第一章 第五の笛 人の骨は、風に町の道を教える。 だから笛にしてはならない。 ナギは第五の笛を持った瞬間、それが人の骨だと分かった。 長さは肘から手首ほど。乳白色に磨かれ、指穴が六つ。石切村の黒い麻布に包まれている。 見た目は崖山羊の前脚に似せていた。 だが重い。 骨壁が均一で、内側の空洞が三角に近い。端を整えた切断面には、人の右腕にだけある浅い溝が残っている。 ナギは吹き口へ口をつけず、検音台に置いた。 工房の窓外では、渡り嵐の先触れが、山の雪煙を東へ引いている。 巡礼出発まで三日。 十二村から届く骨笛を調べ、割れを直し、風路院へ渡す。母が死んでから、今年が初めて一人で任された検品だった。 第一の山鹿。第二の白鶴。第三の赤鮭。第四の崖羊。 第五も、本来は崖羊のはずだった。 ナギは細い光を骨へ当てた。 骨の中央に、古い治癒痕がある。幼い頃に折れ、少し曲がったままつながっている。 その上へ、藍色の染み。 皮膚から骨まで針を通して入れる測量官の印だった。崩れた道で身体だけが見つかっても、所属を確かめるためのものだ。 半年前、行路測量官が一人、消えた。 サイロ。三十五歳。渡り獣の道を調べるため、十二村を回っていた。 ナギは工房の戸を閉めた。 弟子も客もいない。 第五の笛を、鹿革で三重に包む。 そのとき、外から杖で戸を叩く音がした。 「検品を終えたか」 老巡礼者イルマの声だった。 ナギは人骨を作業台の下へ隠した。 「まだです」 最初の嘘をついた。 第二章 骨の道 骨は、生きていたものの道を覚える。 山鹿の脚骨なら、夏の高みと冬の森を往復する尾根。 白鶴の翼骨なら、湿地から南の入江へ降りる空の筋。 赤鮭の背骨なら、海から川を遡り、生まれた瀬へ戻る水路。 骨笛を吹くと、風はその道癖へ寄る。 一本では、少し向きを変えるだけ。十二本を村の順に吹けば、春の渡り嵐を、人の住まない裂谷へ導ける。 そうして山の国は、二百十三年、町を守ってきた。 人の骨には、人の道が残る。 井戸へ行く道。市場。畑。家。眠る場所。たった一本でも、人骨笛は風を街道へ引き込み、屋根のある場所を順に踏ませる。 四十年前、処刑人の脛骨を笛にした領主が、敵の城へ嵐を向けようとした。風は処刑人が暮らした下町から城へ登り、味方の家を千軒壊した。 それ以来、人骨の使用は禁じられた。 「母上なら、最初にどこを見る?」 イルマが工房へ入り、十二の検品箱を眺めた。 六十七歳。巡礼の灰色外套に、十二村の布片を縫いつけている。杖の先は、長い道で丸くなっていた。 「吹き口です」 「お前は」 「骨の内側」 「母上と同じ答えを言う必要はない」 「言ってません」 イルマは第一の笛を持ち、光へ透かした。 「今年は風が早い。院から、検品を明日までに終えろと使いが来た」 「三日あるはずです」 「裂谷の雪が解けた。嵐が北へ寄る」 「道が変わったなら、笛も調べ直さないと」 「古い順で吹く」 「古い道へ、風が行くとは限りません」 イルマは第一の笛を戻した。 「十二本、揃っているか」 「十一です」 作業台の下に、第五がある。 「石切村は?」 「届いていません」 二つ目の嘘だった。 イルマは、ナギの手を見た。 骨粉が指へ付いている。人骨も獣骨も、粉の色はほとんど同じだった。 「なら、明朝取りに行く」 「私が」 「巡礼者の仕事だ」 「検品できる者が見た方が早い」 イルマは杖へ両手を重ねた。 「隠した笛を出しなさい、ナギ」 第三章 吹いてはならない音 ナギは鹿革の包みを出した。 イルマは触れなかった。 「どこまで分かった」 「成人の右尺骨。男か女かは骨だけでは断定できない。古い骨折。測量官の藍墨」 「サイロ」 「知っていたんですか」 「疑った」 「なぜ」 イルマは答えず、包みの紐を見た。 石切村の結びだった。二度巻いて、輪を石の角のように立てる。 「第五は、本来どこから届く予定でした」 「炉村だ」 「包みは石切村です」 十二村の番号は巡礼順で、動物種とは一致しない。第五管は炉村が崖羊の骨で作り、石切村の集積所を経て谷口の工房へ届く。 「石切村で包み直した?」 「そう見える」 「院へ知らせます」 ナギが戸へ向かうと、イルマの杖が行く手へ出た。 「院は、笛を渡せと言う」 「証拠です」 「嵐を導くために必要だと」 「人骨を吹けば、町へ来ます」 「院は、そのことも知っている」 ナギはイルマを見た。 老人の顔には、驚きがなかった。 「あなたは、何を知っているんです」 外で馬の鈴が鳴った。 風路院の使者が三人、工房前へ来た。 白い骨飾りを胸につけ、先頭は巡礼隊長オルガンだった。広い肩、右膝だけを硬い革具で覆っている。 「総検品を受け取りに来た」 戸の外から言った。 イルマは人骨笛を包み、ナギへ渡した。 「吹くな。隠せ」 「嘘を続けるんですか」 「道へ出るためだ」 ナギは包みを背の工具箱へ入れた。 オルガンが入ってきた。 「十二本、揃ったか」 「第五だけ、調律が残っています」とイルマ。 三つ目の嘘は、老人がついた。 第四章 風路院の使者 オルガンは十一管を一本ずつ数えた。 「第五はどこだ」 「割れを埋めています」とナギ。 「見せろ」 「膠が乾くまで動かせません」 「明朝出る」 「昼まで待ってください」 オルガンは検品台の骨粉を指でなぞった。 「今年の院令では、破損管もそのまま提出する」 「そんな院令は受けていません」 「今、伝えた」 「書面を」 ナギが求めると、後ろの使者が笑った。 「若い職人は、字がないと風も吹かせないらしい」 「風が間違った道へ行ったとき、口頭の命令は残りません」 オルガンの右膝が軋んだ。 「母親は、院を信じた」 「母は、骨を見ました」 「だから早く死んだ」 工房の空気が止まった。 母は三年前、冬の肺病で亡くなった。骨粉を吸い続けた職人に多い病だった。 「隊長」とイルマが言った。「職人を脅しても、笛は直らん」 「脅していない。時間を教えた」 オルガンは十一管を木箱へ戻した。 「第五は、出発鐘までに院へ持参しろ。なければ谷口村の嵐税を倍にする」 「笛一本のために?」 「一本欠ければ、十二村が危険になる」 使者たちは帰った。 馬の鈴が山道へ消えてから、ナギは工具箱を開いた。 「母の死を知っていた」 「院の職人名簿にある」 「違います。早く死んだと言った」 母は死の前月まで、院から届く特別な補修をしていた。ナギには見せなかった。 「人骨を加工したんですか」 イルマは窓を閉めた。 「十年前、鶴が減った。鮭が堰を越えなくなった。十二の笛が揃わない年が続いた」 「人を使った?」 「院の地下墓に、引き取り手のない骨がある」 「吹いたんですか」 「細い骨を、獣骨の内側へ継いだ」 「母が」 「命じられた」 「あなたは」 「記録を消した」 イルマは、自分の罪を昔話のように言った。 「今年の一本は、継ぎじゃない。人の骨そのものだ。誰かが隠すのをやめた」 第五章 測量官の腕 サイロの姉は、谷口村で宿屋をしていた。 ナギとイルマは夜明け前に訪ねた。 姉のマヤは、人骨笛を見せろと言わなかった。 「弟だと、どう分かるの」 「測量官の藍墨と、骨折痕です」 「子どもの頃、木から落ちて右腕を折った」 「それだけでは断定できません」 「ほかに何がいる?」 「歯か、ほかの骨。測量院の施印記録」 「笛に、弟の名前は書いてない?」 「ありません」 骨は道を覚えるが、名前は覚えない。 マヤは、サイロの最後の手紙を出した。 半年年前、麦畑村から届いた。 〈獣の道が、地図より先に変わった。十二村は古い道を吹いている。院の記録に、死んだはずのない骨が増えている。頁を分けて預ける。私が戻らなければ、巡礼と一緒に集めてくれ〉 「頁は?」 「谷口の分だけ」 サイロは測量帳を十二枚に分け、各村の誰かへ預けた。 マヤの頁には、山鹿の新しい越冬地が描かれている。従来より二つ西の尾根。 「第一の笛は、古い道を覚えています」とナギ。 「嵐は?」 「途中で笛から外れるかもしれない」 今年の問題は人骨一本ではない。 十二本すべてが、もう存在しない道を吹く可能性がある。 「弟を探して」とマヤ。 「骨の残りを?」 「違う」 彼女は怒った。 「誰が、弟を笛にしたか」 ナギは頷いた。 「調べます」 「嵐が来るまでに?」 「巡礼で、十二村を回ります」 イルマが口を挟んだ。 「院に追われる」 「あなたも行くでしょう」 「私は笛を集める巡礼者だ」 「記録を消した巡礼者です」 マヤは二人を見た。 「どちらを信じればいいの」 ナギは答えた。 「どちらも、話したことだけを」 第六章 出発鐘 巡礼の朝、風路院の鐘が七度鳴った。 例年は十二度。 五つの村で、風見塔が倒れたという。 嵐は予定より二日早い。 谷口の広場に、十二管を納める木箱が置かれた。オルガンと院の使者、村長、見送りの住民。 ナギは第五管を入れなかった。 代わりに、未加工の崖山羊骨を一本入れた。 「笛ではない」とオルガン。 「第五管は、人骨でした」 広場が静まった。 イルマが目を閉じた。 隠して道へ出る計画を、ナギは捨てた。 「成人の右尺骨。測量官の印があります。風へ吹けば、人の道を辿る」 「証拠を」と村長。 「保管しています」 「院へ渡せ」とオルガン。 「骨の由来と、加工した者を調べるまで渡しません」 「嵐を止める笛を、職人一人が占有するのか」 「吹けない笛です」 オルガンは人々へ向き直った。 「第五がなければ、巡礼は完成しない。谷口の職人が十二村を危険にしている」 母親たちが子どもを引き寄せた。 屋根を補強する男が、ナギへ叫んだ。 「笛を渡せ」 「人骨を吹けば、この広場へ風が来ます」 「昔も使ったんだろう」と別の声。 誰かが知っている。 噂は、制度より先に広がっていた。 イルマが木箱の前へ立った。 「巡礼は出る。第五管は道中で作る」 「三日かかる」とオルガン。 「ナギなら一日だ」 「道を覚えた骨がない」 「十二村に、出させる」 イルマは群衆へ、自分が十年前に人骨使用記録を消したと告げた。 広場の怒りが、ナギから老人へ移った。 石が一つ飛び、イルマの肩に当たった。 「なぜ今、言う」 村長が訊いた。 「誰かが、隠せない一本を作ったからだ」 「自分からではない」 「そうだ」 イルマは石を拾い、道端へ置いた。 英雄になる告白ではなかった。 ナギは十一管の箱を背負った。 人骨笛は、別の革袋へ入れる。 巡礼は、十二本揃わないまま出発した。 第七章 老鹿の村 第一の谷口村が納めた山鹿の笛は、自然死骨ではなかった。 ナギは出発から半日後、村境の祠で笛を吹かずに調べた。 骨の端に、細い血の輪が残っている。死後長く風雨に晒された骨には出ない色。笛へしたのは、死後ひと月以内。 「老鹿が雪崩で死んだ」と村長は言った。 「首の骨に、刃傷がありました」 「苦しんでいたから、楽にした」 「自然死ではありません」 「死ぬところだった」 「誰が決めた?」 猟師が前へ出た。 「俺だ。後脚が腐り、群れについていけなかった」 嘘ではない。 ナギは猟師小屋で、鹿の残り骨を見た。後脚に罠の鉄が食い込み、感染している。 「罠は誰の?」 「嵐税のためだ」と猟師。 風路院へ納める穀物が足りず、村は鹿皮を売った。罠を増やし、老鹿がかかった。 儀式のための税が、儀式に必要な動物を傷つけている。 「この骨は、どの道を覚えていますか」とイルマ。 猟師は山を指した。 「西尾根。昔は東だったが、伐採で移った」 サイロの測量頁と一致する。 「なぜ院へ報告しなかった」 「道が変われば、谷口の順番が外される。巡礼宿も、嵐税の配分も失う」 ナギは第一管の音孔を蜜蝋で半分埋め、低くした。新しい西尾根へ風を寄せる音程。 「これで合うのか」と猟師。 「今年の鹿の道には」 「来年は」 「来年の骨と道を調べます」 「毎年?」 「動物は、院の地図を守りません」 村長は、サイロから預かった測量頁を出した。 交換条件を求めなかった。 その代わり、自分たちが鹿を殺したことも記録へ書くよう言った。 「院の税で罠を置いたことも」 一つ目の村の嘘は、嵐から村を守るためではなかった。 嵐を守る制度の中で、村が残るための嘘だった。 第八章 飛ばない鶴 鶴沼村の湿地には、鶴がいなかった。 白い羽の代わりに、排水溝の杭が並ぶ。湿地の半分は麦畑になり、残りには浅い水が溜まっている。 第二管は白鶴の翼骨だった。 ただし、今年の骨ではない。 「母の代に納めた笛です」 村の笛守が認めた。「倉から出し、磨き直しました」 骨は五十年以上前のものだった。何度も蜜蝋を塗り、穴の縁が丸くなっている。 「再使用は禁止です」とナギ。 「新しい骨がない」 「鶴が来ないことを、なぜ報告しなかった」 「院が、鶴沼の名を外す」 村名、巡礼宿、湿地管理の補助金。鶴がいないと認めれば、すべて失う。 イルマは沼の端へ杖を差した。 「排水路を作ったのは誰だ」 「村です。麦を増やすため」 「鶴を追い出して、鶴の村を守った?」 笛守は答えなかった。 古い翼骨が覚える道は、今の空にない。 ナギが軽く息を通すと、音は南西へ震えた。沼を離れた鶴は、近年さらに西の大河を渡っている。古い笛は、嵐を干拓地の上へ連れて戻る。 「使えません」 「第二がなければ、どうする」 「鶴以外の骨を探します」 「順番が崩れる」 「鶴の道はもう崩れています」 サイロの測量頁は、旧水門の石蓋の下に隠されていた。 地図には新しい鶴道と、干拓前の湿地面積が描かれている。欄外に、サイロの字。 〈名が先に残り、生き物が後から消える〉 村の若者が、乾田で死んだ雁の骨を持ってきた。雁は鶴と同じ大河沿いを渡り、今年この村で自然死している。 「白鶴ではない」と笛守。 「風は名前を聞きません」とナギ。 第二管を雁骨で作ることにした。 村名は変わらない。 その代わり、院への記録には〈鶴なし〉と書いた。 第九章 堰を越えない鮭 赤鮭村の川には、大きな石堰ができていた。 水車を回し、村の粉挽き場へ力を送る。魚道はあるが、水量が足りない。 鮭は堰の下で止まる。 第三管の背骨は、海から村の上流まで遡った道を覚えているはずだった。 ナギが音を確かめると、風は川下へ戻ろうとした。 「骨を採った場所は」 村長は上流の産卵場と答えた。 漁師は目を伏せる。 イルマが川辺へ行き、魚を捌く台を見た。