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小説 · text · 2026-09-06

痛みの帳簿

夜明け文庫

第1章 ネイ・ソルグ|四時間 銅細工橋通りの第二受痛所は、六時半に鎧戸を上げる。 ネイ・ソルグは六時二十分に着いた。石段の三段目に座り、運河を見た。水位は昨日より指二本ぶん高い。 霧が橋の欄干の中ほどまで来ていて、対岸の倉庫の輪郭が消えている。 鎧戸が巻き上がる音がした。受付のマルタが窓から顎を出した。 「四四一九」 「はい」 「帳簿」 ネイは外套の内側から帳簿を出し、革紐をほどいた。表紙は灰色の革で、右下に4419の焼き印がある。 マルタは指を舐めて頁を繰った。 「今年の受痛点、残り四百十二」 「四百十二です」 「自分で数えてるのか」 「昨日の分を引いて四百十二です。強度六の三時間で十八でした」 「合ってる。第二種、高耐性。今日の枠は四時間が一つ」 「病名は」 「先に読み合わせ。順番がある」 マルタは帳簿の背に爪を立て、綴じの緩みを確かめた。 「四四一九、綴じが浮いてる。今月中に更新にまわせ」 「更新料はいくらですか」 「二レヴ。今日の報酬から引かれる」 「浮いているのは、めくる回数が多いからです」 「理由の欄はない」 読み合わせ室は三畳で、机と椅子が二脚、天井に窓がひとつ。 係員のドロンが書類を二部並べ、片方をネイの前に滑らせた。指の関節が太い。 「契約番号、二二四七一」 「二二四七一」 「依頼者は番号のみ。名前は言えない。年齢四十一、男」 「病名」 「右大腿骨の観血的整復および内固定。折れた骨を切り開いて金具で留める」 「等級」 「第二種。予測強度七。開始八時、終了十二時」 ドロンは万年筆の尻で行をたどる。ネイは同じ行を目で追った。 「四時間を一分でも超えたら契約は無効。公社は報酬を払わない」 「知っています」 「知っていても読む。決まりだ」 「第三条。移るのは肉体の痛みのみ。感情、記憶、病そのものは移らない」 「その条は去年まで二行でした。今年から三行になっています」 「増えたのは、記憶、の二文字だ」 「移らないというのは、公社がそう決めたということですか」 「公社がそう確かめた、と書いてある」 「確かめ方は書いてありますか」 「書いてない。第四条」 第四条は上限だった。一契約あたり連続四時間まで。同一日に二契約を結ぶ場合、間に八時間の休止を置く。ただし第二種以上は、前の受痛から三十六時間を空ける。 第五条は年間受痛上限。第二種は二百四十時間。超過は免許停止。点はこれとは別の勘定で、翌年の発注の配分にしか使わない。 第六条は依頼者側の義務。術中の中断、術式の変更、麻酔薬の追加は事前に通告する。 「変更があったら、こちらに何か伝わりますか」 「終わってから書面が来る。三日後だ」 「途中では」 「途中で伝えたら、あんたが構える。構えると受痛が乱れる」 第七条まで読んで、ドロンは頁をめくった。 「右手に紐がある。二回引けば減衰。三回で切断」 「切断すると術がどうなりますか」 「止まる。開いた腹や脚を縫わずに、患者が痛みを取り戻す」 「三回引いた人はいますか」 「十九年で二度見た。どちらも第四種だ」 ネイは署名欄に名前を書いた。ドロンが日付と時刻を入れる。六時五十二分。 「灰晶へ」 「はい」 秤量室は廊下の突き当たりにある。天秤が二台、分銅の箱、鍵のかかる戸棚。 秤量係の老人が戸棚から布袋を出した。口の札に黒喉と刷ってある。 「二二四七一。第二種、強度七、四時間」 「六・八グラム」 「六・八」 灰晶は薄い灰色で、割れ口に緑の筋が入っている。爪の先ほどの粒が十いくつ。 老人は分銅を三つ載せ、皿が止まるまで待ってから粒をひとつ戻した。 「六・八〇。誤差は〇・〇二まで」 「今日のは緑が濃い」 「北のは濃い。南のは白っぽい。それだけだ」 「効きは違いますか」 「秤に違いは出ない」 「秤に出ないだけですか」 「秤に出ないことは、無いのと同じに扱う。ここはそういう部屋だ」 老人は袋をふたつに分け、片方に契約番号を書いた札をつけた。 その袋は病院へ運ばれる。もう片方が寝台の頭側の受け皿に入る。 「割った比は」 「半々。誤差が出たら重いほうを患者側へ」 「軽いほうがこちらに来ると、どうなりますか」 「四時間の後ろが薄くなる。薄いぶんは点数から引かれない」 台帳に日付と番号と重量が書き込まれ、老人が横線を引いた。 その日の秤量は、ネイの分で三件目だった。 寝台室は六台。二番と三番の間に木の衝立がある。 三番にハルが座っていた。十六歳、第一種、高耐性。両手で堅パンを割って、削り屑を膝で受けている。 「ネイ、今日は何時間」 「四時間」 「俺は二時間。腕の火傷の洗浄。二回に分けるって」 「分けると強度が下がる」 「下がるけど、二回ぶん出る」 ハルはパンの半分を差し出した。ネイは受け取らなかった。 「食べると吐く」 「そうか。俺は食べないと震える」 「震えると帯が締まる」 「締まる。締まると係員が緩めにくる。緩めにくると時間が止まらないまま二分減る」 ハルは残りを口に押し込み、水差しから直接飲んだ。 「孤児院、何番の寝台だった」 「十四」 「俺は九だった。同じ建物なのに、会ったのは去年だ」 「窓の側と壁の側で、起きる時刻が違った」 「なあ、痛いのに形があるって、まだ言ってる」 「言ってる」 「今日のは何になる」 「まだ来ていない」 「来たら教えてくれ」 ネイは一番の寝台に上がった。革帯を腰と両膝と胸に回し、係員が留める。 噛み木を左手で受け取り、奥歯の間に入れた。木は樫で、両端に前の使用者の歯形が残っている。 受け皿に灰晶が置かれた。係員が蓋を閉め、砂時計を返す。 「開始、八時」 「八時」 最初に来たのは面だった。 右の腿の外側を、掌より広い範囲で押される。鈍い。境目がぼやけていて、どこまでが痛みか分からない。消毒だ。 一分ほどで面が薄くなり、線が来た。 一本。上から下へ、腿の外側を二十センチほど。速度は指をすべらせるくらい。 線は途中で二度止まり、また動いた。深さが変わっている。 聖ドランの時鐘が四半刻を打った。八時十五分。 ネイは線が入った回数を数えた。三本。二本目は一本目より短く、浅い。 そのあと、押し広げる痛みが来た。 面でも線でもない。内側から外へ、両方向に均等に開かれる。強度は上がらないが、退かない。退かない痛みは数え方が違う。ネイは呼吸で数えることにした。息を吐いてから次の吐きまでを一とする。 四十二で、鋸が来た。 規則的な往復。一往復が同じ長さで、同じ間隔。速い。二十三で止まり、六つ数えて、また十一。合計三十四。 骨だ。骨の痛みには反響がある。腿で起きたのに、膝と腰が同時に鳴る。 八時四十五分の鐘。 そこから静かな時間が続いた。鈍い面が腿全体に残り、強度は四か五で平ら。 ネイは唾を飲み、噛み木を奥へ入れ直した。 平らな時間には、鐘と鐘のあいだの呼吸を数える。 九時の鐘まで百八十六。九時十五分まで百八十一。九時半まで百八十四。 数が三つとも近ければ、痛みは動いていない。開いてから待っている段階だ。 九時三十四分ごろ、面の縁が一度だけ跳ねた。鋭い点が一つ。すぐ消えた。 器具が骨に当たって外れたのだと、ネイは決めた。書けない欄の話なので、決めるだけにした。 十時二分ごろ、螺子が来た。 回転。ゆっくり、一回転が息二つぶん。押し込みながら回すので、線と点が同時に来る。点のほうが深い。 一本目、十四回転。間があいて二本目、十六回転。三本目、十一回転で止まり、四つ戻された。抜いて入れ直したのだ。 四本目、十七回転。 四本。ネイは頭の中で四本と繰り返した。受痛中の筆記は禁じられている。灰晶の回路が乱れる、というのが公社の説明だ。だから覚える。覚えられなければ数えない。 十一時の鐘の前後で、洗いが来た。 冷たさに近い。痛みとしては弱いが、面が広く、皮膚の下を水が走る。四回。 それから縫合。点が連続する。等間隔ではない。術者の手の速さが、間隔の乱れとして分かる。二十八点。最後の三点だけ間隔が広い。 十一時四十五分の鐘。 残りは面だけになった。押される鈍い面。強度は三まで落ちた。 「終了、十二時」 係員が蓋を開けた。受け皿の灰晶は白い粉になっていて、緑の筋は残っていない。 革帯が外され、ネイは自分で噛み木を出した。木に新しい歯形が二つ増えている。 上体を起こすまでに時間がかかった。右脚に力が入らない。移ったのは痛みだけで、傷はどこにもない。それでも脚は数分間、痛みの記憶の側で動く。 係員が水を渡した。 「歩けるか」 「五分ください」 「記帳が先だ。窓口が十二時半で閉まる」 記帳台は受付の横にある。マルタが帳簿を開き、罫の引かれた欄を指した。 「契約番号」 「二二四七一」 「種類」 ネイは万年筆を持ったまま止まった。 「面、線、鋸、螺子、点。順に来ました。鋸は三十四往復、螺子は四本で、三本目だけ十一回転で戻って入れ直しています」 「そういう欄はない」 「時間ごとの形が違うのに、ひとつの語で書くんですか」 「様式にない言葉は書くな。種類の欄は八つから選ぶ。切創、刺創、骨、熱、内臓、頭部、産科、その他」 「骨で」 「骨。強度は」 「七から始まって、九時台は四、十時二分から八、十一時以降は三です」 「最高値を書く。八」 「予測強度は七でした」 「実測が八なら八だ。八のほうが点数が高い。あんたが損することはない」 「損得を聞いていません。九時三十四分に鋭い点が一つありました。それは八でも三でもない」 「一点の欄はない」 「一点で人は起き上がります」 「起き上がったか」 「帯で留まっていました」 「なら記録は変わらない」 マルタは万年筆を持ち替え、種類の欄を指で押さえた。 「四四一九。あんたの書く量は所内でいちばん多い。去年の平均が一件十一字、あんたは二十九字だ」 「数えたんですか」 「上が数える。多いと差し戻しになる。差し戻しは一件につき半日だ」 ネイは八と書いた。 開始八時、終了十二時。契約番号二二四七一。等級第二種。受痛点、二十四。 残りの欄にマルタが所印を押した。判の下に、細い字で第二受痛所の番号が入る。 「今年の配分点、残り三百八十八」 「三百八十八です」 マルタは帳簿を閉じ、ネイの手に置いた。 「言うまでもないが、市の門から外へ出すな。出したら窃盗になる。帳簿は公社のものだ」 「持っているのに、私のではない」 「あんたのは中身じゃなくて番号のほうだ。番号は返せない」 出納窓口は三つ隣。 明細が先に出てきた。 契約報酬、四十二レヴ。 帳簿更新料、二レヴ。灰晶損料、五レヴ。寝台使用料、三レヴ。 手取り、三十二レヴ。 「損料は毎回ですか」 「灰晶は燃える。燃えた分は借りたことになる」 「借りたのは公社の側でも取れるはずです」 「取れる先が二つあるなら、近いほうから取る。窓口の外に立ってるのはあんただ」 出納係は硬貨を数え、二度目を数え直した。 「印を」 ネイは母指を朱肉に押しつけ、受領欄に置いた。 銀貨が六枚と銅貨が二十枚。銅貨は袋に入れず、そのまま外套の内隠しへ落とした。 外へ出ると霧が薄くなっていて、対岸の倉庫の扉の数が見えた。七つ。 ハルが石段に座って、左腕に巻いた布の端を噛んで結んでいた。 「終わったか」 「終わった。骨だった」 「形は」 「面、線、鋸、螺子、点。螺子が四本」 「四本」 「三本目だけやり直してる」 ハルは布を結び終えて、腕を回した。 「なあ、俺の分の帳簿、今月まだ三頁しか埋まってない。先月は七頁だった」 「減ってるのか」 「二時間の枠ばっかりになった。数は多いのに一枚が薄い」 「点は」 「点は先月より増えてる。それが分からない」 「枠が薄いのに点が増えるなら、強度が上がってる」 「上がってない。八なんて書かれたことない。ぜんぶ五か六だ」 「なら回数だ。三頁で何件」 「十一件」 「先月の七頁は」 「九件」 ハルは指を折って数え直し、途中でやめた。 「増えてるのは件数のほうか」 「そう。頁は薄くて件数は多い。書く量が減ってるだけだ」 「じゃあ得だな」 「得かどうかは、書かれなかったほうを見ないと分からない」 ネイは自分の帳簿を外套に戻した。 橋を渡る途中でパン屋に寄り、堅パンを一つ買った。銅貨二枚。 部屋に戻ってから、机の上で手帳を開いた。 帳簿とは別の、自分で買った手帳だ。表紙に番号はない。公社の欄も、所印もない。 二二四七一、と書いた。 面 一分。線 三本、二本目は浅い。開く感じ 息四十二。鋸 二十三、六、十一。反響が膝と腰。螺子 一本目十四、二本目十六、三本目十一で戻して四、四本目十七。洗い 四回。縫い 二十八点、最後の三点だけ間隔が広い。 書き終えて、頁の下に一行足した。 術者は左利き。線の止まる位置が右から左へずれている。 出納の明細を裏返すと、翌日の受付票が刷ってあった。 受付、七時半。病名、胆石発作。等級第二種。四時間。 ネイは手帳の次の頁をめくり、いちばん上に契約番号だけを書いて、その下を空けておいた。 第2章 カイム・ヴェス|査定 査定室の窓は運河に面している。朝の霧で、対岸の穀物倉の輪郭が消えていた。 カイム・ヴェスは十五番の卓に木箱を置き、封を切った。契約書は四十一件。 「昨日の残りが九件あります」書記のミラが言った。 「合わせて五十だ」 「昼までに終わりますか」 「昼までに終わる」 一件目。第四種、抜歯、一時間半。灰晶〇・八グラム、秤量印あり。医師の署名あり。 カイムは右下に朱印を押した。 二件目。第二種、前腕骨折の整復、三時間。代痛人の欄に番号だけがある。等級の記入がない。 「差し戻し。二番窓口へ」 「等級は台帳を引けば分かります」 「窓口が引いて書くべきものだ。私が書けば、書いた者と査定した者が同じになる」 「様式には、査定官が補記してはならないとは書いていません」 「書いてはならないとも書いていない。書かないことにしている」 ミラは紙を抜いて左の箱へ置いた。 三件目。第一種、開腹、四時間。灰晶二・一グラム。 「秤量印が薄い」 「押してはあります」 「押してあるが読めない。読めない印は無いのと同じだ。押し直させろ」 「押し直しに二日かかります」 「二日かかる印を薄く押した者の責任だ」 四件目。第三種、産褥、四時間半。 カイムは時間の欄を二度見た。 「第三種の上限は四時間だ」 「産科は延びます」 「延びたなら四時間で切って、二本目の契約を起こす。それが手順だ」 「二本目を起こすと、代痛人の年間受痛量が二本分で計上されます」 「そうだ」 「四時間半のままなら一本です。上限に近い者は、二本目を受けられません」 「だから差し戻す。上限に近いなら、別の者を当てるのが窓口の仕事だ」 ミラは紙を左の箱へ入れ、指を折って数えた。 「差し戻し三件。あと四十六」 五件目と六件目は通した。七件目で手が止まった。 移痛医の署名欄が空白だった。 カイムは紙を持ち上げ、光にかざした。削った跡はない。書き損じでもない。最初から書いていない。 「診療所の使いが、印は後日と言っていました」 「後日はない」 「手術は明後日です」 「署名のない紙は通さない」 「一日だけ通して、後で差し込むことはできませんか」 「誰が責任を負うか書いていない紙は、紙ではない」 「紙ではない、とは書類に書けませんが」 「様式第七条、必要記載事項の欠落、と書け。差し戻し先は聖ベルダ診療所」 ミラが赤い付箋を貼った。 「使いはまだ廊下にいます。呼びますか」 「呼べ」 使いは二十歳前後の男で、外套の裾が濡れていた。カイムは紙を卓に伏せて置いた。 「移痛医の署名がない」 「先生は昨日から北へ行っています」 「北のどこだ」 「聞いていません。戻りは五日後だと」 「では五日後に出せ」 「手術は明後日です」 「明後日にやるなら、署名できる医師を立てて出し直せ。誰の名前でもいい。誰かの名前が要るだけだ」 男は紙を持って出ていった。カイムは手帳を開き、日付と件数を書いた。十一月九日、差し戻し四件。三年前から同じ様式で書いている。 八件目。第四種、火傷の処置、二時間。同じ代痛人が同日にもう一本受ける組みになっていた。 「間の休止は八時間以上と定めがある。ここは四十分だ」 「七時間二十分足りません」 「差し戻し」 九件目。第二種、腎切開、四時間。代痛人の年間受痛上限の残りが九時間だと台帳にある。 同じ番号で来週に二本、すでに予約が組まれていた。合わせて十二時間になる。 「三時間足りない」 「予約は契約ではありません」 「予約のまま当日を迎えれば契約になる。組んだ時点で足りていない」 「差し戻すと来週の二本が崩れます」 「崩れる順番を決めるのが窓口の仕事だ。私は足りない紙を通さない」 十件目と十一件目は通した。十二件目に灰晶の産地欄が「北方」と一語だけ書かれた契約があった。ほかの契約の産地欄は空白のことが多い。 様式では産地は任意記載になっている。カイムは朱印を押した。 十時半に、隣の卓のドランが顔を上げた。査定官は八人いて、卓は窓に沿って並んでいる。 「ヴェス。先月の差し戻し率が回ってきた」 「いくつだ」 「君は一割一分。八人の平均は三分だ」 「そうか」 「三分でも事故は起きていない」 「起きていないことは、起きないことの証明にならない」 「上は処理数で見る。君の卓の前だけ紙が積む」 「積んでいるのは私の卓ではない。書いていない者の手元だ」 ドランは笑って自分の紙に戻った。 十一時に支払課の使いが封筒を置いていった。中身は請求書一枚と、予定表の切れ端が一枚。 請求書の宛名はカイム・ヴェス。件名は移痛手術費。患者エナ・ヴェス、九歳。骨形成不全症。 月に二度。一回につき銀貨百四十枚。二回で二百八十枚。 公社職員の減免は六割。実費は月に百十二枚。カイムの月給は百十枚。 差額の二枚は、家の炭の量を減らして埋めている。 カイムは封筒を持って三階の会計課へ降りた。窓口の男は帳面から顔を上げなかった。 「ヴェスさん。今月分、減免が仮承認です」 「仮とは」 「理事会の決裁待ちという意味です。処理上は承認扱いで進みます」 「仮で手術はできるのか」 「できます。決裁が降りなければ、差額を後から請求します」 「差額はいくらだ」 「六割分。百六十八枚」 「一括か」 「規定では一括です。分割の前例はあります」 「前例はどこに書いてある」 「書いてはいません。運用です」 「六割の減免は、いつからの制度だ」 「四年前からです。職員の家族に限ります」 「誰が決めた」 「理事会です。決めた人の名前は帳面に残りません」 「決めた者の名前が残らないなら、やめる者の名前も残らないな」 男は帳面を閉じた。 カイムは請求書を折らずに封筒へ戻した。 「書いていないものを当てにはしない。仮承認の日付を控えたい」 男は帳面をこちらへ回した。十一月七日。決裁欄は空白だった。 カイムは番号だけ手帳に書き写した。 予定表の切れ端には次の手術日が刷ってあった。十一月十六日、午後二時、第三施術室。 執刀は外科のリード。移痛の割り当ては第一種、二名。 代痛人の欄には番号が二つ並んでいる。名前はない。 カイムは切れ端を手帳に挟んだ。 昼を過ぎて残りが片づいた。五十件のうち通したのが四十四、差し戻しが六。 午後は帳簿点検に回された。窓口の返却箱から十二冊。代痛人の帳簿は公社の所有物で、契約が閉じるたびに回収し、記帳の様式を検める。 一冊目は空欄が三つあった。強度の記入漏れ。訂正させる。 二冊目は日付の順序が入れ替わっていた。書き直しではなく、追記の線を引かせる。 ミラが横から覗きこんだ。 「強度十を書く人はいますか」 「三年で二人見た。二人とも次の月に免許を返している」 「では、十は書かないほうがいいんですね」 「書かないほうがいいとは言えない。様式は書けと言っている」 「書いたら仕事が来なくなります」 「それは様式の外の話だ」 三冊目が四四一九だった。 表紙の角が丸くなっている。紐の結び目が硬い。ページの端に指の脂が寄って、紙が黒くなっていた。 記帳の欄は五つ。契約番号、病名、開始と終了の時刻、強度、形。 形の欄は本来ひと言でいい。鋭い、鈍い、その程度で足りる。書かない者も多い。 四四一九の欄は埋まっていた。全ページ、行の端まで。 十月二十八日。病名、腸閉塞。強度七。開始、午後一時十二分。終了、午後五時十二分。 形の欄はこう書いてあった。腹に来ず。背中の右、肩甲骨の下、鈍い、規則的、間隔一定。 カイムはページを繰った。 十月十四日、病名、胆嚢炎、強度六。形の欄、背中、線状、規則的。 九月三十日、病名、腎盂炎、強度六。形の欄、背中の下、規則的、間、揃う。 九月十日、病名、虫垂炎、強度五。形の欄、背中、鈍い、規則的。 八月二十六日、病名、尿管結石、強度六。形の欄、背中、規則的、間、同じ。 「四四一九は、いつから形の欄を埋めている」 ミラが台帳を引いた。 「三年前の一冊目からです。全ページ埋まっているそうです」 「一冊目と二冊目は」 「保管庫です。閉じた帳簿は公社が預かります」 同じ語が五度並んでいる。強度は五から七の間に収まっている。 どの契約も四時間ちょうどで閉じている。時刻に不備はない。番号にも欠けはない。 カイムは窓口の呼び出し板を裏返した。番号を書いて外へ出す。 四四一九は十分で来た。灰色の外套の女で、髪を後ろで一つに縛っていた。左手に鉛筆を持ったままだった。 「番号を」 「四四一九、ネイ・ソルグ」 「十月二十八日の記帳について確認する。病名は腸閉塞だ」 「はい」 「形の欄に、腹に来ず、と書いてある」 「来ませんでした」 「腸閉塞は腹の痛みだ」 「腹には来ませんでした。背中に来ました」 女は卓のふちに指を置いた。爪が短く切ってある。 「移痛の途中で位置がずれることはある。灰晶の秤量が甘いと起きる」 「秤量は〇・六グラムでした。立ち会いました」 「秤量印は誰が押した」 「係員のトゥーレです」 「受け手の体格でも位置は変わる」 「変わるのは位置です。間隔は変わりません」 カイムは鉛筆の尻で欄をたたいた。 「間隔とは」 「規則正しく来ました。同じ強さで、同じ間を置いて。病気の痛みは間が揃いません。波が来て、引いて、また来るまでの間が毎回違う」 「揃っていたと」 「揃っていました。途中で乱れませんでした」 カイムは開始と終了の時刻をもう一度見た。四時間ちょうど。 「四時間、寝台にいたのだろう。時刻の感覚は当てにならない」 「数えていました」 「何を」 「間を。心臓が何回打つ間かで」 「それを、どう証明する」 女は答えなかった。三秒ほど黙ってから、口を開いた。 「証明はできません。書いただけです」 「この契約の発注元の診療所名は」 「窓口では言いません。番号だけです」 「なら私も知らない。査定は番号でやる」 「番号は誰が決めるんですか」 「採番課だ」 「採番課は、痛みを見ますか」 「見ない」 カイムは棚から様式便覧を引いた。第十一条、形状記載。 条文はこうなっている。形状の記載は代痛人の主観的表現によるものとし、査定の対象としない。 「様式では、形の欄は主観でよいことになっている」 「はい」 「主観は査定しない。つまり、この記帳は誤りではない」 「誤りではないなら、何ですか」 「様式内だ」 「病名の欄は、書き換えられますか」 「書き換えるのは発注元の診療所だ。代痛人ではない」 「診療所は腸閉塞と書いています」 「なら腸閉塞だ」 「腸閉塞は、背中に来ますか」 「来ることもある、と書いた医学書はあるだろう」 「読んだことがありますか」 「私は査定官だ。医学書は査定しない」 カイムは朱印を押した。様式内。三冊目の点検が終わった。 「帳簿を返す。次の契約が入るまで所持していい」 女は帳簿を受け取り、紐を結び直した。結び終わってから顔を上げた。 「査定官は、痛みの形を見たことがありますか」 「見る仕事ではない」 「では、何を見ているんですか」 「紙を見ている」 女は礼を言わずに出ていった。廊下で足音が一度止まり、また歩き出した。 「帳簿を返してしまって大丈夫ですか」ミラが言った。 「所有は公社だ。手元に置くのは所持、持って出れば窃盗になる」 「本人は知っていますか」 「表紙の裏に刷ってある。十二行で」 カイムは一階の秤量室へ降りた。トゥーレは秤の前で灰晶の欠片を紙に包んでいた。 「十月二十八日、四四一九の秤量は」 台帳をめくる音がした。 「〇・六グラム。誤差〇・〇一。立ち会いは私です」 「甘くはないか」 「第二種の四時間なら規定内です。甘ければ受け手が途中で覚めます」 「覚めたという記録は」 「ありません。四時間、寝ていました」 「痛みの位置がずれた例を見たことは」 「あります。三年で四回。全部、秤量が〇・三を切ったときです」 「〇・六でずれた例は」 「知りません」 カイムは階段を上がって卓に戻り、様式便覧の索引を引いた。 病名。形状。不一致。 不一致という語は索引にない。条文にもない。 記載事項が揃っていれば通す。揃っていなければ差し戻す。便覧はその二つしか持っていない。 カイムは手帳に一行だけ書いた。十一月九日、四四一九、様式内。 残りの九冊は十七分で片づいた。カイムは点検票に十二と書き、差し戻し二と書いた。 「四四一九、来月も同じ形が来たらどうします」ミラが箱を閉じながら言った。 「様式内なら通す」 「三度目でも」 「様式は回数を数えない」 「査定官は数えないんですか」 「数える欄がない」 「欄は作れますか」 「様式を変えるのは理事会だ」 「では、上げますか」 「上げる書式がない」 ミラは箱を抱えて出ていった。窓の外で霧が薄くなり、対岸の穀物倉に荷車が着いていた。 カイムは手帳を開き、十一月十六日の行に書き入れた。午後二時、第三施術室、第一種二名。 番号は刷ってある。名前を書く欄は、様式にない。 第3章 ネイ・ソルグ|胆石ではない痛み 受付の板に、その日の札が三枚残っていた。 朝の八時に十一枚あったから、八枚は出たことになる。ネイは残りを左から見た。抜歯、第四種、四十分。分娩の補助、第三種、二時間。三枚目は裏返っている。 「抜歯を取る者がいない」 「銀二だ。誰も取らない」ドランは帳面から目を上げなかった。「分娩は昨日のうちに指名で埋まった」 「三枚目は」 ドランが端の一枚を裏返した。 「四四一九。胆石発作、第二種、四時間。取るか」 「病名をもう一度」 「胆石発作」 「四時間まるごとか」 「そう書いてある」 ネイは札を受け取った。木札の裏に契約番号が焼き付けてある。八一一〇四七。 「桁が一つ多い」 「印刷所の癖だろう」ドランは名簿に線を引いた。「読み合わせに入る。座れ」 長椅子は一つしかない。ネイは腰を下ろし、上着の内側から手帳を出して膝に置いた。 「第四条、受痛は一契約につき連続四時間を超えない。開始十時四十分、終了十四時四十分。読んだか」 「読んだ」 「第二種の年間上限は二百四十時間。あんたの累計は」 「今日を入れて百五十三時間」 「合っている」ドランは指を止めなかった。「前回の受痛からの間隔は」 「四十一時間」 「規定は三十六時間以上。通る」ドランはページをめくった。「中断条件。呼吸が毎分三十を超えた場合、意識の混濁、痙攣。技師が判断する。あんたが判断するんじゃない」 「知っている」 「中断した場合の報酬は受痛時間で按分。切り上げはしない」 「知っている」 「受痛中の発話は記録に残らない。残したいなら終了後に記帳しろ」 「それも知っている」 「知っていることを毎回読むのが読み合わせだ」ドランは指を次の行へ移した。「報酬は銀十四。終了後、記帳を済ませてから窓口で受け取れ」 「発作の契約で四時間枠は初めてだ」 ドランが顔を上げた。 「胆石は普通、一時間か二時間で切る」ネイは続けた。「発作は波で来る。波が引けば残りは無痛だ。四時間押さえる意味がない」 「意味は俺が決めてない」 「誰が決めた」 「指示書だ」ドランは書類の下端を指で叩いた。査定官の判が押してある。ヴェス。「様式に不備はない。ここが通っているなら、あんたが読むのは条文だけだ」 「不備がないことと、正しいことは違う」 「うちの窓口では同じだ」 ネイは手帳に「八一一〇四七 四時間 胆石」と書いた。ページの端に、先月の五件の番号を並べてある。三〇四一一、三〇四一二、三〇五〇八、三〇五五一、三〇六〇二。どれも五桁だった。 「番号の話に戻る」ネイは手帳を向けた。「先月は全部五桁だ」 ドランは覗き込みもしなかった。 「番号は番号だ。木札に焼くのは俺じゃない」 秤量室は廊下の突き当たりにある。天秤と、灰晶の入った鉛の箱。 技師が箱の錠を外した。 「四四一九、五・〇グラム」 「五・〇」 「聞こえただろう」 「胆石は三・二だ」ネイは天秤の皿を見た。「去年の十一月も、その前も三・二だった」 「指示書にそう書いてある」 「指示書は誰が書いた」 「俺じゃない」技師は分銅を載せた。針が止まる。「五・〇。第二種の上限は五・五だ。上限内だ」 「灰晶の量は痛みの総量に対して決める。三・二で足りるものに五・〇を積む理由がない」 「積んで余れば、余った分は残る。害はない」 「足りない場合に積むんだろう」 技師は分銅を箱に戻し、蓋を閉めた。 「四四一九。俺は秤の針を見る係だ。針は五・〇で止まった。書くのはそれだけだ」 灰晶は薄い灰色で、砕くと粉が指の腹に残る。産地の欄には黒喉とだけ書いてある。ほかに書きようがない。技師はそれを溶液に落とし、寝台脇の器に注いだ。 第七寝室。石の壁、寝台が二つ、片方は空。天井の梁は四本。 「隣は使わないのか」 「今日は一人だ」技師は空の寝台の毛布を畳んだ。「先週まで二人並べていた。上から一人にしろと来た」 「理由は」 「書いてない」 ネイは仰向けになった。革帯が両手首と両足首に回る。左の手首の帯は内側の革が擦り切れていて、締めると骨に当たる。ネイは手首を二センチずらして位置を決めた。 「強度の申告は」技師が訊いた。 「終わってからでいい」 「途中で言えるなら言え。記録が細かいほうが査定が早い」 「途中は数えている。喋ると数が飛ぶ」 技師は肩をすくめ、器を持ち上げた。 十時四十分、接続。 最初の三十分、何も来なかった。 胆石なら、この時間で右の肋骨の下が重くなるはずだった。鈍い塊が斜め上へ押し上がり、肩甲骨の内側へ抜ける。波が来て、引いて、また来る。ネイはその形を四十回以上受けている。 来なかった。 十一時二分。 背中の中心に線が入った。 右の肩甲骨の下から、腰の骨のあたりまで、一本。上から下ではなく、後ろから前へ抜けた。胸の側に出口があった。 強度六。持続は短い。二秒か、三秒。 ネイは自分の脈を数え始めた。 一、二、三。 二十二まで数えたところで、二回目が来た。 同じ線。同じ角度。強度八。 また数えた。二十二。 三回目。強度八。線の位置がわずかに下へずれた。腰の骨に一本近い。 二十三。 四回目。強度九。線は前の三本より太く、抜けるまでに間があった。胸の側の出口が広がった。 そこで線が止まった。 五回目を待った。二十二まで数え、四十四まで数え、六十六まで数えた。 来なかった。 四回。間隔二十二、二十二、二十三。ネイは天井の梁を左から順に一本ずつ、四本目まで目でなぞって、その数を梁に置いた。 胆石は波状で来る。強度は上がって下がる。間隔は一定にならない。人の体は拍子を刻まない。 これは刻んでいた。 線の入り方も違った。臓器の痛みは奥から広がる。出どころが指せない。これは指せた。右の肩甲骨の下、骨と骨のあいだ。入口が一点にある。 外から来た痛みだ。 四回目のあとに、圧が残った。 線ではない。面だった。背中の広い範囲を上から押さえてくる。強度四。持続する。 ネイは呼吸を浅くした。深く吸うと、圧が肋骨を内側から押し返してくる。 技師が近づいた。 「呼吸、数えるぞ」 「二十四」 「自分で数えるな」 「二十四だ」 技師は指を首に当てて三十秒待ち、離した。 「二十四。続行」 「一つ記録に入れてほしい」 「言え」 「十一時二分に一回目。四回。間隔は二十二拍、二十二拍、二十三拍」 「拍じゃ書けない。秒で言え」 「時計を見ていない。手首を縛られている」 技師は寝台の脇の砂時計を見た。 「じゃあ書けない」 圧は続いた。上がりも下がりもしなかった。定規で引いたように同じ強さで、時間だけが減った。 十三時二十一分。 圧が消えた。 薄れたのではない。切れた。手前の一秒は強度四で、次の一秒は零だった。 ネイは目を開けた。 「終わったか」 「まだ一時間十九分ある」技師は器を確認した。