第一章 あなたの部屋の鍵を、十一月八日の午前九時四十分に、コーポ栗ケ沢の外階段の下で受け取る。 管理会社の男は封筒ごと差し出して、こちらの手袋に指が触れる前に手を引いた。紺のブルゾンの胸に社名の刺繍があり、その下にボールペンのインクが横へ長く伸びていて、たぶん挿したまま座ったのだろう。 「鍵はこれで全部のはずなんですけど、合鍵のほうはちょっと分からなくて」 「このあと五香で電気の立ち会いがありまして、十一時までなんです」 外階段を三段上がったところで一度だけ振り返り、それから先に立って上がっていく。木造二階建て、上下で六戸、階段の裏側は錆が浮いて塗料が鱗のようにめくれている。歩くたびに外廊下の鉄板が乾いた音を返す。二〇三号室の前まで来ると男は外廊下の手すりに寄って、それから動かなくなった。 「家賃、四万一千円の部屋なんですよ」 「どこまでやれます、これ」 ドアの脇の電気メーターは、円盤がまだゆっくり回っている。この部屋には、今も電気を使っているものが一つある。ポストの投入口には折込広告がねじ込まれたまま雨を吸って波打ち、その下、ドアの下端とたたきの隙間から染み出したものが乾いて、コンクリートに黒い縁を作っていた。ここまでは、外から見える。 「四日に見つかりまして」と男が言う。「においは、まあ、廊下でこれですから」 答えないでいると、手すりのほうを向いたまま続けた。 「隣、先月出たきりで空いてます。だから苦情はそっちからじゃないんです」 「あの人、家賃だけは遅れたことなかったんですけどね」 「二階の雨樋も、そのうち見てもらわないと」 「敷金じゃ、とても足りませんよね。原状回復って、どこまでが借主さんの負担になるんですか」 返事をしないでいるうちに立ち消えた。話しながら鍵の番号を控え、控え終わると封筒を折って尻のポケットに入れる。警察が貼った紙はもう剥がされていて、剥がした跡の糊だけがドアの縁に四角く残っている。 装備は階段の下で着けた。防護服の足を通して腰まで上げ、袖口と足首に養生テープを巻き、その上から手袋を二枚重ねて、内側の一枚の手首にもテープを一周させる。活性炭のマスクは新しいものを開ける。吸収缶の使用期限が缶の裏に刻んであり、開けるたびにそこを見る癖がついていて、今日のは再来年の三月だった。フードを被ると自分の呼吸の音だけが近くなり、外の音は遠くなるが、無くなりはしない。佐野の分の防護服は一つ大きくて、腿のあたりで生地が余っている。上がるのは一人でいい、と言う。 「じゃあ、テープ数えときます」 鍵は二度回った。錠は油が切れていて、二度目に力がいる。引くと、内側の空気がこちらへ出てくるのではなく、こちらの空気が先に吸い込まれ、それから遅れて、重いものが順番に出てくる。ドアは戸当たりの手前で一度引っかかり、下端が敷居をこすって、そこから先は軽くなった。男は手すりのところで背中を向け、五香の現場に電話をかけはじめた。上げかけた片手を、そのまま口のあたりに置いている。 佐野は車の脇に残って養生テープを数えている。二十四歳で、まだ数えなくていいものを数える。 三和土に一歩入って、内側からドアを全開にし、そこで一度止まる。台所は流しとコンロが並んだだけの細長い土間で、右手に冷蔵庫、二ドアの上段の扉が霜で膨らんで閉まりきっていない。動いているのはこれだった。流しの脇の床に、封筒がまとまって置いてある。奥の六畳との境に建具はなく、鴨居に外した跡だけが残っている。畳の色は日に焼けて全体が薄いが、窓側の一畳半だけが違う色をしていて、その中央から少し北へ寄ったあたりに、輪郭のはっきりした黒い形がある。形の縁には層があり、外側ほど色が薄く、乾ききって畳の目に沿って毛細管のように筋を伸ばしている。縁の外側には乾いた蛹の殻が散っていて、窓のサッシのレールにも溜まっている。数は数えない。数えても見積の項目は変わらない。壁と天井は見上げて確認する。上には飛んでいない。部屋は昼でも暗く、明るいのは窓から入る帯だけで、その帯は畳の黒い形には届かず、手前の縁で止まっている。天井の照明から下がった紐は、途中で切れたのを短く継いであり、継ぎ目の結び目が固く小さい。壁を手の甲で叩くと、外壁側の下のほうだけ音が違って、そこの砂壁に古い雨の跡がある。室温は外とほとんど変わらない。テレビは三十二型で、画面が窓ではなく畳のその形のほうを向いていて、上にリモコンが伏せて置いてあり、電池の蓋が外れて中は空だった。テレビの下に雑誌が一冊、釣りの雑誌で、それ以外に本はない。壁のカレンダーは九月のまま垂れている。押し入れの前に工具箱が置いてあり、蓋は閉まっている。灰皿は窓側の畳の上、黒い形から手が届く範囲の内側にある。壁の高いところに、写真が一枚、台紙から外して画鋲で留めてある。 あなたは、テレビの前ではなく、窓の側にいた。 この部屋で音を立てているものは、冷蔵庫のほかにない。 畳の擦れかたを見ていくと、二十八平米のうち、実際に足の裏が当たっていた場所はかなり狭い。台所から窓側までまっすぐな筋が一本、それから流しの前と便所の前に、色の抜けた楕円が一つずつある。窓際まで来ると筋は終わり、そこから先の畳には、寝床を敷いた跡の四角い凹みが、窓と平行に残っている。冷蔵庫の把手のところだけ塗装が薄くなっているが、それが去年ついたものか、八年前についたものかは、見ただけでは分からない。窓側の一畳半に灰皿とテレビとリモコンと携帯が集まっていて、腕を伸ばして届く範囲に、あなたの持ち物のほとんどが置かれていた。座っていたのだろう、とは言える。腕の届く範囲の外に何も置かれていないというのは、置く必要がなかったということでもあり、置きに行けなかったということでもあって、どちらとも決められない。何をしていたのかは書けない。テレビは向いていたが、リモコンから電池は抜いてある。抜いたのがあなたなのか、抜いたのが去年なのか先月なのかも分からないし、どこへ移したのかも分からない。携帯は二つ折りのまま、灰皿の縁に半分乗って畳に落ちている。分からないことを書く欄は、見積書にはない。 押し入れの襖に指をかけると、指一本で最後まで動いた。このアパートで、この動きかたをする襖は珍しい。 窓は閉まっている。今日は開けない。開ければこちらは楽になるが、下は駐車場で、その向こうは隣家の物干しで、洗濯物が出ている。ガラスは内側が薄く曇り、下の桟に沿って埃が筋になっていて、鍵は上がったままになっている。メジャーを引いて六畳の短辺を測り、畳の目に沿って黒い形の長さを取り、角度を変えて三枚だけ写真を撮る。写真は見積の裏付けに要るので、感じの出る撮りかたはしない。形は畳の縁を越えて隣の一枚にかかっていて、境目のところで色が濃くなり、そこが低い。畳の上を靴の裏で押すと、押した場所だけ沈みかたが違う。畳床まで抜けている以上、二枚を上げて床板を外し、根太まで見ることになる。根太が食われていれば材を入れ替え、入れ替えた分だけ日当と材料費が乗る。そこまで書いて、いったんペンを止める。腰を伸ばすのに一度手を膝に置く。ここのところ、しゃがんでから立ち上がるまでに必ず一拍いる。 畳は二枚とも上げる。 「これ、全部持って出るんすか」と、佐野が三和土から言う。手にはまだ養生テープを持っている。 「畳と、その下」 「いや、荷物のほうです」 そういう質問には二日目に答えることにしている。仕分けの決まりだけは先に言っておく。値打ちのあるなしで分けるのではなく、遺族に渡すものと、産廃に出すものと、判断のつかないものの三つに分けて、三つ目をいちばん大きくしておく。判断のつかないものを勝手に減らすと、あとで必ず訊かれる。訊かれたときに、無い、と答えるのがいちばん悪い。今日は数字を出すだけで、始めるのは水曜からになる。初日に荷物、次の日に畳と根太、金曜にオゾンをかけて引き渡す。社員は六人しかいないので、どこか一日ずれると、松飛台のほうが動かせなくなる。次亜塩素酸は一斗缶で二本あればいい。脱臭機は二晩まわす。産廃は分別してからでないと引き取らない業者を使っているから、その手間も日当に入れておく。冷蔵庫は今日は開けない。開けても項目は変わらないし、開ければ廊下まで匂う。隣が空いていても、下の階には人がいる。 車に戻って、助手席の背に見積の用紙を当てて書く。特殊清掃、二十八万円。遺品整理、十九万円。内訳をいちいち説明することはあまりなく、たいていは合計だけを見て、それから少し間があって、それでお願いします、になる。逆に、内訳の一行ずつを声に出して読ませる遺族もいて、そういうときは最後まで読ませる。ダッシュボードの上には湿布の袋と、飲みかけの缶コーヒーと、先週の現場でもらった駐車券が置いたままになっている。腰のコルセットは運転席の背もたれに掛けてあり、今日はまだ着けていない。防護服を脱いで丸め、袋の口を縛って荷台に放る。 管理会社の男が電話を切って、窓のところまで来る。 「支払いは娘さんです。連絡は取れてます」 「いつごろ空きますかね」 「年内には」 「助かります。来月からもう募集を出したいもんで」 「写真は、畳を入れてから撮りたいんですけど、それっていつごろになります」 「立ち会い、次からはうちの者がいなくても大丈夫ですかね」 手袋を外す。二重の内側は湿っていて、外した手の甲に指の形の白い跡がついている。 臭いは、ドアを開けた瞬間には来ない。あのときは空気が動いていて、鼻はまだ外にある。来るのはもっとあとで、缶コーヒーを買いに寄ったコンビニのレジで小銭を出すとき、あるいは事務所に戻って自分の湯呑みを持ったときに、指の間から立ってくる。石鹸で洗っても、洗ったところの内側から出てくる。四年やっていて、この順番だけは変わらない。慣れるというのは感じなくなることではなく、感じたときに手を止めなくなることだと、事務所では言われている。言われているだけで、確かめようがない。 宛名を書く欄で、いったん止まる。娘さんの名前は書類にある。見積書に要るのは苗字だけなので、苗字だけ写して、それより上の行は読まないでおく。 第二章 十一月十一日、八時十分。コーポ栗ケ沢の前の道は、軽トラを停めると片側が通れなくなる幅しかないので、電柱の手前に寄せて、ハザードを出したまま鍵を確かめる。預かった鍵は二本で、玄関と、集合ポストのもの。ポストのほうは今日は使わない。小学生の登校が途切れるのを待ってから荷台の幌を外した。同じ道を通る人にとっては、朝のうちに軽トラが一台増えているだけの話で、そのほうがいい。八時半に管理会社の若い男が自転車で来た。 「終わったら、鍵、事務所の郵便受けに入れといてもらえますか」 「はい」 「下の階の人が、まだ臭うって言ってるんですけど」 「窓は開けません」 「はい。自分、上は、いいんで」 スタンドを蹴り上げて、二階のほうは見ずに帰っていった。 見積から三日空いた。 階段は幅が七十センチ足らずで、踊り場で一度折れている。台車は上げられないから、養生シートも脱臭機もバケツも、みんな担いで上がることになる。二〇三号室の前の外廊下にまずシートを敷いて、四辺をテープで留めて、そこで防護服を着る。佐野に先に着せて、袖口と足首を巻いてやる。活性炭マスクの紐は耳ではなく後頭部で締める。 「手袋、内側って、白からでしたっけ」 「白から」 「あ、はい」 佐野は今日も内側を右手だけ嵌めて、そのまま外側を左手へ持っていって、途中で気づいてやり直した。隣の二〇二号室では洗濯機が回っていて、脱水の終わりの、機械が自分の重みで床を揺らす音がした。水曜の朝に、誰かが仕事へ出る前の洗濯をしている。あなたの部屋の壁の向こうでは、去年の今ごろも同じ時間に同じ音がしていたはずで、それをあなたが聞いていたかどうかは、壁からは分からない。 窓は開けない。開ければ室内は楽になるが、臭いは外へ出て、下の階のベランダと、向かいの家の物干しのところまで行く。換気は部屋の中だけで回して、外へは一日出さない。発見の日から今日までの一週間、この部屋は閉められたままで、内側の空気は、外の十一月とはもう別のものになっている。 鍵を回す。ドアは内開きで、三日前に開けたときより重く感じた。マスクを通した最初の一息では、たいして何も来ない。活性炭は仕事をする。来るのは、閉め切った部屋の空気がこちらの動きで動きはじめてからで、そのころには、もう手のほうが先に働いている。ブレーカーは落ちていない。玄関の照明は点き、廊下の突き当たりまで、二十八平米の奥行きが一度に見える。 佐野は台所の手前で足を止めて、それから何も言わずに外へ出た。 外廊下を走る音、階段を降りる音、下の側溝のあたりで吐いている音が続いた。二度、間を置いて、また一度聞こえた。