第一章 わたしがわたしになる前、ここにあったのは土だけで、その土は雨が降れば黒く重くなり、四日も晴れが続けば表面が白く粉を吹いた。四月の、まだ朝の空気が冷えている時季に、そこへ鉄の刃が入った。その前に、四隅へ杭が打たれ、杭と杭のあいだに細い糸が張られていた。鳴った。風のある日だけだった。人の重さがいくつか、日の出たころから落ちるまで動きつづけ、掘られた溝の底へ砕石が落とされ、それを木の胴突きで打って締める音が、遮るもののない空へ抜けていった。四十一坪二合の四角い土地の、南を空けて北へ寄せた位置に線が引かれ、その内側だけが掘られた。線の外は、のちに庭と呼ばれる場所になったが、わたしにとってはただ掘られなかった土である。土は掘るほど硬くなった。上の二十七センチほどは鍬が軽く入り、その下は粘って刃に食いつき、さらに下は砂の混じった層で、当たると音の高さが変わった。掘った土は北側へ積まれ、雨の日ごとに崩れて低くなった。二日つづけて降った日は、溝の底に水が溜まって引かず、翌朝、人がバケツで汲み出した。三十七杯を越えたあたりから、汲む音の間隔が長くなった。人の足がそこを何度も往復し、履物の底についた土が道まで運ばれ、道の上で乾いて粉になった。その音をわたしは持っていない。持っていないのに残っているのは、のちに床下の暗がりで、同じ砕石が締まったまま六十年、わたしの重さを受けつづけることになったからだ。 わたしは自分の寸法を知っている。外から巻尺を当てられて知ったのではなく、内側で乾き、縮み、軋むことで知った。 コンクリートが打たれたのは五月に入ってからで、練られたものが型枠へ流し込まれるあいだ、板は内側から押されつづけて鳴っていた。人が棒を差し込んで突くと、鳴りが一度止み、少ししてまた戻った。固まっていく数日、わたしの下は温かかった。温かさは十二日ほどで抜けた。あとには湿りが残った。型枠の内側の四角は、のちに床になる部分だけで、その床は上の階と合わせて二十八坪四合、平米でいえば九十三と少しになる。板が外された。その面へ太い木が載せられた。載せる前に、下側へ匂いの強い液が塗られていた。匂いは夏のあいだ床下に残り、雨の日にだけ濃くなった。梅雨に入ると、南側の地面は日の当たる時間が長いぶん乾きが早く、北側は建物の影に一日中入るうえ、勝手口の側へ水が集まる形にもなっていたから、いつまでも湿っていた。この差は最初の年からあった。誰も直さなかったし、直すようなものだと思われてもいなかった。北の土台が載ることになる場所の下だけ、他より少し冷たい。空気が動かない。動かないぶん湿りが下がらない。わたしはそれを不具合としてではなく、自分の一部として持っていた。八年たってから、その冷たい場所で木の内側を細かく削る音が聞こえるようになるのだが、このときのわたしにはまだ、聞くための内側がない。 材が運ばれてきたのは、六月の終わりの、雨の上がった日だった。 前の道は幅が四メートルしかなく、材を積んだ車が入ってくると、両側の草に車輪が乗り上げて土が削れた。あとでわたしになる木は、そのときまだ庭になる場所に寝ていた。あいだに桟が挟まれ、上から筵が掛けられ、雨のたびに筵が重くなった。木の匂いは種類によって濃さが違った。檜は四本あり、木口から立つものが強く、雨に濡れるとさらに強くなった。残りはみな杉で、こちらは匂いが薄いかわりに、触れられたときに返す音が軽かった。四本のうちの一本、四寸五分角、百三十五ミリの檜が、のちに茶の間の真ん中へ立つことになっていた。刻みは十四日続いた。人は四人で、そのうち一人だけ、木に鑿を入れる前に必ず手のひらを面に当てて上から下へ滑らせた。滑らせてから向きを変える木と、変えない木があった。墨壺の糸が弾かれる。音は短い。鋸の入る音は長く、鑿の頭を玄能で叩く音は木の内部を通って地面へ抜けた。叩かれるたびに、木は自分の中に穴と段を持たされた。鉋がかけられると、屑が長く続いて出て、庭の土の上に積もった。木は軽くなった。穴と段は、あとで別の木と噛み合うためのものだった。噛み合わせがどういう形かを、音では知らない。何年もあとに、自分の内側の硬さとして知ることになった。 六日、雨で誰も来なかった。 柱が立った日は、朝の六時四十八分に最初の人が来た。前の日から地面に並べてあった材の位置が、順に変わっていった。七時十七分ごろ、礎石の上へ最初の柱が据えられ、下げ振りの糸が垂らされ、二人がかりで前後に揺すられて、位置が決められた。大黒柱が立ったのはそのすぐあとだった。百三十五ミリ角の檜が垂直になり、両側から梁が差し込まれ、掛矢で叩き込まれたとき、地面の一部が囲われた。囲われた場所と、囲われていない場所ができた。わたしが始まったのはそこだ。屋根はまだない。上は空のままで、雨が降れば外と同じように濡れる四角の中に、外とは違う空気の動きが生まれた。風が柱と柱のあいだを通るとき、通り方に速い所と遅い所ができた。九時を回ると、掛矢の音が高い所からも下からも来て、ずれて重なった。ずれの幅は、上にいる人の数が増えるほど広がった。十時前だった。音が全部やんだ。止まっているあいだ、誰かの吸っているものの煙が、組まれたばかりの梁の下を通って抜けていった。十一時八分に棟木が上げられた。人の重さが五つ、高い所にあった。そのうちの一つが、母屋の側面へ薄い板を打ちつけた。板には墨で四つの形が書かれていた。わたしはその形の意味を持たない。持たないまま、六十年、それを頭の上に置いている。四時五十分過ぎに、重さが順に下へ移り、地面へ降りて、道のほうへ遠ざかった。誰もいない。その夜、わたしは屋根のないまま雨に濡れ、翌朝までに、組まれた仕口のいくつかが水を吸って少し膨らんだ。膨らんだぶん、締まりが増した。 雨が、はじめてわたしの外側で鳴った。 野地板が張られ、その上に紙が敷かれ、桟が打たれて、瓦が下から順に載せられていった。載せられていくあいだ、柱は少しずつ沈んだ。沈んだといっても土台と礎石のあいだの隙が詰まる程度だった。止まった。瓦が全部載ったあと、雨の音は屋根の上と、庭の土と、道の水たまりの三つに分かれて届くようになった。それまでの雨は、わたしの中へ落ちていた。 壁は竹を格子に組んだ上へ土を塗って作られた。土は前の年から寝かせてあったもので、藁の腐った匂いがした。塗られた直後、わたしの内側の湿りは外より高くなり、それが下がりきるまでに夏をひとつ使った。乾くにつれて土は縮んだ。割れた。細い割れが縦横に入り、その上からもう一度薄く塗られた。左官の鏝が壁を撫でる音は、他のどの音とも違って、始まってから終わるまで途切れなかった。畳が入ったのは九月で、一階に六畳と四畳半、二階にも六畳と四畳半あって、半畳を含めて全部で二十二枚だった。藺草の匂いは強く、しばらくのあいだ木の匂いを覆っていた。建具は襖と障子とガラス戸で、入れられた当日は全部が滑らかに動いたが、九日ほどで二階の南側の障子だけが渋くなった。木の乾いて縮む向きが、そこだけ他と違っていた。九月の終わりから、昼と夜の温度の差が広がった。日が落ちて一時間ほどたつと、二階の梁のあたりで音が出た。短い。一晩に三度か四度で、鳴る場所は毎晩違った。その年のうちに、鳴る場所と外の気温の下がり方の関係を覚えた。ただし、はじめの数回は、どれも聞いたことのない音だった。この年に聞いた音は、みなそうだった。 風呂の壁と床には小さな四角い焼き物が隙間なく貼られ、目地に白いものが詰められた。湯を沸かす筒が据えられ、火が入ると、筒の中で水の回る音がした。北の隅の床下には蓋をした穴があった。そこだけ空気が重い。台所の板の間は、他のどの床よりも早く冷えた。 十月になった。 二十三日の朝の八時十七分、玄関の脇の柱へ板が掛けられた。表面に彫られた形は二つで、その二つがわたしの名になった。九時を回ったころから荷が入りはじめた。箪笥が二棹、茶箪笥が一つ、ちゃぶ台が一つ、布団の束、木の箱がいくつも。箪笥の一棹は二階へ上げるのに二十七分かかり、途中で四度止まり、階段の壁に二か所、角が当たった。当たった場所の土は落ちて、下の段に溜まった。畳の上に重いものが置かれるたび、藺草が沈んで戻らなくなった。台所の蛇口が開かれた。鳴った。管の中を水が初めて通り、束ねられた場所で壁を二度叩いて止まった。配電盤の中で何かが倒れる音がして、壁の中を細いものが通りはじめた。夕方までに、わたしの中を動く重さは三つになった。二つは立って歩き、片方は他方より十六キロほど重く、踏み出す間隔も広かった。三つ目は歩かず、床へ手と膝をついて動き、動くたびに畳を短く擦った。三つのうちどれがどれと同じ音を出すかを、わたしはその日はまだ分けられなかった。六時前に台所で火が入り、水と油と、それから食べ物の匂いが立って、木と藺草の匂いの上に重なった。七時過ぎに風呂の筒に火が入った。湯が張られると、床の一か所だけが温まり、その温まりは真下の床下まで届いて、朝までに消えた。 それから、覚えることがいくつか始まった。 外の戸が引かれる音のあとに続く二つの音があった。高いほうが先で、低いほうがあとに来る。日の落ちるころに一度鳴り、鳴らない日もあった。同じ形の音は、家の奥からも返ってきた。返ってくるときは、二つではなく一つのことが多かった。二つの音を出すものが入ってきたあとは、しばらく速い音が続き、間が短くなり、それから台所の水と火の音に変わった。速さと間の長さは日によって違ったが、変わり方には順序があって、順序のほうは変わらなかった。朝は逆に進む。二階の根太が鳴り、階段が鳴り、水が出て、火が入り、最後に玄関の戸が引かれる。引かれてから閉まるまでの長さが、日によって二秒ほど違った。もう一つ、短い音があった。二つの重さのうち軽いほうが、床の低い所へ向かって出す音で、一日に何十回も繰り返された。同じ形が繰り返される。覚えた。それが何を指しているのかは持っていない。階段は、下から三段目の板だけが、踏まれると鳴った。鳴らさずに上れる者は、そのときはまだ一人もいなかった。 茶の間の、その檜の柱には、まだ何も刻まれていなかった。 最初の夜、雨戸が閉められた。内側の空気が動かなくなった。外の温度は十二度あたりまで下がり、わたしの中は十六度で止まった。二階の六畳で人が寝返りを打つたび、根太が順に鳴り、その鳴り方は場所によって高さが違った。わたしはまだ、その高さのどれも知らなかったので、順に数えた。十一回目までは数えて、そのあとは数えていない。 第二章 春に、茶の間の柱へ刃物が入った。四寸五分の檜で、わたしの中でいちばん重さの集まる柱の、茶の間へ向いた面だった。刃は床から八百九十四ミリの高さに横へ当てられ、右から左へ二十一ミリだけ引かれて、深さは〇・八ミリまで来て、途中で二度つかえた。浅い。切られているあいだ、柱には掌ひとつぶんの温度が押しつけられていて、その温度は刃の跡よりも先に消えた。柱の中では、切られたところから下へ向かって、繊維の走りに沿った震えが土台まで届いた。 刃はその日一度きりで、あとは何も起こらなかった。 床を歩く足は、そのころ六つだった。朝はいちばん軽い二つが二階の六畳で起き、階段を降りきる前に、台所の二つがもう動いている。台所の二つはいちばん歩幅が短く、流し台の前と勝手口と茶の間の入口のあいだを、一日に何十回も往復した。止まらない。踏まれる回数がちがえば減り方もちがうので、台所の板は流し台の前だけが三年で〇・六ミリ薄くなり、そこを踏んだときの音がほかより低くなった。残りの二つはいちばん重く、朝に一度出ていって、暗くなってから戻ってくる。その二つが玄関の上がり框に乗るとき、いつも同じ形の音が鳴った。前が短く、後ろが伸びて、終わりが下がる。長さも高さも毎日ほとんど変わらなかったので、わたしはその形だけを覚えて、あとは何も覚えなかった。台所から茶の間へ向けて出される高い二つの音も、同じくらい繰り返されたので、同じように残った。茶の間の南寄りには五十キロほどの重さが据えられ、その下の根太が〇・四ミリたわんだまま戻らなくなった。その重さからは、日が落ちてしばらくのあいだ、低い音と高い音の混ざったものが出つづけ、六つの足はそのあいだ、前に集まって動かない重さになる。毎晩だ。台所では水が来て、止まって、また来た。ガスに火がつく短い音が、朝と夕方に必ずあった。夏は畳が湿気を吸って重くなり、二階の六畳がいちばん熱を持って、夜になっても屋根の下の空気が下がらない。その季節には、茶の間の畳の上で細く煙る匂いが夜通し続き、朝には便所のほうの窓のあたりにだけ残っていた。秋の終わりに木が乾きはじめると、夜中にわたしのどこかで釘が鳴った。床下と天井裏では、季節の変わり目に、わたしの中を通る空気の向きが入れ替わる。