第1話 月曜日の白石さん うちと白石の家は、ブロック塀一枚しか離れていない。 小学校の途中までは、ランドセルを並べて登校していた。中学に上がってからも、玄関を出るタイミングが合えば駅まで一緒に歩いた。 中三の冬から、それがなくなった。理由は、まあ、ある。俺は忘れたことにしている。 四月の第二週、月曜日。 「悠斗、七海ちゃんもうとっくに出たわよ」 台所から母の声が飛んできた。トーストをくわえたまま靴を履く。 「知らねえよ」 「知らないわけないでしょ、隣なんだから」 その理屈でいくと、俺は隣の家の起床時刻を管理する係になる。 結局、始業のチャイムと同時に教室のドアを開けた。 セーフ。俺の中では。 「三宅、アウト」 岡部拓真が頬杖をついたまま言った。去年から同じクラスで、俺の遅刻を数えるのが趣味の男だ。 「今年に入って何回目だと思う」 「まだ四月だぞ」 「四月で四回目だ」 数えてんのかよ。 自分の席に着くと、斜め前の背中が目に入った。白石七海。黒縁の眼鏡、ひとつに結んだだけの髪、リボンは定規を当てたみたいにまっすぐ。教室のざわめきが、そこだけ避けて流れている。 「なあ三宅、あの人、転校生?」 工藤だ。今年うちの学校に来たばかりで、まだクラスの半分の名前を覚えていない。 「白石は一年のときからいる」 「嘘だろ。俺、先週まで一回も見てないぞ」 「いるんだよ、ずっと」 「幽霊枠じゃなく?」 「幼なじみだ。家が隣」 工藤が黙り込んだ。 「……重い情報を軽く出すな」 なんでだよ。 「じゃあ紹介してくれよ」 「無理だ」 「なんで」 「話しかけても三往復で終わる」 「三宅とは何往復するんだ」 「三往復だ」 工藤は俺の肩を叩いて、自分の席に帰っていった。同情されたらしい。 一時間目の前に、担任の佐伯先生が黒板の隅に日付を書いた。 「来週、席替えします。今の席は仮なので、あんまり仲良くならないように」 仲良くなるなという指導があるか。前の席の女子が笑って、教室の温度が一度上がった。七海だけ、笑わないでノートに何かを書いていた。定規を当てて、まっすぐな線を一本。 昼休み。七海は窓を背にして弁当を広げていた。おかずの配置が几帳面すぎて、雑誌の見本みたいになっている。 「白石」 呼ぶと、肩がわずかに動いた。こっちは見ない。 「……悠斗」 小さい。教室の音に三割くらい持っていかれる音量だ。中学のころからこうだった。俺のことだけ名前で呼ぶくせに、顔は見ない。 弁当箱の右下に、卵焼きが二切れ。 「今日のおかず、なに」 「ひじき」 「うまいか」 「ふつう」 会話終了。三往復。今週の最長記録だ。 拓真が横から覗き込んできた。 「お前ら、付き合ってんの」 「なんでそうなる」 「隣の家で、幼なじみで、あの距離で、付き合ってないほうが不自然だろ」 「白石はああいうやつなんだよ。無口で、地味で」 言いかけて口を閉じた。七海の箸が止まっていた。 「……地味で?」 「落ち着いてて、って言おうとした」 「ふうん」 箸が動き出した。命拾いした。 「幼なじみなのに白石呼びなんだな」 拓真が箸の先で俺を指す。 「高一からそうだよ」 「前は何て呼んでたんだ」 「忘れた」 「向こうは悠斗って呼んでるぞ」 「あいつが変なだけだ」 変なだけ、で片づけてきた十七年だった。 放課後、日直の日誌を押しつけられて残っていると、帰り支度を終えた七海がドアの前で一度だけ立ち止まった。 「悠斗」 「なんだ」 「明日、驚かないで」 「なんの話だ」 「明日」 それだけ言って、廊下に消えた。 拓真が窓の外を見たまま言う。 「今の、なんの予告だ」 「知るかよ」 「予告してくるやつは、だいたい本当にやるぞ」 「白石だぞ。あいつが何をやるっていうんだ」 拓真は答えないで鞄を持った。 帰り道、隣の家の門の前を通った。二階の窓に電気がついていて、カーテンの向こうで人影が動いていた。腕を上げて、下ろして、また上げている。体操でもしてるのか。 眼鏡と、まっすぐなリボンと、聞き取れない声。俺の知っている白石七海は、それで全部だった。 翌朝、校門の前で金髪の女が俺の背中に飛びついてきて、耳のすぐそばで「ゆーと〜」と言った。 第2話 ゆーと〜 金髪。付けまつげ。スカートが昨日より明らかに短い。 顔は白石七海だった。 「おはよー、ゆーと〜」 「白石」 「ナナミ」 「白石」 「ナ・ナ・ミ」 朝の校門でこの押し問答を四往復した。負けたのは俺だ。 「昨日、驚くなって言ったよな」 「言ってないし」 「言っただろ」 「言ったのは月曜のあの子でしょ。ウチじゃないし」 真顔だった。冗談を言うときの顔の筋肉が、一つも動いていない。 「体質なの。曜日で変わるやつ」 「そんな体質があるか」 「あるよ。お医者さんも気分の振れ幅だって言ってた」 「振れ幅で髪の色は変わらないだろ」 「これはウィッグ」 自分で言うのかよ。 昇降口で靴を履き替えていると、七海は俺の腕に自分の腕を絡めてきた。距離がおかしい。昨日まで、廊下ですれ違っても半歩よけていた人間だ。 「離れろ」 「やだ」 「先生に見つかる」 「見つかったら、ゆーとが怒られてね」 なんでだよ。 教室に入ると、七海は俺の隣の席の主に何かを耳打ちして、そいつを二つ前の空席に移住させた。外交だ。 「はい、ゆーとの隣」 「席替えは来週だぞ」 「先取り」 昨日まで俺の斜め前にあった地味な背中は、どこにもない。 「岡部くんもおはよ〜」 拓真は一度だけ七海を見て、それから俺を見た。 「三宅、姉妹がいたのか」 「一人っ子だ」 「じゃあ、いとこ」 「白石だよ」 「白石」 「白石七海」 拓真は五秒くらい黙って、それから教科書を開いた。 「そうか」 納得すんのかよ。 朝のホームルームで、佐伯先生は出席簿から顔を上げて、金髪を見た。それから、もう一度見た。 「白石さん、髪」 「地毛です」 「昨日は黒だったでしょう」 「昨日は昨日です」 佐伯先生は口を開けて、閉じて、出席簿に戻った。教師が引き下がるところを初めて見た。 三時間目、七海は俺のノートを勝手に取り上げて、余白にハートを描いた。二つ描いて、三つめの途中で消した。 「消すのかよ」 「多いと重いでしょ」 「一個目から重いんだよ」 消しゴムのかすを、七海は俺の机の端に丁寧に集めた。集め方だけが昨日の白石七海だった。 昼休み、俺は購買のパンの列に並んでいた。遅刻常習犯に弁当を作る時間はない。 「ゆーと、なに買うの」 「焼きそばパン」 「かぶった。じゃんけんね」 「まだ最後の一個って決まってねえだろ」 最後の一個だった。俺は負けた。 七海は焼きそばパンを両手で持って、俺の顔の前で半分に割った。 「はい」 「いいのかよ」 「ウチ、弁当あるし」 じゃあ最初から並ぶな。 教室に戻ると、七海は弁当箱を開けた。唐揚げと、ミニトマトと、右下に卵焼きが二切れ。 「昨日も卵焼きだったな」 「そう?」 「そうだろ。同じ場所に、同じ数」 「気のせいじゃない?」 箸が卵焼きを一切れつまんで、俺の口の前まで来た。 「はい、あーん」 「教室の真ん中で何やらせる気だ」 「ゆーとが食べないならウチが食べる」 結局、俺が食べた。甘い。うちの母親のより砂糖が多い。 この味だけは、昨日と同じ人間が作ったんだろうな、と思った。思っただけで、言わなかった。 「三宅」 廊下で拓真に呼び止められた。 「あれ、本当に白石か」 「本人がそう言ってる」 「声の高さが四つくらい違うぞ」 「四つってなんだ」 「音階だ」 こいつは合唱部でもないのに、そういうところだけ精度が高い。 放課後、七海はスマホを俺の顔の横に突き出した。 「プリ撮ろ」 「機械がないだろ」 「アプリ。目がでかくなるやつ」 肩と肩がくっついた。画面の中の俺は目が異様に大きくて、七海の頭には猫の耳が生えていた。