第一章 三時五十分に目が覚めた。目覚ましはまだ鳴っていない。ここ何年か、鳴るより先に目が開くようになって、鳴らさずに済ませた朝のほうが多くなった。仮眠室の窓は北を向いているので、この時季になっても夜明けの色は入ってこないし、入ってこないほうが体には楽だった。上段の寝台は誰かが寝返りを打つたびに枠の継ぎ目が軋むので、いつのころからか下段しか取らなくなっていた。毛布を膝で送り、足の裏を床につける。立ち上がるまでに少し間があった。膝の内側で小さな音が鳴って、それから体のほうが先に起きた。靴下は履いたまま寝ていて、指の股が湿っている。向かいの下段では別の泊まりが顔まで毛布をかぶって寝ていて、起こさないように立ったつもりだが、この部屋の床は誰が歩いても同じところで鳴る。毛布は洗ってあっても、洗剤とは別の、代わる代わるここで寝た者の匂いが芯に残っている。 蛍光灯の紐を引いた。明るいままだった。もう一度引くとようやく消えて、部屋の中がドアの下の隙間から入る廊下の光だけになった。切れかけているのは去年の秋からで、点検票に一行書けば部品はその週のうちに来るはずのものを、誰も書かない。書かないまま、みんな二回引いて出ていく。 枕元のペットボトルはぬるく、底から指二本ぶんだけ残っていた。 洗面所は廊下の突き当たりにあって、蛇口が四つ並んでいる。三番目だけ、栓をひねってから水が出るまでに六秒かかる。手前の二つはひねればすぐに出るのに、鏡についた縦の傷がちょうど顔の真ん中に来るのが嫌で、いつのころからか三番目に立つようになっていた。ひねって、口の中で六つ数える。数え終わる前に水が来たことはまだ一度もないが、五つ目のあたりで管の奥がごとりと動く音だけは毎回きちんと届く。両手に受けて顔を打ち、耳の後ろまで濡らしてから、タオルを首にかけたまま歯を磨いた。去年の暮れに奥歯の詰め物が取れて、そこだけ舌が段差を覚えている。歯医者には二度行って、三度目の予約を入れないまま五月になった。 更衣室のロッカーは上から二段目で、扉の内側に去年の健康診断の紙がまだ貼ってある。制服の第二ボタンは去年の十一月につけ直したもので、白のつもりで買ってきた糸が、家の蛍光灯の下で並べてみると元の糸より少し青かった。 「誰も見てないって」 「見るのは、締めるときだけでしょう」 そう言った覚えがあるが、言ったのが自分だったか恵子だったかは、いま思い出すと入れ替わる。実際、それから誰にも言われたことはない。留めるときだけ、指がそこで一度止まる。 点呼室の壁には乗降人員の表が貼ってあって、新東大和駅のところに二万八千四百という数字が入っている。去年の紙のままなのか今年に貼り替えたのかは知らないし、聞いたこともない。生駒助役は必ず、アルコール検知器を差し出す前に一度咳をする。風邪ではない。四十四歳で、一昨年の暮れごろからその咳をするようになった。 「戸羽さん、おはようございます。体調のほうは」 「変わりありません」 「昨日の下り、二十二時台に十二分の遅れが出てますけど、聞いてます」 「聞いてます。踏切の非常ボタンですよね」 「そうです。人は無事で、復旧もしてます。はい、吹いてください」 咳が先に来て、それから息を吹き込むと、機械が短く鳴った。 「〇・〇〇。体温は」 「三十六度二分です」 「はい。行路いきます。四五二行路、〇〇〇二列車、多摩台出区四時四十一分、新東大和一番線着五時〇八分、始発五時十四分発、各駅停車、八両」 「四五二行路、〇〇〇二列車、多摩台出区四時四十一分、新東大和一番線着五時〇八分、始発五時十四分発、各駅停車、八両」 「上り線、第三閉塞の先で保線が入ります。始発の時間帯に徐行の指示は出ていませんけど、線路脇に人が見えたら」 「見えたら確認して、報告します」 「お願いします。時計、四時〇六分ちょうど」 「はい」 「あと、予備の鍵、昨日の泊まりの人が持っていったままなんですけど、戸羽さん見てません」 「見てないです。箱には入ってなかったですか」 「入ってないから聞いてるんですけど」 「戸羽さん、息子さん、どうなりました」 「まあ、いろいろあります」 「うちのは今年、中三で」 読み合わせのあいだ、二十六年やっていても、数字は口の中で一度組み立ててから出している。数字を数字のまま返せなくなったら降りるつもりでいるが、そういう朝はまだ来ていない。生駒助役は判を押し、指を舐めて次の頁をめくり、こちらの返事を待たずに次の行路を呼んだ。 行路表は三つ折りで、折り目は毎回同じところに来る。糊が弱っていて、開くと右下から先に開く。ポケットに入れる前に、出区の時刻のところをもう一度だけ見た。 机の端では、今年入った子が業務日誌を開いていた。まだ書き慣れないらしく、定規を当てて罫の上をなぞっている。 「おはようございます」 「早いな」 「乗り継ぎが二本しかなくて、この時間で来ると三十七分あまるんです」 「そうか」 「戸羽さん、傘って、何日で倉庫にいくんでしたっけ」 「うちの扱いだと、駅で四日預かって、出てこなければ五日目の朝に倉庫へ回る」 「四日ですか。短くないですか」 「取りに来る人は次の日に来る。次の日に来ない人は、たいてい来ない」 「戸挟みって、どこまで見ればいいんですか。八両ぜんぶ走って見にはいけないですよね」 「見えるところは見る。見えないところは、閉まる音で分かるようになる」 「音、ですか」 「ひと月半もやれば分かる。分からないうちは、閉めてから一度、必ず振り返っておけばいい」 「振り返るんですね」 「振り返って、誰も走ってこないのを見てから合図を出す。順番を変えないのが、いちばん覚えが早い」 「昨日、自転車がパンクして、ここまで押してきたんですよ」 定規が滑って、線が少し曲がった。返事をする前に向こうが消しゴムを探しはじめたので、こちらは行路表をポケットに入れ、椅子を机の下に戻して出た。 屋外へ出る鉄扉は重い。取っ手を引くだけでは動かず、腰を当てて押す。押す場所はいつも同じで、塗装がそこだけ剥げて下地の灰色が細長く出ている。外の空気は五月にしては冷たく、油と、夜のうちに撒かれた水を吸った砂利の匂いがした。空はもう白くなっていて、いちばん低いところに一つ残っていた星も、目を戻したときには消えていた。 側線に、二両編成の事業用車が停まっている。黄色い車体で、屋根に作業台が載っていて、その手すりに巻かれた布が去年から解けたままになっている。入社した年からそこにあって、動いているところを見たことがない。検査は受けているはずだし、車籍もあるはずで、たぶん自分が寝ている時間のどこかで動いている。見ていないだけだと思っている。 受け持ちの八両は三番線にいた。連結面の下から冷えた空気が流れてきていて、車体に手を置くと、掌のほうが先に温度を持っていかれた。夜のあいだの温度がそのまま金属に残っている。手のひらを一度離してズボンで拭き、乾かしてから、もう一度同じところに置いた。 点検は順番を変えない。左側を前から後ろへ歩いて、車側灯を一つずつ確かめていく。レンズの内側に虫が入りこんでいる日があるので、光り方が少しでも鈍ければ屈んで覗く。それから反対側へ回り、同じ順で戻ってくる。放送設備を入れて自分の声を車内に一度流し、無人の八両に自分の声だけが戻ってくるのを聞いてから、ドアスイッチを扱って開けて閉め、戸挟みは指を差し入れて確かめる。非常通報装置のボタンを押すと、運転台のほうでブザーが鳴るのが遠くに聞こえた。 車内に入って、座席の下を屈んで見ていく。空き缶が一つ、三両目のドアの脇に転がって、車体が揺れるたびに同じ幅で行ったり来たりしていた。四両目の、進行方向に向かって左の、七人掛けの端の下に、傘が一本落ちている。ビニールではない。紺で、骨が八本あって、持ち手に籐が巻いてある。名札はついていない。留め具に髪の毛が一本巻きついていて、床の色に紛れて見えにくいのに、屈んだ角度からだけ細く光った。籐は端がほつれ、巻きの下から木地が出るところまで使われている。屈んだまま少し見て、そのままにして次の車両へ移った。 五両目の便所は、水を流してから扉を押さえて音を聞く。タンクに水が戻る音が途中で切れる日があって、そういう日は駅に着いてから申し送ることになっている。今朝は最後まで鳴りきった。消火器の封印は八本とも切れておらず、車内の温度計は十八度を指していた。 懐中時計を出した。一九九八年に支給された鉄道時計で、裏蓋の内側に打ってある番号がもう読みにくい。構内の時計の真下に立ち、秒針が十二を通るのを二度見てから、竜頭を戻して蓋を閉じた。ずれていなかった。ずれていた朝のことは思い出せない。鎖は途中で一度切れて、金物屋で買った輪でつないである。制服の胸の裏には支給されたときからポケットがあって、そこに入れるためだけに作られた大きさの穴だから、他のものは入らない。 先頭へ戻ると、運転台にはもう座っていた。同じ年に入った男で、後ろ姿と、帽子を浅くかぶる癖でわかる。ガラスの向こうで顔を上げ、こちらを見て、頭を少し下げた。こちらも下げた。それで二人とも正面に向き直り、あとは互いの手元しか見ていない。運転台の机には水筒と、四つ折りにした新聞が置いてあって、新聞は毎朝、同じ折り方で同じ位置に置かれている。 最後尾の車両から、掃除の人が降りてきた。片手にバケツを提げていて、歩くたびに中の水が揺れて、縁の内側で短く音を立てる。すれ違いざまに何か言われ、はじめの二文字だけが耳に届いた。 「今日は」 そのあとが聞き取れなかった。こちらは頭を下げて、聞き返さずに歩いた。 車掌室に入って扉を閉め、無線機の送話ボタンを押す。 「多摩台、こちら〇〇〇二列車。無線試験」 「多摩台、感度良好」 返ってきたのは生駒助役の声で、語尾だけ点呼のときより低くなっていた。マイクを掛けに戻し、時刻を見て、窓を三分の一だけ開けた。 四時四十一分。入換信号が変わり、足の裏から動き出す感じが先に来て、それから窓の外の景色のほうが遅れて動いた。ドアの窓に額を寄せて後方を見る。基地の照明が一つずつ後ろへ流れていき、ポイントを渡る音が三度、間を置かずに続けて鳴った。 線路の東側は切り通しになっていて、斜面に光が当たりはじめていた。五月は草が伸びる。刈られた跡から上だけが伸びて、丈が揃わないまま、風に押されて一斉に同じ向きへ倒れた。 第二章 新東大和の乗務員詰所は北向きの窓がひとつあるきりで、三月に入っても午前のうちは電気ストーブを切れない。戸羽が扉を引いたとき、三宅玲奈はもう長机の端にいて、膝の上に行路表を広げていた。乗務に出るのは今日で四日目になる。マスクの上の目のふちが赤かった。花粉かと思ったが聞かずに、ストーブの前へ回って両手を裏返し、裏と表を七秒ずつあぶった。指の関節が朝の形から抜けるまで、この時期はいつも少しかかる。 「おはようございます」 「うん」 行路表は配られたときから三つ折りになっている。戸羽のものは折り目が白く毛羽立って、下り四本目の欄の数字が読みにくくなっていた。玲奈のはまだ角が立っていて、机に置くと勝手に開いた。二十六年でこれを何枚受け取ったか、数えたことはない。 「それ、折らないんですか」 「折らんでもいい。上着に入るように折ってるだけだ」 「私、鞄に挟んでました」 「入るならそれでいい」 生駒助役が入ってきて二人の名前を読み、行路表の番号を頭から読み合わせた。戸羽は上着の内から懐中時計を出した。一九九八年に支給されたセイコーで、蓋の内側に細かい刻印が残っている。壁の時計と秒針の頭を合わせ、竜頭を押し込んで、また内ポケットへ落とした。玲奈は左の手首を目の高さまで上げ、竜頭を引いて、四つ数えるあいだ止めてから押し戻した。 「合わせなくていいのか」 「合ってました」 「ならいい」 玲奈は二月の終わりに車掌に登用されて、初日は戸羽が全部やるのを後ろから見ているだけだった。翌日とその次は、駅に停まるたびに手順を声に出して言わせた。今日から手を動かさせると決めてきたが、そのことは本人に言っていない。前の晩に予告すると、朝のうちから指が固くなる。昨日の終わりに玲奈が「明日は何をしますか」と聞いたときも、行路表を折りながら、寒いから飯を食ってこいとだけ答えた。 ホームは風が抜けた。 八時二十七分の下りが一番線に入ってきた。運転士は桜庭で、乗務員室の窓から手を上げ、玲奈のほうを見て何か言いかけたが、ちょうど発車の放送が始まったので口を閉じた。戸羽は玲奈を先に後部の乗務員室へ入れ、自分は扉の内側に立って、後ろ手で閉めた。二人入ると狭い。体を斜めにしないとすれ違えない。窓の下の壁は先月塗り直したばかりで、洗剤とシンナーの混じった匂いがまだ抜けきっていなかった。 「やってみろ」 「はい」 「俺は触らない。手を出すときは声に出す」 停止位置に着くまでのあいだ、玲奈はドアスイッチの蓋に指をかけたまま、標識と自分の位置を二度見比べた。ブレーキが緩んで車体が前へ沈み、床が止まる。玲奈が開のボタンを押すと、空気の抜ける音が後ろの三両ぶんまで走って、ホーム側の車側灯が順に消えた。降りる客は七人で、傘立てのある柱の裏から中学生が二人、走らずに乗ってきた。 「消えたか」 「消えました」 「声に出して数えろ。