鱗に海の銀が残っている。 「堰の下で獲ったな」 「上へ来ない」と漁師。 「村長は上流だと」 「院へは、そう出した」 堰を作るとき、風路院は許可していた。魚道を設ければ鮭の道は変わらないという条件だった。 完成後、誰も遡上数を測っていない。 サイロだけが測った。 測量頁には、三年間の鮭数がある。 千二百、四百、六十七。 今年は十二。 「堰を壊せと言うのか」と村長。 「今日壊しても、この骨の道は変わりません」とナギ。 「なら意味がない」 「来年の鮭にはあります」 今年の第三管は調律し直せない。骨が覚える道は、堰の下で終わっている。 巡礼路も、川下を通るよう変えなければならない。 「川下には家がある」とイルマ。 「五十三軒」と村長。 「人骨笛と同じになる」 ナギは第三管を箱へ戻さなかった。 「使いません」 「二本欠ける」 「道を偽る笛は、欠けているのと同じです」 村長は水車を見た。 「堰を開けば、粉が挽けない。嵐の前にパンがなくなる」 一日だけ水門を開けば、上流へ戻れる鮭がいる。だが粉挽きは止まる。 村は、水門を半分開けることを決めた。 完全な魚道ではない。 十二匹のうち何匹が越えるかも分からない。 今年の嵐には間に合わない。 それでも、来年の骨が覚える道を作る最初の一日だった。 第十章 国境の脚 第四管は崖山羊の脚骨。 骨自体に偽りはなかった。老いた個体の自然死。高い崖を何年も往復した密度がある。 問題は、その崖が隣国にあることだった。 崖羊村の猟師は、夜に国境標を越え、骨を拾った。 「山羊は国境を知らない」と猟師。 「院は知っています」とイルマ。 風を隣国の谷へ導けば、嵐を他国へ押しつけたとみなされる。二十年前、それが原因で小さな戦が起きた。 「自村産と書けば、風が国境内を通ると思った?」 ナギが訊く。 「骨は同じ種だ」 「道が違います」 第四管へ息を入れず、穴を指で順に塞ぐ。骨の内側から、微かな冷気が東へ抜けた。 国境の向こう。 「使えば、隣国の牧草地へ嵐が行く」 「あちらも、昔こちらへ流した」 「だから今年は返す?」 村長が、古い戦で息子を失ったと話した。 この村の嘘は交易のためでも税のためでもない。 報復を儀式へ隠していた。 イルマは国境見張所へ使者を出した。隣国側の笛守を呼ぶ。 半日後、赤い外套の女が来た。 「その山羊は、両国の崖を歩いた」と彼女は言った。「冬はこちら、夏はそちら。骨の道を半分に切ることはできない」 二国の記録を合わせると、山羊の群れは尾根を横切り、無人の高原へ抜けていた。 第四管は使える。 ただし、隣国にも巡礼時刻を知らせ、住民を避難させる。 崖羊村は、骨の産地偽装を公にすることになった。 村長は最後まで反対した。 「国境を守るのが村長だ」 赤外套の笛守が言った。 「山羊の道を、国境に使わないで」 第四の音は、二国どちらの所有にもならなかった。 第十一章 石切村の結び 石切村では、すべての包みを角の形に結ぶ。 第五管の麻布を見せると、村長ハナは自分が包んだと認めた。 「中身も知っていた?」 「知っていた」 「人骨を、検品箱へ入れたんですね」 「炉村の笛と取り替えた」 ナギは人骨笛を机へ置いた。 「サイロを殺した?」 「いいえ」 「骨をどこで」 ハナは石倉の床を開けた。 地下に、小さな祭壇がある。中央にサイロの測量杖、破れた上着、左の靴。 「風路院から送られた」とハナ。「〈道なき者〉の遺品として」 「遺体は」 「院の地下墓」 「なぜ、人骨笛を持っていた」 「半年前の秘密評議で見せられた。第七码の笛が割れ、代わりにする、と」 十二村の代表が集められた。 サイロは、院が十年間、人骨を獣骨へ継いだ記録を見つけていた。公表すれば巡礼への信頼が失われる。笛を続けるには、彼を黙らせる必要があると院長ネイラが話した。 「殺すことへ投票した?」 「投票は、公表するか、院内で処分するかだった」 「処分の意味は」 「訊かなかった」 「人が死ぬと分かっていた?」 ハナは頷いた。 黒と白の投票石を、袋へ一人ずつ入れた。 白六。黒六。 院長が最後に黒を足した。 「あなたは」 「白」 「それを証明できますか」 「できない。袋へ手を入れたのは全員だ」 「だから骨をすり替えた?」 「笛になったサイロを、院がまた隠そうとしたから」 「人骨を吹く危険を知っていたでしょう」 「谷口の職人が見つけると思った」 「私が見落としたら」 「お前の母なら見つけた」 ナギは立ち上がった。 「私は母ではありません」 ハナの告発は、他人の正しさへ危険を預けていた。 イルマが測量杖を調べた。石突きに、薄い紙が巻かれている。 第五の測量頁。 石切場の拡張で、崖山羊の通り道が二つに分かれていた。炉村の第五管も、その古い道を覚えている。 人骨と取り替えなくても、使えない笛だった。 第十二章 白すぎる骨 炉村は、骨を白く磨く。 硫黄泉と灰を混ぜた液へ浸し、油と染みを落とす。白い笛ほど清いとして、院の品評で高く評価された。 第五管の本物は、炉村の祭壇に戻っていた。 ナギが手に取ると、表面が粉のように剥がれた。 「薬が強すぎます」 職人は、今年から新しい漂白灰を使ったと答えた。 「古い骨を、新しく見せるため?」 「逆だ。若い骨を、古く見せる」 崖山羊は三歳だった。 群れの道を十分に往復していない。しかも屠殺痕がある。 「石切場の発破で群れが来なくなった」と職人。「残った若い雄を、冬に捕えた」 「院の検品は」 「白ければ通る」 鐘村が音程証を出し、風路院は骨の年齢を見なかった。 ナギの母へ、特別補修が届いていた理由も分かった。 漂白で脆くなった骨を、獣膠と細い人骨で内側から補強する。 母は、使った素材をナギに話さなかった。 「母は、断れなかったんですか」 イルマへ訊いた。 「断らなかった」 「同じですか」 「違う。だから言い換えない」 イルマが記録を消し、母が加工し、院が笛を配った。 誰か一人が強制されただけの話ではなかった。 第五の代替骨は見つからない。 ナギは炉村の若い山羊骨を捨てず、短い補助笛へ作り直すことにした。道を知らない骨でも、石切場の手前までなら群れの足跡が残る。 その先は第四管の国境山羊へつなげる。 「十二本でなくなる」とオルガンの使者が言った。 「十三本になります」 「儀式にない」 「今の道も、儀式にありません」 ナギは漂白された表面を削った。 白い粉の下から、若い骨の薄桃色が出た。 第十三章 麦畑の宿 サイロが最後に泊まったのは、麦畑村だった。 宿帳に名はない。 宿主は、測量官を見ていないと答えた。 マヤへ届いた手紙には、麦畑村の消印がある。 「手紙だけ預かった」と宿主。 「誰から」 「道の旅人」 「名は」 「知らない」 ナギは宿の二階を見せてもらった。奥の部屋の窓枠に、細い刻みがある。 測量官は、泊まった場所の北を示す刻みを残す。迷ったとき、後続が方位を確かめるためだ。 「サイロはここにいた」 宿主は黙った。 イルマが床板を杖で叩く。 一枚だけ音が違う。 下から、測量帳の第七頁が出た。 麦畑を横切る風路と、三つの家が描かれている。嵐を裂谷へ送る古い道の途中に、季節労働者の宿舎ができていた。 「この家の人たちは」とナギ。 「収穫期だけ来る」と宿主。 「嵐の時期も?」 「春麦の刈入れが早まった」 公式の村人名簿には載らない。 裂谷へ嵐を送れば、途中の三棟を通る。 「サイロは、院へ報告すると言った」と宿主。「村長は、宿舎を空き小屋として出している。人が住むと分かれば、風路補償を払わなければならない」 「それで隠した?」 「家内が、収穫の賃金で薬を買ってる」 この村の嘘は、家族を守るためだった。 十二のうち、初めてだった。 同じ言葉でも、隠された人が危険になることは変わらない。 「サイロを誰へ渡した」 宿主は院の巡礼隊が夜に来たと話した。 隊長オルガンが、測量官を院へ護送すると言った。 サイロは抵抗しなかった。 「自分で行けば、記録を見せられると思っていた」 「腕は怪我していた?」 「右手首に縄を巻かれてた」 人骨笛の切断位置と一致する。 オルガンが、生きたサイロを最後に連れていった。 第十四章 落ちる石 麦畑村を出た午後、山道の上から石が落ちた。 最初の一つは拳ほど。 二つ目は、馬の頭より大きかった。 イルマがナギを押し、岩壁の窪みへ転がり込む。笛箱が道へ落ちた。 石が箱の角を砕いた。 ナギは這って手を伸ばした。 「待て」 斜面に人影がある。 白い骨飾り。 風路院の使者だった。 自然の落石ではない。 三つ目が落ちる前に、イルマが杖を投げた。斜面の男の足元へ当たり、男がよろめく。 ナギは箱を引き寄せた。 第一管にひび。第二の未完成管は無事。第三は使わない。第四、無事。第五の補助骨、無事。 人骨笛は背の革袋にある。 使者が斜面を下りてきた。 「笛を渡せ。院長命令だ」 「嵐を止める笛を壊した」とナギ。 「偽の笛だ」 「どれが?」 男は答えられない。 命じられただけで、中身を知らない。 イルマが立ち上がろうとし、右足を押さえた。落石を避けたときに捻った。 使者がナギへ近づく。 彼女は人骨笛を袋から出した。 吹き口を男へ向ける。 「吹けば、この道へ風が来ます」 「嵐はまだ遠い」 「先触れは頭上にいる」 雪煙が峰を越えていた。 人骨の道癖が、どれほどの風を呼ぶか、ナギにも分からない。 脅しだった。 「人骨を吹く職人になれるか」と男。 ナギは息を吸った。 イルマが言った。 「吹くな」 その声は男ではなく、ナギへ向いていた。 使者は一歩退いた。 ナギは笛を下ろした。 男を追い払うために、下の麦畑と宿舎を危険へ置くことはできない。 使者は、笛箱ではなくイルマの杖を拾い、谷へ投げた。 「院まで歩けるなら来い」 斜面を登って消えた。 ナギは第一管のひびを見た。 巡礼は、嘘を見つけるたびに笛を失っていった。 第十五章 杖のない巡礼者 イルマは右足へ添え木を当てた。 骨ではなく、靭帯を傷めている。歩けるが、遅い。 「馬を借ります」とナギ。 「笛箱を運ばせろ。私は歩く」 「巡礼者だから?」 「杖を投げられたからと、馬に乗ったら笑われる」 「誰に」 イルマは答えなかった。 二人は麦畑村へ戻り、荷馬を一頭借りた。第一管のひびを膠で留める間、イルマがサイロの頁を並べる。 第一、第二、第三、第四、第五、第七。 第六頁がない。 炉村は預かっていないと言った。 「嘘だった?」 「あの村は、骨を白くする嘘で手一杯だった」とイルマ。「頁まで隠す理由がない」 「院の使者が先に取った」 「かもしれん」 頁の余白には、一文字ずつ、拍子記号がある。 ナギは指で机を叩いた。 長、短、短、長。休み。短、長。 「何の歌です」 イルマは知らないと言った。 「記録官でしょう」 「歌は職人のものだ」 ナギは母が補修中に口ずさんだ古い検穴歌を思い出した。 〈端を一つ、節を二つ、七つの歯で道を開け〉 骨へ音孔を開ける位置を覚える歌。 サイロは頁の拍に、別の記録を隠している。 「十二枚揃えば、読めます」 「先に殺した者へ届くかもしれない」 「だから集める」 イルマは添え木の紐を締めた。 「私は院にいた頃、人骨補修の台帳を、同じ歌の拍へ移した」 「消したと言ったでしょう」 「正式台帳からは」 「どこに残した?」 「巡礼歌に」 村ごとに一節ずつ異なる歌。その長短が、使用した人骨の数と出所を示す。 「告発するつもりだった?」 「消すことに耐えられず、読めない形で残した。告発したとは言えん」 「誰にも読ませなければ、消したのと同じです」 イルマは頷いた。 杖がなくても、老人の歩みは変わらなかった。 遅かった。 第十六章 湖底の名簿 湖村は、死者を水へ返す。 遺体を葦舟へ載せ、湖心で沈める。骨は魚と泥へ混じり、笛には使わない。 そういう村だと、イルマは教えた。 村の骨倉には、人の指骨が三十二本あった。 湖底から網にかかったものを、風路院へ渡す前に乾かしている。 「水へ返した骨を、また拾うんですか」とナギ。 骨倉番は、村人のものではないと答えた。 「名のない流れ者。嵐のあと、岸へ上がった者」 「埋葬しない?」 「院が引き取る。道なき者として」 十年前、人骨を獣笛へ継ぎ始めた時期と、湖村からの引取数が増えた時期が一致する。 死者に名がないのではない。 名を調べなかった。 旅券、服の印、歯の形。湖村は記録せず、骨だけを本数で渡した。 「嵐で家を失った北岸の人たちです」と若い舟守が言った。「季節ごとに南へ来る。院は、街道を持たない人の骨なら、風も人里へ行かないと」 間違っている。 旅人の骨ほど、多くの人の道を覚えている。 イルマの巡礼歌では、湖村の節が十年前から三拍増えていた。 三本の継ぎ骨。 「あなたは知っていた」とナギ。 「台帳を見た」 「止めなかった」 「嵐が一度、湖を避けた。人骨が効いたと院は考えた」 「どこへ行った?」 「北岸の仮小屋を壊した」 公式記録では、無人の岸となっていた。 人骨笛は、人の道へ風を導いた。 その人たちが名簿にいなかったため、成功と数えられた。 サイロの第八頁は、葦舟の修繕箱から出た。舟守が預かっていた。 頁には北岸の仮小屋二十七棟と、住人の出身地が記されている。 「今年も人がいますか」 「湖が増水すれば、高台へ移す」 「嵐の前に」 村長は、院の許可が必要だと言った。 ナギは答えた。 「許可を待つなら、笛は使いません」 湖村は北岸へ舟を出した。 骨倉の三十二本には、一本ずつ仮の番号を付け、服や埋葬時期の記録と照合することになった。 名前が戻るかは分からない。 本数のまま渡すことだけは止めた。 第十七章 柏の切株 柏村の街道は、二年前に広げられた。 巡礼隊と観光客が通りやすいよう、道沿いの家を十七軒移した。住民は北斜面の新しい区画へ移り、古い場所には柏の若木が植えられている。 「自願移転です」と村役人。 サイロの第九頁には、拒否した五世帯の名があった。 〈嵐路保全令による収用〉 院の印で、補償なしに移されている。 「家があると、風が曲がるから」と村役人。 「人骨笛でもないのに?」 「人が暮らせば、煙と声が道へ染みる。獣骨の風も迷うと院が」 根拠のない説明だった。 実際には、巡礼宿の馬車が通れないため道を広げた。 