一 あと一往復 杉浦さんの口が、水の下に入った。 ほんの一歩だった。さっきまで胸の下にあった水面が、隣の人に道を譲るような小さい一歩のあとで、彼の鼻の下に来ていた。 真帆は泳ぐのをやめた。 水中歩行用の一コースは、水深一・一メートルと表示されている。杉浦さんは真帆より背が高かった。それなのに、帽子の青い丸みと鼻の頭だけを水から出して、目を大きく開いていた。 ふざけているのかと思った。 杉浦さんとは、ここでしか会わない。五十七歳だということと、駅の向こうのスーパーで惣菜を揚げる仕事をしていることだけ知っている。六月から水曜の夜に来るようになり、九月になっても泳がず、コースの端をゆっくり往復していた。人が近づくと必ずよけるので、よけなくていいところですよ、と真帆が一度話しかけた。それで挨拶をする間柄になった。 杉浦さんがもう一歩進んだ。 今度は全部、沈んだ。 手だけが出た。肘を上げ、掌を開き、何かに触ろうとしていた。声が一つ、水の中で潰れた。 真帆はコースロープを越えた。 足を下ろしかけてやめ、そのまま彼の脇へ回った。泳げない人に正面からつかまれる怖さを、体が覚えていた。杉浦さんの腕が真帆の肩をこすり、帽子の縁にかかった。 「浮いて。足、上げて」 彼は水を飲んだ。真帆が肩の下に腕を入れると、見た目から想像したよりずっと重く、下へ引かれた。杉浦さんが歩こうとしているのだ。底から足を上げない。上げてしまえば、支えるものが何もなくなると思っている。 「蹴らなくていい。膝を曲げて」 監視台で椅子が倒れた。 若い監視員の矢島くんが、赤い浮き具を持って走ってきた。見学に来た小学生に、水の事故に使うものだと説明しているのを、真帆は以前見た。彼は浮き具を二人のすぐ横に投げ、浅いほうの階段へ向かった。 真帆は杉浦さんの胸に赤い筒を抱かせた。 やっと彼の足が上がった。 二人の体が、同時に水面へ戻った。 杉浦さんが咳き込んだ。口と鼻から水を吐き、浮き具に爪を立ててしがみつく。真帆は彼の腕を胸から遠ざけた。もう助けたのだから大丈夫、と考えるより先に、首を守るための動きが出ていた。 「足が」 杉浦さんが言った。 「足が、降りていっちゃうんだ」 真帆は水の中を見た。 底は、すぐそこにあった。 薄い青のタイルが並んでいる。小さな四角がきれいに揃い、その上を二人の影が揺れた。杉浦さんの足の裏は、床から二十センチも離れていないように見えた。 矢島くんが階段に足を置いた。 太腿までしか入っていなかったはずの彼が、一瞬で肩まで沈んだ。持っていた救助具の紐が引っ張られ、杉浦さんの浮き具が端を下げた。 矢島くんは手すりにつかまった。 手すりの横に貼られた《ゆっくりお入りください》の札が、彼と一緒に水の中に入っていった。 「動かないで!」 真帆の声が天井にぶつかった。 矢島くんは手すりから手を離し、泳いでこちらへ来た。顔は白く、唇だけが妙に赤かった。階段のあったところでは、ステンレスの棒が二本、水面から垂直に突き出していた。 真帆は壁の時計を見た。 八時三十一分。 あと一往復して上がるつもりだった。更衣室で髪を乾かし、途中のコンビニで牛乳を買い、十時までには洗濯機を回す。それまでの晩と同じ、水曜の終わりになるはずだった。 水の中で、杉浦さんの足がまた下がりかけた。 「上げてて」 真帆は言った。 自分の足も、無意識に底を探していた。 二 そこにある床 矢島くんは、杉浦さんが落とした眼鏡を指さした。 階段の二段目に、黒い縁の眼鏡が引っかかっていた。底も階段も、見るかぎりは変わっていない。水中の物が近く見えるのは知っている。しかしその違いだけで、人の背丈が消えることはない。 「段は、そこにあるのに」 矢島くんが顔をつけ、段の高さを確かめるように手を伸ばした。 指先が眼鏡に届かなかった。腕が不自然に長く見えた。肩が沈み、背中が斜めになったところで、彼は顔を上げた。 「もっと深いんです。