FFAVENIA

小説 · text · 2026-09-06

空室の家族

月瀬 灯

第一章 広く見える部屋 空室を広く見せるには、入口より半歩だけ中へ入る。 壁際まで下がると、扉の枠が写り込む。前へ出すぎると、床が狭くなる。レンズは十六ミリ。水平を取り、窓の外へ露出を合わせ、暗い室内はあとで持ち上げる。 瀬尾真帆は、誰も住んでいない部屋を、誰かが住みたくなる形へ撮る仕事をしていた。 白樺台コーポは築四十六年。外壁は薄い桃色に塗り直されているが、廊下の排水溝と鉄の手摺りには古さが残る。 全四十八戸。 退去済み十二戸、居住中三十六戸。 建物売却の資料に使うため、管理会社の東和住居から、全戸の現況撮影を依頼された。 「生活感は避けてください」 担当の三枝は言った。 「居住中の部屋も?」 「人物、仏壇、薬、家族写真。個人を特定できるものは写さない。空室は、荷物があっても可能な範囲で外へ出して」 「何の資料ですか」 「所有者向けの資産評価です」 資産評価の写真に、人間は邪魔だった。 真帆は四階の四〇一号室から順に撮った。 四〇六まで終え、四〇七の前で鍵束を確かめる。 管理表には〈空室 平成二十三年五月より〉。 十五年近く、人が住んでいない。 鍵を回すと、抵抗なく開いた。 玄関に靴はない。 六畳の台所兼居間。壁際に長机と、形の違う椅子が八脚。冷蔵庫、食器棚、湯沸かし器。奥の和室には家具も寝具もなかった。 窓を開ける。 空室特有の、閉じた埃の臭いがしない。 流しの水切り籠に、伏せた茶碗が七つあった。 底から、まだ水が落ちていた。 第二章 四〇七号室 真帆は三枝へ電話した。 「四〇七は使用中ですか」 「空室です」 「食器と家具があります」 「残置物でしょう」 「茶碗が濡れています」 三枝は少し黙った。 「隣の住人が、水道を使うことがあるのかもしれません」 「鍵を持っている?」 「管理鍵以外は回収済みです」 「無断使用なら、先に確認してください。私は現況を撮るだけです」 「その現況を撮ってください」 声が変わった。 売却用の明るい写真ではなく、使用の証拠を求めている。 「依頼範囲が違います」 「追加費用は出します。食器、家具、水道。人が出入りした形跡を、日付が分かるように」 真帆は電話を切った。 台所の時計は止まっていた。撮影日時は画像ファイルに残るが、時計が写っても、その時刻に撮った証拠にはならない。 椅子を数えた。 八脚。学校椅子、籐椅子、肘掛け付き、子ども用の低い木椅子。買い揃えたものではない。 長机は、食卓を二台つないでいる。 食器棚の扉を開ける。 皿は十二枚。湯呑み九つ。欠けた汁椀、樹脂の幼児用コップ、持ち手を太く巻いたスプーン。 冷蔵庫の電源は入っていた。 中は空だった。 扉の内側に、何かを剥がした四角い跡がある。 真帆はカメラを構えた。 一枚目、部屋全体。 二枚目、濡れた茶碗。 三枚目、冷蔵庫の跡。 撮るたびに、誰かの生活が違反の形へ整っていく。 和室の壁には、床から六十、八十、百二十センチほどの高さに、薄い手の跡があった。大人が掃除で触れる位置ではない。 子どもの手。 一つではない。大きさも古さも違う。 押入れは空だった。 奥板に、小さな鉛筆書きがある。 〈ここはだれのいえ〉 その下へ、別の筆圧で書かれていた。 〈みんなの〉 第三章 夕食の盆 四〇八号室の表札は、高桑。 午前の撮影では応答がなかった。 真帆は四〇七の鍵を閉め、廊下の突き当たりから建物外観を撮った。午後五時を過ぎると、春の日は西棟の陰へ入る。 機材を片付けていると、階段から女が上がってきた。 六十代。両手に、大きな木の盆を持っている。煮物、焼き魚、汁椀。小鉢まで八人分あった。 「撮影の人?」 女は真帆の三脚を見た。 「東和住居から来ました。瀬尾です」 「高桑佐和です。四〇八」 佐和は鍵束から一本を選び、四〇七を開けた。 「その鍵は、管理会社から?」 「ずっと預かってます」 「管理表では、回収済みです」 「そう書いた人に訊いて」 佐和は盆を長机へ置いた。 「ここで食事をするんですか」 「食べる人が来れば」 「誰が?」 「食べる人」 同じ答えを、少しだけ柔らかく言った。 真帆はカメラを鞄へ入れた。佐和の許可なく撮れば、現況写真ではなく監視になる。 「管理会社から、使用の形跡を撮るよう頼まれました」 「撮った?」 「濡れた食器と、家具を」 「人は撮ってない」 「会っていません」 佐和は八つの椅子を、机へ寄せた。 「今日、ここへ誰か住みますか」 「住まない」 「毎晩使う?」 「使わない日もある」 「家族で?」 佐和は、子ども椅子の座面を布巾で拭いた。 「家族って、どこからですか」 「質問の意味が」 「住民票? 名字? 食べる回数?」 四〇六の扉が開いた。 白髪の女性が顔を出す。 「佐和ちゃん、今日は木曜?」 「水曜ですよ、房江さん。鰆です」 「嘉一さんは」 「もう来ます」 房江はスリッパのまま四〇七へ入った。 佐和が肘を支える。 二人の名字は違う。 「写真の人も食べる?」と房江が訊いた。 「仕事の人です」 「仕事でもお腹は空くでしょう」 真帆は断った。 廊下を戻ると、四〇五から杖の音がし、階段の下から小学生の声が聞こえた。 食べる人たちが来る。 真帆は、四〇七の扉が閉じるところを一枚だけ撮った。 外側からは、十五年間誰も住んでいない部屋に見えた。 第四章 十五年前の記事 白樺台コーポを検索すると、最初に女児失踪の記事が出た。 〈四〇七号室から消えた九歳〉 高井莉央。小学三年生。 十五年前の五月十四日、母親が夜勤から戻ると姿がなかった。玄関は施錠され、ベランダは四階。争った跡なし。父親は別居中で、当初から事件性を訴えた。 写真の少女は、左耳だけが髪から出ていた。耳輪の上が少し尖っている。 記事は一週間で途切れていた。 発見、遺体、逮捕、捜索打切り。どの言葉もない。 地域の未解決事件をまとめる個人サイトでは、今も〈神隠し〉と呼ばれている。 コメント欄には、母親犯人説、住民共犯説、床下の隠し部屋説が並ぶ。建物の見取り図まで掲載されていた。 四〇七の隣は四〇八、高桑佐和。 当時から同じ住人だった。 真帆は管理会社へ、過去の入居台帳を請求した。 三枝から返事が来た。 〈個人情報のため提供不可。四〇七は心理的瑕疵告知の対象ではありません〉 尋ねていないことまで否定している。 真帆は撮影データを確認した。 広角で撮った四〇七。長机、八脚の椅子、濡れた茶碗。窓際に、写真を撮ったときには気づかなかった白い紙が落ちている。 拡大する。 服薬表だった。 〈朝 田嶋房江〉 〈夕 白戸嘉一〉 〈頓服 金城律〉 姓の違う三人。 画像の端には、冷蔵庫から剥がされた紙の裏が写っている。佐和が置いた盆の風で落ちたのだろう。 真帆は三枝へ電話した。 「四〇七は、共同の食堂として使われています」 「証拠がありますか」 「食事を運ぶところを見ました」 「撮影は」 「扉だけ」 「人も撮ってください」 「売却資料ですか、それとも契約違反の調査ですか」 三枝は言葉を選んだ。 「長期空室へ第三者が出入りしているなら、安全確認が必要です」 「消防上の問題なら、避難経路と定員を確認するべきです。誰が食べたかの顔写真ではない」 「居住実態を確認してください」 「別料金でも受けません」 電話を切ったあと、三枝から新しい撮影指示書が届いた。 〈四〇七号室 夜間使用状況。人物を含む〉 発注額は、最初の三倍だった。 真帆は受注承認を押さなかった。 第五章 母の部屋 真帆の母が住んでいた部屋も、いまは写真の中で空室になっている。 二年前、認知症が進み、介護施設へ移った。 不動産会社へ返すため、真帆が片付けた。 冷蔵庫の薬カレンダー、父の位牌、母が同じ話を何度も書いたメモ、浴室の椅子。全部を運び出し、壁の画鋲穴を埋め、カーテンを外した。 最後に自分で撮った。 南向き、明るい二DK。即入居可。 写真では、母が三十二年暮らした時間は、広さを邪魔する影でしかなかった。 「今日は、どなた?」 施設へ面会に行くと、母は真帆へ訊いた。 「真帆です。娘の」 「娘は、写真を撮る仕事なの」 「そうです」 「じゃあ、あなたね」 母は納得した。 テーブルに、四人分の湯呑みが置かれている。母以外の三人は、別の入居者だった。 「家族でお茶を飲んでたの」と母が言う。 「この人たちが?」 「そうよ。名前は忘れたけど」 職員が謝った。 「最近、一緒に過ごす方を皆さん家族と呼ぶんです」 「困っていません」 真帆は答えた。 帰り際、母が訊いた。 「うちへ帰る?」 「今日は、ここに泊まります」 「私のうちは空いてるのに」 もう別の家族が住んでいる。 それを説明すると、母は初めて聞いたように驚き、五分後にまた同じことを訊いた。 真帆は白樺台コーポへ戻った。 管理会社の撮影は、まだ二日残っている。 四〇七の廊下には、食事の匂いが漂っていた。 扉の向こうから笑い声がする。 真帆はカメラを出さず、呼び鈴を押した。 第六章 八つの椅子 佐和は真帆を中へ入れた。 長机には七人いた。 佐和、苑、房江、嘉一、杏奈、律。もう一人は、三階に住む大学生で、房江の夜間見守りを手伝っている。 八脚目が空いていた。 「写真の人の席」と房江が言った。 「誰でも座る席です」と苑が訂正した。 高桑苑、三十七歳。肩までの髪を左耳へかけている。 耳輪の上が、少し尖っていた。 十五年前の記事の少女と同じ形だった。 真帆は見続けないよう、空いた椅子へ座った。 「管理会社から、ここを使っている人の写真を頼まれました」 食卓の手が止まる。 「撮ったんですか」と杏奈。 「撮っていません。依頼も受けていません」 「じゃあ、なぜ来たの」 「四〇七を何に使っているか、聞きたい」 嘉一が汁を飲んだ。 「見れば分かる。飯を食う」 「誰の部屋ですか」 「誰のでもない」と苑。 「契約者は」 「いません」 「鍵は」 「母が旧管理人から預かりました」 佐和が、鰆を真帆の皿へ載せた。 「管理会社に話せば、ここは閉められますか」 「私が決めることではありません」 「でも写真を撮れば、決める人へ渡る」 「はい」 「撮らなければ、無いことになる」 「写真がなくても、ここはあります」 「会社の紙では?」 真帆は答えられなかった。 房江が立ち上がろうとした。 「帰らないと。娘が待ってる」 苑が手を取る。 「今日は私が送ります」 「あなた、どなた?」 「苑です」 「娘?」 苑は一瞬だけ黙った。 「今夜は、そうです」 房江は安心して座り直した。 食後、大学生が房江を四〇六へ送り、嘉一が薬を飲んだ。杏奈と律は三階へ戻る。苑は食器を洗い、佐和は明日の献立を冷蔵庫の跡へ貼った。 木曜。房江は魚を骨なし。嘉一は塩分六グラム。律は蕎麦不可。 「ここで寝る人はいません」と苑は言った。「だから、空室です」 「毎日食べる?」 「誰かが必要な日」 「房江さんの見守り?」 「それだけではありません」 「十五年前も?」 苑の手が止まった。 真帆はカメラを膝の上へ置いたまま言った。 「高井莉央さんですか」 第七章 見つかった子ども 「違います」 苑はすぐに答えた。 佐和が流しの水を止めた。 「真帆さん」と彼女は言った。「その質問を、どこで覚えたの」 「記事です。耳の形が似ていた」 「写真で人を決めるの?」 「決めていません。訊いています」 「管理会社に?」 「まだ話していない」 苑は濡れた手を布巾で拭いた。 