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小説 · text · 2026-09-09

保育園の先生は、今日も嘘をつく

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保育園の先生は、今日も嘘をつくのカバー

作:しゅう1 第1話 もうすぐ来るよ 四月一日。僕の、保育士としての一日目。 ゆり組の窓は南向きで、園庭の桜が半分だけ咲いていた。 「青木くん、靴」 「はい」 「左右、逆」 見た。逆だった。履き替えている間に、十八人のうち五人が泣き出した。 柚木紗季先生は、泣いている五人を一人ずつ抱えて、一人ずつ降ろした。 降ろすたびに、泣きやんだ。手品みたいだった。 「コツがあるんですか」 「あるよ。あとで教える」 教えてもらえなかった。その日は一度も、柚木先生に手が空く時間がなかった。 昼寝の時間。 十八人が並んで寝ている。僕は、名簿と顔を見比べていた。 「青木くん、まだ覚えてないでしょ」 「六人までです」 「顔で覚えないで。靴で覚えて」 「靴?」 「靴箱の名前と、靴の色。子どもは顔より靴のほうが、毎日同じ」 僕は靴箱を見に行った。十八足。一足だけ、左右が逆に入っていた。りくくん、と書いてあった。 夕方、五時半。 迎えが来るたびに、部屋の人数が減る。 六時。残り四人。六時半、残り二人。 りくくんと、結城ハルくん。 りくくんは、迎えが来ないと泣く子だった。 柚木先生がしゃがんで、りくくんの目の高さで言った。 「お母さん、もうすぐ来るよ」 りくくんが泣きやんだ。 「うそ」 言ったのは、りくくんではない。隣で絵本を持っていたハルくんだった。 「りくのママは、六時四十分」 「そうね」 「いま、六時三十二分」 ハルくんは、壁の時計を指した。四歳で、時計が読める。 「もうすぐって、八分のこと?」 「……そうよ」 「うそ」 柚木先生は笑った。怒っていない笑い方だった。 「ハルくんのパパは?」 「七時」 「六時五十五分でしょ」 「七時。五十五分は、七時のこと」 僕は、この子は何を言っているんだろう、と思った。 りくくんが、僕の膝に手を置いた。 「せんせい、あしたも来る?」 「来るよ」 「ほんと?」 「ほんと。明日も、明後日も」 りくくんは、それで満足した。ハルくんは絵本から目を上げなかった。 六時四十分に、りくくんの母親が来た。 ハルくんは絵本から顔を上げて、時計を見て、また絵本に戻った。 「ほらね」 言ったのは、僕に向かってだった。 残りは、ハルくんだけになった。 柚木先生が職員室に日誌を書きに行き、部屋に僕とハルくんだけになった。 何を話せばいいのかわからない。 「絵本、好きなの?」 「べつに」 「じゃあ、なんで持ってるの」 「先生がしゃべりかけてこないから」 僕は黙った。 ハルくんはページをめくった。文字が読めているのか、絵を見ているだけなのか、わからなかった。 「せんせい」 「なに?」 「新しい人?」 「うん。今日から」 「柚木先生は、うそをつく人」 「……そうかな」 「うそ。知ってるでしょ」 三回目だ、と僕は数えた。 この子は今日、「うそ」を三回言った。 全部、当たっていた。 「うそをつく人」は、数えない。「うそ」と一言で切ったときだけ、数える。そう決めた。 六時五十五分。 玄関のドアが開いた。 作業着の男の人が、頭を下げながら入ってきた。背が高くて、無口そうで、目の下に隈があった。 「すみません、遅くなりました」 「いえ、お疲れさまです。結城さんですね。今日から担当の、青木です」 「ハル、帰るぞ」 ハルくんは絵本を棚に戻して、靴を履いた。左右、合っていた。 玄関で振り返って、時計を見た。 「六時五十五分」 「そうだね」 「七時って、言ったでしょ」 僕は、うん、と言うしかなかった。 二人が帰ったあと、柚木先生が戻ってきた。 「どうだった、初日」 「ハルくんが、時計を読めます」 「読めるね」 「僕は、あの子に嘘をつけない気がします」 柚木先生は日誌を閉じて、僕を見た。 「つけなくていいよ。私がつくから」 連絡帳の書き方を教わった。 僕はハルくんの欄に、こう書いた。 「今日も元気でした」 書いてから、今日が初日なのに「今日も」はおかしいと気づいて、消した。 消しゴムの跡が残った。 第2話 三人目 四月八日。二週目の月曜。 園庭の桜は、全部咲いていた。 ゆり組の午前は、お絵かきの時間だった。 「かぞくの絵を描きましょう」 柚木先生がそう言うと、十八人が一斉に画用紙に向かった。 さくらちゃんは家族を六人描いた。犬も入れて七人。 りくくんは、大きな丸を一つ描いて「ママ」と言った。 ハルくんは、三人描いた。 りくくんが、僕の袖を引いた。 「せんせいも、描いて」 紙をもらって、描いた。二人。母と、僕。 「せんせいのパパは?」 「いない」 「なんで」 「いないから」 りくくんは、それで納得した。 左に背の高い人。真ん中に小さい人。右に、もう一人。 右の人には、顔がなかった。 丸だけ描いてある。目も口も、ない。 「ハルくん、これ、誰?」 柚木先生が横にしゃがんだ。 「パパと、ハル」 「右の人は?」 ハルくんはクレヨンを置いた。 「おばあちゃん?」 「ちがう」 柚木先生は、それ以上聞かなかった。 「上手に描けたね」と言って、次の子のところへ行った。 僕は聞きたかった。でも、聞かなかった。 聞いたら、この子は「うそ」と言うか、答えないか、どちらかだと思ったからだ。 昼寝の時間。 十八人が並んで寝ている部屋で、柚木先生と僕は、小さな声で話した。 「ハルくんの家、お父さんだけですよね」 「うん。お母さんは二年前に」 「亡くなった?」 「病気で」 「じゃあ、三人目は」 「わからない。本人が言うまでは、わからないことにしておく」 わからないことにしておく。 僕は、その言い方を覚えた。 「柚木先生」 「なに」 「先週、りくくんに『もうすぐ来るよ』って言いましたよね。八分前に」 「言った」 「あれ、嘘ですよね」 「嘘だよ」 あっさり言った。 「でも、八分は待てる。八分待てば本当になる嘘は、ついていい」 僕は、ついていい嘘と、ついてはいけない嘘の線を、頭の中で引こうとした。 引けなかった。 午後三時。おやつのあと。 ハルくんが僕のところに来た。画用紙を持っている。 「これ、持って帰る」 「いいよ。パパに見せるの?」 「見せない」 「じゃあ、なんで」 「ここに置いとくと、先生が見るから」 僕は画用紙を渡した。ハルくんはそれを、四つに折って、リュックの底に入れた。 「せんせいは、うそをつく人?」 「……つかないようにしてる」 「じゃあ、うそをつく人」 「なんで」 「つかないようにしてる、って言った。うそのとき、みんな、そう言う」 「……」 「うそ」 一回目だ。今日は、まだ一回。 六時半、さくらちゃんの迎えが来て、六時四十分、りくくんの迎えが来た。 残りはハルくんだけになった。 僕は、あることを決めていた。 時計を見ずに、ハルくんの隣に座った。 「パパ、何時?」 「七時」 「六時五十五分じゃなくて?」 「七時」 「わかった。七時ね」 ハルくんが、僕の顔を見た。 初めて、まっすぐ見た気がする。 「せんせい、今、うそついた?」 「ついてない。ハルくんが七時って言ったから、七時」 「……」 ハルくんは答えなかった。「うそ」とも言わなかった。 六時五十五分。ドアが開いた。 