手すりから覗くのはやめて、部屋の中で九十リットルの袋の口を広げ、四隅を折り返しておく。戻ってきたときに、やることがあるほうがいい。三分ほどで上がってきた佐野は、口のまわりを外側の手袋の甲でこすってしまっていて、その手袋はもう使えないから、テープを剥がして両手とも替えさせた。剥がすときにシートの上へ落ちた青い切れ端を、佐野が自分で拾って袋に入れた。 「すいません」 マスクを付け直して、紐を後頭部で締め直してから、もう一度言った。 「すいません」 朝に自販機で買ったペットボトルを渡すと、キャップに二度指を滑らせてから開けて、口をつけずに両手の中で回している。 「先輩、朝、なに食いました」 「パン」 「なんのパン」 「うぐいす」 「うぐいす」 そのまま言い返して、キャップを閉めた。 「おれ、今日は食ってきたんですよ。食ってきたほうがいいって、先輩、前に」 「言った」 「はい」 本当は何も食べていない。 台所へ入る。 流しは乾いている。蛇口を捻ると水は出て、排水口の下へ落ちていく音が思ったより長く続いた。排水トラップの水が乾いていて、下から上がってくるぶんの臭いが、この部屋の臭いに混ざっている。三十秒ほど出しっぱなしにすると、その一つは消えた。ステンレスの縁の内側に、水垢の輪が二つできている。洗剤は無い。布巾もスポンジも無い。茶碗が一つ、伏せてある。箸は一膳、その横に、端を揃えて置いてある。塗りが先の三センチほど剥げていて、二本とも同じ剥げ方をしているから、長いこと同じ持ち方をされてきたのだろうと見当はつく。あなたはたぶん、最後に使ったものを洗って、水を切るために伏せた。伏せてから発見までに二十五日、それから今日までに一週間、誰も裏返していない。残っているのは、二つ目を出す必要がなかった、ということだけで、それにしても、あなたが二つ目を出さなかったのか、出す相手がいなかったのか、いても呼ばなかったのかは、伏せた茶碗の側からは決められない。高台に欠けが一つある。欠けの角は丸くなっていて、欠けてからも長く使われたことだけは分かる。分かるのはそこまでで、それ以上は、こちらが勝手に足している。 「これ、洗ってありますよね」 「ああ」 「洗ってから、その、」 言いかけてやめて、袋の口をもう一度折り返した。 茶碗と箸は、今日はまだ動かさずに置いておく。 冷蔵庫は二ドアで、扉に手を触れるとモーターの震えが手袋越しに伝わってくる。電気は止まっていない。この部屋でいちばん長く働き続けていたのは、たぶんこれだ。取っ手のゴムの溝に埃が溜まっていて、開け閉めで擦れた跡はその上に無い。下の扉を開ける。庫内灯は点いた。マヨネーズが一本、ドアポケットに横倒しで入っていて、その隣に辛子のチューブが立ててある。棚には卵が二つ、パックの左端に寄って残っていて、蓋に刷ってある賞味期限は二〇二四年の日付だった。一つを持ち上げて軽く振ると、中で乾いたものが動く音がした。缶ビールが二本、いちばん奥で、ラベルをこちらへ向けて並んでいる。上の扉は霜で開かなかった。 「せーの、で」 「せーの」 二人がかりで引いて、隙間にヘラを差してから剥がした。中はほとんど霜で、白い塊の隙間に何か埋まっていないか削っていくと、最後まで何も出てこなかった。 霜の厚みから月日を数えたくなる。 やめておく。霜は電源が入っている限り勝手に育つので、あなたがいつからここを開けなくなったかの目盛りにはならない。それでも、ビールを二本残したことだけは少し引っかかる。飲む人は、たいてい最後の二本を残さない。残すとしたら、明日も飲むつもりだったからだ。そこまで考えて、これも当てにならないと思い直す。缶が二本、理由なく残ることはいくらでもある。あなたについてこちらが手に入れているのは、まだ床の染みと、伏せた茶碗と、この庫内灯の明るさのぶんだけだ。 卵は指でつまんで、生ごみの袋にそっと入れる。落として割れば、臭いのもとが一つ増える。マヨネーズと辛子は中身を抜いて、容器のほうを分ける。缶ビールは二本とも開けて、流しに空けた。泡がほとんど立たずに落ちていって、缶の口に薄い膜だけが残る。すすいで、潰さずに置く。冷蔵庫は中を空にして電源を抜き、扉を外して、明日、二人で階段を降ろす。電源を抜いた瞬間に部屋の音が一段減って、それまで震えていたものが震えなくなったことが、指の腹に残った。しゃがんだままの姿勢が長く続くと、左の腰から膝の裏にかけてしびれてくる。四年やっていると、力の出し方より先に、しゃがみ方のほうが変わる。立ち上がるときは流しの縁に手をついて、腰の右側から順に伸ばしていって、まっすぐになるまでに三つ数えるくらいはかかる。 灰皿には吸い殻が十いくつ、どれも同じ長さで、根元の近くまで吸ってある。銘柄はわかばだった。 昼は外で食う。車の中で、佐野は菓子パンを二つ食べて、コーヒーを飲んだ。 「食えるんだな」 「食えますね。自分でも、あれっと思ったんですけど」 包み紙を小さく畳んで、ドリンクホルダーの脇へ押し込む。 「先輩、この先のラーメン屋、まだやってますかね。前に一回入って、券売機のいちばん上が味噌で、それ押したら」 「知らない」 「ですよね」 それから助手席の窓を下まで開けた。 午後は玄関側から順に袋を作っていく。衣類、紙もの、割れ物、燃えるもの、燃えないもの、産廃と分けて、分けながら手を止めない。止めると、次にどこから触るかを考えることになって、考えはじめると、いま持ち上げているものが誰かの持ち物に見えてくる。通帳や印鑑や写真の類は、見つけたその場では中を見ずに、蓋つきの箱へ入れて玄関に寄せておく。中を見るのは、遺族に渡す一覧を作るときで、それは今日ではない。順番を守るのは仕事の都合であって、あなたのためではないが、結果として、あなたの中身が開かれるのは一日か二日だけ先へ延びる。 「あの茶碗、一個しか無いの、なんでですかね」 袋をもう一枚出して、口を開いて渡す。 「うち、四つあるんですよ。実家から持ってきたのが二つで、あとから買ったのが二つ」 「そうか」 「二つは使わないんですけど、捨てるのも、なんか」 誰が使うのかは言わなかった。 「先輩んちは、いくつあるんですか」 袋の口を持ち直させて、テープを切る。 「あ、すいません」 十六時四十分に切り上げる。窓を閉め、換気口に目張りをして、玄関の内側にオゾン脱臭機を置いてタイマーを回す。動いているあいだは誰も入れない。オゾンは臭いを消すのではなく、臭いのもとを壊しにいくもので、壊しきれなかったぶんは翌朝そのまま残っている。次亜塩素酸を撒くのは畳を上げてからで、今日はまだ、床の染みの輪郭がそのまま残っている。輪郭のいちばん外側は、畳の目に沿って北の壁のほうへ細く伸びていて、そこから先へは行かずに止まっている。 外廊下で防護服を脱いで、手袋を外す。臭いはここで来る。ドアを開けた瞬間ではなく、手袋を外したあとに、指の股と、爪の脇と、手首の内側に残っている。佐野は階段の下の水道で二度洗って、それからもう一度洗った。 「これ、落ちますかね」 「洗っても半日は残る」 「半日」 軽トラのエンジンをかけて、しばらく出さない。ダッシュボードの上に、朝コンビニで買った湿布と、封を切っていない箱が置いてある。窓を五センチ開ける。日が落ちるのが早くなって、二〇三号室の窓には、脱臭機の運転ランプの緑だけが点いている。佐野が助手席で口を開いた。 「明日って、畳、」 そこで切れて、続きは言わなかった。事務所へ寄って、産廃の伝票に、九十リットルの袋を四つ、と書く。冷蔵庫は明日に回すので、まだ書かない。 第三章 郵便受けの錠は壊れていて、指を掛けると蓋がそのまま下へ倒れた。 差込口から押し込まれた紙は、受けの底に溜まりきらずに玄関の三和土までこぼれている。扇形に散ったその上から靴の跡が二つ重なっていて、踏んだのは十一月四日に入った人間か、そのあとに続いた管理会社の者か、警察のうちのどれかで、こちらの靴の跡もいまその上に足されている。膝を突くと三和土の砂が防護服を通して膝の皿に当たり、しばらくすると当たっていることのほうを忘れる。拾って手元で分けていくと、水道の検針票、廃品回収の広告、駅前の学習塾の折込、宛名のないマンションの売り込み、そういうものが順に出てくる。この手の紙は中身を見ずに袋へ入れてよいことになっていて、実際そうする。二重にした手袋の外側はもう指の腹が滑らなくなっていて、紙の一枚目と二枚目を分けるのに三度やり直した。残ったのが四通で、電気、ガス、国民健康保険、それから放送の受信料、どれも窓のついた白い封筒で、どれも封が切られていない。窓からは自分の名前と部屋番号が見えるようになっているから、あなたはたぶん、拾うたびに一度は名前を見ている。見て、そのまま重ねた。四通はきちんと角を揃えて重ねてあったわけではなく、かといって蹴散らしてもいなくて、拾って持ったまま部屋へ入り、置ける場所へ置いた、という置かれ方をしていた。切られていないというのは、開けるのが怖かったという意味にもなるし、開けたところで何も変わらないと知っていたという意味にもなるし、単に忘れていたという意味にもなる。どれなのかは、封筒の側からは出てこない。 封を切るには、電話で一度だけ話した相手の承諾がいる。承諾は前の週に取れていた。書式は決まっていて、遺品の中の書類を開封し、債務の有無を確認することへの同意、という一行に署名をもらう。金額だけ教えてください、中身は要りません、と言われている。 順番だけは消印で分かる。 いちばん古いのがガスで、閉栓の日は六月になっていた。六月に止まって、それから十月まで、あなたはここにいたことになる。四か月と少し。その四か月には今年の夏がまるごと入っていて、この夏がどれくらいだったかは、この土地にいた者なら誰でも知っている。台所のガス栓には、ゴム管の外された金具が残っているだけで、その上に載る物は何もない。外して捨てたのか、業者が閉栓のときに外していったのかは、金具を見ても分からない。ガスのメーターは外にあり、階段の下の、雨の当たらない側の壁についている。だとすれば、止めに来た人間は部屋まで上がってこない。呼び鈴も鳴らさず、名前も呼ばず、階段の下で数分の作業をして帰る。六月のその日、あなたはたぶん、誰とも口をきかないままガスを失っている。あるいは音で気づいて窓から見ていたのかもしれないが、窓のサッシの下枠には、身を乗り出した者がつけるような擦れは残っていない。国民健康保険の一通は、納期の過ぎた分が縦に並べて刷ってあり、その右端に延滞金の欄がついている。欄の数字は、元の金額に比べればいくらでもないもので、それでも封は切られていない。電気はまだ止まっていない。だからいま玄関の裸電球はつくし、脱臭機の電源も、廊下から延長コードを引かずにこの部屋のコンセントから取っている。あなたが払わなかった電気で、あなたのいた場所の臭いを抜いている。作業のあいだじゅう回りっぱなしにするので、電気代は明細が来る前にこちらが預かる形になり、その分も見積の中に入っている。放送の受信料の封筒だけが、他の三通よりいくらか新しい。テレビは押し入れの襖の前に、画面をこちらへ向けて置いてある。リモコンは畳の上に転がっていて、電池の蓋が開いたまま、中身だけが抜かれている。抜いたのがいつなのかは、どこにも書いていない。電池を抜く理由は世の中にいくつもあって、そのうちのどれだったかを決めるだけの材料が、この部屋には無い。受信料を求める紙と、電池の入っていないリモコンとが同じ六畳にあるという、その噛み合わなさだけが手元に残る。 金額を封筒の裏に鉛筆で控えて、中身を戻し、四通まとめて書類用の袋へ入れる。 風呂場の戸を開ける。 浴槽は乾いていた。乾いているというのは水が無いというだけの意味ではなくて、排水口のまわりに白い粉のようなものが薄く浮いていて、指の腹で触ると粉のまま擦れて落ちる、そういう乾き方をしているということだ。石鹸が無い。洗面器も、詰め替えの袋も、その口を留めておくための洗濯挟みも、壁に吸盤で貼りつける類の棚も無い。タオル掛けの金具には、布の擦れた跡さえ残っていない。目地の黴は古いところで止まっていて、新しく伸びた分がない。黴も水気がなければそれ以上は伸びないので、ここが乾き始めた時期のことなら、目地のほうが封筒より正直に喋る。蛇口をひねると水は出て、はじめのうちだけ赤茶けたものが混じり、それからいくらか澄んだ。水道は止まっていない。風呂釜の種火を覗く小窓は黒く曇っていて、金具の合わせ目に埃が固まって載っている。ここで最後に湯が沸いたのは、たぶん六月より前だ。つまり、あなたは風呂に入っていない。そう書いてよいのは、この部屋で、という限りにおいてだ。