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小説 · text · 2026-09-09

社内恋愛禁止の会社で、社長と付き合ってしまった

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社内恋愛禁止の会社で、社長と付き合ってしまったのカバー

第1話 五分 四月六日、月曜、九時三分。私は自分の席でキーボードに指を置いたまま固まっていた。 理由は単純で、フロアの一番奥にいる社長と、さっき受付の前で目が合ったからだ。 合った、というより、合いかけて、二人同時に、あからさまに逸らした。 いや、なんでだよ。 土曜の夜、会社の花見の帰り道。新宿中央公園から駅までの七分間に何があったかというと、私と社長は付き合うことになった。 勢いだった、で片づけようとしたのだけど、あの人の「本気です」は落ち着きすぎていた。 「芽衣、おはよ」 斜め向かいから香月りおが顔を出す。同期でディレクターで、私の生活のだいたいを知っている女。 「おはよう」 「土曜さ、途中で帰ったでしょ。二次会のカラオケ、社長も来なかったんだけど」 マウスが手から滑った。 「へえ」 「へえ、って」 「へえ」 「二回言ったね、今」 私は画面に向き直る。開いていたのは制作中のLPではなく、社内ポータルの就業規則だった。 第二十二条。社員間の交際はこれを禁ずる。発覚した場合、いずれか一方が退職するものとする。 二回読んだ。三回読んでも一文字も減らない。当たり前だ。 「ねえ芽衣、それ何読んでんの」 「就業規則」 「なんで」 「二年目だし」 「二年目に読む人、聞いたことないけど」 りおは椅子ごと自分の島へ戻っていった。三十センチだけ。まだこっちを見てる。 ノーヴェは社員三十八人のWeb制作会社で、フロアは六階のワンフロアだけ。社長室はない。三年前に一ノ瀬蓮が社長になったとき、真っ先に潰して会議室Bにした。 つまりこの会社には、社長と二人きりになれる部屋が存在しない。よくできている。誰も狙ってないのに。 「早坂さん」 振り向くと、その社長が立っていた。A4の紙束を持って。 「バナーの赤入れ、戻しです」 「ありがとうございます」 紙を受け取る。指が触れないように、私は端の端をつまんだ。あちらも端の端を持っていた。一枚のA4を、いちばん遠い二点から二人で持っている。 傍から見たら、これ、どう見えるんだろう。 「では」 「では」 社長は自分の席へ帰っていった。三歩目でコピー機の角に膝をぶつけていた。 りおがゆっくりこちらを向いた。 「今の、なに」 「赤入れの戻し」 「膝の話をしてる」 「知らない」 十一時、コピー機の前でまた鉢合わせた。会議室Aの真ん前にあるやつだ。 「早坂さん、先どうぞ」 「いえ、社長からどうぞ」 「僕は急ぎではないので」 「私も急ぎではありません」 二人で四秒黙った。その間、コピー機は用紙切れのランプを点滅させていた。どのみち誰も刷れない。 同じ十一時、柏木常務が受付側の席から立ち上がって、フロアをひと回りした。常務は毎朝これをやる。前社長の右腕で、五十五歳で、規則の番人。誰かの机で私語が長いと、通り過ぎるときに一秒だけ歩幅が縮む。 私の席の前で、歩幅は縮まなかった。 昼、給湯室でインスタントの味噌汁にお湯を注ぎながら、鞄のことを考えた。 外ポケットに、先週の金曜に受け取った封筒が入っている。開けていない。三日半、開けていない。角が折れたのは、土曜の夜に鞄を抱えて走ったからだ。 開けてしまったら、月曜の朝に就業規則を三回読むだけの人間では、たぶんいられなくなる。 「早坂さん、そのカップ、二個目です」 うしろでタクミくんの声がした。四月に配属された後輩で、私の右隣。見ると、私は空のカップにお湯を注いでいた。 「これは、二杯飲むから」 「味噌は」 「味噌は、後から入る」 「うち、実家の味噌汁は豆腐が四角くないんです」 「今、その話じゃない」 タクミくんは真顔で「勉強になります」と言った。ならないよ。 席に戻ると、そのタクミくんが私のモニターを覗き込んでいた。 「早坂さん、この配色、社長の指示ですか」 「そう」 「社長って、色の話をするとき早口になりますよね」 「なる」 「早坂さんも早口になりますよ、社長の話をするとき」 私はマウスを持ち直した。カップの中は、まだお湯だけだった。 午後三時。業務用チャットの通知が鳴った。一ノ瀬蓮からのダイレクトメッセージが一行だけ。 今日、五分ください。 第2話 三つだけ 六階の非常階段は、六階のくせに風が強い。 月曜の午後六時十分。私と社長は、鉄の手すりを挟んで一メートル空けて立っていた。 五分ください、と言われて出てきたのに、最初の一分は二人とも黙っていた。 三時にあのメッセージが来て、私が返したのは「承知しました」の六文字だった。打っては消し、打っては消して、結局それになった。 業務用チャットには業務の話しか書けない。今そう決めたわけじゃなくて、最初からそういう箱だ。 「早坂さん」 「はい」 「敬語ですね」 「ここ、会社なので」 「ここ、非常階段です」 「非常階段も会社です」 議論に勝った。勝ったところで階段は寒い。 「土曜のことなんですが」 私は先に言った。頭の中で百回練習した順番どおりに。 「なかったことに、しましょう」 「したくないです」 こっちは一秒だった。練習してないだろ、絶対。 「早坂さん。第二十二条は読みましたか」 「読みました。三回」 「僕は今日、七回読みました」 「多くないですか」 「多いです」 この人は、真面目な顔で自分を追い込む癖がある。三年前に社長室を潰したときも、たしか同じ顔をしていた。 給湯室のほうで足音がした。二人同時に手すりから離れて、一メートルが二メートルになる。足音は自販機の前で止まり、缶が落ちる音がして、遠ざかった。 「心臓に、悪いです」 「僕もです」 「社長は缶コーヒーの音で心臓が痛くなる人でしたっけ」 「今日からです」 「理由を聞いてもいいですか。なかったことに、の理由」 「規則です」 「規則以外に」 「ないです」 あった。二つくらいあった。全部、口に出せないやつだった。 「発覚したら、どちらかが辞めることになります。辞めるのは早坂さんじゃない」 「そういう問題じゃなくて」 「そういう問題です。僕にとっては」 「私にとっては違います」 鞄の中の封筒のことを、一瞬だけ考えた。開けていない封筒。開ければ、辞めるのは私になる。 言わなかった。言えなかった、のほうが正しい。 「早坂さ、」 社長が言いかけて、止まった。手すりを一回だけ叩いて、言い直した。 「芽衣さん」 風の音が急に遠くなった。 「なんですか」 「ここでは、そう呼びます。二人のときだけ」 「……じゃあ私は」 「蓮でいいです」 「蓮さん」 「さん、要ります」 「要ります」 私は給湯室から持ってきた付箋を、手すりの上に置いた。風で飛びかけたのを、蓮さんが手のひらで押さえた。指の端が触れて、一秒で離れた。 「条件を決めます。隠すためのルールを、三つ」 「三つ」 「一つ。社内では敬語。私も、社長も」 「守ります」 「呼び方もです。会社の中では社長」 「さっき芽衣さんと言いました」 「この階段だけ例外にします」 「例外、いいですね」 いい顔をするな。規則の話をしてるんだよ。 「二つ。連絡は業務用チャットだけ。LINEは使いません」 「なぜですか」 「業務用チャットには、業務の話しか書けないからです」 「なるほど」 感心しないでほしい。自分で自分の首を絞めてる自覚はある。 「三つ。金曜は別々に帰ります」 「金曜だけですか」 「金曜は、みんな飲みに行くんです。駅で誰かに会います」 蓮さんは上着の内ポケットから手帳を出して、本当に書き始めた。 「一、敬語。二、チャット。三、金曜」 「メモしないでください。証拠になります」 「たしかに」 そのページを破って、四つに折って、ポケットに入れた。捨てはしなかった。 