「すみません、遅くなりました」 「お疲れさまです」 結城さんは、僕に一度だけ頭を下げて、ハルくんの手を引いた。 玄関で、ハルくんが振り返った。時計を見なかった。 「ばいばい」 「ばいばい。また明日」 僕は職員室に戻って、連絡帳を開いた。 ハルくんの欄。 「かぞくの絵を、三人描きました」 そう書いて、一人だけ顔がなかったことは、書かなかった。 柚木先生が横から見て、何も言わなかった。 「柚木先生」 「なに」 「ハルくんが、先生のこと、うそをつく人って言ってました」 「知ってる。一年前から言われてる」 「傷つきませんか」 「傷つく。でも、あの子は正しい」 柚木先生は日誌を閉じた。 「だから、あの子にだけは、つき方を変えてる」 第3話 人参だけ 四月十五日。三週目。 給食室の松本さんは、五十五歳の元ラーメン屋で、僕のことを「新人」と呼ぶ。 「新人、ゆり組の残飯、持ってこい」 「はい」 「皿、一枚ずつ見せろ」 僕は十八枚の皿を、順番に見せた。 松本さんは一枚ずつ、うなずいたり、舌打ちしたりした。 「これ、誰だ」 「ハルくんです」 「人参だけ残してる。先週も、先々週も」 「そうなんですか」 「俺の人参は、うまい。文句あるか」 「ないです」 「じゃあ、なんで残す」 僕は答えられなかった。 松本さんは皿を流しに置いて、僕を見ずに言った。 「残した皿は、俺への通信簿だ。お前ら保育士が、園児の顔を見てるみたいに、俺は皿を見てる」 「ラーメン屋のときも、そうでした?」 「ラーメンは残されねえ。残されるのは、ここの飯だけだ。だから来た」 松本さんは、それ以上言わなかった。 昼寝の時間、柚木先生に言った。 「ハルくん、人参だけ残すそうです」 「知ってる」 「嫌いなんですかね」 「聞いたことある。『嫌い?』って。『ちがう』って言われた」 「じゃあ、なんで」 「わからないことにしてる」 また、それだ。 「青木くんは、なんで保育士になったの」 急に聞かれた。 「……僕は、保育園に、一番長くいた子だったんです」 「どういうこと」 「母が看護師で、夜勤で。ゼロ歳から六歳まで、毎日、延長の最後の一人でした」 柚木先生は、何も言わずに聞いていた。 「先生たちが、毎日、『お母さん、もうすぐ来るよ』って言うんです。来ないのに」 「うん」 「僕はそれを、六年間、信じてました」 「うん」 「六歳のとき、気づきました。もうすぐ、は、来ない、って意味だって」 「うん」 「だから、嘘が嫌いです。優しい嘘が、一番嫌いです」 言ってから、しまった、と思った。 目の前の人は、優しい嘘のプロだ。 柚木先生は、少しの間、寝ている子どもたちを見ていた。 「だから嘘が嫌いなのね」 「すみません」 「謝らなくていい。あなたが正しい」 「……」 「でも、青木くんは六年間、毎日、迎えが来た」 「え?」 「来なかった日、ある?」 考えた。なかった。遅くても、必ず来た。 「『もうすぐ来るよ』は、あなたには、通じた」 柚木先生は、ハルくんの寝顔を見た。 「あの子には、通じない。あの子のママは、来なかったから」 午後。おやつは人参のケーキだった。松本さんの挑戦だと思う。 ハルくんは、ケーキのスポンジだけ食べて、人参のかけらを皿の端に寄せた。 一つずつ、丁寧に。 「ハルくん、人参、嫌い?」 僕は聞いてしまった。 「ちがう」 「じゃあ、なんで残すの」 「これは、ちがう人参だから」 「ちがう人参?」 「うそじゃない」 うそ、ではなく、うそじゃない、と言った。僕は数え方に迷って、数えなかった。 六時半。残りはハルくんだけ。 僕は時計を見ずに座った。 「パパ、七時?」 「七時」 「じゃあ、それまで、絵本読む?」 「読まない。しゃべる」 「なにを」 「せんせいは、保育園に長くいたの?」 昼寝の時間、寝ていなかったのか。 「……うん。六年」 「毎日、最後?」 「毎日、最後」 「うそ」 「本当」 「じゃあ、せんせいも、ハルと同じ」 ハルくんは絵本を閉じた。 「ハルは、うそじゃないほうが好き」 六時五十五分。結城さんが来た。 「すみません、遅くなりました」 僕は言った。 「七時ですよね。時間通りです」 結城さんは、少し驚いた顔をした。 ハルくんは、何も言わなかった。 連絡帳。 「給食は人参を残しました。人参のケーキは、スポンジだけ食べました」 柚木先生が横から見て、言った。 「事実だけ書いたね」 「はい」 「いい連絡帳。でも、お父さんが読んで困る」 「困る?」 「『どうしたらいいですか』って聞きたくなるでしょ。答えを書いてない」 僕は「ちがう人参」のことを書こうとして、やめた。 何がちがうのか、僕にもまだわからない。 第4話 午後にはやむ 四月二十二日。遠足の日。 朝から、雨だった。 ゆり組の十八人が、リュックを背負ったまま窓に張りついている。 「バス、来る?」 「来るよ」 「雨、やむ?」 「午後にはやむよ」 柚木先生が言った。 僕は、天気予報を見ていた。一日中、雨だった。 「うそ」 ハルくんが、窓のところで言った。 「テレビで、一日ってやってた」 柚木先生は、ハルくんを見ないで、みんなに言った。 「じゃあ、午前中は、園の中で遠足しよう」 「えー」 「園の中の、まだ行ったことのない場所、あるでしょ」 「ないよ」 「給食室」 十八人が黙った。 給食室は、園児が入ってはいけない場所だ。 松本さんは、白い帽子をかぶって、十八人を一列に並ばせた。 「入るなら、手を洗え。全員だ」 全員が手を洗った。 「これが、お前らの飯を作る鍋だ。触るな。見ろ」 大きな鍋の中で、今日の給食のカレーが煮えていた。 さくらちゃんが「いいにおい」と言った。松本さんが、初めて笑った。 りくくんが、小さい声で言った。 「おじさん、こわい?」 「こわい」 「なんで」 「飯を残すやつには、こわい」 りくくんは、僕の後ろに隠れた。 ハルくんは、鍋を見ていなかった。 壁に貼ってある献立表を見ていた。 「人参、毎日ある」 「毎日は入れてねえ。週に四日だ」 松本さんが答えた。 「なんで」 「うまいからだ」 「ちがう人参なのに」 松本さんの顔が、少し止まった。 「なんだ、ちがう人参って」 ハルくんは答えなかった。 昼。カレーを食べた。 ハルくんは、カレーの中の人参を、スプーンの背で皿の端に寄せた。 全部寄せてから、ルーとご飯を食べた。 午後一時。雨は、やんでいなかった。 柚木先生は窓の外を見て、言った。 「やまなかったね」 誰にともなく。 僕は、この人が自分の嘘をどう始末するのか、見ていた。 「ごめん、やまなかった」 柚木先生は、十八人に向かって言った。 「先生、間違えた。天気は、先生にはわからない」 さくらちゃんが「いいよ」と言った。りくくんが「いいよ」と言った。 ハルくんは、何も言わなかった。 三時。おやつのあと、ハルくんが僕のところに来た。 「せんせい」 「なに」 「あしたは、はれ?」 僕は、天気予報を思い出そうとした。思い出せなかった。 「わからない」 言ってから、後悔した。 保育士の答えじゃない。 ハルくんは、僕の顔を見た。 それから、頷いた。 一回だけ、小さく。 僕がこの子の頷くところを見たのは、初めてだった。 「わからない、でいい」 ハルくんはそう言って、絵本の棚に戻っていった。 六時半。残りはハルくんだけ。 雨の音がしていた。 「パパ、七時?」 「七時」 「雨だから、遅いかも」 「うん。遅いかも」 ハルくんは、僕を見た。 「せんせい、今、『大丈夫』って言わなかった」 「言わなかった」 「なんで」 「わからないから」 ハルくんは、絵本を開いた。 