脱臭の段取りを立てるために換気扇の羽根を覗くと、油でも湯気でもない乾いた埃が羽根の裏に厚みを揃えて積もっていて、ここは長いこと回されていない。帰りに車を回して、この道の先に銭湯があるかどうかを見て歩いたが、コインランドリーが一軒あっただけで、あとは月極の駐車場と自販機が続いていた。見つからなかったからといって無いことにはならないし、あったとしても、あなたが通っていたかどうかとは何の関係もない。人は台所の流しでも頭を洗うし、水でも洗う。四か月ぶんの水道の使用量は、袋に入れたばかりの検針票をもう一度出せば分かるはずで、それを月ごとに並べれば、いつから何をしなくなったかまで分かった気になれる。袋は開けなかった。 水は出る。それだけを確かめて戸を閉めた。 戸はそのあとすぐまた開けることになる。次亜塩素酸は原液では使わないので、薄めるための水がいるし、道具も現場の中で洗う。バケツを浴槽の底に置いて蛇口をひねると、乾いた面に当たった水が跳ねて、外側の壁まで細かく散った。溜まっていくあいだ、その音が風呂場の中で反響する。四か月と少しのあいだ湯も水も溜まらなかった浴槽に、いま水を溜めているのはこちらで、溜めている理由はあなたのためではない。バケツが八分目になったところで栓を締め、両手で持ち上げて、腰ではなく膝で上げる。それでも下がってくるものが背中の右側にあって、六年前の冬からずっとそこにある。 佐野が産廃の袋を引きずってきて、風呂場の前で止まった。防護服の襟から首が細く出ていて、活性炭マスクの上の目だけがこちらを向いている。朝に吐いたことについては、どちらからも触れない。 「これ、捨てるやつと分けるやつ、封筒はどっちに入れます」 「分ける」 「督促って、死んだら消えるんですかね」 消えるとも消えないとも言わずにいると、佐野は手の甲で自分の頬を押さえて、親知らずが横向きに生えていて先月から痛い、抜くには紹介状がいるらしい、紹介状をもらうためにまず今の歯医者の予約を取り直さないといけない、と言った。二重にした手袋のまま顔を触るなと言うと、手を下ろし、袋の口を持ち替えて、それから、昼はどこで食べますかと聞いた。二十四で、四年目のこちらにものを聞くとき、佐野はいつも語尾を上げる。 通帳は流しの下の引き出しに、輪ゴムを二重に掛けて入っていた。判子も保険証も同じ引き出しで、この三つが一緒にしまってあるというのは、あなたがそれを一つの用事として考えていたということだと思う。ゴムは触ると切れた。最後に記帳された行の残高が一万七千三百十二円で、その下は白いままだが、通帳の白い部分は必ずしも金が動かなかったことを意味しない。記帳していない期間があれば、機械はそれをまとめて一行にする。ここの家賃は四万一千円で、つまり最後に見えている残高は一月分に届いていない。こちらが出した見積は、特殊清掃が二十八万円、遺品整理が十九万円、合わせて四十七万円になる。あなたの部屋を無くすのに要る金は、あなたが最後に持っていたことになっている額のおよそ二十七倍で、そしてその請求書の宛名はあなたではない。宛名になっている人には、こちらから電話をかけた。かける前に、管理会社が探した。探すのに二日かかっている。二日というのは、書類の上で人を一人見つけるのに、たぶん短いほうだ。通帳と判子と保険証は貴重品として一覧に書き出し、番号を振って、写真を撮ってから封をする。保険証は市役所へ返すもので、返す人がいなければ返らないまま残る。 数字は、並べると勝手に意味を作る。 携帯は畳の縁と壁の間に落ちていた。二つ折りで、蝶番のところの塗装が剥げて下地の色が出ている。開いても画面は暗いままで、充電器は、押し入れにも、流しの下にも、テレビの裏にも、工具箱の中にも無い。無いというのは捨てたということかもしれないし、どこかへ差したまま忘れたということかもしれないが、この部屋にコンセントは三口しかなく、そのどれにも何も差さっていない。貴重品の袋に入れて事務所へ持ち帰った。他人の遺した充電器を溜めてある引き出しから三つ試して、三つ目の口が合った。合ったときには指先にまだ今日の臭いが残っていて、現場では気づかないその臭いは、手袋を外したあとから出てくる。電源が入るのに少し時間がかかり、日付は工場出荷の年に戻っていた。発信履歴の最後は八月十九日で、相手の登録名はハローワークになっている。その先は無い。八月十九日のあと、あなたはかけ直さなかった。かけ直さなかったことに理由があったのか、それとも充電が切れて、切れたまま二か月が過ぎたのかは、履歴の側からは決まらない。着信のほうは開いていない。連絡先を探すのが仕事で、それ以外は見なくていいことになっている。 袋の口を縛り、油性ペンで郵便物四通と書いて、その下に日付を入れた。書きながら、今日が何日だったかを佐野に聞いた。 「十一日っす。まだ一日目ですよ」 第四章 九月のままだった。 流しから一歩下がった壁に釘が一本打ってあって、その頭に薄い紙の束が引っ掛かっている。めくった月を上へ折り返して裏へ回していく型のもので、八月までは折られ、九月から下は折られていない。壁はヤニで飴色になっているのに、紙が覆っていた四角だけが元の色で残っていた。二重にした手袋の指では紙の縁がつまめず、爪の腹を使って壁から浮かせ、床に置く。しゃがんだときに腰が鳴った。境目を指でなぞると、埃と脂でできた細い土手が指先に当たる。これだけ溜まるのに何年かかるものなのか、見当がつかない。釘の左に、埋めていない穴が二つ並んでいる。掛ける高さを二度直したのか、前にここにいた人が空けた穴なのかは、壁を見ているだけでは決まらない。壁のこの四角を、あなたはたぶん一度も見ていない。見るには自分で外すしかなくて、外す用があるとすれば、それは引っ越す日だ。 活性炭のマスクをしていると、紙からは何の匂いもしない。この現場で匂いが戻ってくるのは、手袋を外して車に乗ってからだ。 暦は写真も絵もない事務用のもので、数字の枡が大きく、日曜だけが赤い。下の余白に印刷所の名前と、市外局番から始まる電話番号が小さく刷ってある。頭のところに掛けるための穴が一つ空いていて、縁が毛羽立っている。綴じは針金が二本、上の端で紙をまとめているだけの安いつくりで、持つと勝手にたわむ。掛かっているあいだじゅう台所の油を吸っていたはずで、九月の面だけが指に少し重い。裏返して、去年の分が重ねて掛けられていないことを確かめた。一枚ぶんの厚みしかない。いつから掛かっているのかは厚みからは出てこないが、前の年の暦は、少なくともこの釘には残っていない。 九月の枡に、書き込みが二つある。 片方に「病院」、もう片方に「振込」と入れてある。どちらも枡の右下、枠から出ないところへ小さく寄せてある。黒のボールペンで、縦の線がまっすぐで、払うべきところを払わずに止めてある。うまい字でも下手な字でもなく、書いたというより引いた字に見える。定規を当てたわけではないだろうが、当てて引くことに慣れた手がそのまま字を書くと、こうなるのかもしれない。二つの字の太さが同じだから、たぶん同じペンで、間を置かずに書いている。予定が決まった順に書き足したのなら、インクの乗りがどこかで変わるはずで、それが見つからない。ほかの枡は白い。八月も七月も、束を遡れるかぎり白い。用のある日が月に二つしかなかったのか、書いておかないと忘れてしまう用が二つだけだったのか、そこまでは紙から出てこない。病院がどこの何科なのかも、振込が入るほうなのか出るほうなのかも、この二文字ずつには入っていない。診察券も予約票も、この部屋からはまだ一枚も出ていない。四年のあいだにいくつ暦を壁から外したかは数えていないが、たいていはもっと汚れている。子どもの用と自分の用が同じ枡に押し込んであったり、丸だけが並んでいたり、途中から一切書かなくなっていたりする。書かなくなった月から死んだ月までの距離が近い部屋もあれば、七年ぶん白いまま毎年新しい暦が掛かっていた部屋もあった。そこから何かを言えると思ったことは、今のところない。二つだけ、というのは、多いほうではないが、無いわけでもない。それでも、二つとも金と体のことだというくらいは、こちらが勝手に読める。読めた気になっているだけかもしれない。 九月の紙を持ち上げて、十月を見た。 白い。十一月も白い。そのまま束の終わりまで繰っても、来年の三月まで一枚も汚れていない。折り目の付いていない紙は、めくるときに手前へ倒れてこようとして、押さえていないと戻る。紙の上では、あなたは九月で終わっている。終わっていることになっている、と言い直したほうが近い。 見立てでは、死後およそ二十五日。発見が十一月四日だから、引けば十月十日のあたりになる。九月の最後の枡のあとに、少なくとも朝が十回ある。十回は十回として、順に過ぎたはずだ。冷蔵庫に缶ビールが二本残っていたことも、灰皿にわかばの吸い殻が溜まっていたことも、その十回のどこかを含んでいる。二本残したまま終わったのか、二本まで減らして終わったのかは、缶の側からは言えない。テレビのリモコンからは電池が抜いてあったから、十月のあいだ、この部屋で鳴っていた音がなんだったのかは分からない。電池を抜いた日が十月なのか、去年なのかも分からない。窓は閉まっていた。閉めたのが暑い時期だったのか寒くなってからだったのかも、閉まったままの窓からは出てこない。それでも朝は十回あって、その十回とも、あなたは起きるか起きないかしていた。九月のうちに二つの用を書いて、その二つを済ませたのか済ませなかったのかも、済ませていたとして、それが良い知らせだったのか悪い知らせだったのかも、暦の裏には出ていない。裏はただの白い紙で、印刷所の名前の位置に、薄く写った線があるだけだ。 あなたは十月に生きていた。 三和土の隅に、紙が二枚落ちていた。一枚は電気設備の点検の日程を知らせる紙で、管理会社の名前と、各戸十分から十五分程度、立ち会いが必要、という断り書きが入っている。もう一枚は不在票だった。日付の欄に十月二十八日と手で書いてある。時刻の欄は空白だった。担当者の欄には苗字だけがあって、下の名前を書く欄はそもそも用意されていない。ご不在のため、と刷ってある四角にチェックが入り、その下の、改めて伺うという側にも同じチェックが入っている。四角は薄い青で刷ってあって、入っている印は黒い。紙の下半分に斜めの折り目があるのは、ドアの隙間から押し込むときに折れたからだ。押し込まれた紙は、内側では誰にも拾われずに、そのまま二十四時間ずつを重ねた。二枚とも表を上にして落ちている。三和土は乾いていて、紙は反っていない。 同じ紙は、この階のほかの部屋にも入ったはずだ。入って、拾われて、読まれて、当日は誰かが家にいて、ブレーカーの蓋を開けて、済んで、忘れられた。その週のうちに捨てられて、いまはもうどこにも無い。残っているのは、拾われなかったここの二枚だけで、残っているという理由だけで、こうして日付を読まれている。ここでは、そのどれも起きていない。 見立てが正しければ、この日、あなたはもう十八日たっている。見立てが四日ずれれば、十八日のほうも四日ずれる。日を数えるというのは、そういう幅のあることだ。紙を挟んだ人は廊下で何秒か待ち、応答がないことを確かめて、日付を書き、次の部屋へ行った。何秒待つかは決まっていないし、決めておく理由もない。においが廊下まで出ていたかどうかは分からない。出ていたとしても、あの紙には、それを書く欄がない。二枚目の不在票は無い。再訪の日を書いた紙も入っていないから、点検はここだけ抜けたまま終わったことになる。抜けたことに気づく仕組みが要るとしたら、それは紙ではなくて人のほうだ。 「これ、点検、結局やってないってことすよね」 袋を引きずってきた佐野が、紙を上下逆さに持ったまま言う。 「入れてないんだから、やってない」 「じゃあ次、いつ来るんすか」 答えずにいると、紙を袋に入れ、それから、つながりのない話として、歯医者が平日の午前しか空いていないのだと言った。予約を四回とばしているらしい。奥歯が痛むのは夜だけで、朝になると忘れる、と手を動かしながら続けている。マスクの縁が鼻の頭を押していて、そこだけ赤くなっている。二十四で、まだこの仕事に慣れていない人間が、こういう時間に何を喋るかは決まっていない。喋っているあいだは、手が止まらない。 書き込みのある紙は捨てない。会社の決まりではなく、四年のあいだにそうなった。読める字が入っているものは遺族へ渡す側の袋に入れる。渡したあとどうなるかは、こちらの仕事の外にある。見積の紙に書いた日付は十一月八日で、作業は十一日から十三日、と一行で入れてある。こちらの紙にも、書く欄のあることしか書いていない。 携帯はテレビの横の床にあった。