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小説 · text · 2026-09-06

石の森の獣医師

月瀬 灯 →無料で読む ↓
石の森の獣医師のカバー
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一 眠ったままの鹿 石の鹿は、死ぬと軽くなる。 それを知らない人間は、死骸を前にしてたいてい反対のことを言う。こんなに重いものを、どうやって運べばいい。けれど獣医師の藤代環には分かっていた。生きている石生獣の内側には、夜を待つ血と、まだ使われていない体温が詰まっている。死ねばそれが抜ける。残るのは、見かけほど重くない殻だけだ。白環森の西口で横たわっていた牝鹿は、重かった。八人がかりで橇に載せ、石畳を引いた。灰色の腹はふくらみ、四肢は走る途中の角度で固まっている。右の目尻に雲母が浮き、夕日を小さく割っていた。 「朝から、このままです」 森守の八束宗一が言った。革帯に鉈を差し、白い眉の下から環の手元を見ている。「ほかに二頭。北の泉と、苔の坂」 「三頭とも牝?」 「そうだ」 「年は」 「五つ、六つ、たぶん四つ」 「たぶん、というのは診察には困ります」 「鹿が年を答えたことはない」 環は顔を上げた。宗一は笑っていなかった。 森の夕鐘が鳴った。 高い枝に留まっていた石鳥の首へ、髪の毛ほどの亀裂が走る。石灰色の翼が一度ふるえ、粉を落とし、次の瞬間には羽毛になって開いた。根元の狐がくしゃみをして、鼻孔から白い砂を吹いた。遠くで猪が地面を掻く音がする。 橇の牝鹿だけが目覚めない。 環は革頭の診療槌で胸を叩いた。 コン。 しばらくして、内側から、こつ、と音が返った。 「核は生きています」 宗一が息を吐いた。環はもう一度叩く。今度は角度をずらし、肋の一本ずつを探った。 コン。こつ。 コン。こつ、こつ。 槌を止めた。 「どうした」 「反響が二つあります」 「腹が大きいせいだ」 「妊娠しているんですか」 宗一は答えなかった。 環は診療箱から銀針を出した。日没後の石殻は、継ぎ目を選べば焼いた林檎の皮ほど薄い。肩甲の後ろを指で探ると、いつもの割れ目とは違う、滑らかな線があった。まるで誰かが殻を一度開け、ぴたりと閉じたようだった。針を当てる。先端が硬い音を立てて曲がった。 「石眠りではない」 環は胸の奥が熱くなるのを感じた。王都の獣医院にいた七年間、彼女は石生獣の珍しい病ばかり追った。角の内側へ花が咲く病、夜になっても片脚だけ石のまま残る病、狐の尾が鉱脈の方角を向き続ける病。三年前、白化病だと発表した狼は、ただ製粉所の粉を浴びていただけだった。その笑い話は環より長く王都に残った。だから白環森から「三頭同時」という使いが来たとき、夜行馬車へ飛び乗った。患者を救いたかった。それは嘘ではない。だが、誰も名をつけていない病が、彼女を待っている気もした。 「診療舎へ運びます」 「切るのか」 「必要なら」 宗一の手が橇の綱を強く握った。 「この森では、眠っているものを起こすな」 「獣医師に病獣を眠らせておけと?」 「病気だと決めたのは、あんただ」 石の腹の奥で、二つの音が重なった。環にはそれが、扉を叩く音に聞こえた。 二 石の朝市 三頭を診療舎へ運ぶ途中、橇は村の朝市を横切った。白環森では日暮れが一日の始まりになる。石生獣が肉へ戻る鐘に合わせて店が開き、夜半に魚を売り、夜明け前にパンを焼く。