第一章 二月十七日、と紙に書いた。 日付を書くのは癖で、五十を過ぎたころからずっと続けている。郵便局に入ったのが昭和三十八年、辞めたのが平成十七年だから、四十二年いたことになる。はじめの十七年ばかりは集配をやって、腰をやってから窓口へ回された。窓口というのは日付が命の仕事で、朝いちばんに日付印の活字を入れ替えて、要らない紙に一度押してみて、それから硝子戸を開ける。この順番を間違えたことは四十二年で一度もない。そこまでやっていると、日付をどこかで確かめないうちは一日が始まらない体になってしまう。ここへ来てからは印がないので鉛筆で書く。枕元の引き出しに、罫の入っていないメモ帳と、削った鉛筆が二本入れてある。削るのは職員に頼むことになっていて、刃物は部屋に置けない決まりらしい。字は上手いほうだと言われて生きてきた。局にいたころは年賀状の宛名書きを毎年押しつけられたし、隣組の香典袋も何度か書かされて、そのたびに墨をするところから始めるものだから半日つぶれた。いまでも、自分の書いたものを見れば、これは自分の字だとすぐ分かる。ここはあさひ苑という。結城の、市役所から北へ行った田んぼの縁に建っている。入って二年になった。三月で八十二になるから、いまはまだ八十一だ。生まれたのは終戦の年の三月で、生まれた月に町が焼けたと母は言っていたけれども、結城は焼けなかったはずだから、あれは母の思い違いか、こちらの思い違いか、どちらかだろう。 窓は東を向いている。 七時前には光が入るし、そのころにはたいてい目が覚めている。カーテンだけは自分で開けることにしていて、手すりにつかまって立ってから、二歩で届く。開ける前に足の裏を床につけ直す。急ぐと膝が抜ける。 廊下の音が先に来て、それから扉が開く。本山さんは叩くことは叩くが、返事を待たない。 「柴田さん、おはようございます」 入ってくると、まずカーテンを見る。開いている日は何も言わない。 「寒くないですか」 「寒くない」 「上、もう一枚出しときますね。昼から下がるって言ってましたから」 二十六だと言っていた。ここに勤めて三年目で、はじめの年は上の階にいたそうだ。名札の字は本人が書いたものではなくて、印刷したのを差してある。 「よく寝られました?」 「寝た」 「夜中に廊下でだいぶ音がしましたでしょう。上の人が下りてきちゃって」 「聞こえん」 「そうですか。よかったです」 食堂は八時からで、席は決まっている。私のところは入口から数えて三つめ、窓に近いほうだ。向かいに座る男の人は耳が遠くて、二年のあいだに話しかけられたことは一度もないが、こちらが頭を下げると顎を引くので、まるきり聞こえていないわけでもないらしい。ごはんと味噌汁と、焼いた鮭がひと切れ、それに切り干し大根の小鉢と牛乳がつく。味噌汁の実はその日は豆腐と葱だった。豆腐と葱は前の日だったかもしれない。どちらにしても薄い。塩をやかましく言われるのは分かっているし、血圧の薬も朝と晩に飲んでいるけれども、それにしても薄い。静江の作る味噌汁は濃かった。濃いというより、煮干しの匂いが強くて、鍋の底に頭ごと沈んでいるのを箸でよけながら飲むのが朝のうちの仕事のようになっていた。あれを五十三年飲んでいたから、こちらの舌のほうが狂っているのかもしれない。食べるのは遅くなった。左の奥が二本ないので、鮭は箸で身をほぐしてから口へ運んで、皮は残すことにしているが、昔は皮のほうが旨いと思って先に食っていた。牛乳の紙の蓋は親指の腹を使って押す。前は爪をひっかけて開けていたのが、爪が薄くなってから欠けるようになったので、腹で押すやり方に変えた。窓際の女の人は食べているあいだじゅう同じ歌を小さく歌っていて、職員も誰も止めないから、こちらも止めない。だいたい、朝に何を食ったかは昼までに忘れる。 食べ終わると薬が回ってくる。名前を呼ばれて、袋を渡されて、飲むところまで見られる。 「柴田与一さん。朝の分、二包です」 「うん」 「柴田さん、今日はお風呂ですからね」 「昨日入った」 「昨日は月曜です。月曜はやってないんですよ」 そう言われて、たしかに月曜だったと答えたけれども、その月曜に自分が何をしていたかは出てこなかった。 火曜と金曜が風呂の日で、二月十七日は火曜だった。順番が来ると名前で呼ばれて、脱衣所までのあいだにタオルを二枚持たされるが、二枚のうち一枚は自分で持つことになっていて、持てるものは持たせるという方針なのだと思う。 「五十四キロ、ちょうどですね」 「去年は五十七あった」 「そうでしたっけ」 「あった。紙に書いてある」 減った話をすると次の月に牛乳がもう一本つくことがあるので、ほんとうはあまり言わないでいる。服を脱ぐのに手間がかかるのは腕を後ろへ回すと肩が鳴るからで、上着だけは袖を抜いてもらう。脱衣所は暖房が強すぎて、待っているあいだに一度汗が出る。湯は四十一度と決まっている。 「はい四十一度、ちょうど」 温度計をわざわざこちらへ向けて見せる職員と、何も言わずに手だけ入れて確かめる職員がいる。この日は見せるほうだった。湯に入る前に椅子へ掛けて背中を流してもらう。 「柴田さん、ここ、青くなってますよ」 「どこ」 「腰の、左のほう。ぶつけました?」 「知らん」 自分の背中がどうなっているかは、この八十一年、一度も見たことがない。ぶつけた覚えのない痣は、年をとってからのほうが増える。爪もその日に切ってもらった。足の爪は膝を抱えられないので自分では届かないし、抱えられなくなったのがいつからかも、やはりはっきりしない。 「先週、下の親知らずを抜いたんです。まだ腫れてて」 本山さんが自分の頬を指した。腫れているようには見えなかった。 「痛むかね」 「もう痛くはないんですけど、片方でしか噛めないんですよ。だから朝ごはんが進まなくて」 「歯は大事にしろ」 「そうなんですよねえ」 湯に浸かると音がなくなる。蛇口を締めてしまえば、ここの湯は動かないから音を立てないし、窓は磨り硝子だから外の色だけが入ってくる。肩まで沈めて、少ししてから、学校の裏に川が流れていてね、と話しはじめた。この時間になると、いつもその話になる。 昭和三十三年の八月十一日だ。日にちだけは動かない。中学の一年で、夏休みで、朝から暑かった。新開徹という同級生がいて、左利きで、野球が上手かった。父親は南のほうで戦死して、母親と二人で、家は町の外れの、桑畑の中の一軒だった。その日は昼を食ってから出て、歩いて行った。弟の与二はまだ九つだったから連れて行かない。学校までの道は田んぼの間をまっすぐ行くだけで、途中に木の一本もない場所が二百間ばかりあって、そこを歩くと首のうしろが焼ける。学校の裏の道を抜けて土手へ上がると急に風が来て、土手を下りるとすぐ川で、手前が砂利の広いところになっていて、その先が急に深くなる。深いところは水の色が変わるから、子どもでも見れば分かるし、大人からも毎年そこは行くなと言われていた。徹は砂利のはずれの、水から出ている平たい石の上に立っていた。何か言った気がするが、何と言ったかは出てこない。それで、足を滑らせた。声はあげなかった。落ちた音のほうがよほど小さくて、あれは水が飲む音だ。私は岸にいて、しばらくそこにいて、それから水に入った。ズボンのまま入った。膝の下までは砂利が続いていて、その先が落ちている。手を伸ばした。届かなかった。二度目に伸ばしたときには、もう頭が見えなくなっていた。水は濁っていて、腕を入れると自分の指の先から消える。セミが鳴いていた。ものすごく鳴いていた。あんなに鳴くものかと思うくらい鳴いていて、そのくせ自分の息の音のほうが大きく聞こえた。それから土手を上がって走った。農協に父がいるはずだったから、そっちへ走ったのだと思う。走りながら誰に何を言ったかは覚えていないし、麦わら帽子をどこで落としたのかも分からない。大人が六人来て、そのうちの二人が水に入って、そのころにはもう日が傾いていた。一人は自転車の荷台に長い竹竿を括りつけてきて、それを何度も水へ差し入れていたけれども、竿の先が届くようなところで見つかるとは誰も思っていなかったはずだ。見つかったのは夕方で、下の堰の少し手前だったとあとで聞いた。徹は十三だった。こちらも十三だった。 本山さんは背中を流す手を止めなかった。止めないまま、返事はする。 「その子、泳げなかったんですか」 「泳げた。あいつは泳げた」 「じゃあ、どうして──」 「なんだ」 「いえ。肩、流しますね」 聞いたことのある話だとは言わない。三年目だから、もう何度も聞いているはずで、一度だけ、こちらから聞いてみたことがある。 「この話、前にもしたかね」 「聞きましたよ」 「そうか」 それきり、聞いていない。湯から上がるときに膝の裏へ手を入れて支えられて、その手が思ったより冷たかった。 「あんたも冷えるんだな」 「水を使う仕事ですから」 午後は部屋にいる。テレビは点けるが音は絞ってあって、字幕が出るので音は要らない。廊下を車輪の音が通って、通ったあとに誰かが呼ばれて、それがしばらく続く。窓の下は駐車場で、その向こうが田んぼで、二月だから何も植わっていない。関東のこのへんは冬になると土が白く乾いて、集配で自転車を漕いでいたころ、あの色を毎日見ていた。受け持ちは四百軒あまりで、そのうち犬を放している家が十一軒あったから、順路はその十一軒をどう避けるかで決まっていたようなものだ。手が切れるのは風のせいではなくて、輪ゴムと紙のせいだ。静江が死んだのは八年前の三月で、何日だったかは紙に書いてあるはずだし、書いたのは自分だから探せば出てくるが、探さないでいる。引き出しの奥に写真が一枚ある。眼鏡を作り直したときの、いや、免許の書き換えだったかもしれないが、とにかく証明用に撮ったものが余ったやつで、真面目な顔をしている。笑っているほうの写真は靖が持っていった。靖は五十五になって、埼玉から年に二度、春と盆に来る。来ると必ず、こっちの話を最後まで聞かないうちに時計を見る。 「親父、悪いな、次のに乗らないと」 去年の盆もそう言って、駐車場のほうへ下りていった。 消灯は九時だが、そのころは眠くない。 十時を回って、廊下を足音が二度通った。二度目のときに、明日の分を先に書いておこうと思って、電気を点けないままメモ帳を開いた。二月十八日、と書いた。暗いから行が曲がっているだろうとは思ったが、直さなかった。 第二章 ここへ来てから、日付を書くための紙を切らしたことはいちどもない。本山さんが束にして持ってきてくれるのは裏の白い紙で、どこかの薬の説明書だったものが多い。四つに折って折り目で切り、机の右の端へそろえて積んでおく。朝いちばんに、その一枚めの、まんなかより少し上へ、その日の日付を書く。使うのは青のボールペンでなければいけない。鉛筆だと、そのうちこすれて薄くなり、書いたのか書かなかったのかが分からなくなる。年と月と日のあいだを少しずつ空けて書くのは窓口にいたころのやり方で、そうしておけば、あとから直すときに二本線を引く場所と、判を押す場所ができる。廊下の壁に大きな暦が出ているのだから、見てきてから書けばよさそうなものを、見ないで書いて、違っていたら直すことにしている。直した紙は捨てない。捨ててしまうと、直したということまでなくなる。書き終えた紙は引き出しの左の奥へ伏せて溜めていって、溜まると本山さんが輪ゴムでまとめてくれる。いちど、 「これ、ぜんぶ日付ですか」 と聞かれたことがある。そうだと答えると、 「字がきれいですね」 と言って、輪ゴムを二重に掛けた。こんなものを何のために取ってあるのかとは、あの人は聞かない。 昭和三十三年の町のことなら、暦を見にいかなくても書ける。 駅を出ると本通りが南へ一本あって、舗装してあるのは二百四十メートルほど、その先は砂利道で、夏のあいだは荷車が通るたびに白い埃が立ったから、朝と、三時を回ったころと、店の者が道へ水を撒いた。西側に米屋と荒物屋と床屋が並んでいて、床屋の前の赤と白の棒は七時二十分には回りはじめる。夏は氷屋の前だけ路面が濡れていて、鋸で落とした欠片が転がっているのを、子どもが拾って口へ入れた。少し行くと農協で、道をはさんだ向かいが郵便局だった。局の前には火の見櫓が立ち、その足元の板塀が町の掲示板になっていて、相撲の巡業の刷り物と、農薬の講習の知らせと、供出のことを書いた紙が、糊の乾き具合のちがうまま並んで貼ってあった。窓口の脇に料金表が貼ってあって、はがきが五円、封書が十円と書いてあった。その紙の隅が湿気でめくれていたことまで覚えているのは、五年たって自分がその窓口の内側に立つようになり、そのときも料金がまだ同じだったからで、めくれたところには画鋲が二つ増えていた。通りの東側には醤油屋があって、仕込みの季節になると、風向きによっては学校のあたりまで匂った。停留所は米屋の前で、木の札に時刻が書いてあり、いちばん早いのが六時八分、終いが七時四十二分。月の終わりに、公民館へ幕を張って映画をやる。幕を吊る手伝いに行くと只で見せてもらえるので、上映のある日は昼のうちから公民館の裏で待っている子が何人もいて、そのなかに新開もいた。着いたとたんに、 「柴田、こっち持て」 と幕の端をよこす。 