移された家の一人、陶工のラウは、北斜面で窯を作れず仕事を失った。土が湿り、火が上がらない。 「なぜ自願と署名したんです」とナギ。 「拒めば、村全体が巡礼路から外されると言われた」 「誰に」 「院長ネイラ」 サイロは聞き取りをし、収用記録を正すと約束した。 その三日後、麦畑村で拘束された。 ラウは小さな陶管を出した。 「骨の代わりに、これを使えないかとサイロに頼まれた」 土笛は、道を覚えない。 息を入れると音は出るが、風は寄らない。 「使えません」とナギ。 ラウは肩を落とした。 「骨でなければ駄目か」 「今の作り方では」 「なら、いつまでも動物を殺す」 「自然死骨です」 言ってから、谷口の老鹿と炉村の若山羊を思った。 規則が自然死と書いても、必要な年に都合よく死ぬ動物はいない。 ナギは陶管を箱へ入れた。 「嵐のあと、試します」 「今年は使わない?」 「道を覚えさせる方法がない」 ラウは、移された十七軒の旧敷石を指した。 「土は道を覚えない。でも道の土なら、ずっと踏まれている」 ナギは答えを出せなかった。 第九管は柏林を歩く猪の牙骨。街道拡幅で、猪は北斜面へ移っている。 人を移し、獣も移し、古い笛だけが元の道を覚えていた。 第十八章 買われた音 鐘村は、十二管の音程を認証する。 村の中央に十二の銅鐘があり、骨笛の音が同じ高さで響けば合格。認証札がなければ、風路院は受け取らない。 今年の第三、第五、第九管には、すでに合格札が付いていた。 どれも使えない笛だった。 「検査したのは誰です」とナギ。 鐘守は、自分だと答えた。 「第三管を吹いてください」 「職人以外は吹かない」 「認証したときに吹いたでしょう」 「村の提出音を聞いた」 「笛そのものを調べていない?」 鐘守は黙った。 各村は、認証料とは別に贈物を送っていた。 赤鮭村は塩漬け魚。炉村は銅炭。柏村は巡礼宿の収益分。 「昔からの礼だ」と鐘守。 「音が合わなくても札を出す礼?」 「十二本が揃わなければ、院が困る」 「村が困るんでしょう」 鐘村は、認証料で冬を越す。失格管が増えれば、巡礼自体が中止され、村の役割がなくなる。 イルマは十二の鐘を順に叩いた。 二つが、基準音より低い。 鐘自体も狂っていた。 「いつ調律した」とイルマ。 「七年前」 「毎年必要だ」 「銅が高い」 正しさを測る道具が、先にずれていた。 サイロの第十頁は、鐘楼の梁に挟まれていた。鐘の実測音と、認証記録の差が記されている。 ナギは、使える管だけを集め、耳と水笛で音を測った。 鐘守も作業へ加わった。 認証札はすべて外した。 「鐘村の仕事がなくなる」と村長。 「今年は、正しい音を測る仕事があります」とナギ。 「来年は」 「鐘を直してください」 贈物で買える合格をやめれば、村は銅を買えない。 十二村が認証費を共同で負担する仕組みが必要だった。 笛を正すだけで、鐘は直らない。 第十九章 隠された北風 風見村の塔は、五日前に北を向いた。 公式報告では、まだ東。 風見役たちは、塔の指針を縄で固定していた。 「外せば、北へ回ります」とナギ。 「一時的な乱れだ」と風見長。 「五日続いている」 「春の風は変わる」 「嵐も変わります」 北には風路院と首都がある。 東なら、従来どおり裂谷へ送れる。北と報告すれば、院自身が避難と防壁の準備をしなければならない。 「院長から、東のままにしろと言われた?」 風見長は答えなかった。 塔の地下で、サイロの第十一頁が見つかった。 新しい嵐路は、北へ大きく曲がり、風路院の地下を通る。理由は、院の背後に掘られた灰鉱だった。山腹を削り、風の抜け道ができている。 院は巡礼の祭具を売るため、灰鉱を広げていた。 自分たちが嵐の道を変え、その事実を隠した。 「北を公表すれば、首都が混乱する」と風見長。 「公表しなければ、準備できません」 「予測が外れたら」 「外れた記録も残します」 ナギは塔の縄を切った。 指針が北へ回る。 村人が鐘を鳴らし、北風警報を十二村へ送った。 オルガンの使者が塔へ来たのは、その直後だった。 今度は四人。 「院長命令に反した」と先頭が告げる。 「風が院長命令に反しています」とナギ。 使者は剣を抜かなかった。 塔の周りに、村人が集まっていた。 人骨笛の話、落石の話、北風の話は、巡礼より先に各村へ伝わっている。 隠す者が多い制度は、告げる者も多い。 第二十章 裂谷の住人 裂谷は無人ではなかった。 春麦を刈る季節労働者、灰鉱から逃げた坑夫、国境を越えた牧夫。百三人が、岩棚の仮小屋で暮らしていた。 第十二村の役人は、住民ではなく滞在者だと説明した。 「嵐の前には出ていく」 「いつ知らせましたか」 「明日」 嵐は明日の夜に来る。 荷物、子ども、病人を連れ、狭い道を百人が登るには間に合わない。 サイロの第十二頁には、仮小屋の名簿と避難時間の試算があった。 徒歩のみ、十四時間。 荷車使用、九時間。 北道を開けば六時間。ただし院の灰鉱を通る。 「北道は禁止です」と役人。「鉱区です」 「嵐へ渡す命と、鉱区を守るんですか」 「この国は、裂谷へ風を送って守られてきた」 「誰もいない裂谷へ」 「この者たちは、勝手に住んだ」 百三人のうち、四十七人は院の灰鉱で働いていた。名簿へ載せず、季節契約で採掘する。 勝手に来たのではない。 院が呼び、嵐の記録から外した。 イルマが巡礼外套を脱いだ。 「北道を開ける」 「権限はない」と役人。 「巡礼者は、嵐路の避難を命じられる」 「登録村民だけだ」 「なら、今ここで登録する」 イルマは十二村の巡礼簿を開き、百三人の名を書き始めた。 本来は、各村が納めた笛と税を記す帳面だった。 「そんな使い方は認められない」 「私は記録官だった。認めさせるための空欄を、よく知っている」 サイロの頁が十二枚揃った。 欠けていた第六頁は、第十二頁の裏へ貼られていた。炉村の漂白と、院の人骨補修を結ぶ一覧。 ナギは拍子記号を読み始めた。 サイロが残したものは、地図だけではなかった。 人骨笛が使われた年と、嵐が〈無人地〉で出した死者の数。 十年で、六十四人。 すべて名簿外だった。 第二十一章 十二枚の道 サイロの地図を並べると、一本の風路になった。 谷口の西尾根。 鶴沼の大河。 赤鮭の堰下。 国境山羊の高原。 石切場の分岐。 炉村の若い群れ。 麦畑の宿舎。 湖の北岸。 柏村の新道。 鐘村。 北を向く風見塔。 裂谷の仮小屋。 古い巡礼順で吹けば、嵐は人の住む場所を六度横切る。 「新しい順を作ります」とナギ。 「一日で?」と風見長。 「骨の道を変えるのではありません。つながるところだけを選ぶ」 使える笛を机へ置いた。 第一の山鹿は調律済み。第二は雁骨を加工中。第三の鮭骨は外す。第四の山羊は国境高原。第五の若山羊は補助管。第六以降も、道が今と合うものは半分しかない。 「十二本なければ渡り嵐は動かない」と役人。 「誰が確かめた?」 「二百年の儀式だ」 イルマが巡礼記録を開いた。 百四十六年前、洪水で三村の笛が届かず、九本で吹いている。嵐は裂谷の手前で二つに分かれたが、市街を避けた。 八十二年前は十五本。三つの村が補助管を出している。 十二は、国へ十二村が編入されたあとに固定された数だった。 魔法の条件ではない。 税と役目を分けるための数。 「院は、ずっと十二でなければならないと教えた」とナギ。 「揃わない年、人骨で穴を埋めるために」とイルマ。 欠けを認められない制度が、禁じた骨を必要とした。 ナギは新しい音順を紙へ書いた。 九本の主笛、四本の短い補助笛。 十三本。 各笛が覚える道の終わりと、次の道の始まりが重なる場所で吹き手を交代する。 「風が継がなければ」と村人。 「その場所で止まります」 「町へ戻る?」 「分かりません」 人骨笛なら強く導ける。 安全ではない確実さと、安全かもしれない不確実さ。 ナギは、人骨を使わない方を選んだ。 選んだ危険も、記録に書いた。 第二十二章 道を覚える土 柏村の陶工ラウが、裂谷へ追いついた。 背に、十二本の細い陶管を負っている。 「道の土を使った」と言った。 旧街道、鹿の西尾根、鶴の大河岸、鮭の堰、国境高原。サイロの地図に沿い、各地の土を採り、細い管へ焼いた。 「土は道を覚えません」 ナギは同じ答えをした。 「骨だけが?」 「骨は、生きて動いたから」 「この土も、靴と蹄に運ばれている」 陶管の中へ、道の砂利と、自然に落ちた角片、羽軸、魚鱗を細かく混ぜてあった。 骨そのものではない。 ナギが息を通す。 風は来なかった。 ラウは落胆しなかった。 「一度でできると思ってない」 「今夜の嵐には使えません」 「来年のためだ」 彼は十三本目の補助笛を焼く炉を組み始めた。 今年を人骨なしで越えても、来年また自然死骨が揃うとは限らない。動物を殺さない代替は、嵐のあとも必要だった。 ナギは陶土を一握り取り、試しに母の古い鹿笛の削り粉を混ぜた。 管を焼く時間はない。 湿ったまま音孔を開け、風へ晒す。 弱い音が出た。 風は動かない。 「失敗ですね」とラウ。 「記録します」 「失敗を?」 「骨粉の量、土の産地、湿り。次に同じ失敗をしないため」 院は成功した笛だけを祭壇へ並べてきた。 失敗した素材を残さなかったため、人骨以外の方法は毎世代、最初からやり直しになった。 ラウは湿った管へ日付を刻んだ。 これは嵐を救わない。 それでも、物語の外へ捨てなかった。 第二十三章 イルマの歌 巡礼歌は十二節ある。 各村の子どもでも歌える短い歌だ。 〈鹿は尾根、鶴は空、鮭は水を登りゆく〉 イルマが十年前に変えたのは、言葉ではなく休符だった。 湖村のあとに三拍。柏村のあとに一拍。鐘村の前に二拍。 人骨を継いだ本数。 サイロはその規則へ気づき、自分の地図頁に同じ拍を入れた。十二枚を集めた者だけが、院の補充台帳と照合できる。 「あなたに読ませるため?」とナギ。 「私を疑わせるためだ」 サイロは半年前、イルマを訪ねていた。 「なぜ話さなかった」 「歌を変えたのは私だと伝えた。正式記録はもうないと言った」 「人骨の出所は」 「湖村と、院の地下墓」 「母のことも?」 「話した」 「私には」 「母上が、知らせるなと言った」 ナギは人骨笛の革袋を地面へ置いた。 「母が死んだから、約束を守った?」 「死んだ者との約束は、破っても抗議されん。だから余計に、守ったふりができる」 イルマは言った。「お前に軽蔑されたくなかった」 「それを、母を守る約束にしたんですか」 「そうだ」 人が何かを守るために嘘をつくとき、守られる側が頼んだとは限らない。 「サイロは、院へ一人で行った」 「私が証言すると言わなかったからだ」 「あなたが殺したんですか」 「いいや」 「死ぬと分かって、行かせた?」 イルマは長く黙った。 「戻らないかもしれないと思った」 ナギは老人の添え木を外し、締め直した。 置いていくことはできない。 許したのではなかった。 第二十四章 北道 裂谷の百三人は、北道から避難を始めた。 院の灰鉱を通る門は閉じている。 役人が鍵を出さないため、坑夫たちが採掘槌で錠を壊した。 「院の財産です」と役人。 「道です」と坑夫。 荷車が一列に進む。 子ども十二人、歩けない老人三人、負傷者五人。笛箱の荷馬も加わる。 ナギは最後尾を歩いた。 谷から吹き上がる風が強くなり、人骨笛の革袋が背で鳴る。まだ吹いていないのに、穴を通る風だけで低い音が出た。 道の人々が振り返る。 風は、人の列へ寄ろうとしている。 「袋を塞げ」とイルマ。 ナギは蜜蝋で六つの穴と吹き口を埋めた。 音が止まる。 証拠を守るため持ち歩くこと自体が、危険だった。 北道の途中に、灰鉱の作業小屋がある。台帳では無人だが、二十人が夜勤に残っていた。 避難命令を聞いていない。 坑夫長は作業を止めなかった。 「院の鐘が鳴っていない」 「風見警報は出ています」とナギ。 「正式な嵐令ではない」 「正式になるまで六時間しかない」 「一日止めれば賃金が出ない」 イルマは巡礼簿へ二十人を追加した。 「誰の許可だ」 「嵐路の上にいる者を、私が記す」 記録されれば、避難中の賃金と食料を院へ請求できる。 坑夫たちはようやく道具を置いた。 名簿は、人を縛るためにも、逃がすためにも使われる。 どちらになるかは、書く欄だけで決まらない。 第二十五章 風路院 風路院は、山をくり抜いて建っている。 白い柱、骨飾り、十二の門。正面階段には、嵐除けを求める首都の人々が集まっていた。 院長ネイラは、祭壇上から告げた。 「巡礼者イルマと職人ナギが、十二笛を奪った。偽の人骨騒ぎを起こし、避難を妨げている」 群衆の後ろから、百二十三人の裂谷住民が現れた。 無人地から来た人々だった。 「妨げられた避難とは、私たちです」 坑夫長が言った。 ネイラの声が一瞬止まる。 ナギは人骨笛を掲げた。 「測量官サイロの右尺骨と見られます。院の七枚歯鋸で加工された痕がある」 「職人の推測だ」 「地下墓を調べさせてください」 「嵐のあとだ」 「嵐の前に、この笛を吹くつもりでしょう」 ネイラは群衆へ向け、一本でも欠ければ首都を守れないと説明した。 「この職人は、十二村の伝統を自分の判断で変えた」 「道が変わりました」 ナギは十二枚の地図を開いた。 「院は知っていた。北風を隠し、裂谷の住人を名簿から外した」 首都の人々が地図へ寄る。 院の衛兵が止めた。 オルガンが十二門の中央から出てきた。 右膝の革具。落石を起こした使者が後ろにいる。 「サイロを麦畑村から連行しましたね」とナギ。 「保護した」 「どこへ」 「院へ」 「そのあと消えた」 「脱走した」 「地下墓に、右腕のない遺体がある」 ハナから聞いたことを、事実のように言った。 オルガンの左眉が動いた。 「見てもいない墓を」 「あるんですね」 群衆がざわめいた。 言葉の罠だけでは証拠にならない。 だが門を開けるには足りた。 十二村の代表と首都判官が、地下墓の確認を求めた。 嵐は、院の北壁で音を立て始めていた。 第二十六章 道なき者の墓 地下墓には、四十一人が埋められていた。 名札はない。 石棚の番号と、回収場所だけ。 湖岸、北道、灰鉱、街道外。 最下段の新しい布包みに、右前腕のない遺体があった。 マヤが呼ばれた。 顔は腐敗して確認できない。左腕に、姉と同じ家印。腰袋に測量官の針。