一 裏口 火葬場で最初に扱うのは、死者ではなく書類だ。 氏名、生年月日、死亡した場所。火葬許可証の番号と、棺に付けられた札と、炉の運転記録に打ち込む文字が一致しているか。生きている人なら、一字くらい違っても振り返って答える。死者は答えない。だから私たちが三度見る。 その犬を見た朝も、私は受付から届いた許可証を読んでいた。 白石譲。八十一歳。死亡場所、市営雲雀住宅二号棟。引取者なし。市の福祉葬。 用紙の右上に、黒いボールペンで連絡先が書き足されていた。 〈知人 木戸義昭〉 「榎本さん、また来てる」 若い職員の相田が、制御室の窓を指した。 犬は職員用の裏口前に座っていた。中型の雑種で、柴犬より脚が長く、耳の片方だけ垂れている。薄茶色の毛はよく梳かれ、赤い首輪をしていた。 朝から細い雨が降っている。裏口まで来るには、駐車場か、濡れた芝地を横切らなければならない。それなのに犬の腹は乾いていた。前脚の先にだけ、黒い油のような汚れがついている。 「野良じゃないね」 「首輪に名前、ありませんでした」 「触ったの」 「向こうから寄ってきました。噛みません」 相田は動物に好かれる。私は裏口を開けた。 犬は立ち上がったが、中へ入ろうとはしなかった。鼻を扉の隙間へ近づけ、一度だけ鳴いた。 「保健所へ連絡して」 「さっきしました。午後になるそうです」 「火葬場まで来た犬、なんて写真を上げないでよ」 相田は携帯電話をポケットへしまった。言われる前に撮っていたらしい。 私は外へ出て、犬の首輪を見た。 赤い革は新しくない。裏側は毛と脂で黒ずみ、真鍮の美錠には細かな傷がある。名前札の代わりに、平たい鉛色の金具がぶら下がっていた。親指の爪ほどの楕円で、中央に穴が二つ、端に数字が打たれている。 〈TKS 94-0617〉 犬の飾りには見えなかった。 指で持ち上げると、首輪の穴から赤い革の粉が落ちた。穴はそこだけ白く、昨日開けたばかりのようだった。 犬は私の手の匂いを嗅いだ。 その日最初の霊柩車が、正面車寄せへ入ってきた。 犬はサイレンを聞いたように身体を固くした。 二 二番炉 潮見市斎苑には火葬炉が八基ある。 一番から四番までは二十年前に更新され、五番から八番は建物と同じ四十六歳だ。新しい炉は燃焼記録を自動で保存する。古い炉は、火葬技師が炎の色と圧力計を見ながら空気を調節する。 私は古い炉が好きだった。 機械を信じないわけではない。自動記録は、人の記憶より正しい。ただ、正しい記録を残すためには、何を記録するかを人が決める。古い炉はそのことを隠さなかった。 白石譲の棺は午前十時、二番炉の予定だった。 搬入したのは、市と契約している葬祭業者〈まごころ葬送〉。会葬者は市の福祉課職員、牧野一人だけだった。直葬でも通常は、近所の人や施設職員が一人くらい来る。白石にはいなかった。 受付で埋火葬許可証と利用許可証を受け取り、棺札と照合する。白石譲。昭和十九年二月九日生。数字は一致した。 「ペースメーカー等の体内医療機器は」 私が訊くと、葬祭業者の坂口は確認票を出した。 「なし。病院にも照会済みです」 「副葬品は」 「生花と、薄い手紙が一通」 金属、ガラス、電池、厚い本は、炉や焼骨を傷めるため入れられない。潮見市では七年前、申告されていない医療器具が炉内で破裂した。それ以来、引取者のない棺は、葬祭業者の立会いで携帯型の金属探知器を当てる決まりになっている。 坂口が棺の蓋を開けた。 白石は灰色の浴衣を着て、両手を腹の上へ置いていた。頬は落ち、髪はほとんどない。顔を見ても、名前が本当かどうかは分からない。 生花は白い菊が四本。胸元に二つ折りの便箋がある。私は触れなかった。紙は許されている。 探知器を頭から足へ動かす。歯科金属には小さく反応する。右膝で長く鳴ったのは、手術の固定具だと確認票に記載があった。 胸の中央でも音がした。 坂口と顔を見合わせた。 「ボタンじゃないですか」 浴衣にボタンはない。 遺体へ必要以上に触れないよう、坂口が襟を開いた。晒に包まれた小さな巾着が、首から提げられている。確認票にはない。 「誰が入れました」 「うちではありません」 坂口は即答したあと、少し間を置いた。「昨日、知人の方が面会に来ました。故人の愛用品を入れたいと」 「何を入れたか確認しなかったんですか」 「紙のお守りだと聞きました」 巾着の中から、真鍮の警笛と、犬の首輪に付いていたものと同じ楕円の金具が出てきた。 