一 午前零時七分 田辺澪 採用面接へ来た七人のうち、六人は嘘をついていた。田辺澪は、自分を七人目だと思っていた。海西蓄電の研修施設〈青砥館〉は、湖畔の杉林に建っていた。最寄り駅から会社の送迎車で四十分。途中から携帯電話の圏外になり、零時七分、鉄の門が閉じた。 「終了予定は午前六時です」 採用担当の柴崎が、七人の端末を透明な箱へ集めた。 「守秘情報を扱うため、通信機器はお預かりします。緊急連絡は受付の電話をお使いください」 澪は電源を切った携帯を入れた。求人票には、最終選考は深夜から早朝に行うとあった。製造拠点の夜勤監査を想定した耐性評価。新設される安全倫理監査室の調査員一名。年俸は、現在の一・八倍だった。 一般公募ではない。 人材紹介会社から、澪の職歴を見て指名したと連絡が来た。澪は応募書類に、父の名を書かなかった。田辺正克。十年前、海西蓄電第七码工場火災で死亡。公式死者番号七。父との関係を隠して受ける面接は、志望動機からして嘘だった。玄関ホールに鏡はなかった。壁には、海西蓄電の歴代製品が年代順に並ぶ。家庭用蓄電池、工場制御盤、災害用電源。第七码工場で作っていた円筒形セルだけ、展示が途切れている。 「田辺澪さん」 柴崎が胸札を渡した。 写真も年齢も書かれていない。名前の下に、C4という符号がある。 「この番号は?」 「評価班の識別です」 「全員同じ班ですか」 柴崎は答えず、次の候補者を呼んだ。澪は、受付台の避難経路図を見た。建物は地上三階、地下なし。面接室は二階。非常階段は東西二か所。屋外集合場所は正門前。消火器の製造年、誘導灯の点検票、火災受信機の型式。父が死んでから、建物へ入るたびに確かめる。 「安全監査の人ですか」 横から声をかけた男は、胸札を指で隠していた。 「なぜ」 「最初に出口を見る」 三十代後半。左の顎から耳へ、皮膚の色がわずかに違う。 「設備保全です」と男は言った。「冬木直哉」 「田辺です」 握手をした手にも、古い熱傷痕があった。 澪は見なかったふりをした。 午前零時十二分、壁の時計が一分進んでいることに気づいた。候補者は半円の机へ、胸札の符号順に座らされた。A1、黒瀬隆司。四十八歳。物流会社の拠点長。 B6、白石絵里。三十八歳。産業看護師。C4、田辺澪。三十四歳。労働安全監査員。D2、相原祐生。二十八歳。データ復旧技術者。E7、陳美玲。三十二歳。労働通訳。F3、矢吹壮一。四十三歳。防災設備会社営業。 G5、冬木直哉。三十七歳。設備保全員。符号の数字は席順ではない。年齢でも応募順でもなかった。 正面に、五十嵐操が立った。 海西蓄電コンプライアンス統括。短い髪に銀が混じり、濃灰のスーツは襟まで皺がない。 「本選考は、危機下の事実認定能力を評価します」 壁面スクリーンへ、六時間の工程が表示された。 零時三十分、個別記憶課題。 一時二十分、相互監査。 二時四十分、休憩。 三時、危機対応演習。 四時、最終面接。 五時三十分、結果通知。 「途中辞退は可能ですか」 陳が訊いた。 「いつでも可能です」 「送迎は?」 「午前六時までありません。外で待つことはできます」 辞退できるが、帰れない。 「評価は相対ですか」 相原が訊いた。 「一名だけ採用します」 「相対ですね」 五十嵐は薄く笑った。 「同僚になる可能性がある方々です。敵ではありません」 一名だけなら、六人は同僚にならない。 黒瀬が咳払いをした。 「監査室の権限を確認したい。工場長へ是正命令を出せるのか、勧告だけか」 「採用後に開示します」 「権限のない倫理室なら、広報ですよ」 「その見極めも選考に含みます」 五十嵐の答えは、質問を候補者の評価へ変える。 澪は手元の紙へ時刻を書いた。 〈0:36 権限不開示〉 右隣の相原が覗いた。 「全部メモするんですか」 「仕事なので」 「会社の面接で、会社を監査する」 「そのための採用でしょう」 「本当に?」 相原はスクリーンの隅を指した。工程表のファイル名が、一瞬だけ表示されていた。 〈AOH17_RECON_7〉 再現、七。 画面が切り替わった。 二 午前零時四十八分 所持品 最初の課題は、鞄の中身を机へ出すことだった。 「監査対象者が開示を拒んだ場合、その理由を推測しないための訓練です」 五十嵐は言った。「事実だけを記録してください」候補者は二人一組になり、相手の所持品を一覧へ書く。七人なので、澪だけが柴崎と組んだ。 「なぜ私が社員と?」 「人数の都合です」 無作為なら、くじを引くはずだった。澪は鞄から財布、筆記具、予備眼鏡、常備薬、携帯用煙濃度計、父の火災事故調査報告書の写しを出した。最後の一冊で、柴崎の手が止まった。 「応募時に申告されていましたか」 「家族歴を申告する欄はありません」 「ご遺族ですか」 澪は答えなかった。 事実だけを記録する課題なのに、柴崎は推測を質問へした。向かいでは、陳が冬木の工具袋を調べていた。絶縁手袋、検電器、呼子、薄い金属片。陳の手が、古い社員証ほどの大きさのケースに触れる。 冬木はそれを取り戻した。 「私物です」 「全部出す課題です」 「壊れやすい」 五十嵐が近づいた。 冬木はケースを開いた。 中には、焼けた電子基板が入っていた。端子が溶け、黒い樹脂が泡立っている。 「用途は?」と陳が訊いた。 「古い記録器です」 「どこの」 「仕事で回収したもの」 「会社名は」 「覚えていません」 五十嵐は、基板を見ても表情を変えなかった。 「記録は、用途不明の焼損基板、としてください」 冬木はケースを閉じた。 澪の左では、白石が黒瀬の薬を並べていた。胃薬、降圧剤、睡眠導入剤。 「服用時刻は」と白石が訊く。 「所持品に服用時刻は書いていない」 「容器に、一日一回就寝前とあります」 「今日は寝ていない」 「飲んでいない?」 黒瀬は答えず、一覧へ〈処方薬三種〉とだけ書くよう求めた。矢吹と相原は、一本のUSBメモリで揉めていた。 「空です」と相原は言った。 「見ないで分かるか」 「重さで」 「ふざけるな」 「推測しない訓練でしょう。空と申告した、と書けばいい」 午前一時十二分、一覧が回収された。 五十嵐は全員へ点数を告げた。 黒瀬八点。白石七点。澪四点。相原六点。陳七点。矢吹三点。冬木五点。 採点基準は説明されなかった。 「C4だけ、なぜ社員と組んだんですか」 相原がもう一度訊いた。 五十嵐は答えた。 「田辺さんの所持品は、すでに把握していたからです」 澪は事故調査報告書を鞄へ戻した。この会社は、彼女が誰の娘か知っていた。 七つの封筒が配られた。 それぞれに別の候補者の履歴書、職歴照会、信用調査の抜粋が入っている。右上に、赤字で〈矛盾を一件報告するごとに二点〉とあった。澪の封筒には、黒瀬隆司の資料が入っていた。職歴欄の最初に、海西蓄電第七码工場、製造二課夜勤長とある。退職日は火災の翌年。 父の勤務表で見た名だった。 黒瀬は、澪へ誰の資料が渡ったか気づいた。 「古い会社のことは、履歴書に書いてある」 「訊いていません」 「顔に出ている」 「それは事実の記録ですか、推測ですか」 黒瀬の口が硬くなった。 白石の封筒には、陳の資料。 陳の封筒には、冬木。 冬木には、矢吹。 矢吹には、相原。 相原には、澪。 黒瀬には、白石。 輪になっている。 偶然に二人が互いを調べない配置。情報は一方向へ流れ、元へ戻らない。 「十五分後、監査面談を始めます」 五十嵐が退出すると、扉の電子錠が鳴った。 相原は澪の資料をめくった。 「父親の欄が空白ですね」 「成人後の応募に、親は関係ない」 「会社は関係あると思ってる」 添付された新聞記事に、火災遺族として高校生の澪が写っていた。母の隣で、会社社長の謝罪を見ている。 「報告しますか」 「何を」 「応募時の不開示」 「点が欲しければ」 「怒らないんですか」 「自分より、これを入れた会社を疑う?」 相原は記事を伏せた。 