二つ折りの古いやつで、ボタンの塗装が親指の当たるところだけ剥げている。充電器は部屋のどこからも出てこない。押し入れにも、流しの下にも、袋に分けたものの中にも入っていない。作業車の後ろに、コードだけを放り込んだコンテナが積んである。前に数えたときは二十七本あった。どの現場から出たものかは、もう分からない。外側の手袋を外して、コードの先を明るいほうへ向け、端子の形を一本ずつ見た。三本目で合った。差してから数分は何も出ず、そのあいだに壁のヤニを一列ぶん拭いた。画面がついたのは、雑巾を絞りに立ったときだ。内部の日付は初期化されていて、今日が二〇〇一年の一月一日になっている。この機械にとっては、十月も九月も最初から無い。 発信履歴の一番上は八月十九日で、相手はハローワークだった。 その下は見なかった。中身は警察がもう見ているし、こちらが読んで役に立つ日付は、一番上で足りている。電源を落として貴重品の袋に入れ、伝票に、携帯電話、一、充電器なし、と書いた。コードは箱に戻した。あれも、いつか誰かの部屋から出て、まだ捨てられていないだけのものだ。次の現場でまた誰かの機械に差さって、また箱に戻る。 八月十九日に電話をかけ、九月に病院と振込を書き、十月に灰皿を埋めるだけ煙草を吸って、二十八日に紙が二枚入り、十一月四日に見つかった。日付を並べると線になる。線を引いているのはこちらで、あなたはたぶん、そういう順番では生きていない。八月十九日の電話が九月の病院につながっているかどうかも、本当は何も言えない。同じ月に起きたことを近くに置いて読むのは、こちらの癖であって、あなたの都合ではない。九月の紙をめくらなかったのは、めくる理由がなかったからかもしれないし、めくり忘れる程度にはまだ先があると思っていたからかもしれないし、紙を一枚めくるという手数のことなど、もう頭になかったからかもしれない。どれであっても、壁に残る四角の色は同じだ。四角の大きさで分かるのは、この紙がここに掛かっていた長さであって、あなたが何を見て暮らしていたかではない。それでも、こちらは長さのほうを測ってしまう。測れるものしか測れないからだ。 九月の紙を束ね直して、袋に入れた。あとで一覧に、壁掛けカレンダー、一、と書く。数はそれで合う。書いてあったことを書く欄は、一覧の紙にはない。壁は洗剤を替えてもう一度拭いた。二度目で色は少し戻ったが、四角の輪郭は残っている。 第五章 八時十分に着く。外階段の下からでも、締め切った二階でオゾン脱臭機が回っているのは分かった。夜通し回して、朝に止めて、それから三十分は窓を開けておく。この順を飛ばすと、機械の出したものでこちらの喉がやられる。佐野は踊り場で防護服の袖を裏返し、手首の汗を落としてから腕を通した。気温は八度しかない。それでも中は、動き出して十分で蒸れる。 鍵は管理会社から預かったままで、二日目からは開けるのに手間取らない。 昨日のうちに、動かせるものは壁際へ寄せてある。テレビは電源を抜いて南の壁に立てかけ、冷蔵庫は中身を出したうえで扉を養生テープで留め、流しの前には何も置いていない。今日は床だけをやる。畳を上げ、下の荒板を剥がし、根太まで見て、悪いところを切って継ぐ。それで一日が終わる。 染みは畳二枚にまたがっている。東側の一枚の中ほどから、隣の一枚の西の縁へ、目に沿って細く伸びている。伸びた先のほうが低い。この建物は南東の隅が二センチ近く下がっているから、流れたのは傾きのせいで、あなたの向きとは関係がないのかもしれない。濃いところは黒に近く、その外は茶で、いちばん外側は畳表の日焼けと見分けがつかない。傾きは水平器を四方に当てて確かめたので、目分量の話ではない。濃い部分のいちばん長いところを測ると八十センチに足りず、これは人ひとりが横になる幅よりも狭いが、体の下に何が敷いてあってどれだけ吸ったかによって残り方はいくらでも変わるから、この面積からあなたの姿勢を言い当てられると考えるのは筋が悪い。境目を指でなぞり、そこから二十センチ外側に養生テープを貼る。内側を切って出す。テープの外にも臭いは入っているが、そこまで剥がすと二十八平米の全面をやることになって、金額は倍を超える。どこで止めるかは見積の紙に書いてあって、書いたのはこちらだ。 畳包丁を縁に差し込む。 藁床だった。近ごろのアパートの畳は発泡の板が挟んであって軽いが、この部屋のは古いままの藁で、乾いていても一枚三十キロある。吸ったぶんはそれ以上になる。膝を先に落とし、腰を伸ばしたまま太腿で押し上げる。六年前の冬に一度これを腕でやって、三か月コルセットをつけて過ごした。佐野が反対側を持ち、二人で立てる。立てたとたん、裏の藁から下へ、色の濃い水がひと筋垂れた。敷いておいた厚手のシートがそれを受ける。裏は表よりも広く濡れていて、藁の断面が一本ずつ黒くなっている。ここまで入ったものは、洗っても抜けない。持ち上げた分だけ床のほうから匂いが立って、活性炭のマスクを通ってもなお、鼻の奥ではなく舌の付け根のあたりに来る。二枚目は一枚目より軽かった。染みの端しか掛かっていないので当然で、軽いということはそれだけ吸っていないということでしかないのに、軽いほうを先に運びたくなるのを、順番を変える理由にはしない。 「持ちます」と佐野が言った。腰ではなく腕で引いていた。 畳は二枚とも、そのままでは階段を回らない。踊り場の手すりが出ているせいで、部屋の中で半分に切る。包丁を藁に入れると思ったより抵抗があって、縫ってある麻の糸を一本ずつ切る感触が手首まで来る。切り口から粉が出て、マスクの吸気弁のふちが白くなる。半分にしたものを一枚ずつ、養生した廊下を通して階段を降ろし、車の荷台に入れる。荷台にはブルーシートを二重に敷いてある。積んだ上からもう一枚かぶせて紐を回す。かぶせなくても違反にはならない。近所からどう見えるかは本来こちらの仕事の外にあるが、それでもかける。 畳の下から荒板が出た。 杉の板で、幅は十センチほどのものが東西に並べてある。突きつけの隙間が二ミリ空いていて、染みはその隙間を通り、上面よりも裏側に広がっていた。木口を柄で叩くと、濡れている範囲だけ音が低い。低い音の出るところを鉛筆で囲むと、線は畳の染みより二十センチ大きくなった。木は下へよりも横へ吸う。あなたが倒れてから見つかるまでの二十五日を、この板は上と下から吸っていたことになる。 バールを差して釘を起こす。 釘は太めの丸釘で、頭が板に埋まっているものは先にポンチで叩いて浮かせる。四本抜いたところで一本が首から折れ、その板だけ浮かないまま残った。丸ノコの刃を二十ミリだけ出して、根太の脇に沿って落とす。三枚目で刃が釘を噛み、火花が出て、刃先が二つ欠けた。替えの刃は車の後ろの箱に入れてあるので、階段を二往復した。上りは一段ずつ、下りは手すりを使って降りる。腰は朝より曲がりにくくなっていて、こうなる日は昼を過ぎたあたりで一度楽になり、夕方にまた戻る。抜いた釘は空き缶にまとめる。数えてはいないが、一枚に六本として四十本前後で、缶の底に溜まると、動かすたびに乾いた音がした。 根太は四十五ミリ角で、三百ミリ間隔で入っていた。三本の上端が黒い。爪の先で削ると三ミリで白い木が出る。三ミリなら削って消毒で足りるが、削った面に鼻を近づけると、二重にした手袋の上からでも分かるものが残っていて、二本は切って継ぐことにした。判断を先送りにして、あとで畳を敷いてから匂いが上がってくると、剥がすところからもう一度やることになる。三本目は端の二十センチだけが黒く、そこは大引きに近くて切りにくいから、サンダーで表面を薄く落とすだけにする。出た粉を刷毛で寄せて袋へ入れると、黒い粉と白い粉が混じって、そこだけは木の匂いのほうが強かった。 板を三枚外すと、床下が見えた。土だ。防湿のコンクリートは打っていない。束石が四つ、その上に短い束が立っていて、そちらは乾いている。地面から二十センチほど下がったところに、土より白いものがあった。 軍手で掘ると、湯呑みの破片が三つ出た。厚手の白い陶器で、口のところに金の線が一本入っている。二つは断面が合う。三つ目は同じ焼き物に見えるが、どこにも合わない。埋まっていた側は土の色を吸っていて、上を向いていた側にだけ、細い傷が斜めに何本か入っている。いつからそこにあるのかは分からない。荒板の隙間は二ミリしかないから、割れてから落ちたのではなく、この床を張るときにすでに下にあったと考えるほうが早い。畳をいつ替えたかは管理会社に聞けば出るだろうし、聞いたところで割った人の名前まで出てくるわけではない。あなたのものかもしれないし、あなたより前にここにいた誰かのものかもしれない。金の線が入っているだけで、湯呑みとして上等なものではない。厚みを指で挟んで測ると五ミリほどあって、断面の内側まで土が入り込んでいるので、指の腹で押すとざらつく。流しに伏せてあるのは茶碗が一つで、湯呑みは無い。無いことから何かを言うには、この部屋は物が少なすぎる。 佐野が手を止めてこちらを見た。 「これ、どうします」 「不燃」 袋の口を開ける音がして、そのあとで佐野がもう一つ何か言ったが、送風機の音で聞き取れなかった。聞き返さなかった。破片は三つとも、割れた瀬戸物と同じ袋に入った。 十一時四十分に手を止めた。廊下に出てマスクを上げ、防護服の胸を開けて、階段の手すりに肘を置く。二階の廊下からは、砂利敷きの駐車場と、その向こうの生垣と、生垣の切れたところに立っている自動販売機が見える。手すりは塗装が浮いて、握ったところの鉄が出ている。あなたはこの前を、月に何度かは通ったはずだ。何度かというのは検針票と督促の消印から数えただけの回数で、それ以上のことは言えないし、通っていたのが手すり側だったのか壁側だったのかも分からない。自販機の前で若い男が二本買って、二本とも上着のポケットに入れて歩いていった。防護服を見て顔を上げたが、目が合う前に下を向いた。この部屋の窓は廊下側にも一つあって、曇りガラスの下半分に、内側から埃の輪郭がついている。締めきったまま何年か経つと、開け閉めする窓とは汚れ方が変わる。 車で昼を食べた。 佐野は袋から先に飲み物を出して、親知らずの話をしていた。斜めに生えていて、抜くには大学病院への紹介状が要る。予約の取れるのが一月の末で、それまでに痛んだら市販の薬で持たせろと言われたという。「一月て」と二回言った。缶の蓋を開けて、こちらは何も言わなかった。運転席の足元には湿布の袋と、丸めた軍手の予備と、去年の車検の書類がまだ入ったままになっている。窓を五センチ下げると外の空気が入って、脱いだあとの手の匂いが少しだけ薄れる。臭いはドアを開けた瞬間ではなく、手袋を外したあとに残る。石鹸で洗っても、指の股と爪の間に、午後まではいる。佐野は自分の指を鼻に近づけ、それから同じ手でパンを持った。二十四で、手袋を外すのがまだ早い。 一時十分に部屋へ戻る。 切ると決めた根太を二本とも落とし、大引きの上で継ぐ。継ぎ目には補強の金物を当てて、ビスを四本ずつ打つ。新しい木は白くて、周りより角が立っている。上に板を張って畳を敷けば見えなくなる。押し入れの敷居に、鉋で削って調整した跡が残っていた。角の落とし方が丁寧で、素人の手ではない。誰がいつやったのかは書類には出ないし、こちらの報告書にそれを書く欄もない。 床下と根太の全面に次亜塩素酸を噴く。濃度は千ppm。噴いてから十分置き、拭かずに乾かす。送風機を二台、床下へ向けて据える。板を張るのは明日で、その前に含水率を測る。数字が下がっていなければ明日はもう一日乾かすだけになって、三日で終わる予定が四日になる。そうなれば見積を書き直すが、書き直した分を誰が払うかは、こちらが決めることではない。日が落ちる前に、袋を分ける。畳と荒板と根太は木くずで、次亜塩素酸の空容器はプラスチックで、釘と刃はまた別に出す。伝票には品目と重さを書く欄があって、重さは車ごと計量所に乗せて出す数字だから、この部屋から出たものの合計が何キロだったかは、明後日には紙になって残る。 写真を四枚撮った。畳を上げた状態、荒板を剥いだ状態、根太の黒くなっていたところ、継いだあと。報告書には日付と作業内容だけを書く。 窓を五センチだけ開けて出た。開けすぎると外の湿気が入って乾かない。 佐野が「鍵、閉めました」と言い、階段を三段降りたところで「閉めてないです」と言って戻った。 第六章 最終日は八時六分に着いた。前の日に剥がした畳の跡がそのまま残っていて、根太の上に渡した足場板は、乗るたびに端のほうで鳴る。あなたが二十五日いた場所には、いまは板と土しか無い。床下から出た湯呑みの破片は、水で流して、バケツに入れて、壁際に寄せてある。