シャッター音が四回鳴って、そのあいだずっと、髪の匂いが近すぎた。 「保存しとくね」 「消せ」 「やだ」 「消せって」 「ゆーと、耳赤い」 「体育のあとだからだ」 六時間目は現代文だった。 「これ、待ち受けにする」 「やめろ」 「じゃあ印刷して、ゆーとの下駄箱に貼る」 「選択肢が全部こっちに不利なんだよ」 「じゃあ待ち受けね」 交渉に負けた回数、今日で四回目だ。 昇降口で靴を履き替えているとき、七海が急に静かになった。 「ゆーと」 「なんだよ」 「明日は静かにするから」 金髪も付けまつげもそのままで、声だけが昨日のものだった。 俺が「静かって、何が」と言う前に、七海は走り出していた。 第3話 二分は二分です 水曜。俺は八時三十二分に校門をくぐった。 そこに三つ編みが立っていた。 「三宅。今、何時ですか」 眼鏡でもウィッグでもない。髪をきっちり二本に編んで、腕に風紀の腕章。 「……八時半」 「三十二分です。二分は二分です」 「まけてくれ」 「時間はまけるものではありません」 昨日「ゆーと〜」と言っていた人間と同じ声帯とは思えない。 「白石」 「白石さん、でしょう」 「昨日は名前で呼べって怒ってたぞ」 「昨日の私に言ってください」 「昨日のお前は今日のお前だろ」 「その理屈だと、昨日の三宅も遅刻していたことになりますね」 「してない」 「一昨日はしていました」 記録が残っている。 朝のホームルームで、七海は教壇の横に立って、提出物の状況を読み上げた。 「未提出。三宅、数学。三宅、古典。三宅、進路希望調査」 「名字だけ三回言うのやめろ」 「三人いるみたいですね」 「一人だよ」 クラスが笑った。佐伯先生まで笑った。担任が笑うな。 「三宅の進路希望、なんて書くんだ」 休み時間、拓真が聞いてきた。 「未定でいいだろ」 「白石は書いたのかな」 「あいつは書くだろ。五部くらい」 「曜日ごとに違う進路だったら面白いな」 笑えない冗談を、こいつは真顔で言う。 「体質なんだってさ」 「へえ」 「信じてないだろ」 「まだ何も言ってない」 拓真は「まだ」と言った。俺はそこを聞き流した。 「委員長、遅刻の記録ってどこに残るんだ」 「私のノートです」 「学校のじゃないのか」 「学校のにも残ります。私のにも残ります」 二重帳簿だ。 「そのノート、見せてくれよ」 「だめです」 断り方が速かった。速すぎて、遅刻の話じゃないみたいだった。 七海は鞄の口を手のひらで押さえて、それから何事もなかったように腕章を直した。 掃除の時間、七海はモップの持ち方から指導してきた。 「三宅、水を絞ってから」 「絞ったぞ」 「床が光っています。滑ったら誰かが転びます」 「誰が転ぶんだ」 その五分後、モップの水たまりで俺が転んだ。七海は口元を手で押さえて、肩を二回ぶん震わせてから、真顔に戻った。 「言いましたよね」 「笑っただろ今」 「委員長は笑いません」 放課後、俺は空き教室で数学の補習を受けることになった。監督は担任ではなく、なぜか七海だった。 「先生は職員会議です。私が見ます」 「委員長ってそこまでやるのか」 「やります」 窓の外でサッカー部が走っている。教室には俺と七海と、シャーペンの音しかない。 「三宅」 「なんだよ」 「そこ、符号」 「合ってるだろ」 「マイナスです」 「どこがだよ」 「両辺に負の数をかけたら、不等号の向きが変わります」 言われてみればそうだった。腹が立つほどそうだった。 消しゴムを探して机の中に手を突っ込んだが、なかった。朝から入れた覚えがない。 「はい」 白い消しゴムが差し出された。受け取るとき、指の先が触れた。 七海の手がぴくりと動いて、数センチぶん引っ込んだ。 「角、使っていいですから」 「おう」 角なんてどうでもよかった。俺はそのあと一分近く、間違っていない符号を消していた。 「三宅は、左でしょう」 「なにが」 「シャーペン。右で持とうとして、持ち替えました」 「見てんのかよ」 「監督ですから」 左利きだと言った覚えはない。まあ、隣の家の幼なじみだ。それくらいは知っているだろう。 「白石さんは、右か」 「私は、日によります」 「それはさすがに嘘だろ」 七海は答えないで、赤ペンで丸をつけた。 「三宅は、なんで遅刻するんですか」 「起きられないからだ」 「目覚まし」 「二個ある」 「三個にしてください」 「増やせば解決すると思ってるだろ」 「思っています」 委員長の世界はきれいだ。俺の朝は、目覚ましを二個止めてから本当の睡眠が始まる。 六時前、廊下に出ると、七海はきっちり五歩ぶん先を歩いた。 「三宅」 「なに」 「明日は、たぶん、うるさいです」 「たぶんってなんだよ」 「たぶんです」 三つ編みが階段を降りていった。 家に帰って、隣の窓を見た。カーテンの向こうで電気がついている。あの部屋で明日の白石七海が準備されている、なんて言い方をしたら、たぶん怒られる。体質なんだから、準備もなにもない。 翌朝、まだ人のいない校舎に入ったところで、体育館のほうから「悠斗ー!」という声が響いた。 第4話 一本勝負 体育館の扉を開けたら、ボールが飛んできた。 顔面で受け止めた。 「悠斗! 反応おそい!」 ポニーテール。ジャージ。声が体育館の端から端まで届いている。 「白石、朝練か」 「バスケ部じゃないから朝練じゃない! 自主練!」 「うるさい」 「聞こえない!」 聞こえてるだろ。 「なんで俺が体育館にいるって知ってた」 「校門で見た。走って追い越した」 「気づかなかったぞ」 「悠斗、朝は下向いて歩くから」 その観察は誰のものだ、と聞きかけてやめた。聞いたところで「木曜だから」と返ってくる。 「一本勝負しよ。あたしが勝ったら、悠斗、なんでも言うこと聞く」 「俺が勝ったら」 「悠斗が勝ったら、なんでも聞く」 条件が同じすぎる。 「乗った」 身長は俺のほうが二十センチ高い。体重も十五キロは重い。中学のときは、こいつをドリブルで抜くのに苦労した覚えがない。 最初の一本で、七海は俺の左手の側に体をねじ込んできた。 左を切られると、俺は右で運ぶしかない。運べない。 「なんで左だけ塞ぐんだよ」 「知らない」 知らないわけがあるか。 二本目は取れると思った。三本目も思った。七本目で思うのをやめた。 結果は七対〇だった。 「待て。なんでそんな動けるんだよ」 「木曜だから」 「答えになってねえ」 膝に手をついている俺の前に、手が差し出された。 「立てる?」 掴んだら、思っていた倍の力で引き上げられて、七海の顔が近いところで止まった。前髪が額に貼りついている。 「悠斗、汗かくと目つき悪くなるね」 「褒めてないだろ、それ」 「褒めてる」 言い切って、七海は手を離した。俺の手のひらだけが、しばらく熱かった。 「悠斗、水」 ペットボトルが飛んできた。今度は受け取れた。半分減っている。 「お前が飲んだやつだろ」 「いやなら飲まないで」 「いやとは言ってない」 「じゃあ飲んで」 飲んだ。そこで、飲んだことに気づいた。七海はもうゴールの下でボールをついていて、こっちを見ていなかった。見ていなかったふりの背中に見えた。 一時間目は古典だった。七海は指名されるたびに立ち上がって、教室の後ろまで届く声で音読した。先生が「もう少し小さくても聞こえます」と言った。七海は「はい!」と言った。同じ音量だった。 そのあと、拓真がノートの端をシャーペンでつつきながら言った。 「あれ、演技だろ」 「なにが」 「白石。月曜と火曜と水曜と今日で、歩き方まで違う。歩幅も、腕の振りも、声の出し方も違う。あそこまで一貫して違えられるのは、体質じゃなくて技術だ」 「体質だって本人が言ってる」 「本人が言ったら事実になるのか」 「なるだろ」 「ならねえよ」 拓真はそこで話を切って、ノートに戻った。