開いたまま、ページをめくらなかった。 七時二分。結城さんが来た。傘をたたみながら、頭を下げた。 「すみません、道が」 「お疲れさまです。雨ですもんね」 ハルくんが、時計を見た。 「七時二分」 「うん」 「七時、じゃなかった」 「雨だから」 ハルくんは、僕を見た。 「せんせいは、遅いかも、って言った」 「言った」 ハルくんは、靴を履いた。左右、合っていた。 「ばいばい」 連絡帳。 「遠足は雨で、給食室を見学しました。カレーの人参は、全部、皿の端に寄せました」 柚木先生が読んで、笑った。 「『寄せました』はいいね。『残しました』より、あの子の動きが見える」 「褒めてますか」 「褒めてる。あと、今日、あの子があなたに頷いたでしょ」 「見てたんですか」 「見てた」 柚木先生は、日誌を閉じた。 「私は、一年かけて、一回も頷かれてない」 窓の外、雨はまだやまない。 園庭の桜が、雨で散り始めていた。 園庭の東側、六月にプールを組む場所に、水たまりができている。 そこだけ、白い形がちがう。 第5話 熱です 五月七日。連休明けの火曜日。 ゆり組は、十七人だった。 「ハルくん、休み?」 「連絡、来てない」 柚木先生が出席簿を見た。 九時半。十時。連絡はなかった。 さくらちゃんが、僕の袖を引いた。 「こうへいせんせい、ハルくんは?」 「お休みみたい」 「なんで」 「わからない」 「ハルくん、休んだことない」 さくらちゃんは、そう言って、泣き出した。 僕は驚いた。 さくらちゃんは、ゆり組で一番よくしゃべる子だ。ハルくんは、一番しゃべらない子だ。 その二人が友だちだということを、僕は知らなかった。 「さくらちゃん、ハルくんと仲良し?」 「うん」 「いつから」 「うさぎ組のとき、ハルくんのママが、いなくなったとき」 さくらちゃんは、泣きながら言った。 「みんな、ハルくんに、ママどこ?って聞いた。ハルくんは、答えなかった。さくらだけ、聞かなかった」 「そっか」 「聞かないと、友だちになれるの」 さくらちゃんは、そう言って、ハルくんの席に、自分の描いた絵を置いた。理由は、聞かなかった。 昼寝の時間。 柚木先生が、出席簿を持ってきた。去年の分だった。 「ハルくん、去年、一日も休んでない」 「一日も?」 「熱を出したときも、来た。お父さんが休めないから」 「じゃあ、今日は」 「熱じゃない」 柚木先生は、出席簿を閉じた。 「電話、つながらない」 「結城さん、仕事中ですよね」 「トラックだから、運転中は出られない」 「じゃあ、夕方まで」 「夕方も、出ないかもしれない。出たくない電話は、出ない人だから」 「僕、あとでかけていいですか」 「うん。四時に、もう一回」 四時。僕は職員室の電話で、結城さんの携帯にかけた。 三回目の呼び出しで、出た。 「……はい、結城です」 「ひまわり保育園の青木です。ハルくん、今日お休みですが」 「あ、すみません、連絡が……熱です」 「熱ですか。何度くらい」 「……三十八度、くらいで」 「病院は」 「行きました。風邪だそうです」 その電話の向こうで、声がした。 小さい声で、はっきりと。 「うそ」 僕は、受話器を持ったまま、黙った。 結城さんも、黙った。 「……すみません」 「いえ」 「明日は、行かせます」 「わかりました。お大事に」 電話を切った。 柚木先生が、隣で聞いていた。 「聞こえた?」 「聞こえました」 「熱じゃないね」 「たぶん」 柚木先生は、出席簿の「欠席」の欄に、「体調不良」と書いた。 「嘘、書くんですか」 「お父さんが、そう言ったから。それを書く」 「でも」 「本当の理由は、お父さんが言いたくなったときに聞く。私たちが暴くものじゃない」 僕は、それを納得できなかった。 でも、反論もできなかった。 「柚木先生。さくらちゃんが、ハルくんのママのこと、言ってました」 「なんて」 「うさぎ組のとき、みんながハルくんに『ママどこ?』って聞いて、さくらちゃんだけ聞かなかったって」 「……そう」 「それで、友だちになったって」 柚木先生は、しばらく黙っていた。 「私、そのとき担任じゃなかった。知らなかった」 六時半。今日は、りくくんが最後だった。 りくくんは、六時四十分に迎えが来た。 部屋に、誰もいなくなった。 僕は、ハルくんがいつも座る場所を見た。 絵本の棚の、一番下の段の前。 そこに、四つに折った画用紙が、落ちていた。 拾った。 開くかどうか、迷った。 開かなかった。 リュックの底から、落ちたんだと思う。連休の前に。 僕はそれを、四つに折ったまま、ハルくんのロッカーに入れた。 柚木先生が、それを見ていた。 「見なかったの?」 「見ませんでした」 「なんで」 「見たら、聞きたくなるから」 柚木先生は、頷いた。 「それが、わからないことにしておく、ってこと」 連絡帳は、書けなかった。 休みの子の欄は、空白にする決まりだ。 僕は空白の欄を、しばらく見ていた。 電話の向こうの「うそ」が、耳に残っていた。 第6話 園児の話です 五月十三日。月曜。 園長室に呼ばれた。 園長の大森静子先生は、六十一歳で、元幼稚園の先生で、机の上に何も置かない人だった。 「青木先生、一か月半、どう?」 「まだ、何もできていません」 「靴は?」 「左右、間違えなくなりました」 「上出来」 園長は、一枚の紙を出した。連絡帳のコピーだった。 僕の字だ。ハルくんの欄。 「『カレーの人参は、全部、皿の端に寄せました』」 「はい」 「いい文章ね」 「ありがとうございます」 「で、その隣の日。柚木先生の字。『雨は午後にはやむと言いましたが、やみませんでした。ごめんなさい、と子どもたちに言いました』」 園長は、紙を置いた。 「柚木先生は、嘘をつく」 「……はい」 「私の方針は、嘘をつくな、なの。知ってる?」 「聞いています」 「あなたは、どっち」 僕は、答えを用意していなかった。 園長は待った。窓の外で、ぞう組が園庭を走っている声がした。 「僕は、嘘が嫌いです」 「うん」 「でも、柚木先生の嘘は、見ていると、嫌いになれません」 「なぜ」 「八分待てば本当になる嘘、しかつかないからです。それと、外れたら、子どもの前で謝ります」 「それでも嘘は嘘」 「はい。でも、ハルくんには通じていません」 「通じてない?」 「ハルくんは、嘘に全部『うそ』と言います。柚木先生は、それをわかった上で、あの子にだけ、つき方を変えています」 「どう変えてる」 「まだ、わかりません」 園長は、初めて笑った。 「あなたのお母さん、看護師?」 「……はい。面接で言いました」 「覚えてる。あなたを採ったのは、それも理由」 「理由?」 「延長の最後の一人だった子が、延長の最後の一人を見る。悪くないでしょ」 園長は、話を変えた。 「あなた、柚木先生が好きなの?」 「……園児の話です」 「そう?」 「園児の話です」 「二回言ったわね」 園長は、紙を引き出しにしまった。 「私が『嘘をつくな』と言い続けるのは、柚木先生を辞めさせたいからじゃない。あの人がそれをどこまでやれるか、見たいから」 「見たい?」 「嘘をつく保育士が、一人だけ嘘の通じない子を担任したら、どうなるか」 園長は立ち上がった。 「あの子をゆり組に入れたのは、私。柚木先生の担任も、私が決めた」 園長室を出ると、職員室の自分の机に、柚木先生が座っていた。 「何言われた」 「嘘をつくな、って」 「私も一年前に言われた」 「あと、僕が柚木先生を好きかどうか」 「……何て答えたの」 「園児の話です、って」 柚木先生は、少し笑って、それから笑うのをやめた。 