「四つ目、いいですか」 「どうぞ」 「週に一度、五分」 「それはルールじゃなくて要望です」 「要望です」 「却下します」 「わかりました」 わかったと言ったわりに、手帳の隅に小さく「4」と書き足していた。見えてるからな。 「早坂さん」 「敬語、早い」 「もう会社の中なので」 「まだ階段です」 蓮さんが少し笑った。フロアでは一度も見たことのない顔だった。 三年間、コピー機に膝をぶつけるところしか見たことがなかったのに。 「五分、過ぎました」 腕時計を見ると、十四分だった。三倍近い。 先に私が戻る、という手順まで決めて、給湯室のドアを開けた。製氷機が氷を落とす音がやけに大きい。頬に手の甲を当ててみたら、思ったより熱かった。両手を二十秒、冷水につけた。 これで大丈夫。たぶん大丈夫。 フロアに戻ると、りおがまだ席にいた。ノートパソコンを閉じる手を止めて、私を上から下まで見る。 「芽衣さん」 出た。この人はふざけるとき敬語になる。 「はい」 「顔、赤いんですけど」 第3話 聞かないでおく 木曜の朝、席に着いて十秒でりおに腕をつかまれた。 連れていかれたのは給湯室。フロアの北東の角にある、ドアのない部屋だ。 「話がある」 「私はない」 りおは製氷機に背中を預けて、指を三本立てた。 「一。土曜の花見、芽衣は八時に消えた。社長は八時五分に消えた」 「偶然」 「二。月曜の夕方六時、芽衣の席が空だった。社長の席も空だった」 「トイレ」 「十四分」 「長いトイレだったの」 「三。芽衣が就業規則を読んでた」 「二年目なので」 「二年目に読む人は聞いたことないって、私、言ったよね」 三本の指が、そのまま私の眉間を指した。 「以上を総合すると」 「総合しなくていい」 「芽衣、社長と付き合ってる」 冷蔵庫の音が急に大きく聞こえた。私はマグカップを持ち直して、いちばん自然な顔を作った。たぶん作れていない。 「ない」 「ない、の一文字目が震えてた」 「一文字しかないでしょ」 「その一文字が震えてた」 「じゃあ土曜、なんで先に帰ったの」 「靴擦れ」 「月曜の十四分は」 「靴擦れの経過観察」 「木曜まで観察するの」 「治りが遅い体質なんだよ」 りおは真顔で私の足元を見た。私はその日、履き慣らして三年目のローファーを履いていた。 「あ、香月さん、早坂さん。おはようございます」 タクミくんが紙コップを取りに来て、空気を読まずに二人の真ん中に立った。 「朝から難しい顔してますね。なんの会議ですか」 「靴の会議」 「靴」 「いいから行って」 タクミくんは「靴、大事ですよね」と言って出ていった。何ひとつ伝わってない。 「じゃあ最後にひとつだけ。仮の話ね」 「仮なら」 「もし社内の誰かと誰かが付き合ってたとして、バレたらどっちが辞めるの」 「規則には、いずれか一方、って書いてある」 「一方って、誰が決めるの」 私は答えられなかった。りおは紙コップを流しに置いて、先にフロアへ戻っていった。 十時にフロアへ戻ると、窓の外が降りはじめていた。 デザイン島の前を社長が通って、私の机の横で足を止める。 「早坂さん。午後の打ち合わせ、先方の都合で三十分うしろにずれました」 「承知しました」 「傘、ありますか」 「あります」 「そうですか」 それだけ言って、社長は奥の自分の席へ戻っていった。会話としては百点だった。 私にとっては零点だ。だって私、傘を持ってない。 三時。ずれこんだ打ち合わせは、ビルの一階のカフェでやった。私と社長、先方が二人。 社長は説明のとき早口になる。タクミくんの観察は正しい。早口のわりに一度も噛まないのが、たちが悪いところだ。 「この配色は、うちのデザイナーの提案です。理由は二つあります」 全員の視線が私に来た。社長はこちらを見ずに、手元の資料の四隅を揃えていた。 揃いすぎだよ、その紙。 午後五時、柏木常務が私の島の前で立ち止まった。毎朝のフロア一周のときより、歩幅が一秒ぶん縮んだ。 「早坂くん。この前のバナー、色が前より落ち着いたな」 「ありがとうございます」 「社長の指示か」 「はい」 「そうか」 常務はそれだけで行った。それだけなのに、私はマウスを二回、空クリックした。 六時半。りおが鞄を提げて私の机の前に立った。 「芽衣」 「なに」 「わかった。聞かないでおく」 「なにを」 「靴擦れの話」 りおは笑わなかった。それがこわい。 「けど一個だけ言っていい」 「だめ」 「言うね」 立ち上がるとき、机の下に手を伸ばした。指に当たったのは私のじゃない折り畳み傘だった。黒くて、値札のシールを剥がした跡が残っている。 いつ置かれたのか、まったく覚えがない。 朝の会話を思い出す。あります、と私は言った。そうですか、とあの人は言った。 嘘だと気づいたうえで、そうですか、で終わらせたわけだ。 鞄に入れて、何食わぬ顔でエレベーターに乗った。降りていく数字を、りおと二人で見上げる。六階が五階になった。 「月曜の夕方さ」 「うん」 「芽衣、顔赤かったでしょ」 「湯気だよ。味噌汁の」 「あのね」 りおは階数表示から目を離さずに言った。 「社長も赤かったよ」 第4話 一般論 火曜の十時、会議室A。窓のない部屋に長机が一本、椅子が十脚。 そのうち八脚が埋まっていて、私は端の席でノートパソコンを開いていた。議事録の係だ。 この位置からだと、上座の社長がまっすぐ視界に入る。誰の席順だよ。 ちなみに先週の金曜は、ちゃんと別々に帰った。私が六時半、社長は八時過ぎ。ルール三つ目、初回、達成。 この調子でいけると思っていた。 議題の三番目は「就業規則の一部改定について」だった。 総務が資料を配る。在宅勤務の規定を足す、通勤手当の計算方法を変える。その程度の話だ。 柏木常務が老眼鏡を持ち上げてページをめくる。その紙の音が、部屋でいちばん大きい。 「在宅は、週二日までで考えています」 「うちは制作会社だぞ。顔を合わせないと質が落ちる」 「常務、それ三年前もおっしゃいました」 「三年前も正しかった」 「あの、質問いいですか」 手を挙げたのはタクミくんだった。 「どうぞ」 「在宅の日って、画面に猫が映っても大丈夫ですか」 部屋がいったん止まった。 「花村くん。猫を飼っているのか」 「いえ。飼う予定です。在宅が通ったら」 「順番がおかしい」 常務が言った。全員が同じことを思っていた。 「名前はもう決めてます」 「聞いてない」 資料の最後のページに、今回は改定しない条文の一覧が載っていた。 第二十二条。社員間の交際はこれを禁ずる。 私はその行を見ないようにして、議事録の「在宅」のところを打ち直した。四回打ち直して、結局まったく同じ文になった。 「これ、時代に合ってないな」 声が小さすぎて、最初は誰も反応しなかった。 社長は資料の最後のページを見ていた。指が、二十二条の行に置かれていた。 「社長」 柏木常務が老眼鏡を外した。 「今、なんとおっしゃいました」 「いえ」 「聞こえましたよ。時代に合ってない、と」 「……そうですね。言いました」 「どの条文の話です」 「全体の話です」 「全体に、二十二条は入りますか」 部屋の温度が変わった。りおがこちらを見た気配がしたので、私は下を向いた。キーボードに意味のない文字を四つ打った。 「社長。あの条文は前の社長が作ったものです。作った理由も、私は知っている」 「僕も知っています」 「では」 「では、知っていてなぜ変えないのかという話を、いつかしましょう」 「いつか、とは」 「今日ではない、という意味です」 議題は四番目に進んだ。誰も二十二条の話に戻らなかった。 私の議事録には「規則、時代に合ってない」の一行が、打ちかけのまま残っていた。 消した。カーソルが十四回、後ろに下がった。 消しながら考えていた。あの人は、私のために言ったんだろうか。 もしそうなら、困る。会社の規則を変える理由が、私ひとりになってしまう。 そうじゃないなら、それはそれで、私の手はこんなに冷たくなくていいはずだった。 業務用チャットに、りおから一行だけ届いた。 ――今の間、なんだった。 私は「議事録に集中してる」とだけ返した。りおは既読をつけて、何も返してこなかった。 十一時に会議室Aを出ると、目の前のコピー機で紙が詰まっていた。柏木常務が中腰でトレイを引き出している。 「早坂くん」 「はい」 「議事録は、発言のとおりに書きなさい」 「はい」 「削るのは、私の仕事だ」 「常務」 「なんだ」 「二十二条の理由って、なんですか」 常務はトレイを戻す手を止めなかった。 「知りたければ、社長に聞きなさい」 「社長は答えますか」 「答えない男だ。だから常務が要る」 常務は詰まった紙の皺を伸ばしてから、自分の席へ戻っていった。 午後、給湯室に行くと社長がいた。ほかに誰もいない。 「お疲れさまです」 「お疲れさまです」 ルール一つ目、遵守。それで終わるはずだった。 私が製氷機から氷を二つ取って振り向くと、社長はまだそこに立っていた。 「早坂さん」 「はい」 「さっきの会議の、あれですが」 廊下の向こうから、誰かの笑い声が近づいてくる。私は何も言わずに待った。 「今のは、一般論です」 そう言って、まっすぐこっちを見た。 第5話 タメ口 水曜の十二時十分。ビルの地下の定食屋で、私は後輩と向かい合わせに座っていた。 注文は二人ともサバの味噌煮。頼んだ順番まで同じだった。 誘ったのは向こうで、断る理由が思いつかなかった、というだけの話だ。 「早坂さん。俺、この会社に入ってよかったです」 「まだ三週間だよ」 「三週間でわかることってあります」 「たとえば」 「サバがうまい」 いや、それは会社の話じゃない。 「あと、早坂さんの直しが速いことです」 「速いだけだって」 「速いのが、いちばん親切だと思うんですよ。待ってる側からすると」 箸が止まった。この子、たまにちゃんとしたことを言う。 「それで俺、常務に言いました」 「なにを」 「早坂さんの下につきたいですって。朝、フロア回ってるときに」 「常務に」 「はい。いい心がけだ、って言われました」 最悪だ。最悪ではないけど、最悪のほうへ転がっていく音がした。 「早坂さん、彼氏いるんですか」 「なんで」 「先輩に、聞いとけって言われて」 「どの先輩」 「フロアのみんなです」 「みんなが言ったの」 「みんなではないです。三人です」 三人もいるのか。 「で、いるんですか」 「いない」 「よかった」 「なにが」 「いや、なんとなく」 なんとなくで安心されるのが、困る。 一時にフロアへ戻ると、コピー機の前で先輩が二人、立ち話をしていた。 「早坂さんとタクミくん、最近よく一緒にいるよね」 「教育係でしょ」 「教育係って、二人でご飯行くんだ」 行くよ。行く会社もあるよ。 私はそのまま自分の席まで歩いた。歩きながら、フロアの奥を見てしまった。社長はモニターに向かっていた。向かってはいたけど、キーボードは打っていなかった。 「芽衣」 りおが椅子ごと寄ってきた。 「今の、聞いた」 「聞いた」 「ああいうのって、否定しないと大きくなるよ」 「否定したら、それはそれで大きくならない」 「ならないね」 「ねえ芽衣さん」 「敬語やめて」 「タクミって、芽衣のこと好きだと思う」 「ないよ」 「私もないと思う。でもこのフロアの残り三十六人は、あると思ってる」 りおは自分の島へ戻っていった。三十センチだけ残して。 三時、社長が私の島まで来た。 「早坂さん。来月の提案書、花村くんと組んでもらえますか」 「はい」 「二人で」 「二人で、と今おっしゃいました」 「言いました」 言ったうえで、少し間があった。その間の長さが、たぶん今日の全部だった。 ちなみに先週の金曜も、ちゃんと別々に帰った。二回目。順調だと思っていた。 六時、給湯室に行った。ドアのないその部屋に、社長がいた。 マグカップにお湯を注いだまま、ティーバッグを入れていない。 「お疲れさまです」 「お疲れさまです」 私はインスタントの味噌汁を棚から取った。その間、社長は一言もしゃべらなかった。しゃべらないまま、湯気だけ立てていた。 「社長」 「はい」 「そのお湯、なんですか」 「お湯です」 「お湯だけ飲むんですか」 「飲みます」 飲むな。 「なんかあったでしょ」 言ってから、口の中で音が止まった。二秒くらい遅れて、自分の声が耳に戻ってきた。 「早坂さん、今の」 「言わないでください」 「一つ目です」 「わかってます」 「破りましたね」 「破りました」 社長はマグカップを流しの縁に置いた。中身は捨てなかった。お湯のまま、まだ湯気が出ている。 「ひとつ聞いていいですか」 「どうぞ」 「花村くんと、昼を食べましたか」 「食べました。サバの味噌煮を」 「そうですか」 「そうですか、って」 「そうですか以外に、僕が言っていい言葉がないので」 その言い方があまりに正しくて、私は何も返せなかった。 この人は社長で、規則の側の人で、二十二条を守らせる立場にいる。守らせる立場の人が、後輩とサバを食べた話で黙り込んでいる。 「社長」 「はい」 「お湯、冷めますよ」 「冷めます」 「飲まないんですか」 「飲みません」 「さっき飲むって」 「気が変わりました」 廊下の向こうで、コピー機が動き出す音がした。誰かが刷っている。誰かはまだ来ない。 社長は流しの縁を指で一度だけ叩いて、こちらを見ないまま言った。 「……嫉妬は、規則違反ですか」 第6話 差出人 連休が明けた木曜の朝、私は六日ぶりに社長を見た。 見た、というだけだ。休みを挟んだ六日間、一度も連絡を取っていない。 業務用チャットには業務の話しか書けない。ルール二つ目。決めたのは私だ。 連休のあいだ、下書きは十一回書いた。全部消した。 「お疲れさまです」まではすらすら打てる。そのあとに続く業務の話が、ひとつも思いつかなかった。 五月四日に、新宿中央公園を通った。用事はなかった。桜はもう全部が葉っぱになっていた。 ベンチに人がひとり座っていて、遠目に肩の形が似ていて、近づいたら知らないおじさんだった。おじさんは私に会釈をした。私も会釈を返した。なんの会だよ、これ。 「早坂さん、連休なにしてました」 右隣からタクミくんが顔を出す。 「寝てた」 「五日間」 「うん」 「すごいですね」 「すごくないよ」 「俺は猫のカタログ見てました」 「まだ在宅、通ってないよ」 「通る前提で動くと速いです」 この子の人生、速いな。 十一時、給湯室にお湯を汲みに行った。角を曲がる手前で、中から声が聞こえた。 「うちの会社、付き合ってる人いるらしいですよ」 「誰と誰」 「そこまでは知らないです。でも二人とも社内だって」 私は足を止めた。止めたところで意味はない。この給湯室はドアがないから、廊下の足音のほうが先に届く。 案の定、うしろから足音がした。柏木常務だった。私の横をすり抜けて、給湯室に入っていく。 「今の話は」 中の二人が黙った。 「誰が言った」 「いえ、その、飲みの席の話で」 「どこの飲みだ」 「先週の、営業の」 常務は何も言わずに紙コップを取り、お湯を汲んで出てきた。 通り過ぎるとき、私の顔を見なかった。見なかったことのほうが、ずっと長く残った。 午後、会議室Bのブラインドが下りた。 あの部屋のブラインドが下りるのは、年に二、三回しかない。中にいたのは常務と総務の部長で、三十分で出てきた。二人とも紙を持っていなかった。 りおが椅子ごと寄ってきた。 「ブラインド、下りたね」 「下りたね」 「芽衣」 「なに」 「顔、白いんですけど」 赤くしたり白くしたり、忙しいな、私の顔も。 「ねえ、仮の話をしていい」 「また仮の話」 「もし本当に社内に該当者がいたとして、常務は何をすると思う」 「調べる」 「調べて、どうする」 「規則どおりにする」 「そう。あの人はそれしかしない」 りおはそう言って、自分の島に戻った。三十センチだけ残して。 三時、社長がフロアを横切った。私の島の前を通った。速度はいつもと同じだった。同じすぎた。 視線が一度も来ない。六日ぶりに会って、一度も来ない。 ルールは守られている。