FFAVENIA

小説 · text · 2026-09-09

屋上で、告白の練習相手を頼まれた

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屋上で、告白の練習相手を頼まれたのカバー

作:星野ひかり 第1話 昼休みだけ、開く 屋上の扉は、昼休みだけ開く。 四階の東の端。廊下の突き当たりから五段だけ上がると、灰色の鉄の扉がある。担任の岩下が十二時半に開けて、一時十五分に閉める。俺はその四十五分のために、毎日ここまで階段を上っている。 鍵は職員室の鍵箱にある。岩下が昼前に取りに行って、昼休みが終わるとまた戻す。何年か前に屋上でよくないことがあってから、この学校はそういう扱いになったらしい。 教室は騒がしい。写真部の部室には野田がいて、こっちの弁当を勝手に減らす。 消去法でここに来ているだけだ。 給水塔の陰の段差に座って、おにぎりの包みをはがした。六月の風はもうぬるい。フェンスの向こうでは一年が短距離を走らされている。 二年になってから、ここで他人を見たことがない。 と思ったところで、鉄の扉が鳴った。 「相良くん、だよね」 隣のクラスの桜井ひなただった。文化祭実行委員の腕章をつけたまま、まっすぐこっちに歩いてくる。 俺は口の中のおにぎりを飲み込んだ。飲み込んでから、噛んでいなかったことに気づいた。 「たぶん」 「たぶんって何」 「合ってます」 桜井は笑って、スカートの埃を払ってから、俺が座っている段の隣に腰を下ろした。距離が、拳ひとつ分。 「お願いがあるの」 「はい」 「告白の練習相手になってほしい」 いや、なんでだよ。 「もう一回いいですか」 「告白の練習。相手役。相良くんには、告白される側をやってほしいの」 「俺、演技できないけど」 「棒立ちでいい。むしろ棒立ちのほうがいい」 求められている水準が低すぎて、かえって落ち着かなくなった。 「本番が、あるってこと」 「うん」 「いつ」 「文化祭の前夜祭。七月四日の夜」 「三週間以上あるけど」 「三週間しかない」 六月八日、月曜日。前夜祭まで二十六日ある。この人の頭の中では三週間らしい。 言い方に迷いがなかった。 「相手は」 「言わない」 これも即答だった。 桜井はスカートのポケットから折りたたんだ紙を出して、少しだけ開いて、また折った。中身は見えない。 「これ、今日の台詞。でも今日はもう時間ないから、明日ね」 「用意がいい」 「準備は得意なの。本番が苦手」 それから桜井は指を三本立てた。 「ルール、三つ。ひとつ、毎日昼休み、ここで」 「毎日」 「毎日。ふたつ、私が紙を渡す。書いてある台詞を私が言う。相良くんは聞くだけ」 「聞くだけ」 「みっつ。聞き終わったら、『考えさせて』って言って」 「なんで」 「OKされる練習をしても意味ないでしょ。断られるほうに慣れておきたいの」 理屈は通っている。通っているのに、どこか妙な形をしていた。 「ひとつ聞いていい」 「どうぞ」 「なんで俺なんだ」 桜井はフェンスの向こうを見た。一年の集団がスタートラインに並び直している。 「屋上にいるから」 「それだけ」 「それだけ」 「じゃあ、屋上にいる人なら誰でもよかったのか」 「今、屋上にいるのは相良くんだけでしょ」 そんな理由で、これから毎日四十五分を差し出すことになるらしい。 「もうひとつ聞いていい」 「まだあるの」 「聞くだけって言ったけど、どういう顔で聞けばいいんだ」 「顔」 「困った顔とか、真剣な顔とか」 「困らないで」 「無茶を言うな」 桜井は少し考えて、俺の顔を指さした。 「今の顔でいい」 「今の顔って」 「知らない人にいきなり用事を言いつけられた人の顔」 「合ってる」 鉄の扉が半分開いて、岩下が顔を出した。 「相良、鍵閉めるぞ。あと五分」 「はい」 「桜井、お前も屋上派になったのか」 「今日からです」 岩下は何か言いかけて、やめて、引っ込んだ。あの人はいつも半分だけ言ってやめる。 桜井が立ち上がって、スカートの埃を払った。