「こういう試験、嫌いじゃないんです。ルールの穴を見つけた人が勝つ」 「穴を作った側が、何を勝ちにするか決めます」 「なら、決めた側を読めばいい」 「その間に、読まれている」 部屋の四隅に、小型カメラがあった。 相原は一台へ手を振った。 「見てるでしょうね」 黒瀬が白石へ訊いた。 「あなたは十年前、湖西中央病院の救急にいた?」 白石は資料から目を上げた。 「職歴にあります」 「四月十七日の夜勤」 「質問は一人ずつです」 「搬送者を見たはずだ」 白石の指が止まる。 陳はその会話を聞いていた。 「誰を見たんですか」 「面接課題でしょう。ここで答える必要はない」 「私にはあります」 陳の日本語は滑らかだった。通訳のときだけ、意図的に速度を落とすのだと経歴書にある。 「兄があの工場にいました」 初めて、七人の会話が止まった。 「死者名簿にはいません」 陳は冬木を見た。「でも、帰ってきていない」冬木の焼けた手が、ケースの上で縮んだ。 三 午前一時四十二分 報告 五十嵐は一人ずつ、隣室へ呼んだ。監査対象の矛盾を報告すれば、点が加算される。報告しなければ、見落としとして減点される可能性がある。誰が何を話したかは、全員の面談後に開示するという。 最初は黒瀬だった。 彼は七分で戻った。 白石を見ずに座る。点数表示の黒瀬の欄が八から十へ変わった。二人目の白石は、十二分かかった。七点のまま。 陳は五分で戻り、七から九点。 冬木は十五分。五点から三点へ下がった。 「何を減点されたんですか」と相原が訊いた。 「協力性」 「話さなかった?」 「あなたに報告する課題ではない」 矢吹は面談室へ入る前に、五十嵐へ訊いた。 「この調査資料、本人の同意を取っていますか」 「応募規約に、適性確認のため必要な調査を行うとあります」 「必要な範囲ですか」 「疑問があれば、法務判断の課題として評価します」 矢吹は三点から一転、五点になって戻った。相原は澪の新聞記事を持って入った。面談室には、五十嵐のほかに赤い金属ケースが置かれていた。手提げ金庫に似ている。蓋に焼け焦げたシールが残っていた。 〈第七码 扉制御〉 相原は視線を戻した。 「田辺さんは火災遺族です」 「応募書類との矛盾は」 「ありません。家族歴を書く欄がない」 「志望動機に、当社との関係を書かなかった」 「関係を書けともない」 「あなたなら報告しない?」 「もう報告しています。矛盾がない、と」 五十嵐は点数端末へ触れた。 「見返りは?」 「何ですか」 「田辺さんを守ることで、あなたが得るもの」 「この選考が、どういう答えに点を出すか分かる」 「分かりましたか」 「会社が持っている情報を、候補者の口で言い直させたい」 五十嵐は初めて、端末から手を離した。 「あなたの専門は、消えたデータの復旧ですね」 「消した人の癖を見る仕事です」 「十年前の機器も?」 「物によります」 赤いケースの中から、微かな駆動音がした。相原は、何も聞かなかった顔で部屋を出た。 点数は六から七になった。 澪が最後に呼ばれた。 面談室の赤いケースを見た瞬間、父の事故調査報告書にある写真を思い出した。焼けた制御盤から回収され、所在不明になった扉記録器。 同じ形だった。 「黒瀬さんの矛盾を」と五十嵐が言った。 「火災当時、第七码工場の夜勤長だった」 「履歴書にあります」 「事故調査委員会の聴取では、当直を離れていたと話しています。勤務表では責任者です」 「報告しますか」 「会社は、私に言わせる前から知っています」 「評価してください。黒瀬さんは監査室にふさわしい?」 澪は赤いケースを見た。 「あなた方は、私たちを採用するつもりがありますか」 五十嵐は答えなかった。 点数表示で、澪の四点が二点になった。相互監査の結果がスクリーンへ出た。黒瀬は、白石が火災夜の搬送記録を訂正したと報告した。 白石は、陳の兄に就労記録がないため確認不能とした。陳は、冬木の職歴に二年間の空白があると報告した。冬木は、矢吹が元消防調査補助員であることを開示しなかったと報告を拒んだ。矢吹は、相原が過去に海西蓄電の委託先からデータ持出しを疑われたと報告した。相原は、澪が火災遺族であることは応募書類と矛盾しないとした。 澪は、黒瀬が事故時の当直責任者だったと報告した。 「開示のない情報は、矛盾ではありません」 白石が言った。「私の記録訂正は、履歴書と何も関係ない」 「なぜ訂正したんですか」と黒瀬が訊く。 「あなたに話す義務はない」 「監査室へ入るならある」 「あなたが採用を決めるんですか」 点数は、互いの言葉を採点へ変えた。 陳は立ち上がった。 「兄の名は陳浩然です。二十二歳でした。派遣会社の通訳として、私は火災の二日前まで工場にいました。兄は保全の仕事をしていた。でも海西蓄電は、入構記録がないと言いました」 「無登録だったんだろう」と黒瀬が言った。 「知っていたんですか」 「当時は外注が多かった。全員の名まで覚えていない」 「顔は?」 陳は財布から写真を出した。 作業服の青年が、コンビニの前で笑っている。首から下げた名札は裏返っていた。 黒瀬は写真を見た。 「知らない」 白石が、椅子から半分立った。 「私は見たかもしれません」 陳が写真を渡す。 白石は青年の顔を長く見た。 「火傷がひどかった。顔では確認できない。でも右の鎖骨に、古い手術痕があった」 「兄にもあります。子どもの頃、自転車で転んで」 「搬送票の名は、川名信吾でした」 冬木が立ち上がった。 椅子が床へ倒れた。 「休憩は二時四十分からです」 天井スピーカーから五十嵐の声がした。 彼女は別室にいる。 「課題を続けてください」 陳は冬木を見た。 冬木の顎の熱傷痕。その手。焼けた記録器。 「川名さんを知っていますか」 冬木は倒れた椅子を戻した。 「知りません」 相原が、点数表示を見ていた。 冬木の三点が、五点へ上がった。 四 午前二時四十分 休憩 休憩室には、人数分の弁当と、一本ずつの水が用意されていた。弁当の蓋に胸札の符号が印刷されている。中身は同じではなかった。黒瀬には減塩食。白石には魚を除いた献立。陳には香菜抜き。澪には、乳製品を使わない弁当。応募時の健康申告に書いた内容だった。冬木の弁当だけ、手を使わず食べやすいよう、おにぎりが小さく握られていた。 「会社は、よく調べていますね」 矢吹が言った。 「安全配慮です」と柴崎が答えた。 「そういう名前をつければ、何でも調べていい?」 柴崎は弁当へ箸を添える手を止めた。彼はこの選考の意味を知らない。 澪には、そう見えた。 「求人はどこで公開したんですか」 「提携紹介会社を通しています」 「何社」 「それは」 「応募者は私たちだけ?」 柴崎は五十嵐のいる方向を見た。相原が、弁当の帯を裏返した。印刷されたQRコードを読み取ろうとするが、携帯は回収されている。 「追跡用ですね。誰がどの弁当を開けたか」 「衛生管理です」 「カメラで見てるのに?」 柴崎は答えなかった。 陳は食べず、冬木の正面に座った。 「兄は川名さんの名札を使っていたんですか」 「知りません」 「白石さんは、兄の身体を見た」 「似た傷の人はいます」 「あなたの火傷は、いつですか」 「設備事故です」 「十年前?」 冬木は水の蓋を開けられなかった。右手の指が十分に曲がらない。 白石が無言で開けた。 「ありがとう」 「川名さん」と白石が言った。 冬木は顔を上げた。 呼ばれた人の速さだった。 陳の椅子が後ろへ鳴った。 黒瀬は立ち上がり、休憩室の扉を試した。 開かなかった。 「休憩中は評価区画から出られません」 柴崎が言った。 「途中辞退はいつでも可能だと言った」 「退出手続をします」 「今開けろ」 柴崎がカードを当てた。 赤い灯が点いた。 「権限が」 彼の顔から、採用担当の表情が消えた。 午前二時四十七分。 面接の工程より十三分早く、建物は七人を閉じ込めていた。 