誰の湯呑みなのかは分からないままで、分からないものを捨てていいという決まりは、うちの会社には無い。前の日に運び出したものは袋の色で分けてあって、木くずと畳が青、燃えないものが透明、そのどちらにも入らないものが、まだ部屋の隅で名前を待っている。テレビは電池を抜いたリモコンごと紐で縛ってあり、灰皿は洗わずに袋へ入れた。洗えば洗った分だけ、その日の終わりが遅くなる。 佐野が防護服の袖を裏返しのまま腕を通そうとしていたので、黙って見ていた。二度目に自分で気づいて、着直した。一日目に教えて二日目にもう一度教えたことを、この日には言わないでおくと、たいていは自分で覚える。 流しの下の戸は、前の日には開けていない。 中は空だった。鍋も洗剤も置いていなくて、いちばん奥に工具箱が横向きに押し込んであった。引くと底が床にわずかに貼りついていて、剥がれるときに音が出た。持ち上げた瞬間に腰にきた。膝から先に落とせと四年言われ続けているのに、思い出すのはいつも持ち上げたあとになる。長さは六十四センチ、幅はその三分の一ほど、片手で提げて歩くと右の肩が落ちる。工具箱は木で、蝶番が二つ、掛け金が一つ、角は釘ではなく組んである。合わせ目は、この湿気のなかにひと月あまり置かれていたのに、まだ開いていない。蓋の裏に鉛筆で数字が書いてあって、四五〇と読める。何の寸法かは分からない。この箱を開けて中身の見当がつく人間は、いま部屋に二人いて、二人とも建具のことを知らない。掛け金は錆びていて、親指で二度押してようやく外れた。 上の段に鑿が九本、幅の狭いほうから順に並べてあった。下の段に砥石が二つ。 刃には薄く油が引いてあって、箱の底に油の染みが細長く伸びていた。作業に入ってからこの部屋で、油の匂いが分かる場所はそこだけだった。一本抜いて、蛍光灯にかざした。裏が平らに出ている。裏の隅には押した跡が細く残っていて、そういう研ぎ方に名前が付いていたはずだが、その名前も、教えてくれた相手も出てこない。柄は樫で、頭の桂は叩かれて縁が広がり、右の親指が当たるあたりだけ木の色が濃くなっている。刃先だけが光っていて、首から下には薄く赤錆が浮いていた。研いだところが新しくて、そのほかは全部古い。九本を並べ直すと、真ん中あたりの一本だけが両隣より明らかに短い。同じ幅の鑿を何十年も同じ仕事に使えばそうなる、というところまでは言えて、その仕事が何だったのかは言えない。一本だけ柄の色が違って、そこだけ木が白い。折れたか割れたかして、あとから挿げ替えたのだと思う。思う、というのはこちらの都合で、割れたほうの柄がこの部屋のどこにも無い以上、確かめようがない。追入鑿は十本の組で売られていることが多いから、これは一本足りないのかもしれないし、はじめから九本で買ったのかもしれない。分からないことのほうが、いつも数は多い。 手袋を外した。 体液のあった板はもう根太ごと運び出して、そのあと次亜塩素酸で二度拭いてある。それでも、規則の上では手袋を外していい場所ではない。刃を指の腹に直角に当てて、そっと引いた。引っかかりが無い。爪の上に立てると、滑らずに止まった。八年放っておいた刃はこうはならない。鋼は指より冷たくて、しばらく握っていても温まらず、こちらの体温のほうが先に逃げていく。重さの中心が刃寄りにあるのが手の中で分かって、持ち方を直すと、勝手に構えの形になった。 佐野が手を出したので、渡さなかった。理由は無い。渡してから並びを戻す手順を考えるのが面倒だった、ということにしておく。 建具をやっていた人で、腰でやめて、それが八年前だという。誰から出た話なのか、事務所なのか管理会社なのか、もう思い出せない。八年のあいだにこの刃で何を削ったのかは分からない。分かるのは研いであることだけで、そこから先は、こちらが勝手に足している。あなたはたぶん、と言いかけて、たいていはそこで言うのをやめる。研いだ日が八年のうち何日あったのか、越してきた最初の月に一度きりだったのか、油の染みの広がり方からは出てこない。染みは回数を数えない。 砥石は二つとも同じ木の台に載っていた。中砥は真ん中が窪んでいて、縁に指を掛けると段差の分だけ爪が引っかかる。仕上げ砥のほうは減りが少ない。乾いた砥泥が縁に固まって、そこだけ色が濃い。台の裏に滑り止めのゴムは付いていないから、動かないように片方の端を膝か腿で押さえて研ぐしかなくて、その姿勢を腰の悪い者が長くは続けられない。水を張る桶も、台の下に敷く布も、この部屋には無い。流しでやったのだとすれば、茶碗が一つだけ伏せてあるあの流しでやったことになって、研ぎ終わったあとに手を拭くものがどこにあったのかは、また分からない。中砥までで止めていたのかもしれない。あなたがこれを研いだのが、ここへ越してくる前なのかあとなのかも、この窪みからは出てこない。 「これ、いけますよね」 砥石のほうを指していた。 「何が」 「売るやつです。ハードオフとか。こないだの現場で出た電動ドライバー、二千八百円ついたって聞きましたけど」 「ぜんぶ同じに見えるんすけど、これ」 「幅が違う」 「幅かあ」 値のつく道具ではある。九本と砥石で、うまくいけばこの部屋の家賃の一月分、四万一千円ぐらいにはなるかもしれない。ならないかもしれない。相場は知らない。ただ、買う側が見るのは刃の状態で、この刃の状態は悪くない。通帳の残りは一万七千三百十二円で、督促は四通とも封が切ってなかった。電気とガスと国保とNHK、どれを開けても金額が書いてあることだけは分かっていて、それでも四通とも切っていない。あなたは、売らなかった。売らなかった理由をこちらが言うことはできない。 「昨日から親知らずが痛くて」と佐野が言った。「予約、再来週なんすよ。それまで痛み止めで持たせろって、電話で言われて」 「そうか」 「斜めに生えてるやつは骨を削るらしいっす。ネットに書いてありました。抜いたあと、頬がこっちまで腫れるって。上と下で残ってて、いっぺんには抜かないらしいんで、二回行くことになるんすよ」 「ゆうべ二時半まで起きてたんすよ。横になると余計にくるんで、座って待ってました」 こちらは歯の話をされていて、鑿の話はしていない。二日目からずっとそうで、それで困ったことは一度も無い。 貴重品と遺品の線引きは、こちらが決めることになっている。現金と通帳と印鑑と携帯は無条件で貴重品、写真は遺品、それ以外は遺族に聞く。聞ける遺族がいるだけまだいいほうで、聞いても返事が返ってこない現場のほうが多い。事務所から電話をして、繋がらなければ留守番電話に入れ、それでも返事が無ければ書面を送る。順番が決まっているというだけで、こちらはもう何かをした気になっている。この現場は、返事は来る。来るのが遅いだけだ。 廊下に出て、マスクを顎まで下ろした。二本目まで吸う時間は無い。外階段の手すりは塗装が剥げていて、握ると手袋の内側にかいた汗が冷える。手を洗ったのに、指の股のところに臭いが残っていて、これは夕方まで、たぶん帰りの車の中まで残る。ドアを開けた瞬間よりも、手袋を外したあとのほうが臭う。この仕事で四年かかって覚えたことのうち、いちばん役に立たないのがそれだ。下の道は生活道路で、八時台は自転車が続けて通り、こちらの車が半分はみ出しているせいで、通るたびに一度止まってから膨らんでいく。腰は朝がいちばん痛くて、動いているうちに引いていく。引いたころに現場が終わる。 あなたが最後にかけた電話は八月十九日で、相手はハローワークになっている。充電器が見つからないので、それより後に何かあったかどうかは分からない。研いだ刃と、その番号を押した指が同じ手のものだ、というところまでしか、こちらには言えない。そこから先を続けると、たいてい間違える。 六分の一本を、わたしが持った。 剥がした根太の切れ端が産廃の袋の口から出ていた。松で、まだ濡れている。左手で押さえて、刃を当てて、押した。木は削れずに、繊維が起き上がっただけだった。濡れた木は削れない。道具の問題ではない。乾いた松なら、この刃なら、押した分だけ薄い削り屑が続けて出て、指でつまめば向こうが透けるはずだった。角度を変えてもう一度押して、同じだったので、そこでやめた。刃に付いた木の粉を防護服の腿で拭って、拭ってから、そこは拭っていい場所ではないと思った。 箱に戻すとき、幅の順が一本分ずれて端の一本が入らず、二度並べ直した。二度目も同じところでずれて、抜いた一本を最初に戻していないことにそこで気づいた。油は引き直していない。引き直すものをこちらは持っていない。掛け金を掛けた。 「これ、引き渡しのほうへ」 「遺品っすか、これ」 「たぶん」 「いらないって言われたら、どうなるんすか」 「うちが捨てる」 「捨てるんすか」 見積書の控えは車の助手席に置いてある。特殊清掃二十八万、遺品整理十九万。複写の二枚目が薄くて、金額の桁は指でなぞらないと読めない。払うのは娘だと事務所から聞いている。あなたの部屋を元に戻して次の人間に貸せる形にするのに、締めて四十七万かかることになっていて、その金額に判を押したのはこちらの側だ。工具箱を産廃へ回しても金額は動かない。引き渡しの箱が一つ増えるだけで、増えた分は十一月二十日に、廊下で娘が受け取ることになる。 年だけは聞いている。五十八。名前は管理会社の書類の二枚目にあるはずで、まだ読んでいない。読まないでいる理由は無い。読む必要のある欄が他にいくつもある、というだけのことだ。 引き渡し品の用紙は、品目の欄が横に細長い。ボールペンが出なくて、手の甲に八の字を書きつけてから、工具箱一と書いた。鑿九本と砥石二つは欄に入りきらないので、紙を裏に返して書いた。品目の隣に状態を書く欄があって、汚損、破損、良の三つのどれかに丸をつける決まりになっているから、この箱は良に丸をつけた。会社の判子は事務所にあるので、そこは空のままにしてある。日付の欄に十一月十三日と入れた。 「次、押し入れ」 第七章 床が無いので、押し入れの前に立つには、渡してあるコンパネを一枚踏まなければならない。踏むと端が浮いて、抜いた根太のあいだの土が見える。佐野が反対側に足を乗せて、板を押さえている。この体勢のまま襖に手をかけると、腰の同じところに毎回来る。 襖は右へ寄せると途中で引っかかり、下の桟からいったん浮かせてやらないと最後まで動かない。昨日、畳と根太を剥がしてから、この部屋の建具はどれも枠に対して少しずつ斜めになっていて、床を抜いたせいなのか、もともとそういう建ち方をしていた家なのかは、こちらには判断がつかない。あなたはこれを毎日開け閉めしていたはずだから、引っかかる位置も、どのくらい持ち上げれば逃げるかも、頭より先に指のほうが覚えていただろうと思う。もっとも、そこまで開ける用がなかったのかもしれない。中の空気は、部屋のどこよりも濃い。閉めてあった分だけ逃げ場がなかったらしく、奥のベニヤは節のまわりが茶色く滲んで、上から二枚目の合わせ目に沿って線が下りている。ここは最後に薬剤をかける順番にしてある。上段には何も入っていない。紙も敷いていないし、釘の一本も打っていない。下段の、いちばん奥に、板が三枚、壁に立てかけて仕舞ってあった。 埃は、板の上の縁にだけ、細い線になって積もっている。 引き出して、窓の明るいほうへ向ける。細い木を縦横に組んだ格子で、三枚とも模様が違う。真ん中の一枚は六角形が連なっていて、その一つずつの内側に、さらに細い木が三本ずつ渡してある。この模様に名前があるのかどうかも、あればそれが何なのかも、こちらは知らない。材は白っぽくて、幅は五ミリあるかないか、厚みはその半分ほどしかない。木口だけがわずかに赤い。釘の頭は一つも見えない。接着剤のはみ出しも無い。二百か三百かある部材が、互いの切り欠きだけで、押し合ったまま止まっている。マスクの下では何の匂いもしないから、木の匂いがまだ残っているかどうかは、外して確かめるまで分からないし、ここでは外せない。 軽い。持ち上げた手が予想を裏切るくらい軽くて、防護服の袖が擦れる音のほうがよほど大きい。格子の一つを指の腹で押すと、板の全体がわずかに撓んで、力を抜くと戻る。木と木の合わさりには爪も入らない。日に透かすと、格子の影が二重の手袋の甲に落ちて、こちらが手を傾けるぶんだけ、影の目が細くなったり戻ったりする。昨日ひらいた工具箱に鑿が九本あって、いちばん細いものは刃の幅が三ミリほどだったが、あれで一つずつ切り欠いていったとして、この一枚を組むのに何日かかるのかは見当がつかない。三枚のうち、手前にあった一枚だけ、模様が途中で終わっている。左の三分の一ほどが空いたままで、そこには縦の桟が二本、仮に渡してあるだけになっている。あとから続きを入れるつもりで置いたのか、そこで手を止めてそのまま仕舞ったのかは、板を見ても決まらない。