ずれた腕章を指で直す。 「じゃあ、明日から。いい?」 「まあ、うん」 「返事、それでいいの」 「考えさせて」 言ってから気づいた。始まる前に一回使ってしまった。 桜井が声を出して笑った。実行委員の腕章をつけている人の笑い方じゃなかった。 「練習は、本番の前の日まで」 「長いな」 「短いよ」 予鈴が鳴る。桜井は扉の手前で振り返った。 「相良くん」 「はい」 「明日から、毎日」 第2話 棒読みの人 六月九日、火曜日。 桜井は十二時三十五分きっかりに屋上へ来た。時間には正確な人らしい。 給水塔の陰まで来ると、折りたたんだ紙を広げて、俺に見せずに自分で読み返した。唇が少し動いている。 「準備はいい?」 「何をすればいいんだ」 「そこに立って、聞いて」 俺は立った。パンの袋を持ったまま立っていたことに途中で気づいて、段の上に置いた。 桜井が息を吸った。 「あのね。ずっと前から、気になってました。付き合ってください」 平坦だった。抑揚がひとつもない。放課後の校内放送で明日の予定を読み上げる人の声にいちばん近い。 「どう」 「正直に言っていい」 「言って」 「今の、明日の献立を読んでる人の声だった」 「私、そんなにひどい?」 「ひどい」 桜井は紙を丸めかけて、やめて、丁寧に折り直した。折り目を親指でなぞる。 「もう一回」 「どうぞ」 「今度は目を見て言うから」 「え」 「え、じゃない」 桜井が半歩前に出た。上履きの先が、俺の上履きの先とほとんど同じ線に並ぶ。 「ずっと前から、気になってました」 さっきより低い声だった。目をそらしたら負けな気がして、そらした。 「相良くん、今そらしたでしょ」 「そらしてない」 「そらした」 「考えさせて」 「返事、早い」 桜井は笑って、それからまた真顔に戻った。切り替えが速い。 「もう一回やる」 「まだやるのか」 「三回はやる。決めてるから」 「何が」 三回目は、最初と同じ棒読みに戻っていた。俺の顔を見た直後に紙へ視線を落とすので、台詞が半分に割れる。 「二回目がいちばんよかった」 「知ってる」 「知ってるならなんで戻るんだ」 「戻るんだよ」 桜井は紙をポケットにしまって、それから思い出したように出した。 「相良くんも練習して」 「俺は聞くだけじゃなかったのか」 「返事の練習。今の『考えさせて』、軽すぎる」 「軽いも重いもないだろ」 「あるよ。断られるほうの身にもなって」 断られるほうの身にもなって、と言われても、断っているのは俺のほうだ。 「考えさせて」 「もっと申し訳なさそうに」 「無茶を言うな。断ってるのはこっちなんだぞ」 「今のは他人事の顔」 「他人事なんだよ」 桜井が段の上のパンの袋を指さした。 「それ、食べないの」 「練習中だろ」 「食べていいよ。私が言うだけだから」 「告白されながらパンを食べる男になるぞ」 「それはやめて」 予鈴が鳴るまで、桜井はフェンスの手前で同じ二行を繰り返していた。四回目からは数えるのをやめた。 一年の体育祭のことを、俺は誰にも言っていない。 二百メートルを走り終えた直後に、視界が白くなった。倒れたところまでは覚えている。そのあと、誰かが俺の腕を自分の肩に回して、昇降口の横の保健室まで歩かせた。 半分閉じた目に見えたのは、体操着の袖と、汗で額に貼りついた前髪だけだった。名前はあとでクラスの誰かに聞いた。隣のクラスの桜井、と。 礼を言う機会は二年になるまでにいくらでもあった。全部見送った。 向こうは覚えていない。覚えていない話をこっちから始めるのは、面倒な人間のやることだ。 放課後、旧校舎の一階の突き当たりに寄った。写真部の部室だ。 部員は五人。実際に来るのは二人で、その二人とも撮っていない。 「相良、この期限切れのフィルム、捨てていいか」 野田が引き出しを開けたまま言った。こいつも幽霊部員だが、幽霊のくせに部室にはいる。 「捨てるな。俺のだ」 「使ってないだろ」 「持ってるだけで部員なんだよ」 「そういう部員が五人いると部が死ぬんだ」 俺は丸椅子に座って、昼のことを話した。