右上腕の先が切られている。 「弟です」とマヤは言った。 判官は、正式な検分まで断定しないよう告げた。 「私の弟です」 マヤはもう一度言った。 家族の確認と、裁きの証明は別に置かれた。 骨の切断面をナギが調べる。 七枚歯鋸の細い平行痕。人骨笛と連続する位置。切ったのは死後二日以内。 遺体の首には、幅広い圧迫痕があった。 手首には拘束痕。 床の石には、引きずった跡と、半月形の鉄粉が残っている。 オルガンの右膝具の留め金は、半月形だった。 「運んだだけだ」と彼は言った。 「殺した者は」 「知らない」 墓守が、地下の拘束室を開けた。 床に二本の鉄環。壁へ、水と食事を渡す小窓。 石床の右側だけ、半月形の擦り傷が重なっている。 オルガンは何度もここへ入った。 「サイロは、何日いた」と判官。 墓守は四日と答えた。 「死んだ夜は」 「秘密評議のあと、隊長と院長が下りた。私は外へ出された」 「声を聞いた?」 「歌を」 サイロが巡礼歌を歌っていた。 途中で止まり、そのあと、重いものを運ぶ音がした。 壁の小窓に、革帯の繊維が残っていた。 オルガンの剣帯と同じ、灰牛革。 直接の殺害を示すには、まだ足りない。 秘密評議の投票記録が必要だった。 第二十七章 七つ目の石 投票石は、院長室の火鉢へ捨てられたとネイラは言った。 灰を掘ると、白石六つ、黒石六つが出た。 「同数だった」とハナ。 「院長が黒を足した」 七つ目の黒石はない。 ネイラは、代表たちが処分を決め、自分は従っただけだと主張した。 「六対六なら、決まっていません」とナギ。 「議長裁決をした」 「石は」 「火鉢へ入れる前に割れた」 イルマが黒石を一つずつ返した。 片面だけ煤が厚い。 投票時、黒石は掌へ隠し、白石を袋へ入れる。使わなかった石を火鉢の縁へ置いたため、片面だけ煤けた。 白石は全面に煤が付いている。袋ごと火鉢へ入れられたからだ。 黒石六つは、投じられなかった石だった。 袋に入ったのは、白石六つと、黒石六つ。 各代表は白黒一組を受け取る。使わない方を火鉢の縁へ置き、投じた石は袋ごと燃やす。 火鉢から出た全面煤の石を数えると、白六、黒六。 同数。 七つ目を院長が足したなら、袋の灰にもう一つあるはずだ。 火鉢の底を外すと、排灰溝へ黒い欠片が挟まっていた。 割れた一石の半分。 残り半分は、ネイラの机の脚を支える楔に使われていた。 二つを合わせると、院長印が一部だけ重なる。 議長用の石だった。 ネイラは、公表しない決定をしたことを認めた。 「殺せとは命じていない。サイロを院外へ出さないようにと」 「いつまで」と判官。 「嵐が終わるまで」 「食事は四日分しか運ばれていない」 「隊長が判断した」 オルガンは、院長命令で拘束しただけだと反論した。 命令と実行が、互いを盾にした。 外で、最初の雷が鳴った。 裁きを待つ時間はなく、嵐を導く時間もほとんど残っていなかった。 第二十八章 十三人の吹き手 使える笛は九本。 補助管が四本。 吹き手は十三人必要だった。 風路院には、十二人の正規吹き手がいる。全員がネイラから、古い順番以外では吹くなと命じられていた。 「新しい音は、風を裂く」と首席吹き手。 「古い音は、人の上を通ります」とナギ。 「二百年の型を、一日の地図で変えるのか」 「二百年前の道を、今日の嵐に吹くんですか」 首席は人骨笛を見た。 「第五に、それを入れれば十二本揃う」 「人の道へ行きます」 「院の石壁なら耐える。首都の家も補強されている」 「裂谷の小屋は?」 「避難した」 「湖の北岸、麦畑の宿舎、移された柏村の家は」 首席は答えられなかった。 正規吹き手のうち四人が、ナギの音順へ加わった。 残りは院長命令を待った。 不足する九人を、各村の笛守と職人から選んだ。谷口の猟師、鶴沼の若者、赤鮭の漁師、隣国の赤外套、炉村の職人、鐘守、風見役、裂谷の坑夫、ナギ。 イルマは吹かない。 「肺が古い」と言った。 「記録係でしょう」とナギ。 「今度は消さない」 十三人は、院の北斜面から新しい風路へ散る。 合図は鐘ではない。 鐘村の基準自体が狂っている。 風見塔の旗と、火矢を使う。 第一管から第二管へ、道の重なる地点で火矢を上げる。次の吹き手は、自分の頬へ風が届いたら音を出す。 「音が来なければ?」と若者。 「吹かない」とナギ。 「そこで嵐が止まる」 「間違った道へ呼ぶよりいい」 命令どおり音を出す儀式から、来た風だけを受け渡す仕事へ変えた。 十三本のうち、一本が失敗すれば終わる。 成功しても、最後に裂谷へ風が入る。 住民の避難が完了したか、まだ報告はなかった。 第二十九章 第一の風 ナギは第一管を吹いた。 山鹿の低い音が、西尾根へ伸びる。 雪煙が木々の上を走り、古い東道ではなく、新しい越冬地へ曲がった。 谷口の猟師が、尾根の先で第二の雁笛を受ける。 白鶴ではない。 村名にも祭礼歌にもない音だった。 雁骨は大河の上へ風を持ち上げた。 一つ目の火矢。 二つ目。 赤鮭村の第三管は吹かない。川下の家を避けるため、雁の空道から国境山羊の高原へ直接つなぐ。 距離が長い。 風が途切れ、山腹で渦を巻いた。 第四管を持つ赤外套の女は、音を出さない。 頬へ風が来ていない。 古い儀式なら、時刻だけで吹く。 彼女は待った。 嵐の前縁が膨らみ、鶴沼へ戻ろうとする。 ナギは第一管をもう一度吹いた。 同じ骨を二度使う規定はない。鹿の道へ風が戻り、雁へ重なる。 雁の吹き手も二度目を鳴らした。 大河の冷気が高原へ届く。 赤外套の頬で、髪が動いた。 第四管。 山羊の鋭い音が国境を越える。 風は二国の尾根を選ばず、その間の高原へ上がった。 崖羊村の村長が、見張台で隣国旗を下ろそうとした。 自国の旗だけを立てれば、嵐を渡した責任を隣国へ隠せる。 誰も従わなかった。 二つの旗が、同じ風に裂けた。 第三十章 石切場の空白 高原の先で、風路は二つに分かれた。 石切場が山羊道を削った場所だった。 第五の若山羊骨は、発破跡の手前までしか覚えていない。 炉村の職人が短い管を吹く。 風が石切場の上で止まり、巨大な円を描いた。 次の骨へつながらない。 下には石切村。 渦が降りれば、屋根を剥がす。 ハナが石段を駆け上がり、採石用の角笛を持ってきた。牛骨で、石材を吊るす合図に使うもの。 「牛は、この道を歩いた」と言った。 切り出した石を載せた橇を、石切場から南道へ引いている。 巡礼用の自然死骨ではない。食用に屠った牛の角。 「使えば規定違反です」と院の吹き手。 「人骨より?」とハナ。 ナギは角笛の内側を調べた。 古い。何年も同じ道を往復した牛の角。道癖は強い。 「南道には何がある?」 「石置場。今は無人」 「その先は」 「炉村の炭道へ出る」 ナギは測量頁で確認した。 第五補助として角笛を追加する。 十三本が十四本になった。 ハナが吹いた。 低く濁った音。 風は石切場を離れ、牛橇の道へ流れた。 「動物を殺した骨です」と炉村の職人。 「記録します」とナギ。 自然死だけという規則を守れなかった。 だが、人の住まない実在の道を選んだ。 成功したから正しかったことにはしない。 来年までに、殺さず得る素材か、骨でない笛を作らなければならない。 風は記録を待たず、次へ進んだ。 第三十一章 湖へ行く風 炭道から湖へつなぐ第六管は、炉村の古い猪骨だった。 漂白され、内側へ人の指骨が継がれている。 ナギは人骨部分を外していた。 短くなった笛は音程が高い。 吹けば、猪道の途中までしか導けない。 その先に、ラウの湿った陶管を置いた。 道土と鹿骨粉を混ぜた、失敗した笛。 「風は動かない」とラウ自身が言った。 「猪笛の残り音を、少しだけ長くできるかもしれない」 骨の代わりではない。 風を呼ぶのではなく、来た風を中へ通す。 炉村の職人が猪笛を鳴らす。 風が炭道へ入る。 ラウは陶管へ息を重ねた。 音は濁り、途中で割れた。 陶片が散る。 風は一度沈み、道端の灰を巻き上げた。 湖まで、あと一里。 人骨笛なら届く。 院から運んだ革袋が、ナギの手にある。 蜜蝋を外し、一音吹けば、風は街道を通って湖へ向かう。途中の村人は避難している。 「使っても、人は死なないかもしれない」とイルマ。 「かもしれない」 「嵐が戻れば、もっと死ぬ」 選択を止める言葉ではなかった。 イルマは、人骨を吹けとも吹くなとも言わない。 ナギは革袋を閉じた。 ラウが、割れた陶管の太い側を拾う。 「もう一度」 「音孔がありません」 「管なら、息は通る」 ナギとラウが同時に息を入れた。 音ではなく、空気の擦れる声が出た。 猪道の風が、陶片の先から一尺だけ伸びる。 次の吹き手が一尺近づき、古い水鳥骨を鳴らす。 一尺ずつ、人が間を詰めた。 二十七人の吹き手が道へ並び、短い骨管、角笛、割れた陶管へ同じ風を渡す。 十二村の代表だけが吹く儀式ではなくなった。 風は湖へ届いた。 第三十二章 名のある岸 湖の北岸は、避難を終えていた。 二十七棟の仮小屋に人はいない。 舟守が、全員の名を板へ書き、最後に岸を離れた時刻を記していた。 風は水鳥骨に導かれ、湖面を渡る。 人骨の継ぎを外したため、途中で何度も弱まった。 岸の吹き手たちは、村人だけではない。北岸から避難した旅人が、自然に落ちた水鳥の羽軸で作った笛を持って並んだ。 羽軸は骨ほど強く風を呼ばない。 何十本も重なると、湖面に細い道ができた。 「道なき者ではない」と舟守。 彼らは各地から来た道を持っている。 人骨を使えば、その道へ嵐が散る。 生きた人の呼気と羽軸なら、今いる岸から、今避難する方向だけを風へ示せた。 新しい魔法ではない。 風は骨の道癖へ強く寄り、笛を吹く息へ少しだけ寄る。昔から知られ、弱すぎるとして儀式から外された性質だった。 弱い方法を、大勢で補った。 湖を越えた風は、柏村の北斜面へ向かう。 移転させられた十七軒がある。 人々は避難していた。 陶工ラウの窯だけが残っている。 彼は火を落とし、土笛の失敗記録を持って道へ出た。 嵐は空の窯場を壊した。 「仕事がなくなった」とラウ。 誰も、国を救った代償として美化しなかった。 風路院と柏村が、再建費を負うべき損失として記録した。 第三十三章 狂った鐘 鐘村の十二鐘は使わなかった。 正しい音を出すものと、ずれたものが混じっている。 代わりに、風見旗を七本立てた。 色ではなく長さが違う。暗い嵐の中でも、旗が倒れる順で風の到着が分かる。 鐘守は、第十管を持って待った。 贈物で合格を出した笛の一つだった。 「これも使えないかもしれない」と手が震える。 「自分で調べました」とナギ。 「お前の耳が間違ったら」 「記録に私の名を書きます」 「責任を取る?」 「風を戻せるわけではありません。でも、次に誰が調べるかは分かる」 第一の旗が倒れた。 二、三。 鐘守が笛を吹く。 正しい音は、狂った鐘より低かった。 風は鐘楼の上を通り、北へ曲がる。 風見村の新しい指針と同じ方向。 そこには首都と風路院がある。 人々がざわめいた。 「院を避けて裂谷へ」とネイラが命じる。 古い第十一管を吹けば、東へ曲げられる。 しかし東道には、麦畑の宿舎がある。 避難は完了しているが、その先の村は準備できていない。 「北へ通します」とナギ。 「院が壊れる」 「灰鉱を掘って、道を作った」 「首都もだ」 「首都には避難警報が出ています」 「院の祭具を失えば、来年の巡礼ができない」 ネイラが守ろうとしたのは、来年を支配する道具だった。 ナギは第十一管を、北へ向けて吹いた。 第三十四章 院を通る嵐 風路院の十二門が同時に閉じた。 白い骨飾りが引きちぎられ、階段を転がる。 地下墓の遺体は、首都判官と村人たちが北道の石蔵へ移していた。生きている者だけでなく、名を調べる途中の死者も避難させた。 ネイラは祭具庫へ走った。 オルガンは拘束室の記録を燃やそうとした。 イルマとマヤが地下へ下りる。 「止めるな」とイルマは衛兵へ言った。「何を燃やすか見ろ」 衛兵たちは、院長命令と目の前の火を比べた。 二人がオルガンを押さえた。 風が灰鉱へ入る。 採掘坑が笛のように鳴り、院の北壁を内側から揺らした。 柱が一本折れる。 祭具庫の屋根が飛んだ。 ネイラは、人骨を継いだ古笛を抱えて出てきた。 「これを吹けば、院から逸らせる」 十数本。 どの骨が誰のものか、札はない。 「どこへ逸れる」とナギ。 「南の街道」 「人が避難している道です」 「院がなくなれば、国全体を守れない」 「院を守るために、避難路へ嵐を送る?」 ネイラは一本を口へ当てた。 ナギが止めようとする前に、首席吹き手が笛を奪った。 「私は十二本でなければならないと教わった」 彼は人骨笛を石床へ置いた。 「一本も、人の名は教わらなかった」 風路院の屋根が、北へ剥がれた。 人々は門の外へ伏せた。 院は壊れた。 首都の家は百十七棟が損壊し、二十三人が怪我をした。死者は出なかった。 裂谷の仮小屋は四十棟が全壊。 そこにも死者はいなかった。 嵐は、誰もいない場所だけを選んだのではない。 人を先に動かし、通った場所の損失を数えた。 第三十五章 革帯 嵐の翌朝、オルガンは殺害を認めた。 ネイラから、サイロを嵐のあとまで拘束するよう命じられた。秘密評議の結果を本人へ伝えると、サイロは巡礼歌を歌い始めた。 地下墓の人骨使用を、歌の拍として覚えていると示すためだった。 「外へ出れば、すべて話すと言った」 「だから殺した?」と判官。 「口を塞いだ。静かにさせるためだった」 革帯を首へ巻き、後ろから引いた。 死ぬとは思わなかったと、オルガンは言った。 「いつ手を離した」 「動かなくなってから」 判官は、その答えを記録した。 ネイラは、殺害命令を否認した。 「院外へ出すな、という命令に殺害は含まれない」 「食事を四日で止めたのは」とイルマ。 「隊長の管理だ」 「地下墓へ入れることを承認した」 「すでに死んでいた」 「腕を笛にすることも」 ネイラは黙った。 サイロが死んだあと、第五管の不足が判明した。院長は、彼の右尺骨を使うよう墓守へ命じた。炉村の職人ではなく、院内の保管工房でオルガンが切った。 七枚歯鋸は、作業台に残っていた。 人骨笛を吹けば、サイロが最後に歩いた十二村と風路院へ嵐が向かう。 ネイラはそれを知っていた。 