「灰晶は残っている。接続は生きている」 「痛みは終わっている」 「終わっていない契約に、終わったと書けない」 「痛みが無いのに寝台を占める意味は」 「意味は契約書にある。四時間だ」技師は器の目盛りに指を当てた。「言っておくが、途中で切ると灰晶が無駄になる。無駄になった分は誰かの数字から引かれる」 「誰かとは」 「俺の数字ではない」 残りの一時間十九分、何も来なかった。 ネイは梁を数え直した。四本。節の位置まで覚えた。 十四時四十分、解除。 「灰晶は」ネイは訊いた。 技師が器を傾けた。底に灰色の澱が残っている。 「一・八くらい残った」 「三・二使ったことになる」 「そうなるな」 「三・二で足りたということだ」 「余ったのは事実だ。足りたかどうかは別の話だ」技師は器を布で拭いた。「余りは記録に書かない。書く欄がない」 革帯が外され、ネイは寝台に座って手首を回した。左の手首に帯の跡が二本ついている。手帳を開き、五行書いた。 線状。後ろから前。四回。二十二、二十二、二十三。九で止まる。あとは面、強度四、二時間十七分。切断。 記帳窓口は一階の北側にある。窓は高く、光は台の上までしか届かない。台の縁に、順番待ちの者が肘を置いた跡が二か所へこんでいる。 ネイの前に一人いた。第四種の男で、抜歯の四十分を受けてきたところだった。記帳は二分で終わった。丸を三つ付けて署名するだけだった。 ヴェルタが帳簿を出した。表紙に四四一九。中は日付順に埋まっている。三年分で、残りは十七ページ。 「契約八一一〇四七。読み上げる」ヴェルタはペンを取った。「病名、胆石発作。等級、第二種。開始十時四十分。終了十四時四十分。灰晶五・〇グラム。異状なし」 「異状はあった」 ペンが止まった。 「中断はしていない。技師の報告に中断はない」 「中断の話はしていない。形の話をしている」 「形の欄はここだ」ヴェルタは帳簿の三列目を指した。「胆石発作の場合、選ぶ語は三つ。疝痛、波状、間欠。この三つから丸を付ける」 「三つとも当たっていない」 「当たる当たらないの欄じゃない。病名に紐づいた語だ」 「来たのは線状だ。背中から胸へ抜けた。四回。間隔は二十二拍、二十二拍、二十三拍。強度は六、八、八、九。そのあと面の圧が二時間十七分」 ヴェルタは顔を上げなかった。 「今のを書く欄がない」 「作れないのか」 「様式は公社が決める。私は写す係だ」 「様式はいつ決まった」 「私が来る前だ。十年は変わっていない」 「十年前に、この形の痛みを想定した人間はいない」 「様式を決めた人間に伝わる道はあるか」 「窓口から上へ上がるのは、不備のあった書類だけだ」ヴェルタはインク壺の蓋を開けた。「これは不備がない。だから上がらない」 「不備を作れば上がるのか」 「作れば、上がるのはあんたの名前だ」 「では備考に書く」 「備考は技師と査定官が書く欄だ。代痛人は書かない」 「第百九条に、受痛者は自身の受けた痛みについて申し立てができるとある」 「申し立ては口頭だ。口頭は帳簿に残らない」ヴェルタはページの上端を平らに押さえた。「今、あんたは申し立てをしている。私は聞いた。ここで終わりだ」 ネイはペン立てに手を伸ばした。ヴェルタが帳簿を五センチ手前に引いた。 「四四一九」 「聞いている」 「帳簿は公社の所有物だ。あんたのものじゃない。あんたは持たされているだけだ」ヴェルタはペンを持ち替えた。「様式通りに書け。それで銀十四が出る」 「様式通りに書くと、来た痛みは記録されない」 「記録されているだろう。胆石発作、四時間、五・〇グラム」 「それは契約の記録だ。痛みの記録じゃない」 ヴェルタは短く息を吐き、三列目に丸を付けた。疝痛。波状。 インクが乾くのを待つあいだ、誰も喋らなかった。 「署名を」 ネイは署名した。四四一九、ネイ・ソルグ。 「銀十四。数えて受け取れ」 ネイは硬貨を台の上で四枚ずつ三列に並べ、残りの二枚を横に置いて、それから袋に入れた。 「一つ訊く」 「答えられることなら」 「この契約の、痛みを出した側は誰だ」 「開示しない」 「男か女かも」 「開示しない」 「胆石の患者は、四回に分けて背中を貫かれない」 「あんたが受けたのは胆石発作だ。ここにそう書いてある」 「書いてあることと来たものが違う」 「違うと言えるのはあんただけだ」ヴェルタはペンを拭いた。「あんただけが言えることは、証拠にならない」 ネイは帳簿に手を置いた。ヴェルタは動かさなかった。 「去年の三月の欄を見せてほしい。同じ形が来た日がある」 「当日の記帳以外は開かせない。第六十条」 「私の帳簿だ」 「公社の帳簿だ。あんたは番号だ」 ヴェルタは帳簿を閉じ、棚の四段目に戻した。四四一九の隣は四四二〇。その隣が四四二一。背表紙が二十冊並んでいる。棚には鍵がある。鍵は窓口の内側の釘に掛かっている。 「次の札は明後日だ。板を見に来い」 ネイは階段を上がった。二十二段ある。上がりながら数えた。数は合っていた。 踊り場でハルが壁にもたれていた。十六歳、第一種、背が低い。上着の袖が手の甲まで来ている。 「今日、どうだった」 「胆石だと言われた」 「胆石じゃなかったのか」 ネイは手帳を開いて、五行のうち一行だけを見せた。 ハルはそれを、時間をかけて読んだ。文字を指でなぞる癖がある。 「二十二って何の二十二」 「脈。間隔だ」 「四回とも同じ間隔か」 「二十二、二十二、二十三」 「それ、人が痛がってる形じゃない」 「そうだ」 「じゃあ何の形なんだ」 「わからない」ネイは手帳を閉じた。「わからないから書いた」 ハルは自分の手首に指を当てた。数える口の動きが四回。 それから顔を上げた。 「俺、明日も四時間だ」ハルは札の番号を見ずに言った。「病名は腎結石。背中って書いてあった」 第4章 ネイ・ソルグ|ハル 受付の板に、その日の割り当てが貼り出されていた。 第六室、ハル、第一種。第七室、ネイ・ソルグ、第二種。 「隣だ」 ハルが板を指の腹で叩いた。 「壁は石だけど、扉の下が空いてる。唸ったら聞こえる」 「唸らない」 「ネイさんは唸らないよな。前に一回だけ聞いた」 「あれは咳だ」 ハルは十六で、背は五尺三寸ほどしかない。第一種の高耐性は公社で四人しかいない。そのうちの一人が、外套の袖を折り返して立っている。 「今日は何?」 ネイが聞いた。 「開腹。四時間」 「病名は」 「書いてある通り」 「書いてある通りを聞いてる」 ハルは板に指を戻した。割り当ての紙は病名まで刷られていない。 「腸閉塞の解除だと」 ネイは自分の欄を見た。大腿骨の整復。四時間。 「報酬は」 「銀貨百二十枚」 ネイは板から目を離した。 「四時間で?」 「四時間で」 「私の今日のは八枚」 「知ってる。俺も先月まで九枚だった」 「増える理由を聞いたか」 「等級が上がったからだって、受付が言った」 「等級は先月から変わってない」 「だよな」 「帳簿の等級欄を見たか」 「見た。第一種のままだ」 「なら、受付は嘘を言ったか、知らないで言ったかのどちらかだ」 「どっちだと思う」 「知らないで言ったほうだ。受付は契約書を刷るだけで、単価は総務が入れる」 「ネイさんは、そういうのをどこで覚えるんだ」 「読むだけだ。掲示板は全部読む」 ハルは笑わなかった。笑うところではない。彼は外套の襟を直して、廊下の奥を見た。 契約室の呼び出しが鳴った。二回。第六室と第七室が同時だった。 立会人のブランが台帳を開いて待っていた。四十過ぎの男で、爪を短く切っている。 「ソルグ、四四一九。契約番号二二四四一」 「はい」 「病名、右大腿骨骨折の整復。移痛等級第二種。受痛予定四時間。開始十三時二十分、終了十七時二十分」 「はい」 「連続四時間を超えない。中断は術者側の判断による。受痛者の申し出による中断は、患者の切開が閉じるまで認められない」 「はい」 「受痛中の飲食は認めない。水は立会人が与える」 「はい」 「年間受痛の残りは」 ネイは自分で答えた。 「八十三時間」 ブランが台帳の右端と照らした。 「八十三時間。合っている」 「読み合わせは以上だ。異議は」 「ない」 ブランが灰晶の壺を引き寄せた。秤の皿に匙で移す。灰色の粉が皿の縁で二度こぼれ、ブランは指で戻した。 「二・八グラム」 「二・八グラム、確認した」 「壺の封は」 「今朝切った」 「入荷はいつだ」 「そこまで読み合わせに入っていない」 「入荷の日で粒が違う」 「粒の話は査定官にしろ」 「署名を」 ネイは名前を書いた。ブランが日付を書き足した。晩秋の十一月、十四日。 隣の卓でハルの読み合わせが始まっていた。声は届く。 「ハル、四五五一。契約番号〇七の二二五一の〇八」 「はい」 「移痛等級第一種。受痛予定四時間。開始十三時二十分」 「はい」 「灰晶、四・〇グラム」 「四・〇グラム、確認しました」 「年間受痛の残りは」 「ええと」 「四十八時間だ」 「四十八時間、はい」 ネイは秤の数字を頭の中で並べた。第一種と第二種で一・二グラムの差になる。先週のハルは三・二グラムだった。手帳に書いてある。 年間の残りも並べた。ハルは今年の三月に登録して、十一月で四十八時間しか残っていない。ネイは三年目で八十三時間ある。八か月で三百時間を超えて受けた計算になる。 ハルが立ち上がって、卓の脇でネイを待った。二人で廊下を歩いた。石の床が冷えていて、靴の底が鳴る。 「ネイさん」 「なに」 「四時間って、途中で足せる?」 「足せない」 「規則で?」 「規則で四時間だ。一契約につき連続四時間まで。年間の受痛上限もある。足したら免許が止まる」 「代痛人の免許が」 「両方だ。公社の免許も止まる」 「途中で一回切って、また契約を結ぶのは」 「間を八時間空けないと同日再契約にならない。八時間空けたら、それは別の日の別の契約だ」 「同じ患者でも」 「同じ患者でもだ。なぜ聞く」 ハルは廊下の先の壁を見た。第六室の扉には番号板が斜めに掛かっている。 「今日の紙に、予備の欄があった」 「予備の欄」 「終了時刻の下に、もう一行あった。空欄だった」 「私の紙にはない」 「そうか」 ハルは頷いた。それから、扉の把手に手をかけて、もう一度言った。 「そうだよな」 第六室の扉が閉まった。ネイは第七室に入った。 寝台は石の台に麻布を敷いたもので、枕は硬い。ネイは外套を掛け金に吊るし、靴を脱いで、仰向けになった。天井の梁は三本。灰晶の皿が枕元の台に置かれる。 「十三時二十分」 ブランが言った。 「開始」 来た。 深い痛みだった。骨の内側から押し広げる型で、鋭くはない。持続する。脈に合わせて上下する。ネイは天井の梁を一本目から数え、痛みの型を頭の中で言葉にした。鈍い、深い、持続、規則的な上下、線状ではない。整復に合っている。病名と痛みが一致している。こういう日のほうが少ない。 十四時を回ったころ、痛みが平らになった。骨がはまったのだろう。あとは縫合と固定の時間になる。 壁の向こうで、寝台の脚が石床を擦った。二回。 ネイは目を開けた。 三回目の音が続いた。それから、金属の皿が落ちた音。灰晶の皿は錫でできている。落ちれば粉が飛ぶから、拾うのに時間がかかる。 廊下を人が走った。二人。すぐに三人目。 第七室の扉が開いた。ブランだった。 「動くな」 「隣で何が」 「動くなと言った。お前の患者はまだ開いている」 「灰晶の皿が落ちた」 「見てない」 「音でわかる」 ブランは扉の枠を掴んだままだった。 「ソルグ。契約は十七時二十分までだ。切ればあの患者に全部戻る。腹の中で戻る」 「私の患者は骨だ。腹ではない」 「言葉の綾だ」 「綾で仕事をするな。第六室の患者はどうなる」 「知らん」 「立会人は両方の室の時計を見る立場だろう」 「今日は俺が第七室で、第六室は別の立会人だ」 「誰だ」 「名簿は受付にある」 「名前を言えばいい」 ブランは言わなかった。扉の枠から手を離して、廊下の左右を見た。左は搬出口に続く。 「切れとは言っていない」 ネイが言った。 「なら黙って受けろ。あと三時間九分だ」 扉が閉まった。 ネイは受け続けた。骨の痛みは平らなままで、変化はない。彼女は別のものを数えた。 十四時十一分、寝台の脚の音、三回。 十四時十三分、走る足音、五人分。 十四時十九分、水の桶を運ぶ音。桶は二つ。 十四時三十二分、廊下の声が一度だけ大きくなり、それから止まった。以後、走る音はない。 十四時四十一分、担架の車輪。第六室の扉から出て、左へ。左は医務室ではない。左は搬出口だ。 十五時を過ぎて、痛みが二度、短く跳ねた。固定の締め直しだろう。それも収まった。 十七時二十分、ブランが入ってきた。 「終了」 「十七時二十分」 「記帳しろ」 ネイは寝台に座って帳簿を開いた。四四一九。頁の左から、契約番号、病名、種別、強度、開始、終了。 強度の欄で手が止まった。整復の四時間は、いつもなら六か七で書く。今日は六だった。書いた。 「ブラン」 「なんだ」 「第六室は」 「終わった」 「終わったというのは、契約がか」 ブランは台帳の頁をめくった。爪の短い指が、日付の欄で止まっている。 「契約が終わった」 「ハルは」 「死んだ」 「時刻は」 「十四時三十二分だ」 「死亡確認が十四時三十二分。停止したのは何時だ」 「そこまで俺の台帳にはない」 「灰晶の皿が落ちたのは十四時十一分だ」 「聞いてない」 「音でわかると言った」 「聞こえたのはお前だけだ」 「なら、二十一分ある。十四時十一分から十四時三十二分まで、誰が何をしていたかの記録はどこだ」 「医務の日誌だろう」 「医務の日誌は代痛人には出ないな」 「出ない」 「第六室の患者は」 「閉じた。無事だ」 「痛みが戻ったはずだ。受け手が止まれば、その分は患者に戻る」 「戻る」 「戻ったなら、患者側の記録に時刻が残る。何時に戻ったかが」 「ソルグ」 ブランが台帳を閉じた。 「お前の帳簿に書く欄はない。今日のお前は右大腿骨の整復だ。それだけを書け」 ネイは自分の手帳を外套から出した。公社の帳簿とは別の、糸で綴じた薄いものだ。時刻を五つ書いた。十四時十一分、十四時十三分、十四時十九分、十四時三十二分、十四時四十一分。 「公社の記録では何と」 「まだ出ていない」 「出たら教えろ」 「教える立場じゃない」 記録は一時間後に出た。契約室の掲示板に、その日の異常終了として一行だけ貼られた。 契約番号〇七の二二五一の〇八。受痛者ハル、帳簿番号四五五一。異常終了。原因、過負荷による心停止。 ネイは掲示の前に立って、二度読んだ。 「過負荷」 声に出したのは彼女ではなく、後ろにいた受付の若い男だった。 「第一種の高耐性でも起きるんですね」 「起きない」 ネイが言った。 「え」 「過負荷なら、受痛量が上限を超えている。灰晶は四・〇グラムだ。四・〇で第一種の上限は超えない。上限は五・五だ」 「そう決まってるんですか」 「規則の三十一条だ。掲示板の右下に貼ってある」 若い男は右下を見た。紙は色が褪せていて、画鋲が三つしか残っていない。 「じゃあ、なんで」 「帳簿を見ればわかる」 「ハルさんの?」 「受痛の記録は全部そこに入る。開始と終了と強度。過負荷なら強度の欄に数字が残る」 ネイは契約室の金庫の前へ行った。代痛人の帳簿は、受痛日は金庫に預けられ、翌朝返される。死亡の場合は、三十日間そこに置かれる。規則の五十四条。 金庫の扉は開いていた。 公社総務の外套を着た男が、鍵束を腰から下げて立っていた。三十代の後半。名札にヴォートとある。手に麻の袋を持っていた。 「四五五一を出しました」 ヴォートが金庫の中の職員に言った。 「受領は済んでいます」 ネイは金庫の縁に手を置いた。 「三十日じゃないのか」 ヴォートが振り向いた。 「なんの話です」 「死亡した代痛人の帳簿は、三十日間、契約室の金庫で保管する。五十四条だ」 「規則はご存じなんですね」 「持って行くのか」 「回収です」 「回収という言葉は五十四条にない」 「指示書があります」 「五十四条の除外は、公社理事の決裁がいる」 「そう書いてあるんですか」 「五十四条の但し書きだ。読んだことは」 「私は運搬の担当です」 「運搬の担当が金庫を開けられるのか」 「鍵は総務が持ちます。昔からです」 ヴォートは外套の内側から紙を一枚出して、ネイの目の高さで開いた。開いたのは上半分だけだった。 指示書。日付、十一月十四日。件名、帳簿回収。対象、帳簿番号四五五一。回収先、本館三階記録課。 「読めましたか」 「対象が一冊だけだ」 「一冊しか死んでいませんので」 ヴォートは紙をたたんで内側に戻した。 袋の口が開いていた。中の帳簿の背が見えた。表紙の角が擦れていて、番号の四五五一だけが黒く残っている。 「一つ聞く」 ネイが言った。 「どうぞ」 「最後の記帳は誰がした」 「立会人でしょう」 「開いて見せてくれ」 「公社の所有物です」 「私の帳簿も公社の所有物だ。それでも私は自分の頁を読んでいる」 「あなたの頁は、あなたの契約だからです」 ヴォートが袋の口を絞った。絞る前の一瞬、上から二枚目の頁が見えた。ネイは字を追った。 契約番号〇七の二二五一の〇八。病名の欄。腸閉塞の解除。開始十三時二十分。 終了の欄は空白だった。強度の欄も空白だった。 「終了が入っていない」 ネイが言った。 「入るわけがない。終わっていないんだから」 ヴォートは袋を肩に掛けた。 「過負荷だと掲示に出ている。過負荷は強度で判定する。強度が空白なら、何を根拠に過負荷と書いた」 「掲示は記録課が作ります。私は運ぶだけです」 「運ぶ先は三階だな」 「そう書いてありました」 ヴォートは階段のほうへ歩いた。踊り場で一度だけ止まって、鍵束を掛け直した。それから上がった。三階までは足音が続き、その先は聞こえなくなった。 ネイは金庫の職員に聞いた。 「受領の署名は誰が」 「私は台帳に番号を書いただけです」 「台帳を見せてくれ」 「代痛人には見せられません」 ネイは廊下に出た。第六室の扉は開いたままで、中の寝台に麻布はなかった。石の台の上に、灰の粉が薄く残っている。錫の皿は台の下に伏せて置かれていた。皿の縁が一箇所へこんでいる。 ネイはしゃがんで、粉を指の腹で拾った。指先で潰すと、乾いた砂の感触がした。北の灰晶は、南の再生品より粒が粗い。 外套の内側から手帳を出した。 十一月十四日。第六室。ハル。帳簿四五五一。契約〇七の二二五一の〇八。灰晶四・〇グラム。開始十三時二十分。死亡確認十四時三十二分。受痛時間、一時間十二分。報酬、銀貨百二十枚。終了欄と強度欄は空白。帳簿は同日十八時前に回収、本館三階記録課。 書き終えてから、ネイは廊下の途中で立ち止まった。 昼に聞いた声が戻ってきた。扉の把手に手をかけたまま、ハルが言った一言だった。 四時間って、途中で足せる? ネイは手帳の頁を戻して、その一行を書き足した。日付と、時刻と、質問だけを書いた。答えたのが自分だったことも書いた。 それから鞄を開けて、返されたばかりの自分の帳簿を出した。四四一九。表紙の角は擦れている。 最初の頁を開いた。三年前の日付が入っている。 第5章 カイム・ヴェス|署名のない指示書 査定課の窓からは、朝のうちだけ運河が見える。九時を過ぎると霧が上がってきて、対岸の荷揚げ櫓が消える。 「甲三号、返戻分が三件です」 リーサが書類の束を机の角に置いた。 「読み上げて」 「一件目、第三種、受痛者の年間累計が百七十一時間。上限は百六十」 「返戻。理由欄に第六十二条の二と書く」 「代痛人には何と伝えますか。今月あと二件、受けるつもりでいます」 「上限に達していると伝える。伝え方は決まっている。数字を読み上げるだけでいい」 「二件目、灰晶の秤量記録が一・八グラム。契約時間は三時間半」 「三時間半なら二・一グラム以上。秤量係の判は」 「あります。カレルです」 カイムは束を引き寄せ、二枚目を光にかざした。数字の一の上に、書き直しの掠れがあった。 「一の縦棒が二本ある。もとは二・八だったな」 「多いほうを少なく直したことになりますが」 「灰晶の残高が合わなくなると、入荷の帳尻を先に疑われる。だから使った量を減らして書く」 「その帳尻はうちの管轄ではありません」 「管轄でないものを見つけたときは、見つけたと書く。それは管轄内だ」 リーサが手を止めた。 「秤量係本人を呼んで、原簿と突き合わせ。書き換えなら懲戒」 「三件目は、医師の副署がありません」 「副署のない医療契約は契約ではない。返戻」 「執刀は明後日です。返戻すると止まります」 「止まる。副署を取ってから出し直せばいい。取れないなら、その医師は最初から立ち会う気がない」 「三件とも今日中に出します」 リーサが下がると、廊下から台車の音がした。使送係のブランが、麻紐で縛った箱を抱えて入ってきた。 「回収帳簿です。受領の判を」 「何冊」 「一冊。あと指示書が一通」 箱は思ったより軽かった。中に、青い布装の帳簿が一冊だけ入っていた。 表紙の番号は四五五一。ハル。第一種、高耐性、十六歳。 カイムは表紙を開かず、先に指示書を読んだ。 甲十二号。〈痛みの帳簿回収指示書〉。用紙は正規のもので、透かしも入っている。 回収理由の欄に、活字ではなく手書きで「契約者死亡に伴う所有権復帰」とあった。 日付、十一月十九日。回収番号、二二七。 公社印は右下に赤く押されている。 その左隣、発行者署名の欄が白かった。 「ブラン」 「はい」 「これを誰から受け取った」 「記録課の窓口です。箱ごと台に置いてありました」 「置いてあった、というのは、誰かが手渡したのではないという意味か」 「札が載っていました。査定課カイム殿と」 「札は誰の字だ」 「知らない字です。うちの課ではありません」 「窓口にいたのは」 「ドラン主任です。判はもらってあります」 「麻紐の結びは」 「僕ではありません。結び直しもしていません」 「受け取り側の判はある。渡した側の名前がない」 ブランは指示書を覗き込み、少し黙った。 「そこ、いつも空欄ですか」 「一度も空欄だったことはない。十一年で」 カイムは引き出しから規程集を出し、指をあてて読んだ。 「第百四条。帳簿の回収は、公社の指名する発行責任者の署名をもって効力を生じる。署名を欠く指示書は無効とする」 「無効なら、僕は持ち帰りますか」 「持ち帰ると、この帳簿が公社の管理から外れる。外れた帳簿を職員が抱えていた事実だけが残る」 「じゃあ」 「置いていけ。受領はする。効力の話は別に立てる」 カイムは受領台帳に判を押し、日付の横に小さく「署名欄空白」と書き足した。ブランは台車を鳴らして出ていった。 帳簿を開いた。 最終ページ、十一月十四日。契約番号は八桁。病名欄、腸閉塞の解除。等級、第一種。 開始、十三時二十分。終了の欄は空いている。強度の欄も空いている。 一枚戻る。十一月十二日、病名欄、下肢圧挫。強度、十。 もう一枚戻る。十一月十日、下肢圧挫。強度、十。 その前は十一月七日で九、四日で八、一日で七だった。 十月の頁も、九月の頁も、同じ病名が並んでいた。第一種で下肢圧挫が続くのは、鉱山か港湾の事故が続いているということになる。港湾の事故報告は月に一件も上がってこない。 強度の欄だけが、七、八、九、十、十と上がって、最後の一つで空いていた。 カイムは別紙の医務報告を並べた。死亡確認、十四時三十二分。死因、過負荷による心停止。 終了の欄が空いている。死亡確認だけが別紙にある。 帳簿の上では、この契約はまだ終わっていない。 規則では、契約は四時間まで。十三時二十分開始なら十七時二十分まで取れる。閉じられていない欄が、なぜ閉じられていないのかは、記載のどこにもない。 終了の記帳は代痛人自身の筆である。空欄のまま帳簿が閉じたということは、終了を書ける状態の者が、その場にいなかったということになる。 掲示は過負荷と書いている。過負荷は強度で判定する。判定に使う欄が空いている。 彼は罫線の上の数字を指でなぞり、それから帳簿を閉じた。 十時十五分、記録課へ降りた。 「ドラン主任。二二七号の指示書だが」 「回収済みでしょう。何か」 「発行者署名がない」 「印はありましたよね」 「印は誰でも押せる。責任者の名前が要る」 ドランは書棚の背に指を滑らせ、控えの綴りを引き出した。 「控えも同じです。うちは複写を受け取っただけで、起こしたのは上です」 「上、というのは」 「そう書いてありました。上申経由、と」 「課の名前は」 「入っていません」 「指示書を起こした課の名前が入っていない書類を、あなたは回した」 「回さないと帳簿が現場に残ります。残ったら窃盗の疑いがかかるのは代痛人です」 ドランは綴りを閉じた。 「私は早く回収したほうが安全だと判断しました。査定官なら、そこは同じ意見だと思っていました」 「安全の話をしているのではない。効力の話をしている」 「効力なら、印で足ります」 「印は何本ある」 「この庁舎に三本です」 「保管は」 「一本が理事室、一本が総務、一本がこの棚の鍵付きです」 「あなたの一本は昨日動いたか」 ドランは棚の抽斗を開け、朱肉の乾き具合を見た。 「動いていません。乾いています」 「では残り二本のどちらかが押した。名前を書かずに」 「そこまでは私の職掌ではありません」 「二二七の前は」 「二二六。先月です。あれには署名がありました」 「誰の」 「思い出せません。控えを見れば分かります」 ドランは綴りを繰り、途中で手を止めた。二二六の控えには、署名欄に走り書きがあった。読める字ではないが、書かれてはいた。 「一号前にはある。二二七だけない」 「だから経過措置か何かでしょう。様式が変わる前後にはよくあります」 「様式は改まっていない。用紙の版数が同じだ。左下の刷り番号を見ろ」 ドランは二枚を並べ、刷り番号を確かめ、それから綴りを閉じた。 「では上へ聞いてください。私は控えを出せるだけです」 カイムは控えの写しを一枚もらい、階段を上がった。 四階、総務課。課長のヴィレム・ノートは、暖炉の前で書簡の封を切っていた。 「査定課が四階まで上がってくるのは珍しい」 「照会を出したい。口頭で先に伝えます」 「どうぞ」 「甲十二号、回収番号二二七。発行者署名欄が空白のまま流れました。第百四条違反です」 「印は」 「あります」 「なら実務上は通る」 「規程に実務上という条項はありません」 ヴィレムは封筒をペーパーナイフの背で押さえた。 「カイム君。あなたは十一年、規則で仕事をしてきた人だ。だから聞くが、この件で不利益を受けた人間は誰かね」 「帳簿の名義人です」 「死んでいる」 「死んでいても名義人です。帳簿は本人の受痛記録で、身分証を兼ねる」 「所有権は公社にある」 「所有権は公社、記載は本人。だから回収には責任者の名前が要る。誰が持ち出させたのかを、後から数えられるように」 「後からというのは、いつのことだ」 「監査です。あるいは訴訟です」 「この十一年で、代痛人が公社を訴えた例は」 「ありません」 「では、あなたが守ろうとしている手続は、一度も使われたことがない手続だ」 「使われないから残しておくのです。使う日には、もう書けない」 ヴィレムは初めて顔を上げた。 「数えられるように」 「規程の趣旨はそこだと理解しています」 「照会書は上げてくれ。様式は乙二号でいい」 「回答期限は」 「三日」 「規程では二日です」 「では二日で」 カイムは自席に戻り、乙二号を書いた。 宛先、公社総務。件名、甲十二号回収番号二二七の効力について。 本文は四行にした。署名欄空白の事実、第百四条の条文、当該帳簿の現在の保管場所、回答の期限。 写しを一部取り、引き出しの二段目に入れた。原本は十一時四十分に受付へ出した。 正午、食堂で豆と塩漬け肉を食べた。同じ卓に、麻酔の要らない外科医が二人いて、来月の手術枠の話をしていた。枠は病院ではなく公社が配る。第二種の代痛人が足りない、という話だった。 カイムは黙って皿を空けた。 十三時、聖ドーラ施療院から使いが来た。封は病院のもので、蝋も正規だった。 エナ・ヴェス、九歳、骨形成不全。 第三回骨切り術の予定日、十二月二日。これを十一月二十五日に繰り上げる。 理由の欄は、手術枠の再配分による、とだけ書いてあった。 カイムは通知を裏返し、机の上で二度、位置を直した。それから受話台へ行き、施療院の会計へつないだ。 「ヴェスです。二日の予定が二十五日になっていますが」 「はい、繰り上げです。マレン先生の枠が空きました」 「先に入っていた患者は」 「別日に移りました」 「別日というのは、いつです」 「一月十二日です」 「十二月から一月に。骨切りは待てる病気ではない」 「先方が同意されています。書面で」 「誰の指示で枠が動いたのですか」 「公社の医療調整課から連絡がありました。枠を一つ、こちらへ回すと」 「調整課の誰から」 「担当者の名前は、こちらの控えには入っていません。公社印だけです」 「印だけ」 「はい。よくあることです」 「うちからは何も申請していません」 「申請の有無は、こちらでは分かりかねます。枠は公社が配るものですから」 「代痛人は誰があたる」 「第二種を一名、当日に割り当てると聞いています。二十五日の午前です」 「名前は」 「まだ出ていません」 カイムは受話器を戻した。 そのまま座って、机の右端の紙押さえを二センチ動かし、また戻した。 十五時、乙二号が返ってきた。 封は開いていて、受付の受理印が押してあった。回答欄は白かった。 欄外に、鉛筆で一行だけ書き足されていた。 「本件、経過措置により処理済み」 経過措置。カイムは規程集の索引を最後まで引いた。甲十二号に関する経過措置の条項は、どの版にも存在しなかった。 書庫から前々版も出した。第百四条は十一年前の版から一字も変わっていない。改正附則にも、当該様式の名前は出てこない。 書き足しの筆跡には署名がない。鉛筆なので、消せる。 彼は消さなかった。写しを取り、日付を入れて、二段目にしまった。 十六時、二通目を書き始めた。 宛先を総務ではなく理事会にした。件名に「回答の不存在について」と入れ、経過措置の条項番号を明示するよう求める一行を足した。 三行目まで書いて、手を止めた。 差出人の欄には自分の名前と職名を書くことになっている。回収番号二二七を理事会の卓に載せるのは、そこに書かれた名前一つである。 書いた。契約査定官、カイム・ヴェス。 書き終えて、封をした。 封をしたまま、机に置いた。 十六時二十分、リーサが戻ってきた。 「秤量係のカレル、書き換えを認めました。上司の指示だったと」 「その上司の名前は」 「口頭で受けたので、書面はないそうです」 「書面のない指示が、今日で三件目だ」 「三件目、というのは」 「甲十二号の署名欄。病院の枠の付け替え。それとこれだ」 「病院の話は、査定課の案件ですか」 「私の案件だ」 「返戻でよろしいですか」 「返戻。理由欄に、指示者不明と書け。書けるうちに書く」 「書けるうちに、というのは」 「あとで様式が変わるかもしれない。変われば欄が消える」 リーサが出ていってから、カイムは箱の麻紐を結び直し、四五五一の帳簿を保管棚に入れた。棚の札に、回収番号と受領日、それから「効力照会中」と書き足した。 書き足しは鉛筆ではなく、墨にした。 上着の内側から手帳を出した。 娘の通院の予定が並んでいるページに、十二月二日と書いてあった。 その上に線を引き、十一月二十五日と書いた。 線を引いた日付は消えない。両方が残る。 二通目の封筒は、机の上にあった。カイムは受付が閉まる十七時の鐘を聞き、それから封筒を持ち上げた。 引き出しの二段目を開け、乙二号の写しの上に重ね、鍵を掛けた。 上着を着て、廊下の灯を落とし、階段を降りた。 翌朝八時四十分、机の上に箱がもう一つ載っていた。 麻紐は同じ結び方だった。上に指示書が一通。 甲十二号、回収番号二二八。 用紙の右下に、公社印が赤く押されていた。 その左に、発行者署名の欄そのものが、印刷されていなかった。 第6章 ネイ・ソルグ|写し 蝋燭を二本立てた。一本では罫線が読めない。 机は洗濯板を裏返して煉瓦四つに載せたものだ。窓の下は運河で、荷船の綱が石をこする音が一定の間隔で上がってくる。 帳簿を開いた。表紙の右下に4419の焼き印がある。公社の所有物で、貸与された者が身につけて歩くことだけが許されている。持ち出しは窃盗、と第八条にある。 第九条は、帳簿の記載を改めてはならない、と書いてある。写してはならないとは書いていない。 