第一章 四月の第二日曜は道普請と昔から決まっていて、その年は十二日だった。朝の六時半に集会所の前へ出ていくと、軽トラの荷台にはまだ霜の名残りが白く残っていた。神社の忠治さんが一番に来ていて、それから下の家の孝夫さんと節さんが一台に二人で乗ってきて、本家のほうの兄さんは自分の家の前で一服してから歩いてきた。区長なんてものは何もしない役だと本人は言うけれども、どの区間を誰が持つかを決めるのは毎年その人だ。 「去年と同じでいいな」 そう言っておいて、去年とは少しずつ違う割りにする。 「きついとこは若い衆に持ってもらうすけ」 ここで若いというのは六十代のことを指す。上の家の与志さんは今年も出てこなかった。八十一になって片方の膝に水が溜まるようになってからは、出役の代わりに三千円を会計へ入れてもらうことで話がついている。それで誰も困らない。困るほどの人数がもう残っていない。 十九戸のうち、その朝に道へ出たのは十一人だった。 側溝の蓋を鉄の鉤で起こし、冬のあいだに詰まった落ち葉と土砂を角スコで掻き出して、一輪車で沢の落ち口まで運んで空ける。集会所の前から柿ノ木平神社の鳥居の下まで、三百メートルと少しを二時間半かけて浚うと、去年の秋に流れ込んだ杉の葉が落ち口に山になる。郵便局の前のきくさんは腰が曲がっていて蓋を起こすのは無理だから、軍手をはめて落ち葉を袋へ詰める係にまわり、詰めながらよく喋る。鉤を掛けそこねると蓋の角で指を挟むので、去年から孝夫さんが厚手の革手袋を二組、自分の分と余分とを軽トラに積んでくるようになった。余分の一組をその日誰が使うかは、並んだ順で自然に決まる。芳子さんは十時になると一度家へ戻り、大きなやかんで茶を沸かして、紙コップを重ねて持ってくる。その順番を誰かが決めたわけではない。決めなくても毎年そうなる。 十時の茶は集会所の裏の、日の当たる石段に腰かけて飲む。もとは分校の生徒が上履きを脱いだところで、そこだけ石の角が丸くなっている。校舎が使われなくなったのは一九九八年で、それからは集会所と呼んでいる。 「氏子の会費だけどもね、今年から千円上げさせてもらえんかね」 神社の忠治さんは紙コップを両手で持ったまま、同じことを二度言った。二度目のときに誰も返事をしなかったので、それきりになった。 「うちの息子、正月も帰ってこんかったんだわ」 下の家の節さんは、そう言ってから紙コップの縁を親指で撫でた。 「帰ってこんほうが向こうも楽なんだすけね」 孝夫さんは黙って軍手の指の破れたところを見ていた。 「膝がね、曲げると鳴るようになったのよ」 二杯目を注ぎながら芳子さんが言うと、そこから全員が自分の膝の話をした。ここでは病気の話が一番よく続く。 坂の下からエンジンの音が上がってきたのは、二本目の一輪車を空けに行った頃だった。 音でだいたい分かる。移動販売車が来るのは火曜と金曜で、あれはもっと腹に響く音を立てて登ってくる。郵便の赤いのは九時を過ぎないと上がってこない。宅配の車は坂の途中の待避所で一度停まって伝票を見る時間があるから、音がそこで切れる。切れずに、細く高いまま登ってくる音は、この道では滅多に聞かないもので、孝夫さんが腰を伸ばして下を見た。白い軽が一台、カーブを二つ曲がってきて、集会所の手前で速度を落とした。ナンバーは練馬だった。フロントガラスの内側に、月極の駐車許可証らしい四角い紙が、剥がしきれずに角だけ残っていた。 運転席の窓が下りて、おはようございます、と声がした。 「渡辺の、与志の孫です」 そう名乗られるまで、わたしたちの誰にも分からなかった。分からないのが当たり前で、最後に見たのは高校の制服のときだから十九年になる。二〇〇七年の春にこの坂を下りていって、それきり盆にも正月にも上がってこなかった。 「まあ、上の家の孫さんかね」 軍手を外して、両手を胸のあたりで合わせるようにしてから、郵便局の前のきくさんがそう言った。上の家の孫は車を降りて、両手を体の脇につけたまま頭を下げた。ジーンズの膝に道の泥が跳ねていて、それを払わなかった。三十八になるはずで、痩せていた。 「与志さん、何も言わんかったよ。ひとことも聞いてないよ」 「言わないでくださいと頼んだので」 少し笑ってそう答えた。 「何日いられるのかね」 本家のほうの兄さんが聞いた。 「しばらくお世話になります」 それ以上は聞かなかった。聞かないのが礼儀だとわたしたちは思っていたし、しばらく、という言葉はここでは二晩や三晩を指さない。冬までいるつもりなのだろうと、その場の全員が同じように受け取った。受け取り方が揃うのに、相談は要らなかった。 道普請は十一時半で切り上げた。 残りの五十メートルばかりは午後に忠治さんと孝夫さんでやるということにして、あとの者は角スコを荷台に投げ込んで、上の家のほうへ坂を上がった。手伝うと言い出したのが誰だったかは分からない。荷物は段ボールが六箱と、スーツケースが一つだった。六箱のうち四つには黒いマジックで中身が書いてあって、本、台所、冬物、と読めた。四つ目は書いた字が擦れていて読めなかった。残りの二箱には何も書いていなくて、そのうちの一つはガムテープが底のほうで二重に貼ってあり、持ち上げると中で紙が滑る音がした。 「軽いね、これ」 両手で抱えた孝夫さんがそう言った。 「書類なので」 上の家の孫はその箱だけを受け取って、玄関の上がり框に自分で置き直した。スーツケースは車輪が片方かたむいていて、砂利の上をうまく転がらなかった。手を貸そうとすると、大丈夫ですと言って、持ち手を握り直し、玄関まで抱えるようにして運んだ。爪が短く切ってあって、右の親指の付け根に、ばんそうこうが一枚貼ってあった。 箱を運び入れるのに、玄関から座敷まで四人が並んだ。上の家は間取りが古くて上がり框が三十センチ近くあり、そこで誰もが一度荷物を持ち直す。仏間の欄間の下に与志さんの連れ合いの写真が掛かっていて、この家へ女の荷物が入るのはずいぶん久しぶりになる。台所の蛍光灯は二本のうち一本が切れたままで、それを見た芳子さんが、うちに替えがあるから持ってくると言った。二階の南の部屋には干したばかりの布団が二組敷いてあった。その窓からは沢を挟んで下の家の屋根と、集会所の駐車場と、坂の途中の待避所までが見える。ここではどの家の窓からも、たいてい他所の家の何かしらが見えていて、見えることを誰も不思議に思わない。 荷物を置いてしまうと、あとは自然と説明になった。ゴミは火曜と金曜の朝七時までに鳥居の下の集積所へ出すこと、水道は町のではなく簡易水道の組合で、一戸あたり月に千二百円を四月と十月に半年分ずつ集めること、その集金は今年は下の家の当番であること、プロパンは町の丸山商会が二か月に一度上がってくるから玄関脇のボンベは自分で見なくてよいこと。 「灯油は冬になれば巡回が来るけども、雪の日は上がってこんすけ」 「ポリタンクは十二月までに四つ用意しときなさい」 それから一年の行事を順に言った。四月の道普請と、八月十三日の墓掃除と、秋の稲刈りの手伝いと、十一月の集落総会と、その四つだけ覚えておけばいいこと。出られないときは前もって言えば誰も何も言わないこと。 「墓掃除だけは全戸揃うすけ、出ておいたほうがいいわね」 上の家の孫は上着のポケットから折りたたんだ紙を出して、そこへ一つずつ書きつけた。書ききれなくなると紙を裏に返した。尻のポケットにスマートフォンが入っていたが、それは出さなかった。 聞かれる前に教えるのが、ここのやり方だ。 与志さんは杖をついて土間に立っていた。孫が戻ることを一週間前から知っていて、押し入れの布団を出して縁側に二日干し、二階の畳を自分で拭いたのだそうで、それを芳子さんがあとから聞いてきた。知っていて言わなかったことについて、わたしたちの誰も咎めなかった。年寄りが黙るのはよくあることで、途中で流れたら格好がつかないと思ったのだろうというあたりに、見立てが落ち着いた。土間の隅には去年の秋に配った玉ねぎがまだ二玉、網に入ったまま芽を出していた。 「芽の出たのは、食べると腹こわすよ」 「そんなことないて。芽んとこだけ取れば構わんがね」 「うちの母親は捨てろって言うたけどもね」 それについては二十分ほど話した。 その日の午後から、上の家の玄関先にはいろいろな物が置かれた。 芳子さんは煮物を三人分ほど、蓋つきの容器に入れて持っていった。節さんは畑のほうれん草と、去年漬けた大根を新聞紙に包んで持っていった。忠治さんは神社の脇に出たふきのとうをレジ袋に採って、引き戸の把手に掛けておいた。きくさんは物のかわりに電話を四軒かけた。かけられた先がそれぞれ一軒か二軒にかけたので、日が暮れるまでに三十一人が残らず知っていた。上の家の煙突から細い煙が上がるのを、わたしたちのうちの二人が下の道から見ていた。夕方四時四十分のバスが、誰も乗せないまま鳥居の前で折り返していった。 誰かが帰ってくるということが、ここではそう何度もない。 「元気そうだったかね」 「痩せてたよ。ごはん食べさせんとね」 「歓迎の会、やらんかね。集会所で」 「鍵は本家のほうの兄さんが持ってるすけ」 「ビールと乾き物は町で買うてこんばね。車は孝夫さんだわね」 「会費は区の会計から出せばいいがね。秋祭りの余りが一万二千円ばか残ってるはずだわ」 そこで止まった。日取りは田植えの前がいいか後がいいか、そこだけが決まらなかった。理由については誰も口に出さなかったけれども、東京で何かあったのだろうということと、与志さんも一人だから面倒を見に来たのだろうということと、その二つは、その晩のうちにどの電話でも同じ順番で言われた。都合のいいほうだけを言っていたわけではない。悪いほうに考えないでおくことを、わたしたちは気遣いと呼んでいる。 本家のほうの兄さんは家へ帰る前に集会所へ寄った。壁に道普請の当番表が貼ってある。十九戸の家の名が縦に並んで、その横に今年の区間が鉛筆で書き込んである。渡辺の欄には与志さんの名前だけがあって、その下に一行分の空きがあった。鉛筆を持って、書かずに戻した。人が増えたときは総会で決めることになっている。総会は十一月で、まだ七か月ある。当番表は来年の四月まで、そこに貼ったままにしておく。 第二章 町から来る道は一本しかない。県道を折れて川沿いに上がっていくと、二度大きく曲がって、三度目の曲がりの手前で杉が切れる。そこから先がここになる。バスは町まで二十三分かかり、そのあいだに停留所が七つあるけれども、そのうちの四つには、もう九年、人が立っていない。運転手はそれを承知していて、雨の日でも速度を落とさずに通っていく。朝が七時十分、夕方が十六時四十分、その二本きりだ。昼のあいだは道に車の音がしない時間が長く続いて、聞こえるのは川の音と、風の向きによって町の方から届く重機の音くらいになる。朝の便に乗るのは月に何人もいない。乗るのはたいてい病院の日で、回数券を持っている者が二人、前のほうの席に離れて座る。 「今日は多いねっか」 そう言われるのは四人乗った日だ。車のある家は乗らないし、車の無い家は乗る日をあらかじめ人に言う。言えば、その日の午後の便までに用の済まない者を、どこかの車が拾って帰ってくる。ここで車を持たないのは二軒で、そのうちの一軒は免許を返した年に軽トラを甥にやってしまい、もう一軒はもともと持っていない。 「返してよかったて。夜はもう、道の白い線が見えんかったすけ」 返した本人は人にそう言う。言いながら、道の上のほうまで歩いていって、下りてくるバスを、時刻の十二分前から待っている日がある。 十九戸、三十一人。 わたしたちを数えたのは去年の十一月の総会で、本家のほうの兄さんが模造紙に太いペンで書いた。一人で住んでいる家が七軒、二人の家が十二軒、足せば三十一になる。紙の隅の欄には最年少五十八歳と書いてある。今年の十一月にまた数え直せば、その欄の数字はひとつ動くことになるが、動かす手間のことを、まだ誰も口に出していない。書くのはいつも同じ人で、書き終えると老眼鏡を額のほうへ上げる。 「また曲がったな」 「曲がってたって読めるすけ、いいがね」 「去年のは、もっと曲がってたて」 それで毎年、同じくらい曲がった数字が壁に貼られる。 その五十八というのは川向こうの家の嫁のことで、町の老人ホームに勤めている。朝の六時三十五分に軽トラで下りていって、帰る時刻は日によって違う。ここでは若い者ということになっているから、集会所の机を出す日にも、神社の幟を立てる日にも、必ず声がかかる。 「悪いね、若い衆はあんたしかおらんすけ」 「いいですよ」 「腰は治ったんかね」 「もう平気です」 去年の秋から腰を痛めて町の接骨院に通っているが、それを言うと呼ばれなくなると思っているのか、痛いとは言わない。言わないので、こちらも知らないことにしている。 店は無い。 無くなったのがいつだったか、はっきり言える者はいない。今は火曜と金曜に移動販売車が来て、金曜のほうが少し遅れる。集会所の前に停まってホーンを二回鳴らすと、道の上と下から人が出てくる。木綿豆腐が百二十八円、食パンは六枚切りだけ、あとは単一電池と湿布と、夏になれば蚊取り線香を積んでくる。運転手は注文を紙に書かないで覚えている。 