完璧に守られている。完璧に守られているというのは、こんなに手ごたえがないものだったのか。 「早坂さん」 声をかけられて顔を上げたら、タクミくんだった。 「提案書のここ、社長に確認したほうがいいですかね」 「そうだね」 「じゃあ俺、聞いてきます」 「私が行く」 「え」 「私が、行く」 行かなかった。立ち上がって、コピー機のところで一回まわって、席に戻った。何をしてるんだ、私は。 四時、エレベーターホールで社長と二人になった。下りの箱を待つ十秒だけ。 「お疲れさまです」 「お疲れさまです」 「……早坂さん」 「はい」 そこで箱が来た。扉が開くと、中に営業の四人が乗っていた。社長は「どうぞ」と言って、私を先に乗せた。 何を言いかけたのかは、結局わからないままになった。 五時四十分、全社メールが届いた。 件名は「就業規則の再確認について」。 本文は五行だった。近日中に規則の再周知を行うこと。社員間の私的な関係については第二十二条のとおりであること。心当たりのある者は速やかに申し出ること。 フロアのあちこちで椅子の背もたれが鳴った。誰かが小さく笑い、誰かは笑わなかった。 柏木常務が席を立って、フロアをゆっくり一周した。朝以外にこれをやるのを、私は初めて見た。 私の席の前で、歩幅は縮まなかった。朝も縮まなかった。それが安心の材料になるかというと、まったくならない。 「うわ、こわ」 タクミくんがモニターを見たまま言った。 「これ、常務ですね」 「そうだね」 「常務、こういうの好きそう」 私はメールの上のほうに視線を戻した。 差出人の欄に、常務の名前はなかった。 一ノ瀬蓮。 第7話 既読 火曜の午後六時、非常階段。四月六日以来、二度目だ。 呼び出したのは私で、業務用チャットにこう打った。三分ください。 「三分、と書きましたね」 「五分は社長の言葉なので」 「では僕は今後、三分と書きます」 「返さなくていいです、そういうの」 風は四月より弱くなっていた。手すりは、まだ冷たい。 「あのメールですけど」 「僕が書いたものではありません」 「送信者は社長でした」 「はい」 「じゃあ社長が送ったんですよね」 「送らされました」 その言い方があまりに正確で、私はしばらく何も言えなかった。 「原案は総務です。常務が、社長の名前で出すべきだと言いました。断る理由が、ひとつも思いつかなかった」 「ありますよ。ひとつ」 「言えない理由は、理由として使えません」 「常務は、誰か特定していると思いますか」 「まだです」 「まだ、ということは」 「いずれ、ということです」 この人は嘘をつかない。つかないから、たまに、怖いことを普通の声で言う。 笑うところだと思った。少なくとも、私はそのつもりで口の端を上げようとした。 「笑うところですかね、ここ」 「わかりません」 「私も、笑うところだと思ったんですけど」 結局どちらも笑わなかった。非常階段の風だけが、三分ぶん通り過ぎた。 「早坂さん」 「はい」 「僕は、あの規則を」 そこで言葉が止まった。給湯室のほうで製氷機が氷を落とした。 「なんですか」 「なんでもないです。戻りましょう」 先に戻るのは私。手順は四月から変わっていない。変わっていないことばかり増えていく。 フロアでは朝から、あのメールの話が続いていた。誰も名前を出さない。名前を出さないまま、全員が一日じゅうその話をしている。 タクミくんは提案書の三ページ目を直しながら言った。 「早坂さん、これ、誰のことだと思います」 「知らない」 「俺、営業の人だと思うんですよ。花見のとき、やたら近かった二人がいて」 「その推理、絶対に人に言わないで」 「なんでですか」 「当たっても外れても、誰かが損するから」 タクミくんは「たしかに」と言って、三ページ目に戻った。この子はときどき素直すぎて、こわい。 りおは一日、何も言わなかった。何も言わないりおは、しゃべるりおより情報を持っている。 夜の十一時。ベッドの上で、スマートフォンを二回落とした。 LINEの友だちリストに、一ノ瀬蓮の名前がある。四月四日の夜に交換して、一度も開いていない。アイコンは初期設定のまま、写真すら入っていない。 ルール二つ目。連絡は業務用チャットだけ。LINEは使わない。 決めたのは私だ。理由も自分で説明できる。説明できるからといって、守れるとは限らない。 打った。 「今日、変な顔してました」 送信。三秒で既読がついた。三秒。待ってただろ、それ。 返ってきた一行を、私は二度読んだ。 「お世話になっております」 は。 「すみません。手が勝手に」 「LINE、初めて使うので」 「初めて使う」 声に出してしまった。二十九歳、社員三十八人の会社の社長、LINE初心者。 「変な顔とは、どのあたりですか」 「全体です」 「全体ですか」 「全体でした」 「直します」 「直さなくていいです」 少し間があいて、それから一行だけ来た。 「今日、会いたかったです」 私は画面を伏せて、天井を三十秒ながめた。それから起き上がって、もう一度見た。文面は変わっていなかった。当たり前だ。 「今、破りましたよ。二つ目」 「知っています」 「知っててやったんですか」 「早坂さんが先です」 そうだった。 「一つ目は四月に破りました」 「二つ目は今日です」 打っているのは私だ。自分で数え上げて、自分で落ち込んでいる。 「残りは一つですね」 「金曜は、守ります」 守ります、の五文字を、指が二回打ち直した。 「先週で五回目でした」 「数えてるんですか」 「数えています」 数えていたのは、私ではなかった。 「明日の朝、提案書のレビューをお願いします」 「知ってます」 「業務の話をしました」 「今それ、言う必要ありました」 「ルールを、半分は守ろうと思って」 半分ってなんだよ。 「守りましょう。金曜は」 そう打った指が止まった。守りたくないから、わざわざ文字にしたんだと思う。 送信を押す前に、画面の上から別の通知が降りてきた。 メールだった。差出人は、四月に受け取った封筒と同じ会社。 件名は「ご検討状況について」。 本文の二行目に、こう書いてあった。 ご返事は、今月末までにいただけますでしょうか。 第8話 言ってない 五月十九日、火曜。会議室Aの定例で、在宅勤務の規定が通った。週二日。 総務が拍手をして、タクミくんが机の下で小さくガッツポーズをした。猫はまだいない。 議題の最後に、柏木常務が一言だけ付け足した。 「二十二条は、動かしません」 誰も何も言わなかった。社長も何も言わなかった。 会議のあと、常務が廊下で私を呼び止めた。 「早坂くん」 「はい」 「花村くんは、よくやっているか」 「やってます」 「そうか。あれは君を見て働いている」 「はい」 「見られる側は、しんどいぞ」 常務はそれだけ言って、コピー機のほうへ歩いていった。しんどいです、たしかに。 昼、私は会社を出て、公園のベンチで封筒を開けた。 四月三日から鞄に入れっぱなしだった封筒だ。角が折れて、片方の端が少しやわらかくなっている。 中の紙は一枚だけだった。 内定通知書。入社予定日、七月一日。 一か月半、私はこの一枚を開けずに持ち歩いていた。中身はわかっていた。わかっていて開けなかったのは、開けた瞬間から選ばなくてはいけなくなるからだ。 ベンチで指を折って、計算をした。 もし私と社長のことが発覚したら、辞めるのはどちらか一方。 私はもともと辞める予定だった。だから私が辞めれば、誰も損をしない。会社は社長を失わない。社長は会社を失わない。私は七月から別の場所にいる。 全部、きれいに片づく。 きれいに片づく話が、こんなに気持ち悪いのはどうしてだろう。 もともとの理由は、三月にあった。 デザイナーが三人の会社で、上が詰まっていて、二年目の私に回ってくる案件の種類が去年から一度も変わらない。このままだと三年後の私が、今日とまったく同じ絵を描いている。それだけの話だった。 社長は関係なかった。四月四日まで、本当に一ミリも関係がなかった。 午後、フロアに戻ると、社長が私の島の前で立ち止まった。 