紙は魚屋で包み紙を四十枚買った。一枚半レイ、締めて二十レイ。鱗が二枚に貼りついていたので爪で落とした。インクは煤と膠を練って自分で作った。公社の窓口で売っているインクは一瓶四レイで、買えば買った記録が残る。 罫を引いた。定規は寝台の板を割ったものを使う。左から契約番号、日付、開始時刻、終了時刻、等級、病名、強度。 そこまでは帳簿の欄と同じだ。ネイはその右にもう一列足した。 形、と書いた。 形の欄に入れる言葉は帳簿にはない。ネイの手帳にある。三年分、二十七冊。仕事のたびに寝台の上で数え、終わってから書いた。 鋭い。鈍い。波状。線状。規則的。断続。刺す。灼く。裂く。押す。 最初の一件を写した。二十三年、十一月の四日、九時十分から十二時四十分、第三種、抜歯後疼痛、強度四。 手帳の同じ日を開く。灼く、途切れない、顎の骨から耳へ線状。三十分ごとに強くなる、七回。 帳簿の欄には七回が入らない。強度と病名しか入らない。だから帳簿は三行で終わり、手帳は九行ある。 書き写して次に進んだ。 三十件写して手が止まった。指が曲がったまま戻らない。匙を握った形で固まっている。 湯を沸かして手を浸けた。十を数えて出し、指を一本ずつ伸ばして、また写した。 一件を写すのに、平均して二分と少しかかった。休みを入れて夜明けまでに九十四件。 翌日は非番だった。八時に起きて、パンと塩漬けの魚を食べ、十時から写した。 昼に大家が階段を上がってきて、蝋燭の匂いがすると言った。ネイは家賃の袋を戸の隙間から出した。大家は袋の中身を数えて帰った。 二日目に百五十件。指は三度止まった。 三日目の夜に三年分が終わった。四百十二件。紙は四十枚では足りず、六十四枚使った。 四百十二件のうち、病名の欄が空いているものが十九件あった。空欄のまま公社の判が押してある。 そこから突き合わせを始めた。 まず開始時刻の欄だけを見て、同じ分に始まっている契約を拾う。ネイの帳簿は一人分だから、同じ時刻に二件はない。だから拾えるのは、日をまたいで同じ時刻に始まった件だ。 十四時十二分開始が、三年で十一件あった。 十一件の病名は全部違った。胆石発作、腎結石、抜歯後疼痛、術後創痛、骨折整復、分娩前期、痔核切除、外耳道の炎症、そして病名欄が空欄のものが三件。 形の欄を見た。 十一件のうち八件に、同じ言葉が並んでいた。 背中。上から下へ。規則正しい。四回。間隔が同じ。 八件の終了時刻を引いた。全部、三十八分だった。 強度は全部六だった。 契約番号を見た。八件はばらばらの日付なのに、番号の下三桁がどれも百二十番台に入っていた。 ネイは手帳の新しい頁に、三十八、と書いた。その下に六、と書いた。 朝、待機室に行った。 石の床に長椅子が四列。壁際に炭の火鉢がひとつ。十一月は寒いので、みんな火鉢に近い列から座る。 十一人いた。朝の発注が出るまで、みんな床を見ている。 ネイは端から三人に声をかけた。一人目は首を振った。二人目は帳簿の袋を尻の下に敷いた。三人目のロタは、袋を膝に載せたまま言った。 「見せた人がいるって話になったら、あたしの等級が落ちる」 「落ちた例を知ってる」 「知らない。落ちたら日当が三レイ減る。うちは子供が二人いる」 「わかった」 ネイは離れた。 テルサが端にいた。第三種、三十四歳、十一年目。膝が悪くて歩くとき左肩が下がる。 「テルサ、帳簿を見せてほしい」 「なんで」 「番号を照らし合わせたい」 テルサは火鉢に手をかざしたまま動かなかった。 「帳簿は公社のものだ」 「知ってる。持ち出せとは言ってない。ここで開いてくれればいい」 「見て何になる」 「わからない。だから見る」 テルサは長椅子の下から布の袋を出し、帳簿を膝に置いた。開かなかった。 「三レイ」 「二レイしかない」 「じゃあ二レイだ。あと、あんたが何を探してるのか、見つかったら教える」 「見つからないかもしれない」 「それでも教える」 ネイは硬貨を二枚渡した。テルサは帳簿を開いて膝ごとこちらへ向けた。指は表紙から離さない。 「めくるのはあたしがやる。日付を言え」 「去年の十二月の二十日を出して」 テルサが頁をめくった。ネイは自分の写しを広げて並べた。 同じ日、十四時十二分開始、終了十四時五十分、三十八分。第三種。強度六。 病名は、腎盂の結石。 「この日の形を覚えてる」 「覚えてない」 「腎石なら脇腹の下から前へ回る。波が来て、引いて、また来る」 「そういう日じゃなかった」 テルサが火鉢から手を離した。 「背中だ。真ん中。上から下へ。四回。時計みたいに間があいてた。それだけ覚えてる。腎石なんて感じじゃなかったから、係に言った」 「係はなんて」 「様式通りに書けと言われた。書き直すと日当が出ないから、書いた」 「その日の前後にも、同じ形はあった」 テルサは頁を三枚戻し、二枚進めた。 「十二月は十二件受けてる。背中のは、二十日と、二十七日と、次の月の三日」 「時刻」 「二十七日が十四時十二分。三日は九時三十分」 ネイは写しを見た。自分の九時三十分の欄に、背中、四回、と書いてある。 「三日は、あんたも受けてる顔だね」 「受けてる」 「病名は」 「痔核切除」 テルサが火鉢の炭を金串で寄せた。 「あたしのは胃潰瘍だった」 ネイは写しの余白にテルサの帳簿番号を書いた。3877。 「もう一人いる。タリクだ」 「呼んで」 タリクは二十六歳、第二種。前歯が二本欠けていて、笑うときに口を手で覆う。彼は硬貨を受け取らなかった。 「見せるだけならいい。写すのはだめだ」 「番号と時刻だけ写す」 「病名は」 「病名も要る」 「なんで要る」 「病名と形が合ってない日を探してる」 タリクは口を手で覆った。笑ってはいなかった。 「そんな日ばっかりだ」 「だから探してる」 タリクは少し黙ってから帳簿を開いた。テルサが横から日付を言った。 去年の十二月の二十日。十四時十二分開始。終了十四時五十分。第二種。強度六。病名は術後創痛。 「形は」 「背中。四回。数えてない」 「数えなくていい。四回で合ってる」 「四回のあと、何もない時間が長かった。終わったのかと思って起きようとしたら、係に押さえられた」 「何分あった」 「知らない。灰晶の秤が鳴るまでは寝てろと言われる」 三人分が並んだ。同じ日、同じ分に始まり、三十八分で終わり、強度が六で、病名が三つとも違う。形は同じ。 契約番号の下三桁は、ネイが121、テルサが124、タリクが127だった。 「三つ飛びだ」 「何が」 「番号が。二つ飛ばして次が来てる」 テルサが帳簿を閉じて袋に戻した。 「間の二つは誰だ」 「知らない」 昼過ぎに三階の記録窓口へ行った。 ブルネという記録係が座っている。五十がらみで、指の関節が太い。書き物のときに舌を上唇につける癖がある。 「4419のネイ・ソルグ。契約番号のことを聞きたい」 「番号は採番規則で決まる。読み方を教える窓口じゃない」 「同じ日の同じ時刻に始まった契約が、番号だけ三つ飛びに並んでる。理由を知りたい」 ブルネは書き物をやめなかった。 「複数の代痛人に同時に発注が出れば、番号は近くなる。同じ病院、同じ執刀、同じ時間帯。当たり前だ」 「病名が違う」 「別の患者だからだ」 「別の患者の痛みが、分単位で同じ時刻に始まって、同じ三十八分で終わる」 「手術の枠が同じなら、始まりは揃う」 「三十八分で揃うのはなぜ」 「四時間以内なら、長さは受注側が決める」 「決めた記録はどこにある」 「発注書だ」 「見せてほしい」 「発注書は査定官の管轄だ。代痛人には出さない」 「なら、病名の欄が空いている契約はどう扱われる」 ブルネの筆が一度止まって、また動いた。 「空欄はない」 「十九件ある。私の帳簿に」 「様式内だ。病名は診療側が後から入れることがある」 「三年入っていない」 ブルネが筆を置いた。 「帳簿の照会は本人の分だけだ。他人の番号をどこで見た」 「待機室で聞いた」 「聞くのは自由だが、写すのは勧めない」 「規則のどこに書いてある」 ブルネは規則集を出さなかった。出さないまま次の書類を手に取った。 「書いてない。だから勧めるだけだ」 「あと一つ」 「今月の照会は二回までだ。もう二回使った」 「番号の下三桁が百二十番台に集まってる契約がある。三年で二十八件。全部同じ長さだ」 ブルネが書類を置いて、初めてこちらを見た。 「二十八件、数えたのか」 「数えた」 「何のために」 「合っていないから」 ブルネは規則集の背を指でなぞって、開かずに戻した。 「ソルグ。ここで働いて何年だ」 「三年」 「三年で四百件は多い。上限に近い年もあったはずだ」 「一昨年が近かった」 「近い者ほど、次の年の発注が減る。減ったら食えない。それだけ言っておく」 ネイは礼を言って窓口を離れた。階段を降りるとき、二階の掲示板に発注の紙が貼られていた。明日の分は四枠。ネイの名前はなかった。 夜、部屋に戻って写しを全部床に並べた。六十四枚。寝台を立てかけないと床が足りなかった。膝をついて端から見た。 十四時十二分の八件のほかにも、同じ形の並びがあった。 九時三十分開始が六件。十一時六分開始が五件。十六時四十四分開始が九件。 全部、三十八分だった。 一分の狂いもない。三年で二十八件、終了時刻から開始時刻を引くと、全部三十八になる。 普通の契約はそうならない。抜歯後疼痛は三時間半、分娩は四時間、骨折の整復は一時間十五分。医者が終われば終わる。だから半端な数字になる。 三十八分は半端ではない。決められた数字だ。 強度も見た。六が二十四件、七が三件、五が一件。 三十八分。強度六。番号は三つ飛び。 ネイは新しい紙に、一つの日付ごとに枠を描いた。枠の中に、その日の同じ時刻の契約を、番号順に並べた。 去年の十二月の二十日の枠には、121、124、127が入った。空いているところに線を引いた。 118、130、133、136。 テルサに聞けば埋まる番号もある。タリクに聞けば埋まる番号もある。埋まらないものは、名前も顔も知らない代痛人が持っている。 三十八分が並ぶ。並べていくと、一つの枠の中で時間が繋がっていく。 紙を切って、三十八と書いた札を八枚作った。床に横に並べた。 八枚で五時間四分になる。 一契約あたり連続四時間まで。規則の第四条。年間受痛上限は第五条。 一人には入らない長さが、八人には入る。 札を一枚どけて七枚にした。四時間二十六分。それでも四時間を超える。 六枚で三時間四十八分。ここで初めて第四条に収まる。 つまり、七枚以上並ぶ日は、一人では受けられない何かが、その日その時刻にあったということになる。 ネイは筆を止めて、蝋燭の芯を切った。二本目が短くなっていた。窓の外の荷船の音がやんでいた。 枠を数えた。三年で、番号が三つ飛びに並ぶ枠が二十五。枠に入る番号を全部足すと九十四になった。 七枚以上になる枠は三つだけだった。四枚以上まで下げると十四になる。四枚は二時間三十二分で、第四条には収まる。 収まっていても、同じ分に四人が同じ形を受けている。 十四の枠には、それぞれ日付がある。十一月に四つ、十二月に六つ、三月に一つ、あとは夏に三つ。 冬に寄っている。 ネイは床板を一枚外した。梁との間に指二本分の隙間がある。写しを二つに分け、半分をそこへ入れて板を戻し、上に寝台の脚を置いた。残りの半分は机に残した。 一枚だけ、机の上に置いた紙がある。十四の枠の日付を書き並べたものだ。 枠をもう一度端から数え直した。 去年の十二月の二十日、十四時十二分の枠は、番号が136で終わらなかった。139まで続いていた。 139を持っていた代痛人の名前を、ネイは知っていた。 ハルは受注のたびに番号を声に出す癖があった。読み上げないと桁を間違えるからだと言っていた。十二月の二十日、待機室の火鉢のいちばん近くで、足を組み替えながら、下三桁を二度読んだ。 百三十九、百三十九、と。 ハルだ。 ハルの帳簿は、あの日のうちに回収されている。袋ごと、総務のヴォートという男が肩に掛けて持っていった。 聞ける相手がいない番号が、枠の最後に一つある。 ネイは139の枠に線を引かず、番号だけを書いて、その下を空けた。空けた幅は、三十八分の札一枚分にした。 写しの余白に、持ち主のいない番号が一つ増えた。 第7章 オリガ・タン|黒喉 黒喉の飯場は四時に火を入れる。 オリガは麦を量る前に、木札の束を数えた。木札は掌ほどの大きさで、片面に焼き印がある。 「二百十四」 「昨日と同じ」ヤナが釜の下に薪を突っ込みながら言った。「昨日も二百十四」 「一昨日は」 「二百十一」 「三人増えてる。どこから来た」 「夜に着いた。荷馬車の後ろに乗ってた。三人とも同じ外套」 「名前は」 「聞いてない」 「聞くな」オリガは札を三枚、束から抜いた。「聞いたら覚える。覚えたら書きたくなる。書いたら公社の目に入る。札だけ渡せ」 ヤナが手を止めた。「札には何を彫るの」 「向こうが持ってる符牒をそのまま彫る。腕に入れ墨のある奴は入れ墨の形。何もない奴は自分で決めさせろ」 「決められなかったら」 「決めるまで飯を出さない。三分で決める」 麦は一杯につき二勺。汁は一杯につき椀に八分。オリガは二十年これでやってきた。 釜は四つある。一番大きい釜で六十人分。あとの三つで五十人分ずつ。四つ全部使って二百十人。 「足りない」ヤナが言った。「二百十四なら四人分足りない」 「一番の釜に水を一杯足す。それで六十四人分になる」 「薄くなる」 「薄くなる。四人分薄くするか、四人を立たせるか、どっちかだ」 「薄くするほうがいい」 「そう思うなら覚えとけ。ここの計算はいつもそれだ」 朝の配膳は四時半から六時まで。坑口へ入る組と、櫓の下で選鉱をする組で時間が違う。 札は朝に渡し、夕飯のときに返させる。返した札の数だけ椀を出す。 「なんでこんな面倒なことするの」ヤナが訊いた。三月前に来た娘で、まだ訊く。 「面倒なほうが数が合う」 「名簿を作ればいいのに」 「無登録の名簿は作れない。作った時点であたしが罰金だ。札は名簿じゃない。ただの木だ」 「木を数えてるだけってこと」 「そう」オリガは焼き印の鏝を火から抜いた。「木を数えてるだけだ」 五時。列ができる。 先頭は鉤の男だった。手首に鉤の形の傷がある。だから札にも鉤を彫ってある。 「鉤」オリガが呼ぶと、男が札を見せて椀を受け取った。 「二本線」 「欠け椀」 「三つ星」 「北の帽子」 符牒で呼ばれた者が椀を取り、腰を下ろす。誰も名前を言わない。 夜に着いた三人が列の後ろにいた。同じ外套で、袖の丈だけが違う。 「札を彫る。符牒を言え」 「符牒とは」いちばん背の高い男が言った。 「その辺の言葉でいい。あんたを他の奴と間違えないための言葉だ」 「名前ではだめなのか」 「名前は駄目だ」 「なぜ」 「あんたに登録がないからだ」オリガは鏝を火に戻した。「名前を紙に残すと、あんたが無登録でここにいる証拠になる。証拠が出たら、あんたが坑から追い出されて、あたしが罰金を払う」 男は少し黙った。「それなら、赤い縄でいい。ここへ来るとき縄を引いてきた」 「赤い縄。次」 「同じ縄だ」二番目が言った。 「同じは駄目だと言った」 「では、短い縄」 「短い縄。次」 三番目は口を利かなかった。指で自分の左耳を指した。耳が半分ない。 「耳」オリガは木に鏝を当てた。「今日からあんたは耳だ」 三枚彫って渡し、控えの札を壁の板に掛けた。板の釘は二百二十本ある。空いたままの釘が六本残った。 列の中ほどで札を持っていない男がいた。両手を出したまま立っている。 「札は」 「昨日、坑の中で落とした」 「どこの坑」 「第四」 オリガは新しい木を取って、鏝を当てた。「符牒を言え」 「三日月」 「昨日は」 「三日月だった」 「同じ符牒を彫ると、あんたが二人になる」オリガは鏝を戻した。「三日月に線を一本足す。今日からあんたは線付き三日月だ。分かったな」 男が頷いて椀を受け取った。オリガは板から三日月の控え札を外し、線付き三日月の札を同じ釘へ掛け直した。 「増やしたの」ヤナが訊いた。 「増やしてない。同じ釘だ。人が増えたわけじゃない」 六時に配膳が終わる。オリガは板の前に立って釘を数えた。 「二百十四」 「二百十四」ヤナが復唱した。 「書いておけ」 「どこに」 「麦の帳面の裏。日付と数だけ。文にするな」 十時四十一分に、地面が鳴った。 竈の湯が揺れて、灰が舞った。天井から粉が落ちてきて、汁の鍋に膜を作った。 オリガは鍋に蓋をしてから外へ出た。 櫓の下に、坑夫が集まっていた。巻き上げの綱が止まっている。 「どこだ」オリガは巻き上げ番のドウスに訊いた。 「第四の下だ。二段目の枝坑」 「時間は」 「今」 「今じゃない。時計を見ろ」 ドウスが櫓の柱に掛かった時計を見上げた。「四十一分。十時四十一分」 「書け」 「何を」 「日誌に書け。あんたの仕事だろう」オリガは腕を組んだ。「巻き上げ日誌には時刻を書く欄がある。空欄で出したら罰金だ」 ドウスがペンを取った。それから手を止めた。「昨日、代理から言われた。第四は閉坑扱いだから、日誌に書かなくていいと」 「何人入ってた」 「知らない」 「知らないってことがあるか。綱を上げ下げしたのはあんただろう」 「代理が数える。おれは綱だけだ」 三十分で綱が動いた。籠が上がってくる。 出てきたのは六人。全員が自分の足で降りた。誰も担架に乗っていない。 そのあと綱は二度上がって、二度とも空だった。 オリガは六人のうち、鉤の男の腕をつかんだ。膝から下が粉で白い。 「何が落ちた」 「天井だ。枝坑の入口から三十歩ばかり奥」 「どのくらい」 「壁一枚分」男は口の粉を吐いた。「音は一度きりだった」 「奥に人はいたか」 「いた」 「何人」 「数えてない。灯りが四つ見えた」 「灯りは一人に一つか」 「一人に一つだ。組で入るときは前と後ろに一つずつ足す」 「じゃあ四つなら」 「四人か、二人だ。組み方による」 「あんたはなぜ上がった」 「代理が笛を吹いた。三回吹いたら全員上がれの合図だ」 「奥に呼びかけたか」 「呼んだ。返事は聞こえなかった」 「石を退けたか」 「退けようとした。代理が止めた」 「まだ下に人がいるだろう」オリガはドウスの背中に言った。 「代理が閉めろと」 坑口に板が打たれた。板は二枚。釘は八本。 打ったのは坑夫ではなく、詰所から出てきた二人だった。外套に泥がなかった。 「どこの人だ」オリガはドウスに訊いた。 「先月から詰所に詰めてる。坑には降りない」 「名前は」 「呼んだことがない」 「あんたも符牒で呼ばれてるようなもんだな」 ドウスは日誌を閉じた。時刻の欄は空のままだった。 現場代理のハスクは、詰所の机の前で書類を書いていた。三十代の男で、袖に泥がない。 「第四で落盤があった」オリガは言った。 「落盤ではありません。支保の入れ替えです」 「地面が鳴った」 「入れ替えのときは鳴ります」 「六人しか出てこなかった」 「六人しか入っていませんでした」 「じゃあ聞くが」オリガは机に手をついた。「今日の名簿は何人だ」 ハスクが紙を裏返した。「登録坑夫は百九十名です」 「無登録は」 「無登録という区分はありません」 「あたしは今朝、二百十四杯出した」 「飯場の数え方は公社の統計と関係がありません」ハスクはペンを置かなかった。「明日の麦の請求書には百九十と書いてください。前もそうお願いしたはずです」 「百九十と書いたら、二十四人が飯を食えない」 「百九十と書けば、百九十人分の麦が届きます」 「二十四人分は」 「あなたが工夫しているのを知っています。だから今まで何も言わなかった」 オリガは請求書の綴りを取って、脇に挟んだ。 「テオは百九十と書けとは言わなかった」 「監督官テオは現在、職務を離れています」 「先月の九日からな。どこへ行った」 「本社の指示は聞いていません」 「テオはあたしに麦の追加を書いてくれた。二十四人分、雑役の名目でな」 「その処理は今後できません」 「先月の八日にはできた」 「先月の八日と今日では、様式が違います」 「様式が変わったのはいつだ」 「本社の通達によります」 「通達の日付は」 「手元にありません」 「あの男は帳面を持ち歩いてた」オリガは壁の釘を指した。テオの外套が掛かっていた釘だった。「外套も長靴も置いていってる。帳面だけない」 「私は帳面を見ていません」 「見てないものを、あんたはさっき机の引き出しへ入れた」 ハスクが引き出しに手を置いた。それから手を戻した。 「オリガさん。飯を作ってください。それがあなたの契約です」 昼過ぎに、灰晶の集荷が来た。 荷馬車の御者はヴィクという痩せた男で、月に六度この道を往復する。オリガは毎回、御者に茶を出す。 「箱はいくつだ」 「今日は十四。先週は九つ」 「増えてるな」 「南で入用らしい。手術の数が増えてるって話だ」 オリガは送り状を覗いた。箱の数と、封の番号と、受け取りの欄がある。 「怪我人の契約書は、あんたが運ぶのか」 「運ぶ。坑で怪我が出たら、契約書を櫓の詰所で書いて、おれが街の公社まで持っていく」 「今年、何枚運んだ」 「ここからか」ヴィクは茶を置いた。「一枚も運んでない」 「一枚も」 「別の飯場からは運んでる。西の砥石場は先月三枚あった。指と、足と、肩だ」 「黒喉からは」 「ゼロだ。おれは箱だけ積んで帰る」 オリガは湯を足した。「箱は増えて、契約書はゼロか」 「そういう年もある」ヴィクは立ち上がった。「おれは数を運ぶだけだ。数の中身は知らない」 夕食は六時から。 札が戻ってくる。オリガは返された札を左の桶へ落とし、椀を出す。 ヤナが桶の札を五枚ずつ束ねて板に並べた。 「二百六」 「もう一度」 「二百六。四十一束と、余りが一」 オリガは板の釘を見た。掛かったままの釘が八本ある。 「鉤は」 「戻ってる」 「線付き三日月」 「戻ってない」 「二本線」 「二本線は二人いる。太いほうが戻って、細いほうが戻ってない」 「北の帽子」 「戻ってない」 八本の釘に、札が掛かったまま残った。 オリガは湯を足して、椀を八つ分、鍋に残した。 八つを配膳台に並べた。匙も八本、椀の横に置いた。 「並べるの」ヤナが訊いた。 「並べる」 「誰も来ないのに」 「来ないと決めるのはあたしの仕事じゃない」 二時間置いた。汁の表面に膜が張った。誰も来なかった。 九時に火を落とした。 「捨てるの」ヤナが訊いた。 「明日の朝、粥に混ぜる。捨てない」 「戻らなかった人は、どこに行くの」 「病院なら公社の記録に載る。載れば麦の請求も通る」 「載ってないの」 「今年は一度も載ってない」 オリガは棚から布の巻きを出した。包帯だった。紐で縛った束が、ほとんど減っていない。 「先月の九日にこれを十二巻き受け取った」オリガは束を数えた。「使ったのは一巻き。指を挟んだ男に半分と、火傷に半分」 「怪我人が出ないなら、いいことじゃないの」 「坑で石が落ちて、怪我人が一人も出ないなんてことはない」 オリガは包帯を棚へ戻した。 「怪我をしたら痛がる。痛がったら公社の巡回が来て、契約を書いて、痛みを街へ送る。灰晶と一緒に荷馬車で送る。そういう仕組みだ」 「知ってる」 「なのに、ここでは誰も痛がらない。担架も出ない。血のついた布も出ない。人だけ減る」 ヤナが桶の中の札を見た。「痛みが来ない死に方ってこと」 「そんな死に方があるなら、あたしが見たい」 麦の帳面を開いた。裏の頁に、日付と数字が並んでいる。 先月の九日から今日まで、朝の数と夜の数を二列で書いてきた。 オリガは上から順に、朝の数と夜の数が食い違う行を拾った。三十五行を二度たどって、同じところで止まった。 「一」 「え」 「先月の九日から今日の朝までで、戻らなかった札が一枚」オリガはペンを置いた。「五週間で一枚だ。今日の八枚を足す」 「九」 「九」オリガは書いた。「木を九本、数えたってことだ。そのうち八本が今日出た」 「今日だけ多いってこと」 「五週間で一枚の場所で、一日に八枚だ。多いで済ませる数え方をあたしは知らない」 「その帳面、見つかったらどうなるの」 「麦の帳面は飯場の備品だ。麦のことしか書いてない」 「裏は」 「裏は麦の数の下書きだ。そう言う」 「通る」 「通らないかもしれん。そのときは罰金だ」オリガはペンを拭いた。「罰金なら払える。数えるのをやめたら、払うものがなくなる」 「意味が分からない」 「分からなくていい。あんたは札を五枚ずつ束ねてろ。束の数だけ間違えるな」 ヤナが板の前に立った。八本の釘に札が掛かったままだ。 「外していい」 「外すな。返しに来るかもしれん」 「来ないと思う」 「思うのは勝手だ。外すのは駄目だ」 オリガは請求書の綴りを開いて、明日の分を書いた。麦、二百十四人分。 書いてから、線を引いて消した。二百十四を二百六に直した。 「減らすの」ヤナが訊いた。 「八人は今日、食ってない。明日も食わないかもしれん。食いに来たら一番の釜に水を足す」 「じゃあ二百十四のままでいいじゃない」 「請求書は食った数を書く紙だ。あたしの帳面は、いた数を書く紙だ。二つは別だ」 数字の下にもう一行書いた。うち十六名、公社名簿外。 「二十四じゃないの」 「二十四のうち八人が戻ってない」オリガはペンを置いた。「引き算はできるだろう」 朝、荷馬車が櫓の下に並んだ。灰晶の箱を積む馬車だ。 先週まではずっと二台だった。今朝は三台出ていった。 第8章 ネイ・ソルグ|取引 ネイは午後二時四十分に公社北棟の第三受付に着いた。 窓口の掛札は「記帳・訂正」。前に四人並んでいた。 順番までに三十一分かかった。ネイは手帳に到着時刻と列の人数を書いた。 「様式十二号を」 「用途は」 「記帳内容の訂正申請」 係員は棚から紙を抜いた。罫線が細かく、記入欄は十九ある。 「訂正するのは強度か、時刻か」 「病名欄」 係員の手が止まった。 「病名は契約医が書く。代痛人が触る欄ではない」 「触るとは言っていない。齟齬があると申請する」 「齟齬の判定は査定官の職掌だ」 「だから様式十二号を出す」 係員はペン先を紙に置いたまま、三秒黙った。 「手数料は銀貨二枚。受理されなくても戻らない」 「払う」 ネイは硬貨を出した。台の上で二枚が鳴った。 記入には十四分かかった。契約番号、受痛日、開始と終了、帳簿番号4419。 病名欄には「胆石発作」と書いた。訂正欄には「該当せず」とだけ書いた。 「理由の記述が要る」 「痛みの形が胆石ではない」 「形という項目はこの様式に無い」 「無い欄に書けとは言われていない。理由欄に書く」 ネイは理由欄に六行書いた。背部、貫通、規則的、四回、間隔十一秒、呼吸と無関係。 係員は読んでから、上の棚に回した。 「控えを」 「控えは受理後に出る。不受理なら出ない」 「不受理でも申請した事実は残るのか」 「来訪簿に残る。申請書そのものは廃棄だ」 「廃棄の期限は」 「六十日」 ネイは手帳に書いた。不受理の申請書、六十日で廃棄。来訪簿は残る。 「担当査定官が呼ぶ。座って待て」 長椅子は十二席。ネイは端に座り、通る人間を数えた。 三時十一分から四時六分までに、廊下を三十九人が通った。うち十一人が代痛人の外套を着ていた。 十一人のうち七人は帳簿を手に持っていた。四人は持っていなかった。 ネイは持っていない四人の顔を覚えて、外套の袖口の擦れ方を書いた。二人は右袖だけ擦れていた。寝台で右を下にして四時間置かれた者の擦れ方だ。 四時七分、名前が呼ばれた。面談室四番。 机は一つ。椅子は二つ。窓は無い。灯りは油ではなく灰晶灯だった。 カイム・ヴェスは先に座っていた。前に台帳を三冊積んでいる。 「帳簿を」 ネイは帳簿を机に置いた。カイムは背表紙の番号を見て、開かずに手を離した。 「四四一九。今月の九日に、私の卓で点検して返した番号だ。第二種、高耐性、年間受痛上限は二百四十時間。今年の消化は百六十一時間」 「百六十三」 「先週の二時間はまだ未処理だ。処理されるまで数字は動かない」 「動かなくても、受けた」 「私が扱うのは数字のほうだ」 カイムは様式十二号を広げた。指で三か所を叩いた。 「不備が三つある。一つ、申請者は契約医または契約当事者に限る。代痛人は当事者に含まれない」 「四時間受けたのは私だ」 「受痛者は契約の目的物だ。当事者ではない。二つ、訂正対象は数値欄に限る。病名欄は診断であって記帳ではない」 「目的物」 「用語だ。私が作った語ではない。契約法規の第二編にそう書いてある」 「第二編の何条」 「十四条の二。目的物の同意は契約成立の要件に含まれない」 「同意書には署名した」 「あれは受領証だ。同意欄は第三欄で、署名欄は第七欄にある。あなたが書いたのは第七欄だ」 ネイは手帳を開いた。十四条の二、と書いた。 「三つ目は」 「理由欄に書けるのは、公社が定義した語だけだ。鋭い、鈍い、灼ける、絞る、その他。四十一語ある。あなたが書いた六行のうち、定義語は二つだけだ」 「規則的、は無いのか」 「無い」 「間隔も無いのか」 「無い」 ネイは手帳を開いて、そこに書き足した。定義語四十一。規則的は含まれず。 カイムがその手元を見た。 「それは何だ」 「私物の手帳」 「帳簿の内容を書き写しているなら、窃盗罪の構成要件に触れる」 「書いているのは、書けなかったことだ」 カイムはペンを置いた。指を組んだ。 「では聞き方を変える。四回というのは、四回とも同じ強さだったか」 「一回目だけ弱い。六、八、八、九」 「間隔は」 「脈で二十二、二十二、二十三。秒に直せば、どれも十一秒だ」 「呼吸に合っていたか」 「合っていない。私の呼吸は十四秒に一往復まで落ちていた」 「体位は」 「仰臥。左側臥に変えても形は変わらなかった」 「立ち上がりは」 「無い。ゼロから頂まで一息で来た。胆石は登る。あれは登らなかった」 「消えかたは」 「同じ。頂から無音まで一息。四回とも同じ形で消えた」 「発汗は」 「二回目のあとに背中だけ。掌には出ていない」 「音は聞こえたか」 「音の話は帳簿に無い」 「今は帳簿の話をしていない」 「一度だけ、耳の奥で二回鳴った。骨を伝う種類の音だ」 「灰晶の量は」 「秤の目盛りで五・〇。胆石発作の通常量は三・二だ」 カイムは初めて手を動かした。積んだ台帳の二冊目を引き寄せ、指で三枚めくって、また閉じた。 「胆石は間隔を持たない。石が管を塞げば痛みは波で、十一秒で四回きれいに並ぶことはない」 「知っている」 「知っていて何を申請しに来た」 「あなたが今言ったことを、公社の紙に書かせに来た」 カイムは椅子の背に体を戻した。 「書かない」 「元軍医だと聞いた」 「十四年。野戦の外科で、砲撃の傷を千二百件見た。それが何か」 「胆石でないなら何か、あなたには言えるはずだ」 「言えることと、書けることは違う」 「同じ紙の上でも違うのか」 「紙のほうに欄が無いからだ」 ネイは帳簿を開き、指を三か所に置いた。 「二月十一日、午前十時四十分開始。同じ日、同じ時刻の契約が、私のほかに五件ある」 「なぜ他人の契約を知っている」 「同じ待合で名前を呼ばれる。契約番号の末尾も読み上げられる。四七一から四八六まで、三つ飛びだった」 「読み上げは受付の運用だ。記録ではない」 「六人とも記帳を見せた。形は全員同じだった。背中、規則的、四回」 カイムは指を組み直した。 「見せた側は守秘義務違反だ。六人分の免許停止を作りたいのか」 「作りたくない。だから紙にしていない」 「今それを口にした時点で、私は報告義務を負う」 「負うのか」 「負う。報告する義務であって、報告する期限は書かれていない」 ネイは手帳に書いた。期限の定めなし。 「一件に入っていた塊の数を数えた。六人とも三つずつ、一つが十二分だ」 「十二分」 「十二分が三つで三十六分。六人で十八ある。私の四時間契約に入っていたのも、その三つだ」 「塊という語も定義に無い」 「単位、と言い換えていい。単位は十二分。それが動かない」 「六人は同時に始めたのか、順に始めたのか」 「同時。開始時刻は六人とも十時四十分」 「終了は」 「六人とも十四時四十分。契約の上限どおりだ」 「四時間の契約の中で、実際に痛みが入っていたのは三十六分だけということか」 「三十六分だ。残りの三時間二十四分は、寝台に寝ていただけだ」 「報酬は」 「四時間分。減額は無い」 「減額されない理由を考えたことは」 「ある。塊が余った日のために、枠を広く取っている」 カイムは黙った。壁の灰晶灯が一度暗くなり、また戻った。 「あなたの言っていることは、規則の穴としては筋が通る」 「では」 「では、で続く話ではない。