「西階段から退出できます」 五十嵐の声がスピーカーから流れた。 「ただし、辞退者は一名ずつ、所持品を置いて移動してください。ほかの候補者との会話は禁止します」 「玄関を開ければ済む」と黒瀬が言った。 「危機対応課題を開始します。状況は、機密情報の持出しが疑われる内部不正。皆さんの中に、当社所有の記録媒体を持つ方がいます」 視線が冬木の焼損基板へ集まった。 「該当者が媒体を提出すれば、全員の退出制限を解除します。提出者の選考資格は失われません」 冬木は基板ケースを胸元へ引いた。 「これは御社のものではない」 「提出後に確認します」 「確認して違ったら返す?」 五十嵐は答えなかった。 澪は柴崎へ訊いた。 「火災時、電子錠は解錠されますか」 「自動解錠です」 「さっきの扉は、なぜ開かなかった」 「評価区画の制御で」 「消防設備と競合しない?」 「設計上は」 「試験記録を見せてください」 「候補者へは開示できません」 「安全監査室の採用で、安全根拠を秘密にするんですか」 柴崎は首から社員端末を外した。施設管理画面を開く。 東階段、施錠。 西階段、解錠。 正面玄関、施錠。 二階防火戸、待機。 「西から出られます」 矢吹が端末を覗いた。 「図面を」 「何をするんですか」 「表示を信じずに、経路を確認する」 柴崎は避難図を出した。 西階段へ行くには、面接室前の評価ゲートを通る。ゲートは五十嵐の遠隔承認が必要だった。 「一人ずつなら開けると言ってる」と黒瀬が言った。「出たい者から出ればいい」 「所持品を置いて」と陳が言った。 「基板を守るために、ここへ残るのか」 「兄の記録かもしれない」 「まだ、そうと決まってない」 「だから残ります」 相原は天井カメラを見た。 「一人ずつにする理由は、退室時の会話を切るためです。外へ出た人が警察を呼べば終わる」 「圏外だ」と黒瀬。 「固定電話がある。送迎車の運転手も」 「運転手は帰りました」と柴崎が言った。 七人が彼を見た。 「午前六時に戻る予定です」 途中辞退は、林道へ一人で出すという意味だった。澪は西階段までの距離を測った。防火区画二つ、廊下四十三メートル。煙が出れば、候補者を一人ずつ認証する余裕はない。 「私は辞退します」 白石が言った。 「でも一人では出ません。全員を西階段へ通してください」 点数表示で、白石の七点がゼロになった。 「失格です」とスピーカーが告げた。 白石は笑った。 「やっと資格ができた」 五 午前三時十一分 白石絵里 十年前、白石は二十八歳だった。湖西中央病院の救命病棟で、火災の負傷者を受け入れた。煤で黒くなった顔、剥がれる作業服、薬品の臭い。死亡確認は十一人、翌朝一人が亡くなった。搬送票の名と、身体的特徴が合わない男が一人いた。 川名信吾、二十七歳。 会社の健康診断票には、手術歴なし。遺体の右鎖骨には、プレート固定の古い痕があった。歯科記録も照合できなかった。 白石は不一致を記録した。 翌日、会社の労務担当と警察官が来た。工場は外注作業員の出入りが多く、健康票が別人の可能性がある。身元は社員証と家族による所持品確認で確定した、と説明された。 「顔を見せてください」と家族は求めた。 会社は損傷が激しいとして拒んだ。三日後、白石は記録から〈身元不一致疑い〉を削除した。病院の上司に、診療に不要な記載で遺族を混乱させると言われた。 「私は、陳さんのお兄さんを見た可能性があります」 休憩室で白石は言った。 陳は写真を握ったまま、何も答えなかった。 「可能性の話はいい。何を覚えていますか」 澪が訊いた。 「右鎖骨の傷。血液型はO。左足の小指が短かった」 陳が靴を見た。 「兄は、小指を工場で潰しました」 「いつ」 「火災の二か月前。病院へ行けないと言って、自分で巻いていた」 「記録には、古い変形とありました」 陳は写真を机へ置いた。 「どうして消したんですか」 「必要ないと言われたからです」 「誰に」 「上司に」 「あなたは看護師でしょう」 「そうです」 「兄は患者でもなかった?」 「遺体でした」 「だから名前が要らなかったんですか」 白石は否定しなかった。 正しい反論が、何もなかった。 冬木が席を離れた。 「どこへ行くんです」と柴崎が声をかける。 「洗面所」 「単独移動は」 「漏らせという規則なら、評価表に書け」 冬木は廊下へ出た。 陳も追った。 白石は止めなかった。 過去に名前を消した人間が、今度は本人たちの会話へ入るべきではないと思った。その判断も、逃げなのかもしれなかった。陳は、冬木が個室へ入る前に腕をつかんだ。 「川名さん」 冬木は振り払わなかった。 洗面台の鏡に、二人が映る。冬木の火傷は、左耳の裏まで続いていた。 「違うなら、違うと言ってください」 「さっき言った」 「冬木直哉という人は、十一年前までどこにいたんですか」 「個人情報を、会社から渡された?」 「職歴が空白でした」 「空白は、別の名前とは限らない」 「兄の名を知っていますか」 冬木は鏡の自分を見た。 「知っている」 陳の指が強くなる。 「どこで」 「第七码工場」 「兄は、あなたの社員証を使っていましたか」 冬木は答えなかった。 廊下で認証音がした。黒瀬が休憩室を出てきた。 「単独移動は禁止だろう」 「あなたが言うんですか」 陳が振り向く。「無登録の人が工場にいると知っていた」 「夜勤長は、入構手続の担当じゃない」 「働いてる顔は見た」 「何百人もいた」 冬木が言った。 「百八十六人だ。火災の日の夜勤は、外注を入れて百八十六人」 黒瀬の目が冬木へ向く。 「なぜ知ってる」 「保全の引継ぎで人数を確認した」 「冬木という保全員はいなかった」 二人は、初めて互いを正面から見た。 「川名か」 黒瀬が言った。 冬木は鏡へ手を伸ばした。指先が自分の頬に触れる。 「あの夜、いなかった人間を、死んだことにしたのは誰です」 「お前はどこにいた」 「答えてください」 「川名!」 冬木は目を閉じた。 「その名前で呼ばないでくれ」 陳の手が離れた。 「じゃあ、誰なんですか」 冬木は洗面台へ両手をついた。 「今は、冬木直哉です」 「兄に名札を貸した?」 「貸した」 陳は彼の横顔を殴った。 冬木は避けず、鏡へ肩をぶつけた。 ひびは入らなかった。 矢吹は、洗面所から戻った三人を見て事情を理解した。陳の右手が赤い。冬木の唇が切れている。黒瀬だけが青ざめていた。 「救急箱は」と白石が柴崎へ訊いた。 「受付です」 「開けて」 柴崎が五十嵐へ通話を入れたが、応答しない。白石は自分の鞄から消毒綿を出した。 「殴ったのは私です」と陳が言った。 「警察へ話してください」と冬木。 「呼べるなら」 矢吹は室内の感知器を見上げた。光電式煙感知器。スプリンクラーは予作動式。天井の吹出口に、小型の演出装置が取り付けられている。危機対応演習のための無害な煙を出す装置だろう。 「三時の課題は、まだ始まっていないんですか」 彼は柴崎へ訊いた。 「開始しています」 「何が演習で、何が本当か、参加者へ区別させない設計?」 「危機は予告されません」 「訓練は予告します。避難訓練であることを隠しても、煙の成分と中止条件は知らせる」 矢吹は胸札を外した。 「私は失格でいい。消防へ連絡してください」 「火災はありません」 「閉じ込められている」 「西階段から退出できます」 「一人ずつ、所持品を置けば」 柴崎は何も言わなかった。 矢吹は十年前の火災調査で、避難扉の電気錠が六分以上開かなかったことを記録した。 初期報告書には書いた。 正式報告では、その段落が消えた。会社が提出した制御記録は、火災信号から二秒後に全扉解錠となっていた。矢吹の現場写真には、非常扉の前へ人が重なって倒れた跡があった。 彼は上司へ異議を出した。 「設備会社の保守不良にされたいのか」と言われ、署名した。 その後、消防を辞めた。 