人が切れるまで」 「一、二、三、四、五」 六まで数えて、玲奈は指を閉のボタンへ移した。階段のほうから男がひとり、紙袋を胸に抱えて小走りに来る。玲奈の指が止まり、また戻り、男が乗り込むのを見てから押した。戸が閉まっていく。三両目の車側灯だけが消えなかった。 「灯」 「あ」 玲奈は窓から首と肩を出した。紙袋の持ち手が戸に噛んでいて、中から男が引いている。開、二秒、閉。灯が消えた。玲奈の耳のうしろが赤くなっていて、マスクの紐がそこに食い込んでいた。 「今、何秒かかった」 「分かりません」 「十九秒だ。次から数えろ」 「はい」 「怒ってない。数える練習だ」 「頭の中で数えるのは駄目ですか」 「口でやれ。慣れたら頭でいい」 「どのくらいで慣れますか」 「人による。俺は最初の冬までかかった」 戸羽は自分の両手を上着のポケットに入れた。二十六年前にこれを教わった相手は、戸羽が閉め遅れるたびに横から腕を伸ばしてボタンを押した。四十三の小柄な人で、指導のあいだじゅう飴を舐めていて、乗務員室にはいつも薄荷の匂いがしていた。悪気があってやっていたのではないと今でも思っている。ホームが混んでいて、遅らせれば次が詰まる。五月から七月までそれをやられて、戸羽は自分の指がいまどこにあるのか分からなくなった。ホームを見ているつもりで、横から手が伸びてくる瞬間を待っている。気づいたのはその年の暮れで、その日から乗務員室では相手の手が届かない側に体を寄せる癖がついた。だから触らないと決めている。理屈は先に言わない。言えば、できない理由のほうを先に覚えてしまう。玲奈の指は閉のボタンに乗せる位置が押すたびに変わっていて、爪の先で当てにいく癖がついている。それも半年やれば勝手に定まるもので、いま言っても直りはしない。教えたその人は六年前の春に定年で辞め、いまは千葉のほうにいると人づてに聞いたきり、年賀状も来なくなった。手順はひとつ残らず覚えているのに、声だけがもう出てこない。 二つ目の駅で玲奈は十四秒、三つ目で十一秒だった。放送は三つ目まで文言を飛ばさずに言えたが、乗り換えの案内のところで一度だけ、路線の名前を言ったあとに自分で「失礼しました」と足した。マイクを戻す手つきが、乗務員手帳をめくる手つきと同じ速さになっている。戸羽は窓の外を見ていた。 四つ目のホームは緩く曲がっていて、後ろの四両が窓からは見えない。玲奈は身を出したまま、確認を早く切り上げて首を戻した。 「端まで」 「見ました」 「戻して、もう一回見ろ」 玲奈がもう一度、ホームの先端まで目を送った。戸が閉まり、灯が消え、ブザーを鳴らして、放送のマイクを握る。次の駅名を言うところで一度息が詰まり、言い直した。走り出してから、玲奈は手のひらを制服の腿でこすった。 「なんで二回なんですか」 「一回だと、見たと思っただけのことがある」 玲奈は返事をしなかった。トンネルを抜けて、車内の照明が明るく見えなくなったころに、「はい」と言った。 終点で二十六分空いた。折り返しの清掃が入るあいだ、ホームの端のベンチに二人で座った。自販機の温かいほうを押すと、いちばん下の段しか出てこない。戸羽は緑茶の缶を持ち、玲奈は紙パックの紅茶にストローを刺した。マスクを顎まで下ろすと、鼻の頭だけが日に焼けている。三月の風はまだ内側が冷たくて、待っているだけで足の先から冷えた。 「戸羽さん、自転車、どこに置いてますか」 「駅の裏の月極。三千七百円のところ」 「私、撤去されました」 シールの更新を忘れていた、と玲奈は言った。アパートの置き場が管理会社の持ち物で、二月末で番号が切り替わる。貼り直しの用紙は郵便受けに入っていたが、不動産屋の広告の束と一緒に捨てたらしい。保管所は駅から歩いて十八分あって、日曜と祝日は開かず、平日も四時十五分で窓口が閉まる。三千百円を払い、身分証と自転車の鍵を持って、明るいうちに引き取りに行く。防犯登録の控えは実家にあると玲奈は言い、母親に探させると、ついでに他の郵便物まで全部開けられる、とも言った。 「今日、非番だったら行けたんですけど」 「明日は」 「明日も乗務です。明後日、朝いちで行きます」 「印鑑も要る場合がある。電話して聞け」 「そこまで聞くんですか」 「二回行くほうが面倒だ」 「戸羽さん、そういうの、いつも先に電話するんですか」 「二回行った年がある」 上着の中で携帯が短く震えた。戸羽は取り出して画面を見た。恵子からで、二行あった。読んでから、伏せてベンチの木の上に置き、缶を両手で包み直した。返事は打たなかった。玲奈は紙パックのストローの先を噛んで、平たくしていた。 「お子さん、いるんですか」 「いる」 「いくつですか」 「大きい」 玲奈はそれ以上聞かず、少し足を前に投げ出して、支給された黒い靴の踵を見た。ばんそうこうが二枚、内側から貼ってあるのが横から見えた。 「靴、痛くないですか」 「梅雨が明けるころには馴染む」 「梅雨明け」 「馴染まなかったら、中敷きを替えろ。売店のは薄いから、駅の外で買ったほうがいい」 「放送って、みなさんどこで練習してるんですか」 「風呂だ」 「風呂ですか」 「壁が近いから、声が戻ってくる。ほかにやりようがない」 玲奈は紙パックを両手で潰して、角を折り、鞄の外ポケットに立てて入れた。三月の日は駅の屋根の切れ目からベンチの端までしか届いていなくて、そこだけ木が乾いていた。 清掃の車が来て、ホームの反対側でモップの柄が手すりに当たる音が続いた。桜庭が運転席から降りてきて、腰を反らせて伸びをして、こちらへ寄ってきた。 「三宅さん、朝、俺のこと無視したでしょう」 「見えてませんでした」 「戸羽さんの後ろにいると誰も見えないんだよな」 桜庭は笑って、玲奈の返事を待たずに詰所のほうへ歩いていった。缶の底に残った茶はもう冷たくなっていて、戸羽は最後の一口を飲まずに捨てた。懐中時計を出し、蓋を開けて、閉めた。折り返しまで、あと十一分あった。 午後の上りは空いていた。 降りるのが二人、乗るのが一人という駅が続き、そのぶん玲奈の間の取り方がはっきり出た。閉扉から出発合図までが揃ってくる。十一秒、十一秒、十二秒。三つ目のホームで、日に当たった鉄柵の白い塗りがところどころ剥げているのが見えて、去年の秋に塗ったばかりのはずだと戸羽は思った。四つ目で乳母車が乗り、母親が畳むのに手間取ったので、玲奈は最後まで待ってから戸を閉め、車側灯を二度見た。前に立っていた男が乗降口の扉に寄りかかっていて、閉まる直前に自分から体を起こした。乗降人員は新東大和だけで一日二万八千四百、そのうち戸羽が顔を覚えているのは売店の女の人と、平日の朝にいつも先頭の乗降口へ来る背の高い男くらいしかいない。戸羽は何も言わなかった。 「今の、どうでしたか」 「はい」 「はい、って」 「それだけだ」 「今までは、駄目なときだけ言ってましたよね」 「駄目なときは言う」 「じゃあ、はいは」 「今のは十二秒だ」 玲奈は口の中で何か言って、行路表の角を折った。三つ折りの外側に、もう一つ折り目がついた。 新東大和のひとつ手前で、戸羽はドアスイッチの蓋に手を置き、親指の腹で縁の埃をぬぐった。窓の外を線路脇の斜面が流れていく。土が乾いて白く、去年の草が枯れたまま短く残っていて、その隙間から新しいのが出はじめていた。日の当たる時間は二月より長くなっている。上りのこの区間は東側の斜面を見ながら走ることになるので、二十六年のあいだ、季節の変わり目はいつもこの土手で分かった。四月の終わりには丈が膝ほどになり、五月には手入れの入る前に一度伸びきる。 「うちのは、来年もう一回受けることになるかもしれん」 玲奈が顔を上げた。 「受験ですか」 戸羽は蓋を閉め、時刻を見た。制動が入って、車体が前へ沈む。 「次、左だ」 「はい」 玲奈が蓋を開けた。 第三章 三月二十六日、十五時五十一分に、下り一二四二列車は駅間の築堤の上で停まった。非常制動ではなく前方の信号が赤に変わっただけの停止だったので、床下から空気の抜ける音がしたきりで、車内の話し声はしばらく同じ調子のまま続いていた。戸羽は乗務員室の窓を指の幅ぶんだけ下げ、レールの先を見た。カーブの向こうは伸びかけた草に隠れて見えない。無線が鳴ったのは十五時五十二分だった。 「多摩台指令。上り一三〇一列車、二つ先の駅間で人と接触。上下とも抑止」 指令の当務者は若い男の声に替わっていた。名乗りの言い方が教科書どおりで、二度目の送信では「以上」を言い忘れていた。戸羽は行路表を膝の上で開き、折り目のところに停止時刻を書き入れてから、マイクを取り、コードのねじれを指で一度ほどいた。 「ご案内いたします。ただいま、この先の駅間で人身事故が発生いたしました。安全の確認を行っておりますので、しばらくこの場所に停車いたします。運転の再開につきましては、分かり次第ご案内いたします」 言い終えてマイクを戻すと、三両目のあたりで、網棚から荷物を下ろす音がした。 車内温度計は二十四度を指していた。三月の午後の日が窓から入り、床に窓枠の影を並べている。戸羽は暖房を切って送風に替え、それから乗務員室の扉を開けて車内へ出た。出た瞬間に、通路をはさんだ両側で四人が立ち上がり、そのうちの一人はすぐ座り直した。順番というものはなく、いちばん近い席の、白い髪をうしろで束ねた女が先に口を開いた。 「これ、どのくらい」 「見込みは、まだ出ておりません」 「十六時十五分に予約が入ってるの。整形外科の」 「申し訳ございません」 「謝らなくていいから、どのくらいかを言ってちょうだい」 戸羽は懐中時計を出し、蓋を開けて、閉じた。一九九八年に支給されたセイコーで、鎖の環がひとつ、去年から歪んだままになっている。女の顔は見たが、時計の文字盤は見せなかった。 「一時間では、済まないと思います」 「じゃあ、ここで降りてタクシーを拾うわ」 「線路の上ですので、お降りいただけません」 「そう」 それだけ言って次の人のほうへ体を向けた。スーツの男は振替輸送のことを聞き、バスは出ないのかと聞き、出ないと答えると、では何のための鉄道かと言った。戸羽は同じ姿勢のまま、男が言い終わるまで聞いていた。男の言葉のなかに質問はひとつしかなかったので、そのひとつにだけ答えた。三つ先の席の高校生は何も聞かず、通路にしゃがんで携帯電話の画面を見ていた。そのうしろの、二十七、八の女は、保育園の延長保育が三十分ごとに二百円かかるという話を途中でやめ、この乗車券は他社線で使えるのかと聞いた。使えます、と答えると、そうですか、とだけ言って座った。 扉際に立っていた男は、会社に電話をしてほしいと言った。自分の携帯は充電が切れていて、十七時までに品物を届ける約束があるという。乗務員室の電話は指令にしか繋がらないことを説明すると、では指令から掛けてもらえないか、と言った。できません、と答えた。男はうなずいたが、すぐには席へ戻らず、乗務員室の扉の把手のあたりを見ていた。 そのとなりは外国から来たらしい若い二人連れで、片方が携帯の翻訳の画面をこちらへ向けた。この電車はいつ空港に着きますか、と日本語で出ていた。戸羽はこの路線が空港へ行かないことをゆっくり言い、それから通路を歩いて路線図の前まで一緒に行き、乗り換える駅を指で押さえた。二人はその図を写真に撮ってから、ありがとう、と言った。 いちばんうしろの車両の端では、七十二、三に見える男に三度同じことを聞かれた。三度とも同じ順で答えた。四度目にだけ、いつ動くのかではないことを聞かれた。 「あんた、いつから乗ってるの」 「十三時からです」 「そう」 行路表の裏に、鉛筆で縦線を一本引いた。 十六時二十二分に、三両目の非常通報装置が鳴った。通路を走って行くと、扉のわきに小さい子が立っていて、母親が両手で抱き寄せているところだった。押しちゃったんです、と母親が言い、それから、すみません、だけを二度続けた。戸羽は装置の復帰の操作をして、なんともありません、と言い、車内電話で桜庭に、誤扱い、異常なし、と伝えた。子供は泣かなかった。座席に戻ってからも、赤いボタンのほうをずっと見ていた。 乗務員室に戻って車内電話を取ると、桜庭はすぐ出た。三十三で、話しかけてくることでこの区所では通っている。 「戸羽さん、あれ、一三〇一って、誰が乗ってるか分かります」 「分からない」 「たぶん、うちの一つ下です。去年乗務員に上がったばっかりの」 「そうか」 「昨日、詰所で、そいつの結婚式の二次会の幹事を押しつけられて」 そこで一度途切れて、しばらく雑音だけになった。戻ってきたとき、桜庭は猫の話をしていた。腎臓が悪くて、二日に一度、背中の皮の下に針を刺して水を入れてやらないといけない。今日は自分の番だったという。 「もう間に合わないんで、嫁に言います」 「言ったほうがいい」 「戸羽さん、こういうとき、何回くらい説明します」 「数えたことはない」 嘘ではなかったが、正確でもなかった。 十七時二分、指令から、後方の駅まで推進運転で戻れという指示が出た。 「多摩台指令、一二四二列車。後方の駅まで推進運転、了解。前部の監視は車掌が行います。二十五キロ以下」 「一二四二、そのとおり。手歯止めの扱いはなし。