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小説 · text · 2026-09-09

結婚式の代理出席で、元カレの席に座った

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結婚式の代理出席で、元カレの席に座ったのカバー

作:星野ひかり 第1話 名札は先に置いてあった 十一時三十分。ホテルグランテラス三階、アイリスの間の前。 受付台の白いクロスに、名札が八十枚くらい並んでいる。私はその中から「佐藤ゆい」を探している。 自分じゃないほうの名前を。 「三浦さん」 振り向くと、大久保さんが黒いスーツの襟を指で直していた。四十一歳、同じ派遣、今日は新婦の会社の上司役。 「その呼び方、禁止じゃないんですか」 「ここまでは本名でいい。あのドアをくぐったら禁止だ」 「線、細かいですね」 「細かくない奴から落ちる」 「落ちた人、見たことあります?」 「三回ある」 「三回」 「一回目は、新郎の名前を間違えた」 「二回目は」 「新婦の名前を間違えた」 「三回目は」 「自分の名前を間違えた」 「それはもう、事故ですよ」 「事故が起きる場所なんだ、ここは」 大久保さんが受付台のほうへ顎をしゃくった。 「今日はプロでいこう。バレたら全員アウトだからな」 「毎回言いますよね、それ」 「毎回アウトになりかけるからだ」 「ゆいさーん」 小走りで来たのは美月ちゃんだった。二十二歳、今日は新婦のいとこ役。 「もう間違えてる」 「え」 「ここまでは本名でいいんです。あと、声が大きい」 「あの、これ、どうしたらいいですか」 差し出されたご祝儀袋の表書きに、彼女の本名がフルネームで入っていた。楷書で、丁寧に。 「新しいの、買ってきて」 「一階の売店、閉まってて」 「じゃあ裏返して」 「袋って、裏返せます?」 「返せない」大久保さんが言った。「俺の予備をやる。三千円で」 「上司からお金取るんですか」 「上司は今日の役だ。今は業者だぞ」 「みずきちゃん」私は言った。「役名、言ってみて」 「早川、みずき」 「新婦とは」 「いとこです」 「どっち側の」 「え」 「父方か、母方か」 「……そこ、聞かれます?」 「三回に一回は聞かれる」大久保さんが袋を渡しながら言った。「母方だ。覚えろ」 「母方」 「新婦の母の、妹の子だ」 「妹さん、今日いますか」 「いない。だから母方にした」 「怖いですね、大久保さん」 「褒めるな」 受付台に着く。芳名帳のペンを持ったところで、手が止まった。 住所欄。 佐藤ゆいの現住所を、私は知らない。海外にいる、とだけ聞いている。国名すら聞いていない。 「新婦さまのご友人でいらっしゃいますか」 受付の女性が微笑む。ペン先が紙に触れたまま、動かない。 「あの、住所のところは」 「ご記帳、もうお済みですよ」 「え」 女性がページをめくって見せた。すでに「佐藤ゆい」の行が埋まっている。字は右に少し傾いた、細い字だった。 「先ほど、新郎側のお連れさまが。海外の方のぶんは代筆でとおっしゃって」 「新郎側の」 「はい。親切な方で」 「どんな方でしたか」 「背の高い。あと、ペンを持つのが左でした」 左。 喉のあたりで、何かが止まった。 トレーの名札は、全部おなじ大きさで、おなじ白さだった。表に、その人の名前が一つずつ入っている。 八十枚の中の一枚が、今日の私になる。 報酬は二万円で、ご祝儀の立替はない。 名札のトレーに手を伸ばしたら、横から先に取られた。 「佐藤ゆい。これですね」 男の手だった。指が触れた。爪が短い。 「あ、はい」 受け取る。顔を上げる前に、腕を引かれた。大久保さんだった。 「三浦さん、席次表」 「今、人が」 「時間だ」 振り返ったときには、その人はもう会場の中へ入っていた。背中だけ見えた。 顔を、見ていない。 席次表を開く。二つ折りの厚い紙。西が新婦側で、東が新郎側。 西のいちばん前、すずらんの卓。 佐藤ゆい。 その名前の下に、小さい字で一行あった。 新婦友人代表スピーチ。 「大久保さん」 「なんだ」 「私、スピーチって聞いてます?」 「聞いてない」 「私も聞いてないんですけど」 「じゃあ、やるんだな」 「そこ、そんなに軽く言います?」 「軽くない。四分だ。四分喋れば結婚式は前に進む」大久保さんは席次表を取り上げて、指でなぞった。「新婦から情報は」 「三行です」 「三行」 「三行で四分です」 「プロだろ」 「プロは台本をもらえます」 「今日はもらえない」 「じゃあプロじゃないです」 「もらえなくてもやるのがプロだ」 「その言い方、ずるいですよ」 大久保さんが紙をめくって、東側の列を目で追った。新郎側、やまぶきの卓。新郎友人。 私の卓の、中央通路を挟んだ、ちょうど真裏。 その指が止まった。私の目も、同じところで止まっていた。 岸本涼。 「知り合いか」 「いえ」 「三浦さん」 「知り合いじゃないです」 嘘が下手なのは、自分でもわかっている。 二年前に私が嘘をついて別れた人の名前が、背中合わせの席に印刷されていた。 第2話 西高でしょ 十二時、二階のチャペル。 石の床に、白い椅子が左右へ十列ずつ並んでいる。新婦側は左。私はその三列目に座っている。 さっきから、背中が熱い。 振り向きたい。振り向いたら負ける気がする。 「ゆいさん」隣で美月ちゃんが小声で言った。「讃美歌って、歌えます?」 「口だけ動かして」 「口だけって、どのくらいですか」 「歌ってる人の顔で」 「難しい」 「難しくない。顔だけ本気」 「顔だけ本気ですねえ」 「声はゼロ」 「それ、うちの母がやってました」 前の列の大久保さんが、振り返らずに指を二本立てた。 「なんですか、あれ」美月ちゃんが聞く。 「泣くのは第二讃美歌、っていう合図」 「誰が決めたんですか」 「知らない。でも毎回、第二讃美歌で誰かが泣く」 「なんでですか」 「二番目って、油断するからだと思う」 「深いこと言いますね、ゆいさん」 「その呼び方、まだ早い」 「もう会場です」 「ここは会場の下です」 「じゃあ、どこからが会場ですか」 「あの扉」 美月ちゃんが扉を見て、それから自分の靴を見た。 「私、扉の前で一回、深呼吸してもいいですか」 「いいけど、目立たないで」 「深呼吸って目立ちます?」 「あなたのは目立つ」 案内係の男性が近づいてきた。クリップボードを持っている。 「新婦さま側の、佐藤さまでいらっしゃいますか」 「はい」 「新婦さまとは、どちらで」 「高校で」 「ああ、ちょうどよかった。新婦さまの高校のご友人は、佐藤さまお一人でして」 「そうなんですね」 「ええと、西高でしたか、東高でしたか。席次表の肩書きを直すようにと、お母さまから」 二分の一。 外したら終わる二分の一だった。 「あの」 「はい」 「制服の色でわかりますか」 「制服の色、ですか」 自分でも何を言っているのかわからなかった。 「西高でしょ」 後ろから声がした。 男の声だ。低くて、語尾が上がらない。 私は振り向いた。振り向くしかなかった。 二年ぶりに、岸本涼が私を見ていた。 「新郎の後輩の岸本です」涼が案内係に言った。「田口さんから聞いてます。新婦さん、西高です」 「助かりました。ありがとうございます」 「あと、その紙、肩書き直すなら三か所ありますよ。二枚目の裏も」 「本当だ。よく気づかれましたね」 「暇なんで」 案内係が頭を下げて、離れていった。 涼はそのまま、私の一つ後ろの列の、いちばん端に座った。手が届く距離だった。 「佐藤さん、ですよね」 「はい」 「佐藤ゆいさん」 「そうです」 「へえ」 「なんですか」 「いや」 「言ってください」 「制服、紺だったんだな」涼が正面を向いた。「そう思って」 「西高の制服の話ですか」 「そう。西高の制服の話」 「詳しいんですね」 「詳しくない。今、案内係に教えてもらった」 「教えたのはそっちです」 「そうだったかな」 「岸本さん、なんで新婦側の列に座ってるんですか」 「後ろの端は、どっち側でもない」 「そういう決まりないです」 「じゃあ今作った」 「勝手に作らないでください」 「文句は案内係に」 「案内係、味方につけたじゃないですか」 「味方は多いほうがいい」 オルガンが鳴った。扉が開いて、新婦が入ってくる。 早川なつみさんは、写真で見たより小さかった。父親の腕につかまって、一歩ずつ、床の目地を数えるみたいに歩く。 新郎が高砂の前で待っている。田口けんじさん。二十九歳。依頼書に善良とは書いていなかったけれど、たぶん善良だ。 チャペルの天井は高い。声がいちど上まで行って、それから降りてくる。石の床は、人が動くたびに音を返す。 