台所で戸棚を開けると来る。開ける音と、他の音とを聞き分けている。年を取ってからは、段差の前で一度止まって、上がる場所を目で測ってから上がるようになった。 縁側の端の板が少し反っていると伺ったのは、去年の秋でしたか。反りは直りません。人が乗るところではありませんし、猫の重さなら十年でも二十年でも保ちます。そのままにしておいて構わないと思います。 最後は家の中で、いつもの場所にいたと書いてありました。猫は死ぬときに姿を隠すと聞きますので、隠れずにそこにいたのなら、そのほうがいいと思います。 木の下に埋められたと書いてありました。穴は誰が掘られたのですか。四十センチでも、根の張っているところの土は固いはずで、膝であれをやるのは無理です。スコップを踏み込むときに体重が片方に乗りますし、掘った土をどけるときにもう一度乗ります。近所の方に頼まれたのでしたら、それでいいと思います。ご自分でやられたのでしたら、二三日は水仕事をやめて、湿布を貼ってください。夜に痛みが出るようでしたら、次の手紙にそう書いてください。書かれても、こちらからは何もできませんが、書いてください。 手紙をもらった日は、木口を三十枚ぶん磨きました。番手を替えるのを忘れて、二百四十番のまま最後まで通してしまい、班長にやり直しを言われました。やり直しは苦になりません。同じ場所をもう一度やるだけですし、やっている間は何も決めなくて済みます。 箱を作りたいと思いました。ここで作ったものは持ち出せませんし、材料を自弁で買うこともできません。願箋を出しても通らないと思います。ですので寸法だけ書いておきます。桐、板の厚みは十二ミリ、内寸で長さ二百十ミリ、幅百三十ミリ、深さ九十ミリ。留めは釘を使わずに、ダボを四本と接着だけで組みます。蓋は被せ蓋にして、四辺に二ミリずつ遊びを取ります。ぴったりに作ると、梅雨に木が膨らんで開かなくなります。開かない箱を無理に開けると、たいてい蓋の側が割れます。木口は四百番までかけて、角は面を取ります。面は大きく取らないでください。指が触れる部分だけ、爪の先ほど落とせば充分です。中には何も塗りません。塗ると匂いが残って、それが何十年も抜けません。外側も、油を薄く一度だけでいいと思います。 そちらで大工さんに頼まれるのでしたら、桐でなくても構いません。杉でも、ホームセンターで売っている集成材でもいいです。頼むときにこの寸法を見せてください。見せれば通じます。 もっとも、土に埋められたのでしたら箱は要りません。要らないものの寸法を長く書きました。読み飛ばしてください。 年末は二十七日で工場が終わって、五日まで動きません。そのあいだは手紙も出せませんので、次に出すのは正月が明けてからになります。 戸苅 秋生 二〇二五年一月八日 年賀のはがきは七日に渡されました。松の内のうちに届いたことになりますので、こちらでは早いほうです。赤い実のついた枝が描いてありました。南天でしょうか。実の下に薄く影が入れてあって、その影のところだけ紙が少し波打っていました。 元日の朝は雑煮でした。角餅が二つ、鶏肉、小松菜、汁は醤油です。昼に折詰が出て、黒豆、昆布巻き、伊達巻き、蒲鉾が三切れ、それにみかんが一つ。甘いものは一年でこの日がいちばん多く出ますので、伊達巻きをその日のうちに食べない者はいません。黒豆を最後まで残しておいて、夕方になってから一粒ずつ食べている人もいます。夕食は普段どおりでした。普段どおりのものが出ると、昼のことが少し遠くなります。 三が日は免業です。テレビは普段より二時間長く点いていて、二日は駅伝を最初から最後まで流します。見ている者と、寝ている者と、両方います。同じ工場の、五十九になる人が、去年と同じ区間で同じように声を出していました。あとで聞くと、母校でも郷里でもないそうです。走っている者のうちの誰かが、去年転んだのを見てからだと言っていました。転んだあとどうなったかは、その人も覚えていません。その人は元は魚屋で、正月は一年でいちばん働く日だったそうです。三十いくつのころから五十を過ぎるまで、元日に何もしない日というのが一度も無かったと言っていました。ここへ来て初めて、正月に座っているというのを知ったのだと。そういう話を、こちらは黙って聞いています。相槌を打つと長くなりますし、長くなると必ず、来る前の話になります。 作業がないと一日が長くなります。四日の夕方には、みな五日のことを話しています。五日の朝の号令がかかると、そこでやっと正月が終わります。終わってしまえば、雑煮のことも折詰のことも、思い出すのに少し手間がかかるようになります。 そちらの雑煮は白味噌で、餅は丸いのだと前に伺いました。こちらは千葉で育ちましたので、角餅より他を知りません。丸い餅を焼くと、あれはどのように膨らむのですか。 餅を猫にやると喉に詰まると聞きますが、そちらではどうされていましたか。 戸苅 秋生 二〇二五年二月十日 そういうことを聞かれるとは思いませんでした。 二月は工場の朝がいちばん冷えます。指の関節のところが割れて、そこに木の粉が入ると、湯で洗っても取れません。ハンドクリームは自弁で買えますが、購入の申し込みは月に一度で、注文してから手元に来るまでに二十日ほどかかります。二十日のあいだに割れたところは一度ふさがって、また割れます。 一月の終わりに、こちらで少しありました。工場が二日止まって、そのあいだ房から出ませんでした。二日たって作業に戻ったら、こちらの台の上のものが誰かの手で片づけられていて、鉋の刃が抜いてありました。刃は三日後に戻りました。戻ったときに、砥ぎ直してあるのが分かりました。誰が砥いだのかは聞いていません。 そのことを書こうとして、便箋を二枚書きました。二枚とも出せません。房で紙を破ると音がしますので、折って畳んで、そのまま処分の箱に入れました。 これは書けません。 この手紙が読まれることは分かっていますが、それだけが理由ではありません。読まれないのだとしても、たぶん書かないと思います。書かないでおくことに理由がついているうちは、まだましなのだろうと思います。 