見えるより」 言ってから、それでは足りないと気づいた顔をした。 彼の右の脛に、白い格子がついていた。浅く食い込んだタイルの目地のような模様だった。階段で滑ってこすったのなら、まっすぐな傷になるはずだ。格子は脛の丸みに沿って、ぐるりと裏まで続いていた。 「足が抜けなかったんです。最初」 真帆は彼の脛を見るのをやめた。 「人、ほかにいる?」 「水の中は、お二人で最後です。受付に園田さんが」 矢島くんは更衣室のほうを向いた。 二十五メートルのプールには六コースあり、更衣室は浅い側の奥にあった。プールの縁から入口まで、濡れたタイルの通路が五メートルほど続いている。その先に扉のない短い通路があり、さらに奥で、ゴム製のマットを境に床材が茶色に変わる。いつも足をよく拭くように言われる場所だった。 矢島くんは、非常ベルのところまでは泳げます、と言った。 ベルは壁際にあり、水から出なければ押せなかった。真帆が口を開く前に、彼は泳ぎ出した。赤い浮き具の紐を真帆に渡し、帽子をかぶっていない黒い頭で水を切った。 「ここにいてください」 真帆は杉浦さんに言った。 「浮き具、絶対放さないで。私を見て」 杉浦さんは頷いた。顎が水につかるのを気にして、必死に上を向いている。真帆は片手を彼の肩甲骨の下に入れた。力を抜けば浮くなどと、今言っても意味がないことはわかっていた。 矢島くんがプールサイドに両手をついた。 水を滴らせながら膝を上げた。彼の体が全部外へ出たとき、真帆は少し泣きそうになった。タイルは沈まないように見えた。床がある。歩いていける。ベルを鳴らせば、もっと大勢の人が来る。 矢島くんは立った。 彼の足の下で、タイルが凹んだ。 割れなかった。目地が広がることもなかった。ぎっしり貼り合わされた四角いタイルが、柔らかい布の上に描かれているように、両足の形に沈んだ。 水が縁を越えて、くぼみに流れ込んだ。 矢島くんは壁へ飛びつくように、ベルを叩いた。 甲高い音が鳴り始めた。 その間にも、踵が下がっていた。足首までタイルのくぼみに埋まり、そこへ水が溜まった。彼がベルの箱をつかんでも、箱ごと壁が引き下げられた。白い壁面のタイルまで、彼のほうへ斜めに傾いた。 「戻って!」 矢島くんは振り返った。歩こうとした左足が抜けず、上体だけがねじれた。真帆は杉浦さんの手を浮き具の上から押さえ、放して、プールの縁まで泳いだ。 彼の膝下を、透明な水が包んでいた。 縁につかまれば自分も同じになる。真帆は浮き具の紐の輪を投げた。矢島くんが指を入れた。引くと、彼の体は倒れた。タイルの上を滑り、腹からプールに戻ってきた。 足が抜けた跡は、埋まらなかった。 二つの穴がつながり、プールの縁に向けて細長い水路になった。水路の底に、彼の足の形の、深い窪みが残っていた。 非常ベルが鳴っている。 誰かがすぐに来るはずだった。その音を聞きながら、真帆は初めて、ここから上がるための床がないのだと理解した。 三 立つための人 小さな頃から、水の中では真帆が一番速かった。 学校の何でもない日に、一つだけ、誰も追いつかない時間がある。それが好きで、中学まで選手のクラスにいた。高校では競泳をやめたが、水泳の授業で困ることはなかった。 十六のとき、同じ班の女の子が真帆につかまった。 授業が終わる前の自由時間で、真帆は一人で泳いでいた。女の子の足がつったのか、立とうとして底を踏み損ねたのか、いまも知らない。振り返ると彼女がいて、真帆の肩に両手を置いた。それだけで頭が沈んだ。 浮こうとするたびに、上から押された。 真帆はその手を払った。何度も払って、最後には相手の胸を足で押した。自分が水面に出たとき、女の子は沈んでいた。体育の先生が飛び込んだ。二人とも助かったが、真帆は名前も顔もよく知っているその子と、卒業までほとんど話さなかった。 誰にも責められなかった。 だから、自分が何をしたのかを話す機会もなかった。 杉浦さんが浮き具を抱える腕に力を入れるたび、真帆は自分の首を引いた。