開始したら報告」 放送を先に入れた。この列車はこれから、後ろ向きにゆっくり走ること、走っているあいだは座席にかけているか、つり革か手すりにつかまっていること。読み終えるころ、扉の向こうで、戻るの、これ、という声がした。戻るんだってさ、と別の誰かが答えていた。 戸羽は車内を通って最後部の乗務員室に移った。進行方向が逆になるので、いちばん前になるのは戸羽の乗っている運転台のほうで、桜庭は反対の端で、無線から流れる戸羽の声だけを頼りに速度をつくることになる。窓を全開にして、手袋をはめ、上半身を少し出した。風は思っていたより冷たかった。二十五キロ以下、と指令が二度言った。 「前方支障なし、進行してください」 「進行します」 「そのまま、二十五」 築堤の下には畑があって、ビニールをかけた畝が四本、こちらへ向かって伸びていた。踏切がひとつある。遮断桿が下りていること、手前で軽自動車が一台待っていることを確かめてから、送信した。 「踏切、遮断、支障なし。そのまま二十五」 「二十五、そのまま」 通過したあと、首を出してもう一度うしろを見た。距離の標を読み上げるたび、桜庭が同じ数字を返してきた。 「あと二百」 「二百」 「あと五十、二十まで落としてください」 「落とします」 「あと十。行き過ぎなし。停止」 窓枠が停止位置の標識に重なり、列車は駅の一番線に、頭からではなく尻のほうから入って停まった。七百二十メートルを、十一分かけて戻ったことになる。戸羽は手袋を脱いで机に置いた。左手のすぐ横に、主幹制御器のハンドルがあった。 ドアを開けると、ホームは思っていたほど混んでいなかった。 改札に人が溜まっていた。駅係員は二人で、一人は改札、一人は券売機の前に立って同じことを繰り返していた。券売機のほうは今年入ったばかりの男で、振替輸送票にゴム印を押す手が止まるたびに、後ろの列が半歩ずつ詰まった。日付の活字が前の日のままになっているのを見つけて、戸羽が輪をひとつ回して直した。 「ありがとうございます」 「押すのは券の端でいい。真ん中だと、次の会社が読めなくなる」 「はい」 戸羽はホームの中ほどに立ち、階段のほうを向いて、また同じ言葉を並べた。振替輸送の取り扱いをしていること、対象になる路線が三つあること、バスの手配は当社では行っていないこと、再開の見込みは十八時をめどに改めて案内すること。四十三の年のどこかから、同じ順で同じ言葉が出るようになり、途中で息を継ぐ場所まで毎回同じになった。喉の奥が乾いて、唾を飲むと痛みがあった。十七時四十八分に、ホームの自動販売機でいつもの茶を買おうとしたら売り切れていて、隣の甘い紅茶を買った。ひと口だけ飲み、蓋を閉め、上着のポケットに入れた。 聞かれることは、だいたい七つの型に分かれていた。いつ動くのか。どうして動かないのか。他の路線は使えるのか。金は戻るのか。誰かに連絡できるのか。どこで待てばいいのか。そして、亡くなったのか。 最後のものを聞いてきたのは、階段の下のところに立っていた学生だった。制服の上に薄いブルゾンを着ていて、鞄を胸の前で抱えていた。 「あの、人って、その」 「詳しいことは、当社では分かりかねます」 「そうですよね」 学生は階段を二段だけ上がって、そこでまた止まり、携帯を出した。当社では分かりかねます、というのは決まった答え方で、そう答えるように書いてある。書いてあるとおりに言ったし、実際に分からなかった。分かる立場にいる人間はこの駅にはいない。 運転再開は十八時十四分だった。事故現場のある区間だけ二十五キロの徐行で、そのぶんの遅れが後ろへ順に積み上がっていき、戸羽の列車が終端の駅で折り返す時点で、遅延は二時間二十三分になっていた。乗ってきた客はほとんど何も言わなかった。降りぎわに一人だけ、大変ですね、と言った男がいたが、ドアの操作をしていて返事をしそこねた。ドアが閉まってから、車側灯の消えるのを確かめ、出発の合図を送った。 桜庭とは、二十一時四十分に区所の廊下で会った。 「あいつ、今夜は帰れないですね」 それきり桜庭は何も言わずに更衣室へ入っていった。猫のことを聞こうとして、やめた。 終業点呼は二十二時六分だった。生駒助役は左手で菓子パンの袋を押さえたまま右手で書類をめくっていて、夕方から何も食べていないらしかった。咳をひとつしてから、アルコール検知器を差し出した。数字はゼロだった。 「振替、何枚出した」 「四十三枚です。あと、券を持たずに出た人が、十人くらい」 「十人くらい、じゃ書けないのよ」 「十一人にしておいてください」 「明日の朝、二番の行路、人が足りないのよ」 「明日は休みです」 「知ってる。言ってみただけ」 生駒はそのまま十一と書き、菓子パンの袋を引き寄せた。戸羽は日誌を開き、事象発生時刻の欄に十五時五十一分と入れ、運転再開の欄に十八時十四分と入れた。上着の胸ポケットから行路表を出して、裏を返した。鉛筆の線は五本ずつまとまって、正の字が十二できていた。行路表をたたんで戻し、日誌の続きを書こうとしたら、ボールペンのインクが出なくなった。引き出しを開けて別のを一本取り、試し書きを紙の隅にしてから、続きを書いた。 第四章 四月七日の明けは、点呼が九時四十分に終わった。更衣室を出るまでにさらに十八分かかっている。ロッカーの鍵が去年から回りにくく、油をさそうと思ったまま二度の冬を越して、鍵穴に挿すたび手首をひねる角度が少しずつ深くなっていた。新東大和の改札を出ると風が北に回っていた。襟を立てた。家までは千八百メートルある。信号を三つ渡り、公団の建て替えの仮囲いに沿って左へ折れると、そこから先は坂になる。坂の途中の椎の木は去年の秋に市が枝を落としてから日陰が半分になって、四月のこの時刻でも路面が乾いている。歩いて二十二分。バスは駅前を五分おきに出ているが、この六年で乗ったのは雪の日と、膝を痛めた年の二度だけだった。坂を上がりきる手前で、隣の家の庭木の枝が塀を越して歩道に出ていた。去年も出ていた。同じ枝が同じところに出ていて、言えないまま夏になった。郵便受けには市の広報と、ガス点検の不在票が入っていた。点検に来たのは先週の火曜で、希望日を書く欄が空白のままになっている。 三和土に悠人の運動靴が横を向いて脱いであった。かかとは両方とも踏み潰され、右は踵の芯が抜けている。爪先を壁へ向け直した。その隣に自分の靴を並べた。 家の中は明けの日の匂いがした。居間には誰もいない。恵子が朝に回した洗濯機がまだ止まっておらず、脱衣所で最後のすすぎが動いている。カーテンは半分だけ開いていた。卓の上には、ゆうべの新聞が四月六日の面のまま畳まれていた。 台所の卓に、封筒が一通、裏返して置いてあった。 窓の部分から予備校の名前が透けている。恵子の字の付箋が貼ってあり、「七日までに振込」とだけ書いてあった。封はもう切ってある。中は三枚。いちばん上が入学手続きの案内、次が納入金の内訳、いちばん下が振込依頼書で、依頼書だけ紙が厚い。本科の授業料が七十九万二千円、入学金が九万八千円、教材費と模試代を合わせて四万三千二百円。合計は九十三万三千二百円になる。二期に分けることもできるが、そのときは手数料が三千円上乗せされ、二回目の期限が九月三十日と印刷されていた。クラスは学力別に六段階あって、上の三つは入室テストの点で決まると書いてある。座席は前期のあいだ指定で、席替えは六月にあるらしい。保護者面談は七月と十一月の二回で、平日の昼間しかない。案内の裏には去年の合格者数が大学別に並んでいて、いちばん下の行だけ小さい字で、これは延べ人数であると断ってあった。三枚を卓の上で揃えた。それからもう一度揃え直した。 十二時を過ぎていた。銀行は三時まで。通帳と印鑑は仏間の簞笥の二番目の引き出しに入っている。 引き出しを開けると、通帳の下に住宅ローンの返済予定表が挟まっていた。二月に銀行から送られてきたもので、繰上返済をしない場合の残高が年ごとに印字してある。この三月末の欄に千百四十万円とあった。完済の年に自分は六十四になる。数字のところを親指で押さえた。しばらく押さえていた。紙を元の順に戻し、通帳と印鑑だけを取って引き出しを閉めた。 廊下の奥で戸の開く音がした。悠人が出てきた。丈の合っていないスウェットの上下で、髪が右側だけ立ち、寝押しの跡が耳の上から後頭部までまっすぐ走っている。冷蔵庫から麦茶のポットを出し、そのまま口をつけた。 「コップ」 「うん」 コップは出さなかった。ポットを戻すとき、扉の中の卵のケースの位置だけ直していた。 「木曜、テストなんだって」 「クラス分けの」 「何時から」 「九時二十分。八時には出る」 「自転車、後ろの空気入れてやろうか」 「パンクしてる」 「いつから」 「先々週」 「タイヤごとか」 「知らない」 「虫ゴムだけなら百円で直る。物置に空気入れも継ぎもある」 「今日いい」 「今日じゃなくていい」 「うん」 麦茶のポットの底に、氷が二つだけ残って鳴っていた。悠人はそれを流しに捨てずに、冷蔵庫に戻したままにしている。 「ガスの人、来た?」 「不在票が入ってた」 「二回来てる。おれ寝てた」 「日にちだけ書いて出しとけばいい。土曜でも来る」 「土曜、いる?」 「土曜は明けだ」 「明けって、いるってこと?」 「昼から寝る」 「じゃあいい」 流しの前に立ったまま、蛇口の根元の水垢を指でこすっている。落ちない。三月の終わりに髪を切ってから、後ろはまだ伸びていない。国公立の後期の発表があった日の夜も、この台所の同じ場所に立っていた。あの晩に自分が何を言ったのか思い出そうとして、思い出せなかった。何も言わなかったのかもしれない。恵子は言ったはずで、その内容も覚えていない。覚えているのは、湯を沸かしたまま忘れて、笛が鳴りだしてからも誰ひとり立たなかったことだけだった。 悠人が部屋に戻ってから、卓の上で経路を数えた。予備校は立川にある。うちの線では行けない。新東大和から本線で十一分、乗り換えの待ちが朝は四分から六分、そこからJRで十九分。八時に出れば九時二分には着く。八時と言ったのは、自分で調べたからだろう。運賃はうちの線が百九十円、JRが二百二十円で、片道四百十円になる。往復で八百二十円。週に六日通えば月に二万一千円を超える。うちの線の区間だけなら、通勤の一か月定期が六千八百四十円で、通学定期はその半分より下になる。JRのぶんは窓口で聞かないと分からない。回数券は十一枚綴りで千九百円だから、往復で使えば六日で終わる。三度やった。三度とも同じ数字になった。 一時半に家を出た。振込依頼書は窓口でないと受け付けないと壁に貼ってある。番号札は三十四番。前に十一人いた。ソファに座って、投資信託のポスターを二度読んだ。前の番号の男が、通帳の記帳が途中で止まったと窓口で話していて、二年ぶんをまとめて記帳しようとしたら繰越の手続きが要るらしく、声が大きいので、何行ぶんが合算で印字されるかまで聞こえてきた。呼ばれてから、氏名欄の「羽」の四画目が枠をはみ出していると言われて、訂正印を押した。持っていったのは認印で、届出印ではなかったが、振込には要らないと言われた。窓口の女性は途中で一度奥へ下がり、戻ってきて、システムの反応が遅くて申し訳ないと言った。手数料は六百六十円。控えは財布ではなく上着の内ポケットに入れた。外に出ると風が止んでいた。 帰りにドラッグストアに寄った。湿布を買った。恵子が使っているのと同じ青い箱の、四十枚入りのほうを二つ。 恵子が帰ってきたのは三時四十分だった。惣菜は二時上がりの遅番だが、揚げ物の型を洗ってくるので、いつも三十分は遅れる。手を洗った。それから右の親指の付け根を左手で押して、押したまま蛇口の水を止めた。三月に整形外科で腱鞘炎だと言われて、注射は断ってきている。同じ売り場にいた人が先月の二十日で辞めて、補充がまだ来ない。 「振り込んできた」 「ありがと。控えは」 「ここ」 内ポケットから出した。渡した。恵子は両手で持って金額のところを見てから、冷蔵庫の横のマグネットに挟み、挟んでから紙の傾きを少し直した。 「今日ね、フライヤーの油、替える日じゃないって言われた」 「誰に」 「四月から来た人。チーフになったの」 「そうか」 「四日に一回だったのが、六日に一回になった。揚げると匂いでわかる」 「そうか」 「同じこと二回言ってる」 冷蔵庫の扉が半端に開いていて、警告音が鳴りはじめた。手を伸ばして押し戻すと、控えの紙が風で少し浮いた。 「あの子、テストのこと言った?」 「木曜だって」 「それだけ?」 麦茶を出し、コップを二つ並べた。一つに注いで、もう一つは注がずに置いた。 「あなたから何か言ってやってよ」 「何を」 「何をって……」 「一年くらい、べつにどうってことない」 「そう思ってるなら、そう言えばいいでしょう」 「言ってるだろ、いま」 「私にじゃなくて」 「言えば言ったで、うるさがる」 「うるさがればいいでしょう」 「そういうもんじゃない」 「じゃあどういうものなの。三月の二十四日、あの子が発表見て帰ってきた日。あなた、風呂から出てきて、天気の話だけして寝たでしょう」 「覚えてない」 「覚えてないでしょうね」 袋から湿布を出して卓に置いた。