「警察は、生きていると知っています」 佐和が苑を見た。 「言わなくていい」 「もう父は死んでる」 「ネットの人は残る」 苑は真帆の正面へ座った。 「私は高井莉央でした。九歳のとき、ここから母と逃げました」 「失踪ではなかった?」 「父にとっては」 父親は、別居後も母と苑を探した。学校の門で待ち、母の勤務先へ電話し、警察へ母が子どもを誘拐したと訴えた。 保護命令が出るまで、支援団体が二人を別の県へ移した。 「この部屋から、どうやって」 「普通に玄関から」 「施錠された室内から消えたと」 「父がそう話した。私たちは四〇七に住んでいません。四〇二にいた」 記事は、最後に目撃された場所を四〇七としていた。 「なぜ、この部屋が出たんですか」 佐和が答えた。 「父親が来た夜、住民みんなが莉央をここで夕食に混ぜたの。どの家の子か分からないように」 父は各戸を回り、娘を隠しているかと訊いた。 住民は、四〇七に集まっていた子どもたちを指し、全員うちの子だと答えた。 翌朝、苑と母は支援員の車で出た。 警察は半年後、生存を確認した。保護先を父へ知らせず、捜索届だけを終了した。報道は、見つかった事実を小さく伝えたが、ネットの記事は更新されなかった。 「母は三年後に亡くなりました」と苑。 「お父さんに?」 「病気です。逃げても、幸せになる話が自動で続くわけじゃない」 苑は児童養護施設へ入り、高校卒業後、佐和と再会した。二十六歳のとき、成人養子になった。 「だから家族?」 「戸籍でも、今は」 「この部屋は、あの夜のために?」 「始まりは。でも、子どもを一人隠すだけなら、十五年も残しません」 佐和は献立表へ、翌日の担当を書いた。 「逃げる場所は、一回使ったら終わりじゃないの」 第八章 空室の用途 四〇七を最初に共同利用したのは、苑と母が逃げた夜だった。 当時の入居者は、空室の鍵を管理人から借り、子ども八人へ夕食を食べさせた。父親が来ても、どの世帯が莉央を守っているか分からないようにするためだった。 管理人は鍵を返せと言わなかった。 半年後、一人暮らしの住民が手術を受けた。退院後、家族はいない。四〇七へ昼食を運び、交代で見守った。 翌年、夜勤の母親が子どもを置いて働かざるを得なくなった。子どもは放課後、四〇七で宿題をした。 誰かの部屋へ頼ると、その家族だけの負担になる。 誰の部屋でもなければ、鍵を持つ人が交代できた。 「管理会社は知っていたんですか」 「旧管理人は」と佐和。「水道代も電気代も、共用部につけた」 「契約書は」 「ない」 「火災が起きたら、定員も避難責任も分からない」 苑は頷いた。 「だから、夜は寝ない。暖房は電気だけ。調理は四〇八。避難できない人を一人にしない」 「それでも安全とは限りません」 「分かっています」 理想化していない答えだった。 「房江さんは、介護保険を使っていますか」 「要支援二。夜間サービスは対象外です」 「嘉一さんは家族?」 「三十年前に一緒に暮らしていた人。でも婚姻届は出していない。いまは別の部屋」 嘉一には、房江の医療同意権も、賃貸契約の承継権もない。 「杏奈さん親子は」 「住民票を移すと、元夫に住所が伝わる可能性がある。律くんは学区外扱いで、放課後教室を使えない」 四〇七は、制度の欄からこぼれた時間をつなぐ部屋だった。 「売却後も必要ですか」 「必要です」 「この建物は取り壊されるかもしれない」 「だから困ってる」 「管理会社は、共同利用を契約違反にするつもりです」 佐和は驚かなかった。 「写真を頼まれたんでしょう」 「はい」 「撮ってください」 苑が佐和を見た。 「母さん」 「無いことにされたら、次の部屋も要らないことになる」 「写った人は、違反者になる」 「写らなければ、家族じゃない人になる」 真帆はカメラを机へ置いた。 撮るか撮らないかでは足りなかった。 誰が写真の意味を決めるかまで、選ばなければならない。 第九章 写ることへの同意 真帆は撮影同意書を八枚作った。 撮影目的。写す範囲。渡す相手。公開の可否。顔を隠すか。撤回期限。 通常の物件撮影では使わない書類だった。 「字が多い」と嘉一が言った。 「分からないまま署名しないためです」 「読んでも分からん」 苑が一項目ずつ読んだ。 房江は途中で、何の紙かを忘れた。 「写真、きれいに撮ってくれるの?」 「きれいに見せる写真ではありません」 「じゃあ、嫌」 房江は署名しなかった。 苑が困った顔をする。 「昨日は撮ってほしいと言ってたんです」 「昨日の同意を、今日まで使えません」 真帆は答えた。 房江の判断能力がいつも失われているわけではない。分かる日と、分からない時間がある。都合のいい返事だけを本人の意思にできない。 「顔を写さず、手と椅子だけなら?」 「私の手?」 「そうです」 「皺があるから嫌」 「では写しません」 房江は満足して煮豆を食べた。 杏奈は、後ろ姿だけなら同意した。律は自分で名前を書いたが、母が顔出しを認めなかった。 「ぼくの家じゃないのに、撮るの?」 「ここで何をしてるか、残すため」 「宿題」 「それを撮っていい?」 「字は撮らないで。間違ってるから」 大学生は顔を含めて同意。嘉一は条件なし。佐和は調理と配膳。苑は、顔を撮らないよう求めた。 「莉央として検索されます」 「分かりました」 「でも、私がここを使っていることは残してほしい」 「手、背中、声をキャプションにできます」 「声は写真に写らないでしょう」 「本人の説明を、写真へ付けます」 真帆は、写真だけで真実になるとは言わなかった。 最初の一枚は、午後六時十二分。 佐和が四〇八から盆を運ぶ。顔は廊下の柱で隠し、八人分の湯気と、二つの部屋番号を同じ画面へ入れた。 二枚目は、八脚の椅子。 空席も含めて撮った。 三枚目は、顔のない手。箸を持つ手、薬を分ける手、宿題を指す手、茶碗を洗う手。 撮影後、全員で画面を確認した。 「狭く見えるね」と佐和。 「実際の広さです」 真帆は広角補正を外していた。 第十章 買う人 翌朝、投資会社の視察が来た。 三枝、建築士、スーツ姿の男女三人。真帆の撮影日程には入っていない。 「空室だけ確認します」 三枝は四〇七の管理鍵を回した。 佐和の鍵は、中から置かれた補助錠で使えなかった。だが朝、食卓は無人。補助錠はかかっていない。 視察者は、長机を見た。 「残置物は撤去ですね」 「入居者が集会に使っている可能性があります」と三枝。 「契約なし?」 「確認中です」 買う側の女性が窓を開け、ベランダへ出た。 「隣戸との隔板、新しい」 「老朽化で交換しています」 「この部屋だけ四回?」 建築士が修繕履歴を見ていた。 三枝は答えなかった。 ベランダの隔板は、緊急時に蹴破って隣へ逃げるためのものだ。四〇七と四〇八の間だけ、十五年で四回交換されている。 「出入りに使った?」 女性が板の下を見た。床に擦り跡がある。 「廊下を歩けない人が、隣から移った時期があります」と背後から苑が言った。 三枝が振り向く。 「無断で入らないでください」 「隣の住人です」 「ここは管理会社の管理区画です」 「鍵を預かっています」 苑は古い真鍮鍵を見せた。 視察者たちの目が変わった。 空室は、利回り計算でゼロだった。無断使用者がいる部屋は、撤去費用と紛争リスクになる。 「撮影は済んでいますか」と買う側の男が真帆へ訊いた。 「現況写真は」 「使用者の写真も?」 「撮影目的を確認してください」 「売却調査です」 「私が受けたのは、物件現況の撮影です。個人調査ではありません」 三枝が真帆を廊下へ呼んだ。 「追加指示を断ったそうですね」 「目的が違います」 「では、すでに撮った写真を納品してください」 「同意のない人物は写っていません」 「食事や食器でいい」 「通常納品分に含めます。ただし、利用実態の証拠として転用する場合、キャプションも一緒に」 「キャプションは発注していません」 「写真だけなら、残置物にも不法占有にも見せられる」 「写真家が用途を決める話ではありません」 「撮影者が用途を知らないふりをする話でもないです」 三枝は声を低くした。 「これは、あなたの正義を展示する仕事じゃない」 真帆は四〇七の奥で、視察者が机の寸法を測るのを見た。 彼らにはもう、食卓ではなかった。 廃棄する家具の体積だった。 第十一章 旧管理人の日誌 白樺台コーポの旧管理人は、十年前に亡くなっていた。 管理人室はいま、清掃道具置場になっている。撮影対象ではないが、真帆は三枝へ鍵を借りた。 「過去資料は本社へ移管済みです」 「室内の現況も、売却資料に必要でしょう」 三枝は不満そうに開けた。 六畳の部屋に、モップ、洗剤、交換用電球。壁の棚へ、古い会計簿が積まれている。 真帆は部屋を一枚撮った。 棚の上段に、背表紙のない大学ノートが二十三冊あった。 「これは?」 「ゴミです」 「撮影のため、動かします」 手に取ると、日付と巡回記録が書かれていた。 旧管理人、久米康三の日誌。 十五年前の五月を開く。 〈五月十三日 高井母子、支援員と面談。父、また駐車場。警察へ〉 〈五月十四日 四〇七鍵、佐和さん。子ども八。廊下灯消す〉 〈五月十五日 母子、五時四十分退去。支店長立会。鍵は佐和さん継続〉 支店長立会。 会社は知っていた。 翌月の日誌。 〈四〇七、水電気を管理室付へ変更。緊急保護・住民互助に使用。火気不可、宿泊不可。支店長、口頭承認〉 契約書ではない。 だが無断でもなかった。 「この日誌を納品資料に入れます」 三枝が手を出した。 「私が預かります」 「撮影前に、頁番号を含めて複写します」 「会社文書です」 「だから、移動前の所在を撮ります」 真帆は棚、ノートの列、該当頁を連続して撮った。三枝の手も写り込んだ。 「消してください」 「手だけなら個人を特定しません」 「私の時計が写っている」 三枝は袖で時計を隠した。 「写真は、あなたに都合よく使えるものではありません」 「あなたにもです」 「分かっています」 その場で画像を二つの記憶媒体へ複製した。一つを三枝へ渡し、もう一つを封筒に入れる。 「住民側へ渡します」 「守秘義務違反です」 「使用承認の当事者です」 「旧支店長の口頭承認に、会社を拘束する効力はありません」 「それを決めるのは、あなたではない」 三枝は日誌を段ボールへ入れた。 その日のうちに、本社法務へ運ばれた。 写真がなければ、最初から棚になかったことにできた。 第十二章 曜日の家族 真帆は一週間、毎晩四〇七を撮った。 月曜は、房江の通院日だった。 苑が病院から連れ帰り、嘉一が粥を作る。佐和は休む。椅子は五脚だけ使われた。 火曜は、律の母が遅番だった。 大学生が算数を教え、二階の夫婦がカレーを持ってきた。房江は辛いものを食べられず、自室で苑と煮麺を食べた。四〇七の食卓に房江はいない。 水曜は八人。 木曜は、誰も来なかった。 房江の体調が悪く、苑と嘉一が四〇六にいた。佐和は四〇八で一人分だけ食べた。 四〇七は本当に空だった。 金曜、杏奈が泣いていた。 元夫側の弁護士から、律との面会交流を求める書類が届いた。避難先の住所は伏せられているが、学校行事の写真から地区を絞られたという。 「苑さんの昔の記事を探してる人が、私たちのことも書いてる」 失踪事件の検証を名乗る配信者が、白樺台コーポを撮影していた。コメント欄で、四〇七にいまも子どもが出入りすると話題になっている。 