「巡礼にふさわしい骨だと思った」と彼女は言った。「十二村すべての道を覚えている」 彼を殺した制度の道を、彼の骨に辿らせようとした。 ハナがすり替えなければ、検品もされず、第五の音として吹かれた。 「院を守るためだった?」 マヤが訊いた。 ネイラは答えた。 「国を守るためです」 院と国を、同じ言葉にした。 第三十六章 十二人の白石 秘密評議の代表十二人も、判官の前へ呼ばれた。 黒石を投じた六人。 白石を投じた六人。 「白なら、責任はないのか」とハナが自分から訊いた。 評議の内容を村へ戻っても話さず、サイロが拘束されたままと知りながら、半年黙っていた。 「私は笛をすり替えた」と続けた。 「殺害を告発するため?」 「自分が白を投じたと証明したかった。院が全部を決めたことにしたかった」 人骨を検品箱へ入れ、ナギが見落とせば嵐へ使われる危険を作った。 告発も責任になった。 黒石を投じた代表の理由は同じではない。 巡礼が止まれば交易を失う。 村人が人骨利用を知れば暴動になる。 サイロの地図で補償を請求される。 院長に逆らえば村の笛が外される。 一人は、サイロが測量記録を売ろうとしていると信じていた。ネイラから偽の書簡を見せられていた。 「思い違いでした」とその代表。 「投票前に本人へ訊いたか」と判官。 「会わせてもらえなかった」 「それでも黒を入れた」 「はい」 白石を投じた側にも、異なる理由がある。 殺してはならないから。公表して院長を失脚させたいから。自村の不正がまだ見つかっていなかったから。 白は、同じ正しさを意味しなかった。 判官は投票だけで罪を決めなかった。 拘束の提案、食事停止の承認、殺害後の遺体処理、沈黙。各人の行為を分けて記録した。 十二村は、一つの共同体として裁かれるのではなく、一人ずつ名前を呼ばれた。 第三十七章 イルマの裁き イルマは、十年前の記録改竄を認めた。 人骨を使った補修記録を正式台帳から削り、湖村から来た骨を〈獣骨端材〉と書き換えた。巡礼歌の休符へ数を残したことは、罪を軽くしなかった。 「私は消していないつもりだった」と彼は言った。 「誰が読めた」と判官。 「私だけだ」 「なら、記録はどこにあった」 「私の中に」 「それは記録ではない」 判官は、イルマを風路院の職から永久に外し、三年間、十二村の公開記録庫で改竄台帳の復元に従事させた。 牢へ入れるべきだと訴える遺族もいた。 湖岸で亡くなった名簿外の人々について、遺族がまだ特定されていないため、誰が刑を求めるかさえ決まらない。 「軽いと思うか」とイルマがナギへ訊いた。 「私に訊かないでください」 「お前の母も関わった」 「母が死んだから、私が代わりに許すんですか」 イルマは首を振った。 「母の加工帳を出してください」 「院の工房にある」 「全部」 「お前が読むのか」 「職人が何をしたか、職人の言葉で残します」 ナギの母は、補修した十二本へ、自分だけが分かる小さな刃痕を入れていた。拒否はしなかった。だが、どれが人骨を含むかを、娘が見つけられる形で残した。 それも、十分な告発ではない。 ナギは母を守るため、痕を職人の知恵だけにしなかった。 沈黙の印でもあったと記した。 第三十八章 サイロの葬列 サイロの遺体は、谷口村へ運ばれた。 右尺骨は、裁きが終わるまで証拠庫に残る。 腕の一部が欠けたまま、葬列が十二村を逆に辿った。 裂谷、風見、鐘、柏、湖、麦畑、炉、石切、崖羊、赤鮭、鶴沼、谷口。 各村で、預けられた測量頁の複製が棺へ置かれた。 「地図を燃やすんですか」とナギ。 マヤは原本ではなく、写しだと答えた。 「弟は記録を残すために分けた。全部を墓へ持たせたら、また読めなくなる」 谷口の墓地で、マヤは人骨笛を吹かないよう求めた。 「弟の骨から、きれいな音が出ることを聞きたくない」 院の古い葬礼では、遺骨の笛を一度だけ吹き、魂を風へ返す。 マヤはその儀式も断った。 「骨に魂はないと、職人が言った」 「はい」とナギ。 「なら、弟は音にならなくていい」 棺には、測量に使った麻縄と、折れた鉛筆を入れた。 姉が覚えている幼い頃の話も、判官の記録も、一緒には燃やさない。 人骨笛は証拠として保管され、裁判確定後、マヤが指定した墓へ戻すことになった。 笛の形を壊すか、そのまま埋めるかは、まだ決めなかった。 第三十九章 風路院の跡 風路院の北壁は崩れ、祭壇の半分が空へ開いていた。 国は再建を提案した。 十二門と祭具庫を以前より強い石で作り直し、風路の中心として維持する。 十二村は反対した。 「院がないと、誰が笛を管理する」と首都役人。 「各村で」とナギ。 「由来も音程もばらばらになる」 「今まで揃っていたのは札だけです」 新しい仕組みでは、骨の由来、死亡状況、採取者、加工者、道の実測日を公開台帳へ記す。 検品は一人の職人ではなく、三村ずつ交代。鐘村の音程と、別の水笛を二重に使う。 風見報告は院を経由せず、十二村へ同時に送る。 巡礼順は固定しない。 毎年の動物道と居住地から決める。 「伝統がなくなる」と首席吹き手。 「歌は残ります」とイルマ。 「順番が変われば歌えない」 「変わった道を歌えばいい」 風路院の跡には、公開記録庫と避難倉庫を作ることになった。 祭壇は再建しない。 白い骨飾りの代わりに、今年壊れた家と窯、負傷者、避難した人の名を壁へ刻む。 首都の負傷者二十三人。裂谷百二十三人。北岸八十四人。麦畑宿舎十九人。 無事だった者も数えた。 犠牲者の名だけでは、避難に必要だった人数が来年また消えるからだ。 第四十章 骨を採らない年 翌年、十二村は新しい骨を一本も採らなかった。 自然死骨がなかったからではない。 昨年使った骨の道癖が、まだ現在の道と一致するものは再使用する。劣化した笛は、複数の短い補助管でつなぐ。骨を揃えるため動物を殺す圧力を減らす試みだった。 鶴沼は、干拓地の十分の一へ水を戻した。 鶴は来なかった。 雁は二百羽増えた。 赤鮭村は、春の二週間、堰を全開にした。水車は止まり、十二村の共同庫から粉を運んだ。 上流へ戻った鮭は四十三匹。 崖羊村と隣国は、国境高原を共同の獣道として地図へ載せた。兵は減らず、猟だけが禁じられた。 石切村は発破日を群れの移動期から外した。産出量が落ち、石の価格が上がった。 「風を守る税」ではなく、動物回廊を守った損失として十二村が負担した。 湖村の骨三十二本には、七人分の出身地が見つかった。残り二十五人は番号のまま。 番号を消さず、調査中と書いた。 ナギとラウは陶管の試験を続けた。 道土へ骨粉を混ぜる方法は、骨を使わないことにならない。羽軸だけでは一年で壊れる。植物の茎、貝殻、古い蹄鉄。風が少しでも寄る素材を記録した。 百二十七回、失敗した。 百二十八回目、鹿道の土と、鹿が食べた草の繊維を焼いた管へ、微かな風が寄った。 骨笛の十分の一にも満たない。 「十三人で吹けば」とラウ。 「百三十人かもしれません」 「人はいる」 弱い音を大勢でつなぐ。 今年の嵐に間に合うかは分からなかった。 第四十一章 道の裁判 ネイラとオルガンの裁判は、翌年の冬まで続いた。 オルガンはサイロ殺害を認めたが、殺意を否定した。 院長の拘束命令、秘密評議の決定、国を守る緊急性。革帯を引いたのは自分でも、選択は全員が作ったと主張した。 判官は、制度が犯行を容易にし、沈黙を支えたことを認めた。 同時に、動かなくなるまで帯を引いた行為はオルガン自身の選択だとした。 ネイラには、殺害の共同命令、死体損壊、記録隠滅、名簿外住民の危険な嵐路指定が問われた。 「国を守った結果、死者が減った年もある」と弁護側。 実際、人骨補修を使った十年のうち、首都の死者は過去平均より少ない。 その代わり、公式死者に数えられない六十四人がいる。 「同じ重さで数えれば、減っていません」とマヤが証言した。 ネイラは有罪となった。 刑は、オルガンより重かった。 判決後、十二村の一部は、二人を処罰すれば秘密評議へ投票した代表が免れると抗議した。 代表たちにも、拘束幇助と記録隠匿について個別の裁きが続いた。 すべて同じ刑にはならない。 白石を投じ、その後黙った者。 黒石を投じたが殺害を知らなかった者。 食事停止を知っていた者。 遺体の加工へ同意した者。 共同体の罪という一言でまとめず、行為ごとに判決が書かれた。 長い裁きだった。 来年の嵐は、その完了を待たない。 第四十二章 新しい検品 二年目の総検品は、谷口の工房ではなく、十二村を回って行った。 ナギが一人で合否を決めない。 各村の職人、猟師、漁師、風見役、避難担当が、骨と地図を同じ机へ置く。 自然死証明には、発見時の絵、周辺の足跡、死因の見立てを添える。屠った骨を使う場合は隠さず、なぜ代替できなかったかを書く。 谷口の第一管は、昨年の老鹿骨を再使用した。 殺した骨であることも、罠の理由も台帳に残る。 「汚れた笛を、また使うのか」と若い猟師。 「白くしても、起きたことは変わりません」とナギ。「道が合い、安全なら使う。次を殺さないために」 鶴沼の雁笛は、ひびが入っていた。植物繊維と樹脂で外側を補強し、人骨は使わない。 赤鮭の笛は、今年上流で自然死した鮭の背骨から作られた。 四十三匹のうち一匹。 骨が覚える道は、堰を越えていた。 鐘村の銅鐘は、十二村共同費で調律された。鐘守は贈物を受け取らず、検査料を公開した。 裂谷の名簿には、今年百五十一人。 季節労働者の入れ替わりを、出身地ではなく現在の避難先と一緒に記す。 十三本の笛が揃った。 十二に戻さなかった。 石切場の牛角笛を含め、昨年使った道を忘れないためだった。 第四十三章 二年目の嵐 二年目の渡り嵐は、昨年より小さかった。 小さい嵐ほど安全とは限らない。風の幅が狭く、笛の道から外れやすい。 十三本の新しい音順で巡礼を始めた。 吹き手は二十六人。各管に二人つき、一人が息を切らしても交代できる。 イルマは公開記録庫に残り、風見報告を書いた。 第一の鹿笛が西尾根へ風を上げる。 第二の雁笛へ届く前に、ひびの補強が剥がれた。 音が割れる。 鶴沼の吹き手は、予備の笛へ替えようとした。 予備は古い白鶴骨。干拓前の道を覚えている。 「吹かないで」 ナギは旗を下ろした。 風が沼の手前で渦を作る。 昨年なら、人が列を作り、羽軸の弱い音をつないだ。今年もできる。 避難担当が、待機していた四十人を道へ出した。 雁の羽軸、葦の茎、短い骨片。 一人ずつでは風を動かせない音が、割れた第二管の先をつないだ。 嵐は大河へ渡った。 「予備笛があるのに、なぜ使わなかった」と後日、首都役人が問うた。 「音は出ます。道が違います」とナギ。 「結果的に人的被害はなかった」 「人を待機させたからです」 昨年の偶然を、今年は手順にしていた。 弱い手段は、人数と訓練と、吹かない判断で補えた。 嵐は裂谷を抜けた。 壊れた家は七棟。怪我人二人。死者なし。 成功記録の最初に、第二管破損と、古い予備笛を使わなかった判断が書かれた。 第四十四章 母の工房帳 ナギの母の工房帳は、炉の下から見つかった。 火除け石の一枚が二重になり、間に薄い羊皮紙が挟まれている。 人骨を継いだ笛、十九本。 院から届いた日、骨の部位、加工時間、返却先。出所欄は空白。 最後の頁に、母の字で書かれていた。 〈断れば、別の職人が作る。私が作れば印を残せる。そう言って十九本作った。二十本目も同じことを言うだろう。〉 二十本目はなかった。 母は肺病が悪化し、作業できなくなった。 拒んだから止まったのではない。 「母を告発する記録になります」とナギ。 イルマは答えた。 「残さなくても、お前は覚えている」 「私の中だけなら、工房帳ではありません」 公開記録庫へ提出した。 職人組合は反対した。 「死者に弁明できない」 「帳面に、本人の弁明があります」 「命令を断れなかった事情も書け」 「書きます。作った本数も」 十九本のうち、十二本が回収された。 七本は、嵐で失われたと各村が回答した。本当に失われたかは分からない。 回収笛は吹き口を封じ、出所調査へ回した。 三本から、湖村の骨番号と合う削り痕が見つかった。 死者の名はまだ分からない。 母が残した刃痕は、骨を返す場所へ続く手がかりになった。 正しさの印ではなかった。 第四十五章 サイロの右腕 裁判が確定し、人骨笛はマヤへ返された。 「形を壊します」 彼女は決めていた。 笛のまま墓へ入れれば、後世に聖遺物として掘り出す者がいる。罪を暴いた音として飾る者もいる。 ナギが、六つの音孔の間へ切れ目を入れた。 加工した者の痕を消さないよう、七枚歯鋸の線を残す。骨を粉にせず、三つの長い片へ戻す。 「弟の骨に戻りますか」とマヤ。 「元の形には戻りません」 「正直ですね」 「元へ戻す仕事ではないので」 墓を開き、棺の右側へ骨片を納めた。 巡礼歌は歌わない。 風も呼ばない。 マヤが、サイロの測量帳の最後の頁を読んだ。 〈道は動く。地図が正しかった日付を書け。正しいとだけ書くな。〉 墓標には、測量官、告発者、被害者のどれも刻まなかった。 サイロの名と、生きた年だけ。 彼が何をしたかは、公開記録庫の地図に残る。 骨へ仕事を続けさせなかった。 第四十六章 百二十九本目 ラウの百二十九本目の陶管へ、風が寄った。 骨は混ぜていない。 鹿道で採った土、鹿が食べる北草の繊維、蹄が踏んだ雨水。焼く前の管を、群れの通り道へ四十日置いた。 動かない土に、道を通る空気と足音を覚えさせる。 ナギが吹くと、工房の吊り糸が西へ傾いた。 骨笛の二十分の一。 「百本あれば、一本分」とラウ。 「百人の吹き手が要ります」 「裂谷に百五十一人いる」 人を犠牲にするのではなく、息を借りる。 だが百人が同じ時刻に集まり、訓練し、嵐の前で吹く負担がある。子どもや病人を数へ入れてはいけない。賃金を失う者へ補償も必要だ。 「材料が安いから、無料でできると言われます」とナギ。 「先に値段を決めよう」とラウ。 十二村は、陶管吹き手を嵐仕事として登録し、日当と保険を出すことにした。 最初の百本を、各村で焼く。 土の場所、置いた日数、天候、吹いた人を記録する。 失敗管も割らず、番号をつけて棚へ並べた。 百二十九本目だけを祭具にしなかった。 成功は、百二十八の失敗の隣に置いた。 