「先週の乾電池、忘れとったろ。積んできたすけ」 「頼んだかね、そんげなもん」 「頼んだて。単一を四本」 三年前の二月十七日に雪で上がって来られなかった日があって、その日のうちに三軒から会社へ電話がかかった。心配してのことだ。運転手のほうは去年から町で母親の面倒を見ていて、荷台から降りるときに一度、腰に手を当ててから降りるようになった。そのことは誰も本人には言わない。米と灯油は別で、灯油は月に一度、町の燃料屋が回ってくる。頼めば玄関先まで運んでくれるけれども、玄関先までで、そこから先は自分で運ぶ。一斗缶を持って三和土から居間まで運べなくなった家がすでに二軒あって、そういう家には、頼まれる前に誰かが行く。行って、運んで、 「茶でも飲んでいきなせ」 「いや、すぐ戻るすけ」 「そう言わんで。今わかしたとこだすけ」 結局は座って飲む。毎度そうなる。 集会所は分校の校舎をそのまま使っている。廃校になったのは平成十年で、黒板は壁に付いたままだし、上のほうには消しきれていない白い線が残っている。壁には児童数の推移を書いた紙が画鋲で留めてあって、いちばん多い年が六十八人、最後の年が九人になっている。その隣に、最後の卒業式の写真が額に入って掛かっている。写っているのは九人と先生が二人で、下の段に立った子の靴がそろっていない。玄関を入ってすぐの床が一枚だけ沈むので、通夜の受付を出す晩には、そこへ座布団を重ねて置く。座布団は二十四枚ある。柱には子供の背丈を測った傷が並んでいて、傷の横に鉛筆で名前と年が書いてある。低いところの字は下手で、高いところの字はまともになっていく。傷はある高さから上には無い。そこまで測って、測る者がいなくなったからだ。廃校になった年に四年生だった子が三人いて、そのうちの一人が上の家の孫になる。四年生までここの子で、そこから先は町の学校までバスで通った。最後の運動会の写真も奥の壁に掛かっていて、その年の四年生は前の列に並んでいる。上の家の孫は、小さいほうから三番目に写っている。 「ここで育った子は、ここの子だすけ」 そういう言い方を、ここでは今でもする。誰に向かって言うのでもなく、言えばその場が少しあたたかくなるので言う。町へ出た子のことも、四十を過ぎた子のことも、その言い方でひとまとめにできる。できるので、そうしている。 上の家の孫も、ここの子だ。 総代は神社のがやっている。神社は南のはずれの斜面にあって、石段の数は人によって言うことが違う。 「四十七だて。数えたことあるがね」 「五十二だすけ。踊り場を数えんすけ、そうなるがね」 割れたまま、どちらも譲らない。春と秋に幟を立てるが、去年、竿の根元が腐っているのが見つかった。 「新しいのは四万二千円だと」 「継げば、あと七、八年は持つて」 「継いだって、そのうちまた腐るろ」 「そのうちまた継げばいいがね」 二度話し合って、結局は継いだ。賽銭箱は年に二度開ける。去年の秋は三千二百円で、そのうち五百円玉が一枚あったことを皆が覚えている。墓地は神社の裏の斜面を段にしたところにあって、盆の八月十三日の朝にそろって上がり、草を刈る。刈った草は下まで下ろさないで、段の脇に積んでおく。 水道は町のものではなく、沢から引いた簡易水道を自分たちで管理している。台風のあとは必ず誰かが上まで上がって、取水口の落ち葉を掻き出す。掻き出さないと、その日の夕方には濁った水が出る。 携帯は入る。ひところは石段の上まで行かないと繋がらなかったが、七年前の春に町側の尾根にアンテナが立ってからは、家の中でも話せるようになった。それでも年寄りの家では、固定電話のほうがよく鳴る。 回覧板は上の家から始まって道の下へ順に回り、郵便局の前で折り返して本家に戻る。順路は一枚の紙に決めてあって、二十三年変わっていない。挟まっているのは町の広報と、農協の集荷の日程と、それから何かあったときの知らせで、知らせのときだけ紙が白い。読んだら名前の欄に判を押すか、判が見つからなければ鉛筆で丸を書く。丸で済ませる家は毎回同じ二軒だから、回ってきた板を開いた者は、そこまで滞りなく来たことをその丸で知る。郵便局の前の家は曲がりの内側に建っているから、台所の窓から上の家の庭先と、下の道が二本見える。見ようとして見ているのではない。洗い物をしていれば目に入る。上の家の孫が戻ってきてから、板をどうするか少しだけ話した。 「二人おっても、板は一枚でいいろっか」 「一枚でいいがね。同じ家だすけ」 それはすぐに決まった。決まったあとの半月ほど、板を渡すときに玄関で長く立ち話をする者が増えた。 「何か足りんもんはないかね」 「ないです」 「遠慮せんでいいすけね」 ないと答えられると、次の日に別の者が、別の物を持って上がる。 鍵はかけない。かけないというより、鍵がどこにあるか分からなくなっている家がいくつかある。留守にするときは隣に言っていくし、言い忘れても誰かが見ている。見ているというのは、見張っているのとは違う。前の道を通れば、玄関の戸が半分開いているか、洗濯物が朝のまま掛かっているか、車があるかないかが、目を上げなくても入ってくる。二日つづけて雨戸が閉まっていれば、その次の日には誰かが用を作って寄る。持っていくものは白菜でもいい。新聞の切り抜きでもいい。渡すのが目的ではないから、渡したあとで少し話す。畑で一人で倒れても、ここなら次の日には見つかる。 「町のアパートで、夏に一人で死んどったと。隣が匂いで気づいたて」 「そりゃ、むごい話だ」 「ここなら、そうはならんろ」 「ならんね」 死んだ人の名前も町の名前も、話す者によって変わる。変わっても終わり方は同じで、そのあとは湯呑みに手が伸びて、それきり誰も先を言わない。湯が足りなくなれば、誰かが黙って立って、薬缶を持ってくる。 ここは、いいところだ。 「何も無いとこだけどね」 「悪いとこじゃないて」 わたしたちがそう言うとき、何も無いという言い方のほうに力を入れる者はいない。力が入るのはいつも後ろのほうで、悪いとこじゃない、と言い終えると、たいてい皆が同じ間で頷く。 出ていった者のことは悪く言わない。 下の家の息子は東京にいて、盆に帰らない年がある。 「忙しいすけ、しょうがないて」 孝夫さんがそう言えば、逆らう者はいない。逆らわないけれども、盆が過ぎて何日かすると、 「あすこは、電話もあんまり無いらしいね」 という話にはなる。誰が最初に言ったかは分からないし、言った者も自分が言ったとは思っていない。話は誰のものでもなくなって、そのうち、そういうことになる。そういうことになったものを、あとから元に戻したことは一度もない。 帰ってくる者には、たいてい、わけがある。わけは聞かない。聞かないのがわたしたちのやり方で、聞かなくてもそのうち分かる。分かったあとも聞かない。それをやさしさと呼ぶ人がいて、ここでもそう呼んでいる。 言わないでいるのは、こちらへの遠慮なのだと思っている。 春の道普請の当番割は、本家のほうの兄さんが手で書いて、町のコンビニで人数分を刷ってくる。刷るのは十九枚で、余った分は次の年まで集会所の引き出しに入れておく。順番は家で回る。人の数では回らない。一人の家も、二人おる家も同じ一回で、それを不公平だと言った者は今までにいない。草刈り機の燃料代だけは別で、使った分を申告することになっている。 「使ったぶんは言うてくれればいいすけ」 そう言われて申告した者はこれまでいないが、それで足りなくなったこともない。 今年の紙にも、上の家は一戸として書いてある。その下に与志さんの名前がひとつだけ書いてある。書き足すかどうかは、まだ誰も言っていない。 第三章 五月の連休が明けた月曜の朝、上の家の裏の畑に人が立っているのを、下の家の節さんが水路の見回りの帰りに見つけた。あの畑は与志さんが腰をやってから作らなくなって、九年前の秋からこっち、萱と背高泡立草に任せたままになっていたので、そこに人影があるというだけでこちらの目は留まる。節さんの話では、上の家の孫は長靴も履かずに白い運動靴のまま草の中へ入っていて、片手にホームセンターの黄色い袋を提げ、もう一方の手で萱の穂を一本ずつ引いては足元に並べていたという。萱は根で増えるから、穂を抜いたところで何にもならない。節さんはそれを教えようとして、結局は言わずに坂を下りてきて、昼前に郵便局の前のきくさんの家へ寄って話した。きくさんはその日のうちに芳子さんへ、芳子さんは夕飯の支度にかかる前に政雄さんへ話し、四時四十分の便が坂を下りていくころには、上の家の裏がまた畑に戻るらしいという話が、ここの端から端まで行き渡っていた。 悪い話ではない。 翌日は火曜で、移動販売車の来る日だった。きくさんは車が集会所の前に停まっているあいだに卵とロールパンと台所の洗剤を買い、家へ戻ってから軽トラを出し、育ててあったトマトの苗を四本、新聞紙にくるんで坂を上がった。買った苗ではなく、去年の実から種を採って自分で仕立てたもので、根元がわずかに曲がっている。同じ日の午後には芳子さんが、自分の履かなくなった二十四センチの長靴に丸めた新聞を詰め、形を直してから持っていった。神社の忠治さんは焼いた籾殻を米袋に半分ほど軽トラに積んで坂を上がり、本家のほうの兄さんは草刈機を担いでいって、上の家の孫が畑の縁に立って見ているあいだに、境の草をすっかり刈ってしまった。 坂の上のあの畑は、南に開いてはいるものの、西の杉に午後の日を取られる。 教えることはいくらでもあった。畝は斜面なのだから等高線に沿わせろと下の家の孝夫さんが言い、南北に立てないと日が回らないと忠治さんが言った。 「石灰は入れんでいい。ここの土は酸っぱくないすけ」 ときくさんが言い、二日あと、苦土石灰の袋を提げて上がってきた芳子さんは、 「一坪に二握りは入れるもんだよ。入れといて悪いことは何もないんだから」 と言って、袋を畝の脇へ置いていった。マルチは黒がいい、いや五月からなら透明のほうが土が早く温まる、化成は八八八を一株ひとつかみ、いや元肥をやりすぎると木ばかり伸びて実が止まる。 「水は朝にやれ」 「朝にやると蒸れるがね」 誘引の紐は八の字にかけて茎を締めないように、と芳子さんは自分の指で輪を作ってみせ、 「こうやって、緩めにしとくの。茎が太るすけ、きつく結ぶと食い込むから」 と言い、輪を作ったまま、 「うちの茄子は去年、九月の終わりまで穫れたのよ。配っても配っても生って、しまいには漬けたのよ」 と、その話を最後までした。上の家の孫はそのつど、細長いノートを尻のポケットから出して鉛筆で書いた。書いてから、 「いま伺ったのは、向こうの畝の話ですか。こちらの畝の話ですか」 と聞き返すこともあった。聞き返されるのはわたしたちとしても悪い気がしないので、もう一度、前より長く説明した。孝夫さんなどは、説明の途中で自分の畑のことを思い出して、うちのキュウリのネットを今年こそ張り直すという話を挟み、そこから腰の話になって、 「六十六だすけ、脚立に上がれんのが困る。……で、畝な。畝は等高線だ」 と、最後には畝の向きに戻ってきた。 五月のうちに上の家の裏へ上がった者を数えると、十九戸のうち十一戸になる。延べにすれば四十三回になる。多い日には朝と昼と夕方に別々の家が行って、同じ畝の同じ場所を指さして、それぞれ違うことを言った。 行く前には、たいてい誰かに電話をした。 「今から上がるけど、あんたのとこはもう行ったかね」 と聞くのは、重なると向こうに悪いという心づもりからで、実際には重なった。移動販売車の来る火曜と金曜には、集会所の前で車を待つあいだに、誰がいつ何を持っていったかがひととおり並べられた。苗を四本、長靴を一足、籾殻を米袋に半分、それから草刈機。並べてみると足りないものが出てくるので、次に行く者がそれを持っていくことになる。鎌の柄が古いのではないか、と言い出したのはきくさんで、それを聞いた孝夫さんが、物置に父親の使っていた鎌が二本あるから研いで持っていくと言った。研ぐのに四日かかった。四日かかったことも、次の火曜には話に出た。 ここでいちばん若いのが五十八になる者だったから、三十八という歳は、聞いてもうまく像が結ばない。きくさんは東京はどっちの方だったかねと二度聞いた。二度目に聞いたとき、上の家の孫は一度目と同じ町の名前を、一度目と同じ速さで答えた。 「そこは掘っても石ばっかりだ。畝はこっちへ寄せれ」 「はい」 「猪が出るぞ。柵の申請は六月のうちに出さんば間に合わん」 「猪、ここまで来るんですか」 「来る。去年は下の家のとうもろこしが一晩でやられた。それより、あんた、あの車は冬タイヤ持っとるかね」 冬タイヤの返事は聞かないまま、話は畝に戻った。 政雄さんは鍬の使い方を三度直した。 「腰から先に回せ。腕でやると明日になって効いてくるすけ」 と言って自分で握ってみせ、そのまま二畝ぶんを打ってしまった。七十四になっても土は打てる。打ちながら、あそこの水利費は与志さんの名前で出ているが、畑を使うのなら名義のことを一度区で相談せんばならん、年に二千八百円のことだが決めておかんと後がややこしい、と言った。上の家の孫は鍬を返してもらう手を出したまま、はい、と言った。 礼はいつも同じ言葉だった。 