私が動くとどうなるかを言う」 カイムは指を一本立てた。 「一、私が訂正を受理すれば、その契約の契約医が虚偽記載で調査対象になる。名前は分かっている。第四区の勤務医で、六十一歳。彼は書いた通りに書いただけだ」 二本目。 「二、六人の記帳の突き合わせを正式に始めれば、突き合わせの根拠として彼らの帳簿を押収する。押収された帳簿は当人に返らないことがある」 三本目。 「三、あなたの写しが出る。帳簿は公社の所有物だ。写しの所持は複製であって、規則上は持ち出しと同じに扱われる」 「四つ目は無いのか」 「四つ目は私の話だ。査定官が様式外の照合を始めた場合、照合の対象になるのは査定官自身の過去の決裁だ。私は九年で一万一千件を通している」 「そのうち何件が同じ形だったかは、あなたにも分からないのか」 「分からない。数えていない」 「数えられるはずだ。台帳はそこにある」 「数えた者が、数えた責任を負う」 ネイは手帳に書いた。一万一千件。九年。未計数。 「私が罰を受けるのは構わない」 「構う。あなたが免許を失えば、この件を語れる人間がいなくなる。私は語れない。私は査定官で、様式の外を見ない」 「見ないと決めているだけだ」 「そうだ。決めている」 ネイは膝の上で手帳を閉じた。 「取引をしたい」 「何を差し出す」 「今年の残り受痛枠。七十九時間ある。第二種の高耐性は待ち枠が長い。公社にとっては使える」 「あなたの枠は既に公社のものだ。差し出す先が無い」 「報酬を返す。今年の受領分、銀貨百八十六枚」 「返還金は雑収入に入る。私の裁量が及ぶ勘定ではない」 「では証言する。審査会でも、どこでも」 「証言は証拠を持つ者が呼ぶ。あなたが持っているのは、あなたの体で受けた形だけだ。形に単位は無い。強度の八は、あなたの八であって、他人の八ではない」 「帳簿には八と書いてある」 「書いたのはあなただ」 「では情報を出す。誰がどの日に何を受けたか、三年分ある」 「三年分」 「四百十二件。全部、形まで書いてある」 「それは公社の帳簿の中身だ。公社が既に持っている」 「公社の帳簿には形が書かれていない。定義語四十一のどれかに丸がついているだけだ」 「丸で足りると決めたのが公社だ。足りないと言うのは、あなたと私の二人だけだ」 「二人いれば足りる」 「足りない。二人のうち一人が、扱わないと言っている」 ネイは机の縁に指を置いた。 「あなたには家族がいるのか」 「その質問は様式に無い」 「無い欄には書かないという話だった。聞くのは別だ」 「聞いても、答えは同じ場所から出る」 カイムは台帳の一冊目を左に寄せた。表紙に十一月の月表がある。二か所に印がついていた。 「話を戻す。あなたが差し出せるものは三つあった。枠と金と証言だ。三つとも公社が既に持っているか、公社が値をつけない。つまり、あなたには私に払えるものが無い」 「無いことは分かった」 「分かったなら、これは取引ではない」 「では何だ」 「陳情だ。陳情は受付で受ける。ここではない」 ネイは帳簿の表紙に手を置いた。表紙の隅に、指で撫でて薄くなった箇所がある。 「ハルの帳簿は」 カイムの動きが止まった。四秒。 「番号は」 「四五五一」 「回収済みだ」 「誰が回収したか」 「総務の所管だ。査定の系統ではない」 「指示書は査定を通るはずだ」 「通ることもある」 「通ったか」 「答える立場にない」 「立場の話をしていない。見たかどうかを聞いている」 「回収は死亡の翌日以降と決まっている。整理に一日かかるからだ」 「ハルの帳簿は当日の夕方に運び出された。五時前だ。私は隣室にいた」 「隣室にいたなら、あなたは事故の関係者だ。関係者の申し立ては別様式になる」 「別様式の番号は」 「二十七号。ただし、事故の認定が先に要る。認定が出ていない事案に二十七号は起票できない」 「認定はいつ出る」 「出ていない」 「出ないのか、まだ出ていないのか」 カイムは台帳の三冊目に手を置いた。開かなかった。 「私はあなたの申請を扱っている。それ以外は扱っていない」 ネイは手帳に書いた。回収は総務。指示書の系統は不明。四秒。 「もう一つ聞く」 「どうぞ」 「病名欄の訂正を出せるのは誰だ」 「契約医。契約者本人。それから、供給元だ」 「供給元」 「灰晶の。触媒の産地と等級が契約と合わない場合、供給元は記載の訂正を求められる。年に二、三件ある」 「供給元というのは、掘る側か、売る側か」 「入荷記録に判が押される側だ。産地の等級証明を出す者を指す」 「北の鉱山から来たものにも証明はつくのか」 「つく決まりだ」 「決まりだ、というのは、ついていない場合があるということか」 カイムは答えなかった。台帳の角を指で二度叩いた。 「様式十二号は不受理とする。理由は申請適格の欠如」 「手数料は」 「戻らない。最初に説明を受けたはずだ」 「受けた」 ネイは立った。椅子の脚が石床で鳴った。 「一つだけ言っておく」 カイムは座ったまま言った。 「あなたが今日ここに来た記録は残る。来訪簿に名前と時刻がある。次に何かが起きたとき、その紙はあなたの側には立たない」 「知っている。私は記録が残る仕事をしている」 ネイは帳簿を懐に入れ、様式十二号を折りたたんだ。受理印は無い。 扉に手をかけたところで、後ろで紙の音がした。 カイムが上着の内側から別の手帳を出していた。公社の支給品ではない。表紙の角が擦れて白くなっている。 「十一秒」 そう言いながら書いた。書いた場所は、様式十二号ではなかった。 ネイは面談室を出た。廊下の掛時計は四時五十八分。 自分の手帳に書いた。査定官カイム・ヴェス。私物の手帳。十一秒。 その下に、もう一行足した。北の灰晶。答えなかった。 第9章 カイム・ヴェス|採番 十一月二十一日、八時十分。机の上に箱は無かった。指示書が一通だけ、伏せて置いてある。 カイムは裏返した。甲十二号、回収番号二二八。右下に公社印。発行者署名の欄は、昨日と同じく印刷されていない。 「リーサ。この用紙の刷り番号を読んでくれ」 「左下、ケ四七の三です」 「昨日までの綴りは」 「ケ四七の二。棚に三十枚あります」 「二と三のあいだで、欄が一つ消えた」 「版を替えたのだと思います」 「版を替えても、裏面の条文は刷り直す。第百四条は残っているか」 リーサは紙を窓へ向けた。 「残っています。裏面の三行目。署名をもって効力を生じる」 「署名する場所の無い紙に、署名をもって効力を生じると刷ってある」 「印刷所へ照会しますか」 「ケルド印刷。版下の差し替え日と、注文票の注文者欄。二つだけでいい」 リーサは九時十五分に戻ってきた。 「差し替えは十一月十二日。注文者の欄は空白でした。受け取りは総務の使いです」 「注文票の控えは」 「印刷所には残っています。写しはもらえません。公社の書類だからと」 「公社の書類だが、公社の誰かは書いていない」 「同じですね。指示書と」 カイムは付箋に日付と刷り番号を書き、綴りに挟んだ。 「紙を追うのはやめる」 「やめるのですか」 「名前の欄を消せる者を、名前の欄から探しても出てこない。番号を追う」 「どの番号ですか」 「契約番号だ。規程集の附表を出してくれ。第三」 附表第三は、規程集の巻末から二枚目にある。二十二行しかない。 契約番号は五桁とする。上二桁は起票区の符号、下三桁は当該区の月別通し番号とする。 通し番号が九百九十九に達したときは、以後の起票を翌区へ繰る。 カイムは二度読んだ。それから、決裁済みの控え綴りを卓に積んだ。三年分で十一冊ある。 「リーサ。手を貸してくれるか。三時間かかる」 「差し戻しの返送が二十件残っています」 「返送は昼までに私が書く。君は数字だけ見てくれ」 「何を数えます」 「桁だ。契約番号の桁数だけを見る。五桁は左、六桁は右、七桁以上はこの木箱へ」 「病名も日付も見ないのですか」 「今は見ない。見ると病名で分類したくなる」 「病名で分類してはいけないのですか」 「分類すると、病名の側から説明が出てくる。腹の病気だから量が多い、というふうに。説明が出ると数えるのをやめる」 「桁なら説明が出ない、と」 「桁は説明を持たない。だから先に数える」 リーサは椅子を引いて、一冊目を開いた。 十時から十二時四十分まで、二人は紙をめくった。カイムは返送の理由欄を並行して書いた。ペンを二本使い、片方を左手に持ち替えるたびに数を声に出した。 十二時四十分に、リーサが最後の綴りを閉じた。 「五桁が二千九百四十一件。六桁が二百三十一件。七桁が十九件」 「二百三十一」 「私の数え落としが混じっているかもしれません」 「六桁の分だけ、番号を書き出してくれ。日付を添えて」 「二百三十一件を、ですか」 「今日は四十件でいい。日付の新しいほうから」 リーサが紙を替えた。カイムは六桁の一件目を声に出した。 「八一一〇四七」 「六桁ですね」 「これを君はどう読む」 「上二桁が八一。下三桁が〇四七。真ん中の一が余ります」 「私は九年、余った一を通し番号の側に入れて読んでいた。八一の区で、通しが一〇四七まで伸びたのだと」 「附表では九百九十九で翌区へ繰るとあります」 「そうだ。四桁の通し番号は存在しない」 「では、真ん中の一は何ですか」 「分からない。分からないものを九年通した」 リーサはペンを持ったまま動かなかった。 「査定の点検項目に、桁数はありません」 「無い。私も無いことを理由に見なかった」 十三時十分、カイムは西棟へ渡った。中庭の敷石が濡れていて、靴音が鈍い。 資材課は一階の奥にある。台帳の棚が四列、その先に秤の卓。主任のヨナス・フェルドは五十一歳で、指の腹が灰色に染まっている。 「査定官が資材へ来るのは、量目の照会ですか」 「入荷簿を見たい。灰晶の」 「甲十九号です。月ごとに一冊。三年分なら三十六冊」 「北方の分だけでいい」 フェルドは棚の下段から、細い綴りを三冊抜いた。 「北方は別綴りです。量が違いますから」 「量が違うとは」 「南の再生品は月に十六樽来ます。一樽で十二キログラム。北方は月に二度、一度に一箱。封をしたまま正味百グラム」 「二百グラムで、契約は何件回る」 「うちは件数を持ちません。持つのは重さだけです。平均が三グラムなら、六十件から七十件でしょう」 「月に七十件。三年で二千五百件前後になる」 「重さから出す数字はそうなります。実際に何件書かれたかは知りません」 「南の樽と北の箱は、同じ棚か」 「別です。樽は床置き、箱は鍵付きの戸棚です。鍵は秤量室が持っています」 「北方の荷に番号はつくか」 「荷口番号です。一から九で回します。九の次は一に戻ります」 「直近の三つを」 フェルドは綴りを繰った。 「十月二十日着が荷口一。十一月六日着が荷口二。十一月二十日着が荷口三。二十日の分は昨日、秤量室へ出しました」 「産地の等級証明は」 「北方の分だけ、証明書の番号欄が空です。代、と書いてあります」 「代とは」 「代理証明。掘った側の証明が間に合わないときに、公社が仮に発行するものです」 「三年分で、代でないものは何件ある」 フェルドは三冊を最後まで繰った。指が止まったのは一度だけだった。 「ありません。七十二回すべて代です」 「七十二回すべて仮なら、それは仮ではない」 「私は重さを量る係です。字の意味は査定官の側でしょう」 カイムは入荷簿の写しを求めた。フェルドは複写の申請書を出し、印を押す欄を指した。 「持ち出しは駄目です。ここで写すなら構いません」 カイムは卓の端を借り、日付と荷口番号だけを写した。七十二行。二十分かかった。 「フェルドさん。北方の荷が来た日と、来なかった日を分けたいのですが」 「来なかった月はありません。三年、一度も欠けていません」 「北の峠は、冬は雪で塞がる」 「塞がります。それでも来ます。二月も来ました」 「箱を開けたことは」 「秤量室が開けます。私は封のまま重さを見るだけです」 「封の蝋は誰のものだ」 「黒喉の現場印です。監督官の名が彫ってあります。テオという名で、三年間同じ印です」 十四時十分、カイムは自席に戻った。リーサが四十件の書き出しを卓に置いていた。 カイムは写してきた七十二行を左に、四十件の番号を右に並べた。 十一月二十日以降に起票された六桁は九件。真ん中の桁は、九件とも三だった。 十一月六日から十九日までは十四件。真ん中は十四件とも二。 十月二十日から十一月五日までは十七件。十七件とも一。 「リーサ。荷口番号を読み上げる。十月二十日着が一、十一月六日着が二、十一月二十日着が三」 「番号の真ん中と同じです」 「同じだ」 「偶然ということは」 「四十件のうち四十件が偶然にはならない」 「境目はどうですか。十一月六日に起票された分は、一と二のどちらですか」 カイムは行を指で追った。 「六日は三件ある。午前が二件で一、午後が一件で二」 「荷が着いた時刻で切れているのですね」 「入荷簿を見ろ。六日の着荷は十一時四十分だ」 「午前の二件は十時台です」 「着く前と着いた後で分かれている。番号は荷を見てから振られている」 リーサは書き出しの紙を裏返し、余白に線を引いた。 「では、六桁の番号は、こう読むのですね。上二桁が起票区。次の一桁が灰晶の荷口。下三桁が通し番号」 「そうなる。附表に無い桁が一つ挟まっている」 「附表に無い桁を、誰が挟んだのですか」 「採番は記録課の職掌だ。だが職掌は誰が挟んだかを答えない。挟む場所を持っているだけだ」 「七桁以上の十九件は」 カイムは木箱を引き寄せ、上の一枚を取った。 「〇七の二二五一の〇八」 「八桁ですね」 「上二桁が〇七。次が二。通しが二五一。末尾に〇八が付く」 「末尾の二桁は何ですか」 「附表に定義が無い。枝番の規定はどの版にも入っていない」 「順番でしょうか。八番目の何か」 「そう読める。読めるだけだ。八番目の何かが何なのかは、この紙には書いていない」 カイムはその一枚を裏返し、木箱に戻した。番号は帳簿四五五一の最終契約のものだった。 十五時、記録課へ降りた。ドランは棚の前にいた。 「採番の内規はどこにある」 「附表第三です」 「附表に無い桁の話をしている」 「桁の話は聞いたことがありません」 「六桁の契約を、あなたは何と読んでいる」 「通しが伸びたのだと」 「附表は九百九十九で翌区へ繰ると書いてある」 ドランは棚に手をついた。 「では、伸びていないことになりますね」 「あなたは何年ここにいる」 「十四年です」 「私は九年だ。二人で二十三年、同じ桁を見ていた」 「見て、通していました」 「そうだ」 「桁を数えた者はいますか。この十四年で」 「いない」 「では、誰も見なかったものを、あなた一人が今日見たことになります」 「見たのではない。数えただけだ」 「同じことでしょう」 「違う。見るのは一件ずつだ。数えるのは全部だ。私は九年で一万一千件を通した。そのうち六桁が何件かを、今日まで知らなかった」 「今日は分かったのですか」 「三年分で二百三十一件だ。残りの六年は数えていない」 ドランは棚から採番簿を出し、開かずに卓へ置いた。 「採番は窓口が振るのではありません。番号は上から札で降りてきます。窓口はその札を貼るだけです」 「札は誰が刷る」 「総務です。刷り番号はケ四七」 「同じ印刷所か」 「同じです」 「札は何枚ずつ降りてくる」 「月の初めに束で。数えたことはありません」 「数えていないものを、あなたは毎日貼っている」 「貼るのが職掌です」 十五時三十分、秤量室へ回った。 懲戒の処分はまだ出ていない。カレルは秤の前に立っていた。天秤は真鍮で、皿が二枚。壁際に樽が並び、その奥に鍵付きの戸棚がある。 「査定官が量目を見に来るのは、書き換えの件ですか」 「量は見ない。どの箱から量るかを聞きに来た」 カレルは布で指を拭いた。 「札で決まります。契約札の右上に穴が一つ開いているものは、戸棚のほうから量ります」 「穴の無い札は」 「床の樽です。南の再生品」 「穴を開けるのは誰だ」 「札が降りてくる時点で開いています。私は見て分けるだけです」 「穴のある札は、月に何枚来る」 「六十から七十。多い月で八十」 「指定量に差はあるか」 「あります。穴のある札は、同じ病名でも多いです。胆石で三・二のところが、五・〇と書いてある」 「理由は書いてあるか」 「書いてありません。私は書いてある数まで量ります」 「余った分は」 「余りません。使い切る指定です。器に全部落とせと」 「使い切らなかった日は」 「無いです。三年、一度も」 カイムは戸棚の錠を見た。鍵穴は新しい。 「この錠はいつ替えた」 「去年の春です。前のは私でも開けられたので」 「今は誰が開ける」 「私です。ただし、開ける日は札で指定されます」 「指定は誰から降りる」 「札からです」 「札は人ではない」 「私のところまで降りてくると、札です」 カイムは礼を言って出た。廊下の灰晶灯が一つ切れていた。 十六時、カイムは自席で二本目のペンを置いた。 手帳を出した。私物のほうを出した。角の擦れた表紙を開き、新しい頁に縦線を一本引いた。左に日付、右に桁数。 上から順に書いた。三年分の六桁が二百三十一件。七桁以上が十九件。北方の入荷が七十二回。等級証明はすべて代。 書いてから、引き出しの三段目を開けた。 聖ドーラ施療院の請求書の控えが束ねてある。エナ・ヴェス、九歳。移痛手術費。過去四回分。 請求書には契約番号が印字されている。カイムは四枚を並べた。 四四二一〇六。四四一〇八八。四四三〇一四。四四二二三七。 四枚とも六桁だった。真ん中の桁は、二、一、三、二。 彼は写してきた七十二行を引き寄せ、手術日と荷口の日付を突き合わせた。四枚とも、直前に着いた北方の荷の番号と一致した。 請求書の裏に、灰晶の使用量が刷ってある。四回分で、三・八、四・一、三・八、四・四。 規程では、小児の骨切りは第二種で二時間半。指定量は二・六から三・〇の幅に入る。 四回とも幅の外にある。四回とも、査定を通っている。 通した査定官の欄を見た。二回はドラン、一回は隣の卓のマウレ、一回は空欄で、印だけが押してあった。 カイムは四枚を伏せ、上に紙押さえを置いた。 十六時四十分、受話台へ行った。 「ヴェスです。二十五日の手術の契約番号を教えてください」 「まだ採られていません」 「いつ採ります」 「当日の朝です。灰晶の秤量が済んでからになります」 カイムは受話器を戻した。 手帳の頁に戻り、いちばん下の行に日付を書いた。十一月二十五日、エナ・ヴェス。 桁数の欄は、空けておいた。 第10章 オリガ・タン|坑内 十一月二十日。朝の札は二百一枚だった。 「昨日は二百五」ヤナが板の釘を指で追った。「四枚減ってる」 「板から外したか」 「外してない。言われた通り、掛けたままにしてる」 「掛かってる釘を数えろ」 「十二本」 オリガは麦の帳面の裏を開いた。先月九日からの二列に、新しい行を足した。 「十四」 「昨日は十枚だった」 「今日の四つを足して十四だ」オリガはペンを拭いた。「昼の配食を出す」 「深切羽の分? 二週間出してない」 「今日は出す」 「代理が止めたでしょ」 「代理は止められない」 オリガは棚の抽斗から紙を出した。四つ折りにして、角が丸くなっている。 「坑内配食許可証、第七号」ヤナが読んだ。「四月一日発行」 「有効期限を読め」 「年度末まで。署名は監督官テオ」 「許可を出したのは監督官だ。取り消せるのも監督官だ」オリガは紙を胸に入れた。「代理は監督官じゃない」 「テオさんがいないのに」 「いないから取り消されてない」 椀を三十六人分、二段の木枠に積んだ。汁は別の桶に入れて蓋を縛る。匙は三十六本。 「匙は何本ある」 「棚に八十九本」 「数え直せ」 「八十九。昨日も八十九」 「一昨日は」 「九十二」 「三本どこへ行った」 「坑に持って降りたんだと思う。時々ある」 「持って降りたなら、戻る」オリガは桶の蓋を縛った。「戻ってない匙も数えろ。麦の帳面の裏、右の端でいい」 櫓の下でドウスが綱の油を差していた。 「降りる」 「誰が」 「あたしだ。配食の許可証がある」 「代理に聞いてない」 「聞かなくていい紙だ」オリガは許可証を広げて、ドウスの目の高さに持った。「番号を日誌に書け。第七号、十時七分、籠一。書かないと綱を動かした記録がなくなる」 ドウスはペンを取った。今度は止まらなかった。 「二段目までだ。三段目は今日は組が入ってない」 「三段目に風道があるだろう」 「ある」 「風道は誰の管轄だ」 「誰のでもない。風は坑夫が通す」 籠は三分半かけて下りた。壁の岩が明るい灰から黒へ変わる。途中で二度、水が落ちてきて肩を濡らした。 二段目の坑底は狭かった。天井まで背丈の一つ半。梯子が四十段、次の段へ下りている。 灯りは壁の窪みに置く。窪みは五歩おきに掘ってある。 「切羽はいくつだ」オリガは案内に立った男に訊いた。手首に鉤の傷がある。 「二段目に七つ。今日入ってるのは六つ」 「一つは」 「第四だ」 「入ってないのに、なぜ数に入れる」 「切羽は切羽だ。閉めても消えない」 配食は切羽ごとにやる。オリガは木枠を下ろし、椀を配りながら頭を数えた。 一の切羽、五人。二、四人。三、六人。四、五人。五、四人。六、七人。 「三十一」オリガは指を折った。「持ってきたのは三十六だ」 「五つ余る」鉤が言った。 「余らせない。三段目の風道に人が入ってると聞いた」 「誰から」 「あんたから今聞いた。誰のでもないと言った」 鉤は椀の縁を舐めてから、灯りを取った。 「一つ数えさせろ」オリガは椀の空を積みながら言った。「二段目に三十一。三段目に何人入る」 「風道に四、五人だ。日による」 「一段目は」 「一段目は選鉱だ。坑の中には入らない。櫓の下で八十人ばかり」 「櫓の下は今朝、七十四人分の椀を出した」 「なら七十四だ」 「二段目三十一、三段目五、櫓七十四で百十だ」オリガは指を止めた。「今朝の札は二百一枚だった」 「残りは夜番だ。夜番は日暮れから入る」 「夜番は何人だ」 「組頭が数える。おれは知らん」 「代理は登録坑夫が百九十だと言った」 「言うだろうな」 「百九十のうち、坑に降りるのは何人だ」 「降りる奴は決まってる。降りない奴も百九十に入ってる」鉤は灯りを持ち直した。「詰所の連中も入ってるかもしれん」 「詰所は坑夫か」 「坑には降りない。おれは降りたのを一度見た。一昨日の夜だ」 切羽の壁には白い印が付いていた。石灰の塊で描いてある。丸、二本線、鉤、欠け椀。 「これは何だ」 「その日そこで掘る奴の符牒だ。組頭が朝に書く」 「消すのか」 「次の日、上から書き足す。消さない。消したら誰が掘ったか分からなくなる」 「分からなくて困るのか」 「賃金が組払いだ。掘った量を符牒ごとに割る。だから壁が帳面だ」 オリガは灯りを近づけた。丸の上に丸が重なり、その上に線が三本引かれている。層になっていた。 「一番下の印はいつのだ」 「知らない。壁は誰も洗わない」 三段目へ下りる梯子は濡れていた。四十段のうち、下から七段が水に浸かっている。 「深いか」 「膝までだ」 風道は横に細い。腰を折らないと通れない。二十歩ばかりで広がって、板が見えた。 板は二枚。釘は八本。上から新しい板が一枚、斜めに打ち足してある。釘は四本。 「打ち足したのは」 「さっき言った連中だ。一昨日の夜」 「夜に降りたのか」 「降りた。籠は使わなかった。西の古い斜坑から入った」 「見たのか」 「斜坑の口に灯りが二つ動いてた。おれは風道の詰めで残ってた」 「何時だ」 「知らん。夜番が入って、しばらくしてからだ」 「しばらくとは」 「椀を二度洗うくらい」 「一度は」 「四半刻だ。だから半刻だな」 「斜坑は使えるのか」 「使える。急だが歩ける。荷を担いで登るのはきつい」 「下ろすのは」 「下ろすのは楽だ。綱で滑らせられる」 オリガは板の下端に手を入れた。板と岩の間に、掌が二枚分入る隙間があった。 「向こうが見えるか」 「灯りを寝かせれば見える」 灯りを横にして隙間へ差し入れた。奥に石の堆積が見えた。天井から落ちた形のまま積んである部分と、脇へ寄せてある部分がある。 「石が寄せてある」 「寄せた」 「誰が」 「おれたちじゃない。代理が止めた日から、坑夫は誰も入ってない」 「石を寄せると通れるのか」 「三十歩の奥までは通れる。その先はまだ塞がってる」 オリガは隙間から腕を入れた。指が布に触れた。 引き出したのは靴だった。左の一つ。 「これは坑内支給か」 「支給は底に鋲が七つ入る。これは五つだ。私物だ」 「私物は自分で買うのか」 「街で買うか、死んだ奴のを履く」 オリガは靴の中に指を入れた。爪先に布が詰めてあった。丸めた麻布が二つ。 「寸法が合ってない」 「合う靴を選べる奴はいない」 隙間からもう一度腕を入れた。二つ目、三つ目が出た。四つ目は右だった。 腕の届く範囲を、右から左へ順に浚った。三十分かかった。 出たものを板の上に並べる。 靴、片方だけが九つ。うち右が四つ、左が五つ。並べ替えて、対になったのは三組。 「三組と、余りが三つ」ヤナに言うつもりで口に出したが、そこにいるのは鉤だった。 「余りの三つは奥にある」鉤が言った。 「奥に足があるということだ」 「そう言うのはやめてくれ」 「言わないと数が合わない」 匙が出た。十一本。柄が曲がっているのが四本、真っ直ぐが七本。 オリガは一本ずつ柄の先を見た。 「うちの匙は柄の先に穴がある。紐を通して腰に下げる」 十本には穴があった。 十一本目には穴がなかった。柄が短く、先が平たい。裏に小さな刻印がある。 「これは違う」 「見せてくれ」鉤が灯りを寄せた。「うちのじゃない。飯場の匙じゃない」 「どこの匙だ」 「分からん。刻印がある匙は坑では見たことがない」 オリガは匙を布に包んで、袋の底に入れた。 木札が出た。四枚。焼き印は読めた。 線付き三日月。細い二本線。北の帽子。三つ星。 「四枚だ」 「板には十二本掛かってる」 「なら残りの八人分の札は、まだ奥にあるか、持ったままだ」 もう一度腕を入れた。指が硬いものに当たった。木の角だった。 引き寄せると箱が出た。空だった。蓋が外れていて、内側に藁が残っている。 「灰晶の箱か」 「形は同じだ。だが灰晶の箱は封をして上げる。下ろす箱じゃない」 蓋の裏に番号が焼いてあった。オリガは灯りを当てて、帳面の裏に写した。 「七桁だ」 「それがどうした」 「ヴィクの送り状は封番号が六桁だ。毎回六桁を読んでる」オリガはペンを止めた。「桁が違う」 「同じ会社の箱でも、種類で違うんじゃないか」 「そうかもしれん。書いておくだけだ」 箱の下に帆布が畳んであった。担架だった。棒を通す輪が両端についている。 広げると、布は乾いていた。 「使ってないな」 「使った跡がない」 「血も泥もついてない」オリガは布を裏返した。「坑で担架を出せば、必ず粉がつく。これは白い」 革の締め紐が二本、帆布の間から落ちた。長さは腕の二倍ほど。金具は擦れて光っている。 「これは何に使う」 「知らん」鉤は紐を見て、手を出さなかった。「見なかったことにしていいか」 「いい。あたしは見た」 オリガは担架を畳み直して、元の場所に戻した。締め紐も戻した。 袋に入れたのは、靴九つ、匙十一本、札四枚だけだった。 「持っていくのはそれだけか」 「飯場の備品は持ち帰る。匙は返してもらう決まりだ」 「靴は備品じゃない」 「靴は落とし物だ。落とし物は飯場で預かる。前からそうしてる」 「札は」 「札は木だ」 上がる籠の中で、袋は膝の高さまで嵩があった。鉤は下に残った。夕方の交代まで掘るという。 「一つ聞く」オリガは籠の枠を掴んだまま言った。「一昨日の夜、詰所の連中が降りたとき、荷を持っていたか」 「持っていた。二人で一つの箱を担いでた」 「上げるときは」 「空だったと思う。持ち方が軽かった」 籠が動いた。三分半かけて明るくなる。 櫓の下でドウスが日誌を開いていた。 「十時七分、下り。上がりは」 「今だ。時計を見ろ」 「十二時三十四分」 「書け」 ハスクが詰所から出てきた。袖に泥はなかった。 「オリガさん。坑に降りましたか」 「配食だ。第七号の許可証がある」 「第七号は失効しています」 「期限は年度末だ」 「発行者が職務を離れています。発行者不在の許可は効力を失う」 「その規定はどこにある」 「本社の通達です」 「通達の日付は」 「手元にありません」 「先月もそう言った」オリガは袋を担ぎ直した。「日付のない紙で、日付のある紙を消せるのか」 ハスクは袋を見た。 「その袋は」 「飯場の匙だ。坑に持ち込まれたまま戻ってこない備品を回収した。棚の数が合わないと、あたしが弁償になる」 「何本ありましたか」 「十一本」 「棚には何本」 「八十九本」 「合計百本ですね」ハスクはうなずいた。「では数は合った」 「合ってない」オリガは袋の口を締めた。「うちの匙は九十二本だ」 「備品台帳には百本と登録されています」 「台帳を作ったのはあんたか」 「前任の引き継ぎです」 「テオは九十二と書いてた。あたしが毎月数えて渡してた」 「数え間違いでしょう」 「八本の間違いを、毎月同じ方向にやるか」 ハスクは袖を直した。「オリガさん。匙の話をしに来たのではありません。坑に降りるのは今日で終わりにしてください」 「配食は」 「今後は坑口までで結構です。中へは坑夫が運びます」 「運ぶ坑夫の名を書け」 「名は要りません。組で運びます」 「組の頭数は」 「必要な数です」 飯場に戻って、板の下に袋を空けた。 ヤナが靴を並べ替えた。右四つ、左五つ。三組にして、余りを端に寄せる。 「これ、洗うの」 「洗うな。中に詰めてある布も出すな」 「なんで」 「詰め方が人ごとに違う。爪先に二つ入れる奴と、踵に一つ入れる奴がいる。洗ったら分からなくなる」 「これで何足になるの」 「足にはならない。三組だけが足だ。あとの三つは片方だ」 「片方でも履けるよ」 「履ける。だが数えるときは片方だ」オリガは端の三つを離して置いた。「対になったのは、両方脱げた奴だ。片方しかないのは、片方だけ脱げた奴だ」 「違うの」 「違う。両方脱げるのは、引きずられたときだ」 ヤナは手を止めた。それから残りの三つを並べ直した。 匙は十本を棚に戻した。棚は九十九本になった。うちの数より七本多い。 十一本目は布に包んだまま、麦の袋の下に押し込んだ。 札四枚は板の釘へ掛け直さなかった。掛ければ、その人間が飯を食いに来たことになる。 オリガは板の横の柱に釘を四本、新しく打った。 「そっちは何の釘」 「戻ってきたのが札だけの奴を掛ける釘だ」 「名前を付けるの」 「付けない。柱の釘だ。それだけだ」 ヤナは四枚を掛けた。線付き三日月、細い二本線、北の帽子、三つ星。 「あと八人分の札はどこ」 「奥だ。奥は今、通れない」 オリガは麦の帳面を開いて、今日の行に書き足した。靴九、対三組、匙十一、札四、箱の番号七桁。 書き終えてから、布に包んだ匙をもう一度出した。 灯りの下で刻印を見る。文字ではない。三本の線を丸で囲ってある。 板の釘を端から端まで見た。二百二十本。掛かっている札は十二枚。 三本線に丸の符牒は、一枚もなかった。 「ヤナ。この符牒、うちの板にあるか」 「ない」 「先月は」 「先月もない。あたしが焼き印を押してるから、押した符牒は覚えてる」 オリガは匙を布に戻した。 「この符牒の奴は、うちで一度も飯を食っていない」 第11章 カイム・ヴェス|理事 呼出票は十一月二十七日の朝、査定課の受箱の底にあった。 様式は丙一号。差出、理事室。指定時刻、十一時。 差出人の署名欄に、細い字で名前が入っていた。セルジオ・マレク。 「署名があります」リーサが言った。 「ある」 「珍しいことですか」 「今月は、あるほうが珍しい」 カイムは引き出しの二段目を開けた。乙二号の写し。鉛筆書きの一行を写した紙。それから昨日まとめた一枚。 一枚には、北方産の灰晶を使った契約番号を三十七件、縦に書き出してある。三十七件とも桁が一つ多い。六桁。ほかは五桁である。 九年、彼はその桁を見て、朱印を押してきた。 三枚を厚紙に挟み、麻紐で縛った。 五階へ上がる階段は一本しかない。踊り場の灰晶灯は二つとも点いていた。廊下の絨毯が靴音を吸う。 待合で七分待った。壁の掛時計の下に、手書きの札が貼ってある。五分進、と書いてある。 十一時ちょうど、扉が内側から開いた。 理事室は査定室より狭かった。窓は運河ではなく中庭に向いている。机の上には紙が二枚と、木の箱が一つ、計算尺が一本。 