こいつはいつも、俺が黙ったところで追撃をやめる。それが一番効く。 「医者にも行ってるって聞いた」 俺が勝手に続けると、拓真はページをめくった。 「なんて言われたって」 「気分の振れ幅、だと」 「振れ幅で髪の色は変わらないだろ」 ウィッグだよ、とは言わなかった。言ったら、演技側の証拠が一つ増える。 「じゃあ聞くけどな」 俺はシャーペンを置いた。 「なんのために演技するんだよ。四日ぶん別人をやって、あいつに何の得がある」 拓真は少し考えて、シャーペンの尻で自分のこめかみを叩いた。 「得のためにやるとは限らないだろ」 「なんだそれ」 「言えないことがあるやつは、口を増やすんだよ」 意味がわからなかった。わからなかったので、腹も立たなかった。 昼休み、七海が俺の机に両手をついた。 「勝った人の権利、使う」 「なんでも聞くってやつか」 「明日の放課後、図書室来て」 「本、読まないぞ」 「読まなくていい。来て」 「体育会系が図書室で何すんだよ」 「体育会系は今日までだから」 「なんでそんなに予定がわかるんだ」 「カレンダー見れば誰でもわかるよ」 わからねえよ。 放課後、体育館の入口で七海はもう一度だけ振り返って、両手をメガホンにした。 「悠斗! 絶対来て!」 「わかったから叫ぶな」 窓ガラスが少し震えた気がした。 翌日の放課後、図書室の扉を開けると、窓際の席から「三宅くん」という、聞いたことのない静かな声がした。 第5話 しおり 金曜の昼休み、拓真に釘を刺された。 「今日、図書室行くんだろ」 「なんで知ってる」 「昨日あれだけ叫べば校舎の半分は知ってる」 「行くよ。約束だからな」 「本、読めよ」 「読まない」 「読めって」 拓真がそこまで言うのは珍しかった。 「借りたものは、中まで見ろ。表紙だけ見て返すな」 国語教師みたいなことを言う。俺は聞き流した。 放課後、俺は図書室の前で立ち止まった。 入りにくい。人生で二回しか入ったことがない場所だ。二回とも夏休みの宿題を写しに来ただけだった。 「三宅くん、遅い」 窓際から声がした。 図書室の白石七海は、髪を下ろしていた。 眼鏡でもウィッグでも三つ編みでもポニーテールでもない。ただ下ろしただけ。それが一番、見たことがなかった。 「五分だろ」 「五分あれば、詩が一編読めます」 「読めるのがえらいのか」 「えらくはないけど、五分は五分だよ」 一昨日、同じ理屈を別の声で聞いた気がする。 七海は文庫本を閉じて、向かいの席を指した。図書室には他に誰もいない。司書の先生も職員室に行ったきり戻ってこない。 「本、読まないんだよね」 「読まない」 「一年のときの読書感想文は」 「あらすじで書いた」 「最低」 「読んでないのに感想は書けないだろ」 「読めばいいのに」 正論すぎて反論の入口がない。 「じゃあ、なんで俺を呼んだんだ」 「勝ったから」 「昨日のお前が勝ったんだろ」 七海は指で本の角を揃えた。 「昨日の私も、私だから」 初めてだった。曜日を切り分けないで話したのは。俺がそれに気づく前に、七海は立ち上がっていた。 棚のあいだを歩いて、薄い一冊を抜いてくる。 「これ、貸す」 「図書室の本を、お前が貸すのか」 「私の。持ってきたの」 表紙は白くて、題名だけが青い字で入っていた。百三十ページ。俺でも死なない厚さだ。 「三宅くんが読めるように、いちばん短いのにした」 「バカにしてるだろ」 「してない。読んでほしいだけ」 声が小さくなった。図書室だからだと思うことにした。 ぱらぱらとめくると、真ん中あたりで指が止まった。しおりが挟まっている。 厚紙を切ったような手作りのやつで、角が丸く落としてあった。表に、鉛筆で小さく「三宅」と書いてある。 「これ」 「あ」 七海が手を伸ばしかけて、途中で止めた。指が机の上で止まったまま、五秒くらい動かなかった。 「持ち主の名前か。前に借りたやつが書いたのかな」 「そう」 「律儀だな。しおりに名前まで書くか」 「書く人は、書きます」 「三宅って、俺以外にもいるんだな」 「いると思う」 「同じクラスにはいないぞ」 「学校の外にもいるよ」 それはそうだ。俺はしおりを元のページに戻して、本を鞄に入れた。七海は文庫本の背を、親指の腹でずっと撫でていた。 窓の外が赤くなってきた。 「三宅くん」 「なんだ」 「読んだら、感想を一行でいいから言って」 「面白かった、でいいか」 「それは感想じゃなくて評価だよ」 「難しいこと言うな」 「一行でいいって言ってるのに」 「一行が一番難しいんだよ」 「わかってるじゃないですか」 褒められたらしい。読まずに褒められた。 七海が椅子を引いて立ち上がったとき、机の脚に膝をぶつけて前によろけた。俺が肩を掴んで止めた。 「悪い」 「……ううん」 髪が下りているぶん、耳がよく見えた。赤かった。図書室は寒いくらいなのに。 手を離すタイミングが、たぶん一秒遅れた。 帰り道は途中まで同じだ。二人とも黙って歩いた。金曜の七海は歩幅が小さい。俺が合わせると、三歩に一度だけ肩が触れる。 「明日、家にいる?」 「土曜は寝てる」 「じゃあ、いる」 「起こすなよ」 「起こす」 「文学少女がそこは強気なんだな」 七海は口の端だけで笑った。声は出さない。 「文学少女は今日までなので」 また、それだ。 土曜の朝、インターホンで叩き起こされて玄関を開けたら、七海が両手を広げて「ゆうくん、遊ぼ」と言った。 第6話 毎日これなのよね 土曜の朝八時。インターホンが四回鳴った。 玄関を開けると、白石七海が両手を広げて立っていた。髪を左右で二つに結んで、リュックを背負って、足元はサンダル。 「ゆうくん、遊ぼ」 「帰れ」 「やだ」 俺のパジャマの裾を掴んで、そのまま廊下を歩き出した。誘拐だ。 「あら七海ちゃん、いらっしゃい」 母が台所から出てきた。金髪の日も三つ編みの日も見ていないから、二つ結びくらいでは何も起きない。 「おばちゃん、これ」 七海がリュックからタッパーを出す。母はふたを開けて、皿に移した。 卵焼きだった。厚みも、焼き色も、切り方も、平日の弁当箱に入っていたものと同じだった。 「毎日これなのよね、あの子」 「毎日って」 「お弁当。他のおかずは全部変わるのに、卵焼きだけずっと同じなの」 「なんで母さんが知ってんだよ」 「見せてくれるもの」 俺には見せない。というか、俺は見ようとしたことがない。 「ゆうくん、ゲームしよ」 七海はもうテレビの前に座っていた。コントローラーを二つ抱えている。うちの機械の置き場所を、住人より正確に知っている。 「レースな」 「うん」 三戦して、三戦とも七海が最下位だった。木曜のあいつなら一位を取る。曜日で運動神経まで変わるのか。 「もういっかい」 「四回目だぞ」 「もういっかい」 「わかったよ」 五回目で七海が三位になった。両手を挙げて、俺の肩を叩いた。力が強い。幼児化しても握力は木曜のままらしい。 「ゆうくん、へやみたい」 「見るもんないぞ」 「みたい」 二階に上がると、七海は勝手に押し入れを開けて、勝手に段ボールを引きずり出した。小学校のアルバムが出てきた。 「これ、ゆうくん」 「前歯がないな」 「これ、ななみ」 「お前も前歯がないぞ」 同じ年に同じ場所が抜けている。近所の子どもというのは、だいたいそういうものだ。 七海はページをめくる手を止めて、六年生の集合写真の端を指でなぞった。 「このころは、いっしゅうかん、おなじだったね」 「なにが」 「なんでもない」 子どもの言い方じゃなかった。俺が顔を上げたときには、七海はもう次のページをめくっていた。 昼、母がそうめんを茹でた。七海は薬味のねぎを全部よけた。 「ねぎ、食べないのか」 「きらい」 「平日は食べてるだろ。