新婦側の椅子は、半分しか埋まっていない。 埋まっているうちの三人が、今日、雇われている。 第二讃美歌で、美月ちゃんが一人だけ本気の声量になった。 「みずきちゃん、うまい」 「音大なので」 「聞いてない」 「言ってないので」 前の列で大久保さんの肩が揺れていた。私は口だけ動かした。歌っている人の顔で。 背中は、ずっと熱いままだった。 指輪の交換で、なつみさんの手が震えた。新郎が両手で包んで、止めた。 小さい拍手が起きる。 私も叩いた。仕事だから叩いた、と思いながら、二回目からは普通に叩いていた。 後ろの列で、涼も叩いていた。音の間隔が、私とそろっていた。 式が終わって、参列者がロビーへ流れていく。 「三浦さん」大久保さんが横に来た。「今の男」 「知らない人です」 「今日、二回目だぞ、その顔」 「どの顔ですか」 「値段を聞かずに買う顔だ」 「買ってません」 「買う前だ」 「大久保さん」 「なんだ」 「今日、あと何時間ありますか」 「五時間だ」 「長いですね」 「長い。だから座ってろ。立ってる奴から見つかる」 白い手袋の女性が、人の流れを逆に歩いて、まっすぐこっちへ来た。 新婦の母だ。写真で見た。五十五歳。 両手で、私の手を取る。手が温かい。 「ゆいちゃん」 名前を呼ばれた。 本物のゆいの名前を、本物のゆいを知っている人に。 「大きくなって」 第3話 背中の距離 十三時、アイリスの間。 新婦の母には「大きくなりました」と返した。返してから、私は十センチも伸びていないことに気づいた。 円卓が十。高砂は北。西が新婦側で、東が新郎側。中央に通路が一本。 私の席は西のいちばん前、すずらんの卓。その通路を挟んだ真裏が、やまぶきの卓だった。 「大久保さん、席、遠くないですか」 「二卓後ろだ。部長は前に出ない」 「困ったらどうしましょう」 「困るな」 「助言が短い」 「長い助言は現場で使えない」 大久保さんはかすみ草の卓へ行った。行きながら、指で自分の口を一回叩いた。喋りすぎるな、という意味だと思う。 椅子を引こうとしたら、先に誰かが引いた。 「どうぞ」 岸本涼が、私の椅子の背を持っていた。 「自分の席、そっちですけど」 「通り道なんで」 「通り道の人は椅子を引かないです」 「引く人もいる」 座る。涼も座る。背中と背中のあいだが、たぶん四十センチ。 同じ卓の女の人が、身を乗り出してきた。名札に森田ちはる、とある。 「佐藤さんだ。なつみの高校の。写真で見たことある。ちっちゃい集合写真だけど」 「あ、はい」 「私、なつみと同期。営業事務」 「お世話になってます」 「なんで佐藤さんがお礼言うの」 「癖です」 「面白いね」 森田さんはナプキンを膝に置き直して、こっちに顔を寄せた。 「ねえ、髪、長くなかった?」 卓の空気が、少しだけこっちを向いた。六人ぶんの顔が、こっちを見る。 背中側で、椅子の脚が床を鳴らした。 「すいません、こっちの卓、シャンパン一杯足りないです」 涼が手を挙げて、会場中に聞こえる声で言った。 スタッフが二人走る。森田さんの視線が外れる。 「切ったんです、去年」私は言った。「暑くて」 「わかる。私も切った。八月ね」 「八月です」 「八月って切るよね」 「切ります」 「なつみ、切らないの。高校のときからずっと同じ長さ」 「そうなんですよ」 「知ってた?」 「知ってました」 知らなかった。写真を三枚見ただけだ。 「あの子、変わらないよね。ねえ佐藤さん、高校のなつみってどんな子だった?」 「寝てました」 「寝てた?」 「図書室で」 森田さんが笑った。卓の何人かも笑った。 三行のうち、一行を先に使ってしまった。 新郎新婦が入場した。会場が一度静かになって、また喋りだす。 乾杯前の歓談。通路をワゴンが通る。皿はまだ、どの卓にも置かれない。 銀のふたが十枚、ワゴンの上で少しずつ鳴っている。 八十人が、水だけで待っている。 背中越しに、声だけが来た。 「なんで代理なんかやってんの」 振り向かない。ナプキンを膝に置く。 「人違いです」 「そう」 「そうです」 「二年前も、そう言われたな」 フォークが、手の中で少し滑った。 「岸本さん」前を向いたまま言った。「留学、行ったんじゃなかったんですか」 「誰から聞いた」 「新婦さんから」 「新婦は俺の留学を知らない」 「じゃあ新郎から」 「新郎は今、高砂だ」 「……昨日聞きました」 「嘘、下手だな」 「得意な人がいるんですか」 「一人知ってる」 うしろを通る人がいるたびに、私の椅子が少し前に押された。四十センチが、三十八センチになる。 斜め向かいで、美月ちゃんが高砂のほうへ手を合わせていた。 「なつみ様、きれいですね」 「様?」森田さんが聞き返す。 「なつみ、様」 「いとこだよね?」 「いとこの、様です」 「そういう家系?」 「そういう家系です」 「どういう家系」 「厳しめの家系です」 私は水を飲んだ。グラスを全部飲んだ。 背中側で、涼が誰かと笑った。低くて、短い笑い方だった。二年前と同じだ。 私はナイフの位置を直した。三回直した。 「佐藤さん」背中から声。 「なんですか」 「ナイフ、まっすぐになった」 「見てないでください」 「音でわかる」 「そういうの、やめてください」 「そういうのって」 「背中から話しかけるの」 「振り向けばいい」 「振り向きません」 「じゃあ背中から話す」 「岸本さん」 「なんだ」 「今日、私のこと、誰かに言いますか」 返事まで、ワゴンが一台通り過ぎるくらいの間があった。 「言わない」 「なんでですか」 「言う理由がない」 「ある人もいます」 「その人は俺じゃない」 マイクが入る。司会の野々村さんが、卓のあいだを歩きながら、私の横で止まった。五十代。目が笑っていない。 「新婦友人代表の、佐藤ゆいさま」 「はい」 「ご歓談のあと、十四時にお願いいたします」 「はい」 「原稿はお持ちですか」 「頭に」 「頼もしい。マイクはこちらでお渡ししますので、両手でどうぞ」 「両手で」 「片手の方は、たいてい途中で困りますから」 野々村さんは私の胸の名札を一秒だけ見て、それから顔を見た。 「では、後ほど」 第4話 岐阜じゃない 乾杯の十分前。 スピーチまで、あと三十分ある。三行のままだ。 高砂の前で、大久保さんがマイクを持っている。新婦の会社の上司、という顔で。 その顔で二分喋って、まだ半分だった。 「なつみくんが入社した年の春、私は彼女に言いました。伝票は、心です」 誰も笑わない。新郎が、笑っていいのか迷っている。 「心です」 大久保さんがもう一度言った。 新郎が笑った。会場が笑った。拾った。プロだ。 「みずきちゃん」私は小声で言った。「今の、笑うところ」 「笑えなかったです」 「私も」 「二回目で笑うの、ずるくないですか」 「ずるいの」 「私、ああいうの覚えたほうがいいですか」 「覚えなくていい。あれは十年かかる」 「十年」 「大久保さん、この仕事十年らしいから」 「その前は何してたんですか」 「聞いたことない」 「聞かないんですか」 「聞かない」 「なんでですか」 「聞かれたくないことが、お互いあるから」 美月ちゃんが少し黙って、それからナプキンをたたみ直した。 「ゆいさんにも、ありますか」 「ないよ」 「ある顔してます」 「ない」 祝辞が終わって、席に戻ってきた大久保さんが、私の耳のところで言った。 「あっちを見ろ」 美月ちゃんが、こでまりの卓の手前で立ち止まっている。相手は新婦の伯母らしい人だった。 「みずきちゃん、いくつになったの」 「二十二です」 「早いねえ。実家、まだあっち?」 「はい、岐阜の」 伯母さんの顔が、止まった。 「岐阜?」 「岐阜です」 「え、岐阜?」 私はグラスを持って立った。まっすぐ歩いた。 「みずきちゃん、こっち来て。写真撮るって」 「あ、はい」 「岐阜って言った?」伯母さんがまだ言っている。「なつみの実家、沼津よ」 「岐阜なんです、この子の勤め先が」私は言った。「沼津から通ってて」 「岐阜に?」 「新幹線で」 「毎日?」 「毎日じゃないです」 「そりゃそうよねえ」 伯母さんが笑った。笑ってくれた。 「今の子は大変ねえ」 「大変です」 「あなた、ゆいちゃんでしょう。写真で見たわ。ちっちゃい写真だったけど」 「はい」 「みずきをよろしくね」 「はい」 よろしくされてしまった。 廊下側の壁のところまで来たら、美月ちゃんの目が赤くなっていた。 「私、いま」 「泣かない」 「泣きます」 「泣かない。泣くなら花嫁の手紙で泣いて。そこは全員泣くから」 「そこまで持ちますかね、私」 「持たせて」 「なんで岐阜って言ったんだろう、私」 「知らない」 「岐阜、行ったこともないのに」 「行ったことないところは言わない。