昼は獣も人も眠る。ところがその日は、店の半分が閉じていた。牝鹿が三頭起きないという話は、環が森へ着くより早く広がっている。肉屋は鹿が石のままなら猪も戻らなくなると言い、粉屋は石鳥が飛ばなければ翌月の風が止まると言った。子どもたちは橇のあとを走り、病気なの、と何度も訊いた。 「まだ分かりません」 環が答えるたび、宗一は横目で見た。市の端で、陶工の老婆が三叉の角へ赤い糸を結んだ。 「患者へ触らないでください」 「これは道しるべだよ」 「何の」 「戻る道」 環は糸を外した。診療の邪魔になる。老婆は怒らず、地面へ落ちた糸を拾った。 「王都の先生は、戻らない道をよく知ってるね」 周囲で笑いが起きた。 環は三年前の狼の件を知られているのだと思った。白い粉を病気と呼び、王都の講堂で発表した翌月、製粉所の親方が新聞へ手紙を出した。〈医師が狼を洗えば済んだ〉。挿絵では、環に似た女が狼を顕微鏡へ押し込んでいた。以来、彼女は動物の身体を洗ってから診るようになった。笑われた教訓にも値打ちはある。ただ、診察のたび、自分が慎重になったことまで誰かに見せたくなる癖は消えなかった。 一人の男が橇を止めた。 猟師の辰馬。腰へ短弓を提げ、左の袖が空だった。 「三叉をどこへ持っていく」 「月泉舎です」 「死んだら角をもらう」 「生きています」 「死んだらだ」 宗一が男の前へ立った。 「おまえの腕を食った鹿だぞ」 「だから欲しい」 五年前、三叉は罠にかかった仔を守り、辰馬の左腕を角で裂いた。男は自分で肘から切り落とし、出血しながら村まで戻った。以来鹿を獲らず、石鳥だけを射る。 「恨んでいるんですか」 環が訊くと、辰馬は片方の肩を上げた。 「あの夜、俺は仔を売ろうとした。こいつは俺を殺せた。腕で済ませた」 恩だとも罰だとも言わなかった。 「死んだら、角を笛にする。返事を聞く」 「何の返事です」 「生きている時に訊けなかったことだ」 三叉の腹で、こつ、と音がした。 辰馬は退いた。 市を抜けると、透が橇の後ろから環へ言った。 「先生は、死んだら何を持って帰りますか」 「解剖所見です」 「角より怖いな」 環は聞こえないふりをした。 診療舎の戸を開ける前に、宗一が赤い糸を三叉の後脚へ結び直した。環が外したものとは別の糸だった。 「邪魔です」 「切る場所は腹だろう」 宗一はそれ以上説明しなかった。 赤い糸は治療に必要ない。 それでも環は、二度目は外さなかった。 三 石をひらく 月泉舎には、月明かりを引き込むための細い水路が床を横切っていた。青白い水の両側へ三頭を並べると、解剖台の上に倒れた彫像のように見えた。一頭は右角が三叉。二頭目は左耳の先が欠けている。最も若い三頭目は、腹がほとんどふくらんでいない。 環はそれぞれの胸を叩いた。 三叉の腹からは、核音のほかに二つ。欠け耳からは一つ。若い鹿からは、よく似た速さの音が三つ返った。 「仔鹿だ」と宗一は言った。 「石生獣の胎仔は、母体が石化しているあいだ眠ります。核音を返しません」 「ここでは返す」 「聞いたことがない」 「聞こうとした医者がいなかった」 舎の隅で、石工見習いの柏木透が湯を沸かしていた。十九歳で、頬のそばかすを石粉で白くしている。三頭を運ぶあいだ一度も口を挟まなかった彼が、湯気越しに言った。 「先生は、鹿の腹に何がいたら嬉しいんです」 環は包帯を伸ばしていた手を止めた。 「嬉しい?」 「普通の病気なら、がっかりしますか」 「治せる病気なら喜びます」 「新しい病気なら、もっと?」 