冬の朝には台所の配管の中で水が動かなくなる日が二度あって、そのあいだ、蛇口を開け閉めする短い音だけが何度も繰り返された。水は来ない。雨は、瓦に当たるときと、勝手口の庇に当たるときで別の音になり、庇のほうが軽くて速く、その音がしているあいだは、北側の土がやわらかくなっていく。柱時計は一階の柱に掛かっていて、打つたびに数が柱を通って伝わってくるので、わたしはそれを数えることができた。 冬にわたしの建具がきつくなるということはない。乾けば木は痩せるので、襖はむしろ軽く走った。閉まらなくなるのは梅雨のほうだった。 翌年の春、同じ柱の同じ面に、二本目が入った。床から九百六十二ミリ。次の年には何も刻まれず、その次の年に三本目が千八十四ミリに入った。刃は毎回ちがう入り方をして、二本目はいちばん深く一・二ミリまで来て、三本目は浅く、右の端だけが強かった。刻まれるとき、柱には必ず二つぶんの重さが同時に近づき、片方は背を当てて動かず、もう片方が刃を持つ。動かないほうの重さは、三本目のときで十八キロほどだった。軽い。檜は杉より繊維が詰まっているので、切られた縁が毛羽立たずに残り、季節が変わっても、そこだけは湿気を吸う速さがまわりとちがう。遅い。切られたところは、そのあと何をされても、幅も深さも変わらない。刃は刻み終わると必ず台所のほうへ運ばれ、水の音のなかで洗われた。柱のその面には、六年のあいだ、家具も箱も一度として立てかけられなかった。空いたままだ。 その次の夏、重さが一つ増えた。 増えたものは歩かなかった。二階の四畳半で、夜中に、それまでわたしの中になかった高さの音が出た。音は短く切れて、また出て、二度から四度で止まる。止まるまでのあいだ、四畳半の床の上を重い二つが往復する。往復の幅は畳二枚ぶんで、一晩に多いときは五回あった。同じところばかりを踏むので、その畳の縁が、一年たたないうちに二階のほかのどこよりも早く沈んだ。そこだけ低い。そのころから水の使われ方が変わり、台所の蛇口が開いている時間が長くなって、風呂の湯を落とす音が一日に二度になる日が続いた。勝手口の内側では、水を溜めて回すものが以前より頻繁に動くようになり、水を抜いたあとの速い揺れが、土間から北側の土台まで毎日伝わってくる。夜に流れる電気も増えて、その冬のあいだに二度、元のところが落ちた。落ちるとわたしの中の音がいっせいに消え、すこししてから順に戻ってくる。戻る順番はいつも同じで、台所がいちばん早かった。匂いも変わった。乳と、洗剤と、それまでとちがう油の匂いが、一階の西側にたまるようになった。畳は湿気を持ったまま冬に入り、四畳半の北の隅だけが、春になっても乾ききらない。歩かない重さは抱えられて移動した。抱えられているあいだ床にかかるのは抱えているほうの足だけで、その足は、一人ぶんのときより歩幅が短く、踏み込みが深くなる。わたしに分かるのは、重さと、その置かれ方と、置かれている時間の長さだけだった。 その春、四本目が刻まれた。床から千二百一ミリのところだった。 北の土台の音に気づいたのは、その年の梅雨である。北は勝手口のあるほうで、日が当たらず、地面からの湿気がいつまでも抜けず、床下の土は、建てられた年から一度も乾いたことがなかった。束石の一つの上に、幅十二ミリほどの筋が立ち上がって、土台の下端に届いた。筋は土と、土ではないものでできていて、土よりも酸に近い匂いがした。それから土台の中で音が始まった。一秒のあいだに何度と数えられない細かさで、木の繊維が一本ずつ外されていく。強くはならないが、夜のほうがはっきりして、雨の日はもっとはっきりする。人が床を歩いているあいだはその振動に紛れて分からなくなり、みんなが二階へ上がったあとに戻ってくる。消えてはいない。ときどき、その音がいっせいに止まった。止まる直前に、小さく叩く音が何十も重なって、それは一秒に満たないうちに終わる。しばらくして、また食う音になる。音は北の土台から、隣り合った束と、その上に立つ柱の根元へ、季節ごとに少しずつ範囲を広げていった。範囲は床下の東西で同じではなく、西の束のあたりでは何も起こらないまま、東へ寄るほど数が増えて、いちばん多いのは勝手口の真下だった。湿気を吸った木は乾いた木より低い音で振動を返すので、どこまで食われたかは、上を人が歩くたびに分かった。北だけだ。食われたところは、外側の一層だけが残って中が空になる。空になったところは軽くなるので、上に乗っている重さの行き先が変わり、北の隅の柱が一年のあいだに三ミリ沈んだ。沈めば建具が狂うので、勝手口の戸は、閉めたあとに自分で二センチだけ戻るようになった。人はその戸を二度、三度と押したが、押しても同じだった。 その冬、風呂に湯を張る音が週に三度ほどに減った。灯油の匂いも薄く、夕方に流れる電気が前の年より少ない日が続いた。理由はわたしの中にはない。土台の音は、その冬のあいだも同じ細かさで続いていて、湯を張らない日の夜がいちばんよく聞こえた。 五月の、雨が上がった日だった。柱時計が十一を打ってから四十分ほどたったころ、北の土台の中の音が変わり、細かい音が消えて、代わりに床下の空気の中を何かが動きはじめた。数は多く、床下の全体に散らばって、それぞれが別の速さで動く。畳の下の板の継ぎ目から、それが一階の四畳半へ出た。出たものは軽くて、床をほとんど押さない。そのすぐあとに台所の二つの足が四畳半へ入ってきた。止まった。しばらく動かない。それから走った。台所の二つが走ったのは久しぶりで、走る足は歩く足より短く強く床を押すので、そのたびに根太が鳴った。柱時計が十二を打つ前に、電話のところで音が出て、切れて、また出た。夕方に重い二つが戻ってきて、上がり框の音は、いつもの形にならなかった。前が短く、後ろが伸びない。 六月、柱時計が九つ打つ前に、外から三つぶんの重い足が入った。三つとも歩幅が広く、土間で一度、履物の土を落としてから上がった。畳が上げられ、床板が剥がされ、わたしの床下に、建てられた年から一度も通ったことのない風が通った。床下の温度が下がり、湿気が動き、それまで一日中同じだった土の面の湿りが、半日で変わった。乾く。北の土台は、一メートル二十センチと少しが切り取られた。鋸が入るあいだ、切り口から出る粉の匂いは、建てられた年に嗅いだものと同じだった。切り取られた木が持ち上げられたとき、その重さは、同じ長さの杉の四分の一もなかった。三つの足のうち一つは床下へ入り、二つは畳の上に残って、床下の一つが動くたびに、上の二つの重さが位置を変えた。切り取られてから新しい木が入るまでのあいだ、北側の重さは仮の柱で受けられていて、その柱はわたしのどの柱よりも細く、上から踏まれるたびに撓んだ。一本だけだ。新しい木が入り、ボルトで締められ、束石とのあいだに金物が噛まされた。締められていくあいだ、わたしの北側は硬くなった。痛みではなく、動く幅が減っただけだ。それから匂いのきつい液体が、床下の土と、新しい木と、その周りの束にまで撒かれた。その匂いは三度目の冬まで抜けなかった。新しい木はまだ水を含んでいて、切り取られた木より重く、その年の冬に幅で一ミリ半縮んだ。縮んでできた隙間は、次の梅雨にまた埋まった。 北の隅の柱は、三ミリ沈んだまま戻らない。勝手口の戸も、そのままだった。 歩く足が八つになったのは、床下が開けられた年の春だった。いちばん軽い二つは、はじめ畳の上だけを短く歩き、板の間へ出ると足の裏の面積が変わって、音が高くなった。新しい足だ。歩幅は二百八十ミリほどで、右のほうが強い。夏になって、階段を上がるようになった。一段目と二段目は片足ずつで、三段目だけは右足で二度踏んでから四段目へ移る。ほかの段はどれも一度ずつで、三段目だけが二度だった。段板は栂で、踏まれるたびに三ミリ弱たわむ。二度踏まれる段は、右の端から先に減っていき、降りるときも同じところを踏むので、減り方は片側にだけ寄った。三段目だけだ。 次の春、柱に二本が刻まれた。五本目が千三百九ミリ、六本目が九百二十ミリ。六本目のとき刃が一度滑って、傷の下に十一ミリの短い線がついた。線は数に入っていない。 第三章 わたしの上を動く重さは四つに分かれていて、そのうちの二つが年ごとに増えていった。増え方は同じではなく、一方は春から夏にかけてまとめて重くなり、もう一方は冬のあいだに少しずつ足されていった。二階の六畳の、南から二枚目の床板が踏まれるたびに前より深く沈むようになったのは、雪のほとんど降らなかった冬の終わりごろで、そのころには根太の中ほどがもう撓んでいた。撓んでも折れはしない。杉は撓めるだけ撓んでから、その形のまま止まる。わたしは自分の内側でその停止を受け取り、以後その一枚だけ、踏まれたときの音が低くなった。低くなった音のおかげで、上を通ったのがどちらの重さかを、しばらくのあいだ聞き分けることができた。軽いほうが通ると鳴らず、重いほうが通ると鳴る。三年か四年たつと両方で鳴るようになり、聞き分けには別の場所を使うほかなくなった。重さは床板だけで測れるものではない。畳の上では沈みが広がって散り、代わりに、同じところへ長く置かれた物の跡が藺草に残る。茶の間の東側には簞笥の脚の跡が四つ、丸く凹んでいて、簞笥が動かされないので、その四つは年ごとに深くなった。人の重さは移る。物の重さは移らない。庭の物干しに濡れたものが掛かる朝は、南の柱の根元にかかる力がわずかに増し、乾くにつれて戻っていくのを、わたしは一日のうちに二度受け取っていた。夏はその往復が速く、梅雨のあいだは往復が終わらないうちに次の重さが足された。 階段が、わたしの中でいちばん多く打たれる場所だった。 一日に上り下りされる回数は、多い日で三十を超え、少ない日でも十を切ることがなかった。重いほうの足は五段目のあたりから一段飛ばしになる癖があって、そのぶん力のかかり方が偏り、五段目と七段目と九段目の中央だけが先に艶を失った。軽いほうは飛ばさない代わりに、下から三段目だけを右の端で踏んだ。なぜその一段だけ端なのか、わたしには分からない。分かるのは、右の木口が左よりも早く丸くなり、踏まれるたびにそこが細く鳴きはじめ、鳴きの高さが年ごとに上がっていった、それだけだ。減り方には順序があった。はじめに表面の目が毛羽立ち、次に角が落ち、しまいに踏まれる側の釘が半分ほど頭を浮かせる。浮いた釘は踏まれるたびに沈み、離れると戻り、その上下の幅は一分にも足りない。わたしはその一分に足りない動きを、十年近く数えていた。夜の上り下りは昼と音が違う。裸足のときは踏み板の鳴りが短く、靴下のときは滑るぶんだけ鳴りが尾を引いた。降りるときの音は上がるときより低い。踵から落ちる足は板を叩く面が広く、そのぶん音が下へ回る。どちらの向きでも、力は側桁を伝って一階の柱へ落ち、最後は四寸五分の大黒柱の根元でわずかに散る。散った力はそこで消えるのではなく、土台から基礎へ、基礎から土へ抜けていく。抜けきらなかったぶんだけ、木は毎年締まりを失っていった。 台所から二つの音が、一日に何度も飛んだ。高いほうが先に来て、低いほうが後に続き、あいだの間はいつも同じ長さだった。同じ並びを幾千回も受け取ったので、わたしは並びのかたちを覚えた。意味は取れない。取れないまま、その二つが鳴るとたいてい二階のどこかで重さが動き出す、という順序だけを、繰り返しから知っていた。玄関では、外から入ってくるたびに四つの音が続けて鳴り、最初の一つがいちばん強く、あとの三つは弱くなりながら短くなっていく。 十二度目の夏の前に、洗い場のタイルが剥がされた。八時十分に前の道へ車が止まり、幅員四メートルの道をふさぐかたちで荷台の扉が開いた。土足が勝手口から入り、まず洗い場の四隅に鏨があてられた。タイルは目地から割られ、割れたところへ刃を差し込んで一枚ずつ起こされ、起こされるたびにモルタルの粉がわたしの床下へ落ちていった。十二年のあいだ、洗い場の水は目地の細い割れを通って下へまわり、北側の土台をいつも湿らせていた。四年前にその土台を食ったものたちが湿りを追ってきたのだという順序を、わたしはあとから受け取っている。土間のコンクリートが割られる振動は基礎を伝って四隅まで届き、東南の束石が三厘ほど沈んだ。沈んだぶんは戻らない。釘の打ち方には、わたしが組まれたときの間の取り方とよく似た休みが混じっていたが、それが同じ手なのかどうかを確かめる方法をわたしは持たない。剥がされたタイルは昼のあいだ庭に積まれ、雨が来ると、積まれた面と面のあいだで水が鳴った。昼を過ぎると音の種類が減った。鏨が止み、低い声が二つ、長い間を置いて交わされ、そのあいだ何も打たれない。打たれない時間は三十分ほど続き、それから音がまた増えた。タイルの下から出た土は十二年ぶりに空気へ触れ、触れた日のうちに匂いを変えた。いちばん水の溜まっていた隅の土は黒く、鏨の先が入っても音を立てずに沈む。