恵子はそれを見た。箱を一つ手に取り、開けずに戻した。湿布の袋はレシートが入ったまま卓の端に残った。去年の十一月にも同じ箱を買っていて、そのときは何も言わずに洗面所の棚に入れ、棚の奥にはまだ十七枚残っているはずだが、恵子が貼っているのは匂いの弱いほうかもしれない。箱の裏の成分の欄を読むと、どちらにも同じ名前が同じ順で並んでいた。 夕飯は恵子が持ち帰った売れ残りの唐揚げと、ひじきの煮物と、豆腐だった。唐揚げは店で四時に一割引の札が貼られ、六時に半額になる。半額になる前のものを恵子が持って帰ることはない。五個入りのパックが二つあって、片方は衣が半分剝がれていた。ひじきは自分が作ったほうで、豆腐は隣の売り場のもので、期限が今日までのものだった。悠人は自分の分を皿に取って部屋へ持っていった。前は戸から顔だけ出して声を出していたが、いつからか出さなくなり、廊下を戻る足音だけが聞こえる。恵子は何も言わなかった。テレビは点いたままで、明日の関東の天気をやっていた。西から下り坂で、夜のうちに降るという。明けの日は六時を過ぎると耳の奥がこもる。何年やっても同じで、風呂に入るまで抜けない。 九時前に湯を使った。出てきたときに廊下の奥の明かりがまだついていた。戸の前に立ったのは、この一週間で三度目になる。中でイヤホンをしているのか、紙をめくる音も椅子の音もしない。三月の発表の日から、この戸は昼のあいだも閉まっている。ノブに手はかけなかった。床板の継ぎ目を一つぶん下がって、それから台所に戻った。恵子が食器を拭いていた。 「あの予備校、学校法人か」 「え?」 「法人の種類。案内のどこかに書いてある」 「知らない。なんで」 「学校法人なら通学定期が出る。各種学校の扱いでも出るところがある。通学証明書をもらってこいって、言っといてくれ」 布巾を持ったまま、恵子はこちらを見た。 「それ、自分で言えばいいじゃない」 「証明写真も要る。窓口で貼るから、縦四センチのやつ」 答えになっていなかった。恵子は布巾を畳んでガス台の手すりに掛け、掛けてから端を引いて長さを揃えた。それからもう一度、位置をずらした。 「駅前の機械、五百円のがある」 「うん」 「五百円のと八百円のがあって、五百円ので通る」 「聞こえてる」 「立川なんだってな」 「そう。北口の、駅から七分だって」 「乗り換えが一回ある。朝は待ちが四分から六分だ」 「知ってる。あの子が先週、自分で調べてた」 「そうか」 「それも二回目」 湯呑みを二つ拭き終えて、恵子はそれを棚の上の段に伏せた。上の段は届きにくいので、いつもは下に置く。 寝る前に、もう一度仏間の引き出しを開けた。返済予定表の数字は二月に届いたときから変わっていない。通帳を戻す場所を間違えて、印鑑の箱の上に置いたまま閉めた。閉めてから、明日の泊まりの行路表がどこにあるかを思い出そうとして、鞄の中だと分かった。 第五章 四月十九日は日曜で、休日ダイヤの二七三行路に入っていた。下りの本数は平日より六本少ない。朝の通勤の塊が抜けたあとの車内は、端の席から順に埋まって、真ん中が空いたまま終点まで行く。九時十二分の新東大和発から乗務に就き、各駅でホームに降り、乗降口の斜め後ろに立って旅客の足の流れが切れるのを待った。閉扉の前に一度、扉の縁を右から左へ目で追う。戸挟みの確認は手と目の順序が先に決まっていて、二十六年のあいだに考えるのをやめている。日曜の客はゆっくり乗る。走ってくる者がいない代わりに、ホームの真ん中で立ち止まって時刻表を見上げる者がいて、そういう人の肩が扉の内側に入りきるまで待つ分だけ、閉扉が二秒か三秒遅れた。 新東大和の一日の乗降人員は二万八千四百人で、日曜はその半分も改札を通らない。 折り返しのたびに車内を端から歩く。座席の下と網棚を見て、ドアの脇の手すりを握って車体の揺れの残りを確かめ、最後尾まで行って戻る。日曜の車内に落ちているものは平日と違う。缶ではなく紙のカップが多く、新聞ではなく駅で配っている住宅の広告が座席に残る。四人掛けの向かい合わせに部活の鞄が二つ並んでいて、持ち主は先頭のほうの吊り革につかまって寝ていた。起こさずに通り過ぎ、次の周回で見たときには鞄ごといなくなっていた。空調は日曜だけ設定が一度高い。理由は聞いたことがあるが、覚えていない。手すりの継ぎ目に貼られた広告の角が一枚だけ剥がれていて、通るたびに指で押さえるが、次の周回ではまた同じ角が浮いている。 運転台には桜庭が座っている。三十三で、免許を取って四年目になる。折り返しの十八分、桜庭はたいてい運転台から降りてきて、ホームの端の柱のところまで歩いてきて喋る。制帽は脱いで手に持ち、手袋は右だけ嵌めたままで、そこだけは白岩に教わったやり方をそのまま残している。ペットボトルのスポーツドリンクを提げていて、正月から三キロ落としたという話を二月に聞いた。三キロは戻っている。 「戸羽さん、日曜って楽じゃないっすか。客が全員眠そうで」 「そうか」 「俺、日曜のほうが疲れるんすよ。なんか、間が持たなくて。平日だと詰まってるから考えなくていいんすけど、日曜って、駅と駅のあいだが長く感じません?」 「間は持たなくていい」 「持たなくていいんすか、それ」 「休日ダイヤって、全部頭に入ってるんすか」 「入ってない。表を見る」 桜庭の妻は病院の看護師で、四月から二交代に変わったという話を、この十日で三度聞いた。三度とも同じ順番で始まる。夜勤明けの日は昼に寝ていて、桜庭が帰る時刻に起きて出ていく。冷蔵庫のものが減らないという。 「先週、四日会わなかったんすよ。同じ家にいて。玄関の靴の向きで、あ、帰ってきたんだなって」 「そういうもんだ」 「戸羽さんとこは」 「うちのは昼だ。スーパーの惣菜の」 「あー、いいっすね、それ」 何がいいのかは聞かなかった。 長いほうの待ちは十三時二十分から四十六分までで、詰所のテーブルには前の行路の者が広げたままの新聞が残っていた。開いているのは競馬の面で、赤いボールペンで三つだけ丸がついている。窓を開けると駅の放送が斜めに入ってくる。壁の掲示板には健康診断の日程と、五月十六日からの行路改正の予告と、去年の暮れに出た安全報告の写しが、四隅を画鋲で留められたまま重なっていた。いちばん下の紙の端が黄色くなっている。水筒の蓋を回して、恵子が朝に入れた麦茶を紙コップに移した。パッキンが緩んでいるらしく、鞄の底が少し湿っている。行路表を挟んだクリアファイルの後ろには、予備校の振込用紙を四つに折って入れてあった。期限は四月二十四日になっている。金額の欄は折り目の内側に入っていて、開かなければ見えない。開かなかった。 桜庭は椅子を後ろ向きに跨いで座り、ペットボトルの蓋を開けて、飲まずに閉めた。 「家、どうしようか迷ってて。嫁が、そろそろ決めないと歳がって言うんすけど、俺、判子押すのが怖いんすよ。三十五年って、俺が六十八っすよ」 「買えばいい」 「戸羽さんとこ、ローンいくらでした」 「あと千百四十万ある」 「うわ、リアルっす」 「リアルもなにも、そういうもんだ」 「それ、あと何年っすか」 「聞いてどうする」 桜庭は見習いのころの話を始めた。指導についたのが白岩で、ブレーキの当て方を口で説明せず、桜庭の手の上に自分の手を置いて、そのまま二駅走ったという。 「あの人、二駅ぶん一言も言わないんすよ。降りるときに、今のだ、って、それだけ。今のって、どれっすかって聞いたら、もう改札のほうに歩いてて」 「あいつはそうだ」 「白岩さんと戸羽さん、同期なんすよね」 「二〇〇〇年の入社だ」 「じゃあ二十六年」 「そうなる」 桜庭はペットボトルの蓋を開けて、閉めて、また開けた。テーブルの縁に肘をついて、それから言った。 「戸羽さんは、なんで運転士にならなかったんですか」 紙コップを持ち上げて、口をつけずに置いた。新聞を畳んで端を揃え、テーブルの隅へ寄せた。畳むときに競馬の面が内側に入り、丸をつけた三つが見えなくなった。窓の外で上りの案内放送が始まり、途中で切れて、少ししてから頭から言い直された。詰所の壁の時計は駅の時計より二十秒ほど進んでいて、そのことを毎回思い出すのに、直すのは誰の仕事でもない。 「受けたよ」 「え、そうなんすか」 「一回受けて、落ちた。それで、まあ、いいかと思った」 「適性のほうっすか」 「そう」 「あれ、落ちる人いますもんね。うちの同期にも一人いて」 桜庭はその同期が今どこで何をしているかを喋った。車を売っていて、給料はこちらより上らしく、去年子どもが生まれて、その子の名前が読めないという話まで続いた。名前の字を宙に指で書いてみせたが、二画目で自分でも分からなくなって手を下ろした。戸羽は麦茶を今度は飲んだ。紙コップの縁が唇に貼りついて、離すときに小さな音がした。 「向いてないもんは、向いてないんだ」 「いや、戸羽さんは向いてますって。放送も上手いし、ドア扱いなんか、俺、後ろから見てて何回か真似しましたもん。あの、待ってから閉めるやつ」 「別に、なんとも思ってない」 「いや、そうは言っても」 「思ってない」 桜庭は肩をすくめ、ペットボトルを持ち上げて半分ほど一息に飲んだ。それから水筒のほうを顎で指した。 「その水筒、いいっすね。どこのすか」 「もらいもんだ」 「うち、買ったのに一回も使ってなくて」 十四時二分の上りは、駅を出てすぐの勾配の途中で信号待ちに引っかかることがある。この日も引っかかった。車掌室の壁に留めた時刻表の、分の欄の数字を端から見ていく。二と四で六、四と六で十の一の位で〇、と隣どうしを足して、次へ移る。書くものは持たない。癖になったのがいつからかは分かっている。一九九九年の秋に配られた紙が横に長くて、一列に並んだ一桁の数字の隣どうしを足し、一の位だけを数字と数字の間の下に書いていく検査だった。一分ごとに合図があり、そのたびに次の行へ移る。前半十五分、休憩五分、後半十五分。会場は本社の三階の会議室で、受付で番号を書いた札を渡され、机の上に鉛筆と消しゴムを出す以外は何も置くなと言われた。隣の男の消しゴムが新品で、角が四つとも尖っていたのを覚えている。書き終わった紙は、線が右へ行くほど下がる者と、途中でひとところだけ跳ね上がる者に分かれると、あとから誰かに聞いた。自分の紙がどちらだったかは、手元に戻ってこないので分からない。 二度目は二〇〇二年の二月で、登用の枠が三つ空いた年だった。三十分早く着いて、廊下のパイプ椅子で待った。鉛筆を三本削って持っていった。三本目は使わなかった。部屋の暖房が効きすぎていて、上着を脱いだ者から順にみんな脱いだ。前の席の男の背広の襟が片方だけ内側に折れていて、それを直してやりたくなるのを我慢しながら、隣どうしの数字を足していった。後半に入って十二分ほどしたところで、右手の中指の付け根が痺れて、二行分だけ数字の位置が下がった。位置が下がったことに気づいてからも、直しに戻れない決まりになっている。結果は掲示ではなく、二週間後に助役から口頭で伝えられた。伝える側は五秒で済み、こちらは礼を言って、その日の午後の行路にそのまま入った。 信号が青に変わり、加速の仕方で桜庭がノッチを入れたのが分かった。 時刻表から目を離し、扉の表示灯を確かめ、左の胸ポケットから懐中時計を出した。一九九八年に支給されたセイコーで、鎖の付け根の塗装が剥げている。秒針は十四時六分の三十秒を過ぎたところにあった。蓋を閉じてポケットに戻し、放送のスイッチに指をかけ、次の停車駅と、乗り換えの案内を言った。日曜の午後の車内は放送がよく通る。三両目の親子連れが、こちらを見ないまま同時に立ち上がった。停車の直前に窓から首を出して、ホームの端から端までを一度で見る。日曜は白線の内側に立つ客が多く、駆けてくる者が少ないので、開けてから閉めるまでの秒数がどの駅でも似た数になる。扉が開ききるのを待ち、降りる者の背中が改札の方へ流れ、乗る者の最後の一人の踵が敷居を越えるのを見てから、右手を上げた。閉まりきった扉の合わせ目を左から右へ見て、車側灯の消えるのを確かめ、車内無線の押しボタンに親指を当てた。この一連を、一日に六十回か七十回する。 終業は十六時五十一分だった。行路表に着時刻を書き、乗務員室の鍵を返し、点呼で異常なしを申告した。生駒助役は書類から目を上げないまま受け、印を押し、明後日の行路が変わっていることだけを付け足した。押した印の位置が枠から少しはみ出していて、二度目を重ねて押すことはしなかった。更衣室のロッカーの中には、去年の夏に入れたままの制帽の替えの顎紐と、使わない小銭入れが転がっている。制服の第二ボタンだけ糸の色が違うのは、去年つけ直したからで、恵子の裁縫箱に同じ色がなかった。 「戸羽さん」 背中に声がかかった。シャツの裾を入れる手を止めずに振り向いた。 「来週の火曜も一緒っすよ」 「そうか」 「あ、それと、さっきの話なんすけど、俺、聞き方がちょっとあれだったかも」 水筒の蓋を締め直し、緩んだパッキンを指の腹で押し込んだ。 第六章 四月二十八日、火曜。新東大和で下りを一本返し、多摩台まで回送してきたのが十二時四十八分だった。