宗一が「透」と低く制した。 環は湯で手を洗った。質問が失礼だったから腹を立てたのではない。正確だったからだ。 「三叉から診ます。殻を開ける」 宗一は戸口から動かなかった。 「朝まで待て」 「朝になれば殻はもっと硬くなる。内側のものが核を圧迫しているなら、この一晩で死ぬかもしれません」 「その鹿は十五の夏を越した」 「さっき五つか六つと言ったでしょう」 「鹿の年じゃない。こいつが最初にここで眠った夜から十五年だ」 意味を訊く前に、三叉の腹で音が乱れた。こつ、こつ、こつ、と、固い雨粒が窓を打つように速くなる。 環は刃を取った。 石殻を切る刃は、鋼の両側へ魚皮を張ってある。力を入れすぎれば肉まで届く。肩の滑らかな線をなぞると、刃先は意外なほど素直に入った。薄い破片が一枚、床へ落ちた。 その下に毛皮はなかった。 黒く濡れた糸が、殻の内側いっぱいに張っていた。茸の菌糸にも、細い血管にも見える。糸は切り口から身を引き、中心の乳白色の塊へ縮んだ。 透が灯りを近づける。 塊は卵ほどの大きさで、表面に三本の赤い筋が走っていた。わずかに脈打っている。 「寄生核……」 環の口から、まだ存在しない病名がこぼれた。石生獣の核へ寄生し、日没後の肉化を妨げる菌類。複数個体への同時発生。彼女の頭の中で、病理図と発表台の灯りが早くも組み上がっていく。鉗子で黒い糸をつまんだ。乳白色の塊が強く収縮した。三叉の前脚が、石のまま床を掻いた。 「痛がってる」透が言った。 「核へ癒着しているからです」 「やめろ」 宗一が環の腕をつかんだ。 そのとき塊の下で、何かが動いた。環は腕を振りほどき、切り口を指で広げた。黒い糸の奥に、半透明の袋がある。袋の中で、柔らかな蹄が一つ折り畳まれていた。爪ほどの蹄。次に耳。閉じた瞼。 仔鹿だった。 ただし、その背からは木の根のような糸が伸び、乳白色の塊へつながっていた。 環は鉗子を落とした。 床に金属音が響く。三叉の核音が一度、ひどく大きく鳴った。開いた殻の縁から、黒い液が細く流れた。 「閉じます」 縫合樹脂を塗ろうとしたが、濡れた糸が樹脂を弾いた。石の縁は、もう最初の位置へ合わない。膨らんだ内側が、殻を押し広げていた。宗一は壁から毛布を外し、鹿の腹へ掛けた。 「だから起こすなと言った」 「知っていたんですか」 「知っていることと、見たことは違う」 「答えてください。これは何です」 老人は黒い液で汚れた環の指を見た。 「森の仔だ」 四 母親のいない仔 宗一は、十五年前の夏を話した。白環森の鹿は、ときどき群れから消える。猟師に獲られた痕も、崖から落ちた骨も見つからない。翌年、消えた場所には脚のような若木が四本生え、樹皮に毛の流れを思わせる筋が浮く。さらに一年後、その木の根元から小さな鹿が現れる。村では、森が鹿を産み直したと言った。 「それが三叉?」 「そうだ。母親は北の泉で立ったまま木になった。三叉は、その根元にいた」 「なら、この仔鹿は三叉の仔でしょう」 「半分はな」 「残りの半分は森だと?」 宗一は肩をすくめた。説明に困った者の身振りではない。環が理解できる言葉を探すことを諦めた身振りだった。三叉の切り口から流れる黒い液は止まらない。環は布を当て、匂いを嗅いだ。湿った胡桃と、雨の前の土。それから、動物の血にある鉄臭さ。彼女は顕微鏡板へ一滴落とした。灯りを透かすと、黒い糸の断片はゆっくり向きを変えた。互いを探し、触れ、一本へ戻る。菌糸に似ているが胞子がない。