名前は出さなかったのに、野田は三行で当てた。 「桜井だろ」 「なんで」 「実行委員の腕章の話をしたのはお前だ」 こいつ、たまに鋭い。 「で、告白の練習相手」 「そう」 「本番の相手は」 「言わないってさ」 「毎日、屋上で、お前だけに、練習する」 「まとめるとそうなる」 「今日の台詞は」 「ずっと前から気になってました、付き合ってください」 野田がフィルムケースを振る手を止めた。 「それだけか」 「それだけだ」 「短いな。中身がない」 「初日だからだろ」 野田はケースを机に置いて、指で二回叩いた。 「相手役なんて、誰でもいいはずだろ。鏡でもいい」 「鏡は返事をしない」 「お前も返事はひとつしかないだろ」 「そう指定されたんだよ」 「なあ、それ、練習になってるか」 なっているのかは知らない。俺は聞くだけの係だ。 「毎日って言われたんだよ。三週間」 「三週間、昼休みを全部使うのか」 「使う」 「お前、写真は一枚も撮らないのにな」 うるさい。 野田は引き出しを閉めて、椅子ごとこっちを向いた。 「それ、お前じゃないの」 第3話 屋上派 結局、野田には何も返せなかった。 返せないまま夜になって、朝になって、六月十日の水曜日になった。 空は曇っている。屋上のコンクリートが白っぽく乾いていて、風だけがある。 「はい、今日の」 桜井は段に座るより先に、紙を差し出した。昨日より手つきが事務的だ。 「読んでいいのか」 「だめ。私が言うから」 「じゃあ渡すな」 「渡したいの」 理屈が通っていない。通っていないまま、俺は紙を受け取って、開かずに膝に置いた。 桜井が二歩下がって、息を吸った。 「あなたが、いつも屋上でお昼を食べてるの、知ってます。ずっと気になってました。付き合ってください」 昨日より台詞が長い。長くなった分、棒読みが薄まっている。 「今の、よかったんじゃないか」 「本当?」 「二日目にしては」 「その言い方、いる?」 「あと、返事な。考えさせて」 「うん。今のは間が長かった」 「間まで採点されるのか」 桜井は俺の隣に座って、膝を抱えた。フェンスの向こうにはグラウンドしかない。 「ここ、教室が見えないんだね」 「見えないから来てる」 「あ、そう」 「言い方が雑になったな」 俺は膝の上の紙を指で押さえていた。押さえながら、さっきの台詞の頭を思い出していた。 屋上で、昼を、食べている人。 「なあ桜井。屋上派って、この学校に何人いると思う」 「なんで」 「参考までに」 「二人じゃない?」 「二人」 二人。今ここにいる二人だ。 「いや、他にもいるだろ。三年とか」 「三年は来ないよ。受験の人は教室から出ない」 「用務員さん」 「あの人はお昼、事務室」 「じゃあ体育の先生」 「相良くん、なんで屋上派の名簿を作ってるの」 名簿を作っている自覚はなかったが、作っていた。 「参考までにって言っただろ」 「何の参考」 「言えない」 桜井は俺の顔をしばらく見て、それから前に向き直った。膝を抱えたままつま先を上げ下げしている。 「相良くんは、なんで屋上なの」 「静かだから」 「それだけ」 「それだけ」 「昨日の私みたい」 「一昨日な」 「そんなに前だっけ」 まだ三日目だ。三日で「そんなに前」になる時間の進み方をしている人らしい。 「一年のときからここ?」 「二年から」 「一年のときは」 「教室」 一年の話をされたので、パンの袋を開ける手が少し止まった。止まったのを見られないように、袋を大きく破いた。破きすぎた。 「相良くん、それ全部こぼれるよ」 「こぼれてない」 「こぼれてる」 風が強くなって、桜井の髪が横に流れた。片手で押さえて、押さえきれなくて、両手になった。両手になったせいで紙を持てなくなって、こっちに寄こしてくる。 「持ってて」 「もう持ってる」 「じゃあ、それも」 二枚になった。今日の分と、なぜか昨日の分。桜井は昨日の紙も持ってきていたらしい。 