彼は真帆を見ていた。濡れた睫毛の下で、目だけが静かに動いていた。 「つかまらないから」 杉浦さんが言った。 「さっき、ごめん」 「謝らないでください」 真帆は早口で返した。 矢島くんが、監視台の下にある浮き板を指さした。 厚い発泡材の板が、小さい籠にまとめて入っていた。その横には、水に慣れる子供が寝そべるための大きな青いマットが立てかけてある。プールサイドに足をつけなくても、縁から手は届きそうだった。 二人で杉浦さんを運んだ。 縁まで来ても、つかまることを杉浦さんはためらった。指先だけを載せる。何も起こらない。肘を乗せて体を預けると、目地がこちらへ向かって伸び、杉浦さんが小さく声を上げた。 矢島くんが彼の肘を持ち上げた。 「体重をかけなければ、平気みたいです」 真帆は目の前のタイルに指を当てた。 硬かった。普通の、濡れたタイルだった。爪で叩くとかちかち音がする。手のひらを載せても変わらない。少し押すと、手の下の四角が斜めになり始めた。 真帆は手を引いた。 よく知っている硬さだった。冷たくて、動かず、自分が乗っても大丈夫だと手が覚えている。その記憶のほうが、目で見たことより強かった。わざわざ何度も確かめなければ、すぐに肘を置いてしまいそうだった。 矢島くんは浮き板の籠を倒し、マットを水に引き入れた。 大きなマットの上に杉浦さんの胸と腹を載せると、彼は長く息を吐いた。頭を上げていられる。足は水の中に残ったが、もう底に着きそうになかった。 矢島くんが通路の奥を向いて叫んだ。 「園田さん! タイルに乗らないで!」 非常ベルの音の切れ目に、遠い返事があった。矢島くんが何度呼んでも、同じ場所から声がした。こちらへ来ようとしているらしいのに、近くならなかった。 人の姿はまだ見えない。プールと更衣室をつなぐ通路が、さっきより長く見えた。入口の左右の壁にある、注意書きの紙が小さくなっている。そこへ歩いて行った人もいないのに、矢島くんの体重が引き下げた壁と一緒に、通路の床まで傾いていた。 真帆はプールの底を見た。 さっき杉浦さんが立っていたところに、足の形が二つあった。 青いタイルの上に、白く浮いていた。右の親指が内側を向き、左の小指が少し離れている。人が泥に足を押しつけた跡に似ていたが、へこんでいるのではなく、向こう側から押されていた。 「見ないほうがいいです」 矢島くんが小さく言った。 足の形の下に、もう一組あった。もっと小さな足だった。その隣には片方だけ。遠くには、ほとんど輪郭のなくなった、長い二本の跡。 真帆は子供の頃から、何度もこのプールに来ていた。 あの底の上を走り、叱られたこともあった。 四 浅い道 園田さんが見えたのは、時計が八時三十七分になってからだった。 茶色い床の端にしゃがんでいた。紺色の仕事着の胸に、小さな名札が光っている。いつも利用券を受け取る手に、電話を持っていた。 「助けを呼んだわ。動かないでいて」 「床が沈みます! そっちもタイルには乗らないで!」 矢島くんは同じことを繰り返した。 園田さんは頷き、床に手を伸ばした。何か小さなものを拾おうとしているようだった。真帆は止めかけたが、園田さんはすぐに引っ込め、顔をこちらに向けた。 「マットのところまで、水が来てる」 矢島くんがベルを押した場所から伸びた窪みは、通路の中央まで達していた。床の傾斜に沿って、プールの水がゆっくり流れている。タイルの目地を二、三本だけ越え、また止まる。水の先端が進むのを見るたび、真帆は自分の足を胸のほうへ引きつけた。 天井の蛍光灯は、同じ高さにあった。 同じ天井の下で、床だけが遠くなっていた。高いところにあったはずの四角い窓が、ほとんど真上に見えた。雨がガラスに当たる音は、プールの反響に混じって聞き取れなかった。 「そこに、長い紐はありますか」 矢島くんが叫んだ。 園田さんは電話で誰かに話し、いったん奥へ消えた。 杉浦さんがマットに頬をつけた。青い発泡材に、唇の跡が濃くついた。