セルジオ・マレクは立たず、椅子を少し回しただけだった。 「掛けてください。茶は入れますか」 「結構です」 「私は入れます。砂糖は使いません。この歳になると、甘いものが数字の邪魔をする」 セルジオは自分で注いだ。湯気が中庭側へ流れた。 「乙二号を読みました。二通目のほうも」 カイムは厚紙の束を膝に置いた。 「二通目は出していません」 「受付を通っていないという意味ですね。それは知っています。ただ、書かれたことは知っています」 「どこから」 「あなたが書庫で前々版の規程集を出した。第百四条の改正附則を三回引いた。書庫の閲覧簿は残る。理事は閲覧簿を見る権限があります」 「見る理由は」 「規程集の古い版を引く職員が出たら、その職員が何を確かめようとしているかを考えるためです。十一年で四人目です」 「前の三人は」 「二人は退職しました。一人は今も一階にいます。秤量係のカレルです」 カイムは束の紐をほどかなかった。 「回答をいただきたい。甲十二号、回収番号二二七。発行者署名欄が空白でした。第百四条は署名を効力要件にしています」 「理事会内規の第九条です」 「規程集にありません」 「内規は規程集に載りません。載せる決まりがないからです」 「内規は規程に優先しません」 「優先しません。そのとおりです」 セルジオは机の左の紙を一枚、こちらへ回した。 「内規第九条。回収の緊急性が認められる場合、発行責任者の署名は事後に補充することができる」 「事後というのは、いつです」 「補充されていません」 「では違反です」 「違反です。あなたの認定で正しい」 カイムは紙を持ち上げたまま、二秒動かさなかった。 「認めるのですか」 「認めます。私が起こした内規で、私が違反しています。ここまでは事実の確認です。ここから先が、あなたが本当に聞きに来たことでしょう」 「様式の改正も、あなたですか」 「甲十二号は第四版になりました。署名欄そのものを刷りませんでした」 「理由を」 「署名欄を残すと、押せる人間が三人しかいない。三人のうち一人が手を止めると、回収が止まります。回収が止まると帳簿が現場に残る。現場に残った帳簿は、持ち出しとして扱われる。罰を受けるのは代痛人です」 「欄を消せば、誰が命じたか分からなくなります」 「分からなくなります。その代わり、誰も罰されない」 「後から数えられません」 「数えられません」 「翌朝、二二八が同じ結び方の麻紐で来ました」 「来たでしょう」 「あれも内規第九条ですか」 「あれは第四版です。欄が無い書類は、欄の空白を理由に返せません。あなたが返せなくなる形にした」 「私が返せなくなる形に」 「あなただけではありません。八人の査定官全員です。ただ、返そうとしたのはあなただけでした」 セルジオは茶碗を置いた。 「あなたは、数えられるようにしておくべきだと考えている。総務のヴィレムからそう聞きました。私も同じ考えでした。四十代のころは」 「今は違うのですか」 「今も同じです。ただ、数える手続きを残すために止まる件数を、私は数えられるようになった」 カイムは厚紙の紐をほどいた。三十七件の紙を机に置いた。 「北方産の灰晶を使った契約です。三十七件、番号が六桁でした。ほかは五桁です」 セルジオは眼鏡を出して、上から順に指を滑らせた。三十七件を最後まで見た。 「桁を分けたのは私です」 「理由を」 「入荷経路が別勘定だからです。黒喉から来た灰晶は公社の直買です。ほかは仲買を通す。会計の科目が違うものに同じ採番をすると、年度末に合わなくなる」 「合わせるために桁を足したと」 「そうです。会計上の理由です。それ以上の意味は、当時はありませんでした」 「当時は」 「当時は、と言いました」 セルジオは計算尺を引き寄せた。 「話を数字にしましょう。あなたは数字のほうが早い人だ」 「そうします」 「レヴァンの人口は三十万。昨年度、移痛を前提とした医療契約は一万四千二百件。内訳は外科が八千六百、産科が二千九百、残りが歯科と処置です」 「知っています」 「そのうち、強度八以上を要する契約が四千百件」 「四千百」 「強度九以上を、単独で最後まで受けられる登録者は、この街に八十一人です。第一種と第二種の高耐性。八十一人で四千百件は組めません。年間上限が第一種で三百六十時間、第二種で二百四十時間ある」 「上限を上げれば」 「上げれば死にます。上限は死なない線として引いた数字です。私が引きました。二十六年前に」 「登録者を増やせば」 「昨年度の新規登録は百九十四人。うち第三種と第四種が百七十七人です。高耐性は年に十七人しか増えません。辞退と免許返上が年に二十二人」 「減っている」 「五人ずつ減っています。八年連続で」 「募集を」 「募集はしています。孤児院と退役兵の名簿を毎年まわしている。増えないのは、受ける側が計算できるからです。二百四十時間の対価より、港の荷役のほうが割がいい。強度八を四十回受けないと届かない額を、荷役は指を落とさずに稼ぐ」 カイムは膝の紙を一枚めくった。 「では四千百件を、八十一人に割ると」 「一人あたり五十件。強度九を年に五十回、単独で。三年で辞めます。実際に三年で辞めています。私は十年分の名簿でそれを見ました」 セルジオは計算尺の目盛りを合わせ、また戻した。 「分散方式をやめると、この街で組めなくなる手術は年に三千二百件です。私の見積もりで、誤差は二百」 「三千二百」 「うち緊急の開腹が九百四十。分娩の異常が四百十。骨形成不全の骨切りが十九件」 カイムは机の縁に手を置いた。 「痛みを消さなければ、この街の医療は止まる」 セルジオは声を上げなかった。同じ調子で言った。 「私は隠蔽をしているつもりはありません。配分をしています。受けきれない量を、受けられる大きさに割っている。割った先が見えないだけです」 「見えないのは、見えないように割ったからです」 「そうです。見えるように割ると、割られた側が拒否する。拒否は権利です。権利が行使されると、三千二百件が消える」 「拒否されるようなものを配っているという自覚はあるのですね」 「あります」 セルジオは机の右の紙を一枚、回してよこした。 木枠に挟んだ表だった。左端に日付、次に施術室、次に等級、右端に番号が並んでいる。 「聖ドーラ施療院、第三施術室。エナ・ヴェスの記録です」 カイムは表から手を離さなかった。 「第一回、五月十八日。割当、六名。第二回、七月九日。六名。第三回、九月十日。六名。第四回、十一月二十五日。六名」 「六名」 「一件を六つに割っています。単位は十二分。一人の四時間契約には、別の事案の塊と合わせて三つまで入れる。残りは寝台で待たせる」 「十二分」 「十二分より短くすると、灰晶の立ち上がりに食われて痛みが届きません。長くすると、強度九では二回目から耐性が落ちる。三年かけて測った数字です」 「測ったというのは、誰でですか」 「代痛人でです。ほかに測る方法がありません」 「同意は」 「取っていません。契約の目的物に同意欄はない。あなたが先週、その条文を読み上げたと聞いています。第二編十四条の二」 「面談室の中の話です」 「面談室にも記録係はいます」 「あなたの娘の骨切りは強度九です。九を単独で受けられる八十一人の枠は、緊急に優先して回ります。予定手術には回りません」 「では、四回とも」 「四回とも分散方式です。あなたが減免申請に判を押し、私が決裁した。書類は全部あります。あなたの署名も、私の署名も入っている」 カイムは表の左端の日付を上から下へ読んだ。四行目の右に、十一月二十五日と書いてある。二日前だ。 「十一月二十五日は、あなたが枠を動かした日ですね」 「動かしました。十二月二日から一週間繰り上げた」 「なぜ」 「あなたが乙二号を出した日だからです」 「取引ですか」 「取引です。私はあなたに何も要求していない。要求していない取引を、取引と呼ぶかどうかは、あなたが決めてください」 「呼びます」 「では取引です」 「減免の仮承認も、あなたの決裁ですか」 「十一月七日付です。決裁欄は今も空です。埋めれば六割が確定し、埋めなければ百六十八枚の請求が起きる」 「いつ埋めますか」 「決めていません。決めていない欄が一つあるほうが、私の仕事はやりやすい」 「娘の名前で、私を動かすつもりですか」 「名前は出しました。動かすつもりがあったかどうかは、あなたが判断してください。私は表を見せただけです」 「表に名前が書いてある」 「書いてあります。番号ではなく名前で書いてあるのは、この街の書式でエナ・ヴェスの側だけです。四四一九の側には番号しかない」 セルジオは茶碗を持ち上げ、冷めているのを確かめて置いた。 「もう一枚あります」 四枚目の紙が来た。同じ書式で、日付の欄が空欄のまま刷ってある。 「十二月九日、午前十時、第三施術室。等級、第二種。割当、六名」 番号が六つ並んでいた。 一つ目が四四一九だった。 カイムはその行から目を動かさなかった。 「この番号に見覚えがありますか」 「あります」 「先週、あなたの面談室に来ています。来訪簿に時刻が入っている。四時七分から四時五十八分」 「入っています」 「様式十二号を不受理にしたのはあなたです。理由は申請適格の欠如。私はその判断を支持します。適格は無い」 「支持は要りません」 「要らなくても、記録には残ります。あなたが不受理にした事実と、あなたの娘の割当に同じ番号が入る事実が、同じ月の中にある」 カイムは四枚目を机に戻した。 「割当は誰が決めるのですか」 「医療調整課が組み、査定課が形式審査をします」 「形式審査は私の卓です」 「そうです」 「差し替えは出せますか」 「出せます。理由欄に書ければ」 「四十一語のどれかで」 「四十一語のどれかで」 セルジオは眼鏡を外し、布で拭いた。 「差し替えれば、別の六人が来ます。番号が変わるだけで、割は変わりません。あなたが避けたいのは、あの女が来ることですか、それとも、六人に割られること自体ですか」 カイムは答えなかった。 「後者なら、止められるのは私です。私は止めません。前者なら、止められるのはあなたです。理由欄に一語書けばいい」 「一語で人が入れ替わる」 「入れ替わります。制度とはそういうものです。あなたが十一年守ってきたのは、その入れ替わりが記録に残る形でおこなわれることでした」 「残っていません。署名欄がない」 「あなたの理由欄には、あなたの名前が残ります。査定官の欄だけは、まだ刷ってあります」 セルジオは四枚を揃え、木枠ごとカイムの側へ押した。 「持って帰ってください。写しではなく原本です。理事室の控えは別にあります」 「所管は」 「医療調整課です。査定課が原本を持つ根拠は、規程にはありません」 「ではこれは持ち出しです」 「そうです」 セルジオは初めて笑った。歯は見せなかった。 「二二七の帳簿を、あなたは保管棚に入れて、札に効力照会中と書きましたね。墨で」 「書きました」 「鉛筆で書いた者は、消せるほうを選んだということです。墨で書いた者は、消えないほうを選んだ。私はそれを見て、あなたを呼びました」 「用件は何ですか」 「用件は今の四枚です。ほかにありません」 カイムは立った。木枠を小脇に挟み、厚紙の束を反対の手で持った。 扉の手前で振り返った。 「一つ聞かせてください。十一月十四日、第六室で死んだ代痛人がいます。記録は過負荷による心停止です」 「医務の所管です」 「あなたは見ましたか」 「見ました」 「何を見ましたか」 セルジオは茶碗を持ち上げて、今度は口をつけた。 「割り切れなかった数を見ました」 カイムは階段を四階まで降り、踊り場で立ち止まった。 木枠の四枚目を出し、六つの番号を一つずつ読んだ。四四一九、四四二七、四五〇二、四六一八、四七〇三、四七一一。 上着の内側から私物の手帳を出した。 五つは書いた。最初の一つは書かなかった。 第12章 ネイ・ソルグ|同時刻 休業届は様式二十号だった。 窓口の男が判を持ったまま、日数の欄を指した。 「十日は長い。第二種は連続受痛の間隔が三十六時間だ。十日空けると等級審査が要る」 「審査になるのは何日からだ」 「十四日から」 「では十日でいい」 理由の欄があった。ネイは「墓参」と書いた。孤児院出身の代痛人に墓はない。男は理由を読まずに判を押した。 「戻ったら受付に顔を出せ。帳簿は持って歩け。身分証だ」 「持って歩く。第八条は知っている」 男は帳簿を開いて、最後の三行に指を当てた。 「最終受痛が十一月の十九日。昨日だ。等級の維持には月に二件以上が要る」 「今月は四件受けている」 「四件目が薄い。強度三だ。強度三は半件で数える窓口もある」 「ここでは」 「ここでは一件で数える。窓口によって違う」 ネイは手帳に書いた。強度三、半件で数える窓口がある。 前月分の報酬を受け取った。四件で四十六レイ。家賃と炭を差し引いて、懐に三十一レイ残った。 荷揚場へ回った。北へ行く便は運河の三番桟橋から出る。灰晶を積んで下りてきた馬車が、空のまま上りに使われる。 受付の板に便の控えが吊ってある。日付、車の番号、出発時刻、到着時刻。灰晶の荷には封印票がつき、票の番号も並んで書いてある。 ネイは控えを端から読んで、荷の無い便だけを紙に写した。写している間、受付は一度も顔を上げなかった。 馭者は綱を締めながら言った。「客は乗せない」 「荷台の隅でいい。いくらだ」 「十二レイ。飯は出ない。峠で一泊する。毛布も出ない」 「馬は何度替える」 「三度だ。上りも下りも同じ場所で替える」 「荷を積んだ日と空の日で、替える場所は変わるか」 「変わらない。宿が決まってる」 ネイは十二レイを数えて渡した。馭者は硬貨を並べ直してから懐に入れた。 荷台には灰晶の粉が残っていた。指でこすると爪の間が灰色になり、水では落ちなかった。 峠の宿は馬を替えるための小屋で、床に藁が敷いてあった。ネイは外套のまま座り、手帳を開いた。 書いた。荷台、灰晶の残り、爪。馬は三度、場所は同じ。北へ。二日目。 二日と半日で黒喉に着いた。 坑口は谷の斜面に三つある。いちばん大きいものの上に櫓が立ち、巻き上げ機の綱が鳴っている。 音は一定ではない。上がるときに軋み、止まるときに二度鳴る。 選鉱場では女と子どもが台に向かっていた。石を叩いて割り、色で分ける。灰晶は割ると断面が白い。 台は十四ある。一つの台に三人。手を止めている台が二つあった。 秤場は選鉱場の隣で、袋の口を縫う男が二人いた。袋には札がつき、札に番号が押されている。番号は五桁だった。 ネイは番号を三つ手帳に書いた。書いてから、桁を数えた。三つとも五桁だった。 飯場は谷の低いところにあった。屋根から煙が出ている。 ネイは列の後ろに立って数えた。 先頭から順に、木札を見せて椀を受け取る。誰も名前を言わない。符牒で呼ばれる。 二百二十一まで数えたところで、腕を掴まれた。 「札を出せ」 背の低い女だった。前掛けに灰が擦り込まれている。腕は太い。 「持っていない」 「なら飯は出ない。ここは誰でも食える場所じゃない」 「食いに来たんじゃない」 「じゃあ何をしに来た。二百二十一まで数えてただろう」 「数えていた」 女は手を離さなかった。「合ってるか」 「二百二十一。ただし途中で列を離れた者が一人いる。戻ってきたから二度は数えていない」 「二百二十二だ」女が言った。「櫓の下で一人食ってる。足が悪くて並べない。あんたの位置からは見えない」 「訂正する」ネイは手帳に書いた。二百二十二。 「書くのか」 「書く」 「公社の人間だな」 「代痛人だ」 ネイは懐から帳簿を出した。表紙の右下に4419の焼き印がある。 女はそれを見て、手を離した。 「オリガ・タンだ。ここの釜を仕切ってる」 「ネイ・ソルグ」 「器を寄越してどうする気だ」 「誰も寄越していない。休業届を出して自分で来た」 オリガは帳簿を受け取らなかった。指も触れなかった。 「公社の紙をここへ持ち込むな。あたしは無登録に飯を出してる。紙が一枚入るたびに罰金の額が上がる」 「名前は聞かない。符牒も聞かない」 「じゃあ何を聞く」 「時刻だ」 オリガは釜の蓋を戻した。 「時刻」 「去年から今年にかけて、この坑で落盤があった日と、その時刻を知りたい。分まで」 「なぜ」 「私の帳簿に、同じ形の痛みが並んでいる日がある。その日と、その時刻を突き合わせたい」 「痛み」 「背中を上から下へ。規則正しい。四回。間隔が同じ」 オリガは前掛けで手を拭いた。拭き終わっても、まだ拭いた。 「器ってのは、どこまで来る」 「肉の痛みだけだ。契約書にはそう書いてある」 「誰のかは分かるのか」 「分からない。名前も、場所も、契約書には出ない。出るのは病名と等級と時刻だ」 「じゃあ何が分かる」 「形だ。刺すか、灼くか、押すか。どの向きから来て、何回来たか。それは移る」 「移った側は数えるのか」 「私は数える」 オリガは飯場の柱を見た。 柱に振り子時計が掛かっている。文字盤の下半分に煤がついている。 「時計はある」 「見る人はいるか」 「あたしが見る。鐘を鳴らす役だからだ。坑口の交代は鐘で知らせる」 「落盤の時刻は書いているか」 「落盤とは書かない」オリガは奥から麻紙の綴りを持ってきた。七冊ある。「飯の控えだ。巻き上げが止まった時刻を書いてある。止まると組が上がってくる。上がってくると飯の数が変わる。だから時刻を書く」 「何年分ある」 「二年と四ヶ月」 「見せてくれるか」 「条件がある」オリガは綴りを胸に抱えた。「この紙をあんたが写すなら、写した紙をここへ置いていけ。あたしは字が薄い。写しがあれば二冊になる」 「置いていく」 「もう一つ。数が合わないところがあったら、あたしに先に言え。公社より先にだ」 「言う」 「三つ目。写しは今日中に作れ。あんたが持って帰る紙より先にだ」 「紙をくれ。インクは自分のがある」 オリガは包み紙の束を出した。魚を包む紙ではなく、麦の袋を裂いたものだった。 ネイは台の端に座って写した。日付、車の番号、時刻、人数。行は細かく、字は薄い。 一冊を写すのに二時間かかった。指が匙を握った形で止まったので、釜の湯に手を浸けて十を数え、一本ずつ伸ばしてから続けた。 オリガはその間に夕の配膳を済ませ、札を二百二十二枚回収した。 「合ってる」オリガが言った。「二百二十二だ。あんたの訂正のほうだった」 日が落ちてから二冊目に入った。灯は魚油で、煙が出る。 七冊のうち、日付の要るところだけを写して四冊分になった。終わったのは夜半だった。 オリガは写しを数えて、板と板の間に挟んだ。 「これで二冊になった」 そう言ってから、綴りを台に置いた。 ネイは自分の写しを広げた。十四の枠を書き並べた紙だ。十一月に四つ、十二月に六つ、三月に一つ、夏に三つ。 「日付が十四ある。時刻もある」 「うちの綴りは二年と四ヶ月しかない。四つは古すぎる。残りは九つだ」 「九つでいい」 オリガが最初の一枚をめくったところで、ネイは手を止めさせた。 「その前に一つ確かめる。柱の時計は、レヴァンの公社の時計と合っているか」 「合わせたことはない。時計係が来たのは三年前だ」 「なら日付は合っても、分は合わない」 「じゃあ話は終わりだ」 「終わらない。ずれの幅は出せる」 ネイは炭を取って、台の板に線を引いた。 「この道を、荷を積まずに上る便がある」 「月に一度ある。車を直しに出すときだ。上りも下りも空で走る」 「その便の飯を、あなたは出しているか」 「馭者に出す。着いた時刻と出た時刻を書いてる。飯を作る時間が要るからだ」 「レヴァン側にも同じ紙がある。荷揚場の受付が出発と到着を書く。私はそれを写してきた」 ネイは懐から二枚目の紙を出した。 「十二月の一日。レヴァンを出たのが六時二十分。ここへ着いたのが、あなたの綴りでは」 オリガが指でたどった。「二時一分」 「翌日の二時一分だ。十九時間四十一分かかっている」 「そうなる」 「同じ月の十四日。ここを出たのが、あなたの綴りで五時三十分」 「書いてある」 「レヴァンに着いたのが、向こうの紙で一時に一分足りない。十九時間二十九分だ」 「上りのほうが長い」 「どちらも空車で、馬を替える場所も回数も同じだ。道の時間が同じなら、長く見えるほうと短く見えるほうの差は、時計の差の二倍になる」 「四十一と二十九。差は十二」 「半分は六だ」ネイは板に六と書いた。「この柱の時計は、レヴァンより六分進んでいる」 オリガは柱を見上げてから、板の六を見た。 「六分」 「あなたの綴りの時刻から六を引けば、私の帳簿の時刻になる」 「一度で信じるな」オリガが言った。「同じやり方を、別の月でもう一度やれ」 ネイは二枚目の紙をめくった。十一月の便が二つある。上りが十九時間三十八分、下りが十九時間二十六分。差は十二。 「六分だ」 「同じだ」オリガは腰を下ろした。「読め」 ネイは十四の枠の紙を左に、オリガの綴りを右に置いた。 「一つ目。去年の十二月の八日、十四時十二分」 オリガが綴りをめくった。「十四時十八分、巻き上げ停止。二番坑」 「六を引く。十四時十二分」 「合ってる」 「二つ目。十二月の二十九日、九時四十分」 「九時四十六分、停止。三番坑。その日は夕方まで動かなかった」 「合う」 「三つ目。十一月の三日、十一時五分」 「十一時十一分」 「合う」 「四つ目。十一月の十七日、七時五十分」 「七時五十六分。一番坑。上がってきた組に朝を二度出してる」 「二度」 「一度目が坑口で、二度目がここでだ。あの日は昼まで人が下りなかった」 「五つ目。三月の九日、十三時三十四分」 オリガが指を進めた。「十三時四十分。二番坑」 「合う」 「六つ目」 「夏の分だ。六月の二日、十時二十七分」 「十時三十三分。停止。その日は暑くて、水を三度運んでる」 七つ目で綴りの端が破れていて、ネイは指で押さえた。十六時二十二分。引いて十六時十六分。ネイの枠は十六時十六分だった。 「八つ目。十二月の五日、二十時ちょうど」 「二十時六分」オリガが読んだ。「夜の組だ。ここは夜も掘る」 「八つとも合った」 オリガは綴りから指を離さなかった。「もう一度、頭から言え。あたしが読む番を替える」 二人は逆から読み直した。オリガが停止時刻を先に言い、ネイが六を引いてから自分の枠を答えた。 順番を替えても八つとも合った。 「八つ全部だ」オリガが言った。「そっちの紙に書いてある時刻に、うちの巻き上げが止まってる。六分ちょうどずれて」 「巻き上げが止まるのはどういうときだ」 「綱を切るときと、下で人が動けなくなったときだ。上げる籠を空けて、そっちに使う」 「八件とも、下だったか」 「八件とも、そのあとで飯の数が変わってる。変わったら下だ」 「止まった理由は書いてあるか」 「書かない。書くと報告が要る。報告を出すと監督官の判が要る。監督官は夏からいない」 「代わりは」 「来ない」 「判の要らない紙は残るのか」 「あたしの綴りだけだ。麦の袋を裂いた紙に、飯の数を書いてるだけの紙だ。誰も取りに来ない」 ネイは手帳に書いた。八件一致。ずれ六分。理由欄なし。判の要らない紙。 残りが一つある。 「九つ目。去年の十二月の二十日、十四時十二分」 オリガは綴りをめくった。指が止まった。もう一度前へ戻し、また進めた。 「無い」 「無いとは」 「その日、巻き上げは止まってない。朝から夜まで動いてる。書いてあるのは飯の数だけだ」 「数は」 オリガは行を指でなぞった。 「朝が二百十四人分。夜が二百十四。札も二百十四枚返ってる」 「欠けていないのか」 「一枚も欠けてない。あたしが数えた日だ」 「札を返さずに出ていった者は」 「いない。返さずに出れば次の朝に飯が出ない。誰も置いていかない」 「怪我人の記録は」 「その日は無い。手を潰したのが前の日に一人。二十日は誰も上がってきてない」 「二十日に、坑の外で何かあったか」 オリガは天井を見てから答えた。 「馬車が来た。灰晶の空車じゃない。幌のついたやつだ。昼過ぎに着いて、暗くなる前に下りていった」 「何を積んで下りた」 「見てない。積むところは秤場の裏だ。あそこは見えない」 「馭者に飯は出したか」 「出した。二人分」オリガは綴りの端の行を指した。「昼に二杯。それも書いてある」 ネイは自分の写しを見た。十二月の二十日、十四時十二分の枠には、番号が八つ並んでいる。八人に三十八分ずつ分けられている。 その最後に、線を引いていない番号が一つ書いてある。139。持ち主に聞けない番号だ。 「その日、この坑では何も落ちていない」ネイは言った。 「落ちてない」オリガは綴りを閉じた。「何かが起きたなら、坑の中じゃない」 柱の時計が三時六分を指した。あと一時間で火を入れる時刻だ。 ネイは六を引いた。 第13章 カイム・ヴェス|利害相反 「三年分となると、棚を二つ空けることになります」 記録係のペトラが台車の把手を握った。 「空けてください。患者エナ・ヴェスの受術契約、全件」 「患者名での抽出は様式外です」 「様式内にします。第四四半期の査定抜き取り監査として起票する。対象の選び方は査定官の裁量です」 カイムは起票用紙に日付を書いた。十一月二十七日。 「閲覧簿に記名を」 「書きます」 カイムは自分の名前を自分で書いた。閲覧者、カイム・ヴェス。目的、監査。関係、なし。 最後の欄で手が止まった。 「関係の欄は」 「様式では、患者と閲覧者の関係です」 「父です」 「そう書くと、監査になりません」 「わかっている」 カイムは関係の欄に線を引き、余白に小さく書いた。父。 ペトラはそれを見て、何も言わずに台車を押した。 「抜き取り監査は三十件以上でないと様式が成立しません」 「七十二回分ある。足りる」 「対象を一人の患者に寄せた例は、私が入ってから四度目です」 「あとの三度は」 「三度とも、査定官が自分の親族を調べていました」 「結果は」 「三度とも、様式内で終わっています」 桃色の契約控えが二百七十枚出てきた。 エナの移痛処置は月に二度。三年で七十二回。うち骨切り術は年に四度で、残りは矯正具の締め直しと固定の入れ替えだった。一回の手術に、契約控えが複数枚つく。 カイムは日付順に並べた。 「一回の手術に、平均三枚と四分の一」 「執刀時間が長い日は四枚になります。一契約四時間の上限がありますので」 「切り替えの間隔は」 「規則では十五分以上。実務では十分で回している例があります」 「その十分は誰が痛んでいる」 「誰も痛んでいません。麻酔の意味ではなく、契約の意味で」 「そう書いてある、という意味だな」 「そう書いてあります」 カイムは一枚を抜き出した。九月十日の手術の三枚目。 病名欄、骨形成不全に伴う切開痛。受痛者、帳簿番号五一八八。受痛時間、二時間四十分。強度欄、七。 裏面に施術側の照合印が二つ並んでいる。執刀医の印と、麻酔担当の印。 「ペトラ。この強度七は、誰が決めた」 「受痛者本人が申告し、立会いの係員が承認します」 「立会いの係員は」 「印はありません。承認欄が空でも、様式は通ります」 「承認欄が空の控えは、二百七十枚のうち何枚ある」 ペトラは十分かけて数えた。 「二百六枚です」 「残りの六十四枚は」 「同じ係員の印です。全部同じ」 カイムはその印影を明かりに近づけた。文字は擦れていた。 「読めるか」 「読めません。十四年前の様式です」 カイムは契約番号の桁を数えはじめた。 レヴァン市内で組成された灰晶を使う契約は五桁。上二桁が起票区の符号になる。 エナの契約は、七十二回のうち六十八回が六桁だった。真ん中に桁が一つ多い。 「ペトラ。真ん中の一桁は、採番規則のどこに書いてある」 「規則集にはその桁の項目がありません」 「では誰が振っている」 「入庫伝票の側です。灰晶の産地区分が北方の場合、入庫の荷口番号を契約番号の真ん中へ差し込みます」 「転記の根拠は」 「事務の慣行です。十四年前から」 カイムは自分の在職年数を数えた。十一年。 自分が査定官になる前から、その桁は動いていた。そして十一年、自分はそれを様式内として通してきた。 青い入庫伝票を並べた。 黒喉鉱山、灰晶、等級甲、正味重量、荷受日。 エナの十二月九日の手術に割り当てられた灰晶は、十一月十九日に黒喉を出ている。 「ペトラ。北方の入荷は月に何度」 「四度です。三日、十一日、十九日、二十七日」 「十九日の荷は、他にどの契約へ回った」 「配分表を出します」 配分表は横に長い紙で、左端に入庫番号、右へ契約番号が枝分かれしていた。 十一月十九日の入庫番号は九〇四四一七。 そこから枝が七本出ていた。 一本目、エナ・ヴェスの手術。 二本目から七本目まで、病名欄はばらばらだった。胆石発作、腎疝痛、抜歯後疼痛、術後創痛、分娩、分娩。 「六本の受痛者を」 「代痛人の帳簿番号でよろしいですか」 「それでいい」 ペトラが読み上げた。四四一九、二七〇三、四四一九、五一八八、二七〇三、六〇二一。 カイムは四四一九を二度書き、線を引いた。 「同じ入庫の灰晶で、同じ日に、同じ代痛人が二本」 「上限には触れていません。年間受痛量の集計は種別ごとです」 「触れていないな。触れていないことは知っている」 カイムは配分表の左端を指で押さえた。 枝は七本。うち一本が自分の娘へ伸びていた。残りの六本は、病名の違う六つの契約になっていた。 「ペトラ。この六本の開始時刻を」 「午前九時十二分、九時十二分、九時十二分、九時十二分、九時十四分、九時十四分」 「同時だ」 「様式上は、開始時刻の一致を禁じる条文がありません」 「私が作るとしたら、そこに条文を置く」 「置けば、手術が止まります」 ペトラは台車の把手を握り直した。 「私は記録係です。止めるとか止めないとかは、査定官の欄にあります」 「ペトラ。六本目と七本目の分娩は、同じ産科だ」 「東岸の第二産科です」 「同じ日の同じ時刻に分娩が二件。産科の当日台帳を取り寄せられるか」 「取り寄せは様式外です。病院の台帳は公社の管轄外になります」 「査定官が照合を求める場合の条項は」 「第百二条。ただし対象は契約書と受痛記録に限られます。病院側の記録は入りません」 「十四年前の改正で外れたのか」 「改正記録を出しますか」 「出してくれ」 出てきた改正記録は一枚だった。改正理由の欄に、事務簡素化のため、と六文字。起案者の欄は空だった。 「起案者が空でも改正は通るのか」 「通っています」 カイムはその一枚を裏返し、また表に戻した。 「ペトラ。空欄の書類を、この二週間で何枚見た」 「数えていません」 「今日から数えてくれ」 「数えて、どこへ出しますか」 「どこへも出さない。数えるだけでいい」 ペトラは鉛筆を耳に挟み、帳面の隅に一と書いた。 二時に、病院の会計から請求控えが届いた。 エナの十一月分。二回分。 内訳は五行しかない。執刀料、器材、入院、薬剤、代痛費。 カイムは代痛費の行を定規で押さえた。総額の六割二分。 六割二分のうち、灰晶の実費が四割。残りが契約手数料と受痛者への支払いだった。 受痛者への支払いは、総額の一割一分になる。 カイムはその数字を三度計算し、三度とも同じ数字になった。 三時に決裁箱が回ってきた。 上から二枚目に、十二月分の灰晶配分申請が入っていた。 黒喉からの追加入荷、四度を五度に。理由欄には、冬季の手術需要増と書いてある。 起案者はセルジオ・マレク。決裁欄は三つ。理事、査定統括、そして査定官。 カイムの欄が真ん中で空いていた。 判を押せば、十二月三日の荷から五度に増える。 押さなければ、十二月分の配分は前月と同じ四度で組み直される。組み直しには七日かかる。七日ずれると、エナの十二月九日は動かないが、十二月二十三日が動く。 廊下で査定統括のコルダに会った。決裁箱を抱えている。 「ヴェス。十二月分は明後日の正午が期限だ」 「理事の起案です。私の欄は必要ですか」 「三つ揃わないと配分課が動かない。お前の欄が空のままなら、配分課は前月踏襲で組み直す」 「組み直しに七日」 「七日だ。その七日で、十二月後半の手術枠が三十六件ずれる」 「三十六件の内訳は」 「見たいなら請求すればいい。ただし、査定官が枠の内訳を見た記録は残る」 「残ると、何が起きますか」 「何も起きない。記録が残るだけだ」 コルダは箱を持ち直した。 「押しても押さなくても、お前の欄は残る。それだけ言っておく」 カイムは判を持ち、机に置いた。 置いたまま、配分表の写しを取った。写しを取ることは規則に触れない。査定資料として鞄に入れることも触れない。 触れるのは、それを公社の外へ出したときだけだ。 