防災設備を売る仕事なら、少なくとも開く扉を増やせると思った。 「この建物の電子錠は、第七码工場と同じメーカーです」 矢吹は言った。 黒瀬が顔を上げる。 「型は違う」 「制御思想は同じです。火災信号と盗難信号が同時に入ったとき、どちらを優先するか」 「今は法規が変わった」 「本当に?」 矢吹は西階段側の扉へ行き、電気錠の上を見た。非常解錠用の緑色カバーがある。 カバーを開ける。 中に、押しボタンがなかった。 代わりに細いケーブルが奥へ伸びている。 「遠隔試験用に外した」と柴崎が言った。 「いつ戻す予定です」 「選考後です」 「人がいる間に、避難装置を外した」 柴崎は唇を噛んだ。 彼が知らなかったことが、また一つ増えた。 六 午前三時三十八分 点数 スクリーンの点数が動いた。 黒瀬十二。相原九。陳十一。澪四。冬木ゼロ。矢吹ゼロ。白石ゼロ。 「何をしたら上がるんですか」 陳が天井へ訊いた。 〈他候補者の重要な虚偽を特定〉 文字で答えが出た。 黒瀬は冬木の身元を当てたため二点。陳は職員証貸与を引き出したため二点。相原は、課題設計の意図を一部特定して三点。 「人を殴っても加点される」と白石が言った。 〈評価は行為ではなく情報に対して行う〉 「監査室の倫理基準が、よく分かりました」 〈白石候補 選考資格停止〉 「もうゼロです」 〈施設内規則違反を記録〉 白石は胸札を机へ置いた。 澪は点数表の数字と、胸札の数字を比べた。A1、B6、C4、D2、E7、F3、G5。一から七が一度ずつ使われている。 「胸札の数字は評価順位ではない」 相原が言った。「封筒の順番でもない」 「何の数字ですか」 「死者番号」と澪は答えた。 自分はC4。しかし父は死者番号七だった。陳がE7。兄は公式名簿にいない。 一致しない。 「その人が関係する、会社側の記録番号かもしれない」と相原。 黒瀬の一は、最初の社内聴取対象者。相原の二は、二番目にデータへアクセスした外部業者。 矢吹の三は、初期報告書三版。 澪の四は、遺族説明会四列目。 冬木の五は、所在不明資料第五号。白石の六は、搬送記録訂正第六票。陳の七は、未確認入構者照会七番。 「私たちは候補者じゃない」 澪は言った。「会社の未解決項目です」 相原が手を叩いた。 「正解なら、何点でしょう」 点数表示が消えた。 黒い画面に、時刻だけが出た。 03:43:09 最終面接まで、十七分なかった。火災の夜、黒瀬は扉を開けなかった。正確には、六分十四秒、開ける命令を出さなかった。午前四時十七分、火災警報と同時に、製品倉庫で持出し警報が鳴った。二つが同時なら、従業員が混乱に乗じて高価な試作セルを盗んでいる可能性がある。前年の内部監査で、そういう想定が作られていた。 黒瀬は中央制御室にいた。 防火扉は自動で閉まり、避難扉の電気錠は盗難封鎖へ移った。現場から、開けろという内線が来た。 黒瀬は工場長へ電話した。 工場長は、在庫カメラを確認してから解除しろと言った。 煙で映像は見えなかった。 もう一度電話した。 つながらなかった。 自分で解除できた。 赤い鍵を回し、長押しすればよかった。しかし一度目は、二秒しか押さなかった。命令なしで解除した記録を残すのが怖かった。二度目に押し続けたとき、東扉は熱で歪んでいた。 三人が扉の内側で亡くなった。 「盗難信号が先でした」 事故聴取で黒瀬は話した。 制御記録も、盗難信号が火災より二秒先に入った形へ変えられた。 実際は、火災が先だった。 五十嵐から、家族の生活を守るためだと言われた。会社が刑事責任を問われれば工場は閉鎖され、残った百七十四人も職を失う。幼い息子の治療費を会社の保険で払っていた黒瀬は、正式報告書へ署名した。 「冬木。お前が記録器を持っているなら、出せ」 黒瀬は言った。 「会社へ?」 「警察へだ」 「十年前、警察は会社の記録を信じた」 「今度は違う」 「何が」 「俺が話す」 「十年、話さなかった人が?」 黒瀬は冬木の襟をつかみかけ、手を止めた。 「お前は生きていた。何をしてた」 「逃げていた」 「俺と同じだ」 「同じにして、軽くするな」 黒瀬は手を下ろした。 その言葉を言う資格が、自分にも冬木にもないと思った。 七 午前四時 死亡した社員 時刻が四時になると、面接室の照明が白く変わった。扉が開き、五十嵐操が入ってきた。赤いケースを両手で持っている。柴崎の顔を見ると、非常解錠ボタンの件など知らないように微笑んだ。 「最終面接を始めます」 「先に退出制限を解除してください」と澪が言った。 「西階段は使えます」 「全員一緒には使えない」 「安全上の問題はありません」 「根拠を」 「あなたは候補者です」 「あなた方が監査対象です」 五十嵐は赤いケースを机の中央へ置いた。 「その姿勢を評価します」 「評価を受けるつもりはない」 「それでも、最後の質問は聞いてください」 五十嵐は七人を順に見た。 「この中に、十年前の第七码工場火災で死亡した当社社員が一人います」 誰も驚かなかった。 冬木の身元は、もう四十分前に明らかになっている。五十嵐は、予定した反応が起きないことに気づいた。 「川名信吾さん」 陳が言った。「兄が、あなたの名で死んだ」 冬木は胸札を外した。 「はい」 「本名を答えてください」と五十嵐。 「今の法的な名は冬木直哉です。旧名は川名信吾」 「当社の社員だった?」 「保全二課。社員番号K七二〇一」 「火災当日、工場にいた?」 「いません」 「職員証を誰に渡した?」 冬木は陳を見た。 「陳浩然さんです」 陳は目を逸らさなかった。 「なぜ」 「夜勤の保全人数が足りなかった。外注会社は、在留資格の更新中だった浩然さんを名簿へ載せられないと言った。会社は人を出せと要求した。俺が休みたかった。妻が出産した夜だった」 「会社の指示で貸した?」 「直属の主任は知っていました。貸せとは言われていない」 「あなた自身の判断」 「はい」 陳が拳を握る。 冬木は続けた。 「火災の朝、病院へ行った。でも会社の人間がいて、川名は死亡した、家族も確認したと言っていた。名乗れなかった」 「妻は?」 「俺が死んだことを受け入れた。補償金を受け取った。半年後、俺が連絡したとき、戻れば詐欺になる、子どもから父親を二度奪うなと言われた」 「だから名前を変えた」 「妻とは離婚した。冬木は母の旧姓です」 五十嵐は、必要な回答を得た面接官の顔に戻った。 「記録器をどこで入手しましたか」 「避難した保全員から預かった」 「当社の所有物です」 「人が十二人死んだ記録です」 「解析できた?」 冬木は答えなかった。 五十嵐は候補者から目を外し、天井カメラを見た。見ている相手は、別の場所にいる。午前四時十六分、赤いケースのランプが点いた。 「次の課題へ進みます」と五十嵐は言った。 最初の煙は、天井の吹出口から出た。 白く、臭いがない。 矢吹が腕時計を見た。 「演出煙です。吸っても直ちに害はない。低い姿勢を」 照明が消え、赤い誘導灯だけが残る。 スピーカーから警報音。 〈火災を想定した危機対応課題です。機密媒体を確保し、西階段から退避してください〉 机中央の赤いケースを、黒瀬が取った。 「置け」と冬木が言った。 「持って逃げろという課題だ」 「中身は偽物です」 五十嵐が面接室を出た。 澪は追った。 「あなたはどこへ」 「監視室で評価します」 「一緒に避難してください」 「これは訓練です」 午前四時十七分三十二秒。 建物の奥で、金属が弾けた。 演出煙とは違う臭いが届く。甘い溶剤臭と、焦げた電線。 澪の携帯煙濃度計が鳴った。 「本物です」 二階東側の実習室から、黒い煙が天井を這ってきた。 柴崎が社員端末を開く。 東階段、施錠。 西階段、施錠。 正面玄関、施錠。 二階防火戸、閉鎖。 画面の上部に、赤い文字が出ていた。 〈資産保全モード〉 十年前と同じ名前だった。 「西へ走れ」 黒瀬が叫んだ。 