「いま来たばっかりだ」 と言っても、もう向こうへ歩き出していて、 「先に座れるぞ」 とだけ言う。 朝は四時半を回るころから機の音がした。どの家からということでもなく、町のあちこちで一斉に鳴り出して、昼は牛と荷車の音になり、日が傾くとまた機に戻る。バスは日に七本で、そのうち二本は駅止まりだった。 父は農協にいた。事務のほうだったが、忙しい時季には倉庫で硫安の袋を担いだから、帰ってくると汗と粉くさい匂いをいっしょに家へ持って上がってきた。帳面の字がうまかった。数字の八を、上の輪を小さく下の輪を大きく書く癖があって、あれだけは真似ようとして真似られなかった。判を押すとき、朱肉のふたを親指の腹で押さえ、押してから紙を持ち上げて斜めに光へかざす。あの手つきを、いまでも紙に判を押すたびにやっている。酒を飲むのは月に二度で、二度目の晩は、飲みながら土間のほうを何度も見ていた。農協の父の机は入口から三つめで、用があって行くと、顔を上げないまま、 「外で待て」 とだけ言って、帳面に目を戻す。煙草を一本すうくらいして出てきて、 「持ってけ」 と飴を一つよこす。硝子の器に入れて組合員に出す飴だった。夕方に迎えに行かされる日もあって、そういう日は帰りに一度だけ、肩を叩かれた。 家に自転車は一台きり、父のもので、宮田の黒い実用車だった。荷台に縄が巻きつけてあり、土間の柱に鎖で留めてあって、 「触るな」 と言われていた。言われていたというより、鍵を父が腹巻に入れて持ち歩いていたから、触りようがなかった。弟が一度ベルだけ鳴らして、頭を張られたことがある。 母のきよは、暗いうちから台所にいた。竈が二つ、その脇に水甕があり、井戸は勝手口を出て六歩のところ。玄関は上がり框が高くて腰を掛けるのにちょうどよかったから、届け物に来た大人はたいていそこへ座って、用が済んでも少し話していった。茶の間の柱に棚が打ちつけてあって、ラジオはそこに置いてあった。真空管が温まるまで声が出ないので、母は先に点けておいて、それから水を汲みに出る。手を動かしているあいだじゅう鳴らしていたわりに、あとで何をやっていたのか聞くと、 「聞いていない」 と言う。 「じゃあ何のために点けとくんだ」 と聞いても、返事はしないで水を汲みに出ていった。母の手は指の付け根がいつもあかぎれていて、夏になっても治りきらなかった。飯を盛ってもらうとき、しゃもじのほうではなく、茶碗を持っているほうの手ばかり見ていた憶えがある。夜は茶の間に蚊帳を吊った。吊るのは弟の役だったが、四隅の紐を掛けるのに背が足りないので、いつも一隅だけ垂れていて、 「そこから入ってくる」 と言って泣いた。 弟の与二は九つで、どこへでもついてきた。 「ついてくるな」 と言うと桑畑のところまで戻って、畝にしゃがんで待っている。日が暮れて帰ると、いつのまにか先に家にいて、飯を食っていた。ついてきたろうと言うと、 「ついてってない」 と言う。 学校は町のはずれの、木造の二階建てだった。二年の教室は二階の西の端だった。夏休みのあいだも、朝はその運動場に集まってラジオ体操をやらされた。六時二十分に並ばされて、半に始まる。終わると、首から下げた厚紙の札に判を押してもらえる。二十八日ぶんの枠が刷ってあって、全部埋めた者には終いの日に鉛筆かノートが出るので、判の位置が枠から少しでもはみ出すと、 「押し直してもらえませんか」 と係の人のところへ持っていった。 「もう乾いとる。上から押したら二重になるぞ」 と言われた。 「二重でもいいです」 と言って、押してもらった。十一日の朝までは一つも空けずに並んでいたはずだが、あの札を家のどこへしまったのかは知らない。担任の名が、去年あたりから出てこない。眼鏡をかけた背の低い人で、ズボンの膝が両方とも白くなっていた。声が小さくて後ろの席までは届かず、いちど、 「後ろ、聞こえるか」 と聞いて、聞こえませんと返されても、次の時間からまた同じ声で話していた。名は三文字だったと思うが、思うだけで、確かではない。人の名というものは、こちらの都合とは関わりなく、順番も断らずに抜けていく。西の端の窓からは、桑畑の向こうに土手の線が見えた。授業の途中で、その上を人が歩いていくのが見える。荷を担いだ大人が多かったが、昼を過ぎると子どもが通る。 新開は左利きだった。黒板に書かされると、書いたそばから自分の袖で字を消してしまうので、制服の左の袖口がいつも白かった。 学校の裏門を出ると、すぐ桑畑になる。畝のあいだを百七十歩ばかり行くと土手に突き当たり、上りが急なので、雨のあとはみな斜めに登った。上に立つと下に水が見える。夏草が腰まであって、そのなかを分けて行くと脛に細かい傷ができ、家に帰って風呂の湯につけると滲みた。学校の裏の川、と言えばそれで通じたから、行き先を家で言うのに困ったことはない。困るとすれば時間のほうで、母は 「暗くなるまでには帰ってこい」 としか言わなかった。 洗い場のあたりは膝までしかない。朝のうちは女の人が四人か、多い日には六人来ていて、水に足を入れたまま、こちらを見もしないで話しつづけていた。 「そこはもう掃いたって」 「掃いたのは表だけだろ」 「そんなこと言ってないって」 前も後ろも分からない話が、水の音のあいだに切れぎれに入ってくる。年に何度か、下駄屋の隠居が投網を打ちに来る。上がるのはたいてい鮒で、網を引き上げるところは、終わるまで誰も声を出さずに見ていた。少し下ると水門があって、そこから先が深くなる。コンクリートの枠は、日の照っている日でも触ると冷たかった。深いところは水の色が変わるので、上から見ればわかる。わかっていて、それでも子どもはみな水門の下へ行った。手前は流れが緩くて、面白くないからだ。日の当たっているところと木の陰とでは水の温度がまるでちがい、陰へ移ると、脛のあたりから先に冷えてきた。 「行くな」 と大人は言った。うちのは「水門から下へは行くな」で、新開のところは「あすこは足がつかん」で、言い方は家によってちがったが、行くなということは同じだった。 今日の紙に、昭和三十三年八月十一日と書いた。日付だけ書いて、下を二行ぶん空けておいた。そこへ川の名を入れようとして、手が止まった。大人はあの川を、ちゃんとした名で呼んでいた。土手の下の道に役場の立てた白い板があって、そこにも書いてあった。こちらは学校の裏の川としか言わなかったから、名のほうは聞いても右から左で、板の前を通るときに読んだ覚えはあるのに、読んだということしか残っていない。四文字だったような気もするし、もっと短かったような気もする。声に出せば出てくるかと思って口だけ動かしてみたが、出てこなかった。四十二年、人の名と町の名と番地とを書いて暮らして、書き損じは一年に何枚もなかった。日にちは間違えない。あの日にあったことも、はじめから順に言える。名前だけが抜けている。二行のところは、消さずに空けておいた。 本山さんが体温計を持って入ってきて、 「何を書いてるんですか」 と言った。 「日付」 紙を覗きこんで、そのことには何も言わずに、 「腋に挟んでくださいね」 と、こちらの手に体温計をのせる。挟んでいるあいだ、机の紙の束を輪ゴムで留めながら、 「紙、まだ足りますか」 「ある」 「明日また持ってきますね。詰所に印刷の裏紙が余ってて、捨てるだけなので」 「厚いのは切りにくい」 「じゃあ薄いのだけ選んできます」 そこまで言って、廊下のほうを見た。誰かが呼んだらしい。体温計が鳴り、抜いて渡すと、 「三十六度二分」 と読んで、書き取ってから出ていった。紙は伏せて、机の右の端へ置いた。 第三章 四月十一日、土曜、くもりと、朝のうちに紙の隅へ書いた。郵便局に四十二年いて、そのうちのほとんどを日付の判で潰してきたものだから、日付を書かないと一日が始まらない体になってしまった。判は毎朝、局長より先に出して活字を組み替えて、要らない葉書の隅に試し押しを二度して、掠れていないのを見てから窓口を開けた。ここには押すものが何もないので鉛筆でいい。紙は去年靖が置いていった広告の裏を四つに切ったやつが、まだ半分ほど残っていて、一日一枚使っても盆までは足りる勘定になる。 息子は春に一度、盆に一度来る。 八時半に果林さんが来た。 「柴田さん、今日はお髭どうします」 「剃る」 「じゃあ起きなくていいですよ。そのままで」 洗面所ではなく寝台の脇まで道具を持ってきて、電池で回る小さいやつを、顎の下から上へ動かしていく。首の皮が薄くなってしまって、左手で張っておかないと刃が滑るばかりで剃れない。 「息子さん、何時ごろでしたっけ」 「十時」 「じゃあ午前中ですね。お部屋、先に掃除機かけときます」 十時ではなく十一時だったと後で分かったが、そのままにしておいた。果林さんは剃り終わると蓋を外して屑を流しへ落とし、指の腹で網を拭いて、それから私の襟の裏を直した。ここへ来て三年目だと聞いている。同じ話を二度しても、二度目のときに顔が動かない。洗い物の袋を持って出て行って、廊下でもう一人と何か言い合って、二人で笑った。何がおかしかったのかは分からないが、こちらの部屋の話ではないはずで、ここは廊下から見える位置に寝台がある。朝は六時半に起きて、七時半に食堂で、粥と、味噌汁と、ほぐした鮭の身が少しと、牛乳が出た。牛乳は残した。仕事だから丁寧なので、丁寧だから優しいのとは違う。そのくらいは分かる。 靖は十一時十分に来た。 紙袋を二つ提げていて、片方には下着が三枚と靴下が二足、それに羊羹が一本入っていた。もう片方は書類だった。椅子の背に手をついて、腰を庇いながら腰を下ろす。四十を過ぎたころから腰が悪いと言っていたが、五十五になって、座り方まで年寄りになった。 「これ、名前書いといたから」 下着のゴムのところに油性で柴田与一と書いてある。傾いた字だ。小学校のころに一度だけ手を持って書かせたことがあって、それきりやめた。そんなことをするから字が嫌いになると静江が言ったからで、静江の言うことはたいてい当たった。 書類は三枚あった。一枚は去年と同じ同意書で、去年と同じ欄に去年と同じことを書けばよかった。 「あとこれ、市役所。保険の、限度額のやつ」 「去年も書いたんじゃないか」 「毎年なんだよ、これは。去年は俺が忘れてて、九月に施設から電話もらってさ」 そのときも靖は怒らなかったし、こちらも謝らなかった。半日休みを取って市役所へ回ったはずで、役所は平日の四時十五分で閉まるから、勤めのある者にはそれだけで一日仕事になる。 「三枚目は利用料な。四月から、月に八百幾らか上がるってさ」 靖が指で押さえて読み上げてくれたが、押さえた指の下の数字を見ていたので、読み上げの方はほとんど頭に入らなかった。年金の振込は十五日で、通帳は靖が持っている。それでいい。中庭にはプランターが四つ並んでいて、二つには何も植わっていない。植えないなら片付ければいいのに、そのままにしてあるのは、去年植えた人がもういないからだと思う。 「父さん、ここ、名前」 書けた。書けたので、書いたところを靖の方へ回して見せた。靖は見ないで折って、封筒に入れた。判子は靖が鞄から出して、朱肉に二度当てて、押した。私の判子は靖の家の仏壇の引き出しにあって、そこに入れておくと決めたのは静江だったか靖だったか、どちらでもいい話ではあるが、どちらだったかは出てこない。 「下の子は、いくつになった」 「一人だよ」 「そうか、一人か」 一人だと言われれば一人なので、それ以上は聞かない。孫の顔は七五三の写真のまま止まっている。あれは静江がまだ台所に立っていたころで、写真の下の方に静江の指が写り込んでいた。靖はそれを二枚焼いて、一枚をこっちへ寄越した。あの写真がどこにあるのかといえば、たぶん段ボールの中で、その段ボールは靖の家の物置にある。訊けば次のときに出してくると言うだろうから、訊かない。次というのは盆で、盆までにあれを探させるほどのことでもない。 靖は水筒の茶を紙コップに注いで、自分の分だけ飲んだ。紙コップは家から持ってきたやつで、飲み終わると畳んで上着のポケットに押し込んでいた。静江もそれをやった。使い捨てのものを捨てないで持ち歩くのは、あれは癖ではなくて習いのようなもので、教えたわけでもないのに息子に移っている。 「うちのは、母さんの方が去年からデイに行っててさ」 「車は何で来た」 「車。いつものやつ」 「そうか」 「四月から現場が変わってさ。朝が四十分早いんだよ」 「四十分」 「そう。帰りも高速が混むから、三時前には出たくてさ。来月は車検で、十万は超えるって言われてるし。だからその、盆は、いや、盆は来るよ」 紙コップの縁を親指で拭って、それきり車検の話に戻った。こちらが返事をしないので、靖は一人で続けた。私は聞いていた。聞いていたが、中庭でプランターに水をやっている人がいて、その人がホースの先を親指で潰して水を広げるのを見ているうちに、八月十一日のことが順番に出てきた。順番に出てくるときは、こちらが呼んだのではなく、向こうから来る。靖はまだ座っていたので、話した。 あの日は朝から暑くて、麦茶を薬缶ごと台所から持ち出して、二杯飲んでから出た。父の自転車を借りた。平吉の自転車は黒くて、荷台が広くて、農協の帳面を積むために板が打ちつけてあった。