真帆が大丈夫ですかと尋ねると、頷くかわりに指を一本上げた。 「大丈夫じゃ、ないねえ」 彼が初めて少し笑った。 「浮いてれば楽なはずなのに、力が抜けなくて」 「私もです」 真帆の足は動き続けていた。止めても浮く姿勢にはなれる。しかし止めれば、水の下の何かが追いつく気がした。 杉浦さんが言った。 「泳げるようになったら、旅行に行こうと思ってた。海に」 「今からでも」 言いかけて、真帆はやめた。 「どこの海ですか」 「どこでもいいんです。温かいところで、浮いてみたかった」 彼は頬をマットから少し上げた。 「立てないところが、こんなに怖いとは思わなかったな」 真帆の足の裏に、何かが触れた。 彼女は全身で水を跳ねた。 床が上がってきていた。 水面の下五十センチほどのところまで、タイルが盛り上がり、二人の足の下から更衣室へ細い尾根をつくっていた。浅瀬だった。膝まで水につかれば、出口まで歩いていけるように見えた。 矢島くんも見ていた。 誰も、浅くなったとは言わなかった。 真帆は籠から流れ出た浮き板を一枚取り、尾根に向かって押した。浮き板は水面を滑り、何事もなく通り過ぎた。 次に矢島くんが、手首につけていた笛を外した。紐の端を持ち、金属の笛を水の中へ垂らした。 笛が底に触れた。 小さな四角いタイルが一枚、その形に沈んだ。周りのタイルも、中心へ向けて傾き始めた。矢島くんが紐を引くと笛は上がったが、沈んだところは細い穴になって残った。 杉浦さんは青いマットを強く抱えた。 水の中の道は、彼らが歩くのを待っているようだった。狭すぎず、急すぎず、プールで泳ぎ疲れた人が選ぶ、ちょうどいい深さを保っていた。 出口のほうに、園田さんが戻ってきた。 両手に紐の束を持っていた。ほどいて投げてみたが、床と水の境目にさえ届かなかった。誰かが助けを求めて手を振るときのように、紐の先が一度持ち上がり、濡れたタイルに落ちた。 真帆はコースロープを見た。 二十五メートルの長さが、何本もあった。これなら出口へ届く。その一本が、さっきから彼女のすぐ脇で、水に揺られていた。 五 一本の長さ コースロープの青い円盤を、真帆はつかんだ。 硬い。指をかける細い隙間がある。支えになりそうなものを見つけると、体はすぐ、その上に乗ろうとした。円盤が沈んで、真帆の口に水が入った。 「浮き具じゃないので、つかまり続けないでください」 矢島くんが言った。 知っている、と真帆は思った。知っていることが、何の役にも立たなくなっていた。 矢島くんは近い側の留め具を外すために、壁のところへ戻った。金属の部品を何度か回した。額を壁につけそうになり、そのたび顎を引いて、水を蹴り直した。 円盤の列が緩んだ。 「反対側を外せば、持っていけます」 「私が行く」 真帆は言った。 深い側の壁は、二十五メートル先だった。何百回も泳いだ距離だった。時計が八時四十分を過ぎたことを確かめ、青い浮き板を一枚抱えた。矢島くんと杉浦さんのいる場所から離れると、すぐにベルの音が大きくなった。 壁についたベルは、水面すれすれに沈んでいた。それでも鳴り続けていた。水しぶきがかかるたび、音が詰まり、また甲高く響いた。 真帆は水中を見ないようにした。 だが、顔を上げ続けると、首の後ろが張った。泳ぐ距離は変わらない。変わらないはずだった。真帆は一度だけ顔を沈めた。 底の黒い線が見えた。 選手のクラスで教わった、まっすぐ泳ぐために見続けた線。壁の手前では横に広がり、止まる場所を知らせてくれる。その横線が、いまは何本もあった。 一番近いものの下に、もう一本。その下にも、同じ幅の横線が見えた。 黒い線を載せた床が、何層にも重なっている。 真帆が目を細めると、線だと思った場所の一つが開いた。 細い目地の隙間だった。 そこに爪があった。五つ、並んでいた。薄く白い爪の先が、タイルとタイルの間から少しだけ出ていた。奥には指も足の甲も見えなかった。爪のあるところだけ、タイルの表面が小さく盛り上がっていた。 