その日のうちに、わたしの中で水の通る道筋は二つに分けられた。一つは新しい管に納められ、もう一つは埋められて、埋められたほうへはもう何も流れてこない。流れの止まった土は長く湿ったままで、夏を二つ越えたころ、ようやくほかの床下と同じ乾き方をするようになった。 新しい風呂は、外で組まれた部品として運び込まれた。床と壁と天井がひと続きになった一つの器で、継ぎ目には白いものが押し込まれ、脚だけで土間に立った。わたしの柱にも土台にも触れていない。その日から、風呂はわたしの一部ではなくなった。わたしの中に置かれた別の箱になり、中で湯が使われても、熱はわたしへ回らず、器の内側をまわって外へ抜けていく。壁のむこうで人が動く振動だけが、脚を通って土間へ降りてくる。排水の音も変わった。それまで土に吸われて途中で消えていたものが、管の中をまっすぐ落ちて外へ出ていくようになり、音の終わりがはっきりした。 その年から、床下の匂いが変わった。 湿りの引き方は場所によってひどく違った。南の縁の下は一年で乾き、乾いた木は音が高くなる。北の土台は食われた穴がそのまま残っていて、穴は乾いても塞がらないから、そこだけは低いままだった。乾いた分だけ木は縮み、縮んだ分だけ仕口に隙が出る。北側の建具は梅雨に膨れて閉まらなくなり、冬に痩せて閉まるようになった。人の手はそのたびに戸を持ち上げ、敷居に鉋をあてる。鉋屑の匂いは二日ほど残り、三日目には台所の油の匂いに負けた。 茶の間の柱に傷が並んでいた。檜で、わたしの中に四本しかない檜のうちの一本だった。刻まれる手つきはいつも変わらない。まず柱の前で重さが止まり、背中が押しつけられ、上から板のようなものが頭に当てられて、その下端に刃が入る。刃は木目に逆らって横に走り、深さは一分に足りない。切られるあいだ檜の匂いが立ち、その匂いは半日で消える。柱の前に立つのは軽いほうと重いほうの二つだけで、大人の重さが背中をつけたことは一度もない。刻む側の手は切り終えると必ず親指の腹で切り口を一度押し、押されると木口の毛羽が寝て、次の雨まで寝たままでいた。傷の深さはそろっていない。二本目と三本目は浅く、木目の柔らかいところで刃が滑って線が二重になっている。六本目だけが横に長く、柱の角を越えて南の面まで届き、越えた先で細くなって途中で消えた。傷は下から順に高くなり、あいだの隔たりは、はじめのころは一年に二本、途中からは一年に一本になった。十本目を過ぎたあたりから傷は鴨居に近づき、刻むほうの手が背伸びをしなくなり、やがて刻む手のほうが下から見上げる位置に立つようになった。十三本目と十四本目のあいだは、それまでのどの隔たりよりも長い。その隔たりのあいだにも重さは増え続けていたから、柱に残るのは背丈であって重さではないという区別を、わたしは十四回のうちに覚えた。 十四本目が入った日は六月で、台所の換気扇が回っていた。日はまだ高く、庭の物干しには何も掛かっていない。柱の前で重さが止まるまでの動きが、それまでのどの回よりも速かった。刃が入ったあと、指が三本、傷の縁をなぞって木屑を払った。払われた木屑は畳の目に落ち、翌朝に掃かれた。柱の内側では、その一分に足りない切れ込みのぶんだけ、繊維の走りが途切れている。途切れたところに湿りが入るので、以後、雨の日の柱は傷の高さだけ余分に膨れた。 十五本目は来なかった。 そのあとの何年かで、二階から降りてくる振動の質が変わった。低いところで規則正しく繰り返す震えが、夜の遅い時刻まで柱を伝うようになり、震えの周期は速い日と遅い日があった。震えているあいだ、二階の重さはほとんど動かない。動かないまま震えだけが続き、下の階の天井板を留めている釘が少しずつゆるんだ。ゆるみは冬に進む。乾いて縮む季節に、抜けかけたものはさらに抜ける。 その冬、はじめてブレーカーが落ちた。二階と台所で同時に電気が使われた晩で、落ちる前、壁の中を流れるものがわずかに温かくなっていた。落ちると家じゅうの音がいっぺんに消え、消えたあとで、いくつもの足音が同じ方向へ動き、玄関脇の板戸が開いて、レバーの上がる音がして、また全部が戻った。同じことは、その後の何年かで六度あった。 わたしは数を取り違えない。 四畳半には物が積まれていった。紙の束が押入れの中段に置かれ、置かれるたびに床の一点にかかる重さが増していく。人ひとりぶんの重さは動きまわるから、木は休むことができる。紙の重さは動かない。動かない重さは木を確実に曲げるので、押入れの中段の板は端から中央へ向かってゆっくり反りはじめ、反りは五年たっても止まらなかった。年の暮れになると玄関の内側に紙の束が投げ込まれ、束の厚みは年ごとに増した。束の表には毎年同じ二文字が並んでいて、その二文字は門の表札にもある。表札のほうは十数年ぶんの雨を受けて、彫りの底に黒いものが溜まっていた。岸辺、と彫られている。 二十度目の冬に入るころ、わたしの中を上下する重さは相変わらず四つだった。四つのままで、鳴る時刻の散らばり方だけが変わっていった。玄関の四つの音が、日の変わったあとに鳴る晩が月に何度かあり、そういう晩は、階段の下から三段目が右の端でしか踏まれない。翌朝、その足は動かず、ほかの三つが先に外へ出ていく。誰も上がらない時間帯の二階は屋根から冷え、下の階との温度差が四度ばかりついた。 その差が大きい日は、二階の六畳の建具がわずかに反り、閉めきったはずの襖に細い隙が残る。隙は北側でいちばん広く、指の一本ぶんに近づく年もあった。秋になると北の襖は三分ばかり痩せて、その分だけ、また閉まるようになる。 第四章 柱の傷は十四本で止まったまま、五度目の冬を越した。刃が当たらなくなっても傷そのものは動かないが、木のほうは毎年わずかに痩せるので、縁の角は少しずつ丸くなり、溝の底に溜まった手の油と埃で色だけが濃くなっていく。冬の午後、茶の間の南の面には一時間三十一分ほど日が当たり、当たった側と内側とで乾き方が違ってくる。その差で縦の割れが伸びる。割れは四寸五分の芯までは届かない。届かないまま、毎年二ミリか三ミリずつ長くなる。傷はいちばん下が床から七十八センチのところにあり、いちばん上は百七十二センチのところにあって、下の七本と上の七本とで刃の入り方が違う。下の七本は浅く、横に長い。上の七本は深く、短い。どちらも、木が痩せていくぶんだけ毎年ゆっくり床に近づいている。 家の中を動く重さは、まだ四つに分かれている。 いちばん重いものは階段を二段ずつ上がるので、三段目をほとんど踏まない。二番目に重いものは踵から先に下ろす癖があり、その振動は柱を伝って一階の鴨居まで届く。三番目のは足裏の面積が広くて、廊下の同じ一枚を毎晩ほとんど同じ角度で撓ませる。いちばん軽いものは摺り足で、板と足裏のこすれる高い音を立てながら、台所と茶の間のあいだを、多い日で四十七回往復する。四つを合わせて二百二十四キロ、わたしの総重量に比べれば知れているが、それが動くたびに根太と大引と束石が順に力を受け渡していくので、どこに何がいるかはいつでも分かる。夜になると二階の六畳で低い振動が始まり、木を伝って一階まで下りてきて、鴨居の隅で襖の紙をかすかに鳴らす。速い日は五十二分でやみ、遅い日は日付が変わっても続く。風呂は八年前に入れ替えたユニットのままで、排水のたびに床下の配管が二度鳴る。一度目は湯が落ちる音、二度目は空気が戻る音になる。六月に入ると建具が枠に当たりはじめ、南側の三枚は毎年同じ順に動きが重くなって、九月の十八日過ぎに元へ戻る。四つの重さは、そのころになると開けるときに肩か腰を使う。 玄関では、決まった二つの音が鳴る。 意味は取れない。ただ、一日に四度か五度、二十年のあいだ聞いたので、音の形のほうは覚えた。高いところから落ちて、最後にわずかだけ上がる。四つのうちいちばん重いものの出す音がいちばん短く、摺り足のものの出す音がいちばん長い。三和土に落ちる鞄の重さも、それぞれ違っている。 翌年の春、いちばん重いものが出ていく。 朝の六時十二分から二階の六畳で物が動きはじめ、机が二度、柱にぶつかって、鴨居に深さ一ミリの当たりが増える。九時十分すぎに、その机が階段を下りる。人ひとりぶんの重さと机の重さが同時に載ったので側桁が軋み、三年と七か月ぶりに三段目が踏まれた。積もっていた埃はそこだけ途切れる。荷物は三度に分けて運び出され、そのたびに玄関の建具が枠に当たり、最後に外から二つの音が鳴った。中で鳴るときより高い。六畳の畳には、机の脚の跡が四つ残る。跡は八か月ほどかけてゆっくり戻っていくが、それでも周りと同じ高さにはならない。その部屋では、夜の低い振動も止まった。人が入らない月が続くと空気が動かなくなり、冬のあいだ、六畳の温度は隣の四畳半より一・二度低いところで落ち着く。押入れの奥では、湿気の抜けない側の板がゆっくり反りはじめる。 重さは三つになる。 岸辺の表札が掛かってから二十四度目の秋に、風が来た。夜の八時五十二分から南西の風圧が上がりはじめ、十時三十三分に雨戸の一枚が枠の中で暴れだす。十一時を過ぎると風は一定ではなくなり、七秒か八秒おきに強く押しては抜けるようになって、そのたびに軸組の全体が二ミリから三ミリ、北東へ傾いてから戻る。貫と柱の隙間が鳴る。梁と桁の仕口では、木が木を押す低い音がずっと続く。屋根では南西の隅の一枚が先に浮き、桟に爪を掛けたまま何度も落ちては戻り、十一時五十二分に飛んだ。飛ぶときは軽い。抜けた縁から次の一枚に風が入り、十二時十七分までに三枚、二時十四分までにさらに三枚が続けて剥がれて、合わせて七枚になる。野地板が出たところへ雨が直接当たり、水は垂木を伝って二階の四畳半の天井板に落ちる。天井板は三十八分で色が変わり、明け方には水を含んで撓み、四時二十二分から畳の上に落ちはじめた。畳は水を吸うと重くなる。一枚が六キロ重くなって、その重さが根太の一点に集まる。人が起きてきたのは四時五十一分で、桶が置かれ、水が桶に当たる音が一定の間隔で続いた。桶が満ちていくにつれて、その音は少しずつ高くなる。二十六分で一度こぼれ、拭かれ、また置かれる。風が抜けたあとの三日間で天井板の水は端のほうへ広がり、乾いていくにつれて輪の形の縁だけが残って、そこから先へは進まなくなる。畳が元の重さに戻るまでには二十九日かかり、そのあいだ根太の一点は撓んだままでいる。乾いてからも、その部屋には雨の日だけ立ち上がる匂いが残った。 秋の終わりに、六十三キロの重さが屋根に上がってくる。棟から南西の隅まで四度往復し、割れた桟が打ち替えられて、新しい瓦が七枚載る。新しい七枚は水を吸わない。だから雨が当たると、周りの瓦より高い音を返す。その差は今も消えていない。 二年後、梅雨が明けてすぐに、摺り足でないほうの軽い重さが出ていった。荷物は少なく、一時間十八分で終わる。今度は畳に跡が残らない。 重さは二つになる。 秋になって、二階の四畳半から畳が四枚半、外へ出された。藁床は一枚で三十二キロあり、それが順に階段を下りていくあいだ、二階の荷重はほとんど無くなる。根太のあいだに新しい根太が足され、合板が張られ、その上に細い板が並べられる。釘は手で打たれず、空気で打たれた。一本ごとに短い衝撃が来て、それが軸組の端まで抜けるのに百分の一秒もかからない。一日で千八百六十本打たれる。硬い。畳が敷かれていたあいだ、あの部屋は湿気を吸って吐いていた。板になってからは吸わない。冬になると北の窓の内側に水滴がつき、下枠に溜まり、そこの木だけが毎年少しずつ黒くなっていく。部屋の温度は前より速く上がり、速く下がるようになる。張り終えた日から十七日のあいだ、接着剤の匂いが二階の廊下まで出てきて、雨の日にだけ濃くなる。足の裏が板に当たる音も畳のときとは違い、踏まれた力がその場で吸われずに、根太から柱へまっすぐ抜けてくる。だから誰かがあの部屋を横切ると、一階の茶の間にいてもどこを歩いたか分かる。人はほとんど入らない。年に三度か四度、戸が開いて、物が置かれ、また閉まる。置かれた物は動かない。 次の年の春から、二つのうち片方の歩き方が変わっていく。まず階段を上らなくなり、そのぶん二階の床は撓む機会を失って、板の隙間が乾いたまま開く。廊下を往復する距離が短くなる。夜中に便所へ立つ回数が増え、そのあいだの間隔が長くなり、戻るまでの時間も長くなる。台所で湯を沸かすのはもう一方だけになった。洗濯機の回る回数が増えて、電気の使われ方の山が朝から昼へずれる。訪ねてくる重さが増える。玄関の建具が一日に何度も開き、そのたびに三和土の温度が動く。ある時期から、片方の重さは茶の間ではなく一階の四畳半に留まるようになり、四本の脚に集まる荷重が新しく加わって、それが日に一度か二度、少しだけ位置を変える。