お尋ねのもう一つのほうですが、木の匂いのことでしたら、桐はほとんど匂いません。杉は削ったときに強く匂って、二年もすると抜けます。檜はいちばん長く残ります。抽斗の中に何年も残るのは、たいてい檜です。着物を入れるのに桐を使うのは、匂いが移らないからです。軽くて、火に強くて、湿気で膨らむのも、あれは欠点ではありません。膨らんで隙間をふさぐので、外の湿気が中まで来ません。よくできた箪笥は、一段を強く押すと、離れた段が押し戻されます。中の空気が逃げるところを探すからです。そういうものを一度でも触ると、あとは寸法の話ばかりするようになります。 三月で四十六になります。四十五だった一年のことで覚えているのは、二つか三つしかありません。 戸苅 秋生 二〇二五年三月十七日 先月の手紙のあとは、もう何も書かれてこないのではないかと思っていました。いつもと同じ長さのものをいただきましたので、いつもと同じように読みました。 十九日で四十六になります。当日は工場です。誕生日だからといって何かが出るということはありませんし、こちらから言わなければ誰も知りません。房に暦はありますが、日にちのほうは点検で分かりますので、暦は月の並びを見るためだけにあります。 二月に健康診断がありました。身長は百七十一、体重は六十一キロで、入るときが六十八ですから、五年で七キロ減ったことになります。減ったのは最初の一年で、そのあとは動いていません。血圧は上が百四十二、下が九十で、要観察と書かれました。目のほうは、近いところが見えなくなりました。ボンドのはみ出しは見えるのに、願箋の罫線が見えません。老眼鏡は自弁で買えて三千八百円だそうですが、申し込んでから届くまでに一月半かかると言われました。それまでは、腕を伸ばして書いています。この手紙の字が前より大きくなっているとしたら、それだけの理由です。行の終わりが下がってきているのも、同じです。奥歯も一本、かぶせたものが取れています。治療の順番は四か月待ちで、痛みが出たら早くなるそうです。痛みが出るのを待っている状態というのは、あまりよくないものです。 四十五だった一年で覚えていることを、この前の手紙に二つか三つと書きました。あれから数えてみましたので、書いておきます。三つでした。四月に左の人差し指を切ったことと、八月から九月にかけてのことと、十二月のことです。十二月のことは、こちらの身に起きたことではありません。それを自分の一年に数えるのは、おかしいのかもしれません。おかしいと思いながら、外しませんでした。 満期まで、あと二年八か月です。 日を数えるのはやめておけと言われます。数えないでいると、今度は何も進んでいないことになりますので、月の数だけは覚えています。日にちまで数える者は、たいてい一度つまずいています。月で数えていると、変わるのがひと月に一度ですので、変わったときに少しだけ何かが動いた気になります。それだけのことです。 梶田さんのお誕生日は、前に伺ったかもしれません。書き留めていませんでした。次のときに教えてください。日付を覚えるのだけは得意です。 戸苅 秋生 二〇二五年四月十五日 お尋ねがありましたので、姉のことを書きます。名前は由美といって、五つ上です。船橋の、駅から歩いて十二分の団地に住んでいました。住んでいました、と書きますのは、去年の四月にこちらから出した手紙が戻ってきたからです。あて所に尋ねあたりません、という付箋が貼ってありました。転居の届が出ていれば別の付箋になるはずですので、届を出していないか、出してから期間が過ぎたかのどちらかだと思います。三十年住んでいた場所です。 最後に会ったのは、ここへ来て一年たった年の十一月です。面会は十五分で、職員が横で書き取ります。アクリル板の向こうに座って、最初の五分は何も言いませんでした。こちらから、体はどうかと聞いて、うん、と返ってきて、それでまた黙りました。板の下のところに、切ったばかりの爪の手が乗っていました。姉は昔から、人と会う前の日に爪を切ります。差し入れは便箋が一冊、切手が二十枚、靴下が三足です。靴下は色が決まっているので、そのうち二足は使えませんでした。使えないと分かっていて持ってきたのではありません。色のことは、そもそも誰も教えません。帰りぎわに、お母さんのことは私がやるから、あんたは何も送ってこなくていい、と言いました。送れるものが何もない時期でしたので、こちらは、うん、とだけ言いました。 母の施設は、月に十二万八千円かかると聞いています。姉が払っています。どこの施設なのかは聞いていません。聞かなかったのか、聞いて教えてもらえなかったのかは、もう思い出せません。母は姉のことも分からなくなっていると、そのときに聞きました。分からなくなった人のところへ、姉は月に二度通っていると言っていました。通ったところで向こうには残りませんので、その二度は姉のためのものです。姉のためのものに、こちらは一円も出していません。 姉の連れ合いは腰を悪くして、仕事の日を減らしたそうです。姉のほうはスーパーの惣菜で、朝は六時に入ると言っていました。朝六時に入る仕事をしている人が、平日に千葉まで来て、十五分だけ座って帰ったことになります。そこまでは、あのときは考えませんでした。考えたのは、面会が終わって房に戻って、靴下の色のことを職員に聞かれたときです。順番が逆になるのは、こちらではよくあることです。 年賀状は、来なくなって三年になります。こちらから出せる枚数は決まっていますので、いまは母のいる施設宛に一枚出して、それだけです。宛先が分からないところへ出すことはできません。 四月は木が動きます。冬に組んだものが、この時期に一度だけ鳴ります。音がしても、たいていは何ともありません。 戸苅 秋生 二〇二五年五月十一日 梶田さんへ。花の名前を教えていただいて、恐れ入ります。工場の南の窓から見える植込みの、白い小さな花が毬のように集まって咲くものです。あれがコデマリというのですね。ここへ来て六度目の春になりますが、毎年見ていながら、名前を知らずにおりました。 先週、母から手紙が来ました。 手紙は封を開けた状態で渡されます。