水曜の弁当、ねぎ入ってただろ」 箸が止まった。ほんの半秒だった。 「……水曜のこ、えらいね」 「他人事かよ」 七海はそうめんをすすった。ねぎだけが皿の端にきれいに集まっていた。その集め方は、月曜の弁当箱の几帳面さと同じだった。 午後、母が庭のプランターに水をやっているあいだ、七海は縁側に座って足をぶらぶらさせていた。 「ゆうくん」 「なんだ」 「ゆうくんは、なんようびがすき」 「曜日に好きも嫌いもあるか」 「あるよ」 「じゃあ土曜」 「なんで」 「学校がないから」 七海は膝を抱えて、しばらく黙った。サンダルのつま先が、板の縁を二回叩いた。 「そっか。がっこうが、ないから」 答えを間違えた気がした。何を間違えたのかはわからない。 「ゆうくん」 「まだあるのか」 「げつようびは」 「月曜は嫌いだよ。学校あるし、朝起きられないし」 七海はうなずいた。深くうなずいた。それきり、何も聞かなかった。 おやつのあと、七海はソファで寝た。二十分で寝た。毛布を掛けようとしたら、寝たまま袖を掴まれて、外すのに五分かかった。 母が通りすがりに言う。 「起こさないであげてね」 「客だぞ」 「あの子、平日ちゃんと寝てないんじゃないの」 「なんで」 母は答えないで台所に戻った。この家で一番いろいろ知っているのは、たぶんこの人だ。 夕方、七海は起きて、空のタッパーを回収して、玄関で靴を履いた。やっぱりサンダルだった。 「ゆうくん、またね」 「明日は」 「あしたは、しらない」 「知らないってなんだ」 「ゆうくんも、しらないほうがいいとおもう」 塀の向こうに、二つ結びが消えた。 翌日の昼、コンビニのおにぎりの棚の前で鉢合わせた。俺が「よう」と言うと、七海は一歩下がって、こう言った。 「どちら様ですか」 第7話 箸 「どちら様ですか」 日曜の昼、コンビニのおにぎりの棚の前だった。 白石七海は髪をゆるく巻いて、見たことのない色のカーディガンを着ていた。眼鏡もウィッグもない。ただ、目の中に俺がいなかった。 「三宅だけど」 「三宅さん」 「幼なじみだけど」 「そうなんですね」 初対面の人に事情を説明されたときの顔だった。 そもそも俺は、日曜の昼に外を歩く人間じゃない。 朝十時、まだ布団の中にいたら、母が階段の下から叫んだ。悠斗、牛乳買ってきて。なんで俺が、と言い返したら、昨日あんたが全部飲んだからよ、と戻ってきた。 反論の材料がない。財布だけ持って家を出た。この用事さえなければ、この日曜は起こらなかった。 「あの、失礼ですが、私に何かご用でしょうか」 「用はない。おにぎり買いに来ただけだ」 「奇遇ですね。私もです」 奇遇でもなんでもない。この半径三百メートルにコンビニはここしかない。 七海は鮭を取った。俺は昆布を取った。ついでにカップのうどんを一つ足した。 レジで前後に並んだ。会計のあいだ、七海は俺のほうを見ないで、店員に「袋はけっこうです」と言った。声の高さが、この六日のどれとも違う。 外に出たら、雨が降り始めていた。 「傘、持ってきてないんですけど」 「俺もだ」 「じゃあ、やむまで」 七海はイートインのカウンターを指した。他人と雨宿りする作法としては、たぶん正しい。 俺はうどんに湯を入れて、ふたを閉めた。七海はサラダのふたを開けた。窓の外を車が通るたび、水の跳ねる音がした。 「三宅さんは、高校生ですか」 「同じ学校だ」 「そうなんですか」 「同じクラスだ」 「まあ」 まあ、じゃない。 「ご兄弟は」 「一人っ子」 「ご趣味は」 「面接かよ」 「すみません。会話が続かないと思って」 続けようとしているだけ、月曜よりましだ。そう言いかけて、やめた。他の曜日の話は、この人にしないほうがいい気がした。 七海はカウンターの端の箸立てから、割り箸を二膳抜いた。 一膳を自分の右に置いた。 もう一膳を、俺の左に置いた。 俺はそれを取って、袋を破った。うどんは、三分きっちり待つとうまい。 「三宅さんは、雨、好きですか」 「別に」 「私は好きです。傘の下は、誰にも顔を見られないので」 「見られたら困る顔なのか」 「どうでしょう」 七海はレタスをフォークで刺した。刺しただけで、口に運ばなかった。 「白石」 呼んでみた。 反応がなかった。肩も動かない。月曜のあいつなら、名前を呼ばれる前に肩が動く。 「白石七海」 「はい」 二回目で返事をした。名前を確認された人の返事だった。 「三宅さんは、日曜はいつも何をしてるんですか」 「寝てる」 「もったいない」 「そっちは」 「私は、日曜が一番、楽です」 「楽」 「誰も私に、昨日の話をしないので」 うどんの汁が、少し冷めていた。 「昨日、何かあったのか」 「知りません。昨日のことは、わかりませんから」 窓に水滴の筋がついて、外の看板がぼやけていた。俺は、その言い方の意味を考えようとして、途中でやめた。考えると、負ける気がした。 雨は二十分でやんだ。七海はごみをまとめて、椅子をきちんと戻した。 「ごちそうさまでした」 「奢ってないぞ」 「言い方の問題です」 「それは同意する」 七海は少しだけ口の端を動かして、それを自分で押し戻した。 「三宅さん」 「まだあるのか」 「幼なじみって、どういう感じですか」 「聞くのかよ、それを」 「私には、いないので」 目の前にいるだろ、と言いかけて、飲み込んだ。この人にとっては本当にいないのかもしれない。 「そうだな。話さなくても気まずくない、けど、大事な話はできない」 「便利ですね」 「便利じゃないんだよ、それが」 七海はうなずいて、レジ袋をきれいにたたんだ。たたみ方だけが、六日のどれとも同じだった。 「では、失礼します」 「おう」 「三宅さん」 「なんだ」 「明日、学校で会ったら、知らない顔をしていていいですよ」 「なんでだよ」 「そのほうが、私は楽なので」 自動ドアが開いて、閉まった。濡れたアスファルトの上を、俺の知らない歩き方が遠ざかっていった。 月曜の朝、校門の前で七海が鞄を持ち直したとき、口の開いたところから、七色の付箋の束が落ちた。 第8話 見てない 七色の付箋が、アスファルトに落ちた。 月曜の朝、校門の前だった。束は落ちた拍子にほどけて、扇みたいに広がった。赤、橙、黄、緑、青、紫、それから白。 俺はしゃがんで拾った。拾いながら、見た。見るつもりはなかったが、目は勝手に読む。 緑の一枚に「静かにする」。 青の一枚に「五分は五分」。 白の一枚に、何も書いていなかった。 この日、俺は珍しく八時十五分に家を出ていた。理由はない。前の日に他人から敬語を使われたせいで、寝つきが悪かっただけだ。 早く出た人間だけが、落ちたものを拾える。拾わずに済む方法は、遅刻することだった。 「悠斗」 頭の上から声がした。眼鏡。ひとつに結んだ髪。まっすぐなリボン。月曜の白石七海が、俺の手元を見ていた。 俺は付箋を揃えて、色を確認しないふりをして、束のまま差し出した。 「落ちてたぞ」 七海は受け取らなかった。しばらく、俺の手のひらを見ていた。 「……見た?」 「見てない」 俺の人生で三本の指に入る、下手な嘘だった。 「そう」 七海は付箋を受け取って、鞄の一番奥に押し込んだ。指が震えていた。俺の指のほうが震えていたかもしれない。 「白石」 「なに」 「なんでもない」 「そう」 三往復。今週も最長記録だ。 一時間目が始まる前、拓真が俺の机に肘をついた。 「顔がまずいぞ」 「元からだ」 「今日のは元からじゃない」 俺は言うつもりがなかった。五分後には言っていた。付箋のこと、色が七つあったこと、文字が書いてあったこと。 拓真はシャーペンを置いた。 「曜日と、色。七つ」 「そうだけど」 「管理表だ」 教室のざわめきが、そこだけ止まった気がした。止まったのは俺の側だけだったと思う。 