「昨日のは、いらないだろ」 「捨てるの、なんか嫌で」 「じゃあ持ってろよ」 「相良くんが持ってて」 押し問答をしているうちに、鉄の扉が開いて岩下が顔を出した。手に鍵の束を持っている。 「そろそろ閉めるぞ」 「先生」 「なんだ」 「屋上って、昼に他の生徒も来ますか」 岩下は鍵の束を指で回しながら、屋上をぐるりと見た。給水塔と、フェンスと、乾いたコンクリート。 「お前と、今そこにいるやつだけだ」 「二人だけですか」 「二人だけだ。四月から数えて二人だ」 岩下は言うだけ言って、また引っ込んだ。あの人は本当に半分で帰る。 俺は膝の紙を見た。屋上で昼を食べている人。二人。 ここで数えるのをやめれば、残る答えはひとつしかない。やめなかった。信じたら、外れたときが最悪だからだ。 ということは、本番の相手は屋上に来ない日もある屋上派、ということになる。屋上派の定義が急に広がった。 「相良くん、今すごく難しい顔してる」 「計算してた」 「何の」 「言えない」 予鈴が鳴った。桜井は立ち上がって、スカートの埃を払って、扉のほうへ歩いていく。 「桜井」 「なに」 「ひとつ確認していい」 「どうぞ」 俺は膝の上の紙を見た。開いていないのに、さっきの台詞の頭がまだ残っている。 「本番の相手も、屋上派なんだな」 桜井が止まった。鉄の扉に手をかけたまま、こっちを向かない。 風の音が二回した。 「……そう」 第4話 字が違う 渡された紙を受け取って、最初に思ったのは、字が違う、だった。 昨日までは丸い字だった。「あ」の下がくるっと巻いていて、行の終わりが少し上がる字。 今日のは角ばっている。線の終わりが跳ねていて、字の大きさがそろっている。 「桜井」 「なに」 「これ、誰が書いた」 桜井が紙をのぞき込んで、それから屋上の入口のほうを見た。見た先で、鉄の扉が鳴った。 答えたのは、扉のほうから来た声だった。 「合ってる。私が書いた」 現れたのは知らない女子だった。二年の上履き。手にクリップボードを持っている。持ち方が慣れている。クリップボードの紙の右上に、六月十一日、と鉛筆で書き込んでから、こっちを見た。日付から書く人らしい。 「あんた誰」 「みお。ひなたの友達で、台本係」 「台本」 「セリフは私が書いてる。演出も私」 演出という単語がここで出てくるとは思わなかった。 「勝手に来ないでよ」 「昨日の報告があまりに雑だったからでしょ。『まあまあだった』で終わらせた」 「まあまあだったもん」 「三回やって二回目がよかったって、本人に言われたんでしょ。それ全部報告して」 桜井が俺を見た。俺は目を合わせないでおいた。 みおはクリップボードを胸の前に立てて、俺と桜井の間に線を引くように腕を伸ばした。 「はい、位置。ひなたはそこ。写真部の人はそこ」 「写真部の人って呼ぶな」 「相良くん、でいい?」 「そのほうが人間っぽい」 「桜井」 「なに」 「なんで自分で書かないんだ」 桜井はクリップボードのほうを見た。みおは何も言わずに肩をすくめた。 「書けなかったから」 「書けないって、何が」 「言葉が」 言葉が書けない人が、告白の練習を三週間やっている。順番がおかしい気もしたが、俺だってフィルムを持っているだけで写真部だ。人のことは言えない。 みおが指を鳴らした。 「じゃあ本番の練習の練習、いくよ」 練習の練習という言葉のややこしさに引っかかっているうちに、桜井が息を吸った。 「話したことは、ほとんどないです。それでも、ずっと目で追ってました。付き合ってください」 昨日より、声の位置が低い。低いところで止まっている。 「ストップ。ひなた、声が小さい。あと三歩前」 「三歩」 「三歩」 桜井が三歩前に出た。 三歩は多かった。上履きの先がぶつかって、桜井が半歩下がろうとして、下がらなかった。 顔の高さが近い。まばたきの回数が数えられる距離だ。 「みお、近い」 「近くしたの」 「言ってよ」 「言ったら意味ないでしょ」 桜井は俺の顔を見上げたまま、もう一度、同じ台詞を頭から言った。今度は途中で紙を見なかった。 