二〇二六年四月九日 五時四十分に目が覚めて、そのあとは眠れなかった。水切りかごに昨日の皿が一枚伏せたままになっていたので、乾いているのを指の腹で確かめてから食器棚の右の段に戻した。五枚になる。四枚は薄い灰色で、上から三枚目だけ白に近い。同じ窯で焼いても釉薬の出方が違うのだと、買った店の男がそのとき説明していた。説明の中身はほとんど忘れたが、男が皿を一枚ずつ新聞紙で包むのが遅くて、後ろに並んでいた客が二組帰ったことは覚えている。 右の下の奥が、一昨日から疼いている。水がしみる。コップの水に湯を足して、ぬるくしてから、そちら側に当たらないように口をゆすいだ。 離婚届は食卓の上に、クリアファイルに挟んで置いてあり、証人の欄は先月のうちに埋まっている。三島の春枝は筆ペンで書いてきて、生年月日を昭和で入れたあと住所を一行はみ出させ、はみ出した分を几帳面に括弧でくくっていた。練馬の父は万年筆だった。梅本清、と書いた最後の一画が下に長く流れていて、その字は去年の年賀状より大きい。書き損じを一枚出したらしく、書き直したほうが送られてきた封筒には、失敗したほうも一緒に入っていた。捨てるのが惜しかったのか、単に入れ違えたのか、電話では訊かなかった。父は届いたかどうかだけ確かめて、そのあと十五分、テレビで見た杉並のマンションの傾きの話をした。七十になってから、話の終わりを自分で見つけられなくなっている。 印鑑は電話台の引き出しの奥にあった。朱肉の蓋が固い。爪を立ててこじると縁が欠けた。本籍を移していないので謄本は要らないと市のホームページに書いてあり、それを二度読んでからクリアファイルの角を揃えた。台所に立ってインスタントのコーヒーを溶かし、湯を注いだところで、先月納めた図面の残金がまだ入っていないことを思い出した。振込は末日で、末日は先週の火曜だったが、催促の文面を頭の中で三通り作って、どれも送らなかった。コーヒーは左側だけで啜った。 南の窓を開けると、隣の敷地のケヤキが目の高さで揺れていた。芽が開きはじめたばかりで、葉というより黄緑の粒が枝の先に並んでいる。ここへ越してきた七年前は、いちばん手前の枝とベランダの手すりのあいだに、腕を伸ばしても届かない距離があった。いまは物干し竿の端が枝先に触れる。剪定の話は管理会社を通して二度出たが、隣は個人の持ち家で、そのたびに立ち消えになった。五十八平米、家賃十四万八千円のこの部屋は七月に更新が来る。北側の四畳半に机とプロッタを入れて事務所にしてあって、去年そこで引いた仕事は、住宅の改修が二件と店舗の内装が一件だった。 シャツにアイロンをかけるかどうかで迷った。かけなかった。 市役所は駅から北へバスで十分ほど行った、野崎の交差点の先にある。九時十五分に着いた。汐里はもう玄関の風除室の中に立っていて、紺のコートの下から白いパンツの裾が出ている。午後から診療に入ると先週のメッセージに書いてあった。 「早いね」 「一本前のが来ちゃって」 汐里は手提げから茶封筒を出して、中を覗いてからまた閉じた。 「印鑑、持ってきた」 「持ってきた」 「たぶん要らないんだけどね」 風はない。駐輪場の白い線の上に日が当たっていて、四月にしては暖かい朝で、自動ドアの内側はまだ暖房が入っていた。入ってすぐの壁に献血のバスの告知が貼ってあり、その隣に、犬の登録は毎年必要ですという紙が斜めに貼られている。 一階の市民課で番号札を取った。二十七番だった。呼ばれるまで、待合の長椅子の端に並んで座った。隣の窓口では年配の男が印鑑登録のことで何か言っていて、職員が同じ説明を二度繰り返していた。反対側では母親が二歳くらいの子どもを膝に載せて、片手で書類を書いていて、子どもが靴を片方落として、母親が拾って履かせて、子どもがまた落とした。六人掛けの長椅子が三列あって、そのうち一列は空いたままだった。 汐里が膝の上で手提げの持ち手を握り直した。 「お母さん、なんて言ってた」 「なんにも。膝が痛いって、その話ばっかり」 「手術するの」 「ヒアルロン酸打ってる。三島の先生が上手いんだって。予約が二か月待ち」 「そう」 「上手いのかどうかは知らないけどね」 しばらく、電光板の数字が変わる音だけしていた。二十三番が呼ばれた。誰も立たず、もう一度同じ番号が読み上げられてから二十四番になった。窓口の後ろでは職員が四人、背中を向けて座っていて、そのうちのひとりが立ったまま電話の受話器を肩に挟み、片手でファイルの背を追っていた。 「今日のこと、お母さんには」 「言ってない」 「証人、頼んだのに」 「頼んだけど、日は言ってない。言ったら電話が来るもん、朝と夜に」 「郵便、まだそっちに行ってる」 「たまに。学会のと、あと保険の」 「転送、一年で切れるんだった。三月に出したから、来年の三月」 「切れたら、こっちで捨てていいから」 「よくないでしょ」 「よくないか」 「あと、更新、七月だっけ」 「うん」 「どうするの」 「まだ決めてない」 「決めなよ、そういうの」 汐里はそう言ってから、爪の先で手提げの金具をこすった。 「梅本のお父さん、去年の夏に電話くれた」 「なんて」 「なんにも。声が聞きたかっただけだって」 「聞いてない」 「言ってないもん。あのころ、そっちも忙しかったし」 「そう」 「三十分くらい話した。ほとんどテレビの話」 二十七番が呼ばれたのは九時四十一分だった。窓口の職員は三十そこそこの女で、左手の人差し指にばんそうこうを巻いていた。書類を受け取ると、上から順に指で押さえながら読んでいく。途中で指が止まった。 「ここ、同居を始めた年月が平成三十一年の七月になっていますが」 「はい」 「七月ですと、令和元年になります」 「あ」 「二重線で消していただいて、横に書き足していただければ。訂正印は、いまはなくても大丈夫です」 汐里が手提げからボールペンを出して、こちらに向けて置いた。歯科材料の会社の名前が入った黒が一本きりで、以前は同じものが白衣の胸に何本も挿さっていた。書き直しているあいだ、汐里は窓口の脇に積んであるパンフレットの背を指で揃えていた。 「別居された年月は、令和八年の一月ということでよろしいですね」 「はい」 「証人のおふた方は、ご親族ですか」 「両方の親です」 「けっこうです」 職員は次の欄へ移った。 「婚姻前の氏にお戻りになって、新しい戸籍をお作りになりますね。本籍はこのまま、こちらでよろしいですか」 「はい」 「三か月以内でしたら、婚姻中の氏を名乗る届も出せます。そのときはまた窓口へお越しください」 「大丈夫です」 職員の後ろに若い男が立って、手元を覗き込んでいた。研修中という札を胸に付けていて、職員が書類の角を指で示すたびに、手帳に何か書き込んでいる。 「受理証明書はご入用ですか」 「なんですか、それ」 「受理したという証明です。会社に出す方がいらっしゃいます。三百五十円かかります」 「要らない」と汐里が言った。「要る」 「要らない」 職員は奥の台へ行って、書類のコピーを取り、判を押し、戻ってきた。国民年金と国民健康保険の窓口の場所に赤い丸をつけた案内図を渡され、汐里はそれを茶封筒に入れた。壁の時計は九時五十三分だった。電光板の数字が二十八番に変わって、後ろで椅子の脚が鳴った。 「以上で受理になります」と職員が言った。 外へ出ると、駐輪場の脇の植え込みでスズメが鳴いていて、汐里は手提げを肩に掛け直し、それから足を止めた。 「右、腫れてる」 「わかる」 「顔の形が違うもん。歯医者、行った」 「そのうち行く」 「そのうちって、いつ」 返事をしなかった。汐里は何か言い足そうとして、やめたように見えた。 「三年前に撮ったレントゲン、まだ医院にあると思う。言えば出してもらえるよ」 「うん」 「横向いてたよ、右のは。放っといたら手前の歯まで持っていかれる」 バス停は市役所を出て左の、歩道の切れたところにあり、時刻表は十分に一本で、次の便まで六分あった。汐里は日の当たるほうへ二歩動いた。また戻った。乗ったのは二人と、老人がひとりと、制服の高校生が三人で、高校生のひとりが降車ボタンを押してから座り直した。玉川上水を渡るところで、汐里が窓の外を見たまま、桜はもう終わったね、と言った。誰に向けて言ったのかわからなかったので、返さなかった。一度、あの、と言いかけたが、そのとき汐里は膝の上の封筒の角を折っていて、こちらを見なかった。折り目は三度つけられて、最後に手のひらで伸ばされた。 「かなえちゃんが、今日は休みなよって」 「休めば」 「午後だけだから」 駅前のロータリーでバスを降りると、タクシーの列の先頭で運転手が窓を拭いていた。券売機の前に修学旅行らしい集団がいて、その脇を通るのに列が切れるのを待った。改札を抜けて、階段の下で汐里が振り返った。 「じゃあ」 「うん」 「元気でね、とか言うのも変だね」 「変かな」 「変だよ」 汐里は上りの階段を上がっていった。コートの裾が段の角に触れて、三段目のあたりで一度だけ肩の位置が変わったが、振り向きはしなかった。吉祥寺までは一駅で、乗っている時間は三分もない。亮は反対側の階段の途中でいったん立ち止まり、鞄から見積書を出して最後の頁を見た。数字は先週から一つも変えていない。単価を下げる余地は二か所あって、そのどちらも下げれば自分の取り分がなくなる。ホームに上がると下りの快速が入ってきて、ドアの前の列が前へ動いた。 座れた。舌の先で右の奥歯を押すと歯茎がやわらかくなっているのがわかり、武蔵境を過ぎたあたりで携帯が鳴って、施主から、来週の打ち合わせを一週間ずらしたいという話だった。手帳を出して、四月十六日の欄に引いてあった線を消した。消しゴムの屑を手のひらに集めて、鞄の外ポケットに入れた。 二〇二六年一月二十四日 八時に起きて、台所の床に段ボールを六つ並べた。六つのうち二つはスーパーでもらってきた酒の箱で、底が二重になっているぶん重いものを入れても抜けない。四つに青い付箋を貼り、二つには何も貼らないことにした。何も貼っていないほうが亮のぶんで、そう決めたのは先週の水曜だった。ほんとうは色を二種類買うつもりで駅前の文具店に寄ったのに、七十五ミリ二十五ミリの棚には青しか残っていなかった。日曜に売れちゃうんですよ、と若い店員が言った。日曜に付箋を買う人がどのくらいいるのか、釣り銭を受け取りながら少しのあいだ考えていた。 南の窓を細く開けると乾いた空気が入ってきて、手すりに触れた指の腹だけが冷たくなった。隣の敷地のケヤキは葉を一枚も残していない。越してきた年には窓の下のほうで止まっていた枝の先が、いまは窓の桟を横切るところまで来ていて、風のない朝でも先のほうだけが動いている。管理会社が秋に一度切らせたはずなのに、切った跡から細いのが何本も出て、前より広がった。 奥の部屋で亮が図面の筒を数えていた。 「筒、いくつあった」 「十九」 「全部持っていくの」 「三つ捨てる」 「捨てるやつはこっちの袋に入れといて。あとで紐でまとめるから」 「紐ある?」 「ビニールのが一巻。年末に買った」 返事はなかったが、しばらくして廊下に三本立てかけてあった。残りの十六本を練馬に運ぶことになる。義父の家の二階には亮が高校まで使っていた部屋がそのまま残っていて、勉強机も置いたままだと聞いている。 「机、二つになるけど」 「片方は倉庫に入れるって言ってた」 「七十の人に倉庫まで運ばせないでね」 「業者が来る日に一緒にやる」 わたしのほうは西荻窪の1Kで、内見のときに測った押し入れの奥行きは七十センチしかない。この部屋は五十八平米あって、家賃は十四万八千円で、そのうちの半分を六年と半年ぶん払ってきたことになる。数えたところで何にもならない数字を、ここのところよく数えている。 吊り戸棚を上から順に下ろした。土鍋、蒸籠、一度も使わなかったミキサー、その奥に平たいものが新聞紙にくるまれて立ててあった。開ける前から何なのか分かっていた。くるんである新聞は去年の五月十七日の朝刊で、一面はどこかの県の知事の話だった。中の一枚は縁が三日月の形に欠けていて、欠けた破片のほうも同じ紙の中に入れてあった。六枚のうちで一枚だけ色の違う、わたしが選んだやつだ。重ねてしまえば分からないくらいの差で、縁のところで光の返り方だけが揃わない。欠けた断面には釉がかかっていないから、指を当てるとざらざらして、そこだけが六年半ぶんの湯気も油も吸っていない。戸棚に戻したのがどちらだったのか思い出せない。捨てなかった理由も思い出せない。たぶんそのとき台所にいたほうがくるんで、もう一人は別の部屋にいて、あとで聞くつもりでいるうちに聞かないまま八か月が経った。 新聞紙を広げたまま床に置いていたら、亮が台所の入口まで来た。 「それ、どうする」 「割れてるほう」 「うん」 「そっちが選んだやつだから、そっちでいいんじゃない」 「残りの五枚は」 「いるなら持っていっていい」 「押し入れが七十センチしかないの」 「じゃあこっちで引き取る」 「割れたの、いつだったっけ」 「覚えてない」 「五月って書いてある、新聞」 「じゃあ五月なんじゃない」 そう言って、亮は五枚を重ねて自分のほうの箱に入れた。皿と皿のあいだに新聞紙を一枚ずつ挟む入れ方をしていて、そこだけは丁寧だった。割れた一枚はもとの紙にくるみ直して、わたしの箱のいちばん上に置いた。上に何も載せなければ割れない。