血管に似ているが壁がない。水路の月明かりを近づけると、すべての糸が同じ方角へ伸びた。 森の方角だった。 「北の泉へ行きます」 「三叉をどうする」 「内側の圧を下げなければ縫えません。あの塊が森とつながっているなら、仕組みを見つける」 「仕組みを見つけるまで、腹は閉じない」 環は返事ができなかった。 透が作業台の下から石工用の細い鏨を出した。 「僕が残ります。縁が欠けないよう押さえる」 「触らないで。これは石工の仕事じゃない」 「先生の仕事にして、こうなったんでしょう」 また正確だった。 宗一と環は灯りを一つずつ持ち、夜の森へ入った。道の両側を、目覚めた獣たちが同じ方向へ進んでいた。狐も、兎も、背に苔を生やした猪も、環たちを恐れない。森の奥へ急いでいる。枝の上では石鳥が一羽ずつ飛び立ち、北へ向かった。 「毎年ですか」 「こんなに集まるのは、わしも初めて見る」 「三頭が同じ夜に眠り続けたことは?」 「ない」 「原因に心当たりは」 宗一は歩きながら、鉈で低い枝を払った。 「春、雷が落ちた。森のいちばん古い樹が裂けた」 「なぜ最初に言わなかったんです」 「あんたが鹿を診る医者だからだ」 環は立ち止まった。 「鹿だけを診て、何が悪いんです」 宗一も足を止めた。灯りの下で、老人の顔には深い影ができていた。 「足一本を治すなら、それでいい。だが白環森で腹を切るなら、鹿の形をしているもの全部を知らなきゃならん」 「知らないから調べている」 「切ったあとでな」 環は先へ歩いた。怒りで速くなった足は、濡れた根に滑った。宗一は手を出さなかった。北の泉は、森のくぼ地にあった。水面の中央から白い幹が立ち、上半分を雷に裂かれている。枝には葉がなく、角のような二本の梢だけが空へ伸びていた。根元に二頭目の牝鹿が横たわっていた。欠け耳の腹から、黒い糸が一本、水へ垂れている。糸は泉の底へ沈み、白い樹の根まで続いていた。 周囲に集まった獣たちは、鹿へ近づかなかった。円を作り、ただ見ている。環が水へ片足を入れると、泉の底が一斉に光った。白い根が何百本も浮かび上がったのではなかった。石鳥の細い骨、狐の尾骨、猪の牙、鹿の角。それらが土の下でつながり、巨大な獣の血管のように森じゅうへ伸びていた。彼女の靴底へ、こつ、と振動が届いた。 もう一度。 診療舎に残した三叉の音と同じ間隔だった。 五 透の手 北の泉へ着く前、透はなぜ石工になったかを話した。 八歳の時、母親が森で消えた。 木を採りに入り、籠と片方の靴だけが泉のそばで見つかった。獣に襲われた血も、人の足跡もない。村は森へ返ったと言い、宗一は三日探して戻った。翌春、泉から少し離れた斜面に、白い若木が一本生えた。透は毎晩、その幹へ耳を当てた。母の声はしなかった。かわりに、石の中で水が動く音を覚えた。 「だから割れた石の声を聞く?」 「母だと思ってません」 「思っていないと言う人ほど――」 環は続きを飲み込んだ。 患者の家族へ、希望を投影していると何度も言ってきた。死にかけた獣の眼差しへ感謝を読み、尾の動きへ別れを読むな、と。正しい忠告だったが、正しさは時々、相手の最後の場所まで奪う。 「先生は、お母さんを診たことありますか」 「人は診ません」 「そうじゃなくて」 環の母は王都で鳥籠屋をしている。娘が獣医学校へ入った年、店の階段から落ち、左脚を引きずるようになった。環は一度もその脚を触らなかった。人の医師へ連れて行き、処方を確認し、治らない痛みについて母と話さなかった。 