空いた側の枠には、鉛筆の細い線が何本か引いてある。等間隔で、端から端まで通っていて、消した跡はない。続きの割り付けに見えるが、こちらは建具屋ではないので、そう見えるというだけになる。埃の積もり方は、三枚とも同じだった。 手袋を外しかけて、やめる。 佐野のほうが先に、壁を見つけた。 写真は一枚しかなくて、台紙から外して、画鋲で直に留めてある。貼ってあったところを剥がしたから、四隅の裏に糊が残って、紙が軽く反り返っている。入学式で、ランドセルが体に対して大きすぎて、肩ひもが二の腕のあたりまで下がっている。前歯が一本抜けていて、そこだけ暗い。うしろの白い看板は光っていて、文字までは読めない。左の端に、大人の袖が半分だけ入っている。袖から先は写っていないから、誰の腕なのかは、写っていない側にしかない。裏を返すと現像所の判が押してあり、〇六年の四月と入っている。あなたは、この一枚を台紙から外した。ほかの写真は、この部屋のどこからも出ていない。離婚は二〇〇九年で、そのとき十歳だった人が、いまは二十七歳で、こちらの見積書の依頼人の欄に名前が印字されている。 画鋲は錆びていて、頭の縁が指に少し引っかかる。写真の表面は、四隅ではなく、下の辺の真ん中あたりだけが曇っている。そこを何度も持ったなら、こういう曇り方になる。ならないやり方で持っても、同じところは曇る。だから曇りからは、持ったという以上のことは出てこない。 壁には画鋲の穴が三つあいていて、写真は、そのいちばん低い穴に掛かっている。床に腰を下ろしたときにちょうど正面に来る高さではあるが、あなたがそこに座っていたかどうかまでは、穴からは分からない。上の二つが先なのか後なのかも、決められない。壁紙はもともと日に焼けていて、写真のあったところだけが四角く白い。その四角の上の縁は、いま掛かっている写真の縁より、二ミリばかりはみ出している。位置を一度、下へずらしたのだと思う。ずらしたのが去年なのか十年前なのかは、白い四角のほうも教えてくれない。 脱臭機を回す前に、いったん外へ出る。鉄の外階段は、上から三段目だけが踏むたびに鳴る。下に軽トラを着けてあって、荷台の産廃袋はもう八つになった。腰を伸ばしていると、管理会社の人が下から上がってきた。先週から同じ靴で、爪先に白い塗料が付いている。煙草は防護服の下の胸のポケットに入れてあって、出すには着替えることになるから、そのままにする。今日はそういう休みの取り方にならない日で、外の空気を二度吸って戻ることになる。 「電気の工事、来月に入れ直しますんで」 十月二十八日に予定していたものが、そのまま流れたのだという。不在票は、玄関の内側の床に落ちていた。 「募集はどうするんですか」 「四万一千円は、まあ、下げないとね」 その人は手すりの錆を指でこすりながら言って、それから、下の部屋の入居者から二度問い合わせが来ている、と付け足した。臭いという言葉は使わない。使わないまま話が終わって、二十日の立会いの時間の確認になり、そのついでのように、娘さんとは電話でしか話していない、こっちも一度も顔は見ていない、と言った。年末は別の物件のポンプが止まりかけていて、そっちで手が要るのだという。 渡されたのは、作業完了確認書と、鍵の返却書と、産廃のマニフェストだった。鍵は三本あって、うち一本には荷札が付いたままになっている。ボールペンの出が悪く、階段の手すりに紙を当てて何度か試し書きをしてから、ようやく線が乗った。判子は軽トラのダッシュボードに入れてあるので、いったん下まで取りに行く。三段目がまた鳴る。戻ると、書く欄が三枚とも同じ位置にあり、同じ内容を三度書くことになった。入居者氏名の欄に、飯塚康孝、と印字されている。振り仮名は無い。やすたか、と読むのか、こうたか、と読むのか、この紙からは決まらない。声に出してみたが、二通りとも同じくらい据わりが悪かった。世帯人数の欄は1で、緊急連絡先の欄には、横線が一本引いてある。誰がいつ引いたのかは書いていない。同じ名前は、この三十分のあいだに、書式の違う紙で四回出てきた。四回とも同じ大きさで、同じ書体で、同じところに寄せて印字してある。享年五十八、二十八平米、四万一千円、と並ぶ数字のほうは、どれも読み方に迷わなくていい。 あなたは、この字で呼ばれていたはずだ。呼ぶ人がどれだけいたかは、この欄には入っていない。 飯塚さん、と口に出して呼びかけてみる気にはならなかった。 部屋に戻って、板を三枚とも、車から持ってきたエアキャップで包む。模様の細かいほうを内側にして、角を先に当てて、上から養生テープで二周巻く。粒の面を内側にするか外側にするかで一度手が止まり、内側にした。テープを切るとき、二重の手袋が指先で滑って、切り口が斜めになった。包んでしまうと、三枚の見分けはつかなくなる。途中で終わっている一枚がどれだったかは、重ねた順で覚えておくしかない。箱に入れると、上端が縁より三センチほど出た。横にすれば収まるが、横にすると上に何か載る。 「これ、どっちすか」 佐野が一枚を持ったまま聞いてくる。木くずは燃やすほうだが、これは産廃ではない。遺品の箱に入れる、と答える。持ち方が危ないので、下から支えろ、面のほうを持つな、と持ち直させた。二十四で、ここへ来て八ヶ月になる。佐野は箱の縁に板を立てかけて、それから、奥歯がまだ痛い、予約は三週間先だ、と言った。歯医者の話は昨日の昼にも聞いた。この子は同じ話を二度する日と、一日誰とも口をきかない日がある。今日は二度する日で、そのあとで、この板は何に使うものだったんですかね、と聞いてきた。使うものではなかっただろうと答えたが、それも板から出てきた話ではない。見本板は、本当なら客の前に置く物のはずで、そのために作った物が三枚とも押し入れの奥にあった、というところまでが、こちらに分かっている全部になる。 写真は、透明の袋に入れて、遺品の箱のいちばん上に置く。画鋲は三つとも抜いて、小さいほうの袋にまとめる。抜くときに壁紙が少し持ち上がって、穴の縁が白く毛羽立った。三つ目は深く刺さっていて、指では抜けず、ペンチを取りに戻った。 あなたは、この板を誰にも渡さなかった。押し入れの奥に立てて、上に何も載せず、襖を閉めていた。捨ててもいなかった。八年前に仕事をやめてから今年の秋までのあいだ、この三枚がどこにあって、何度出されて、何度戻されたのかは、残っているのが埃の線一本だけだから、そこから先はこちらの勝手になる。勝手に決めたことのほうが、たいてい形がそろっていて、覚えやすい。二十日にこの箱を受け取りに来るのは、十七年会っていない人だと聞いている。十七年というのは、そのあいだに何も無かったという意味ではないだろうが、こちらの手元にあるのは、包んだ板と、袋に入れた写真と、印字された名前だけになる。それで足りると思ったことは、四年やっていて一度もない。 箱の蓋は閉めない。 段ボールの側面に、油性ペンで、203、遺品、と書いて、日付を入れる。インクが薄くなっていて、3の二画目の途中で掠れる。もう一度、上からなぞる。 第八章 十三日。七時四十分に鍵を開ける。前の晩から回しておいた脱臭機の音がドアの外まで低く漏れている。廊下の手すりに触れると、指の先が痺れるくらい冷えていて、金属を握ったというより氷を握ったときの痛みに近い。佐野は階段の下で防護服の足を入れ、片足で立って二度よろけた。二日やったあとでも、袖口のテープを巻くのに時間がかかる。中の空気は薄い塩素とオゾンで、吸うと鼻の奥が痛くなる。あなたが二十五日かけてこの部屋に入れた匂いは、壁と天井からはあらかた抜けていて、残っているのは床を開けた側だけだ。 佐野が先に入る。 穴はそのままだ。昨日剥がした畳二枚分が部屋の真ん中に四角く開いていて、根太を抜いたあとの土台が見えている。切り口には丸鋸の歯の跡が細かく並んでいて、そこだけ木が新しい色をしている。次亜塩素酸を打ったところは乾いて白い粉を吹き、床下の土は昨日より色が薄くなった。手の甲を近づけると、土から上がってくるものがまだ少しあって、冷たいのか湿っているのか、手袋の上からでは分けられない。乾けば匂いは減る。減ることと消えることは違っていて、消えたと言えるのは、マスクを外して鼻を近づけ、頭のなかで十二数えるあいだ嗅いで、何も来ないときだけだ。昨日出てきた湯呑みの破片は、透明の袋に入れて窓際に置いてある。今日になって数えたら七片あった。湯呑み一つぶんには足りない。残りが土の下にあるのか、割れた日に掃いて捨てられたのか、七片からは決まらない。袋は産廃にも遺品にも分けていない。誰のものか分からないものを入れる欄が、うちの伝票には無い。 台所から先に出す。手前にあるものから出すというだけで、順番に意味は無い。 冷蔵庫は二ドアで、上の段の霜が厚く、扉を開けたまま一晩置いても溶けきらなかった。督促は届いていたが電気そのものは止まっておらず、あなたがいなくなったあとも、この箱だけは動き続けて霜を厚くしていた。中には、蓋の縁が黒くなったマヨネーズと、練り辛子のチューブと、二〇二四年の日付の卵と、缶ビールが二本ある。缶は開いていない。二本とも底のほうに薄く錆が回っていて、買ってから相当に日が経っているのが分かる。その二本を、あなたは開けなかった。開けなかったという事実だけが残っていて、なぜかは残っていない。二本で一組の値段だったのかもしれないし、誰かが来る日のために置いたのかもしれないし、開ける前に体のほうが先に終わったのかもしれない。三つとも同じくらいありそうで、どれかを選ぶ理由がこの部屋には落ちていない。台車に載せて階段を下ろすあいだ、溶けた霜が垂れて、踊り場から駐車場まで細い線を引いた。軽トラの荷台に載せ終えたとき、佐野の手袋の中で指が滑って、一度持ち直した。 卵は割らないように、ウエスに包んでから袋の口を縛る。 流しには茶碗が一つ伏せてあって、箸も一膳しかない。伏せてあるということは、使って、洗って、水を切ったということだけを指していて、それが最後の一回だったかどうかまでは、伏せ方からは出てこない。二つ目を出す日があったとしても、この部屋には残っていない。茶碗は緩衝材で巻く。割れ物を包むのに、一つだけというのは手が余る。保管品の箱へ入れる。 テレビは三十二型。コンセントを差すと映った。昼前の番組が音だけ大きく出て、佐野が慌てて本体のボタンを探した。画面を消すと、埃が細かく立って、静電気の音がしばらく残る。リモコンは電池が抜いてあり、電池はこの部屋のどこからも出てこなかった。使わない道具から電池を抜くのは、道具を仕舞うときの手つきに似ているが、ただ切れた電池を抜いて、買いに行かなかっただけかもしれない。あなたがテレビを一度きちんと終わらせたのか、途中でやめただけなのかは、電池のあるなしでは決まらない。家電リサイクル券を切って、テレビと冷蔵庫を並べて積む。この分の料金も、特殊清掃二十八万円と遺品整理十九万円の請求書に足されて、来週そちらへ送られる。 分けるのは三つで、産廃と、保管品と、貴重品になる。段ボールの側面に黒いマジックで、二〇三、飯塚康孝様、保管品、と書く。箱は三つある。三度書く。二つ目からは様の字が小さくなって、三つ目では横の線が一本足りない。書類の年齢の欄には五十八とある。書類を見るまで、その名前は管理会社の綴じ込みの中にしかなくて、この部屋のどこを探しても出てこなかった。今は自分の手で書いた字が、床の上の三つの箱に載っている。筆圧が強すぎて、ペン先が段ボールの目に食い込んだ。 名前のある物は、この三つの箱だけになった。 未開封の督促は四通とも、封を切らずに封筒のまま保管品へ入れる。開けるのは遺族で、うちが開けていいものではない。通帳は貴重品の袋に入れる。残高は一万七千三百十二円。充電器の無い携帯と、画鋲を抜いた写真も同じ袋に入れ、写真は台紙が無いので厚紙に挟んでからにした。袋は口を縛って、封をしたところに二人で名前を書く。中身は伝票に一行ずつ書き出す決まりで、袋に入れる物だけを数えると三つになり、行も三行で終わる。釣りの雑誌が一冊。迷った末に保管品にした。灰皿は洗っても匂いが取れないので産廃にする。吸い殻はわかばのものばかりで、どれも同じところまでしか吸っていない。管理会社が入れていった電気工事の紙と不在票は、日付の欄だけ写して捨てる。 工具箱は二人で持つ。鑿が九本と砥石が二つ入っているだけなのに、片側を持った佐野が階段の三段目で止まって、持ち直した。傾けると中で刃が寄って鳴るので、なるべく水平のまま下ろし、踊り場で一度置いてから、持ち手を入れ替えて残りを下りる。ここで一本だけ抜いて、また戻した。指の跡は残っていない。