真帆は顔を上げた。 水を飲みそうになり、歯を食いしばった。板が胸から外れかけ、両手で押さえた。反対の壁はすぐ前にあった。 留め具に手をかける。 金属は冷たく、ところどころざらついていた。濡れた指ではうまく回せなかった。足を壁につけて踏ん張れば、簡単にできる。その動きが膝まで出たところで、真帆は慌てて脚を折った。 壁のタイルに、一瞬だけ足の指が触れた。 温かかった。 入浴するにはぬるいが、人肌よりは少し高い。生きている人の腹に足を当てたようで、真帆は指の間まで縮めた。 留め具が外れた。 緩んだロープが手首に回り、引っ張られた。底へ落ちるのだと思って、声が出た。円盤は浮いていた。重いのは、外した端の金具だった。真帆は手首を抜いて、板の上に金具を載せた。 帰りは、円盤の列を曳いて泳いだ。 行きよりずっと遅かった。何かにつかまれているかと何度も振り返った。ロープはただ、水面に大きな弧を描いている。矢島くんの顔が見え始めると、真帆は泣きそうになった。顔のはっきり見える距離まで来てから、ようやく呼吸を数えるのをやめた。 「ありがとう」 杉浦さんが言った。 「戻ってこないかと思った」 責める響きはなかった。自分がここに置かれていることを、静かに確かめる声だった。 真帆は浮き板の縁に額をつけた。 「私も、戻ってこられないかと思った」 少ししてから、彼女は言った。 「さっき、杉浦さんがつかまったとき、放しそうになりました」 矢島くんがこちらを見た。真帆は顔を上げられなかった。 「前にもあったんです。人につかまられて、沈んで。怖くて、蹴ってしまって。それが、さっきも」 杉浦さんはしばらく黙っていた。 「じゃあ、怖いのに戻ってきてくれたんだ」 真帆は違うと言おうとした。立派なことではないと説明しかけて、やめた。杉浦さんが右手をマットから離し、水の上に置いた。真帆のほうには伸ばさなかった。 「俺は、ここを持ってる」 彼はもう一度、赤い浮き具をつかんだ。 出口で、園田さんが腕を大きく振った。 「もう少し来られる? 紐を渡したいの」 彼女の持っていた細い紐の先に、小さなペットボトルが結びつけられていた。園田さんが投げると、ボトルはタイルを転がり、水に入って浮いた。 真帆はそれを見た。 どれだけ見慣れた床でも、空のボトルにはできて、人にはできない渡り方がある。まだ水面にいられる。そのことを手放さないように、真帆は浮き板を抱き直した。 六 届かない手 プールと通路の境目は、わからなくなっていた。 縁を越えた水が大きな舌のように伸び、更衣室への入口まで続いていた。水の両側は、まだ乾いているように見えた。そこを歩けば早い。そう思うたびに、真帆は矢島くんの足跡を探した。 二つの深い穴は、今も見えていた。 底へ足を預けた人の形が、そこだけ遠くへ落ちていた。 三人は、杉浦さんを載せたマットを押して進んだ。 彼の腰から下は水に浸かっている。杉浦さんは膝を曲げ、足が落ちないようにしていた。真帆は左側、矢島くんは右側についた。自由になったコースロープを二人で運び、青と赤の円盤の列をマットの脇に這わせた。 浅いところに入ると、真帆の足先が底をこすった。 白い格子が皮膚に触れた。すぐ離したつもりなのに、親指の腹が柔らかく引かれた。真帆は足を上げ、浮き板を胸の下に入れた。顎を水から出すだけの姿勢になると、前が見えにくかった。園田さんの紺色の上着だけを見て進んだ。 ペットボトルが手の届くところに来た。 矢島くんがつかんで、紐をほどいた。コースロープの端へつなぎ、園田さんに引いてもらう。金具が床をこすって鳴った。通ったあとに細い溝が残ったが、引かれる金具のほうが速かった。円盤の列が濡れた通路を渡り、茶色の床へ消えていった。 真帆は目を離さなかった。 茶色の床は、沈まなかった。 園田さんが金具を持って後ろへ下がっても、両足は同じ高さにあった。そこだけが、三人に残された地面だった。 奥に、もう一人見えた。