徹を荷台に乗せて、学校の裏の道までは押して行った。あそこは坂で、砂利が浮いていて、二人乗りでは上がれない。徹は荷台の上で足を投げ出して、板の縁を靴の踵で叩いていた。一定の間で叩くのではなく、思い出したように三つ叩いて、しばらく黙って、また叩く。あの音は今でも聞こえる。嘘くさく聞こえるだろうが、聞こえるのだから仕方がない。学校の裏を回ると畑があって、その先の田んぼの間の道は雨のあとで轍が固まっていて、押していても前輪が取られた。パンクさせると父に何を言われるか分からないから、轍を跨いで、草の生えている真ん中を選んで押した。夏休みで、学校の窓は全部閉まっていた。 土手の下まで行って、自転車を草の上へ倒して置いた。倒したあとも後ろの車輪がしばらく回っていて、それが止まるのを待つような格好で、二人とも突っ立っていた。前の週に降った雨で水が増えていて、いつもは膝までのところが濁っていた。徹が先にシャツを脱いだ。脱いだシャツは草の上に広げて置いた。ズボンは脱がなかった。私は岸にいた。石が積んであるところの、上から二段目に立っていた。徹が水へ入って、腰まで浸かって、こちらを向いて何か言った。何と言ったのかは聞き取れなかった。水の音が大きかった。 それから、いなくなった。 私は動けなかった。水には入っていない。足の裏が石の角に当たっていて、その角の当たり方だけをはっきり覚えている。声は出した。上の道を、麦わらを被ってリヤカーを引いた人が通りかかって、土手を下りてきた。あの人の名前は知らない。町の人ではなかったと思う。大人が三人になるまでにどのくらいかかったのか、五分か、それとも十五分か、そのあいだ私はあの石の上にいて、下りもしなかった。誰かが私の腕をつかんで土手の上まで引っぱり上げたのは、もう少しあとのことになる。腕をつかまれたところが夜になって赤くなっていて、風呂で見た。人が集まってきて、竹の棒を持ってきた者もいて、下流の方へ走って行った者もいた。私はその人たちの誰にも何も聞かれなかったし、聞かれなかったから何も言わなかった。徹のシャツは草の上に置いたままだった。あれを誰が拾ったのかは、知らない。自転車は夕方には家の脇に立ててあった。父が立てたのか、誰かが持ってきてくれたのか、そこは知らない。家に帰ったら、母は台所にいて、何も聞かなかった。 靖は膝の上で指を組んで、それを解いて、腕時計を見た。話しているあいだ、一度も口を挟まなかったし、頷きもしなかった。三十年ばかり前には、その話はもういいと言ったこともあったが、あれは静江の葬式の前だったか後だったか、そこは前後が入れ替わることがある。いまはもう言わない。言わなくなったのがいつからかは分からない。 「昼、もう食ったんだよな」 「十一時半だ」 「早いな」 「早い」 「ばあちゃんが編んでたやつ、まだ着てる?」 「編んでたやつ」 「茶色の、ベストの」 「ああ」 ベストは箪笥の二段目にある。着ると背中が暑いので着ていない。着ていないとは言わなかった。あれは静江が七十を過ぎてから編んだもので、右の肩のところだけ目が詰まっている。編み直すと言って、ほどきかけたまま二年ほど袋に入っていた時期があって、それを最後に仕上げたのがいつだったかは覚えていない。 「羊羹、切って食うか」 「あとでいい」 二時半になる前に、靖は書類の入った封筒を鞄へしまって、紙袋の空いた方を畳んで持って帰った。羊羹はそのまま棚に置いてある。持ってきた油性のペンを机に忘れていったから、鉛筆と一緒に立ててある筒へ入れておいた。次は盆で、盆まではまだ四か月ある。 窓から駐車場が見える。二階なので、屋根と、人の頭のてっぺんが見える。靖は白い車で来たと思っていたが、乗り込んだのは銀色の車だった。ドアを開ける前に、鍵の音でもしたのか、車のライトが二度光った。荷物を助手席へ置いて、それから運転席へ回るまでのあいだに、上着を脱いで後ろへ放り込んでいる。こちらを見上げるかと思って窓の縁に手を掛けていたが、見上げないまま出て行った。見上げないのは、上を見る癖がないからで、それだけのことだ。あの子は歩くとき、昔から足元しか見ていない。車が出て行ってから、送迎の白いのが入ってきて、さっきまで靖の車があったところへ尻から入れた。白いのはあれだったかと一度は思ったが、あれは施設の車で、横に苑の名前が書いてある。窓の縁に埃が溜まっていたので、指で拭いて、拭いた指をズボンで拭いた。 夕方に果林さんが来た。 「柴田さん、明日のお風呂、二時からになりましたので」 「二時」 「はい、二番目です。呼びに来ますね」 「息子さん、駐車場でご挨拶されましたよ」 「そうか」 「また盆に来ますって」 「それは知ってる」 紙をもう一枚めくって、四月十二日、日曜、風呂二時、と書き足した。書いてから、四月十一日の紙を裏返して、靖来る、とその裏にも書いた。 第四章 爪を切ってもらった。 右手は自分で切れるのだが、左手がどうにも切れない。本山さんが木曜の午後に来て、新聞紙を私の膝の上に広げてから、親指のほうから順に切っていく。 「柴田さん、左手だけでいいんですよね」 「ああ、右はできる」 「うちの姉んとこ、保育園、また外れました。書類を二度出し直して、三度目もだめで」 「え?」 「保育園です。姪っ子の」 「うちの母親は、新聞紙を四つに畳んで、その上で弟の頭を刈っていた」 「そうですか」 バリカンが毛を挟むたびに、与二が肩をよじって、痛い痛いと騒いだ。刈り終わると母は新聞紙をそのまま丸めて、勝手口から出て、畑の隅にあけていた。 切り終わると、本山さんは私の手を持ち上げて、指の腹を親指でひとつずつなぞる。 「引っかかるとこ、ないですか」 「ない」 それから新聞紙を畳んで廊下の台車に載せて、次の部屋へ行く。話の途中でも、時間が来れば行く。三年目だから、そういう区切り方がうまくなった。 新開徹という子がいた。 同じ組で、席は窓側の前から三番目、私はその二つうしろに座っていた。背は私より少し低かったのに腕だけが長くて、上着の袖から手首がいつも出ていた。その上着は年じゅう同じもので、右の肘に継ぎが当たっていた。継ぎの布が本体と色の合わない濃い茶色で、そこだけ別の服から切ってきたものに見えた。あの家に縫う者は母親のほかにいない。髪はいつも短く刈ってあって、うなじのところに刈り残しの筋が一本まっすぐ通っていた。歩くときにわずかに前のめりになる癖があったので、うしろ姿だけでもすぐに分かった。 左利きだった。 これは先に書いておかないといけない。今の人には何ということもないのだろうが、あの頃、左で字を書くのは直されるものだった。習字の時間に先生が徹のうしろに立って、後ろから手を伸ばして、筆を右のほうへ持ち替えさせた。徹は言われた通りに右で書いて、その字は妙に太くて、縦の線が途中で一度折れていた。半紙を四枚だめにして、五枚目も同じだった。「左手は行儀が悪い」と先生は一度だけ言って、そのあとは何も言わずに徹の右手を出させた。墨をする水は各自が家から持ってくることになっていて、徹はいつも一合ほどの空き瓶に入れてきて、栓の代わりに新聞紙を丸めて押し込んであった。私は字が上手かった。母方の祖父が晩に私の手を上から握って書かせてくれたおかげで、書き初めは毎年廊下に張り出された。郵便局に入ってからも、宛名の書き替えはたいてい私のところへ回ってきた。徹は自分の名前を書くのが嫌いで、清書の日に半紙を持って私のところへ来た。 「お前、書け」 「先生に分かるよ」 「分からん。うまいほうがいいんだろ」 頼むという言い方をしない子だった。できないと言ったのに、結局は書いた。新開徹と三文字を、開の門構えのところだけ少し右へ流して書いた。先生が気づかなかったのか、気づいたうえで黙っていたのかは分からない。徹の半紙は廊下に張り出されて、徹は最後までそれを見に行かなかった。私は二度見に行った。一度は掃除の時間に箒を持ったまま、もう一度は帰りがけに、誰も廊下にいないのを見はからって行った。自分で書いた門構えの流し方が、やはり少し右へ寄りすぎていると思った。 字のことでは直されたけれども、投げるほうは左のままで通った。誰も右で投げろとは言わなかった。左で投げると速かったからだ。 放課後は土手の下の原っぱで三角ベースをした。石灰の袋を用務員さんから借りて線を引くのだが、ひと雨で消えてしまうので、そのたびに引き直した。人数が揃わない日は、二人で農協の裏の壁に向かって投げ合った。壁には赤い塗料で四角が描いてあって、それは私たちが描いたものではなく、前の代の誰かが残していったらしい。徹の球は、こちらへ来る途中で内側へ寄ってくるように見えた。 「今の、曲がったろ」 「曲がってない」 「曲がったって。手首は使ってないぞ」 本当に曲がっていたのかどうかは、今になっても分からない。球は一つきりで、大きく逸れて土手の下の川のほうへ転がってしまうと、全員で草をかき分けて探した。見つからないまま暗くなった日が二度あって、二度とも次の朝には出てきた。捕り損ねて胸に当たると、しばらく息が浅くなって、それでも痛いとは言わずに投げ返すのが決まりのようになっていた。夏の夕方は、原っぱの向こうの川のほうから風が来て、そのあいだだけ涼しかった。 隣の学校と試合をしたことがある。 徹が投げて、七点取られて負けた。六回までは二点だったのに、そのあとが続かなかった。守るほうが後ろでぼんやりしていたからで、私も右翼で二つ落とした。徹は最後の回に肩を回しながら投げていて、それでも代わると言い出さなかった。うしろで見ていると、球がミットに入る音がだんだん軽くなっていくのが分かった。負けた帰り道、徹は自転車を押しながら喋っていた。 「あいつの球、遅かったろ」 「うん」 「遅いのに、なんで打てなかったんだ」 来年は勝つとは言わなかった。相手の投手のことばかりで、私が落とした二つには触れなかった。触れないというのがどういう意味だったのか、今でも考えることがある。 グローブは、四十一人いた組に三つしかなかった。 私のは、父の平吉が農協の倉庫係から譲ってもらった中古で、手のひらの革がすっかり薄くなって、紐が一本切れていた。切れた紐は父が農協の梱包用の細いのを通して結び直してくれたが、その結び目が手のひらに当たるものだから、捕るたびにそこだけ痛かった。 「千二百円した。これでも安く分けてもらったんだ」 父はそう言った。あとになって母のきよが、台所で芋の皮をむきながら、 「あんなもの、六百五十円だよ」 と言った。どちらが本当だったのかは知らない。革が硬いものだから、寝る前に牛の脂を塗って、ボールを挟んで紐で縛って、布団の下に敷いて寝た。朝に布団を上げると、畳の目のそこだけに跡がついていた。母はそれを見ても何も言わなかったが、脂の匂いのことは一度だけ言われた。徹は、その右利き用のものを右手にはめて使っていた。左で投げるのだから、捕るほうは右手になる。左利きの子のためのものなど町の店には置いていなかったし、置いてあったところで買えるはずもなかった。親指を入れる穴に小指を入れて、残りの指を無理やり押し込んで、そういう形で握っていた。捕るたびに指が痛かったはずだが、痛いと言うのを一度も聞いていない。私のを貸してやると、徹は同じように逆さにはめた。 「おれのより捕りやすい」 「脂を塗ってあるからだ」 「牛のだろ、これ。うちには塗るものがない」 貸した日から二日ほどは、原っぱへ来るとまずそれを両手で持って、革の匂いを嗅いでいた。 「この匂い、嫌いじゃない」 と言って、そのあとすぐに別の話を始めた。 徹の家は、学校の裏門を出て土手のほうへ少し下りて、二つ目の路地を入った奥にあった。 戸を開けると土間で、上がったところが六畳、その奥が台所になっていた。ほかに部屋はない。土間の隅に自転車が一台置いてあって、それは母親のもので、勝手に乗ると叱られると徹は言っていたが、試合の日はそれを押して行った。天井に雨の染みが広がっていた。 「あれ、こうもりに見えるだろ」 私にはそう見えなかったけれども、そうだなと答えた。うちにはラジオがあったが、あの家には無かった。夕方に行くと、明かりを点けないまま二人で座っていることがあった。仏壇の上に写真が置いてあって、軍服の男の人が正面を向いていた。徹の父だ。どこで死んだのかは、あのとき聞いたはずなのに、もう出てこない。南のほうだと言われた気もするし、船が沈んだと聞いた気もする。徹は父の顔を知らない。私と同じ年に生まれて、父がいなくなったのはその前なのだから、知りようがなかった。写真の人は徹に似ていなかった。似ていないと思ったことを、その場では言わなかったし、あとでも言わなかった。 母親は昼のあいだ町の縫製に出て、夜は糸を撚る内職をしていた。 行くと、たいてい台所の板の間に座って、膝の上で何かを回していた。指の腹が割れていて、そこに紙のようなものを巻いて糸で留めてあった。糸は箱ごと届けられて、仕上げた分だけ数えて金になるのだと聞いた。一つがいくらだったのかは覚えていない。安いのだろうということは、子どもにも見当がついた。徹は母親の前ではほとんど喋らなかった。私が上がると、麦茶を湯呑みに出してくれた。