「施錠です」と澪。 「現場ボックスで解除できる」 彼は赤いケースを抱えたまま先に立った。煙は東実習室から廊下へ流れている。防火戸が閉じ始めたが、床との間に演出装置の電源ケーブルが挟まり、三十センチの隙間が残った。 「柴崎さん、演出煙を止めて」 澪は濃度計を見た。粒子濃度が上がっている。本物と演出が混ざり、目だけでは煙層を判断できない。 柴崎が端末を操作する。 〈権限がありません〉 「誰に権限がある」 「五十嵐部長と、遠隔監督者」 「遠隔監督者は誰」 「聞かされていません」 矢吹が壁の屋内消火栓を開けた。ホースと起動ボタンのほかに、赤い手動解除鍵がある。 「黒瀬さん、これですか」 「違う。防火盤は西階段前だ」 「この鍵で扉を開けられない?」 「系統が別だ」 黒瀬の答えが速い。 十年前、何を押さなかったかを身体が覚えている。西へ向かう途中、陳が立ち止まった。 「五十嵐さんは?」 監視室へ行ったきり戻らない。 「本人が訓練だと言った」と黒瀬。 「今は本当の火災です」 「先に出口を開ける」 「置いていくんですか」 冬木が陳の肩を押した。 「出口を作ってから戻る」 「あなたは十年前も、そう言って逃げた?」 冬木は答えず、進んだ。 廊下中央の防火戸まで来ると、向こう側で炎の反射が見えた。実習室の扉の下から、濃い黒煙が吹き出している。電池の熱暴走なら、水だけでは止まらない。隣接セルへ熱が移れば、短時間で拡大する。 「実習室に何があるんです」と澪。 柴崎は咳をしながら答えた。 「旧製品の安全教育用モジュール。通電しない展示だと」 「今、何かが破裂した」 「演習では、ヒーターで発煙材を温めるだけです」 相原が柴崎の端末を奪った。 「ネットワーク接続を見ます」 「社員情報が」 「燃えたあとで守ってください」 西階段前に着く。 扉上の電気錠は赤。手動解除ボックスには、透明なカバーと鍵穴があった。 鍵がない。 「五十嵐が持ってる」と黒瀬が言った。 「壊せますか」 「電源線を切れば、機種による」 冬木が工具袋を開けた。 「この型は停電時施錠です。切ったら開かない」 「非常時に?」 「機密区画用。消防同意の条件は、手動ボタンを常設すること」 そのボタンは外されていた。 矢吹が防火斧を取り出した。 「扉を破る」 「強化芯がある。蝶番側だ」 冬木と黒瀬が同時に言った。 二人は互いを見ず、斧を受け取った。斧の音が三度響いたとき、館内放送が切れた。 警報音だけが残る。 白石は濡らした布を全員へ配った。弁当の保冷用に置かれた水を使う。演出煙は低刺激でも、実火災のガスは布で防げない。 「口を覆うのは気休めです。姿勢を下げて、会話を減らして」 彼女は人数を数えた。 一、二、三、四、五、六。 「五十嵐さんを探します」 「一人で行かないで」と澪。 「あなたは出口を」 「二人で」 陳が白石と並んだ。 三人は来た廊下を戻った。 面接室の前を過ぎ、監視室の扉へ行く。床に、五十嵐のカードが落ちていた。 監視室は無人だった。 十六台の画面に、面接室、廊下、休憩室、洗面所が映っている。洗面所の鏡の前で陳が冬木を殴る場面が、一台だけ停止されていた。 机に七冊の評価表。 澪は自分の冊子を開いた。 〈C4 遺族。父の事故原因へ固着。合理性高、共感性を利用可能〉 応募前に書かれた評価だった。 「採用試験じゃない」 白石がほかの冊子をめくる。 〈B6 身元記録の不一致を再供述させる〉 〈E7 未登録死者の情報源。感情的対立によりG5の自認を誘発〉 人を採るためではなく、言葉を取り出すための設計。陳は冊子を写真に撮ろうとし、携帯がないことに気づいた。 「紙を持っていきます」 「全部は重い。必要な頁を」 澪は綴じ具を外した。 机の下から、靴が見えた。 五十嵐が倒れている。 額に血。右手に、手動解除鍵。呼吸はある。 白石が膝をついた。 「五十嵐さん、聞こえますか」 反応はない。瞳孔は左右同大。頭部の傷は浅いが、床に血が広がっている。 「転んだ傷じゃない」 机の角に血はない。 監視室のドアストッパーに、髪と血が付いていた。 誰かが五十嵐の頭を打った。 赤いケースは、黒瀬が持っている。けれど監視映像では、五十嵐が部屋へ入ったあと、廊下側のカメラが一分間だけ消えていた。 「誰か戻ってきた?」と陳。 「六人は西にいました」 「柴崎さんは?」 「一緒だった」 「じゃあ、外の人」 澪は机上の通話装置を見た。 接続先に〈統括観察室〉とある。この建物には、図面にない部屋があった。 八 午前四時二十四分 相原祐生 相原は、柴崎の端末を保守モードへ切り替えた。社員権限では開けない画面も、再起動中の診断ログには現れる。 〈04:16:54 遠隔構成配信〉 〈04:17:20 充電試験開始 対象B-OLD-07〉 〈04:17:32 温度上限解除〉 〈04:17:32 資産保全モード〉 「演習じゃない」 「何が」と柴崎。 「誰かが旧型電池へ充電命令を送った。温度制限を外してる」 「展示品です」 「配線されていた」 送信元は館内ネットワーク。端末識別はWM01。 「WMは?」 柴崎の顔色が変わった。 「鷲尾正臣。財務担当役員の管理番号です」 「財務が安全訓練を監督する?」 「この採用の役員責任者です」 相原は診断ログを外部へ送ろうとした。館内回線は閉じている。携帯も受付の箱。固定電話はIP回線で、同じ遮断下にある。 「非常通報は別回線でしょう」 矢吹が斧を振りながら言った。 「火災受信機から消防へ自動通報する」 柴崎が端末で確認する。 〈訓練モード 外部通報停止〉 「止めたのは?」 〈00:02:11 管理者MI〉 五十嵐操。 演出を本物と誤認して消防が来ないよう、彼女が止めた。本物の火災を起こしたのは鷲尾。 「証拠を消すためだ」と相原は言った。 「電池を燃やして、何を」 「サーバー。実習室の隣が機械室です」 面接の全映像と評価記録が、館内サーバーにある。火災が機械室へ移れば、違法な選考の痕跡は消える。赤いケースの記録器も、火の中へ戻せる。 「私たちごと?」 柴崎が訊いた。 「あの人は、西階段が開いてると思ってるかもしれない」 「画面を見ているはずです」 「なら、資産保全を解除する」 相原はWM01へ管理要求を送った。 拒否。 再送。 拒否。 三度目、短いメッセージが返った。 〈記録媒体を東実習室へ戻せ。西階段を解錠する〉 相原は笑った。 「応募者七人を、一個の箱と交換するそうです」 「返せ」と黒瀬が言った。 「箱の中身を見てからです」 黒瀬は赤いケースの留め金へ手をかけた。赤いケースの中には、焼けた記録器が入っていた。冬木のケースにある基板より大きく、金属筐体の半分が溶けている。第七码工場の扉制御記録器と製造番号が一致した。 「本物です」と柴崎。 「外側は」と冬木が言った。 彼は記録器を持ち上げ、裏面の螺子を見た。 「これは火災後に作られた複製です。螺子の規格が新しい」 「五十嵐が用意した?」 「俺に見せて、反応を取るためでしょう」 黒瀬がケースを閉じた。 「偽物なら、渡せばいい」 「本当に開けると思う?」と陳。 「少なくとも交渉できる」 「十年前も、命令を待ったんでしょう」 黒瀬は赤い取っ手を握った。 「扉の向こうに、人がいるのを知らなかった」 「今は見えてます」 矢吹が斧を置いた。 蝶番の周囲は凹んだが、扉は開かない。煙が濃くなり、誘導灯の輪郭が霞んでいる。 「選択肢を分けましょう」と澪が言った。「ケースを渡すことと、扉を破ることは同時にできる。どちらか一つにする必要はない」 「ケースを誰が持っていく」 「私が東へ行く」と黒瀬。 「一人で戻れば、倒れた五十嵐さんを運べない」 「彼女は自分で始めた」 白石と陳が、簡易担架に五十嵐を乗せて戻ってきた。 「始めた人間でも、患者です」 白石は言った。 「頭を打たれてる。誰が?」 全員が互いを見る。 