「早坂さん。七月からの新規案件、デザインは誰が入りますか」 七月。 「まだ決まっていません」 「早坂さんに入ってほしいと思っています」 「……検討します」 「検討」 「します」 社長は少し首をかしげて、奥の自分の席へ戻っていった。 二十歩くらいある。その二十歩のあいだ、私はモニターの同じ場所を見ていた。何も表示されていない場所だった。 六時半、りおを呼び出した。会社の外の、駅と反対方向にあるチェーンのカフェ。窓際ではなく、奥の席を選んだ。 「なに、私、フラれるの」 「フラれない」 「よかった。心の準備してた」 「なんの準備」 「泣く準備」 「泣かないでよ」 「泣かないけど、準備はする」 私はアイスティーのストローの袋を、三つに折った。 「転職しようと思ってる」 りおはグラスから口を離した。氷がひとつ、音を立てて動いた。 「いつから」 「三月から動いてた」 「内定は」 「出てる」 「いつ」 「四月三日」 「四月三日」 りおが指を折った。私が公園でやったのと同じことを、もっと速くやっている。 「花見の前じゃん」 「前」 「そっか」 りおはしばらく氷を見ていた。三十秒くらい見ていた。それから顔を上げた。 「一個、言っていい」 「言って」 「私、芽衣が辞めるのは、いやだ」 「うん」 「でも辞めるなって言う権利は、私にはない」 「うん」 「だから、いやだって一回だけ言った」 こういうところがある。この人はずるい。 「返事はいつまで」 「今月末」 「あと十二日か」 「うん」 「そのあいだに、なにが起きたら残るの」 「わかんない」 「わかんないって顔してない」 「してるよ」 「してない。芽衣は、答えが出てて、言いたくないときにその顔をする」 私はストローの袋を四つに折った。もう折れなかった。 「ねえ、仮の話ね」 「仮の話、今日で何個目ですか」 「一個目」 「どうぞ」 「もし社内の誰かと誰かがバレて、片方が辞めることになったとして」 「うん」 「その片方が、もともと辞めるつもりだった人だったら」 「うん」 「それって、きれいに終わったことになるのかな」 私は答えなかった。答えなら昼に公園のベンチで出ている。出ているから、口に出したくなかった。 「じゃあ最後にひとつだけ聞いていい」 「どうぞ」 りおはグラスの中でストローを一回まわして、いちばん普通の声で言った。 「で、社長には言ったんですか」 「言ってない」 第9話 金曜日だけ 五月二十九日、金曜。八回目の金曜だった。 朝、郵便局へ寄って、窓口で一通だけ出した。中身は私しか知らない。 窓口の人が「速達になさいますか」と聞いた。 「いえ、普通で」 「お急ぎではないんですね」 「急いでも、期限は今月末なので」 言ってから、余計なことを言ったと思った。相手は切手を貼って、はいどうぞ、と言った。それだけだった。 会社に着いたのは九時十二分で、遅刻ではなかった。 昼に、提案書が通ったと連絡が来た。私とタクミくんが四月から組んでいたやつだ。 「早坂さん、やりましたね」 「タクミくんの三ページ目がよかった」 「俺、三ページ目しか直してないです」 「知ってる」 三時、柏木常務が私の島の前で立ち止まった。今週で三度目だ。 「早坂くん」 「はい」 「先週の営業の飲み会には、出たか」 「出ていません」 「そうか」 常務は手帳に何か書いた。字が小さすぎて、横からでは一文字も読めないページに。 夕方、りおが飲み会の号令をかけた。金曜で、案件が通って、天気がいい。誘わない理由がない。 「芽衣は」 「行かない」 「理由」 「歯医者」 「金曜の夜八時に開いてる歯医者、この街にある」 「新しくできた」 「そう」 りおはそれ以上聞かなかった。聞かないと決めた人は、本当に聞かない。 六時十分、業務用チャットに一行だけ届いた。 今日、五分ください。 四月六日と一字も違わない文面だった。違うのは、今日が金曜だということだけだ。 「金曜です」 「知っています」 「ルール三つ目です」 「知っています」 「じゃあ、なんで」 「七回、守ったので」 私の指が何を打つのかを、私は打ってから知った。 「先に出ます。公園の、いちばん奥のベンチで」 七時。新宿中央公園のいちばん奥のベンチに、蓮さんはもういた。スーツのままで、缶コーヒーを二本持っている。 「どっちがいいですか」 「どっちも同じに見えます」 「同じです。両方ブラックです」 「選ばせる意味は」 「ないです」 ないなら聞くなよ。 私たちは並んで歩いた。会社の人が通らない道を選んだ。選んだつもりだった。 五月の終わりの夜は、七時でもまだ少し明るい。すれ違う人は誰ひとり私たちを見ない。世界というのは、たぶんこれくらい人に興味がない。 「早坂さん」 「ここ、会社の外です」 「あ」 「蓮さん」 「はい」 名前を呼んだのは、四月六日の非常階段以来だった。あのときは風の音で聞こえにくかった。今日はよく聞こえた。 「四月の会議で、言いかけたことがあります」 「覚えてます」 「まだ言いません」 「なんでですか」 「言うと、僕のためになるので」 意味がわからない。わからないのに、この人が本気で困っているのだけはわかった。 「私にも、まだ言えないことがあります」 「あるんですか」 「あります」 「いつか、聞けますか」 「いつか」 二人で、同じ種類の黙り方をしている。それがおかしくて、少しだけ笑った。今日はちゃんと笑えた。 「一度だけ聞きます」 「どうぞ」 「もし明日、全部知られたら、社長はどうしますか」 「規則のとおりにします」 「どっちが辞めるんですか」 蓮さんは答えなかった。四歩ぶん黙って、それから「信号、青です」と言った。 青だったのは事実だ。事実だけを言うのが、この人のずるいところだと思う。 「歯医者は」 「行きません」 「香月さんに嘘をつきましたね」 「つきました。八時に開いてる歯医者があるって」 「あるといいですね」 「ないです」 駅の階段の手前で、蓮さんが足を止めた。 「ここで別れます」 「はい」 「明日は土曜です」 「はい」 「土曜のことは、ルールに書いていません」 私が何か言う前に、手を握られた。強くはなかった。振りほどこうと思えば一秒でほどける。 ほどかなかった。 握られた手のすこし上に、蓮さんの腕時計があった。文字盤が四角い、古いやつ。前の社長にもらったと、いつか会議で言っていた。 街灯の下で、影がいったん一つになって、また二つに戻った。 改札のほうから金曜の人の流れが来る。誰も私たちを見ない。会社から歩いて七分の駅で、私たちは三秒だけ、会社の外の人間だった。 その三秒めに、うしろで音がした。 カメラの、シャッターの音だった。 第10話 庇う人 六月二日、火曜。 あの音を聞いてから四日目の朝だった。土日で三十回は思い出して、月曜は一日じゅう手が冷たかった。 タクミくんが、朝から一度も話しかけてこない。 土曜に、あの人からLINEが一件だけ来ていた。 「顔は写っていないと思います」 「なんでわかるんですか」 「振り返ったのが僕だけだったので」 振り返るなよ、と打ちかけて消した。振り返ったから顔を撮られていない、というのは理屈として正しい。正しいけど、あの一瞬でそこまで考えていたのが、この人らしすぎる。 定例会議では、社長も私を見なかった。見ないのはいつもどおりだ。いつもどおりのことが、今週はぜんぶ意味ありげに見える。 業務用チャットに一行だけ来た。 大丈夫ですか。 業務の話しか書けない箱に、業務じゃない六文字が入っていた。私は「大丈夫です」と返した。こっちも業務じゃない。 十二時十五分、給湯室。 「早坂さん」 振り向くと、タクミくんが紙コップを持って立っていた。中身は入っていない。 「見てもらいたいものがあります」 差し出されたスマートフォンの画面に、猫がいた。駅前のガードレールの下に座っている、茶色いやつ。 「先週の金曜、駅前で見つけたんです。かわいくないですか」 「かわいい」 「でしょう」 そこで気づいた。