次から」 「行ったところなら言っていいですか」 「よくない。県名は一個しか言わない。沼津。それだけ」 「沼津」 「もう一回」 「沼津」 「なつみさんのお母さんの妹の子。母方。沼津」 「母方。沼津」 「言えた」 「言えました」 「じゃあ手、離して」 美月ちゃんが私の袖を握っていた。握力が強かった。 大久保さんが通りかかって、二人を見ずに言った。 「バレたら全員アウトだ」 「知ってます」 「知ってる奴が県名を間違えるか」 「間違えたのは私じゃないです」 「同じだ。今日は三人で一人だぞ」 「三人で一人」 「三人ぶん喋って、一人ぶんの嘘に収める。それだけだ」 大久保さんは自分の卓へ戻っていった。歩き方だけは部長だった。 シャンパンが注がれていく。泡が上まで行って、消えて、また上がってくる。 卓の上で、八十個ぶんの細い脚が、いっせいに同じ高さに並んだ。 誰も、まだ触らない。 席に戻る。司会が乾杯の発声を新郎の伯父に振った。全員が立つ。 背中側で、椅子が下がる音がした。 「グラス、逆」 背中越しに、涼の声。 自分の手を見た。シャンパンじゃなくて、水の入ったゴブレットを握っていた。 「なんで見てるんですか」 「見てない。手の位置でわかる」 「わかるわけないです」 「わかった」 「岸本さん」 「なんだ」 「見ないでください」 「見てない」 「見ないで、わからないでください」 「それは無理だ」 持ち替える。 持ち替えた瞬間に、うしろから来たグラスの縁が、私のグラスの縁に当たった。 かちん、と鳴った。 「乾杯」 会場が言った。八十人が言った。 背中の一人だけ、私に言った気がした。 座って、一皿目が来て、そのあとだった。 新郎が卓を回りに来て、やまぶきの卓で足を止めた。涼の肩を叩いている。 「岸本、来てくれてありがとうな」 「おめでとうございます」 「おまえ、この卓に知り合いいないだろ。軽音の連中、みんな後輩だし」 「いますよ」 「いるの?」 「はい」 「どこ」 涼が親指で、うしろを指した。 私のほうを。 「あの人、俺の知り合いっす」 第5話 二年前の嘘 スピーチまで、あと十分。 五分前に「俺の知り合いっす」と言われた。新郎はまだ、何も聞きに来ていない。 私はロビー西の化粧室にいる。個室に入って、鍵をかけて、スマホのメモを開いている。 三行。 一、図書室で寝ているなつみを毎回起こした。 二、購買のパンを買うのが速かった。 三、卒業式で泣かなかった。 これで四分。四分は二百四十秒。一行あたり八十秒。 八十秒は長い。ラーメンが茹だる。 「佐藤さーん」 外から美月ちゃんの声がした。 「いる?」 「いる」 「大久保さんが、二つ伝えろって」 「どうぞ」 「一つ、新婦の名前は途中で三回まで」 「三回」 「二つ、笑いを取ったら、二回目は取りにいくな」 「二回目は取りにいくな」 「どういう意味ですか、これ」 「わかる。わかっちゃうのが嫌」 「じゃあ私、戻ります」 「みずきちゃん、県名は」 「沼津です」 「県名じゃない」 「静岡です」 「よし」 個室を出て、鏡の前で口を動かしてみる。 「なつみちゃんとは、高校の図書室で」 声が返ってくる。タイルは声を返す。 「なつみちゃんとは、高校の図書室で、出会いました」 隣の個室のドアが開いた。 森田さんだった。 「佐藤さん、練習?」 「あ、はい」 「見せて。ちょっと直してあげる。私、社内報やってるから」 「いえ、大丈夫です」 「遠慮しないで。私、人の文章直すの好きなの」 「それ、いちばん怖いです」 「よく言われる」 手が伸びてくる。画面が上を向いている。 ドアの外から声がした。 「森田さん」 「はい?」 「司会の方が探してます。職場の方に確認したいことがあるって」 「え、私?」 「東の、非常階段のところで。急ぎだそうです」 「なんだろ。佐藤さん、あとで見せてね」 「はい」 足音が遠ざかる。ハンドドライヤーが鳴って、それも止まった。 私は画面を伏せて、廊下に出た。 涼が壁にもたれていた。 「嘘つきましたね、今」 「うん」 「司会の人、探してないですよね」 「探してない」 「なんで助けるんですか」 「助けてない」 「助けてます」 「じゃあ助けた」 「どっちですか」 「どっちでもいい」 「よくないです」 涼が壁から背中を離した。廊下の絨毯が、足音を吸う。 「三浦」 「佐藤です」 「三浦」 言い返せなかった。 「お前が、留学行けって嘘ついたんだろ」 私は手に持っていた席次表を、握り直した。二つ折りの、厚い紙だ。 「何の話ですか」 「二年前」 「私、あのとき」 「言えよ」 「他に好きな人ができたって言いました」 「言ったな」 「本当です」 「嘘だな」 「本当です」 「二年前と同じ顔で言うんだな」 「同じ顔しかないので」 涼が私の手元を見た。 「手、震えてる」 「寒いんです、ここ」 「二十四度だよ、このホテル」 「測ったんですか」 「ロビーに出てる」 涼がポケットからボールペンを出して、こっちに差し出した。銀色の細いやつだった。 「使え。その席次表、裏が全部白いだろ」 「私のがあります」 「さっきから鞄の中、三回探してるだろ」 「……ないです」 「三行しかないんだろ。余白に書け。四分やるなら、間を作れ。話すより、黙ったほうが長い」 「なんで三行って知ってるんですか」 「声に出して読んでただろ、個室で」 「聞かないでください」 「化粧室の前で待ってた俺が悪いのは認める」 「認めるところ、そこじゃないです」 「他にあるか」 「あります」 「言えよ」 「今は言いません」 「じゃあ、あとで聞く」 「あとがあると思わないでください」 「二年待った」 「何がですか」 「なんでもない」 ペンを受け取った。指は触れなかった。触れないように、私が持ち方をずらした。 「岸本さん」 「なんだ」 「私、今日は佐藤ゆいです」 「知ってる」 「知ってて、なんで座ったんですか。あの席」 「席は新郎が決めた」 「本当ですか」 「本当だ」 嘘が下手なのは私だけだと思っていた。 この人も、下手だった。 「岸本さん」 「まだあるのか」 「私、これ終わったら帰ります」 「披露宴、四時半までだぞ」 「途中で帰ります」 「途中で帰る友人代表がいるか」 「いない」 「じゃあいろ」 「命令しないでください」 「命令じゃない」 「じゃあ何ですか」 「頼んでる」 席次表の角が、少し折れた。私が折った。 廊下の絨毯は足音を吸って、そのぶん、声だけがよく残る。 銀のボールペンは、握ると冷たくて、すぐ手の温度になった。 席次表の余白は、三行ぶんもなかった。 会場の扉が半分開いて、中の音が漏れてきた。マイクの音が乗る。 涼が顎で、その扉を指した。 「それでは、新婦のご友人を代表いたしまして、佐藤ゆいさま」 第6話 四分 十四時。マイクは、思ったより重い。 高砂の斜め前、会場の全部が見える場所に立たされた。八十人ぶんの顔がこっちを向いている。 私は三行しか持っていない。 壁の時計を見る。針が一分進んで、十四時○一分。 「新婦のご友人の、佐藤ゆいと申します」 「両手でどうぞ」司会の野々村さんが横から言った。 「はい」 両手にした。少しだけ楽になった。 「なつみちゃんとは、高校の図書室で会いました」 声が返ってくる。天井が高い。 「なつみちゃんは、いつも図書室で寝てました」 誰かが笑った。新郎だ。いちばん前で、いちばん大きく。 「四時間目のあと、窓際のいちばん奥の席で、鞄を枕にして寝てるんです。私が起こします。起きません。もう一回起こします。起きません」 「起きろよ」と、たぶん軽音の卓から声が飛んだ。 「起きないんです。三回目で、耳のところで拍手します」 「起きる?」 「起きます。でも、起きてすぐ言うんです。今、何時間目、って」 「何時間目だったんですか」 「もう放課後です」 笑いが広がる。ここで間を空ける。言われたとおりに。 「三年間、毎回起こしました。あの子、一度も自分から起きたことがないです」 高砂で、なつみさんが口を押さえた。 「購買のパンは、私が買いに行きました」 時計。十四時○三分。 「なつみちゃんが起きないからです。三年間で、たぶん五百個くらい買いました。焼きそばパンがいちばん速く売り切れるので、私は走るのが速くなりました」 「何秒?」また軽音の卓から声。 「教室から購買まで、十九秒です」 「嘘だろ」 「本当です。二階から一階まで、階段は使わないので」 「使わないと、どうやって降りるんですか」新郎が聞いた。 「それは、今日は言えません」 会場が笑った。うしろの卓でクマの被り物が拍手している。まだ余興は始まっていないのに。 マイクは両手でも重い。持ち替えるたびに、コードが自分の足に当たる。 八十人ぶんの顔は、笑うときだけ全部おなじ形になる。 壁の時計だけが、こっちを見ていない。 