把手のところだけ、塗装が手の形に剥げている。 組子の見本板は三枚とも保管品にする。 部屋が空になっていくと、壁のほうが見えてくる。冷蔵庫が立っていたところだけ壁紙が白く、その周りは煙草で薄い茶色になっている。カレンダーを外した跡も同じで、九月のぶんが掛かっていた形に四角い。写真を留めていた画鋲の穴は二つあって、三センチ半離れている。片方は縁に錆が回っていて、もう片方は紙の白いままで、古いほうが先にあって、新しいほうにあの一枚が留まっていたことになる。それでも、掛け替えたのか、もう一枚あったのを外したのかは、穴からは決まらない。高さは床から一メートル十四センチ。立って見るには低い。座っていれば正面になる。決めようと思えば決まる。この仕事を四年やっていると、穴二つから話を作るのは簡単で、作った話はたいてい、あとから来た人間のほうに都合がいい。 管理会社の人が十時二十分に見に来た。玄関から半歩だけ入って、それより先へは来なかった。靴は脱がない。脱がないのは失礼だからではなく、この床がまだそういう床だからで、脱げと言う人間はここには誰もいない。バインダーに挟んだ紙に、日付と、脱臭の残り日数をボールペンで書き込んでいく。 「におい、どうですか」 「今夜もう一晩回します」 穴の縁を靴の先で示すと、そこは大工が別で入りますから、と言われた。原状回復の見積は来週出るらしく、家賃四万一千円の部屋に、その何倍かの金をかけて、白くしてから貸すことになる。 「年内に決まりますかね」 返事をしなかった。決まるかどうかは、この部屋の匂いより外の話だと思っている。 午後は拭き上げと消臭で、壁を上から下へ、天井は脚立に上がって、薄めた次亜塩素酸で二度拭く。バケツの水は四回替えて、四回目でもウエスは薄く濁る。腰が痛むのはこの仕事のせいではないので、脚立の上ではよけいに時間がかかる。手袋の中は汗で指の腹が白くふやけ、マスクの縁が頬に線を残す。喋らない。拭き終わった壁は、拭く前と見た目が変わらず、変わらないものに手をかけている時間が、この作業のほとんどを占めている。佐野が下でウエスを絞りながら、歯医者が朝しかやっていないという話を始めた。前歯の詰め物が十月の末から取れているらしい。そういう話をしていい部屋とそうでない部屋の区別は、二十四歳にはまだついていない。ついていないほうがいいのかもしれない。 空になった部屋で佐野が何か言うと、言葉が壁に当たって二度鳴った。ものがあったうちは鳴らなかった。佐野はもう一度同じことを言って、鳴り方だけ確かめてから黙った。二十八平米は、長いほうへ九歩、短いほうへ七歩で、たったそれだけの床の上に、あなたは一DKぶんの生活を置いていた。広くはならない。畳と冷蔵庫とテレビの抜けた部屋は、壁の四隅が前より近くに寄って見えて、今そこにあるのは、脱臭機が一台と、床の穴と、四角い日焼けの跡だけだ。ものが無い部屋は、どこに立っても真ん中になってしまう。壁際に寄っても、寄った意味が出ない。あなたがここで暮らしていたあいだ、この部屋には立つ場所と座る場所と寝る場所があったはずで、その区別を作っていたのは、今日運び出した物のほうだ。機械の低い音が部屋の音の全部になって、それは誰に聞かせるための音でもない。 床の穴の縁に、わたしは一度だけ腰を下ろした。 土台の木は乾いていて、指で押しても沈まない。外で自転車のベルが二度鳴って、そのまま通り過ぎていった。あなたが倒れていた場所は畳の染みで分かった。立っていた場所は分からない。人が最後に立っていた場所はどこにも残らず、染みは体の重さが作るもので、立っている重さは床に何も書かない。 十七時四十分に脱臭機のタイマーを入れ直して、道具をまとめた。玄関を出るとき、佐野が壁の穴を指した。 「これ、なんの跡ですか」 指の先が壁から一センチのところで止まっている。答えなかった。答えれば決まってしまい、決まってしまえば、あなたはこれからずっとその通りの人になる。この仕事で覚えたことのうち、いちばん役に立っているのは、その場で言わずにおくやり方だ。佐野は返事を待たずに、脱臭機のコードの余りを巻きはじめた。ドアに鍵をかけ、日報の欄に、脱臭三夜目、残臭軽微、機械は翌朝引き上げ、と書いた。手袋を外すのは車に戻ってからで、外したあと、指の股のあたりに匂いが残る。 第九章 十一月二十日は朝から風が強く、事務所の裏で幌をかけ直すのに二人がかりになった。荷台へ載せるのは段ボールが三つと工具箱で、一週間、倉庫の棚に置いてあったぶんの埃が、箱の底の縁に乗っている。ウエスで側面を拭くと油性ペンの字のところだけが黒く残って、三つ目に書いた様の字の、横の線が一本足りないのも一緒に出てきた。約束は十時半。松戸の事務所からコーポ栗ケ沢までは、この時間なら十五分かからない。 十時二十分に着いて、電柱の手前へ寄せた。 佐野が先に降りて、荷台の縄を解いている。降りたところは側溝の脇で、十一日の朝に吐いたのはその二メートルほど先になるが、今朝は落ち葉を靴の先で端へ寄せてから、幌をたたみはじめた。この八ヶ月で覚えたもののうち、本人が数えていないほうに入っているらしい。数えているのは歯医者までの日数で、車の中で同じ話を二度した。 「キャンセル出て、二十六日に繰り上がったんですよ」 縄を輪にして肩へ掛けながら、もう一度言う。 「二十六日です。午前」 風が来る。二〇三号室のドアは開けてあって、管理会社の人が先に来ていて、玄関の内側の、床に渡したコンパネの上に立っていた。穴はまだ塞がっていない。 「大工は二十四日から入りますので」 板は渡したままにしておく。部屋の真ん中でマスクを外して十秒嗅いだ。乾いた木と、塩素の残りのほかには何も来ない。壁は先週拭いたときのままで、冷蔵庫の立っていた四角も、カレンダーの掛かっていた四角も、消えずに残っている。脱臭機は先週の土曜の朝に引き上げた。この部屋がこれから吸うのは、ボンドと新しい合板の匂いになる。あなたが二十五日かけてここへ入れたもののことは、今日はもう誰も口に出さない。 娘さんは十時三十四分に来た。 下の道から上がってくる足音で分かった。外階段は三段目だけが鳴って、そのあとは一段ごとに間が空いた。紺に近い黒のコートで、丈は膝の上まであり、トートバッグを右の肩へ掛けている。二階の廊下に上がったところで一度止まり、二〇一、二〇二と番号を目で追ってから、こちらまで来た。 「飯塚です。すみません、遅くなって」 最初の一声だけが下の道まで届くくらいの大きさで、そのあとの声は急に小さくなった。手袋をしていないので、指の関節が赤い。書類には二十七とある。写真の中でランドセルの肩ひもを二の腕まで下げている人と、いまここに立っている人のあいだに、こちらの知らない年が十七ある。十七年会っていないというのは、そういうことになる。 ドアは開いていて、玄関のたたきまで日が届いている。廊下の手すりから一歩のところに立って、それより内側へは寄らなかった。靴の先は、最後まで階段のほうを向いている。 引き渡しの紙は三枚ある。受領書と、貴重品の内訳と、処分に同意する一枚が要る。 「印鑑、持ってきてないんですけど」 「署名で結構です」 風が強くてバインダーの紙が浮くから、手すりに当てて片手で押さえてもらう。ボールペンは、指が触れないように持ち手のほうを向けて渡した。姓と名のあいだを空けずに書く人で、最後の一字だけが枠の線に乗った。 箱を一つずつ開けて、品目を読み上げていく。 「通帳が一冊。残高は一万七千三百十二円です」 「携帯が一台。充電器はありませんでした」 「封書が四通。電気とガスと国保とNHKです」 「はい」 返事があったのは三つ目のときだけだった。茶碗が一つと箸が一膳は、緩衝材で巻いたままにしてある。釣りの雑誌が一冊。読み上げているあいだ、袋の中を覗きに来ることはしなかった。目は箱の縁のあたりで止まっていて、こちらの手が次の袋へ動くと、そのぶんだけ一緒に動く。ガスが六月から止まっていたことは言っていない。封は開けていないので、中身のことをこちらから説明する筋にはならない。数字を読むときだけ声を落とすのは癖のようなもので、四年やっていると、残高の桁が少ないほど早口になっていることに、あとから気がつく。 「そっちは、処分でお願いします」 通帳と携帯だけは同意の欄が分かれていて、一行ずつ処分と書いてもらう手間がある。書いているあいだに、下の道を保育園の散歩が通った。二列に並んだ子どもと、いちばん後ろの保育士が、二階を見上げずに通り過ぎていく。ペン先が紙の目に引っかかって、二つ目の処分の、分の字がつぶれた。 あなたの通帳は、一度も開かれないまま、その二字で行き先が決まったことになる。 工具箱は廊下の床に置いてある。留め金を外して蓋を上げた。 「鑿が九本と、砥石が二つです」 九本は柄の長さの順に寝かせてあって、七日前にこちらが一本だけ抜いて戻した位置も動いていない。刃には油が薄く引いてある。外の光の下で見ると、砥石の当たった面と当たっていない面の境が、一本ずつ違う高さで走っていて、細いものほどその境が刃先に寄っている。砥石は荒いほうと細かいほうが一つずつで、どちらも真ん中がへこんでいる。木の粉は、箱の底の隅にひとつまみぶん残っているだけになる。把手の塗装は握ったかたちに剥げていて、剥げは右のほうへ少し寄っている。それだけで利き手のことを言いたくなるが、二人で持つときも右で持てば同じところが減る。娘さんは、しゃがまずに、立ったまま上から中を見た。十秒に足りない。九本を数えたのか、数えずに全体を見ていたのかは、立っている位置からは分からない。父親が建具屋だったことを知っていて見ているのか、知らずに見ているのかも、こちらには決めようがない。 「これは、持って帰ります」 把手に手をかけて持ち上げ、五センチほどのところで一度下ろした。両手で持ち直して、また下ろした。 「下まで運びます」 「すいません」 蓋を閉めるとき、留め金は片方だけ固い。 あなたはこの箱を八年、手入れをして持っていた。研いだところで使う仕事はもう無かったはずで、そこから先へ、こちらは一歩も出られない。 写真は透明の袋に入れて、箱のいちばん上に置いてある。差し出すと、袋の上から表と裏を一度ずつ返した。裏の、現像所の判が押してあるところで指が止まって、それから表へ戻した。 「一枚だけですか」 「出てきたのは、それだけです」 トートバッグの口へ入れようとして袋の角が引っかかり、二度目でやめて、手に持ったままにした。壁のどこに留めてあったかは聞かれなかった。画鋲の穴が三つあることも、その三つのうちいちばん低いところに掛かっていたことも、言えば余計なものが付いてくる。 三つ目の段ボールに、エアキャップで包んだ板が三枚入っている。テープを切って、上の一枚を開いた。六角形が連なっているほうではなく、模様が左の三分の一で終わっている一枚が先に出てきた。木口の赤いところに日が当たって、格子の影が廊下のコンクリートに落ちる。こちらが板を傾けると、影の目のほうが細くなる。二枚目に手をかけたところで、声がした。 「いいです」 包みを戻しかけた手に、もう一度きた。 「これ、いりません」 「すみません、置いていきます」 テープを貼り直した。 「それ、組子っていって、釘を一本も」 そこまで言った佐野が、口を開けたまま、そのまま閉じた。要らないと言われたものを要ると思わせるのは、こちらの仕事の外にある。三枚とも箱へ戻して、蓋を閉じた。あなたはこの三枚を誰にも渡さなかった。渡さなかったのか、渡す道のほうが先に無くなっていたのかは、押し入れの奥からも、今日のこの廊下からも決まらない。 請求のことは最後に話した。 「特殊清掃が二十八万円、遺品整理が十九万円です」 これに家電のリサイクル料と運搬が乗る。振込の期限は月末で、用紙は明日そちらへ送ると伝えた。金額を言ったとき、手すりを持っていた手が一度、握り直された。 「二回に分けることって、できますか」 「会社に確認します」 社員が六人しかいないので、こういうことはその場では決められない。決められないと言っておくほうが、あとでこじれない。 「年内に入れば、大丈夫だと思います」 「助かります」 それも約束にはならない。金額のうち、部屋を白く戻すぶんはここに入っていない。原状回復の見積は管理会社から別に出て、その話し合いはこの廊下では始まらない。 紙を返しながら、こちらの顔は見ずに言った。 「電話、四日の夜でした。警察から」 「母のところに先に行って、そこから回ってきたらしくて」 らしい、というのは、その通りの言い方をしたからで、こちらが足したものではない。それ以上は聞いていない。書式のどこにも、聞く欄がない。 