猫のうしろに、人が二人写っている。 女のほうは私だ。背中と、横顔の四分の一。 男のほうは後ろ姿だけで、顔は写っていない。写っていないのに、私にはわかった。差し出された手の、すこし上。文字盤が四角い、古い腕時計。 「早坂さん」 「うん」 「これ、誰にも見せてません」 「うん」 「消したほうがいいですか」 消して、と言えばよかった。言えばよかったのに、私の口から出たのは違う言葉だった。 「猫、かわいいね」 なにを言ってるんだ、私は。 「俺、なんとなくわかりました。相手の人が誰か」 「タクミくん」 「言いません。絶対に言いません」 この子は嘘をつかない。つかないから、絶対に言いません、が本当にこわい。 午後、フロアの奥の席は空だった。社長は打ち合わせで外に出ている。今日はいない。 いないほうが、この会社にとってはよかった。 二時四十分、柏木常務がタクミくんを呼んだ。 「花村くん。ちょっといいか」 二人は会議室Bに入って、ブラインドが下りた。今年で二回目だ。 私はコピー機の前に立った。刷るものがなかったので、白紙を三十枚刷ることにした。 会議室Bの壁は薄い。ブラインドは目だけを遮る。 「先週の金曜の夜、駅前にいたそうだな」 「はい」 「営業の者が見たと言っている」 「いました」 「何をしていた」 「猫を撮っていました」 常務が黙った。私は白紙を刷り続けた。 「見せなさい」 「はい。茶色いやつです。かわいいですよ」 常務は感想を言わなかった。 やめろ。やめてくれ。 紙が二十二枚目になった。二十二という数字が、今日はやけに目につく。 りおが横に来た。私の刷った白紙の束を見て、それから会議室Bのブラインドを見た。 「芽衣」 「なに」 「白紙、何枚目」 「二十二枚目」 「そう」 りおは私の隣に立って、自分も何も入れないままコピー機のボタンを押した。二人で白紙を刷る同期。傍から見たら、かなり異常な光景だと思う。 「花村くん。この、うしろに写っている二人は」 六秒あった。六秒のあいだ、私は自分の心臓の音を数えていた。 「俺です」 「なんだと」 「俺と、早坂さんです」 コピー機が用紙切れのランプをつけた。私は白紙のトレイに、白紙を足した。 「花村くん」 「はい」 「君は今、規則違反を自分から申し出たことになる」 「はい」 「わかって言っているか」 「わかってます」 わかってない。この子は何もわかってない。 二十二条は、片方が辞める規則だ。庇ったつもりで、自分の首と私の首を同時に差し出している。 「常務。俺が辞めます。早坂さんは残してください」 「順番がおかしい」 四月の会議と、まったく同じ台詞だった。 常務がスマートフォンを机に置く音がした。 「撮ったのは君だな」 「はい」 「この写真は、君が撮った」 「はい」 それから常務は、いつもとまったく同じ、少しも大きくない声で言った。 「じゃあ、写真の相手は誰だ」 第11話 腕時計 六月九日、火曜。あれから一週間、何も起きていない。 タクミくんは普通に出社して、普通に猫の話をする。柏木常務は普通にフロアを一周する。 何も起きていないのが、いちばんこわい。 「早坂さん、猫、来ました」 「来たんだ」 「在宅が通ったので」 「名前は」 「ニジュウニです」 「わざとだろ」 「はい」 「なんで」 「就業規則の二十二条から取りました。覚えやすいので」 「やめなよ」 「もう首輪に彫っちゃいました」 わかっていて言っている。わかっていて言う子は、止められない。 昼過ぎ、私は総務にファイルを届けに行った。常務の席の前を通る。 机の上に、A4のプリントが三枚並んでいた。同じ写真を、大きさを変えて刷ったものだ。 一枚目は全体。猫と、うしろの二人。 二枚目は右半分。 三枚目は、手だけ。 その真ん中に、四角い文字盤があった。 「早坂くん」 声をかけられて、足が止まった。 「はい」 「この時計を、見たことがあるか」 「いえ」 「そうか」 常務はプリントを裏返した。裏返してから言った。 「前の社長が、二十年つけていた時計だ。引き継ぐときに、そのままやった」 「はい」 「私は、あれを毎日見ている」 それだけだった。それだけで、全部だった。 「常務」 「なんだ」 「花村くんは、どうなりますか」 「あれは嘘をついた。嘘は、規則より先に片づける」 「あの子は庇っただけです」 「庇う人間がいるということは、庇われる人間がいるということだ」 私は返す言葉を持っていなかった。常務は老眼鏡を外して、目のあいだを二本の指で押さえた。 「早坂くん。私はこの仕事が好きではないよ」 三時、りおが椅子ごと私の島に来た。今日は三十センチではなく、ゼロセンチまで来た。 「芽衣」 「なに」 「常務が今週、社長の予定を二回押さえてる」 「なんで知ってるの」 「ディレクターは全員のカレンダーが見える。知ってた」 「知らなかった」 「あと、来期の体制図の共有が止まってる」 「それは」 「たぶん、書き直してる」 りおは私の顔を見ないで言った。見ないで言うのが、この人なりの気づかいだ。 六時。業務用チャットに打った。 三分ください。 既読は二秒だった。 六月の非常階段は、風が生ぬるい。 「蓮さん」 会社の中では社長と呼ぶ。ここだけが例外。四月に私が自分で決めた例外だ。 「常務が、あの写真を、大きさを変えて刷っていました」 「知っています」 「知ってる」 「今朝、直接言われました。心当たりはありますか、と」 「なんて答えたんですか」 「あります、と」 手すりを握った指に力が入った。 「なんで正直に言うんですか」 「嘘をつけば、常務は調べ続けます。調べ続ければ、早坂さんに行き着きます」 「もう行き着いてます」 「行き着かせない方法を、まだ探しています」 探すな。探して見つからなかったときの顔を、私は見たくない。 「蓮さん」 「はい」 「私、内定をもらっています」 風が一回、階段を上から下へ抜けた。 「四月三日です。花見の前の日です。返事の期限は五月末でした」 「でした」 「はい」 「過ぎていますね」 「過ぎてます」 この人は数字に強い。強いのに、その先を聞かなかった。 「答えは」 「まだ言いません」 「四月の僕と同じことを言うんですね」 「同じです。言うと、私のためになるので」 言い返せるうちに言い返しておこうと思った。あとで後悔するのは、こっちだ。 「早坂さん」 「敬語」 「芽衣さん」 その呼び方をされるのは、二回目だった。四月六日の、同じ場所で、同じ風の中で。 「辞めるのは、俺でいい」 俺、と言った。この人が自分を俺と呼ぶのを、私は初めて聞いた。 「待ってください」 「待ちません。四月から考えていました」 「考える順番がおかしいです」 「順番は、たぶんおかしいです」 四月の会議で、常務が花村くんに言ったのと同じ台詞だった。 私は手すりを両手で持った。持たないと、言い返すのが遅れる。 「社長が辞めたら、会社は」 第12話 共犯 六月十七日、水曜。朝いちばんに、りおが私の腕をつかんだ。 連れていかれたのは給湯室ではなく、会議室Bだった。ブラインドを下ろす手つきが妙に慣れている。 「今年三回目だよ、これ」 「知ってる。二回とも外から見てたから」 今朝も電車の中で第二十二条を読んだ。四月から数えて、たぶん三十回目だ。 文字は一つも増えていないし、減ってもいない。読むたびに、私のほうだけが変わっていく。 「四月に、聞かないでおくって言ったよね」 「言った」 「撤回する」 「なんで」 「芽衣ひとりで処理できる量を、先週で超えたから」 りおは椅子を引いて、私の正面に座った。逃げ道の側に、自分の体を置く座り方だった。 「言って。全部」 私は全部言った。四月四日の帰り道から、非常階段で決めた三つのルール、五月二十九日の金曜、猫の写真、常務の机に並んでいたプリントまで。 りおは一度も口を挟まなかった。挟まないまま、聞き終わってから、ひとことだけ言った。 「思ってたより、だいぶ、ちゃんと付き合ってるじゃん」 そこか。 