真帆が廊下の窓から見ると、駐車場に小型カメラを持つ男がいた。 三枝が呼んだ調査員ではない。 「顔を撮られてる?」と律。 「カーテンを閉めよう」 杏奈が立つ。 「学校の写真、ぼくが写りたいって言った」 「律のせいじゃない」 「写らなければよかった?」 真帆はカメラを下ろした。 写ることと、見つけられること。 記録される権利と、隠れる権利は、同じ画面の中で衝突する。 「今日は撮りません」と真帆。 「記録は?」と佐和。 「食事の人数と用途を、文字で残します。写真は外から特定されない部分だけ」 苑は、自分の後ろ姿も撮らないよう同意を変更した。 真帆は撮影済みデータから、窓外の景色、廊下の部屋番号、衣服の特徴を消した閲覧用複製を作った。原本は改変せず、暗号化して保管した。 写真を消せば安全になるわけではない。 残せば正しいわけでもない。 一枚ごとに、誰が見るかを決める必要があった。 第十三章 消防検査 東和住居は、四〇七の共同利用を消防署へ通報した。 査察官が二人来た。 避難経路、暖房器具、延長コード、収容人数、ベランダ隔板。住民は管理会社の嫌がらせだと怒ったが、査察内容は妥当だった。 「長机が、奥の和室から玄関への動線を狭めています」 「動かします」と苑。 「最大八人なら、住宅用火災警報器を追加してください。調理はしていない?」 「隣から運んでいます」 「電気湯沸かし器は」 嘉一が手を挙げた。 「俺が勝手につけた」 「専用回路ではありません。使用を止めてください」 住民は反論せず、湯沸かし器を外した。 問題はベランダだった。 「隔板を日常の通路に使うことはできません」 査察官が言った。 房江が廊下で迷う時期、四〇六から四〇七へベランダ経由で移したことがある。嘉一の膝が悪化したときも、四〇五から二戸分を歩いた。 「非常時の避難方向と逆行します。隔板が破れた状態も長く続いていた」 「廊下を使えば、房江さんが自分の部屋へ戻れないことがあった」と苑。 「事情は分かります。だから、日常利用できる別の動線を整備する必要があります」 「取り壊す建物に、会社が工事をしますか」 三枝が答えた。 「共同利用は契約外です。工事の予定はありません」 「なら閉じろということですね」と佐和。 査察官は首を振った。 「火事のときに亡くならない形へ変えてほしいと言っています」 管理会社の意図が悪くても、指摘まで間違いにはならない。 真帆は、長机の位置を変える前と後で撮った。 通路幅、椅子の脚、警報器の設置高。 住民側の資料に、安全上の不備も入れた。 「不利になる」と嘉一。 「隠したら、会社と同じになります」 「ここが危険な部屋だと決められる」 「危険だった部分と、直した部分を一緒に出します」 写真は、守るために明るく補正することもできる。 その補正が、消した危険を見えなくする。 第十四章 房江の夜 午前二時、真帆の携帯が鳴った。 苑からだった。 房江がいない。 四〇六のベッドは空。玄関の靴もない。廊下と階段を探したが見つからない。 真帆は車で白樺台へ向かった。 警察へ連絡するよう言うと、苑はすでにしたと答えた。 「四〇七は?」 「見ました。いない」 建物の周囲を、住民が懐中電灯で探している。嘉一は杖のまま駐車場へ出ていた。 真帆はカメラを持ってきた。 撮るためではない。前週に撮った廊下と部屋の画像から、房江がよく手を置く場所、歩く方向を確かめるためだった。 月曜の写真。 房江は四〇七を出ると、左へ行こうとして苑に右へ向けられている。 火曜、四〇六の前で、階段ではなく突き当たりを見ていた。 突き当たりの窓から、旧商店街の給水塔が見える。 「娘の家は、給水塔のそばだった」と嘉一が言った。 房江の娘は二十年前に亡くなっている。 給水塔へ向かう道を探した。 午前三時十分、閉店した酒店の軒下に房江がいた。薄い寝巻きの上に、男物のコートを着ている。 「嘉一さんの?」 「玄関に掛けてあった」 苑が肩を抱いた。 「帰りましょう」 「娘にご飯を作らないと」 「明日、一緒に作りましょう」 「あなたは誰?」 苑は答えようとした。 房江が、真帆を見た。 「写真の人。うちを撮った?」 「撮りました」 「私のうち、どれ」 真帆は答えられなかった。 四〇六は契約上の家。四〇七は夜の家。嘉一の四〇五は、かつて二人で暮らした家。 「帰ってから、一緒に見ましょう」 「写真を見れば、分かる?」 「分からない場所も写っています」 房江はその答えで納得した。 翌日、苑は地域包括支援センターへ相談した。 四〇七の見守りだけでは、夜間徘徊を防げない。住民の善意に、房江の安全と苑の睡眠を預け続けることもできない。 小規模多機能型の施設を見学することになった。 「ここを守る話なのに、房江さんを出すんですか」と佐和。 「守るために、本人を閉じ込めたら違う」と苑。 四〇七は家族の代わりになれても、すべての介護にはなれなかった。 第十五章 交換された鍵 週明け、四〇七の鍵が交換された。 佐和の真鍮鍵は入らない。扉には〈管理区画・立入禁止〉の紙が貼られている。 室内の机と椅子は、そのまま見えた。 「食器を返してください」 佐和が三枝へ電話した。 「所有者不明の残置物として確認中です」 「名前を書いてある」 「無断で置かれた物は、手続後に返還します」 「今夜、房江さんはどこで食べるの」 「各戸でお願いします」 各戸でできないから、四〇七があった。 その夜、食卓は四〇八の狭い台所へ移った。 五人入ると、冷蔵庫が開かない。車椅子の住民は廊下から参加した。律は流しの前で宿題をした。 房江は四〇七の前まで歩き、鍵が開かないことを忘れて三度戻った。 「今日はお休み」と苑が言う。 「娘が中にいる」 「いません」 「声がする」 空室から音はしない。 真帆は扉を撮った。 貼紙、傷の新しい鍵穴、廊下に並ぶ食器。 三枝が求めた無断使用の証拠より、閉鎖によって起きた現況だった。 翌朝、管理会社から契約解除予告が七世帯へ届いた。 理由は、共用管理区画への継続的侵入、防火設備の損傷、無断転貸。 「転貸って、誰が借りたことになってるの」と杏奈。 「特定されていません」と苑。 誰も借りていない部屋を、誰かに貸したことにされた。 真帆の契約も解除された。 〈撮影指示不履行および機密資料の第三者提供〉 未撮影分の報酬は支払わないという。 真帆は、すでに撮った四十戸分のデータを保留した。 通常の空室写真を人質にするつもりはない。だが四〇七だけを切り出し、会社の主張へ使わせるつもりもなかった。 納品目録を作り直した。 〈四〇七号室 居住者なし。共同食事・見守り・放課後利用あり。旧管理者承認記録あり。消防上の是正事項あり。現在、管理会社により閉鎖〉 一行の中で、不利な事実も有利な事実も消さなかった。 第十六章 神隠しを撮る人 配信者は、四〇七の閉鎖を知っていた。 動画の題は〈神隠し部屋、十五年後も使用中〉。 ベランダ隔板、夜の盆、子どもの影。望遠で撮った映像に、律の横顔が一秒映っている。 コメント欄で、苑の現在の姓と勤務先を推測する投稿が出た。 真帆は動画配信会社へ、未成年者とDV避難者の安全を理由に削除申請を送った。杏奈の住所を証明する書類が必要と返ってきた。 住所を守るための申請が、住所を出すよう求めている。 「私が出ます」と苑が言った。 顔を隠し、音声を変えて配信者へ連絡する。失踪児本人として、撮影を止めるよう求めるという。 「相手は、本人だと証明しろと言います」と真帆。 「戸籍を見せる」 「高井莉央と高桑苑をつなぐ書類が公開される」 「律くんを守らないと」 「あなたが見つかることと交換にしないで」 苑は怒った。 「隠れていれば守れると、また他人が決めるんですか」 十五年前、支援者と警察が、莉央を見つからない人にした。 必要な保護だった。 同時に、彼女が生きていると自分で話す機会も奪った。 「公表する範囲は、苑さんが決めてください」 真帆は言った。「ただ、顔と戸籍だけが本人証明ではありません」 旧管理日誌、警察の捜索終了通知、支援団体の記録。複数の資料を、弁護士が本人確認したうえで、住所と現在名を出さずに声明を作る方法がある。 苑は弁護士へ相談した。 三日後、声明が公開された。 〈当時の女児は事件被害を避けるため保護され、現在も生存しています。本人は所在と現在の身分を公表しません。白樺台コーポおよび住民を撮影・訪問する行為を中止してください〉 配信者は動画を非公開にした。 謝罪文には、〈未解決事件の真相究明という公益目的〉と書いた。 苑はそれを読んだ。 「私が生きてることは、あの人の真相だったんですね」 自分の人生が、他人の謎の答えにされる。 四〇七を撮る真帆も、同じことをしている可能性があった。 第十七章 七通の解除予告 住民側の弁護士は、七通の解除予告を机へ並べた。 文面は同じだが、契約条項が違っていた。 高桑家は無断転貸。 田嶋房江と白戸嘉一は共用部の目的外使用。 杏奈親子は契約者以外の継続居住。 大学生は危険行為への加担。 残る三世帯は、防火設備の損傷。 「誰が何をしたか、会社も分けられていません」 弁護士の戸倉は言った。「集団で圧力をかけ、誰かが先に退去するのを待つ文書です」 「違反はしてるんでしょう」と嘉一。 「ベランダ隔板の破損と、無断設置の湯沸かし器は是正が必要です。だからといって、七世帯すべての契約解除になるとは限りません」 「四〇七の使用は?」 「旧管理人日誌が真正なら、所有者側の承認があった。契約形態は曖昧でも、十五年間の使用と公共料金負担を会社が知っていた可能性が高い」 戸倉は真帆の写真を一枚ずつ確認した。 「この写真の原本は」 「私が持っています。複製を東和住居にも渡しました」 「住民の食事写真は?」 「同意範囲ごとに分けました。管理会社へは渡していません」 「隠していると言われます」 「顔を消した閲覧用なら渡せます。ただし本人の説明文と一緒に」 「写真に説明を足せば、中立ではなくなると反論される」 「説明のない写真も中立ではありません」 戸倉は少し笑った。 「法廷では、そういう顔で答えてください」 杏奈は解除予告を折り畳んだ。 「訴訟になれば、名前が出ますか」 「原則、当事者名は出ます。閲覧制限を申し立てますが、必ず認められるとは言えません」 「元夫に見つかる」 「あなたの部分だけ、別の交渉にできます」 「別にしたら、弱くなる?」 「なる可能性はあります」 共同の部屋を守るために、全員が同じ手続へ入れば、住所を隠す必要がある人だけが危険になる。 一緒にいることが、常に守りではない。 「私と律は、原告になりません」と杏奈は決めた。「でも匿名の陳述書は出したい」 佐和は反対しなかった。 「同じ家族なら一緒に闘え」とは言わなかった。 その夜から、杏奈親子は四〇七の代わりに、少し離れた支援団体の放課後室を使った。 食卓の椅子が二つ空いた。 第十八章 水道の名義 四〇七の水道使用量は、十五年間、一度もゼロになっていなかった。 市水道局へ情報公開請求を出すと、月ごとの検針記録が届いた。 夏は一・二立方メートル、冬は〇・八。住居としては少ないが、手洗いと食器洗いなら合う。 請求先は〈白樺台コーポ管理室〉。 電気も共用契約に組み込まれていた。 東和住居は、合併前の旧会社から管理を引き継いだ七年前、契約を更新している。四〇七が空室で、使用実態がないと信じたなら、水道と電気を止めるはずだった。 