こちらには数字が二つあった。 〈TKS 94-0617〉 〈B-27〉 坂口は知らないと言った。 私は確認票の〈副葬品〉欄へ、時刻と発見場所と金具の文字を記入した。相田に写真を撮らせ、透明な保管袋へ入れる。火葬できない物を取り出すのは私たちの仕事だ。犯罪の証拠を探しているわけではない。 それでも、二つの同じ番号は偶然に見えなかった。 炉前ホールの扉が開き、牧野が顔を出した。 「時間、押してますか」 「未申告品がありました。棺へ入れた知人に連絡できますか」 牧野は許可証の書き込みを見た。 「木戸さんですね。昨日、私のところへも来ました。白石さんの昔の同僚だと」 「引き取るとは言わなかった?」 「葬儀費用は払えない、火葬には間に合えば来る、と」 「何の同僚」 牧野は名刺を一枚出した。 〈東央警送株式会社 元北関東支店長 木戸義昭〉 犬の首輪を見たときから感じていた、薄い引っ掛かりが形になった。 東央警送。TKS。 私は二番炉の運転開始を保留にした。 三 一億二千万円 三十二年前の事件を覚えていたのは、私がこの町で育ったからだ。 一九九四年六月十七日。東央警送の現金輸送車が、山沿いの旧県道で見つかった。運転席には警備員の海老名修。後頭部を殴られ、死亡していた。現金一億二千万円と、同乗していた青柳透が消えた。 当時の新聞は〈消えた警備員〉と書いた。 青柳は借金があり、事件の前日に妻と五歳の息子を実家へ帰していた。車内からは青柳の手袋と血が見つかった。会社の主任だった木戸義昭が、事件の三日前、青柳から「大きな金が入る」と聞いたと証言した。 父は毎晩、ニュースを見ながら青柳が犯人だと言った。逃げた者が犯人に決まっている、と。私は十四歳で、父親の断定を自分の意見だと思っていた。 事件は解決しなかった。 青柳も金も見つからず、木戸は会社に残った。十年後に支店長となり、退職後は防犯講習の講師をしていた。 相田は検索した記事を制御室の画面へ出した。 「番号、事件の日付ですね。九四年六月十七日」 「B-27は現金袋の番号かもしれない」 「白石さんが青柳ってことですか」 「決めるのは警察」 私は潮見署へ連絡した。 受付では、古い番号のついた金具が棺にあったと説明しても要領を得なかった。強盗殺人事件、東央警送、青柳透。三つ目の名前で、担当が刑事課へ替わった。 二番炉の前では、坂口が腕時計を気にしていた。次の搬入は十一時半。運転を遅らせれば、冷却と収骨もずれ、午後の予約まで影響する。 施設長の久米は、私を事務室へ呼んだ。 「未申告品は取り出した。許可証は有効。火葬を止める理由がない」 「身元が違う可能性があります」 「可能性で言えば、ここへ来る全員にある」 「木戸という人が、旧事件の物を入れています」 「それも警察が確認する。うちは捜査機関じゃない」 久米の言うことは正しかった。施設の判断で遺族の予定を変えるのは、簡単なことではない。白石には遺族がいないから簡単に変えていい、という話でもない。 「許可証の連絡先が書き換えられています。追加したのは誰ですか」 「福祉課だろう」 牧野は首を振った。「私ではありません。昨日渡したときは、引取者なしのままでした」 黒いボールペンの文字は、誰の署名も訂正印もなく加えられている。 私は運転日誌に〈十時十二分、許可証記載事項の確認待ち〉と書いた。 「二十分ください」と久米へ言った。「警察が来なければ、指示に従います」 火葬を止めたのではない。書類の不一致を確認するため、開始しなかった。 言葉の違いは小さい。小さい違いでしか守れない時間がある。 四 木戸義昭 木戸は、警察より先に来た。 黒いセダンを職員駐車場へ入れ、裏口から建物へ入ろうとした。犬は立ち上がった。尾を振らず、耳を伏せた。 「ロク、どうしてここに」 木戸はそう言ってから、私たちを見た。 七十代半ば。背は高く、紺色のコートに雨粒一つついていない。車から扉まで相田が傘を差したからだ。 「この犬をご存じですか」 私が訊くと、木戸は一拍遅れて首を横に振った。 「いや。昔飼っていた犬に似ていたので、つい」 「名前も同じ?」 「六匹目だった。どこの犬も、そんな名前はある」 犬の足元には、黒い油の跡がついた。木戸の車が停まっていた場所から裏口まで、細い点が続いている。