「考えさせて」 俺の返事だけが、いつもの位置から動かなかった。 みおがクリップボードに何か書いている。ペンの音が速い。 「今の、記録しといて」 「何を記録するんだ」 「秒数。今の間、二秒あった。本番で二秒空くと死ぬ」 「そんな管理をされてるのか、これは」 「相良くんの返事、毎回同じなんだよね」 「そう指定された」 「顔も毎回同じ?」 「知らない。自分の顔は見えない」 みおはペンの尻で自分の顎を叩いて、桜井のほうを見た。 「ひなた。今の返事、どうだった」 「……ふつう」 「ふつうって書いとくね」 「書かないで」 桜井がみおのクリップボードを取り上げようとして、みおが背中に隠した。二人の押し合いを、俺は段に座って見ていた。フィルムがあれば撮っていたかもしれない。撮らないけど。 予鈴が鳴って、桜井が先に階段を下りていった。腕章の会議があるらしい。 みおは残って、クリップボードのクリップをかちかち鳴らしていた。 「相良くん」 「はい」 「あの子、昨日の紙も持って帰ろうとしたでしょ」 「持って帰らなかった。俺が持ってる」 「へえ」 みおの「へえ」は長かった。長い「へえ」だった。 「あのさ。ひとつ聞いていい?」 「どうぞ」 「本番の相手って、誰なんだ」 みおはクリップボードを小脇に抱えて、扉のほうへ歩き出した。俺の横を通り過ぎるとき、一度だけ足を止めた。 「本番の相手、知ってるよ。言わないけど」 第5話 幽霊でも 朝、筆箱を開けたら、折りたたんだ紙が三枚出てきた。 火曜の分と、水曜と、木曜。今日は金曜で、六月の十二日だ。月曜の紙は渡されないまま火曜にまわったので、三枚で全部になる。 捨てる理由もないので入れていたら、シャーペンが入らなくなった。それでも捨てなかったのは、たぶん、面倒だったからだ。 昼休み、屋上に上がると、先客がいた。 「早いな」 「委員会が早く終わったの」 桜井は給水塔の陰の段に座って、膝の上でクリップボードを使わずに紙を広げていた。みおの角ばった字が、遠目にも見える。 「じゃあ、はい」 差し出された紙を受け取るとき、指が触れた。 桜井は手を引かなかった。俺が先に引いた。 「相良くん、手つめたい」 「六月だぞ」 「六月でもつめたい人はつめたいの」 桜井が立ち上がって、二歩下がる。もう慣れた手順だ。俺は段の縁に立って、聞く係の顔をした。 「写真部だって聞きました。あなたの撮った写真、見てみたいです。付き合ってください」 棒読みは、月曜よりだいぶ減っていた。減った分、語尾がやわらかい。 「ちょっと待った」 「なに」 「写真部って、どこから出てきたんだ」 「本番の相手が、写真部だから」 俺は自分の上履きのつま先を見た。それから顔を上げた。 「返事の前に、言っとくけど」 「返事が先でしょ」 「考えさせて」 「はい。で」 「俺は幽霊部員だぞ」 「知ってる」 「知ってるのか」 「野田くんが言ってた。二人とも撮らないって」 野田。あいつは廊下ですれ違った相手に部の内情を配って歩いているのか。 「二年になってから一枚も撮ってない」 「じゃあ何してるの」 「フィルムを持ってる」 「持ってるだけ?」 「持ってるだけだ」 桜井が声を出して笑った。屋上で笑うと、音がフェンスのほうへ抜けていく。 「なんで撮らないの」 「現像代が高い」 「そこ?」 「そこだよ。フィルム一本で千円ちょっと飛ぶ」 「もっとこう、深い理由があると思った」 「深い理由で写真をやめるやつは、たぶん最初から上手い」 桜井は段に座り直して、俺の分の段を空けた。空け方が自然だったので、自然に座った。座ってから、四十五分のうち二十分が過ぎているのに気づいた。 「一年のときは撮ってたの」 「少しだけ」 「何を」 「グラウンドとか」 言ってから、話をそっちに寄せたのは自分だと気づいた。寄せておいて、続きは言わない。 「見せてよ」 「現像してない」 「持ってるだけ?」 「持ってるだけだ」 二回目の「持ってるだけ」で、桜井はまた笑った。 屋上で昼を食べる人。写真部。 条件が二つ並ぶと、だいぶ絞られる。