家に帰ったのは八時過ぎだった。 エナは寝台の上で、膝に毛布を巻いて座っていた。膝から下は毛布の外に出したままにしてある。触れると痛むからだ。 「おかえり」 「起きていたのか」 「三十七」 「何が」 「今日、廊下を歩いた歩数。昨日は三十一。一昨日は二十八」 「増えている」 「手術のあとは増える。十日過ぎると減る。前は十二日だった」 エナは枕の下から紙を出した。日付と数字が縦に並んでいる。 カイムはそれを受け取り、上から下まで見た。 「これは誰に習った」 「習っていない。数えると、次にいつ痛くなるかがわかる」 「わかってどうする」 「その日にやることを前の日に済ませる」 カイムは紙を返した。 「次は十二月九日だ。前の一回が繰り上がった」 「早くなったの」 「早くなった」 「早くなるのは、いいことなの」 「日程の都合だ」 「都合って、誰の」 カイムは寝台の脇の椅子に座った。 「病院と、公社と、灰晶の船の都合だ」 「船」 「北から石が来る。それがないと、痛みは動かない」 エナは毛布の端を握った。 「動くって、どこへ」 「手術のあいだ、お前の痛みは別の人が持つ。四時間まで。それが規則だ」 「持つ人は、いつも同じ人」 「同じではない」 「じゃあ、何人いるの」 カイムは答えを持っていた。二七〇三、四四一九、五一八八、六〇二一。持っていたが、口に出す形を持っていなかった。 「番号で管理されている」 「何番」 「言えない」 「言えないの、知らないの」 「言えない」 エナは指を四本立てた。 「前に先生が言ってた。四時間だけ寝てる間に終わるって」 「そうだ」 「四時間より長い手術のときは」 「途中で交代する」 「交代って、痛みの人が」 「そうだ」 「じゃあ、二人いる日もあるんだ」 「三人の日もある」 「名前は」 「代痛人と患者は会わない。互いに知らないことになっている」 「なっている、って」 「規則だ」 エナは数字の紙を枕の下へ戻した。 「じゃあ、ありがとうは言えないんだ」 「言えない」 「言ったら、その人は困る」 「困るかもしれない」 「ふうん」 エナは紙を戻した手をそのまま枕に置いた。 「早くなったのは、お父さんが決めたの」 「私は決めていない」 「決められる人なの」 「日程は決められない。書類は止められる」 「止めると、どうなるの」 「十二月二十三日が動く」 「動くと、私の膝はどうなるの」 「十日過ぎたところで、もう一度痛くなる」 「じゃあ止めないで」 「止めない理由が要る」 「要るの」 「書類には理由の欄がある」 エナは天井を見た。 「膝が痛いって書けばいいのに」 「その欄に子どもの名前は書けない」 「じゃあ番号は」 カイムは答えなかった。 エナは毛布の外の足を少し動かし、途中で止めた。 「動かすと痛い」 「無理をするな」 「無理してない。どのくらい痛いか、数えてる」 「数え方を教わったのか」 「痛いときに一から数えると、十まで行く前にたいてい終わる。今日は六」 カイムは自分の手帳を出し、六と書いた。書いてから、閉じた。 エナが眠ってから、寝台の脇の紙をもう一度見た。 日付が三年分あった。歩数、痛みの数字、手術の日。 処置の日には丸がついている。丸は七十二個あった。 カイムは自分の手帳と並べた。手帳には手術費の支払日と、その月の残高が書いてある。 二つの紙は、同じ日に印がついていた。 夜、台所で書類を広げた。 配分申請の写しと、入庫番号九〇四四一七の配分表。 枝の一本目に、娘の名前がある。 六本目と七本目は分娩だった。同じ産科、同じ時刻、産婦は二人。 カイムは十四年前の事務慣行の項を思い出し、規則集をめくった。真ん中の桁の項目はやはりない。ない規則は、違反にならない。違反にならないものは、査定官が弾けない。 カイムは紙の裏で計算した。 北方の入荷は月に四度。一入荷から枝が七本。月に二十八本。年に三百三十六本。 そのうち手術に回るのが一本から二本。残りは病名の違う契約になる。 三年で千八本。エナの処置は七十二回。 千八から七十二を引くと、九百三十六本が残る。 九百三十六本の病名欄には、胆石発作、腎疝痛、抜歯後疼痛、術後創痛、分娩と書いてある。 書いてあるものを疑う権限は、査定官にはない。書いてある通りに通す権限だけがある。 その権限は、通さない側にも同じ大きさで働く。 弾けないものを止める方法は一つだけある。決裁の欄を空けたままにすることだ。 空ければ、書類は止まる。止まれば、十二月二十三日が動く。 カイムは判を布で拭き、筒に戻した。 戻してから、鞄の中の写しを机に出し、番号を一つ書き写した。四四一九。 書き写した番号の下に、日付を入れた。十一月二十七日、夜十一時四十分。 自分の手帳に契約番号を書いたのは、十一年で初めてだった。 その帳簿の持ち主は、七日前から市内にいない。北へ発ったという届が、代痛人管理課の外出簿に一行だけ残っていた。行き先の欄には、黒喉と書いてあった。 第14章 ネイ・ソルグ|数える 飯場の板の間は、朝の配膳が終わると九時まで空く。 オリガが長机を二つ寄せた。板の継ぎ目に指を入れて、隙間を確かめてから釘を一本打った。 「紙が落ちる。ここが二分あいてた」 ネイは背嚢から油紙の包みを出して紐を解いた。六十四枚。レヴァンを出る前に床板を外して、隠したほうも一緒に巻いた。 「何枚で一年だ」オリガが訊いた。 「年によって違う。一昨年が十八枚、去年が二十四枚」 「多い年が去年か」 「受けた件数が多い」 オリガは棚から麦の帳面を出した。六冊あった。表紙に年と半期が書いてある。 「半年で一冊。三年で六冊。全部ある」 「中身は」 「その日に炊いた升数だ。朝と夕で二行」 ネイは一冊目を開いた。日付と数字だけが並んでいる。文はない。 「一杯につき二勺と言った」 「二勺だ。二十年変えてない」 「一升は百勺」 「そうだ」 「一升で五十杯出る」 オリガの手が止まった。それから帳面を引き寄せて、最初の頁の数字を指で押さえた。 「四升二合」 「二百十杯」 「二百十人だ」オリガは指を離さなかった。「二十年、升で書いてきた。人で読んだことがなかった」 「読まなくても飯は出る」 「出る。だから読まなかった」 ヤナが釜の灰を落としながら顔を上げた。「その帳面、人数が出るの」 「出る」オリガが言った。「三年分、毎日出る」 ネイは自分の写しを机に並べた。左端に契約番号、右端に形の欄がある。 「先にこっちの数え方を言う。合っているか見てほしい」 「言え」 「単位は十二分だ。移す痛みは十二分ずつに切られている。レヴァンで六人の記帳を突き合わせて出した」 「なぜ十二分だ」 「わからない。巻き上げの一往復が十二分だと聞いたが、確かめていない」 「十二分半だ」オリガが言った。「ドウスが茶を飲む分がある」 「なら理由にはならない」ネイは手帳に書いた。理由不明のまま使う、と。 「次」 「記帳の型が二つある。三十八分と書いてあるものと、四時間と書いてあるものだ」 「三十八は半端だな」 「十二の三つ分が三十六。残りの二分は灰晶の秤が上がって下りる時間だ。寝台の脇で鳴るのを何度も聞いた」 「じゃあ三十八分の契約は、痛みが三つ入ってるってことか」 「三単位だ」 オリガは机の縁を指で三回叩いた。 「一人分は」 「六単位。七十二分」 「どこから出した」 ネイは写しの一枚を抜いて、上から四行目に爪を立てた。 「先月の九日から数えて、十時三十五分に始まった枠がある。契約番号は下三桁が二百四から二百二十五まで、三つ飛びで八件」 「八件」 「八件で二十四単位。あの日、あんたの板には札が八枚残った」 「残った」 「そのうち何人が生きて出た」 オリガは壁の板を見た。釘が二百二十本並んでいる。 「四人だ。翌朝に荷馬車が出た。給金の払い日でな、四人乗った。鉤が乗せてやったと言った」 「札は」 「持っていった。返さずに行く奴のほうが多い」 「なら残るのは四人」 「四人」 「二十四単位を四で割る」ネイは書いた。「六単位。七十二分」 オリガは腕を組んで、それから解いた。 「一人の死に、七十二分の値がついてるってことか」 「値ではない。長さだ」 「同じことだ」 ネイは答えなかった。写しの束を年ごとに三つに分けた。 「これから三年分の枠を全部拾う。同じ日、同じ分に始まって、番号が三つ飛びで並ぶものだ」 「あんたの帳簿に載ってない契約もあるだろう」 「ある。番号の穴で埋める。百十八の次が百二十一なら、間の百十九と百二十は無い。三つ飛びが崩れているところだけ数え直す」 「埋めた分は、あんたが見てない契約だな」 「見ていない」 「じゃあ嘘かもしれん」 「だから麦と突き合わせる」 オリガは写しの一枚を取って、日の当たる側へ持っていった。形の欄を指でなぞった。 「背中。上から下へ。規則正しい。四回。これは何度も出てくるな」 「三年で二十八件、私の分だけで」 「間はどのくらいあいてる」 「十一秒。四回とも十一秒だ」 オリガは紙を置いて、指を四本立てた。 「第四坑の天盤は頁岩だ。四枚重なってる。厚いのが下から二枚目で、薄いのが上に二枚」 「四枚」 「支保が抜けると、下から順に落ちる。一枚落ちて、上が動いて、次が落ちる。音が四つ聞こえたって話は前にも聞いた」 「鉤が言ったのは、音は一度きりだった、だ」 「上で聞けば一度だ。下にいれば四度だろう」 ネイは手帳を開いて、四回、十一秒、頁岩四枚、と書いた。それから形の欄の言葉に線を引いた。 「私はこれを規則的と書いた。公社の定義語には規則的が無い」 「石が落ちるのに規則も何もあるか」 「間隔が同じなら規則的だ。同じ厚さの板が同じ高さから落ちれば、そうなる」 作業は九時から始めた。 ヤナが麦の帳面を読み上げ、オリガが升を杯に直し、ネイが日付ごとに書き取った。豆を使った。十杯で豆一粒、百杯で黒豆一粒。 「四升二合」 「二百十」 「四升二合」 「二百十」 「四升」 「二百」 「十人減った」 「印をつける」ネイは日付の横に点を打った。 一日で二百七十日分進んだ。指が二度止まったので、湯に浸けて伸ばした。オリガが桶を持ってきて、黙って置いた。 二日目に八百日を越えた。ヤナの声が枯れたので、午後は交代して、オリガが読んだ。 三日目の昼に、三年分が終わった。千九十六日。 「読み合わせをやる」オリガが言った。「三回だ」 「二回でいい」 「三回だ。二回だと二回とも同じ間違いをする」 三回読んだ。二回目で四か所、三回目で一か所直した。全部、升の桁の写し違いだった。 「五か所も間違えた」ヤナが言った。 「千九十六日で五か所なら上等だ」オリガが豆を桶へ戻した。「あたしは若い頃、麦の請求を一桁間違えて、三日ぶん足りなくした」 「どうしたの」 「水を足した」 「またそれ」 「またそれだ」 前の日より人数が減った日は、二百三十一日あった。 「多い」オリガが言った。 「荷馬車の日を抜く」 「給金の払い日は月に一度。荷馬車が出るのはその翌朝と、あと灰晶の集荷が来た日だ。ヴィクの控えがある」 オリガは送り状の綴りを出した。三年分、糸で綴じてある。 「一日ずつ照らす」 「一昨年の分が二枚足りない」ヤナが綴じ目をめくった。「六月と、七月の頭」 「ドウスのところへ行け。巻き上げ日誌に荷馬車の出入りが書いてある」 「日誌は見せてくれるの」 「麦の話だと言え。あいつは麦の話には弱い」 ヤナは半時間で戻った。日付を二つ、手の甲に書いてきた。 「六月の二十二日と、七月の三日」 「書き写せ。手が汗をかく前に」 二百三十一日から、荷馬車の出た翌日と払い日の翌日を抜いた。残ったのは六十二日。 ネイは自分の写しから拾った枠の日付を並べた。二十五日ある。 「照らす」 一つずつ合わせた。二十五日は全部、麦の減った日に入っていた。一日も外れなかった。 「残りの三十七日は」オリガが訊いた。 「私の枠が無い。番号が拾えなかったか、私が受けていない」 「無いなら、無かったことになるのか」 「私の側では無い。あんたの側にはある」 「じゃあ書いとけ。三十七日分」 ネイは別の紙に三十七の日付を書いて、右を空けた。 二十五日の減り幅を足した。オリガが豆で、ネイが筆で、別々にやって突き合わせた。 「五十」オリガが言った。 「五十」 「多い」 「あんたの側が多いのか、私の側が少ないのかを先に決める」 オリガは麦の帳面を戻した。減った日の翌週までを一日ずつ見た。 「三人、戻ってる」 「どれだ」 「二十四年の十二月の六日に五人減って、九日に三人増えてる。増えた日に控え札が三枚返ってる。二本線の太いのと、櫛と、鍋つかみだ」 「三人は生きている」 「生きて出てきた。第二坑に迷い込んで二日出られなかったと、あとで聞いた」 「五十から三を引く」 「四十七だ」 ネイは写しの束に戻った。二十五の枠の契約数を、単位に直して足していく。 三十八分の型が八十二件。三をかけて二百四十六単位。 四時間の型が十二件。中に入っていた塊の数を一件ずつ数えて、三十六単位。 「二百八十二」 「割れ」オリガが言った。 「六で割る」 ネイは筆を置いた。 「四十七」 オリガは何も言わずに立って、竈の火を見に行った。戻ってきて、湯を二つ注いだ。 「同じ数だ」 「同じだ」 「あたしの麦と、あんたの紙で、別々に四十七が出た」 「出た」 「あんたの紙は、あんたが痛かったって話だろう」 「そうだ」 「あたしの帳面は、麦を何升炊いたかって話だ」 「そうだ」 「痛みと麦で、同じ数が出るのはおかしい」 「おかしくない。どちらも人の数を別の入れ物で書いたものだ」 オリガは湯の椀を置いた。 「どっちかがどっちかを見て合わせたんじゃないのか」 「合わせていない。あんたは私の枠の日付を見ていない。私はあんたの升を見ていない」 「順番はそうだったな」 「だから三日かかった」 ヤナが指を立てた。「先に見せ合ってたら、早く終わったのに」 「早く終わったら、誰も信じない」ネイが言った。 ヤナが二人の間に立った。「それって、四十七人死んだってこと」 「死体は一つも出ていない」ネイが言った。「出たのは、痛みだけだ」 「痛みは誰が受けたの」 「私と、私みたいなのが」 ネイは新しい紙を出した。長い紙が要ったので、包み紙を三枚糊で継いだ。 罫を引いた。日付、時刻、枠の単位数、人数、そして右端にもう一列。 「そこは何を書くの」ヤナが訊いた。 「符牒」 オリガが板の前に立った。 「板に残ってるのは今の分だけだ。古い控え札は焼いた。木は焚きつけになる」 「どこまで残っている」 「先月の九日からだ。テオがいなくなってから、焼くのをやめた」 「なぜやめた」 「数が合わなくなったからだ」 オリガは釘から札を外して、机に持ってきた。並べると二十六枚あった。 ネイは四十七行を書いた。日付と時刻と単位数と人数だけが入り、右端は空いている。 オリガが下から二十六行に、札を一枚ずつ当てていった。 「線付き三日月」 ネイが書いた。 「北の帽子」 書いた。 「二本線の細いほう」 書いた。 「赤い縄。短い縄」 「二人続けてか」 「同じ日に来て、同じ日に戻らなかった」オリガは次の札を取った。「耳」 ネイの筆が止まった。 「耳は、あの朝に彫った札だ」 「彫った」オリガが言った。「三分で符牒を決めさせた。あの男は口を利かずに、自分の耳を指した」 「その日のうちに」 「朝に一杯食って、夜は食ってない。一杯だけだ」 ネイは耳、と書いた。書いてから、単位数の欄に戻って、その日の枠の行を指で追った。 「この枠は十件だ。三十単位」 「割れ」 「五人」 「耳を入れて五人か」 「五人だ」 オリガは残りの札を一枚ずつ立てて並べた。 「欠け椀。三つ星。小指なし。左の靴」 「左の靴というのは」 「片方だけ靴を履いてた。もう片方は布を巻いてた」 「巻いていたほうを書かないのか」 「本人が左の靴と言った。本人の言い分で彫る」 二十六枚が入った。残りの二十一行は右端が空のままだった。 「二十一には木もないのか」オリガが札を積み直した。 「あんたが焼いた」 「焼いた」 「焼く前に数えたか」 「数えた。数えたが、数だけだ。麦の帳面の裏にも書いてない。頭の中にあった」 「頭の中にいくつある」 オリガは自分の手を見た。指を折って、途中で戻して、また折った。 「言えない。言えば嘘になる」 「なら書かない」 ネイは二十一行の右端に線を引かなかった。空欄のまま残した。 「空けとくのか」 「空けておく。あとから入るかもしれない」 「入らなかったら」 「空欄のまま数える。二十一は二十一だ」 ネイは四十七行を頭から見直した。年ごとに枠の大きさが違う。 二十三年の三月の十一日が、最初の枠だった。契約は二件。一人分。 それより前の四か月には、三つ飛びの並びが一つもない。 「ここから始まってる」ネイは指で行を押さえた。「この日より前は、同じ形の痛みが無い」 「始めた日ってことか」 「試した日かもしれない。二件だけだ」 「そのあとは」 「二十三年の残りが四人。二十四年が十四人。二十五年が二十人。今年はまだ十一月までで八人」 「増えてる」 「枠も太くなってる。最初は二件で一人。今年の枠は十件で五人が一つある」 オリガは机の端に手をついた。 「あたしは去年、麦を二度増やしてくれと書いた。二度とも通らなかった」 「請求は百九十で止まってる」 「止まってる。人は増えて、麦は増えない。増えないから水を足す」 「水の量も帳面にあるか」 「ない。水は数えてない」 「これからは書け」 オリガは返事をしなかった。棚から新しい帳面を出して、表紙に日付を入れた。 ネイは四十七の下に横線を引いた。線の下に、今朝の日付を書いた。 板の釘に、今朝渡した札の控えが二枚掛かっている。朝の配膳から戻っていない。 時刻の欄は空けたままにした。 今日の枠は、まだ閉じていない。 第15章 オリガ・タン|名簿 雪が樋を塞いでいた。オリガは長柄の棒で三度突き、氷の塊を土間に落とした。 戸を開けると湯気が外へ抜けた。炭と麦の匂いが板壁に染みている。 「今朝の椀は二百十二」 オリガは大鍋の縁を杓子で叩いた。 「昨日は二百十四だ」 ネイは板の間に座り、膝の上で手帳を開いていた。鉛筆は短く削られている。 「二人、減っています」 「一人は第二坑に泊まり込んだ。札はあたしが預かってる」 「もう一人は」 「札が出ていない」 「帳面には何と書きますか」 「出ていない、と書く。それ以外は書かない」 オリガは奥の棚から麻布の綴じ本を運んできて、土間の卓に積んだ。七冊。角が擦り切れて、糸が覗いている。 「二年と四ヶ月ぶんだ。一日一頁。頁の右に符牒、左に椀の数」 「符牒はいくつありますか」 「二百十一」 ネイの鉛筆が止まった。 「二百十一人ですか」 「二百十一の札だ。人とは限らない」 「違うんですか」 「札は木だ。持ち主がいなくなれば、次の奴に回る。回さない年もある。飯場頭が誰かで変わる」 「札の数と人の数が同じだったら、あたしは数えるのをやめてる」 「では何を数えていましたか」 「椀だ。朝と夜で別に数える。麦は一袋で百二十椀。袋の数と椀の数が合わない日は、赤で印を付けた」 「合わない日はどのくらいありますか」 「二年四か月で八十一日」 「多いですね」 「盗まれる日もある。焦がした日もある。だが赤の八十一日のうち、落盤の翌日が十九ある」 オリガは一冊目を開いた。頁の右端に、鉤の形、輪に点、二本の斜線、そういう印が縦に並んでいる。 「あんたの四十七は、いつからいつまでだ」 「二十三年の三月十一日から、今年の十一月十九日まで。三年と八か月です」 「うちの帳面は二年と四ヶ月しかない。古いほうの四つは出せん。残りなら突き合わせられる」 ネイが写しの束を卓に広げた。糸で綴じた紙が四つ。日付順に並べ直す。 「四十七回、痛みの形が同じで、時刻が分単位で揃っています。それを四十七人と数えました」 「数え方を言ってみな」 「一つの落盤に対して、同じ形の痛みが六人から九人に分割されています。分割された束を一つと数えて、四十七」 「束が人か」 「束が人です。人でなければ、四十七の束は何を分けたものになりますか」 オリガは答えず、杓子を鍋の縁に掛けた。 それから二冊目を開いた。 「一昨年の十一月三日。第三坑の落盤。この日、椀は朝が百九十八、夜が百九十一だ」 「差が七」 「夜に七人分の札が出なかった。うち二人は翌朝に出た。残り五人はそれきりだ」 「五人」 「あんたの帳面はその日、何人分だ」 ネイが写しをめくった。 「五束です」 オリガは頁の隅を親指で押さえた。爪の間に炭が入っている。 「符牒を書き出す。五つ」 「読み上げてください」 「鉤に一。輪に点。二本斜線。三角の欠け。それと、印の無いやつ」 「印が無いのに符牒ですか」 「札の裏に指の爪で傷を三つ付けてた。彫る道具を持ってなかった」 ネイは五つを紙に写した。字の下に空欄を五つ空けた。 「ここに名前を入れます」 「入るのは、入るぶんだけだ」 炊事場の戸が鳴って、ムトが薪を抱えて入ってきた。十四歳、飯場の手伝い。手の甲に火傷の痕が三つある。 「オリガさん、麦が残り二袋」 「明日、下ろしてくる。それより座れ」 ムトは薪を積んで、卓の端に座った。 「二年前、鉤に一の札で飯を取ってた男を覚えてるか」 「鉤に一なら、二人います」 「二人」 「前の人は背が低くて、椀を二回もらってました。次の人は背が高くて、汁だけ」 オリガはネイを見た。 「言った通りだ。札は回る」 ネイが鉛筆を握り直した。 「回った日は分かりますか」 「頁を見ればわかる。椀の数が変わる」 オリガは頁を三つ戻した。 「ここまで一日二椀。ここから一椀。境目は一昨年の八月九日」 「では十一月三日に鉤に一を持っていたのは、汁だけの男です」 「そうだ。ムト、そいつの名は」 「知りません。呼ぶときは鉤さんでした」 オリガは立ち上がって、寝床の下から木箱を引き出した。蓋に釘で数字が打ってある。 「遺留品だ。落盤のたびに拾った」 中身を土間に並べた。靴が十九足、匙が三十一本、木札が二十二枚。 「匙は柄に印を彫る。飯場の匙は共用だから、自分のを見分けるために彫る」 ネイが一本を取った。柄の先に、細い刻みが四本。 「これは符牒と違いますね」 「符牒は飯場が付ける。匙の印は本人が彫る。本人が彫ったものには、名の頭が入ってることがある」 オリガは匙を三本選んで卓に置いた。 「これは南の字だ。ヴァスクの村では名の頭の一字を彫る。ヨ、と読める」 「ヨで始まる名前」 「ヨナシュ、ヨレン、ヨルガ。三つのうちどれかだ」 「絞れませんね」 「絞る先がある」 オリガは表に出て、隣の小屋の戸を叩いた。戻ってきたとき、後ろに背の曲がった男がいた。左耳が潰れている。 「ジョナだ。第三坑の生き残り。あんたが来る前から飯を食ってる」 「ジョナさん、ヨで始まる名前の人を覚えていますか」 「ヨナシュだ」ジョナは椅子に座らずに言った。「一昨年の秋にいた。汁だけ取ってた」 「鉤に一の札ですか」 「札は見ない。顔を見る」 「その人の顔は」 「右の眉が半分無い。落盤で石が当たった」 オリガが木箱から靴を一足取り出した。 「これは誰のだ」 ジョナは屈んで、踵の内側を見た。 「ヨナシュだ。踵に麻を詰めてた。足が小さいのに大きい靴を取ったからだ」 ネイが空欄の一つを埋めた。鉤に一、ヨナシュ。 「出身は分かりますか」 「南のヴァスク。兄弟が二人いると言ってた」 「兄弟の名前は」 「聞いてない」 オリガは七冊のうち三冊目を開いて、日付を指した。 「ヨナシュは一昨年の八月十日から飯を食ってる。十一月三日で切れる。八十六日だ」 「八十六」 「うちの帳面はそれしか出せない。飯を食った日数と、食わなくなった日だけだ」 ネイが手帳の頁を変えた。 「その日数が、雇用の証明になります」 「証明にはならん。無登録だ。雇い主は雇ってないと言う」 「言えなくなる書き方があります」 「あるのか」 「食事を出したのはあなたです。あなたは登録された飯場頭です。あなたが誰に何日飯を出したかは、あなたの記録として成り立ちます」 オリガは鍋の火を落とした。灰が上がって、すぐ沈んだ。 「あたしの記録は、飯の数の記録だ」 「飯の数は人の数です。人が食べたので」 「そう書いたら、公社は何と言う」 「無登録者に飯を出した、と言うでしょう」 「罰金か」 「たぶん」 「いくらだ」 「知りません」 オリガは杓子を洗って、柄を布で拭いた。 「まあ、麦二袋ぶんではあるまい」 代筆屋のヴィドは坂の中腹に住んでいる。オリガは昼過ぎに橇を出して、控え帳を三冊借りてきた。 「無登録の奴は字が書けない。故郷へ金を送るときは、ヴィドに書かせる」 「控えに名前が残るんですか」 「送り先の名と、送り主の名。両方要る。金を出す方が名無しじゃ、郵便が受けない」 ネイが控え帳をめくった。行の間が詰まっていて、墨が薄い。 「一昨年の九月二十日、ヨナシュ・ケイタル。ヴァスク村ミレナ宛。八十デナル」 「一致だ」 「これで名前と出身と、送り先の家族が出ます」 「ミレナが母か女房かは分からんぞ」 「分からないものは分からないと書きます。空欄と、不明は違うので」 日が落ちてから、三人で符牒を並べ替えた。ムトが札を種類ごとに床に置き、ジョナが顔を思い出し、オリガが頁の椀の数で日付を切った。ヴィドの控えが名前を出した。 「輪に点は、二人で使ってる。境目は去年の四月十一日」 「先のほうがサヴァ・ドロム。控えに三回、送金があります。去年の一月、二月、三月」 「四月から止まってる」 「止まった月に、札の使い手が変わっています」 「符合だ」 オリガは木箱から靴を出して、底を返した。 「これはサヴァのだ。爪先に鉄を打ってる。第一坑の連中は自分で打つ」 「後の一人はどうしますか」 「控えに無い。匙も残ってない」 「同じ坑の生き残りは」 「去年の四月十一日から十月までの第一坑は、生きてるのがジョナ一人だ」 ジョナが壁に寄りかかったまま言った。 「輪に点の後のやつは、口をきかなかった。北の訛りだった」 「名前を呼んだ人はいませんか」 「みんな、輪、と呼んでた」 オリガはもう一冊、細長い綴じ本を卓に置いた。表紙に釘で穴が二つ開いている。 「前借り帳だ。給金の前借り。飯場が立て替えて、帳消しは次の給金から引く」 「前借りには名前が要りますか」 「拇印だけでいい。だが返せなかった奴は、あたしが名前を聞いて書いてる。返さないまま消える奴がいるからな」 「借りたまま亡くなった人は」 「十一人。名前が書いてある」 「その十一は、四十七に入りますか」 オリガが頁を繰った。ネイが写しの日付を読み上げ、オリガが符牒を答えた。 「七人が入る。四人は別の日だ」 「七人のうち、名前がまだ出ていないのは」 「三人。ここで戻る」 ネイが三行を埋めた。ペトル・ハンザ。ミロ・アルド。名の一つは、姓が空欄のままになった。 「この人は」 「オデ、としか書いてない。あたしが聞いたとき、そう答えた」 「別の場所では違う名を使っていた人ですか」 「そうだ。前借りではオデ、送金の控えではラス・オデンコ。同じ拇印だ」 「どちらを書きますか」 「両方だ」 「順番を決めます。前借り帳が先、控えが後。以後の全部の行で、その順にします」 夜半に、オリガが数を読み上げた。 「四十七のうち、名前が出たのが二十九」 「残りは十八です」 ネイが十八の空欄を紙に写した。理由を右に書いた。 「札を共用していて境目が出ないもの、四。故郷へ送金していないもの、六。同じ坑の生き残りが一人もいないもの、五。名前を二つ使っていたもの、三」 「合わせて十八だ」 「はい」 「二つ使ってたのは、どうする」 「両方書きます。どちらかが本人です」 「どちらでもない場合もある」 「その時は、どちらでもないと書き足します」 オリガは十八の紙を裏返して、もう一度数えた。指を使わずに、声に出して数えた。 「十八」 それから四十七の束を数え直した。 「四十七」 「二度数えるんですか」 「三度だ。二度合ったら合ったことにする奴は、三度目で外す」 三度目も四十七だった。 「二十九のほうも数えてくれ」 ネイが名前の入った行を数えた。 「二十九」 「二十九と十八で」 「四十七です」 「合った」 オリガは炭を指に持って、卓の端に横線を四本引き、五本目を斜めに掛けた。それを九つ並べ、最後に二本足した。 「あんたは紙に数を書く。あたしは線を引く」 「どちらでも数は同じです」 「同じにならん日がある。そういう日は線のほうが正しい」 オリガは新しい綴じ本を出した。表紙は白い麻布で、まだ角が立っている。 「これに写す。飯場の帳面は日付で並んでる。人で並べ直す」 「様式はどうしますか」 「様式」 「一行に、符牒、名前、出身、飯を食った初日と最終日、日数、遺留品の番号。同じ順で全部の行を書きます。順が同じなら、後から誰でも数えられます」 「あんた、そういうことばかり言うな」 「形が同じでないと、数えられないので」 オリガは万年の癖で、まず頁の隅に通し番号を振った。一から四十七まで。番号を先に振って、それから名前を入れた。 二十九の行が埋まった。十八の行は、符牒だけが左端に残った。 「空けとくのか」 「空けません」ネイが言った。「名前の欄に符牒をそのまま書きます」 「名前じゃないぞ」 「名前が無いのではなく、まだ戻っていないという意味になります。空欄は、最初からいなかったことにされます」 オリガは筆を持ち替えて、十八の行に符牒を書いた。鉤に一。輪に点。三角の欠け。爪の傷が三つ。書くたびに、木札を一枚ずつ卓の端へ寄せた。 「これは飯場の物か、公社の物か」 「あなたが書いた紙です。あなたの物です」 「あんたの帳簿は公社の物だと言ってたな」 「私のは公社の物です。だからここに写しています」 「写しをもう一部作ります。ムト、字は書けますか」 「数字なら」 「符牒と日数だけ写してください。名前は私が書きます」 ムトが卓の端に紙を敷いた。オリガが灯を一つ寄せた。 「二部でいいのか」 「三部です。一部はここ、一部は私、一部はどこにも置かない場所に」 「どこにも置かない場所とはどこだ」 「まだ決めていません」 「決めてから写せ」 「決まるまで作らないと、間に合わないことがあります」 オリガは白い綴じ本の最後の頁を開いて、そこに何も書かずに閉じた。 ムトが薪を足した。火が板壁を照らして、積んだ七冊の背が並んで見えた。 「四十七のうち、十八は名前が無いまま出すことになる」 「はい」 「名無しを載せた名簿を、名簿と呼べるのか」 「人数は出ています」 「人数だけだ」 「人数が出れば、遺族補償の請求は人数で立ちます。名前は後から入ります」 「後からとはいつだ」 「誰かが村を回れば」 「回るのは誰だ」 ネイは答えなかった。鉛筆の先を舐めて、四十八行目の枠を引いた。 「まだ増えるという意味です」 オリガは新しい綴じ本の表紙に、炭で日付を入れた。十一月二十六日。 坂の下で、橇の鈴が二つ鳴った。上ってくる速さだった。 第16章 セルジオ・マレク|設計者 セルジオ・マレクは六時四十分に理事室の鍵を開けた。 灰晶灯を二つ点け、机の上を左から順に並べる。入荷簿、契約統計、未決の函。 函の紙は昨日の退出時に十一枚だった。今朝は十三枚ある。夜のうちに二枚増えている。 七時にヨナが来た。書記官で二十四歳。外套を掛けてから、脇に抱えた帳面を開く。 「昨日の分です。市内の手術予定、今週二百六十一件。うち移痛を前提とするものが二百四十七件」 「産科は」 「四十件。うち二十二件が第三種以上の指定です」 「灰晶の在庫」 「北棟の倉に百四函。今月の入荷は四十二函。前月と同じです」 「等級の内訳は」 「甲が九函、乙が二十六函、丙が七函」 「産地証明の判は全部そろっているか」 ヨナが入荷簿を横から覗いた。 「甲と乙にはあります。丙の七函は、証明欄が空欄のまま受け入れられています」 「いつからだ」 「遡ると、去年の四月から連続しています」 「誰が受け入れた」 「倉の主任です。判が無くても、目盛りの検査を通れば受け入れる運用になっています」 「運用は誰が決めた」 「記載がありません」 セルジオはその行に印をつけた。 「四十二函で二百四十七件はまかなえるか」 「計算では二百五十一件分。四件の余裕です」 セルジオは入荷簿を開いた。指を左の欄に置く。 「先月の余裕は」 「十一件でした」 「その前は」 「十九件」 「四、十一、十九。減っている」 「入荷が同じで、手術が増えているからです」 「増やしているのは我々ではない。街が増やしている」 セルジオは茶を淹れさせなかった。