あと二分。三行のうち、二行を使い切った。 そのとき、野々村さんがマイクを持ったまま横に来た。 「佐藤さま。せっかくですので、もう一つ。高校時代の新婦さまのお話を」 「もう一つ」 「ええ、もう一つ」 三行目は卒業式で、それは最後に使う予定だった。 八十人が待っている。 私は黙った。 黙って、なつみさんを見た。ドレスの裾を両手で押さえて、こっちを見ている。 この人の顔を、私はまだ二時間しか見ていない。それでも、今日ここに立つために、この人が何をどれだけ隠したかは、なんとなくわかる。 「なつみちゃんは」私は言った。「人に頼むのが、下手です」 なつみさんの肩が動いた。 「起こしてって言わない。パン買ってきてって言わない。全部、こっちが勝手にやってました」 新郎が笑って、なつみさんの顔を覗き込んでいる。 「今日もたぶん、言ってないことが、いっぱいあると思います」 会場が少し笑った。なつみさんは笑わなかった。 「けんじさん」 「はい」新郎が返事をした。マイクなしで、大きい声で。 「あの子、言わないので。聞いてあげてください」 「はい」 会場が、新郎に笑った。 「最後に一つだけ」 時計。十四時○五分。 「卒業式の日、なつみちゃんは泣きませんでした。私も泣きませんでした。二人で図書室に行って、窓際のいちばん奥の席に座って、鐘が鳴るまで黙ってました」 誰も声を出さなかった。 「なつみちゃん。おめでとう」 マイクを下ろす。 一拍、何も鳴らなかった。 右の、いちばん近い卓で、手が二回鳴った。誰よりも先に。 そこから会場が追いついて、拍手が来た。私は頭を下げた。下げたまま、右のほうを見た。 やまぶきの卓で、岸本涼が立って拍手していた。一人だけ立っていた。 席に戻る途中、大久保さんとすれ違った。目は合わせずに言われた。 「五百個は多い」 「多かったですか」 「三年で五百は、二日で三個だ」 「計算しないでください」 「あと、十九秒は速すぎる」 「速いんです、私」 「速いのはあんたで、佐藤ゆいさんじゃない」 「……はい」 「まあ、四分だった。四分ちょうどだ」 「見てたんですか」 「見るのが仕事だ」 「大久保さん」 「なんだ」 「途中で、司会に振られました」 「見てた」 「助けてくれませんでした」 「助けたら、あんたが困る」 「困ってました」 「困ってる顔じゃなかった。あれは、喋る気になってる顔だ」 「そんな顔ないです」 「あった」 席に着いて、水を飲む。手はまだ震えている。ペンを返しそびれた。 通路を、新婦の母が歩いてきた。にこにこしている。 私の椅子の横に立って、少しだけ首をかしげた。 「ゆいちゃん。高校のとき、そんな話あった?」 第7話 言ってないこと 十四時三十分。 「ありました」 二秒遅れて、私はそう答えた。新婦の母は、私の椅子の横に立ったままだった。 「そう。ないと思ってたわ」 「古い話なので」 「そうねえ。古いわねえ」 司会が「新婦がお色直しに」と言った。お母さんは、そこでやっと高砂のほうへ歩いていく。会場の照明が半分落ちた。 息をつく前に、スタッフに肩を叩かれた。新婦がお呼びです、と言われた。 北側の廊下。新婦控室のドアに、早川なつみ、と紙が貼ってある。 ノックする。 「どうぞ」 開けると、なつみさんが鏡の前に立っていた。二着目は赤に近い色で、裾が床に広がっている。 「座らないんですか」 「座れないの、これ」 「重いんですか」 「七キロ」 「七キロ」 「米より重い」 「米は五キロですね」 「じゃあ米より重い」 「勝ちましたね、米に」 「勝ちたくなかった」 ヘアメイクの人が笑って、櫛を置いて、部屋を出ていった。 二人になった。 「三浦さん」 「はい」 「ごめん。スピーチ、言ってなかった」 「言ってなかったです」 「言うと、断られると思って」 「断りました」 「だよね」 鏡の中で、なつみさんが頭を下げた。ティアラが少しずれた。 「あの、ずれてます」 「どっち」 「右」 「直して」 「私が?」 「他に誰もいない」 直した。触ってみて、ティアラが金属だと初めて知った。 「重くないですか、これも」 「四百グラム」 「量ったんですか」 「全部量った。ドレスも、靴も、ブーケも」 「なんでですか」 「持てるかどうか、先に知りたくて」 「持てました?」 「今のところ」 「今のところ、持ててます」 「うん」 鏡は三枚ある。角度がついていて、なつみさんが三人いた。三人とも、同じところでティアラに触る。 ドレスの裾は、床の上に赤い水たまりみたいに広がっている。 最初の白いドレスが、部屋の隅に立ったまま掛かっていた。 なつみさんは、鏡の中の自分を見なかった。私のほうを見ていた。 「よかった、さっきの」なつみさんが言った。「図書室、本当なんだ」 「三行しかもらってません」 「三行で足りるの?」 「足りません。だから作りました。怒りますか」 「怒らない」 「作った部分、けっこう多いです」 「どこ」 「パンの数と、階段」 「階段?」 「降り方は言えません、って言いました」 「言えないよね、そんなの」 「言えません。存在しないので」 なつみさんが、鏡に向かって笑った。声は出さなかった。 「ゆいがいたらね」 「はい」 「ゆいがいたら、たぶん同じこと言った」 「ひとつ、聞いていいですか」 「うん」 「新郎側に、私の知ってる人がいます」 「え?」 「聞いてないんですね」 「誰?」 「岸本涼さん」 なつみさんの手が、ティアラから離れた。 「岸本くん?」 「はい」 「知ってるって、どのくらい」 「二年つきあって、二年前に別れました」 「……ごめん、ちょっと待って」 「待ちます」 「待って」 「はい」 「けんじ、知ってるのかな」 「たぶん、知らないです」 「岸本くんは?」 「知ってます」 「いつから」 「たぶん、今日より前から」 「それ、どういうこと」 「わかりません」 「わかんないの?」 「わかんないんです」 なつみさんが息を吐いた。長い息だった。ドレスの胸のところが動いた。 「今日、いろいろ言ってなかったのは私だけだと思ってた」 「違いました」 「違ったね」 廊下でノックがした。ドアの向こうから声がする。 「なつみ、ちょっといい? ゆいちゃんのことなんだけど」 新婦の母だ。 なつみさんが私を見た。私はドアを見た。ドアの前に何もない部屋だった。隠れる場所がない。 ドアの外で、別の声が割り込んだ。 「お母さま、写真いいですか。親族の集合、二階で。新郎が探してました」 岸本涼の声だった。 「あら、今から?」 「今しかないって、田口さんが」 「けんじさん、もう早川よ」 「田口さんが、そう言ってました」 「あなた、後輩さん?」 「岸本です。荷物、持ちます」 足音が二つ、遠ざかっていった。 私はドアを細く開けた。 廊下の端に、涼の背中があった。振り向かない。振り向かないまま、ドアの枠を、指の関節で二回鳴らして歩いていった。 二年前、待ち合わせに遅れたときにやっていたのと、同じ鳴らし方だった。 「今の」なつみさんが言った。 「岸本さんです」 「なんであの人が、ここにいるの」 「私が聞きたいです」 「けんじの後輩なの。大学のサークルの」 「はい」 「席も、けんじが決めた」 「はい」 なつみさんが裾を持ち上げて、一歩だけこっちに来た。七キロの一歩は、遅かった。 「あなたのこと、私、言ってない」 第8話 暗くなる 十五時十分。会場の照明が落ちた。 言ってない、と言われてから四十分がたつ。その四十分、新郎はずっと普通だった。 扉が開いて、色の変わった新婦と新郎が入ってくる。各卓を回って、キャンドルに火を入れていく演出だ。 私の卓は、二番目だった。 新郎が私の前で足を止めた。 「佐藤さん、さっきのスピーチ、ありがとうございました」 「いえ」 「なつみ、あんな顔するんですね」 「どんな顔ですか」 「怒られてるみたいな顔」 「怒ってないです」 「わかってます」 新郎が火を入れる。卓のキャンドルが一本、明るくなった。 「ゆいさんって呼んでいいですか。なつみがいつもそう言うんで」 「はい」 「ゆいさん、ロンドンって寒いですか」 ロンドン。 初めて聞いた。本物の佐藤ゆいがどこにいるのかを、いま知った。 「寒いです」 「そうかあ。行ってみたいんですよ、俺」 「十月は、雨が多くて」 「調べたんですけど、十月って雨多いらしいですね」 「多いです」 「やっぱりそうか。ゆいさんの話と合ってる」 「合ってます」 新郎が笑って、次の卓へ行った。合っていた。何一つ知らないのに。 「佐藤さん」森田さんが小声で言った。「新郎、いい人だね」 「いい人ですね」 「なつみ、運がいい」 「運じゃないと思います」 「え?」 「なんでもないです」 「気になる言い方するね、佐藤さん」 「よく言われます」 「なつみもそう。