氷はなかった。 「徹、お友達を連れてくるときは、先に言いなさい」 叱るときの声ではなかった。それからこちらを向いて、 「与一ちゃんは、お父さんが農協だからいいねえ」 と言った。何と返せばいいのか分からなくて、麦茶を飲んだ。あの家の麦茶はいつも薄かった。うちの母は、徹が来ると必ず何か食べさせた。 「徹ちゃん、これ食べてお行き」 ふかした芋のときもあれば、握り飯のときもあった。与二がそばへ寄ってきて、徹の左手ばかり見ていた。 「なんで左なの」 徹は答えずに、芋を右手へ持ち替えた。九つだから、そういう見方をする。父は一度だけ、 「あの子は左だから、損をするな」 と言った。何が損なのかは説明しなかったし、こちらも聞き返さなかった。 一度、徹が学校を四日休んだことがある。 母親が寝込んだのだと、あとになって聞いた。その四日のあいだ、窓側の前から三番目が空いていて、掃除当番だった私がその机を拭いた。机の中に半紙が丸めて突っ込んであって、開いてみると清書の日に失敗した分だった。捨てずに入れてあった。徹は四日目の夕方に原っぱへ来て、投げるだけ投げて、何も言わずに帰っていった。私も聞かなかった。今なら聞くだろうか。たぶん聞かない。 順番が前後しているかもしれない。試合が先で、休んだのがあとだったかもしれない。この話は去年も本山さんにしたような気がする。 夏休みに入る前、終業式の日だったと思うが、私はグローブを徹に貸した。 「六日でいいか」 「うん、六日」 六日は過ぎた。盆の前になっても、返ってこなかった。 それきり返ってきていない。どこへ行ったのかは、今も知らない。 本山さんが検温に来た。テレビは点いていたが、音は消してあった。 「六度三分。変わりないですね」 「今日は何日だったかな」 「九月の十七日ですよ」 紙にそれを書いて、枕元の引き出しに入れた。前に書いたものも同じ引き出しに溜まっていて、数えたことは一度もない。 第五章 転んだのは六月十七日、昼めしのあとで、廊下にまだ飯の匂いの残っている時分だった。 食堂から部屋までは手すりを伝って四十歩ある。前に数えたことがあるから間違いない。そのうち洗面所の前の五歩か六歩だけ手すりが切れていて、そこは壁のへりに指の腹をかけて渡ることにしていた。あの日もそうしたはずだが、右の膝が思ったところまで前へ出てこなかった。スリッパの底が床の樹脂を撫でて、それから腰が落ちた。音は自分の耳のうしろで鳴った。低くて、締まりのない音がした。 痛いより先に、熱かった。 尻の骨のあたりが熱を持って、その熱があとから痛みに変わっていくのが分かった。左の手のひらの、親指の付け根が擦れて、赤い点が七つか八つ、砂粒の跡のように並んでいた。起きるのはやめて、そのまま床を見ていた。低いところから見る廊下は思っていたより長い。配膳車の車輪に髪の毛が巻きついているのや、壁の巾木が車椅子の足置きで削れて白くなっているのや、そういうものばかりが目に入った。床はワックスの匂いがして、そこに昼の汁物の匂いが同じ高さで混じっていた。突き当たりの非常口の緑の灯が床の照りにもう一つ映っていて、そちらのほうが本物より明るく見えた。誰かが遠くで私の名を呼んだ。呼ばれてから返事をするまでに、自分でも長いと思うくらいの間があった。 果林さんが走ってきて、動かないでください、と先に言った。 「柴田さん、頭は打ってませんか」 「打ってない」 「首は。ここ、痛くないですか」 「大丈夫だ。手を貸してくれ」 「もう少しそのままで。いま看護師さん来ますから」 看護師の宮本さんが袖をまくって血圧の帯を巻いた。 「柴田さん、今日の朝ごはん、何食べました」 「粥と、味噌汁と、佃煮だ」 「上が百四十二、下が七十八」 それから二人がかりで抱え起こされて、車椅子で部屋まで戻された。歩けると言ったのだが、決まりだからと言われれば仕方がない。夕方に埼玉の靖のところへ電話がいったらしく、翌る日、市内の整形外科まで施設の車で連れていかれた。保険証と受給者証というのを果林さんが茶封筒に入れて、車に乗る前に私の膝の上へ置いた。待合室で一時間と少し待たされて、そのあいだに呼ばれた名前は十一人ぶんあった。レントゲンを二枚撮って、若い医者が画面の白い線を指の背で叩いた。 「折れてないですね。この線は古いやつです。打撲ですね」 「歩いていいのか」 「歩いてください。寝てるほうが早く駄目になります」 白衣の胸の名札は横文字が混じっていて、私の目では読めなかった。湿布と、痛み止めを五日分もらって帰った。運転していた男の職員が、道が混むので遠回りしますと断りを入れて、そのあとは信号のたびに窓の外を見ているだけだった。 事故報告書というものを、果林さんはその日のうちに書いていた。転んだ時刻、場所、履いていた物、そばに職員が何人いたか、そういう欄があるらしい。廊下ですれ違ったときに、スリッパの裏の写真も撮るんです、と言われた。転んだ本人から聞き取りをする欄もあるそうで、そのときの状況を説明してくださいと言われたから、手すりの切れているところで膝が上がらなかった、と答えたのだが、あちらの紙に写された文はもっと短いものになっていたはずだ。 「あれ、一枚書くのに三十分かかるんです。わたし今週、あと二枚あって」 「大変だな」 「来月は車検も来ちゃうし」 車のことだったか原付のことだったか、そこは覚えていない。 靖からは夜に電話が来た。 「腰、大丈夫なのか」 「腰じゃない。尻だ」 「どっちでも同じだろ」 「同じじゃない」 受話器の向こうで湯の沸く音がしていた。 「まあいい。盆には行くから」 「ああ」 「いるもんがあったら言っといてくれ」 年に二度来るうちの春のぶんはもう済んでいるから、そういう勘定になる。電話は五分もしなかった。 夜は腰が痛んで眠れない。 除湿機が一時間ごとに唸って止まる。廊下の常夜灯は扉の下から細く入ってきて、床の目地を一本だけ光らせている。隣の田口さんが三度咳をして、そのあと音がしなくなった。湿布の匂いが枕のあたりに溜まって、寝返りを打つたびに濃くなる。枕元のメモ帳に、六月十七日、転倒、骨に異常なし、と書いた。字は前より曲がるようになったが、日付だけは崩さないようにしている。書いておかないと、あとで靖に聞かれたときに困る。天井の蛍光灯のまわりにある茶色い染みは、去年見たときより横へ伸びて、いまは瓢箪に近い形になっている。雨漏りではなく前の人がいたころからのものだと、いつだったか誰かに聞いた。仰向けでいるうちは、それを見ているよりほかにすることがない。 十時過ぎに扉が細く開いた。 「柴田さん、起きてます」 「痛くてな」 「痛み止め、飲みました。九時の」 「飲んだ。あんた、今日は遅いのか」 「夜勤です。朝までいます」 「そうか。歯医者はどうした」 「歯医者、ですか」 「いや、なんでもない」 ナースコールのボタンを、果林さんが右の枕元へ付け替えていった。左の手のひらに擦り傷があるから、そっちでは押しにくいだろうという。そういうことに気がつくのが仕事なのだろう。夜勤は二人で三十八人を見るのだと前に聞いたことがあって、その一人が私の枕元でボタンの位置を直しているあいだにも、廊下のどこかで別の呼び出しが鳴っていた。扉が閉まって、廊下を行く足音が、四つ隣の部屋の前で止まった。 眠れない晩は昭和三十三年の八月十一日に戻る。戻るというより、暗がりの中でそこだけが明るくなっている、という言い方のほうが近い。 あの日は昼を食ってから家を出た。自転車は一台しかないから、荷台に徹を乗せて土手まで行った。草の丈が膝ぐらいある土手の上に、自転車は倒して置いた。スタンドを立てても草に沈んで倒れるので、はじめから倒しておくのが決まりだった。グローブもそこへ置いた。私のグローブで、その前の週に貸したまま返ってきていなかったやつだ。返せとは言わなかった。返してもらう約束の日ではなかったし、あの日はそんな話をする日ではなかった。 もう一人いたことは、前にも話したと思う。名前は言わない。いまもこの町に家のある人で、あのとき十三だった者がそろって八十を越えたいまになって名前を出しても、誰の得にもならない。その人のことを長いあいだ話に出さずにきたのは、こちらに遠慮があったからで、隠していたのとは違う。 土手の下の川は、前の晩の雨で少し濁っていた。いつもなら岸から二間ほど先に石の頭が三つ出ているのだが、その日は一つも見えなかった。水の色は茶に近い緑で、上から覗くと底が二尺ばかりのところにあると思えるのに、足を入れてみるとそれよりずっと深いというのが、あの川のいちばん厄介なところだった。徹が先に脱いだ。脱いで、そのまま入った。入ったというより飛んだ。膝を抱える格好で、足のほうから落ちた。左利きだから、飛ぶときも左の肩が先に出る。投げるときと同じ形だった。水の音は二度した。一度目が体の音で、二度目が水そのものの音だった。飛ぶ前に一言、何か言っている。こちらを向いて言ったのではなく、水の面を見たまま言ったので、風の向きもあって半分しか届かなかった。 私はまだシャツのボタンを外している途中だった。ズボンを脱いで、畳んで、乾いた石の上に置いた。濡らして帰ると母がうるさいから、畳む癖がついていた。畳んでいるあいだに、もう一人が何か言った。何と言ったかは、いま言っても仕方がない。 顔を上げたら、水の上に頭がなかった。 ズボンの片足が抜けきっていなくて、それを外すのに手間取った。裾が踝に絡んで、引っ張ると縫い目の鳴る音がした。あの音だけは、いまでも耳のほうが先に思い出す。外れたときには、水の面はもとのとおりになっていた。波の輪だけが岸のほうへ寄ってきて、草の根のところで消えた。もう一人は土手を駆け上がっていって、途中で一度、草の中に転んで、それから見えなくなった。 私は水に入った。膝までは砂で、その先は急に泥になって、足の指のあいだから入ってくる。足の裏で探した。何度も探した。冷たいというほどの水ではないのに、足の指だけがいつまでも冷えていた。上のほうから草の切れ端が幾度も流れてきて、腿に当たっては離れていくのを、数えるようにして見ていた。名前を呼んだかどうかは言わない。呼んだところで、呼び方は一つしかない。 堰の普請に出ていた大人が四人、鳶口と竹竿を持って土手を下りてきて、上がれ上がれと言われて岸へ上げられた。上げられてから、体が震えているのに気がついた。八月で、日は真上より少し西に寄ったくらいで、震えるような時刻ではない。誰かが私の肩に手拭いを掛けて、その手拭いが濡れていた。徹が上がったのは日が傾いてからで、二百メートルばかり下の、堰の手前の淀みだった。上がったところは見ていない。土手の上にいろと言われて、その通りにしていた。大人の一人が、そのあいだずっと私に何か聞いていた。 「何時ごろ来た。何人で来た。どこから水へ入った」 答えたはずだが、答えたほうの言葉は残っていない。残っているのは、その人の親指の爪が半分黒くなっていたことと、聞きながら私の顔を見ずに水のほうばかり見ていたことだ。しまいに聞くのをやめた。 「家はどこだ」 自転車はそのあいだ倒れたままで、夕方になって取りに行ったら、ペダルのあたりに草の汁がついていた。 そこまで来ると、毎度、同じところで別のものが出る。 三和土の冷たさだ。裸足で上がった玄関の、板の間の縁のあたり。台所で母が何かを刻んでいて、ラジオがついていた。相撲だったか、そうでなければ歌だ。夏の午後の家はどこもそういうものだから、べつに珍しい記憶でもない。与二が縁側で何かをしていて、こっちを見なかった。九つの子は兄が帰ってきても顔を上げない。そういうことは、いくらでもあった。母は振り向かずに、おかえりとも言わなかったように思う。刻む音が一度止まって、それからまた続いた。土間に長靴が片方だけ倒れていて、それを立ててから上がった。倒れているものを見ると直さずにいられないのは、そのころからの癖だ。 二時半に便所へ立った。腰を伸ばすのに手すりを両手で持って、そのまましばらく立っていた。手すりから手を離すまでに数を三十ほど数えるのが、このごろは決まりのようになっている。廊下のほうで台車の車輪が鳴って、洗濯物を運んでいるらしい音が、ずいぶん長いこと同じ場所で止まっていた。窓の網戸に蛾が一匹貼りついて、動かない。メモ帳をもう一度引き寄せて、六月十八日、と書いた。日付が変わっているのに気がついたからで、それ以上は何も書かなかった。 湿布を貼りなおしてもらうのは朝でいい。 第六章 棚の写真立てを、本山さんがガーゼで拭いている。月に一度、居室の床を機械で磨く日があって、その日はガラスのところだけ職員が拭くと決まっているらしい。 「柴田さん、写真、いったん下ろしますね」 こちらから頼んだ覚えはない。靖の結婚式で撮ったものを引き伸ばした写真で、紺の、襟に細い縫い取りの入った服を着ている。写真屋の名が右下に小さく入っているが、駅の西のほうにあった店はもう看板ごと無いと、去年の盆に靖が言っていた。 写真の静江は口を閉じている。前歯が一本だけ内を向いていて、それが写るのを嫌がったから、どの写真でも口を開けなかった。 見合いは昭和四十年の秋で、静江の家の座敷だった。