「二回言った?」 「なんでわかるんですか」 「園長、そういう聞き方するから」 昼寝の時間。 ハルくんが、寝ていなかった。目を開けて、天井を見ていた。 「ハルくん、眠くない?」 「べつに」 「園長先生の部屋、行ったことある?」 「ある」 「なんて言われた」 「『うそはいけません』」 「ハルくんは、なんて言った」 「『うそじゃないよ』」 「なにが」 「ハルが『うそ』って言うのは、うそじゃない。ほんとのこと」 僕は、それを園長に言いたいと思った。 嘘の通じない子は、嘘をつかない子ではない。嘘を、数える子だ。 六時五十五分。結城さんが来た。 「先週は、すみませんでした」 「いえ」 結城さんは、ハルくんを見た。 「ハル、外で待ってろ」 ハルくんは靴を履いて、玄関の外のベンチに座った。 「……熱、じゃなかったんです」 結城さんが、自分から言った。 「ハルの母親の、命日で。墓に行ってました」 「そうでしたか」 「休むって、言えなくて」 「言っていいんです。次からは」 結城さんは、頭を下げた。ガラスの向こうで、ハルくんは、こっちを見ていなかった。 連絡帳。 「園長室で、ハルくんが『うそじゃないよ』と言ったことを聞きました。ハルくんの『うそ』は、本当のことです」 書いてから、これは連絡帳に書くことじゃない、と思った。 でも、消さなかった。 消しゴムの跡は、もう作りたくなかった。 第7話 三日 五月二十日。月曜。 園庭で、りくくんが転んだ。 膝から血が出た。りくくんは、血を見てから泣き始めた。 柚木先生が走って、しゃがんで、膝を見た。 「大丈夫。すぐ治る」 「痛い」 「痛いね。でも、すぐ治る」 「うそ」 後ろで、ハルくんが言った。 「すぐじゃない。三日」 「三日?」 「かさぶたが、取れるまで。三日」 柚木先生は、りくくんを抱えて立ち上がった。 「そうね。三日で治る」 「すぐって、言った」 「言った。三日は、すぐよ」 「うそ」 二回。 僕は数えながら、救急箱を取りに走った。 保健の棚から絆創膏を出しているとき、さくらちゃんが横に来た。 「こうへいせんせい、ハルくんはね、三日って、ちゃんと知ってるの」 「なんで知ってるの」 「知らない。ハルくんが、そう言うの」 僕は絆創膏を三枚、取った。 りくくんの膝に絆創膏を貼った。 りくくんは、貼ったら泣きやんだ。 「治った?」 「まだ。三日」 ハルくんが、横から言った。 「三日たったら、せんせいが、はがしてくれる」 りくくんは頷いた。 三日、という数字が、りくくんを落ち着かせた。 柚木先生が、僕を見た。何も言わなかったが、負けた、という顔だった。 昼寝の時間。 柚木先生が、僕の隣に座った。 「『すぐ治る』は、失敗した」 「はい」 「あの子、ママのことを言った?」 「さくらちゃんが、言いました」 「……そう」 「『すぐ治る』って、みんなが言ったそうです」 柚木先生は、膝の上で手を組んだ。 「私が言ったんじゃない。でも、同じ言葉を使った」 「はい」 「同じ言葉は、同じ嘘」 三時。おやつのあと。 ハルくんが、僕の隣に来た。 「せんせい」 「なに」 「りくの膝、三日でいい?」 「いいよ。木曜日に、はがそう」 「木曜日」 「木曜日」 ハルくんは、指を三本立てた。 「ハルのママは、なおらなかった」 「……うん」 「みんな、すぐ治るって言った」 「うん」 「せんせいは、言わなかった」 「言えないよ。僕は、わからないから」 「わからない、でいい」 六時半。残りは、りくくんとハルくん。 りくくんは、絆創膏を触りながら、ハルくんの隣に座っていた。 「ハルくん、三日たったら、痛くない?」 「痛くない」 「ほんと?」 「ほんと。ハルは、うそつかない」 りくくんが、ハルくんの手を握った。 ハルくんは、振りほどかなかった。 六時四十分、りくくんの母親が来た。 膝の絆創膏を見て、顔色を変えた。 「大丈夫、三日で治るって」 りくくんが、先に言った。 「誰が言ったの」 「ハルくん」 母親は、ハルくんを見て、それから僕を見た。僕は、頷くしかなかった。 りくくんは、ハルくんと手をつないだまま、玄関まで歩いた。 玄関で、手を離した。 「ばいばい、ハルくん」 「ばいばい」 六時五十五分。結城さんが来た。 ハルくんが、時計を見た。 「六時五十五分。七時じゃない」 「早く来られた」 「……」 ハルくんは、「うそ」と言わなかった。 七時、と言わなかった父親に、「うそ」と言う理由がなかったからだと思う。 連絡帳。 「りくくんが転んで、膝に絆創膏を貼りました。ハルくんが『三日で治る』と言って、りくくんが泣きやみました。木曜日にはがします。りくくんと手をつないで帰りました」 柚木先生が読んで、言った。 「あの子が、りくくんを泣きやませたのね」 「はい」 「私、一年間、一回もできなかったこと」 「柚木先生は、五人を一日で泣きやませました。初日に」 「抱いて降ろしただけ。ハルくんは、数字で泣きやませた」 柚木先生は日誌を閉じて、窓の外を見た。 「私の嘘より、あの子の三日のほうが、優しい」 木曜日。 絆創膏を、僕がはがした。 かさぶたは、取れていた。三日、ぴったりだった。 りくくんが「治った」と言った。ハルくんは、何も言わなかった。 言わないのが、正解だったからだと思う。 第8話 その嘘は 五月二十七日。月曜。 三時のおやつのあと、ハルくんが僕の隣に来た。 「せんせいのママは、看護師?」 「そうだよ。昼寝の時間に聞いてたの?」 「うん。夜、働く人?」 「うん」 「じゃあ、いなくならない?」 僕は、答えに詰まった。 「……いなくならない」 ハルくんは、「うそ」と言わなかった。頷いて、絵本の棚に戻った。 いなくならない、なんて、誰にも言えない。それでもこの子は、数えなかった。 六時五十五分。玄関。 結城さんが、いつもの時間に来た。 「お疲れさまです」 「すみません、遅く」 「時間通りです」 結城さんは、ハルくんが靴を履いているのを待ちながら、僕を見た。 「先生、少し、いいですか」 「はい」 「ハル、外で待ってろ」 ハルくんは、靴を履いて、玄関の外のベンチに座った。ガラス越しに、こっちを見ている。 結城さんは、玄関のところに立ったまま話した。座らなかった。 「ハルには、母親のこと、遠くの病院にいる、って言ってます」 「はい」 「二年前です。ハルが二歳のとき。わかる歳じゃなかった」 「はい」 「そのとき、言ったんです。ママは遠くの病院に行った、って。そのまま、今まで」 僕は、何も言えなかった。 「命日に、墓に連れていってます。ハルは、あれが何か、わかってないと思う。いや、わかってるかもしれない」 「ハルくんは、時計が読めます」 「はい」 「カレンダーも、たぶん」 「はい」 「四歳です。でも」 「わかってます」 結城さんは、ガラスの向こうのハルくんを見た。 「言えないんです。先生。ハルの顔を見ると」 「はい」 「保育園で、ママのこと聞かれたら、なんて言ってますか」 「聞かれたことは、ありません。ハルくんは、聞きません」 「……そうですか」 「ハルくんは、聞かないで、数えてます」 「数える?」 「嘘を。誰の嘘も」 結城さんは、しばらく黙っていた。 「俺の嘘も」 「たぶん」 「……ですよね」 玄関のドアが開いた。ハルくんだった。 「パパ、七時」 「ああ。帰るぞ」 ハルくんは、僕を見た。 「せんせい、パパと何の話?」 「お仕事の話」 「うそ」 言わなかった。ハルくんは、そう言いそうな顔をして、言わなかった。 