肝心なとこ言わない」 「似ますね、友達って」 「そうそう。似るのよ」 似ていない。今朝、写真で見ただけの人だ。 「私、なつみの結婚式、絶対泣かないって決めてきたの」 「決めてきたんですか」 「化粧、朝六時からやったから」 「六時」 「泣いたら三時間が消える」 「消えますね」 「だから佐藤さんも泣かないでね」 「泣きません」 「約束ね」 「はい」 斜め向かいで、美月ちゃんがキャンドルに顔を近づけすぎていた。 「みずきちゃん、前髪」 「え」 「焦げてる」 「うそ」 「うそです。でも五センチ切ってます」 「五センチって、近いですか」 「近い」 「私、近くで見たくて」 「見るのはいい。焦げるのはだめ」 「焦げたらどうなりますか」 「においで全員気づく」 「気づかれたら、どうなりますか」 「前髪の話で三十分もつ」 「もつなら、いいことじゃないですか」 「よくない。三十分ずっと、あなたが見られる」 「それは、いやです」 「でしょう」 美月ちゃんが背筋を伸ばした。伸ばしすぎて、隣の伯母さんが笑った。 卓のキャンドルが一本ずつ増えていく。増えるたびに、部屋の隅のほうが黒くなる。 火のあるところだけ、人の顔が下から明るい。 誰も、隣の卓を見ていない。 新郎新婦が最後の卓に着いた。メインキャンドルへ移る前に、会場が完全に暗くなる。 真っ暗になった三秒のあいだに、手首をつかまれた。 背中側からだった。 二歩、通路のほうへ引かれる。 「岸本さん」 「静かに」 「手」 「逃げるなら今だぞ」 暗い。誰の顔も見えない。手の温度だけがある。 「なんでですか」 「バスが来る前なら、まだ間に合う。二次会の名簿に名前が乗る前なら、お前は何も背負わない」 「名簿の話ですか」 「名簿の話だ」 「岸本さん」 「なんだ」 「その手、私を出口のほうに引いてないです」 「そうか」 「逆です」 「そうだな」 「引きとめてますよね」 「……両方だ」 「どっちかにしてください」 「どっちかにできてたら、二年も」 メインキャンドルに火が入って、会場が明るくなった。 手は、もう離れていた。 通路のまん中に立っている私を、司会の野々村さんが見ていた。目が合った。 「あの、席が」 「どうぞ」 野々村さんは、何も聞かなかった。聞かないまま、手元の進行表を一枚めくった。 席に戻ってナプキンを直していたら、横に人が立った。グラスを二つ持った大久保さんだった。 「三浦さん」 「その呼び方、禁止です」 「禁止だな」 「大久保さんが言ったんですよ」 「言った」 「じゃあなんで、本名で呼ぶんですか」 「呼んだな」 「呼びました」 「十年やってて、二回目だ」 「一回目は」 「言わない」 大久保さんはグラスを置いて、私の耳のところで言った。 「今の、見られてる」 第9話 二年前の曲 十五時四十分。余興。 誰にですか、と聞いたのは三十分前だ。大久保さんは、まだ教えてくれない。 新郎側の友人が五人、高砂の前に並んだ。四人が動物の被り物をしている。 一人だけ素顔で、ギターを持っていた。岸本涼だった。 「新郎の大学のサークル、軽音です」マイクを持ったクマが言った。「本日は三曲」 「三曲は多いですね」司会の野々村さんが横から言った。 「二曲で」 「一曲で」 「一曲で」 「潔いですね」 「潔いです」 会場が笑った。クマが下がる。 「みずきちゃん」私は小声で言った。「あのクマ、たぶん司会に勝てない」 「誰も勝てないと思います」 「あの人、何を見てるんですかね、いつも」 「全部見てます」 「怖いです」 「怖い。でも、今日いちばん仕事してる人です」 「大久保さんより?」 「大久保さんは二番」 「私は」 「まだ順位に入ってない」 「入りたいです」 「入らなくていい。入ったら、それは目立ってるってこと」 涼がギターを構えた。ピックを持たずに、指で弾いた。 最初の四つの音で、私はナイフを置いた。 二年前、私が毎朝聴いていた曲だった。イントロが四小節あって、そこだけやたら長い。涼はいつも「長い」と文句を言っていた。 「佐藤さん」森田さんが身を乗り出した。「この曲、好きなの?」 「知らないです」 「今、手が止まったから」 「肉が固くて」 「鶏だよ、それ」 「固い鶏です」 「固い鶏、あるかなあ」 「あります」 森田さんは納得しなかった顔で、でも高砂のほうを向いた。 涼は目を上げなかった。指板だけ見ている。 二年前も、この曲を弾けなかった。コードが二つ届かないと言っていた。 いま、届いていた。 二年で届くようになるものが、たぶん、いくつかある。 サビの前で、涼が歌詞を間違えた。 あからさまに間違えた。二番の頭を、一番のまま歌った。 「岸本、そこ違う」クマがマイクで叫んだ。 「知ってる」 「知っててやるな」 「二番、忘れた」 「練習しろ」 「三回した」 「足りないだろ」 会場が笑って、顔という顔が高砂を向いた。 私の顔から、誰の目も離れた。 涼はそのまま最後まで弾いた。 目は、たぶん一度もこっちを見なかった。見ないようにしていた。見ないようにしている人は、わかる。 曲が終わって、拍手のあいだに、涼が自分の卓へ戻ってくる。通路を通る。 私の椅子の後ろで、一秒だけ止まった。 「イントロ、やっぱり長い」 それだけ言って、座った。 「長いですね」 「知ってたのか」 「今、聞いたので」 「そうか」 「そうです」 「岸本さん」 「なんだ」 「コード、二つ届いてました」 「聞いてたのか」 「聞こえたので」 「二年練習した」 「暇だったんですね」 「暇じゃなかった」 「じゃあ、なんでですか」 「弾けるようになったら、聞かせる相手がいると思ってたから」 「……いましたか」 「今日いた」 背中の向こうで、椅子が少しだけこっちに寄った気がした。気のせいかもしれない。気のせいにしておいた。 高砂から新郎が降りてきて、すずらんの卓の横で止まった。 「ゆいさん、岸本のギター、どうでした」 「上手でした」 「あいつ、二年前に留学するって聞いてたんですけどね」 グラスの脚を持って、持っただけで置いた。 「ゆいさん、岸本と知り合いなんですか」 「え」 「本人が言ってたんですよ。あの人、俺の知り合いっす、って」 「人違いだと思います」 「岸本が人を間違えますかね」 「間違えます」 「なつみに聞いてみようかな」 「今日は、やめてください」 「なんで」 「今日は、なつみちゃんの日なので」 新郎が黙って、それから笑った。 「ゆいさん、ほんとにゆいさんですね」 デザートが運ばれてくる。皿の上に、飴細工の輪が二つ載っている。 照明が一段上がって、輪の縁が光った。 どこかの卓で、誰かが先に割った。硬い音が、こっちまで届いた。 「大久保さん、手拍子ずれてましたよ」通りかかった大久保さんに言った。 「ずらしてる」 「なんでですか」 「裏で取ると、上司っぽい」 「上司っぽいって何ですか」 「わからんが、部長は裏で取る」 「偏見です」 「偏見で三十社通ってる」 「勝ち方が汚いです」 「勝ち方に種類はない」 「ありますよ」 「ないな。今日は全員で勝つ」 「全員」 「三人で一人だからな」 大久保さんは、やまぶきの卓のほうを一度見て、それから自分の席へ帰っていった。 見た、と思う。たぶん、見た。 美月ちゃんが、私の袖を引いた。 「ゆいさん、あの人」 「どの人」 「ギターの人」 「うん」 「知り合いですか」 「知らない」 「そうですかあ」 「そう」 「ゆいさん、私、嘘が下手な人、けっこう見てきました」 「二十二年で?」 「二十二年で」 「誰が下手でした」 「うちの父です」 「お父さん、何やった人」 「言えないです」 「じゃあ聞かない」 「ゆいさんは、上手です」 「ありがとう」 「上手なのに、今、目が泳ぎました」 美月ちゃんはデザートのフォークを持って、それを置いて、もう一回私を見た。 「あの人、ゆいさんのこと見て歌ってませんでした?」 第10話 泣くな 十六時十分。 見て歌ってない、と答えるのに一秒かかった。美月ちゃんは「はい」と言って、それから三十分、その話をしなかった。 会場が暗くなって、高砂の前に椅子が一つ置かれた。 新婦の母が呼ばれて、そこに座る。 なつみさんが、便箋を広げた。 「お父さん、お母さん」 紙の鳴る音まで聞こえる。マイクが近すぎる。 「私は、友達が少ないです」 会場が、少しだけ動きを止めた。 森田さんが、私の袖を引いた。 「え、そこから入る?」 「入りましたね」 「なつみらしい」 「らしいです」 「私、この子の入社面接も聞いてたの」 「聞いてたんですか」 「隣の部屋で。声が漏れるビルなの」 「何て言ってました」 「特技のところで、黙ってた」 「黙ってた」 「三十秒。