白いシャツの男性が園田さんの後ろでロープを受け取った。施設の事務室に残っていた人らしかった。二人が一緒に引くと、赤い円盤が一つずつ水から上がった。 「一人ずつ」 園田さんが言った。 「杉浦さんから。ゆっくり来て」 呼ばれた杉浦さんは、頷いた。 矢島くんは浮き具とマットにロープを回した。体を締めない位置を何度も確認したが、手が震えて、手間取った。結び終わるまで、杉浦さんはじっとしていた。 真帆は時計を振り返った。 八時四十九分。 見た瞬間、思っていたより時間が経っていないことに驚いた。こんなに長く感じるなら、あと五分でも持つかもしれない。そう考えた途端、両腕から力が抜けた。五分も、この姿勢でいなければならないのか。 マットが進み始めた。 円盤の列が張り、杉浦さんの体が更衣室へ向かって動いた。水が腹の下を流れた。真帆は左手をマットの端に添えて泳いだ。 出口まで、あと三メートルほどだった。 そこでマットが止まった。 前の端がタイルに乗り上げていた。茶色の床との間に、まだ二歩ほど、乾いたタイルが残っていた。その部分は少しずつ下がっていたが、水はまだ届いていなかった。 園田さんたちがもう一度引いた。先端だけが折れ上がり、杉浦さんの胸が滑った。赤い浮き具が顎に当たる。矢島くんがマットの右端を押さえた。 「止めて。一度、止めてください」 ロープが緩んだ。折れた先端はタイルに貼りついたままだった。 園田さんが床に伏せ、腕を伸ばした。 「手、届く?」 杉浦さんが片手を伸ばした。 指先が、まだ遠かった。 真帆には、彼の動く前にわかった。 腰が上がり、膝が落ちた。マットの下は浅い。立てば届く。そう体が決めた。杉浦さんの目は、園田さんの手を見ていた。 「足を下ろさないで!」 声より先に、杉浦さんが沈んだ。 青いマットが跳ね上がった。赤い浮き具が胸に残ったが、彼の頭を支えきれず、顎の下に挟まった。両膝が沈み、そのまま腰までタイルの中へ落ちた。 水が出口へ向かって一気に流れた。 真帆の体も流された。伸ばせば園田さんの指をつかめるところまで来た。紺色の袖。濡れていない肘。温かそうな、人の掌。 杉浦さんが真帆の脇を過ぎて、下がっていった。 腕が伸びた。何もつかんでいない手が、真帆の水着の肩紐に触れた。その手を払えば、真帆は自分だけ上がれる。園田さんは、ここ、ここ、と言っていた。 真帆は伸ばしていた手を引いた。 杉浦さんのほうを向いた。 逃げたいと思ったまま、潜った。 七 床を信じない 杉浦さんの脚は、タイルの中に埋まっていた。 いや、タイルが脚に沿っているのだった。 青い四角は割れていなかった。足首のくびれにも、膝の裏にも、小さなタイルの列が続いていた。目地だけが細くなり、何十枚もの板が、皮膚の丸みに合わせて並び直していた。 右足の甲は、もう見えなかった。 水着の裾の下に、白い格子が這い上がっている。 真帆は彼の膝に触れた。持ち上げようとした。抜けない。彼の体重が両足へかかっている。真帆が上に引くほど、杉浦さんは立ち直ろうとして底を押してしまう。 真帆の息が足りなくなった。 一度、水面へ出た。杉浦さんの目は開いていた。浮き具に引っかかった顎が上を向き、口だけが水から出たり入ったりしていた。 「立とうとしないで。横になって」 杉浦さんの手が、真帆の肩に乗った。 重さが来た。 十六のときと同じだった。肩から頭が押され、耳に水が入った。口を閉じるより早く、舌の奥まで水が来た。腕を払う動きが出た。 真帆はその腕を、半分で止めた。 止めたからといって、怖さが消えることはなかった。杉浦さんを押し返したかった。ここまで来たのに、どうして私を沈めるのかと、腹が立った。 彼は真帆を水の中で見た。 目が合った。 肩の手が少し緩んだ。杉浦さんは片方の手を、胸の赤い浮き具へ戻した。さっき自分で、ここを持っていると言った場所へ。 真帆は水面に出た。 「背中、支えます」 声はひどく小さかった。 「杉浦さん。後ろに倒れて」 彼の首が動いた。