回送の二十三分は客の乗っていない四両で、扉扱いも放送もなく、後ろの乗務員室に立って窓の外の架線柱を見ていただけになる。次の出区までに一時間四十分ある。詰所の畳では先に上がった二人が寝ていて、いびきの間隔が合っていない。湯沸かし器が一定の間を置いて音を立て、そのたびに片方のいびきが止まりかけて、また元に戻った。戸羽は上着を壁の釘に掛け、靴を履き直してから、洗浄線に面した通路へ出た。 壁がなく屋根だけある通路で、風は西から来る。 三番線に据えられた四両編成の、いちばん後ろの扉が開いていた。青い作業服がステップに片足をかけ、バケツの持ち手を左手から右手に持ち替えてから降りてくる。持ち替えたときにバケツの水がふちの内側を二度往復して止まった。呉さんは足元を見て歩く癖がある。この基地の清掃に入って十一年になるはずだが、線路を跨ぐときの運びは今も慎重で、枕木の上に必ず一度足を置いてから次の一歩を出す。日本に来て二十年、そのうちの十一年をこの敷地の中で、朝の四時からモップと雑巾で過ごしている。四両ぶんの座席の下と吊り革の輪と窓のサンと、それから便所を、一編成につき四十分で終える。ガムテープを粘着面が外になるように丸めたものを腰の輪に提げていて、座席の布に貼りついた髪はそれで取る。ゴム手袋の右の人差し指の先が破れていて、そこだけ肌の色が出ていた。 自販機は取り出し口の蓋が固い。売切のランプが三つ点いていて、ジョージアの微糖は二本残っていた。硬貨を四枚入れて二本買い、釣り銭口に落ちた十円を親指と人差し指で挟んで拾った。 「呉さん」 呼ぶと、バケツを先に地面に置いてから振り向いた。缶を差し出すと、作業ズボンの尻ポケットに手をやりかけて、途中でその手を止めた。 「この前ももらったよ」 「この前は三月だ」 「三月は三月ね」 そう言いながら受け取った。輪止めを入れておく木の箱が通路の端に据えてあって、そこに並んで腰を下ろした。呉は座る前に腰の後ろでズボンの生地を一度引いた。プルタブを起こす音が二つ、間を置いて鳴った。呉が先に飲み、口を離してから缶の底を膝の上に置いた。右の親指が、缶を握ったときの形のまま伸びていない。 「それ、いつから」 「んー、二月かな。朝がだめ。曲がったまま出てこない。こう、押すと」 左手で右の親指を反対側へ倒すと、関節のどこかで小さい音が鳴って、指がまっすぐになった。呉はその指を一度握って開いた。 「毎朝これやるの。やったら、あとは平気」 「病院は」 「行くと半日でしょ。半日休むと、うちの班、代わりがいない」 戸羽は自分の右の親指を見て、それから缶を左手に持ち替えた。洗浄機のブラシが屋根に残していった水が、三番線の車両の上でまだ光っている。西からの風が来るたびに、その光が細かく動いた。 呉が缶を膝に置いたまま、正面を向いて言った。 「戸羽さん、あのね。ずっと聞きたかったことある。『結構です』ね。あれ、要るの、要らないの、どっち」 「どっちもだ」 「どっちもある?」 「ある」 「二十年ですよ。二十年やって、まだ分からない」 戸羽は説明しようとした。同じ三文字で承諾と辞退の両方をやるのがどういう理屈なのか、二十六年この言葉で暮らしてきて、一度も考えたことがなかった。茶を出されて言うほうは断りで、書類を見せられて言われるほうは承けたことになる、というところまでは口が動いた。そこから先で詰まった。乗り越しの精算をした客が釣りを押し返しながら言う「結構です」は、断りでも承諾でもなく、もう用は済んだからこちらを見るなという意味で使われる。声の高さだとか、その前に何を言われたかだとか、そういうことを二つ三つ並べてみたが、並べたそばから自分でも怪しくなった。結局、顔を見るしかない、と言った。呉は缶を持ち上げて、飲まずにまた膝へ戻した。 「顔ね」 呉が最初に覚えた日本語は「ご迷惑をおかけします」だと、いつだったか本人から聞いた。来日して三日目に寮の風呂の栓を抜き忘れて階下へ水を漏らし、大家に言うためにその一文だけ紙に書いてもらったという。以来、呉の日本語は仕事のほうから順に増えていって、敬語が普通の言い方より先に身についた。休憩室でほかの清掃員と喋っているときの呉の日本語は速く、語尾が崩れていて、戸羽にはところどころ聞き取れない。戸羽と喋るときは丁寧になる。十一年やってもそこは変わらない。 「わたしの日本語ね、半分は電車の中」 「中?」 「掃除しながら、放送ずっと聞いてるでしょ。同じの、毎日。だから覚えた。本日も南武蔵野電鉄をご利用いただきまして、ありがとうございます」 抑揚は少しずれていたが、間の取り方だけが正確だった。呉は缶を持った手をわずかに上げて、続けた。 「戸羽さんの放送、分かるよ。『まもなく』の前に、ちょっと止まる。ほかの人、止まらない」 戸羽は缶の飲み口を親指の腹でなぞった。自分がそこで息を継いでいることを知らなかった。乗務員室で耳に入るのは口から出たままの声で、天井のスピーカーから車内に落ちていく音とは別物になる。非番の日に客として乗ることはあるが、そのとき流れているのは別の誰かの放送だ。「まもなく」の前でどれだけ止まっているのか、指で数える長さなのか、それとも息一つぶんなのかも分からない。 「それ、癖なのか」 「癖でしょ。悪くないよ。止まると、聞く人、間に合う」 呉は笑って、缶を口へ持っていった。喉が動くのを戸羽は横目で見ていた。 「字はだめね。傘は書ける。忘れ物の札に毎日書くから。鞄が書けない」 「俺も書けない」 「嘘」 「本当だ。カバンは平仮名で書いてる」 呉が声を出して笑い、缶の中身が揺れる音がした。傘は月に四十本くらい出る、と呉は言った。座席の下と網棚と、あとは便所の手すりに掛けたままのが多い。ビニールのは数に入れなくていいことになっているが、呉は分けて数えている。数えてどこへ出すのか聞いたことはない。先週は入れ歯が一つ出た。あれは札を書かずに助役のところへ直接持っていった。 「うちの子も書けないよ、鞄」 戸羽は聞き返さなかった。呉は膝の缶を両手で包み直して、そのまま話し続けた。 息子は星宇という名で、二十二になる。二歳で連れてきた。日本語しか使わない家にしたのは呉のほうで、学校で困らせたくなかったからだと言った。名前は入学のときに二通りの読みで名簿に載って、担任が呼ぶときと友達が呼ぶときで音が違っていたという。呉はそのどちらとも違う呼び方をする。話すほうの中国語は残ったが、読み書きはできない。いまは大宮の物流会社にいて、フォークリフトの免許を取ったのが去年で、寮に入っているから月に一度も帰ってこない。 「去年の正月ね、うちの母さんが電話してきた。中国から。八十一だよ。孫と話したいって言う。星宇に代わる。星宇、ニーハオ言う。それで終わり。あと出てこない。母さんが、元気かって聞く。わたしが日本語で言う。星宇が、元気だよ、って言う。わたしが中国語に直す。それの繰り返し」 「どのくらい」 「三十秒。三十秒で、母さんが、もういいって言った」 「もういい、は」 「もういい。ありがとう、もういい、って」 呉は缶を膝から下ろして、木の箱の上、自分の腿の横に置いた。置いてから、その缶を五センチほど手前へずらした。 「わたしが決めたことだからね。日本語だけでいいと思った。星宇はそれで困らなかった。困ってるのは、わたしの母さんだけ」 そこで言葉を切って、腿の横の缶をさっきずらした分だけ元へ戻した。星宇は悪くないよ、と言い足した。誰も何も言っていないのに、同じことをもう一度言った。 風が来て、三番線の屋根の水がまた動いた。詰所のほうで誰かが窓を閉める音がした。戸羽は缶に半分残っているのを飲まずに持っていた。手のひらの中でとうにぬるくなっていて、木の箱の上に水滴の跡が輪になって残っている。 「戸羽さんとこ、子どもは」 「一人だ」 「男?」 「男。十九」 「じゃあ大学、今年から?」 戸羽は懐中時計を出した。一九九八年に支給されたセイコーで、蓋の蝶番が去年から少し緩い。開けて、通路の柱に掛かった基地の時計と見比べた。一時二十二分。四番線からの出区は二時ちょうどで、まだ三十八分ある。蓋を閉め、ポケットに戻した。 「今年は家にいる」 「家?」 「その親指、湿布貼っとけ。うちのが使ってるやつ、貼ると剥がれない」 呉は自分の親指を見て、それからもう一度反対側へ倒した。音は鳴らなかった。 「白い箱? 青い箱?」 「青だ。いや、白かもしれん。妻に聞いておく」 「聞いてよ。ドラッグストアの、どこ行ってもある?」 「あると思う」 呉が立ち上がると、木の箱がわずかに鳴った。バケツを提げるとき、中の水がまた二度往復した。灰色の水に、細かい紙の繊維と髪の毛と、たぶん菓子の袋の切れ端が浮いている。呉はバケツの角度を変えずに三番線へ戻っていき、ステップに片足をかけた。空いているほうの手を手すりへ回したとき、四本の指だけが握りに入って、右の親指は外へ出たままだった。そこで一度こちらを向いた。会釈といえるほどではない、首だけの動きをして、車内へ入っていった。開いたままの扉の向こうで、モップの柄が床を打つ音が二回した。 戸羽は残りを一口飲み、まだ半分近くあるのを流しに空けて、缶を回収箱へ入れた。箱の底のほうで別の缶に当たる音がした。 詰所へ戻って行路表を出し、折り目のついたところを開いて、上から下まで指でなぞった。二時ちょうど四番線発、新東大和二時十一分着、折り返し二時二十四分。そのあとは同じ区間をもう二往復して、上がりが六時四十九分になる。二度目になぞったとき、指が四番線の欄で止まった。止めた理由が自分でも分からないので、いちばん上からもう一度なぞり直した。携帯を出して湿布の名前を恵子に聞こうとしたが、この時刻は惣菜場で揚げ物の入れ替えをしている頃で、手は空いていない。ポケットへ戻した。壁の釘から上着を取ると、去年つけ直した第二ボタンの糸が、根元のところで少しほつれていた。指の腹で撫でて寝かせ、袖に腕を通した。畳の二人はまだ寝ていて、いびきの間隔はやはり合っていなかった。 第七章 五月二日の出勤は十二時四十分で、事務室で行路表を受け取ると、担当の欄が書き換えられていた。桜庭剛という三文字の上に定規をあてて横線が引いてあり、その横に白岩明と鉛筆で書き足してある。消しゴムの跡が紙の繊維を毛羽立たせていて、指の腹でなぞると爪の先に引っかかった。行路そのものは変わっていない。多摩台を十三時二十二分に出て、新東大和から下りに入り、終点で二十二分の折り返しを二回はさんで、戻ってくるのが二十二時十九分。休憩は十七時四分から四十分間で、そこだけ蛍光ペンの黄色が引いてある。 「桜庭さん、年休です」 生駒助役は湯呑みを両手で持ったまま、机の向こうから顔を上げずに言った。「ゆうべの十一時に電話がありました。娘さんが熱を出したそうで、明日も来られないかもしれないって」 一人休むと、動くのは一人分では済まない。生駒は夜のうちに四本電話をかけ、四本目で白岩をつかまえたはずだった。白岩は公休を潰して出てきたことになるが、代休の欄には何も書かれておらず、後から書き足す予定の空白だけがそこにあった。戸羽は行路表を二つに折り、折り目を親指の腹で潰してから胸のポケットに入れた。連休の二日目で、土曜ダイヤの下りには行楽の客が乗る。上りはほとんど空のまま走って、下りだけが混む。 「白岩さんと組むの、久しぶりですか」 「同じ日に乗ったことはあると思います」 「そうじゃなくて、同じ行路で」 「無いです」 「二十六年もいて?」 「大きい会社ですから」 生駒はそれ以上は聞かずに年休簿を開いた。壁には六月の健康診断の日程が貼り出してあって、受診日の欄に三宅玲奈が自分の名前を書き込んでいる途中でボールペンが出なくなったらしく、紙の隅を何度も丸く塗りつぶしていた。塗りつぶしたところは黒くならず、紙が光っているだけだった。 点呼は十三時ちょうどに始まった。アルコール検知器を口元へ近づける前に生駒が一度咳をして、それから機械が短く鳴った。体温は三十六度二分、行路表の読み合わせでは列車番号と着発の時刻を交互に声に出す。白岩の声は思っていたよりも低く、数字の語尾を伸ばさずに切る読み方で、二十六年前に一緒に研修を受けたときの声とは別のものになっていた。無線の試験を済ませ、最後に時計を合わせた。事務室の親時計の秒針が十二を通り過ぎる瞬間に、戸羽は懐中時計の竜頭を押し込んだ。白岩も同じことをしていて、その手の甲には血管が浮き、爪は白く見えるほど短く切ってあった。同じ会社の同じ本線にいて、この人と同じ列車に乗るのは初めてだった。 「白岩さん、眼鏡、変えました?」 生駒が言った。 「変えた」 それきり何も言わずに帽子をかぶり、白岩は鉄扉のほうへ歩いていった。 出区点検は九分で終わった。車内温度は二十三度、放送の試験でマイクを握って一号車まで自分の声を確かめ、非常通報装置のボタンを順に押して運転台の表示を見る。連休のあいだは客が窓を開けたがるので、鍵の掛かり具合も見ておいた。十三時二十二分に多摩台を出て、新東大和の一番線で客を入れ、十三時四十一分発の下りから乗務に入る。三両目の中ほどにリュックを背負った男の子が立っていて、母親が水筒の紐を肩に掛け直してやっていた。