駐車枠には、雨で広がった同じ油染みがあった。 「白石さんの知人ですね」 「昔の部下だ。新聞記者から、亡くなったらしいと連絡があった」 「なぜ記者が」 「私にも分からん。白石という名は知らなかった。写真を見て、青柳だと分かった」 木戸は、死者の名前を初めて口にした。 炉前ホールへ案内すると、棺へ手を合わせた。顔を確認しますかと坂口が訊いたが、必要ないと言った。 「三十二年だ。顔など残っていない」 「先ほど、昔の部下だと分かったと」 木戸は私を見た。「写真でだ。若い頃の面影があった」 私は保管袋を机へ置いた。警笛と封緘具を見せる。 「あなたが棺へ入れましたか」 「青柳の物だ。本人へ返した」 「紙のお守りだと説明したそうです」 「金属が禁止とは知らなかった」 壁には、禁止される副葬品の図が大きく貼られている。坂口も説明したはずだ。 「犬の首輪にも同じ番号があります」 木戸は裏口の方を見た。犬がそこにいると、初めから知っていた人の見方だった。 「やはり青柳が飼っていたんだろう。盗んだ物を、まだ持っていた証拠だ」 「白石さんの部屋に犬用品はありませんでした」と牧野が言った。「訪問記録にも、飼育の記載はない」 「隠していたんじゃないか」 「市営住宅で犬を隠すのは難しいです」 木戸は、火葬はいつ始まるのかと訊いた。 「警察の確認待ちです」 「死者をいつまで待たせるつもりだ」 「犬も待っています」 私が言うと、木戸の口元が動いた。笑いかけてやめたように見えた。 「動物に意味を持たせるのは、人間の勝手だ。飼い主を慕って来たように見えても、餌の匂いがするだけかもしれん」 それは正しい。 だから私は、犬を信じなかった。 犬の足と、首輪の穴と、木戸が呼んだ名前を記録した。 五 燃やせない午後 潮見署の犬飼刑事が来たのは十時四十分だった。 名字のせいで犬を連れて帰る役を任された、と本人は冗談を言った。誰も笑わなかった。 犬飼は封緘具を見ると、県警本部へ写真を送った。旧事件の記録照合には時間がかかる。白石の遺体は、葬祭業者の保冷施設へ戻すことになった。 木戸は反対した。 「許可証は出ている。本人は、死んだらすぐ焼いてほしいと言っていた」 「いつ本人から聞きましたか」と犬飼が訊いた。 「事件の前だ」 「三十二年前に、自分が白石という名で死ぬと?」 木戸は黙った。 久米は二番炉の予定を入れ替えた。十一時半の家族へ事情を説明し、先に火葬する。収骨室と待合室もすべて組み直す。相田は何度も頭を下げた。 私の二十分は、六家族の午後を変えた。 三番炉を使う家の喪主が、炉前の廊下で私を待っていた。五十代の男で、黒い礼服の胸ポケットから航空券の封筒が覗いている。 「遺骨を今日中に北海道へ持って帰るんです。一本遅れたら、納骨に間に合わない」 「四十分ほどの遅れになる見込みです」 「見込みじゃ困る。誰か偉い人を出してください」 施設長の久米が説明を引き取った。設備確認のためとしか言えない。別の棺の身元に疑いが出たとは話せない。 男は、死んだ母親が半年待ってようやく取れた予約だと言った。兄弟が全国から集まった。火葬場の都合で、もう一度集まることはできない。 私は頭を下げた。 白石に家族がいないから、家族のいる死者を先にした。けれど、予定を入れ替えれば公平になるわけではない。私が守った二十分は、別の人から借りた時間だった。 その家の火葬は三十五分遅れた。男は収骨を終えると骨壺を白い布へ包み、私を見ずに出ていった。飛行機に間に合ったかは分からない。記録には、終了時刻と遅延理由だけを書いた。 午後二時、最後の収骨が終わった。 遺族が箸で骨を拾い、骨壺へ納める。地方によって拾う量も順番も違う。潮見ではすべてを収める家が多い。職員は骨の名前を説明するが、分からないものを断定しない。喉仏と呼ばれる骨も、実際には第二頸椎だ。仏に見えると言われてきた形を、医学の名で壊す必要も、仏だと言い切る必要もない。 白石には、その場に立つ人がいないはずだった。 もし朝のまま火葬していれば、牧野と私が骨壺を閉じ、市へ渡しただろう。警笛と封緘具は炉床で変色し、灰と分けられた。誰が入れたかを示す確認票だけが残る。 火は、証拠をきれいに消すわけではない。 形を変え、由来を分からなくする。 夕方、動物愛護センターの職員が犬を迎えに来た。