昼の休憩の前に担当の方が差出人と宛名を読み上げて、呼ばれた者が順に前へ出て、両手で受け取って自分の場所へ戻るまでが一続きの決まりになっています。手に木屑がついていましたので、作業着の腿で二度払ってから受け取りました。封筒の表の字は知らない字でした。母の字だと分かっていれば、読み上げられた時点で分かったはずですから、あのときは姉のほうかと思って前へ出ています。中の便箋は罫の細いもので、下のところにホームの名前が薄く刷ってあります。二枚入っていて、二枚目には電話番号だけが書いてありました。休憩は二十分しかありませんので、そのときは一度だけ目を通して、四つに畳んで胸のポケットへ入れ、午後の分の座板を数えに行きました。 そのまま写します。仮名遣いも直しません。 秋生さん、おげんきですか。 こちらはみんなげんきにしています。 きのうはホールでみなさんと歌をうたいました。ふるさとと、みかんの花咲く丘でした。 おやつはカステラで、二切れいただきました。 静さんは、あきおさんのお話をよくなさいます。 これからあつくなりますから、からだにきをつけてください。 戸苅 静 (代筆 上野) 以上です。 字がきれいになっていました。昔の母は角のある字を書く人で、封筒でも葉書でも、「静」の下のところだけをいつも大きく書いて、そこだけ紙から浮いて見えるような書き方をしました。紙と鉛筆さえ出してもらえば、あれだけ書けるということです。歌の題も二つとも入っていて、順番まで合っているように思います。子どものころ、みかんの花咲く丘は台所で聞かされた覚えがありますが、こちらは私の側の記憶ですから、当てにはなりません。最後に顔を見たのは判決の前に一度だけ面会に来たときで、あのときは私の名前を二度聞きました。二度目に聞かれたときは、頷いただけで答えませんでした。それを思えば、ずいぶん戻ったのだと思います。 夜、点検が済んでから、房でもう一度読みました。就寝までのあいだは電灯が明るいので、細かい字でも読めます。二枚目の電話番号を、意味もないのに三度読みました。ここから電話はかけられません。かけられないものを覚えても仕方がないのですが、番号の並びに七が三つ入っていて、そこだけ指でなぞりました。 返事を書こうとして、三日考えて、まだ書いていません。何を書けばいいのかというより、どこまで書いていいのかが分かりません。工場の話をしても分からないでしょうし、体のことを尋ねるのも、こちらから言えた義理ではありません。天気の話だけで一枚書けるものかどうか、便箋を出しては仕舞いました。 ここから出せる手紙の数は月に決まっていて、今月はあと二通です。母へ一通、梶田さんへ一通と考えておりましたが、順番が逆になりました。 戸苅 秋生 二〇二五年六月八日 梶田さんへ。梅雨に入る前に土を起こしておくという話は、こちらでは想像するよりほかありませんが、腰を落として草を抜く姿勢が膝に障ることだけは分かります。前にお書きになっていた北側の細い通り道は、雨のあとに滑ると思います。そこだけでも砂利を足していただけませんか。 先月の末に、分類の面接がありました。仮釈放の話です。 順を追って書きます。まず担当の先生から呼ばれて、机を挟んで座って、いくつか質問を受けます。出たあとどこに住むのか、誰が引き受けるのか、仕事の当てはあるのか、そういうことを、こちらの答えを紙に書き取りながら順に聞かれます。そのうえで保護観察所のほうで生活環境調整というものが始まって、身元引受人になり得る人の住所へ書類が行きます。母のホームは引受先になりません。ですから姉の住所へ照会が出ました。姉とは、こちらへ来てから五年以上、一度もやり取りがありません。住所が今も同じかどうかも分かりませんし、同じであったとしても、封筒の差出人のところに保護観察所と刷ってあるものを開けるかどうかは、また別の話だと思います。書類が戻ってくるまで二か月ほどかかるそうです。 期待はしていません。 満期は二〇二七年の十一月です。今日で残りが二年五か月と少しになります。作業報奨金は、今のところ十九万と少しあります。出たら最初に何をしますかと聞かれて、そのときは何も答えられませんでした。すぐに答えられなかったことのほうが、答えの中身より先生の紙には残ったのではないかと思います。房に戻ってから順番を考えました。まず区役所で住民票を作って、それから免許のことを調べて、床屋へ行って、風呂に入って、それから何か食べます。床屋を三番目にしたのは、区役所の窓口に座る前に切っておいたほうがいいと思い直したからで、そうすると順番が入れ替わって、また一から並べ直すことになります。食べたいものを一つだけ挙げろと言われれば、うどんです。立ち食いの、汁の濃いやつです。天ぷらは載せません。冷めた天ぷらの衣が汁を吸ってふやけるのが、昔から好きではありませんでした。 こういうことを夜に考えるのは、あまりよくないと分かっています。分かっていて、消灯のあとに二回か三回、順番を並べ替えます。 工場は今、学校で使う椅子をやっています。次の手紙のころには納品が済んでいると思います。梶田さんの膝は、湿気の多い時期のほうが痛むと前に書いておられました。次の面接は秋だそうです。 戸苅 秋生 二〇二五年七月二十日 梶田様 先日の面接の結果が出ました。今回は見送りということになりました。理由は帰住先が定まらないことで、それ以外は言われませんでした。 姉の住所へ出した照会には、返事がありませんでした。宛先不明で戻ったのではなく、届いたうえで返事がない、ということだそうです。届いたのなら、それでいいのだと思います。 聞かされたのは十日の午前十時過ぎで、担当の先生の机の横に立ったまま、二分ほどでした。紙は見せてもらっていません。座りなさいとも言われませんでしたので、こういう話は立ったまま済む長さなのだということを、あとになって思いました。工場へ戻って、その日の残りの作業をしました。天板の面取りが四十枚残っていて、昼までに二十六枚、午後に十四枚やりました。数えていたわけではありませんが、あとから伝票を見れば分かります。