頷いたのか、息ができなかったのか、わからなかった。 真帆はもう一度潜り、杉浦さんの背中に肩を入れた。 自分の足を床につければ、簡単に押せる。膝を伸ばしかけ、やめた。水を押す。腕で、脚で、自分のまわりの水だけを押す。どこにも立たずに、他人の体を支える。 赤い浮き具が上で引かれた。 右側から、矢島くんの両腕が水に入った。杉浦さんの胸を浮かせようとしている。真帆の肩にかかる重さが軽くなった。 杉浦さんの体が、少しずつ横になった。 膝の裏のタイルが開いた。目地が元の太さへ戻り、足首のまわりに水が入った。真帆は右の踵を抱えた。抜こうとして引くのでなく、脚が下がらないように、その重さを受け取った。 足が離れた。 床の上には、杉浦さんの脚の形だけが残った。 それはすぐに、平らになり始めた。立っていた形が薄く延び、脛と足の裏が一枚の面へ広がった。親指が内側を向き、小指が離れた白い足。その周りに、知らない足の輪郭がいくつも重なっていた。 真帆は見続けそうになった。 どの足にも、体がついていなかった。 背中をつかまれ、水面へ引かれた。 真帆は咳き込んだ。鼻の奥が痛く、視界が白く滲んだ。矢島くんは杉浦さんの背中の下へ青いマットを押し戻し、それから真帆の下へ浮き板を差し入れた。杉浦さんは仰向けに浮き、口を大きく開いていた。生きている。真帆はそれだけを何度も確かめた。 ベルの音が止まった。 突然の静けさの中で、床が擦れ合う音が聞こえた。 プールのあちこちで、タイルが水面へ近づいていた。波に揺れる青い面が、何本もの尾根をつくり、三人の体に向かって伸びてきた。底の爪が近くなる。裸の足が乗るだけの広さが、浮いている彼らのすぐ下に用意されていた。 「引いてください!」 矢島くんが叫んだ。 マットがまた動き始めた。 杉浦さんが落ちたために、出口手前の床まで下がっていた。いまは茶色の床の縁まで水が届いている。園田さんと男性の腕が伸び、杉浦さんの両脇をつかんだ。 「足、上げてて」 園田さんが言った。 杉浦さんは脚を上げたまま、マットごと茶色の床へ引き出された。踵がゴムのマットに落ちた。その下は沈まなかった。杉浦さんの体が横に転がり、出口から見えなくなった。 矢島くんが真帆のほうを向いた。 「次、行ってください」 真帆はコースロープをつかみ、出口へ進んだ。 すぐ下に、タイルが触れた。腹に、膝に、硬い面が当たる。その硬さを使って立ち上がれば、目の前の縁を越えられる。体がそう言っていた。 真帆は脚を曲げ、両腕で円盤の列をたぐった。 園田さんの指が届いた。 つかんだ手が滑った。真帆の水着の腹がタイルに引っかかり、下へ引かれた。彼女は短く叫んだ。園田さんが両手で手首を持ち直した。上から男性の手が肩にかかり、真帆の体が床の縁を越えた。 腰まで外へ出ても、脚を下ろせなかった。 「ここ、大丈夫だから」 園田さんは言ったが、真帆は頷けなかった。 矢島くんが下でロープをつかんでいた。真帆は床に這ったまま、彼に手を伸ばした。足に体重をかけることはできなかった。肘と腹でにじり、彼の手を握った。 水面の真下に、もう一つ、彼の手の形が見えた。 白いタイルの中から、同じ指がせり上がっていた。 真帆は上の手を引いた。 園田さんと男性が矢島くんの腕を支え、全員で引き上げた。彼の爪先がタイルから離れた瞬間、水がふくらみ、床の縁へ丸く盛り上がった。 盛り上がった水は、茶色の床には乗ってこなかった。 真帆は仰向けになり、蛍光灯を見た。 いつもの高すぎる天井ではなかった。脱衣所の入口の、低くて、小さな虫が一匹入った照明だった。 杉浦さんが離れたところで咳をした。 矢島くんが、何度も、足を上げて、と言っていた。 誰も、すぐには立たなかった。 八 足を拭く その夜、真帆は救急車の中で靴を履かせてもらった。 自分のロッカーに置いていた白い靴だった。誰かが取ってきてくれたらしい。乾いた靴下はなく、タオルで拭いた裸足のまま履いた。