「駅まで歩けますか」 「タクシー、呼びます」 工具箱のほうを見てからそう言って、電話は短かった。七分で来るらしい。七分は、廊下で立って待つには長い時間になる。佐野が先に箱を階段の下へ運びはじめて、三段目が鳴った。 「募集は年明けからになると思います」 管理会社の人が誰にともなく言って、鍵の本数を数えはじめる。三本のうち一本には、まだ荷札が付いたままになっている。爪先に白い塗料の付いた靴で、開いたドアの前を二度行き来した。あなたの娘さんは、手すりの錆の浮いたところを見ていた。コートの裾が風で内側へ入って、片手でそれを押さえ、押さえたまま動かない。 「中は、もう終わってるんですか」 「終わっています」 「そうですか」 ドアの中は、待っているあいだ一度も見なかった。見ないでいるのは、見るより手間がかかる。首を回さないでいるためには、どちらを向くかを決め続けていなければならない。二〇二号室で洗濯機が回りはじめて、脱水の終わりの、機械が自分の重みで床を揺らす音がした。金曜の午前に、誰かが今日も洗濯をしている。壁の向こうでその音を何年か聞いていたはずの人がいなくなっても、水曜と金曜の朝はここへ変わらずに来ている。 工具箱は水平のまま階段を降ろす。傾けると中で刃が寄って鳴る。 「重いですね」 トランクを開けた運転手がそう言って、両手で受け取った。 「ありがとうございました」 後部座席に、写真を袋のまま持って乗った。あなたの部屋から出たもののうち、この道の先へ運ばれていくのは、その二つだけになる。ドアが閉まってから走り出すまでに、少し間があった。窓は開かなかった。角を曲がるまで見ていたのは、こちらではなく佐野のほうで、見ていたことを本人は言わない。 軽トラに戻って軍手を外す。今日は指の股にも爪の脇にも、何も残っていない。 「あの板、どうするんですか」 答えないでいると、もう一度は聞かなかった。助手席の窓を五センチ開けて、自分の口の中を舌で探るようにしてから、言った。 「二十六日、午前だから。昼までには戻れます」 事務所へ戻って、荷台から段ボールを一つ下ろす。側面には、203、遺品、と自分の字で書いてある。二重線を引かずに、そのまま倉庫の棚のいちばん下へ入れた。保管期限の欄には、来月の日付を書いておく。 第十章 十二月は現場が四件あった。年内に片付けたいという依頼が重なる月で、そのうち特殊清掃は一件だけで、あとは遺品整理と、生きている人の部屋の片付けになる。松飛台の団地は五階まで階段しかない。八十一歳の男が施設に入るというので、息子夫婦のほうから見積を頼まれた。本人は部屋の隅の椅子に掛けたまま、こちらが持ち上げるものを一つずつ目で追って、それは残す、それはもういい、と言う。テレビ台の引き出しから輪ゴムで束ねた領収書が出てきて、それも残すことになった。台所の棚から鍋を出すたびに蓋がどれだか分からなくなり、最後に蓋だけが三つ余った。 「蓋だけ取っておいても仕方がないでしょう」 息子の嫁が本人に向かって言った。言われたほうは聞こえなかったことにして窓のほうを向いた。二時間で片のついたのは半分ほどで、残りは翌日にまわした。持ち主が生きていると片付けは倍かかる。生きている人は自分の物の在り処を全部言えるし、言えるあいだは、どれを残してどれを捨てるかについて、こちらの側で決めていいことが一つも無い。膝が笑う。階段を下りるとき、三階の踊り場で一度、袋を床に置いた。 六実の一件は十二月十九日で、発見までが三日だったから、廊下では何も匂わなかった。 家族が四人来て、四人が別々のことを言う。仏壇は運び出すのか、写真だけ抜くのか、位牌はどこへ預けるのか、その場で決まらないまま、こちらは押し入れの奥から先に出していく。決まらない話のあいだに手を止めていると、一日ぶんの日当がまるごと消える。冷蔵庫は上から下まで詰まっていて、暮れの買い出しが済んだあとの中身だった。扉を開けたときの音で、佐野が一度こちらを見た。何も言わない。袋の口を広げて待っている。数の子と、蒲鉾が二本と、二リットルの茶が三本あって、正月まで日のあるものばかりだった。産廃の業者は二十八日で年内の受け入れを止めるので、その日までに出せない分は、こちらの倉庫の隅に積んで年を越すことになる。通路は空ける。積むときに四十センチと決まっている。 十二月八日に入金があった。二回に分けたいという話だったのが、一度で入っている。事務の机に置いてある一覧の上から六行目に飯塚ゆいとあって、金額は四十七万円に、テレビと冷蔵庫の分が足された端数になっている。 組子の見本板は、三枚とも段ボールに入れたまま、倉庫の棚のいちばん下にある。廊下で受け取ってもらえなかったものを、そのあとどこへ置くかという決まりが、うちの会社には無い。産廃の伝票にも保管品の台帳にも、その三枚を書く欄は作れなかった。保管期限の欄に書いた日付は十二月十五日で、その日は松飛台に出ていたから、開けたのは翌朝になる。十一月に貼り直したテープの上へ、事務のほうがもう一周貼っていて、爪で起こすと下の一枚のほうが剥がれた。エアキャップをめくると、いちばん上は模様が左の三分の一で終わっている一枚だった。木は軽い。釘も接着剤も使っていないから、持ち方を間違えると角の一本が浮いて、乾いた枘は一度抜けたら同じところへは戻らない。両手が要るのは重さのせいではない。蛍光灯の下で持ち上げると、格子の影が机の上に落ちて、十一月に廊下で見たときより薄い。包み直してテープを貼り、期限の欄の日付に二重線を引いて、その下へ来年三月と書いた。誰も捨てないし、誰も持って帰らない。 床下から出た破片は七片のまま袋に入れて、同じ棚の、その箱とは離れたところに置いてある。誰のものか分からないものは、遺族にも産廃にも渡せない。 十二月のあいだ、あなたの名前を声に出す用は一度も無かった。 一月は朝がひどく冷えて、車のフロントガラスが内側まで白くなる日が続いた。コルセットを巻いてから運転席に座る日が増えて、巻く位置が去年より少し上になっている。 一月十六日の土曜、午後二時に、コーポ栗ケ沢の外階段の下で鍵を受け取った。管理会社の男は十一月と同じ紺のブルゾンで、胸の刺繍の下のインクの跡もそのままだった。脱臭の確認だけ立ち会ってほしい、内見が二時半に入っている、と言われている。二〇三号室の前まで上がると、ドアの下端とたたきの隙間にあった黒い縁は消えていて、コンクリートが元の灰色に戻っていた。ポストの投入口を塞いでいたテープは剥がされ、中は空になっている。外廊下の鉄板は、歩けば十一月と同じ音を返す。鍵は一度で回った。錠が替わっている。 引くと、ドアは戸当たりの手前で引っかからずに開いた。 中は白い。砂壁は上から塗り直され、外壁側の下にあった古い雨の跡も、写真を留めていた画鋲の穴も、冷蔵庫とカレンダーの形に残っていた日焼けも、全部その塗料の下にある。天井から下がっていた照明の紐は新しいものに替わっていて、途中で継いだ結び目が無いので、まっすぐ下りている。六畳の畳は、窓側の二枚だけが新しくて青く、残りの四枚は前のままだから、境目のところで色が二段違う。募集の写真は畳を入れてから撮ると管理会社の男が言っていたが、この色差が写らない角度は、部屋の隅で腰を落とすしかない。床を踏むと、根太を入れ替えたあたりだけ音が硬く、そこから外れると前と同じたわみ方をする。壁を手の甲で叩くと、外壁側の下のほうだけ音が違うのも十一月のままで、塗り直したのは表側だけになる。押し入れの前の畳は替えていないので、そこに角の丸い長方形の凹みが残っている。指の腹で押すと藺草が沈んだきり戻らない。同じ場所に同じ重さが何年も置かれていた形で、大きさは、あの工具箱の底とほとんど合う。六枚のうち二枚しか替えなかったのは金の勘定で、貸すのに困らないところは残す。流しには何も伏せていない。冷蔵庫の立っていた場所には、コンセントの差込口が二つ並んで見えている。窓は閉まっている。内側の曇りは拭き取ってあり、下の桟の埃の筋も無い。灰皿もテレビも携帯も無くなった窓側は、何も置かれていないぶん、今は部屋でいちばん明るいところになっていて、その明るさは畳の新しいほうの二枚に当たっている。二十八平米は、長いほうへ九歩、短いほうへ七歩で、その歩数だけは何も変わっていない。 マスクを外して、畳に膝をついて、板の継ぎ目に鼻を近づけて十秒数える。新しい藺草と、水性の塗料と、それだけしか来ない。押し入れの襖を開けて、下の段の奥のほうでも同じことを繰り返す。襖は今日も指一本で最後まで動いた。何も来ない。消えたと言えるのはこの数えかたをしたときだけで、十秒のあいだに外を車が二度通った。膝をついた姿勢から立ち上がるのに、手を膝に置いて一拍いる。去年の秋に一拍だったところが、この冬は二拍になっている。マスクは掛け直さなかった。 不動産屋の担当は二十代の女の人で、若い男を一人連れて上がってきた。玄関で靴を脱ぐかどうか、二人とも少し迷った。 「そのまま上がってもらって大丈夫ですよ」 「いえ、脱ぎます」 告知事項の紙は先に読ませてあるらしく、男は紙を持ったまま部屋の真ん中まで進み、そこでもう一度その紙を見た。 「におい、しないですね」 「今日も業者さんに見てもらってますので」 担当がこちらを見た。頷いておいた。 「ここ、家賃このままですか」 「はい、三万八千円で」 あなたが払っていたのは四万一千円だった。 男はポケットからメジャーを出して、窓側の壁の長さを測りはじめた。二メートル七十のところで爪を止め、指で押さえたまま床のほうを見ている。 「ベッド置いたら、あと何も置けないな」 「そうですね。テレビは壁に掛ける方も多いです」 「テレビ、持ってないです」 「あ、そうですか」 二十八平米の一DKで、寝るものを置ける向きははじめから一つしかない。前にここにあった寝床も窓と平行で、畳にその形の凹みが残っていたが、その二枚はもう外に出て、新しい畳には何の跡もついていない。男は靴下の足で二度そこを踏み、床の鳴りかたを確かめた。 「下の階って、人いますか」 「いますけど、昼間はいないと思います」 メジャーを巻き戻し、窓の鍵を上げて、片手で押し上げた。下は駐車場で、その向こうの物干しに、土曜だからかシャツが四枚出ている。冷たい空気が入ってきて、藺草の匂いが薄くなった。 「閉めますね」 「あ、いいです。このままで」 担当の手が窓枠の手前で止まった。 「日当たり、思ってたよりいいですね」 「南向きなので」 男が壁の上のほうを見た。 「画鋲って、刺していいんですか」 「え」 「壁。ここに、ポスターとか」 「あ、はい。小さい穴なら、退去のときに問題にならないと思います」 「思います、って」 「契約書に書いてあります。十八条だったかな」 この部屋で口をきく用のある人間はその二人で、わたしはどちらでもない。あの高さに画鋲の穴が空いていたことは、塗ってしまえば誰にも見えない。壁の高いところに紙を留める人間があなたのほかにもいるというだけのことで、それ以上のことは、この白い壁からはもう出てこない。四年やっていると、こういう場面で言うことを思いつくが、思いついたことをそのまま言う仕事ではない。 男は便所と風呂場を見て、それから玄関のところで振り返った。 「ガス、都市ガスですか」 「プロパンです」 「収納って、押し入れだけですか」 「はい。あとは玄関の上に少しだけ」 「いつから入れますか」 「三月からになります」 佐野は下の車の脇にいて、上がってこなかった。今日は道具を出す仕事が無いので、待っているだけになる。十一月二十六日に入れ直した前歯の詰め物の話は、年が明けてからは一度も出ない。かわりに、原付の任意保険が四月から上がるらしいという話を、行きの車の中で二度に分けてしていた。金額を言うところだけ声が大きくなって、そのあとが続かずに黙る。エンジンをかけて暖房を入れ、助手席の窓を五センチ開けている。この一年で、寒い日に窓を開ける癖だけは、こちらから移った。 あなたの部屋の鍵を、一月十六日の午後三時前に、コーポ栗ケ沢の外階段の下で返した。封筒には入れず、そのまま渡した。男は番号を確かめてから、ブルゾンのポケットに落とした。三月から入るそうです、と言われて、そうですか、と答えた。 車に戻って、日報の欄に、二〇三、脱臭確認、残臭なし、と書く。同じ番号を書いた前の行は十一月二十日で、あいだに挟まった現場は九件になる。そのうち二件は、部屋の間取りは出てくるのに、住所のほうがもう出てこない。今日は手袋を使わなかったので、外す手順が無い。佐野が暖房の吹き出し口の向きを直しながら、五香ってどっち回りで行くんでしたっけ、と訊いた。次は五香で、着くのは四時を回る。
小説 · text · 2026-09-07