それで受かった」 「なんで受かるんですか」 「うちの部長が、黙れる子はいいって」 「その部長、今日いますか」 「いる。あそこ」 森田さんが指したのは、かすみ草の卓だった。 大久保さんが、部長の顔でうなずいていた。 「小さいころから、そうでした。お母さんはそれを心配して、いつも、友達を家に呼びなさいって言いました。私は呼びませんでした。呼ぶ人がいなかったからです」 なつみさんは、顔を上げない。 「中学のとき、お母さんが誕生日にケーキを二つ買ってきました。一つは、友達が来たとき用でした。誰も来ませんでした。二つとも、うちで食べました」 高砂の前の椅子で、お母さんが下を向いた。 「あのとき、お母さんは何も言いませんでした。二つ目のケーキの箱を、黙って開けてくれました」 「でも今日は、来てくれた人がいます。高校の友達も、会社の人も、いとこも」 会場の視線が、西の卓に来た。私の卓に。 私は下を向けなかった。下を向いたら、そういう顔になる。 背筋を伸ばして、新婦を見た。それが今日の仕事だ。 斜め向かいで、音がした。 美月ちゃんが、両手で口を押さえて泣いていた。押さえきれていない。肩から下が全部動いている。 「みずきちゃん」森田さんが背中をさすった。「いとこだもんね」 「いとこ、じゃなくて」 テーブルの下で、私は美月ちゃんの膝を叩いた。 「いとこだから、泣くんだよね」 「はい」 「うん」 「いとこだから、泣いてます」 「そう」 美月ちゃんの泣き声で、卓が三つ、つられた。伯母さんが泣いて、伯母さんの隣が泣いて、後ろの卓が泣いた。 会場が全部、そっちを向いた。 大久保さんが立ち上がって、ポケットからハンカチを出して、隣の卓に配りはじめた。二枚目、三枚目。どこから出てくるんだ。 「大久保さん」通りすがりに小声で聞いた。「何枚持ってるんですか」 「十二枚」 「なんで」 「披露宴だぞ」 「十二枚って多くないですか」 「足りたことがない」 「使ってるんですか、毎回」 「配ってる」 「配るために来てるみたいですね」 「今日は、それでいい」 「大久保さん、泣いてる人に配るの、仕事に入ってます?」 「入ってない」 「じゃあ、なんでやるんですか」 「泣いてる客の卓は、誰も見に来ない」 「……守ってるんですか、私たちを」 「ハンカチを配ってるだけだ」 大久保さんは、伯母さんの卓にもう二枚置いて、自分の席へ戻った。 お母さんは、膝の上で両手を組んでいる。組んで、外して、また組む。 組み直すたびに、白い手袋のしわが増えていく。 便箋は、あと一枚だった。 「お母さん」 なつみさんの声が、少し崩れた。 「今日、来てくれてありがとう。ずっと、心配かけました。もう心配しなくていいです、とは言えません。たぶん、まだします」 お母さんが、椅子の上で何度もうなずいた。 「でも、今日は、笑っててください」 紙を折る音がした。 私の目が、熱くなった。 ここで泣いたら、佐藤ゆいが泣くことになる。それは本物のゆいのぶんだ。私が使っていいものじゃない。 背中側から、声がした。会場の誰にも聞こえない大きさで。 「泣くな、佐藤」 「はい」 「息、止めるな。吸え」 「吸えないです」 「吸え」 「はい」 吸った。止まった。 「岸本さん」 「なんだ」 「なんで、わかるんですか」 「背中が動いてない」 「見てないでしょう」 「見てない」 「じゃあ、なんでですか」 「四十センチだからだ」 拍手が終わって、照明が戻る。 なつみさんが花束を渡して、お母さんが受け取って、二人が短く抱き合った。 高砂の前の椅子で、お母さんが、膝の上のバッグからスマホを出した。 画面が光る。西の卓からは、角度でよく見えた。 通話の画面だった。相手の顔が映っている。 私はその顔を知らない。席次表の名前でしか知らない。 画面の中の人は、笑い方がなつみさんに似ていた。二十年、同じ町にいた人の似方だった。 佐藤ゆいだった。 第11話 こっちにも 十六時二十分。お開きまで、あと十分。 新婦の母が席を立って、スマホを持ったままロビーへ出ていく。 私は追いかけた。追いかけないほうがよかった。 三階のロビー。窓際で、お母さんが手を振っていた。 「ゆいちゃん、聞こえる?」 画面の中の人が、目をこすっている。 「聞こえます。おばさん、こっち、朝の八時ですよ」 「あら、起きてた?」 「起きてないです」 「じゃあ寝てたの」 「寝てました」 「起こしちゃったわね」 「起こしてください、それは」 声が、思っていたより低かった。画面の中で、その人は前髪を手でつぶしている。 「なつみ、きれいだったのよ」 「見たかった」 「見せてあげる」 お母さんが画面を会場のほうへ向けた。 それから、私のほうへ向けた。 止まった。 「ゆいちゃん」お母さんが画面を見ながら言った。「こっちにも、いるのよ」 画面の中の佐藤ゆいが、私を見た。 私は、画面の中の佐藤ゆいを見た。 誰も何も言わない時間が、三秒あった。 「え」ロンドンの人が言った。「どちらさま」 「はじめまして」 「あ、はい。はじめまして」 「あの」 「はい」 「今日は、あなたです」 「私?」 「私が、あなたです」 「……えっと」 「ごめんなさい」 「ゆいちゃん」お母さんが言った。「切るわね」 「切らないでください」 「またかけるから」 「おばさん、待って」 切れた。 窓際に、影が一つ増えた。 涼が、ロビーの真ん中からこっちへ歩いてきて、私とお母さんの前に立った。柱と窓のあいだ、通路からは死角になる位置に。 「新郎の後輩の岸本です。お母さま、荷物、車に運びましょうか」 「あら、いいのよ」 「引き出物、重いんで」 「若い人は、すぐ持つのね」 「持つのが仕事なんで」 「そういう仕事じゃないでしょう、今日は」 「今日は、そういう仕事です」 「面白い人ね」 「よく言われます」 「岸本さん」私は言った。「いま、いいですか」 「よくない」 「よくないですけど」 「わかった」 涼は動かなかった。背中でロビーをふさいだまま、そこに立っていた。 三階のロビーは、会場から出てきた人でだんだん埋まっていく。誰も窓際までは来ない。 窓は床まであって、下に車寄せの屋根が見える。ガラスは、触らなくても冷たい色をしている。 涼の背中で、ロビーの半分が見えない。 「あのね」お母さんが私の手を取った。今日、二回目だ。 「はい」 「知ってたのよ」 「何を」 「ゆいちゃんが来られないこと。なつみが誰かに頼んだことも」 手の温度が、朝と同じだった。 「いつからですか」 「席次表を見たとき」 「私、失礼なことを」 「失礼じゃないわよ」 「でも」 「あの字、ゆいちゃんの字じゃないもの」 「はい」 「右に傾いた、細い字だったでしょう。ゆいちゃんのは、まっすぐで丸いの」 「見たんですね、芳名帳」 「受付は、いちばん先に見るところよ」 「ゆいちゃんはね、うちの住所を書くの。実家が近いから。二十年、そうしてる」 「二十年」 「小学校からずっと。なつみのぶんの提出物まで、うちの住所で出してた」 「そういう人なんですね」 「そういう子なの」 「その人に、なりました。今日」 「なってくれたのよ」 「勝手に、なりました」 「頼まれたんでしょう」 「頼まれました」 「じゃあ、頼んだ子が悪いの」 「悪くないです」 「かばうのね」 「かばってないです」 「かばってる」 窓の外で、車寄せに白いバスが一台入ってきた。二次会の分だ。 まだ乗らない、と自分に言った。 「言わなかったんですか。新婦さんに」 「言ったら、あの子、今日を全部やり直すもの」 「やり直せないですよ、結婚式」 「やり直そうとするの」 お母さんが笑った。目尻に線が寄る。なつみさんと同じ笑い方だった。 「あの子、頼むのが下手なのよ」 「知ってます」 「さっき言ってたわね、あなた」 「はい」 「よく知ってるじゃない、三行で」 「……」 「怒ってないの。ぜんぜん」 「お母さん」 「なあに」 「私、名前を返します。今日が終わったら」 「返さなくていいわよ」 「返します」 「じゃあ、預かっておくわ。ゆいちゃんに会うまで」 「はい」 「あの子、来年の春に帰ってくるの」 「そうなんですか」 「そのとき、三人で会いましょう」 「三人」 「なつみと、ゆいちゃんと、あなた」 「私、名前がないです」 「あるでしょう」 「あります」 「じゃあ、それで来て」 お母さんが、私の手をもう一度握り直した。 「あなたね」 「はい」 「なつみが困らないように、来てくれたんでしょう。ありがとう」 窓の外で、白いバスの荷物室が開いた。新郎側の若い人たちが、紙袋の山を運び込んでいく。 振り返ると、私の前の壁は、いつのまにか消えていた。 運んでいる人の中に、岸本涼はいなかった。 第12話 行かなかった 十六時三十分。お開き。 