「ばいばい」 「ばいばい。また明日」 二人が帰ったあと、柚木先生に話した。 全部話した。 柚木先生は、日誌を書く手を止めて、最後まで聞いた。 「その嘘は、私たちがつくんじゃない」 「……はい」 「お父さんがつく嘘。お父さんが、やめるときも、お父さんが決める」 「でも、ハルくんは、たぶん」 「わかってる、でしょ」 「はい」 「わかってて、『うそ』って言わないのよ。パパにだけは」 僕は、電話の向こうの「うそ」を思い出した。 熱です、に対しては、言った。 遠くの病院にいる、に対しては、たぶん一度も言っていない。 「ハルくんは、嘘の種類を、分けてます」 「そう」 「言っていい嘘と、言っちゃいけない嘘」 「違う。『うそ』って言っていい嘘と、言ったらパパが壊れる嘘」 僕は、それを聞いて、椅子に座った。 立っていられなかった。 「柚木先生」 「なに」 「ハルくんは、四歳です」 「四歳」 「四歳が、それを」 「四歳が、それをしてる。私たちは、それに気づくのに一年かかった」 柚木先生は、日誌の続きを書いた。 僕は、連絡帳を開いた。 ハルくんの欄。何を書けばいいのか、わからなかった。 結城さんが読む。結城さんが読んで、困らないことを書く。 「今日は、絵本を三冊読みました。三冊とも、ハルくんが選びました」 事実だけ。 柚木先生が横から見て、言った。 「それでいい。今日は、それでいい」 帰り道、僕は自分の母親のことを考えた。 六年間、毎日、迎えが来た。遅くても、来た。 母は、嘘をつかなかった。「遅くなる」と言って、遅くなった。 僕は、それを、優しさだと思ったことがなかった。 第9話 六時半のトラック 六月三日。月曜。 僕は、六時二十五分に、園の外に出た。 ゴミを出すためだった。 園の前の道を、東に十メートル。電柱の横がゴミ置き場だ。 その先に、トラックが停まっていた。 白い二トン車。運転席に、人がいた。 結城さんだった。 ハンドルに両手を置いて、前を見ていた。園のほうを見ていた。 僕は、ゴミを置いて、そのまま立っていた。 結城さんは、僕に気づかなかった。 六時三十分。 僕は、トラックの横に立って、窓を叩いた。 結城さんが、驚いた顔で窓を開けた。 「……先生」 「早いですね」 「あ、いや、これは」 「六時半です」 「はい」 「六時五十五分まで、ここにいるんですか」 結城さんは、ハンドルを見た。 「毎日、じゃないです」 「はい」 「週に、二回か三回」 「はい」 「入れないんです」 僕は、トラックの横に立ったまま、待った。 「ハルの顔を見ると、言いそうになる。ママのこと。本当のこと」 「はい」 「だから、ぎりぎりまで、ここで」 「息を整えてる?」 「そうです」 園のほうから、さくらちゃんの迎えの車が来て、去った。 結城さんは、それを見送った。 「先生。俺は、卑怯ですか」 「わかりません」 結城さんは、ハンドルを見た。 「僕は、わからないことは、わからないと言うことにしてます。ハルくんに教わりました」 結城さんは、少し笑った。 「あいつ、先生にも、『うそ』って言いますか」 「初日に三回言われました」 「三回」 「今は、あまり言われません。僕が、嘘をつかなくなったので」 「つかなくなった?」 「わからないときは、わからない、と言うようにしました。ハルくんは、それには『うそ』と言いません」 結城さんは、ハンドルから手を離した。 「俺は、それが、できない」 「はい」 「『ママはどこ』って聞かれたら、『わからない』とは、言えない」 「聞かれたこと、ありますか」 「……ない」 「ハルくんは、聞きません」 「はい」 「聞かないのは、たぶん、答えを知ってるからです」 結城さんは、僕を見た。 長く見た。 それから、前を向いた。 「六時五十五分に、行きます」 「はい」 「今日も、ぎりぎりで」 「はい。ハルくんは、七時、と言うと思います」 「あいつ、ずっとそうです。五十五分を、七時って言う」 「僕も最初、わかりませんでした」 「わかりましたか」 「たぶん。五十五分に来るパパを、遅い、って言いたくないんだと思います」 結城さんは、何も言わなかった。 窓を閉めた。 僕はゴミ置き場を離れて、園に戻った。 玄関で、柚木先生が待っていた。 「ゴミ出しに、十五分」 「話してました」 「誰と」 「……お父さんと」 柚木先生は、それ以上聞かなかった。 「六時五十五分に、来るね」 「来ます」 「じゃあ、それでいい」 柚木先生は、日誌を持って職員室に戻った。聞かない、というのも、この人の技術だ。 六時五十五分。玄関のドアが開いた。 「すみません、遅くなりました」 いつもと同じ声だった。 ハルくんが、時計を見た。 「七時」 「ああ」 ハルくんは靴を履いた。それから、僕を見た。 「こうへいせんせい」 初めて、名前で呼ばれた。 「なに」 「パパ、外にいた?」 僕は、すぐに答えられなかった。 「うそ、つかないで」 「いた」 「知ってる」 ハルくんは、父親の手を握った。 「パパは、遅くない。ちゃんと来る」 二人が帰ったあと、僕は玄関に立っていた。 柚木先生が、後ろに来た。 「聞いてた?」 「聞いてた」 「僕、言っちゃいました。『いた』って」 「聞かれたから、答えた。それは嘘の反対」 「お父さんに、悪いことをしたかも」 「してない。あの子、『知ってる』って言ったでしょ」 「はい」 「知ってることを、先生が隠したら、あの子は先生を数える」 連絡帳。 「ハルくんに、初めて『こうへいせんせい』と呼ばれました」 それだけ書いた。 第10話 プールの底 六月十日。月曜。 園庭の東側で、プールの組み立てをした。 毎年、六月の第二週に組み立てて、六月末から使う。 園長の決まりだった。 組み立ては、担任二人の仕事だ。 ゆり組の十八人は、ぞう組と一緒に部屋で待っていた。 「青木くん、そっち持って」 「はい」 「もっと上」 「はい」 青い樹脂のパネルを、八枚つなげる。 柚木先生は、慣れていた。僕は、慣れていなかった。 「去年も、一人でやったんですか」 「一人じゃない。去年は、前の担任と」 「その人は」 「辞めた。三月に」 「なんで」 「ハルくんに、『うそ』って言われ続けて」 僕は、パネルを落としかけた。 「冗談?」 「半分。本当の理由は、結婚」 「よかった」 「でも、『うそ』のほうも、半分は本当。あの人、それで泣いた日がある」 パネルをつなぎ終えて、底のシートを敷いた。 二人で、シートの端を持って、水平にする。 中腰で、向かい合った。 「柚木先生は、泣きました?」 「泣かない」 「一回も?」 「一回も。泣く前に、つき方を変えた」 「どう変えたんですか。ずっと聞きたかったんです」 柚木先生は、シートの端を押さえながら、言った。 「あの子には、時間の嘘をつかない」 「時間の嘘」 「『もうすぐ』『すぐ』『あとで』『午後には』。全部、時間の嘘。あの子は、時計が読めるから、全部数えられる」 「じゃあ、何の嘘なら」 「約束の嘘」 「約束?」 「『必ず』とか『ずっと』とか。数えられない嘘」 僕は、シートの端を持ったまま、考えた。 「それは、嘘ですか」 「嘘よ。『必ず』なんて、誰にも言えない」 「でも、ハルくんは、それには『うそ』と言わない」 「言わない。あの子は、数えられないものには、『うそ』と言わない」 「……」 「だから私は、あの子に『必ず迎えに来るよ』って、言い続けてる。パパが来る前に、毎日」 僕は、それを初めて知った。 