「今日は何色だった」 「知るかよ」 「緑に静かにするって書いてあったんだろ。静かにするって言われたの、いつだ」 「火曜の帰りに、明日は静かにするからって」 「明日って、水曜だな。委員長の日だ」 「緑は水曜ってことか」 「知らねえよ。俺が読んだのは、お前の話だけだ」 拓真は自分の推理を自分で回収しなかった。そういうところが一番こわい。俺は残りの六色を頭の中で並べ替えて、二つ目で詰まった。 昼休み、工藤がパンをくわえたまま乱入してきた。 「三宅、白石さんって何人いるんだっけ」 「一人だ」 「先週は幽霊枠だったのに、今週は金髪と三つ編みと、あと体育館で叫んでるやつがいたぞ」 「全部同じやつだ」 「双子か」 「一人っ子だ」 「四つ子じゃなく?」 「増えてるだろ、それ」 「じゃあ、日曜にコンビニにいたやつは誰だ」 「見たのか」 「カーディガンの人。三宅と並んでレジにいた」 「人違いだ」 「三宅は一人しかいないだろ」 自分の名字で殴られた。 工藤は納得しない顔でパンを飲み込んだ。納得しないほうが正しい。 七海は昼も窓を背にして弁当を食べていた。今日はきんぴらだった。右下に卵焼きが二切れ。 「白石」 「なに」 「土曜にうちに持ってきたやつも同じだった」 箸が止まった。今度は半秒じゃなかった。 七海は弁当箱のふたを閉めた。まだ半分残っていた。 「悠斗」 「なんだよ」 「見たんでしょ」 「見てない」 二回目の嘘は、一回目より下手だった。 五時間目は自習だった。俺はプリントの余白に、色の名前を七つ書いた。赤、橙、黄、緑、青、紫、白。並べてみても、何もわからない。わかったのは、俺が七海のことを何も知らないという事実だけだった。 隣の家に十七年住んでいて、名前で呼ばれていて、それでこれだ。 放課後、七海は掃除当番でもないのに黒板をきれいにして、俺より先に帰った。俺は日誌を書きながら、緑と、青と、白の順番を思い出そうとしていた。思い出せなかった。 翌朝、俺が昇降口に着いた瞬間、金髪が正面に立ちふさがって、付けまつげ越しに言った。 「あんた、見たでしょ」 第9話 バカみたい 「あんた、見たでしょ」 火曜の朝、昇降口。金髪。付けまつげ。ただし距離が近くない。一メートル空けて立っている。 「見てない」 「三回目の嘘は、もっとうまくやりなよ」 数えられていた。 工藤が横を通りながら手を挙げた。 「おはよう三宅、彼女?」 「幼なじみだ」 「金髪の幼なじみか。うらやましいな」 「持っていけ」 「持っていかれないから」 七海が俺を見ないまま言った。工藤は両手を挙げて退散した。逃げ足だけは学年一位だ。 「今日はどこにも行かないから、そんな顔しないでよ」 「どんな顔だ」 「逃げるなって顔」 逃げるのはいつも俺のほうだ、とは言わなかった。言葉にする前に、七海は上履きを履き替えて、先に行ってしまった。 一時間目から四時間目まで、七海は一度も俺のほうを向かなかった。 「ゆーと」も言わない。腕も絡めてこない。金髪と付けまつげだけが、いつもの火曜だった。 昼休み、屋上に続く階段の踊り場に呼び出された。 「なに書いてあった」 「だから見て」 「見たって言えばいいじゃん」 「……見た」 「ほら」 七海は壁に背中を預けた。 「緑に、静かにするって書いてあった。青に、五分は五分。白は、何も書いてなかった」 「白は」 「白は、何もなかった」 「そう」 その一言の落ち方が、他のどれとも違った。 「なんで見たって言わなかったの」 「言ったら、お前が困ると思ったからだ」 「困らせたくないなら、拾わないでほしかった」 「落としたのはお前だろ」 「うん」 あっさり認めるところが、逆に怖かった。 「あれ、何なんだよ」 「べつに」 「べつにで七色の付箋を持ち歩くやつがいるか」 「メモ」 「曜日ごとのメモか」 七海が黙った。付けまつげが一回だけ下りた。 「岡部が言ってた。管理表だって」 「岡部くん、頭いいね」 「否定しろよ」 「なんで」 「なんでって」 「岡部くん、白は何だって」 「言ってない」 「じゃあ、あんたはどう思った」 「書き忘れだろ」 七海が笑った。火曜の笑い方じゃなかった。 「そうだね。書き忘れ」 言葉が続かなかった。 俺はここで、体質だって信じてる、と言えばよかった。言えば、たぶん今日が終わった。 「毎朝別人になるって、本気で言ってんのか」 「言ってる」 「医者が気分の振れ幅って言ったんだろ」 「言った」 「振れ幅で、ウィッグをかぶるのか」 七海の指が、スカートの布を握った。 「ウィッグは、火曜のウチのものだから」 「その言い方だよ」 声が大きくなっていた。踊り場は音が響く。 「火曜のウチ、月曜のあの子、水曜のこ。全部お前だろ。全部一人だろ。それを一週間ずっと真面目に相手して、毎朝別人だって信じてる俺が、バカみたいだ」 言ってから、聞こえた。 自分の声が、階段を二階ぶん降りていく音が聞こえた。 七海は動かなかった。金髪の前髪の下で、まばたきが一回。 「そうだね」 「白石」 「ゆーと」 今日初めて、そう呼ばれた。 「バカみたいだね」 付けまつげが濡れていたかどうかは、わからない。七海は俺のほうを向かないまま階段を降りて、そのまま校門を出ていった。 誰もいない踊り場に、俺だけが残った。 階段の壁は白くて、汚れが一つもなかった。汚れがないと、自分の声が出ていった方向がよく見える気がする。 五時間目の英語で、先生が出席を取った。 「白石さん」 返事がなかった。先生はもう一度呼んで、それから何も言わずに次に進んだ。俺の隣の席が空いていた。六時間目も空いたままだった。空いた席というのは、思っていたよりずっと大きい。 放課後、拓真が鞄を持ちながら言った。 「何言った」 「バカみたいだって言った」 「誰が」 「俺が」 「誰のことを」 「……俺のことを」 「そう聞こえたと思うか、あいつに」 思わない。 拓真はそれ以上聞かないで、教室を出ていった。窓の外はまだ明るかった。隣の家の電気が、その夜はずっと消えていた。 翌朝の教室で、三つ編みが俺の机の前に立って、事務的にこう告げた。 「三宅、席替えよ」 第10話 明日でいい 「三宅、席替えよ」 水曜の朝。三つ編み。腕章。声に温度がない。水曜はもともと温度がない。それでも、違った。 「昨日のことだけど」 「くじを引いてください」 「白石」 「白石さんです」 佐伯先生が箱を持って教室を回った。俺は二十六番を引いた。廊下側の一番前、教卓の真横。遅刻常習犯には拷問みたいな席だ。 「三宅、前じゃん」 工藤が笑った。 「お前は」 「窓際の後ろ」 「代われ」 「いやだよ」 「一生の頼みだ」 「先週も一生の頼みって言ってたぞ」 俺の一生は短い。 七海は窓際の一番後ろを引いた。教室の対角線だった。定規で引いたみたいに遠い。 机を運ぶあいだ、七海は俺の席の横を通った。通っただけだった。 ただ、俺の机の上に白い消しゴムが置いてあった。角が一つ、丸く削れている。先週の水曜に借りて、返しそびれたやつだ。 返しに来たのか、置いていったのか、どっちだ。 三時間目、俺は教卓の真横で当てられた。答えられなかった。教室の一番後ろから、椅子の動く音がした。振り返らなかった。振り返ったら、あいつが窓の外を見ていたかどうかがわかってしまう。 昼休み、七海は自分の席で弁当を開けた。今日はきんぴらでもひじきでもなくて、中身が見えなかった。ふたを立てて食べていたからだ。 立てたふたの向こうに、卵焼きがあるかどうか、俺の席からは見えなかった。 「三宅、元気ないな」 五時間目のあと、工藤が俺の肩を叩いた。 「席が前だからだ」 「白石さんと喧嘩したって聞いたぞ」 「誰から」 「二組の女子」 情報が学年をまたいでいる。 