もう割れているものについてそう考えるのは筋が通っていないけれど、そうした。 食器を出したあとの棚は油と埃で薄く曇っていて、濡れ布巾で拭くと布のほうが灰色になった。二枚めで諦めて、退去の立ち会いまでにやることのメモに書き足した。ガスの閉栓が三月十三日の午前、鍵の返却が二本、原状回復の見積もりは立ち会いのときに口頭でしか言われないから紙をもらうこと。敷金は二か月ぶん入れてある。 「保険証、三月いっぱいはいまのやつでいたいの。年度で職場の書類が全部変わるから」 「うん」 「だから出すのは四月でいい?」 「いいよ」 「日にちはそのとき決めよう」 亮の携帯が鳴ったのはそのすぐあとだった。テーブルの上で画面が光って、名前を見て、裏返して、ガムテープの端を爪で探すのを続けた。二回鳴って、少ししてもう一回鳴って、三回めの途中で切れた。名前のほうは見えなかった。去年の秋から川崎の物件でずっと揉めていて、是正の書類を三回出し直したと言っていたから、そのあたりだと思う。電話に出ないのを見たのは初めてだった。 昼は冷凍のうどんを二玉ゆでて、ねぎだけ切って、テーブルの端の、荷物の載っていない三十センチくらいのところで向かい合って食べた。亮は右の頬を一度だけ内側から押すようにしてから、うどんを左の奥に寄せて噛んだ。左の下の親知らずは八年前に抜いてある。抜いたときにミラーと鉗子を渡していたのはわたしだ。麻酔の効きにくい人で、追加を二本打って、それでも終わりのほうでは右手が椅子の肘掛けを握っていた。縫ったのは二針だった。食事中の人の口の中を覗こうとするのは歯科衛生士の悪い癖なので、何も言わずに七味を回した。 「そっち、痛むの」 「別に」 「口、開けて見せてよ」 「うどんが伸びる」 それ以上は聞かなかった。医院に来る人の半分は痛くなってから来るし、痛くなっても来ない人のほうがもっと多い。 「これ、いつ買ったやつだっけ」 「七味?」 「うどん」 「先週。三食で二百三十八円のやつ」 「安いな」 「安いよ」 「川崎、あれどうなった」 「まだ」 「まだって」 「日付だけ直せば通るって話だったのが、通らなかった。来週もう一回行く」 「誰が通らないって言ってるの」 「向こうの担当が替わった」 「替わると最初からになるの」 「なることもある」 「ねぎ、もっといる?」 「いい」 母には十二月の頭に話した。そのあとから週に二回、決まった時間に電話が来るようになって、話の中身はたいてい膝と、三島の家の雨樋のことだ。去年の台風で外れたところを工務店に直してもらったのに、また同じ場所から水が落ちるらしい。工務店の見積もりが四万二千円だという話を、一度の電話で三回された。わたしのほうの話は電話の終わりに一度だけ、体は壊さないようにね、という形で来る。壊してないよ、と答える。それで切れる。六十六の人にこれ以上の説明をさせるのは無理だし、させたところで、こちらが答えられることは何も増えない。 午後は寝室の押し入れをやった。上の段の奥から、亮の会社員時代のスーツが二着と、使っていない加湿器と、A4の茶封筒が出てきた。 「加湿器、どっち」 「一回も使ってないでしょ、それ」 「捨てる?」 「捨てよう」 封筒の中身は分かっていたので開けなかった。書いたのは十一月で、判子も二人ぶん押してある。段ボールに入れないほうがいい種類の紙だから、リビングの棚のいちばん目につくところに立て直しておいた。その隣に小さい紙袋があった。中身は見なくても大きさと重さで分かる。二〇二四年の秋に病院でもらったものを、両手で持って、自分の箱の底のほう、白衣の下に入れた。 白衣は三枚ある。二枚はクリーニングの袋がかかったままで、一枚は洗濯機の横のかごに入っていた。胸のポケットにボールペンが二本さしてある。一本は仕事用の黒、もう一本は製薬会社の名前が入った赤で、赤のほうはもうインクが出ない。試し書きをしたら紙に溝だけが残った。荷造りのあいだにペンが漏れると白衣は捨てるしかなくなるから、二本とも抜いてジッパー袋に入れた。前の医院にいたころは四本さしていて、そのころのわたしは、ペンの本数が多いほど仕事のできる人に見えると本気で思っていた。 かなえからLINEが来たのは三時過ぎだった。四月から予約システムが変わるという話が七行あって、新しいのはキャンセル待ちの並び順が勝手に入れ替わるらしく、それについての文句がさらに四行あって、最後に、日曜あいてるから箱運ぶの手伝おうか、と一行あった。既読をつけたまま夕方まで返さなかった。返さない理由が自分でもよく分からなかったので、六時に、ありがとう、たぶん大丈夫、とだけ送った。 日が落ちるのが早い。四時半に部屋の中が急に青くなって、電気をつけると窓の外が見えなくなった。ケヤキは輪郭だけ黒く残って、そのうちそれも消えた。 「洗濯機、どうするんだっけ」 「持ってっていいよ、そっちで」 「六年使ってるよ」 「新しいの買うほうが高い」 「練馬は」 「実家にあるから」 「じゃあもらう」 「冷蔵庫は」 「あれは大きすぎる。リサイクル券がいるやつだから、業者に来てもらう」 「その日、わたしいなくていい?」 「いなくていい」 段ボールは結局九つになって、青い付箋が五つ、何も貼っていないのが四つになった。亮のほうは筒が別で、それが十六本。玄関に寄せて積んだら廊下が半分埋まった。二人で並んで立って見ていたけれど、量が多いとも少ないとも、どちらも言わなかった。 「台車、管理人室で借りられるって」 「平日の午前だけだろ、あれ」 「そう。だから金曜に借りて、一日置いておく」 「立ち会い、十三日の午前でいい?」 「午前の何時」 「九時から十時のあいだって言われてる」 「じゃあ八時半に来る」 「鍵、二本とも返すから、そっちの持ってきて」 「合鍵つけてるキーホルダー、たぶん練馬に運んだ箱の中だ」 「じゃあ先に出しといて。当日探すのはやめよう」 「わかった」 「あと、郵便の転送、出した?」 「まだ」 「二週間かかるって書いてあったから、明日出して」 「ネットの解約は」 「違約金が一万五千。三月分の料金と一緒に引かれる」 「それ、うちのカード?」 二〇二五年九月六日 北側の四畳半に机を入れてから二年半になる。エアコンの吹き出し口の真下に座る形になってしまって、夏のあいだじゅう左の肩だけが冷えていた。九月に入っても午後二時を過ぎれば室温は二十九度から下がらず、設定を二十七度にしたまま風向きだけを天井へ逃がして使っている。椅子はガスシリンダーが利かなくなっていて、座って三十分もすると座面が二センチほど落ちる。落ちるたびに立ってレバーを引くのが面倒なので、去年の暮れから座面の下に建材のカタログを一冊挟んである。画面には井の頭通りから一本入った土地の、築三十二年の木造二階建ての改修図が開いたままになっていた。洗面台を北の窓側から廊下側へ動かしたいという話が七月の末に一度、八月の二十日にもう一度あって、そのたびに給排水の経路を引き直している。設計料は一式で四十二万、着手金の十四万は五月に入った。残りは工事契約のあとになる。今月の末には事務所の賠償責任保険の更新があって、年払いで五万八千円が引き落ちる。 三度目の変更の電話は、昨日の夕方にかかってきた。 施主の坂西さんは五十四歳で、川崎の自動車部品の会社に勤めていて、電話はいつも昼休みの終わる二分前にかかってくる。奥さんの膝が悪くて、洗面所まで廊下を二回折れるのがつらいという話を、こちらから聞いたわけでもないのに三度聞いた。三度とも同じ順番で話して、同じところで笑った。悪い人ではない。忙しいだけで、忙しい人の一日の中では、こちらの図面は三分で片づけるべき用件になる。洗面台を動かした結果、給湯の配管は床下を一メートル二十だけ余計に走ることになって、冬の朝に湯が出るまでの時間がその分だけ延びる。それは電話では言わなかった。言えば話が長くなり、長くなれば昼休みが終わる。 洗面化粧台は間口七百五十のものを施主が先に買ってしまっていて、廊下側へ動かすと開き戸の可動域が脱衣所の引き戸とぶつかる。片開きを吊り戸に替えるか、引き戸のほうを引き違いにするかで、工事の金額は八万ほど動く。どちらにするかを決めるのは施主で、決めるための材料を作るのがこちらの仕事だった。材料を作るのに、土曜が一日いる。 六月に出した市の集会所の設計者選定は、一次で落ちた。二十七者のうち五者が二次に進んで、その五者の名前は市のサイトにいまも載っている。 家賃の十四万八千円は、二人の名前で作った口座から毎月二十七日に引き落ちる。その口座に入れる額の比を去年の四月に一度変えて、それきり触っていない。 湯を沸かすあいだに南の部屋の窓を開けた。隣の敷地のケヤキは、越してきた年には二階のベランダの手すりと同じ高さで枝が終わっていたのが、いまは屋根の樋の少し上まで来ている。葉はまだ濃くて、日の当たる側だけが白く抜けて見えた。風が出ても幹に近い太い枝はほとんど動かず、先の細かいところだけが揺れる。去年の秋の台風で折れた枝が一本、向かいの物置のトタン屋根に載ったままになっていて、そこだけ葉が茶色く縮んでいる。 昼に残したそうめんを、灰色がかった一枚に取った。六枚のうち、その一枚だけ色が違う。洗って伏せたあとはいつも一番上に重ねてある。麺を三本ほど残して流しに置き、冷蔵庫の麦茶に氷を二つ落として、口の右側だけを通すようにして飲んだ。氷が溶けきるまで、コップは机まで持っていかずに流しの縁に置いておいた。 練馬の父から不在着信が二件入っていた。雨樋が外れたので見に来いという用で、火曜にも同じ用件で一件ある。折り返していない。 汐里が帰ってきたのは四時前だった。土曜の診療は午前で終わる。玄関で靴を脱ぐ前から喋りはじめて、脱いでからも喋っていた。 「最後の人が三十分遅れて来たの。予約、十一時半」 「うん」 「歯石取るだけのつもりで来てるんだけど、下の前歯の裏がもう真っ赤で、触ったら止まらなくなって、院長呼んだ」 「止まったの」 「止まった。止まったけど、あの人たぶん来月来ないよ。一回痛い思いした人って来ないの」 洗面所で手を洗う音がして、それから水を出したまま続きを喋った。 「かなえの自転車、盗られたって」 「え」 「駅の駐輪場。まだ三年しか乗ってないのに、鍵ごと持っていかれてる」 「そう」 「防犯登録してるから出てくるって言ってたけど、出てこないよね、ああいうの」 「父から電話が来てた」 「え? なに?」 「雨樋。外れたって」 「行ってあげなよ、来週くらいに」 「うん」 水の音が止まって、それきり洗面所からは何も聞こえなくなった。 洗濯機の前にトートが置いてあった。丸めた白衣がはみ出して、胸のポケットには黒と赤が一本ずつ挿さったままになっている。赤はキャップがない。前は三本挿していたはずだが、いつ二本になったのかは思い出せなかった。 夕食は汐里が作った。豚肉と茄子を炒めて、味噌汁は乾燥わかめだけの日で、茄子は四本のうち二本しか使わなかった。残りの二本は新聞紙に包んで野菜室に戻された。テレビは点けたままで、埼玉のどこかの直売所を映していた。桃を積んだ木箱に値札が貼ってあって、四百八十円と読めた。汐里は茶碗の半分を残した。夏に食が細るのは毎年のことで、去年は八月の終わりに二キロ落ちて、九月の半ばには戻っている。 「茄子、あと二本ある」 「明日、焼く」 「明日どこか行くか」 「んー」 箸を置いて、湯呑みを引き寄せて、それから三島の母の話をした。 「母がまだ網戸のこと言ってる」 「二センチのやつか」 「二センチ。もう三回聞いた」 「業者に言えばいいのに」 「言えないよ、あの人は。もういいですって言って終わるの」 網戸の話は二分ほど続いて、途中でやめた。皿を下げるとき、茄子の皮が一枚だけ残っていた。 八時を回ってから、麦茶をコップに注いで、注いだまま向かいに座った。 「別れよう」 音量を二つ下げた。 「いつから考えてた」 「わかんない。三月とか」 「三月か」 「四月かも」 画面では桃の隣に梨が積まれていて、そちらの値札は角度のせいで読めなかった。冷蔵庫がひとつ音を立てて、また元の音に戻った。 「かなえには言ったのか」 「言った」 「いつ」 「六月」 「六月か」 「六月の、頭のほう」 「二三年の三月に、独立するって言ったでしょう」 「うん」 「わたし、いいよって言ったよね」 「言った」 「あのとき反対されてたら、やめてた?」 考えるふりをして、実際には何も考えなかった。 「たぶん、やめてない」 「うん」 「そう思ってた?」 「うん」 汐里は麦茶を半分だけ飲んで、コップの縁についた指の跡を親指でこすった。それからコップを両手で持ったまま、しばらく何も言わなかった。テレビの中では、桃の木箱を軽トラックの荷台に積む作業が続いていた。 「聞いていいか」 「うん」 「三月って言った?」 「四月かもって、さっき言ったよ」 「そうか」 「三月から考えて、四月に、たぶん決めてる」 「決めてるのか」 「決めてなかったら、今日言わない」 上の階の子どもが走る音が二回して、それから換気扇が回りはじめた。テーブルの木目に麦茶の輪が二つできていて、片方は乾きかけていた。指でなぞると、乾いたほうだけ跡が残らない。 「保険、どうする」 「保険?」 「受取人。あれ、たしか去年変えたから」 「そういうのは、あとで一個ずつやろう。紙に書いて」 「うん」 「紙に書いて、上から順にやれば終わるから」 「そうだな」 引き止める言葉はいくつも浮かんだ。