六時半すぎ、柚木先生が日誌を書きに行く前に、ハルくんに何か言っているのは、見ていた。 何を言っているのかは、聞いていなかった。 シートを敷き終えた。 プールの底は、まだ空で、乾いていた。 二人とも、しゃがんだままだった。 「柚木先生」 「なに」 「僕は」 言いかけて、園庭の入口から声がした。 「こうへいせんせい」 ハルくんが、立っていた。 部屋にいるはずの子が、一人で、園庭に出ていた。 「ハルくん、なんで」 「ぞう組の先生が、寝てた」 「寝てた?」 「絵本、読みながら」 柚木先生が、笑った。 ハルくんは、プールの横に来て、空の底を見た。 「水、ない」 「今月の終わりに入れる」 「何日?」 「二十八日」 「金曜日?」 「うん」 ハルくんは、頷いた。数えたんだと思う。 それから、僕と柚木先生を、交互に見た。 「せんせい、いま、うそついてない」 「ついてない」 「二人とも」 「二人とも」 「じゃあ、いい」 ハルくんは、部屋に戻っていった。 柚木先生が、立ち上がった。 「今の、聞かれた?」 「何をですか」 「私の、『必ず』の話」 「わかりません」 「……青木くん、さっき、何を言いかけたの」 「わかりません」 「それ、嘘でしょ」 「はい」 柚木先生は、パネルの上に手を置いて、僕を見た。 「時間の嘘は、つかないでね。私にも」 「はい」 「約束の嘘なら、いい」 「……はい」 六時半。残りはハルくんだけ。 柚木先生が、日誌を書きに行く前に、ハルくんの前にしゃがんだ。 僕は、今日は聞いていた。 「ハルくん」 「なに」 「パパは、必ず来るよ」 「知ってる」 それだけだった。 ハルくんは「うそ」と言わなかった。柚木先生は、職員室に行った。 連絡帳。 「プールを組み立てました。水は二十八日に入れます。ハルくんは『金曜日?』と聞いて、当てました」 書きながら、僕は、自分が今日つきそこねた嘘のことを考えていた。 時間の嘘ではなかった。約束の嘘でもなかった。 言いかけたのは、たぶん、本当のことだった。 第11話 明日、謝りに来る 六月十七日。月曜。 ゆり組で、喧嘩が起きた。 さくらちゃんと、ハルくんだった。 僕は、最初、何が起きたのかわからなかった。 二人は、いつも一緒にいる。喧嘩をするところを、見たことがなかった。 さくらちゃんが、泣きながら大きな声で言った。 「ハルくんのママ、いないんでしょ!」 部屋が静かになった。 十六人が、二人を見た。 ハルくんは、答えなかった。 さくらちゃんを見て、それから、床を見た。 「うそ」とも言わなかった。 言わないのを、僕は初めて怖いと思った。 柚木先生が、さくらちゃんを抱えて、廊下に出た。 僕は、ハルくんの前にしゃがんだ。 「ハルくん」 「……」 「何があったの」 「さくらが、ママの絵、見たいって言った」 「絵?」 「三人の絵。リュックに入ってるやつ」 「見せたの?」 「見せない、って言った。そしたら、さくらが」 ハルくんは、それ以上言わなかった。 僕も、聞かなかった。 昼寝の時間。 さくらちゃんは、泣き疲れて寝た。 ハルくんは、目を開けていた。 柚木先生が、僕のところに来た。 「さくらちゃん、ずっと謝りたがってる。でも、言えない」 「ハルくんは?」 「何も言わない。今日は、一回も『うそ』って言ってない」 「はい」 「さくらちゃんの言ったこと、嘘じゃないから」 僕は、それを聞いて、しばらく動けなかった。 この子が「うそ」と言わないのは、それが本当のときだ。 ハルくんのママは、いない。 それは、本当だ。 三時。おやつのあと。 さくらちゃんは、ハルくんに近づかなかった。 ハルくんも、さくらちゃんを見なかった。 二人の間に、机が三つあった。 六時半。残りはハルくんだけ。 さくらちゃんは、六時半に迎えが来て、玄関でハルくんのほうを見て、何も言わずに帰った。 僕は、ハルくんの隣に座った。 絵本を開いていない。膝の上に、手を置いている。 「ハルくん」 「なに」 「さくらちゃんは、明日、謝りに来る」 言ってしまった。 言ってから、気づいた。 これは、嘘だ。時間の嘘だ。「明日」と、僕は言った。 さくらちゃんが明日謝るかどうか、僕は知らない。 ハルくんが、僕を見た。 長く見た。 「……」 「うそ」と言うと思った。 言わなかった。 「わかった」 それだけ言って、絵本を開いた。 六時五十五分。結城さんが来た。 「すみません、遅くなりました」 「お疲れさまです」 ハルくんは靴を履いた。 玄関で、振り返った。 「こうへいせんせい」 「なに」 「明日」 「……うん」 「ハルは、待ってる」 ドアが閉まった。 僕は、玄関に立ったまま、柚木先生に言った。 「僕、嘘をつきました」 「聞いてた」 「時間の嘘です。『明日』って言いました」 「うん」 「ハルくん、『うそ』って言わなかった」 「言わなかったね」 「なんで」 柚木先生は、日誌を持ったまま、玄関に来た。 「あの子は、あなたの嘘を、初めて信じることにしたの」 「……」 「『わかった』って言ったでしょ。あれは、数えるのをやめた、ってこと」 僕は、その夜、さくらちゃんの家に電話した。 保育士がすることじゃないかもしれない。 さくらちゃんの母親が出た。 「さくら、ずっと泣いてます。ハルくんに、ひどいこと言ったって」 「はい」 「絵を、見たかっただけなんです。三人の絵。ハルくんが、いつもリュックに入れてるって」 「知ってます」 「明日、謝れますか」 「本人が、謝りたいって」 「ハルくんが、待ってると言ってました」 電話の向こうで、さくらちゃんの声がした。 「あした、あやまる」 連絡帳。 「さくらちゃんと、まだ仲直りしていません。明日、たぶんします」 「たぶん」を書いた。 書かないほうが、きれいな文章だった。 でも、「たぶん」がないと、時間の嘘になる。 僕は、あの子に一つだけ嘘をついた。 その嘘を、明日、本当にしなければならない。 第12話 星の人参 六月二十四日。月曜。 仲直りは、先週の火曜日に、済んでいた。 さくらちゃんは、朝、玄関で「ごめんなさい」と言った。 ハルくんは、「いいよ」と言った。 それだけだった。 四歳の仲直りは、大人より早い。 今日は、給食室に用があった。 松本さんに呼ばれた。 「新人、来い」 「はい」 「ゆり組の皿、今日は俺が見る前に、お前が見ろ」 「はい」 十八枚の皿。 僕は一枚ずつ見た。 ハルくんの皿を見て、止まった。 人参が、なかった。 「食べてます」 「見ろ」 松本さんが、鍋を指した。 鍋の中に、人参が入っていた。星の形だった。 「型で抜いた。今日から、ゆり組の人参は全部、星だ」 「なんで」 「結城さんに聞いた」 松本さんは、鍋の蓋を閉めた。 「先週の金曜の朝、送りのときに、玄関で捕まえた。『ハルくん、人参だけ残すんですけど、家ではどうですか』って」 「はい」 「そしたら、あの人、言った。『母親が、いつも星型に切ってた』って」 「……」 「『それ以外は、ちがう人参なんです』って」 ちがう人参。 僕は、四月に聞いた言葉を思い出した。 ハルくんは、嘘をついていなかった。 ちがう人参は、本当に、ちがう人参だった。 「星に抜いたら、食べた」 「はい」 「俺は、二か月、負けてた。人参じゃなくて、形に」 松本さんは、白い帽子をかぶり直した。 「皿は、通信簿だ。俺の点数が上がった」 昼寝のあと、ハルくんが僕のところに来た。 「せんせい」 「なに」 「人参、星だった」 「うん」 「ママのと、おなじ」 ハルくんは、そう言って、少しの間、黙った。 「松本さんが、作ったの?」 「うん。