「喧嘩じゃない」 「じゃあ何」 「俺が勝手に怒って、勝手に言い過ぎた」 「それ、喧嘩より悪いやつじゃん」 工藤はいいことを言うときだけ、こっちを見ないで言う。 放課後、俺は一人で帰った。 隣の家の門の前で、足が止まった。 三年前の十二月。部活を引退して、俺たちは受験生だった。 塾の帰り、この門の前で、七海が俺の名前を呼んだ。 「悠斗」 あのころから声は小さかった。でも、その日の声は、ちゃんと俺に届いた。 「話があるの」 息が白かった。手袋をしていなくて、指先が赤かった。俺は自分の靴の先を見て、それから空を見た。空には何もなかった。 「明日でいい?」 言ったのは俺だ。 七海は「うん」と言った。ちゃんと、うん、と言った。 次の日、俺は違う道を通って塾に行った。その次の日も。冬休みが終わるころには、隣の玄関が開く音がしても、俺は動かなくなっていた。 高校に上がって、あいつは眼鏡をかけて、髪をひとつに結んで、声が半分になった。 俺はそれを、そういう人間だと思うことにした。 夕飯のとき、母が味噌汁をよそいながら言った。 「七海ちゃん、今日は来なかったのね」 「来る日のほうが少ないだろ」 「先週はずいぶん来てたじゃない」 「土曜だけだ」 母はおたまを置いて、俺の顔を見た。 「悠斗。あの子ね、家を出る前に、必ず二階の窓からうちを見るのよ」 「見てどうすんだよ」 「さあ。何かを決めてるんじゃない」 それ以上は言わなかった。この人はいつも、ここで止める。 夜、拓真から電話がかかってきた。 「明日、あいつ来ると思うか」 「来るだろ」 「お前、昨日なんで怒った」 「怒ってない」 「怒ってただろ。信じてる俺がバカみたいだ、なんて、怒ってなきゃ出ない言葉だ」 「嘘つかれてるみたいだったからだよ」 「嘘をつかれるのが、そんなに嫌か」 「嫌だろ、ふつう」 拓真は少し黙った。受話器の向こうで、テレビの音が小さくなった。 「なあ三宅」 「なんだよ」 「お前が先に逃げたんじゃないの」 俺は何も言えなかった。言えなかった時間が、たぶん十秒あった。 「切るぞ」 「拓真」 「なんだ」 「なんでもない」 電話が切れた。 机の上に、白い消しゴムが置いてあった。角の丸いところを、親指で押した。押したところで何も出てこない。 俺は自分の部屋の窓から、隣の家の二階を見た。電気はついていた。カーテンの向こうで、人影は一度も動かなかった。 翌日の四時間目、体育館に整列したクラスの列に、ポニーテールはなかった。 第11話 木曜なのに 木曜の四時間目、体育館にポニーテールはいなかった。 バスケのコートが四面。俺は一番端でボールをつきながら、入口を何度も見た。誰も入ってこなかった。 「白石、風邪か」 工藤がパスを寄越す。 「知らない」 「幼なじみだろ」 「隣の家に住んでるだけだ」 その言い方をしたのは、生まれて初めてだった。言ったあとで、手からボールが転がっていった。 朝から、わかってはいた。 七時五十分に家を出た。今週で二回目の快挙だ。隣の門の前で足を止めたら、新聞受けに朝刊が入ったままだった。白石の家は、七海が必ず先に取る。小学校からずっと続いていた。 押しても鳴らないインターホンみたいな顔で、俺はそのまま駅まで歩いた。 昼休み、拓真が保健室の方向を顎で示した。 「いるぞ」 「なんで知ってる」 「三時間目に廊下ですれ違った」 「歩いてたのかよ。元気じゃねえか」 「歩き方が月曜だった」 俺は走った。 保健室のカーテンが半分だけ開いていた。 ベッドの縁に、七海が座っていた。 髪は結んでいない。ジャージでもない。制服のまま、膝の上に両手を置いて、背中を丸めていた。 「白石」 顔が上がった。何も言わない。 「今日、木曜だぞ」 「うん」 「木曜は髪を結ぶだろ」 「うん」 「廊下の端から俺の名前を叫ぶだろ。ボールを顔に投げてくるだろ」 「うん」 うんが四回続くと、こっちの喉が詰まる。 「できないんだ、今日」 声が小さかった。月曜の声だった。 「木曜なのに」 「うん。木曜なのに」 七海は自分の手のひらを見ていた。バスケットボールを七本連続で沈めた手だ。今日はスカートの上で丸まっている。 「熱、あるのか」 「たぶん」 「たぶんって」 「はかってない」 「はかれよ」 「はかると、ないってわかるから」 その言い方で全部わかった気になって、次の瞬間、何もわかっていないことに気づいた。 「昨日、俺が言ったことだけどな」 「あれは、正しいよ」 「正しくない」 「バカみたい、は正しい。悠斗じゃなくて、私が」 「そうじゃないだろ」 「そうだよ」 カーテンの向こうを、上履きの音が通り過ぎていった。 俺は鞄から本を出した。白い表紙の、百三十ページのやつ。 「読んだ」 「うそ」 「読んだって」 「感想」 「一行だろ。えっと」 二日かけて考えたのに、口に出そうとしたら全部消えた。 「……主人公が途中で一回、嘘をつくだろ。あれ、俺だ」 七海は本を受け取って、膝の上に置いた。指が表紙の上で止まった。 「一行になってない」 「難しいって言ったろ」 「うん。でも、感想だった」 初めて褒められた気がした。読んだのに褒められるまで六日かかった。 「白石。あのさ」 「なに」 「中三の冬の、あの日の」 カーテンが勢いよく開いた。 「三宅くん、ここは病人の部屋よ」 養護教諭の先生が体温計を持って立っていた。 「白石さん、七度二分。微熱ね。おうちの人に連絡しておきました」 「はい」 「三宅くんは五時間目。行きなさい」 「先生、あと三分」 「三分で治る病気なら苦労しないの」 治す話はしていない。 「三宅くん、白石さんの何なの」 「隣の家です」 「それは住所でしょう」 正論が保健室にもあった。 俺は扉に手をかけた。後ろから声がした。 「悠斗」 振り返ると、七海は本を胸の前で抱えていた。 「明日、図書室」 「行く」 「行かなくていい」 「どっちだよ」 「……行かないで」 カーテンが閉まった。閉まる直前、七海の指が本の背をなぞっていた。金曜と同じ触り方だった。木曜なのに。 五時間目、六時間目と、俺は窓際の一番後ろの席を見ないようにして過ごした。見ないようにすると、そこにあるものが一番よく見える。 机は空のままだった。椅子だけが、きちんと中に入れてあった。誰が入れたのかはわかっている。あいつは帰るとき必ず椅子を入れる。日曜のコンビニでも入れていた。 放課後、拓真が下駄箱で待っていた。 「どうだった」 「木曜じゃなかった」 「崩れたか」 「崩れるって言うな」 「じゃあ何て言うんだよ」 言い返せなかった。崩れる、以外の言葉を、俺は一つも持っていなかった。 翌日の放課後、図書室の窓際の席に七海はいなくて、机の上に、しおりが一枚だけ置いてあった。 第12話 裏 金曜の放課後、図書室の窓際に七海はいなかった。 机の上に、しおりが一枚だけ置いてあった。厚紙を切って、角を丸く落とした手作りのやつ。表に鉛筆で「三宅」。 俺は椅子に座って、それを裏返した。 裏に、同じ鉛筆で書いてあった。 『月曜日の私は、言えない』 図書室の時計の音が、急に大きくなった。 その日、俺は朝から時計しか見ていなかった。二時間目に工藤がノートを借りに来て、俺のノートを開いて、閉じた。 「これ、色の名前が七つ書いてあるだけだぞ」 「それが二時間目の内容だ」 「うちの学校、そんな授業あったか」 なかった。俺にできるのは七つの色を並べることだけで、そのうちの一つが、今、手の中で裏返っている。 最初に浮かんだのは、一週間前の自分の顔だった。しおりを見て、本の持ち主の名前だと思った俺の顔だ。持ち主の名前なら、なんで俺の名字なんだよ。三宅って、俺以外にもいるんだな、なんて言った男が、この世でいちばん間抜けだ。 先週の月曜、俺はこの学校で一番静かな女子の斜め後ろに座っていた。