「ありがとうございます。助かります」 と言って頭を下げる。下げ方が浅くも深くもない。 その言い方が良かった。今どきの若い人にしては素直だと芳子さんが言い、きくさんは、東京に十九年いたわりに物言いが変わっていないと言った。夜になると、それぞれの家で、上の家の孫が何と言ったか、鍬をどんなふうに持っていたか、ノートに何を書いたかが話された。持っていった苗が四本とも活着したという話は、翌日の午前のうちに全部の家に届いた。 四日たってから、上の家の孫は町へ下りたついでに菓子を買ってきて、苗や道具をもらった家に配って歩いた。個包装の焼き菓子が七つ入った箱で、掛け紙に町の菓子屋の名前が刷ってあった。もらったほうは、そんな気を遣わんでいい、こっちは余っているものを持っていっただけだから、と言って受け取り、受け取ってから、あの菓子屋は先代のときからあるとか、七つ入りだと千七百円ではきかないのではないかとか、そういうことを言い合った。芳子さんは掛け紙をたたんで茶箪笥の引き出しに入れた。わたしたちは、あの子は義理を欠かない、と言った。 満足していた。 遅霜が来たのは十七日の朝で、軒下のバケツに薄く氷が張っていた。ここは町より二度は低いから、五月の半ばまでは油断がならない。植えるのが早すぎたのだと、その朝のうちにわたしたちは互いに言い合った。上の家の裏では、ナスの苗が二本とキュウリが一本、上の葉から茶に焼けた。誰かが行ったとき、上の家の孫は焼けた葉を一枚ずつ指でつまんで畝の外へ出していて、根はまだ生きているのか、抜いたほうがいいのかを聞いた。だから早い言うたのに、とは誰も言わなかった。言わずに、その日の午後にきくさんが自分の苗を二本、翌朝には忠治さんが町のホームセンターまで軽トラで下りて一本百六十八円のを一本、それぞれ持って坂を上がった。忠治さんは七十九で、町までは二十三分かかる。行きに寄合の書類を農協へ出す用があったから、ついでだと言っていた。ついででないことは、袋の中に苗が一本しか入っていないので分かった。 五月の終わりに一度だけ、芳子さんが聞いた。畝の間にしゃがんで苗の根元へ土を寄せているときで、手は止まらなかった。 「東京のほうは、もういいのかね」 「上の堰から流れてくる水が、濁ってます」 と上の家の孫は言って、水路の話に移した。芳子さんはその話に付き合って、堰の掃除は六月の第一日曜で、朝の六時に鎌を持って集まることになっていると教えた。帰ってきてから芳子さんは、あれは聞くもんじゃなかった、と言い、わたしたちもそう思った。向こうから言うまでこちらから聞かないでおくのが、いちばん親切なのだと考えていた。だから聞かなかった。聞かないまま、その晩の夕飯どきに、聞かなかったという話を何度もした。土を寄せる手が止まらなかったこと、水の話に移した早さ、そのとき目が畝のほうを向いたままだったことまでが、電話で二軒か三軒に伝わり、そこから先はどう伝わったか分からない。 与志さんは八十一になる。孫が来てから風呂を沸かす時間が四十分早くなり、洗濯物が二人ぶん干されるようになった。通院は月に二度で、朝七時十分の便で下りて、町の医院で血圧の薬をもらい、十六時四十分の便で帰ってくる。前は昼を町のうどん屋で済ませていたのが、四月からは帰ってから家で食べるようになったらしい。らしい、というのは、こちらが与志さんに聞いたわけではないからで、バス停で一緒になった者が、弁当を持って出ていないと言っていただけである。畑のことを与志さんが孫に教えている様子はない。腰のことがあるから裏まで上がれないのだと皆が言い、実際そのとおりだったのだろうが、集会所で会ったとき与志さんは、 「うちのはああいうことは何も知らんすけ、みなさんに世話になって」 と言って、それきりその話をしなかった。それから茶を飲んで、去年の熊の出た場所の話を始めた。 五月の終わりごろから、上の家の孫は朝の五時台に畑へ出るようになった。誰かが上がっていくころには、その日の分の草はもう取ってあって、鍬は洗って壁に立ててある。若い人は朝が早くていいと、わたしたちは言い合った。 五月の末に見に行くと、畝が九本立って、トマトとナスとキュウリと、それから何かの葉物の苗が並んでいた。萱の根はまだ畝の下に残っているはずで、九年ぶんの根を一年で抜ききることはできないから、来年の春にまた同じところから出てくる。マルチは黒で、押さえの土の置き方が甘く、風の来る側の端が少しめくれていた。上の家の孫はその日、坂の下で軽自動車を洗っていて、こちらが畑にいるのを見ると手を止め、坂を上がってきてまた礼を言った。 「六月に入ったら消毒のことを教えんばならんね」 と芳子さんが言った。政雄さんは畝を端から数えて、 「九本のうち、手前の三本は幅が足りん。来年は畝立てから見てやったほうがいいな」 と言った。 第四章 六月に入って最初の金曜に、集会所で飲み会をやった。田植えが済んで、消防のポンプ点検も終わって、あとは草刈りの当番が回りだすまでのあいだが、一年のうちでいちばん手の空く時期になる。誰が言い出したというのでもない。移動販売車の来る日に合わせて本家のほうの兄さんが刺身の盛り合わせを二つ頼み、六千八百円だと言って集金の封筒を回し、政雄さんとこの嫁が前の晩から煮しめを炊いた。当日の昼にはもう長机が出ていた。集会所は平成十年まで分校だった建物で、玄関を入ってすぐの廊下がやたらに広い。子どもが走るためにあった幅が、いまは折り畳んだ机を立てかけておく場所になっている。板の間の隅には石油ストーブが出したままで、六月になっても誰も片づけない。片づけたところで十月にはまた出す。柱には身長を測った鉛筆の線が残っていて、いちばん下は大人の膝より少し上にある。壁の卒業記念の額は、人数の多い年で十四人、少ない年で二人だった。その二人のうち、いまもここにいるのは一人になる。年に四度か五度しか使わないのに、電気とプロパンの基本料だけで月に千七百円かかると、総会のたびに誰かが言う。言うだけで、解約する話にはならない。葬式のときに使う場所がなくなる。 上の家の孫も呼んだらいいがね、と言い出したのが郵便局の前のか神社のか、あとになると誰も覚えていない。 誘いに行ったのは政雄さんとこの嫁で、回覧板をその日まで手元に置いておいた。回覧を持っていけば用ができる、用があれば玄関を開けるのに理屈が要らない、というのがあの人のやり方になる。上の家では四月から玄関のたたきが掃いてある。前は与志さんの長靴が片方裏返しに転がったままだったのが、いまは揃えて壁際に寄せてある。奥からテレビの音がして、その音のまま与志さんが出てきた。 「孫は畑らて。おれは膝がこれだすけ、行かんが」 去年から膝に水が溜まって、坂を下りるときに右手で何か掴むものを探す。町の医院で二度抜いてもらって、三度目は行かないままになっている。日の暮れかけた畑まで回った。 「六時からだすけ、来ればいいが」 上の家の孫は土のついた手を腰の後ろで拭いて、はい、と言った。行きますとも、行けませんとも言わなかった。 来ないだろうという話になっていた。 六時を少し回って、十二人が座ったところへ入ってきた。紙袋を提げていて、中は五月に借りた畑で採れたはつか大根で、大きいので小指の先ほど、小さいのは丸のままの粒のようなものが、二十いくつ入っていた。畑のことは五月にさんざん教えた。教えたとおりにやったのに間引きが遅れた、というのは、教えたほうの言い分としては言いにくい。政雄さんとこの嫁が洗って皿に出し、塩をふって机の真ん中に置いた。 「うまいがね、これ」 「辛いこて。辛いて」 「辛いがだ、大根らすけ」 みんなで一つずつ手を伸ばして、皿は空になった。座らせたのは本家のほうの兄さんの隣で、そこは普通なら神社のが座る場所だが、その晩は神社のが自分から下座へ回った。コップを一つ渡され、注がれたぶんだけ口をつけて、あとはサッポロの大瓶を持って立ち上がった。頼んだ者はいない。端から順に注いで回って、郵便局の前ののところでは、耳が遠いのに合わせてしゃがんで、コップを持つ手ごと下から支えるようにして注いだ。手の甲に、土が入ったままの爪の線が見えた。一回りして席に戻ると、瓶の口をふきんで拭いて机の端に立てた。空いた瓶は流しの横の箱へ運んで並べていって、二十四本入る箱に、その晩は十九本入った。数えていたわけではない者まで、帰りぎわに箱を覗いていった。 誰かが、澪ちゃん、と呼んだ。声が大きかったので、みんなに聞こえた。呼んだ本人はコップの泡を見ていて、自分が何と言ったかを気にしている様子はなかった。その晩から、ここでは澪ちゃんになった。十九年ぶりに帰ってきた者を下の名前で呼ぶまでに二か月かかったことになるが、二か月というのは、ここでは早いほうに入る。 カラオケの機械は町の商工会が入れ替えたときにもらってきたもので、ディスクが八枚しか入っていない。神社のが「北国の春」を歌っているあいだに、下の家のが本を澪ちゃんの膝へ置いた。 「なんか入れれや」 「いえ」 「演歌しか入っとらんろも」 澪ちゃんは歌わなかった。本を両手で受け取って、端から順にめくって、そのまま隣へ回した。下の家のは自分で「無縁坂」を入れて、二番から音程を下げた。 「あんたは誰に似たかね」 郵便局の前のが、机越しに顔を突き出すようにして聞いた。 「母のほうだと言われます」 「そうだこて、目のあたりが」 「母親が嫁に来た年は大雪で、バスが四日止まったがだ」 「四日でないて。六日らろ」 「うちの兄が町から歩いて上がってきたすけ、間違いないて」 その話が済んでから、郵便局の前のがコップを両手で持ったまま、もう一度聞いた。 「あんたは誰に似たかね」 「母のほうだと言われます」 一度目と同じ答え方だった。神社のは神社ので、隣に座った者に屋根の話をしていた。 「葺き替えの見積もりが八十七万だてや」 「はあ」 「屋根らて。神社の屋根」 「そりゃ高いこて」 「瓦を全部下ろすすけ、足場が要るがだ」 「その話、さっきも聞いたて」 下の家のは立ち上がって腰を反らせてみせた。 「三月に草刈り機担いだきり、ここが、足の付け根まで痺れるがだ」 「町の歯医者も三週間先まで埋まっとるすけ、どこも一緒らて」 それは政雄さんとこの嫁が言った。下の家の連れ合いのほうは目が悪くなって夜の運転をやめたので、来るときも帰るときも軽トラの助手席に乗る。歌わない代わりに手を叩く。 東京のことは誰も聞かなかった。二〇〇七年に高校を出てここを離れて、盆にも正月にも顔を見せなかった十九年を、どうしていたのかと聞くのは気の毒だという了解が、その場にはできていた。誰が決めたのでもない。座っている端から端へ、その了解が伝わっていくのが分かる。わたしたちは人の事情を掘り起こす土地ではないし、掘り起こしたところで、こちらにしてやれることが何もない。聞かないでいるのは、ここでは思いやりの側に入る。だから話は道の水たまりのことと、五月に猿が七匹下りてきた話になった。 「上の畑のとこに、こんげな面して座っとったて」 「町の整備工場が去年で閉まったすけ、車検を隣町まで持っていかんばならんが」 「猿の話しとったろが」 「おれの軽トラが来月で切れるがだ」 誰も澪ちゃんに向かって質問をしなかったので、澪ちゃんはだいたい聞いていて、笑うところで笑って、空いた皿を重ねた。台所に立って湯を出しかけた。 「客だすけ、座っとれ」 座らせてしばらくすると、また立って、瓶を下げていった。三度目に立ったときは、誰も止めなかった。 八時前に、下の家のが尻のポケットからスマホを出した。 「これ、入られんかね。柿ノ木平の。除雪んとき使うすけ」 去年の盆に東京の息子が帰ってきたときに作らせたもので、いま十二人が入っている。移動販売車が雪で遅れるときや、誰か亡くなったときに、そこへ流す。澪ちゃんは両手で受け取って、少し顔から離して見てから返した。 「あとで入れます」 「IDっちゅうもんが要るがか。おれは分からんすけ、息子に聞かんと」 「大丈夫です」 そのあと話は猿に戻った。 九時になる前に、机を拭いて、皿を重ねて、明日早いので、と言って帰った。刺身が二人前ばかり残ったのを政雄さんとこの嫁がラップで包んで持たせ、皿は明日返しに来ると言った。外は暗くて、上の家までは坂を二百メートル上る。 「電気、貸すろっか。暗いすけ」 「大丈夫です。これがあるので」 スマホを持ち上げて振ってみせた。玄関で靴を履くのにしゃがみ込んで、少し手間取っていた。履いてきたのは白い運動靴で、爪先のところが土で赤茶けている。戸を開けると、坂の上に窓の灯りが一つ見えた。与志さんは十時前に寝る人だから、あれは孫のいるほうの部屋になる。砂利を踏む音が坂を上っていくのが、閉めた戸の向こうでしばらく聞こえていた。 「明日、なんかあるんかね」 誰かが言ったが、そのときは誰も答えなかった。 片づけは十時までかかった。座布団を数えると、二十枚あるはずのものが十八枚しかなくて、去年の秋からずっと十八枚だという話にしばらくなった。コップを洗って布巾で拭いて、机を廊下へ立てかけた。石油ストーブの前で本家のほうの兄さんが草刈りの日取りを決めているあいだに、下の家のがまたスマホを出した。 