「検針値が小さいから見落とした」と三枝は回答した。 「七年、毎月?」と戸倉。 「自動支払です」 「共用部へ付け替える手続は、引継資料にあるでしょう」 「保存期限を過ぎています」 真帆は旧管理日誌の写真を拡大した。 付け替えを記した頁の端に、青い受付印が半分写っている。 〈東和住宅管理 移管確認〉 いまの東和住居が社名変更する前の印だった。 「この頁を見ている」と真帆。 三枝は、画像では印の全体が確認できないと反論した。 「原本を出してください」 「法務保管中です」 「裁判所へ提出できますね」 三枝は答えなかった。 解除予告に対する仮処分審尋の前日、東和住居は七世帯への予告をいったん撤回した。 使用を認めたからではない。 〈事実関係を再調査するため〉。 売却予定は変わらなかった。 むしろ、退去説明会の日程が二週間早まった。 「追い出す理由を、違反から建替えに変えただけ」と苑。 「建物の老朽化は事実です」と戸倉。 コンクリートの中性化、給水管の腐食、耐震不足。補修して住み続ける費用は高い。 「では、何を争うんですか」 「出るか出ないかだけではありません。出るなら、何を失うかを計算へ入れさせる」 四〇七は家賃を払う住戸ではない。 会社の補償表では、失うものがゼロだった。 第十九章 移転先一覧 東和住居が提示した代替住戸は、市内十一か所に散らばっていた。 高桑家は西区。 房江は北区の高齢者住宅。 嘉一は現住所から二駅先。 杏奈親子は審査対象外。契約者名義の問題があるため、自分で探すよう書かれている。 大学生には、単身者用の新築物件。 一人ずつ見れば、面積も家賃も現在より悪くない。 地図へ印をつけると、最遠で十八キロ離れる。 「房江さんの夜間見守りは」と苑。 「高齢者住宅に常駐職員がいます」と三枝。 「嘉一さんは面会できますか」 「ご家族であれば」 「家族ではないと、そちらが言ってる」 「施設の運用は弊社の管轄外です」 「杏奈さんの部屋は」 「現在の賃貸借契約上、入居者として確認できません」 「四〇七の代わりの部屋は」 「契約住戸ではありません」 説明会の大きな画面に、移転先一覧が映っている。 真帆は地図を撮った。 一戸ずつを紹介する資料では、選択肢に見える。 一枚の地図では、関係を切る配置に見えた。 「近くへまとめることはできますか」 戸倉が訊いた。 「空室状況によります」 「同じ建物でなくても、徒歩圏内に」 「個々の契約条件を優先します」 「個々が希望しているのは、近接です」 三枝は、個別相談で伺うと答えた。 個別にすれば、四〇七の必要性は消える。 説明会後、真帆は三枝を呼び止めた。 「売却先は、共同利用を知っていますか」 「守秘事項です」 「視察で見ています」 「残置物のある空室として」 「住民が使っていると説明したでしょう」 「可能性です」 言葉が後退していた。 「契約では、居住中三十六戸、空室十二戸?」 三枝は視線を逸らした。 空室十二戸なら、買主は十二戸をすぐ改装し、賃料を上げられる。四〇七が住民の共同施設なら、一戸分の収益だけでなく、移転補償と権利調整が増える。 「あなたの写真は、空室十二戸の証明に使われます」と三枝は言った。 「四〇七は居住者なしと書きます」 「それで十分です」 「利用なしとは書かない」 「契約上、利用は存在しません」 窓のない説明会室で、三枝の背後だけが白く飛んでいた。 真帆は、そういう補正を何百回もしてきた。 第二十章 椅子の行方 閉鎖から十日後、四〇七の家具がなくなった。 長机、八脚の椅子、食器棚、冷蔵庫。壁の献立表も剥がされている。 「廃棄したんですか」 佐和が管理室で訊いた。 「残置物保管倉庫へ移しました」と三枝。 「返して」 「所有権を証明してください」 椅子は住民が一脚ずつ持ち寄った。領収書などない。 子ども椅子は、苑が九歳のときに座ったものだった。佐和の娘が使い、そのあと莉央が使った。 「底に名前があります」と苑。「高桑真理」 佐和の実娘の名だった。現在は海外に住んでいる。 「本人の所有権確認が必要です」 「四十年前の子ども椅子です」 「古さでは決まりません」 法的には間違っていない。 倉庫の場所は開示されなかった。 真帆は撮影データから、椅子を一脚ずつ切り出した。 籐椅子の背に、嘉一が巻いた白い紐。 学校椅子の脚に、大学の廃棄備品番号。 肘掛け椅子の裏に、房江の娘の住所シール。 低い木椅子の底は、撮っていない。 「撮り足りなかった」と真帆は言った。 「家具カタログじゃないんだから」と佐和。 「写真があれば、返せたかもしれない」 「写真がなくても、私たちの椅子です」 また同じところへ戻った。 存在と証明は違う。 佐和は海外の娘へ連絡し、古いアルバムの写真を送ってもらった。幼い娘が木椅子に座っている。底の名は見えないが、背の傷が一致した。 ほかの椅子も、住民の写真から探した。 誕生日、葬式後の集まり、退院祝い、宿題。 部屋を撮ったつもりの写真に、椅子が写っていた。 人を撮ったつもりの写真の端に、所有の証拠が残っていた。 東和住居は、八脚すべてを返した。 食器棚と長机も、所有者を特定できないまま、住民自治会の物として返還された。 四〇七には戻せない。 一階集会室へ運んだが、そこは午後七時で施錠される。 夜の家族には、使えない時間だった。 第二十一章 旧支店長 十五年前の支店長、倉持健吾は市内の介護施設にいた。 八十六歳。脳梗塞後の失語があり、長い会話は難しい。 戸倉、苑、真帆の三人で面会した。 「四〇七号室の共同利用を承認しましたか」 戸倉が訊いた。 倉持は答えない。 旧管理人日誌の写真を見せる。 〈支店長、口頭承認〉 倉持は文字を指でなぞった。 「久米」 旧管理人の名を言った。 「高井莉央さんを、父親から避難させることに協力した?」 「子ども」 「そのあと、部屋を住民互助に使うと決めた?」 倉持は首を傾げた。 肯定にも否定にも見える動きだった。 苑が自分の左耳を見せた。 「私は、あのときの子どもです」 倉持は苑を見た。 「見つからない」 「はい」 「見つけない」 「そうしてくれたんですか」 倉持はベッド横の引き出しを指した。 職員が開ける。 中に、古い鍵が一本あった。 真鍮の札に、四〇七。 佐和の鍵と同じ複製の一つ。 鍵の輪へ、色褪せた紙片が結んである。 〈緊急保護室 預り三本/久米・高桑・支店〉 倉持は、自分の分を十五年持っていた。 「写真を撮っていいですか」 真帆は倉持本人へ訊いた。 「鍵だけ。顔は撮りません」 倉持は頷いた。 意味を理解しているか、確認するため、もう一度用途を短く説明した。 「会社に、見せる?」 「はい。裁判所にも」 「見つける?」 「部屋を守るためです。苑さんの住所は出しません」 倉持は鍵を握り、苑へ渡した。 「今度は、見つける」 苑は泣かなかった。 「はい。部屋のことは」 第二十二章 同じ鍵 東和住居は、倉持の鍵が旧管理会社の承認を示すことを否定した。 「管理用複製鍵を、退職者が不正に保持していた可能性があります」 紙札は私文書で、作成者不明。日誌は旧管理人の個人的メモ。水道と電気は停止手続の漏れ。 一つずつなら、そう説明できた。 三つが同じ部屋と同じ期間を指していても、会社は三つの偶然に分けた。 仮処分審尋で、真帆は写真の成立過程を説明した。 「日誌を撮る前に、頁を動かしましたか」 会社側代理人が訊いた。 「棚から取り、該当日を開きました」 「誰でも書き足せますね」 「可能性はあります」 「写真は、記載内容が真実だと証明しない」 「しません」 「では何を証明する?」 「撮影時点で、その日誌が管理人室の棚にあり、その頁に記載と移管確認印が存在したことです」 「印は一部しか写っていない」 「私が撮影したあと、会社が原本を持ち出しました。全体を確認できるのは会社です」 「原本に同じ印があるとは限らない」 「提出すれば分かります」 裁判官が会社へ、原本の提出を求めた。 二週間後、日誌は提出された。 移管確認印の頁だけ、端が破れていた。 会社は、運搬前から破損していたと主張した。 真帆の写真には、三枝が日誌へ手を伸ばす瞬間が写っている。 頁の端は、まだつながっていた。 「誰が破ったんですか」 三枝は社内聴取で、法務部へ渡した時点では確認していないと答えた。 法務部は、受領時から破れていたとした。 倉持の鍵、水道記録、真帆の連続写真により、裁判所は、少なくとも所有者側が長期間の共同利用を黙認していた高度の可能性を認めた。 退去まで四〇七の共同利用を再開させる命令は出なかった。 建物の安全と管理権を理由に、閉鎖は維持された。 代わりに、管理会社へ、一階集会室を午後十一時まで無償開放するよう和解勧告が出た。 完全な勝ちではない。 食卓は、一階へ下りた。 第二十三章 施設を選ぶ人 房江は、小規模施設を三つ見学した。 一つ目は新しく、個室が広い。嘉一は〈親族でない定期訪問者〉として登録できるが、午後七時以降は面会不可。 二つ目は古い民家型。夕食は入居者全員で作る。夜間職員は一人。 三つ目は白樺台から徒歩十五分。部屋は狭いが、日中の訪問制限がなく、嘉一も高桑家も来られる。空きは一室だけだった。 苑は三つ目を勧めた。 佐和も、嘉一も同意した。 房江は一つ目の庭を気に入った。 「娘が花を好きだから」 「でも遠いですよ」と苑。 「あなたは誰?」 「苑です」 「娘?」 苑は答えかけ、言い直した。 「房江さんの友達です」 施設の相談員は、認知症があっても本人の希望を中心にすると説明した。ただし一度の発言だけで決めず、時間を変えて複数回確認する。 翌週、房江は三つ目を選んだ。 「嘉一さんが来るから」 その次は二つ目。 「みんなで作るから」 一つ目は、庭の写真を見ても選ばなかった。 「娘が迎えに来るなら、ここにいる」と白樺台を指した日もある。 相談員は、本人が何を選ぶかだけでなく、選ぶ理由が現実の条件と結びついているかを見た。 最終的に、三つ目の施設へ短期宿泊から始めることになった。 「追い出したみたい」と佐和が言った。 「出したくない気持ちは、誰のため?」と苑。 「房江さんのため」 「四〇七を守れたと言うためじゃなく?」 佐和は怒り、二日間、苑と話さなかった。 三日目、二人で房江の荷物へ名前を書いた。 家族だから、同じ答えになるわけではない。 第二十四章 写真の向き 真帆は、四〇七の生活実態写真を一冊にまとめた。 最初の頁は、昼の空室。 誰もいない。寝具も衣服もない。止まった時計と、八脚の椅子。 次は夜。同じ位置から撮った長机に、顔のない手が集まる。 三頁目は、使われなかった木曜。椅子は空のまま。 四頁目に服薬表。名前は本人同意に従い、一部を伏せる。 五頁目に消防査察の是正前後。 六頁目に旧管理日誌と倉持の鍵。 七頁目に閉鎖された扉。 八頁目に、一階へ移った食卓。 各写真の下へ、撮影日時、撮影者、同意範囲、写真から確認できること、写真だけでは確認できないことを書いた。 〈この写真は、写っている全員が法律上の家族であることを示さない〉 〈この写真は、共同利用が常に安全であったことを示さない〉 〈この写真は、四〇七に継続して居住する者がいたことを示さない〉 否定ばかりの写真集になった。 最後に、利用者自身の説明を載せた。 佐和。 〈一人の家へ集まれば、その家の人が世話をすることになる。誰の家でもないから、当番を代われました〉 苑。 