仲人は局の先輩で、名前はもう出てこないが、鼻の下に切り傷があって、笑うとそこだけ白くなった人だ。床の間に軸が掛かっていて、字が読めないのを見られたくないので、こちらは初めのうち庭のほうを向いていた。縁側から畑が見えて、その先が桑の畝で、桑の向こうは霞んでいた。天井から蠅取り紙が下がっていたが、その年の秋は蠅が少なかったのか、掛かっているのは一匹だけで、それが時々動いた。羊羹が出た。切り置きにしてあったのか端が乾いていて、黒文字が刺さらず、二度目に力を入れたら皿が鳴った。 「この男は局へ入って三年目になりますが、集配で遅配を一遍も出しておりません。字も上手いんですわ」 仲人がそう言って、湯呑みの蓋を裏返しに置いた。父の平吉も来ていて、聞かれもしないのに、 「肥料が、去年の暮から上がりましてな」 と一つ言って、あとは黙って煙草を吸った。母のきよは腰が悪くて来ていない。静江の父親は、こちらの顔を見ないで順に聞いた。 「家は何人だ」 「四人です。下に弟が一人おります」 「田は」 「一反ばかりと、あとは畑を少し」 答えているあいだ、静江は膝に手を置いたまま、顔を上げなかった。静江の母が茶を替えに来て、乾いた羊羹の皿を下げようとしたのを、静江が手の甲で押さえて止めた。柱時計が鳴って、仲人が腕時計を見て合わせ直した。二十で、こちらも同じ年の生まれだった。 出された茶は熱すぎた。 湯呑みを置くときの手を見ていた。指の腹が固くて、爪が短く切ってあった。冬のあいだ機を織る家で、糸をつむぐのに指を使うから女の手でも硬くなるのだと、あとで静江の母が台所の戸口で言った。その手が、こちらの前の湯呑みを一寸ばかり動かした。畳の目に沿って置き直しただけだと分かったのは所帯を持ってからで、物の向きが斜めになっているのを見過ごせない性分だった。 「桑は、まだやっているんですか」 「うちのは、もう」 「え」 「もう、やめまして」 蚕はとうにやめて畑は人に貸してあるという話を、あとから仲人が代わりに説明した。こちらの聞き方が悪かったのだと思う。静江はそれきり父親のほうを見て、持ち上げかけた湯呑みを、飲まないまま両手で戻した。 帰りは自転車を押して、学校の裏の川に架かった橋を渡った。欄干が塗り替えたばかりだった。掌に白い粉がついた。 式は十一月の二十七日で、町の神社の社務所を借りた。貸衣装は下館から来て、返すのが翌々日という約束だったから、着たまま写真屋へ回った。写真は一枚しか撮っていない。金が惜しかったのではなく、二枚目からは同じ値段がかかると写真屋が言ったとき、 「一枚で、けっこうです」 と静江が先に答えたからだ。その日が晴れていたか曇っていたか、いまは分からない。写真の背景に木が写っていて、葉が残っているようにも、落ちているようにも見える。祝辞を誰が読んだかも出てこない。覚えていないことは、覚えていないと言うより仕方がない。ただ八月十一日のことだけは別で、あれは今でも順番どおりに出てくる。 借家は局から歩いて十二分のところにあって、家賃が三千六百円だった。台所の流しがコンクリートで、冬は水が指に刺さる。静江はその水で顔を洗ってから飯を炊いた。大家が同じ敷地の母屋にいて、雨樋が詰まるたび、こちらが梯子を借りて上がった。風呂は初めの四年、大家のを貰い湯していて、静江は必ず最後に入った。集配の雨合羽が乾かない季節は、家じゅうがゴムの匂いになる。宿直の晩は静江が一人になるので、初めの年は実家から妹が泊まりに来ていたが、二年目からは来なくなった。冷蔵庫を入れたのは四十五年の春で、月賦の一回が二千八百円、それを十二回払ったが、据えた日には中を三度拭いて、それから何も入れないまま、しばらく扉を開けたり閉めたりしていた。靖が生まれたのは四十六年の六月で、名は静江の父がつけた。こちらが考えた字は二つとも通らなかったが、その場では何も言わなかった。産院から戻った日の晩に局の同僚が七人来て、座敷が煙草の煙で白くなったが、静江は台所から出てこず、徳利はこちらが運んで、寝ている靖の顔を見に立ったのは、いちばん年嵩の主任だけだった。飯は家の者が食べ終わってから、台所の隅で立ったまま食べる人で、直せと何度か言ったが直らなかった。布団を上げるときは、必ず縁を揃えてから押入れに入れた。 給料は月に一度、茶封筒のまま渡した。中を数えずに簞笥の二段目へ入れるので、一度だけ聞いたことがある。 「数えなくていいのか」 「数えるのは、そっちの役目でしょう」 それきりこちらも聞かなくなった。四十七年にテレビを入れて、そのぶん簞笥の位置が半間ずれた。 大阪へ出た妹からは、はじめの二年だけ手紙が来た。理由は聞かなかったし、聞いても言わなかったろう。それでも静江は毎年、年賀状を出した。返事は二回来た。二回とも印刷の文面のままで、何も書き足してなかった。 徹の話をしたのは、所帯を持って二年目の冬だと思う。炬燵で私の作業ズボンの膝に当て布をしていて、話しているあいだ、針を刺す手が一度も止まらなかった。ラジオが点いていたが、途中で消してくれとは言われなかった。学校の裏の川のことを、はじめから終いまで話した。話し終えて、茶を飲んだ。茶はもう冷めていた。十時は回っていたと思う。当て布の糸を歯で切って、ズボンを膝に広げて皺を伸ばしてから、鴨居に掛けに立った。何も聞かれなかった。年も、名前の字も、どこの子だったかも聞かれない。聞かれなかったので、これで済んだと思った。 「そう」 そう、と言ったきり、鴨居のほうを向いたまま、 「明日、米屋の来る日だったかしらね」 「米屋は水曜だ」 人の話を聞かない人ではない。聞いてから、必ず別のことを言う人だった。あの晩は畳の縁に針が三本刺してあって、話が終わったときには四本になっていた。 局の慰安旅行が塩原だった年、たしか五十三年か五十四年で、家族も連れて行ける決まりの年だったが、酔って同じ話をした。座が静かになったところで静江が立って、 「銚子、もらってきますね」 と、こちらの顔ではなく膳のほうを見て言って、廊下の帳場へ出ていった。徳利は二本とも空だったのだから、間の悪い偶然というものはある。歌は歌わない人だった。 靖が中学の二年のとき、風呂から上がってきて、頭を拭きながら聞いた。 「父さん、友達が死んだって本当なの」 誰に聞いたかは言わなかった。茶碗を置いて答えようとしたら、台所から、 「昔の話よ」 と静江が言った。その年は靖の学校のプールで下級生が沈んで騒ぎになっていたから、水の話を子供の耳に入れたくなかったのだと思う。靖はそれ以上聞かず、以来一度も聞かない。 新開のおばさんが亡くなったのは平成六年で、報せは葬式の前の日に回ってきた。その年、静江は腰を痛めて寝込む日が多かったから、こちらだけ行った。香典は三千円にした。 「あんまり出すと、向こうが返しに困りますから」 そう言って、袋も静江が簞笥から出した。字はこちらが書いた。帰ってから、どうだったと聞かれなかったので、こちらからも言わなかった。 静江が、その話をよそでしたことはない。 毎年八月十一日は、朝のうちに外へ出ることにしていた。行き先は言わなかったし、静江も聞かなかった。あの日、静江はたいてい障子を洗っていた。八月に障子を洗う家はあまりない。糊が乾かないと文句を言いながら、それでも毎年その日に桟を外した。 静江は家計簿の余白に日記をつけていた。五十二冊が押入れの茶箱に入っていて、死んだあとに靖と二人で下ろした。表紙はどれも同じ薄緑で、農協が暮れに配ったものを使っていたから、背に年だけが違う数字で刷ってある。天気と、卵と灯油の値段と、誰が来たか、それだけしか書いていなくて、卵一パック百六十八円、灯油十八リットルで千四百二十円、そういうことが九行のうち七行を占める。鉛筆の芯を替えた日にだけ、余白に横の線が一本引いてある。平成に入ったあたりからボールペンに変わって、線は引かれなくなった。 「母さんらしいな」 靖は三冊ほど繰って、あとは触らなかった。六月の靖の誕生日には、どの年にも靖誕生日と書いてあって、赤飯を炊いた年には赤飯と足してある。最後の一冊は二月八日で切れている。雪、靖から電話、とだけある。八月十一日の欄も、ほかの日と同じ書き方をしてある。私の話は一度も出てこない。 静江が死んだのは八年前の三月で、七十一だった。入院して二十二日目の朝で、こちらは廊下の自動販売機のところにいた。戻ったときには看護師が四人いて、そのうちの一番若いのが、 「いま呼びましたから」 と二度言った。前の晩に、 「追い焚き、止めてきたの」 と聞かれた。家の風呂はその四年前に壊れて、ボイラーごと取り替えてある。 「止めた」 それが最後に交わした言葉になる。荷物は病院の白いビニール袋に入れて渡された。湯呑みと歯ブラシと、使わなかった膝掛けと、爪切りが入っていた。爪切りは静江のではなく、備え付けのものだったかもしれない。会計は一階の五番の窓口で、差額の分が思っていたより高く、判子が要ると言われて印鑑を家に忘れてきているのに気づき、取りに戻って、また並んだら、窓口の人が替わっていて、初めから説明をやり直した。 靖が着いたのは、昼を過ぎてからだった。 死亡届はこちらが書いた。役所の人に、 「字、おきれいですね」 と言われた。褒められて何と返したかは覚えていない。続柄の欄を一度書き直した。書き損じたのではなく、はじめの字が縦に伸びすぎたので、消して、枠の真ん中に入れ直した。 本山さんが戻ってきて、ガーゼを畳みながら聞いた。 「奥さん、どちらのお生まれなんですか」 「この町の、冬に機を織る家の」 「機、織ってらしたんですか」 「二十で嫁に来て、私と同じ年の生まれで、それで」 廊下からまた呼ばれて、あとで聞かせてくださいね、と言って本山さんは出ていった。ガーゼは棚に置いていったから、返さなければならない。 第七章 紙に日付を書く。書いてから、その下にその日することを三つ書く。三つより多く書くと守れないので三つと決めていて、今日は七月十七日、洗濯物が戻る日と、爪を切ってもらう日と、もうひとつ何かあったはずなのが出てこないから、三行目は空けたままにしてある。日付は年から書く。二〇二六年七月十七日、と書いて、その横に曜日を入れる。曜日を入れておかないと、洗濯物が戻るのが四日おきだったか五日おきだったか、あとで数えようとしたときに数えられない。ここの鉛筆はどれも先が丸くて、書くと線が太い。 果林さんが封筒を一通持ってきて、机の端に置いた。市役所のもので、窓の位置がずれていて、宛名の下の「様」が半分隠れている。 「与一さん、これ、開けますか」 「窓の寸法に合っていない」 「窓、ですか」 「封を入れる機械があるんだよ。三つ折りにして窓に合わせる。折り目が一ミリずれると、こうなる。手で折ればこうはならない」 「じゃあ、機械のほうが悪いんですね」 「悪くはない。速いんだよ。速いものは、たまにずれる」 「開けなくていいですか」 「あとでいい」 果林さんは封筒を裏返して、それからまた表に返して、体温計を取りに隣の部屋へ行った。この人は話の途中で立って、途中から戻ってくる。それで困ることは別にない。先月から原付で通っているそうで、雨の日は前髪の先が濡れたまま昼まで乾かないでいる。 昭和三十八年の四月に局へ入った。十八だった。父は農協にいて俺にも農協を勧めたが、募集の紙は郵便局のほうが先に貼り出されていて、決めた理由はそれだけだった。試験は算数と作文で、作文の題は忘れた。採用の通知が届いた日、父は帳面を膝に載せて縁側にいて、顔を上げないまま「辞めるなよ」とだけ言った。辞めないで四十二年いた。初めの給料は一万二千円だったか、一万二千八百円だったか、そのどちらかで、封筒のまま母に渡すと、母は流しの上の茶筒に入れた。 最初の三月は先輩について回った。飯塚さんという人で、片方の耳が遠く、こちらの言うことを聞き返さないで自分の見当で返事をする。 「飯塚さん、この家は裏へ回るんですか」 「うん、今日は降らんな」 そんな返事が来て、こちらもそれ以上は聞かないから、話が噛み合わないまま一日が終わる日もあった。教わったのは道順ではなくて、どの家がどの曜日に留守にするか、どの家の門は昼でも閉めてあるか、そういうことだった。道順のほうは、二月もすれば自然と足のほうに入る。 朝は五時半に局へ出る。前の晩に着いた分を、まず棚に区分けする。それが済んだら道順に並べ替える。順立という。俺の区は在の集落で、家は全部で百二十軒ほど、そのうち毎日何かしら来るのが三十七軒だった。順路は覚えているというより、手のほうが持っていた。束を親指で送っていくと、次に行く家の名前が指の下から出てくる。紙の厚みと、宛名の字の癖と、その家の門の高さが、ひと続きになっていた。新開の家は順路の十七番目にあった。二十番目は分教場の裏の医者で、ここは新聞の折込みまで一緒に頼まれて、断っても次の日にはまた挟んである。二十四番目の家には白い雑種がいて、鎖が二間ほどあった。鎖の長さを覚えれば犬は怖くない。覚えていないと、二間の外にいるつもりで手を出して、噛まれる。俺は左の親指の付け根を一度やられていて、噛まれた日は鞄を畦に置いたまま医者へ行き、それから戻って残りを配ったので、家に着いたのは八時を回っていた。 