ありがとう、と言われて、私は「いえ」しか返せなかった。十分たっても、まだ何も思いつかない。 新郎新婦と両親が扉の外に並んで、出ていく人と一人ずつ握手をする。送賓というやつだ。 列は西の卓から。私は三番目だった。 「みずきちゃん、目」 「腫れてます」 「腫れてる」 「いとこなので」 「いとこでも、それは腫れすぎ」 「氷、もらいました」 「誰に」 「大久保さんに」 「持ってるんだ、氷まで」 「ハンカチに包んでくれました」 「十二枚のうちの一枚」 「十一枚になりました」 「今日、何回泣いた」 「三回です」 「三回で足りましたか」 「足りてないです」 「まだ泣くの」 「バスで泣きます」 「バスは我慢して」 「なんでですか」 「名簿の人が乗ってるから」 美月ちゃんが口を押さえた。押さえるところは、覚えたらしい。 列が進む。新郎が私の手を両手で握った。 「ゆいさん、本当にありがとうございました」 「こちらこそ」 「なつみ、ずっとゆいさんの話してたんですよ」 「そうですか」 「ロンドンの話、また聞かせてください」 「はい」 「あ、写真いいですか。なつみ、ゆいさんとの写真ないって言ってて」 カメラマンがレンズを構えた。 記録に残る。今日、いちばん長く残るやつだ。 なつみさんの目が、一瞬だけこっちを向いた。助けてほしい顔だった。助ける側が助けを求めてどうする。 「早川さん」 列の後ろから、涼の声がした。 「おっ、岸本。早川って呼ばれるの、まだ慣れないな」新郎が笑った。 「慣れてください。バス、もう来てます。あと運転手さんが、名簿の確認したいって」 「まじか。すいません、写真あとで」 「はい」 カメラマンが下がる。私は頭を下げて、列から出た。 引き出物の袋が重い。カタログとバウムクーヘンと、なぜか陶器が入っている。 持ち手が細くて、指に赤い線が残る。 床は石で、人が歩くたびに、かかとの音が天井まで行って戻ってくる。 ロビーの端で、大久保さんが袋を二つ提げていた。 「二つあります」 「一人ぶんだ」 「一人ぶんは一つです」 「俺は今日、部長だ。部長は二つもらう」 「もらいません」 「もらう部長もいる」 「見たことないです」 「俺が今、見せてる」 大久保さんは一つを美月ちゃんに渡した。美月ちゃんは受け取って、そのまま落とした。 「陶器です、それ」 「割れました?」 「振るな」 「大久保さん」 「なんだ」 「今日、終わりましたね」 「まだだ」 「お開きって言ってました」 「お開きは式の話だ。俺たちの仕事は、最後の一人が建物を出るまで」 「長いですね」 「長い。だから座るな。座った奴から気が緩む」 「さっき私、しゃがんでました」 「見てた」 袋を床に置いて、肩を回していたら、涼が来た。手ぶらだった。 「重い」 「そっちは持ってないんですか」 「新郎の後輩は、あとで受け取る係」 「係、多いですね、今日」 「多い」 涼が、床の袋の持ち手を片手で持ち上げた。そのまま持っていた。 「留学、行かなかった」 ロビーの音が、遠くなった。 「行かなかった?」 「行ってない。辞退した。二年前の十一月」 「なんで」 「お前が嘘ついたって、わかってたから」 「わかってた」 「あの日、お前、俺の合格通知を先に見てただろ」 「見てないです」 「封筒だけゴミ箱に捨てて、中身は机に戻してあった」 「そんなこと」 「折り目まで直してあった」 「……直しました」 「そういうことするんだよ、お前は」 袋の持ち手が、涼の指の中で少しよじれた。 「他に好きな人ができたって言う奴が、人の合格通知の折り目を直すか」 「直す人もいます」 「いない」 「います」 「いないんだ」 言い返せなかった。 「じゃあ、なんで二年」私は言った。「なんで二年、何も言わなかったんですか」 「言おうとした」 「してないです」 「番号が変わってた」 「変えました」 「うん」 「引っ越しました」 「知ってる」 「なんで知ってるんですか」 「それは」 「それは?」 「言うと、たぶん引かれる」 「引きません」 「引く」 「引かないです」 「じゃあ、あとで言う」 「あとがあると思わないでください」 「二回目だな、それ」 「何回でも言います」 涼が答える前に、横から声がした。 「岸本さん、ちょっと」 大久保さんが立っていた。 今日いちばん、営業の顔をしていなかった。 第13話 指名 十六時四十五分。ロビーの南、観葉植物の鉢の陰。 大久保さんは涼をそこまで連れていって、私には「先に行ってろ」と言った。 行かなかった。 鉢の反対側に回ったところで、後ろから声がした。 「あかりさーん」 美月ちゃんだった。ロビーには、まだ二十人くらい残っている。 私は手で口をふさいだ。 「みずきちゃん、まだ会場の中です」 「ろびーです」 「ロビーも会場です」 「じゃあ、どこからが外ですか」 「バスの中」 「バスも名簿あるって聞きました」 「じゃあ外はないです」 「一生ですか」 「今日いっぱい」 「ゆいさん、じゃなくて、あの」 「ゆいさんでいい。今は」 「ゆいさん、さっきの人」 「どの人」 「引き出物を持ってあげてた人」 「ギターの人です」 「知り合いじゃないって言ってました」 「言いました」 「嘘ですよね」 「嘘です」 「あ、認めた」 「疲れたので」 手を離した。美月ちゃんが息をした。 「なんで隠れてるんですか」 「隠れてない」 「しゃがんでます」 「植物を見てる」 「造花です」 「造花を見てる」 二人で、造花の後ろにしゃがんだ。ドレスの人と黒いスーツの人が。誰も見ていないことにしておく。 鉢は腰の高さで、葉は硬い。触ると、布みたいな音がした。 ロビーの照明は、会場のより白い。人の顔が全部、少しだけ疲れて見える。 造花の葉のすきまから、革の靴が二足だけ見えた。 鉢の向こうで、名刺入れの開く音がした。 「大久保です。新婦の会社の、営業二部で部長をしております」 「はい」 「という名刺です。刷ってあります。今日のために」 「ちゃんとしてますね」 「ちゃんとしてる。だから、わかることがある」 「なんですか」 「岸本さん。あんた、うちの派遣会社に指名を入れたな」 私の指が、鉢の縁を握った。 「何の話ですか」 「新婦から依頼が来たのが八月十八日。三人ぶんの見積もり。ところがな、依頼書の備考欄に一行ある。三浦あかりで、と」 「新婦が書いたんじゃないですか」 「新婦は書かない。新婦はうちの人間の名前を一人も知らない」 「じゃあ、担当者が」 「担当は書かない。書いたら指名料が要る」 「はあ」 「その前の日、八月十七日に、電話が一件入ってる。男の声だ。指名料は払うと言った。払ってる」 鉢の向こうが、静かになった。 「金額、言いましょうか」 「いいです」 「言わない。俺も、そこまで下品じゃない」 「じゃあ、どうしたいんですか」 「順番に聞く。まず、なんで指名した」 「三浦さんが、その会社にいると聞いたので」 「誰から」 「共通の知り合いから。二年で、四人に聞きました」 「四人」 「三人は知らないと言いました」 「四人目が」 「教えてくれました」 「そいつの名前は」 「言えません」 「言えないところは、ちゃんと言えるんだな」 「大久保さん」 「なんだ」 「怒ってますか」 「怒ってる」 「なんでですか」 「バレたら全員アウトなんだ。それだけならまだいい」 「まだ、ある」 「うちの人間を、客の私物にはさせない」 美月ちゃんが、私の袖を握った。強く握った。 「大久保さん」涼が言った。 「なんだ」 「今日、あの人は最後までやりました」 「やった。それは見てる」 「会社に何か言うなら、俺に言ってください。あの人じゃなくて」 「言う相手を、あんたが選べる立場か」 「ないです」 「ないな」 「ないですけど、言ってます」 大久保さんが息を吐いた。長い息だった。 「岸本さん。あんた、今日、何回あの人を助けた」 「数えてないです」 「俺が見たのは四回だ。見てないぶんを足したら、もっとあるだろ」 「四回」 「四回目で、こっちも動かないわけにいかなくなった」 私は立った。鉢の陰から出た。美月ちゃんが袖を引いたけれど、出た。 「岸本さん」 涼がこっちを見た。今日、初めてまっすぐ見た気がした。 「聞こえてました」 「聞こえるように喋ってた」 「大久保さんが?」 「俺が」 「じゃあ、聞かせたかったんですね」 「そうだな」 「なんで、今日まで待ったんですか」 「待ってない」 「待ってました。二年」 「うん」 「なんで、そこまでするんですか」 涼が答えるまでに、二秒かかった。 「二年、探した」 第14話 三浦さん 十七時。ホテルの車寄せ。 二年、探した、に私は何も返さなかった。返す前に、大久保さんが「バスだ」と言った。 二次会のマイクロバスが二台。