写真部は五人いて、三人は名前しか知らない。そのうちの誰かが屋上派だという話は聞いたことがないが、聞いたことがないだけかもしれない。 「桜井」 「なに」 「写真部の他の四人って、知ってる?」 「知らない」 「知らないのか」 「なんで私が知ってなきゃいけないの」 「いや、本番の相手だろ」 桜井は紙を持つ手を止めて、しばらく俺の顔を見ていた。まばたきをしないで見るので、こっちが落ち着かない。 「相良くん」 「はい」 「たまにすごいこと言うね」 「褒めてないだろ、それ」 「褒めてない」 「相良くん、部にいる意味ある?」 「ない」 「即答」 「毎年、名簿だけ書いて出してる」 桜井は俺の顔を見て、少し考える顔をした。それから紙をたたんで、俺の膝の上に置いた。今日の分だ。 「これも持ってて」 「もう三枚あるんだけど」 「え、取ってあるの」 「捨てるのが面倒で」 桜井が段の上で、少しだけこっちに寄った。距離が拳ひとつ分になった。月曜と同じ幅だ。 「捨てないでね」 「なんで」 「増えていくのが見たいから」 予鈴が鳴った。桜井は立ち上がりながら、思い出したように振り返る。 「相良くん」 「はい」 「今日の台詞、写真部の人に言ったやつだから」 「俺は幽霊だって言っただろ」 桜井は鉄の扉に手をかけて、こっちを向いた。 「幽霊でも、部員は部員」 第6話 傘の話 六月十五日、月曜日。朝から雨だった。 昼休みに四階へ上がると、鉄の扉の前に紙が貼ってあった。「本日、屋上は開放しません 岩下」。字が太い。 扉の手前の踊り場は、一畳あるかないかだ。左は壁、右は手すり。人が二人立つと、それでもう埋まる。 「開かないね」 桜井が階段を上がってきて、俺の隣に並んだ。並ぶ以外の立ち方がない。 「雨の日は開かない。四月に一度食らった」 「聞いてないんだけど」 「岩下先生は貼るだけで何も言わないからな」 桜井は濡れた前髪を指で分けた。傘を持っていない。 「傘は」 「忘れた」 「朝から降ってたぞ」 「朝は、他のこと考えてた」 みおが階段の下から声を出した。上がってこない。踊り場が埋まっているからだ。 「そこでやって。私、下で聞いてる」 「聞かなくていいよ」 「聞くのが仕事」 桜井がポケットから紙を出した。雨の日用に差し替えたやつらしい。角ばった字が、湿気で少しにじんでいる。 「いくよ」 「どうぞ」 俺は壁を背にして立った。桜井は手すりを背にして立った。三十センチくらいしかない。 「傘、持ってますか。持ってても、持ってなくても、一緒に帰りたいです」 声が近い。近いところで止まった声は、屋上のときより輪郭がはっきりしている。 「短いな」 「雨の日は短くしろってみおが」 「なんで」 「立ち話は三十秒までって。人が通るから」 「もう一回」 「まだやるのか」 「三回はやるって決めてるの」 二回目は、少し早口だった。三回目で、桜井は「一緒に帰りたいです」のところだけ言い直した。二回言い直した。 階段の下から声が飛んでくる。 「ひなた、語尾。上げない」 「上げてない」 「上げてる。傘の話が疑問文になってる」 「みお、うるさい」 「私、演出だから」 演出がいる告白というものを、俺はこの一週間で初めて知った。 「相良くん、感想は」 「壁が硬い」 「感想が壁のこと?」 「背中が痛いんだよ、ずっと壁だから」 桜井が手すりから体を起こして、半歩こっちに寄った。壁と桜井の間に俺が挟まった形になる。 「じゃあ壁じゃないほうを向いて」 「向いたら顔しかないんだが」 「顔でいいよ」 人が通る、という言葉が出た二秒後に、人が通った。 階段を上がってきたのは一年の女子二人組だった。四階の東端に何の用があるのかは知らない。たぶん何の用もない。用がないから来る場所だ。ここは。 二人は俺たちを見て、足を止めて、それから急に何も見ていない顔で通り過ぎようとした。通り過ぎるには踊り場が狭すぎるので、結局その場で止まった。 「あ、すみません」 「いや」 「あの、通ります」 「どうぞ」 俺は壁にさらに寄った。