第四十七章 戻る鶴 五年目、鶴沼に二羽の白鶴が戻った。 村は祭りを開こうとした。 笛守が止めた。 「二羽を、村の証明に使わない」 鶴は翌朝、南へ飛んだ。 巣は作らなかった。 戻ったと記録し、住みついたとは書かなかった。 赤鮭は百八十匹が堰を越えた。 崖山羊は国境高原で二つの群れが合流した。 石切村は採石量を三割減らし、代わりに陶管の焼成石を売った。 柏村の十七軒のうち、六世帯が旧街道沿いへ戻った。ラウの窯も再建された。残りは北斜面に残ることを選んだ。 「元へ戻す補償だったでしょう」と村役人。 「移った先で畑を作った」と住民。「また動けと言うのか」 補償金は、戻る者にも残る者にも支払われた。 道が正されたから、人も元の場所へ戻るべきだとはしなかった。 湖村では、骨番号十二の名が見つかった。 北国の仕立屋。嵐で家を失い、南へ向かう途中で亡くなった女性だった。 遺族は骨の返還を望まず、湖の共同墓へ名を刻むよう求めた。 骨番号は消さず、名前と並べた。 残る番号が、無名という身分ではなく、調査が終わっていない印だと分かるように。 第四十八章 巡礼者ではない老人 イルマは三年の記録復元を終えた。 巡礼外套は返している。 十二村の布片を外した灰色の上着で、谷口工房へ来た。 杖は新しい。 「終わりましたか」とナギ。 「台帳は」 「あなたは」 イルマは答えを探した。 「終わらん。湖の二十四人が残っている」 「二十五でした」 「一人、名が戻った」 記録官でなくても、数えていた。 「今年の巡礼へ来ますか」 「資格はない」 「見るのに資格はいりません」 「吹き手は」 「百四十三人」 陶管が八十本、骨笛が七本、羽軸管が五十六本。 骨だけの年より、人数が増えた。 「母上なら笑う」とイルマ。 「母の代わりに想像しないでください」 「そうだった」 二人は工房の外へ出た。 今年の検品箱には、蓋がなかった。 誰でも中の素材札を読める。 第四十九章 百四十三の息 百四十三人の吹き手は、同じ音を出さなかった。 陶管は一本ずつ歪み、息の強さで高さが変わる。骨笛のように、熟練者一人が長く吹けば済む道具ではない。 ナギは人を十人ずつの列にした。 先頭が息を入れ、管の先で風糸が動いたら次へ渡す。音が来なければ吹かない。前の人を急かさない。 「子どもなら、もっと高い音が出る」と村役人が提案した。 「仕事に入れません」 「祭りで笛を吹く」 「祭りと嵐路は違います」 肺の弱い老人も、妊娠中の者も、灰鉱で胸を傷めた者も外した。参加したいという希望だけでは、安全にならない。 代わりに、旗、湯、予備管の運搬、吹き手の時刻記録を担ってもらう。 「吹かない者にも日当を?」 「全員に」 道を作る仕事を、音が出た人だけの功績にしなかった。 嵐の前縁が谷口へ来た。 七本の骨笛が最初の太い道を作る。石切場から湖までの断絶を、八十本の陶管と五十六本の羽軸管でつなぐ。 百四十三の息が、少しずつ風を送った。 イルマは列の外で時刻を書いた。 十二番目の吹き手が息切れ。十八番、管の亀裂。三十一番、旗を見落とし早吹き。四十四番から四十七番、音届かず待機。 失敗が、音楽の途中へ記録される。 風は大河を越えた。 観衆は歓声を上げた。 「まだです」とナギ。 最後の裂谷まで、道は続いている。 成功を早く決めれば、後ろの人の仕事が消える。 百四十三番目は、裂谷の坑夫だった。 陶管へ息を入れる。 弱い音の先を、嵐が通り抜けた。 全員が吹き終わったあと、ナギは検品台帳に〈成功〉と書かなかった。 〈今年の条件で、死者なく完了〉。 来年も同じとは限らない書き方にした。 第五十章 払われない息 吹き手の日当は、三か月後も半分しか払われなかった。 国は、陶管の実験を祭礼参加とみなし、労働費ではなく謝礼にした。 「自分から吹いたんでしょう」と会計官。 「登録した嵐仕事です」とナギ。 「正規の巡礼吹き手は七人だけ。残りは補助」 「補助がなければ、風は湖へ届きませんでした」 「結果から重要性を決めれば、誰でも功労者を名乗れる」 台帳に時刻と役割が残っている。 イルマが消さなかった失敗も、賃金の証拠になった。 早吹きした者、息を入れても風が動かなかった者、待機だけで終わった者。 「役に立たなかった時間へ払うのか」と会計官。 「待つよう命じました」とナギ。 風が届かなければ吹かない、という安全手順を守った時間だった。 十二村は共同庫から不足分を先に払った。国への請求は続ける。 最初に除外されたのは、食事を作った二十六人だった。 吹き手名簿にない。だが百四十三人が半日、道へ立てたのは、交代で湯と食事を運んだからだ。 「村の炊き出しです」と会計官。 「誰がしましたか」 記録には〈村人〉としかない。 実際は、ほとんどが女性だった。吹き手の夫や息子を支える家族仕事として、名が書かれていない。 ナギは一軒ずつ回り、調理した人、運んだ人、薪を出した人を聞いた。 「金を取るほどじゃない」と言う人もいた。 「受け取らないことは選べます。名前を残さない理由にはなりません」 二十六人の名と時間が追加された。 翌年の予算では、嵐仕事に調理、運搬、記録、子どもの預かりが入った。 百四十三の息は、百四十三人だけでは作れなかった。 第五十一章 自然死の札 六年目の検品で、山鹿骨が四本届いた。 例年より多い。 すべてに〈自然死確認〉の木札が付き、発見者と村長の印がある。 ナギは一本目の端に、刃物で削った痕を見つけた。 二本目には、首骨の内側へ血が染みている。 三本目は若すぎる。 四本目だけが、冬に死んだ老鹿の骨だった。 「誰が持ち込んだ」と村長。 札には、存在しない猟師の名がある。 公開台帳になり、由来の明らかな骨だけが高く買われるようになった。自然死骨の価格は以前の五倍。骨商人が各村を回り、札ごと売っている。 規則を厳しくしたことで、偽の証明に値段がついた。 ナギは四本を不合格にせず、保留とした。 「偽物なら捨てればいい」と若い検品人。 「どこで鹿を殺したか調べます」 「職人の仕事ではない」 「道が分からなければ、笛にできません」 骨の土を洗い、付着した花粉を見た。 谷口の西尾根にはない黄色い苔花。湖の南岸に多い。 二本の骨に、同じ鉄錆。 湖村の旧罠場で、鹿を囲った跡が見つかった。 骨商人ロクが、弱った群れへ餌を置き、鉄柵の中で三頭を屠っていた。 「食用だ」と彼は言った。「肉は売った。骨を捨てずに使うだけだ」 「自然死札は」 「村長印は本物だ」 湖村長は、空欄の札へまとめて印を押し、骨倉番へ預けていた。誰が何を記すか確認していない。 「忙しい」と村長。「印まで疑うなら、制度が回らない」 「疑わなくていい印にしてください」とナギ。 発見者、確認者、加工者を別人にする。骨と一緒に、発見場所の土と、死亡前後の絵を保管する。価格は自然死か否かではなく、道癖の実測と状態で決める。 屠殺骨を全面禁止すれば、また偽札が増える。 食用に屠った骨は、その事実を記して利用可。ただし笛のために殺した骨は買わない。 境界は完全ではない。 肉を少し売れば食用と言える。 監査は残った。 第五十二章 骨商人の道 ロクは鹿を殺したことを認めたが、笛のためではないと主張した。 彼の帳簿には、肉の売上より骨の売上が三倍多い。 「骨が高く売れるから、余っただけだ」 「餌場の鹿を選んだ理由は」 「痩せて、肉にならない」 「なら骨が目的です」 判官は、偽札と密猟について裁いた。動物を笛のために殺したかという内心ではなく、保護期の罠、虚偽記録、村長印の不正使用。 四本の骨は証拠として保管された。 「使える骨を、裁判の棚で腐らせる」と村人が不満を言った。 「サイロの腕にも、同じことを言いましたか」とナギ。 村人は黙った。 人骨と獣骨を同じにするための言葉ではない。 どちらも、笛になる前に、どう得たかがある。 ロクの帳簿から、鐘村の検品人二人が偽札を買っていたことも分かった。厳しい検品を通した実績を作り、認証料を上げるためだった。 新制度の側にも、利益を守る嘘が生まれていた。 「院を壊しても、同じですね」とナギ。 イルマは答えた。 「同じだから失敗ではない。見つけられたかが違う」 「見つからなかった骨もある」 「ある」 老人は安心させなかった。 公開記録庫は、完全な清さを証明する場所ではない。 疑う道筋を、誰か一人の記憶から外へ出す場所だった。 第五十三章 行方のない骨 回収できなかった母の補修笛七本のうち、一管が市場へ出た。 〈旧風路院・禁制笛〉として、首都の収集家が売ろうとしていた。 値は、村一つの冬粮に等しい。 「罪の証拠だから価値がある」と収集家。 「人骨が入っています」とナギ。 「由緒は承知している」 「誰の骨か調べる必要があります」 「合法に購入した私有物だ」 院の祭具が散逸した時期、倉庫番が商人へ売っていた。売買証もある。 国は、人骨部分だけを遺体として差し押さえた。 収集家は、笛の価値を失うとして争った。 裁きの間、笛は透明な箱へ入れられた。吹き口は封じている。 見物人が列を作った。 「本当に、人の道へ嵐を呼ぶのか」 「誰の骨だ」 「殺された人か」 骨番号と照合すると、湖村の二十一番と加工痕が一致した。 二十一番の身元は不明。 収集家は、名がないなら返す相手もいないと主張した。 「名がないから、あなたのものになる?」 マヤが公開審理で訊いた。 「金を払った」 「売った人は、その骨を所有していた?」 答えはなかった。 判官は、人骨部分を公共の身元調査対象として返還させた。獣骨の外管は収集家へ返す。 分離作業をナギが行った。 内側の細い指骨を抜くと、外管は音を失った。 収集家は、価値のない筒だと受け取りを拒んだ。 公開記録庫は、それも保管した。 価値がなくなったときに捨てられる外側も、制度が何を作ったかを示していた。 第五十四章 名を探す旅 イルマは、湖村の二十一番を調べる旅へ出た。 巡礼者ではない。 嵐の季節でもない。 骨に付いていた薄緑の織糸だけを持ち、北の市場を回った。 糸は、海辺の三村で織られる雨衣のもの。染料に貝灰を使い、年月が経つと緑になる。 売買帳から、十年前の嵐のあと、湖へ向かった二十七人を探した。 「老人一人で?」とナギ。 「記録庫の仕事は終わった」 「終わっていないと言った」 「だから行く」 「罪を償うため?」 「そう言えば、旅がきれいになる」 イルマは杖をついた。 「することがあるからする。償えたかは、私が決めん」 ナギは同行しなかった。 今年の検品がある。 半年後、イルマから手紙が来た。 二十一番は、海辺村の渡し守だった可能性が高い。嵐で船を失い、南へ歩いた。妻は生存し、同じ織糸の雨衣を覚えている。 骨の年齢と古傷を照合するまで、断定しない。 手紙の最後に書かれていた。 〈名を一つ見つける道は、嵐を一つ動かすより長い。〉 第五十五章 残った番号 二十一番は、渡し守ルエンと確認された。 妻は骨を海辺村へ返すよう望んだ。 「湖へ沈めた人を、海へ連れて帰るんですか」と村役人。 「生きているとき、海へ戻りたがっていた」 骨の一片から本人の望みは分からない。 妻の記憶を、骨の声とは呼ばなかった。 返還式で、イルマは列の後ろにいた。 妻は礼を言わない。 彼も謝罪を求めない。 残る番号は二十三。 公開記録庫の壁に、一から三十二まで札がある。名が分かった札へも番号を残し、横に名と出身地を加える。 番号だけの札を、空白にはしなかった。 〈調査中〉と年ごとの経過を書く。 情報なし。織糸照会。歯型不一致。北岸名簿未確認。 進まなかったことも記録する。 「いつまで続ける」と国の会計官。 「全員見つかるまで、と書けば嘘になります」とナギ。「見つからなくても、調べた道が途切れないように」 期限を五年ごとに更新する制度になった。 永遠に忘れないという誓いではない。 忘れた年が分かるようにする仕組みだった。 第五十六章 獣道の値段 動物回廊を守る制度は、土地を必要とした。 谷口の西尾根では伐採を止め、鶴沼では畑へ水を戻し、赤鮭の堰を開く。地図の線一本ごとに、木材、麦粉、水車の仕事が減る。 首都は、嵐を避ける恩恵を受けながら、損失は十二村の責任だとした。 「動物は村の資源です」と会計官。 「嵐は首都だけのものですか」とハナ。 風路負担を計算する会議が開かれた。 伐採しなかった木の価格。作らなかった麦。止めた水車。採らなかった石。 未来の損失は、いくらでも大きく言える。 村側は最大額を出し、首都側は最小額を出した。 サイロの測量方法を使い、動物の実測数と、前年までの産出量から計算し直した。 守った土地が本当に獣道として使われたかも、毎年確認する。使われなくなった回廊を、名前だけで永遠に補償しない。 「鶴が来なければ、鶴沼への金は止まる?」 「湿地を雁や水鳥が使っているなら続きます」とナギ。 「鶴のための村なのに」 「風は名前を聞きません」 補償財源は、巡礼見物料と首都の嵐税から出した。 祭礼を楽しむ者も、屋根を守られる者も、道を残す費用を払う。 「笛を吹くより、帳面ばかり増えた」と猟師。 「道がただだと思っていた頃よりは」とイルマ。 獣道には、初めて値段がついた。 売るためではなく、消したときの利益を見えなくしないためだった。 第五十七章 弟子たち ナギは弟子を三人取った。 谷口の少女、湖村の青年、裂谷出身の元坑夫。 最初に教えたのは、音孔の開け方ではない。 骨を受け取らない方法だった。 由来札がない。確認者と発見者が同じ。道の実測が古い。漂白で年齢が読めない。値段だけが高い。 「断ったら、別の職人へ行きます」と少女。 母の帳面と同じ言葉だった。 「行きます」 「そこで作られる」 「だから、断った記録を共有します」 十二村の職人工房は、受取拒否台帳も公開した。別の工房へ持ち込まれれば、骨の番号で分かる。 元坑夫が、人骨と獣骨の見分けを嫌がった。 「触りたくない」 「触らなくていい役もあります」とナギ。 検品人全員へ、同じ作業を強制しない。由来記録、音程、道の実測、加工痕。役割を分ける。 人骨判定はナギと湖村の青年が担った。 「先生だけが分かるなら、前と同じです」と青年。 「そうです」 ナギは断面標本を作り、測量官と治療師を呼んだ。人骨の特徴を、職人の秘伝から公開手順へ移す。 