パパに聞いて」 「パパが、言ったの?」 「うん」 ハルくんは、僕を見た。 「パパ、ママのこと、言った?」 「人参のことだけ」 「……そっか」 僕は、ハルくんの顔を見ていた。 この子は、パパが「ママのこと」を言うのを、待っている。 人参のことだけ、では足りない。 でも、人参のことを言ったのは、初めてだ。 「ハルくん」 「なに」 「パパは、少しずつ、言うと思う」 時間の嘘だろうか、と思った。 「少しずつ」は、時間の言葉だ。 ハルくんは、「うそ」と言わなかった。 「知ってる」 六時半。残りはハルくんだけ。 柚木先生が、日誌を書きに行く前に、しゃがんだ。 「パパは、必ず来るよ」 「知ってる」 柚木先生は、職員室に行った。 僕は、ハルくんの隣に座った。 「ママの人参、星だったんだ」 「うん」 「他には、なにがあった?」 聞いてから、しまった、と思った。 でも、ハルくんは答えた。 「たまご。まるいの」 「目玉焼き?」 「ちがう。まるいの。中に、なんか入ってる」 「オムライス?」 「わかんない。まるかった」 二歳の記憶だ。 人参の形と、たまごの形。それだけが残っている。 「せんせいは、ママのごはん、おぼえてる?」 「覚えてる。夜勤の前に、作り置きしてた。冷たいやつ」 「冷たいの、おいしい?」 「おいしくなかった。でも、毎日あった」 「毎日」 「毎日」 ハルくんは、頷いた。 毎日、という数字を、この子は信じる。 六時五十五分。結城さんが来た。 「すみません、遅くなりました」 僕は、玄関で言った。 「人参、ありがとうございました」 結城さんは、少し驚いて、頭を下げた。 「……松本さんに、言われて」 「ハルくん、全部食べました」 「そうですか」 「ママの、と同じだって」 結城さんは、何も言わなかった。 ハルくんの手を握った。 玄関で、ハルくんが言った。 「パパ。たまご、まるいやつ」 「ああ」 「作れる?」 「作れる」 「ほんと?」 「本当だ。作ってやる」 ハルくんは、父親の顔を見た。 「じゃあ、金曜日」 「わかった。金曜日」 連絡帳。 「給食の人参が星型になりました。ハルくんが全部食べました。『ママのとおなじ』と言いました」 柚木先生が読んで、しばらく何も言わなかった。 「松本さん、泣いてなかった?」 「泣いてません」 「私は、ちょっと泣いた」 第13話 三人目の顔 七月一日。月曜。 お絵かきの時間だった。 「なつの絵を描きましょう」 柚木先生が言った。 さくらちゃんは、プールを描いた。りくくんは、大きな丸を描いて「すいか」と言った。 ハルくんは、三人描いた。 僕は、それを見て、四月を思い出した。 左に背の高い人。真ん中に小さい人。右に、もう一人。 同じ配置だった。 違ったのは、一つ。 右の人に、顔があった。 目と、口と、髪。髪は、肩まであった。 柚木先生が、横にしゃがんだ。 「ハルくん、これ、誰?」 「パパと、ハルと」 「うん」 「ママ」 柚木先生は、頷いた。 「そう」 「ママは、遠くの病院にいる」 「……そう」 「うそ」 ハルくんは、自分で言った。 自分の言葉に、「うそ」と言った。 柚木先生は、しゃがんだまま、動かなかった。 僕は、少し離れたところで、動けなかった。 「ハルくん」 「なに」 「ママは、どこにいると思う?」 「知らない」 「うん」 「でも、遠くの病院じゃない。パパが、お墓に行くから」 柚木先生は、答えなかった。 「お墓は、病院じゃない」 柚木先生は、ハルくんの絵を見た。 右の人の顔を、長く見た。 「上手に描けたね」 声が、少し、変だった。 ハルくんは、クレヨンを置いて、柚木先生の顔を見た。 「せんせい、泣いてる?」 「泣いてない」 「うそ」 「……うん。うそ」 柚木先生は、袖で目を拭いた。 「ハルくん、この絵、持って帰る?」 「持って帰る。パパに見せる」 四月には、見せない、と言った絵だ。 昼寝の時間。 柚木先生は、職員室から戻ってこなかった。 僕は、一人で十八人を見ていた。 ハルくんは、寝ていた。珍しく、ぐっすり寝ていた。 三時。おやつのあと。 さくらちゃんが、ハルくんの絵の前に立った。 「見ていい?」 ハルくんは、絵を持ち上げて、さくらちゃんに向けた。 「ママ」 「髪、長い」 「長い」 「きれい」 「うん」 さくらちゃんは、それ以上、何も言わなかった。 六月に泣いた子と、同じ子だとは思えなかった。 柚木先生が戻ってきた。目が、赤かった。 「ごめん、抜けた」 「大丈夫です」 「私、泣かないって言ったのに」 「言いました」 「一年三か月、泣かなかった。今日、負けた」 「負けじゃないと思います」 「あの子に、『うそ』って言われて、初めて、嬉しかった」 僕は、それを聞いて、何も言わなかった。 泣く役は、柚木先生だった。 僕は、泣かない役だ。誰が決めたわけでもないけど、そう思った。 六時半。残りはハルくんだけ。 ハルくんは、絵を四つに折らずに、そのまま持っていた。 折ると、顔に線が入るからだと思う。 六時五十五分。結城さんが来た。 「すみません、遅くなりました」 ハルくんが、絵を差し出した。 「パパ。なつの絵」 結城さんは、受け取って、見た。 三人。右の人に、顔がある。 結城さんは、長い間、絵を見ていた。 玄関の電気の下で、立ったまま。 ハルくんは、靴を履いて、待っていた。 僕も、待っていた。 「……そうか」 結城さんは、それだけ言った。 絵を、丁寧に、四つに折らずに、丸めもせずに、そのまま持った。 「ハル、帰るぞ」 「うん」 玄関で、ハルくんが振り返った。 「こうへいせんせい」 「なに」 「パパ、泣いてない」 「泣いてないね」 「うそじゃない」 「うそじゃない」 二人が帰ったあと、柚木先生が言った。 「お父さん、泣いてなかったね」 「はい」 「あれ、家に帰ってから泣く人」 「そう思います」 「青木くんも」 「僕は、泣く役じゃないので」 「誰が決めたの」 「僕です」 柚木先生は、それには何も言わなかった。 連絡帳。 「なつの絵を描きました。三人の絵で、三人とも顔がありました」 書いてから、四月の連絡帳を思い出した。 「かぞくの絵を、三人描きました」 一人だけ顔がなかったことは、書かなかった。 今日は、書いた。 三人とも、顔があったから。 第14話 元気だって言い続けた 七月八日。月曜。 柚木先生が、園長室に呼ばれた。 僕は呼ばれていなかった。 でも、園長は、仕切りのドアを少しだけ開けておいた。 職員室の自分の机にいた僕に、聞こえるように。 たぶん、わざとだ。 「柚木先生。先週、ゆり組で泣いたそうね」 「はい」 「園児の前で」 「はい」 「私の方針は、嘘をつくな。泣くな、じゃない」 柚木先生は、答えなかった。 「泣いたことは、責めない。聞きたいのは、別のこと」 机の上に、何かを置く音がした。 「あなたのお母さんは、元気」 柚木先生が、黙った。 「私、あなたが五歳のとき、担任だった」 「はい」 「あなたのお母さんは、あなたが五歳の秋に、家を出た」 「はい」 「あなたは、毎日、私に聞いた。『ママは、いつ帰ってくるの』」 椅子の音がした。 「私は、毎日、言った。『お母さんは元気よ。もうすぐ帰ってくるよ』」 職員室で、僕は連絡帳を開いたまま、動けなかった。 柚木先生が、五歳。園長が、担任。 二十二年前。 「一年、言い続けた。あなたが卒園するまで」 「知ってます」 「元気かどうか、私は知らなかった。連絡が、なかったから」 「知ってます」 「嘘だった」 「知ってます。ずっと」 しばらく、何も聞こえなかった。 