日焼け止めの匂いと、缶の酒の匂いが車内で混じっていた。 ドアを閉めるとき、戸羽はホームを一度には見ない。閉扉のボタンを押してから戸挟みの有無を確かめ、それから車体の側面に沿って前のほうまで目で追い、最後にもう一度足元へ戻す。この順番だけは変えたことがない。 白岩の停止位置は正確だった。最後尾の乗務員室の窓から見ていると、停止位置目標の白い板が窓枠の同じところに来る。それが駅ごとに揃っている。減速の途中で車体が前後に揺れることがなく、ブレーキの扱いが客の足元まで伝わってこないので、つり革につかまり損ねて子どもが転ぶということが一度も起きなかった。四つ目の駅では、通路に立っていた老人が手すりから手を離したまま眠っていて、それでも倒れなかった。 連休の下りでは、同じことを何度も聞かれる。 「これ、動物園のとこ停まります?」 「停まります。三つ先です」 「急行のほうが早いですよね」 「土曜と休みの日は、急行はそこを通過します」 「ええ、通過?」 「この電車で行かれたほうが早いです」 男は連れの女に何か言い、それから礼を言わずに座席に戻った。戸羽は放送で二度言い、車内を歩きながら四度言い、乗り換えの駅の手前でもう一度言った。それでも降り遅れる人がいて、扉が閉まってから窓を叩かれた。手のひらが窓ガラスに白く広がって、それが遠ざかっていくのを最後尾から見た。 六つ目の駅から車椅子の客が乗った。前日の予約ではなく、駅の窓口からの連絡が発車の四分前に無線で入ったので、戸羽は渡り板を抱えて三両目のドアの前で待った。ホームと床の段差は二センチと少しで、実際に困るのは段差よりも隙間のほうになる。板を渡し、後輪から先に入れ、車体側へ手を添える。降りる駅と号車を控えに書き取って無線で先へ伝えると、了解の返事のあとに、二番線でお待ちしています、と付け足された。付き添いの女は乗ってからも二度礼を言い、戸羽は板を抱えたまま頭を下げた。この作業のあいだに、列車は四十秒遅れた。 四十秒は、次の駅間で二十秒になり、その次の駅で消えていた。戸羽は懐中時計を出して、それから車内の時計と見比べた。運転台からは何の連絡も来なかった。 終点での折り返しは二十二分あった。ホームの端の乗務員待合に入ると白岩が先に来ていて、窓を背にして座り、水筒の蓋にお茶を注いでいた。戸羽は自動販売機で麦茶を買い、椅子を二つ空けて座った。 「さっきの、車椅子か」 「三両目です。四十秒遅れました」 「三十秒だ」 「そうでしたか」 「二つ先で戻した。あの下りは、四つ目までに余裕がある」 戸羽は缶を膝の上に置いた。遅れの秒数を自分より正確に数えている人間が、編成の反対の端に座っていたことになる。 「百五十円か」 白岩が缶のほうを見ずに言った。 「上がりましたね」 「前は百二十円だった。ここのは、ずっと百二十円だった」 戸羽は缶の飲み口の縁を親指で回した。何を返せばいいのか探しているあいだに、白岩は蓋の茶を一口で飲み干して、水筒の口を布巾で拭いた。 「お前、放送、変わったな」 「そうですか」 「昔はもっと速かった。入ったころは、みんな速かった」 「客層が変わりましたから」 「そういう話じゃない」 そう言ったきり、白岩は説明を足さなかった。壁の運行掲示に赤いマグネットが一つ寄せてあって、遅延の理由の欄は空のままになっている。 「検査、去年から一年に一回になった」 「何のですか」 「眼だ。乱視が出て、夜になると信号が滲む。色は分かる。滲むだけだ」 「はあ」 「眼鏡屋で二回作り直した。二回目は金を取らなかった」 白岩は水筒の蓋を閉め、それから顔を上げずに続けた。 「側線の、あの二両」 「事業用車ですか」 「あれ、動かしたことがある」 戸羽は缶を口に運びかけた手を止めた。基地に入るたびに横を通るあの車両が側線から出るところを、これまで一度も見ていない。連結器のカバーには埃が固まっていて、雨のたびに筋になって流れた跡が車体の裾まで伸びている。屋根の上には去年の落ち葉がまだ残っていた。 「いつですか」 「二〇〇八年の秋だ。レールを積んで、夜中に一往復した。二十五キロも出していない」 「どこまで行ったんですか」 「保線の側線まで。行って、置いて、帰ってきた」 白岩はそれきり黙って、待合の窓の外を見ていた。線路の向こうに保線の男が四人いて、そのうちの二人が枕木の脇にしゃがんで何かを測っている。一人が立ち上がって腰を伸ばし、また同じ姿勢に戻った。戸羽は麦茶を半分残したまま、缶の底をベンチの木目に置いた。ブレーキの当て方のことを聞こうとして、聞き方を頭の中で組み立てているうちに、白岩がまったく別のことを言った。 「膝が悪い」 「座席ですか」 「座席は関係ない。階段だ。うちの階段が急でな。降りるときのほうが痛い」 「うちのも急です」 「そうか」 待合には去年の暮れに配られた卓上の時刻表が置いてあって、表紙の角が丸くなり、日付の欄のところだけ赤茶けている。扇風機のコードは柱に巻きつけたままで、羽根に埃が均等に積もっていた。 「その水筒、長く使ってるんですか」 「わからん。前のは落として割った」 「ステンレスでしたよね」 「割れた」 十三分が過ぎていた。白岩は水筒を鞄に入れて立ち上がり、帽子のつばを指で直して、発車の六分前に運転台へ歩いていった。戸羽は残った麦茶を流しに捨て、缶を潰して回収箱に入れた。話はそれで終わりだった。 上りの三両目、車端の座席の下に水筒が転がっていた。青い恐竜の絵がついた子ども用で、肩紐のところに油性ペンで名前が書いてある。振ると中身が半分ほど残っている音がした。戸羽は乗務員室に持ち帰り、遺失物の用紙に拾得の時刻と列車番号、号車、座席の位置、品名と色と特徴を書いた。名前の欄は書き写さずに「記名あり」とだけ記した。書き終わってから、中身が入ったままだと預かる側が困るのではないかと思ったが、勝手に捨てるわけにもいかないので、そのままにした。新東大和の当務助役に渡すときに、中身が残っていることを言った。 「振らないで、そのまま置いてください」 「名前は書き写しませんでした」 「そのほうが助かります。書いてあると、電話が来たときに読み上げることになるので」 受領の印を押され、複写の三枚目が戻ってきた。控えは行路表と一緒に折って、胸のポケットに入れた。拾ってから四日のうちに取りに来る客はそう多くないと聞いている。 夕方の上りは空いていた。 二十二時を過ぎて、新東大和の三番線で最後の折り返しを待っているとき、運転台の窓から白岩が顔を出した。手袋を外して、片方をもう片方の中に押し込んでいる。指の先が黒くなっていて、洗っても落ちない類の黒さだった。ホームの端では酔った学生の一団が輪になり、誰がどっちへ帰るのかを決めかねたまま同じところを回っている。この時刻になると、二番線の自動販売機が唸る音が屋根の下にずっと残る。 「戸羽」 「はい」 「お前、まだ乗るのか」 「乗ります。定年まではまだありますから」 「おれは、来年の検査で──」 予鈴が鳴った。ホームの端から親子連れが走ってきて、戸羽はドアの位置まで戻り、母親と子どもが二人、乗り終わるのを待ってからスイッチに手をかけた。 第八章 五月九日は土曜で、朝から降っていた雨が十時四十分すぎに上がった。傘が増えるのは降り出した日ではなく、こうして途中で止んだ日だというのは、車掌になって四年目の梅雨に、詰所で誰かがそう言っているのを横で聞いて覚えた。教わったつもりはない。以来、そのたびに確かめてきて、外れたことがない。濡れずに済んだ人は、自分が傘を持って出たことのほうを先に忘れる。 昼過ぎからの行路で、新東大和までの下りを三本。 三本目の終着で、最後尾から前へ、車内を歩いた。 降りた客が階段に吸われていくのを乗務員室の窓から見て、最後の一人が改札のほうへ折れてから扉を閉めた。折り返しまでの十四分のうち、車内を見て歩けるのは八分ほどで、清掃は土曜の昼には入らない。 座席の下は屈まないと見えない。腰を落として、片手を袖仕切りの手すりにかけ、床と座面のあいだの暗がりを一区画ずつ覗いていく。十両を通しでやると膝の裏が張ってくるので、四号車のあたりで一度だけ伸ばすことにしている。この日は一号車の車端で二本、三号車の連結寄りで一本、六号車の網棚に折り畳みが一本あって、八号車のロングシートの端には、置いたというより立てかけたような黒い長傘が残っていた。骨を数えると十六本あった。持ち上げてみると、思っていたより重い。柄の内側に細いテープが巻いてあり、油性のペンで何か書いた跡が残っていたが、擦れていて字にならなかった。五本を左手にまとめ、右手で網棚と貫通扉を確かめながら前へ出た。ビニール傘は一本もない。土曜の午後の下りには、なぜかビニール傘はあまり残らない。 座席の下から出るものには順番のようなものがあって、平日の夕方なら紙袋と傘、土曜の午後なら傘と、飲みかけのペットボトルと、子どもの手袋が出る。一号車と十号車は階段の位置の関係で乗り降りが多く、そのぶん残る。真ん中の四号車と五号車からはあまり出ない。この日も四号車には何もなく、床に切符が一枚落ちていただけで、拾って見ると四月三十日の日付だったから、そのまま袋に入れた。七号車の連結寄りで、非常通報装置の蓋が半分開いていたので、指で押して戻した。誰かが寄りかかったらしい。 乗務員室の窓を閉め、電源を落として、ホームへ降りた。車体の腹に、雨の跡が縞になって乾きかけている。 上りの折り返しを待っている三宅が、乗務員扉の脇に立って、詰所の鍵を指に引っかけて回していた。束を見て、口が先に動いた。 「それ、全部ですか」 「三本目だ」 「わたし、この前の水曜で九本ありました。九本って、片手だと持てないんですよ。持つと、ここのところが痛くなって」 柄を揃えずに、一本ずつ半分だけずらして重ねると、指の股に一本ずつ入って収まる。やってみせると、三宅は自分の五本でそれをやって、二本落とした。拾ってもう一度やり、こんどは持てた。屈んだとき、右の踵にばんそうこうが貼ってあるのが見えた。束ねたまま歩くと石突きが床を叩くので、少し前へ倒して、自分の脛の高さで先を止める。それも言ったが、三宅は五本を胸に抱えるようにして持ち直した。そういうものは、言って直る人と直らない人がいる。 「靴、替えたのか」 「安かったので」 「戸羽さん、傘って、何本たまったら送るんですか」 「四日目の朝だ」 「本数じゃないんですね」 「日にちだ」 「わたし、本数だと思ってました。いっぱいになったら送るんだと」 「取りに来る人って、いるんですか」 「いる」 「わたし、まだ一人も見てません。ずっと預かってるだけみたいで」 「そのうち見るよ」 そのまま二番線の時刻表を見上げて、上りの遅れの話を始めた。 階段の下で桜庭とすれ違った。非番の日に切ってきたらしく、耳の上が白い。 「戸羽さん、それ全部落とし物すか」 「そう」 「俺、傘って買ったことないんすよ。駅から家まで、ずっと屋根があるんで」 「そうか」 「今度、寄ってくださいよ。って、寄らないか」 そういう造りの街があるらしい。 「戸羽さん、傘って一本いくらすか、あれ」 「知らん」 「調べたら、駅で拾われるやつは平均で千二百八十円だって書いてありました。どっかのサイトに」 改札脇の事務室のカウンターに、五本を横にして置いた。内側に生駒がいて、画面から目を離さないまま、番号札の箱をこちらへ滑らせた。土曜は要員が一人少ない。 傘は一本ずつ台帳に書く。拾得の日時、列車の号数、車両の番号、何号車のどのあたりだったか、色、長いか折り畳みか、骨の本数、それから特徴。特徴の欄がいちばん細い。黒・長・十六本、と書いて、柄にテープあり、と足した。テープに何か書いてあったことは書かなかった。読めないものは特徴にならない。カウンターの蛍光灯の下で、角度を三度ばかり変えて見てみた。二画目が右へ払ってある。サかナか、それだけで、あとは白く擦れている。荷札を切って渡してくる生駒の手つきは早くて、紐を通す前に番号を読み上げた。この日の一本目が百六十二で、四月の一日に一へ戻る。まだ五月の九日で、もう百六十二だった。 自分の欄の上には前の日の分が七行あった。書いたのは字の細い人で、特徴の欄に、紺と書いたあとで、藍かもしれない、と括弧をして足してある。その二つ下の行では、同じ人が、青、とだけ書いていた。三行めから面倒になったらしい。生駒の画面には月ごとの集計の表が出ていて、列がひと月ぶん、行が種類で、傘の行だけが横に飛び抜けて長い。事務室はストーブを片づけたばかりで、床に養生のテープの跡が四角く残っている。 荷札の紐は五本ぶんを続けて結ぶ。指の腹で二回まわして、締めるときに柄の丸みで滑るから、親指で押さえる。 生駒の左の親指にテーピングがしてあった。朝の点呼のときには気づかなかった。 「それ、どうしたんですか」 「挟んだの」 「どこで」 「うち。玄関」 それきり画面に戻り、伝票の綴りをめくって、日付印を二度押した。押し方が強い。二度目のほうが濃く出た。 倉庫は事務室の奥の、階段の下の三畳ほどの部屋を使っている。天井が斜めに下がっていて、いちばん低いところは頭が当たるので、入るときに首を折る癖がついた。