〈守られた部屋ですが、いつまでも守られる子どもとして写されたくありません。いまは介護の仕事をし、ここを使う側です〉 嘉一。 〈房江の家族ではないと言われる。ここでは、薬を間違えない人だった〉 杏奈は匿名。 〈住所を出せない人にも、帰る時刻があります〉 律。 〈宿題をするところ。まちがった字は写さないでくれた〉 房江の言葉は、同意が安定しなかったため載せなかった。 代わりに、撮影を断った経緯を書いた。 真帆はデータを住民全員へ渡した。 そのあと、同じ内容を東和住居と買主へ送った。 一週間後、東和住居の退去案内に、写真集の一枚が使われた。 昼の四〇七。 八脚の椅子と長机が写る写真から、下の説明文だけが切られている。横には〈入居者の要望を受け、代替集会スペースを検討〉とあった。 会社が長期利用を承認したことも、閉鎖したことも書かれていない。 「私たちに頼まれて、今から作るみたい」と佐和。 「写真の改変ではありません」と三枝は言った。「画像自体は切っていない。誌面上の説明は会社の責任で編集しています」 「私のキャプションと一緒に使う条件でした」 「契約書にはありません」 送付メールに書いただけで、会社は同意を返していなかった。 同じ写真が、住民側の集会資料にも使われた。 こちらの見出しは〈十五年、奪われた家族の部屋〉。 「奪われたのは閉鎖されてからです」と苑が言った。「十五年間ずっと奪われてたわけじゃない」 作成した支援者は、運動には分かりやすい言葉が必要だと答えた。 会社と住民側が、一枚を逆向きに切った。 真帆は両方へ使用停止を求めた。 「味方じゃないんですか」と支援者。 「写真を頼んだのは、住民です」 「なら、住民に有利に使うべきでしょう」 「苑さんが違うと言っています」 「一人の意見で、全体の訴えを弱くする?」 四〇七を共同で使った人たちは、同じ意見ではない。 それを一つへまとめた瞬間、家族という言葉が、会社の世帯欄と同じ働きをする。 写真集の次版では、各画像と説明文を同じ頁へ組み、頁全体に管理番号を入れた。切り離して使う場合は、写真単体の下へ短い注記が残るようにした。 〈共同利用開始の経緯と現在の閉鎖状況は、資料本文参照〉 完全には防げない。注記ごと切ればいい。 真帆は、公開された使用例を記録する台帳を作った。誰が、どの画像を、何の見出しで使ったか。東和住居の案内も、住民支援者の資料も並べた。 「会社と同列にするんですか」と支援者は怒った。 「同じことをしたとは書いていません。どう使ったかを残します」 真帆自身が写真展の告知に使おうとした案も、台帳へ入れた。 四〇七の扉と、八脚の椅子を重ね、題を〈空室の家族〉にしていた。 苑が見て言った。 「きれいすぎます」 「何が?」 「私たちが、最初から一つの家族だったみたい」 真帆は展示をやめた。 自分だけを、写真の向きの外へ置くことはできなかった。 写真の向きを、一社だけが決められないようにした。 第二十五章 十一番目の空室 買主の青環アセットは、売買価格の再協議を求めた。 四〇七を即時改装可能な空室と評価していたが、長期の共同利用と会社側の承認記録があるなら、権利調整費が必要だという。 東和住居は、写真集の受領翌日、真帆へ内容証明を送った。 〈業務上取得した画像の目的外使用および秘密保持義務違反により生じた損害を請求する〉 戸倉が受任通知を返した。 「写真の著作権はあなたにあります。ただし撮影契約の利用条件は争われる。勝てると断言はしません」 「住民に渡さなければよかったですか」 「それを決めるのは私ではない。法的危険だけ説明します」 東和住居は通常撮影分の納品を受け取り、報酬の全額を供託した。真帆の仕事は減った。不動産管理会社の間で、扱いづらい撮影者だと伝わったらしい。 一か月、依頼がなかった。 母の施設費と、自分の家賃が同じ日に引き落とされる。 真帆は、空室を撮らない日は飲食店の料理を撮った。湯気を後から足し、皿の縁の汚れを消す。何を消すかを店側と先に決め、合意をメールへ残すようになった。 白樺台の撮影データを整理すると、空室は十二戸ではなく十一戸だった。 四〇七を居住中と数える意味ではない。 三階の三一二号室。 管理表では空室だが、真帆は撮影していない。鍵が開かず、三枝から後日でよいと言われ、そのまま契約が解除された。 写真一覧には、三一二のファイル名だけが作られていた。 作成者は真帆ではない。 画像を開く。 家具のない六畳間。窓から白樺台の給水塔が見える。 撮影情報は削除されている。壁紙は新しく、床に資材が置かれていた。 真帆が四階を撮った日、投資会社の視察者が「空室十二戸」と言っていた。その数字の根拠に、誰かが用意した三一二の写真も使われている。 三一二の表札を、真帆は廊下写真で確認した。 薄く剥がした跡の下に、文字が残っている。 〈金城〉 杏奈親子の契約上の部屋は三〇二ではなかった。 三一二だった。 第二十六章 二つの三一二 「三一二には住んだことがありません」 杏奈は言った。 支援団体が東和住居と短期契約を結んだ際、住所を外部書類へ出さないため、契約号室を三一二、実際の使用を三〇二とした。 同じ建物内で部屋を替える〈秘匿住戸〉の運用だった。 「会社が提案したんです。郵便も三一二の箱に入れて、管理人が三〇二へ移す」 「今の三枝さんは知っていますか」 「知ってると思ってました」 東和住居の解除予告は、杏奈を三〇二の契約外居住者として扱っていた。一方、売却資料では三一二を空室にしている。 契約上の入居者であることも、実際に暮らしていることも、都合に合わせて消された。 「三一二の写真を、誰が撮ったか分かりますか」 真帆は三枝へ画像を送った。 返事はなかった。 戸倉が買主へ確認すると、東和住居から半年前に提供された先行調査写真だと分かった。撮影者は社内担当者。空室化の予定を示す〈想定現況〉として受け取ったという。 想定現況。 まだ人が使う権利を持つ部屋を、退去後の写真で先に売る。 三一二は物理的には空いている。しかし契約は杏奈の避難を支えるために残っている。三〇二は物理的には住居だが、書類では空室。 部屋番号を一つに戻せば、元夫から住所を守る仕組みが壊れる。 「私たちのことを出せば、売却の嘘は証明できます」と杏奈。 「名前を出さない方法を探します」と戸倉。 「匿名では、会社は架空の人だと言う」 苑が訊いた。 「決める前に、律くんとも話した?」 「子どもに決めさせられない」 「決めさせるんじゃなく、聞く」 杏奈は黙った。 律は、住所のことを十分には理解できない。それでも、転校したくない、写真に顔を出したくない、四〇七の椅子を新しい場所へ持っていきたいという希望は言える。 「ぼくの部屋、二つあるの?」 説明を聞いた律は訊いた。 「紙の部屋と、寝る部屋」と杏奈。 「どっちが家?」 「どっちだと思う?」 「寝るほう。でも、紙がないと寝られないんでしょう」 子どもの答えは、契約書より正確だった。 第二十七章 想定現況 東和住居は、売却資料の誤りを認めなかった。 「三一二は現実に居住実態がなく、空室表記は適切です。三〇二の使用者については、支援団体との調整事項です」 「契約と居住を別の部屋へ分けたのは、御社です」と戸倉。 「旧担当者の暫定措置です」 「売却時には、片方だけを都合よく使った」 「買主には、秘匿を要する入居者が一名いると説明しています」 「空室十二戸の内訳には?」 三枝は答えを法務へ任せた。 真帆の写真は、交渉室の壁へ投影された。 四〇七の昼と夜。 三一二の部屋番号跡。 三〇二の窓に干された子どもの靴。 顔も名前も写っていない。 「写真が、同じ人物の契約と生活を示すわけではない」と会社側代理人。 「その結びつきは、支援団体との覚書が示します」と戸倉。 支援団体が保管していた覚書には、東和住宅管理の支店印があった。四〇七の日誌に残る印と同じ社名。 旧会社から現会社への引継一覧にも、〈秘匿対応一件・共同利用室一件〉とある。 東和住居は、二つとも知っていた。 「現場担当への伝達が不十分でした」と法務。 三枝は横を向いた。 「私には、引継一覧が渡されていません」 初めて会社の説明から外れた。 「では、解除予告を出した根拠は」と戸倉。 「入居管理システムです。三〇二は空室、四〇七も空室。現場で使用を見つけ、上司へ報告しました」 「三一二の先行写真は」 「上司の指示で撮りました。杏奈さんの契約は、その後に終了させる予定だと」 「本人へ通知する前に?」 「はい」 三枝は、日誌の頁を破ったことは否定した。法務部へ渡す前に、すべての頁を携帯で撮っていた。 会社が撮影者との紛争に備え、資料の状態を記録するよう命じたからだった。 その画像では、頁はつながっている。 「なぜ今まで出さなかったんです」と真帆。 「社用端末のデータです」 「消されていませんか」 「個人端末にも送った」 三枝は、自分を守るために複製した。 その自己保全が、日誌を守った。 「会社を告発するつもりはありませんでした」と彼は言った。「私が破っていないと証明したかっただけです」 動機が小さいことは、写真の価値を小さくしなかった。 第二十八章 買主の条件 青環アセットは、売買契約の条件を変えた。 空室は十戸として評価する。四〇七は共有利用施設、三一二は秘匿住戸契約あり。東和住居が全入居者の移転合意を得るまで決済しない。 さらに、共同利用を承知しながら開示しなかった損害として、価格を下げた。 下げた分を、住民補償へ回す義務はない。 東和住居は、売主の損失だとして住民へ譲歩しない姿勢を見せた。 「買主も味方ではありません」と戸倉。 青環は建物を取り壊し、十二階建ての賃貸住宅を建てる。新しい一階にはラウンジとワークスペースを設けるが、入居者専用。現在の住民が戻るには、二倍近い家賃を払う必要がある。 「四〇七みたいな部屋を作ると言ってます」と苑。 「使える人が違います」と真帆。 完成予想図には、大きな共用テーブルが描かれていた。 若い夫婦、ノートパソコンを開く男性、積み木で遊ぶ子ども。全員が明るく、服の色まで建物の内装に合っている。 介護される高齢者はいない。住所を隠す親子も、家族ではない元内縁相手もいない。 「こういう写真、撮ったことあります」と真帆。 モデルを呼び、空の建物へ生活を足す。広告では、まだいない家族が先に住む。 白樺台では、いる家族を消して空室にした。 同じ会社の資料に、二つの方向の写真が並んでいた。 青環との面談で、真帆は完成予想図と四〇七の写真を同じ画面へ出した。 「新しいラウンジに、誰が入れますか」 「入居者と招待者です」と開発担当。 「訪問介護員は」 「入居者のサービスとして」 「住民票のない子どもの放課後利用は」 「契約者の同伴が必要です」 「別住戸の独居老人を、近隣が交代で見守る用途は」 「管理規約を検討します」 「完成図に描いた家族だけなら、使いやすい」 開発担当は反論した。 「安全と責任所在が必要です。誰でも使える部屋にはできません」 「四〇七にも必要でした。その不足を、使っていた人と一緒に記録しました。新しい部屋なら、最初から仕組みにできます」 真帆は理想を売り込んでいるのではない。 誰が鍵を持つか、夜間利用、保険、事故時連絡、食品衛生、個人情報。面倒な項目を一覧にした。 青環は、新築後のラウンジを地域開放する約束はしなかった。 