自転車の前かごと荷台に振り分けの鞄を載せて、雨の日は合羽の下に鞄を抱えた。カブが来たのは四十五年ごろだったと思う。赤いのが三台来て、若い順に乗れと言われて、俺は二番目だった。 四十二年のあいだに、数が合わなかったことが二度ある。二度とも俺のせいだ。 はがきが五円で、封書が十円だった。値上がりしてからのことは、いつ何円になったのか順には言えない。郵便番号が始まったのは四十三年の七月一日で、これは覚えている。番号の欄の刷ってある葉書が出回っても、書く人は半分もいなかった。それでも届いた。届くのは番号のおかげではなくて、区分けをする人間がその家を知っているからだ。 番号は機械のためのもので、道のほうは人が覚えていた。 配って戻る郵便もあった。宛先の家がもうない、あるいは表札はあっても人がいない。そういうときは付箋を貼って局へ返す。あて所に尋ねあたりません、と刷った札を貼る前に、俺はもう一度その家の前まで行って、雨戸の桟に指を当てて埃を見ることにしていた。埃が乗っていれば人はいないし、桟だけ拭いてある家もあって、そういうところは、返すのをもう一日だけ待った。待ってから返した分が、あとでどうなったかは知らない。 台風の日のことを書いておく。昭和四十一年の九月だった。四十六年かもしれない。朝から南の風で、局長が俺を呼んで「風が落ちてからでいい、今日は昼から出ろ」と言い、俺が出ますと答えたあとも自分の家の物置の戸が夜のうちに外れた話を続けて、蝶番が錆びていたのだと三度言った。昼まで待って出て、田んぼの中の一本道で、横から吹いてきた風に自転車ごと倒された。荷台の鞄の口金が外れて、把束の輪ゴムが切れて、葉書が散った。稲の上を滑っていくのと、用水へ落ちるのがあった。合羽を脱いで、膝まで入って、指で掬った。水は思っていたより冷たくなくて、足の裏に泥がぬるりときた。水を吸った葉書は重くなって二枚三枚と貼りつき、剥がすと表の字が裏の紙のほうへ移っていた。田の持ち主が土手の上に立ってこちらを見ていて、「そこは深いぞ」と一度だけ言って、下りてはこないで、しばらくして帰った。畦に並べて上から一枚ずつ数えた。その日の分は二百四十七通で、二百四十六しかなかった。もう一度数えたが、やはり二百四十六だった。三度目も同じで、四度目は数えなかった。 局へ戻って、二階の宿直室の畳に新聞紙を敷いて、濡れた分を並べた。扇風機を柱の陰から回して一晩置いた。鞄は底を裏返して振って、合羽の内側の折り返しまで指を入れて探したけれども、出てきたのは砂と、稲の葉が二枚だけだった。翌朝、乾いた葉書は端が波打っていて、めくると乾いた音がした。 一通、宛名の下半分が滲んで読めなくなっていた。差出人の欄は空で、消印は隣の県の局だった。大字までは読めて、その大字に、その名字の家は二軒あった。俺は年寄りのいるほうへ入れた。戻ってこなかったから、合っていたことにした。 足りない一通は四日かけて探した。順路を逆から歩いて、用水の柵の下を覗いて、稲を分けて、風下の杉の根方まで見た。四日目に婆さんが一人、畦で俺を見ていて、「何か落としなすったか」と聞くので「そうです」と答えた。何を、とは聞かれなかった。五日目に探すのをやめた。四十二年やって、数が合わなかったのはあの一度きりだ。 うちで数の合うものは父の帳面だけだった。母は買ったものを覚えていない人で、金がいくら減ったかを、減ってから考えた。父は夜、縁側で帳面をつけて、合わないと「どこかで一円だ」と言って一番上から足し直した。米の売り値と肥料の値段が縦に並んでいて、合計の下には定規を当てて二本線を引く。二本線を引くまでが父の一日で、引いてから湯呑みに手を伸ばした。俺も足し直す。合わないままにしておくと、その晩は寝つけない。静江は「そんなに合わせたって一円も増えやしないよ」と言って笑い、笑いながら茶を淹れ直して置いていったので、それ以上は言わなかったのだと思う。 誤配は一度だけした。三十九年の暮れで、年賀の束の中に一通、隣の家の分が混じったまま入れてしまった。夕方に気づいて、飯を食わずに戻った。留守で、鍵はかかっていなくて、俺は名前を呼んでから上がって、たたきの上の三和土に落ちていた自分の入れた一通を抜いた。三和土は掃いたばかりで、俺の靴下の跡が二つ残ったから、抜いた一通を鞄に落としてから、上がり框に腰を掛けて、手のひらで跡を撫でて消した。抜いてから、上がってはいけなかったと思った。誰にも言っていないし、局にも届けていない。だから、これは数のうちに入れていない。 年の暮れは別の仕事だった。十二月に入ると学生が手伝いに来て、二階の広い部屋に長机を並べて、朝から晩まで区分けをする。手のかじかむ子は輪ゴムをうまく外せなくて、束を落とすので、俺は「輪ゴムは二本かけろ」と教えた。一本だと切れたときに全部ばらける。二本かけると、切れても片方が残る。「二本だと外すのが面倒です」と言った子がいて、その子は暮れのうちに来なくなった。あの日の輪ゴムも、思えば一本だった。 元日は暗いうちに局へ出る。 腰をやったのは五十九年の冬だ。書留の入った鞄と、貯金の帳簿と、通信教育の教材を一軒に十二冊、それを一度に運んだ日で、翌朝、布団から起き上がるのに畳を這った。医者は腰椎の何番と言ったが、番号は忘れた。半年ほど休んで、戻ってから窓口に移った。集配は二十一年やった。窓口は残りの年数だから、二十一年か、その前後になる。 窓口は判を押す仕事だった。日附印を紙の右上に、切手のかかりに半分乗せて押す。強く押すと滲む、弱いと欠ける。朝、乾いた布に一度押して試してから客を入れた。朱肉は夏に緩んで冬に固まるので、冬は蓋を開けて掌の下に置いて温めてから使うのだが、そんなことは誰にも教わらないで、三年目の冬に自分で気がついた。為替の用紙は書き損じが多くて、書き損じを客の前で破らない。破ると客が謝る。脇へ寄せておいて、閉めてから破る。窓口には同じ年寄りが同じ曜日に来る。用があって来るというより、来るために用を作ってくる。千円入れて、通帳の数字を声に出して読んで、「ちっとも増えないねえ」と言って、それから孫の話を五分して帰る。集配のころに何度も門の前を通っていた家の人でも、ガラス越しに向かい合うと、こちらが誰か分からないままでいて、俺のほうも名乗らずに判を押した。 平成十七年の三月で辞めた。最後の日に、窓口のガラスを内側から拭いた。誰にも頼まれていない。拭いても外側についた雨垂れの筋は残るので、内側だけきれいになった分、かえって筋のほうが目についた。四十二年で、机の引き出しに残っていたのは、輪ゴムの束と、削っていない鉛筆が三本と、自分の名前の彫ってある認印だった。認印は今も紙の袋に入れて、この部屋の抽斗にある。 果林さんが体温計を持って戻ってきた。脇に挟んで待つあいだ、封筒はそのままにしてあった。 「三十六度四分です」 果林さんは記録の紙に数字を書いて、ペンを白衣の胸のポケットに挿した。書く前に一度ペンを振ったから、出が悪いのだろう。 「爪、午後にしましょうか。入浴の前に」 「三行目が空いている」 「三行目」 「まだ入っていない」 「思い出したら呼んでください。私が書きますよ」 「字が違う」 果林さんは俺の紙を上から覗いて「それもそうですね」と言い、市役所の封筒を机の端から取って、脇に挟んで出ていった。 第八章 果林さんが茶色い表紙のノートを持ってきたのは木曜の午後で、六月だったか七月だったか、廊下の窓を端から端まで開けても風の入らない日だったから、そのくらいの時期だったと思う。近ごろは朝に何を食べたかが出てこない。焼き魚だったような気もするし、それは前の日のことで、その日は食パンに苺のジャムだったような気もして、どちらでも困らないから確かめずにいる。ノートはどこにでもある大学ノートで、罫線の細いほうで、表紙の右下に本山と細い字で書いてあった。三年もここにいて、まだ自分の持ち物に名前を書くのかと思った。 「これ、書かせてもらってもいいですか」 「なにを」 「柴田さんのお話です」 「話すようなことはない」 「あります」 果林さんは胸のポケットからボールペンを出して、ノートの隅に二度ばかり丸を描いた。インクは出なかった。手のひらで軸を温めるようにしてもう一度描いて、それでも出なかったので、机の湯呑みの横に立ててある鉛筆立てのほうへ手を伸ばしかけ、途中で止めて、こちらを見た。 「黒いのを使いなさい。赤は赤で要るから」 「あ、はい。お借りします」 「持っていっていい」 「いえ、お借りします」 赤のほうも一本抜いて、二本まとめて胸のポケットに挿した。 それで、書くのだという。 「去年から様式が変わったんです。生活歴のところが、二枚になって」 「二枚」 「ご家族から聞くだけだと埋まらなくて。埋まらないまま出すと主任に戻されるんです。先月、二人ぶん」 こちらを見ないで、ノートの一枚目に横線を引きながら話した。定規を持っていないので、机の縁に紙を当てて引いていた。線は途中から下がった。下がったところで小さく息を吐いて、消しゴムを出しかけて、やめた。 「一月に試験があって。二月から夜勤を減らす約束なんですけど、その主任が四月に替わるかもしれなくて」 「参考書は」 「買いました」 「読んだか」 「袋から出してません」 この書式は施設のものではなくて市へ出すものだから、鉛筆で下書きをしてから清書するように決まっていて、それを二度手間だと思ったことは一度もないけれど、下書きを飛ばして清書のほうから書いてしまう人がいて、その人の分まで自分が書き直したことが去年の暮れにあった、という話もした。誰のことかは言わなかった。 「柴田さん、字、きれいですよね」 「昔の人は書かされたから」 「わたし、来月から研修の記録も書けって言われてて」 「それは別の紙だろう」 「別です。締切だけ同じで」 わたしは日付を書く。 紙があれば書く。カレンダーの裏でも、薬の説明書きの余白でも、その日の日付を漢数字で書いて、下に自分の名前を書く。四十二年の癖で、消印というのは日付が命だから、局にいたころは判を押す前に必ず日付車を目で確かめた。一日ずれた消印を出すと、あとになって郵便物のほうが嘘をつくことになる。差出人が正しくても、紙が違うことを言う。 「日付車って、なんですか」 「丸い金具の中に、数字の入った」 うまく言えなかったので、机に指で丸を描いて、その中をもう一度なぞった。果林さんはノートに、日付車、と書いた。 「わたし、字が下手なんです」 「下手ではない。とめとはねをやっていないだけだ。習えば八日で直る」 「八日」 「毎日やればだ」 果林さんはここへ来て三年になる。三年のあいだに、昭和三十三年の夏の話を、たぶん八度か九度は聞いている。八度というのは数えたわけではなくて、こちらが話したくなる日が月に一度あるかないかだから、そのくらいだろうという当てずっぽうだ。同じ話を何度も聞かされる側がどういう顔になるかということは、こちらもさんざん見てきた。局の窓口には同じ苦情を毎週持ってくる人がいて、そういうときの若い局員は、だんだん相手の話の途中で手元の書類のほうへ目を落とすようになり、それを直せと言うのがこちらの役目だった。果林さんは書類のほうを見ない。ペンを持った手を膝に下ろして、こちらの口元のあたりを見て、終わるまで待つ。それが仕事のうちに入っているのかどうかは、聞いたことがない。 「昭和三十三年の夏のこと、もう一度うかがっていいですか」 「前に話した」 「はい」 「同じ話になるぞ」 「それでいいです。同じでも、あの、」 「なんだ」 「……いえ。お願いします」 八月十一日だ。これは動かない。 朝から日が強くて、庭の物干しの影が短くなるのが早い日で、母は洗濯を五時前に済ませていた。弟の与二は九つで、まだ寝ていた。父は農協へ出ていて、盆の前は米の話で忙しかったから、朝飯のあいだも誰かの家の名前と反別のことを母に向かって言っていた。母はそれに返事をしないで、竈の前にしゃがんだまま灰を掻き出していて、掻き出しながら、与二を起こしてこいとわたしに言った。起こしにいかなかった。徹の家は寺の裏の借家で、父親は南方で死んでいたから、とみさんと二人だった。徹は左利きだった。左で投げて左で打って、走るのだけは遅かった。左利き用のグローブというものが町の店になくて、わたしの、右手にはめるやつを、逆さにして親指のところを潰すようにして使っていた。うちのグローブは徹が持っていた。学校のある日はそれでよかったが、休みに入るとどうするのかということは、そのころ考えなかった。 学校の裏の川で泳ぐな、というのは、一学期の終業式のときに校長が言った。町のほうの子は市営のプールへ行けたが、こちらはバスを二本乗り継いで片道四十分かかるうえに、往復の運賃が一日の小遣いより高かったので、みな言われたことを聞かなかった。深いところは急に深くなる、というのは大人がよく言った言い方で、どのくらい急にかということは誰も言わなかったし、こちらも聞かなかった。前の年に二つ下の学年の子が浅いところで足の裏を切って、それで一度だけ大人が縄を張ったが、縄は夏のあいだに無くなった。 その日、学校の裏を回って土手へ上がった。