脚の当たる四点では、畳表の目が七週間で潰れ、そこだけ湿気が抜けなくなる。夜のあいだ、その部屋の温度はほかより高く保たれ、電気の使われ方は夏も冬もほとんど変わらなくなった。もう一方の重さが台所と四畳半を往復する回数は、一日に二十八を超える日と、九に届かない日とに分かれる。 冬の朝、五時十七分に、玄関が開いたまま八分間閉まらない。 外の空気が三和土から茶の間まで入り、床板の温度が二度下がる。重さがいくつも入ってきて、四畳半から茶の間を通って玄関へ、何かが水平に運び出される。角が敷居に当たった。深さ三ミリの欠けが残る。柱の傷より新しく、まだ埃も油も入っていないので、しばらくのあいだ白い。それから四日のあいだ、人の出入りがいちばん多くなる。襖が外されて茶の間と四畳半がひと続きになり、畳の上に同時に十七人が座る。畳床が沈み、根太が撓み、束が普段の三倍半の力で束石を押す。線香と、花と、水を含んだ布の匂いが混ざって、天井の近くに二日ほど残った。四日目の午後、電気が一度に使われすぎてブレーカーが落ちる。二分後に上げられる。夜には人がいなくなり、襖が元の溝に戻された。溝は擦り減っているので、戻された襖は前より軽く動く。 重さは一つになる。 一つになってからの一年で、使われ方がはっきり変わった。二階へは誰も上がらない。階段の踏板は乾き、三段目だけが他より白く残る。台所で火が使われるのは一日に一度で、風呂は二日に一度になり、配管の二度鳴る音の間隔も長くなる。玄関の二つの音は鳴らなくなった。そのかわり、茶の間で同じ三つの音が繰り返し出る時期があって、その三つはわたしが以前から知っている音の並びだったが、返す音はどこからも来ない。しばらくすると、それも出なくなる。郵便受けに落ちる紙の量は減らない。減らないまま、玄関の板の上に積み上げられていく。 梅雨のあいだに、重さが少しずつ外へ出ていく。箪笥が動かされると、その下の畳だけ色が違っている。荷物が減るにつれて床の撓みが戻り、長いあいだ枠に擦れて動きにくかった戸が、急に軽く滑るようになった。柱にかかる力の向きも変わる。ずっと押されていた側が押されなくなって、木は少しだけ元の形へ戻ろうとするが、二十七年ぶんの癖は抜けない。運び出されなかったものもある。二階の洋室に置かれたままの物と、押入れの上の段の箱と、便所の窓の下に掛かった板は、そのまま動かされない。台所の吊戸棚は空にされたが、扉は開いたままにされる。 八月の、朝の十時四十七分。 一つきりの重さが、六畳と四畳半と台所と便所を順に回り、二階まで上がって、四つの部屋の戸を開けてから閉めていく。最後に茶の間へ戻る。柱の前で足が止まり、傷の並んでいるあたりに手のひらが当たって、そこだけ四秒ほど温度が上がった。それから玄関で二度、錠が回る。表札は掛かったまま残される。昼過ぎに、二十七年のあいだほとんど途切れなかった冷蔵庫の振動が止まり、それきり、わたしの内側の温度は外の温度にそのまま従うようになった。 第五章 三月の、まだ土台の冷えている時分に、簞笥と冷蔵庫と畳とが順に外へ運び出されて、床がその重さを手放した。軽い。運び出しのあいだ、根太はふだんの倍ちかく撓んでは戻り、上がり框の角が二か所、四角い脚の当たるたびに欠けた。日の傾いたころに最後の重さが土間を横切って、玄関の錠が外から回された。外から回されること自体は、それまでの二十六年に何千回もあった。ただ、そのあとに来るはずの、低いところで鳴る夕方の音と、続けて起こる水の音とが、その日は来なかった。 翌朝も来なかった。 最初に変わったのは水だった。台所と便所と風呂の排水口には、床下のにおいを止めるためのわずかな水が溜まっていて、それは人が使うたびに入れ替わる。誰も使わなくなれば溜まった水は日ごとに減って、六月の終わりまでに三か所とも底が見えた。乾いた。便所のタンクの水はもう少し長く残り、水面の下がるのにつれて、陶器の内側に輪が一本ずつ増えていった。そこから先、床下と同じ湿ったにおいが、家の中のいちばん高いところまで上がってくるようになった。においには順序があって、はじめに台所の流しの下、次に風呂場、最後に便所と、床に近いところから天井へ向かって層が上がっていき、人の住んでいたあいだ、その層は毎日いちばん下で崩されていた。北の壁で回っていた小さな音は、それより前に終わっている。止まった。円盤の回る音は二十六年のあいだ一度も途切れたことがなかったので、止まってしばらくは、その分だけ音の抜けた場所が壁の中にできていて、夜のうちに建具の隙間から入ってくる風の音が、そのぶんだけよく届くようになった。 水は、三年のあいだ一度も家の中を流れなかった。 前の道は幅が四メートルで、大型が通ると、地面から基礎へ、基礎から土台へ、順に振動が来る。人が住んでいたころ、それは足音や引き戸や台所の水の振動に紛れて、数えられるものではなかった。空になってからは、朝のうちに七つ、昼を挟んで十いくつ、日が落ちてから二つか三つと、ひとつずつ数えられるようになった。数えた。振動の入ってくる向きはいつも南で、抜けていくのは北の勝手口の下だった。 一度目の夏は雨が多かった。屋根の南側が乾ききる日はひと月に数えるほどで、瓦の下の土が水を含んだまま、次の雨を受けた。重い。重さでいえば、人が四人いたころとそれほど変わらない。ちがっていたのは、その重さが動かないことだった。人の重さは朝に二階から下りて、夜にまた上がり、便所の前で止まり、流しの前ではしばらく片足のほうへ寄る。屋根に載った水はどこへも寄らず、九十三平米の全部を等しく押し下げていた。八月の半ばに、二階の六畳の畳が縁のところから湿りを吸いはじめ、その下の天井板とのあいだの空気が動かなくなった。 蜘蛛は早かった。 七月には茶の間の四隅と、階段の下の三角の隙間に糸が張られていた。糸そのものに重さはないに等しいけれど、風の通る道は変わる。北の勝手口の建具の下には、建てたときから三ミリの隙間があって、そこを入った風が廊下を通り、階段を上がって、二階の窓の合わせ目から出ていく。その途中に糸が渡ると、風はわずかに向きを変えて、廊下の中ほどの一枚の板を鳴らすようになった。鳴った。二十六年のあいだ、鳴ったことのない板だった。 埃は、音でわかる。 積もりはじめの埃は何も変えない。厚みが増してくると、部屋の中で立った音が返ってくるまでの間が、少しずつ長くなる。簞笥も畳もない部屋ははじめのうちよく音を返して、瓦を打つ雨粒の数まで下の間で数えられたのに、二年目の秋には返りが鈍っていた。茶の間の柱に並んでいる刻みにも、埃は入った。十四本。刻みは深いところで二ミリに足りず、下から三本目までは間が広く、四本目から七本目までは詰まっていて、上の四本はほとんど重なっている。埃は水平な面から先に厚くなる。鴨居の上、長押の上、階段の一段ごとの角。柱は縦に立っているので、面には積もらない。ただ刻みだけは横に彫られていて、そこが幅二ミリの小さな棚になっている。溝の埋まっていくのを、わたしは底からの寸法として覚えている。二年目の終わりには、いちばん古い一本は、爪の先を当てても引っかからないところまで浅くなっていた。深さの残っているほうから数えて、四本目までは、三年目の春にもまだ指の腹でわかる段があった。 一度目の冬に、ネズミが入った。 床下換気口の網は、北側の土台を入れ替えたときから一か所だけ緩んでいて、そこから床下へ入り、風呂場の配管の抜き穴を通って壁の中を上がった。四つの足が天井裏を走るときの重さは、いちばん軽かったころの子どもの二百分の一にもならない。それでも、走る速さと、途中で止まっている間の長さは、家の中を動くものとして数えられる。二度目の冬には、天井裏を通る筋が増えた。三本。壁の中を上下する道は、決まって北側の、入れ替えた新しい材のほうを避けていた。新しいといっても二十年になるのに、その材はいまでも他より乾いていて、音の返り方が固い。夏のあいだ、天井裏の音は減って、床下のほうへ移る。九月の終わりごろにまた上へ戻ってきて、そのとき通る道は前の年と同じ道だった。板を齧る音は、木の乾いて鳴る音と間の取り方がちがい、一定の速さで続いて、長くて三十秒ほどで止まり、しばらくしてまた同じ場所から始まる。齧られて落ちた粉は天井板の上に溜まり、雨の日に湿って重くなり、晴れると軽くなるのを繰り返した。三年で、二階の廊下の天井板は、一枚あたりの重さがはじめより少しだけ増えている。 二度目の夏は逆だった。朝から日の落ちるまで屋根が熱を持ちつづけ、天井裏の温度が夜になっても下がらず、杉の柱が順に鳴った。木の乾くときの音は、建てられた年に毎日聞いていた音と同じで、それきり三十年近く聞いていなかった。大黒柱は四寸五分あるので、外側が乾いても中まで乾くのには時間がかかり、鳴るのは他より遅く、音は低い。八月の終わりに雨が来た。止まった。 郵便受けから土間へ落ちる紙の音は、厚みと枚数でちがう。表札と同じ形の字が大きく出ているものは一度目の秋のうちに来なくなって、あとに残ったのは形の揃わない薄い紙ばかりになった。薄い。それらは土間の同じ場所に積み上がり、二度目の梅雨に湿って互いにくっつき、乾いてからは固まって、次に落ちてくる紙をそこで受けた。 三年のあいだに、人が入ったのは二度だった。 一度目は二年目の十一月の午後で、錠が回り、土足のまま上がり框を越え、茶の間の真ん中まで来て止まった。九十秒ほど、重さは動かなかった。それまで上がり框の上で靴の底が板に触れたことはなかったので、その一点にだけ、板の目に沿った細かい傷が残った。残った。階段へは来なかった。出ていくときに玄関の建具が枠に当たって、戸車の位置が二ミリ下がった。 人がいた時分より、冬の朝の温度は下がる。湯を沸かす音も、風呂の湯を落とす音もないので、家の中の湿りは外の空気とだいたい同じところへ落ち着く。北側の四畳半だけは別で、押入れの奥の板と、その裏の壁の中の空気は、三年のあいだ一度も入れ替わらなかった。人が住んでいたころ、そこの空気は季節の変わり目に二度か三度、襖が端まで開けられて、中のものが全部出されるときに入れ替わっていた。年に二度か三度でも、それが二十六年ぶんある。三度目の冬に、そこの板の表面が白い粉に近い手触りになって、においが変わった。畳の裏も同じで、踏まれない畳は、踏まれる畳より早く傷む。人の足の裏は畳の目を潰していきながら、同時にそこを乾かしてもいた。畳を上げれば下に荒床の板があり、その板と土台のあいだの空気は、風呂場の窓が開けられるたびに動いていた。三年、開かない。風呂は十五年前にタイルから継ぎ目のないものへ替えられていて、そこだけは湿りを木に渡さないので、床下から上がってくるものは、その箱を避けて、まわりの土台と柱のほうへ回りつづけた。北側の土台は、一度食われて入れ替えたところで、そこだけ湿りの入り方が他とちがう。 襖と障子は、人が毎日開け閉てするあいだだけ、自分の通り道を保っている。三年動かされずにいた茶の間と四畳半のあいだの襖は、敷居の乾いた側へ少しずつ寄っていき、三年目の終わりには、閉めきったつもりの合わせ目に、指の入るほどの幅ができていた。 雪は二度目の冬に一度積もった。南側は昼のうちに落ち、北側は三日残った。落ちるときの音と振動は、瓦が七枚飛んだ年の風より短くて、それより重く、屋根から地面へ抜けるまでのあいだに、南の庇の先が一度だけ大きく撓んで戻った。歪んだ。雨樋の継ぎ目の一か所に、そのとき歪みが出た。 三度目の冬には、雪は降らなかった。 三度目の春に、南の窓から入る熱の帯は、前の年よりも低い位置で畳を温めた。低い。二年目のときも、その前の年より低かった。窓の外で何が起きているのかを、わたしは知らない。知っているのは、朝のうちに温まる畳の面積が年ごとに狭くなったことと、その分だけ部屋の奥が長く冷えていたこと、それだけだ。 三月の、午前十一時をいくらか過ぎたころ、錠が回った。回った。重さは三つで、三つとも土足だった。茶の間まで来て、台所、便所、風呂の順に回り、それから階段を上がった。中ほどで、いちばん重い一つが足を滑らせかけ、手すりの根元へ横向きの力がかかった。二階の六畳で、金属の細い帯が伸びて止まり、また伸びる音が三度あった。声は二つの高さで、片方は速く、片方は間を長く取った。同じ短い音が何度か繰り返されて、そのたびに重さの位置が変わった。窓の締まりが外され、建具が枠のいちばん端まで滑って、外の空気が入った。三年のあいだ、二階の空気は、隙間から少しずつ入れ替わる分しか動いていない。入ってきた空気は畳の湿りの上を通って、階段のほうへ下りた。下りる途中で、北の四畳半の押入れが端まで開けられ、中の空気が外の空気と入れ替わった。それから、茶の間と四畳半とのあいだの襖を押した一つは、半分までしか開かないところで手を止め、二度、押し直したが、襖は同じところで止まった。