靴の底の硬さを感じて、真帆は吐いた。 杉浦さんも、矢島くんも、病院へ運ばれた。 真帆が二人の無事を確かめられたのは、翌日の昼だった。園田さんが連絡先をつないでくれた。杉浦さんは一晩入院になり、矢島くんは脚の痛みでしばらく松葉杖を使った。電話の向こうで彼は謝ろうとしたが、真帆が先にありがとうと言った。 真帆の足の裏には、白い格子が残っていた。 右の親指の腹から土踏まずまで、細い線が何本も走っていた。痛みはほとんどなかった。押すとその部分だけ色が戻るのが遅かった。写真に撮っても、強い光の下でよく見なければわからない。 ほかに、病院で説明できるものは持っていなかった。 泳いでいた。底が沈んだ。足をつけると、その場所が下がった。真帆は言葉を変えずに何度か話した。それを聞いた人たちも、理由を答えられなかった。 施設は閉まった。 一週間後、園田さんから、預かっていたタオルがあると連絡が来た。プールの中には入らず、駅前で受け取った。園田さんは紙袋を二重にし、中のものが見えないよう、口を小さく折っていた。 「見たんですか。そのあと」 真帆が聞くと、園田さんは頷いた。 「水を抜いたところは」 彼女は紙袋の角を指でつまんだ。 「いつもの底だった。あの足跡も、なくて」 真帆は袋を受け取った。 何もなかったのではない、と言う必要はなかった。園田さんも、自分の足を地面に揃えて、膝を伸ばしきらずに立っていた。 「引っ張るときね」 園田さんは続けた。 「あなたたちの後ろに、底が見えたでしょう。誰かが下から持ち上げてるみたいに。それで、手を離したらいけないと思ったの」 真帆はその先を尋ねなかった。 二週間ほどして、格子は薄くなった。 靴を履く前に毎日確かめた。なくなったと思った次の日、風呂上がりの足にまた線が見え、真帆は廊下に座り込んだ。タオルで何度も拭いたが、足の裏は乾いていた。 風呂の洗い場には、安いゴムのマットを敷いた。 マットの下に床があることは、もちろんわかっていた。それでも、直接触れなければ、少しだけ呼吸が楽だった。その上で足を洗い、目を閉じずにシャワーを浴びた。 十月の終わりに、三人で会った。 杉浦さんが、泳いでいないところで一度会いたい、と言い出した。駅前の喫茶店の一番奥の席で、矢島くんは松葉杖を壁に立てかけた。真帆は温かいココアを注文した。杉浦さんはコーヒーと、卵のサンドイッチを頼んだ。 最初は何を話せばいいかわからなかった。 矢島くんが、実は大学では絵を描いているのだと言った。杉浦さんが、自分は揚げ物を作っているのに油が苦手だと話した。真帆は、仕事帰りに泳いでいたのは体力づくりだけではなく、家に帰ってから仕事のメールを読まないためだったと打ち明けた。 知っていたのは、水着のときの三人だけだった。 服を着た体は、それぞれ別の暮らしの重さを持っていた。杉浦さんの上着の袖には、丸く擦れて白くなった場所があった。矢島くんは財布に、数色の絵の具をつけていた。 「泳げるようになるのは、しばらく先だな」 杉浦さんが言った。 誰も励まさなかった。 「でも、海は見に行きます。砂浜に椅子を置いて、座ってるだけでもいいでしょう」 真帆は、いいですね、と答えた。 窓の外で小雨が降り始めた。歩道のくぼみに薄く水が溜まり、自転車のライトを映した。深さの知れた、小さい水だった。真帆はそれを見て、ココアのカップを両手で包んだ。 帰り際、杉浦さんが立ち上がった。 一度、椅子の脚を見た。真帆も見た。四本とも、木の床についていた。矢島くんが松葉杖を脇に入れるまで、三人はテーブルのそばにいた。 真帆の足の裏に、痛みはなかった。 彼女は確かめてから、最初の一歩を出した。 床に足を置く、その直前。今もそこに、一度だけ、体が沈むだけの深さがある。 (了)
小説 · text · 2026-09-09
深いほうへ歩かない
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