午後の十四枚のうち二枚は角を落としすぎて、検品で戻ってきました。 更生保護施設に申し込むという道があると教わりました。順番待ちがあって、施設によっては受けないところもあるそうです。次に話が出るのは来年の春だと言われました。 一枚書きかけて、やめました。こういうことを続けて書くと、何かをお願いしているように読めるかもしれませんので、ここまでにします。 暑くなります。湿気は膝に障ると聞きました。 戸苅 秋生 二〇二五年八月十七日 梶田さんへ。気にかけていただいて、恐れ入ります。こちらは変わりありません。お尋ねの件は、また改めて書きます。 工場が忙しくなっています。六月に出したのと同じ学校用の椅子が追加で二百脚と、役所へ納める書棚が四十本、どちらも九月の頭が期限です。朝の八時十分に工場へ入って、体操をして、班ごとに持ち場につきます。私は組立ての三班で、脚と貫を組んで、座板を載せるところまでを受け持ちます。木はラバーウッドで、座板だけがシナの合板です。この時期は木が湿気を吸っているので、ダボ穴の径が微妙に変わります。同じ治具で同じように開けても、朝と午後で入りが違います。午後のほうが渋くなるので、木槌の当て方を変えます。強く叩けば入りますが、入ったところで木口が割れていては検品で戻ります。 温度計は今日、工場の中で三十四度ありました。扇風機は六台で、天井の近くに吊るしてあります。給水の時間は午前と午後に一回ずつ決まっていて、そのときに塩の錠剤が配られます。決まった時間に飲むというのは、慣れると楽です。喉が渇いたかどうかを自分で判断しなくてよくなります。 去年の春に切った左の人差し指の付け根は、白い線になって残りました。曲げると線のところだけ引きつれます。作業には差し支えありません。爪の間には木屑が入って、洗っても落ちきりませんし、指紋の溝に入ったものは風呂の日でないと出ません。手の甲の皮が厚くなって、湯を使ってもふやけなくなりました。指の腹で座板をなでると、四百番をかけたあとかどうかが分かります。かけたつもりで一枚飛ばしている板は、目で見ても分かりませんが、手のひらを端から端まで滑らせると、真ん中の三十センチほどのところで引っかかりが返ってきます。目より指のほうが確かです。これは前の職場でも同じでした。壁のパテを研いだあと、明かりを斜めから当てて見るより、手のひらを回して滑らせたほうが早く分かりますし、早いだけでなく、あとで塗ってから泣かずに済みます。 ボンドがはみ出したところは、乾く前に濡れた布で拭きます。乾いてから削ると、そこだけ塗料が乗りません。急いでいる日ほど、この一手間を飛ばして、あとで倍かかります。分かっていてもやります。 来週から昼の休憩が十分延びるという話が出ています。決まったわけではありません。 戸苅 秋生 二〇二五年九月十四日 梶田さんへ。手術の日が決まったとのこと、承知しました。 入院は何日の予定でしょうか。膝の場合、術後すぐに立たされると聞いたことがあります。リハビリの回数と、退院してから通う回数を、先生に紙に書いてもらってください。口で聞いただけでは、家に帰ると順番が入れ替わります。 家のことを先に書きます。手すりは、床から七百五十から八百のあいだが使いやすいそうです。玄関の上がり框が高いようでしたら、そこは縦の手すりのほうが力が入ります。廊下は横です。取り付けるときは、下地のあるところを探さないと、板だけに留めたものは体重を預けた一度目で抜けます。壁を軽く叩いて音の詰まったところが下地ですが、ご自分で探されるより、来てくださる業者に柱の位置を先に聞いてください。風呂の椅子は、座面が四百くらいあると立ち上がりが楽になります。低い椅子は膝に一番よくありません。スリッパは退院の日にやめてください。あれは足の裏が浮くので、踵の低い靴下にしていただくほうが安全です。 台所の物を、腰の高さへ移しておかれるとよいと思います。鍋も、皿も、砂糖も塩も、しゃがまないで取れるところへ上げてしまってください。上のほうへ上げるのも同じくらい危ないので、腰です。毎日使うものだけを腰の高さの棚に出しておいて、年に何度かしか使わない鍋は、退院してひと月経つまで下に置いたまま忘れておかれるほうが安全だと思います。冷蔵庫は、退院の前の日に中を空けておかないと、帰ってきてから捨てるものが出ます。開けて、しゃがんで、奥の物を引き出して、立ち上がるという動作が、術後の膝には一番こたえるはずです。 庭の水やりは、どなたかに頼めますか。九月の末までは乾きます。留守のあいだ郵便受けが溜まると、外から見て分かりますので、そちらもどなたかに。 前のお手紙にあった、北側の窓の下の鉢は、雨だけでは足りないと思います。あの場所は屋根が出ているのではありませんか。 絵の道具は、しばらく片づけずに出しておかれたらいかがでしょう。座ってできることです。 こちらのことは、次に書きます。 お返事は急ぎません。手が空いたときで結構です。 戸苅 秋生 二〇二五年十月十九日 梶田さんへ。そういうことを聞かれるとは思いませんでした。逃げずに書きます。 出るのは二〇二七年の十一月で、そのとき四十八です。まず住むところですが、母のホームの住所に住民票を置くことはできません。更生保護施設に入れたとして、原則は六か月です。その六か月のあいだに部屋を借りるとなると、保証会社の審査があって、緊急連絡先の欄が要ります。ここに書ける人の名前を、私は今のところ持っていません。 携帯電話は、本人確認の書類と口座がないと契約できないそうです。口座は八年動かしていませんので、どうなっているか分かりません。免許は二〇二〇年の四月に切れました。七年以上空きますので、一から取り直しになります。教習所は三十万近くかかると聞きました。 内装には戻りません。 戻れない理由を並べておきます。道具を持っていません。地ベラも撫でバケもオルファの替刃の箱も脚立もコンプレッサーも、事件のあとに全部処分されました。処分したのは家賃を止めた大家さんだと聞いていますので、恨む筋合いではありません。一式そろえ直すと十五万から二十万です。