淹れると冷める。冷めた茶が机に残るのを、二十年やめている。 「未決の函に二枚増えた。何だ」 ヨナが上の二枚を抜いた。 「一枚は査定官カイム・ヴェスからの照会です。第四号様式の質問状」 「内容は」 「契約番号の採番規則について。北方由来の灰晶を用いた契約だけ、番号の桁が一つ多い。その根拠となる内規の番号を示せ、と」 「示せる」 「示せますか」 「示せる。内規は第十七号の付表二だ。触媒の産地区分を番号に含める。八年前に私が起案した」 「では回答を作ります」 「作れ。ただし付表二の全文を写して添えろ。抜粋にするな。抜粋は隠したことになる」 ヨナがペンを動かした。手が止まる。 「理事、これを答えると、査定官は次に何を訊いてきますか」 「桁の多い契約の一覧だ」 「出しますか」 「訊かれたら出す。訊かれる前には出さない」 もう一枚は封が違った。北方の郵送で、蝋が二重に押してある。 「こちらは陳情書です。差出は黒喉の飯場、オリガ・タン」 「またこれか」 「ご存じですか」 「毎年来る。食事の実費と、賃金の未払いだ。これで四通目になる」 「前の三通は」 「係属していない。受付で止めて、年度末に参考綴りへ回している」 「中身は例年と同じ書き方です。登録坑夫は百九十名、実際に出した椀は二百を超える。差の分の麦代を払え、と」 「額は」 「三年分で麦代が四百二デナル。ほかに、賃金を受け取らないまま来なくなった者の分が、別に立ててあります」 「そちらは人数で書いてあるか」 「枚数です。渡した木札のうち、返ってこなかった札の数で立ててあります。日ごとに、木札の数と、椀の数と、返却された札の数。返らなかった札は別紙に書き出してあります」 「枚数は」 「二年四か月で八十七枚。年ごとに増えています」 セルジオは査定官の照会票をもう一度見た。それから椅子を引いて座り、統計簿の背表紙を三冊たどって、四冊目を抜く。 「同じ三年の分散事案を数えろ。私の側の数だ」 ヨナが表を追った。指が止まる。 「七十九件です」 「契約の本数は」 「四百七十四本。一件あたり六本、単位は十二分」 「差は八だ」 「八件、こちらに無いということですね」 「そうだ」 セルジオは別紙の写しを机に置いた。焼き印の形が並んでいる。鉤、二本線、欠け椀、鳥、三点。 「八人は、痛みが動かなかった者だ」 「動かなかった」 「即死は移せない。移痛は生きている神経にしか繋がらない。心臓が止まった体からは何も出ない」 「では、その八人はどこにも数がありません」 「私の方式の外にいる。方式の外は、私が作ったものではない」 ヨナはペンを持ったまま、二秒黙った。 「では、七十九件のほうは、どこに数がありますか」 「代痛人の帳簿だ」 「病名は」 「胆管、腎、術後疼痛。三つに割ってある」 「別の病名で」 「別の欄でだ」セルジオは指で契約統計の見出しを叩いた。「隠していない。書く欄を変えた。欄を変えることを、私は配分と呼んでいる」 「他の呼び方をする者もいます」 「いるだろう。呼び方は自由だ。数は自由ではない」 ヨナが陳情書を封に戻そうとした。セルジオが手で止めた。 「戻すな。係属にする。番号を振れ」 「三通は参考綴りです。今年の分だけ係属させますか」 「させる」 「係属させると、記録に残ります」 「残す」 「理事、これは我々に不利な紙です」 「不利な紙を捨てる部署は、有利な紙も信用されなくなる。番号を振れ。今日の日付で」 ヨナは表紙に番号を書いた。係属十一月二十二号。 「原本は」 「保管。写しを一部作って、私の抽斗に入れておけ」 八時十分。会議室で数理小委員会が始まった。出席は五名。議題は三つ。 第一議題は入荷の逼迫。第二議題は分散単位の見直し。第三議題は帳簿回収手続の様式。 「単位を十二分から十四分に延ばせば、一事案あたりの契約本数は六本から五本に減る」 発言したのは医務課の代表だった。四十代の男で、机の下で足を組み替える癖がある。 「代痛人の拘束が一人分減ります。四時間枠が一つ空く。手術に回せます」 「十四分にしたときの重篤化率は」 「十二分で〇・四%、十三分で〇・七%、十四分で二・一%です」 「二・一%は跳ねている。どこで跳ねる」 「十三分と十四分の間です」 「間のどこだ」 「そこまでは測っていません」 セルジオは表を左に寄せた。 「十二分は測って決めた数字だ。十三で跳ね始め、十四で三倍になる。跳ねる位置を知らないまま延ばすのは、設計ではない」 「では十三分では」 「〇・七%は、年間の分散契約で何人だ」 ヨナが即答した。 「昨年の本数は百七十四本。〇・七%で一・二人」 「十二分なら」 「〇・七人」 「差は〇・五人だ。空く四時間枠で救えるのは何件だ」 医務課の男が紙をめくった。 「年間で三十件前後」 「三十件のうち、移痛が無ければ死ぬのは」 「六から八件」 部屋が静かになった。誰かの椅子が鳴った。 「〇・五人と七人だ」セルジオは言った。「数の上では延ばすべきだという結論になる」 「では」 「ならない。十三分の重篤化がどこから来るのかを説明できない者が、その数字を使ってはいけない。跳ねる位置が分からないなら、跳ねる手前まで下げる」 「下げる、というのは」 「十二分を十一分にする。契約本数は七本になる。代痛人の手当は一件あたり据え置き、総額は増える」 「予算が」 「予算は私の担当だ。第二議題は以上」 第三議題は帳簿回収の指示書だった。セルジオが原案を回した。 「署名欄を一つ増やす。所属長の欄だ。今の様式は起票者と受領者しか無い」 「増やすと、回収が一日遅れます」総務の代表が言った。 「遅れていい」 「死亡事案の場合、遺留品の整理と重なります。現場は早く片づけたがる」 「片づけたがる者に紙を渡さない。そのための欄だ」 「では、去年からの回収分は」 「遡って署名を集めることはしない。集めれば、集めた日付が入る。後から入れた日付は嘘になる」 「空欄のまま残りますが」 「残す。空欄は空欄として残す」 異議は出なかった。原案は可決された。 会議のあと、ヨナが廊下でもう一枚の紙を出した。 「受付から回ってきました。訂正申請の不受理分です。理事の閲覧印が要ります」 「不受理は閲覧しない決まりだ」 「先月から、月に一度まとめて回すことになりました」 「何件ある」 「三件です。うち一件は、理由欄が六行あります」 「読み上げろ」 ヨナが紙を持ち上げた。 「背部、貫通、規則的、四回、間隔十一秒、呼吸と無関係」 セルジオはペンを置いた。 「帳簿番号は」 「4419。第二種の高耐性、申請日は十一月十九日、不受理の理由は申請適格の欠如」 「担当は」 「カイム・ヴェスです」 セルジオは窓の外の杭を見た。しばらく何も言わなかった。 「十一秒というのは、巻き上げ機が一周する時間だ」 「巻き上げ機」 「坑口の。籠を上げて下ろす。回りきるのに十一秒かかる」 「それは、この申請と関係がありますか」 「無い。私が余計なことを言った。閲覧印を押す」 セルジオは印を押した。押した位置は、規定どおり右下だった。 会議のあと、セルジオは自室に戻って抽斗の下段を開けた。 八年前の綴じ込みがある。表紙に自分の字で「単位設計・第一版」と書いてある。角が擦れて紙が白い。 ヨナが茶器を下げに来た。 「理事、一つ伺っていいですか」 「どうぞ」 「なぜ、この方式を作ったのですか」 セルジオは綴じ込みを開かずに、表紙に手を置いた。 「八年前の十一月に、第二産科が三日止まった」 「灰晶が来なかったからですか」 「黒喉で落盤があって、操業が十二日止まった。鉱山法では、坑内の死亡一件につき操業停止が六日だ。二件出たから十二日になった」 「十二日分の灰晶が来ない」 「街の在庫は九日分だった。三日足りない。その三日で、手術待ちの列が止まった」 「何件ですか」 「産科と外科を合わせて、待機は六十四件。三日のうちに十九人が死んだ。うち四人は出産だった」 ヨナが手を止めた。 「数えたのは私だ」セルジオは言った。「当時は数理の課長で、待機表を作る側にいた。十九という数字は、私が紙に書いた」 「それで」 「委員会に呼ばれて訊かれた。停止を短くする方法はあるか、と。私は二つ答えた。一つ、鉱山の安全設備を増やして落盤を減らす。二つ、坑内の死亡を減らす」 「二つ目は、同じことでは」 「同じではない。落盤を減らすのは工学だ。死亡を減らすのは、救出だ」 セルジオは綴じ込みの背を指で押した。 「生き埋めになった男を掘り出すには、まず痛みを外に出す。骨盤が割れている人間は、痛みがある限り動かせない。動かせなければ掘れない。掘れなければ死ぬ」 「現場で移痛を」 「坑口に台を置いた。八年前の三月だ。それで、その年の坑内死亡は十一件から四件に減った」 「減ったのですね」 「減った。私はそこまでを設計した」 ヨナが茶器を持ったまま立っている。 「そこから先は、誰が」 「誰も設計していない。積み上がっただけだ」 セルジオは椅子の向きを窓の方へ変えた。運河の水位を示す杭が、昨日より一段沈んでいる。 「坑口の台で痛みを引き取ると、契約が発生する。契約には契約者が要る。無登録の男には名前が無い。名前が無ければ、契約は成立しない」 「では、どう処理したのですか」 「痛みだけが残った。引き受けた代痛人の体には四時間分の痛みが入っていて、それを記帳しないわけにはいかない。記帳するには病名が要る」 「病名を、こちらで付けた」 「付けた。最初は一件だ。八年前の四月、胆管炎と書いた。書いたのは私ではないが、書けと言ったのは私だ」 「その一件が」 「三年で七十九件になった」 ヨナが茶器を胸の高さで持ち直した。 「理事は、受けたことがありますか」 「何をだ」 「痛みです」 「一度ある。八年前の四月、単位を決める前だ。第四種で登録して、十二分だけ受けた」 「何の痛みですか」 「他人の胆管の痛みだ。強度は六と書かれていた」 「十二分は」 「長かった。私の感じ方では、四十分あった」 「では、なぜ十二分にしたのですか」 「私の感じ方は数字にならない。重篤化率だけが数字になった。〇・四%で線を引いた」 「その線に、理事の十二分は入っていますか」 「入っていない。一件では率にならない」 セルジオは机に戻り、統計簿を閉じた。 「言っておく。私は隠すために始めたのではない。処理する欄が無かったから、有る欄に入れた。それだけだ」 「今は、どうですか」 「今は、隠している」 ヨナが茶器を置き直した。音が一度鳴った。 「訂正しますか」 「訂正の様式が無い。無登録者の死亡を記載する欄は、公社にも鉱山監督局にも存在しない。作るには法が要る。法を作るには、まず何人いるかを出さないといけない」 「人数を出せば、止まりますね。灰晶が」 「止まる。街の手術は週に二百四十七件だ。三日止めれば十九人だった。三十日なら計算できるか」 ヨナは答えなかった。 「答えなくていい。私は毎年計算している」 セルジオは陳情書の写しを抽斗に入れ、鍵をかけた。鍵は帯の内側に戻す。 「ヨナ、査定官への回答は今日中に出せ。付表二は全文だ」 「はい」 「それから、係属十一月二十二号には、備考を一行足しておけ」 「何と書きますか」 「差八。移痛記録に対応しない事案が八件ある。以上だ」 「理事、その八件は、我々の統計には載りません」 「載らない。だから備考に書く」 ヨナが出て行ったあと、セルジオは未決の函の底に手を入れた。 一番下に、封を切っていない書類が一通残っている。医務課からで、先月十八日の日付。 表題の欄が空白で、右下に契約番号だけが書いてある。帳簿四五五一。 セルジオは封を切らなかった。切る前に、灰晶灯をもう一つ点けた。 第17章 ネイ・ソルグ|限界試験 十二月の三日、九時十分。使送係の詰所は本館の裏にある。台車が四台、壁際に並んでいた。 ブランは麻紐を巻き直していた。爪は短い。 「四四一九」ブランは手を止めずに言った。「訂正申請なら受付だ」 「訂正は先月出した。不受理になった」 「なら用件は」 「十一月十四日、第六室の割り当て紙だ」 ブランは紐を膝に置いた。 「あの日のことは記録課が掲示した」 「掲示は読んだ。四行だった。私が聞きたいのは紙の様式だ」 「様式」 「終了時刻の下に、もう一行あった。空欄だった。私の紙には無い」 ブランは詰所の柱を見た。柱に台帳が紐で吊るしてある。 「予備欄がある紙は、受付の刷りじゃない」 「どこの刷りだ」 「医務課だ。様式甲三十一。束で来る」 「束は何枚だった」 「六枚」 「一度に六枚か」 「いや。一枚ずつ、六回運んだ」 ネイは手帳を開いた。 「運搬台帳に日付が書いてあるはずだ」 「書いてある。日付と枚数だけだ。中身は見ない」 「日付を読んでくれ」 ブランは台帳を外して、頁をめくった。指が日付の欄で止まる。 「十一月の一日。四日。七日。十日。十二日。十四日」 「六回とも第六室か」 「室は書かない。宛先は医務課詰所だ」 ネイは六つの日付を並べて書いた。間隔は三日、三日、三日、二日、二日。 「立会は何人だ」 「三名。人数だけ書いてある。名前の欄が無い様式だ」 「あなたは入っていたか」 「入っていない。私は十四日、第七室だった」 ブランは紐を巻き直しはじめた。 「ネイさん、俺はあの日、開始と書いて、終了は書いていない」 「知っている」 「終了を書かないと、台帳は閉じない。閉じない台帳は、月末に本館へ上がる」 「上がったのか」 「上がった。返ってこない」 「上げたときに控えを取ったか」 「取らない。使送は控えを持たない決まりだ」 「持たない決まりを、誰が決めた」 ブランは台車の把手に手を置いた。 「そこまでは知らない。俺は運ぶ側だ」 「六回、何時に運んだ」 「朝だ。八時半に医務課詰所へ届けて、判をもらう」 「六回とも同じ時刻か」 「十四日だけ違う。あの日は十一時に呼ばれて、もう一枚足した」 ネイは鉛筆を止めた。 「十四日は二枚か」 「二枚だ。一枚目は朝、二枚目は十一時。二枚目は白紙だった」 「白紙の紙を運んだのか」 「刷りは入っていた。書き込みが無かった」 「その一枚の宛先は」 「同じだ。医務課詰所」 十時四十分、北棟三階の廊下。突き当りに掲示板がある。ネイは端から読んだ。契約単価の改定が一枚、灰晶の入荷遅延が一枚、代痛人の年間枠の残時間照会の受付時間が一枚。 カイムは階段の側から来た。外套の下に紙の束を挟んでいる。 「十一時に出ます。時間は四十分です」 「足りる」 カイムは束を出した。罫を手で引いた紙で、字は細かい。 「写しです。原本は動かしていません。筆写に二時間かかりました」 「表題は」 「単一受容限界試験。医務課起案、理事会附議前の予備実施」 「予備実施とは」 「本決裁の前に、数字だけ先に取ることです。様式上は演習と同じ扱いになる」 ネイは一枚目を膝に置いた。 「目的の欄を読んでくれ」 「一事案に要する契約本数の圧縮。現行は一事案六本、単位十二分。これを一本で受容できるかを測る」 「六人が一人になる」 「拘束される代痛人が五人減ります。四時間枠が五つ空く。空いた枠は手術に回る」 ネイは手帳に書いた。六本、一本、五人。 「番号も一つになる」 「番号」 「六本なら契約番号が六つ残る。一本なら一つだ。数える手がかりが五つ消える」 カイムは紙の端を揃えた。 「そこは目的の欄に書いてありません」 「書かなくても減る」 「減ります」 ネイは二枚目をめくった。表がある。行が六つ。 「読み上げる。合っているか見てくれ」 「どうぞ」 「第一回、十一月一日。寄せた本数、二本。二十四分。灰晶二・四グラム。強度七」 「合っています」 「第二回、四日。三本。三十六分。二・八グラム。強度八」 「はい」 「第三回、七日。四本。四十八分。三・二グラム。強度九」 「その日の秤量は私が点検しました。三・二です」 ネイは指を止めた。 「私はその数字を知っている。先週のハルは三・二グラムだと、十四日に手帳に書いた」 「書き方は」 「秤の数字だけだ。理由は書いていない」 「第四回、十日。五本。六十分。三・六グラム。強度十」 「等級表の上限です」 「第五回、十二日。五本。六十分。三・六グラム。強度十」 「同じ条件で二度取っています。再現の確認です」 「第六回、十四日。六本。七十二分。四・〇グラム。強度欄、空白」 カイムは紙の角を押さえた。 「一つ手前に、元事案の欄があります」 「元事案」 「寄せた六本が、どの事案から出たかです。第一回から第六回まで、全部同じ書き方をしている」 「読んで」 「事案符号のみ。病名は入っていません。符号の頭が二です」 ネイは自分の写しの頁を出した。三年分を書き写した紙で、端が反っている。 「荷口の二だ。北の灰晶を使った契約に付く」 「そうです」 「試験の六本は、演習用に作った痛みではない」 「作れません。移痛は、どこかで実際に起きた痛みしか動かせない」 「では、六本の元は、その日に誰かが受けているはずの痛みだ」 「本来なら六人に分けて配る六本です。その日、その六本は他の誰にも配られていない」 ネイは六つの日付の下に、符号の頭の二を並べて書いた。 「一回で一事案だ。六回なら六事案」 「表の上ではそうなります」 「事案は六つ。人は六人だ」 「事案の欄に人は書いてありません」 「書いていないから、六人になる」 カイムは答えなかった。ネイは表の右端を見た。 「開始十三時二十分。七十二分後は十四時三十二分だ」 「死亡確認の時刻と同じです」 「途中で止めた形跡は」 「あります。四枚目です」 ネイは四枚目を出した。 「中止基準。脈拍が毎分四十を下回った場合、立会人は主管に中止を進言する」 「進言の時刻が入っています」 「十四時十九分」 「主管の判断欄は」 「継続。十四時二十分」 「判断者の署名は」 「印だけです。医務課の課印で、人の印ではありません」 ネイは判断欄の枠を指でなぞった。 「進言から十二分ある」 「はい」 「単位一つ分だ」 カイムは紙を一枚めくって、また戻した。 「そこは私も同じところで止まりました」 ネイは三枚目に移った。同意書の写しだった。 「志願の欄に丸が付いている」 「本人の署名と拇印があります。保護者欄は西区の舎監です」 「募集はどこに出た」 「第一種の控室です。掲示は一枚。掲示期間は三日」 「第二種の控室には」 「出ていません。対象が第一種の高耐性に限られていたので」 ネイは掲示板のほうを見た。廊下の突き当りで、紙が四枚、画鋲で留まっている。 「私は掲示板を全部読む」 「その掲示は、あなたが入れない部屋にありました」 「第一種は四人だ」 「四人のうち、志願は一人です」 ネイは手帳に一と書いた。それから四と書いて、間に線を引いた。 「報酬の欄を読んでくれ」 「一回につき銀貨百二十枚。試験終了まで六回。総額七百二十枚」 「支払は」 「五回分、六百枚が支払済です。第六回は異常終了で不払い」 「不払いの根拠は」 「終了欄が空白だからです。終了時刻が無い契約は完了していない」 ネイはしばらく黙って、数を並べた。 「私の単価は四時間で銀貨八枚だ」 「第二種の高耐性で八枚は標準です」 「七百二十枚は九十回分になる。三百六十時間だ。年の枠は二百四十時間しかない」 「一年半かかります」 「彼は十四日でやった」 「十三日です。一日から十四日までで」 ネイは同意書の下の欄を見た。用途と書いてある。 「用途欄に金額と名前がある」 「読み上げますか」 「読んでくれ」 「トビ・ケル。十一歳。年季買戻、銀貨七百二十枚。振込先、西区の孤児院の買戻勘定」 ネイは鉛筆の先を紙から離した。 「六回で七百二十枚だ」 「はい」 「額が先に決まっていて、回数が後から決まった」 「そう読めます。七回目の予定は入っていません」 「では、予備欄は何のためにある」 カイムは五枚目を出した。 「同日中の追加契約の欄です。第六回で規定の六本を受け切った場合、その日のうちにもう一本を継ぎ足して、七本目を測る」 「一契約四時間の規則は」 「継ぎ足しは新規契約になりません。予備欄に書けば、同一契約の延長として扱われます。様式甲三十一にだけある扱いです」 ネイは手帳の頁を戻した。十一月十四日の頁に、一行だけ書き足した質問がある。 「彼は私に聞いた。四時間って、途中で足せるか、と」 「あなたはどう答えましたか」 「足せない。間を八時間空けないと同日再契約にならないと答えた」 「規則としては正しい」 「彼の紙の上では正しくなかった」 カイムは束を膝で揃えた。 「彼は予備欄を見て、その意味を確かめようとした。確かめる相手にあなたを選んだ」 「私は規則を答えた」 「規則しか答えようがない」 ネイは手帳を閉じた。閉じてから、もう一度開いて、数字の頁を出した。 「契約番号の末尾二桁だ」 「八桁の十九件ですね」 「〇七の二二五一の〇八。末尾は〇八だった」 「附表に定義の無い枝番です。頭の六桁が同じ番号から、枝の順に振られています。〇七二二五一の枝は〇一から〇八まで。ハルの六本は〇三から〇八です」 「〇一と〇二は」 「別の第一種です。二本寄せで、第二回の途中で中止。中止の理由欄は空白でした」 「その人はどこにいる」 「先月から契約が入っていません。所在は帳簿にありません」 ネイは十九から八を引いた。 「残りは十一件だ」 「十一件は別の系列です。まだ読めません」 ネイは写しを膝の上で裏返した。 「この調書は理事会に出たのか」 「出ていません。医務課の未提出の函にあります」 「未提出のまま、数字だけ会議に出ることはあるか」 「あります。調書は本決裁の前に動かせませんが、率だけなら口頭で言える」 「率」 「重篤化率です。単位十二分で〇・四%、十三分で〇・七%、十四分で二・一%。先月の会議でそう報告されています」 「跳ねる位置は」 「測っていない、と答えたそうです」 ネイは表の第五回と第六回の行に指を置いた。 「五本と六本の間で止まっている」 「止まっています」 「測ったから止まったのか、止まったから測れなかったのか」 「調書の結語は一行です。単一受容の限界は六本未満」 「未満と書くには、六本を一度やる必要がある」 カイムは写しの束を揃えて、膝から下ろした。廊下の時計が十一時十分前を指している。 「十一時に出ます。娘の診察です。手術の前に一度診る決まりになっている」 「次の手術は何本使う」 「分散事案ではありません。単独の契約です。第一種が二人、四時間を二本」 「誰が受ける」 「私は受痛者の名前を見ない位置にいます」 「見ない位置は、あなたが作った位置か」 「私が九年かけて座った位置です」 十二時二十分、西区。孤児院の事務室は南向きで、窓の下に薪が積んである。舎監のオドは帳付の卓にいた。六十過ぎで、そろばんの珠を親指で戻す癖がある。 「四四一九、ネイ・ソルグ」ネイは帳簿を台に置いた。「買戻勘定の入金を見せてほしい」 「代痛人に見せる決まりはないよ」 「ここの出身だ。第九寝台にいた」 オドは眼鏡を上げて、ネイの顔を見た。それから帳付の頁をめくった。 「十一月の分だ。入金は五回。百二十枚ずつ」 「合計は」 「六百枚」 「買戻の値は」 「七百二十枚。差額が百二十枚残っている」 「六百枚で買い戻せるか」 「買い戻せない。年季は分割しない。全額そろって初めて名前が抜ける」 「六百枚はどうなっている」 「預り金だ。卓の下の函に入れてある。誰も取りに来ない」 「持ち主は」 「ハル。十一月十四日以降、受取人の欄が空いている」 オドはそろばんの珠を戻した。 「あの子は九月に一度来て、値を聞いていった。そのときは七百二十枚だと答えた」 「値は変わったか」 「変わっていない」 「値はどう決まる」 「残りの年数だ。十一歳なら六年ある。一年百二十枚で六年」 「一年百二十枚」 「そう決まっている。私が決めたのではない」 ネイはそろばんの珠を見た。 「一年が銀貨百二十枚で、試験一回も銀貨百二十枚だ」 オドは珠に指を掛けたまま黙った。 「同じ額か」 「同じだ」 「偶然か」 「聞いていない。額は公社が書いて寄越した」 ネイは手帳に、百二十を二つ並べて書いた。間に線を引いた。 ネイは手帳に書いた。六百、七百二十、差百二十。 「トビ・ケルはここにいるか」 オドは頁を三枚めくった。指が止まった。 「昨日まではいた」 「昨日まで」 「十二月の二日に出た。書類が来て、抜けた」 「どこの書類だ」 「公社の登録課だ。写しが挟んである」 オドは紙を抜いて、台に滑らせた。 新規登録。トビ・ケル。十一歳。第四種。年間枠、八十時間。 ネイは番号の欄を見た。 帳簿番号四七一三。開設、十二月の二日。 「一枚、写していいか」 「写すのは自由だ。持って出るのは駄目だ」 ネイは鉛筆を出して、番号を書いた。書いてから、十一と九十の間に線を引いた。 外に出ると、薪の山の上で雀が二羽鳴いた。ネイは手帳を閉じずに歩いた。 四七一三は、これから誰かの十二分を受ける番号だ。 第18章 カイム・ヴェス|持ち出し 公社本館三階、査定室。午後八時十七分。廊下の灯は二つおきに落としてある。 カイムは机の上に三枚並べた。様式十二号、証拠物件提出書。様式八号、内部照会票。もう一枚は白紙。 ノックが二度、間を置いてもう一度。取り決めた回数だった。 「入れ」 ネイが入ってくる。外套の裾が濡れている。抱えているのは油紙で包んだ束だった。 「十一冊です」 「写しか」 「三年分。私の受痛分だけ」 包みを机に置く。魚屋の包装紙を裁って綴じたものだった。罫線は手で引いてある。 「紙は」 「市場でもらいました。買っていません」 「そこは誰も咎めない」 カイムは一冊目を開いた。日付、契約番号、痛みの種類、強度、開始と終了。書式は帳簿と同じ順に並んでいる。 「上から三行、読め」 「九月三日。契約番号七一二二〇四。線状。強度七。二時十一分から二時十四分」 「原本を出せ」 ネイは外套の内側から帳簿を出した。表紙に四四一九。角が擦れて革が白い。 同じ行を突き合わせる。数字は一つも違わない。 「写しは証拠にならない」 「なぜですか」 「三つある。一つ、公社の様式紙ではない。二つ、査定官の検印がない。三つ、筆跡がお前のものだ」 カイムは原本の右端を指した。記帳の一行ごとに、小さな朱の印が押してある。 「これが検印だ。灰晶の秤量記録と対になっている。印がなければ、その記帳は公社が受け取っていないことになる」 「写しに印は押せませんか」 「押せば私が偽造する。それは別の罪だ」 ネイは写しを閉じた。 「では原本を出すしかない」 「そうだ。そして原本は公社の所有物だ」 ネイは机の縁に指を置いた。 「公社の外に出す道はありませんか。市の監査委員会があります」 「ある。だが受理の条件に公社への事実照会が入る。照会は査定部に回る。回った時点で帳簿の所在が知れる」 「新聞は」 「四紙ある。うち二紙は公社が広告を出している。残り二紙に持ち込んだとして、記事になるまでに裏取りをする。裏取りの相手は公社だ」 「教会は」 「移痛はもともと教会の秘蹟だ。公社に移管したとき、記録の照会権も一緒に渡した。今の司祭に帳簿を読む権限はない」 ネイは指を離した。 「どこへ持っていっても、公社に戻るんですね」 「戻る。だから公社の中で出す。審査会は公社の中で、議事録が残る唯一の場だ」 「議事録は誰が書きますか」 「書記が二名。速記でつける。委員の発言も、こちらの発言も、時刻つきで残る」 カイムは定款集を引き寄せ、頁を開いて机の上を滑らせた。 「第四十一条。読め」 「痛みの帳簿は移痛公社の所有に属する。代痛人は交付を受け、携帯し、返還の義務を負う」 「二項」 「第三者への交付、複製、公社の許可なき館外への持ち出しを禁ずる」 「三項」 「前項に違反した場合、免許を取り消す。ならびに市法第百七条を適用する」 「百七条は」 「窃盗。禁錮二年以下、または罰金」 ネイは指で帳簿の角を撫でた。革の白い部分だった。 「複製の禁止は、もう破っています」 「九月三日からだな」 「はい」 「その日から今日まで、お前は毎晩違反している」 「数えました。八十七日です」 「回収の手順を言うぞ。免許の停止が決まると、当日中に係員が二名で宿舎に行く。帳簿を受け取り、受領票を切る。帳簿は保管庫に入り、五年後に廃棄される」 「ハルのときは、その日の夕方に来ました」 「決定より先に来ている。順序が逆だ」 「逆でも票は切れるんですか」 「切れる。誰も突き合わせないからだ」 ネイは帳簿の背に手を置いた。 「四四一九が保管庫に入ったら」 「五年待つ人間はいない」 カイムは白紙を引き寄せ、線を三本引いた。左に罪の名、中に条文、右に空欄。 「整理する。罪は三つに分かれる。一つ、複製。二つ、館外への持ち出し。三つ、提出」 「提出も罪ですか」 「公社の内部文書を審査会の外へ出せば規程違反だ。だが審査会は公社の中だ。中でなら出せる」 「では罪ではない」 「提出者の名前が要る。様式十二号の提出者欄は空欄では受理しない。出所も書く。入手日時も書く。書けば、持ち出した人間が誰か、そこに残る」 ネイは様式十二号を自分の側に向けた。文字を目で追っている。 「提出者に私の名前を書けますか」 「書けない。代痛人は提出資格がない。査定官か、理事か、監査室の人間だけだ」 「なら誰が書くんですか」 カイムは答えず、机の抽斗から記録帖を出して開いた。 「先に読み合わせをする。契約と同じ手順だ。お前が失うものを、順に読む。異議があれば止めろ」 「はい」 「一、免許。第二種、番号四四一九。取り消し。再交付の規定はない」 「承知」 「二、帳簿。返還されない。身分証を兼ねているから、市内で職に就く際の証明が出ない」 「承知」 「三、住居。代痛人宿舎は公社の管理だ。免許取り消しの翌日に退去」 「承知」 「四、受痛による収入。第二種の月平均は十四デナル。以後ゼロ」 「承知」 「五、市法百七条。禁錮または罰金。罰金は八十デナルから」 「承知」 「六、受痛歴。免許が消えると受痛歴の証明も出ない。三年分の高耐性の記録は、どの病院でも使えない」 「承知」 「七、灰晶に触れる仕事はすべて免許制だ。秤量係も運搬も就けない」 「承知」 「異議は」 「ありません」 カイムは顔を上げた。 「最後に一つ。審査会が帳簿を証拠として採用しなかった場合、いま読んだものだけが残る」 「承知」 ネイは指を組んで机に置いた。爪の周りに灰晶の粉が入り込んで、線のように残っている。 「今度は査定官の分を読んでください」 「私の分は関係ない」 「様式十二号の提出者欄に書く人の話です。読み合わせは双方でやると、契約書に書いてあります」 カイムは記録帖の頁をめくった。 「一、査定官職。免職。検印は失効」 「二は」 「二、年金。在職十四年分。免職では出ない」 「三は」 「三」 窓の外で艀の鐘が鳴った。二回。 「三、娘の手術枠。十二月九日、午前七時。移痛手術は公社の職員家族枠で組んである。免職と同時に外れる」 「次の枠は」 「一般枠は四か月待ちだ」 ネイは何も言わなかった。二十秒ほど、紙をめくる音もしなかった。 「エナは九歳だ。骨形成不全。左の大腿骨を年に四度切って、伸ばして、留める。手術は三時間半。麻酔だけでは足りない」 「代痛人がつくんですね」 「第一種が二人。四時間契約を二本」 「その二人の帳簿の病名は」 「見た。正しく書いてある」 「では、その二人は数えられている」 「そうだ」 カイムは様式十二号を手元に引き戻した。羽根ペンを取り、インクをつける。 提出者欄に書いた。監査室気付。職名欄は空。番号欄も空。 「これでも受理は通る。監査室宛の匿名提出は年に四、五件ある。出所欄には拾得と書けばいい」 「拾得」 「廊下に落ちていた、で通る」 ネイは書き上がった様式を見ている。表情は動かない。目だけが提出者欄で止まっている。 「去年の匿名提出は何件でしたか」 「四件だ」 「そのうち審査会にかかったのは」 「ゼロだ。四件とも参考書類として保管に回った。出所が確かめられないから、委員が読む前に机の下に行く」 「では通りません」 「通らない。だが私の名前は残らない」 ネイは指を組み直した。 「あの指示書と同じですね」 「何がだ」 「ハルの帳簿を回収した指示書。署名欄が空白でした。査定官が上に問い合わせたと聞きました」 カイムは羽根ペンを置いた。 「誰から聞いた」 「回収に来た係員が言いました。査定官が騒いだせいで書式が増えた、と」 壁の時計の針が一目盛り進んだ。カイムは書きかけの様式に手を触れなかった。 カイムは原本を開き、九月三日の頁から順に、右端の朱印を指で追った。