代わりに、工事期間中の移転先として、近隣の旧診療所を共同利用室へ改修する案を検討すると答えた。 期限は三年。 永続する家ではない。 それでも、ゼロではなくなった。 第二十九章 旧診療所 旧診療所は、白樺台から徒歩九分だった。 一階に待合室、診察室、処置室。閉院から五年、窓に埃が積もっている。 住民は全員で見に行った。 「四階じゃない」と嘉一。 「階段もない」と苑。 房江は待合室の長椅子に座り、診察を待ち始めた。 「ここは病院?」 「前は」と苑。 「先生は」 「今日は来ません」 房江は不安そうに立った。 医療の記憶がある場所を、安心できる食卓に変えられるか。 佐和は元受付窓口を配膳口に使えると言い、嘉一は処置室の流しを見た。矢印のついた古い避難図は、出口が二つある。 消防署は、用途変更と定員管理、ガス設備の撤去、非常照明の追加を条件にした。 青環は改修費を負担する。東和住居は三年間の賃料相当額を、売却代金から拠出する。 運営主体が必要だった。 住民自治会では、建物退去と同時に会員資格が曖昧になる。高桑家だけが借りれば、また一世帯の負担になる。 苑は地域の介護事業所へ相談し、杏奈が利用する支援団体、大学生の所属する社会福祉学科と、任意団体を作った。 名称を決める会議で、〈四〇七の家〉案が出た。 苑は反対した。 「番号を持っていけない人もいます」 〈白樺家族〉も、家族という言葉を強制すると杏奈が嫌がった。 律が言った。 「夕ごはんの前」 学校から帰り、親が仕事を終え、高齢者が一人になる。四〇七が必要になる時間。 団体名は〈夕ごはんの前〉になった。 子どもの案だから採用したのではない。 誰が使う時間かを、一番正確に表していたからだった。 第三十章 戸籍の外 房江の施設入居契約で、身元引受人の欄が問題になった。 親族は遠方の甥一人。十年以上会っておらず、引受けを断った。 嘉一は元内縁相手だが、現在は別居。苑は訪問介護員として関わってきたため、私的な引受けには利益相反がある。 佐和は友人。 施設は、保証会社の利用を提案した。 費用が毎月かかる。死亡時の遺品整理と葬送まで契約へ含まれる。 「俺がやる」と嘉一。 「戸籍上の関係が」と職員。 「何かあったら俺に電話してたでしょう」 「緊急連絡先にはできます。ただ、費用保証は別です」 家族がいれば無料で期待される仕事が、家族でなければ商品になる。 「保証会社を使います」と房江が言った。 その日は、契約内容を理解していた。 「嘉一さんに、お金のことまで頼まない」 「俺が払えないと思ってる?」 「あなたは、すぐ死ぬから」 嘉一が笑った。 「房江よりは後だ」 「前だったでしょう」 二人の時間は、同じ順番で進んでいなかった。 契約は、保証会社を使い、嘉一、佐和、苑の三人を緊急連絡先にした。医療同意は、本人が事前指示書を作り、判断できない場合の意見聴取者を三人指定した。 一人の身元引受人を、血縁の代わりに置かなかった。 「面倒ですね」と佐和。 「家族なら、面倒が見えないだけです」と相談員。 書類は十七枚になった。 房江は最後の頁へ、自分の名をゆっくり書いた。 写真には撮らなかった。 署名する手が家族の象徴になるほど、手続は美しくなかった。 しかしその面倒が、房江を誰か一人の所有物にしないために必要だった。 第三十一章 戻らない人 苑の実母は、避難先で三年暮らした。 最初の一年は外出を避け、二年目に清掃の仕事を始め、三年目、がんが見つかった。 「逃げたあと、幸せでしたか」 真帆が訊いた。 苑は四〇七の閉じた扉の前にいた。 「そういう質問を、取材の人にも訊かれました」 「すみません」 「母は、父に会わずに死ねた。毎日怯えた。私を施設へ残すのを嫌がった。三つとも本当です」 「写真は残っていますか」 「避難後の?」 「はい」 苑は携帯に一枚だけ持っていた。 小さな台所で、母と十二歳の苑がカレーを食べている。壁に住所の分かるカレンダーがあり、長い間誰にも見せられなかった。 「四〇七と似ていますね」 二人用の机、形の違う椅子。 「母は、ここみたいに誰かが来る部屋を作りたかった。でも、住所を知られるのが怖くて人を呼べなかった」 「写真集に入れますか」 苑は首を振った。 「これは、出さない写真です」 記録されているものを、すべて共有する必要はない。 真帆は、自分の母の空室写真を苑へ見せた。 明るく広く、誰の部屋でもない。 「これが、母の家でした」 「何もないですね」 「私が消しました」 「退去なら、片付けるでしょう」 「写真まで、いなかったみたいにした」 苑は画面を拡大した。 床の一部に、四角い色の差がある。 「ここ、何があったんですか」 「母の椅子」 「写ってますよ」 椅子そのものではない。 置かれていた場所だけが、日焼けせず残っていた。 真帆は二年間、その跡を見ていなかった。 空室写真にも、完全には消えない生活があった。 第三十二章 売却合意 交渉は三か月続いた。 最終合意で、白樺台コーポは青環アセットへ売却される。 退去期限は十か月後。 各世帯の移転費、家賃差額二年分、高齢者と障害者の引越支援。旧診療所の三年間無償利用と改修。近隣代替住戸を希望する七世帯について、徒歩二十分圏内を優先する。 四〇七を一戸の居住権として補償する要求は認められなかった。 代わりに、共同利用を管理側が承認し、住民が十五年間維持した事実を合意書へ記載した。 東和住居は〈口頭承認〉という表現を嫌い、〈黙認〉を求めた。 住民側は拒否した。 倉持の鍵、久米の日誌、水道名義がある。 最終文言は〈所有者側の了解の下で開始され、管理会社承継後も継続した〉。 「誰が家族かは書かないんですね」と律。 説明会の後、真帆へ訊いた。 「契約は、部屋の使い方を認めたんです」 「じゃあ、ぼくたちは?」 「自分たちで決める」 「紙にはいらない?」 「必要な紙もあります」 杏奈親子の秘匿住戸契約は、支援団体へ正式に引き継がれた。移転先は住所非公開のまま確保され、律は学区を変えずに通える。 その合意だけは、全体文書の別紙として閲覧制限された。 見えないことが、消されたこととは限らない。 守るために見せない記録もある。 真帆の写真集は、合意書の資料番号十二として保管された。一般公開版には、苑と杏奈親子を特定する画像を入れなかった。 原本の閲覧権限は、住民側団体、東和住居、青環、弁護士へ分けた。一者だけでは複製できない。 写真の向きは、鍵と同じように共同管理になった。 合意の金額を決めるため、住民は四〇七でしてきたことを時間へ換算した。 夕食の調理、一日平均二時間。 配膳と片付け、一時間。 房江の見守り、週二十一時間。 律を含む子どもの放課後滞在、週十二時間。 通院付き添い、月六時間。 緊急時の連絡、記録できない時間。 「家族がした無償の行為なので、移転損失には含まれない」 東和住居は主張した。 「家族ではないと言っていたでしょう」と苑。 「親族関係の有無ではなく、任意の互助です」 「任意なら価値がない?」 会社は、価値ではなく法的補償義務の問題だと答えた。 戸倉は、同じ支援を有料サービスで置き換えた場合の費用を計算した。 訪問介護、学童保育、配食、見守り端末、移送。月額で四十万円を超えた。 「そんなに働いてない」と佐和が言った。 「毎日三食を作った計算になってる」と嘉一。 曜日記録を見直すと、四〇七を使わない日も多い。具合が悪くて当番を休んだ日、食事が足りなかった日、誰も房江の薬を確認しなかった日もある。 理想的なサービスへ置き換えれば、共同生活の価値を大きく見せられる。 実際にしたことだけなら、小さく見える。 真帆の連続写真が、利用頻度を確かめる資料になった。 一週間だけでは偏るため、献立表、服薬確認表、電気使用量、鍵当番のメッセージ履歴を合わせた。 月によって利用は十六日から二十七日。 房江の見守りが半分を占める時期も、子どもだけの時期もあった。 東和住居は、四〇七がなければ各世帯が自宅で同じ行為をしたはずで、すべてが失われるわけではないと反論した。 その点は正しかった。 佐和は新居でも料理できる。苑は房江の施設へ行ける。大学生は律へオンラインで勉強を教えられる。 なくなるのは行為ではなく、交代できる近さだった。 誰かが休んだとき、別の椅子へ座る人がいる距離。 「距離に値段をつけるんですか」と三枝。 「引越補償は、もともと距離を扱います」と戸倉。「通勤距離、通学距離、通院距離。介護と互助の距離だけ、無料ではありません」 最終合意では、無償労働の全額換算は認められなかった。 代わりに、近接配置の仲介費、旧診療所の改修、三年間の賃料、引越後六か月の移動支援費が項目として入った。 佐和が作った食事一皿に値段はつかなかった。 その皿を運べる距離には、初めて金額がついた。 第三十三章 近くに住む 近接移転を希望した七世帯のうち、同じ建物へ入れたのは三世帯だった。 高桑家と嘉一は、旧診療所から徒歩六分の集合住宅。大学生は就職先に近い別の市を選んだ。二階の夫婦は、娘の住む県へ移る。 佐和は言った。 「みんな、近くがいいと言ったのに」 「近くにいたいのと、ほかの事情がないのは別です」と苑。 大学生には仕事がある。夫婦には娘がいる。四〇七を守ったことが、そこへ縛る理由になってはいけなかった。 嘉一の新居は一階だった。 「階段がないのはいい」と言い、窓から白樺台が見えないことだけ不満だった。 房江の施設は、旧診療所と同じ通りに決まった。短期宿泊を三回試し、夜中に一度だけ帰ろうとした。二回目からは、嘉一が夕食前に訪ねると落ち着いた。 「一緒に住めばいいのに」と佐和。 「昔やって、無理だった」と嘉一。 「三十年前でしょう」 「無理なものは、年を取るともっと無理だ」 房江も、同じ部屋へ移ることは選ばなかった。 二人は家族のように扱われることを望む場面と、別の人間として暮らすことを望む場面があった。 苑は施設の緊急連絡先になったが、訪問介護員としての契約は終了した。私的な関係と有償の仕事を混ぜたままにすると、休む時間も、責任の境界もなくなる。 「娘をやめるみたい」と房江が言った日、苑は答えた。 「娘ではありません。苑です」 房江は少し考えた。 「じゃあ、今日は苑ちゃん」 それで十分な日もあった。 第三十四章 返された一日 退去一か月前、四〇七が一日だけ開けられた。 残置物確認と原状回復のため、住民が立ち会う条件だった。 新しい鍵を三枝が開ける。 部屋には何もない。 家具を出した跡、冷蔵庫の四角い日焼け、壁の手の跡。押入れの鉛筆書きは残っている。 〈ここはだれのいえ〉 〈みんなの〉 「消しますか」と三枝。 原状回復なら、落書きは消す。 律が首を振った。 「ぼくが書いたんじゃないけど」 最初に書いた子どもは、もう成人しているかもしれない。二行目を書いた人も分からない。 「壁紙ごと、どうせ壊します」と三枝。 「なら残してください」と苑。 その日の夕方、八脚の椅子と長机を戻した。 最後の食事をするためだった。 四〇七を使ったことのある人へ連絡すると、二十六人が来た。 一度に入れない。 消防査察の定員は八人。食事を三回に分けた。 最初は高齢者と子ども。二回目はかつて子どもだった人。三回目は、介護や調理を担った人。 一緒に食べられない最後の食事だった。 「全員でやればいいのに」と昔の住民が言った。 「最後だから安全を破る、にしたくない」と矢吹ではなく、苑が答えた。 