澪、相原、陳、白石は一緒に監視室へ行った。黒瀬、冬木、矢吹、柴崎は西階段前にいた。その前は、煙が出た直後の混乱で、位置を確認していない。 「演技かもしれない」と相原が言った。 白石が五十嵐の血圧を測る。 「傷は本物です」 「自分でやった可能性は」 「あります」 五十嵐のまぶたが動いた。 「ケースを」 唇がそう作った。 「鍵を借ります」と澪。 五十嵐の手から、手動解除鍵を取る。 彼女は握り返さなかった。 「西を開けます」 「だめ」 声はかすれていた。 「何がだめです」 「記録が、先」 白石が五十嵐の肩を担架へ固定した。 「患者の発言として記録します。従いません」 手動解除鍵は、鍵穴へ入らなかった。 形が違う。 「東側の鍵です」と柴崎が言った。 西側の解除鍵は、統括観察室に保管されている。避難設備の鍵を、避難経路の外へ置く。 澪は笑いそうになった。 事故調査で何度も見る設計だった。鍵は管理されている。手続もある。紙の上では安全で、火災の中に人間だけがいない。 「観察室はどこです」 柴崎が図面を拡大した。 一階北側の倉庫裏に、壁厚の不自然な空間がある。入口は東実習室の脇。 火元に近い。 「行けません」と矢吹。 「東階段の鍵なら、別の出口を開けられる」 「東は実習室の向こうです」 冬木が鍵を取った。 「保守用の天井経路があります」 青砥館で働いたことはないはずなのに、彼は天井点検口の位置を見つけた。 「同じ会社の建物です。配線の通し方が同じ」 「俺も行く」と黒瀬。 「残って扉を壊してください」 「一人では」 「相原さんを」 相原は端末から目を上げた。 「力仕事の評価は低いですよ」 「採用はない」 「それならやります」 冬木は点検口を開け、折り畳み梯子を伸ばした。右手が曲がらず、一段目で身体が傾く。 陳が梯子を支えた。 「一緒に行きます」 「煙の中です」 「兄が通った工場も、そうだった」 「だから、行かせられない」 「あなたが決めないで」 陳は冬木より先に上がった。 天井裏は、ケーブルラックと空調ダクトの間に人一人が這える幅しかない。東へ十二メートルで分岐し、階段上の点検口へ出る。冬木は焼けた基板ケースを澪へ渡した。 「これを預かってください」 「本物ですか」 「記録器の端子板だけ。本体はありません」 「データは」 冬木は相原を見た。 「もう渡してあります」 相原の顔から、軽い笑みが消えた。 「いつ」 「応募したとき」 冬木の応募資料には、設備音の解析サンプルが添付されていた。ポンプ、ファン、軸受。正常音と異常音を聞き分け、故障箇所を推定する実績集。相原は事前課題として、候補者共有フォルダで全員分を見ていた。 「最後の音声、ほとんど無音だった」 「人間の耳には」と冬木。 「高周波へ入れた?」 「扉記録器のデータを、保全員から受け取った。専用端末がなくても残せるよう、音声へ変換した」 「会社の解析で見つかります」 「一部ずつ、七つの応募ファイルへ分けた」 相原は意味を理解した。 候補者共有フォルダにあった七人分の課題ファイル。その末尾に、同じ微かなノイズが入っていた。会社は全員へ配った。証拠を、回収したい相手自身が複製した。 「でも館内サーバーだけなら、今燃やされる」 「午前四時に、外部へ送る予約をした」 「通信が切られてる」 「だから、まだ送れていない」 「送信先は?」 「新聞社三社、労働局、遺族会、陳さんが相談した弁護士」 陳が天井裏から顔を出した。 「私の?」 「あなたの応募書類に、法律事務所から照会を受けたとあった」 「勝手に」 「すみません」 「謝る相手が多すぎます」 「分かっています」 陳は顔を引っ込めた。 相原は柴崎の端末で、共有フォルダの送信待機列を探した。確かに、暗号化された七つのファイルが保留されている。 「外部回線につなげれば送れる」 「非常通報回線」と矢吹。 「電話とは信号方式が違う。変換器が必要です」 「監視室の回線終端装置は?」 「館内網から切られてる」 柴崎が言った。 「正門の守衛所に、災害用衛星端末があります」 「西階段を開ければ届く」 黒瀬が斧を振り上げた。 遠隔端末から、またメッセージが来た。 〈04:35までに媒体返却なき場合、全記録を消去する〉 残り三分。 相原は返信欄へ打った。 〈採用条件を確認したい〉 「何してるんです」と柴崎。 「面接を続けてる」 返事が来た。 〈媒体回収への協力者一名を安全倫理監査室に採用する〉 相原は七人へ画面を見せた。 「やっと、本当の採用条件が出ました」 一名を採る。 最初から求人票に書かれていた言葉だった。会社は最後まで、その規則を変えない。 「誰か一人がケースを持って東へ行けば、西を開ける」と黒瀬が言った。 「協力者だけを?」と白石。 「全員と書いてない」 「誰が行くんですか」 黒瀬は答えなかった。 澪は評価表から一枚ずつ、七人の頁を抜いた。 「これをケースへ入れます」 「何のために」 「会社が欲しいものを、会社のしたことと一緒にする」 「燃やされたら両方なくなる」 「本物のデータはサーバーにある」 「それも消される」 相原が端末を操作した。 「消去命令は止められます。サーバーの時計を遅らせる」 「何分」 「ばれなければ十分」 澪はケースを閉じ、五十嵐の東側解除鍵を取っ手へ結んだ。 「空調ダクトから、これを観察室まで運ぶ。鍵で東階段を開け、ケースを置く。でも一人は残らない」 「遠隔カメラに見られる」と柴崎。 「煙で見えません」 「東は危険です」 「だから二人で行く」 天井裏の陳が、赤いケースを引き上げた。 冬木が後を追う。 黒瀬は何も言わなかった。 午前四時三十五分、サーバー消去の表示が始まった。 進行率、一パーセント。 相原が時刻同期を切り、内部時計を午前三時三十五分へ戻す。 進行率が止まった。 「十分ですか」と澪。 「鷲尾さんが数字だけ見る人なら」 黒瀬が斧を打ち込む。 蝶番の上側が外れた。 扉はまだ開かない。 その向こうに、夜明け前の冷たい空気がある。十年前、黒瀬が開けなかった扉の向こう側だった。陳は赤いケースを胸の下へ押し、肘で進んだ。ダクトの表面が熱い。煙はまだ入ってこないが、東へ行くほど金属が軋む音が大きくなる。 後ろから冬木の呼吸が聞こえた。 「右へ分岐します」 「なぜ分かるんです」 「非常灯の配線が、階段へ向かうから」 「兄にも教えたんですか」 返事は遅れた。 「保全の基本は教えました」 「名札だけじゃなく」 「二週間、一緒に働いた」 陳は進むのを止めた。 「兄は、どんな仕事をしていました」 十年間、会社へ訊いても答えられなかった質問だった。 「充電盤の清掃と、排気ファンの軸受交換。手が速かった。分からないふりをして、危ない仕事を避けるのも上手かった」 「兄らしいです」 「最後の日は、俺の代わりに局所排気の点検をする予定だった」 「あなたが行っていれば」 「俺が死んだかもしれない」 陳は、兄が生きた別の未来を期待してその言葉を投げた。 冬木は、受け取らなかった。 「浩然さんが助かったとは言えません。俺が名札を貸さなければ、別の無登録の人が入ったかもしれない。人が足りないまま動かした会社がある」 「あなたに責任がないと言いたい?」 「あります。だから、会社だけに渡さない」 天井裏の先に、赤い光が見えた。 陳は点検口を押し上げた。 東階段前の小部屋。観察室ではない。非常用の設備庫だった。煙は足首ほどの高さに流れ込んでいる。 壁に東階段の解除箱がある。 陳はケースの取っ手に結ばれた鍵を使った。 今度は入った。 回す。 緑の灯が点く。 扉の錠が外れた。 外気が隙間から吹き込み、煙を押し返した。 「開きました」 陳は館内電話の受話器を上げた。内線しかつながらない。 「西へ伝える方法は」 冬木が非常放送盤を開く。 「一斉放送」 マイクへ息を吹き、電源を確かめた。 「東階段、開きました。