四十分。三つとも出ていった。錠は外から回された。 そのあとで、土間へ落ちた新しい紙が二枚、固まった紙の上を滑って止まった。埃は前の日と同じ速さで積もりはじめた。 第六章 三年ぶりに、門柱の受け箱の上で金具が回された。日に灼けて反っていた板が外され、木口の白い板が入れられた。新しい板は前のものより四ミリ厚く、外れた側のねじ穴は埋められないまま二つ残った。彫られた文字は二つで、前の二つとは画の数が違っている。 同じ形の二文字が、その日から受け箱に落ちてくる紙の表にも並ぶようになった。 雨の上がった朝、幅員四メートルの道に、路盤が沈むほどの荷重が入ってきた。空き家だった三年のあいだ、この道を通るのは軽い車と自転車ばかりで、地面から基礎に届く振動は薄く均されていたから、その沈みは南東の隅の束石まではっきり伝わった。人が三人、玄関の敷居を越えた。二人は同じ重さの組で、片方は一歩ごとにわずかに右へ寄る癖がある。もう一人は上がり框に一度だけ重さを預けて、そのまま出ていった。それから箪笥が入り、洗濯機が入り、二階へ運ばれた段ボールが六畳の北寄りに積まれた。積まれた場所の下では根太が二本、たわみの向きを変えた。荷が全部入り終えたとき、九十三・九平米の床の上に載っている重さは、三年前より三割ほど少なかった。前の家族が置いていったものと、新しく入ってきたものは、そもそも量が違う。 その日の夕方、廊下を四つの足音が走った。 四つは二つとは別の音になる。前の二つと後ろの二つのあいだに間があり、爪が板を掻く高い音が混ざる。走るときは四つが二つずつにまとまり、歩くときは四つが均等に離れていく。台所の入口の敷居のところだけ、爪の音が二度続けて鳴った。そこには一寸五分の段差がある。 夏の初め、高いほうの声が茶の間で止まった。柱の前で膝が畳につき、湿った布が檜の面に当たった。石鹸の匂いのする水が傷の底に入って、戻ってこない。傷は十四本ある。いちばん低いのが床から六百二十ミリ、いちばん高いのが千六百五十ミリで、深いところでは二ミリ近く、木が繊維ごと潰れている。潰れた繊維は水を吸うと色が濃くなり、そのぶん一日だけ傷がはっきりする。布は同じ場所を三度こすり、それから力の入り方が変わって、上から下へ一度だけ通った。水が乾くのに二日かかった。十四本の間隔は上へ行くほど詰まっていて、下のほうの三本は一本ごとに大きく空いているのに、上の四本はほとんど重なり合っている。最初の一本と最後の一本のあいだには十三年あり、その十三年のあいだに柱そのものも二ミリ細くなっているから、いま残っている深さは刻まれた日の深さとは違う。 消えなかった。 そのあと十三年、誰もその面に手を当てなかった。 北側の土台は、シロアリに食われた材を入れ替えてから二十二年たっても、まだ他の場所より新しい匂いを出している。屋根には、七年前の台風のあとに替えた瓦が七枚だけ、色を違えて載っている。 四つの足音は、家の中に自分の道を作っていった。茶の間の南寄り、日の当たる畳の上に毛と脂が落ちて、藁床が二年で他より柔らかくなる。夜になると四つは四畳半の押入れの前に落ち着き、そこで呼吸が始まる。呼吸は湿気になる。四畳半の北の隅の壁は、冬のあいだ、他の壁より含水が高い。壁の中の土は湿って、次の夏に乾くときに細かい罅を作る。罅は上から下へ、去年より二寸伸びた。 二つの音の繰り返しを、わたしは覚えた。高いほうの声がその二つを出すと、四つの足音は必ず床を蹴る。低いほうの声が同じ二つを出すときは、二つ目の音がわずかに下がる。それでも四つの足音は同じように蹴った。 夜の茶の間では、低いほうの音が長く続き、高いほうがそこへ短く割り込む。割り込みと割り込みのあいだの長さは季節で変わり、冬のほうが長い。ある年から、夜のあいだに畳の上を伝わってくる音の総量が減った。減ったぶん、台所の水を出す回数が増えている。 水の落ちる時刻は、十三年のあいだほとんど動かなかった。夜の十時半から十一時のあいだに風呂の栓が抜かれ、十八年前に入れ替えたユニットの排水が、床下の塩ビ管を鳴らしながら北へ流れていく。管は継ぎ手のところで一度息をつぐ。台所の給湯は朝と夜の二回で、冬は湯を出しはじめてから三十秒ほど管が鳴った。電気の使われ方は前の家族のときより細く、夏のあいだだけ二階のブレーカーが年に一度か二度落ちる。落ちる少し前に、分電盤の中の温度が上がっていくのが分かる。受け箱に落ちる紙は、年の初めと年の暮れに厚くなり、それとは別に、月に一度、同じ大きさの同じ重さの封筒が同じ位置に落ちた。落ちてから取り出されるまでの時間は、はじめの数年は半日ほどで、あとの数年は一日を越えることが多くなる。 工事の朝は、暗いうちから始まった。七時十分に二台ぶんの荷重が道に停まり、路盤がまた沈んだ。八時前に茶の間の壁が落とされた。竹小舞に塗ってあった土が一気に剥がれて、乾いた土の匂いが三十七年ぶりに家の中に出た。壁の中は、外から押されているときに感じていたより空いている。柱と柱のあいだの空気がその日の午前中だけ外と繋がって、室温が二度下がった。昼のあいだ、床下に人が一人入った。三十七年のあいだ誰も触らなかった大引きと束の上を、七十キロほどの重さが這って進み、束石のいくつかで一度ずつ長く止まる。這うたびに、床下に溜まっていた乾いた埃が動いて、点検口から茶の間の畳の上まで上がってきた。それから金物が来た。土台と柱の取り合いに厚い鉄の板が当てられ、基礎にはドリルで穴が開けられて、ボルトで締められる。締められるあいだ、座金の下で木の繊維が押しつぶされて、百分の何ミリか沈む。沈んだ分は戻らない。壁の中に筋交いが入り、上と下の端にプレートが打たれた。ビスを打ち込む音は高く短く、一本につき四回から六回鳴る。数えると、その日だけで百八十を超えた。大黒柱は四寸五分あるので、他の柱よりビスが深いところまで入っていく。夕方に壁が塞がれ、新しい面材が張られて、匂いが土から接着剤に変わった。壁が開いているあいだに、三十七年前の秋から柱と柱のあいだに落ちたまま溜まっていた鉋屑が掃き出されて、いちばん古い匂いが家から出ていった。二日目に外側の壁も同じことをされ、南の面だけが直に日を受けて、内と外の温度の差が普段とは逆になった。三日目の午後に荷重が道から抜けた。 痛みという言い方はしない。わたしに残ったのは、硬さだ。 工事の前まで、地面から来る小さい揺れは、土台から柱へ、柱から梁へ、梁から屋根へと薄く広がって、どこかで消えていた。日に何度も通る車の揺れも、遠くで打たれている杭の揺れも、家じゅうに散っていって、散り終わったときにはもう無い。金物が入ってから、揺れは途中で止まるようになった。止まった分は消えたのではなく、鉄と木の合わさっているところに溜まる。南の風の強い日、以前は二階の四畳半の建具が鳴っていたが、鳴らなくなった。代わりに、一階の茶の間の鴨居のあたりで、前には無かった軋みが出る。揺れの通り道を変えると、通らなくなった場所と、新しく通る場所が同時にできる。それだけのことで、どちらがいいという判断はわたしの中に無い。 四つの足音は、その頃から遅くなった。 階段を上がる回数が減り、やがて上がらなくなった。上まで届いていた四つの音が三段目で止まって降りるようになり、そのうち階段の前まで来て、そこで座る重さに変わった。廊下では同じ場所で長く止まる。止まっているあいだ、板は静かだが、呼吸の間隔が以前の倍近くまで伸びているのが、床下の空気の動き方で分かる。茶の間の日の当たる畳の上に落ちる毛の量は、この二年で増えた。藁床の柔らかい場所は、もう元の硬さに戻らない。爪の音も変わっていって、前の二つが板を掻いてから後ろの二つが着くまでの間が、以前の倍近くまで開いた。台所の入口の一寸五分の段差では、二度続けて鳴っていた音が一度になり、そのかわり越えるのに時間がかかる。日の当たる場所から動く回数が減ったので、畳の同じ場所だけが湿っては乾くことをくりかえし、そこの藺草が先に切れた。 ある冬の朝、五時過ぎに二つの足音が起きた。いつもより二時間早い。四つの足音は動かなかった。八時前に、抱えられた重さが茶の間から玄関へ運ばれ、敷居を越えて出ていった。十二キロほどの重さで、運んでいる二つの足音は歩幅を乱していた。その日の午後、北の勝手口の外で地面が掘られた。外で起きることはわたしには分からないが、土を掘る振動は基礎の立ち上がりを通って中まで届く。掘る音は三十分ほど続き、埋め戻す音はそれより短かった。 その夜、風呂の栓が抜かれたのは十一時四十分だった。四十分遅い。 翌年から、家の中を動く音は二つだけになった。二つは日に何度も茶の間と台所を行き来し、二階へ上がるのは月に数えるほどになる。二階の六畳に積まれた段ボールは動かされないまま、下の根太がたわんだ形を覚えてしまった。梅雨のたびに床の鳴る場所が二か所ずつ増え、増えた場所は乾いても鳴りやまない。爪の音が消えてから、廊下の板の減り方は、二本の道だけを残して均等になった。 二階の窓は、この十三年のあいだ、まだ素直に閉まっていた。 十三年目の秋に、また大きな荷重が道に入ってきた。今度は運び出す側で、箪笥が抜け、洗濯機が抜け、二階の段ボールが下ろされた。荷が下りたあと、根太は元の高さまでは戻らず、四分の一ほど戻ったところで止まっている。畳が上げられ、下の板が三十七年ぶりに外の空気に触れて、二日だけ乾き、また敷かれた。柱の前の畳も上げられたが、柱の面には何も当てられなかった。最後に人が出ていったのは、朝の十時前だった。玄関の錠が二度回され、雨戸が全部閉じられて、家の中の空気の入れ替わり方が、その日から遅くなった。南の面から入っていた熱が止まったので、次の日の午後には茶の間の温度が外より三度低いところで動かなくなり、そのまま何日も動かない。 門柱の受け箱の上で、また金具が回された。板が外され、ねじ穴が二つ増えた。上の二つは十三年前のもので、下の二つは新しい。 柱の傷は十四本のままだ。 第七章 戸松の名の札が外されたのは、庭の柿がまだ青いうちで、その二日前から、畳の上を重いものが引きずられていた。箪笥の下の畳は、四つの脚の形に沈んだまま、しばらく戻らなかった。二人ぶんの足音と、手伝いに来た三人ぶんの足音が半日鳴って、日が傾くころに、玄関の錠が二度回った。それから、わたしの中の水が止まった。台所の下と、風呂場と、便所の三箇所で、管に残っていた水が抜けていく音が、それぞれ違う長さで続いた。分電盤の中の棒が倒れて、壁の裏を走る線から細かい震えが消えた。この震えは、一九六六年の秋に電気が入ってから、四十三年のあいだ絶えたことがなかった。 二度目なので、次に何が起きるかは知っていた。 最初の冬に、北の四畳半の畳が湿りを吸って、縁の糸がゆるんだ。人が住んでいるあいだは、朝と晩に襖が開いて空気が入れ替わり、湿ったものは日のあるうちに乾く。誰も開けないと、湿りは同じところに溜まり続けて、床下と畳のあいだを行ったり来たりする。二年目の梅雨には、押入れの奥の板が、指で押せば戻らないほどやわらかくなった。埃は、日の差す茶の間よりも、日の差さない北の部屋に多く積もる。積もる速さは、人がいたころの三倍か四倍で、しかも積もる場所が違う。人が歩けば、埃は舞い上がって、風の抜ける道に沿って端へ寄っていくが、誰も歩かないと、落ちたところにそのまま留まり、日を追って厚くなっていく。茶の間の畳には、南の窓から入る日が同じ幅の帯になって落ち、その帯だけが色を抜かれて、帯の縁が季節ごとに前へ後ろへ動いた。二年めの夏には、帯の内側と外側で、畳の匂いがはっきり違っていた。ネズミは、一九九三年からの三年のときほどは来なかった。あのときは天井裏を走る足音が夜ごとに増えて、匂いが梁まで染みたが、今度は二匹か三匹で、しかも同じ道しか通らなかった。天井裏を通るときの音の高さで、体の重さがだいたい分かる。秋には、庭の実が落ちて、そのまま土に戻った。落ちて潰れたものの匂いは、北の勝手口の戸の下の隙間から入ってきて、廊下を通って、四畳半まで届いた。台所の壁で、電池で動く時計だけが鳴っていた。秒を刻む音は、人がいるあいだに一度も聞こえたことがない。人が一人でも中にいると、その音は、その人の立てる音に消される。 前の道は幅員四メートルしかないので、大きな車は入ってこない。 半年に一度か二度、鍵の音がして、二人か三人が、土のついたまま上がってきた。北の部屋の襖を開け、押入れを開け、二階まで上がって、十分ほどで出て行く。畳に落ちた土は、次に誰かが来るまでそのままだった。そのあいだにも、庭のほうへ水の引いていく速さは年ごとに遅くなって、雨の翌日、床下の空気は前より重かった。