読み取り器を首の後ろへ当てると、個体識別番号が表示された。 登録上の飼い主は、木戸沙耶香。 木戸義昭の娘だった。 犬の名前は、ロク。 犬飼刑事は、まだ斎苑にいた木戸を任意同行した。 木戸は車へ乗る前、私を振り返った。 「焼いてやるのが、あんたの仕事だろう」 「何を焼くか確かめるところからです」 答えた声は、自分で思ったより小さかった。 六 白石譲の部屋 翌朝、私は潮見署へ呼ばれた。 取調べではなく、発見時の状況確認だと犬飼は言った。けれど会議室の机には、私が書いた副葬品確認票の写しと、木戸が書き足したらしい許可証と、赤い首輪が並べられていた。 「この金具を見つけた順番を、もう一度お願いします」 同じ話を三度した。 誰が最初に犬へ触れたか。首輪の穴を持ち上げたとき、手袋をしていたか。木戸が〈ロク〉と呼んだのはどこに立っていたときか。私は相田と牧野の位置まで、斎苑の見取図へ書いた。 記録は、細かいほど真実になるわけではない。細部を増やせば、間違いも増える。分からないところへは、分からないと書いた。 犬の登録名義人、木戸沙耶香は県外に住んでいた。父へ一週間だけ預けたと認めた。ロクは車が苦手で、乗ると緊張して脚の先へ汗をかく。犬の足についていた黒い汚れは、木戸のセダンから漏れたエンジンオイルと同じ成分だった。 「私が気づかなくても、調べれば分かったんですね」 「調べる理由があれば、です」 犬飼は首輪を裏返した。「普通なら迷い犬としてセンターへ行く。チップは読まれて、飼い主へ返る。旧事件の担当まで番号は来ません」 「木戸さんは、犬を返してもらうつもりだった?」 「昼には迎えに来る予定だったんでしょう。記者が先に写真を撮る段取りだったようです」 木戸は地方紙の契約記者へ、〈三十二年前の容疑者が孤独死し、飼犬だけが火葬場まで追ってきた〉と匿名で連絡していた。記者が別件で遅れ、相田が写真を公開しなかったため、記事にはならなかった。 「首輪の番号が写れば、白石さんが青柳だと分かる」 「それだけじゃない。世間は、犬が待っている話を信じます。登録番号より先にね」 犬飼は、木戸から押収した携帯電話の画面を見せた。記事の見出しまで下書きされていた。 〈忠犬が暴いた三十二年目の罪〉 まだ何も暴かれていないのに、罪の形だけが完成していた。 白石の部屋から、犬の餌も毛も見つからなかった。あったのは、六畳の和室に小さな卓袱台、電気ケトル、布団。壁にはカレンダーが一枚。押入れには同じ型の作業着が四着と、段ボール箱が二つ。 白石は二十六年間、団地の設備管理会社で働いていた。退職後も、廊下の電球が切れると管理人より先に替え、動かなくなった扇風機を無料で直した。隣室の住人は、無口だが耳の遠い人には正面からゆっくり話す人だった、と証言した。 「良い人だった、という話は身元確認には使えません」と犬飼は言った。 「悪い人だった、という話もでしょう」 「ええ。どちらも、記事には使いやすいですが」 犬飼は箱の中身を一部だけ教えた。 東央警送事件の記事。海老名家へ送った現金書留の控え。青柳透の戸籍抄本。白石譲という名義の古い住民票。 そして、青い大学ノートが十七冊。 「日記ですか」 「日記に見えます。ただし、事件の日の一冊だけない」 木戸は白石の死を知ったあと、部屋へ入っていた。 死亡した夜、白石は自宅で心不全を起こした。翌朝、弁当配達員が応答のないことを住宅管理へ知らせた。救急隊が死亡を確認し、警察が事件性なしと判断した午後、木戸は管理人へ〈兄〉と名乗って鍵を借りた。遺体が運ばれたあと、十分ほど室内にいた。 「白石さんに兄はいません」 「管理人は、名刺と昔の写真を見せられた。友人より兄の方が、鍵を渡してもらいやすいと思ったんでしょう」 白石の死は自然死だった。木戸が殺したわけではない。 死んだあとで、死者の物語を殺そうとした。 七 海老名美紀 三日後、斎苑の正面受付へ女の人が来た。 海老名美紀。殺された運転手、海老名修の娘だった。 事件当時は十六歳。今は四十八歳で、市外の図書館に勤めている。父親の遺骨は二十年前に母親と同じ墓へ移したという。 「白石さんの火葬は、まだですか」 私は個人情報なので答えられないと言った。 「警察には身元確認中と聞きました。見送らせてほしいわけじゃありません」 美紀は古い封筒を受付台へ置いた。