専門外だから。 家族だから。 珍しくないから。 理由は三つあった。 「ありません」 透はそれ以上訊かなかった。 北の泉の手前で、若い石兎が倒れていた。半身だけ肉へ戻り、右側は灰色のまま。環は反射で診療槌を出した。核音は正常。口の粘膜も赤い。脚を伸ばすと、腹の下に細い黒糸が見えた。三頭の牝鹿から森へ伸びるものと同じだった。 「増えている」 環は兎を抱き上げた。 一匹の病ではない。森の根が弱り、熱を借りる獣が増えている。雷で裂けた母樹の代わりを、妊娠した鹿だけでなく小さな獣まで支えていた。 「これを全部、病院へ運ぶつもりですか」と透。 環は兎の軽さを腕に感じた。生きた石生獣は重いはずなのに、半分しか重さがない。 「置けば朝までに死ぬかもしれない」 「持っていけば、森から切れるかもしれない」 二人の間で、兎の鼻が動いた。 宗一が地面へ手を置いた。 「糸はまだつながっている。ここへ寝かせろ」 落葉を集め、兎の石側を下へして包む。透が赤い糸を低い枝へ結んだ。帰りに見つけるための印だった。 戻る道。 環はようやく老婆の言葉を理解した。赤い糸は鹿のためではない。患者を自分の場所へ運び去る人間が、もとの場所を忘れないためにある。彼女は診療鞄から王都の白いラベルを出した。症例番号を書く紙だった。赤い糸の隣へ結びかけ、やめた。 白い紙は夜露を吸い、手の中で丸まった。 六 名をつける刃 環は泉の縁へ膝をつき、欠け耳の腹に触れた。殻は冷たい。しかし、内部から伝わる振動は強い。鹿の核音、その横に一つ、泉の底から返る低い波。二つは少しずつ速さを合わせていた。 「寄生ではない」 口に出すと、胸のどこかがしぼんだ。病でなければ、彼女が治すものはない。新種の病名も、王都で読み上げる論文も、白い壇上で訂正される過去もない。 宗一は水面を見たまま言った。 「何だ」 「胎仔が育つには、母体の核だけでは熱が足りない。森の根を借りている。昼の石殻は、そのあいだ外敵と乾燥から守る器です。夜に肉へ戻らないのは……戻れないんじゃない。戻らない」 「三頭とも、自分で選んだのか」 「選択かどうかは分かりません。身体の働きかもしれない。でも少なくとも、病変ではない」 宗一が初めて環を見た。 「なら、切ったものを戻せ」 北の空がわずかに薄くなっていた。夜明けまで二刻もない。環は欠け耳の腹を調べた。滑らかな継ぎ目が、肩から脇腹へ大きく弧を描いている。三叉と同じだ。その線は手術痕ではなかった。時が来れば殻が自然に開き、森へ仔を渡すための縫い目なのだ。雷で母樹が裂け、根の力が足りない。三頭が殻を閉じたまま、互いに足りない熱を分けている。 「診療舎へ戻る。三叉の仔を森へつなぎ直します」 「何が要る」 「白い樹の樹脂。根に近い、まだ乾いていないところから」 宗一は鉈を抜いたが、動かなかった。 「母樹をさらに傷つける」 「少しだけです」 「少し切って、足りなければ?」 環は泉の中へ入り、裂けた幹を見上げた。傷口から乳色の樹脂が滲んでいる。三叉を救うには、掌一杯は要る。若い樹なら塞げる傷でも、この老木には致命傷になりうる。腰の鞄には、王都から持ってきた銀糸があった。石殻の亀裂を縫う最高級品で、一本に獣医師の月給ほどの値がつく。生体へ馴染むが、森とのつながりを戻せる保証はない。環は樹脂を小指の先ほどだけ採った。 「それで足りるのか」 「足りなくても、これ以上は切らない」 帰り道、獣の群れは二人の後ろをついてきた。診療舎の戸は開いていた。