「柚木先生。あなたを、この園に呼んだのは、私」 「はい」 「嘘をつくな、と言い続けたのも、私」 「はい」 「矛盾してる、と思ってた?」 「思ってました」 「私は、あなたに、私と同じことをしてほしくなかった。でも」 園長の声が、少し、低くなった。 「あなたは、私と同じことをして、私より上手にやった」 「上手じゃないです」 「上手よ。八分の嘘しかつかない。外れたら謝る。時間の嘘と、約束の嘘を、分けてる」 「青木くんに、話しましたか」 「私は話してない。あなたが、話したんでしょ」 「……」 「顔に書いてある」 僕は、椅子を少しだけ引いた。 床が鳴った。園長は、聞こえなかったふりをした。 「柚木先生。あなたのお母さんは、元気」 「……」 「これは、二十二年前の嘘の、続き」 「はい」 「今も、私は知らない。でも、言う」 「はい」 「なぜだと思う」 柚木先生は、しばらく答えなかった。 「約束の嘘だから」 「そう。時間の嘘なら、二十二年前に、外れてる」 「はい」 「約束の嘘は、外れない。私が、言い続ける限り」 ドアが、少し動いた。 園長が、開けたんだと思う。 僕は、机の前に立った。隠れなかった。 園長が、僕を見た。 「青木先生。聞いてたわね」 「……はい」 「入りなさい」 園長室に入った。 柚木先生は、僕を見なかった。 机の上に、古い連絡帳があった。表紙に「ゆずき さき」と書いてある。 「これ、二十二年前の。私の字」 園長は、開いて、僕に見せた。 「『今日も元気でした』」 僕は、その字を見た。 「毎日、それしか書けなかった。あの子の顔を見て、それ以外、書けなかった」 僕は、四月の自分の連絡帳を思い出した。 「今日も元気でした」 初日に書いて、消した。消しゴムの跡が残った。 柚木先生が、初めて口を開いた。 「先生の嘘で、私は保育士になった」 「知ってる」 「嘘が通じない子を、担任にしたのも」 「私」 「ありがとうございます」 園長は、連絡帳を閉じた。 「お礼はいい。夏祭り、成功させて」 園長室を出た。 職員室の隅で、柚木先生が言った。 「聞いてたのね」 「はい」 「園長が、わざと開けた」 「そう思います」 「青木くん、私、今日は嘘ついてない」 「はい」 「園長のは、嘘だった。でも、私は、あの嘘で、ここにいる」 「はい」 「あなたのお母さんは、嘘をつかなかった。あなたは、それで、ここにいる」 「はい」 「どっちも、ここにいる」 連絡帳の時間。 僕は、ハルくんの欄に書いた。 「今日は、柚木先生と園長先生が、長く話していました。ハルくんは、絵本を四冊読みました」 二つの事実を、並べた。 関係のない二つの事実が、僕には、関係があるように見えた。 第15話 一つだけ 七月二十日。土曜。 夏祭りの日だった。 園庭に、提灯を吊った。 ヨーヨー釣り、輪投げ、かき氷。 かき氷は、松本さんの担当だった。星型の氷は作れないので、代わりに、人参のシロップを作った。オレンジ色で、甘かった。 四時。保護者が集まり始めた。 僕は、受付にいた。 「青木先生」 声をかけられて、顔を上げた。 母だった。 看護師の白衣ではなく、普通の服で、少し痩せていた。 「……来たの」 「来た。初めて」 「初めて?」 「あんたの保育園の行事、一回も来られなかった。夜勤で」 「知ってる」 「だから、来た。あんたの職場の、初めての行事」 僕は、何も言えなかった。 母は、受付の名簿を覗いて、言った。 「私の名前、書くところ、ある?」 「保護者じゃないから、ない」 「じゃあ、書かない」 母は、園庭の端の、桜の木の下に行った。 そこで、一人で立って、園庭を見ていた。 五時。ゆり組の出し物だった。 十八人で、歌を歌った。 ハルくんは、歌わなかった。口を動かしていた。 さくらちゃんが、隣で、ハルくんの分まで大きな声で歌った。 歌が終わって、ハルくんが列を離れた。 園庭の隅に、結城さんが立っていた。 今日は、作業着じゃなかった。 ハルくんは、父親の前に立った。 結城さんが、しゃがんだ。 僕は、遠くから見ていた。 何を話しているのかは、聞こえなかった。 結城さんの口が、動いていた。長く動いていた。 ハルくんは、動かなかった。 結城さんが、話し終えた。 ハルくんが、頷いた。一回だけ。 それから、父親の首に、腕を回した。 柚木先生が、僕の隣に来た。 「言ったね」 「言ったと思います」 「あの子、『うそ』って言った?」 「言ってないと思います」 「言う理由が、ないから」 六時。かき氷の列ができた。 りくくんが、列の途中で靴を脱いで、履き直して、左右を間違えた。 ハルくんが、後ろから来て、しゃがんで、りくくんの靴を、左右入れ替えた。 「りく、逆」 「ありがとう」 りくくんは、そのまま列に戻った。 ハルくんは、何も言わずに、さくらちゃんのところに戻った。 六時半。提灯に灯りがついた。 母が、桜の木の下から、僕のところに来た。 「いい保育園ね」 「うん」 「あんた、いい顔してる」 「そう?」 「あの子、誰?」 母は、ハルくんを指した。 「担任の子。四歳。時計が読める」 「あんたも、読めた」 「え?」 「四歳で、時計、読めてた。『ママは何時』って、毎日聞いてた」 「……覚えてない」 「そうでしょうね。私は、覚えてる」 母は、それだけ言って、帰った。 「夜勤だから」 「うん」 「また来る」 「うん」 時間の嘘ではなかった。約束の嘘でもなかった。 母は、来ると言って、来る人だ。 七時。祭りが終わった。 園庭の隅で、ハルくんとさくらちゃんが、しゃがんでいた。 セミの抜け殻を、数えていた。 「三つ」 「三つ」 「いちばん大きいの、さくらにあげる」 「ほんと?」 「ほんと」 さくらちゃんは、一番大きいのを受け取って、両手で持って、帰った。 結城さんが、ハルくんの手を引いて、僕のところに来た。 「先生」 「はい」 「言いました」 「はい」 「……先生に、言われてから、ひと月半かかりました」 「僕は、何も言ってません」 「『聞かないのは、答えを知ってるからです』って。六月の、トラックのところで」 「言いました」 「あれで、決めました」 結城さんは、頭を下げた。 ハルくんが、僕を見上げた。 「こうへいせんせい」 「なに」 「パパ、今日、うそついてない」 「うん」 「ハルも」 「うん」 「せんせいも?」 「……一つ、ついた」 「なに?」 「あとで、柚木先生に言う」 「うそ」 「本当」 ハルくんは、笑った。 初めて見た。 片づけのあと、園庭に、柚木先生と二人で残った。 提灯を外しながら、柚木先生が言った。 「今日、私、嘘ついてない」 「僕は、一つ、つきました」 「なに?」 「『楽しくない』って言ったら嘘になるから、言いませんでした」 「それ、嘘じゃなくて、言わなかっただけでしょ」 「約束の嘘です」 「どこが」 「言わなかったことを、いつか、言います」 柚木先生は、提灯を持ったまま、僕を見た。 「時間の嘘は、つかないでって言った」 「『いつか』は、時間じゃないです。約束です」 「……屁理屈」 「ハルくんに教わりました」 柚木先生は、笑って、提灯を箱に入れた。 「じゃあ、待ってる」 「はい」 「数えないから」 「はい」 連絡帳は、月曜に書く。 でも、僕は、その夜、下書きをした。 「セミの抜け殻を三つ拾って、一番大きいのをさくらちゃんにあげました」 消しゴムは、使わなかった。

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