並べてみればどれも嘘ではなくて、どれも、いま口に出すには順番が違う気がした。どれを先に言うかを決めようとしているあいだに、口のほうが別のことを聞いていた。 「部屋、どうする」 「七月に更新したばっかりだよ」 「そうだった」 「更新料、十四万八千」 「うん」 「振り込んだの、わたしだけどね」 そこで初めて顔を上げた。汐里はテレビのほうを見ていた。責める言い方ではなかったし、そういう声でもなかった。事実だった。 「出るのは、どっちが」 「わたし。ここ、仕事の道具あるでしょ」 「あるけど」 「病院の近くで見てるの。四月に一回だけ見に行った」 「もう見てたのか」 「見ただけ。申し込んでない」 「実家は」 「三島は遠いよ。始発でも間に合わない」 「そうか」 「年内は無理だから。予約も入ってるし、年末って部屋も出ないし」 「うん」 「荷物は年が明けてから。一月とか」 「そうだね」 「そうだねって」 「うん」 「怒ってる?」 「怒ってない」 「怒ってないんだ」 「うん」 「月曜、瓶の日だから出しといて」 「うん」 それから十分ほど、どちらも喋らずに直売所の続きを見た。レポーターが桃を二つに割って、種のまわりの赤いところを画面に近づけた。汐里が立って、コップを流しに置いて、そのまま風呂の湯を張りにいった。給湯器のボタンの音が三回鳴った。 「タオル、下の段でいい?」 「うん」 脱衣所の戸が閉まって、それきり何も聞かれなかった。 皿を洗ったのは十時前だった。六枚のうち使ったのは二枚で、灰色のほうを最後に洗い、重ねるときに一番下に入れた。上に白を五枚積むと、色の違うところは横から見ないと分からない。六枚組の中でその一枚だけ別なのを選んだのは汐里で、選んだ理由は聞いたはずなのに残っていない。売り場の場所も、値段も、その日いくつ買い物をしたのかも出てこなくて、出てくるのは箱の中の紙が固かったことだけだった。水を止めると、窓の外でアオマツムシが鳴いていた。街灯の光が下からケヤキの葉の裏に当たって、そこだけ色が薄く見える。風呂場のほうで、シャワーの音がいったん止まってまた出た。 机に戻って、給排水を引き直した図面を印刷した。トナーが薄くなっていて、寸法線が何本か途中で切れている。改訂欄に日付を入れようとして、引き出しの赤が見つからなかった。洗濯機の前まで行って、白衣の胸から赤いほうを抜いた。キャップがないので先が乾きかけていて、紙の隅で三回ほど回すと出た。日付を書き、隣の欄に3と入れた。坂西さんへのメールは、月曜の朝に送ることにした。 二〇二四年十一月三日 六時二十分に目が覚めて、便所の電気をつけたまま、水の色が薄く濁っているのをしばらく見ていた。前の日の夕方から下腹の奥に重いものがあって、日曜まで立ち仕事が続いたせいだと思っていた。紙を畳んで挟み、手を洗い、廊下の突き当たりまで戻ってから、引き返して蓋を閉めた。 台所の電気はつけなかった。 南の窓の外のケヤキは上の枝から先に茶になっていて、隣の駐車場のアスファルトに葉が吹き寄せられている。五年前にここへ越してきたときは二階の手すりより低いところで枝が終わっていたのに、いまは寝室の窓の高さまで伸びて、朝の光を斑にしている。流しには昨日の鍋がそのまま置いてあって、汁の脂が縁に白く固まっていた。鍋を洗い、水切り籠に伏せてあった皿を六枚とも棚に戻した。五枚は白で、一枚だけ青い。青いのは去年の暮れから一度も使っていない。 七時十分に亮が起きてきて、冷蔵庫を開け、何も出さずに閉めた。 「牛乳、切れてた?」 「昨日の夜わたしが飲んだ」 「ああ」 「病院行ってくる。血が出てる」 冷蔵庫の取っ手に手をかけたまま、そのまましばらく動かないでいて、それから振り返った。 「今日、日曜だぞ」 「休日診療やってる。武蔵野の、前に一回行ったとこ。九時から受付」 「車、呼ぼうか」 「タクシーでいい。バスだと三鷹駅で乗り換えるから」 「一緒に行く」 「うん」 保険証と診察券と財布と、飲みかけのペットボトルを鞄に入れた。母子健康手帳は寝室の抽斗の、通帳と同じところに入れてある。抽斗を開けて、閉めて、もう一度開けて、いちばん上に載せ直してから、鞄には入れずに家を出た。 タクシーは連雀通りで捕まえた。メーターは千九百二十円で、亮が尻から財布を出すのが遅れたので、こちらが先に千円札を二枚渡して釣りを受け取った。 「今日は空いてますよ。三連休の中日は、皆さん動かないもんでね」 「そうですね」 窓の外に、この時間から洗車をしている家があって、ホースの水が縁石を越えて道の端を流れていた。亮は窓のほうを向いたまま、膝の上でシートベルトの根元を親指で押していた。 日曜の入口は正面ではなく、建物の東側の時間外受付に回る。自動ドアの内側に消毒液のボトルが二本並べてあって、片方は押しても何も出なかった。問診票には、最終月経の日付と、前回の検診の日と、出血の始まった時刻を書いた。始まった時刻のところで手が止まって、昨日の夜十時頃、と書いた。 「お待ちのあいだに動悸とか気分の悪さが出ましたら、遠慮なく声をかけてくださいね」 受付の女性はそれを一度も言い直さずに言って、保険証の複写を取ってから返してよこした。 待合の長椅子は四脚あって、一脚に四人ずつ掛けられる。十六のうち埋まっていたのは三つで、松葉杖を横に立てかけた男と、子どもを抱いた父親と、その子どもだった。テレビは消えていて、黒い画面にこちらの二人が映っている。亮は隣に座り、膝の上で両手を組んで、親指の爪をもう片方の親指の腹でこすっていた。壁の掲示は三枚とも風疹の予防接種の案内で、そのうち一枚だけ日付が去年のまま貼ってある。 四十分待った。 診察室の医師は三十前後で、話すのが速かった。内診台のカーテンは半分だけ閉まっていて、プローブを入れるときにちょっと冷たいですと言った。画面はこちらの位置からも見えて、二週間前に見たときと同じあたりに同じ形の白い塊があり、そのなかで動いているはずのものが動いていなかった。技師でも医師でもない目でそれを見ないようにして、天井の点検口の四隅のねじを数えた。四本のうち一本だけ頭の溝が潰れていた。 「十一週ですね」 はい、と答えた。 「大きさが前回とほとんど変わっていません。心拍が確認できません」 看護師がカーテンを閉めた。 服を戻して机の前の丸椅子に座ると、亮も呼ばれて入ってきて、立ったままでいたので、看護師がもう一脚出した。医師は画面をこちらに向けて、去年から使っているらしい木のボールペンの尻でそこを指した。 「稽留流産といいます。子宮の中で育つのをやめている状態です。自然に出てくるのを待つ方法と、手術で中の物を取り出す方法があって、十一週だと出血が多くなることがありますから、うちは手術のほうを勧めています。当日は朝から絶食で、前の日の夜九時以降は水も控えていただきます。麻酔をかけますので、帰りはどなたかに付き添っていただくのが原則です」 「手術はいちばん早くていつですか」 「明日は振替休日で外来だけなので、火曜の朝になります」 「じゃあ火曜でお願いします」 「ご主人と相談されなくて大丈夫ですか」 「大丈夫です」 「仕事は、立ち仕事ですか」 「歯科衛生士です」 「じゃあ当日と翌日、二日みてください。三日目から座れるなら座って、無理そうならもう一日」 「診断書は出ますか」 「病名を書いていいなら出します。職場に出すだけなら、婦人科疾患という書き方でも通ることが多いです。三千三百円かかります」 「じゃあそっちの書き方でお願いします」 「火曜に用意しておきます」 亮が机の脚のあたりを見たまま口を開いたのは、看護師が同意書を取りに立ったあとだった。 「あの、原因って、何かあるんですか」 「この時期のものは、ほとんどが受精のときの染色体の偶然です。走ったとか、重い物を持ったとか、仕事を休まなかったとか、そういうことでは起こりません」 「はい」 「ご夫婦のどちらにも原因はないので、そこは何度でも言います」 「次は、いつから大丈夫ですか」 「一回、生理を見送ってからで構いません。二回待たせる先生もいますけど、うちはそこまで言いません」 費用は保険が利いて二万数千円、血液検査が別で四千円ほどだと言われた。印鑑を持ってきてくださいと言われて、認印でいいですかと聞くと、認印でいいです、と同じ速さで返ってきた。医師は説明のあいだに二度、電子カルテの画面を横目で見た。次の患者の名前がもう入っているらしかった。 同意書は二枚あって、一枚が手術の、一枚が麻酔のものだった。鞄の内ポケットに、白衣の胸から抜いたままのボールペンが二本入っている。黒と、赤。黒のほうで名前と生年月日と続柄を書いた。配偶者の欄を亮に渡すとき、赤のほうまで一緒に押しつけてしまって、取り替えた。亮は生年月日を西暦で書きかけ、和暦の欄だと気づいて二重線を引き、訂正印はいりますかと看護師に聞いていた。 会計を待っているあいだに、亮の尻のポケットが鳴った。 画面を見て、一度切って、また鳴って、それから立ち上がり、廊下の突き当たりの自動販売機の前まで歩いていった。ガラスの扉一枚を隔てた向こう側で、背中だけがこちらを向いている。左手を腰に当て、右手で携帯を耳に押し当てて、途中で一度、誰も見ていないのに頭を下げた。二度目のときは腰から折れていた。廊下のリノリウムには継ぎ目が縦に何本も走っていて、その二本目と三本目のあいだに、両足を揃えずに立っている。首から肩にかけての線が、七年前に診療室のライトの下で見たときと同じ角度で傾いていた。あのとき左の下の親知らずが横に倒れたまま埋まっていて、初診のカルテに水平埋伏と書き入れたのは自分だった。その月のうちに抜いて、頬が二日腫れて、腫れたほうを下にして寝ると痛いと言っていた。 長椅子の座面のビニールが縦に裂けていて、中の黄色いスポンジが出ている。 十四分だった。会計の番号は三十七番で、電光の表示は三十一番から動かない。戻ってきて、座って、ごめん、と言ったのは、座ってから三十秒ほど経ってからだった。 「現場?」 「地下の配筋が図面と違ってて、明日の朝いちばんに行かないと、そのままコンクリ打っちゃうから」 「行きなよ」 「うん」 「火曜は」 「火曜は、いる」 窓口で四千二百十円払った。薬は何も出なかった。 帰りに西友で鮭と豆腐とレトルトの雑炊を買った。亮が籠を持ち、レジで袋を断って、そのあとサッカー台で袋を探していた。部屋に戻ると南の窓の下に枯れ葉が三枚入り込んでいて、ベランダの排水口のところに固まっていた。 横になった。天井の四隅のうち東の隅だけ壁紙の継ぎ目が浮いている。五十八平米で十四万八千円、更新のたびに三千円ずつ上がって、それでもここから動かなかったのは南の窓が抜けているからで、越してきた年にそれを先に決めたのは自分だった。 三島の母から着信が二回あった。折り返さなかった。今月のうちに三十三になるので、その前後には必ずかけてくる。妊娠のことは話していない。話していたら、いまごろ新幹線に乗って出てきている。 かなえには先月のうちに言ってあった。大丈夫?とだけ入っていて、そのあとに無理しないでと続いていて、五分置いて、明日休みなよ、と来た。大丈夫、と打って、送る前に消して、火曜に手術です、と打ち直した。既読がすぐについて、それきり何も来なかった。 七時過ぎに亮が雑炊を温めて、どんぶりに移して持ってきた。 「食べられる?」 「あとで」 「うん」 台所で水が流れて、止まって、また流れた。同じ鍋を二度洗っている音だった。それから鍋を伏せる音がして、しばらく何もしない時間があって、また蛇口が開いた。ダイニングのテーブルには昨日の夜から広げたままの図面が二枚あって、その端に湯呑みの輪の跡がついている。 「明日、何時に出るの」 「六時半。多摩の奥だから、電車だと二回乗り換える」 「気をつけて」 「うん」 「そのテーブルの図面、しまってもいい」 「あ、ごめん、それは置いといて」 寝室の窓を十センチ開けた。表の道を自転車が通って、子どもの声が二つ、遠ざかっていった。 「火曜、何時」 「八時半に来いって。受付が」 「送る」 「バスで行ける。乗り換えないし」 「送る」 玄関に鞄を置いて、中から保険証を出して、財布の元の場所に戻した。 二〇二四年五月十八日 五時半すぎに目が覚めた。眠り足りているわけではないが、外が明るくなると起きてしまう癖が去年の秋についていて、二度寝をするほど先に用事があるわけでもない。北側の四畳半に入って机の上のトレーシングペーパーをどけ、五十分の一の平面図を広げた。杉並の美容院の改装で、三月の末に知り合いの知り合いから話が来たまま、坪単価の折り合いがつかずに止まっている。シャンプー台を二台から三台に増やしたいという施主の希望と、増やせば排水の勾配が取れないという事実のあいだに、先月から同じ線を引いては消していた。既存の便所を十五センチ北へ寄せれば、床を上げずに管を通せる。ただし寄せると扉が内開きにしかならず、内開きにすると中で人が倒れたときに助けに入れない。築三十年の建物で竣工図が残っておらず、四月に自分で測りに行ったときの野帳が机の左に開いたままになっている。天井裏を覗いた高さと、そのとき鉛筆でなぞった梁の位置が、いまのところ唯一の根拠だった。消しゴムのかすを手のひらに集めて、机の端のゴミ箱の縁で払った。九時までに進んだのは、その十五センチだけだった。 