透が床に座り、三叉の腹へ両手を当てている。毛布の下から黒い糸が伸び、彼の手首へ絡みついていた。 「離れて!」 「離すと開きます」 石殻の切り口は、環が出たときより指二本ぶん広がっていた。内側の仔鹿が動くたび、乳白色の塊が押し上げられる。透の指先は冷え、爪が紫色になっている。環が糸を外そうとすると、彼は首を振った。 「石工は、割れたものの声を指で聞きます。これ、先生を怖がってる」 「鹿がそう言った?」 「先生が近づくと固くなる」 環は反論しかけてやめた。三叉の核音は、彼女が刃を並べたときだけ確かに速くなっていた。 「私が怖いんじゃない。これが怖い」 環は刃を布で包み、診療箱の底へしまった。透の肩から力が抜けた。黒い糸も、ほんの少しゆるんだ。床へ道具を並べる。銀糸、曲針、泉の水、わずかな樹脂。縫う場所は石なのに、縫い目の内側では森が呼吸している。獣医学の教本にも、石工の伝承にも手順はない。環は墨壺から筆を取り、三叉の殻へ線を引いた。どこへ針を通すか、黒い糸の束を避け、反響を聞きながら決める。 「それは何の印です」透が訊いた。 「間違えた場所の印」 「切った線を消すんじゃないんですか」 「消したら、また同じところを切る」 七 三つの鼓動 最初の針は折れた。 二本目は石殻を抜けたところで黒い糸を巻き込み、三叉の全身を震わせた。環はすぐに糸を切り、やり直した。外では鹿の群れが舎を囲んでいる。蹄が土を掻くたび、床下の水路がかすかに波打った。石鳥が屋根へ降り、羽根から雲母の粉を落とした。森じゅうが、彼女の指先を見ているようだった。 「先生、東が白い」 透が窓を見た。 「見なくていい。こっちを押さえて」 環は銀糸へ樹脂を薄く塗った。樹脂は体温で軟らかくなり、黒い糸と触れた瞬間、淡い緑に光った。 つながる。 だが殻の縁が合わない。内部の乳白色の塊が大きすぎる。 「仔を一度、外へ出すしかない」 宗一が首を振った。 「まだ早い」 「このまま縫えば潰します」 「出せば乾く」 環は仔鹿の耳を見た。半透明だった輪郭に、もう細かな毛が浮いている。背から伸びる三本の糸は、母鹿の核、泉の根、乳白色の塊へつながっていた。どれが臍で、どれが血管で、どれが森なのか、分けることはできない。 透が石工の鏨を持ち上げた。 「殻を削れます」 「薄くしたら朝の熱に耐えない」 「外じゃなく、内側を」 環は彼の言葉を理解した。閉じないのは仔が大きいせいだけではない。切断面がまっすぐすぎるのだ。自然な殻の継ぎ目は、互い違いの細かな歯を持つ。環の刃がそれを削ぎ、平らな二枚の壁にしてしまった。石工は割れを戻すとき、縁を合わせるだけでは足りない。新しい噛み合わせを彫る。 「鹿を傷つけずにできますか」 「先生よりは」 今度は環が笑いかけ、笑う時間が惜しくてやめた。透が鏨を当てる。環は槌を持った。小さく打つたび、石片が米粒ほどに落ちる。透は目を閉じて指へ返る振動を読み、次の場所を示した。宗一は毛布で仔鹿を覆い、自分の両腕の熱を渡し続けた。三人の息が合うまで、何度も失敗した。 東の窓が灰色になった。 森の獣たちが静かになる。夜の身体の終わりを感じている。最後の噛み合わせを彫ったとき、三叉の後脚から石化が始まった。毛の一本ずつが白く硬まり、朝が背を上がってくる。 環は切り口を閉じた。 まだ指一本ぶん隙間がある。 「押します」 「仔が――」 「押さない。呼びます」 環は槌の革側で、三叉の胸を叩いた。 コン。 泉の水路の向こうから、こつ、と返る。 