「まだ入っとらんね」 「若い人は忙しいすけ」 「そうだこて」 十二人のままだった。わたしたちの誰にも、本人に言うつもりはない。入ってくれと催促するのは押しつけになるし、入らないなら入らないだけの事情があるのだろうし、そもそも十二人しかいないところへもう一人頼むほどの用でもない。ただ、この晩に一つだけ引っかかったことがあって、机を拭くあいだ、澪ちゃんはスマホを机の端に置いていた。カバーが薄い緑色をしているところまで見えた。持っていないわけではない。あれだけ皿を運んで、注いで回って、帰りぎわには懐中電灯の代わりに振ってみせた。だから、入りたくないということではなくて、たぶん、いつでも入れると思っているのだろう、という話に落ち着いた。落ち着いたところで、下の家のが自分の息子も三年グループを放ってあると言い、その息子が去年の暮れから電話に出ないという話のほうが長くなった。 役場に出す世帯の書きつけは、十九戸、三十一人のままにしてある。住民票が移らないうちは足せない決まりになっていて、本家のほうの兄さんが四月に一度そのことを聞きに行こうとして、玄関の前まで行ってやめた。そういうことを人に聞くものではない、というのが政雄さんとこの嫁の考えで、それはそのとおりだと思う。いちばん若い者が五十八だったところへ三十八が一つ入った、と口では言う。書きつけのほうはまだ直していない。町へ出す書類は年に一度で、次は十一月の総会のあとになる。そのころには落ち着いているだろうという見込みが、口には出さないまま全員にあった。畑も一年やれば形がつく。冬を一つ越せば、ここの人間になる。ここへ入ってきて、冬を越さずに出ていった者は、これまで一人もいない。 草刈りは二十八日の日曜、朝六時に神社の下へ集まることに決まった。回覧はいつもの順で回す。上の家はその順のいちばん終いになるので、与志さんのところで四日か五日は止まる。 第五章 七月に入って、雨の落ちない日が四日続いた。畑の土は昼のうちに白く乾いて、夕方に水をやると音を立てて吸った。草刈り機の燃料をどこの給油所でまとめて入れるかという相談で集会所に集まったのが六日の晩で、そのとき本家のほうの兄さんが、春の道普請で余った砂利を神社の下の道に入れておきたいと言った。誰も反対しなかった。反対する理由がなかったし、なにより蒸していて、窓を全部開けても風の入ってこない晩だった。燃料は区の会計から先に出しておいて、あとで戸ごとに割る。十九で割ると端数が出るから、端数は区で持つ。それだけのことを決めるのに一時間近くかかって、そのあいだ、本家のほうの兄さんは手帳の裏に鉛筆で三度、同じ計算をやり直した。政雄さんとこの嫁は、膝が梅雨のあいだじゅう良くないので来なかった。 「拝殿の裏のトタンな、去年から浮いとるが」 話はすぐに端数のほうへ戻った。 「あのトタン、まだ浮いとるが」 神社のは湯呑みを持って立ち上がり、薬缶から自分で注ぎ足して戻ってきた。 その晩、澪ちゃんの話は出なかった。 郵便局の前のきくさんの家は、台所の窓が東を向いている。流しの前に立つと、窓の左の端に電柱が一本入って、その右に桑の木の枝が下がって、二つのあいだに残る隙間は、障子の桟でいえば一枚半ほどの幅しかない。そこにちょうど、上の家の車回しの奥の半分が入る。直線で百四十メートルばかり離れている。だから、停まっているのが軽なのか普通車なのかの見当はついても、車種までは分からない。色は分かる。ドアの閉まる音は、ここの昼はもともと物音が少ないので、風の向きさえ悪くなければ流れてくる。桑の木は、きくさんの舅が植えたものだと聞いている。分校が建っていたころには、あの隙間から屋根の上の避雷針の先が見えていたそうで、廃校になったのが一九九八年だから、それからあとに枝がのびて、見えるものが上の家の車回しに変わった。きくさんは朝の五時と、十一時と、四時半に台所に立つ。窓の下には梅の漬かった瓶が三つ並んでいて、その場所にだけ午前の日が当たる。七十七になって、目のほうは去年から医者にいろいろ言われているけれども、その三つの時間だけは動かない。 七月九日は木曜だった。 販売車の来ない日で、上の道を上がってくる車があれば、それはどこかの家の用事だと決まっている。宅配は昼前に一度上がってきて、郵便は二時すぎに赤い軽が回る。ガスの検針は月末で、その日だけは間違いなく上がってくる。上の家までのあいだに坂が三つあって、二つ目を曲がったところでどの車もエンジンの音が一度沈むから、そこから先へ行く音は、上の家か神社の駐車場のどちらかにしか用がない。上がってきた車は上がってきた分だけ必ず下りていくので、上がる音と下りる音のあいだの長さで、どのあたりの家にどれくらいの用があったのかは、聞くともなしに分かってしまう。 十一時の少し前に、白っぽい車が上の家の車回しに入るのを、きくさんが見た。桑の木の隙間に入ったのは後ろの半分だけで、ナンバーの字までは読めなかった。町の病院で順番を待っていて、いちばん早くて手術は九月の末になると言われている目だった。降りてきたのは男の人で、この暑いのに濃い色の上着を着ていて、手に平たいものを提げて玄関のほうへ歩いていった。四時半にもう一度台所に立ったときには、車回しには何も無かった。その日のうちは、きくさんは誰にも言っていない。言うほどのことでもなかったからで、思い出したのは翌朝、味噌汁の実を切っているときだった。 翌日の金曜、移動販売車が集会所の前に停まったのが十時四十分ごろで、いつもより五分ばかり遅かった。販売車の兄さんは荷台の扉を上げながら、軽トラの車検が来月で参りますと、聞かれもしないのに二度言った。親御さんが去年から町の施設に入っていることも、そのついでのように一度だけ言った。豆腐が二丁で百九十円、もやしが二袋、ちくわ。卵は十個入りが二百三十円に上がっていた。政雄さんとこの嫁は、かごを地面に置いたまま値札を覗き込む。膝を曲げないで済むように、腰から先に折る立ち方をするようになった。町の整形に行くには朝七時十分の便に乗るしかなくて、乗れば二十三分で着いてしまい、受付の始まる前から玄関の前に立っていることになる。帰りの便は夕方の四時四十分まで無い。診察が十分で終わっても、あとの六時間は待合の椅子と、スーパーの休憩所の椅子とで座って過ごす。それが厭で、近くの医院で痛み止めだけをもらうようになったと、卵の値段の話の途中で言った。 「上の家、車が来とったろ」 「木曜な」 「見えたかね」 「見えたっていうより、目に入ったんさ。流しに立つと、桑の枝と電柱のあいだが空いとるろ。あすこに、ちょうど後ろ半分が入るんが」 「なんも、見とったわけでないで」 「そうそう。窓の前に立てば、いやでも入る」 「白かったかね」 「白い、大きめの。字までは読めんかったが、長岡でない」 「よう分かるね」 「長岡は、あの色でないんさ」 「男の人でな、この暑いのに濃い上着着て、平べったいもの提げて玄関のほうへ行った」 「聞かんでいい。聞くもんでない」 「うちのは、盆にも帰らんと言うてきた」 「そうかね」 「仕事が、なんとかっていう」 下の家のがそう言ったので、そのあとは東京の会社の盆休みの短さの話になって、車の話は続かなかった。ちくわが先週より二十円上がっていることのほうが、そのときは長く話された。 それでもその日の午後までに、十九戸のうち十四か十五の家が、木曜の昼に上の家へ車が停まったことと、それが長岡のナンバーではなかったことと、降りた男が暑いのに上着を着ていたことを知っていた。誰かが触れ回ったわけではない。触れ回るような人はここにはいない。集会所の前で豆腐を待つあいだに一度、昼を挟んで下の道の三叉路で立ち話をするあいだに一度、三時ごろ、秋の稲刈りの手伝いの人数を確かめる電話の切りぎわに一度、そんなふうにして、話は誰の手も借りずに十九戸を回った。わたしたちはそれを噂とは呼ばない。呼ぶほどの中身が無いからで、げんに、そのうちの誰ひとりとして、上の家へ行って確かめようとはしなかった。ただ、そういう話をするときには、なぜか声を落とす。落とす必要のない場所でも落とす。聞かれて困るからではなくて、上の家のことを大きな声で言うのは失礼だと、口のほうが先に思うからだ。東京から十九年ぶりに戻ってきて、まだ三月ほどしか経っていない人に、家へ誰が来たのかを尋ねるのは、ここのやりかたではない。そういうことを尋ねずにおける土地だと、わたしたちは自分たちのことを思っている。 「銀の車だったてね」 「白でなかったかね」 「日の当たっとったとこが、白う見えたんだろ」 日曜になるころには、車の色は白から銀に変わっていた。誰も嘘はついていない。窓の隙間に入ったのは後ろの半分だけで、その半分には昼前の日が当たっていた。 日曜の朝、下の家のが茄子を袋に入れて上の家へ持っていった。四本入れるつもりでいたのが、今年は生りすぎているので六本になった。与志さんは縁側にいて、新聞を四つ折りにして蠅を打っていた。鴨居から蠅取りの紙が一本下がって、風が通るたびに回った。柱には去年の防犯の紙がまだ貼ってある。茄子の礼を言ってから、八十一になる人は、うちのは葉ばかり茂って実がつかんと自分の畑の話を始めた。 「木曜、誰か来とったかね」 袋を渡すついでのような調子だった。 「来たかもしれん」 それから新聞をもう一度四つ折りにし直して、膝の横に置いた。奥の部屋で洗濯機の終わる音が鳴って、二人ともそっちを見た。 「孫は、いま町へ買い物に出とるが」 「そうかね」 麦茶を出そうとするのを、いや結構です、と断って、茄子の袋は上がり框の隅に置いてきた。帰りぎわに車回しのコンクリートを、見るともなく見た。油の染みも、タイヤの跡らしいものも残っていなかった。四日も晴れが続けば、そんなものは残るはずもない。 帰ってきてから下の家のは、与志さんは来たかもしれんと言うとった、と一度だけ話した。それが二日のうちに、上の家の爺さんも知らんらしい、という形になって戻ってきた。誰が言い換えたのかは分からない。わたしたちのうちの誰かではあるはずで、けれども、悪気で言い換える人はここにはいない。 澪ちゃんは、その日の夕方には畑にいた。トマトの脇芽をぜんぶ落としてしまったので、実の付きが悪くなっている。 「水は朝にやらんとだめだて。昼にやると根が焼ける」 「夕方でもかまわんが。ただ、根元に直接かけんこと」 言うことが揃わないのを、あとから通りかかった者が、どっちも正しいと言って収めた。燃えないごみが月に一度しか出せないことと、集積所が下の道の三叉路にあることと、その袋は町のスーパーでしか売っていないことも教えた。澪ちゃんは礼を言って、それを紙にではなく携帯に打ち込んだ。指の動きが速かった。集落の連絡の輪にはまだ入っていないのに、そういうものはちゃんと持っている。そのことについては、その場では誰も何も言わなかった。 「支柱、もう一本足したほうがいいて」 「はい」 次の日に畑の前を通った者があって、支柱は増えていなかった。増えていないことを、その者はしばらく誰にも言わないでいた。それでも三日ほどのうちには、みんなが知っていた。 「変わりないかね」 「はい」 三十八にもなる人の返事としては短かったけれども、東京の暮らしが長いとそうなるのかもしれないと、わたしたちは思うことにしている。木曜のことは口にしなかった。口にしないのがいちばん親切だと、そのときはみんなが思っていた。麦わら帽子を脱いで首の後ろを手の甲で拭ってから、軽自動車のほうへ歩いていった。後ろのナンバーは四月に帰ってきたときのままで、そのことに気づいている人は何人もいたけれども、その日は誰も言わなかった。 七月の終わりの晩に、盆の墓掃除の日取りを決めた。十三日の朝七時、鎌と鍬と、それぞれの家の墓の分の花。年寄りばかりだから、日が高くなる前に切り上げる。共同墓地の水道は去年から出が悪いので、ポリタンクを二つ、本家のほうの兄さんが軽トラで運ぶことになった。花は前の日に町で買うと高くつくから、火曜の販売車に数を言って頼んでおく。草の丈は六月に一度刈ってあるので、そう伸びてはいないはずで、それでも鎌は各自で研いでくること、と念が押された。線香は本家のほうで箱買いしてあるものを分ける。 「澪ちゃんにも声をかけとかんとな」 「そりゃ、そうだ」 「誰が」 「誰がって、あんた、上の家にいちばん近いのはどこな」 第六章 八月十三日の朝は六時半に共同墓地の下の空き地へ集まることになっていて、これは分校のあった時分からの決まりだから、いまさら誰も何時にとは言わない。回覧板は三日前に回っていて、いちばん下のところに朱で、六時半、鎌と軍手、とだけ書いてある。字は本家のほうの兄さんので、去年と同じ文句を去年と同じ場所に書く。前の晩のうちに草刈り機を三台、下の家の軽トラの荷台に積んで、混合油は二十五対一で作っておいた。かかりの悪いのが一台あって、それは孝夫さんが自分の家のプラグと取り替えて持ってきた。刃は去年おろしたのが一枚と、農協で買った新しいのを二枚そろえた。神社の忠治さんが線香を一把ずつ小袋に分けて持ってくるのも毎年のことで、袋の数はいつも出てくる人数より三つ多い。