「聞いていい」 「どうぞ」 「社長のこと、好き」 「その質問、朝の会議室でする」 「する」 「好きだよ」 「はい、以上」 りおはノートに置いていたペンを閉じた。よく見たら、一文字も書いていなかった。書くふりだけしていたらしい。 「三十八人の会社で二人が隠しごとをすると、残りの三十六人が探偵になるんだよ」 「なった」 「なったね」 「作戦を立てる」 「立てないで」 「一。タクミからデータを回収する」 「二は」 「一で終わり」 「作戦って言った」 「一個でも作戦」 昼、りおはタクミくんを地下の定食屋に連れていった。私は来ないほうがいいと言われた。 言われたとおりにして、二十分後に戻ってきたりおは、手ぶらだった。 「どうだった」 「消してた」 「消してたの」 「うん。常務に見せた次の日、自分で消したって」 「じゃあ、いいじゃん」 「よくないから、私の顔がこうなってる」 りおは椅子に座って、両手で顔をこすった。 「常務、印刷してるんだよね」 「三枚」 「知ってたの」 「見た」 「先に言ってよ」 「言ったら、作戦が一個もなくなる」 「そうだね」 午後、タクミくんが私の席に来た。 「早坂さん」 「うん」 「俺、香月さんに全部話しました」 「聞いた」 「あと、常務にも言い直しました」 「なにを」 「嘘でしたって」 やめてくれ、と言いたかった。言えなかった。この子は正しいことしかしていない。正しいことだけをして、状況を悪くしている。 「俺、辞めなくていいそうです」 「よかった」 「よくないです」 タクミくんはその日、一度も猫の話をしなかった。 二時、社長は会議室Bで常務と三十分話していた。ブラインドは、今日は下りなかった。 下ろす必要が、もうなくなったからだと思う。 三時、りおが小声で聞いてきた。 「一個だけ聞いていい」 「どうぞ」 「芽衣は、どうしたいの」 「規則を守りたい」 「嘘」 「うん」 りおはそれ以上聞かなかった。今度は、聞かないと決めたからではなくて、答えがもうわかっているからだと思う。 四時、社長が外から戻ってきた。私の島の前を通るとき、机の端に付箋を一枚置いていった。 書いてあったのは一行だけ。 何も言わなくていいです。 いや、なんでだよ。私にだって、言うことくらいある。 付箋を折って、財布の内側に入れた。捨てなかった。四月に手帳のページを折った人と、同じことをしている。 四時半、タクミくんが席を立って、給湯室のほうへ歩いていった。戻ってきたとき、紙コップを二つ持っていた。 ひとつを私の机に置いて、何も言わずに座る。中身はお湯だけだった。 「これ」 「お湯です」 「お湯だけ」 「早坂さん、そういうの飲むって聞いたので」 誰から聞いたんだよ。 カップを両手で持った。あたたかいだけで、味はない。それでも机の上には、湯気の立つものが一つ増えた。 五時二十分、柏木常務が私の島の前に立った。 毎朝のフロア一周のときの、あの歩幅が、この日はじめて、はっきり縮んだ。 「早坂くん」 「はい」 常務は手帳を開かなかった。開かずに、いつもの声で言った。 「明日十時、会議室A。早坂と、社長」 第13話 会議室A 六月十八日、木曜、十時。会議室Aには窓がない。 長机が一本、椅子が十脚。使われるのは三脚だけだった。 上座に柏木常務。その正面に社長。私は社長の隣ではなく、常務の斜め向かいに座った。 エアコンだけが元気だった。この部屋は夏でも寒い。三年間、誰も直していない。 九時五十分のフロアは、静かではなかった。むしろ普段よりうるさかった。全員が全員、いつもより大きい声で仕事の話をしていた。 りおが給湯室の入り口から親指を立てた。何の親指なのかはわからない。 タクミくんは私の右隣で、モニターに向かって「がんばってください」と言った。モニターに言うな。 常務は書類を三枚、机に並べた。定規を当てたみたいに、端が揃っている。 全体、右半分、手だけ。 「先に言っておく。今日は確認だけだ。誰と誰か、は先週、社長本人から聞いている」 社長は資料も出さず、手も動かさず、まっすぐ常務を見ていた。 先週、この人はひとりで言ったらしい。いつから用意していたんだろう。たぶん、四月からだ。 「早坂くん。五月二十九日の夜、駅前にいたのは君と社長だ。違うか」 「違いません」 「よろしい。確認は終わりだ」 思っていたより早く終わった。そのぶん、残りが全部こっちに来る。 「では、今日決めるのは一つだけになる。この規則を、どうするかだ」 「社長。ひとつ聞きます。第二十二条をご存じですか」 「知っています」 「作ったのは前の社長です」 「知っています」 「あなたは、それを承知で引き継いだ」 「はい」 「規則は規則だ」 常務の声は大きくならなかった。この人は一度も大きくしない。しないから、部屋の重さが全部その一行に乗った。 「常務」 「なんだ」 「規則を変えます」 常務が老眼鏡を外した。私が見たのは、これで二度目だ。 「今、なんと」 「二十二条を改定します。社内の交際を、禁止から届け出制に」 「議案は」 「来週の役員会に出します。原案は、もう書いてあります」 「いつから書いていた」 「四月です」 「四月の何日だ」 「六日です」 「花見の、二日後だな」 「はい」 常務はプリントを、一枚ずつ裏返した。裏返す順番も端から順だった。 「自分のためにか」 常務は椅子を引かなかった。誰も紙をめくらなかった。エアコンだけが鳴っていた。 社長は一秒も迷わなかった。 「はい」 「社長。あなたが規則を変えれば、社員はこう思う。社長は自分の都合で規則を変える人間だと」 「思うでしょうね」 「一度そう思われたら、次にあなたが正しいことを言っても、誰も聞かない」 「はい」 「わかっていて、やるのか」 「わかっているので、四月から二か月かけて書きました」 四月の非常階段で、この人が言いかけて止めた言葉を、私はやっと最後まで聞いた。 二か月かかった。私が封筒を開けるのに一か月半かかったのと、同じ種類の時間だ。 「正直だな」 「嘘をつけば、常務が調べ続けるので」 「その理屈で人が納得すると思うな」 「思っていません。ですから、これも持ってきました」 社長が上着の内ポケットから封筒を出した。白い封筒。四月の非常階段で、手帳のページを折って入れたのと同じポケットだ。 「辞表です。改定案が通らなかった場合に、出します」 「順番がおかしい」 「順番は、たぶんおかしいです」 この会社の人間は、全員この台詞を一回ずつ言う決まりでもあるのか。 「常務。五分、いいですか」 「もう二十六分だ」 「では、二十六分の続きを」 「座りなさい」 常務が言うと、社長は座った。ここは会社で、この人は社長で、それでも常務のほうが強い。三年間ずっとそうだった。 「常務。花村くんは、どうなりますか」 「あれは処分しない。嘘は取り消された」 「よかった」 「よくはない。あの子は、君を守れると思っている。守れないと知るのは、これからだ」 私はその白い封筒を見ていた。机の真ん中に置かれたまま、誰も手を伸ばさない。 「常務」 「早坂くん、君はまだ何も」 「言います」 私は立ち上がった。椅子が床で鳴った。十脚のうち一脚だけが動く音は、思っていたよりずっと大きい。 「私が辞めます」 鞄の外ポケットに手を入れた。四月三日からずっとそこにある封筒。角が折れて、片方の端がやわらかくなったやつ。 それを、常務が裏返したプリントの上に置いた。 第14話 中身 常務は封筒を手に取って、社長のほうを一度だけ見た。 社長は封筒を見ていなかった。私を見ていた。 「開けるぞ」 「どうぞ」 中の紙は二枚だった。 常務は一枚目を見て、二枚目を見て、それからもう一度一枚目に戻った。老眼鏡をかけ直すのに五秒かかった。 「常務。それは」 「読むか」 常務が二枚を机の上に並べると、社長が身を乗り出した。その拍子に椅子の脚が床を鳴らした。 この人がこういう音を立てるのを、私は三年間で初めて聞いた。 一枚目は内定通知書。日付は四月三日。入社予定日、七月一日。 二枚目は、その会社からの返信だった。日付は六月三日。