現場に入るには会社に所属していないと入場の手続きができませんし、その手続きの書類には健康診断や安全衛生の教育の記録が要って、どれも先に金と日にちが出ていきます。前の親方からは、こちらへ来た年の暮れに一度だけ手紙が来て、それきりです。返事は出しました。届かなかったのか、届いて返さなかったのかは分かりません。あの人は字を書くのが好きな人ではありませんでしたので、一度書いたというだけで、たぶんそれが精一杯だったのだと思います。四十八で、道具も車も免許もない者を、内装で使うところはありません。 木工は六年やりましたが、資格ではありません。ここで作った椅子が学校で使われていても、それを証明する紙は出ません。職業訓練でフォークリフトを取る話がありますので、来年、順番が回れば受けます。あれは紙が出ます。 娘のほうへは、一度も入れていません。取り決めというものもしていません。認知はしていますので、書類の上では父親ということになっています。出て、月に二万でも入れられるようになるまで何年かかるかを、時給と、家賃と、施設を出たあとの敷金と、そういうものを並べて紙に書いてみました。書いてみて、その紙は捨てました。捨てたことを書いておきます。 ハローワークの相談が年に二回、ここへ来ます。協力雇用主という制度があって、前歴があっても雇うと言ってくださる会社の一覧を見せてもらいました。千葉県内で建設と製造と、あとは食品です。名前は覚えていません。覚えても、二年で入れ替わるそうです。 戸苅 秋生 二〇二五年十一月九日 梶田さんへ。そういうことを、今になって聞かれるとは思いませんでした。責めているのではありません。順に書きます。 二〇一九年の六月です。日は十四日だったと思いますが、確かではありません。金曜だったことだけは覚えています。会社の飲み会で、一軒目は駅前の居酒屋に十二人いました。二軒目へ行ったのが六人で、私はそこでビールを三杯とホッピーを二杯飲んでいます。こういう数字が書けるのは、取調べで何度も言わされたからで、覚えているのとは違うと思います。人に何度も言わされたことは、覚えていることの顔をして残ります。 二軒目を出たのが十一時半ごろで、駅とは反対の、資材置場のほうへ抜ける道を歩きました。近道です。翌日の朝が早い現場でしたので、始発の前に一度置場へ寄って積んでおくつもりだったのか、ただ足がそちらへ向いただけなのか、そこも今は分かりません。片側が月極の駐車場で、その角に自販機が立っています。そこで人とぶつかりました。肩です。どちらの肩がどちらに当たったのかは書けません。分からないからです。 六月にしては涼しい晩でした。 向こうが何か言いました。気をつけろだったか、邪魔だだったか、そのどちらでもなかったかもしれません。私も言い返しました。何を言ったかは覚えていません。声が大きくなって、距離が近くなって、そのあとに私の右手が出ています。当たったのは左の頬か、顎の下です。相手は後ろへ倒れて、縁石で頭を打ちました。音がしました。板を平たく落としたときの音に近いのですが、そう書くと、聞いたことのある音に寄せているだけのような気もします。 自販機の下に、缶が一本転がっていました。倒れたときに落ちたのか、前からそこにあったのかは分かりません。取調べで一度だけ聞かれて、覚えていませんと答えました。あとになって、あれは自分が二軒目から持って出たものではないかと思ったことがあります。そんなものは持って出ていません。持って出ていないのに、そう思った日が何日かありました。 そのあとは座っていました。逃げていません。逃げなかったことを手柄のように書く者がおりますが、あのときは足が動かなかっただけです。救急車を呼んだのは通りかかった人で、名前は知りません。その人は今もあの道を通っているのだろうかと、たまに思います。 留置場で三日目に、取調官から亡くなったと聞きました。それまでは傷害だと思っていました。会社にどう言われるか、示談がいくらになるか、そういうことを三日のあいだ順番に考えていて、あとは自分の手の腫れのことばかり見ていました。中指の付け根が腫れて、そこだけ色が変わっていて、握ると痛みました。冷やすものが欲しいと言ったかどうかは覚えていません。人が三日かけて死のうとしているあいだ、私は自分の手を見ていたわけです。 調書というのは、こちらの言葉では書かれません。話したことを取調官が文章にして、読み聞かせて、違うところがあれば言いなさいと言われます。直してもらったこともあります。ですが、直したところと直さなかったところの区別が、今はもうつきません。あのころは、直してくださいと言うたびに部屋の空気が硬くなるように思えて、二度目からは大きく違わないところは流しました。流したところが積もって、あとで自分の記憶のほうを押します。署名をして、指を押して、そのたびに一枚が出来上がります。出来上がった紙のほうが、こちらの記憶より先に固まります。固まった紙は裁判にも出ますし、ここの分類の面接でも読まれますので、六年のあいだに何度も、私は自分の書いていない私の言葉を読み聞かされてきました。 弁護人からは、先に手を出されたのならそう言いなさいと言われました。言えばよかったのか、言わなくてよかったのか、今も分かりません。 どっちが先かは、正直もう分かりません。 前にも同じことを書いた気がします。控えを取っていませんので、どう書いたかは覚えていません。もし前と違うことを書いていましたら、どちらかが嘘だということになりますが、嘘をついているつもりはありません。六年のあいだに、思い出すたび少しずつ形が変わって、変わったほうが本当のような顔をして残ります。木を削るのと似ています。削ったところは戻りません。 あの人には子どもが二人いました。裁判で、奥さんが紙を読みました。読んでいる途中で紙が下がってきて、横の人が手を添えました。その手のことは覚えています。読まれた中身は、半分ほどしか覚えていません。覚えていないと書くと、聞いていなかったように読めますが、聞いていました。聞いていて、半分しか入りませんでした。 