四〇七の不備を自分たちで認めたあとだった。 真帆は三回とも撮影した。 同じ構図。同じ机。座る人だけが変わる。 顔を出せない人は背中を向け、撮られたくない人の椅子は画面外へ置いた。房江は、その日、顔を撮っていいと言った。 「明日もいいとは限りません」と真帆が確認する。 「明日は撮らないでしょう」 房江は正しく答えた。 写真の中央で、彼女は嘉一の隣に座った。 「夫婦に見えるかな」 「そういう説明はつけません」 「じゃあ、けんかした人と書いて」 嘉一が笑った。 三回目の食事が終わり、机と椅子をまた運び出した。 借りた一日は、深夜零時で終わった。 第三十五章 割れなかった板 ベランダの避難隔板は、原状回復の対象になった。 四〇七と四〇八の間だけ新しく、下端に日常通行の擦り跡がある。東和住居は交換費用を請求した。 戸倉は、隔板を四回交換した履歴のうち、二回は会社の修繕負担になっていると指摘した。 残る二回は住民負担。 「誰が壊したか分かりません」と佐和。 「使った人全員で払う?」 一世帯あたりにすれば小額だが、杏奈の名を費用分担表に入れれば住所関係が残る。 大学生は、自分が高校生のとき一度壊したと申し出た。車椅子の住民をベランダから移すためだった。 もう一回は、苑が覚えていた。 房江が浴室で転び、四〇六の玄関に内鍵がかかっていた。嘉一と苑が四〇五から隔板を二枚破って入った。 「緊急避難です」と戸倉。 「でも、日常通路にも使った」と苑。 東和住居との精算では、一回分を住民自治会、もう一回を管理会社が負担した。 明確な勝敗にならない金額だった。 板を外す工事の日、真帆はベランダを撮った。 四〇五、四〇六、四〇七、四〇八。 同じ幅の四戸が、薄い板で分かれている。 火事なら破れと書かれ、生活なら越えるなと書かれる板。 住居の境界は、危険なときだけ家族より弱くなる設計だった。 新しい板は、解体まで一度も割れなかった。 第三十六章 母の署名 真帆の母の施設から、契約更新の書類が届いた。 身元引受人は真帆一人。緊急連絡、医療同意、費用保証、退去時の荷物、死後の手続。すべて同じ欄に名前を書く。 房江の契約を見たあとでは、一人の娘へ集まりすぎていると分かった。 「身元保証を別契約にできますか」 施設相談員へ訊いた。 「ご家族がいらっしゃるので、通常は」 「家族がいても分けたいんです」 費用保証は保証会社。医療の事前指示は母が判断できる時間に確認。緊急連絡は真帆と、母の妹。遺品整理は別の事業者。 費用は増えた。 真帆が一人で負担する仕事は減った。 母は事前指示書の説明を、三回聞いた。 一回目は延命処置を望まない。 二回目は、真帆が決めればいい。 三回目は、痛いのは嫌だが、写真を撮るまでは死ねないと言った。 「何の写真?」 「家族写真。あなた、最近撮ってないでしょう」 真帆は母と、同じテーブルで茶を飲む三人へ同意を求めた。 一人は顔出しを嫌がり、一人は家族に確認したいと言い、一人はすぐ頷いたが翌日には忘れた。 結局、全員の湯呑みだけを撮った。 母が写真を見て言った。 「誰もいないね」 「手は写ってません」 「でも、お茶が減ってる」 四つの湯呑みで、飲んだ量が違う。 人が写らなくても、人がいたことは残る。 「いい写真」と母は言った。 翌週には、その写真を覚えていなかった。 真帆は、覚えてもらうためではなく、自分が忘れないために印刷した。 第三十七章 夕ごはんの前 旧診療所の改修が終わった。 待合室の長椅子は残し、診察室との壁を半分抜いた。厨房は作らず、各世帯から食事を運ぶ。電気湯沸かし器は専用回路。火災警報器と非常灯、二方向の出口。 入口に利用者名簿は置かない。 緊急時連絡先だけを、鍵のある箱に保管する。子どもの住所と、DV避難者の本名は支援団体が別管理する。 「誰でも使える部屋じゃない」と律。 「最初から、それでいいんです」と苑。「誰でも勝手に入れたら、安全な場所にならない」 「家族だけ?」 「家族じゃなくても、使う約束をした人」 運営規則は十頁になった。 食事当番、アレルギー、服薬は本人または有資格者のみ。夜間十一時まで。宿泊不可。介護負担が特定の人へ偏らないよう、月一度確認する。専門サービスが必要なときは、共同室だけで抱えない。 四〇七にはなかった言葉だった。 「規則ばかり」と佐和は不満を言った。 開所一週間で、佐和が三日連続で調理を担当した。 苑が当番表を止めた。 「作れる人が作ればいいでしょう」 「作れる人が、作らない日も必要です」 佐和は初めて、配られた弁当を食べる側になった。 味が薄いと文句を言い、二杯食べた。 開所二か月目、入口に知らない女性が立っていた。 小学生くらいの娘を連れ、今夜だけ泊めてほしいと言った。夫から逃げてきた。近くの交番には行きたくない。ネットで〈家族でなくても入れる部屋〉と見たという。 「入れてあげよう」と佐和。 杏奈が止めた。 「ここは宿泊できない。住所も隠せません」 「一晩だけ」 「一晩が危ないんです。追ってくる人が、ほかの利用者も見る」 善意で鍵を開ければ、すでにここを安全な場所にしている人を危険にする。 苑は支援団体の夜間窓口へ連絡した。保護先の車が来るまで、女性と娘を旧診察室で休ませた。利用者の名簿と写真は鍵箱ごと別室へ移した。 女性は、追い出されたと思い、泣いた。 「家族じゃなくてもいいって書いてあった」 「家族でなくても使えます」と苑。「でも、ここだけで全部はできません」 支援員の車が来るまで四十分かかった。 その間、佐和が温かい汁を出した。杏奈は入口の外で、不審な車が来ないか見た。 二人とも必要だった。 翌月、食物アレルギーの誤配膳が起きた。 蕎麦を扱った鍋で作った汁を、律ではない別の子どもが飲んだ。唇の腫れだけで収まったが、救急相談へ電話した。 佐和は、自分が献立表を見落としたと認めた。 「四〇七では、こんなことなかった」 「記録がなかったから、分からないだけかもしれない」と苑。 団体は、食品提供を登録調理者のいる日に限る案を出した。 そうすれば佐和に負担が戻る。 最終的に、調理器具をアレルギー別に分け、原材料票を残し、二人で確認することにした。食事を持ち寄る自由は減った。 「家なのに、店みたい」と利用者が言った。 「家でも事故は起きます」と白石ではなく、地域の保健師が答えた。「店と違って記録しないから、繰り返しても分からない」 四〇七は、規則がないから家族になれた部屋ではない。 規則に書かれない負担を、誰かが引き受けていただけだった。 新しい共同室は、失敗を記録するたび、少しずつ家らしくなくなった。 その代わり、佐和が休んでも食事が出て、杏奈が来なくても秘密が守られる場所になった。 房江は施設から週二回来た。 最初は診察を待ったが、壁に四〇七の長机の写真を貼ると、食事の場所だと覚える日が増えた。 嘉一は毎回来た。 二人が夫婦かと新しい利用者に訊かれ、房江は「昔は」と答え、嘉一は「一度も」と答えた。 どちらも自分の記憶では正しかった。 第三十八章 写真家の契約 東和住居との損害賠償請求は、和解になった。 真帆は契約範囲外の人物調査を拒む権利があった。一方、業務中に撮影した日誌を住民へ提供した行為には、秘密保持上の争いが残る。 東和住居は請求を取り下げる。 真帆は、通常撮影分を契約どおり納品し、売却資料での利用を認める。ただし四〇七と三一二の写真には、現況説明を外せない電子署名を付ける。 「外せないんですか」と三枝。 「切り取れば、改変履歴が出ます」 「買主は、きれいな資料を欲しがる」 「事実が汚いなら、写真で洗えません」 三枝は東和住居を退職しなかった。 日誌の写真を出したことで、配置転換された。売却業務から外れ、修繕受付を担当している。 「辞めると思いました」と真帆。 「住宅ローンがあります」 「会社を守る?」 「自分の家を」 三枝は答えた。「でも前より、受けた書類を全部撮るようになりました」 真帆も、不動産写真の仕事を続けた。 依頼は少しずつ戻った。 撮影契約書へ、利用目的と二次利用範囲、人物・生活痕の扱いを加えた。面倒だと別の写真家を選ぶ会社もあった。 新しく依頼した一社は、退去前の部屋を、入居者の希望で記録するサービスを始めた。 空室にする前の写真。 売るためではなく、住んだ人へ返すための写真だった。 最初の客は、母の施設入所で実家を片付ける女性だった。 真帆は、薬カレンダーも、浴室椅子も、仏壇も外さずに撮った。 広くは見えなかった。 その人の家に見えた。 第三十九章 解体前日 白樺台コーポの解体前日、住民は鍵を返した。 四〇七の鍵は三本。 佐和の鍵。倉持が持っていた鍵。旧管理人の遺品から見つかった鍵。 三枝が本数を確認した。 「管理鍵を含めて四本です」 「もう開ける部屋もなくなる」と佐和。 「解体は来週からです」 「鍵、捨てるんですか」 「廃棄します」 律が欲しがった。 所有者の資産なので渡せないと言われた。 青環の担当者が、廃棄証明後なら金属片として一つ返せるよう手配した。 部屋を開けない鍵。 それでも律は受け取ると言った。 住民が去ったあと、真帆は一人で四階へ上がった。 廊下の窓は開き、剥がされた表札の跡が並んでいる。 四〇七の扉を、管理鍵で開けた。 三枝が最後の撮影に立ち会う。 「売却資料はもう終わっています」 「これは住民からの依頼です」 室内に机も椅子もない。 壁の鉛筆書きは、解体記録のために剥がされ、保存箱へ入れられていた。 手の跡だけが残っている。 真帆は入口から半歩入った。 いつもの位置。 十六ミリのレンズを外した。 三十五ミリに替える。 広く見せず、壁も床も、立っている場所から見える幅で撮る。 シャッターを押す前に、部屋へ何も戻さなかった。 第四十章 本当の空室 真帆は絞りを十一にした。 窓外と室内の明暗差が大きい。通常なら三枚の露出を重ね、窓も床も明るくする。今回は一枚だけ。 白い窓は少し飛び、部屋の隅は暗く沈んだ。 床には、長机の脚があった四角い跡。 壁の低い位置には、何人もの手が触れた艶。 台所の壁に、冷蔵庫の高さだけ塗装の色が違う。 流しの金属には、最後まで落ちなかった小さな水垢。 誰も写っていない。 それでも、何もなかった部屋には見えなかった。 一枚目を正面から。 二枚目は、八脚目があった位置から。 三枚目は玄関の外から、開いた扉と部屋番号を入れた。 最後に、扉を閉めて撮った。 「これで空室に見えますか」 三枝が訊いた。 「空室です」 「十五年前から?」 「今日から」 真帆は撮影票へ書いた。 〈撮影時、居住者・利用者・家具なし。共同利用終了後の現況。〉 三枝が署名し、真帆も署名した。 「写真がなくても、今日から空室でした」と三枝。 「はい」 「でも会社は、十五年前からそうだったと書こうとした」 「あなたも、その資料を作った」 「はい」 三枝は言い訳をしなかった。 二人で玄関を出た。 廊下から鍵をかける。 真帆は、閉まった扉をもう一枚撮ろうとしてやめた。 同じ写真を増やしても、意味は増えない。 第四十一章 四十八の窓 解体は、外壁の足場から始まった。 窓が一枚ずつ外される。 四階の四〇七だけを見分けることは、すぐにできなくなった。 佐和は見に来なかった。 「壊れるところまで家族で見る必要はない」と言った。 嘉一は毎日来た。 工事柵の外で、どの窓が房江の部屋だったか作業員へ説明した。日によって指す場所が一つずれた。 