声は小さくて、会話は三往復で終わって、それで全部だと思っていた。 全部じゃなかった。 全部は、鉛筆で、しおりの裏に書いてあった。 俺は棚のあいだを歩いた。先週、七海が薄い一冊を抜いた場所を探した。同じ高さの棚に、同じくらいの厚さの本が並んでいて、どれがどれだかわからない。抜けた場所は、もう埋まっていた。 「見つけたか」 拓真がドアの枠に寄りかかっていた。 「いつからいた」 「お前が裏返す前から」 「言えよ」 「言ったら、お前が自分で見つけたことにならないだろ」 こいつは友達をやるには賢すぎる。 拓真は向かいの椅子を引いて座った。 「二週間、外から見てた感想を言っていいか」 「どうぞ」 「七人全員あいつだよ。全員、お前に言いたいことがある」 「知ってる」 「知らないだろ」 知らなかった。俺は一週間、言われた側にいて、何を言われたのか一つも数えていなかった。数えていたのは付箋の色だけだ。 「月曜だけ、何も言わないんだよ」 俺が言うと、拓真はうなずいた。 「言えないんだ。だから六人に言わせてる」 「なんで言えないんだよ」 「それは俺の管轄じゃない。お前の管轄だ」 拓真は立ち上がって、鞄を肩にかけた。 「三宅。ひとつだけ聞くぞ」 「なんだ」 「中三の冬に何があった」 「……なんでそこに行き着くんだよ」 「白石が眼鏡をかけ始めたのが高一の四月だ。お前が白石って呼び捨てに変わったのも同じころだ。原因はその前にある」 観察力を犯罪以外に使ってくれてよかった。 「言いたくないなら言うな。俺じゃなくて、あいつに言え」 ドアが閉まった。図書室に俺としおりだけが残った。 窓の外で、野球部のノックの音がした。金属の音が二回、間が空いて、また二回。 俺は机に置いたままのしおりを、もう一度裏返した。 『月曜日の私は、言えない』 言えないと書ける人間は、言いたいことがある人間だ。書かない人間は、書くこともない。 三年前の十二月、隣の家の門の前で、あいつは言おうとしていた。俺は明日でいいと言った。 言えなくしたのは、たぶん、俺だ。 俺はしおりを鞄の一番前のポケットに入れた。折れないように、教科書とノートの間じゃなく、ポケットに入れた。それくらいのことは、一週間遅れでもできる。 その夜、俺は隣の家の二階の窓を見ていた。電気はついていた。人影は動かなかった。カーテンの向こうで、あいつは何色の付箋を持っているんだろうと思った。 窓を開けて名前を呼べば、たぶん届く距離だ。中三の冬も、この距離だった。届かなかったのは距離のせいじゃない。 俺は窓を閉めて、鞄の前ポケットを一度だけ開けて、また閉めた。 土曜の朝七時、スマホが鳴った。白石七海から、初めてのメッセージが届いていた。 『うちに来て』 第13話 七色 土曜の朝八時、俺は隣の家のインターホンを押した。 九年ぶりだった。最後に押したのは小学二年のときで、そのころは背伸びが必要だった。 ドアを開けたのは、髪を左右で二つに結んだ七海だった。 「ゆうくん、あそ」 途中で止まった。二つ結びの片方に、手が行きかけて、下りた。 「……今日は、やめる」 「いいのか」 「よくない。でも、やめる」 七海は俺を家に上げて、二階に案内した。案内されなくても場所は知っていたが、黙ってついていった。 階段の途中で、白石のおばさんとすれ違った。 「あら悠斗くん。大きくなったわねえ」 「先週も会いました」 「先週も大きかったわ」 この家系は、そういう返しをする。 部屋は片づいていた。片づきすぎていた。机の上に消しゴムのかすが一粒もない。 「座って」 「床でいいか」 「うん」 七海は本棚の下から一冊を出した。分厚い、布の表紙の日記帳だった。 小口から、付箋が七枚はみ出していた。色が全部違う。 赤、橙、黄、緑、青、紫、白。 七海はそれを俺の前で開いた。 赤の一枚に、小さい字が並んでいた。『距離、近く』『語尾のばす』『恥ずかしがらない』 「火曜」 「そう」 緑の一枚は『静かにする』『敬語まぜる』『遅刻は必ず叱る』 「水曜だな」 「うん」 橙は『声を出す』『先に勝負を挑む』『負けても笑う』。青は『五分は五分』『本の話だけする』。紫は『何も知らない人になる』。 俺は黄色い一枚を指で押さえた。『いちばん言いたいことを、いちばん言わない』 「これ、何曜日だ」 「土曜」 「いちばん小さい子が、いちばん言わないのか」 「うん」 残った一枚は白だった。表も裏も、何も書いていない。 「これが、月曜」 「うん」 「何も書いてない」 「書けない」 七海は膝を抱えた。二つ結びの毛先が、腕の上で揺れた。 「いつから作ったんだ、これ」 「高一の四月」 「一年からかよ」 「最初は水曜だけだった。委員長をやると、話しかけられても平気だったから」 「増えたのは」 「増やさないと、悠斗と喋れなかったから」 俺はページの端を指で押さえた。紙が少しへこんだ。 「中三の冬に、悠斗に話があるって言った」 「覚えてる」 「明日でいいって言われた」 「言った」 「次の日、悠斗は違う道を通った」 俺は何も言えなかった。三年前の自分を殴りに行く方法があるなら、金を払ってでも知りたい。 「あの日、あそこに立ってたのが、月曜の私」 「白石」 「無口で、地味で、声が小さくて、話があるとしか言えなかった子。あの子は、逃げられた子なの」 七海は白い一枚を、手のひらで押さえた。 「私、あの子が嫌い」 「嫌いって」 「嫌いだから、他の子に喋らせた」 「土曜は」 「なんようびがすき、って聞ける」 「日曜は」 「顔を見なくていい」 言葉が全部、俺のところに戻ってきた。二週間ぶんが一度に戻ってくると、けっこう重い。 「なんで俺なんだよ」 「意味がわからない」 「クラスの誰にでも喋れるだろ。工藤とだって、佐伯先生とだって」 「喋れるよ。誰とでも喋れる」 七海は顔を上げた。 「悠斗とだけ喋れないの。それって、そういうことでしょ」 言われて、返す言葉を探して、見つからなかった。二週間、俺はこの答えの周りをぐるぐる歩いていただけだった。 「ずるいと思う?」 「思わない」 「思っていいよ」 「思わないって言ってるだろ」 俺は膝を床につけて、七海の目の高さまで下りた。 「悪かった」 「なにが」 「明日でいいって言った。あれが全部の始まりだ。三年、忘れたふりをしてた」 七海の指が、白い一枚の上で止まった。 「知ってた」 「知ってたのか」 「悠斗が忘れられる人じゃないの、知ってる。だから、忘れたふりだって知ってた」 この家で一番いろいろ知っているのは、うちの母親じゃなかった。 「白石。俺は」 「待って」 七海が日記帳を閉じた。 「今日の私は、土曜の私を途中でやめた人だから、決められない」 「じゃあ誰が決めるんだ」 「日曜の私が、明日、決める」 「日曜は、俺のこと知らないだろ」 「知らない人が決めるのが、いちばん公平でしょ」 公平な裁判ほど、こっちに不利なものはない。 日曜の朝十時、駅前の時計の下で、七海は俺の顔を見て「初めまして」と言った。 第14話 初めまして 「初めまして」 日曜の朝十時、駅前の時計の下。七海は髪をゆるく巻いて、先週と同じ色のカーディガンを着ていた。 「三宅悠斗です」 「白石七海です」 「知ってます」 「私は知りません」 初対面のルールが厳しい。 「ご趣味は」 「面接かよ」 「先週も同じことを言いましたね」 「知らない人なのに、覚えてるのか」 七海の目が一瞬泳いで、それから戻った。 「初めましてです」 一勝した。今日で最初で最後の一勝かもしれない。 「どこに行きますか」 「決めてない」 「初対面の人と、行き先を決めずに歩くんですか」 「そっちが呼び出したんだろ」 「昨日の私が、です」 「その言い方、あと何回するんだ」 「決めてません」 決めてないのは、行き先だけじゃないらしい。 