反省文というものを、ここでも何度か書きます。書式があって、書き方を教わります。教わったとおりに書くと通ります。通るように書けるようになったことが、いいことなのかどうか、私には判断がつきません。 長くなりました。次は工場の話にします。お尋ねになったことの答えには、なっていないと思います。 戸苅 秋生 二〇二五年十二月二十一日 梶田さんへ。杖を突かずに郵便受けまで行けたとのこと、まず何よりです。無理をして戻る人が多いと聞きますので、雪や雨の日は行かないでください。郵便は溜めても腐りません。 ここで七度目の年末になります。 十二月は工場の納品が二十五日にあって、そのあと大掃除です。床のワックスを剥がして掛け直すのは今年は私の班で、機械の下は手でやります。年末はどこも同じで、普段動かさないものを動かします。書棚の裏から、去年落としたらしいドライバーが一本出てきました。工具は朝と夕方に数を合わせて、合わないうちは誰も工場を出られない決まりですので、去年の十二月にあの一本をどう帳尻合わせたのか、そちらのほうが気になります。誰かが自分の物を一本足したのだろうと思いますが、聞いても、もう分からないはずです。 作業報奨金で、正月用に飴と羊羹を買いました。羊羹は一本を四つに切って、四日に分けます。切るのは指ではなくて、糸を使います。教わったやり方です。 官本を三冊返しました。年内に借り直せるかどうかは、貸出の担当が休みに入る日次第です。 年賀状はこちらからは出せません。年始は発信が止まりますので、こちらから次に出せるのは四日以降になります。お返事は年が明けてからで結構です。 膝の経過を、次のお手紙で三行だけ書いてください。よくなった、変わらない、痛む、のどれかで構いません。 戸苅 秋生 二〇二六年一月十二日 梶田さんへ 年明けすぐのお手紙をいただきました。あの子が今年で十八になるということを私がいつ書いたのか、自分では思い出せないでいます。梶田さんが覚えていてくださったので、そういうことになっているのだと分かりました。 正月の休みは三日までで、四日の朝から工場が動きました。年末に止めておいた集塵機のホースの継ぎ目が固くなっていて、担当の方が伝票を切って部品が届くまでに二日かかりましたので、そのあいだは手押しと鑿だけの作業になりました。木は休みのあいだにも湿気を吸って動きますから、まず反った板を選り分けるところから始めます。十二ミリの合板は素直ですが、無垢の板は端から順に手のひらで撫でていって、引っかかるところを鉛筆で囲んでいきます。この選別は嫌いではありません。一枚ずつ使えるか使えないかがはっきりしますし、間違えても後から入れ替えれば済みます。何年もやっていると、板を見るより先に、持ち上げたときの重さで分かるようになります。重い板は水を持っているということで、そういうものは組んだあとで必ず隙間を作ります。三が日は工場が止まりますので、房で過ごしました。夕食に切り餅が二つ付いたほかは、普段の日と同じ順番で一日が進みます。年末に浴びた木屑の匂いが服からなかなか抜けなくて、休みが終わるころにようやく消えます。消えると落ち着かないもので、四日の朝に工場の戸が開いたときは、匂いが戻ってきたことのほうを先に思いました。親指の付け根にあかぎれが二本入っていて、ボンドが染みます。 十八歳は成人ということになるそうです。 写真は一枚だけ持っています。中学の制服で、紺のブレザーの襟がまだ肩に合っていません。髪は肩の下まであって、右側だけ耳にかけています。右の眉の端の上に小さいほくろがあって、これは母にも同じところにあります。背景は緑のカーテンで、右下に白抜きの数字が入っていて、二二年の四月と読めます。角が一か所だけ丸くなっているのは、何度も出し入れしたからです。私はあの子を、写真でしか見たことがありません。顔の作りは向こうに似ていて、目のあたりだけが私に似ていると、昔言われたことがあります。写真は向こうの母親が送ってきたもので、封筒には便箋が一枚だけ入っていました。中身は元気にしているという二行で、あとは白いままでした。消印は市内の局で、切手はその年の普通のものが貼ってありました。房に置いておける写真の枚数には決まりがありますが、私はその一枚しか持っていませんので、検身のときの出し入れも早く済みます。 名前は向こうがつけました。 認知の届けを出したのは平日の午後でした。市役所の三階で番号札を取って、二十分ほど待ちました。印鑑を持って出るのを忘れていて、いったん外に出て、向かいの文具屋で三文判を買いました。回転する棚に苗字の順で挿してありましたが、トガリはどの棚にも無く、店の人が引き出しから探して出してきました。三百二十円でした。取り寄せなら三日と言われて、そのとき初めて、今日でなくてもいいのかもしれないと思いました。それでも引き出しから出てきたほうを買って、その足で市役所に戻りました。届出人の欄には自分で名前を書きました。向こうの署名は先に入っていて、字が小さくて、丁寧でした。窓口の方は事務的で、書き損じたところに二本線を引かせて訂正印を押させ、それで終わりました。その足で現場に戻って、その日はクロスの下地をパテで埋めていました。あの日のことで覚えているのは、パテの乾きが悪かったことと、三文判の柄が思っていたより軽かったことだけです。届けを出したから何かが始まったという感じは、そのときはありませんでした。 養育費は、ここに入る前から滞っていました。作業報奨金は月に四千円ほどで、その中から石鹸や便箋を買います。切手は一枚百十円ですので、月に何通出せるかは自然に決まります。梶田さんの分は最初に取り分けています。 成人したから何が変わるのかは分かりません。会いに行っていいものかどうかも分かりません。私が出るのは来年の十一月ですから、そのときあの子は十九になっています。十九の人間に四十八の男が何を言いに行くのか、そこから先が考えられません。考えないようにしているのではなくて、本当に絵が浮かびません。去年の暮れに一度、あの子に宛てて書こうとしました。便箋を三枚だめにして、それきりにしています。