三つというのは、腰を伸ばしに来るだけの者と、昼前に顔だけ出す者と、それから毎年こちらが勘定に入れそこねる者の分だ。今年は四つあった。 その四つ目を、忠治さんは束のいちばん上に置いた。置いたことを、わたしたちは誰も口に出さなかった。 上の家の与志さんは六時二十分に来た。八十一で腰が曲がっているのに、鎌を二丁と軍手を一組ぶら下げてきた。軍手には値札が付いたままで、三百八十円と書いてあった。荷台の縁に鎌を置いて、置いたのをもう一度持ち直して、二丁とも自分の足元へ並べ直した。それを見た者はいたが、何も言わなかった。 草は思ったより伸びていた。七月の終わりに二日続けて降ってから、盆の前の乾いた日が長かったので、丈ばかり伸びて茎が固くなっている。固い草は刃を鈍らせるから、まず下の段から始めて、上に行くにつれて人を足していく。水汲み場の蛇口は今年も固くて、芳子さんが両手で回してから、孝夫さんが代わって回した。バケツは四つのうち二つに穴が開いていて、誰も直そうと言わない。穴の開いたほうを持たされた者が水をこぼしながら下まで小走りで戻る、それだけのことをもう二十年続けている。出てきたのは十四人だった。三十一人のうちの十四人で、そのうち九人が七十を越えている。北の隅には字の読めなくなった石が三軒ぶんあって、どこの家のものかは忠治さんだけが覚えていて、覚えているうちは掃く。去年は蜂が出た。今年は出なかったが、去年出たあたりへ足を入れる者はいなかった。汗が眼に入るので、手拭いを鉢巻にする者と首に掛ける者とがいて、掛けるほうが多い。 澪ちゃんは来なかった。 七時を過ぎたころ、郵便局の前のきくさんが手を止めて坂の下を見た。それから何も見なかったという顔で、また熊手を動かした。七時十分のバスが下の道を通っていく音がして、その音が今年にかぎっていつもより長く聞こえたのは、そのあいだ誰も喋らなかったからだ。あのバスに乗る者はここにはいない。朝と夕の二便きりで、乗ったところで町での用は三十分で済む。それでも走らせておいてもらわないと、いよいよ困ることになるので、年に一度、区長が町へ紙を出しに行く。 「与志さん、上のほうはまだいいすけ、こっち来てすわってなせ」 本家のほうの兄さんがそう言って、与志さんの手から鎌を一丁取り上げた。与志さんは取られたほうの手を、しばらくそのままの形にしていた。 「家のほうは、変わりないかね」 「あれは、朝が遅うなってな」 それから樋の話になった。 「去年の秋にな、業者が三度来た。三度とも見積りだけ置いて帰りよる」 「いくらだったて」 「十七万と、十九万と、二十二万」 「そりゃ開くのう」 「二十二万のとこが、いちばん愛想がよかった」 二十二万のところがいちばん愛想がよかった、というくだりを、与志さんはそのあとでもう一度言った。誰も途中で元へ戻さなかった。戻さないのは礼儀のようなもので、年寄りの長い話を折らないでおくのは、ここでは親切のうちに入る。 八時になっても、九時になっても、坂を下りてくる者はいなかった。 昼前に刈った草を焼く煙が上がるころには、澪ちゃんの名前は誰の口にも出なくなっていた。出さないようにしていたのとは違う。名前というものは仕事の切れ目に出るもので、切れ目はまだ来ていなかった。墓は十九軒ぶんある。自分の家のを掃いたら次に隣の家のを掃くもので、自分の家のぶんだけ済ませて帰る者はいない。そうやって十九軒ぶんの石が毎年おなじ日に濡れる。渡辺の家のは北の隅で、日の回りが遅いから石に苔が付きやすい。与志さんは一人でそこにいて、花を替え、水を替え、線香を上げて、それから何も持たずにしばらく立っていた。手を合わせたのは短かった。誰かが樒を一枝置いていった。置いたとは言わなかった。 芳子さんが二リットルの魔法瓶を三本と、紙コップを持ってきていた。紙コップは五十枚入りの袋で、毎年これが余る。余ったぶんは集会所の流しの下へしまっておいて、次の年に湿気ているのを捨てる。今年は麦茶を注いだまま誰も取らない紙コップが一つ、石垣の上に残った。三十分ほどして、風で倒れた。倒れたのを拾ったのは芳子さんで、拾ってから、袋の口を輪ゴムで留め直した。 「具合でも悪いんかね」 きくさんがその話を持ち出したのは、その日はじめてだった。 「若い人は朝が遅いすけ」 「盆はな、東京のほうにも行くとこがあるろう」 「今年の茄子は水っぽいのう」 「あんた、去年もそう言うてたわね」 「上の畑、猿が来たろう」 「あれは猿でなくて狸だて」 話はそれきり茄子と狸のほうへ行って、戻ってこなかった。 「電話をしてみたらいいがに」 そう言ったのは、熊手を持ち替えた誰かだった。 「番号、知ってなさる人あるかね」 「うちは聞いとらん」 四月に来たときに聞いておけばよかったが、あのころは毎日誰かしらが上の家へ寄っていたから、番号というものが要らなかった。 「六月の、集落のあれに入ってもらえとれば、こういう日にひとこと送れたがにな」 「入る入らんは本人の勝手だすけ、無理に言うようなことでない」 そのとおりで、誰もそれ以上は言わなかった。ただ、こういう日には、それで困る。 最後に見たのはいつだ、という数え方をはじめたのが誰なのかは分からない。金曜の車のときに買い物袋を提げて坂を上っていくのを見たのが最後で、それが六日前になる。六日というのは、ここでは長くも短くもない。ひと月顔を見ない家もあるし、それで何ということもない。ただ、数えはじめると、数えたことのほうが残る。 「節さん、水汲むついでに、上の道を回ってきなせや」 「ついでだすけ、なんでもないわね」 下の家の節さんは、ついでという言葉を二度使った。ついでというのは本当のことで、水汲み場から上の道へ出て戻ってきても、時間は三分と違わない。 節さんはバケツを二つ提げて戻ってきて、それを地面に置いて、麦茶を一杯飲んだ。飲み終わってから話した。 「軽の向きが変わっとった」 「向きて」 「朝は道のほうへ向けて停めてあったろ。それが家のほうを向いとった」 「ほんなら、一遍出て、戻ってきたわけだ」 何時に出て何時に戻ったのかは分からない。 「カーテンは」 「引いてあった」 「物干しは」 「何も掛かっとらんかった」 「前の日は白いシャツが一枚と、タオルが二枚出とったわね」 「よう見てなさる」 「坂の途中から見えるすけ」 それから、玄関の脇の長靴が片方だけ倒れていたことも言った。覚えていたから言った。訊いた者はいない。訊かれる前に話して、話しながら自分でバケツの水が減っていないのに気づいて、もう一度汲みに行った。 それきり、その話はしなかった。 聞かないのがここのやり方で、聞かなくても分かることは、たいてい分かる。分かったうえで知らないことにしておくのは、そのほうが本人が楽だからで、わたしたちはずっとそうやってきた。上の家の戸を叩けば早い。叩かないのは、押しかけるようなまねになるからで、そういうことをしない土地だと、わたしたちは思っている。ただ、出てこなかったのが墓の日だというのが、少しばかり引っかかった。四月から八月まで、呼べばいつでも来ていた。畑の草を取れと言えば取ったし、集会所へ来いと言えば来た。断られたことは一度も無い。 線香の小袋は一つ余った。忠治さんは余ったのを箱へ戻さずに、帰りしなの与志さんの手に持たせた。与志さんはそれを上着の胸のところへ入れて、鎌を二丁提げて坂を上っていった。 日が落ちてから、それぞれの家の前で迎え火を焚く。麦わらは忠治さんが神社の裏でこしらえたのを、朝のうちに配ってある。上の家の前を通った者の話では、玄関の戸が開いていて、澪ちゃんが土間のところに立っていたそうだ。火を見ていた。声をかけたら、会釈をした。火は小さかった。麦わらは湿気ると煙ばかり出るが、今年は乾いていたから、すぐに白い灰になった。戸口の内側に段ボールが三つ四つ積んであるのが、火の明かりで見えたそうだ。四月に運び込んだままのものだろう。 「痩せたんじゃないかね」 「あれはもとから細いて」 という同じ話を、そのあと二軒でした。手が空いていなかったのだろう、と、そこまでは言った。なぜ来なかったのかは、やはり誰も本人には聞いていない。聞けば言うだろうが、聞かれるほうは言いたくないこともある。わたしたちは、そこをわきまえているつもりでいる。 明日は金曜で、車が来る。 移動販売車は十時半に集会所の前へ停まって、四十分ほどいる。金曜のは魚を積んでくるから、火曜のより人が出る。値段は町のスーパーより二割がた高いが、そこを言う者はいない。ここまで上げてきてもらっているのだから、高いのは当たり前で、高いと言うほうが筋を欠く。澪ちゃんもだいたいその時分に出てくるから、そこで顔を合わせれば、わざわざ訪ねていくよりも角が立たない。話すことがあるわけでもない。元気そうにしているのを見れば、それでいい。翌朝、車は十時半に来て、十一時十分に出ていった。同じ日の朝のうちに、茄子とインゲンを袋に詰めて上の家の玄関の脇へ置いてきた者がある。茄子は朝のうちに採らないと皮が固くなるし、インゲンはもう筋が出はじめていて、茹でたところで残すかもしれないが、そこまでは言わずに袋へ入れた。夕方に前を通ったら袋は無かった。それを聞いて、電話をしてみたらどうかという話は、その晩どこの家でも出なかった。その次の日も置いた。三日目に行ったら、袋が二つ並んでいた。 「食べきれんのだろう」 誰かがそう言って、その話はそこでしまいになった。十六日に送り火を焚いた。草刈り機は三台とも集会所の物置へ戻して、混合油の残りはポリタンクごと棚の下に置いた。来年の春の道普請まで使わない。墓地の草は、盆のあいだにもう先が起き上がってきていた。彼岸の前にもう一度刈らねばならない。当番を決めるのは本家のほうの兄さんの役で、決めるのは十月に入ってからでいい。 第七章 九月に入って最初の火曜日、集会所の前に移動販売車が停まっているあいだに、澪ちゃんは離婚して帰ってきたらしい、という話が出た。誰の口から出たのかは、そのとき誰も気にしていない。販売車は火曜と金曜の十一時前に来て、二十五分ほどで次の集落へ行ってしまうから、こちらもその二十五分のあいだに用を済ませて、済ませたあとの立ち話まで済ませてしまう。その日は九人が出ていた。パンの棚の前に四人が集まっていて、豆腐が一丁で百五十八円に上がったという話と、下の家の孝夫さんが盆前から腰をやっていて今年の稲刈りをどうするのかという話と、その二つのあいだにその話は挟まっていた。挟まっていたというより、前からそこに置いてあったものを、たまたま誰かが手に取ったという具合だった。 「離婚してきたんだってねえ」 「そうらしいねえ」 「そうらしいって、誰に聞いたがね」 「誰にって、今あんたが言うたろ」 「うちは言うてないよ。そうかね、と言うただけだ」 「豆腐、もう一丁いるかね」 そういうことは、ここではよくある。 だからその日は誰も驚いていない。驚かなかったということが、あとになってみれば少しおかしいのだけれど、そのときのわたしたちには、ずっと前から知っていたことを確かめ直しただけのように思えた。 いつからだったろうかと、あとになって辿ってみたことがある。郵便局の前のきくさんは、政雄さんとこの嫁から聞いたと言った。芳子さんのほうは、流しの洗い物の手を止めずに言った。 「うちこそ、きくさんから聞いたがですよ」 下の家の節さんは、町の医院の待合で誰かが話していたような気がすると言い、その誰かの顔をしばらく思い出そうとしてから、思い出せない、と言った。医院はひと月に一度で、血圧の薬をもらうのに一時間四十分待つ。待合には隣の集落の人も、町の団地の人もいる。神社の忠治さんは、そんげ話は初めて聞いた、と言った。言ったあとで、こう続けた。 「それなら、四月の荷物で見当がつくろう」 「段ボール六箱と、スーツケースが一つきりだったすけ」 「十九年向こうにいた人間の荷物ではないろう」 辿っていくと同じところをひと回りして、始まりのところには誰もいなかった。 誰も言い出していない。それなのに、十九戸のどこにも、その話は行き渡っていた。 わたしたちはそれを噂だと思っていない。噂というのは人を悪く言うことで、澪ちゃんについて悪く言った者はここには一人もいない。三十八で戻ってきて、耳の遠くなった祖父さんの面倒をみて、日当たりのよくない畑まで借りて、と指を折って数え上げて、しまいはいつも、大変だったろうね、で終わる。大変だったろうねと言うとき、わたしたちは何が大変だったのかを一度も尋ねていない。尋ねないのが親切だと思っていたからで、その考えは今でも間違っていないと思っている。ここは狭いから隠しごとは長くもたないけれども、その代わりに、聞かないという形でそっとしておく作法だけは、長い時間をかけて身につけてきた。九月に入ってから、上の家へ野菜を提げていく回数は増えている。数えた者はいないが、増えている。茄子ももう終わりだというのに、玄関の三和土に袋が二つも三つも置いてあることがあった。それから、東京の話はいつのまにか誰も出さなくなった。前は、向こうは家賃がいくらだとか、電車が何分おきに来るとか、そういうことを面白がって聞いていた。今はそれを聞かない。聞かないでいるのが澪ちゃんのためだと、口には出さずに、全員がそう決めていた。 