消印が異なる現金書留の控えが十二通。差出人はすべて白石譲だった。 「毎年、六月十七日に十万円。母が亡くなるまで届きました」 中には一度も手紙がなかった。美紀の母は金を使わず、封も切らないまま箪笥へしまっていた。 「警察へは?」 「最初の二年は言いました。青柳からかもしれないって。でも、差出人を捜している様子はなかった。三年目からは母が言わなくなった」 「なぜですか」 「保険金を返せと言われるのが怖かったから」 東央警送は、殉職した海老名の遺族へ補償金を払った。もし海老名も横領に関わっていたと分かれば、会社が返還を求めるかもしれない。母親は、夫がなぜ車を予定外の旧県道へ入れたのか、説明できなかった。 「父は英雄でも、ただの被害者でもなかったと思います」 美紀は鞄からカセットテープを出した。事件の前夜、父が自宅の留守番電話へ残した音声だった。 〈明日の便が済んだら会社を辞める。木戸さんの帳簿を持って警察へ行く。青柳には話すな〉 母親は、事件直後にその音声を警察へ渡した。捜査員は聞き取ったが、テープそのものは返された。記事にはならず、裁判もなかったため、記録の中で眠った。 「青柳には話すな、の意味が分からなかった。父が青柳を疑っていたのか、巻き込みたくなかったのか」 美紀はテープを警察へ提出し直す前に、斎苑へ来たという。 「聞きたいことがあります。骨を見れば、その人が父を殴ったか分かりますか」 「分かりません」 「腕に、何か残っていれば」 「古い骨折や手術の跡は残ることがあります。でも、誰を殴ったかは残りません」 「火葬すれば、分からなくなることもある?」 「あります」 私は嘘をつけなかった。 「だから止めたんですか」 「書類が一致しなかったからです。真相が骨に書いてあると思ったからではありません」 美紀は現金書留の控えを封筒へ戻した。 「白石さんが青柳だったら、このお金は謝罪なんでしょうか」 「私には決められません」 「みんな、それを言うんです」 彼女は怒っていた。私へではなく、答えを持たない人間が順番に自分へ返す言葉へ。 「謝罪だったとしても、受け取らなくていいと思います」 それは職員としての答えではなかった。 美紀は少しだけ肩を下ろした。「母も、たぶんそうしたんです。捨てず、使わず、受け取らないまま持っていた」 八 欠けた一冊 白石譲が青柳透だと確認されたのは、一週間後だった。 青柳の息子がDNA鑑定に応じた。五歳で父と別れ、現在は別の姓を名乗っている。警察を通じて、報道へ名前を出さないこと、遺体を引き取らないことを希望した。 遺体の右前腕には、古い複雑骨折の跡があった。事件当時、現金輸送車の助手席には青柳のものと一致する血痕が残っていた。木戸は、青柳が海老名を殴った際に反撃されて怪我をした、と説明していた。 青柳の供述は、別の形だった。 事件の二週間前、木戸は彼へ借金を肩代わりすると持ちかけた。代わりに、現金袋の封緘番号と運行表を教えろと言った。青柳は渡した。強盗をするとは思わなかった、と彼は書いていたが、それが本当かは確かめられない。 六月十七日、海老名は決められた道を外れ、旧県道の資材置き場へ車を入れた。木戸から、帳簿の原本を受け取る約束だった。木戸はそこで海老名を鉄棒で殴り、止めに入った青柳の腕を同じ棒で折った。 青柳は気を失い、目を覚ましたときには海老名が動かなくなっていた。木戸は、青柳の妻の実家と息子の幼稚園を知っていると言い、現金袋を別の車へ運ばせた。 〈私は逃げた。警察からではなく、木戸から逃げたつもりだった。しかし、結果は同じになった。海老名さんを道に残し、家族を捨て、木戸に証言を作る時間を与えた〉 供述書は、白石が死亡する四日前に法律事務所へ預けていた。死亡後、海老名美紀と県警へ送るよう依頼されていた。 青いノートには、供述書と違う書き方も残っていた。 事件から四年目の六月十七日には、〈海老名を止められなかった〉とある。十年目には、〈木戸に命じられて運んだ〉。二十年目には、〈私は奪われた金の場所を知らない〉。同じ出来事を記すたび、自分が選んだ動詞が少しずつ受け身になっていた。 逃亡直後、青柳は警察へ三度電話をかけている。一度目は名乗る前に切り、二度目は担当部署へつながる前、三度目は木戸の名前を言ったあと公衆電話を離れた。通話記録は残っていない。ノートに本人が書いただけだった。 