メールは四通あった。一通目はCADの保守契約の更新案内で、更新料は十二万六千円、期限は六月三十日と書いてある。二通目と三通目は、建材メーカーからのカタログ送付の礼と、駅前のコインパーキングの月極が一台空いたという知らせだった。最後の一通は、去年の春までいた事務所の同期からで、子どもが生まれたという一斉送信だった。おめでとう、とだけ打って、そのあとに何を続けるか決まらないまま下書きに残した。 電話は鳴らなかった。 七時半に汐里が起きてきて、洗面所の戸を開けたまま歯を磨きはじめた。上の右の奥から始めて下の左の奥で終わる順番は、専門学校のころに教わったまま一度も変えていないらしい。うがいの音が二回して、ドライヤーが鳴った。 「今日、午後まで出るかも」 ドライヤーを止めた合間に、そう言った。 「かなえちゃんが結婚式で休みだから、午後の三枠こっちで受けたの。全部クリーニングだから早く終わるとは思うけど、そのあと器具のメンテが残ってる。院長が新しい超音波のやつ買ったんだけど、洗い方が今までと全然違うのね。前のは水に浸けとけばよかったのを、今度のは分解して拭かないといけなくて、それを誰も教わってないから結局私がマニュアル読んでるの」 「うん」 「お昼、冷蔵庫の豚肉、火通しといて。火曜の特売のだから今日で終わり」 「わかった」 「あと洗濯機、白衣入れてある。洗剤は粉のほうね。液体のだと襟の内側が落ちないから」 「うん」 「それと玄関の電球、ちらついてる。買ってくるのはいいけど口金の太さがわからないから、外して写真だけ撮っといて。夜でいいよ」 八時二十分に出ていった。玄関の鍵の音がして、それから駐輪場で自転車のスタンドを外す音がして、車輪が砂利を踏む音が三十秒くらい続いてから消えた。 洗濯機の前にしゃがんで、槽の底から白衣を引き上げた。胸のポケットにボールペンが二本、入れたまま突っこまれていた。黒と赤で、赤いほうはノックの部分が欠けていて、爪の先を押しこまないと芯が出ない。二本とも抜いて洗面台の棚に立て、ポケットを裏返して振ってから、粉の洗剤を計った。柔軟剤は先週の水曜に切れていて、詰め替えを買ってくるのを二度忘れている。 南の窓を開けると、隣の敷地のケヤキの葉が窓のすぐ外で動いていた。五月の葉はまだ薄くて、下から見上げると陽が透けて葉脈が黒く見える。引っ越してきた年には、この高さに枝はなかった。幹の根元のほうは見えないが、去年の秋に管理人が、根がブロック塀を内側から押していると立ち話で言っていた。三月に管理会社から紙が一枚入って、越境した枝の剪定については土地の所有者と協議中です、と印刷してあった。協議の結果は何も届いていない。手すりの内側に毛虫が一匹ついていたので、チラシを丸めて弾いて落とし、それから、洗濯機が止まるまでのあいだ、窓の桟に肘をついて葉の動くのを見ていた。風は北から吹いていて、枝は同じ向きにばかり傾いた。 十二時をまわってから台所に立った。豚肉のパックのラップを剥がすと端のほうが少し灰色になっていて、匂いを嗅いで、そこだけ切って捨てた。小松菜の根を落とし、麺を二玉ゆでるか一玉にするか少し迷って、一玉にした。食器棚の下の段から皿を出そうとすると、重ねた六枚のいちばん上に薄い黄色の一枚があった。引っ越しの日に汐里が一枚だけ色の違うのを選び、それからずっと汐里が使っている。黄色を横にどけて、下の白を取った。炒めているあいだに換気扇のフィルタから油が一滴落ちて、コンロの脇に黒い点をつくった。 立ったまま食べた。麺の切れ端が左の下の奥に入りこんで、舌の先で押し出した。六年半前にそこの親知らずを抜いてから、歯茎はなだらかに埋まってしまって、いまは舌でなぞっても浅い窪みが残っているだけになっている。抜いた日の夕方に、詰め物のガーゼを噛んだまま外階段を降りたことと、血の味が思っていたより鉄臭くなかったことは憶えている。 皿を洗って、伏せた。 一時半に美容院の施主から電話があった。工事の予算はどうやっても動かせない、内装は付き合いのある大工に直接頼む、という話を、詫びるでもなく順序よく喋った。 「先生のところは、図面だけっていうのは受けてもらえるもんなんですか」 「やります」 「じゃあ十五万くらいでどうですかね。うちの大工が、図面さえあれば見積もれるって言うもんで」 二階の間仕切りを一本動かすだけなので確認申請は要らず、書類の手間もほとんどない。実測に半日、作図に三日、大工との打ち合わせが二回。受けるとも受けないとも言わずに、来週の水曜までに返事をします、とだけ答えて切った。それから電卓を出して、十五万を三で割った。もう一度押して、六で割った。 三時前に郵便受けを見に下りた。国民年金の納付書が来ていて、一か月ぶんが一万六千九百八十円だった。四月に一年前納の手続きをしなかったので、毎月これが届く。同じ束にクリーニング屋の割引券と、市の粗大ごみの案内。ポストの下の床に隣の部屋あての不在票が落ちていたので、拾って隣のドアの新聞受けに差した。 家賃の引き落としの口座を汐里の名義に変えたのは、去年の十一月だった。管理会社の書式に汐里が判子を押し、通帳の最初のページのコピーを添えて送っただけで、切り替わるまで十日もかからなかった。封筒に入れるとき、汐里は、こっちのほうが記帳しに行くのが楽だから、と言った。郵便局まで出しに行ったのは亮で、窓口で計ってもらったら九十四円だった。それから半年、十四万八千円は毎月二十七日に汐里の口座から出ている。電気とガスと水道の引き落としも同じ月に一緒に移した。先月、亮の口座から出ていったのは、年金と、CADのリース料と、駅前の床屋の千九百円だけで、入ってきたものはなかった。通帳は机の引き出しのいちばん奥、確定申告の控えの下に入れてある。二月に一度記帳したきりで、それきり持ち出していない。汐里の口座の番号のほうは、管理会社に送る書式を代わりに書いたときに憶えてしまって、いまも下四桁だけ出てくる。 四時前に自転車の音がして、汐里が帰ってきた。白衣は職場に置いてきたらしく、手にコンビニの袋を提げていた。中からアイスが二本出てきて、片方を差し出された。受け取ってから、ありがとう、と言うつもりで口を開けたが、そのとき汐里が椅子に座って靴下を脱ぎはじめたので、そのまま袋の口を結んだ。 「後輪、空気が抜けるの。朝は入ってたのに、帰りにはぺしゃんこ」 「見る」 「いい。明日、駅前の自転車屋に持ってく。あそこ、パンクじゃなくても見てくれるし、虫ゴムだけなら二百円くらいだから」 汐里は足の裏を膝の上にのせて、親指の付け根のあたりを両手で押した。立ち仕事の日はいつもそこを押す。 「今日ね、六十くらいの男の人で、上の前歯の裏だけ真っ黒になってる人が来たの。お茶を一日に十杯飲むんだって。歯磨きはしてるの。してるんだけど裏は磨いてない。それをどう言えばいいと思う。磨いてくださいって言ったら磨いてますって返ってくるでしょ。じゃあ鏡で見てくださいって言うんだけど、六十だと自分の歯の裏なんて見えないんだって。老眼で。だから写真撮って見せたら、これ誰の歯って言われた」 「かなえちゃんの式、二次会だけ呼ばれてるの。来月の第二日曜。会費が一万二千。行くけどね、行くけど一万二千でしょ」 「行けば」 「杉並、図面だけでいいって言われた」 「へえ。じゃあ楽じゃん」 「うん」 「いいじゃん、それ。やりなよ」 汐里はアイスの棒を流しですすいで、生ごみ用の袋に入れた。 「あと、日曜、三島行く? 母さんが枇杷を送るって言ってたのに、途中で取りに来いに変わったの。行くなら朝の八時十四分の。決めて」 「うーん」 「じゃ、いい。私ひとりで行ってくる。日帰り」 「そんなに要るのか、枇杷」 「要らない。要らないけど、送るって言い出したのはあっちだから、取りに行かないと一週間毎晩かかってくるの。あの人、用がないと切らないから」 七時に飯にした。冷蔵庫にあったものを並べただけで、皿は昼と同じのを使った。汐里は薄い黄色の一枚に自分のぶんを取り、テレビをつけて、音を小さくした。画面では、どこかの県の道の駅の紹介をしていた。 「ねえ」 「ん」 「お義父さん、水曜に電話くれたよ。私に」 「なんて」 「べつに。元気かって。それだけ。三分で切れた」 亮は湯呑みを持ち上げ、まだ熱かったので、持ったまま置いた。 「あのさ」 「うん」 冷蔵庫が低く鳴りはじめた。汐里が立って扉を開け、麦茶のポットを出して、残っていたぶんを二つの湯呑みに分けて注いだ。 「なに」 「いや。麦茶、作っとく」 二〇二三年三月二日 木曜の午前は予約が詰まる。九時半の男性が来ず、受付が二度かけた携帯も繋がらなかったので、十時の小学生を先に上げた。 六歳の子で、下の六番が半分だけ顔を出している。フッ素を塗るあいだ、母親は待合で下の子を膝の上に立たせ、両方の靴を順番に脱がせていた。 七十四歳の女性の、下の右の奥から始める。超音波スケーラーの先を歯石の縁に当てて、水を出したまま、二本め、三本めと移っていく。この人は口を開けたまま何か言おうとする癖があって、そのたびに手を止め、バキュームを引いて、聞き直すことになる。孫が四月から高校に上がるという話は先月も聞いた。同じ話を同じ順番で二度聞くのは苦にならない。苦になるのは左の手首のほうで、二週間前から、スケーラーを握ると親指のつけ根の内側に細く響く。持ち方を変えれば響かないが、変えた持ち方だと先が滑って、歯肉を傷つけそうになる。夜に湿布を貼って、朝はがす。整形外科は駅の反対側にあって平日は七時まで、土曜は午前だけやっている。その土曜が医院のいちばん混む日だった。 「口ゆすいでください」 「先生、ここ、そのうち抜くようになりますかね」 「まだ大丈夫です。歯ぐきは去年より締まってますよ」 「孫がねえ、四月から高校で」 「聞きました。バスケの子ですよね」 「そう、それ」 白衣の胸には二本挿してある。黒と、オレンジ。オレンジのほうは材料屋の営業が置いていったノベルティで、インクの出が悪いのに四か月ほど挿したままになっていて、患者の前で書けないことが月に一度くらいある。書けないと分かった日に捨てればいいものを、そのたびに紙の隅で三回ほど回して、出たので、そのまま使ってしまう。 昼はかなえと控室で食べた。四畳ほどの部屋にパイプ椅子が四脚あって、電子レンジの上に消毒液の段ボールが積んである。かなえは先週ぶつけた車の右のミラーの話をした。 「うちの駐車場だよ。自分ちの、柱に」 「柱、前からあったよね」 「あった。十年あった」 「見積り、いくら」 「四万二千。保険使うと来年から掛金上がりますよって言われて、じゃあ現金でって言ったら、じゃあ部品来月でもいいですかって」 「向こうも忙しいんだよ」 「忙しいのはこっちだよ」 「代車は」 「出ない。うちの過失だから出ないんだって。そういうもんなの?」 十二時四十分に亮からLINEが来た。今日は六時に出る、とだけあった。汐里は弁当に入れてきた昨日の煮物の残りを箸で寄せて、椎茸だけ先に食べてから、うん、とだけ返した。返信を打つまでに二十秒ほどかかっている。 「なに、それ」かなえが覗き込んだ。 「べつに」 「彼氏? じゃないか、旦那か」 「水曜の予約の人、また来なかったよ。三回目」 かなえは三秒くらいこちらを見て、それからミラーの話に戻った。平日に亮が六時に事務所を出るのは、去年の十一月に義父の検査に付き添ったとき以来になる。あのときは前の日の夜に、行ってくれるか、と一度聞かれている。今日は聞かれていない。 七時二十分に帰ってきた。玄関で鞄を置く音がして、そのあと靴を揃える音がしなかった。コンビニの袋には缶ビールが二本と、レジ横の唐揚げが入っている。平日に酒を買って帰るのは、この冬に二度あったかどうかだった。台所の入口でコートを脱がないまま立っていて、袋を渡す手が冷たい。 汐里は豚肉と大根を煮たのを火から下ろし、袋の唐揚げを皿に移した。六枚組のうち一枚だけ色の違う、灰色がかった青の皿に。三鷹に越してきた夏に六枚まとめて買って、五枚は白、一枚だけ青いのを選んだのは汐里で、店で亮は特に何も言わなかった。四年たって、揚げ物と炒め物はこの一枚と決まっている。縁がほかより気持ち厚くて、洗うとき指がそこで止まる。 「事務所、辞めようと思って」 「うん」 「三月いっぱいで所長に言う。四月から一人でやる」 「いいと思う」 「え」 「いいと思う、って言った」 「早くない、返事」 「早いよ」 亮は椅子を引いて座り、缶を開けずにテーブルの端に置いた。それから仕事の話をするときの喋り方になって、順番に並べはじめた。所長が七十二になって去年から仕事を選ぶようになったこと、秋に事務所が断った練馬の二世帯の改修が、断ったあとで施主から直接亮のところに来たこと、その施主が四月からでもいいと言っていること。木造の二階建てで、母屋を残して水回りだけ動かす話らしく、予算は千二百万に届かない。一つずつは正しくて、正しさをこの順に並べるまでに何日もかかった跡がある。話しているあいだ、煮物には箸をつけなかった。 「所長は知ってるの、その話」 「言う。言ってから受ける」 「順番、それでいいの」 「よくない。でも言う」 「登録もいるんでしょ、建築士事務所の」 「都に出す。管理建築士の講習も受けないと」 「いくら」 「講習が三万四千。登録が一万七千。