電車で二駅乗って、川沿いの遊歩道を歩いた。日曜の午前は人が少ない。走っている人と、犬を連れた人と、俺たちだけだった。 「三宅さんは、どうして今日、来たんですか」 「呼ばれたからだ」 「私は呼んでいません」 「昨日のお前が呼んだ」 「昨日のことは、わかりません」 その返しだけは、先週から一ミリも動いていない。 途中の自販機で、七海が缶のお茶を二本買った。 「はい」 「奢られる理由がない」 「初対面だからです」 「初対面の人に奢るやつがいるか」 「います。ここに」 俺は受け取った。冷たいほうを俺に、温かいほうを自分に持った。四月の川風は、思ったより冷える。 「先にどっちを取るか、迷わなかったな」 「迷いました。三秒」 三秒で人の体温の好みまで決められたら、他人ではない。 「じゃあ、質問を変えます」 七海が前を向いたまま言った。 「三宅さんは、どんな人が好きですか」 俺は立ち止まった。七海も三歩先で止まった。 「言いたいことがある」 「どうぞ」 「七つある」 「多いですね」 「火曜のお前は、うるさくて、距離が近くて、購買のパンを半分くれた。パンを半分くれるやつは、たぶんいいやつだ」 「それは、パンの話では」 「水曜のお前は、二分は二分だって言った。俺が三年ごまかしてきた二分を、二分だって言うのはお前だけだ」 七海は答えなかった。川の水が、石の上で音を立てていた。 「木曜のお前は、七対〇で俺に勝って、そのあと手を貸した。勝ったあとに手を貸すやつは、なかなかいない」 「勝ちすぎたので」 「金曜のお前は、読まないってわかってる俺に本を貸した。あれは、待つってことだろ」 「待っていません」 「六日待っただろ」 「土曜のお前は、何曜日が好きって聞いた。あれ、俺が答えを間違えた」 「間違いではないです」 「間違いだ。今なら答えられる」 「なんて」 「あとで言う」 「ずるい」 初めて敬語が外れた。外れたことに、たぶん本人は気づいていない。 「日曜のお前は、傘の下は顔を見られないから雨が好きだって言った。顔を見られたくない日があるやつは、見せたい相手がいるやつだ」 七海が立ち止まった。カーディガンの袖が、指の先まで伸びていた。 「六つです」 「わかってる」 「月曜は」 「明日にする」 「ずるいです」 「二回目だぞ、それ」 遊歩道を戻って、国道に出た。角のコンビニの看板が見えた。先週、雨宿りをした店だ。 「一つ確認していいか」 「どうぞ」 「先週、あそこのイートインで、お前は箸を二膳取った」 「取りました」 「一膳を自分の右に置いた」 「置きました」 「もう一膳を、俺の左に置いた」 七海の指が、カーディガンの裾を掴んだ。 「俺は左利きだ。初対面の人間の利き手を当てられるやつはいない。当てたんじゃなくて、知ってたんだ」 返事はなかった。信号が青になって、赤になって、また青になった。 「箸、左に置いただろ。初めましてじゃない」 七海はうつむいて、それから顔を上げた。巻いた髪が風で額にかかって、それを自分で払った。払う仕草が、木曜のあいつと同じだった。 「三宅さん」 「なんだ」 「今、私は日曜です」 「知ってる」 「日曜の私は、明日を決める係でした」 「そう聞いた」 七海は俺のほうにまっすぐ向き直って、敬語をやめた。 「月曜の私は?」 第15話 卵焼き 月曜の朝七時四十分、俺は隣の家の門の前に立っていた。 人生で一番早く家を出た日だ。玄関で母に二度見された。 「熱でもあるの」 「ない」 「雨、降るかしらね」 降らなかった。うちの母親の天気予報は、いつも希望的観測でできている。 七時五十分、白石の玄関が開いた。 黒縁の眼鏡。ひとつに結んだ髪。定規を当てたみたいにまっすぐなリボン。 月曜の白石七海だった。 俺を見て、足が止まった。 「……悠斗」 小さい。相変わらず、道路の音に三割持っていかれる。 「おはよう」 「おはよう」 「行くか」 「うん」 並んで歩き出した。三年ぶりだった。歩幅は、思っていたより合った。合わせているのがどっちかは、聞かないことにした。 「悠斗、早い」 「起きたんだよ」 「目覚まし、三個にした?」 「二個だ」 「二個で起きられたの」 「起きる理由があると、起きられるんだよ」 七海は前を向いたまま、リボンの結び目を指で触った。触っただけで、直しはしなかった。 「昨日の続きだけどな」 「うん」 「月曜の話だ」 七海は鞄の持ち手を両手で握った。指が白くなっていた。 「月曜の私は、何も言えないよ」 「知ってる」 「地味だし、無口だし、逃げられた子だし」 「白石」 「なに」 「俺は、月曜が一番好きだ」 七海が止まった。俺も止まった。歩道の白線の上で、二人とも動かなくなった。 「なんで」 「言えないってわかってて、それでも毎朝、俺の名前だけ呼ぶからだ」 「呼んでるだけだよ」 「三年、それだけやってたやつを、俺は好きだって言ってるんだよ」 通学路の途中で、自転車のベルが鳴った。俺たちは端に寄って、また止まった。 七海は返事をしなかった。 代わりに、鞄から弁当箱を出した。 「まだ朝だぞ」 ふたが開いた。 中は、卵焼きだけだった。ごはんも、ひじきも、唐揚げもない。切り分けた卵焼きが、隙間なく詰まっている。 「食べて」 「朝から」 「食べて」 俺は一切れつまんで、食べた。甘い。うちの母親のより砂糖が多い。二週間、ずっとこの味だった。 「毎日、同じだよな」 「うん」 「なんで卵焼きだけ変えなかったんだ」 七海は弁当箱のふたを胸に当てた。 「卵焼きは、全部の曜日の私だから」 俺は二切れ目を食べた。三切れ目も食べた。返事の代わりに出されたものは、全部食べるのが礼儀だと思った。 「これ、返事でいいのか」 「よくない?」 「わかりにくい」 「言えないから、作ったの」 その言い方に、答えが全部入っていた。 「あと、これ」 七海がポーチを出した。中から付箋の束が出てきた。 一色だった。白だけだった。 「六つ捨てたのか」 「捨ててない。全部、白に書き直した」 一枚めくると、鉛筆で書いてあった。 『月曜日の私が、言う』 「まだ言えてないだろ」 「今から練習する」 「何年かかるんだ」 「悠斗が待てば済む話でしょ」 月曜の声で、初めて言い返された。 教室に着くと、拓真が顔を上げた。 「解決したのか」 「たぶん」 「たぶんか」 「うん」 「三宅」 「なんだ」 「今週、皆勤だぞ」 言われて時計を見た。八時十五分だった。 「まだ月曜だぞ」 拓真は声を出して笑った。一年で初めて聞いた音だった。 工藤が机の横を通りながら言った。 「三宅、白石さんと一緒に来たろ」 「見てたのか」 「校門で三人見てた」 情報網が学年をまたいで拡張している。 「で、結局あの人、何人だったんだ」 「一人だよ」 「先週は四つ子説を否定してたよな」 「今も否定してる」 工藤は納得しない顔でうなずいた。納得しないままでいい。俺だって、きのうまで納得していなかった。 放課後、七海は窓際の一番後ろの席で、白い付箋に何か書いていた。俺が近づくと、手のひらで隠した。 「見せろよ」 「まだ」 「まだって」 「練習中だから」 隠した付箋の下から、鉛筆の芯の音がした。急いでいる音だった。 翌朝、校門の前で背中に衝撃が来た。金髪。付けまつげ。距離がゼロ。 「ゆーと〜」 「まだやるのかよ」 「やる。楽しいから」 「体質じゃなかったのか」 七海は俺の耳のそばに口を寄せて、小さい声で言った。 「もう演技じゃないよ。全部私」
小説 · text · 2026-09-09
幼なじみが、毎朝別人になる
しゅう1 →無料で読む ↓この作品の感想
よかったところも、気になったところも。あなたの言葉で。
まだ感想はありません。作品に触れた感想を最初に届けてみませんか。