敷地は四十一坪と二分あって、そのうち二十八坪ほどの上にわたしが載っている。載っていない土が雨を吸い、吸いきれなかったぶんが、わたしの下の土に回ってくる。 四十五度目の三月の、十四時四十六分だった。台所の時計の長い針が四十六に来た直後に、地面が下から突き上げて、それから長く、南と北に振れた。揺れの前に、土の底のほうを何かが通っていく低い音があって、その音と、最初の突き上げのあいだには、指を二度鳴らすほどの間があった。屋根の瓦の重さがまとめて柱の頭にかかり、その重さを、八年前に打たれた金物と筋交いが受け止めた。硬いところは動かず、動かないぶん、動ける場所がすべて動いた。台所の吊り戸棚が三度鳴り、二階の窓が枠の中で鳴り、床下では、束石から束が浮いて、また落ちた。一九八九年の風で飛んだあとに葺き直された七枚の瓦だけが、周りと違う音を立てた。二年かけて梁の上と鴨居の上に積もった埃が、いっせいに落ちて、しばらく空に浮いていた。落ちきるまでに、揺れの本体よりも長い時間がかかり、それが落ち終わったとき、埃は前と違う場所に積もり直していた。土間では、郵便受けから落ちた紙の山が崩れて、上にあった十枚ほどが下になった。揺れているあいだ、時計の針は同じ速さで進んでいた。 茶の間の柱は、四寸五分ある。檜で、一九六六年の夏に庭で削られてから、わたしの中に入った。その柱の下の仕口が、揺れの終わりのほうで二ミリ動いた。上下ではなく、横に二ミリ。木は、押されればそのぶん戻る。四十五年のあいだ、台風の日でも、二階から人が飛び降りた日でも、押された量だけ戻ってきた。 戻らなかった。 夜まで、地面は何度も揺れた。翌朝には、茶の間と四畳半のあいだの襖が、右の端で引っかかるようになっていた。強く引けば開くが、閉めきったところで下の桟が三ミリ余る。二階へ上がる戸も、閉まりが浅くなった。柱の南の面には、下から順に十四本の傷が並んでいる。いちばん上の傷から鴨居までの距離が、その日から二ミリ広い。傷は動いていない。動いたのは、傷を載せているほうだった。 その春も、誰も来なかった。郵便受けはとうに一杯で、土間に落ちた紙は二十枚を超えていて、崩れたあとは、風の入る日にも動かなかった。台所の時計は、六月に止まった。止まる前の何日かは、針の音の間隔が少しずつ伸びていた。止まってからは、わたしの中で規則正しく鳴るものが一つもなくなり、そのあいだに何度も日が昇って沈んだが、どこまでを一日と数えるかを決める手がかりは、南の窓から入る光の帯の位置だけだった。 秋に、鍵の音が長く鳴った。二人が入って、畳を全部上げて庭に立てかけ、二日かけて、床板と壁を拭いた。水が戻り、管の中で空気が押し出される音が、三箇所で順に鳴った。分電盤の棒が起きて、壁の裏の震えが二年ぶりに戻った。表札が替わった。前のものより字の数が多く、形が違った。 入ってきたのは四人だった。 重い足音が一つ、それより軽くて床を長く擦るのが一つ、短くて速いのが二つあった。いちばん速いのは、廊下のいちばん鳴る板を選んで踏む。重いのは、玄関から茶の間まで七歩で、前にここにいた者たちより一歩少ない。荷物は、二階の洋室と、一階の四畳半に多く運ばれた。運び終わったあとにわたしの上へかかっている重さは、空いていた二年のあいだより、はっきり増えた。増えたぶんは、まず床の根太が受け、根太が大引に渡し、大引が束に渡して、最後は土に行く。土は、押されればゆっくり沈む。沈み方は南と北で違っていて、その差は、建ってから六十年近く、一度も縮まったことがない。 声は、それまでここに響いてきたものと、作りが違った。切れ目が少なく、一続きが長い。終わりのほうで音が上がって、そのまま次に繋がる。速さは、前の住人より速い。前の二人は、一つの音の塊を出してから次を出すまでに必ず間を置いて、その間に、湯呑みが卓に置かれる音や、新聞の紙が擦れる音が入っていたが、今度の四人は、四つの声が重なったまま同じだけの長さを続ける。重なっているあいだ、茶の間の空気は、一つの声のときより細かく震える。同じ音が一日に何度も繰り返されるものがいくつかあり、そのうちの二つは、半年もすると、空気の震え方だけで見分けられるようになった。一つは玄関で鳴る二音で、もう一つは、下から二階に向かって投げられる三音で、後ろが高い。どちらも、意味は取れない。取れないのは、前の住人のときも、その前のときも同じだった。わたしに届くのは、音が壁のどこを震わせ、どの部屋で消え、どの部屋に残るかということだけで、二階の洋室で出た音は、板の下の空気を伝わって、一階の茶の間の天井の隅にいちばん長く残る。夜の遅い時分に、床板そのものを揺らす低い音が鳴る日があって、その揺れは、南の壁の中ほどで強くなり、北の勝手口の戸で弱くなった。強くなるところは、建ってからずっと同じ場所にある。 音の意味は、六十年近いあいだ、一度も分かったことがない。 人が四人入ると、冬の朝でも、窓の内側が濡れる。 台所の火は、前より長く点いている。前の二人のときは、朝に短く一度、夕方に長く一度で、そのあいだ管を通る水の量も決まっていたが、今度は昼にも点き、夜のいちばん遅い時分にも点いて、火の下に置かれる鍋が重い。油の匂いが天井の板の裏まで上がってきて、抜けきらないうちに次の日の匂いが重なり、二年経つころには、板と板の合わせ目に匂いが残るようになった。この匂いは、一九六六年からここに積み重なってきたどの匂いとも違う。風呂は夜が遅く、二人が続けて入る日が多い。一九七八年に、タイルの床を剥がして箱ごと入れ替えたときから、湯の落ちる音は木に伝わらなくなって、いまは、箱の外側の管を通るぶんしか届かない。それでも、続けて二人が使えば、床下の空気の温みで、どれだけ湯が使われたかは分かる。換気扇に吸われきらなかった湯気が脱衣所の天井に溜まって、板の目が黒くなった。冬になると、分電盤の棒が落ちた。最初の年に三度、次の年に一度落ちた。落ちるのはいつも日の暮れる時分で、そのたびに家じゅうの震えが一度に消え、しばらくして、また戻った。棒が落ちてから起きるまでの長さは、年ごとに短くなった。 一九九一年に畳をやめて板にした二階の部屋に、脚のあるものが置かれた。布団は人の重さを部屋いっぱいに散らすが、脚のあるものは四つの点に集める。同じ梁の同じところに、毎晩、同じ重さがかかる。二年経って、その真下にある一階の天井板が、髪の毛ほど下がった。 北の土台は、一九七四年に食われたところが、いまも他より軽い。 短くて速い足音のうちの一つが、二年で重くなった。踵から着くようになり、階段を下りる音が、上がる音より大きくなった。もう一つは、まだ軽いまま速い。四人とも、階段の三段目の踏み方が違う。重いのは板の真ん中を踏み、床を擦るのは端を踏む。重くなったほうは、上がるときに三段目を飛ばして、下りるときだけ踏む。いちばん軽いのは、三段目で必ず一度止まって、それから残りを一気に上がる。板が受ける力の向きが四人とも違うので、三段目の板だけ、両端の釘のゆるみ方が左右で違ってきている。 柱の傷を、いちばん軽い足音が、時々手で触った。触るだけで、上に新しい線が増えることはない。四十九度目の春の終わりに、南の庭の土が掘り返されて、根のあるものが二つ植えられた。 第八章 四十九度目の夏、床に載っている重さは四つだった。玄関の三和土から上がってくる順番はおおよそ決まっていて、いちばん軽いものが先に框を踏み、いちばん重いものが最後に上がる。順番は変わらない。重さは足の裏の面積を通して床板に伝わるので、四つがそれぞれ違う伝わり方をするのがわたしには分かる。踵から落ちるもの、爪先から乗るもの、体重を横へ滑らせて板をほとんど鳴らさないもの。四つのうち二つは、この四年のあいだ、伝わり方が季節ごとに変わりつづけていて、同じ場所を同じ速さで歩いても、板のたわむ量が去年より大きい。沈んで、戻る。たわみは根太を通って大引に届き、大引から束へ、束から石へ抜けていく。抜けきらないぶんが、わたしのなかに残る。残る量が増えていくというだけのことを、わたしは四年のあいだ数えていた。この家に入ってきた音は、それまでのどの表札のときとも違っていて、粒が細かく、母音が続いて途切れず、一つの塊が終わる手前で高さが上がる。意味は取れない。以前の音は塊の終わりでかならず下がったから、終わりの位置が分かった。今の音は終わりが分からないまま次の塊が始まり、二人ぶんが重なって、重なったまま台所の換気扇の音の下に沈んでいく。わたしに区別できるのは高さと速さと、塊と塊のあいだの長さに限られ、長い間は夜に多く、短い間は朝に多い。朝の台所では三つが同時に鳴って、そのうち一つだけが階段の下から二階へ向かって飛ぶ。飛ぶ音は二拍で、後ろの拍が長く、少し高い。四年のあいだに何百回も同じ形で通ったので、わたしはその二拍を覚えた。覚えただけで、それが何を指しているのかは知らない。玄関でも二つの音が繰り返される。入るときのものは低くて短く、出るときのものは高く、途中で一度切れて、切れたあとがまた続く。郵便受けに落ちてくる紙は、四年前から同じ並びの字を持っていて、門の柱の札もアグエロのまま、掛け替えられていない。四年変わらない。紙の落ちる音は薄い日と厚い日があり、月の初めに厚い日が集まる。厚い日の紙は玄関の三和土まで届かず、受けの底で折れ曲がったまま、次の朝まで動かないことが多い。 その夏、茶の間の柱は何も受け取らなかった。 五十度目の夏の前に、二階の洋室の西の壁に穴が開いた。刃が回りながら土を抜け、貫の縁を削って、外の下見板まで押し通るあいだ、粉が壁の中を落ちて土台の上に溜まった。穴は塞がらない。穴は径が六十五ミリで、そこに管が通り、外の壁に箱が据えられた。洋室は二十五年前に畳を上げて板を張った部屋で、そのとき根太を一本足しているから、機械の震えは床の下で二度に分かれてわたしに届く。震えは六月の終わりから九月の半ばまで、夜のあいだじゅう続き、同じ夏、七時台に何度かブレーカーが落ちた。電気の道が家じゅうで一斉に切れると、震えているものが全部止まって、その二秒か三秒のあいだだけ、家の中に残るのは外から入ってくる音になる。震えが消える。それから廊下の板を走る足が一つ、洗面所の脇まで来て、金具を上げる。上げる音は乾いていて短い。落ちる時刻は夏のあいだ、だいたい同じところに集まっていた。外の箱からは細い管が下がっていて、そこから水が落ちる。落ちる先は西の壁の裾の土で、夏のあいだ、そこだけ乾く時間がない。 その夏、ブレーカーは七度落ちた。 階段は十三段あって、三段目だけが建てられたときから他と違う。板の端が根太に浅くしか掛かっていないので、重さが載ると先に沈み、離れるときに戻る音が出る。四人はそれぞれ三段目の扱い方が違っていた。いちばん重いものは板の真ん中を踏み、いちばん軽いものはそこを踏まずに跨ぐ。二番目に重いものは端を踏んで、そのたびに戻る音を鳴らした。上がるのに使う数は年ごとに減っていき、十三を十三で上がっていたものが、やがて八で上がるようになり、五十一度目の夏には六で上がった。数が減る。降りるときの数はもっと少なく、途中から数えられない。夜のうち、いちばん遅く上がってくる重さは、年ごとに遅くなっていった。 五十一度目の夏、茶の間と廊下のあいだの鴨居に、初めて何かが触れた。鴨居の下端は敷居から五尺八寸ある。最初に触れたのは髪で、乾いた擦れる音がしただけだった。秋には額が当たり、木を叩く音になって、そのあとに例の二拍が鳴った。冬のあいだに七度当たり、春に三度当たって、それから当たらなくなった。当たらなくなったのは、通るときに首を落とすようになったからで、肩が下がるぶんだけ床にかかる重心の移りが変わるので、わたしにはそれが分かる。頭は当たらない。二年遅れて、もう一つの軽いほうが同じ鴨居に触れた。触れ方は先のものと違って、額ではなく後頭部が当たり、当たったあとに一歩ぶん戻る。同じころ、便所の戸を開けるときの手の高さも上がっていた。手の高さそのものは分からないが、引き手にかかる力の向きが変わるので、戸が枠に当たる角度が変わる。年に一度ずつ、当たる位置が上へずれていった。四畳半の畳の縁が擦り切れていく速さも、四年前の倍になっている。重さが増えて、動く速さも増えたからで、擦れて出た繊維は畳の目に沿って隅へ寄り、そこで湿気を吸って固まっている。台所と茶の間のあいだの敷居も、木口の減り方が左右で違ってきた。右の側だけが早く減るのは、そこを通る四つのうち三つが、同じ足から先に出すからで、残る一つは日によって変わる。二階の六畳では、いちばん軽かった重さが窓際に長くいるようになり、窓際の床は南に向いていて、板の含水率が家のなかでいちばん低い。低い板は硬く、硬い板は音をよく返すので、そこに載る重さの変化はどこよりも早く分かる。