全員、東へ」 同じ声が、煙の建物へ響いた。 さっきまでの川名信吾が消え、冬木直哉の声に変わっていた。五十嵐は、担架の上で目を開けた。 「東階段が開きました」と白石が言った。「歩けますか」 「ケースは」 「陳さんと冬木さんが持っていった」 五十嵐は起きようとした。 「横になって」 「止めないと」 「何を」 五十嵐は額の血へ触れた。指についた赤を見て、目を閉じる。 「傷は自分でつけましたね」 白石はドアストッパーに残った血の位置を思い出した。立ってぶつかった高さではない。床に置き、膝をつけば、自分で額を打てる。 「候補者が、無人になった監視室で何をするかを見るため?」 「緊急時の行動評価です」 「本当の血を使った」 「軽い傷です」 「自分の傷は、自分で決められる。でも私たちに治療させた。火の中で運ばせた」 「実火災は予定外でした」 「誰が起こした」 「分かりません」 相原が社員端末を見せた。 「鷲尾正臣の識別で、温度上限を解除した」 五十嵐の顔が固まった。 「外部から、その操作はできない」 「館内にいる?」 「統括観察室です」 「入口はどこ」 五十嵐は答えなかった。 「あなたを見捨てた人を、まだ守るんですか」 澪が訊いた。 「私は守っていません」 「なら話して」 「機械室の南壁。書棚の裏に扉があります」 「火元の隣です」 「耐火区画です」 「鷲尾さんだけ、安全な部屋にいる」 五十嵐は否定しなかった。 東階段開放の放送が流れた。 相原が、西扉の破壊を続ける黒瀬を止める。 「東へ行けます」 黒瀬は斧を下ろさなかった。 「五十嵐を運ぶには、西が近い」 「あと蝶番一つです」 煙濃度計の警報が速くなる。 澪は計算した。西扉を開ける時間。東へ戻る時間。火の拡大。五十嵐の意識状態。安全監査は、数字で人を切り分ける仕事だ。許容できる損失、救助者の危険、避難完了時間。 「全員、東へ」と澪は言った。「西は捨てます」 黒瀬だけが動かなかった。 黒瀬の端末へ、鷲尾から直接通話が入った。柴崎の社員端末を通じ、スピーカーに男の声が出る。 「黒瀬君。ケースを実習室前へ戻したまえ」 十年前と同じ声だった。 工場長ではない。当時経営企画部長だった鷲尾は、中央制御室の内線へ出て、在庫カメラを確認するよう命じた。 「あなたが、封鎖を続けろと言った」 黒瀬は斧を持ったまま言った。 「緊急時の事実関係を、今議論する必要はない」 「カメラを見てから解除しろと」 「現場責任者は君だった。解除権限も君にあった」 「命令したことは認めない?」 「通信は記録されている。感情的な発言は控えたまえ」 相原が小さく頷いた。 通話は館内サーバーへ残る。 「西扉を開けろ」と黒瀬。 「媒体の返却が先だ」 「今度も資産が先ですか」 「候補者は東から退出できる。危険はない」 「五十嵐さんが負傷しています」 「本人の計画だ」 五十嵐が担架の上で目を開けた。 「鷲尾さん、電池へ過負荷命令を出しましたか」 「演習データの削除処理だ」 「温度上限を解除した」 「機器設定は君の責任だ」 火が機械室側の壁へ回った。天井から何かが落ちる音がした。 「ケースを戻せば、君たちへの法的措置は取らない」 黒瀬は笑った。 「十年前も、残った百七十四人の雇用を守ると言いましたね」 「事実だ」 「俺の息子の治療費も」 「会社が支援した」 「それで、俺が決めたことにした」 「君が決めたんだ」 「はい」 黒瀬は斧を床へ置いた。 「だから今度は、俺が決めます」 彼は東へ向かって歩き始めた。 西扉を開けないことではない。 会社の命令を待たず、開いている出口へ全員で行くことを選んだ。 九 午前四時四十四分 人数 煙の中では、名前より人数が役に立つ。 白石は先頭から声を出させた。 「田辺」 「相原」 「矢吹」 「柴崎」 「黒瀬」 担架に五十嵐。 東には陳と冬木。 九人。 面接へ来た七人と、会社側二人。防火戸の隙間は、黒煙で塞がっていた。実習室の前を横切らなければ東階段へ行けない。矢吹が消火栓のホースを伸ばした。 「水を膜にして、通路を冷やします。電池本体へはかけない。田辺さん、濃度を」 澪は床上三十センチで測った。視界は五メートル。まだ一酸化炭素の即時危険域ではない。 「二分以内」 白石が五十嵐へ酸素マスクを当てる。備品庫から持ち出した救急用の小型ボンベだった。 「歩けます」と五十嵐。 「演技をやめてください。頭を打っています」 「自分で」 「原因の話はあと。今は症状を見ます」 黒瀬と柴崎が担架を持った。 相原は端末を服の中へ入れ、濡らさないようにする。 「サーバー時刻は?」と澪。 「あと七分は騙せます」 「逃げるのに必要ない」 「証拠には必要です」 矢吹が放水した。 防火戸を潜る。 熱が頬を打った。 実習室の強化窓が赤く光り、内側で円筒形セルが一本ずつ破裂している。展示台の配線から機械室へ火が走っていた。柴崎が足を滑らせ、担架が傾く。黒瀬が一人で重さを受けた。降圧剤を飲んでいない顔が紫色になる。 「替わる」と澪。 「前を見ろ」 彼は担架を離さなかった。 東階段扉の前で、陳が呼んでいる。 「こっちです」 冬木は戻ってきて、担架の先を持った。 九人が扉を越えた。 白石がまた数える。 一、二、三、四、五、六、七、八。 「相原さんは?」 誰も答えなかった。 相原は機械室へ向かっていた。 東階段から外へ出れば助かる。端末にある診断ログも持ち出せる。だが七つの応募ファイルは館内サーバーにある。外部送信待機のまま、火が壁の向こうへ来ている。守衛所の衛星端末へ持っていくには、サーバーから複製しなければならない。相原は監視室で見た回線図を思い出した。機械室の南、統括観察室。そこには外部役員用の独立回線がある。 鷲尾が通信できるなら、外へつながっている。相原は煙を避け、床を這った。濡れたハンカチが鼻へ張りつく。意味が薄いと白石に言われたが、外す勇気がなかった。 南壁の書棚を押す。 動かない。 床を見ると、下端に新しい擦り跡がある。右側を引くと、棚ごと扉が開いた。 中は冷房された小部屋だった。 机、三台の画面、飲みかけの珈琲。 鷲尾はいない。 裏口が開き、外へ続く短い通路がある。役員だけは、最初から直接逃げられる設計だった。画面には、候補者の点数と生体反応が残っている。 〈恐怖下協調性〉 〈告発転換閾値〉 〈秘密保持優先度〉 人間を、会社へ従う順に並べる指標。 一位は黒瀬だった。 二位が相原。 「外れましたね」 相原は誰もいない椅子へ言った。管理端末へ柴崎の端末をつなぐ。独立回線は生きている。 七ファイルを選択。 送信。 画面に、鷲尾から警告が出た。 〈権限外操作。直ちに停止せよ〉 相原は停止しなかった。 進行率、十二パーセント。 扉の外で、冬木が名を呼んだ。 「相原!」 三十一パーセント。 煙が観察室へ入る。 五十八パーセント。 冬木が腕をつかんだ。 「出ます」 「あと少し」 「死んだら、誰が説明する」 八十四パーセント。 画面が一度暗くなった。 九十七。 完了表示を見る前に、冬木がケーブルを抜いた。 相原を引きずり、裏口へ出る。 冷たい雨が二人へ落ちた。 「三パーセント足りない」 「七つに分かれてる。最後のファイルは途中かもしれない」 「どれです」 相原は咳をしながら笑った。 「あなたのです」 東階段前の集合場所で、白石は六人と五十嵐を数えた。 相原と冬木が見えない。 黒瀬が戻ろうとした。 「待って」と澪。 戻れば救助者が増える。けれど、待つ時間にも上限がある。 二十秒。 三十秒。 東階段の二階窓が割れ、炎が出た。 「行きます」と矢吹。 そのとき、建物北側から二人が走ってきた。 冬木が相原の肩を抱えている。 白石が相原を寝かせ、呼吸を確認した。意識あり。口腔内に煤。軽い熱傷。 「送れましたか」と澪。 「たぶん、六つ」 「一つは?」 「冬木さんのファイル」 陳が赤いケースを開けた。 