母から受け継いだ技を手放すことでもあった。 工房の価値が下がると村長は心配した。 「秘密だから価値があった」 「秘密だったから、母は十九本作れました」 弟子たちは、ナギと違う場所を見るようになった。 少女は包み紐。青年は骨の水染み。元坑夫は採掘粉。 一人の目より、検品が遅くなった。 見落としは減った。 第五十八章 骨のない区間 八年目、巡礼路の三区間で骨笛を使わなかった。 鶴沼から国境高原。 石切場から湖。 柏村から風見村。 陶管、羽軸管、葦笛を二百十一人でつないだ。 完全な骨なし巡礼ではない。最初の鹿道と、国境山羊、赤鮭の上流、裂谷入口では骨を使う。 「半分成功」とラウ。 「三区間です」とナギ。 数え方を大きくしなかった。 骨笛の強い音は、遠くからでも風を引く。陶管の弱い音には、人が道へ散らばる必要がある。落石、寒さ、長時間の待機。 吹き手一人が足を滑らせ、腕を折った。 死者はない。 負傷者一と記録した。 「人骨の犠牲をやめて、人を危険な道へ立たせるのか」と反対者。 正しい指摘だった。 翌年から、危険斜面には固定の風管を設置する案が出た。土管を地中へ通し、吹き手は安全な場所から息を送る。 工事で獣道を傷つける可能性がある。 何を変えても、別の負担が生まれる。 ナギは骨笛へ戻る選択も残した。 道に合う自然死骨があり、由来が明らかで、吹き手を危険へ置かないなら使う。 骨をゼロにすることを、新しい清さにはしなかった。 第五十九章 最後の蓋 公開記録庫で、古い検品箱の展示が決まった。 人骨笛を隠して運んだ、蓋つきの木箱。 説明札には〈旧制度の秘密性を示す〉と書かれている。 ナギは札を外した。 「箱に罪はありません」と館員。 「秘密の箱でもありません。私が、最初に人骨をこの中へ隠しました」 イルマが隠せと言い、ナギが従った。 院だけが閉じたのではない。 新しい説明札へ書いた。 〈検品職人ナギは、第五管が人骨と知った直後、院へ渡さないため本箱に隠した。その後、公開検品で自ら告げた。隠した行為と告げた行為の両方に使われた。〉 「長すぎます」と館員。 「箱が小さいなら、横に置いてください」 展示の日、蓋は外して箱の隣へ置いた。 中は空だった。 子どもが手を入れ、母親に叱られた。 「触ってもいい展示です」とナギ。 箱の底には、第五管の骨粉が少し残っている。 人骨か若山羊か、もう判別できない。 掃除せず、成分を推測で書かず、〈由来未確認〉とした。 開けた箱にも、分からないものは残った。 第六十章 最大嵐 十年目の冬、風見塔が三方向を同時に指した。 渡り嵐が二つ、北海で重なった。 過去最大。風路の幅は国の東西に届き、裂谷一つへ収めることはできない。 首都評議会は、公開記録庫に保管する人骨補修笛十二本の緊急使用を提案した。 〈国家存亡時に限り、封印を解く〉 十年前、祭具庫から回収したものだった。 人骨は身元調査中。七人は名が判明し、五人は番号のまま。遺族が返還を求めている骨も、裁判資料としてまだ院跡にある。 「人骨は強い」と評議員が言った。「陶管二百本より確実に風を動かす」 「どこへ」とナギ。 「避難済みの南街道」 「骨が覚える道は、現在の避難路と同じとは限りません」 「過去の使用記録がある」 「名簿外の死者六十四人を成功にした記録です」 評議会は、今回は全住民を名簿へ載せ、避難させると約束した。 「街道にいるのは住民だけではありません」とイルマ。 旅人、行商、国境を越えた者、役所へ登録しない者。 人骨笛が最も強く寄るのは、記録にない細い道かもしれない。 「では首都を危険にするのか」 「首都か名簿外の人かという選択にしないでください」とナギ。 十年間で作った固定風管、骨笛、陶管、隣国との共同高原路、海へ抜く新しい風路。 全部を使っても、最大嵐を完全には裂谷へ送れない。 だから、建物を補強し、人を避難させ、損壊を受け入れる必要がある。 評議員は、それを儀式の失敗と呼んだ。 「風を一つの場所へ捨てられないなら、何のための笛だ」 一つの場所へ捨てるという考えが、無人の裂谷を作り、人を名簿から消した。 ナギは人骨笛の封印に反対した。 第六十一章 緊急使用令 緊急使用令の審理には、人骨七人の遺族が出席した。 「父の骨で町を守れるなら使ってほしい」 そう話す遺族もいた。 「また働かせるな」と拒む遺族もいた。 番号だけの五人には、同意する者がいない。 「遺族が同意した骨だけなら」と評議員。 「笛が覚える道を調べられません」とナギ。「誰の骨か分かっても、生前どこを歩いたかは全部分からない」 「サイロの骨は十二村を歩いた」 「だから、人のいる十二村へ嵐を戻します」 技術的な反対と、死者を使う倫理は別だった。 道が安全なら人骨を使ってよいのか。 遺族が同意すればよいのか。 ナギは、どちらにも首を振った。 人の骨を国家の道具へする仕組みが残れば、次の不足時に、また〈道なき者〉が作られる。 「最大嵐で万人が死ぬ危険より?」 「万人が死ぬという予測を見せてください」 風見報告の最悪想定は、首都家屋の四割損壊。避難しなければ死者数百。三日前から避難すれば、人的被害予測は二十人未満。 ゼロではない。 人骨笛を使った場合の予測は、首都死者五人未満。南街道と未登録集落の被害は算定外。 「算定外をゼロにしないでください」 緊急使用令は否決された。 賛成と反対は一票差。 正しい者が全員反対したのではない。遺族の同意を尊重して賛成した者も、首都の損壊補償を払いたくなくて賛成した者もいる。 否決という結果だけを、清い決断にしなかった。 第六十二章 海の骨 最大嵐の二日前、海辺村から使者が来た。 浜へ大きな鯨が打ち上げられた。 すでに死んでいる。 老いた雌で、尾に古い銛痕がある。北海と南の暖流を四十年以上往復した個体だった。 鯨骨の笛は、風を海へ導ける。 ただし骨を乾かす時間がない。生骨は脂を含み、音が鈍い。腐敗すれば割れる。 「使えますか」と海辺村の者。 「一本の笛には間に合いません」 ナギは胸骨の薄い部分を切り、板状の風片を作った。 穴を開けず、何十枚も縄へ吊るす。海風で鳴るようにする。 鯨が通った道癖は弱く散る。 海岸から沖へ、三百枚を並べれば一つの風路になるかもしれない。 「骨を三百に切る?」 「必要な分だけです。残りは海辺村が決める」 村では、鯨を祖先として葬る者と、漂着肉を分ける者が争っていた。 風路のためなら、国が全部を徴用できると役人は言った。 「人骨の次は鯨ですか」とマヤ。 海辺村の会議で、肉は飢えた家へ分け、頭骨は葬り、胸骨の一部だけを風片にすることが決まった。 全員一致ではない。 反対者の名も記録した。 三百枚を作る時間が足りず、百八十七枚で夜になった。 足りない数を、人骨で埋めなかった。 第六十三章 避難する地図 サイロの地図は、十年で三度書き直された。 今回、獣の道ではなく、人の避難路を重ねた。 首都から北へ二万人。 南街道の行商人、推定三百。 湖岸の仮小屋、九十一。 灰鉱は閉鎖済みだが、廃坑に住む者がいるという噂。 「人数不明」と書く。 不明をゼロにしない。 巡礼簿を持った調査隊が廃坑へ入り、十七人を見つけた。元坑夫と家族。国へ戻れば過去の負債を問われるため隠れていた。 「避難名簿へ書けば、役所に知られる」と男。 「嵐の間だけ、避難番号で登録します」とイルマ。 名前を出さず、人数と移動先だけ記す。 かつて名簿へ書くことで人を逃がした。今度は、名を書かないことで逃がす。 「また、道なき者にするのか」と若い記録官。 「番号の後ろに人がいると書く」とイルマ。「嵐のあと、本人が名を残すか選ぶ」 記録は、常に名前を公にすることではない。 首都の避難所には、戸籍を持つ者しか入れない規則があった。最大嵐の三日前、滞在者と旅人の枠を追加した。 寝床は足りない。 寺、学校、倉庫、個人宅を開ける。 人骨笛を吹かない決定は、笛を使わないだけでは成立しない。 吹けば風が通るはずだった場所から、人を一人ずつ動かす仕事が増えた。 第六十四章 三つに割れる風 最大嵐は夜明けに来た。 北海で重なった雲が、山より高く立つ。 第一の骨笛が鹿道を開く。 固定風管へ陶管の列が続く。 国境高原で、嵐は一度目に割れた。 一つは裂谷へ。 一つは首都北壁へ。 一つは海辺へ。 百八十七枚の鯨骨片が、一斉に鳴った。 笛の音ではない。 硬い雨のような、ばらばらの震え。 海辺へ向かう風が、その音へ寄る。 骨片の縄が十二本切れた。 四十三枚が飛ぶ。 吹き手は追わなかった。 道具を取り戻すより、退避する手順だった。 首都へ向かった風は止められない。 屋根が剥がれ、塔が倒れる。 ナギは第十一管を吹き続けた。完全に曲げるのではなく、避難所の少ない西区から、人のいない市場通りへ少しずらす。 市場には商品が残っている。 商人が損失を訴えるだろう。 人のいない場所は、価値のない場所ではない。 壊す先を選んだ責任を、あとで記録する。 裂谷へ入った風は、固定管の一つを破裂させた。 陶片で吹き手二人が負傷する。 予備線へ切り替える。 人骨笛は、公開記録庫の封印棚に残った。 夜までに、三つの嵐は国を抜けた。 死者三人。 避難途中の転落一人。倒壊した古家から出なかった一人。海で骨片の縄を守ろうと戻った一人。 ゼロにはできなかった。 第六十五章 三人の名 評議会は、死者三人を人骨笛不使用の犠牲と呼んだ。 ナギは反論した。 「使用していれば助かったと証明されていません」 「予測では死者五人未満だった」 「算定外の街道に、誰がいたか分からない」 不使用が正しかったから三人は仕方ない、とも言わなかった。 転落した男の避難路には、手摺りがなかった。 古家へ残った女性には、避難命令が届いていない。耳が聞こえず、旗の意味を知らなかった。 海辺の男は、骨片を国の財産だと思い、失えば罰金になると誤解して戻った。 三人の死には、別々の防げた部分がある。 手摺り。個別の伝達。道具より退避を優先する教育。 「人骨を吹かなかったから」と一行にすれば、それらは消える。 報告書の題は〈最大嵐・三名死亡〉。 成功とも失敗とも書かなかった。 三人の名と、死に至った経路を別々に記した。 市場通りの損害も、首都が受け入れることになった。国が風路を選び、商品と建物を壊したためだ。 商人の一人は、命を守った英雄として無償提供すると申し出た。 「保険が出なくなる」と隣の商人が反対した。 美談にすれば、受け取るべき補償が寄付になる。 市場は損害額を請求した。 第六十六章 封印棚 最大嵐のあと、人骨笛の返還が進んだ。 緊急使用の議論で、遺族は骨が国の予備品として残る危険を知った。 身元の分かった七人のうち、六人が返還を求めた。 一人の遺族は、公開記録庫で保管し続けることを選んだ。 「隠されたことを、見える場所へ置きたい」 笛は吹けないよう、吹き口を石で塞いだ。 残る番号骨五人は、身元調査用標本だけを取り、共同墓へ埋葬した。形のまま棚へ置けば、次の非常時にまた道具として数えられる。 評議会は反対した。 「未知の災害へ備える資産だ」 「人です」とマヤ。 「身元不明だ」 「名前が分からない人です」 封印棚は空になった。 最後の一管だけが展示棚に残る。 緊急使用できる笛は、ゼロ。 次の嵐で困らない保証はない。 使えるまま残せば、いつか使う理由が作られる。 使えなくする決定は、未来の人間へ別の方法を探す負担を渡した。 ナギは、その負担を安全と呼ばなかった。 第六十七章 三つの修繕 最初の手摺りは、冬を越せなかった。 裂谷村の大工が樫で組み、首都の役人が銀色の銘板を打ちつけた。最大嵐で失われた石工、ゼムの名と、完成の日付が刻まれていた。 春の雪解けで崖の土が緩むと、杭が一本抜けた。 「造った記録はある。直す金がない」 村長は折れた手摺りを前に言った。 ナギは風路院跡の倉庫から綱を運び、仮の柵を張った。だが、自分で修繕費を払うことはしなかった。彼女が払えば、次の年もその次の年も、善意を待つ道になる。 評議会へ戻り、風路税の支出表を開かせた。 新しい陶管の試験費、首都塔の補修費、巡礼者の食費。その末尾に、避難路維持費という空欄があった。 「建設費ではありません」と会計官は言った。「維持は村の仕事です」 「風を村へ向ける決定は国の仕事でした」 「最大嵐では向けていない」 「過去の風路が崖の家を増やし、その家から逃げる道です」 論争は四日続いた。五日目、避難路維持費は空欄ではなくなった。村ごとの申請ではなく、毎年の検査表に応じて自動的に配られる。申請文を書けない村が後回しにならないためだった。 耳の聞こえなかった女性、セナの村では、避難旗を増やした。 赤は嵐。白は火事。青は洪水。 三色を決めた役人は満足したが、染物師の娘が旗を並べて首を振った。 「夜は全部、黒です」 灯火を組み合わせた信号を作った。嵐は三つ、火事は二つ、洪水は長く一つ。さらに家ごとに伝達役を決めた。 最初の訓練で、三つの灯火は霧に溶けた。 二度目には鐘を加えた。だが鐘村で不正確だった鐘と同じ音程を使ったため、老人たちは古い巡礼の合図と間違えた。 三度目、低い太鼓を三度、灯火を三列、戸口へ触れて知らせる役を一人。 「これで完成か」と村長が尋ねた。 「次の霧に聞きます」 海へ戻った男、フィルの死には、もっと長く時間がかかった。 風板の縄を失えば弁償させられる。そんな噂を流した者はいなかった。誰も命じていない言葉ほど、消す相手が見つからない。 ナギたちは壊れた風板を浜へ並べ、子供たちに踏ませた。 薄い鯨骨は乾いた音を立て、二つに割れた。 「道具を壊していいの?」 「逃げるためなら、先に壊していい」 風板には赤い切れ目を刻んだ。そこへ足をかければ、縄からすぐ外れる。回収した者への褒賞は廃止し、退避を確認した班へ同じ額を配った。 三人の名は銘板だけに残らなかった。 手摺りの検査日、伝達役の交代表、風板の赤い切れ目。 名を悼むことと、同じ死に方を作らないことは、別の仕事だった。 第六十八章 反対票の冬 最大嵐から二年目、評議会選挙で骨笛回帰派が四議席を得た。 彼らは黒い布に包んだ空の筒を掲げた。 〈使わない備えは備えではない〉 〈三人を見殺しにした開放派〉 市場通りで店を失った商人も、彼らの集会にいた。