内定ご辞退の件、承りました。そう書いてあった。 「早坂さん。これは」 「五月二十九日の朝に、郵便局から出しました」 「五月二十九日」 「金曜です。八回目の金曜の、朝です」 あの日、私は駅前で手をつないだ。つなぐ十二時間前に、これを窓口に出していた。速達にはしなかった。 お急ぎではないんですね、と窓口の人に言われた。急いでいなかった。急ぐ必要がなかったのは、もう迷っていなかったからだ。 迷っていないことに自分で気づいたのは、切手を貼ってもらったあとだった。 「なぜ言わなかったんですか」 「言ったら、社長が理由になるからです」 「理由でいいでしょう」 「よくないです」 私は常務のほうを向いた。この話は、この人に言うべき話だ。 「常務。私は四月から辞めるつもりでした。理由は仕事です。社長は関係ありません」 「花見の前か」 「前の日に、内定が出ました。私はそれを一か月半、鞄に入れたまま開けませんでした」 「なぜ開けなかった」 「開けたら、選ばなくてはいけないからです」 「選んだのだな」 「五月二十九日に」 「ひとつ聞いていいですか」 社長だった。 「どうぞ」 「その日の夜、駅で、僕は手を握りました」 「握りました」 「知っていて、握らせましたね」 「握らせました」 「ずるいですね」 「社長ほどじゃないです」 常務が咳払いをした。ここは会議室Aで、目の前には裏返したプリントがあって、私たちはいったい何の話をしているんだろう。 「では、なぜ今、辞めると言った」 「辞め方が違うからです」 私はプリントの、裏返されたほうを見た。猫と、私と、四角い文字盤。 「私が今日辞めれば、今日の規則は守られます。守られたうえで、来週、規則が変わります。変わったら、私はもう一度この会社を受けます。中途で、面接からやります」 「落ちたらどうする」 「落ちたら、そのときです」 常務は何も言わなかった。 「転職するために辞めるんじゃありません。規則が変わるまでのあいだ、社員を辞めます」 「早坂くん。退職の手続きには、最短でも二週間かかる」 「知ってます。ポータルで読みました」 「二年目で就業規則を読む人間は、聞いたことがないが」 りおと同じことを言うんだな、この人も。 「常務。紙を一枚、いいですか」 常務は自分の前の白紙を一枚、机の上を滑らせた。私はその場で書いた。 退職届。日付は六月十八日。理由の欄には、会社の様式どおり一身上の都合、とだけ書いた。 書き終えて、常務のほうへ滑らせて返した。常務は受け取って、何も言わずに、机の端の書類の下に入れた。 「待ってください」 社長が立ち上がった。 「待ちません」 「それは、僕が言う台詞です」 「先に言われたら、こっちが言うしかないです」 社長は口を開けて、そのまま閉じた。三年間で初めて、この人が言葉の順番を間違えているところを見た。 「僕が書いた第一稿は、届け出制ではありませんでした」 「なんだったんですか」 「廃止です。四月六日の夜に書いて、翌朝に破りました」 「なんで破ったんですか」 「勢いで書いたものは、勢いで否決されるので」 この人は、いつでもこうだ。いちばん熱いことを、いちばん冷たい言い方で言う。 常務は二枚の紙の端を揃えて重ね、封筒に戻して、机の真ん中に置いた。 それから老眼鏡を外した。これで三度目だ。 しばらく、誰も何も言わなかった。エアコンが一度止まって、また動きだした。 常務は指を二本、目のあいだに当てた。六月九日に、私の前でやったのと同じ動きだった。 「早坂くん」 「はい」 「君は、二十二条の理由を私に聞いたな。四月に、コピー機の前で」 「聞きました」 「社長に聞けと言った」 「言われました」 「あれは、私が答えたくなかっただけだ」 常務は封筒に手を置いたまま、社長のほうも私のほうも見ずに言った。 「……前社長も、社内恋愛で辞めた人間だ」 第15話 届け出 七月十三日、月曜、九時。フロアの三十八人が全員立っていた。 朝礼なんて、この会社では何年かに一度しかない。前にやったのは、社長が代わったときだ。 前に立っているのは、その社長ではなく、柏木常務だった。 「就業規則の改定を報告する」 常務は紙を一枚だけ持っていた。読み上げるでもなく、結局一度も見なかった。 「第二十二条。社員間の交際は、会社への届け出をもってこれを可とする。届け出の内容は人事のみが保管し、評価と人事異動には一切用いない。以上だ」 フロアが二秒黙って、それから、いっせいにざわついた。 「質問は」 手が四本上がった。常務は、うしろのほうの手を指した。営業の人だった。 「なんで今なんですか」 「四月から社長が原案を書いていた。六月に私が読んだ。読んで、直して、役員会に出したのは私だ」 「常務が出したんですか」 「私が出した。反対したのも私だ。三回反対して、四回目に賛成した」 誰かが小さく笑った。常務は笑わなかった。 「規則は、作った人間が守らせるものだ。変える責任も、同じところにある。以上」 改定案が役員会を通ったのは、六月二十四日だった。 私の退職届のほうは、処理されていなかった。二週間の期間が満了する前の日に、常務が私を呼んで、封筒を机に置いた。 「引き出しに入れておいた」 「処理してないんですか」 「していない。私は書類が遅い」 三十年この会社にいて、書類が遅かったことなんて一度もない人が、そう言った。 十時、社長が私の島まで来た。手にA4を一枚持っている。 「届け出、書きますか」 「ここでですか」 「ここではないほうがいいと思います」 七月の非常階段は暑い。四月とは逆で、風が全部ぬるい。 用紙は簡単だった。氏名の欄が二つ、日付がひとつ。あとは「推薦者」という欄がひとつだけ。 「この欄、なんですか」 「常務が足しました」 「なんで」 「隠さなくていい会社にするには、最初のひとりを誰かが推薦する必要があるそうです」 推薦者の欄には、もう名前が入っていた。柏木の字だった。 字が小さすぎて、五月二十九日に横から手帳をのぞいたときは、一文字も読めなかったやつだ。 「ひとつ聞いていいですか」 「どうぞ」 「前の社長のこと、知ってたんですか」 「六月十八日に、初めて聞きました」 「常務、三年黙ってたんですね」 「黙る人です。だから僕は、あの人のいる会社でなら変えられると思いました」 私が名前を書いて、あの人が名前を書いた。二人で一枚のA4を、今度は同じ側から持っていた。 「蓮さん」 「はい」 「ここ、会社の中です」 「例外の階段です」 「例外、まだ生きてるんですか」 「規則が変わっても、例外は例外です」 言い方は四月と同じだった。同じ言い方をする人が、四月とは違う顔で笑っている。 フロアに戻ると、りおが親指を立てた。六月十八日と同じ親指だ。今日は意味がわかる。 「第二号、私が出すかも」 「誰と」 「言わない」 「言ってよ」 「聞かないでおいて」 返された。四月の分を、きっちり返された。 「早坂さん」 右隣からタクミくんが顔を出した。 「猫の名前、変えます」 「なんで」 「二十二条、廃止されたので」 「改定だよ」 「じゃあ、カイテイにします」 「首輪、彫っちゃったって言ってなかった」 「彫り直します」 この子は一生こうだ。それでいい。 昼、給湯室で味噌汁を作っていたら、常務が入ってきた。紙コップにお湯を汲んで、出ていきしなに一度だけ足を止めた。 「早坂くん」 「はい」 「前の社長には、退職の前に誰も推薦を書かなかった」 「はい」 「それだけだ」 常務はフロアを一周して、自分の席に戻った。私の島の前で、歩幅は縮まなかった。 もう縮める必要がないんだと思う。 午後三時。業務用チャットの通知が鳴った。 一ノ瀬蓮からのダイレクトメッセージが、一行だけ。 今日、五分ください。 四月六日と一字も違わない。違うのは、この会社がもう、それを隠さなくていいということだけだ。 私は返した。 一生ください、は規則違反ですか。

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