蛍光灯のスイッチは壁にあって、押すと一拍おいて点く。床のリノリウムに、傘立ての底の輪が四つ、白く残っている。湿った布と鉄の匂いがして、これは何年経っても薄くならない。 傘立ては色や種類で分けず、届いた日ごとに並べてある。奥ほど古い。手前に置いた五本のうち、黒い長傘だけが頭ひとつ出た。傘立ては四つあるが、いま生きているのは手前の二つで、右に九本、左に八本ある。奥の二つには年をまたいで残っているものが挿してあって、そちらは荷札の紐が茶色く変わっている。赤い子ども用の折り畳みが一本混じっていて、柄に熊の顔がついていて、荷札の日付が去年の九月だった。なぜ残っているのかは、この駅の誰も知らない。骨が二本折れた紺の長傘は、折れたほうを壁に向けて挿してある。 奥の棚の段ボールには、傘以外のものが同じように日付ごとに入っていて、この日開いた箱には、片方だけの革手袋と、老眼鏡が二つ、鍵束が一つ、子ども用の水筒、それから杖が一本あった。杖は取りに来る。老眼鏡も来る。鍵は必ず来る。傘は来ない。 届けた傘を取りに来た人から、直接礼を言われたことが一度だけある。四年前の十一月で、女の人で、傘は骨の細いビニールだった。柄に病院の診察券がテープで留めてあって、それが要るのだと言っていた。診察券を剥がすのに窓口の縁で二分ほどかかって、そのあいだ二人とも黙っていた。傘のほうは、その場に置いて帰った。 生駒が伝票の綴りを持って入ってきて、棚の端に置いた。 「戸羽さん、去年、何本だと思う」 「傘ですか」 「千四百六十二」 「引き取りは」 「百十八。一昨年が九十四だから、増えてはいるの」 「増えてるんですか」 「取りに来る人が増えたんじゃなくて、いい傘が増えただけ。二万三千円とかするやつ。ああいうのは来る」 「業者は、いつ来るんですか」 「月の終わり。トラックで来て、十分で積んで帰る。中身は見ないのよ、あの人たち」 「見ないんですか」 「一本ずつ見てたら仕事にならないでしょう。うちだって見てないし」 「うちは見てます。台帳に書くので」 「書くのと見るのは違うでしょう」 十二本に一本ほど、と頭のなかで割った。残りの千三百四十四本は、四日目の朝に府中の遺失物センターへ回されて、そこから警察へ行き、期間が過ぎると業者がまとめて持っていく。傘は値の張らないものとして別の扱いになると、研修のときに聞いた覚えがあるが、条文の番号までは覚えていない。 窓口を閉める前に、男が一人来た。六十二、三で、五月の九日なのに、上着の下からセーターの襟が出ていた。 「あの、傘なんですけど。ビニールの。先月の、二十四日です。二十四日か、五日」 「こちらの駅で降りられましたか」 「ええ、たぶん。降りたときは持ってたんです。改札を出るときに片手が空いてて、あれ、と思って。それで戻ろうとはしたんですが、その日は用があったもんで」 「先月ですと、こちらにはもう置いていません」 「捨てちゃいましたか」 「府中のセンターへ回ります。そのあとは警察のほうです」 「警察」 「番号を書きますので、かけてみてください」 番号札の裏に、センターの電話番号と受付の時間を書いた。受付は平日の八時半から五時十五分までで、土曜と日曜はやっていない。そのことも小さく書き足した。書いているあいだ、男はカウンターの縁に両手を置いて、指を組んだり外したりしていた。男は紙を目から離して見て、それから顔を上げた。 「柄のところに、黄色いテープが巻いてあるんです。そこに名前が書いてあります」 「わかりました」 名前は言わなかった。こちらも聞かなかった。渡した紙を、男は財布ではなく上着の内ポケットに入れ、二度頭を下げて出ていった。自動ドアが閉まってから、生駒が、あれで何人目だろうね、と背中で言った。何が、とは聞き返さなかった。 詰所に戻って鞄を開けると、茶封筒の口から二つ折りの用紙がのぞいていた。予備校の夏期講習の申込書で、氏名と、学年と、講座の記号を書くところがあって、いちばん下に保護者の署名と押印の枠がある。押印の枠だけが四角く濃く刷ってあった。締切の日付は赤で、十五日とある。封筒は六日から鞄に入っている。恵子が食卓の端に置いたのを、朝、出るときに自分で入れた。折り目をなおして押し込み、鞄を閉めた。恵子からの短い伝言が昼に入っていて、まだ返していない。鞄にはほかに、行路表の控えと、朝に買った菓子パンの袋と、自分の折り畳みが入っている。柄が緑で、九年前の秋に買って、名前は書いていない。奥歯の詰め物が浮いているのを、舌の先で二度確かめた。歯医者の予約は三度かけそびれている。 時計を出した。上りの発車まで九分ある。制帽をかぶって階段を二段ずつ上がると、ホームの床がまだ濡れていて、雨は上がっているのに屋根の継ぎ目から水が落ちていた。落ちる場所に人が立たないよう、三角コーンが一つ置いてある。 第九章 五月十三日は水曜だった。点呼は十六時ちょうどで、家を出たのは三時十五分過ぎになる。駅までの千八百メートルは行きが坂の下りになるので、帰りに二十二分かかる道が十九分で済む。公団の仮囲いは四月に見たときより二十メートルばかり先へ延びていて、そのぶん歩道の幅が半分になり、隣の家の枝は葉が出たぶんだけ嵩を増して、肩の高さのところで歩道の真ん中まで出ている。 去年も同じ枝が同じように出て、言えないまま夏になった。 三和土に悠人の運動靴はなかった。去年の冬に履いていたほうが一足あって、爪先が壁を向いて揃えて置いてある。 台所の卓で予備校の夏期講習の申込書を広げた。三日前から鞄に入れて持ち歩いていたので、四つ折りの跡が氏名の欄を横切っている。締切は十五日だった。明後日になる。明けは十四日の昼だから、持っていくなら十四日の午後か、十五日の朝しかない。氏名と学年は悠人の字で埋まっていて、講座の記号の欄だけが空いていた。同封の冊子を開くと、記号は英字二つと数字二つの四文字で、講座は全部で四十七あり、科目と時間帯で並んでいて、同じ科目が午前と午後に一つずつある。 どれを選ぶかは、書ける者が一人しかいない。 保護者の署名の欄に名前を書き、押印の枠に判を置いた。朱肉は真ん中が乾いている。一度目は輪郭だけしか出ず、位置を合わせて重ねると縁が二重になり、二重になったほうが濃く出た。仏間の引き出しは、四月に閉め損なってから通帳が印鑑の箱の上に乗ったままで、箱の蓋が半分ずれている。戻すときに、それも直した。玄関を出る前に、卓の上の申込書をもう一度めくって、押した判の向きを見た。曲がってはいない。 坂の下から恵子が自転車で上がってきたのは、玄関の鍵を閉めているときで、前の籠に惣菜場の白い上着が丸めて入っている。 「押しといた。卓の上だ」 「記号は」 「空けてある。四十七あった」 「四十七も選ぶの」 「科目と時間で分かれてる。同じのが午前と午後に一つずつある」 「あの子、午前は起きないわよ」 「聞いとく」 「明けは昼になる。昼のうちに出せば十五日に間に合う」 「窓口、何時までかしらね」 「立川だ。行くのはあの子だ」 「判子、押してあるのよね」 「押した」 「そうね」 自転車を押して門を入っていくとき、後ろのブレーキが鳴った。ワイヤーではない。ゴムのほうだと去年の秋に言ってあるが、まだ替えていない。籠の上着の袖が片方だけ垂れて、車輪の泥除けに触れていた。 点呼室に入ると、鍵箱の右上が一つ空いていた。予備の鍵は番号順に掛けてあって、四番のフックにだけ何も下がっていない。生駒助役は引き出しから付箋を出して鍵箱の扉の内側に貼り、左の親指のテーピングは取れていて、爪の付け根に紫が残っている。 「昨日の泊まりの人ですか」 「朝いちで上がった組。電話しても出ないのよ」 「四番は何の鍵ですか」 「仮眠室の物入れ。開かなくても、今日は誰も困らないの」 「箱ごと替えたほうが早いでしょう」 「箱でも予算が要るのよ」 「持って帰るものじゃないでしょう」 「持って帰るものじゃないから、こうなるの」 アルコール検知器を差し出す前に、生駒は一度咳をした。数字は〇・〇〇。体温は三十六度四分だった。四五二行路の泊まりを頭から読み合わせ、列車番号と着発の時刻を交互に声に出し、最後に翌朝の出区まで読む。 四時四十一分と口に出すのは、その日のうちでこれが一度目になった。 壁の時計の秒針が十二を通るのに合わせて竜頭を押し込み、蓋を閉じた。生駒はこちらの手元を見ないまま次の頁をめくった。 「六月の健診、まだ書いてないでしょう」 「明けの日に書きます」 「明けの日に書いた人、いままで一人もいないの」 「じゃあ今書きます」 「今は点呼中。終わってからにして」 終わってから壁の前まで行き、日程表の十九日の欄に名前を入れた。十九日は非番で、午前の枠に三つ空きがある。ボールペンの出が悪い。紙の隅で二度回してから書いた。 夕方の下りは十両で入る。 十六時二十二分に多摩台を出て、新東大和の一番線から乗務に就いた。 夕方の乗り降りは日曜のように途切れない。閉扉の前にホームを三度に分けて見る順番だけは変えず、扉の縁を右から左へ目で追い、車体の側面を前のほうまで追って、最後に足元へ戻す。学校の帰りの塊が四つ目の駅でほとんど降り、入れ替わりに勤め帰りが乗ってくる。十九時台の二本では、扉が閉まりきるまでに二度、荷物の紐を挟んだ。挟むのは鞄ではない。鞄から出ている紐か、袋の持ち手のほうになる。十四秒、十六秒、十四秒と続いて、六つ目の駅だけ二十二秒かかった。ホームの端を自転車を押して歩く者がいて、係員が追いつくまで待ったからだった。折り返しの合間に飲もうと思っていた水筒は、鞄から出すところまで三度やって、三度とも発車の時刻に押し戻された。二十時を過ぎると降りる客の歩き方が変わり、階段の前でいったん詰まってから、ばらけて改札のほうへ流れる。同じ駅でも、この時刻だけは扉が開いてから人が切れるまでの秒数が読めない。二十一時六分に十両を入れて、そこから先は別の編成に移る。明けの朝は八両になる。 新東大和の二番線で三宅とすれ違ったのは、二十時四十分過ぎだった。上りを一本返して上がるところで、傘は持っていない。 「戸羽さん、今日、泊まりですか」 「そうだ」 「わたし、閉めるとき、まだ口で数えてます」 「三か月と言った」 「三か月って、いつからの三か月ですか」 「乗った日からだ」 「乗った日って、四日目のあれですか。それとも一人になった日ですか」 「どっちでもいい」 「どっちでもいいのが、いちばん困ります」 「靴は慣れたか」 「まだです。中敷き、駅の外で買いました」 答える前に発車の放送が始まった。三宅は階段のほうへ歩いていき、踵のばんそうこうは替えたらしく、靴の内側の縁が前より汚れている。 二十二時十九分の下りに乗ったとき、車内は座席が半分ほど埋まっていた。 三つ目の駅を出て四百メートルばかりのところで、非常制動がかかった。誰かの膝の上から缶が落ちて、通路を転がって座席の脚に当たり、そこで止まった。車掌室の窓からでも、前方で赤い光が回っているのが見えた。無線が鳴った。停止してから十秒ほどあとになる。 「多摩台指令、二二四二列車。第七踏切の特殊信号発光機、現示。停止した」 「二二四二、了解。現場の確認に係員を向かわせる」 「二二四二、車内異常なし。放送を入れます」 マイクのコードのねじれを指で一度ほどいた。押した。この先の踏切で非常ボタンが扱われたこと、安全の確認を行っていること、運転の再開は分かり次第あらためて案内すること。言い終えて振り返ると、三両目の連結寄りに立っていた男が携帯を耳に当てて、こちらを見ないまま何か喋っていた。車内を前のほうまで歩き、聞かれたことに順に答えていく。二十二時を回ると聞いてくる人は少ない。四両目で女に呼び止められた。 「次の駅、タクシーいますか」 「零時までなら、一台か二台は」 「いるかいないかで言うと」 「見てきたわけではないので、いるとは言えません」 「次の次は、何時ですか」 「二十三時八分です。この遅れがついたままだと、二十分ごろになります」 「じゃあ乗ってます」 そう言って座り直し、鞄を膝の上で抱え直した。降りるつもりが本当にあったのかどうかは分からない。 九分めに無線が入った。 「二二四二、現場確認。踏切内に自転車が一台。人は柵の外。負傷なし」 「二二四二、了解」 「発光機の現示なきことを確認のうえ、十五キロ以下で通過してください」 「現示なきことを確認、十五キロ以下で通過。二二四二」 窓から首を出すと、遮断桿の外側に六十くらいの女が立っていて、係員がその横で自転車の前輪を溝から引き抜いているところだった。前の籠から葱が出ている。車体がその横を通り過ぎるあいだ、女はこちらを見ずに自分の自転車のほうだけを見ていた。踏切を出てから加速の入り方が変わって、白岩がノッチを入れたのが床から伝わってきた。遅れは十二分。そのあとの三駅では一秒も詰まらなかった。 夜の下りは元から余裕を削ってある。 缶はまだ通路の同じところにあった。 終着で客を降ろし、回送で多摩台に戻ったのが二十三時四分だった。回送の十九分は扉扱いも放送もない。 日誌には、事象の発生を二十二時三十一分、運転の再開を二十二時四十三分と入れた。遅延の票は別に一枚要る。