桜井も手すりに寄った。寄った結果、俺と桜井の距離が十センチくらいになった。 一年の二人は、その十センチをはっきり見てから、階段を下りていった。下りながら、下で何か言っている。声は聞こえないが、間の取り方でわかる。 「今の、まずいんじゃないか」 「何が」 「見られた」 桜井は手すりに肘を乗せて、階段の下を見ていた。表情が読めない角度だった。返事は返ってこなかった。 「明日、噂になるぞ」 「なるかな」 「なる。この学校、そういうの速い」 「相良くんのクラスも、そういうの速い?」 噂の速度の話をしていたはずが、いつのまにかクラスの話になっている。 「相良くんは、困る?」 「困るというか」 「というか」 「練習に支障が出るだろ」 桜井が肘を乗せたまま、こっちだけ見た。俺は続けた。 「本番の相手が誤解したらどうする」 「そうだね。どうしよう」 どうしよう、の言い方が軽かった。軽すぎて、こっちが真面目に心配しているのが馬鹿みたいになる。 階段の下からみおの声が飛んできた。 「今の間、四秒。長すぎ」 「聞いてたのか」 「聞くのが仕事だって言ったでしょ」 予鈴が鳴った。桜井は紙をたたんで、俺の手に押しつけた。もう受け取るのが手順になっている。 「返事、まだもらってない」 「考えさせて」 「はい、今日も却下」 階段を下りきったところで、さっきの一年の二人が待っていた。待っていた、という言い方が正確かはわからないが、明らかに動いていなかった。 片方が、桜井に向かって口を開いた。 「あの、桜井先輩」 「はい」 「その人と、付き合ってるんですか」 第7話 否定しない人 桜井は、あのとき何も言わなかった。 一年の質問に対して、笑って、首をかしげて、「どうだろうね」と言った。それだけ言って、階段を下りていった。 俺は「違う」と言おうとして、言うタイミングを逃した。逃したまま一晩たった。 六月十六日、火曜日。雨は上がっている。 朝の教室で、後ろの席のやつに肩を叩かれた。 「相良、二組の桜井と付き合ってんの」 「付き合ってない」 「昨日、四階でくっついてたって」 「くっついてない。踊り場が狭いんだ」 「踊り場が狭いから顔が近いって、それ、言い訳の型だろ」 型だった。 一時間目までに三人に聞かれた。二時間目までに五人になった。三時間目、廊下ですれ違った一年の女子が二人でこっちを見て、見たあとで顔を寄せた。 俺の名前が二組まで届いているのに、俺自身は二組に一度も行ったことがない。 四時間目のあと、廊下で野田に捕まった。手にパンを二つ持っている。片方は俺のじゃないだろうな。 「相良、聞いたぞ」 「聞くな」 「四階の踊り場で、桜井と、雨宿り」 「雨宿りじゃない。練習だ」 「その説明、誰が信じるんだ」 「桜井が説明すれば信じる」 「説明したのか」 「してない」 野田はパンを一つ俺に押しつけた。俺のだった。 「本人が否定してないなら、それは噂じゃなくて事実の扱いになるぞ」 「事実じゃない」 「学校ではな、否定されなかったものが事実になるんだよ」 こいつは時々、教師より正確なことを言う。 昼休み、屋上へ上がった。 桜井はもう来ていて、給水塔の陰の段に座っていた。今日は腕章をしていない。 「はい、今日の」 「その前に」 「なに」 俺は紙を受け取らなかった。桜井の手が、少しの間、空中で止まった。 「昨日のあれ、なんで否定しなかったんだ」 「あれって」 「一年の子に聞かれたやつ。付き合ってるんですかって」 「ああ」 桜井は差し出した紙を膝に戻した。戻し方が丁寧だった。 「言ったよ。どうだろうねって」 「それは否定じゃない」 桜井は膝の紙の角をそろえていた。そろえ終わっても顔を上げなかった。 「じゃあ、なんで」 風が来た。給水塔の影が、少しだけ形を変える。 「相良くん、困ってる?」 「困ってる」 「そっか」 「そっかじゃない」 自分の声が思ったより固くなったのがわかった。わかったが、戻せなかった。 「俺は聞くだけの係だろ。台詞を聞いて、考えさせてって言う係だ。