五十一度目の冬から、その重さが窓際に載っている時間は一日に六時間を超えた。動かない。 茶の間の柱には十四の傷がある。檜で、背に割れが一本、上から下まで走っている。傷の上下の幅は一メートルに足らず、いちばん下は床から九十センチに届かない。 五十二度目の夏の前、その柱に新しい穴が三つ開いた。錐が回って繊維を切り、二十ミリほど入って止まり、螺子が捩じ込まれて金具が留まった。穴の高さは床から一メートル四十で、下から数えて九番目の傷と十番目の傷のあいだに入る。傷は残る。金具には毎日、重さが掛かるようになった。掛かる重さは朝より夕方が重く、雨の日の翌朝はさらに重い。そのとき柱の表面は、その高さのところだけが湿る。 この一家が住んでいるあいだ、柱に刃物が当たることは一度もなかった。 台所の混合栓は、五十度目の秋から水を落としはじめた。落ちる間は初め十秒に一つで、冬のあいだに七秒に一つになった。夜、台所の音が全部消えたあとには、その一つずつが流しの底に当たる音だけが残る。途切れない。落ちる音は二年と八ヶ月続き、ある日曜の午前に工具が二度鳴って止まった。十一ヶ月あとに、また同じ速さで落ちはじめた。風呂は三十八年前に取り替えられたもので、そのころ継ぎ目に詰められたものはもう硬くなっていて、湯が落ちていく速さは年ごとに遅くなった。四人が続けて使う夜には、最後の一人が出てから三十分たっても、まだ管の中を水が動いている。夜の一時を過ぎてから湯を使う日が、五十一度目の夏あたりから増えていった。 大黒柱の仕口は、四年前の春の午後に二ミリずれてから戻っていない。四寸五分の材のなかで、二ミリはほとんど何でもない。ただ、揺れ方は変わった。北から強い風の来る夜、力は柱の根元まで通らずに途中で向きを変え、十二年前に打たれた金物のところが硬いので、そこを避けて、二階の建具の縁に集まる。そこで鳴る。二階の六畳の襖は、風がある強さを超えるとかならず鳴る。鳴りはじめる強さは、年ごとにわずかずつ下がっていた。 五十三度目の夏が終わって、雨の多い秋が来た。十月のある夜、三時二十分ごろ、北の軒の樋を留めていた金具が根元から折れた。錆は何年も前から芯へ向かって進んでいて、残っていた断面は三分の一もない。持たなかった。折れる音そのものは短く、そのあとに、樋が五メートルばかり垂れて板金の縁を擦る音が続いた。屋根に落ちた雨は、それから樋を通らず、北の壁の裾へまっすぐ落ちるようになる。落ちる先は勝手口の脇の叩きで、そこには前から割れが一本あり、水は割れに入って土に届く。土に入った水は基礎の外側を伝い、土台の下端の高さまで上がってきて止まる。北の土台は、四十五年前に一度食われている。あのとき、木の内側を進んでいくものの音は、夜のあいだじゅう聞こえていて、乾いた材のなかを、粉になった木が落ちていく音だった。表からは何も見えないまま、内側だけが軽くなっていって、そこに載っていた柱の重さが少しずつ隣の材へ移っていった。人がそれに気づくまでに、二度の夏がかかった。今度は水で、音はしない。床下の土から上がってくるものが、秋の終わりから変わった。冷たくて、鉄に似た匂いのするものが、北側の畳の裏側まで来ている。畳の裏に届いた湿りは、表までは出ない。出ないまま、藁のなかにとどまって、次の夏に温められる。北側の柱の根に近いところの湿りは、秋のあいだに増え、雨の降らない日が四日続いても前の高さまでしか下がらない。 冬になっても、北の壁の裾の土は乾かなかった。次の夏も乾かなかった。 五十四度目の夏の前、家の中の重さが動きはじめた。二階の重さが階段を通って一階へ降り、一階の四畳半に集まった。四畳半の根太は、前の年から中央が三ミリほど下がっていて、重さが増えたぶんだけさらに下がる。紙の擦れる音と、粘着するものを引き伸ばして切る音が、十日以上続いた。六月のある朝、七時四十分に、前の道へ大きな車が停まり、道は幅が四メートルしかないので、車は家の前まで入らず、二軒手前で止まった。そこから地面を伝ってくる震えは、いつもより間隔が長く、そのぶん一つずつが重い。十一時過ぎに二階の重さがなくなって、二階の床板の反りが戻りはじめた。十四時に一階の重さがなくなった。誰もいない。玄関で繰り返されていた二つの音のうち、低いほうはその日は一度も鳴らなかった。 鍵が回る音が二度して、それから家の中で動くものがなくなった。 畳は押されていた目が少しずつ起き上がり、二週間ほどで表面がおおよそ平らになった。柱の金具は運び出される前の日に外されていた。螺子が抜けたあとの穴は、径が四ミリ、深さが二十ミリのまま残る。その高さは乾いた。埃はそこへ入っていくが、塞がることはない。九十三・九平米の床のどこにも重さは載っていない。北の壁の裾では、雨のたびに水が同じ場所へ落ちつづけている。 第九章 四人ぶんの荷重が抜けたのは、五十四年目の春の終わりだった。畳を押さえていた家具が順に持ち上げられ、根太の反りが戻って、二階の六畳の床は壁際で三ミリばかり上がった。軽くなった。上の階から重さが消えると、下の階の建具の当たりがゆるみ、茶の間の障子が、押されなくても指一本ぶん動くようになった。人の重さが消えても床下の湿りは残り、北側の土台のあたりだけが、外より遅れて温度を下げていった。九年のあいだ壁と畳に染みていた匂いは、十七日ほどで薄くなり、そのあとに残ったのは、藺草と、埃と、床下の土の匂いだった。 荷重のない日が、三十八日続いた。 夏の初めに、玄関で乾いた紙の音がして、知らない足が四つ上がってきた。押入れが順に開けられ、襖が二度ずつ引かれ、二階の洋室では床板が端から踏まれていった。何日かして古い畳が抜かれ、藺草の匂いのする重いものが六枚、部屋の隅から順に入れられた。台所の壁が削られ、水道管の継ぎ手のところで金属を締める音が長く続き、締めおわると、蛇口を出る水の音の高さが少し変わった。玄関の柱には金具が二本打たれ、板が掛けられた。それから郵便受けに落ちてくる紙の、いちばん大きな字が入れ替わり、小田切、と並ぶ三つの字が、どの紙にも載るようになった。 運び込まれた荷物は少なかった。段ボールが十九と、桐の箪笥が一棹と、前の一家が置いていったどの家具よりも重い黒い木の箱がひとつ。箱は四畳半の北の隅に据えられ、据えられた場所の畳は、その日のうちに四ミリ沈んだ。戻らない。線香の匂いが入ったのは翌朝で、以後その匂いは、朝の決まった時刻に来るようになった。 足音は一つだった。 歩幅は短い。右の踏み込みが左より重い。廊下の三枚目の板は右足のときだけ鳴り、左足では鳴らない。台所の流しの前に立たれると、そこの根太が二ミリたわみ、たわんだまま、しばらく戻らない。四人が住んでいたころは、たわみが戻りきる前に次のたわみが来て、昼のあいだ床はほとんど平らにならなかったけれど、いまは一つが戻ってから次が来る。朝の順序は決まっていた。四時から五時のあいだに便所の水が流れ、便器の下の管が二度鳴って止まり、次に台所の蛇口が三十ばかり数える長さで開く。やかんが金属の台に置かれ、ガスの匂いが立ち、しばらくして金属のふたが細かく震えはじめる。それから六畳へ移って、音の出る機械が入る。低い音が長く続き、ときどき高い音の塊がまとまって鳴り、また低くなる。同じ形の塊が一日のうちに何度も繰り返され、繰り返される時刻も、おおむね決まっていた。家に届くのは高さと速さと間の長さだけで、そこから先のものは何も入ってこない。 夕方に、玄関の戸が二度動く日があった。 戻ってくると、三和土のところで短い二つの音が鳴った。同じ高さの音が、同じ順で、同じ間で鳴る。前の一家も、その前の夫婦も、玄関で二つか三つの音を鳴らしてから上がってきたけれど、鳴らし方はそれぞれ違っていた。 この二つの音には、返す音がない。 最初の年は、月に何度か階段が鳴った。七段目の軋みが上りと下りで高さの違う音になるのは、その板の右端の釘が一本浮いているからで、柱に金物を打たれた年から変わらない。上る速さは、ここに住んだどの足よりも遅く、一段ごとに間があいて、その間に手すりの受け金具が小さく軋んだ。手すりは、握られるところだけ木の目が詰まって、油を含んでいる。上では箱の底が擦られ、押入れの襖が開き、しばらくして閉まった。次の年、階段が鳴ったのは三月と十月の二度きりで、そのあいだの七か月、二階の床には空気の重さしか載らなかった。踏まれない板は乾く。乾いた板は端から反り、反った板は隣との合わせ目に隙間をつくり、その隙間が下から温かい空気を吸い上げて、板をさらに乾かす。反りは戻らない。三十一年前に畳を剥がされて板を張られた二階の四畳半では、その反りがいちばん早く出た。三年目に入ってから、階段の音は一度もしていない。 二階の空気は、下より一年じゅう乾いていた。 北の雨樋は、三年前に外れたまま直されていない。雨は屋根の端からまっすぐ落ち、同じところの土に細い穴を掘り、跳ね返って土台の下端を濡らす。濡れた木は重くなる。重くなった木は柔らかくなる。柔らかくなった木は、その上に載っている柱の足を、一年に髪の毛の太さほど沈める。四十七年前、同じあたりの土台の中で、細かい顎が休みなく動いていた音を家は覚えている。木の内側を削る音は、空気を伝ってくる音と伝わり方が違い、繊維をまっすぐ上って屋根裏まで届いた。あのときは床下を掘られ、匂いの強い液が撒かれて、四日目の朝には音がなくなった。今度は誰も床下を開けない。梅雨のあいだ、北側の一階の柱は、南側の柱よりずっと冷たいままだった。 茶の間と四畳半のあいだの襖は、震えた年から閉まりが悪い。大黒柱の仕口が二ミリずれて戻らないので、鴨居がわずかに下がったままになっている。大黒柱は檜で、四寸五分ある。小田切の手は、その襖を毎晩二度押した。一度目で止まり、力を入れ直して二度目で寄る。二年目の冬から、二度目の音が来なくなった。襖は半分開いたままになり、四畳半の温度が、廊下の温度に近づいた。茶の間の柱には、十四本の傷が下から順に並んでいる。五十四年目の秋、その柱の、床から百三十センチほどのところに釘が一本打たれ、紙の束が掛けられた。傷の四本ぶんが紙の裏に入り、外の空気に触れなくなった。柱は乾いている。ひと月ごとに、紙が一枚ずつ剥がされる乾いた短い音がして、そのたびに束は軽くなった。 傷の数は、三年のあいだ十四本のままだった。 最初の年、勝手口の戸は週に三度ほど開いた。土の匂いと、水の音と、金属の柄が石に当たる音が、南の庭のほうから壁を通ってきた。次の年、その戸が開いたのは春に四度と、秋に一度きりだった。三年目には一度も開かず、錠は掛かったままで、戸の下の敷居に土埃が積もっていった。土埃は動かない。九十三・九平米ある床のうち、踏まれる場所も減っていった。四畳半から便所まで十一歩、便所から台所まで九歩、台所から六畳まで七歩ある。三年目の冬には、この三つの道筋のほかを通る足は、ひと月に数えるほどになった。踏まれない畳は、踏まれる畳より早く硬くなり、湿りを吐かなくなって、その部屋の空気が動かなくなる。前の道は幅が四メートルで、大きな車が通るたびに土台の底へ短い震えが届くのだが、それを受け取る床は、もうほとんど空だった。 春になっても、二階の窓は開けられなかった。 五十六年目の一月の夕方、ブレーカーが落ちた。台所で熱を出す機械と、六畳で熱を出す機械が同時に働いた日で、落ちる前から配線が少し熱くなっていた。二分ほどして分電盤の下に足が来て、爪先立ちの重さが板にかかり、レバーが上がった。配線は冷えた。そのあと六畳の機械は使われなくなり、かわりに四畳半で、布団の中に入れる小さな熱源が使われるようになった。風呂は四十二年前に作り替えられたもので、床下の配管がそこだけ新しい。最初の年は四日に一度、湯が張られた。次の年は週に一度になり、三年目には、湯が張られる音を家は二度しか聞いていない。かわりに台所の湯が長く流れ、洗面器が床に置かれる音が続くようになった。排水は同じ管を通るので、家にはどちらも似た振動として届き、風呂場の床下だけが、使われないぶん冷たいままだった。 その冬、水は前の年より少なく流れた。 三年目の秋、家の中を動く荷重は、四畳半の黒い木の箱より軽くなった。 五十七年目の二月の朝、四時二十分に便所の水が流れた。それから廊下の板が鳴り、鳴り方は前の日と同じで、右足のときだけ三枚目が鳴った。四畳半の襖のところで足が止まり、そこで一度、畳に手をつく重さが加わり、六時十二分に、布団のうえで荷重が沈んだ。沈んで、止まった。沈んだところの畳は、いつもの朝より深く沈み、そのまま戻らなかった。台所の蛇口は開かなかった。やかんは金属の台に置かれなかった。ガスの匂いは立たず、線香の匂いも来なかった。六畳の音の出る機械は前の晩から入ったままで、低い音と高い音の塊を、その日いっぱい、夜になっても出しつづけた。