稲刈りは彼岸の前の週から始まった。孝夫さんはコルセットを巻いてもコンバインの座席に上がれないので、下の家の田は節さんと、町から日当で呼んだ機械屋と、それから澪ちゃんとで刈った。二日半かかった。長靴は上の家の与志さんのを履いていて、大きいので靴下を二枚重ねている、と節さんが言った。軍手は自分で持ってきていた。去年まで、ここでいちばん若いのは五十八だった。若い者が一人いるだけで畦の上の空気が違う、と節さんが言い、その言い方を、聞いた者はみな覚えている。半日で二千八百円のつもりで渡そうとしたら、受け取らなかった。 「ほんじゃ新米を三十キロ積んでいきねか」 「じいさんと二人では食べきれんので、五キロで」 断られたという話ではない。断られ方が丁寧だったという話として、その週のうちに何度も語られた。五キロの袋を膝で抱えて坂を上がっていく背中を見送って、遠慮深い子だ、遠慮が過ぎる子だ、と言い合った。 彼岸の入りは日曜だった。 芳子さんが前の晩から小豆を炊いて、朝のうちにおはぎを二十四こしらえた。いつもの年は十六で足りるところへ上の家の分を足したので、餅米が半合ばかり余計に要った。皿にラップをかけて坂を上がっていくと、庭先に軽自動車が停めてあって、後ろの窓に稲の切り屑が乾いてくっついていた。 戸は開いていた。与志さんは炬燵の枠だけ出したところに膝を入れて座って、血圧の薬の袋の端を破ろうとして、指が滑ってうまく破れずにいた。八十一の指はもう袋の切り口をつまめない。おはぎの皿を框に置くと、袋から手を離した。 「そんげことせんでも、よかったがに」 「彼岸だすけ」 「え?」 「彼岸だすけ、と」 「ああ。茄子が浅いすけ、食ってみてくれ。おおい、茄子」 奥から短い返事があった。板の間の柱時計は先月から遅れたままで、直しに来てもらう当てもないという話は前にも聞いた。仏間との境の襖が半分だけ開いていて、そこから仏壇が見えた。ばあさんの写真の斜め前に、写真立てが一つ増えていた。伏せてはいなかった。四十そこそこの男の人が、どこかの防波堤らしいものを背にして、帽子を手に持って写っていた。線香は朝のうちに上げたあとらしく、香炉の灰は、そちらの側だけが崩れて新しかった。花筒には、庭の隅に咲くのを刈らずに残してあった白い菊が入っていた。台所で水を使う音がして、それから薬缶を火にかける音がした。奥からは出てこなかった。出てこないのは遠慮しているのだろうと受け取って、こちらも呼ばなかった。 「稲刈りは、誰か頼んだかね」 「毎朝、水を替えてくれるがですよ」 与志さんは薬の袋をこちらへ渡してよこして、爪の先で切ってくれと手真似をした。 「あれは四時に起きるがだ」 四時に起きて何をしているのかまでは言わなかったし、こちらも聞かなかった。耳が遠くなってからこの人の話は問いと答えが半分ずれる。ずれたまま小一時間ほど座って、稲の値のことと、去年の雪の消えるのが遅かったことを話した。茄子は浅いどころか、塩がよく回っていて、こちらの家のより漬かっていた。漬けたのは祖父さんではないだろうと、あとになって言い合った。 坂を下りながら、写真の話になった。 「別れた相手の写真を、仏壇の脇に置くもんかね」 「まだ整理がつかんのだろう」 「三十八なら、これからいくらでもあるろ」 「孝夫さんの腰、ようならんかったねえ」 話はそのうち今年の米の等級と、農協の集荷の日取りに移って、坂を下りきるころには写真のことを言う者はいなくなっていた。 それきり、あの写真の話は出ていない。 代わりに、別の話が出るようになった。町の農協の支所に、五十二で独りでいる人がいる。畑もやるし、酒も飲まない。母親を去年送ったばかりで、家は八間もあって広すぎるという。芳子さんは自分の息子の嫁が正月にも来ないことをこぼす人で、そのついでのように、彼岸の明けた日、畑の縁でその人の話をした。日は選んだつもりだった。 「農協の支所にね、五十二で独りの人がいるがですよ」 「そうなんですね」 澪ちゃんはじょうろの水を切りながらそう言って、畝の端の草を二本抜いた。抜いた草を手に持ったまま、聞いてきた。 「白菜の苗は、いつ植えるもんですか」 話はそれで苗のことになり、霜の降りる前に根を張らせないと駄目だという話を、芳子さんは長いこと丁寧に説明した。家に帰ってきてから、早すぎた、悪いことをした、と三度言い、三度目には言いながら仏壇の花を替えていた。悪いことをしたと言うとき、何が悪かったのかを芳子さんは、たぶん自分でも分かっていない。 金曜日、移動販売車が来ていたときに、きくさんが澪ちゃんに声をかけた。きくさんは七十七で、耳のほうは達者だが、人の名前がすぐに出てこなくなったと自分でよく言う。膝が悪くて坂を下りるのに人の倍かかるから、集会所の前まで出てくるのは週に二度のこの二十五分だけで、その二度のために前の晩から買うものを紙に書いておく人である。悪気というものが体のどこにも入っていない人だと、ここでは誰もが思っている。 「旦那さんは、こっちさは来なさらんの」 澪ちゃんは卵のパックを籠に入れかけた手を止めて、値札のあたりをしばらく見ていた。 「もう、いないんです」 「ん」 「いないんです」 「そうかね」 そう言って、卵をもう一つ籠に入れた。十個入りが二つになった。きくさんはそれきり聞かなかった。聞かないのが親切だからで、きくさんはそういう人だ。 「豚のこまが、二百グラムで四百二十円だと」 その日の立ち話は、販売車の兄さんが十一月から水曜も回れるかもしれないと言っているという話まで行って、そこで終わった。澪ちゃんは籠を持って車の後ろに回り、勘定を済ませて、袋を提げて坂を上がっていった。そのうしろ姿を見ていた者が何人いたかは分からない。 その晩のうちに、本人の口から聞いたという話は、ここを一周した。 芳子さんが政雄さんに話し、政雄さんが総会の日取りの相談の電話のついでに忠治さんに話し、忠治さんは氏子の会費を集めに下の家へ寄って、そこで一周した。本人が言ったのだから、これはもう噂ではない。わたしたちはそう考えて、そのあとは誰も、そのことを表立って口にしなくなった。口にしないというのは、忘れたということではない。帳面に書き込んで、引き出しにしまっただけのことだった。しまってあるものは、必要になれば出てくる。 九月の終わりに、十一月の総会の案内を回すことになって、政雄さんの家の茶の間で名簿を直した。総会は十一月二十三日と決まっている。案内は一枚に刷って回覧板に挟むだけだが、そのもとになる名簿は毎年この時期に手で直す。政雄さんは区長を九年やっていて、字が年ごとに大きくなる。世帯の順は坂の下から上へ、上の家がいちばん最後になる。そこは去年まで与志さんの一人書きだった。そこへ一行足す。芳子さんは鉛筆を持って、持ったまましばらく動かなかった。 「名字は、渡辺でいいろうかね」 「渡辺だろ。帰ってきたんだすけ」 「戻したかどうかは、聞いてないよ」 「聞くもんでもないろう」 渡辺澪、と書いた。書いてから、字が大きすぎた、と言って消しゴムで消し、もう一度、上の行と同じ大きさに書き直した。消しかすを手のひらに集めて、灰皿の縁に寄せた。 第八章 稲刈りが終わって、夜通し回っていた乾燥機の音がどの家からも消えた十月の初めに、朝のバスに乗る人を見た、という話が出た。郵便局の前のきくさんが言い出したことになっている。きくさんに聞くと、自分は聞いたほうだと言う。では誰が。火曜の移動販売車が集会所の前に停まっている二十分ほどのあいだに、それはもう分からなくなっていた。わたしたちはそういうことをいちいち覚えていない。覚えていなくても困らないから覚えていない。 バスは朝七時十分と夕方四時四十分の二本しかない。 七時十分のに乗れば町には七時三十三分に着く。その二十三分のあいだに停留所は九つあって、そのうち四つは屋根も囲いもない、標柱が一本立っているだけのところだ。柿ノ木平の停留所には分校があったころからの木の待合いが残っていて、中に長椅子が据えてある。座面の真ん中は何十年ぶんか擦れて白くなっていて、端のほうにだけ緑の塗りが残っている。時刻表はラミネートしてあるけれども日に灼けて上の段の数字が抜けかけていて、それでも二本しかないのだから誰も読まない。壁には去年の夏に町から配られた熊の注意書きが画鋲で四隅を留めてあって、めくれた角のところだけ白く戻っている。長椅子の下には誰のものだか分からない長靴が片方、もう何年も置いてある。片方だけだ。霧の濃い朝は坂の下の音がよく通るので、バスが来るのは姿より先にエンジンの音で分かる。その朝も霧だった。芳子さんは犬に餌をやってから新聞を取りにいく順で、餌の缶を開けに外へ出て、そのついでに坂の下を見たときに、待合いのほうに人が立っているのが見えたという。上着の色は分からない。餌をやって、新聞を取って、鍋の湯を沸かして、それから思い出したように、あれは澪ちゃんじゃないかと政雄さんに言った。 「なんかあったんかね」 「なんもないて。町に用があるんでしょ」 「用って、なんの用ろっかね」 「知らんて。人の用まで知らんわね」 「町なら車で行くわね。あの子、車あるがに」 「新聞、そこ置いといてくれ」 軽自動車は四月に帰ってきたときのまま、上の家の下の空き地に停めてある。雪囲いの資材を積んである横に、四月からずっと同じ向きで置いてある。町へ出るだけならその車を使えばいい。澪ちゃんが車を使わずにバスに乗るというのは、車を置いていくということで、車を置いていくというのは夕方まで戻らないということだ。ここではそういう計算をする。悪く取っているわけではない。二本しかない時刻を全員が体で覚えているから、勝手にそうなる。 町で見たという話が回ってきたのは、その週の金曜だった。下の家の節さんの姉が町に嫁いでいて、その姉が言ったという。 「姉が言うたことだすけ、確かじゃないですよ」 「うん」 「確かじゃないですけどね。町のスーパーの、惣菜のほう」 「惣菜」 「エプロンして、髪をネットに入れて。名札に渡辺って出てるのを見て、それで分かったって」 最初は誰だか分からなかったそうだ。節さんは、姉が言ったことだから確かではないと、そのあとにもう一度断った。それから、パックにラップをかけるあの機械の前に立っていた、というところだけを、二度とも同じように話した。 上の家の孫が働きに出たらしい、という言い方で、それは広がっていった。 八月の墓掃除に来なかったことも、九月に出たあの話も、これと並べて口に出す者はいなかった。並べる必要がなかった。 ここでは話のほうが勝手に並ぶ。 きくさんは月に一度、町の眼科に通っている。目薬をもらうだけなので午前中に済み、帰りは昼のに乗れないから、町で蕎麦を食べて夕方の便で戻る。その日、待合いに先に座っていたのがいて、それが上の家の孫だった。 「おはようございます」 「あら。寒くなりましたねえ」 「はい」 「今日は町の眼科でね。月に一ぺん行かんと出してくれんのよ」 「そうですか」 「町ですか」 「はい」 それで、きくさんはそれ以上は聞かなかった。どこに勤めているのかも、何時までなのかも、いつまで続けるつもりなのかも聞かないでおいた。聞くものではないと思ったからで、帰ってきてからきくさんは、何も聞かないでおいたのだと三軒で同じように話した。バスの中では別々に座った。きくさんは前から三番目の右と決めていて、そこが揺れないから昔からそこに座る。上の家の孫は、一番うしろの窓際に座って、途中から窓のほうを向いていたそうだ。 上の家の孫は、朝の便に乗る。それだけのことだ。 与志さんは五時前に起きる人で、それは八十一になった今も変わらない。朝の暗いうちに玄関の灯りがつくのが坂の下からも見えて、それでみんな、上の家は起きたと思う。七時前にその灯りが一度消えて、しばらくしてまたつく。孫を送り出して、それから戻ってひとりで飯を食っているのだろうと言った者がいた。物干しには男物の下着とタオルばかりが並んでいて、他の物は家の中に干しているらしい。見ようとして見ているわけではない。坂の下から目を上げれば、上の家の物干しはいやでも正面に来る。 昼過ぎに芳子さんが大根を二本、上の家へ持っていった。声をかけても返事がないので勝手口をのぞくと、戸は開いた。土間の隅に段ボールが二箱まだ積んであって、四月に運び込んだときのガムテープが上に渡したまま剥がしてない。芳子さんはそれを見たと言ったが、見にいったわけではない、目に入っただけだと言い添えた。奥から与志さんが出てきて、大根を両手で受け取った。 「孫は町だ」 「あら、そう」 「町だ」 「精が出るこてね」 「車庫の樋がな、去年の雪で外れたまんまだ」 樋の話は前にも聞いていた。梯子さえ掛ければなおるのだと、与志さんは前と同じところで同じように言った。芳子さんは十分ほど立って聞いて、業者に頼むなら政雄に電話させると言って帰った。八十一の人が一人で梯子に上がるのはよくないと、帰ってきてから何度も言っていた。 五月に借りて起こした畑は、九月の終わりからそのままになっている。支柱に絡んだ蔓が枯れて、ネットが片側だけ倒れて土についている。誰にも言わないで、下の家の孝夫さんが草を刈った。