あと賠償の保険」 「保険は年でいくら」 「まだ見積り取ってない」 「取って」 「取る」 汐里は立って、味噌汁を椀に注いだ。座り直したときにはもう次の話に移っていて、机は北の四畳半に置く、あそこは使っていないから、と亮は言った。使っていないのではなく、亮の本と亮の図面と、結婚するときに練馬から持ってきた段ボールが三つ積んであるだけで、去年の夏に一度、汐里が中を開けようとして、あとで自分でやるからと止められている。五十八平米の部屋で、使っていない部屋は北のそこしかない。 「保険証、切り替えないと」 「国保でしょ」 「うち社保だから、扶養って手もあるけど」 「収入あるのに入れないよ」 「入れないか」 「入れない。年金も一号になる」 「詳しいね」 「調べたもん、去年」 そう言ってから、汐里は大根を箸で割った。中まで色が入っている。亮は貯金の話を始めて、二百くらいかな、と言った。 「三百四十一万。あなたの通帳が八十六万」 「そんなに見てるの」 「見てる」 家賃は十四万八千円で、更新は再来年の七月に来る。更新料が一か月ぶんと、火災保険が二年で一万八千。医院の給料は手取りで二十二万と少し、賞与は夏と冬にあって、良い年で二か月分ずつ出る。国保と年金を二人ぶん払うと、いまの生活のままで月にいくら足りないかは、先月のうちに一度計算してある。数字を言っているあいだ、亮はテーブルの木目を見ていて、一度だけ顔を上げた。 「ほんとにいいの」 「もう決めてるでしょ」 「決めてない」 「決めてるよ。ビール二本買ってきたじゃん」 亮は缶を開けた。ひと口飲んで、左の頬の内側を舌で押している。考えごとをしながらそうするのは前からで、六年前に抜いた左下の親知らずのあった場所を、いまでも舌が探しにいく。六年前のその日、汐里はまだこの人を苗字でしか呼んでおらず、抜いたあとの注意を紙に書いて渡しただけで、話したのは五分もない。去年の十一月にうちの医院で撮ったパノラマでは、抜いた跡の手前の歯が、空いた側にわずかに傾いていた。傾きは月ではなく年の単位で進むので、いま言っても止められるものではない。言うなら次の定期健診のときでいい。 「食いしばってるよ」 「え」 「奥歯。寝てるあいだも。そのうち削れる」 「マウスピース?」 「保険で作れる。予約、入れとくから」 「高い?」 「五千円くらい。三割で」 「じゃあ頼む」 「お父さんには言うの」 「連休に行くときに言う」 「先に言ったほうがよくない?」 「先に言うと、金を出すって言い出すから」 「出してもらえば」 「いい」 食べ終わったのは九時前で、唐揚げは四つ残った。ラップをかけて冷蔵庫の上の段に入れる。亮が北の部屋で段ボールを動かしはじめる音がして、汐里は流しに立った。青い皿は油が落ちにくいので最後に回す。洗い上げて水切りかごに立てると、同じ組の残りの五枚は棚に伏せたままだった。 十時過ぎに、三島の母から着信が一件あった。かけ直さなかった。 南の窓の外に、隣の敷地のケヤキが立っている。三月の初めなので枝の先にはまだ何もなく、細かく分かれた先端が隣家の外灯に下から照らされて白っぽく浮いている。ここに越してきた夏、いちばん高い枝はベランダの手すりの延長のあたりにあった。いまは窓枠の上の縁を越えていて、去年の秋は落ち葉が排水溝に溜まり、隣の家の人が二度、脚立を立てて途中まで切っていった。切ったぶんは翌年に別の向きへ伸びる。鳥が二羽、幹に近いところで動いて、すぐに見えなくなった。ガラスに近づくと、部屋の明かりが映って外が見えにくくなるので、少し下がって立つ。 風呂を出て、髪を乾かさないまま床に座り、洋服屋のトーク画面を開いた。先週の土曜に取り置きを頼んだ春のコートが、今週の土曜まで置いてある。二万六千円で、丈が膝の少し上、袖に折り返しがついていて、店の人が試着室の前で襟をひと折りしてみせたときの形が良かった。冬のコートは六年目で、袖口の裏が擦れて色が変わっている。すみません、やっぱり今回は見送りますと打って送ると、すぐ既読がついて、承知しました、またお待ちしていますとスタンプ付きで返ってきた。画面を伏せて、髪の先をタオルで挟んだ。 北の部屋で重いものが横に滑る音がして、それから止まった。 「ねえ」 「うん」 「明日、燃えないゴミだっけ」 「燃えるほう」 二〇二二年八月十四日 東京を九時五十六分に出るこだまは熱海を過ぎるとほとんど空になって、三島で降りたとき同じ車両に残っていたのは七、八人だった。汐里は品川で買った麦茶の紙パックを膝に立てたまま、新横浜の先からずっと眠っていた。改札を抜けると空気に厚みがあり、階段の手すりは握った手のひらに温度をしばらく残し、歩いて二十分だと言うので、菓子折の紙袋を右に持ち替えて、日陰の切れた道を並んだ。風はない。途中の自販機で買った水は五百ミリリットルで百三十円、汐里は三分の一ほど飲んでから残りを寄こした。 「暑いね」 「暑い」 「去年もこんなだったっけ」 「去年は来てない」 汐里は道の先を見たまま、通り沿いの空き地を指して、ここは前はクリーニング屋だったと言った。用水の蓋の隙間から水の音がしていた。道は乾いていた。歩きながら、中学の同級生が駅の北口で店を出して二年でやめた話をしたが、相槌を入れる場所が分からないところが二度あった。橋を渡るとき下をのぞくと、水面は両側から伸びた草に隠れて、流れている音だけが上がってきた。正面の空は白く、富士がどのあたりにあるのかも見当がつかなかった。 岸本の家は角から二軒目で、門の脇の金木犀が前に来たときより丸く刈り込まれていた。呼び鈴を押す前に戸が開き、春枝がサンダルをつっかけて出てきた。 「早かったねえ。言ってくれれば駅まで行ったのに」 「免許、返したじゃない」 「返してない。更新してないだけ」 玄関のたたきは外より五度は低く、上がり框の蚊取り線香が半分ほど灰になっていた。仏間の襖は開け放してあり、鴨居に吊るした提灯の紙が片側だけ日に灼けている。額の硝子は曇っている。拭いた跡が斜めに残ったままだった。線香を上げるとき袖が香炉に当たり、灰が経机の縁からこぼれて畳に落ちた。指で払うと目のこまかいところまで入り込んで余計に広がったので、膝をずらし、靴下の裏で敷居のほうへ寄せておいた。うしろで汐里が春枝に、駅前の店がまた変わっていたと話していた。春枝は、昨日の夕方に門のところで苧殻を焚いたと言った。迎え火は毎年そうしていると聞いている。 昼は素麺だった。 薬味は生姜と葱と茗荷で、それぞれ別の小皿に分けてあり、五枚とも柄が違った。青い縁の一枚だけ端が欠けていて、春枝はそれを自分の前に置いた。三鷹の食器棚には同じ形の皿が六枚あって、そのうちの一枚だけ色が違う。買うとき汐里が、全部同じだとつまらないと言って一枚だけ入れ替えさせたのを思い出した。口には出さなかった。春枝は三束茹でて、ざるに山にしてから、少なかったかしらと言ってもう一束足しに立った。座ってから立つまでが速く、話は座っているあいだしか続かない。素麺も茗荷も、噛むのは右の奥ばかりだった。隣の佐野さんが茄子と胡瓜を毎朝置いていくと言い、冷蔵庫を開けて見せた。野菜室に胡瓜が二十本近く入っていた。 「もらってって。ほんとに、持てるだけ」 「持って帰ってどうするの、二人で」 「浅漬けにすればいくらでも入るのよ。あんたが小さいころ、それで一日に六本食べた」 「食べてない」 「食べたの。写真がある」 「胡瓜の写真なんか撮る?」 「撮るのよ、あのころは何でも」 汐里は麦茶を飲みほして、氷を買ってくると言って立ち上がった。ついでに湿布も、と春枝が台所から声を上げた。腰が四月から良くないらしく、整形外科で撮ったレントゲンの話が始まったが、汐里はもうサンダルを履いていた。 「どれ買えばいいの」 「白いやつ。においのしないほう」 「においのしないのって、あんまり効かないよ」 「効かなくていいの、貼ってると安心するから」 財布だけ持って出ていった。戸の閉まる音が家の奥まで通った。 座敷のエアコンは動いていたが、吹き出し口の左端から水が垂れて、下の畳に十センチほどの染みができていた。 「これ、いつからですか」 「梅雨のころから。時々ね」 「業者、呼びました?」 「呼ぼう呼ぼうと思って、電話番号を控えた紙が、どこかへ行っちゃって」 本体の横に回って型番を確かめた。二〇〇九年の機種だった。室内機の下面が黄ばんでいる。庭に出て室外機の裏を見ると、ドレンホースの先が朝顔の鉢の縁に乗り上げ、そこだけ持ち上がっていた。土に垂らし直した。鉢を三十センチほど離した。サンダルの中に砂利が入り、片足で立って払っていると、縁側から声がかかった。 「それだけでいいの」 「たぶん、これだけです」 「それだけでいいの、ほんとに」 書き留めておこうとしたが、鞄は二階に上げてしまっていた。汐里のトートが柱のそばに置いてあったので、断りなく中を探った。ボールペンが二本、内ポケットに挿してあった。黒と赤だった。どちらも軸に歯科材料の会社の名前が白く入っている。黒のほうで、保険会社の名入りチラシの裏に型番と、次はホースの勾配から見ること、と書いて仏間の柱に画鋲で留めた。 「亮さんは、そういうのが分かるからいいわねえ」 「分かりません。設計は建てるところまでなので」 「でも、建つところは分かるんでしょう」 春枝は座布団を二つ折りにして肘の下に敷き、扇風機の首振りを止めた。風は亮のほうへ向いたまま止まった。事務所の話になり、去年の暮れに二人辞めて、所長が春先に胆嚢を取ったと答えた。設計を担当している世田谷の三階建ては、施主が三度目に外壁の色を変えると言ってきていて、決まった色に近い塗り板を三枚並べて置いてきたが、返事はまだない。それ以上は言わなかった。春枝は、大変だねえ、と言ってから、練馬のお父さんはその後どうなの、と続けた。 「歩くのは、去年よりは」 「一人で暮らしてるの、いまも」 「掃除の人に週に一回来てもらってます」 「男の人はね、そういうときに人を入れたがらないでしょう」 「入れたがりませんでした。半年かかりました」 話しながら、退院の日に自分が現場を抜けられず、汐里に病院の受付と支払いをさせたことは省いた。汐里はそのとき、練馬から三鷹まで手続きの控えを持って帰ってきて、封筒ごと台所の棚に立てた。封筒はいまも同じところにある。 「汐里ね、あんまり言わないでしょう、そういうこと」 「言いますよ」 「言うのは、済んだことだけ」 仏間の押し入れの下段から、春枝がアルバムを二冊出してきた。表紙は布張りだった。角が擦れて中の紙が見えている。一冊目の最初の頁に、産院の名札と、体重の書かれた小さな紙が貼ってあった。頁を繰るたびに、貼り直したセロテープが茶色く焼けているのが指に当たった。写真の下の余白には、日付と場所が鉛筆で書き込まれていて、字は途中から大きくなり、二冊目の後ろのほうでは日付だけになった。 七五三の写真の汐里は、前歯が二本抜けていた。 「ここね、恥ずかしいって言って、口を閉じないの。閉じたら余計に変だって」 「似てますね、今と」 「そう? 今のほうが顎が細いでしょう」 写真の子どもは、抜けたところに舌を入れているように見えた。亮は自分の口の中で、左の下の奥を舌でなぞった。骨が平らになっていて、その先に何もない。歯を抜いた日のことを思い出そうとしたが、待合室の椅子の色までは出てこなかった。 「最初は歯で行ったんですってね」 「左の下です。抜きました」 「痛かった?」 「四日腫れました」 「そう。あの子、そういうのは家で全然言わないの。付き合ってるも言わなかった。急に、来月引っ越すって」 小学校の運動会、楽寿園の池の前、中学の制服。ピアノの発表会で椅子に浅く腰かけている一枚があり、春枝はそこを開いたまま、三年生の秋に自分からやめると言い出したと話した。言い出した次の週にはもう行かず、教本は本棚に立てたままにしてあるらしい。 「先生には、あんたが電話しなさいって言ったの。したの、自分で」 「何て言ったんですか」 「もうやりませんって、それだけ。九つでよ」 三年生の頁に、たすきを掛けた集合写真があり、汐里はその中にいなかった。前の年の同じ大会の写真にはいる。春枝は指でその一枚を押さえて、選考の前の日に自分から辞退したのだと言った。走れば入れたと思うと続けて、それから、入れなかったかもしれないけどね、と言い直した。 「あの子は、負けるのが嫌なんじゃなくて、負けるのを見られるのが」 そこで一度切って、麦茶を注ぎ足しに立った。戻ってきたときには話は隣の佐野さんの息子の就職に移っていて、内定が二つ出たのに片方を三日で断ったという件を、はじめから同じ順番でもう一度話した。亮はアルバムの頁をひとりで進めた。高校の文化祭で、汐里は白いシャツにエプロンをつけ、もう一人と大きな寸胴を持ち上げている。相手の顔は知らない。写真の隅に、机に伏せて眠っている生徒が写り込んでいて、そこだけ焦点が合っていた。 「そっちの窓、日は入るの。マンション」 「南は入ります。ただ、隣の敷地にケヤキが一本あって、上のほうがだいぶこっちに来てるので」 「切ってもらえないの」 「敷地が違うので、うちからは言えないんです」 入居したころは窓枠の下にあった葉の面が、いまは手すりを越えている。朝の五時から蝉が鳴き、風の強い日には毛虫が落ちてくると汐里が言って、夏のあいだ手すりに洗濯物を掛けなくなった。午後の二時間ほどは、枝の影が床を斜めに切る。 