木戸が退職した年にも、青柳は名乗り出なかった。妻が亡くれたと新聞のお悔やみ欄で知った年にも、息子が成人した年にも。脅しが弱くなったあとも、沈黙は続いた。 〈一日ごとに、昨日まで黙った理由を守る必要が増えた〉 十七冊の中で、その一文だけが何度も繰り返されていた。 木戸がそれを知ったのは、供述書の作成に立ち会ったフリー記者が、裏付けのため連絡したからだった。記者は白石の死を知らず、木戸へ内容の一部まで伝えた。木戸は住宅へ行き、管理人から死亡を聞いた。 「記者は、自分が事件を起こしたと思っています」 犬飼は斎苑の休憩室で言った。火葬日の再調整に来ていた。 「起こしたんですか」 「木戸がしたことまで、記者の責任にはできない。ただ、取材対象を守る手順は破った」 木戸は白石の部屋から、事件当日の日記一冊を持ち出した。自宅の焼却炉で燃やしたと供述した。棺へ入れた警笛と封緘具は、事件後ずっと木戸が保管していた物だった。 「なぜ、わざわざ棺に」 「焼かれれば消える。見つかれば、青柳が盗品を持ち続けていたように見える。どちらでもよかった」 「犬も」 「忠犬の写真が出れば、供述書より早く広まる。人は長い文章より、待っている犬を覚える」 木戸は警察で、青柳の供述は死者の作り話だと主張した。 だが、封緘具のB-27は、当時の捜査資料で未発見となっていた現金袋の番号だった。青柳の供述書には、木戸がB-27を鉄棒でこじ開けたと書かれている。木戸が自分で棺へ入れたことは、葬祭業者の面会記録と防犯映像に残っていた。 死者へ罪を戻すための品が、木戸の手元にあったことを証明した。 青柳の息子は、警察へ短い文書を出した。 〈父が脅迫された被害者であることと、私たちを捨てたことは両立します。前者が証明されても、後者について家族を代表して許すつもりはありません〉 報道機関はコメントを求めたが、犬飼は文書を公表しなかった。私は内容を聞いて、遺骨を引き取らないという希望が、復讐ではなく境界線なのだと思った。 欠けた一冊が何を語ったかは、分からない。 残った十七冊が、欠けた形を記録した。 九 書かなかった見出し 供述書に立ち会った記者は、石橋久美という三十四歳の女性だった。 彼女は一度、斎苑へ謝りに来た。自分の取材で木戸を動かし、火葬の予定まで乱したからだと言った。 「謝る相手は、ここではないと思います」 私が答えると、石橋は頷いた。 「海老名さんには会ってもらえませんでした。青柳さんの息子さんには、連絡しないでほしいと」 「なら、その通りにした方がいいです」 「分かっています」 石橋が白石と出会ったのは半年前だった。市営住宅の取り壊しを取材し、転居に応じない高齢者へ話を聞いた。白石は自分の部屋についてはほとんど話さず、記者が帰るときに、三十二年前の記事を知っているかと訊いた。 最初の五回は、録音を拒んだ。六回目に青いノートを一冊見せ、七回目に名前を明かした。石橋は青柳透の古い写真と見比べたが、本人だと確信できなかった。 「供述書を作るなら、木戸にも反論の機会を与える必要があると思ったんです」 「白石さんには伝えましたか」 「電話する直前に。あの人は、もういいと言いました」 「何が、もういいんですか」 「早く終わらせたい、と」 白石は、自分が死んだあと供述書を送るよう頼んでいた。同時に、死ぬ前に記事になることも拒まなかった。待ちたいのか、急ぎたいのか。石橋は急ぐ方を選んだ。 「翌朝、もう一度録音する約束でした。その夜に亡くなった」 彼女は、取材ノートの写しを見せた。白石の言葉を、黒いペンと青いペンで二段に書いている。 黒は録音通り。 〈現金袋を運ばされた〉 青は、本人があとから訂正した言葉。 〈現金袋を運んだ〉 〈家族を守るため逃げた〉は、〈家族を残して逃げた〉へ直されている。受け身を能動へ変える修正が、何箇所もあった。 「自分をよく見せるために告白する人だと思っていました。でも最後は逆だった」 「最後だったから、そう書けたのかもしれません」 もう翌日のない人は、訂正した言葉の中で暮らさなくていい。 石橋は、犬の写真を使わない記事を書いた。見出しは〈二つの名で死んだ男の未完の供述〉。地方紙の社会面に載り、翌日の閲覧数は、忠犬の記事を転載したまとめサイトの十分の一だった。 