冒頭の一行がどうしても決まらないからです。父ですと書くのも、戸苅ですと書くのも、どちらも違う気がします。梶田さんへの手紙はこうしていくらでも書けるのに、あちらは一行で止まります。 そちらは水道が凍りましたか。こちらは房の水道が朝だけ細くなります。 返事はいつでも構いません。 戸苅 秋生 二〇二六年二月十九日 梶田さん 一月に出した手紙は届いているでしょうか。届いていないのなら、それはそれで構いません。郵便のことはこちらでは分かりませんし、確かめる方法もありません。 二月に入ってから工場が寒く、朝のうちは鑿の柄が冷たくて、握れるようになるまでに少し時間がかかります。 先月書いたことは、書かなくてよかったかもしれないと思っています。ああいうことを書かれても困るだろうと、出してから思いました。困らせるつもりはありませんでした。 お忙しいのだと思います。 二月は日が延びるのが分かる月で、夕方の点検のときにまだ窓が明るいことがあります。去年も同じことを書いた気がします。寒いと書きましたが、去年のほうが寒かったです。工場は人が入ると温度が上がりますので、冷えるのは朝いちばんだけの話です。 工場の窓から見える木には、まだ葉が付いていません。 この手紙も出すかどうか迷いました。迷いましたが、出します。 もう一つ書こうとしていたことがあったのですが、忘れました。思い出したらまた書きます。書かなくてもいいことかもしれません。 戸苅 秋生 二〇二六年四月七日 梶田さんへ お手紙をいただいて、二月のあれが病室のほうに回っていたのだと分かりました。入院なさっているとは知らずに、催促のようなものを出してしまいました。膝ではないところだと書いてありましたので、それ以上は伺わないでおきます。二月のあれは、こちらの都合で出したものです。返事が来ないでいると、届いていないのか、読んで嫌になったのかが分からなくなります。分からないままにしておくのが、私は下手なのだと思います。ここでは待つことだけは毎日やっているはずですが、それとこれとは別の筋のようです。 四月は納品が重なる月です。学校に入れる椅子の修理が四十脚まとめて来て、ほとんどが脚のホゾの緩みでした。緩んだホゾは一度抜いて、古いボンドを鑿の裏で削り落として、薄い板を挟んで太らせてから入れ直します。挟む板は〇・五ミリから一ミリのあいだで、厚すぎるとホゾ穴のほうが割れます。組んだらクランプで締めて、二十四時間そのままにします。急ぐ日でも二十四時間は動かせませんので、朝に締めたものは翌朝まで台の上に並んだままになります。工場の隅にその列ができていくのを見るのは、悪くありません。四十脚のうち六脚は座面のベニヤも剥がれていて、そちらは剥がして貼り替えました。ベニヤの表を見ると、前に誰が直したかがなんとなく分かります。ビスの頭が沈みすぎているのは急いだ人の仕事で、私も昔はそうでした。納期は月末で、担当の方が黒板に残りの数を書いていきます。四十から数字が減っていくのを見ていると手が速くなりますので、その日はホゾを二つ焦がしました。焦がすというのは、削りすぎて肩が丸くなることを工場でそう言うだけで、火とは関係ありません。丸くなったものは捨てずに取っておいて、もともと緩みの浅い脚と組み合わせて使います。そういう合わせ方を覚えると仕事は速くなりますが、覚えてよかったのかどうかは分かりません。 入院と聞いても、こちらから何ができるということもありませんので、いつもより早く書いています。早く書いたところで届く日は変わりませんが、そうしたかったのだと思います。 前にいただいた絵は、本の間に挟んであります。 壁に貼るのは決まりで許されていませんので、そういう形になります。庭の隅の鉢を描いたものだと思っています。葉が三方に伸びていて、鉢の影が青で塗ってあります。影を青で塗るというのを、私はあの絵で初めて見ました。現場では影は黒か茶色で作りますし、私は色のことを何も知りません。右下に小さく日付が入っていますので、二年前の一月に描かれたものだと分かります。ときどき出して見て、また同じところに挟みます。挟む場所を変えると次に探すときに手間ですので、いつも同じ頁です。葉の一枚だけ、先が茶色くなっているのが描いてあります。そこを描くには、その葉をずいぶん長く見ていないといけないはずです。私が見ているのは、絵よりもその一枚のほうかもしれません。色の名前を、私は十いくつしか言えません。現場ではクロスも塗料も品番で呼びますので、白は白ではなく四桁の数字でした。梶田さんのあの青が何という青なのかを知りたくて、房で本を借りて調べようとしましたが、載っているのは絵の具の名前ばかりで、名前を読んでも色は出てきません。 病室では描けなかっただろうと思います。手を動かすには、まず座り方を決めないといけません。私も指を切ったあとの二週間は右手を使わないで済む工程ばかり回されていましたが、体のどこか一か所が使えないというだけで、一日の組み立て方が全部変わりました。左手で飯を食っていましたので、器の位置から先に直すことになります。指が使えるようになった日に、鑿の柄を握って、握れることを二度確かめました。二度確かめてから、それを人に見られていないか周りを見ました。 そちらの庭は、今ごろ何か咲いているでしょうか。 こちらも三月に健診がありました。血圧は上が百四十二で、去年より少し上がっていました。右の肩が耳の高さまでしか上がらないのは木工の姿勢のせいだと言われて、風呂で回すようにと紙をもらいました。体重は三キロ減っていて、視力は落ちていません。歯は右の下の奥が欠けたままで、痛みが出るまで順番は回ってきません。四十七になると、そういうものが一度に出てきます。歳のことを書くつもりはありませんでしたが、健診の紙には数字しか書いていないので、それを写しているだけになりました。数字ばかり並べる手紙になって、読むほうは面白くないだろうと思います。 続けて出すと催促のようになりますので、いつもは日を置いています。今回は置きませんでした。 返事はゆっくりで構いません。急がないでください。 