「そのぶん、夏は涼しいので」 「じゃあいいじゃないの」 「明日、昼過ぎのに乗ろうかと思ってます」 「送り火、十六日なんだけどね」 「すみません、月曜が朝からで」 「いいのいいの。来てくれただけで」 汐里の部屋は二階にそのまま置いてあるという。机も本棚も動かさず、布団だけ干して入れ替えている。 「片づけろって言われるんだけどね」 「置いておけばいいと思います」 「置いておいたって、誰も使わないでしょう」 春枝は畳に手をついて体をずらし、それから、ここ何かこぼした?と言った。灰の寄った縁のあたりを見ている。線を引くように指でなぞってから、蚊取り線香の灰だろうと自分で答え、この家は灰ばかり出ると続けた。亮は、そうですね、と言い、湯呑を持ち上げて底の輪を拭いた。 玄関の戸が鳴り、汐里の声が廊下を来た。氷が溶ける、と言っている。春枝は座布団に手をついて立ち上がりながら、袋ごと流しに置けばいいと大きな声で返した。亮はアルバムを閉じ、背を奥にして押し入れへ戻した。畳の灰は、扇風機の風を受けて、少しずつ敷居のほうへ寄っていた。 二〇二一年十月三十日 土曜の午前は予約が詰まる。九時から十二時半までのあいだに七人入っていて、四人目の五十二歳の男は、左の下の親知らずが横を向いたまま骨のなかに埋まっていた。パノラマの上では根の先が下顎管に触れそうなところまで下りていて、院長は自分では抜かないと決め、口腔外科への紹介状を書きながら封筒の宛名を二度書き直した。汐里はスケーラーのチップを替えつつ、四年前の秋に同じ位置の歯をこの椅子で抜いていった男と今は同じ台所を使っていることを思って、次のカルテを受け取ったところでその続きをやめた。 男はうがいをしてから、椅子を起こす途中で口を開けたまま聞いてきた。 「これ、痛いんですか。抜くとき」 「麻酔が効いているあいだは痛くないです。腫れが引くまで四日か五日」 「五日か。うち、月末しか動けないんだよな」 紹介状は月曜の朝いちばんに取りに来てもらうことになった。汐里は男のエプロンを外して丸め、次亜塩素酸の匂いのするトレーに器具を沈めた。白衣の胸には二本挿していた。黒と赤で、赤のほうは先週からインクの出が悪い。 昼で上がった。更衣室でかなえがサンドイッチの袋を開けながら聞いてきた。 「今日も行くの」 「荷物だけ渡して帰る。会えないから」 「面会、まだ駄目なんだ」 「玄関から先に入れてもらえない」 「そういうのって、順番で回したりしないもんなの。実の子とかで」 「向こうは土曜も現場」 「うち来月更新なんだけどさ、二か月分だって。二か月。更新料って、あれ何に払ってんの」 かなえはレタスの端を一枚つまんで袋のなかに戻し、それから駅前の不動産屋の看板の話を続けた。汐里は答えを持っていなかったので、白衣をロッカーに掛け、胸の二本をカーディガンの内ポケットに移した。 吉祥寺の北口から練馬駅行きのバスが出ている。乗り換えなしで四十分ほどかかるけれども、駅まで自転車で八分足らずの三鷹の部屋からだと、電車を二度乗り継ぐより結局これがいちばん早い。清が入院したのは十月十八日で、そこから十二日が過ぎ、汐里がこのバスに乗るのは七度目になる。亮は入院した日の夜に一度だけ病院まで行き、書類に判を押して帰ってきた。膝に載せた紙袋の持ち手を握ったまま、環八を渡るところで病院のサイトの面会情報をもう一度開いたが、九月の日付のまま更新されていない。前の席の老人が窓を五センチだけ開けていて、そこから入ってくる風が首の後ろにずっと当たっていた。 病院の西口の前でだけ、街路樹が銀杏に変わる。 一階の総合案内の横に、洗濯物と着替えを渡すための窓口が出ている。土曜は十二時から十四時までで、それを過ぎると次は月曜の九時になる。入口で額に機械を向けられ、三十六度二分と読み上げられてから、消毒のポンプを二回押した。窓口のアクリル板には預けられる物と預けられない物を書いた紙が貼ってあって、その左上に、剥がした前の紙の粘着テープの跡が四角く残っている。前に並んでいた女が、生ものは駄目だと言われて紙袋から蜜柑の袋を出し、それを自分の鞄に入れ直すのに少し手間取っていた。台の上に受け渡し票の束と鉛筆立てが置いてあり、鉛筆立てには使い古したボールペンが四本刺さっていたが、汐里は内ポケットから自分のを出した。患者氏名と持参者氏名を書き、続柄の欄で手が止まった。息子の妻、と書いた字が、かすれて薄い赤になっていた。 「すみません、黒でお願いできますか」 「あ、はい」 もう一本に持ち替えて、赤い字の上をなぞった。窓口の女性は紙袋の中身を出して下着とタオルの枚数を票の裏に書き取り、それから受話器を上げて二言三言話した。 「先生からご説明があるそうです。四階の面談室で。ご家族の方、おひとりまででお願いします」 売店の隣の機械でテレビカードを二枚買って紙袋に入れ直したので、女性はもう一度中身を確認した。清の病室のテレビは一時間ごとに金がかかる仕組みになっている。 面談室では医師が座らずに話し始めて、汐里も長机の手前に立ったままでいた。三十代の半ばくらいで、白衣の下がスクラブではなく私服のシャツで、胸のポケットの縁がボールペンのインクで青く汚れている。 「第一腰椎です。押しつぶれた形の骨折で、手術はしません。硬いコルセットを三か月、寝ているあいだも外さないでください」 「三か月」 「痛みは九日目から引いてきていますので、来週からリハビリを一日に二回入れます。歩けるようにはなります。十一月の下旬に、退院の日取りを決めましょう」 医師はモニタを回して、ボールペンの尻で白い骨の一点を指した。汐里の立っている位置からは、そこがどう潰れているのか最後まで分からなかった。分からないまま、頷く形に首を動かした。 「ご本人にはもう話してあります。ただ、三か月と言うと大抵の方は半分も聞いていないので、おうちからもう一度言ってあげてください。二週目で楽になって、そこで外す人がいちばん多いんです」 「お風呂と、トイレですね。家に段差はありますか」 「玄関の上がりかまちが十八センチほどです。あと風呂場の、跨ぐところが高くて」 「手すりを付けてください。区の窓口で介護保険の申請ができます。認定に一か月かかりますから、月曜に電話番号だけでも控えておいてください」 「はい」 「ご主人にも同じ話をと思ったんですが」 「私が伝えます」 票の裏の、下着とタオルの枚数を書いた行の下に、第一腰椎、硬いコルセット三か月、リハビリ一日二回、介護保険は区役所、と書き足した。エレベーターが二分待っても四階に来なかったので、階段を下りた。 正面玄関を出て信号を渡ったところで携帯が鳴った。番号は清の携帯で、話し出すまでに三秒くらい間があった。 「悪いな。テレビのカード、二枚も買っただろう」 「一枚だと足りないでしょう」 「一枚でいい。途中で切れるから、切れたところでやめる」 「将棋の本、次に持っていきます」 「本はいらん。あれは字が小さい」 車が二台続けて右折していくあいだ、耳に当てたまま黙っていた。それから清は、樋の話を始めた。 「あの樋な、勾配が逆になってるんだ。だから水が溜まって腐る。業者を呼ぶとな、樋だけじゃ駄目だ屋根からだと言う。ああいうのは決まってる」 「先生から手すりの話がありました。お風呂と、玄関に」 「亮は」 「現場です」 「そうか」 病院から北へ歩いて十二分のところに清の家がある。鍵は入院した日から預かっていて、合鍵は汐里のほうが先に作った。玄関を開けると新聞受けから落ちた折込が三日分たまっていたので、拾って靴箱の上に載せた。冷蔵庫から豆腐と、二つ入りの納豆の残った片方と、日付の切れた牛乳を出して、牛乳だけ流しに空けた。台所の壁のカレンダーは十月のままで、十八日のところに何も書かれていない代わりに、二十六日に赤い丸が打ってあるが、その丸が何の予定なのかを汐里は聞いていない。肌着の場所が分からず、押し入れの二段目を開けてから簞笥に戻った。庭に回ると脚立が倒れたままになっていて、三段目のあたりが少し曲がり、その上に雨樋から落ちた枯れ葉が積もっている。汐里は脚立を起こして壁に立てかけ、それから家に戻って、肌着を三枚と靴下と爪切りと、頼まれていない将棋の本を一冊、次に渡す分の紙袋に入れた。 部屋に戻ったのは六時前だった。南の窓を開けると、隣の敷地のケヤキが半分ほど葉の色を変えていた。去年より枝が伸びて、いちばん高いところが窓枠の右上の角にかかるようになっている。ベランダの手すりに葉が二枚張りついていて、指で剥がすと裏側が湿っていた。 夕飯は先に一人で食べた。亮の分は、六枚買った皿のうち一枚だけ色の違うものに載せ、ラップをかけて電子レンジの上に置いた。その一枚はいつのまにか亮の皿になっていて、そうなった理由は特にない。 洗濯物を畳みながら、音を消したテレビをつけていた。八時を過ぎたあたりで一度、区役所の介護保険の窓口の受付時間を調べ、月曜は八時半からだと分かったので、携帯のメモにそれだけ打った。畳んだ亮のシャツの襟が二枚とも汗で黄ばみかけていて、袖の内側に現場の土がついていたから、その二枚だけ畳まずに洗面所の籠に戻した。 亮が帰ってきたのは九時二十分過ぎで、鞄を廊下に置いたまま、しばらく洗面所で手を洗っていた。 「ご飯ある」 「レンジの上」 汐里は麦茶を出して、亮が座るのを待ってから話した。 「今日、先生から説明があった。腰の骨。第一腰椎ってところが潰れてて、手術はしないって」 「うん」 「硬いコルセットを三か月。寝るときも外さない。リハビリは来週から一日二回で、退院の日取りは十一月の下旬に決めるって」 「三か月か」 「あと手すり。風呂と、玄関の上がりかまち。介護保険の申請が要るって言われた。区役所で。認定に一か月かかるから、早く出せって」 亮は箸を持ったまま、皿の縁のあたりをしばらく見ていた。それから、施主が玄関のタイルを白に変えたいと言い出したので見積もりを取り直していること、そのせいで来週の水曜まで現場に張りつくことになった経緯を、順を追って説明した。汐里は聞きながら、受け渡し票をひっくり返して冷蔵庫にマグネットで留めた。 「火曜、行けるか」 「火曜は昼で上がれる」 「じゃあ俺が行く。夕方なら抜けられるかもしれない」 「窓口は平日十五時まで」 「……そうか」 「土曜なら十二時から二時」 亮は茶碗に残った飯を集めて口に入れ、それを飲み込んでから言った。 「悪い」 「別に」 「そのコルセットって、金具の付いてるやつか」 「金具は見てない。次に聞く」 「聞いといて」 亮が水を出したまま茶碗を洗いはじめたので、汐里は玄関に出て、たたきの傘立ての横に置いた紙袋の上に、折りたたんだレジ袋を一枚かぶせた。 二〇二〇年五月九日 土曜だった。曜日の手触りは四月の半ばから薄くなっていた。七時二十分に目が覚めて、寝室のカーテンを二十センチだけ引くと、連雀通りを走る車の音が一台ずつ数えられるほどしか上がってこない。空は薄い曇りだ。ベランダの手すりに載せた鉢の土の表面だけが濡れていて、台所では水を出す音がしていた。五時前に起きる日と九時まで出てこない日が汐里には交互に来るようになっていて、その周期を亮はまだつかめずにいた。玄関のたたきには、先月から靴が二足しか出ていない。 「切る?」 返事をしないでいると、廊下の向こうからもう一度聞こえた。 「髪。今日切らないと、来週わたし月水金だから」 洗面所の床に三月の新聞を四枚敷いて、台所から椅子を運んだ。敷いた面のいちばん上が三月二十六日の朝刊で、下半分は聖火の写真だった。バリカンは四月三日に注文して、届いたのが二十四日だった。二千九百八十円。箱の表示は日本語と韓国語が併記してあり、説明書の日本語はところどころ助詞が抜けている。アタッチメントは三ミリから十二ミリまで五つ入っていたが、汐里は箱を裏返して読むこともせずに十二ミリを選んで押し込んだ。スーパーの袋の底を切って首に巻かれると、耳の後ろがすぐに汗ばんだ。 「これ、何ミリ」 「十二」 「一番長いのが十二か」 「一番長いのが十二なの。短いほうは三ミリ。三ミリにする?」 「やめてくれ」 「動かないで」 「動いてない」 「首が動いてる」 刃が耳の上を通るとき、音は空気からではなく骨のほうから聞こえた。右の側頭部から始めて、後頭部の途中で一度手が止まり、頭を三センチほど前に倒された。窓は開けてある。下の駐車場で誰かが自転車の空気を入れている音が、規則的に上がってきた。汐里の指は根元を分けるときだけ冷たく、そのあとは温かくなった。刈られた毛は袋の縁をすべって落ちたが、いくらかは襟の内側に入って、肩の下のあたりで止まっている。 「かなえちゃん、車の保険が切れてたんだって」 「へえ」 「四月からずっと切れてて、昨日まで気づかないで乗ってたの。夜に電話がかかってきて、途中から泣いてた」 「ああいうのは、切れてからは向こうも言ってこない」 「言ってくるでしょ、普通」 「切れる前には来る。過ぎたぶんは来ない」 「ハガキは来てたはずだって言ったら、心当たりがあるって。三月に住所を変えたの、あの子」 「じゃあ届いてない」 「届いてないのを、自分のせいだって言うの。ずっとそればっかり」 「事故ってないなら、それでいい」 「そういう言い方すると思った」 その話はそこで終わった。汐里は耳の上をもう一度なぞってから、左側だけに五分ほどかけた。