歩いた。ゴム草履で、鼻緒のところが日に焼けて熱くなるものだから、道の端の、草の生えているところを選んで踏んで歩いた。麦わら帽子は途中でかぶるのをやめて、手に持って、風を送るように振っていたと思う。土手の道は草が伸び放題で、六月の出役で刈ったきりだったから、こちらの背より高いところが何箇所もあった。白い、菊のような花の咲く草があって、名前はいまも知らない。汗が目に入って、片目をつぶって歩いた。草の匂いというのは刈った日と刈って何日か経った日とでは違うもので、その日のはもう乾いたほうの匂いだった。上がりきると風がある。土の道が乾いて白くなって、下のほうは葉ばかりで見えない。土手の下の川は、道からは水の音がするだけで、あの年は梅雨に雨が少なかったから、その音も細かった。 わたしは土手の上にいた。上の道を歩いていた。徹の姿は見ていない。 声がした。一度きりだ。長い声ではなくて、短い、途中で切れたような声で、名前を呼んだようにも聞こえたし、笑ったようにも聞こえた。あれは今でも出てくる。昼に何を食べたかは出てこないのに、あの声だけは、こうして口で話しているあいだにも耳の内側で鳴る。呼ばれたのだとしたら、わたしの名前だ。よいち、と呼ぶとき、徹は最初のよを妙に伸ばす癖があって、そこだけは合っている気がする。もっとも、そう思うようになったのがいつからかということは、はっきりしない。 草の中で待った。どのくらい待ったかは分からない。分からないというのは、時計を持っていなかったからで、あのころ子供が時計を持つということはなかった。遠くで脱穀機だか揚水のポンプだか、機械の音がしていて、それが一度止まって、しばらくして、また鳴りだした。トンボが草の先に止まって、また飛んだ。呼び返さなかった。なぜ呼び返さなかったのかということは、その場では何とも思っていない。徹はよく人を驚かせる子で、前の年の遠足のときにも崖の下から呼んでも返事をしないでいて、あとで先生に頭を叩かれたことがあった。だから待った。待つというのは、そのときは正しいやり方に思えた。二度目の音が鳴りだしたときに、走った。土手を降りずに、上を、来た道のほうへ走った。ゴム草履が片方脱げて、拾わずに走った。片方だけ履いたまま砂利を踏んだから、そのあと四日ほど足の裏が痛かった。農協まで走って、事務所の窓口のところで、父を呼んでもらった。父ではなく、隣の机の、名前は忘れたが、頭の禿げた人が先に出てきた。事務所の中は外より暗くて、扇風機が首を振っていて、風の来るたびに机の上の紙が持ち上がっては戻った。何と言ったかは覚えていない。覚えていないというより、言葉の形になっていなかったのだと思う。どこだ、と二度聞かれた。土手、と答えた。それで通じた。大人が四人出ていって、二人は途中から走った。 わたしは川へは戻っていない。 父はその日、いつもの時間に帰ってきた。井戸端で頭から水をかぶって、手ぬぐいで首のうしろを拭いて、飯の前に一本つけろと母に言った。何も知らないでいた。母が何か言って、父が箸を置いた。膳の上には茄子を煮たのと味噌汁と麦の混じった飯があって、父が箸を置いたあとも、汁のほうから湯気が上がっていた。そのあとのことは順番が前後する。近ごろは順番が怪しい。ただ、順番が怪しいというのと、なかったというのとは別のことだ。 果林さんは何も言わなかった。書いていた。ペンの先が紙をこする音がして、それが止まって、また動いて、こちらが黙ってからも二行ぶんくらい動いていた。それから顔を上げた。 「新開さんの、しんは、新しいでいいですか」 「新しいに、開く。とおるは徹底の徹だ」 「徹底の」 「はねるところをはねろ」 指で机の上に書いてみせた。果林さんはノートに書いて、少し眺めて、消して、書き直した。一度目のほうが良かった。 廊下でブザーが鳴った。番号が三度繰り返されて、二度目と三度目のあいだに、誰かが小走りに通った。 「すみません、行ってきます」 ノートは開いたまま机に置いてあった。覗くつもりはなかったが、開いているものは目に入る。 字は、こちらが思っていたより丁寧だった。丁寧に書こうとして、行の終わりのほうへ行くにつれて一字ずつ小さくなっていく書き方で、若い人の字はたいていそうなる。一枚目のいちばん上に、昭和三十三年八月十日、とあった。日が一つ足りない。ペンを取って、日の字の前に一を足した。足したあとで線の太さが違うのが気になったので、その下の余白に、昭和三十三年八月十一日、と自分の手でもう一度書いて、その左に名前を書いた。柴田与一。四十二年、そうやって書いてきた形で書いた。 別の職員が体温計を持ってきた。 「柴田さーん、お熱いいですか。脇に挟んでくださいね」 挟んだ。鳴るまでのあいだ、ペンは机の上に置いておいた。三十六度二分だった。 第九章 果林さんの持ってくる大学ノートは二冊目に入っていて、表紙の右下に細いペンで2と書いてある。昼のあとに食堂のテーブルを台ふきんで拭いて、拭いた跡の乾くのを待つあいだにノートを開き、こちらが喋りだす前に日付だけ先に書いてしまう。私のほうは広告の裏に日付を書く癖が抜けなくて、その日も三色ボールペンの黒が出ないので、紙の隅に渦を描いてから、昭和三十三年八月十四日、と書いた。書いてしまってから、一日ぶんずれてはいないかと迷った。迎え火を焚いている家の前を通ったのが前の晩で、盆の入りが十三だから、やはり十四になる。 「お葬式の日ですね」 「え」 「お葬式の日ですねって、言ったんです」 「そうです。木曜でした」 「木曜まで覚えてらっしゃるんですか」 「曜日は間違えません。覚えていろと言われたことのほうが、大方どこかへ行きましたが」 黒が出ないので赤で書き直そうかとも思ったが、赤で日付を書くのは落ち着かないので、そのままにしておいた。 朝から日が強かった。母のきよは井戸端で私の白いシャツを洗って、まだ湿っているのにコードを継ぎ足した電気アイロンを当てて乾かし、襟のところだけ二度あてた。弟の与二は九つで、紺の半ズボンから出た膝に大きな瘡蓋があって、歩きながらそれを爪で掻いては母に手を叩かれていた。父の平吉は農協に一度顔を出してから行くと言って、先に自転車で出た。新開の家までは田を回って七、八分の道で、田の角を二つ曲がる。その道で誰にも会わなかった。母は歩きながら一度だけ私の背中を押した。押されたので、押された分だけ前に出た。 十一日の夕方に引き上げて、十二日には駐在と、駐在よりいくらか偉いらしい人がもう一人来て、十三日はとみさんの在所の栃木から人の来るのを待った。それで十四日になった。その二日のあいだ、私は家にいた。出るなと言われたわけでもないのに縁側から先へ出ないで、与二が庭で鶏を追い回しているのを見ていた。母は一度、麦茶を持ってきて、盆に載せたまま置いていった。 新開の家は表の戸を四枚とも外してあって、座敷と茶の間を通しにして、縁側にも庭にも筵が敷いてあった。氷屋がリヤカーで氷を運んできて、一斗缶を二つ並べた上に厚い板を渡して、白い布をかけたその下に氷を入れた。二貫と言っていた気もするし、三貫だったかもしれない。溶けた水が板の端から盥にぽたぽた落ちて、その音だけがずっとしていた。蚊取線香が座敷に二つと縁側に一つ焚いてあって、そのうち一つは巻きが途中で折れて、折れたところで火が消えていた。それを直したのが誰だったか思い出せない。私だったかもしれないが、そのとき私が座敷に入っていたかどうかも怪しい。庭のほうに座らされていた気もする。とにかく暑くて、大人たちは膝の上に手拭いを広げて、それで顔と首を交互に拭いていた。庭には七輪が四つ出してあって、隣組の女の人たちが大鍋で素麺を茹でていた。茹でては井戸の水で締めて、ざるに上げて、上げたそばから男衆が食う。 「まだ茹でんのかい」 「男衆の分が足んねえよ。あと二把やって」 台所の柱に吊るしたハエ取り紙が黒くなっていた。 「そのハエ取り、替えたほうがよかんべ」 「客の頭の上でやるもんじゃねえ。日が落ちてからでいい」 この家に電話は引いていなかったから、栃木へは十一日の晩に郵便局から電報を打ったと聞いた。あとで自分が郵便局に勤めるようになって、あの晩の窓口に誰が座っていたのかを何度か調べようと思ったが、調べる筋道が分からないまま四十二年が過ぎた。数の足りない座布団を近所から借り集めてきて、それぞれの座布団の隅に持ち主の名を書いた紙が糸で留めてあった。 写真は学校のを引き伸ばしたもので、坊主に刈ったばかりの頭で、耳のところだけ日に焼けずに白かった。 「野球帽のほうがよかったんじゃねえの、あの子は」 「帽子かぶってる写真は仏さんに使えねえんだ」 「そんな決まり、どこにある」 使えない決まりがあるのかどうかは知らない。その写真の上、鴨居のところに、軍服の男の写真が前からずっと掛かっていて、そちらは色が茶色く抜けていた。徹の父親で、私は一度も会っていない。ずいぶん高いところに掛かっていた。 帳場は玄関を上がってすぐの板の間に置かれて、父の平吉が硯を出して名前と金高を筆で書いていた。農協で数字を扱っているというだけで、こういう役はいつも父に回ってきた。二百円、百五十円、三十円、米二升、素麺一箱。名前の下に金高を書いて、書いたあとに一度筆をなめる。あの帳面が二冊になったのか一冊で足りたのかは覚えていない。私が横に立っていると、顔も上げずに言った。 「与一。そこは邪魔だ。庭へ回りなさい」 焼香の順は隣組の帳面のとおりに決まっていて、玄関先で年寄りが二人、しばらく揉めていた。 「順が違うだんべ。うちが先だ」 「帳面のとおりにやってんだ。文句は帳面に言え」 誰も私には何も聞かなかった。 同級生は野球をやっていた連中が七人か八人、それに近所の子が何人か来て、庭の筵に一列に座らされた。膝を崩すなと言われて、崩さないでいるうちに足の指の感覚がなくなった。前に座っていた子が汗を垂らして、その汗が筵に落ちる先を見ていた。誰かの腹が長く鳴って、鳴ったほうも周りも知らん顔をした。順が回ってきて座敷に上がるとき、板の間が冷たかったのを覚えている。抹香をつまんで額のところまで持っていくのだと前の子がやっていたので、そのとおりにした。指の先に粉が残って、袖で拭いたら袖に薄く跡がついた。和尚の顔は思い出せない。声だけ、途中で一度、鼻の詰まったような音になったのは覚えている。 野球部の一人が、縫い目のほどけかけた白球を差し出した。 「これ、入れてもらえねえかな」 大人の誰かが手を出して止めた。止めた理由は言わなかった。そのボールは縁側の隅に置かれて、日が傾くまでそこにあって、片づけたのが誰かも、持って帰ったのが誰かも分からない。学校からは担任と、野球を見てくれていた先生が来て、担任のほうが弔辞のはじめで名前を読み違えた。 「あらかいとおる君は」 すぐに言い直したが、後ろのほうで笑った子がいて、 「あらかい、だって」 笑ったのが自分の弟だと分かって、私はそっちを見ないようにした。与二はそのあと母に外へ連れ出された。 正午前に、庭の柿の木で蝉が鳴きだして、大人が一人立っていって木を蹴った。 「蝉、鳴いてたんですね」 「柿の木で鳴きました。誰かが木を蹴って、それきりです」 果林さんはそこだけ二行に分けて書いた。 勝手口の外に井戸があって、私は座布団を運べと言われて縁側から回っていったところで、とみさんが茶碗を洗っているのを見た。人が大勢来て、茶碗はいくらあっても足りなくて、洗っては拭いて座敷へ戻す。喪主だからといって座っていられるものでもないらしかった。黒い着物の袖を紐でたすきに掛けて、手だけ動かしていた。手の甲がひび割れて、そこだけ白く粉を吹いていた。桶の水はもう白く濁っていて、それでも替えに行かないで、濁ったまま使っていた。水は井戸からいくらでも汲めたはずだった。あの朝から昼までのあいだ、あの人が腰を下ろしたところを、私は一度も見なかった。私が座布団を六枚重ねて持ったまま突っ立っているので、顎で縁の下の石を指した。 「そこへお置き」 置いた。置いてから、行きそびれた。 「与一さん」 洗っている手は止まらなかった。茶碗を伏せて、次の茶碗を桶から取って、指で内側をこすっている。私のほうは見なかった。それから濡れた手を前掛けで拭いて、勝手の上がり框に置いてあった風呂敷包みを解いた。 「これ、あんたのだろう。うちのじゃない」 グラブだった。右利き用で、徹は左利きだから、それを右の手に無理にはめて捕っていた。捕ったあとに一度体をひねって持ち替える。あれで肩を痛めるぞと大人に言われても、そのやりかたを変えなかった。革の縁の紐が一本切れていて、切れたところに別の色の紐が通して結んであった。結び目が固くて、私が結ぶのとは向きが逆だった。 「あんた、一緒だったんだろう」 はい、と答えた。声が出たのかどうか自信がなくて、もう一度、はい、と言った。二度目のほうは自分の耳にも聞こえた。とみさんは手を洗い桶に戻して、それきり茶碗を洗いつづけた。私はグラブを持ったまま、風呂敷はどうすればいいのか分からなくて、上がり框に畳んで置いた。 しばらく茶碗の音だけしていた。 「あの子は、なんか言ったかい」 何を聞かれているのか分からなかったし、分かったところで言えることがなかった。