刈ってやったとは本人は言わない。言わないが、金曜の移動販売車のところで、あそこの畑がえらいことになっているという話は出た。 「せっかくみんなで教えたのにね」 「そうでもないでしょ。勤めがあれば手が回らんでしょ」 「ネットだけでも外してやらんばね。雪が来たら潰れるすけ」 「誰が言うがね」 「言うことでもないでしょ」 言い返したほうも、手が回らないのは勤めのせいだと思って言っている。教えたことが無駄になったとは誰も言わない。無駄になったとは思っていないからだ。 移動販売車の運転手は町の人で、火曜と金曜の十時半ごろに来る。四月から夏のあいだ、上の家の孫は毎回買いに来ていた。買うものはだいたい決まっていて、豆腐と、卵と、菓子パンをひとつ。十月に入ってからは一度も来ない。 「あそこの若い人、見えなくなったね」 「町に勤めに出たがですて」 「へえ。そりゃよかった」 運転手はそう言って、それから釣り銭の箱を膝の上で揺すった。 「五百円玉が足んないな。次は崩してくるわ」 勤め先の名前を、わたしたちは誰も本人から聞いていない。 本家の稲刈りは十月三日と四日だった。二日とも降らなかったので、四日の午後には終わった。コンバインが入らないのは下の三枚で、そこは今でも鎌で刈って掛けるから、人手が要る。三十キロの袋をライスセンターまで運ぶのに軽トラが二台出て、去年は六人、今年は五人になった。一人減ったのは、下の家の孝夫さんが腰を痛めて、積むほうには回らずに袋の口を縛るだけにしたからだ。四月に帰ってきたとき、来年からは若い人にも出てもらおうという話を、みんなで笑いながらした。今年は誰も声をかけなかった。 「声かけたら、無理して出てくるろ」 「無理させることないて」 「入ったばっかりで休みなんて、言えんでしょ」 「そうさね」 休ませて何かあったら、こちらが悪い。町のああいう店は土日のほうが忙しいと聞く。四日の昼に集会所で梅と昆布のおにぎりを配ったときも、余った四つを誰の家に持たせるかという話にはなったが、上の家の名前は出なかった。 誰も反対しなかった。 夕方四時四十分のバスは坂の下に着く。そこから上の家までは五百メートルばかりあって、途中に街灯が二つしかない。十月の終わりになると、着くころにはもう山の側が暗くなっている。孝夫さんが軽トラで通りかかって、声をかけたことが二度ある。 「乗ってきないや」 「ここまで来ましたので、歩きます」 「暗いすけ」 「大丈夫です。ありがとうございます」 二度ともそうだった。レジ袋を持ち直して坂を上がっていったそうだ。孝夫さんはそれを遠慮していると受け取った。ここの者はみんな遠慮する。遠慮しなくていいと言ってやらないと、いつまでも暗い坂を歩かせることになる。次に会ったらもっと強く言うと孝夫さんは言い、実際その次の週も同じ時刻に軽トラを出したが、その日は坂の下に誰も立っていなかった。 勤めに出るのが悪いという者は一人もいなかった。ここから通える勤め口があるのはいいことで、それは何度も言い合った。ただ、勤めに出るというのは、ここで食っていくということとは違う、という言い方が何度か出た。ここで食っていくというのは、わたしたちの言い方では田をやるか畑をやるかで、それをしないのなら、いつでも出ていける。バスは一日二本しかないが、出ていくのには二本あれば足りる。十九年前に出ていったときも、あの子は朝の便に乗ったはずだ。誰かがそう言った。乗るところを見た者はいなかったし、誰も確かめなかったが、そういうことになった。 十月の終わりに、神社の落ち葉掃きの日取りと、消防の年会費と、灯油の共同注文の紙をまとめて回覧板で回した。回覧板は本家のほうから出て、九軒めが上の家で、その次が神社の忠治さんのところになる。上の家で二日止まった。忠治さんが朝のうちに取りにいくと、玄関の下駄箱の上に置いてあって、渡辺の判子はもう押してあった。誰が押したかは分からない。日付の欄は空いていた。忠治さんは判子のところをしばらく見て、それから戸を閉めて、板を胸に抱えて帰った。二日止まったことを本人に言った者はいない。言うようなことではないし、灯油の注文は締め切りまでまだ日があった。 十一月の総会の話は、その灯油の数をまとめているあいだに出はじめた。来年の道普請の当番割をどうするか。十九戸のうち、実際に鍬を持って出られるのは十五軒あるかどうかで、去年は二軒が金を出して人を出さなかった。上の家は今でも与志さんの名前で当番に入っている。四月には、孫が戻ってきたのだから、これからは孫の名前で入れてやればいいという話が出ていた。歓迎の意味でそう言っていた。十月には、その話は出なくなっていた。誰がやめようと言ったのでもない。 灯油は十八リットルで二千三百四十円、締め切りは十一月五日で、まだ四軒から返事が来ていない。総会の案内は月が変わってから回す。 第九章 十一月二十三日は勤労感謝の日で、総会はもう二十八年この日と決まっている。前の晩に霰が少し落ちて、朝のうちは集会所の駐車場の砂利のくぼみだけが白く残っていた。屋根に乗るほどのものはまだ来ていない。本家のほうの兄さんが十時に鍵を開け、廊下に立てかけてあった長机を四本出してコの字に並べた。石油ストーブは十月のうちに芯を替えてある。共同注文の灯油はまだ届いていないので、それぞれの家から持ち寄ったポリタンクの残りを足して焚いた。十八リットル二千三百四十円のものが、来週の火曜に業者の車で入ることになっている。座布団は十八枚で、去年の秋からずっと十八枚のままだ。足りないぶんは遅く来た者が板の間に直に座る決まりで、今年は二人が直に座った。議案の紙は本家のほうの兄さんが手で書いて、町のコンビニで十九枚刷ってくる。刷るのはいつも二十枚で、一枚は写りを見るために刷るからで、その一枚は毎年、下敷きにして机の上に置かれる。茶は芳子さんが大きい薬缶で沸かして、急須で入れずに直に湯呑みへ注いで回る。湯呑みは分校の給食で使っていたものが二十六個そのまま残っていて、底に組の名前が書いてある。誰がどの湯呑みを取るかは決まっていないのに、毎年だいたい同じ湯呑みが同じ手に渡る。議題は町役場へ出す書きつけと、区の決算と、来年の道普請の当番割で、それが済めば、あとは茶を飲みながらの話になる。 出席は十六人、委任状が三枚だった。 上の家からは与志さんが来た。下の家の軽トラの助手席に乗せてもらって、一時十分前に着いた。この二、三年、坂を歩いて下りるのは無理になっている。上がり框で長靴を脱ぐのに手間取り、孝夫さんが自分の腰を庇いながら肩を貸した。座ったのはストーブの正面の、去年と同じ場所だった。 「与志さん、その耳、電池入っとらんろ」 「電池はの、町の電器屋でないと置いてないがだ」 「そうかね」 「その電器屋が、水曜が休みでの」 「そうかね」 聞いたことのある話をもう一度聞かされたときは、そうやって答える。忠治さんの二度目の返事は、一度目とまったく同じ調子だった。 決算は先に済んだ。前年からの繰越が三万八千二百円で、そこへ戸ごとの区費を足し、除雪の業者に払う分と、集会所の電気とプロパンの基本料を引く。 「使いもせんプロパンに、月千七百円だがね」 「解約して、葬式のときはどこでやるがね」 今年も解約の話にはならなかった。葬式のときにここより広い場所がない。秋祭りの余りは去年のうちに消えていて、四月の歓迎の会でビールと乾き物と刺身の盛り合わせを二つ買ったぶんが、ちゃんと帳面に残っている。読み上げるとき、本家のほうの兄さんはその行だけ少し早口になった。誰も突っかからなかった。歓迎の会に文句をつける者はここにいない。 模造紙を壁に貼るのは去年と同じ手順だった。 一人で住んでいる家が八軒、二人の家が十軒、あとの一軒は親と息子夫婦で、足せば三十一になる。十九戸、三十一人。紙の隅の欄に最年少五十八歳と書く。 「四月に一人増えたすけ、三十二でないがかね」 「住民票は、まだ向こうに置いたままだって」 「誰に聞いたが」 「誰にって、そういう話だがね」 役場へ出す様式は住民票で数えることになっている。誰が確かめたわけでもない。四月に本家のほうの兄さんが一度そのことを聞きにいこうとして、玄関の前まで行って引き返している。そういうことを人に聞くものではないというのが芳子さんの考えで、それはそのとおりだと今でも思う。この半年のあいだにそれが動いたという話も出ていないので、動いていないのだろうということになった。太いペンで三十一と書き、最年少の欄も去年と同じ五十八にした。書き終えて老眼鏡を額へ上げた。 「字が曲がったの」 曲がっていてもかまわないと皆が言った。書きつけは書きつけ、実際は実際だ、と誰かが付け足した。それはそのとおりで、実際にここには三十二人いる。ただ、その三十二人めを紙に書き足す手続きが、まだ誰の手にも渡っていないというだけのことだった。去年の紙は剥がして四つに折り、集会所の引き出しへ入れた。四月には、冬をひとつ越せばここの人間になる、という言い方を何度もした。冬はまだ来ていない。 当番割の話になったのは、二時を回ってからだった。 来年四月の道普請は第二日曜で、日にちは十一日になる。十九戸のうち、実際に鍬を持って出られるのが何軒あるかを一軒ずつ拾っていくと、今年は十四で止まった。去年は十五あった。神社のほうは忠治さんが七十九で、あの人は出ると言えば必ず出る人だが、去年の秋に片方の膝へ水が溜まってからは、草刈り機を提げて斜面を上がるのは無理になっている。金を出して人を出さない家が二軒ある。それを責める者はいない。息子が遠くて、本人が病院通いで、というところばかりだからだ。区間は昔から七つに割ってあって、いちばん重いのは神社の下から沢へ落ちる法面の一区間になる。下から見上げると大したことがないように見えて、上がってみると斜面が三十度ちかくある。去年はそこに二軒を当てた。今年は一軒しか当てられそうになかったので、そこだけ先に決めて、あとの六つを順に埋めていった。埋め終わってから、上の家の欄が残った。 四月には、これからは孫の名前で入れてやればいい、という話が出ていた。歓迎の意味でそう言っていて、そう言ったことを皆が覚えている。 「上の家は、どうするかね」 「与志さんとこは、去年のまんまでいいでしょ」 「まんまって、あの人に鍬持たせるがかね」 「今年もそうすりゃいいがだ」 八十一に鍬を持たせるわけにいかないのは、その場の全員が同じように思っていた。去年は名前だけ当番表に入れておいて、当日は本家のほうの兄さんと孝夫さんが上の家の区間まで足を延ばして刈っている。今年もそうすればいい。そうすればいいという話が固まりかけたところへ、別の声が入った。 「孫さんの名前で入れるという話は、四月にしたねかね」 「したども、あれは勤めに出る前の話だすけ」 「勤めのある人に、朝六時半から出てもらうわけにいかんろ」 「入ってひと月で、道普請だすけ休ませてくれとは、言い出せんて」 「毎朝七時十分のに乗っとる人に、日曜だけ六時半に下りてこいは、酷だわね」 「若い人に負担をかけるのは、気の毒だ」 町のああいう店は日曜のほうが忙しいと聞くし、四月の第二日曜といえばまだ朝は氷が張る。反対する声はどこからも出なかった。負担をかけるのが気の毒だというのは、ここでいちばん強い理屈になる。金の話でも義理の話でもないから、誰も逆らえない。 「聞いてみたら、いいがに」 下の家の節さんだった。湯呑みを両手で挟んだまま、机の真ん中あたりを見て言った。九月の稲刈りに、下の家の田で並んで立った人だ。長靴が大きくて靴下を二枚重ねていたことも、日当を受け取らなかったことも、この人が話したことでみんな知っている。 「聞くって、本人にかね」 「出るか出んか、本人に聞けばいいがに」 「聞けば、出ますて言うでしょう」 「出ますて言わせて、店を休ませるがかね」 「そうだね」 節さんは湯呑みを回して、それきり何も言わなかった。湯呑みの茶はもう冷めていて、飲まずに机へ戻した。その日、節さんが自分から口を開いたのはそこ一度だけで、あとは会計の紙をずっと二つ折りにしたり開いたりしていた。終わってから、あの人の言うことはもっともだった、という話が二軒で出た。 「もっともだて。もっともだども、聞くというのは、返事をさせるということだすけ」 「そんなら、初めから聞かんほうがいい」 「節さんは、秋にいっしょに刈ったすけね」 「三日も並んで働けば、そうなるのが人情だわね」 聞けば、出ますという返事しか返ってこない。断るという返事のほうは、ここでは口に出せる形になっていない。返ってきた返事の裏まで汲んでやるのが、ここのやり方だ。悪く言ったのではない。あちらの側に立ってものを言うようになったのだろうという言い方も、悪く言ったのではなかった。 採決はしなかった。 この集落で挙手をとるのは、金の出入りが十万を超える相談のときだけだ。当番割は毎年、話しているうちにどこかで水の落ち着くところが見えてきて、そこで本家のほうの兄さんが言う。 「そんなら、そういうことで」 上の家の欄は、与志さんの名前のままにしておく。実際に鍬を持つのは本家と下の家で、燃料は区の会計から先に出す。上の家の孫の名前は入れない。