手鏡を渡され、洗面台の鏡と合わせて後ろを見ると、左の耳の上だけ地肌が透けている。首を回した。髪の先が背中に落ちた。 「三日で伸びる」 「そんなに早くは伸びない」 「来週、誰か気づくかな」 「みんなマスクだから、上しか見えないよ」 「上を刈ったんだけど」 昼はパンを焼くと言って九時から生地をこねていたが、強力粉はどの店の棚にもなく、薄力粉で焼く手順をどこかで見つけてきたらしかった。一次発酵の時間は台所のタイマーではなく携帯で計っていて、その途中で二度、布巾をめくって中を見た。天板から出てきたものは高さが四センチほどしかなく、切ると断面の気泡が潰れたまま詰まっている。トマトの缶とベーコンで作ったスープと一緒に、二人でその半分を食べた。残りは切らずに置いた。 去年の七月にこの部屋へ移ったとき、六枚組の皿を選んだのは汐里だった。五枚は白で、一枚だけ色が違う。その一枚は買った日から汐里が使うことになっていたのに、この日は亮の前に置かれていた。理由は聞かなかった。 「どう」 「粉が違うんだから、しょうがないだろ」 「重い?」 「重い」 「膨らまないのは、こねが足りないのかな」 「グルテンが少ない粉なんだから、こねても同じだよ」 「じゃあ何を足せばいいの」 「強力粉」 「それが無いから焼いてるんでしょ」 汐里は空になった缶を流しへ持っていって水を溜め、それから焼き上がりを一枚撮って、その場で消した。 一時過ぎに電話が鳴った。練馬の父だった。給湯器が、湯を出して二分ほどで温度を三度ばかり落とすという。台所の壁のリモコンに一一一という数字が出て、しばらくすると勝手に消えるらしい。取り替えたのは十四年前のはずだと言うので型番を見てくれと頼むと、脱衣所から戻ってくるまでに二分かかり、戻ってきてからは駅前の銭湯が休みだという話になった。回覧板も三月の終わりから止まっている。六十四になる父の声は電話だと必ず一段低くなって、こちらの返事の頭に少し重なる。 「業者、知り合いにいないのか」 「設計と設備は別だよ」 「同じ建物だろう」 「別なんだよ。ガス屋に電話して、型番を控えてからかけ直して」 「番号がわからん」 「本体の前に白いシールが貼ってある。そこに横文字と数字で書いてある」 「まあ、いいや。屋根のほうも見なきゃならん」 「上がるなよ」 「脚立があるだろう」 「脚立の話をしてるんだよ」 「そっちは、飯はどうしてる」 「食ってる」 「そうか」 先月の終わりに、庭側の雨樋の継ぎ目をどうすればいいかと訊かれていた。写真も二枚送られてきている。返事はまだしていない。電話のあいだ、そのことには触れなかった。切ったあとで携帯を裏返してテーブルに置き、指で二度、角のところを回した。 昼過ぎに日が出た。 南の窓からは、隣の敷地のケヤキが一本見える。四月の終わりに葉が出そろってから、日が高くなるにつれて影が床を移動するようになった。二時半に見たとき、影の先はフローリングの継ぎ目から三枚目にあり、四時にはそれが五枚目まで下がっていた。その木を鉛筆で描いた。仕事で使っている図面の裏だ。幹は根元で三十五センチほど、いちばん高い枝の先はベランダの手すりの天端より六十センチばかり下にある。年に三十センチ強伸びると見て、二年で手すりを越え、そこから枝の張りが真南の日射を切りはじめるまでに、さらに二年ほどかかる勘定になった。二年目と四年目の輪郭を薄い線で重ねて描いてみたが、描いているうちに枝の数が実際より増えたので、消しゴムで二本消した。六月の南中高度を七十七度で見ると、庇の出が九十センチしかないこの窓では、正午の日射がいま床の一メートル手前で止まっている。そこへケヤキの影が届く年を出そうとして、枝の透け方をどう見込むかで数字が二通りになった。両方とも余白に書いて丸で囲む。裏返すと、表は三月に止まったままの矩計図で、右下の日付だけが二度直してある。 「木、どうかした」 「あと三年か四年で、この窓、夏は日が入らなくなる」 「じゃあ涼しいね」 「冬は葉が落ちるから、そっちは入る」 「よくできてるね」 「向こうが切るかもしれないけど」 「切らないでしょ、あれは」 洗面所では洗濯機が回っていた。医院の白衣の洗濯が週二回に減ってから、汐里は自分の分を持ち帰って洗っている。回す前に胸のポケットからボールペンを二本抜いて、洗面台の端に並べていた。青が一本と、医院の名前の入った白い軸のが一本。白いのはもう書けない。それでも捨てずに、乾いてから白衣のポケットへ戻す。医院は四月の半ばから午前だけになり、汐里の出勤は月と水と金だけになった。亮の勤め先の事務所も四月から在宅で、担当していた二件のうち一件は着工が十月まで延び、もう一件は施主からの連絡が二週間止まっていた。家賃の十四万八千円は毎月二十七日に口座から引かれる。宣言は六日までのはずが、四日に三十一日までと決まった。給付金の申請書はまだ届かない。夕方にポストを見に降りたが、入っていたのは不動産のチラシと電気の検針票と、隣の区画の測量の挨拶状だけだった。階段の踊り場では、上の階の子どもが同じ段を何度も跳んでいる音がしていた。部屋に戻る途中で五時のチャイムが鳴り、そのあとに続けて、外出を控えるようにという放送が二度流れた。 ポストのほかには、どこへも出なかった。 「十月に延びたのって、無くなったわけじゃないんでしょ」 「無くなってはいない」 「じゃあいい。今年はまあ、なんとかなるよ」 汐里は乾いた白衣を畳みながらそう言い、それから一度広げて畳み直した。 夜、皿を片づけたあとで、百円の店で買ったペンライトと手鏡を持ってきた。テーブルの上の照明を一番明るいところまで回し、椅子を斜めに向けさせた。口を開けさせる。息を止めていろとは言われないのに、途中から止めていた。膝の上に置いた手のひらが、二分ほどで湿ってきた。 「下の前歯の裏、また溜まってる」 「取れるのか、それ」 「道具がないと無理。歯間ブラシ、使ってないでしょ」 「使ってる」 「嘘」 「使ってるって」 「サイズが合ってないんだと思う。今度、四番のを持って帰る」 「番号があるのか」 「あるよ。前に言った」 「聞いてない」 「言った」 柄の細い金属の先で歯茎をなぞられ、左の奥まで来たところで手が止まった。そこは平らだ。舌を入れても引っかかるものがない。左下の親知らずを抜いてから、もう三年になるはずだった。来月で三十になるが、抜いた日のことは、待合の椅子の座面が冷たかったことと、そのあと二日ほど右側だけで噛んでいたことしか覚えていない。 「ここ、きれいに治ってる」 「三年前だろ」 「二年半」 風呂の湯を溜めているあいだ、朝の新聞を丸めて紙袋に押し込んだ。髪が少し床に落ちている。指でつまんで新聞のほうへ入れ、そのまま台所へ行くと、窓の外は暗く、向かいの棟の窓が四つ点いていて、そのうち二つはテレビの色だった。給湯器のリモコンの温度を一度上げた。すぐに戻した。 「昼の、悪かった」 「なにが」 「パン」 「ああ」 汐里は冷蔵庫を開けたまま、中の何かを奥のほうへ押しやっていた。庫内灯が足元まで届いている。 「明日、粉あったら買っとく? 強力粉」 「郵便、明日は休みだ」 「聞いてないでしょ」 二〇一九年七月二十日 鍵は三本あって、そのうち一本だけ持ち手のプラスチックが白く、残りの二本は角のところが黄ばんでいた。重くはない。不動産屋で受け取ったのが十時五十五分で、坂を上って部屋に着くまで、汐里はその三本を掌に握ったまま腕を振らずに歩いた。南の部屋の床には前の住人の机の脚の跡らしい丸い窪みが四つ、揃わない四角を作って残っていて、しゃがんで爪の先を立てると、ワックスの膜の下でその縁がまだ立っていた。どれも浅い。五十八平米で十四万八千円のうち、この部屋がいくらにあたるのかを計算しかけて、やめた。 窓を開けると、隣の敷地のケヤキが正面に来た。近い。ブロック塀のすぐ内側に一本きりで、二階のこの高さだと幹の分かれ目と、そこから出た三本の太い枝が目の位置に並ぶ。葉は厚く重なっていて、風が通るたびに裏の白っぽい面がいちどきに返った。いちばん高い枝の先でも、ベランダの手すりまでは一メートル二十ほど足りていない。梅雨が明けないまま二十日まで来ていて、空は朝から白く、動かずにいると半袖の腕が先に冷えた。日は差さない。 段ボールを踏む音がして、亮が台所のほうから来た。 「思ってたより近いな」 「内見のときと同じだよ。葉が少なかっただけ」 「そうか」 見ていたのは木ではなく窓のサッシのほうで、下端の枠に指を這わせてから、左の端で止めた。 「五ミリ下がってる」 「直るの」 「直さない。築二十二年でこれなら、いいほうだよ」 「そういうの、住む前から言わないでほしいんだけど。まだ一晩も寝てないのに」 「あとから自分で気づくと、腹が立つ」 「お昼どうする」 「あとでいい」 「あとっていつ」 「入れ終わってから」 トラックが着いたのは十二時十分で、言われていた時間より四十分遅かった。作業員は三人で、いちばん若いのは左の人差し指に白いテープを二重に巻いていた。冷蔵庫を階段で上げるあいだ、その指を庇うので、上の角がだんだん壁のほうへ寄る。誰も何も言わない。 「冷蔵庫、こっちの壁づけでいいですか」 「そっちだと、扉が壁のほうに開いちゃいます」 「あ、逆ですね。すいません、一回下ろします」 汐里は玄関に立って箱を数えた。全部で三十四あって、自分のものが二十、亮のものが十四だった。エレベーターの無い二階だから、見積もりの段階で三千円が乗っている。伝票にサインをして現金で五万七千円を渡し、領収書の宛名を言うところで半拍おいた。梅本です。言い直さずに言えたけれど、ウの段から始まる名字を口に出すのは、まだ数えるほどしかない。 郵便受けには、まだ名前を入れていない。 エアコンは前の住人が置いていったものが一台きりで、リモコンを押すと運転ランプは点くのに、十五分待っても出てくるのは部屋と同じ温度の風だった。冷えない。管理会社に電話をすると担当者が三度保留にして、そのたびに同じ短いオルゴールが鳴った。 「ガスの補充で済むか、本体ごとになるかは、見てみないとなんとも」 「いつ来られますか」 「業者の枠が、七月三十一日の午後でしたら」 「じゃあ、それでお願いします」 「費用のご負担につきましては、オーナー様とご相談ということに」 「はい。三十一日で」 受話器を置いてから、床に落ちていたガムテープの芯を足の指で立てた。 「粘らなくてよかったのか」 「七月三十一日って言ってる人が、七月三十一日より早く来ることはないよ」 市役所は土曜で閉まっていて、転入届は月曜になる。明日が参議院選挙の投票日で、入場券は前の住所のポストに入ったままになっている。二時前から商店街を選挙カーが回りはじめ、名前を四回繰り返してから、間を置いてまた四回繰り返した。名前だけだった。窓を閉めても、音は三十分おきに戻ってきた。 「行くの」 「どこに」 「選挙。前の区まで戻れば、まだ入れられるけど」 「入場券、向こうだろ」 「無くても、本人確認できれば入れてくれる。前に受付の人が言ってた」 「戻るのか」 「聞いてるだけだよ」 その話はそれで終わった。 台所の箱を開けると、二人ぶんの食器が出てきた。前の部屋で使っていた薄いプラスチックの皿が四枚と、亮が一人で住んでいたころの直径十六センチの深皿が三枚と、縁の欠けたマグが五つある。同じ形が六つ揃っているものは一つも無かった。五つのマグを流しの縁に並べ、欠けたところを全部こちらへ向けてから、三つを新聞にくるんでごみ袋へ寄せた。袋は軽い。 「それ、使えるだろ」 「口をつけるところが欠けてるの」 「裏返して持てば当たらない」 「毎回そんなふうに考えて飲みたくない」 三時四十分に二人で駅の南口へ出た。 商店街の途中に古い食器屋があって、ガラス戸を引くと奥は暗く、天井の蛍光灯は二本のうち一本が点いていない。棚は種類ではなく大きさで分けてあり、値札は一枚ずつ手書きだった。字が薄い。汐里が選んだのは直径二十一センチの取り皿で、白いマット釉が一枚七百三十円、同じ形で釉薬の違うものが上の段に三枚だけ残っていて、値段は同じだった。窓のほうへ傾けると薄い青に見え、店の中へ戻すと灰色に近くなり、爪で叩くと白いのより少し低い音がした。 六枚買うと決めていた。 五枚を白で取って、最後の一枚だけ、腕を伸ばして上の段から下ろした。届いた。店の男は六十くらいで、汐里が皿を台に置いてからも説明をやめなかった。 「それはね、灰の釉なんですよ。灰。同じ窯で、同じ日に焼いてるんです」 「色、違いますよね」 「置く場所でね、変わるんです。右の奥に入れたのは黄色が出る。手前のほうは、こう、青くなる。狙って出るもんじゃないんでね」 「六枚お願いします。白を五枚と、これを一枚」 「揃えなくていいの」 「はい」 「これ、もう入らないんですよ。同じのが来ないんでね」 話しながら包むので手が遅く、一枚ずつ新聞紙にくるんでは指を舐めて次の紙をめくる。四枚目で新聞が尽きて、レジの脇のスーパーの折り込みを足した。それから菓子折りの空き箱を出してきて縦に入れ、隙間に固い厚紙を折って挟んだ。包み終わるまでに十分以上かかり、そのあいだに後ろへ立った客が二組、何も言わずに出ていった。ガラス戸が二度鳴った。四千三百八十円に消費税がついて、四千七百三十円になった。亮は入口の傘立ての値札を見ていて、皿については何も言わなかった。