評価表七枚の下に、東へ運ぶ途中で冬木が入れた薄い記録媒体があった。 「これは?」 「七つ目の元データです」と冬木。「音声へ変える前の」 「本体はないと言った」 「本体はない。複製です」 陳は媒体を見た。 「兄が死んだ記録?」 「扉が閉まっていた記録です。浩然さん個人のことは、何も入っていない」 「なら、兄のことは誰が証明するんです」 冬木は立ち上がった。 「俺が話します」 「また逃げたら」 「この人たちが、俺の話を聞いた」 七人の候補者が、彼を見た。 秘密を知れば点になる面接は終わった。今は、一人の証言が消えないために、六人が必要だった。守衛所へ走り、衛星電話で消防へ通報した。 通話開始は午前四時五十三分。 火災発生から十五分以上が過ぎていた。十年前より早くも、十分に早くもなかった。 十 午前五時十二分 鷲尾 消防車が林道を上がってくる頃、黒い乗用車が正門へ戻ってきた。後部座席から鷲尾正臣が降りた。コートの下には仕立てたスーツを着ていた。寝室から駆けつけた人間の服ではない。青砥館の裏口から出たあと、運転手と待機していた。 「全員無事か」 最初の言葉は、カメラへ向けたものだった。消防隊員の記録用カメラが回っている。 「あなたが充電命令を出しましたね」と相原。 「システム障害だ。原因は調査する」 「温度上限解除も?」 「訓練環境のリセット操作をした。実機が接続されているとは知らなかった」 柴崎が前へ出た。 「実習室の旧型モジュールを残すよう指示したのは、鷲尾専務です」 「私は教材の保存を言っただけだ」 「通電しない展示だと、五十嵐部長から説明されました」 五十嵐は担架の上から鷲尾を見た。 「通電配線は、先週追加されています。承認者はあなたです」 鷲尾の表情が初めて変わった。 「君も承認した」 「演出用ヒーターへの配線だと思いました」 「なら君の確認不足だ」 二人は、火災の前から続いていた会話を、人前で再開した。誰が命じ、誰が署名し、誰が確認しなかったか。澪は消防隊員へ、社員端末を渡した。 「遠隔命令の診断ログです。消去される可能性があります」 鷲尾が手を伸ばした。 「会社の機密端末だ」 消防隊員が受け取った。 「火災原因の資料として保全します」 「任意提出の権限は、この者にない」 「私の端末です」 柴崎が言った。「私が提出します」 鷲尾は若い採用担当を見た。 評価表に存在しなかった人間を見る顔だった。 「君は自分が何をしているか分かっているのか」 「今、初めて分かりました」 消防の放水が始まった。 朝の暗さの中で、水だけが白く光った。工程表では、採用結果が通知される時刻だった。七人は救急車の横に並び、酸素飽和度と気道を確認された。 白石が医師へ、曝露時間と煙の種類を一人ずつ伝える。自分の診察は最後にした。五十嵐は頭部処置のため搬送されることになった。担架が車内へ入る前、彼女は澪を呼んだ。 「あなたを採用するつもりは、ありました」 「誰を選ぶ予定だったんですか」 「記録器を持つ人を特定し、会社へ提出させた人です」 「安全を守る人を選ぶ試験じゃなかった」 「組織の中で、目的を達成できる人です」 「何の目的かを決めるのは?」 「経営です」 「それを監査とは呼びません」 五十嵐は毛布の下で手を組んだ。 「外から正しいことを言うだけでは、会社は変わらない」 「中に残ったあなたは、変えましたか」 「記録を残しました。七人を集めた」 「回収するために」 「公表する資料も準備していた」 「鷲尾さんの責任を限定し、あなたが命令に従ったことも限定して?」 五十嵐は答えなかった。 「あなたは、候補者へ秘密を言わせた。自分の秘密だけ、会社の文章に直そうとした」 救急車の扉が閉まった。 午前五時三十分、誰の端末にも結果通知は来なかった。会社の採用ページから、安全倫理監査室の項目が消えていた。夜が明ける頃、陳の弁護士から電話があった。 「六通、届いています」 守衛所の衛星電話をスピーカーにし、七人で聞いた。 「田辺、相原、黒瀬、白石、陳、矢吹の応募資料。添付に、分割された制御ログがあります。冬木という方の分だけ、途中で切れている」 陳は赤いケースから薄い媒体を取り出した。 「七つ目は、ここにあります」 「それを複製できますか」 相原が答えた。 「原本性を保つため、消防に封印してもらいます。送るのは複製です」 冬木が口を挟んだ。 「媒体は俺が作りました。改変したと疑われます」 「疑われます」と弁護士。「だから、ほかの六断片と、会社サーバーの送信記録と、焼損基板を照合します。一つで全部を証明しないでください」 澪はその言葉をメモした。 一つで全部を証明しない。 父の事故では、川名の社員証が全部を証明した。排気停止も、施錠も、陳浩然の存在も、その一枚の名札の下に隠れた。消防署員が透明な証拠袋を用意した。冬木は媒体を入れる前に、陳へ差し出した。 「中身を確認してください」 「私は解析できません」 「持っていたのが俺だけではないと」 「責任を分けたいんですか」 「証拠を、俺の都合だけにしたくない」 陳は受け取らず、袋の封緘欄へ立会人として署名した。 「兄の名前が出るまで、立ち会います」 冬木も署名した。 冬木直哉と書き、その横へ〈旧名・川名信吾〉を自分で加えた。午前六時十四分、七つ目の複製が外部へ送られた。七通を結合すると、最初に出たのは時刻表だった。04:16:58 局所排気停止。04:17:14 溶剤濃度上限。 04:17:29 第一火災感知。04:17:31 避難解錠要求。04:17:32 資産保全命令。 04:23:46 手動解錠。 六分十四秒。 十年前の扉の内側で、人が待った時間だった。 十一 午前六時四十分 結果通知 救急車が最後に一台、林道を下りた。七人は正門の外に残った。朝の霧が杉の根元へ溜まり、誰の服にも煙の匂いがついていた。迎えの車は来ない。会社が用意したマイクロバスは、運転手ごと消えていた。坂道を四十分下れば、始発の停留所がある。歩き始めたところで、七台の端末が同時に鳴った。 〈最終選考結果のお知らせ〉 自動送信の時刻は午前六時四十分。本文には七人全員の氏名があり、同じ一文が続いていた。 〈厳正な選考の結果、貴殿を安全倫理監査室採用候補者として推薦いたします。午前七時までに受諾してください〉 「まだ採る気なんだ」と矢吹が笑った。咳の途中で笑ったので、苦しそうな音になった。 「自動送信を止めていないだけです」と相原。 「受諾したら、社員端末が開くかもな」と黒瀬が言った。 白石は自分の画面を澪へ見せた。 「押す?」 「押したらどうなるか、分かりません」 「今夜ずっと、そればかり言ってたね」 澪は初めて笑った。 陳が先に〈辞退〉を押した。矢吹、白石、相原が続いた。黒瀬は指を置いたまま動かず、やがて画面を消した。冬木の端末には、旧名の川名信吾宛てでも同じ通知が届いていた。 「生きている社員だからかな」と彼が言った。 誰も返事をしなかった。 停留所には屋根がなかった。始発のバスが曲がってくる。乗車口が開き、六人が順に乗った。澪は最後まで地面に立っていた。 「乗らないの?」と白石が車内から訊いた。 澪の画面では、受諾まで残り十一分と表示されている。 「父に電話します」 「今?」 「今まで、結果が出てから話そうと思ってた」 バスは発車した。窓の中で、六人が別々の姿勢で座っていた。隣り合う者はいない。もう候補者には見えなかった。 澪は父の番号を押した。 呼出音のあいだに、採用通知の残り時間が一分減った。 父が出る。 「落ちた」と澪は言った。 自分で辞退ボタンを押してから、もう一度言った。 「いま、落ちたところ」
小説 · text · 2026-09-06
午前四時の採用面接
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