入れないというのは外すということではなくて、まだ入れないでおく、慣れてからにする、という意味だと、その場の全員が受け取っていた。当番表に名前が載るというのは、ここではいちおう一人前として数えられたということになる。載っていないうちは、まだ客に近い。客をこき使うわけにいかない。四月からその気持ちのままで十一月まで来た。だから外したという言葉はどこからも出ていない。出ようがなかった。もともと載せていないものを外すことはできない。 「なんの話だね」 与志さんが聞いたのは、そのあとだった。ストーブの正面で、湯呑みの茶をとうに飲み終えて、湯呑みの底を畳に置いたり持ち上げたりしていた。耳のほうへ口を寄せて言うと、うなずいた。 「来年の当番割だて」 「ああ。うちは去年と同じでいい」 それで話は済んだことになった。上の家の孫の名前のところで長くなったことは、誰も言わなかった。言えば気にするに決まっているし、気にさせるようなことはこちらは何もしていない。与志さんはそれから、車庫の樋がまだ外れたままだという話を始めた。それは芳子さんが十月にも同じ場所で聞いた話だった。 「業者に頼むなら、政雄に電話させるすけ」 「そうしてもらおうかね」 「孫がの、朝が早いすけ、晩は九時に灯りを消すがだ」 灯りの話はその日はじめて出た話だったが、聞いた者はみな、それは知っていると思った。坂の下からは上の家の二階の窓が見える。九時に消えることは、九月ごろからもう分かっていた。 四時前に終わった。 本家のほうの兄さんは、皆が帰る前に来年の当番表を壁へ貼り替えた。十九戸の家の名が縦に並んで、その横に区間を鉛筆で書き込んでいく。四月に貼ったほうの紙では、渡辺の欄に与志さんの名前があって、その下に一行分の空きが取ってあった。書かずに空けておいた一行だった。新しい紙にはその空きを作らなかった。作る理由がなかったからで、名簿を写しながら詰めて書いていったら、渡辺の次はそのまま佐久間になった。書き終えて画鋲を四隅に刺し、少し下がって、字の傾きを見た。それから机を廊下へ立てかけ、コップを洗って伏せ、ストーブの火を落とした。灯油は共同注文の分が入ったら足しておく。 外はもう暗くて、駐車場の街灯の下だけが明るかった。与志さんを軽トラに乗せるのに、また肩を貸した。 「傘、忘れとるよ」 「傘は持ってこんかったろ」 「持ってこんかったかね」 第十章 総会の次の日から、どの家も雪の支度に入った。庭木に縄を掛け、車庫の前へ単管を二本渡し、雪の落ちる側の窓に古い戸板を打ちつける。物置の奥からスノーダンプを出してきて、柄の割れているのを針金で巻き直す。毎年やる。十一月の終わりの、風のない日を選んで、昼までに済ませてしまう。総会の晩に決まったことを、上の家へ知らせにいった者はいない。決まったというほどのことでもなかった。来年の当番表に一行足さなかっただけで、足さないというのは外すのとは違う。慣れてからでいい、勤めのある人に日曜の朝六時半から鍬を持たせるのは気の毒だ、というところで話は落ち着いて、その落ち着き方に誰も引っかからなかった。知らせれば、かえって気にさせることになる。気にさせるくらいなら言わないでおくほうが親切で、こういうときの黙り方だけは、わたしたちは長いこと稽古を積んできた。 下の家の節さんが総会で一つだけ違うことを言ったけれども、あれは言い方が悪かっただけで、言いたいことはこちらと同じだったと、本人があとで二軒で同じように話している。 二十八日の土曜、日が落ちてすぐの時分に、坂を下りてくる足音がした。 上の家の孫は町のスーパーの名の入った紙袋を提げていた。中は焼き菓子の詰め合わせで、どの家にも同じものを一つずつ置いていった。坂の下の家から順に回って、その晩に人のいたのが十四軒、留守だった五軒には次の日の昼にもう一度来た。箱の底の値札を剥がさずにそのまま茶箪笥へ上げた家が二軒あって、そこに五百四十円と出ていた。十九も買えば一万を越える。気づいたのは次の金曜、販売車の来ている時分で、言い出した者はそのあとを続けなかった。話はパンの棚へ流れた。玄関先で用を言って帰ろうとするのを、どの家も上がれと言った。本家では茶の間へ通して、芳子さんが炬燵の天板を布巾で拭いてから座布団を出した。町にアパートが決まったこと、月末で祖父の家を出ること、勤めはそのまま続けること。それだけだ。あとはこちらの話を聞いていた。湯呑みは両手で挟んで持ち、畳へ置くときに指先を下へ入れて音を立てなかった。芳子さんは畑の話を長くした。 「来年はね、下の日当たりのいい一枚が空くがだよ。あすこを使えばいい」 「あすこなら胡瓜も茄子もちゃんと生るすけ。支柱はうちのを貸すすけね」 「ありがとうございます」 政雄さんは二度、同じことを言った。二度目のときに湯呑みを持ち上げて、中身がないのに口をつけて、そのまま下ろした。 「気に入らんことがあったのなら、言うてくれればよかったがに」 「なんも、ここにおって困ることはないろう」 「よくしていただきました」 芳子さんはそのあとで、東京の息子の嫁の話を始めた。正月にも来ない、三年続けて来ない、電話も年に二度きりだ、というところまで話して、それから自分で切った。 「こんげ話をしても仕方がないね」 「遠いと大変ですね」 「遠いことは遠いね」 町のアパートがどのあたりにあるのかは、その晩も、次の日も、誰も聞いていない。 「祖父さんはどうするね」 聞いたのは芳子さんで、聞いてすぐに立って、要りもしない急須を持ってきた。 「話してあります」 それきりその話にはならなかった。あとになって芳子さんは、あれだけは聞くものでねかった、と何度も言った。言いながら、洗った急須の蓋を裏返しに載せていた。 神社の忠治さんは神棚の札を一枚持たせようとして、包む紙がないと言い、茶箪笥の引き出しを二段開けた。紙は出てこない。探しているあいだに話が途切れて、結局、札は新聞紙にくるんだ。下の家では節さんが新米を五キロ出してきて、当日に車へ積んでやると言った。九月のようには断られなかった。孝夫さんはコルセットを巻いたまま座敷の隅にいて、坂の下まで軽トラで送るという話を二度した。 郵便局の前のきくさんのところは、いちばん最後になった。膝が悪くて、あの家から人が出ていくのは火曜と金曜の三十分きりだから、こちらが出向くほうがずっと多い。きくさんは名前が出てこなくて、上の家の、上の家の、と二度言ってから、両手で紙袋を受け取った。それから豆腐屋の話をした。 「兄さんね、十二月から水曜も回ることになったがだと」 「水曜も来れば週に三度になるろ」 そうすれば火曜に二丁まとめて買わずに済む、その話を、指で日にちを数えながら、順序を二度取り違えながらした。上の家の孫は終いまで聞いていた。 「それはいいですね」 三和土に膝をついて靴を履くのを、きくさんは上から見ていた。 「風邪ひかんようにね」 悪気というものがどこにも入っていない人だと、ここでは誰もが思っている。 引き止めたのは、その晩が最初だった。 総会のことを口にした者は、その晩、一軒もなかった。 十一月三十日の月曜は、前の晩のみぞれが屋根の北側と車のガラスに白く残っていた。七時前に上の家の前へ六人ばかり上がった。軽自動車の後ろの窓には、九月に稲を運んだときの切り屑がまだ乾いたままくっついている。四箱積んだ。四月に運び込んだのは六箱で、土間の隅の二箱は、四月に渡したガムテープをそのままにして置いていった。 「持っていかんのかね」 「置かせてください」 スーツケースは後ろの座席へ横にして入れた。助手席には白い布で包んだ箱が一つ載せてあって、シートベルトが掛けてあった。それだけはこちらが手を出す前にもう乗せてあって、両手で挟むようにして位置を直していた。 「割れ物かね」 「はい」 それ以上は聞かなかった。聞かないでおくのが作法で、この半年、こちらはその作法をよく守ってきたと思う。 与志さんは玄関の前に立っていた。サンダルのまま出てきて、みぞれの残っているところで足を滑らせかけ、柱へ手をついた。孫が何か言って、それに、ああ、と答えた。補聴器は総会の日から替えていない電池のままだ。それからこちらへ向いた。 「水はこれからわしが替えるすけ」 何の水のことかは言わなかった。耳が遠くなってからこの人の話は問いと答えが半分ずれるので、こちらも聞き返さなかった。 引き止めたことは、その場にいた全員が覚えている。芳子さんは半分開いた窓に手をかけた。 「正月はこっちだろ。餅は搗いてやるすけ、取りに来ればいいがだ」 「春になれば道もよくなるすけ、畑だけでもやりに来ればいい。あすこはあんたが起こした畑だすけね」 返事は待たなかった。政雄さんは区長の言い方をした。 「住民票は急いで抜かんでもいい。こっちに置いたままにしておいても、誰も困らんがだ」 困らんというのは本当のことで、役場へ出す書きつけはもう十一月に出してある。孝夫さんは腰を庇いながら言った。 「車庫の樋は業者に頼んでおくすけ、心配せんでいい」 誰も、なぜ出ていくのかを聞かなかった。四月からこっち、わたしたちは一度も聞いていない。郵便局の前のきくさんは、その時刻の坂を上がれないので来ていない。あとになって二度、同じことを言った。 「なして誰も呼びに来てくれんかったかね」 呼びにいこうと思った者はいる。七時前では膝の支度が間に合わないと考えて、やめただけのことだった。 「また来るろう」 「はい」 「来るろうね」 「はい」 窓が上がって、車は坂を下りていった。バスの時刻とは何の関係もない時刻だった。十九年前に出ていったときは朝の便に乗ったはずだと、十月に誰かが言っていた。 与志さんはサンダルのまま、車の消えたあたりを見ていた。 「寒いすけ中さ入ってなさい」 大きな声で言うと、こちらへ顔を向けた。 「バスかね」 「バスでねえて。車で行きなさったがだ」 「ああ」 坂の下でエンジンの音が聞こえなくなってからも、しばらく誰も家へ戻らなかった。二箱置いていったのだから、また来る。荷物を全部は持っていっていない。町からなら車で三十分もかからない。畑は起こしたままにしておけばいいし、支柱も抜かずにおく。そういうことを言い合った。それから誰かが言った。 「引き止めたのは引き止めたがだ」 そのとおりで、あの朝あそこにいた者は一人残らず引き止めている。わたしたちは本気で引き止めた。足りなかったと思っている者はいない。総会の晩のことを持ち出す者もいなかった。持ち出すようなことが、どこにもなかったからだ。 模造紙の数字は動かさずに済んだ。十九戸、三十一人。最年少の欄は五十八のままでいい。 十二月一日の火曜に、共同注文の灯油が業者の車で入った。十八リットルで二千三百四十円、締め切りまでに返事のあったのが十五軒で、集会所の裏に二列に並んだ。上の家は四つ頼んであった。二つに減らしてくれと政雄さんが電話をして、業者のほうは、そういうことはよくあると言った。四つのままにしておいて余ったら春まで置けばいいという意見と、八十一の人が満タンのタンクを提げるのは無理だという意見が出て、後のほうで決まった。運ぶのは孝夫さんの軽トラで、腰があるから積み下ろしは節さんがやる。去年までと同じに戻った。誰も何とも言わなかった。六日の晩から降り出して、その雪はもう消えていない。除雪車は町の委託で、朝の四時台に一度だけ入る。刃の音で目が覚める家と、覚めない家がある。五月に借りて起こした畑は、ネットの支柱が片側だけ倒れた形のまま雪の下になった。春に起こせば済む。 回覧板の順は変えていない。本家のほうから出て、九軒めが上の家、その次が忠治さんのところになる。渡辺と書いた札はもとから一枚きりだから、直すところはどこにもなかった。 十二月半ばの回覧板は、上の家で一日止まっただけで回ってきた。忠治さんが取りにいくと勝手口は開いて、土間の隅の二箱が四月のまま積んであった。ガムテープの端が乾いて反り返り、上に埃が薄く乗っている。奥から出てきた与志さんは言った。 「あれは春になったら取りに来るすけ」 誰がそう言ったのかまでは言わなかったし、こちらも聞かなかった。取りに来るという話はその晩のうちに回って、それから先、置いていった二箱のことを気にする者はいなくなった。 八十一の人が一人で冬を越すのは、去年までもそうだった。それでも一日おきに誰かが顔を出すことにした。紙に順を書いた。芳子さんが月と木、忠治さんが火、下の家が水と金、土曜は本家のほうの兄さん。日曜は川向こうの家の嫁に頼んだ。老人ホームの勤めで朝が早い人だが、ここでは若い者ということになっているから、こういうときは必ず名前が挙がる。去年の秋から腰を痛めて町の接骨院に通っているという話はあるけれども、本人が痛いと言わないので、こちらも知らないことにしてある。玄関の灯りが五時前につくかどうかは坂の下から見えるので、つかない朝があれば行けばいい、それでは遅い、という話を一度した。紙は集会所の壁の、来年の当番表の隣に貼った。画鋲が一つ足りなくて、当番表の右下のを抜いて使った。当番表の紙は右下がすこし垂れたが、四月まで貼っておくだけのものだから、それでかまわない。
小説 · text · 2026-09-07