家電量販店で扇風機を二千九百八十円で買い、首振りのついたものは四千円を超えていたので、やめた。汐里が皿の箱、亮が扇風機を持って歩き、紐が指の付け根に食い込むので、途中で二回持ち替えた。箱は重い。信号待ちで亮が箱を肩へ載せ替え、こちらの持ち方を見てから、また信号のほうへ顔を戻した。 食器棚は前の部屋から運んできた組み立て式で、組み直そうとして、ネジが一本足りないことが分かった。 型番を控えて問い合わせフォームに打ち込むと、順次ご対応いたしますという自動の返信がすぐに来た。棚板は壁に立てかけたままにして、皿は当分、流しの下に入れることにした。洗うと新聞のインクが指の腹に付いて、洗剤で二度洗っても爪の脇に残った。黒い。水切りかごがないので、バスタオルを二つ折りにして床に敷き、その上に六枚を伏せて並べた。左から五枚が白で、端に色の違うのが来て、しばらく見てから三番目に動かし、それからいちばん端まで戻した。端がいい。 「なんで一枚だけ違うの買ったんだ」 「揃ってると、どれ使ったか分かんなくなるでしょ」 「洗えば同じだろ」 「そういうことじゃなくて」 「じゃあ、どういうことだよ」 「ねえ、ガス九時からだけど、朝ごはんどうする。冷蔵庫まだ冷えてないよ」 「話、変わったな」 「変わってない」 答える代わりに、色の違う一枚だけを持ち上げ、水を切ってから自分の側の端に置いた。 「これ、わたしの」 「決めるの早いな」 「早くない。棚で見てたときから決めてた」 衣類の箱からは、クリーニングのビニールをかぶったままの白衣が三枚出てきた。胸のポケットにボールペンが三本挿さっていて、黒が二本と赤が一本だった。黒の一本には軸にテープが巻いてあり、キシモト、と細いマジックで書いてある。自分の字だ。医院の名簿も当番表もまだそのままで、書き換えないでいて困ることは起きていない。段ボールの内側に赤で線を引くと、三回まわしても薄いままだった。三本ともポケットに戻し、白衣をハンガーに掛けた。掛ける場所が決まっていないのでカーテンレールの端に引っ掛けると、ビニールが風でふくらんで乾いた音を立てた。 洗面所の水は最初の五秒だけ茶色く出た。歯ブラシは紙コップに二本立てた。並んで磨いていると、鏡の中で亮が口を開けたままあくびをして、下の左のいちばん奥まで見えた。歯茎はもう平らで、抜いた跡の形はどこにも残っていない。 「見なくていいよ、そういうの」 「見てるんじゃなくて、確かめてるの」 「同じだろ」 「違う。腫れが引いたあと、骨がどう埋まるかは人によるの。あなたのは早いほうだと思う」 「もう二年くらい経つだろ」 「一年八ヶ月」 一昨年の十一月、左下の親知らずが横を向いたまま埋まっているのを見て、初診のカルテに水平埋伏と書いたのは汐里で、そのときは番号と苗字でこの人を呼んでいた。麻酔の効きにくい人だった。追加を二本打って、終わりのほうでは右手が椅子の肘掛けを握っていた。縫ったのは二針で、注意書きの紙を渡すときに話したのは五分もない。 ベッドの配送が月曜の午後なので、今夜はリビングに毛布を二枚重ねて寝ることになる。窓を細く開けたままにすると、外の空気のほうが低かった。汐里は明日の予定を声に出して確かめた。ガスの開栓の立ち会いが九時から十一時のあいだで、二時に管理会社の人が鍵をもう一本届けに来る。それだけだった。 電気を消してから、亮が言った。 「ネジ、明日ホームセンターで見てくる」 「メールには順次って書いてあったよ」 「順次は月曜だろ」 「そうは書いてなかった」 「日曜に、ネジ一本で人を動かすとこはない」 「わかった」 起き上がって台所の明かりをつけ、伏せてある皿を数えた。六枚あった。三十四の箱のうち、開けたのは九つだった。 二〇一七年十一月十一日 火曜の夜から左の奥が浮いたような感じがあり、水曜には右側だけで噛むようになっていた。市販の鎮痛剤は木曜の明け方に六錠目で箱が空になり、そのころには痛みが耳の下まで下りてきていた。金曜の昼休みに三軒へ電話をかけた。二軒は再来週しか空いていないと言われ、三軒目だけが土曜の十一時なら入れられると言った。そこにした。歯の医者にかかるのは高校二年の春以来で、保険証はこの二年ほど、財布に入れたまま一度も出していない。 土曜の朝はもともと現場へ寄る日だった。八時半に上連雀の敷地に着いて、外構の天端の高さを職人と二か所で確かめ、擁壁の水抜きの位置を図面に赤で入れてから駅へ戻った。ホームで一本見送った。乗り換えの階段を上がりきったところで顎の下が脈を打ち、そのぶんがそのまま十四分になった。左側では月曜から何も噛んでいない。木曜の昼の蕎麦は、右の奥だけで切って飲み込んだ。味はしなかった。 駅から商店街へ入る手前の信号で止まったとき、ブロック塀の内側にケヤキが一本立っているのが見えた。葉は半分ほど落ちて、残っているものも縁から茶に変わりかけている。側溝に沿って吹き寄せられた葉の上を自転車が通った。乾いた音がした。幹はまわりで九十センチ足らず、直径にすれば三十センチには届かない。いちばん高い枝の先は、塀の向こうに建つマンションの二階のベランダの手すりまで、まだ二メートルばかり足りていなかった。目で測る癖が出た。信号が変わり、渡りきるまでに枯れ葉を三枚踏んだ。 商店街の途中に古い食器屋があった。ガラス戸の向こうは昼でも暗く、天井の蛍光灯は奥のほうの一本だけが点いていない。棚は種類ではなく大きさで分けてあって、手前の段に伏せて積んだ白い皿の縁だけが光っている。値札は一枚ずつ手書きで、数字だけが太く、円の字がどれも同じように右下へ流れている。歩く速さが落ちた。戸には手をかけずに通り過ぎた。 着いたのは十一時十四分だった。遅れた。一階が調剤薬局で、その上の二階と三階を医院が使っている。階段の踊り場に置かれた傘立てには、骨の折れたビニール傘が三本まとめて突っ込んであった。 「梅本さん、初めてですよね。これ、書けるところまでで大丈夫ですから」 渡された問診票のボールペンは、三度押しても芯が出てこなかった。受付の女性は引き出しから別の一本を出し、出しながら鳴りだした電話を取った。待合の椅子は四脚あって、ビニールの張り替えが一脚だけ新しい。座面が冷たい。コートを尻の下に敷こうとして、途中でやめた。年齢の欄に二十七と書き、職業の欄には設計と書いた。既往症とアレルギーには線を引いた。歯の絵に痛むところを丸で囲む欄があって、左下のいちばん奥、親知らずのあたりを囲んだ。妊娠の可能性という項目のところで手が止まり、そこだけ何も書かずに出した。ペンを返した。壁には予防歯科のポスターと、子ども用のシールの台紙が画鋲で留めてあり、ポスターの下の隅だけは画鋲が足りずに紙が反り返っている。有線のピアノが同じ曲を二度流し、二度目の途中でカウンターの奥から滅菌器の終了音が鳴った。 先に呼ばれていた男の子は、終わって出てくるとシールを二枚もらい、廊下で一枚を母親の手に押しつけた。受付では電話が途切れず、来週の火曜は院長が学会でお休みをいただいておりまして、という同じ説明が三度繰り返された。三階のほうで誰かが台車を引く音がして、そのたびに天井の照明のカバーが細く鳴った。まだ呼ばれない。 名前を呼ばれたのは十一時二十六分だった。 診療室は椅子が三台並んでいて、あいだは腰の高さのパーティションで仕切ってある。いちばん奥の一台に通された。商店街に面した窓は下半分に白いフィルムが貼ってあり、外の音は八百屋の声だけが上のほうから入ってきた。パノラマの写真を撮った。戻ると、それはもう画面に出ていた。院長は五十代の半ばくらいで、手が大きく、マスクの内側で言葉の頭が潰れる。画面の中の左下の奥に、根の二本が前へ向いた歯が、手前の歯の付け根を斜めに押しているのが素人にも見て取れた。 「下の左、横向いてますね。頭が半分埋まってる。手前を押してますから、そのうち必ず来ます」 「そのうちというのは」 「もう来てるでしょう。今日抜きますか。抜くなら三十分見ます」 「今日で」 「問診票、設計って書いてありましたね」 「はい」 「うちの二階、南の窓だけ夏に汗をかくんですよ。あれはどこが悪いんですか」 「見てみないと分かりません」 「まあ、そうですよね」 画面はそのままにして、院長は手を洗いに立った。 横についた衛生士は白衣の胸にボールペンを三本挿していて、身をかがめるたびに三本が揃って前へ傾いた。 「梅本さん、今日このあとご予定は」 「夕方に打ち合わせが一件」 「お酒の席じゃないですよね」 「違います」 「じゃあ平気です。院長、いけます」 麻酔は三本打たれた。一本目は歯茎の外側で、二本目で下唇の左半分が消え、三本目の途中から舌の先にまで痺れが回った。効くのを待つあいだ、天井の照明のパネルが四枚あって右の奥の一枚だけ他より白いことと、そのパネルの縁で天井の目地が半コマぶんずれていることを見ていた。目の上に四つ折りのガーゼを載せられてからは、音と手つきだけになった。歯茎を切り、骨を削り、歯を割って二つに分けてから出した。削る音は耳からではなく顎の骨を通って後頭部まで届き、水を吸う管の音がその上に重なった。痛くはない。院長は途中で二度、数字だけを言った。そのたびに器具が替わり、頬に当てられた指の腹の位置もわずかに動いた。衛生士の左手は頬の内側を外へ押し広げたまま動かず、手首の内側が顎の先に触れていた。吸い口に水が溜まって鳴ったときだけその手が一度引かれ、すぐ同じ場所に戻された。こちらの左の手のひらは腹の上で握ったままで、開いたのは終わってからだった。二針縫って、始めから終わりまでで十二分だった。 ガーゼを噛まされて椅子を起こされたとき、壁の時計は十一時三十八分を指していた。 「二十分、ぎゅっと噛んでてください。二十分たったら出して、それでもまだ出るようなら、これが予備です。うがいはしないでくださいね。せっかく固まったのが流れちゃうので。口の中がすごく気持ち悪くなると思うんですけど、そこを我慢できるかどうかで、あとの痛みが全然違うんです」 「何回まで」 「しないでください」 「一回も」 「一回もです」 「分かりました」 「あとストロー、今日は使わないでください。吸うと同じことなので。ごはんは麻酔が切れてからにしてくださいね。切れる前に食べると、唇を噛んでても分からないんです」 「そんなに噛みますか」 「噛みます。血が出てから来る人、月に一人はいます」 紙を一枚渡そうとして身をかがめたとき、胸のポケットから黒い一本がエプロンの上に落ちた。軸にテープが巻いてあり、そこに岸本と印字してある。逆さまのまま読んだ。左手で拾って返すと、受け取ってすぐポケットに戻し、残った二本の頭の高さを指で揃えた。赤いほうにはキャップがなかった。 「痛み止め、麻酔が切れる前に飲んでください。切れてからだと追いつかないので。四時間くらいで切れます。三時ですね」 時計を見ないでそう言ってから、紙の下のほうを二回叩いた。 「腫れるのは明日の夜からで、月曜がいちばん大きくなります。頬から耳の下まで下りてきたら電話してください。番号はいちばん下に書いてあります。土日でも留守電に入れておいてくれれば、院長が聞いてます」 「分かりました」 「あと、ここ何日か右ばっかりで噛んでましたよね。右の上の奥、当たりが強くなってます。左が落ち着いたら戻してください。そのまま右だけで一年って人、けっこういるので」 「そういうものですか」 「わたしも去年やりました。三か月戻らなかったです」 椅子の背が水平から起こされたときに、天井の隅に点検口が二つ並んでいるのが見えた。四角い蓋の一方は枠より一段沈んでいる。揃っていない。 「あれ、二つ要らないですよね」 「え、なんですか」 「いえ」 「気持ち悪くないですか。急に起こしたので」 「平気です」 「歯、持って帰りますか」 「え」 「抜いた歯です。割ったので、二つになっちゃってますけど」 「いいです」 「捨てちゃう人のほうが多いですよ」 ステンレスの受け皿の上で、二つになったものを鑷子の先が転がした。血のついた側を下にした。それから裏返した。根の先の細いほうがわずかに曲がっていて、その先に白くない部分がある。二十七年、一度も外に出ないまま顎の中で横を向いていたものが、受け皿の縁に当たって二度、乾いた音を立てた。持って帰りますかとは、二度は聞かれなかった。 「抜糸は一週間後です。来週の土曜、十一時半なら空いてます」 「土曜は、たぶん」 「土曜しか来られないでしょう」 予約票に書き込む手は止まらず、書き終えてから、返事を待たずに紙を切り離した。今日は受付が一人なので会計に少しかかります、と続けて言い、それから前の患者のカルテを脇に挟み直した。爪は短い。指の腹が消毒で乾いて、第一関節のところが薄く白くなっている。 会計は三千八百四十円で、処方箋は下の薬局に出せばいいと言われた。二年ぶりに出した保険証は、裏の住所の欄が前の住まいのままになっていて、書き直せる行はもう二行しか残っていない。明細の紙は折らずに上着の内側へ入れた。 立ち上がってから言ったが、ガーゼを噛んだままの口だったので、音の半分が外に出なかった。 「さっき、遅れて、すみませんでした」 「え」 「いえ」 「血が止まってからにしましょう、しゃべるのは」 そう言って、次の患者の名前を呼んだ。時計は十一時四十三分だった。
小説 · text · 2026-09-07