原因の欄に踏切支障と書き、括弧をして自転車と足し、負傷の有無の欄に無と書いた。書きながら、前輪を抜いたのが係員だったか女のほうだったかを見ていなかったことに気づいたが、それを書く欄はない。 「自転車、線路の中まで入ってたの」 「前輪が溝に」 「あそこ、去年も一回あるのよ」 「同じ踏切ですか」 「同じ。三月と、たしか九月にも」 「二回あるなら、どこかへ上げるでしょう」 「上げるのは踏切の担当。うちは票を出すだけ」 「去年の票は残ってますか」 「残ってる。見たいの」 「いえ」 生駒は票を受け取って日付印を二度押した。二度目のほうが濃く出た。壁の掲示の下には、五月十六日からの行路改正の予告がまだ貼ってある。 改正で四五二行路の泊まりがどうなるかは、下の欄の小さい表を見れば分かる。見るのは十六日でいい。 ロッカーの棚には、四月に買った湿布の箱が二つ置いたままになっている。青いほうで合っていたと恵子に確かめたのが四月の終わりで、それから呉さんと同じ時刻に基地にいたことが三度あって、三度とも別の話になった。掃除は明けの朝も最後尾から前へ来る。 洗面所は四つ並んだ蛇口の三番目に立った。歯を磨くと、去年の暮れに取れた奥歯の詰め物の跡で、舌が同じ段差を覚え直す。歯医者の予約は三度かけそびれている。鏡の縦の傷は、この位置に立てば眉のあたりで切れて、顔の真ん中には来ない。 仮眠室は下段しか取らない。上段は寝返りのたびに枠の継ぎ目が鳴って、その音が下で寝ている者に全部届く。 向かいの下段にはもう人がいて、顔まで毛布をかぶっていた。枕元に眼鏡が畳んで置いてある。金属の細い縁だ。鼻当てのところだけ新しい。制服を壁のハンガーに掛け、靴下は履いたまま、毛布を膝で送って足を入れると、洗ってあっても、洗剤とは別の匂いが芯に残っている。携帯の目覚ましを三時五十三分に合わせ、画面を伏せて枕元に置いた。置いてから、もう一度取り上げて時刻を見た。自販機で買った茶は三分の一ほど残して、蓋を締め、同じところに立てた。天井の蛍光灯はまだ点いている。紐は去年の秋から切れかけていて、一度引いても消えない。 二回引けば消える。まだ入っていない者が一人いるので、そのままにした。 第十章 目が覚めたのは目覚ましの三分前で、枕元の表示が三時五十分に変わるのを寝たまま見ていた。仮眠室の窓は北を向いていて、五月に入っても夜明けの色はここまで来ない。毛布を膝で送り、足の裏を床につけて、踵から先に体重を移していくと、右の膝の内側で小さい音が鳴った。立った。靴下は履いたまま寝ていて、親指の付け根のところが湿っている。向かいの下段の男は毛布を顔まで引き上げ、口を開けて息をしていて、枕元の眼鏡は昨夜と同じ角度で畳んである。 天井の蛍光灯の紐を引いた。消えない。紐は途中で被覆が裂けて、中の白い芯が三センチほど出ている。裂け目を指で挟んでもう一度引くと、こんどは音を立てて消え、ドアの下の隙間から入る廊下の光だけになって、上段の枠の影が天井へ長く伸びた。点検票に一行書けば部品はその週のうちに来るはずのものを、去年の秋から誰も書いていない。 ペットボトルはぬるく、三分の一残っていた。 洗面所の蛇口は四つ並んでいる。三番目は、栓をひねってから水が出るまでが六秒かかる。ひねって口の中で数えると、五つ目で管の奥がごとりと動き、六つ目に水が来る。数え終わる前に出たことはない。両手に受けた。顔を打ち、耳の後ろまで濡らしてから、タオルを首に掛けたまま歯を磨いた。 更衣室のロッカーは上から二段目で、扉の内側に去年の健康診断の紙が貼ってある。制服の第二ボタンは去年つけ直したもので、白のつもりで買ってきた糸が、家の蛍光灯の下で並べると元の糸より青かった。留めるとき、指が止まる。棚には四月に買った湿布の箱が二つ載ったままになっていて、青いほうで合っていたと恵子に確かめたのが四月の終わりになる。手前の一箱に指をかけ、封の折り返しを起こしかけて元へ戻し、扉を閉めて鍵をかけ、ポケットへ落とした。 点呼室の壁の表には、新東大和のところに二万八千四百と入っている。 生駒助役はアルコール検知器を差し出す前に必ず一度咳をする。今朝は二回した。二回目のほうが短くて、口を手で覆わなかった。 「おはようございます、戸羽さん」 「どうも」 「検知器、昨日から新しいのになってます。吹く時間が少し長いです」 「壊れたんですか、前のは」 「壊れてません。台数が増えただけです。ランプが二回光ってからです」 咳が先に来た。それから息を入れると、ランプが二度光り、機械が短く鳴った。 「〇・〇〇。体温は」 「三十六度二分」 「予備の鍵、まだ出てきません」 「四番ですか」 「四番です。電話は繋がりました。鞄に入ってたそうです」 「じゃあ出てきますね」 「今日は非番なので、明日です。行路いきます。四五二行路、〇〇〇二列車」 そこから先は生駒が読み、こちらが同じ順で返した。出区の時刻、一番線に着く時刻、始発の時刻、両数。三度口に出した。そのあいだ生駒は行路簿の紙の端を指で揃えていて、こちらは二十六年やっていても、数字はいったん口の中で組み立ててから出している。 「保線、第三閉塞の先に入ります。徐行は出ていません」 「人が見えたら確認します」 「お願いします。時計は四時〇六分ちょうど」 「はい」 「六月の健診、十九日で出てますけど、午前の枠は混みます」 「そうですか」 「一番はやめたほうがいいです。前の日の泊まりの人が固まるので」 「あと、十六日から改正です。新しい行路表、今日から箱に入ってます」 「見てません」 「見てないですよね。皆さん見てないです」 「今日、持って帰ります」 「持ち帰りは駄目になりました。去年からです」 「そうですか」 「上がりに寄ってください。判が一つ足りないので」 「どこのですか」 「昨日の遅延票です」 「戸羽さん、今日の明け、何時上がりでしたっけ」 「十二時十八分です」 「じゃあ間に合いますね」 「何にですか」 「なんでしたっけ。誰かのを見て言いました」 判の音がした。頁がめくられる。生駒は指を舐めずにめくり、湯呑みの位置を五センチほど手前へ寄せた。左の親指のテーピングは取れていて、爪の根元が紫に変わっているのに、今朝も誰も触れなかった。 行路表は三つ折りにしてあり、折り目は毎回同じところへ来る。糊が弱っている。開くと右下から先に開き、折り目の内側は白く毛羽立って、下り四本目の欄の数字が読みにくくなっている。ポケットへ入れる前に、三度も口に出したばかりの出区の時刻を、もう一度だけ見た。 机の端では、三宅玲奈が業務日誌を開いて、定規を罫に当て、鉛筆でその上をなぞっている。 「おはようございます。今日、八両ですね」 「八両だ」 「戸羽さん、消しゴム、持ってませんか」 「持ってない」 「遅れの分数って、どっちの時計で書くんですか」 「駅のだ」 「詰所のは二十秒進んでますよね」 「進んでる」 「二十秒は、書かなくていいんですか」 「一分から書く」 「じゃあ、五十九秒は」 「〇だ」 「〇ですか」 「〇だ」 「靴、馴染んだか」 「まだです」 「中敷きは替えたか」 「駅の外で買いました。厚いやつ」 「戸羽さん、明けって、寝るんですか」 「寝ない」 「寝ないんですか」 「寝ると夜が来ない」 「戸羽さん、昨日の答え、まだ効いてます」 「なんの」 「三か月の、どっちでもいいってやつです」 「効いてるならいい」 「よくないです」 自転車がパンクして、ここまで押してきたという話を、日誌から目を上げずに言った。定規が滑った。線が少しだけ曲がった。返事をする前に消しゴムを探しはじめたので、行路表をポケットに入れ、椅子を机の下へ戻して立ち、出るときに壁際の工具箱の脇に空気入れが立ててあるのを見た。何も言わなかった。 屋外へ出る鉄扉は、いつも重い。取っ手を引くだけでは動かないので、腰を当てて押す。押す場所は塗装が剥げて下地の灰色が縦に細長く出ていて、剥げた形にそのまま腰骨が納まる。扉の下のゴムが床を擦る音がして、五月にしては冷たい外の空気が入ってきて、油と、夜のうちに撒かれた水を吸った砂利の匂いがした。空はもう白い。低いところの星は探さなかった。 側線には二両編成の事業用車が停めてある。黄色い車体で、屋根に作業台が載り、その手すりに巻かれた布が去年から解けたままになっていて、連結器のカバーには埃が固まり、雨の流れた筋が裾まで伸びている。二〇〇八年の秋に、レールを積んで夜中に一往復した。保線の側線まで行って、置いて、帰ってきた。三十キロも出していない。三番線のほうへ歩きかけた。二歩だけ戻る。もう一度その二両を見た。 受け持ちの八両は三番線に据わっていた。連結面の下から冷えた空気が流れてきている。車体に手を置いた。冷たい。掌のほうが先に温度を持っていかれるので、手を離してズボンで拭き、乾かしてから同じところにもう一度置いた。二度目は冷たさが薄い。手が冷えただけで、車体のほうは何も変わっていない。 点検の順番は変えない。左側を前から後ろへ、車側灯を一つずつ確かめていく。砂利を踏む音が歩幅どおりに続く。八両ぶんで百四十歩ある。四両目のレンズが白く見えたので屈んだら、曇りは内側ではなく外側で、指の腹で拭いたら取れた。反対側へ回る。同じ順で戻り、放送設備を入れて無人の八両に自分の声を流し、天井から落ちてくるほうの声を聞いた。まもなくと言う前で息を継いでいると教えられたのは先月で、それから二度試したが、自分の耳ではまだ分からない。ドアスイッチを扱って開けて閉め、戸挟みは指を差し入れて確かめた。非常通報装置を押すと、運転台のほうでブザーが遠く鳴った。 車内に入り、座席の下を屈んで見ていく。三両目のドアの脇の空き缶は、車体が揺れるたびに同じ幅で行き来していたので、拾って袋に入れた。四両目の、進行方向に向かって左の三人掛けの下に、傘が一本落ちている。紺だ。骨が八本、持ち手に籐が巻いてあり、名札の類は何も付いていない。留め具に髪の毛が一本巻きついていて、屈んだ角度からだけ細く光り、籐は端からほつれて、巻きの下の木地が出るまで使い込まれている。持ち上げると軽い。生地の内側が乾ききらずに指が湿り、握った跡が籐の一箇所だけ黒くなっていて、そこへ親指を合わせると、こちらの手にはわずかに小さい。乗務員室の隅に、石突きを下にして立てかけた。渡すのは新東大和に着いてからになる。 五両目の便所では、水を流し、扉を押さえて音を聞く。戻る音が途中で切れる日は駅で申し送ることになっている。今朝は鳴りきった。消火器は八本とも封印が切れておらず、温度計は十八度を指していた。 胸の裏から懐中時計を出した。一九九八年に支給された鉄道時計で、裏蓋の内側の番号はもう読めない。蓋の蝶番が去年から緩んでいて、開けるときに指の力を抜かないと蓋が反り返る。構内の時計の真下に立ち、秒針が十二を通るのを二度見た。ずれていない。竜頭を回す必要がないので、回す形だけをして蓋を閉じた。ポケットは支給されたときからこの時計だけの大きさで、ほかのものは入らない。 先頭へ戻ると、白岩はもう運転台に座っていた。帽子を浅くかぶる癖と、左の肩だけがわずかに落ちている背中で、遠くからでも分かる。机には水筒と、四つ折りにした新聞が同じ位置に置いてある。ガラスの向こうで顔を上げ、こちらを見た。頭を下げた。向こうも下げ、戻すまでのあいだに、白岩の目がこちらの手の傘へ一度落ちて、また上がった。それから二人とも正面を向いた。夜になると信号が滲むと言っていた眼鏡は変えたばかりで、レンズの上の縁が窓のガラスに映っている。来年の検査の話は、あのときも最後まで聞かなかった。 最後尾の車両から、呉さんが降りてきた。片手にバケツを提げていて、歩くたびに中の水が縁の内側で二度往復して止まる。足元を見て歩く癖があり、線路を跨ぐときには枕木の上へ必ず一度足を置く。水は灰色で、細かい紙の繊維と髪の毛と、菓子の袋の切れ端が浮いていた。底のほうはもっと濃い。ゴム手袋の右の人差し指の先が破れて、そこだけ肌の色が出ている。 「今日は」 そのあとが続いた。今日は木曜だったか、という問いで、こちらの返事を待たずに、午後に班長が来る、と自分で足した。頭を下げた。聞き返さずに歩くと、バケツの水がもう一度揺れて、その音が背中の側へ回っていった。ロッカーの棚のことは、いま思い出しても取りに戻る時間がない。 車掌室に入って扉を閉め、無線機の送話ボタンを押した。 「多摩台、〇〇〇二列車。無線の試験をします」 「〇〇〇二列車、多摩台。感度良好」 生駒助役の声で、語尾が点呼のときより低かった。マイクを掛けに戻し、時刻を確かめ、窓を三分の一だけ開ける。手を止めた。壁に立てた傘の石突きを内側へ少し寄せた。 四時四十一分。入換信号が変わり、足の裏から動き出す感じが先に来て、それから窓の外の景色が遅れて動いた。ドアの窓に額をつけて後ろを見る。基地の照明が一つずつ後ろへ流れ、ポイントを渡る音が三度、間を置かずに続けて鳴った。側線の二両が窓の枠を横切って、後ろへ抜けていった。 切り通しの東側の斜面に光が当たり、五月の草は丈が揃わないまま、風に押されて一斉に同じ向きへ倒れた。
小説 · text · 2026-09-07