便所の管に残った水は、朝のうちに冷えて、それきり押し出されなかった。台所の冷たい機械だけが、前の日と同じ間隔で唸り、しばらく止まり、また唸った。日が落ちて外の気温が下がると、内側の温度も同じだけ下がったが、荷重のあたりの畳だけは、しばらく朝の温かさを持っていて、昼を過ぎるころに、家のほかの場所と同じ温度になった。二階では、乾いた板が夜のうちに一度鳴った。 荷重は動かなかった。 二日目の午前に、郵便受けへ紙が二枚落ちた。午後、玄関の戸が四度叩かれ、軽い足が三和土の外で向きを変えて離れていった。夜のあいだに冷えて、水道管の中の水が、いつもより長いこと動かずにいた。管は鳴らない。三日目の昼過ぎ、同じ軽い足がもう一度来て、こんどはすぐに離れず、しばらくして別の足が二つ増え、それから錠が外から回された。土足が畳に上がったのは、床下を掘られた年と、柱に金物を打たれた年に続いて三度目になる。廊下の板が一度に六人ぶん撓み、五十七年でいちばん大きな重さが四畳半の前に集まって、そこだけ床が三ミリ下がった。襖は最初から半分開いていたので、押される音はしなかった。十三時四十分、四畳半の荷重が持ち上げられ、廊下を通って玄関から出ていった。持ち上げるときに畳の縁が強く押され、その筋は、いまも織り目に残っている。玄関の戸は、そのあと二日、閉められないままだった。外れた雨樋の下では、前の晩の雨の残りが、屋根の端から一定の間隔で土に落ちつづけていた。それきり、その重さは入ってきていない。 夕方に、六畳の機械の音が切れた。 三月の半ばに、人が幾度か来て、段ボールが運び出された。桐の箪笥は横にされ、廊下の角で柱に当たり、床から六十センチほどのところの杉に、新しい傷を一本つけた。深さは二ミリに満たない。黒い木の箱は大人四人がかりで持ち上げられ、持ち上げられているあいだ、四畳半の畳の沈みが三ミリ戻った。台所の棚が空になり、押入れの紙の束が抜かれ、便所の窓が開けられたまま二晩置かれた。柱に打たれていた釘が抜かれたのはいちばん最後で、紙の裏にあった四本の傷が、また外の空気に触れた。茶の間の柱には、傷が十四本と、釘の穴が一つある。 分電盤のレバーは、下ろされたまま上げられない。水道の元栓は、勝手口の外で二度回された。北の土台は濡れたままで、床下の温度は外と同じところまで下がり、家の中で動いているものは、管の底に残った水だけになった。 第十章 春の彼岸が過ぎてしばらくしたころ、北の勝手口の鍵が回って、その日から四日のあいだ、わたしの内側にあったものが順に外へ運び出された。先に軽くなったのは二階の六畳で、次が一階の四畳半、最後が茶の間だった。畳は上に載っていた重みの形をそのまま覚えていて、四本の脚が当たっていた四つの点だけが沈んだままになっていたが、三日目の昼にはその畳ごと縁側から外へ抜かれ、下の荒板が六十年ぶりに直に空気へ触れた。荒板には畳の目の形に埃が積もっていて、畳が持ち上げられたときその形のまま浮き、光の中でほどけた。床下の空気は、以後そこから直に入ってくる。台所では、流しの下に長く置かれていた鉄の器の底の錆が板に丸い跡を残して剥がれ、跡のほうだけがあとに残った。運び手の足音は四つあって、どれも土足のまま上がり込み、そのうちの一つは踵から先に降ろす歩き方をしていたので、上がり框の角がその四日で三度削れた。 戸を閉める音が、この家で鳴ってきたどの戸の音よりも速かった。 五日目に、門柱の表札が外された。木ねじが四本、上から順に回して抜かれ、板の下になっていた面だけが日に灼けないまま残って、そこだけが六十年前の木の色に近い。文字があったことは分かる。何が書かれていたのかは、板が外された時点でわたしの外側へ出ていく。夏のはじめに水が止まった。元栓が閉められてから十日ほどで便所と風呂場の封水が乾き、排水管の奥にたまっていた空気が上がってくるようになって、そのにおいが一階の四畳半の壁の低いところに残った。給湯器の中の水も抜かれ、湯を作るときに鳴っていた音は来なくなった。壁の内側を昼も夜もわずかに流れていた震えは、分電盤の主開閉器が下げられた日に消えた。六十年近く鳴りつづけていたその震えは、止まってはじめて、あったと分かる。 以後、家の中で鳴る音は、外から入ってくる音だけになった。 人がいなくなるのはこれで三度目になる。一度目のときわたしは二十七年目で、二度目のときは四十三年目だった。今度は五十七年目に入っていて、前の二度と違うのは、水も電気もはじめの年に切られたことと、わたしの木の含水率が下がりきって、湿気が入っても以前ほど戻らなくなったことだ。乾いた材は縮む。縮んだ分は、継ぎ手の隙間と、建具の当たりに出る。次の年の秋から、二階の四畳半だった洋室の窓が閉まらなくなった。理由のほうは分かっている。北の角で雨樋が外れたのが五年前で、それから屋根に落ちた雨は、犬走りの同じ一点へ落ち続けた。水は土を掘り、掘られた土は基礎の下から少しずつ逃げ、北側が南側より沈んだ。沈みは土台へ伝わり、土台の傾きは柱へ伝わり、柱の傾きは二階の建具の直角を崩した。窓枠の四つの角のうち、北の上の角だけが直角でなくなって、その分、ガラス戸が最後まで寄らない。十三年前の三月の、十四時四十六分についた大黒柱の仕口の二ミリと、動きの向きだけが違っている。あのときのずれは横で、今度のずれは下へ向かっている。どちらも戻らない。 真夏の数日だけは、木が膨らんで、その窓がまったく動かなくなる。 庭は二度目の夏で縁側の高さを越えた。草の丈が上がると南から入る光の下の三分の一が遮られ、縁側の板の乾き方が上と下で分かれる。どこから来たのか分からない木が三本立ち上がって、そのうちの一本は雨戸の戸袋の隙間へ葉を入れてきた。根はまだ基礎に届いていない。土の硬さからいって、届くまでにはまだ何年もかかる。郵便受けの蓋は二度目の冬に閉まらなくなった。紙が入りすぎたためで、雨に濡れて膨らんだ紙は互いにくっつき、春には一つの塊になって鉄の箱の内側を押している。同じ形の名前が刷られた紙は、はじめの年のうちに来なくなった。 秋になると、その塊は乾いて軽くなり、蓋を押す力だけが残る。 建てられてから六十年目の九月の、十時四十分ごろ、幅員四メートルの道を伝ってきていた細かい震えが、門の正面で止まった。震えが消えたあとに硬い音が一度鳴り、間を置いてもう一度鳴った。門扉が押し開けられて、飛び石の上を二人ぶんの足音が来た。玄関の鍵を回したのは歩幅の狭いほうで、その足音は上がり框の手前で止まり、そこから先へは四十分のあいだ一度も入ってこなかった。 もう一方が入ってきた。 土間で靴を脱ぐ音が二つ、間を置いて鳴り、床板に体重が乗った。六十キロを少し超えるくらいの重みが、右足のほうへ多く寄っている。外にいたぶんの熱と、雨の降っていない日の土のにおいが、その重みといっしょに入ってきて、玄関の三和土の上でしばらく散らずに残った。廊下を歩く歩幅は板の継ぎ目と合っていて、三枚に一度、同じ目地を踏む。この家に外から入ってきた人間で、そういう合い方をした者はひとりもいない。人は普通、廊下の幅の真ん中を、板の目とは関係のない間隔で歩く。茶の間へ入るときは敷居を踏まずに越え、出るときも越えた。六十年のあいだにこの敷居を踏まずに通った回数は、踏んだ回数よりずっと少ない。茶の間の中では、畳の抜かれた荒板の上を二周して、北の隅でいちど止まった。そこは何十年ぶんかの重さが同じ位置に置かれていた場所で、畳が抜かれたあとの荒板にも四つの点の沈みが残っている。沈みの上に体重が乗ると、根太がわずかに鳴った。荒板の上では、畳が敷かれていたころとは足音の返り方がまるきり違っている。それでも歩き方のほうは変わらず、二周目は一周目より速くなって、止まる位置だけが同じだった。それから台所を覗き、風呂場の戸を開けてすぐ閉め、階段の下へ来た。一段目と二段目までは、ほかの誰とも変わらない乗り方だった。三段目で、体重が板の右の端に寄った。わたしの三段目は、その位置に乗せられたときだけ、桁とのあいだで短く鳴る。四十五年前、その鳴り方を毎日させていた重さは、今より三十キロ以上軽かった。板は六十年ぶんすり減って、鳴る高さは少し下がっている。それでも鳴らせ方は同じで、右の端の、同じ幅の中へ落ちた。 わたしがこの六十年で確信を持てたことは、これひとつしかない。 二階では六畳と洋室を順に歩いて、閉まらない窓の枠に手をかけ、二度押した。二度目は北の上の角に力が集まったので、そこの隙間が一ミリだけ縮んで、手が離れると戻った。押した手のひらの温度は木より高い。窓枠の上にその熱の形が薄く残って、三十を数えるくらいのあいだで消えた。降りてくるときの三段目は、上りとまったく同じ鳴り方をした。 茶の間で、床に膝がついた。両膝と、右手の指の付け根と、左手の指先の四点に体重が分かれ、右手のほうが柱に近い。指は柱の下のほうから触りはじめて、一本ずつ、上へ移っていった。傷は木の中へ彫り込まれているので、指がその溝を渡るたびに、彫り跡の縁の毛羽が寝る。十四本の深さはそろっていない。下のほうの四本は刃が二度入っていて、溝の底が二段になっており、上へ行くほど一度で済ませてある。刃を当てた角度も途中で変わっていて、七本目から上は右へ傾いている。木は縦にはほとんど縮まないので、傷と傷の間隔は彫られた日のままで、いちばん下といちばん上のあいだは今も同じだけ離れている。変わったのは溝の縁のほうで、刃の立てた角は長いあいだに撫でられて、上の四本だけが丸くなっている。指は十四本のうち、下から数えて三本目のところで止まり、そこにしばらく体温が移った。柱の表面の温度は、そのとき周りより二度ほど高い。次に、いちばん上の傷のところへ手のひら全体が当てられて、そのまま動かなくなった。手のひらの下にある傷は、四十五年前に彫られてから、一度も足されていない。三十年前に一度、別の手が濡らした布でそこを拭いたことがあるが、水を吸って木が膨らんだぶん、溝はその日いっそう深くなった。 一度だけ、二つの音でできた短い音が茶の間で鳴った。 低くて、途中から下がる形の音だった。同じ形の音は、この家の玄関で三十三年前まで毎日鳴っていて、そのあと一度も鳴っていない。意味のほうは、はじめから分からない。 立ち上がるとき、右手が柱を押して、その力が土台まで通った。手が離れたあとも、押された分の歪みが戻るのに少し時間がかかる。それから茶の間をもう一度横切り、玄関で靴を履き、上がり框の手前で止まったままだった足音と合流して外へ出た。鍵が回り、飛び石の上を二人ぶんの足音が遠ざかり、硬い音が二度鳴って、道の震えが北へ動いていった。十一時二十分ごろだった。柱の傷は、何も持っていかれていない。 九月のあいだ、それきり誰も来なかった。 十月に入って、七日のあいだに三度、人が来た。一度目は二人で、床下の点検口を開けて首から先を中へ入れ、それから天井裏の点検口も開けた。床下では、五十年ぶん積もった土の上を這う重さが、束石を二つ動かした。動いた束石の上の束は、今は床を支えていない。二度目は四人で、敷地の四隅に金属の棒が差し込まれ、南東の一本は六十年前に打たれた杭に当たって途中で止まった。四十一坪と二分の外側と内側を、その日、人が歩いて分けた。四人のうちの一人が屋根に上がった。屋根の上の重みは、瓦が七枚だけ新しくなっている列を避けて歩いた。そこは三十七年前の台風のあとに替えたところで、ほかより据わりが浅い。三度目のときは、金属の当たる硬い音が家中の柱と壁を順に叩いていった。返ってくる音は場所ごとに違い、北の土台の、五十二年前にシロアリの通った部分でいちばん低くなった。あそこは表の一分だけが残っていて、内側は空になっている。二十三年前に打たれた金物のところでは、返りがほとんどなく、硬さだけが残った。金物は木より遅れて動くので、地面が北へ沈んだ分は、あの周りで全部、木のほうが受けている。 その日の帰りぎわに、門柱の脇の塀へ、四本のねじで板が留められた。ねじは下穴なしで打ち込まれ、塀の木がその四か所で割れて、割れは今も広がりつづけている。板に何が書いてあるのかは分からない。ただ、その板が留められたあとで電力の引込線が切られ、メーターが外された。屋根から外へ出ている線が一本もなくなったのは、竣工の年の秋以来になる。 二日後、庭の木が三本とも根元から切られ、草が刈られて、南からの光が縁側の板の下まで届くようになった。乾きはじめた床下の土から、六十年ぶんの湿気が上がっている。柱は檜が四本で、あとはみな杉でできている。大黒柱は四寸五分のままで、仕口の二ミリも戻っていない。屋根では七枚だけが、ほかの瓦より新しい。 茶の間の柱に、傷は十四本ある。
小説 · text · 2026-09-07