補償は決まったが、査定が遅く、冬まで銀貨を受け取れなかったからだ。 ナギは壇上へ呼ばれた。 「人骨笛を戻せば、被害は減りますか」 若い議員が尋ねた。 「減る場合はあります」 会場がざわめいた。味方の役人が袖を引いた。 「では、なぜ封じる」 「吹けば強いからです。強い道具を残すために、名のない死を必要経費にする仕組みまで戻るからです」 「仕組みを戻さず、道具だけ使えばいい」 議員は、身元の確認された自然死の骨に限る案を示した。本人の生前同意と遺族の同意。公開保管。緊急時だけ使用。文面には、かつて欠けていた条件がすべて並んでいた。 簡単には退けられなかった。 ナギは反対の演説をせず、五本の木箱を運び込んだ。 最初の箱には、二百年前の同意書。署名は同じ筆跡だった。 二つ目には、借金と引き換えに集められた遺族の同意。 三つ目には、自然死と記された、首に絞め跡のある骨。 四つ目には、緊急時を毎年に拡げた旧評議会の議事録。 五つ目は空だった。 「これは何だ」 「これから入る例外です。中身はまだ分かりません」 議員は空箱を嘲った。 しかし、翌日、銀鉱町の請願が届いた。鉱夫百六人が、家族の食糧配給を条件に死後の骨利用へ署名するという。 自由な同意かどうかを判定する役人はいなかった。 法案は一票差で否決された。 それで終わらなかった。回帰派は翌年、条件を変えて提出すると宣言した。 ナギは議場の外で若い議員を呼び止めた。 「あなたの質問は消えません」 「勝った側の余裕か」 「いいえ。陶管が間に合わず、人が死ぬ年が来たら、私たちはまた同じ箱を開けたくなる」 「なら開ければいい」 「開けたくなる理由まで、記録します」 彼女は五つ目の箱を公開記録庫へ置いた。 空のまま、法案の日付と賛否の数を貼った。 冬のあいだに、その箱へ紙が増えた。鉱夫の妻の抗議、遺族の賛成、吹き手の恐怖、陶工の工程表。正しさではなく、圧力の形が入っていった。 回帰派が次に狙ったのは、陶管ではなく保守費だった。 「骨のない風路は高すぎる」 固定管は雨のたびに角度を測り直す。陶管は焼成十本のうち三本しか規格を通らない。吹き手を増やせば、その家族の畑を代わりに耕す費用も要る。 人骨笛一本なら、強い風を少ない人数で引ける。 計算だけは間違っていなかった。 会計官は、旧制度の費用と新制度の費用を二本の棒で示した。新制度の棒は、旧制度の二倍近くあった。 ナギは棒の横に、もう一本描いた。 身元を消された者の捜索費。遺族へ払われなかった補償。強すぎる風で失われた季節労働者の小屋。伐採された森を戻す費用。旧制度の帳簿には載らなかった数を、分かる範囲で積み上げた。 三本目の棒は、紙の上端を越えた。 「推定だ」と回帰派の議員が言った。 「はい」 「正確でない数字を予算審議に持ち込むな」 「記録しなかったため、正確にできません」 議員は三本目を消すよう求めた。会計官は迷った末、点線に変えた。消さず、不確かさが見える形にした。 保守費は一割削られた。 ナギたちは、どこを諦めるか決めなければならなかった。首都塔の彩色を一年延ばし、巡礼者の制服を新調せず、祝宴の酒を減らした。それでも足りず、陶管の実験を二十回減らした。 春、減らした二十回のうち一つに、低温で焼ける配合が含まれていたことが分かった。麦村の陶工が自費で一度だけ試し、成功したのだ。 「削らなければ、冬のうちに分かった」と陶工は言った。 「自費で続けてくれたから、失わずに済んだ」と役人は褒めた。 陶工は褒賞を断った。 「次も自費でやれと言われる」 試験費は補正予算で戻された。成功を美談にせず、削減によって遅れた三か月も議事録へ残した。 高い仕組みには、高い理由があった。 けれど費用を払う人々に、その一文だけで納得しろとは言えない。公開記録庫は毎季、どの管を直し、誰の畑を誰が耕し、どの失敗へ銀貨を使ったかを壁へ貼り出した。 ある朝、〈失敗した陶管 銀貨十二枚〉の横に、炭で書き足されていた。 〈失敗を隠すより安い〉 誰の字かは分からなかった。 第六十九章 十一号の舟 共同墓へ埋める前に採った標本から、番号骨十一号の出身地が分かった。 骨に染みた塩と、肘の内側に残った褐色の粉。湖の南岸でだけ使われる舟底塗料だった。 ナギとマヤは南岸の渡し場を訪ねた。 古い船番は番号札を見るなり、小屋の扉を閉めた。 「死人を探しに来たのではありません」 マヤが扉越しに言った。 「生きていた人を探しに来ました」 しばらくして、扉の下から一枚の紙が出た。 十二年前の乗船名簿だった。雨で端が溶け、最後の三行だけが読めない。 湖村の帳簿では、その年に死者はいない。だが渡し場の柱には、船頭が個人的に刻んだ十三本の傷があった。 「冬に舟が返らなかった」と船番は言った。「客は十二人。船頭を入れて十三人」 遺体は春に六人だけ上がった。村長は遭難を届ければ渡しの許可を失うと恐れ、家族へ黙るよう銀貨を配った。よそ者の客は、来なかったことにされた。 六体のうち、長い右腕の男がいた。 「名は」 「名簿の溶けたところだ」 ナギは番号十一号を誰か一人へ急いで結びつけなかった。 宿帳、荷札、対岸の市門記録を集めた。候補は二人まで絞れた。一人は薬種商のトーマ。一人は旅芝居の裏方、ベク。 トーマには右肘の古傷があったと娘が証言した。ベクは左利きで、長身だったと仲間が言った。 骨はどちらにもなり得た。 「父だと思って埋めたい」とトーマの娘は言った。 旅芝居の座長も、「ベクの墓にしたい」と譲らなかった。 以前なら、権限のある者が一つの名を選んだだろう。 二家族は共同墓の前で会った。 骨箱には、二つの名と、番号十一号と、判明していないことを書いた。 「半分ずつではないのですね」と娘が確かめた。 「骨を分けません」とナギは答えた。「分からないままを、二人で見守ってもらいます」 船番は十三本の傷を切り取った柱を持ってきた。 村の罪を隠した木だから燃やしたい、と初めは言った。マヤが止めた。 「隠した記録でも、残ったなら証拠です」 柱は湖村の記録所に置かれた。遭難を届けなかった元村長は、渡しの収益から遺族補償を払う判決を受けた。銀貨を受け取って沈黙した家族は罰せられなかった。拒める立場ではなかったと認められた。 番号十一号には、一つの名を返せなかった。 代わりに、消された十三人を歴史へ戻した。 第七十章 欠けた巡礼歌 十二村の巡礼歌は、子供でも覚えられるよう十二節でできていた。 鹿は北へ、鶴は東へ。鮭は滝を越え、山羊は白い尾根を行く。 道を記憶する歌でありながら、道を変えた人間のことは歌わなかった。 新しい歌を作る会議には、詩人が三人呼ばれた。 一人目はサイロを英雄にした。二人目はナギを骨笛を拒んだ聖女にした。三人目は十二村が心を一つにしたと歌った。 ナギは三つとも返した。 「歌いやすい」と詩人は怒った。「記録簿を旋律に乗せる気か」 「歌だけ残って、記録簿が燃えることがあります」 結局、作詞をしたのは各村の子供たちだった。 鹿の節には、森を切った年が加わった。 鶴の節には、湿地を干した村の名。 鮭の節には、滝ではなく堰。 裂谷の節には、季節労働者の小屋。 十二節は二十六節になり、ひどく歌いにくくなった。 鐘村の少女が、節と節の間に同じ短い句を置いた。 ――道は変わる、名を数えよ。 繰り返しがあると、長い歌も歩きながら歌えた。 完成披露の日、イルマは客席のいちばん後ろに座った。刑期を終え、記録庫への出入りを許されていたが、役職には戻っていない。 子供たちが第五節を間違えた。 詩人が舞台袖で直そうとしたが、イルマは止めた。 「間違えた場所も聞け」 鮭の堰を築いた年号が、二年ずれていた。 歌詞を作った少年は、村の新しい記念碑から写したという。記念碑そのものが、古い工事台帳と食い違っていた。 調べると、堰は公式の着工より二年前から、仮堰として川を塞いでいた。鮭が減り始めた年と一致した。 歌の間違いは直された。 記念碑も直された。 石工は古い年号を削らず、その下に二つの日付と、それぞれが何を意味するか刻んだ。 巡礼歌は、正しい答えを運ぶ器ではなくなった。 歌うたび、帳簿と景色を照らし合わせる問いになった。 第七十一章 最初の蓋 ナギが最初の検品箱を開けてから、十二年が過ぎた。 今年の箱を開けるのは、弟子のミウだった。 十八歳。骨より陶土に詳しく、風の匂いを言葉にするのが苦手で、数値を疑うのが得意だった。 十二村の代表が見守る中、ミウは封蝋を割った。 箱には十一管しかなかった。 「一管不足」 彼女はすぐ記録係へ告げた。 杉村の代表が立ち上がる。 「今年は固定管で代用できる。運搬中に割れた」 「破片は」 「捨てた」 「運搬記録は」 「私が保証する」 かつてなら、村長の保証は記録より重かった。 ミウは箱の底を指でなぞった。灰色の粉がついた。陶土ではなく、骨を磨いた粉だった。 「捨てた管の材質を確認します」 代表は顔を赤くした。 「私を疑うのか」 「箱を疑っています」 ミウは巡礼を止めた。 反発は強かった。嵐まで二日。一本の所在のために全村を待たせるのか。固定管は十分ある。少女が規則を振り回している。 ナギは横で黙っていた。 ミウが助けを求めて見ても、答えを渡さなかった。 検品する者が、前の検品者の顔色で決めてはならない。 捜索隊は杉村への旧道で、割れた箱を見つけた。中に骨笛はない。車輪跡が枝道へ曲がっていた。 行き着いたのは、閉鎖された湯治場だった。 地下で三人の吹き手が、一本の笛を囲んでいた。 笛は人骨ではない。若い鹿の脚骨だった。生まれた年、捕獲場所、死因が偽造されている。 杉村は獣道を回復させた結果、規定年齢の鹿を確保できなかった。巡礼から外れれば、風路税の配分を失う。それを恐れ、禁猟期に若鹿を仕留めた。 「人骨ではない」と代表は繰り返した。 「だから小さな偽りですか」とミウ。 「村を守るためだ」 ナギは十二年前、同じ言葉を別の声で聞いた。 ミウは笛を押収し、杉村の参加を止めた。代わりに固定管の角度を変え、隣の石切村が二つの区間を受け持った。 風は予定より村へ近づいた。 林の一部が倒れたが、家屋被害はなかった。 杉村への配分は停止されなかった。罰として金を奪えば、次も隠すからだ。代わりに村は、捕獲記録の再調査と、倒木の片づけを負担した。代表は偽造の審理へ送られた。 巡礼の翌朝、ミウは検品箱をナギへ返した。 「止めたせいで、林が倒れました」 「止めなければ、来年も偽った」 「どちらが正しかったですか」 「被害を記録して、来年また決める」 ミウは不満そうだった。 ナギも若い頃、答えではなく仕事を渡されたとき、同じ顔をしたのだろう。 第七十二章 風を渡す 秋、ナギは工房の看板を下ろした。 引退ではない。検品長の任期を終え、ただの笛師へ戻るためだった。 壁には失敗した陶管が百本以上並んでいる。鳴らないもの、割れたもの、風を逆へ引いたもの。完成品より多かった。 ミウが新しい看板を持ってきた。 〈風路検品所〉の文字の下に、三つの空欄がある。 検品者、記録者、異議を述べる者。 「三人目も役職にするの」 「黙って見ている人に任せると、誰も言わないので」 ミウは答えた。 公開検品の日、最初に届いたのは骨笛ではなかった。 麦村の少年が作った、葦の束。湖村の女船頭が焼いた、穴の不揃いな陶管。鉱町の職人が削った、廃坑の送風管。正しい由来札が一枚ずつ結ばれている。 弱い音しか出ないものも、まったく鳴らないものもあった。 ミウは不合格箱へ投げず、測定値と失敗の理由を書いた。次に直す者が、同じ失敗を最初から繰り返さないためだった。 最後に、古い骨笛が一本届いた。 石切村のハナが、布包みを自分で運んできた。 「倉の梁から見つかった」 笛には印がない。鹿にも山羊にも見えるが、吹き口の内側に黒い染みがある。 見物人が息を詰めた。 ナギは手を出さなかった。 ミウが長さを測り、表面を灯りへかざし、粉を採った。骨種の判定には七日かかる。その間、封印箱へ入れる。 「嵐は明日です」と村人が言った。 「だから吹きません」とミウ。 「使える鹿骨だったら」 「明後日から使えます。明日は、由来の分かる管だけで組みます」 ナギは工房の戸口で聞いていた。 十二年前、自分は箱から出た一本を、誰にも見せず懐へ入れた。危険から守るためだと思った。隠す者はたいてい、守るものの名を先に口にする。 翌朝、巡礼は十一村と固定管、陶管、葦笛で始まった。 歌は二十六節。子供が一節飛ばし、老人が戻した。雨で記録紙が濡れ、書記が軒下へ走った。完璧な列ではなかった。 ナギは最後尾を歩いた。 先頭のミウが、風向きを測って手を上げる。 十二の村で、十二人が別々に帳簿を開く。 封じられた骨を呼ぶ声はなかった。 吹き手たちは合図を待ち、自分の息を管へ渡した。 低い音が山肌を走った。陶管の乾いた音、葦の震える音、由来の分かる骨の深い音。揃わない音が、互いの弱いところを支えながら風路を作る。 風は裂谷の手前で一度迷い、今年の道へ曲がった。 夕方、十一村から被害報告が届いた。 麦畑が二枚倒れ、湖の桟橋が一本流された。裂谷の季節小屋は、今年も空であることを名簿で確かめた。誰も「無人だったはず」とは書かなかった。 検品所では、ミウが濡れた記録紙を一枚ずつ乾かしていた。今日使わなかった笛の欄も空白にせず、〈封印中・未判定〉と記す。 「来年、この字を見た人は、私たちが怖がったと思うでしょうか」 「怖がったでしょう」 「正しいから止めた、と書きたいです」 「止めたときには、まだ正しいか分からなかった」 ミウはしばらく筆を浮かせ、欄の下へ一行加えた。 〈由来を確認できず、使用した場合の利益より、使用後に取り戻せないものを重く見た〉 七日後、笛は百三十年前に死んだ雌鹿の骨と判定された。禁じられた骨ではない。だが採取地は、杉村が伐採して地図から消した北の森だった。 危険な答えではなく、都合の悪い道が残っていた。 箱はまた開かれ、記録は訂正された。 ナギは音の中に、死者の声を探さなかった。 骨が覚えているのは、歩いた道だけだ。 どの道を次へ渡すかは、生きている者が、隠さずに決めなければならない。
小説 · text · 2026-09-06