「読まれなければ、書かなかったのと同じでしょうか」 「私は、読まれない運転記録も毎日残します」 「答えになってます?」 「記者じゃないので」 石橋は初めて笑った。 数日後、彼女から訂正記事の切り抜きが届いた。最初の記事では、木戸が棺へ入れた警笛を〈青柳の遺品〉と書いていた。訂正では、所有者不明の証拠品とした。紙面の隅に三行だけだった。 小さくても、訂正は元の記事と別の文字で残る。 十 二度目の許可証 青柳透の火葬は、最初の予定から十二日後に決まった。 前日、牧野が持ってきた最初の訂正文書には〈青柳透〉としか書かれていなかった。葬祭業者が付けた棺札は〈白石譲〉のままだった。 「戸籍上の名前が確認されたので、許可証はこちらが正しいです」と牧野は言った。 「正しい許可証と、違う名前の棺を一緒に受け入れることはできません」 「棺札を青柳へ替えます」 「白石さんとして病院から搬送された記録は?」 「そのまま残ります」 「途中で名前が替わったことを示す紙は?」 牧野は答えられなかった。 私は白石という名前を守りたかったわけではない。偽造された身分なら、行政が追認してはいけない。けれど入口の記録と出口の記録から片方ずつ違う名を消せば、同じ遺体だとつなぐものが職員の記憶だけになる。 市民課、福祉課、斎苑の三部署で電話を回した。市民課は戸籍名以外を火葬許可証へ記せないと言い、福祉課は現に白石名で生活していた事実を削れないと言った。久米は、備考欄を使えばいいと提案した。 二時間後、許可証が再発行された。氏名欄は青柳透。備考欄に〈白石譲名義で搬送された者と同一〉。棺札は表に青柳、裏に白石を印字し、搬送記録の番号も入れた。 古い許可証は捨てず、無効印を押して訂正経緯と一緒に綴じた。間違った紙は、正しい紙ができた途端に無意味になるわけではない。どこを間違え、誰が直したかを残すために要る。 当日、許可証の氏名欄には〈青柳透〉、備考欄には〈白石譲〉が並んだ。白石という名前が無効になったわけではない。三十二年間、給料を受け取り、税を払い、診察券で呼ばれてきた名だ。それでも、炉の記録には確認された身元を残す。引取者は、また〈なし〉だった。 息子は来なかった。美紀も、見送る立場ではないと断った。福祉課の牧野と、犬飼刑事が立ち会った。警察は捜査上必要な検査を終え、火葬を認めた。 私は二つの名前を声に出して照合した。 「青柳透。通称、白石譲」 坂口が棺札を示す。同じ文字。牧野が許可証を示す。同じ文字。 棺の中に副葬品はなかった。生花も手紙も、警察が保管している。胸元には何も下がっていない。 最後の対面は一分で終わった。 炉の扉を閉じる前、牧野が頭を下げた。犬飼は下げなかった。私はどちらもしなかった。私の礼は、札を間違えず、運転記録を途切れさせないことだと思っている。 点火の時刻を入力する。 火葬は、罰でも、許しでもない。 白石が青柳であった証拠を消すためでも、青柳を白石から解放するためでもない。身体を焼き、遺骨を次の人へ渡す。私たちがしているのは、それだけだ。 それだけの仕事に、人は多すぎる意味を持ってくる。 運転中、制御画面へ二つの名前が交互に表示された。文字数が多く、一行に収まらないためだった。私は省略しなかった。 午後、収骨室の台へ焼骨を移した。 牧野が市の骨壺を用意する。犬飼は鑑定に必要な処置が終わっていることを確認し、部屋を出た。 「榎本さん」と牧野が言った。「この人の骨は、全部持っていきます」 市の規則では、引取者のない焼骨も全量を骨壺へ納め、一定期間保管したのち、合葬墓へ埋蔵する。 私は骨の部位を説明しなかった。聞く人がいないからではない。誰に対しても同じ順序で並べ、同じ道具で扱った。 右前腕の骨に、変形した箇所が残っていた。 これが木戸に殴られた跡だ、と言えば、物語は簡単になる。仕事中の事故かもしれない。別の喧嘩かもしれない。骨が言わないことを、代わりに言ってはいけない。 牧野と二人で骨壺の蓋を閉じた。 炉の記録と火葬済みの印を押した許可証は、市へ返した。 十一 受け取らない人 木戸が逮捕されたのは、その翌月だった。 容疑は過去の強盗殺人と、白石の住居への侵入だった。棺と犬を使った行為も、木戸が事件後に証拠を扱い、死者を犯人に見せようとした事実として捜査記録へ加えられた。事件名が三十二年ぶりに新聞の一面へ戻った。 テレビは、赤い首輪の犬を繰り返し映した。 