戸苅 秋生 二〇二六年六月二十三日 梶田さんへ 出たら最初に何を食べたいか、というようなことを聞かれるとは思いませんでした。 三日ほど考えましたが、うまく出てきません。食べたいものが無いのではなくて、外で食べたものの味のほうを思い出せません。覚えているのは値段です。現場の近くの店は日替わりが六百五十円で、大盛りが五十円増しでした。冷やし中華が始まる時期になると壁の紙が貼り替わって、それが夏の合図のようになっていました。貼られるのは連休が明けてすぐで、剥がされるのは九月に入ってからでした。味は出てこないのに、紙の色が薄い黄色だったことは出てきます。日替わりは白い皿に盛られて、味噌汁の椀は縁が欠けていました。欠けたところに口をつけないように回して飲む癖が、あのころ付きました。あの晩の店も焼き鳥が一本百八十円で、四人で一万二千円ほどだったと思います。そこから先のことは、今は書きません。店の名前も書きません。今もあるかどうか分かりませんし、あったとしても、私が行っていい店ではありません。梶田さんが聞きたかったのは、たぶんこういう話ではなかっただろうと、書きながら思っています。楽しみにしているものを一つ挙げればよかったのだと思います。それが出てこないので、値段の話になりました。 満期は来年の十一月です。あと一年五か月になりました。去年の夏に一度だけ出た話は、その後まったく出ません。 出てからのことは去年の秋に一度書きました。内装は脚立に登る仕事ですので、前のところには戻れませんし、戻りたいと言える立場でもありません。ここで覚えたことに紙が出るわけでもなく、外の工場が中の作業をどう見るかは、聞いた話しか知りません。分かっているのは、住むところが先だということだけです。身元を引き受けてもらう欄は、まだ埋められないままです。姉に頼めればいちばん早いのですが、去年出したものは宛所に尋ね当たらずで戻ってきました。切手はそのまま貼ってありましたので、封を切らずに置いてあります。宛先を書き直して出し直すこともできますが、書き直す先を知りません。 正直に言うと、何を書けばいいか分からなくなっています。数えてみたら、これで三十六通目でした。三年一か月で三十六通ですから、月に一通ずつにも足りていません。そのわりに、書くことはとっくに無くなっている気がします。工場のことと体のことと季節のことを、順番に回しているだけです。それでもやめないのは、やめる理由のほうも無いからです。ときどき、前に書いたことと違うことを今書いているのではないかと思うことがあります。出した手紙は手元に残りませんし、控えを取ることもしていませんので、確かめようがありません。確かめられないものは、そのままにしています。梶田さんのほうにはこちらから出したものが全部あるはずですが、読み返してくださいとは書けません。書くことが無い日はそのまま書けばいい、というようなことを前に言っていただいた気がします。そのとおりにすると、この手紙のようなものになります。三年のあいだにこちら側で変わったのは、板の重さで水気が分かるようになったことと、字が少し小さくなったことくらいです。字が小さくなったのは、便箋の枚数を減らすためです。枚数が多いと検閲に時間がかかるという話をどこかで聞いて、それから行の幅を詰めるようになりました。本当に時間がかかるのかは知りません。誰かがそう言っていたというだけの話を、三年も守っています。 六月は湿気で機械が重くなります。 工場に二十代の若いのが入ってきました。名前は書かないことになっていますので書きません。ホゾの肩を鑿で払うときに刃を寝かせすぎて、毎回そこを潰します。三回教えて三回とも同じことをするので、四回目からは手を持って一緒に動かしました。手の冷たい男で、この季節にあれだけ冷たいのは珍しいと思います。あの子も手が冷たかったです。人に教えていると自分の手つきが一度ばらばらになって、それから前より少しだけ良くなります。中で決めていた順番を言葉にしないといけないからだと思います。あの若いのは、教えられるのを嫌がりません。嫌がらないというのが、この場所ではいちばん珍しいことです。私が入ったころは、聞くのは負けだと思っていました。聞かないまま同じところを三年潰し続けた人を工場で二人見ましたので、今は聞かれたら答えます。答えると自分の分が遅れますが、遅れた分は黒板の数字に出るだけです。数字の悪い月は担当の方から一言ありますし、それで終わります。教えているあいだは、誰からも何も言われません。 梶田さんは、絵を人に教えたことがありますか。 前の手紙で膝のことを書き忘れました。階段は使わないほうがいいと思います。 戸苅 秋生 二〇二六年八月九日 梶田さんへ そういうことでしたら、仕方がありません。三年三か月、ありがとうございました。 今は椅子を作っています。座面は集成材で、脚は角材から挽いたものを使います。ホゾは十五ミリで取って、穴のほうを〇・二ミリだけ小さく開けます。木槌で二回叩いて入るくらいが良くて、一回で入るのは緩すぎます。組んでから紙やすりを八十番、百二十番、二百四十番の順にかけて、それから塗ります。番手を飛ばすと、塗ったあとで前の傷が浮いてきますので、飛ばせません。塗りは三回に分けて、あいだに丸一日ずつ置きますので、仕上がるまでに三日かかります。缶は四キロで、一度開けたら三日で使い切る決まりになっています。座面と脚は別の日に作りますから、この椅子が組み上がるのは来週です。そのころ私はたぶん、別の型を回されています。 出来上がったものには番号だけ付いて、どこかへ運ばれていきます。誰が座るかは知らされません。学校なのか役所なのか、それも聞きません。座面の裏に自分の作業番号を鉛筆で書く決まりになっていて、残るのはそれだけです。 夏はボンドの乾きが速いので、塗ってから組むまでの手順を先に全部揃えておかないと間に合いません。刷毛は使い終わったらすぐ洗います。洗わずに置くと翌朝には固まって、もう使えません。今日はその段取りだけをして終わりました。 戸苅 秋生
小説 · text · 2026-09-07