もう一度、今度は少し速く。 コン、コン。 こつ、こつ。 腹の内側で仔鹿が身を縮めた。乳白色の塊が一度沈み、殻の縁が合った。透が押さえる。環は針を通した。銀糸が一針ごとに緑へ変わり、石の中へ沈んでいく。黒い糸が寄り集まり、縫い目を内側から包んだ。朝の白さが三叉の首へ届く。環の指も樹脂で殻へ貼りつき、離れなくなった。 「手を切れ」と宗一が言った。 環は左手で刃を探った。指の皮を一枚残して手袋を切り、引き抜く。血が石の表面へ落ちた。黒い糸が切り口からのぞき、血の一滴を吸った。 殻が閉じた。 朝日が窓へ差し、三叉は完全な石になった。 誰も動かなかった。 環の右手から血が落ちる。透は床へ座り込み、宗一は毛布を抱えたまま鹿を見ていた。 環は診療槌を拾った。 胸を叩く。 コン。 長い沈黙のあと、こつ、と一つ返った。 それから、もう一つ。 さらに遅れて、小さな三つ目。 三叉の核。仔鹿の心臓。森の根。どれがどれか、環には分からなかった。 八 夜の名 朝の白環森は、昨夜のことを知らない顔をしていた。獣たちは道の脇で石像になり、鳥は枝へ戻っている。月泉舎の前には三頭の牝鹿が並び、三叉の脇腹だけに銀色の太い縫い目が残った。若い鹿と欠け耳は、北の泉へ運んだ。殻を開かず、白い樹の根元へ寝かせた。二頭の腹に耳をつけると、内側の音は夜明けより落ち着いていた。環は舎の机で、王都から持ってきた観察帳を開いた。頁の上には、昨夜までに考えた題が三つ並んでいる。 〈白環森石生鹿に発生した集団性肉化不全〉 〈未知菌糸による核寄生症〉 〈牝鹿三例に見る石眠りの異常〉 どの題も、刃と同じだった。名をつけた途端、名に合わない部分を切り落とす。透が戸口へパンと山羊乳を置いた。右の手首に、黒い糸の跡が細い輪になって残っている。 「病名、決まりましたか」 「病気ではありませんでした」 「じゃあ、何の名前をつけるんです」 環は三つの題を墨で塗った。 「つけません」 透はあからさまに疑った顔をした。 「先生なのに?」 「先生だから、たぶんまたつけたくなる。そのときは、あなたが止めて」 「給金をくれるなら」 「高い?」 「王都の獣医師よりは安いです」 宗一の笑い声が、泉の方から一度だけ聞こえた。環は観察帳の新しい頁へ、切り口の形を描いた。病名も結論も書かなかった。銀糸の本数、樹脂の量、三叉が痛がった場所。自分が最初の切開をしたことも、線を短くせずに描いた。昼のあいだ、三叉は動かなかった。環は何度も胸を叩きたくなったが、槌を箱へしまった。音を確かめるたび、それを自分の発見にしてしまいそうだった。夕刻、空が紫へ変わった。枝の石鳥が目を開け、狐が白い息を吐く。三叉の脚へ亀裂が走り、灰色の表面が柔らかな毛へ戻っていった。 銀の縫い目だけは消えなかった。牝鹿は前脚を折り、ゆっくり立った。透が歓声を上げかけると、宗一が口を塞いだ。三叉は人間たちを見ず、森の匂いを嗅いだ。脇腹の傷を一度舐め、北の泉へ向かって歩き出す。 環はあとを追わなかった。 開いた戸口の前で膝をつき、鹿が木々の間へ消えるまで見送った。石の森は暗く、どの枝も同じ黒さだった。やがて姿は見えなくなり、足音も途絶えた。それでも地面へ掌を置くと、土の奥から三つの鼓動が伝わってきた。一つは速く、一つはゆっくりで、最後の一つは二つを真似るように、ときどき間違えた。 環は数えなかった。

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