乗車名簿を持った受付係が、名前を読み上げている。 佐藤ゆいさま、と呼ばれた。 私は返事をしなかった。 列から外れて、歩いた。歩いたら、走っていた。 ヒールで走ると、かかとが後ろに残る。 「ゆいさん」 後ろから声。振り向かない。 「ゆいさん、待って」 美月ちゃんの足音が、やたら遅い。ドレスとヒールだ。当たり前だ。 「みずきちゃん、無理しないで」 「無理してます」 「戻って」 「戻りません」 「転ぶよ」 「転んだら、拾ってください」 植え込みのところで追いつかれた。追いついたというより、私が止まった。転ばれたら困る。 「はあ」美月ちゃんが膝に手をついた。「私、走るの、十九秒じゃないです」 「聞いてた?」 「聞いてました。あれ、嘘ですよね」 「嘘」 「かっこよかったです」 「嘘は、かっこよくない」 「今日のは、かっこよかったです」 「みずきちゃん、私、今日いくらもらうか知ってる?」 「二万円ですよね」 「二万円で、人の高校三年間を作りました」 「安いです」 「安い」 「でも、なつみさん、笑ってました」 「うん」 「お母さんも」 「うん」 「安くないかもしれないです」 「どっちなの」 「どっちもです」 車寄せの屋根の下だけ、光が白い。外はもう、夕方の色になっている。 バスは二台とも、ドアを開けたまま止まっている。 私のヒールは、片方だけ植え込みの土に沈んでいた。 車寄せのほうから、大久保さんが歩いてきた。走ってはこない。プロは走らない。 「三浦さん。バレたら全員アウトだって、言ったな」 「言いました」 「今日は、誰もアウトになってない」 「なりかけました」 「なりかけただけだ」 腕時計を見せられた。十七時六分。 「あんたの仕事は十七時までだ。六分、過ぎてる」 「過ぎてます」 「請求書はこっちで出す。ご祝儀の立替もなしだ」 「はい」 「だから、ここから先は俺の管轄じゃない」 「大久保さん、怒ってたのは」 「怒ってた。今も怒ってる。会社にも報告する」 「はい」 「ただし、報告するのは指名の件だ。あんたの仕事の中身じゃない」 「……はい」 「四分、ちょうどだったからな」 大久保さんは、それだけ言って戻っていった。背中で手を振った。 「行ってください」美月ちゃんが言った。「佐藤さん」 「うん」 「じゃなくて」 「三浦」 「三浦さん」 名前を呼ばれた。 今日、その名前で呼ばれたのは、建物の外だけだった。 「でも私、逃げてます」 「逃げてないです」 「逃げてます」 「じゃあ、どっちに逃げるか決めてください」美月ちゃんが言った。「私、走れないんで、遠いほうは無理です」 「みずきちゃんは来なくていい」 「いとこなので」 「いとこじゃない」 「今日は、いとこです」 「二次会、あと二十分で始まりますよ」 「じゃあ、あと二十分だけいとこ」 「二十分いとこです」 「その二十分、何するの」 「ゆいさんを、じゃなくて、三浦さんを見送ります」 「見送られるようなこと、何もしてない」 「してます」 「何」 「岐阜のとき」 「岐阜」 「私、あそこで落ちてました」 「落ちなかった」 「落ちなかったです。だから、二十分います」 「みずきちゃん、来年の春、三人で会う約束させられた」 「誰とですか」 「新婦のお母さんと、本物の佐藤ゆいさん」 「行くんですか」 「行かない」 「行ったほうがいいです」 「行けないよ。私、その席に座る名前がない」 「三浦さんで行けばいいじゃないですか」 言われて、少し黙った。造花じゃない植え込みの葉が、風で鳴った。 「そうだね」 「そうです」 植え込みの向こうで、バスのドアが閉まる音がした。一台目が出ていく。 二台目のドアは、まだ開いている。 「三浦さん」 「なに」 「あの人、乗ってないですよ」 「誰が」 「ギターの人」 「乗るでしょ、新郎の後輩なんだから」 「乗ってないです。さっきから、名簿の人と揉めてます」 「揉めてる?」 「二人ぶん払うって言ってました」 「二人ぶん」 「はい」 「誰と誰の」 「聞かなかったんですか、って顔しないでください。聞きました」 「聞いたの」 「聞きました。でも、教えてくれませんでした」 私は、二台目のバスのほうを見た。見なければよかった。 車寄せのほうから、足音が来た。 プロじゃない走り方だった。 第15話 明日から三浦で 十七時三十分。ホテルから歩いて五分の店の前。 車寄せから走ってきた人と、五分の道を、二十分かけて歩いた。何度も曲がった。どっちが曲がったのかは、たぶんお互い言わない。 地下へ降りる階段の途中に受付があって、二次会の幹事が名簿を広げている。 その二十分、岸本涼はほとんど何も言わなかった。 「一つだけ言っていいですか」 「どうぞ」 「走り方、変わってないですね」 「褒めてる?」 「笑ってます」 「変わらないんだよ。走ると、右の肩が上がる」 「上がってました」 「二年練習しても直らない」 「直さなくていいです」 「なんで」 「探すとき、楽なので」 階段の途中で、涼が一段止まった。 「三浦」 「はい」 「二年前、俺が行かなかったこと、怒っていい」 「怒りません」 「怒れよ」 「怒ったら、私の嘘が無駄になります」 「無駄だよ、最初から」 「そこ、そんなにはっきり言います?」 「はっきり言う。二年損した」 「二年、練習してたじゃないですか」 「あれは損に入る」 「入りませんよ、あれは」 受付の幹事は新郎の後輩らしい若い男で、名簿にボールペンを刺したまま顔を上げた。 「お名前お願いします」 言えなかった。 「佐藤ゆいさま、でしたら、もうチェック入ってますね。バスで来られたことになってます」 「なってるんですか」 「なってます」 「なってないんですけど」 「困りますね」幹事が名簿を見た。「うちの名簿、二重線を引くと、あとで幹事会議で怒られるんですよ」 「幹事会議」 「あるんです」 「何を話すんですか」 「名簿の話です」 「それだけですか」 「それだけです」 涼が横から、名簿を覗き込んだ。 「三浦あかりです」 「はい?」 「この人、三浦あかり。俺の連れ」 幹事のペンが止まった。 「あの、そういうのは」 「会費、二人ぶん」 涼が財布を出した。出すのが速すぎた。用意してあったやつだ。 「岸本さん」 「なんだ」 「私、今日は佐藤ゆいなんだけど」 「知ってる」 「勝手に名前、変えないでください」 「じゃあ、明日から三浦で」 「明日から?」 「今日はもう、佐藤で通したんだろ。最後まで通せよ」 幹事が名簿に書いている。三浦あかり、と。書き終わって、ペンで頭をかいた。 「あの、ご関係は」 「新婦の高校の友人です」私は言った。 「そこは佐藤さんのままなんですね」 「そこはまだ、佐藤です」 「わかりました。書いときます、両方」 「両方書くんですか」 「幹事会議で説明しないといけないので」 「大変ですね、幹事」 「大変です。新郎の後輩は全員やらされます」 「岸本さんも後輩ですけど」 「岸本さんは、免除されてます」 「なんでですか」 「ギターやったので」 「一曲で」 「一曲で免除です」 涼が財布をしまいながら、階段の下を見ていた。 階段の踊り場で、涼が立ち止まった。地下から音楽が漏れてくる。誰かが機材の音量を間違えている。 壁は白くて、電球だけが黄色い。下から上がってくる空気が、少し暖かい。 胸の名札は、朝つけたときのままの位置にあった。 「岸本さん。私も、一つ言っていいですか」 「どうぞ」 「今日、席次表であなたの名前を見たとき」 「うん」 「帰ろうと思えば、帰れました。受付の前で。二万円なんて、返せばよかった」 「帰らなかったな」 「はい」 「なんで」 「会いたかったからです」 言った。 今日、初めて本当のことを言った。 涼が、私の胸のほうへ手を伸ばした。 「なんですか」 「その名札、まだ着けてる」 「返さないといけないので」 「裏、見た?」 「裏?」 「見てないんだな」 外して、裏返した。 白い面に、鉛筆で一行あった。右に少し傾いた、細い字で。 あかり。 「受付で書いた」涼が言った。「トレーに並べるときに」 「なんで」 「取り違えたら困るだろ」 「八十枚あって、佐藤ゆいは一枚です」 「そうだな」 「なんで書いたんですか」 涼が階段の手すりを、指の関節で二回鳴らした。 「二年、その名前しか書けなかった」 名札を、両手で持っていた。持っていることに、しばらく気づかなかった。 「返します、それ」 「明日、俺が返す」 「明日?」 「明日、会うだろ」 答える前に、階段の下でドアが開いて、光と音が上がってきた。 「三浦さん」 涼が先に降りて、下から手を出した。 私は、その手を取った。

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