〈火葬場で主人を待った犬が、未解決事件を動かした〉 犬が青柳の飼犬ではなかったことは、映像の終わりに小さく説明された。見出しは訂正されなかった。 ロクは動物愛護センターから、登録名義人だった木戸の娘へ返されなかった。事件に使われた品として一時保護され、その後、譲渡対象になった。 美紀が引き取るという噂も出た。 「無理です」と彼女は私へ言った。 斎苑へ、父親の改葬記録を取りに来ていた。墓地の管理者へ提出する書類を調べ直したいらしい。 「犬は嫌いじゃない。でも、あの犬を見るたび事件を思い出す。かわいそうだから飼うなんて、長くは続かないでしょう」 「そう思います」 「青柳さんの息子も、遺骨を引き取らないそうですね」 「個別のことは答えられません」 「知っています。警察から聞きました」 美紀は現金書留の封筒を、記者会見で公開した。匿名送金を謝罪とも賠償とも呼ばず、事件後に届いた金として展示した。母親が一円も使わなかったことも話した。 「青柳さんを許せないですか」と私は訊いた。 「父を殴っていないなら、許す必要がないのかもしれない。でも、三十二年黙っていた。母は死ぬまで、夫を殺した人が外を歩いていると思っていた」 「はい」 「脅されていたなら仕方ない、と言う人もいる。父を置いて逃げた卑怯者だと言う人もいる。どちらの話も、私に受け取れって差し出される」 美紀は申請書へ日付を書いた。 「私は、まだ受け取りません」 返事を必要とする言葉ではなかった。 木戸の裁判は始まっていない。現金一億二千万円の行方も分からない。青柳の供述書がどこまで事実か、法廷で争われる。 警笛と封緘具と赤い首輪は、県警の証拠品保管庫にある。私が透明袋へ書いた発見時刻も、その一部になった。金具そのものより、どの棺のどこから、誰の立会いで取り出したかが重要だと犬飼は言った。物は黙っていても、扱った人間の順番が周りに残る。 相田が撮った最初の写真には、私の素手が首輪へ触れる直前のところまで写っていた。証拠写真としては不完全だったが、革粉がまだ穴の縁に残っている。あの日、投稿しなかった写真が、見出しではなく記録として使われた。 半年後、市の合葬墓へ青柳の骨壺が移された。埋蔵台帳にも二つの名前が記された。息子は立ち会わず、美紀も来なかった。来ないことを、誰かが冷たいと評価する必要はない。 真相は一つだと人は言う。 起きたことは一つでも、残った人へ渡される形は一つではない。 十二 待て 春、斎苑の桜が咲く前に、ロクの譲渡先が決まった。 市内で動物病院をしている夫婦だった。事件の記事ではなく、センターの譲渡会で会ったという。名前は変えなかった。 最初の散歩の日、夫婦は斎苑の外周路まで来た。 私は昼休みに、職員用の裏口でロクを見た。赤い首輪は外され、青い布の首輪をしている。あの日と同じ場所で立ち止まったが、扉の匂いを嗅いだだけだった。 「ここから動かなくなるかと思って」と夫が言った。「覚えているでしょうから」 妻が〈待て〉と声をかけた。 ロクは座った。 忠実だからでも、死者を慕っているからでもない。教えられた言葉に従っただけだ。妻が〈よし〉と言うと、すぐ立ち上がり、植え込みの鳩を追おうとした。 私は笑った。 犬は、作られた物語の役を降りていた。 その午後、引取者のない女性の火葬があった。許可証には氏名のほか、旧姓が括弧書きされていた。棺札は旧姓が抜けている。 葬祭業者は、同じ人だから問題ないと言った。 「同じだと確認できるまで、始めません」 私は市役所へ電話をかけた。 回答を待つあいだ、炉前の時計だけが進む。次の家族の到着時刻、炉の予熱、職員の休憩。遅れれば、また誰かに頭を下げることになる。 それでも、書類を机へ置かなかった。 骨は、名前を語らない。 犬も、罪を暴かない。 死者の代わりに残るのは、見た人が書いた文字と、書かなかった空欄だ。間違えば訂正し、分からなければ止める。そのために、私たちは同じ名前を三度見る。 市役所から折り返しが来た。 担当者は、読み方だけの違いだから訂正は要らないと言った。私は棺札に印字された漢字が一字違うことを伝えた。電話の向こうで紙を繰る音がし、少し待ってほしいと言われた。 私は急かさなかった。 私は受話器を取り、最初の一字から聞き直した。
小説 · text · 2026-09-06