頁を繰る。三年分。 「二百十四個」 「何がですか」 「この帳簿に押された検印のうち、私の印が二百十四個ある。契約番号の桁が違うものだけ数えると、そのうち百六十一個だ」 「見逃したんですね」 「様式内だと書いて通した。二百十四回」 カイムは書きかけの様式十二号を裂いた。二つに、それから四つに。 新しい様式を出す。提出者欄に書いた。カイム・ヴェス。職名、契約査定官。番号、〇七七。 「出所、代痛人四四一九本人からの任意提出。入手日時、十一月二十八日、二十時五十四分」 「時刻を書くんですか」 「書かなければ、いつどこから出てきたか分からない紙になる。分からない紙は、こちらが今まで散々作ってきた」 朱肉を開けて、検印を押した。二百十五個目だった。 「この紙は明日の朝、監査室の受付に出す。受付簿に番号が入る。番号が入れば、握り潰しても記録が残る」 「番号が入るまでに止められませんか」 「受付は八時半に開く。私は八時二十分から前に立つ」 カイムは様式十二号を二枚重ねて写しを取り、日付印を押した。 「一部は受付へ。一部は私が持つ。三部目は作らない。作れば所在を数えきれなくなる」 「私は持たなくていいんですか」 「お前が持つのは帳簿だけだ。持ち物が増えるほど、通用門で止められたときに説明が長くなる」 ネイが帳簿に手を伸ばした。カイムは押さえなかった。 「持ち出しはお前の罪だ。私が代われない。代痛の対象は肉体の痛みだけだ」 「知っています」 「提出は私の罪だ。お前が代われない。資格がない」 「はい」 「それから、北の分だ。飯場の食事記録は公社の所有物ではない。あれを出すのはオリガ・タンの権利であって、窃盗にならない。名前は本人に書かせろ。私やお前が代筆すると出所が濁る」 「伝えます」 「黒喉から市までは荷馬車で二日、雪が降れば三日だ。四日の十時に間に合わせるには、遅くとも一日の朝に出る」 「本人が来なくても、記録だけ送ってもらう手はありますか」 「ある。封をして、封の上に本人の署名をまたがせる。開封は委員の前でやる」 「本人が来たほうが通りますか」 「通る。書いた人間がその場にいれば、委員は中身の説明を聞く」 「来られません」 「理由は」 「峠は先週から橇だけです。橇は郵便と灰晶の箱しか積みません。人の乗る便は春までありません」 「仕立てれば乗る」 「乗っても、あの人は出られません。二百人分の朝です。釜は四つあって、請求書に判を押すのは一人です。二日空ければ無登録の分が請求書に載らない。載らなければ、翌日から百九十人分しか届きません」 「代わりに立てる者は」 「ヤナという娘がいます。三月前に来ました。様式の書き方を知りません」 「なら出せない」カイムは言った。「本人が出れば、本人が数えている人間の飯が先に止まる。順序が逆だ」 「では、書いた人間がいない紙で通る形を作る」 「作れますか」 「作る。監督局の受理番号と届出の日付を、本人に表紙へ書かせろ。番号と日付の入った紙は、書いた人間がいなくても、後から同じ紙かどうかを確かめられる」 「中身を訊かれたら、誰が答えますか」 「お前だ。三年分の写しを持って、飯場の綴りと突き合わせたのはお前だ。委員が訊くのは、その紙がどこから来たかだ」 「私は書いた人間ではありません」 「書いた人間でなくていい。数の出どころを言える人間ならいい」 「橇代が要ります。片道二デナルです」 「四デナル置いていく。往復分だ」 カイムは抽斗から硬貨を四枚出し、机の上を滑らせた。ネイは硬貨を見たまま手を出さなかった。 「これは受け取れますか」 「契約ではない。橇代だ。帳簿にも記録帖にも載らない」 ネイは硬貨を外套に入れた。 「写しは十一冊全部持って歩くな。一冊は北へ送れ。オリガ宛。一冊は市立救貧院の会計に預けろ。あそこは公社の管轄外だ」 「残りは」 「お前が持て。原本が消えたとき、写しがあれば、原本があったことだけは残る」 ネイは油紙を包み直した。結び目を二回作る。 「審査会の日は」 「十二月四日、午前十時。第三会議室。委員五名。理事が一名入る」 「セルジオ・マレクですか」 「議長だ」 ネイは帳簿を外套の内側に入れた。革が布に擦れる音がした。 「今この瞬間から、私は窃盗をしています」 「そうだ。二十時五十四分から、四日の午前十時まで。百三十三時間と六分、続く」 「その間に捕まったら」 「帳簿は回収される。写しだけが残る。写しは証拠にならない」 「では捕まらないようにします」 「一つ抜けている。提出が受理されると、委員会は関係者に招集通知を出す。四四一九宛にも出る」 「宿舎に届きますね」 「届く。届いた通知を係員が読めば、帳簿がまだお前の手にあることが分かる。通知の発送は明日の午後だ」 「では明日の午後から、宿舎には人が来る」 「来る。だから今夜のうちに私物を出せ。荷は一つにしろ」 「二つあります。手帳と、着替えです」 「手帳は帳簿と一緒に持て。写しの残り九冊は救貧院の会計に一緒に預けろ。あそこの帳場は毎日開いている」 「六日間、どこで寝ますか」 「聞かない。聞けば私が知っていることになる。知っていて言わなければ、それも規程違反だ」 「では言いません」 「宿舎に戻るな。公社の建物に帳簿を持って入るな。四日の朝、正面からではなく西の通用門から入れ。門番は八時に交代する」 カイムは抽斗から一枚の案内を出した。手術案内、十二月九日午前七時、第二手術室、執刀ラウ。上着の内隠しに入れる。 「返上しないんですか」 「四日までは職員だ。四日に決定が出れば枠は取り消される。取り消しと返上は別の手続きだ」 「九日はどうなりますか」 「分からない」 ネイは頷いて、扉に手をかけた。それから振り返った。 「一つ聞いても」 「なんだ」 「審査会で、痛みの形は証拠になりますか。鋭い、鈍い、規則的な四回。あれは私の口から出た言葉です。紙に押した印はありません」 カイムは記録帖を開き、日付と時刻を書き入れた。四四一九、帳簿持ち出し、二十時五十四分、立会人カイム・ヴェス。 「ならない」 「では」 「証拠になる形にする。六日ある。落盤の時刻を、番号の順に並べ直せ」 第19章 ネイ・ソルグ|審査会 移痛公社本部の三階に、法廷は無い。 審査会は第二会議室で開かれる。前の晩まで等級審査に使われていた部屋で、卓を四つコの字に並べ替えるところから始まる。 書記のミルヤが椅子の数を声に出して数えた。七脚。ひとつ足りず、廊下から一脚運んできた。 十二月四日、九時。窓は運河側で、鎧戸は上げてある。傍聴の席は無い。 議長席に規律課長のオンド。左に医務課のクレフ、右に記録課のハーゲ。三人とも黒い上着で、襟の徽章の色だけが違った。 ネイは入口に近い側の椅子に座った。膝の上に何も置いていない。手帳は入口の卓に預けさせられた。 卓の中央に、灰色の革の帳簿が一冊置いてある。表紙の右下に4419の焼き印。 その隣に、麻紐で括った紙束が二つ。片方は公社の罫紙、片方は麦の袋を裂いた紙だった。 オンドが表紙を開いた。 「懲戒審査、係属十二月九号。対象、代痛人ネイ・ソルグ。帳簿番号四四一九。第二種、高耐性」 「はい」 「事由。公社所有物の持ち出し。規則第八条。帳簿は交付物であり所有権は公社にある。持ち出しは窃盗として扱う」 「持ち出しました」 ハーゲが顔を上げた。「先に認めるのか」 「十一月二十日の朝、自分の帳簿を持って市の門を出ました。北へ行って、二十八日の夜に戻りました。その日の二十時五十四分に、査定官ヴェスへ任意で渡しています。受け取った時刻は査定官の記録帖にあります」 ミルヤが書いた。ペンが紙を擦る音が三度した。 「受領時の照合は済んでいるか」オンドが書記に訊いた。 「済んでいます」ミルヤが別の綴りを開いた。「受領時の頁数は百四十四頁。交付時と同数です。破り取りはありません。最終記帳は十一月十九日」 「加筆は」 「ありません。ただ、余白に鉛筆の書き込みが十一箇所あります」 「読み上げろ」 「数字だけです。日付と時刻の組が十一。文はありません」 オンドがネイを見た。「書き込みは誰のものだ」 「私です。鉛筆です。消しました。跡が残っています」 「消したのはなぜだ」 「帳簿は公社の物なので、書いていい欄が決まっています。決まっていない欄に書いたので消しました。跡は残ります」 「跡が残ると分かって書いたのか」 「跡が残るように書きました」 「二つ目の事由」オンドが続けた。「帳簿の内容の無断複写。三年分。写しの所在」 「一部はここに出ています。もう一部は私の部屋の床下です。三部目はどこにも置いていません」 「作っていないのか」 「作りました。置き場所を言いません」 クレフが手のひらで卓を軽く叩いた。「それも事由に足せる」 「足してください。私は帳簿を返しました。写しは返せません。写しは私が書いた紙だからです」 オンドは表紙を閉じずに、次の行を読んだ。 「陳述の申立てがある。対象者は、記載内容について意見を述べたいと」 「述べます」 「先に言っておく。ここは記載の当否を判定する場ではない。それに、代痛人の受痛感覚は証拠にならない。附則第七に書いてある。痛みの申告は査定の参考であって、事実の認定には用いない」 「附則第七は知っています」ネイは言った。「私の証言を証拠にしてくださいとは言いません」 「では何を言う」 「二つの紙を、突き合わせてくださいと言います。私の証言は、その二つを並べる順番を示すだけです」 ハーゲが紙束の一方に指を置いた。「この麦袋のほうは何だ」 「黒喉鉱山の飯場の綴りの写しです。原本はオリガ・タンが持っています。飯の数を毎日書いた紙です」 「公社の記録ではない」 「公社の記録ではありません。だから残っています」 ハーゲが紙を一枚つまみ上げた。「判が無い。作成者の判も、上長の判も無い」 「判の要る紙は、報告が要ります。報告には監督官の判が要ります。黒喉に監督官は夏からいません。判の要る紙は、夏から一枚も作られていません」 「では黒喉には記録が無いということになる」 「判の要らない紙だけが残りました。飯の数です」 オンドは十秒ほど何も言わなかった。窓の下で荷船の鎖が鳴った。 「順番だけだな。述べろ」 ネイは椅子に座ったまま話した。 「十一月の十九日、契約番号三一二九〇四。病名欄は胆石発作。予測強度六。開始十一時五分」 「記録にある」ハーゲが罫紙をめくった。「記載も様式内だ」 「胆石は右の肋の下に来ます。波があって、上がって下がる。周期は数分で、間に緩みます。私は去年、胆石を十一件受けています」 「それで」 「あの日に来たのは、背中でした。肩甲骨の内側から前へ抜ける線状の痛みが、四回。間隔が揃っていました」 クレフが口を挟んだ。「揃っていたという言い方は、感覚だ」 「脈で数えました。受痛中は秤も時計も見られないので、私は脈で数えます。あの日の私の脈は一分に六十四。衝撃と衝撃の間は、脈で十一、十二、十一、十一でした」 部屋が静かになった。ミルヤのペンが止まった。 「もう一度」オンドが言った。「数字を」 「十一、十二、十一、十一。脈の一つがおよそ〇・九秒です。十秒前後の間隔が四回」 「四回目のあとは」 「ありません。四回目のあと、痛みは線から面になりました。抜けるのではなく、押される形です。それが二時間続いて、終わりました」 「胆石ではないと言いたいのか」 「胆石ではありません。ですが、私がそう言っても証拠にはなりません。附則第七です」 ハーゲが薄く息を吐いた。「分かっていて言っているのか」 「分かっています。ここからが二つ目の紙です」 カイムが立った。上着の裾を直してから、罫紙の束を卓の中央へ押し出した。 「査定官ヴェスです。付表二を提出します。閲覧は査定権限の範囲内で行い、閲覧簿に十一月二十六日から二十八日の三日分、私の署名があります」 オンドが束を引き寄せた。「中身は」 「十一月十九日、十一時五分に採番された契約、八件。番号は三一二九〇一から三一二九二二まで、三つ飛びです。八人の代痛人の帳簿から、受痛の記載欄を写しました」 「八人の記載」 「八人とも、病名欄は違います。胆石発作、腎疝痛、抜歯後疼痛、術後創痛、分娩、術後創痛、胆石発作、腎疝痛」 「よくある五つだ」 「よくある五つです。ですが受痛欄の記述は、八人とも似ています。背中、線、四回、間隔一定。うち五人は回数を四と書いています。二人は三と書き、一人は書いていません」 クレフが束をめくった。「代痛人同士で話したのではないか」 「八人のうち三人は別の受痛所です」ネイが言った。「一人は十二月に転出しています。私はその人と会ったことがありません」 「口裏を否定する証明にはならない」 「なりません。ですから、記述ではなく時間を見てください」 「その前に一つ」クレフが罫紙の欄を指した。「病名は代痛人が決めるものではない。依頼者側の申告書から写す。八件の依頼者番号は」 「八件とも空欄です」カイムが言った。「依頼者番号の欄に、番号がありません。代わりに等級証明の欄に、代、と一字入っています」 「代とは」 「代理申告です。依頼者が申告できない場合に、公社の担当が代わりに書く。三年分の六桁は、二百三十一件すべて代です」 「二百三十一件、全部か」 「全部です。私は九年、その一字も通していました」 ハーゲが罫紙を裏返した。「申告できない依頼者とは、どういう者だ」 誰も答えなかった。オンドが次へ、と言った。 ネイは卓の麦袋の紙を指した。 「その綴りの、十一月十九日の行です。飯の数の下に、巻き上げ機の停止が書いてあります」 ハーゲが読んだ。「十一時十一分、一番坑、停止」 「私の帳簿の記帳開始は十一時五分です。差は六分」 「六分ずれている」オンドが言った。「ずれているものを一致とは呼ばない」 「同じやり方で、別の日の枠も八つ当てました。八件全部が六分です」 ネイは指を折らずに続けた。 「十一月三日、私の枠十一時五分に対し、坑は十一時十一分。十一月十七日、七時五十分に対し七時五十六分。三月九日、十三時三十四分に対し十三時四十分。六月二日、十時二十七分に対し十時三十三分。去年の十二月五日、二十時ちょうどに対し二十時六分。あと三件、いずれも六分」 ミルヤが書き取る速さが落ちた。オンドが手で合図をして、書記の頁が追いつくのを待った。 「八件が六分」ハーゲが言った。「時計が違うだけだろう」 「違います」ネイは言った。「時計が違うことの証明です」 「どういう意味だ」 「ずれが毎回変われば、二つの紙は無関係です。ずれが一定なら、二つの紙は同じ出来事を、別の時計で見ています。八件の差が全部六分なら、坑の時計が六分進んでいるということです」 クレフが顎を引いた。「進んでいる理由は」 「坑の時計は監督官が月に一度合わせます。黒喉の監督官テオは夏からいません。夏から誰も合わせていないので、ずれが動きません」 「確かめられるのか」 「今日、誰かが北へ行って坑口の時計を見れば、六分進んでいます。合わせられていなければ、まだ六分です」 オンドが指を組んだ。「痛みが先に来ていることになるが」 「私の枠の時刻は、契約の記帳開始です。痛みが来たのはその後です。坑の停止は坑の時計で十一分、こちらの時計では五分。私が寝台に横になったのが五分。痛みが来たのは、私の体感で、横になってから十を数えるより短い間でした」 部屋の端で椅子が鳴った。セルジオ・マレクが陪席の席で足を組み替えていた。 ハーゲが罫紙の束をもう一度めくった。「番号だ。三一二九〇一から二二。下三桁が三つ飛びで八つ並んでいる」 「附表第三では、下三桁は月別の通し番号です」カイムが答えた。「一枠の記帳が三十八分で、中に十二分の単位が三つ入ります。単位ごとに番号を食うので、枠の頭は三つずつ飛びます。同じ分に八枠が並ぶのは、同じ荷から一度に起票したときだけです。私は九年、この並びを通していました」 「八つで止まるのはなぜだ」 「一つの時刻に並べられる枠の上限です。三十八分の枠を八つ並べると五時間四分になる。一人では受けられない長さが、八人には入ります」 「灰晶と結びつくのか」 「北方の荷には封印票が付きます。票の番号と、その荷を使った契約の上三桁が同じです。三年で北方の入荷は七十二回。六桁の契約は二百三十一件。荷ごとに枝は七本か八本です」 オンドは付表を閉じ、卓の縁を親指で押さえた。 「理事、係属十一月二十二号の備考をご存じですか」カイムが言った。 セルジオが顔を上げた。「私が書かせた」 「読み上げます。差八。移痛記録に対応しない事案が八件ある」 「そう書かせた」 「差の八件は、どこの八件ですか」 セルジオは答えるまでに息を二つ置いた。 「黒喉だ。今年の分だけで八件」 ミルヤのペンが紙の上で止まり、それから動いた。オンドが書記のほうを見て、止めろとは言わなかった。 オンドは付表の最終頁をめくり、右下の欄を見た。 「査定官。この付表の提出者欄に、あなたの名前が書いてある」 「書きました」 「代理提出にできる。担当課名だけで出す様式がある。第十一号だ」 「知っています。二日前に第十一号の用紙を取りました」 「使わなかったのか」 「使いませんでした。この付表は、署名欄の空いた指示書から始まった話です。空欄で出す紙をもう一枚増やすことになります」 オンドは何も書き足さず、頁を戻した。 「人数を言います」ネイが言った。「オリガ・タンの飯場の綴りから、二年四か月分の飯の数と札の枚数を突き合わせました。数が戻らなかった人が四十七人です」 「四十七」 「そのうち二十九人は名前が分かっています。十八人は符牒だけです。鉤に一、輪に点、三角の欠け、爪の傷が三つ」 クレフが言った。「名前の無い者を人数に数えられるのか」 「名前は数えられません。人数は数えられます」 「補償の請求は名前で立つ」 「人数でも立ちます。名前は後から入ります。空欄にすると、最初からいなかったことになります」 「四十七という数の出し方を言え」ハーゲが言った。 「飯の数と、坑口で返る木札の枚数です。朝に配って夜に返します。返らなかった枚数を日ごとに拾い、翌日以降に同じ符牒が戻っていないものだけを残しました。三日以内に戻った者は数から外しています」 「病死や逃亡もあるだろう」 「あります。逃げた者は飯場から荷が消えます。オリガ・タンが荷の有無も書いています。荷が残ったまま札が返らない者だけで四十七です」 「その数と、こちらの八件はどう繋がる」 「繋がっていません。今日繋がったのは八件分の時刻だけです。残りは、坑の綴りに書かれた日と、私の写しの枠を、これから同じやり方で当てていく作業になります」 オンドは十時六分に休憩を宣言し、十時二十分に再開した。 再開のとき、卓の上の帳簿4419には、公社の封印紙が掛かっていた。表に事件番号が書いてある。十二月九号ノ一。 三年と八か月、記帳だけを受け続けてきた表紙に、公社の様式で番号が振られたのは、それが初めてだった。 「処分の議決は本日行わない」オンドが言った。「持ち出しの事実は認定する。写しの三部目については、対象者に開示を命じる」 「命じられても言いません」ネイは言った。 「その返答も記録する」 「記録してください」 ミルヤは十時三十四分から清書に入り、二十分あまりかけて頁を埋めた。書き終えて、隅に時刻を入れた。十時五十八分。 ネイは窓の外を見た。運河の向こうで鐘が鳴りはじめた。十一時の鐘だった。 黒喉の時計では、十一時六分だった。 第20章 ネイ・ソルグ|記録 十二月十一日、九時。登録課の窓口は本館の一階、通用門から数えて三つ目の扉にある。 窓口のヴィルナが読み上げの紙を立てた。五十前後で、右手の指の腹に墨が入っている。 「懲戒審査、係属十二月九号。議決は昨日の十六時二十分。順に読みます。間違いがあれば止めてください」 「止めます」 「一、免許取消。第二種、帳簿番号四四一九。効力は本日から。再交付の規定はありません」 「はい」 「二、帳簿の返還請求権は無し。四四一九は事件記録に編入されています」 「保管庫に入りますか」 「入りません。証拠物件になったものは、事件記録の綴りに入ります」 「五年で廃棄されますか」 ヴィルナが規程集を引いて、頁を三つ繰った。 「されません。事件記録は永年保存です」 ネイは手帳を出して書いた。永年。線は引かなかった。 「三、市法第百七条。窃盗。略式で罰金八十デナル」 「払えません」 「収入の欄が空ですね。分割の申請ができます。月二デナルの四十か月」 「申請します」 「分割にすると、四十か月のあいだ、住む場所を毎月届け出る義務がつきます。移るたびに様式二十六号です」 「出します」 「四、宿舎の退去。明日の正午まで。敷布は洗って返してください。洗わないと二レヴ引かれます」 「引く先の口座がありません」 ヴィルナがそこで初めて顔を上げた。 「では洗ってください」 「洗います」 「五、年内の受痛点の残高。取消の日に失効します。残高は」 「二百六十四です」 ヴィルナが台帳を見た。 「二百六十四。合っています」 「失効した点は、どこかに残りますか」 「残りません。残高の欄に横線を引いて閉じます」 「引くのは誰ですか」 「私です。今から引きます」 ヴィルナは定規を当てて線を引いた。線の下に日付を入れた。 「六、未払いの報酬。十一月の二件分、六十四レヴ。取消でも支払われます。働いた分は働いた分です」 「受け取れますか」 「受け取れます。ただし帳簿が身分証を兼ねていたので、受け取りには保証人が要ります」 「保証人がいません」 「救貧院か、施療院の会計が立ちます。どちらも公社の外です」 「救貧院にします」 「七、受痛歴の証明は出ません。第二種の高耐性で三年八か月という記録は、市内のどの病院でも使えません」 「使えなくなるのは、記録が消えるからですか」 「消えません。出せないだけです」 「では、どこにありますか」 「事件記録十二月九号の中です」 「八、灰晶に触れる職は全部免許制です。秤量、運搬、倉庫、洗浄。就けません」 「異議は」ヴィルナが訊いた。 「ありません」 返納は三点だった。認識票、受痛所の鍵札、外套の襟の第二種の徽章。帳簿はすでに公社にある。 ヴィルナは三点を秤に載せた。返納簿には目方を書く欄がある。 「重さを書くんですか」 「返納物は目方で受けます。数え違いが出ないので」 「五十二匁」 「五十二」 受領票が二枚出た。一枚がネイの側に置かれた。 「これは私の物ですか」 「あなたの物です。公社の持ち物の一覧ではなく、あなたが返したという証明なので」 ネイは受領票をたたんで、手帳の裏表紙の内側に入れた。 「最後に一つ聞いていいですか」 「どうぞ」 「四四一九の記帳は、全部で何行ありましたか」 ヴィルナは編入台帳の控えを開いた。 「数えてあります。千九百六十二行」 「そのうち、形の欄が埋まっているのは」 「そこまでは数えていません」 「千九百六十二行のうち、千九百六十二行です」 「では、そう書いておきます」 ヴィルナは備考の欄に書いた。書く速さは変えなかった。 告示は十二月十五日に出た。本館の玄関と、市内の受痛所七か所の掲示板に、同じ紙が同時に貼られた。 淡黄色の公社様式で、四隅に鋲が打ってある。 告示第百四十二号。分散配分方式の運用停止について。本日をもって、複数契約への分割配分による受痛処理を停止する。 理由の欄は二行だった。対応する原記録を欠く事案の存在が確認されたため。ならびに、記載病名と受痛内容の不一致が確認されたため。 人数は書いていない。四十七も、八も、載っていない。 下に経過措置が三項ある。既存の分割契約は本日限りで打ち切る。打ち切りにより生じた受痛枠は各受痛所に返す。既往の記載についての訂正申請は受理しない。 三項目だけ、字が他より小さかった。 ネイは第二受痛所の掲示板の前に立った。中へは入れない。 鎧戸の内側からマルタが顔を出した。窓はネイの肩より高い。 「書いてないだろう」 「書いてありません」 「あんた、もう入れないよ」 「入りません。読みに来ました」 マルタは告示の下端を指で押さえた。帳簿の綴じを確かめるときと同じ手つきだった。 「来週から、うちの枠は半分になる。灰晶が来ない」 「北が止まったからですか」 「十二日止まる。死亡が二件、帳面に載った」 「一件につき六日ですね」 「鉱山法だ。二十年変わってない」 「三年ぶりに載ったんですね」 「載ったから止まった」マルタは鎧戸を三寸下ろした。「載らなきゃ止まらなかった」 「うちの人数は」 「読み合わせ室が二つとも閉まる。ドロンは倉庫へ回された」 「代痛人は」 「登録は八十六人いる。来週の枠は三十九本だ。半分は仕事がない」 「日雇いに出ますか」 「出るしかない。荷揚げは一日二レヴだ。受痛は四時間で四十二レヴだった」 「二十一倍ですね」 「あんたはそういう計算をするね」 「します」 マルタは窓の桟を布で拭いた。 「三日前に、四十代の男が受付で騒いだ。枠が消えたと言ってた。娘の学費の勘定が合わないそうだ」 「その人の番号は」 「言わない。あんたはもう外の人だ」 「聞かないことにします」 カイムは本館の裏階段にいた。上着の襟に徽章がない。 「免職ですか」 「十日付で。年金は出ない。在職十四年分だ」 「今は何を」 「監査室の嘱託だ。日雇いの扱いで、日に三デナル」 「仕事は」 「照合だ。六桁の契約、二百三十一件。一件ずつ、対応する原記録があるかを見る」 「二百十四個の検印は」 「全部私の印だ。桁の違うものだけで百六十一個ある。自分で通したものを、自分で数え直す」 「どのくらいかかりますか」 「一日に四件で、五十八日」 「終わったら、何が出ますか」 「原記録の無い契約の本数だ。それだけだ。誰がやったかは出ない」 「本数は人数になりますか」 「六で割れば人数の見当はつく。だが割った数は監査室の書式に入らない。書式に人数の欄が無い」 「作れませんか」 「欄を作るには内規が要る。内規は理事会が決める」 「理事はどうなりましたか」 「マレクは辞めていない。数理担当を外れて、鉱山監督局との連絡係に移った」 「降格ですか」 「本人が申し出た。係属十一月二十二号の備考を書かせたのも本人だ」 「あの八件は」 「監督局に移った。あちらの様式には、無登録者の死亡を書く欄がある。三年前に作られていた。公社は照会していなかった」 運河の側で荷船の鎖が鳴った。カイムは書類の紐を持ち替えた。 「九日の手術は」ネイが訊いた。 「済んだ。免職が十日付だから、枠は生きていた」 「次は」 「一般枠だ。四月の第二週」 「四か月ですね」 「三か月と三週だ。数え方を変えない」 「エナさんは」 「膝から下を毛布の外に出して座っている。前と同じだ」 「数は書いていますか」 「書いている。施療院の廊下に待機表が貼ってある。あれを週に一度、写している」 「待機表は何人ですか」 「先週で四百二十。停止の前は三百六十一だった」 聖ドーラ施療院の三階の廊下に、待機表が二枚並べて貼ってある。左が第三種以上、右がそれ以外。 エナ・ヴェスは右側の紙の前に、木の椅子を寄せて座っていた。膝掛けの下から板を出して、紙を留めてある。 「四百二十」エナが言った。「先週は四百二です」 「十八増えていますね」 「増えたのは十八。減ったのは四。だから足すと二十二人動いてます」 「減った四人はどこへ行きましたか」 「二人は手術をしました。二人は表から消えました」 「消えた人の番号は控えてありますか」 エナは板の裏を返した。数字が四つ書いてある。 「消えた人は、行が無くなるので、番号だけ書いておきます」 「それでいいです」 「父が、あなたは番号で書く人だと言っていました」 「今は名前で書いています」 「どっちが正しいですか」 「両方書けるときは両方書きます」 エナは鉛筆の先を紙に当てたまま、動かさなかった。 「四月の第二週です。わたしの番」 「三か月と三週ですね」 「父もそう言います」 市立救貧院は北岸の三番倉庫の隣にある。会計のケルドは七十二歳で、左の耳が遠い。 「四四一九」 「その番号はもうありません」 「では何と呼ぶ」 「ネイでいいです」 ケルドは板に紙を留めて、鉛筆を渡した。 「仕事は、寝台の数と、椀の数と、出て行った者の数を毎日書くことだ。給金は月に六デナル。飯はつく。寝るのは二階の隅でいい」 「様式はありますか」 「無い。好きに書け」 「では作ります。一行に、日付、寝台番号、符牒、名前、来た日、出た日、日数、預かり物の番号。全部の行で同じ順にします」 「符牒とは何だ」 「名前を言わない人につけます。本人に決めさせます」 「名前が無い者は空けとけばいい」 「空けません。空欄にすると、最初からいなかったことになるので」 ケルドは耳の側を向けた。 「もう一度」 「空欄は、いなかったことになります」 ケルドは椅子を引いて座り直した。 「ここは三十年、寝台の数しか書いてない。人は数えてない」 「寝台は何床ありますか」 「四十一床。冬は板の間にも寝かせる。多い日で六十人だ」 「板の間の人は、寝台番号が振れませんね」 「振れん」 「では板の間に番号を振ります。壁から順に、板一から板十九まで」 「壁に書くのか」 「炭で書きます。消えたら書き直します」 「そんなことをして何になる」 「同じ人が二度数えられるのを止められます」 ケルドは指を折って何かを数え、途中でやめた。 「先月、椀を出した数と、寝た数が合わなかった。十二日ぶんだ」 「その紙は残っていますか」 「竈にくべた」 「これからはくべないでください」 「保管の場所が無い」 「二階の隅を使います。私が寝る場所です」 一月の第三週に、来る者の内訳が変わった。 「先週は十一人だ」ケルドが言った。「今週は十九人。うち九人が施療院からの回しだ」 「手術の待機ですか」 「待機のまま出された。寝台を空けるためだ」 「亡くなった人は」 「三人。今週だけで三人」 ネイは別の紙を出して、罫を引いた。日付、寝台番号、施療院の待機番号、死亡の日、それから右端に空の欄をひとつ。 「そっちは何の紙だ」 「待機のまま亡くなった人の紙です」 「誰に出す」 「出す先はまだありません」 「なら書かんでもいい」 「後から数えられなくなります」 一月の末までに、その紙は十四行になった。右端の欄は、四行だけ埋まった。 オリガの荷は月末に橇で着いた。麦の袋に入っていて、口を二重に縛ってあった。 中身は白い麻布の綴じ本が一冊と、紙が三枚。 一枚目は鉱山監督局の受理票の写しだった。受理番号、監督局第四十四号。届出人、オリガ・タン。届出の名は、飯場給食記録及び在籍者名簿。 二枚目は罰金の通知だった。無登録者への食事の提供。四十デナル。分割、月二デナルの二十か月。 三枚目はオリガの字で、三行しかなかった。 名前が二つ増えた。四十七のうち三十一。残り十六。ムトが村を回っている。橇の帰りに一つずつ聞いてくる。 罰金は麦から出さない。あたしの給金から出す。二十か月なら出せる。 坑は十二日で開いた。飯場の椀は二百四に戻った。減っていない。 ネイは綴じ本を開いた。一行目から順に見た。通し番号が一から四十七まで振ってあって、番号のほうが名前より先に入っている。 三十一行に名前があり、十六行には符牒が書いてある。鉤に一。輪に点。三角の欠け。爪の傷が三つ。 四十八行目の枠は引いたままで、左端も右端も空いている。 ネイは返事を書いた。三行にした。 受理番号を名簿の表紙に書き写してください。届出の日付も入れてください。番号と日付が入った紙は、後から誰かが探せます。 二月の初めに、公社の記録課から一通来た。表題は、事件記録十二月九号の閲覧について。本文は四行だった。 閲覧の申請は当事者に限る。当事者には処分を受けた者を含む。閲覧は年に一度、事前申請による。写しの交付は認めない。 ネイは申請書を書いた。目的の欄に、記帳内容の確認、と書いた。関係の欄には、本人、と書いた。 二月の末、救貧院の名簿は二百四十行になった。名前が入っているのは百七十三行。符牒だけの行が六十七ある。 ネイは毎晩、寝る前に三度数える。二度で合ったことにすると、三度目で外れる者が出る。 二十八日の夜は、二度目と三度目で一行ずれた。四度数えて、寝台十九番の行が抜けているとわかった。 その者は朝に椀を受け取り、夜は受け取っていない。符牒も名前も出ていない。 ネイは新しい行の左端に、日付だけを書いた。

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