とみさんはもう一度は聞かなかった。聞かないまま、洗い終わった茶碗を布巾で拭いて、伏せて、それから急に思い出したように、勝手の水屋から皿を出してきた。 「西瓜、切ってあるから持ってお行き。うちじゃ食べきれない」 断らなかった。断りかたを知らなかった。皿には切った西瓜が三切れ載っていて、種を取ってあった。人の家の西瓜の種を、こんな日に取っている手のことを、あとになって何度も考えた。 出棺は一時過ぎだった。玄関からは出さないで、縁側の障子を外してそこから出す。男が六人で担いだ。棺は白い木で、思ったより小さく見えた。庭へ下ろしたところで茶碗を割る。地面に叩きつけて割ったのは誰だったか、これも覚えていない。父だった気もするが、父はあの日ずっと帳場にいたのだから、たぶん違う。割れた音で、庭の隅にいた女の人が座り込んで、両脇から抱えられて立った。とみさんは立っていた。写真を胸のところに抱えて、車が来るまでずっと同じところに立っていた。位牌を持っていたのはとみさんの兄だと聞いたが、栃木から来た人の顔はどれも同じに見えて、区別がつかなかった。 帰りは母と与二と、来た道を戻った。西瓜の皿は母が持って、私はグラブを抱えていた。田の水がぬるくて、蛙が鳴きやまなかった。 「兄ちゃん、そのグラブ、もらったの」 「もとからおれのだ」 「じゃあ、なんで新開んちにあったの」 「与二」 母はそれだけ言って、あとは家まで誰も喋らなかった。母は皿を茶の間に置いて、それから私の頭を一度撫でた。撫でかたが下手で、髪が逆立った。グラブは押入れの下の段に入れて、そのあとどうなったのか分からない。静江が家じゅうを片づけた年に出てきていれば覚えているはずだから、その前にどこかへ行ったのだと思う。 果林さんはノートに何か書いて、ペンを持ったまま少し待っていた。待たれると、こちらは何か言わなければならない気になる。 「西瓜は、弟が二切れ食いました」 二切れのところで一度ペンが止まって、それから書いた。 「残りの一切れは、どうされたんですか」 皿ごと縁側に置いたところまでは出てきて、その先が続かない。廊下から名前を呼ぶ声がして、果林さんはノートを閉じないまま立っていった。 第十章 八月十三日、木曜、晴、と紙の隅に書いた。 食堂の壁に折り紙の提灯が下がっている。近くの小学校の子が作って持ってきたもので、輪のところが千切れてセロテープで留めてあるのや、糊の乾かないうちに重ねたらしく二つがくっついたまま一つになっているのが混じっている。職員が脚立に乗って紐で吊るのを、こちらは椅子に掛けたまま下から見ていた。吊る紐は釣り糸で、切れたときのために二本を撚ってあるのだと、脚立を押さえていた職員が言っていた。火は使えない決まりだから、迎え火のかわりに電池の入った小さい灯が廊下の隅に置いてある。橙の色が二秒おきに強くなったり弱くなったりして、揺れているつもりらしい。盆の週は面会が増えて、駐車場は九時を回るころから埋まり、十時には送迎の白いのが置き場所を追われて門の外へ出ていた。面会は一組三十分と紙が貼ってあるが、守っている家はあまりない。廊下を知らない子どもが走って、走ると職員が呼び止める。呼び止められた子は歩いて、角を曲がるとまた走る。部屋の温度は二十八度に決まっていて、それより下げてくれとは言いにくい。汗はあまり出ないものだから水を飲むのを忘れて、忘れると果林さんが、ゼリーを溶かしたような水のやつを昼と三時に持ってくる。甘い。甘いが、飲まないとあとで言われる。 靖は十一時前に来た。 紙袋は今度も二つで、片方に下着が三枚と靴下が二足、それに水羊羹の箱が入っていた。四月に持ってきた羊羹は棚の上に置いたままになっていて、切って食べるかと聞かれてあとでいいと答えたきり、あとが来ないうちに夏になった。もう片方の袋には書類ではなく、線香の残りと、洗って畳んだ雑巾が入っていた。寺へ寄ってきたのだという。墓は町の南の、寺の裏手の三段目にあって、水を汲む桶は八つしかないから盆は待つことになる。柄杓は使い終わったら桶に伏せて入れておく決まりで、それを守らない家が一軒あると、あとの者が全部の桶を覗いて回ることになる。 「順番待ちで六組だよ」 「ああ」 並んでいるあいだにシャツの背中が張りついたのだと言って、首のうしろへ手をやった。 「線香がな、火がつかないんだ。湿気を吸ってたんだろうな。いや、ライターのほうかもしれない」 百円のを胸のポケットから出して、机に置いて、置いてからもう一度拾って、袋へ入れ直した。椅子を寝台の脇まで引いて、腰を庇いながら座って、膝の上でタオルを畳んだ。畳んだやつを首に掛けて、また外して、膝に戻した。座ってからも汗が引かないらしく、こちらの扇風機の首をわずかに自分のほうへ回して、回してから、あ、と言って戻した。 「ばあちゃんの卒塔婆な、去年のが残ってたから、寺に頼んで替えてもらった」 「そうか」 「三千三百円だとよ、いま」 「上がったもんだな」 町の話になったのは、こちらが道順を聞いたからだ。 「駅の西の写真屋、もう無いよ」 本通りは片側が空き地になっていて、月ぎめの駐車場の看板が立っているのだという。 「学校は」 「九年前の秋に統合されたって」 建物は残っているが、窓には板が打ってあるそうだ。桑畑は無い。寺の裏から土手のほうへ下りる路地は、車が入れるように広げてあるのだという。 「突き当たりの何軒か、家ごと無くなってた。あのへんは日当たりだけはいいからな」 更地には太陽光の板が並んでいて、地面から少し浮かせて、南へ傾けて、鉄の脚で立ててあるやつだ。水筒の茶を紙コップに注いで、自分の分だけ飲んだ。 一時を過ぎたころに果林さんが扉のところへ来て、靖に、少しよろしいですか、と言った。二人は廊下へ出て、扉は半分ばかり開いたままになった。 「お父さまの、お若いころのことなんですけど」 「若いころですか」 「お勤めに入られる前とか、ご兄弟のこととか」 「弟がいたのは聞いてます。あとは、局に入ったのが十八ってことくらいで」 「川のお話は、ご存じですか」 「聞いてます。何度も聞いてます」 「そのお友達の、お名前は」 廊下で何か軽いものが落ちる音がした。 「名前までは、」 「はい」 「すみません」 「ありがとうございます。また電話でうかがいます」 そのあとで果林さんが利用料の口座のことを一つ聞いて、靖は鞄から手帳を出し、番号を桁ごとに区切って読み上げていた。読み上げる声のほうが、さっきより大きかった。こちらは寝台の上でそれを聞いていた。聞こえないふりをするほどの声でもない。四十二年、人の名を書いて暮らしてきて、名前の出てこない人間を責める気はもう起きない。 一時五十分に立った。 紙袋の空いたほうを畳んで小脇に挟み、水筒を鞄に入れて、それから寝台の柵に手を掛けて、また来るからと言った。四月にも同じことを言って、そのとおりに来ている。窓まで行くのに手すりを伝うから間に合わない。駐車場が見えたときには銀色のはもう門を出るところで、右へ曲がるのに一度止まって、それから見えなくなった。窓の縁を指で拭いたら、四月に拭いたはずのところにまた埃が乗っていた。 夕方に検温に来て、三十六度五分だと言われた。 「今夜から夜勤なんです。ノートに取った分は、市へ出す紙のほうへ写しました」 検温の紙を挟んだ板を小脇に抱えたまま、寝台の柵に片手を掛けて、先月出したのは戻ってこなかったのだと言った。 「戻らないのは、いいことか」 「通ったってことです。柴田さんのところは書くことが多いので、助かりました」 体温計を振ってから胸のポケットへ挿した。 「参考書は、袋から出したか」 「出しました。机の上に置いてあります」 置いてあるだけらしい。 夜は暑い。 除湿機が一時間ごとに唸って止まる。常夜灯の光が扉の下から入って、床の目地を一本だけ光らせている。隣の田口さんの咳は今夜はしない。窓を細く開けてもらったので、田んぼのほうから虫の音がして、その下に国道を走る車の音が途切れずに続いている。仰向けでいると天井の染みが目に入る。去年見たときより横へ伸びて、いまは瓢箪に近い。 昭和三十三年の八月十一日だ。日にちだけは動かない。 朝から日が強かった。母は暗いうちに起きて洗濯を五時前に済ませ、それから竈の前にしゃがんで灰を掻き出していた。父は農協へ出た。盆の前は米の話で忙しいから、朝飯のあいだも誰かの家の名前と反別のことを母に向かって言っていて、母はそれに返事をしなかった。与二は九つで、そのころはまだ寝ていた。麦茶を薬缶ごと台所から持ち出して、二杯飲んだ。昼は麦の混じった飯に、茄子を煮たのと味噌汁で、食ってから出た。ゴム草履で、鼻緒のところが日に焼けて熱くなるものだから、道の端の草の生えているところばかり選んで踏んだ。麦わら帽子は途中でかぶるのをやめて、手に持って風を送るように振っていた。桑畑の畝のあいだを行くと葉の裏に虫の卵がついていて、それが白く見える。学校の裏門のところまで行った。夏休みだから窓は全部閉まっていて、運動場には誰もいなかった。ラジオ体操の判は、その朝の分も押してもらってある。 そこまで行って、帰った。 三和土が冷たかった。 裸足で上がった。上がり框は高くて腰を掛けるのにちょうどよかったから、届け物に来た大人はたいていそこへ座って、用が済んでも少し話していった。土間に長靴が片方だけ倒れていたので、立ててから上がった。倒れているものを見ると直さずにいられないのは、そのころからの癖だ。台所で母が何かを刻んでいた。まな板の音が三つ続いて、一度止まって、また続く。ラジオがついていた。相撲ではない。歌でもない。人が二人で喋っていて、片方が何か言うともう片方が笑う、そういうやつが鳴っていた。真空管が温まるまで声が出ないから、母は朝のうちに点けて、そのまま消さないでいることがあった。茶の間へ入って、寝ている場所の畳を見た。布団はもう上げてあって、畳の目に四角い跡が残っていた。革に牛の脂を塗って、ボールを挟んで紐で縛って、その上で寝るから跡がつく。跡は薄くなりかけていた。ああいうものは四隅のほうから先に戻るもので、あと一週間もすればどこに置いてあったのか分からなくなる。何日か前から、そこへ置くものが無い。母は振り向かなかった。おかえりとも言わなかったように思うが、いちいち言う家ではなかった。縁側に与二がいて、こっちを見なかった。九つの子は兄が帰ってきても顔を上げない。麦茶をもう一杯飲んだ。薬缶は底のほうまで来ていて、注ぐと茶葉が湯呑みに入った。 外が騒がしくなったのは、日が傾いてからだ。 母が下駄をつっかけて出ていって、しばらくして戻ってきた。戻ってきて、何も言わずにまた竈の前へ行った。与二が門のところに立って、土手のほうを見ていた。大人が二人、道を走っていって、走る足音の間隔が途中から乱れた。それを縁側から聞いていた。父はいつもの時間に帰ってきて、井戸端で頭から水をかぶって、手ぬぐいで首のうしろを拭いて、飯の前に一本つけろと母に言った。何も知らないでいた。膳の上には茄子を煮たのと味噌汁と麦の混じった飯があった。母が何か言って、父が箸を置いた。汁のほうからは、まだ湯気が上がっていた。 そのあとのことは順番が前後する。近ごろは順番が怪しい。ただ、順番が怪しいというのと、なかったというのとは別のことだ。あの日のことだけは、いまでも、はじめから順に出てくる。 十二時を回ってから、扉が細く開いて、本山さんが顔だけ入れた。 「柴田さん、起きてますか」 「暑い」 「首、止めときますね。振らせとくと、かえって暑いんですよ」 汗の乾く間があくからだそうで、扇風機は壁のほうを向いた。扉が閉まって、足音が三つ隣の部屋の前で止まった。 果林さんのノートには、前に話した分が書いてある。日付だけは直しておいた。八月一日となっていたのを、一の前に十を足して、その下の余白に自分の手でもう一度書いて、左に名前を添えた。あとはあの人の書いたとおりでいい。とみさんは平成六年に死んだ。葬式へは行った。あの家のあったところは、靖の話では更地で、鉄の脚の上に板が並んでいる。 枕元の灯を点けた。 引き出しの左の奥に、書いた紙が溜めてある。輪ゴムでまとめてあるのは果林さんの仕事で、暗いままでは解けないから灯が要る。二月の分は下から数えたほうが早い。昭和三十三年八月十一日、と書いて、その下を二行ぶん空けた紙が出てきた。二行は空いたままだ。土手の下の道に、役場の立てた白い板があった。膝より高くて、字は黒で、下のほうに小さく役場の名が入っていて、右から読むのか左から読むのかで一度、与二と言い合ったことがある。四文字だったような気もするし、もっと短かったような気もする。学校の裏の川と言えばそれで通じたから、名のほうは聞いても右から左だった。声に出したら出てくるかもしれないと思って、口を開けた。上の歯の裏に舌が当たったところで止まった。何の音から始まるのかが分からない。 新しい紙を一枚めくって、八月十四日、と書いた。灯を点けているのだから曲がるはずのないのに、行が下がった。直さなかった。 昭和三十三年の紙は、二行のところを空けたまま、伏せて机の右の端へ置いた。
小説 · text · 2026-09-07