律は一度だけ、杏奈と遠くから見た。 「鍵、もう使えない?」 廃棄処理された真鍮鍵は、歯を切り落とされ、小さな金属片になっていた。 「最初から、ぼくの家の鍵じゃない」と律。 「欲しくなかった?」 「新しいところ、暗証番号だから」 彼は金属片を筆箱へ入れた。 実用のないものを持つ理由を、説明しなかった。 真帆は解体経過を定点撮影した。 一日一枚、同じ時刻、同じ位置。 四十八の窓が四十になり、二十四になり、外壁だけになった。最後に四〇七の床が重機で持ち上がると、壁の内側に残っていた壁紙の色が一瞬見えた。 鉛筆書きの部分は、先に住民団体へ返されている。 〈ここはだれのいえ〉 〈みんなの〉 旧診療所へ飾る案が出たが、苑が反対した。 「子どもの字を、標語にしたくない」 壁紙片は箱に入れ、団体の記録棚へ置いた。見たい人が、理由を話してから見る。 家族を象徴する展示物にはしなかった。 建物がなくなった日、真帆は更地を撮った。 広角を使っても、もう部屋は広くならなかった。 第四十二章 発見記事 高井莉央の失踪記事は、声明後も検索結果に残った。 最初の記事だけが上位に出て、発見を伝えた小さな続報は有料記事の奥にある。 苑は新聞社へ訂正を求めた。 「当時の記事は、警察発表と父親の証言に基づいています」と編集部。 「私は生きています」 「現在名と本人確認資料をいただければ、追記を検討します」 「現在名は出したくありません」 「匿名では、第三者の申告と区別できません」 戸倉を通じ、非公開で本人確認することになった。 編集部は、元記事の末尾に追記した。 〈女児は同年、関係機関により安全が確認されていたことが、本人側代理人への取材で判明した。保護上の理由により当時公表されなかった。現在の所在・氏名は明らかにしない。〉 記事の題は変わらなかった。 〈四〇七号室から消えた九歳〉 「消えてない」と苑。 題の変更も求めた。 新聞社は、歴史的記事の保存を理由に拒んだ。検索結果には追記が表示されない。 苑は訴訟にするか迷った。 「勝っても、もっと名前が出る」と戸倉。 「何もしなければ、ずっと消えた子です」 真帆は、写真集の公開版に苑自身の言葉を追加する案を出した。 写真は顔なし。現在名なし。四〇七の空席を、本人が撮る。 苑はカメラを借りた。 旧診療所の長机で、一脚だけ空いた椅子を撮った。構図は傾き、窓が白く飛び、椅子の脚が切れている。 「下手ですね」と苑。 「直しますか」 「直さないで」 写真へ文を添えた。 〈私は消えたのではありません。どこにいるかを、父へ知らせなかった。私を隠した人たちは、私を持っていったのではなく、私が出ていくのを手伝いました。〉 検索結果を消すことはできなかった。 同じ名前の謎に、本人の言葉を並べることはできた。 第四十三章 三年目の鍵 旧診療所の無償利用期限は、三年だった。 一年目、利用者は白樺台の元住民が中心。 二年目、近隣の中学生と、ひとり親世帯、高齢者住宅の入居者が加わった。 三年目、青環アセットから契約終了の通知が来た。 新築マンションが完成し、旧診療所を売却する計画だった。 「約束どおりです」と苑。 「約束が短かった」と佐和。 団体には、三年分の活動記録があった。 年間利用者数、事故、ヒヤリ事例、食費、当番時間、専門機関へつないだ件数。介護を抱え込まず施設へ相談した例。DV避難者を撮影から守った例。食物アレルギーの誤配膳が一件。 良いことだけではない。 市の空き店舗活用助成へ申請した。 審査委員から、活動効果を一枚の写真で示すよう求められた。 「何を撮ればいい?」と苑。 「満席の食卓なら、分かりやすい」と佐和。 「房江さんも呼ぶ?」 「写真のために呼ばないでください」と真帆。 一枚へ全部を集めれば、四〇七の写真と同じ美談になる。 真帆は、夕方から夜まで三時間、固定カメラで部屋を撮った。 人が来る。食事を置く。子どもが帰る。房江が施設へ戻る。学生が掃除する。佐和が休んで座る。誰もいない時間もある。 一枚ではなく、十二枚の連続写真にした。 審査書式は〈代表写真一枚〉だった。 真帆は十二枚を、一枚の紙へ同じ大きさで並べた。 「規則違反ですか」と市職員へ訊いた。 「一ファイルなので、一枚です」 職員は答えた。 助成は採択された。 団体は近隣商店街の空き店舗へ移る。家賃の半分を市、残りを寄付と利用料で払う。 無償ではなくなった。 利用者は月額を所得に応じて負担し、払えない人の枠を設けた。 「家族から金を取るみたい」と佐和。 「家族だから無料で働く、をやめたんでしょう」と苑。 佐和は会計係になった。 一円まで合わないと帰らない。 第四十四章 空いた椅子 房江は新しい共同室へ来なくなった。 施設での生活が安定し、外出すると帰宅後に混乱することが増えた。嘉一が訪ねても眠っている日が多い。 「連れてこないの?」 佐和は苑へ何度も訊いた。 「本人が疲れるから」 「ここを忘れる」 「忘れないために来る場所じゃない」 房江の肘掛け椅子は、共同室に残っていた。 誰も座らない。 苑は施設へ持っていくか確認した。房江は椅子を見ても、自分のものと分からなかった。 「ここに置いて」と言った。 どこを指したかは不明だった。 共同室へ戻すと、佐和が毎朝、背を拭いた。 「空席を保存する場所じゃありません」と苑。 「誰かが座ればいい」 しかし新しい利用者は、古い椅子に遠慮した。 律が中学生になった年、初めて座った。 「宿題するには肘掛けが邪魔」と言い、翌日には別の椅子へ戻った。 それから、誰でも座るようになった。 椅子は房江の記念ではなく、また家具になった。 嘉一は月に一度だけ共同室へ来た。 房江の面会日と重ならないようにした。 「ここへ来ると、房江がいると思う」と言った。 「いないと困りますか」と真帆。 「いないから来るんだ」 意味を訊かなかった。 写真にも説明をつけなかった。 第四十五章 家系図の宿題 律の中学校で、家族史を調べる宿題が出た。 両親と祖父母の名前、出生地、仕事。用紙は木の形で、幹に自分、上へ血縁を枝分かれさせる。 「父親の欄を書かないと、減点?」 律は共同室で大学生へ訊いた。 「先生に相談すれば」 「母さんには見せたくない」 元夫の名を書くこと自体が、杏奈を傷つけるわけではない。だが律は、父の話を家へ持ち込みたくなかった。 「佐和さんを書けば?」と佐和。 「祖母じゃない」 「家族なんでしょう」 「家族なら、何でも同じ紙に書けるわけじゃない」 苑が言った。 律は家系図の裏へ、部屋の見取り図を描いた。 中央に四〇七の長机。周りに四〇五、四〇六、四〇八、三〇二。旧診療所、施設、新しい共同室。線の横に、〈ごはん〉〈薬〉〈宿題〉〈迎え〉と書いた。 人を血でつながず、したことと場所でつないだ。 教師は、課題の形式と違うとして再提出を求めた。 杏奈は学校へ連絡した。 「家庭の事情に配慮してほしい」 「強制ではありません。書ける範囲でよいと説明しています」 「空欄にすれば、書けない事情がある子だと分かります」 学校は、家族史ではなく〈自分を支える人・場所〉を選べる課題へ変えた。家系図を提出したい生徒は、そのままでよい。 律の見取り図は、教室に掲示しなかった。 部屋番号から以前の住所が分かるためだった。 評価はAでもBでもなく、提出済み。 「写真に撮りますか」と律が真帆へ訊いた。 「どこへ使う写真?」 「大人になって、忘れたとき」 真帆は住所の部分を別紙で覆い、原本と公開用を二枚撮った。 原本は律の端末だけへ送った。 「家族の写真じゃなくて、地図ですね」と真帆。 「家族は動くから」 律は答えた。 第四十六章 家族写真 真帆の母が、家族写真を撮りたいと言ったことを覚えている日は少なかった。 春、施設の庭に桜が咲いた。 真帆は母へ、今日写真を撮ってよいか訊いた。 「仕事?」 「私のため」 「じゃあ、きれいにして」 母は髪を直した。 同じテーブルの三人にも、職員を通じて同意を確認した。一人は家族が顔出しを認めず、一人はその日の本人が嫌がり、一人は母と一緒ならよいと言った。 二人の写真になった。 血縁ではない。互いの名前を、どちらも覚えていない日がある。 母は隣の女性の手を握った。 「姉です」と言った。 女性は笑い、「今日はね」と答えた。 真帆は、姉妹に見えるよう配置しなかった。桜を大きくぼかし、手と二人の間の距離へ焦点を置いた。 撮影後、母が画面を見た。 「あなたは入らないの?」 真帆は職員へカメラを渡した。 三人で撮った。 母は中央、真帆は左、名前を知らない女性が右。 「家族写真ですか」と職員。 真帆は答える前に、二人へ訊いた。 「どうします?」 母は、知らない人を見る顔で真帆を見た。 隣の女性が言った。 「写真なんだから、写真でいいでしょう」 真帆はファイル名を〈家族〉にしなかった。 撮影日と、三人の名を入れた。 第四十七章 部屋の外側 白樺台の跡に、新しい賃貸住宅が完成した。 一階ラウンジは、入居者専用になった。 青環の完成写真を、真帆が撮ることになった。 以前とは別の担当者からの依頼だった。白樺台の写真集を見たうえで、人物の利用条件を契約書へ入れていた。 モデル家族は使わない。 家具だけのラウンジを、朝、昼、夜で撮る。 真帆は十六ミリレンズを取り付けた。 広告写真には、空間の広さを伝える役割がある。補正を使うこと自体が嘘ではない。何のために、どこまで変えたかを知っている必要がある。 ラウンジの長机には、同じ椅子が十二脚並んでいた。 真帆は一脚だけ少し引いた。 「動かしていいんですか」と担当者。 「使う直前に見えるように」 「整列した方が、きれいです」 「両方撮ります」 整列した写真と、引かれた椅子の写真。 選ぶのは依頼者だが、選択肢は撮影者が作る。 仕事を終え、商店街の共同室へ寄った。 入口に、部屋番号はない。 佐和が夕食を作らない日で、弁当が届いていた。苑は遅番。律は部活動。嘉一は来ない。知らない高齢者が二人と、外国語を話す親子、大学生だった人の後輩がいる。 八脚のうち、三脚が空いていた。 椅子は白樺台から持ってきたものだった。籐椅子の白い紐、学校椅子の廃棄番号、房江の肘掛け。低い木椅子の底には、高桑真理の名が残り、その横へ律が小さく自分の名を書いていた。所有権のためではなく、次に誰かが探したとき、ここまで運ばれた順番が分かるように。 壁には利用規則と非常口の地図がある。献立表の横へ、今週休む人の欄が新しく作られていた。佐和の名が二日、苑の名が一日。空いた担当を埋める人は、家族だからではなく、できるときだけ丸をつける。 「写真の人も食べる?」 新しい子どもが訊いた。 「今日は、カメラを持っていません」 「仕事じゃなくても、お腹は空くでしょう」 どこかで聞いた言葉だった。 佐和が、人数を確かめてから一枚多く皿を出した。遅番の苑が来るかもしれないし、来なければ誰かがおかわりする。空席の名を先に決めない置き方だった。 真帆は空いた椅子へ座った。 誰も、どの家の人かを訊かなかった。必要なら、食べたあとで名前を聞けばよかった。 その順番で、本当によかったのだ。 四〇七は、本当の空室になった。 その部屋を使っていた家族は、同じ場所にも、同じ名簿にもいない。 それでも夕食の皿は、家族と呼ぶ前に、人数分だけ並べられた。

空室の家族
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