それは別にいい。時間もあるし、昼休みは暇だし」 「うん」 「でも、噂になるのは練習の外だ。外まで巻き込むなら、先に言ってくれ」 「うん」 「うん、じゃなくて」 桜井は膝の紙を、指で二回、まっすぐに直した。 「本番の相手が、聞いたらどうする」 俺は言った。言ってから、自分でも変な理屈だと思った。心配してやる筋合いもない。 「その人が、桜井と俺の噂を聞いて、それで、練習してるって知らないままだったら。困るのは桜井だろ」 「相良くんは、その人に困ってほしいの、ほしくないの」 「否定しろって言ってるだけだ」 桜井はしばらく黙って、フェンスのほうを見ていた。グラウンドには水たまりが残っていて、一年が体育をやめてマラソンをさせられている。 「じゃあ、今日の台詞」 「話をそらすな」 「今の、続きに聞こえなかった?」 桜井が立ち上がって、二歩下がった。いつもの位置だ。紙は見ないで、覚えている台詞を言った。 「いつも同じところに座ってますよね。給水塔の陰の、あの段。ずっと見てました」 俺は今、その段に座っている。 どう受け取ればいいのかわからなくて、俺は段の縁を手のひらでこすった。ざらざらしていた。 「これ、その人も同じ場所に座るってことか」 「相良くんは、そう思う?」 「思うも何も」 「じゃあ、そういうことでいい」 いいのか。よくない気もする。 「返事は」 「考えさせて」 「はい」 桜井は紙をたたんで、俺の膝の上に置いた。今日で六枚目だ。 置いてから、立ち去らずにその場にいた。俺の座っている段の、手が届く距離に。 「さっきの質問だけど」 「どれ」 「なんで否定しなかったかって話」 俺は顔を上げた。桜井は俺を見ていた。目をそらさない人だ、この人は。 「否定すると、練習にならないから」 第8話 暗室にあったもの 昨日の答えは、一晩考えてもほどけなかった。 否定すると練習にならない。理屈としては通る。通るのに、通ったあとに何も残らない。 水曜の朝の教室で、黒板の隅の日付が十七日になっているのを、意味もなく二回見た。 昼休みの屋上で、桜井はいつもどおりだった。 「はい、今日の」 「どうも」 「知らないと思ってるでしょうけど、私はけっこう前から知ってます」 短い台詞だった。今日は二歩下がらずに、俺の座っている段の隣に立ったまま言った。 「今日は短いな」 「短い日もあるの」 「みおさんの手抜きか」 「本人に言ってあげて。喜ぶから」 俺は紙をたたんで筆箱に入れた。七枚目。もうシャーペンは一本しか入らない。 「相良くん、それ、ファスナー閉まってないよ」 「閉めないほうが出し入れが速い」 「言い訳、上手になったね」 桜井は俺の手から筆箱を取って、耳の横で振った。中で紙がこすれる音がする。 「音、変わった」 「何と比べてるんだ」 「月曜と」 「毎日振ってるのか、それ」 「振ってる」 人の筆箱を毎日振る係が、この練習にはいたらしい。 「けっこう前って、どのくらい前なんだ」 「さあ」 「台詞を書いた側だろ」 「書いたのはみおだもん」 都合が悪くなると台本係のせいにする。うまい制度だ。 「返事は」 「考えさせて」 「早い」 「そこは褒めるところじゃないだろ」 放課後、旧校舎の一階の突き当たりに行った。 部室の電気がついていて、隣の暗室のドアが半分開いていた。開いている時点で暗室として機能していない。 「野田、ドア開いてるぞ」 「現像してないんだから暗室じゃない。ただの窓のない部屋だ」 中では野田が、床に段ボール箱を三つ並べて、中身を出していた。埃の匂いがする。 「顧問に言われた。押し入れの箱、全部見て、いらないやつは捨てろって」 「幽霊部員に頼む仕事じゃないだろ」 「十年分ある。手伝え」 俺は結局、隣にしゃがんだ。しゃがんだ時点で負けだと思う。 箱の中身はほとんど印画紙の焼き損じだった。ピントの合っていない校門、逆光の卒業式、真っ黒な何か。 二箱目の途中から、体育祭の袋が出てきた。年度が油性ペンで書いてある。 「これ、去年のだ」 「見るなよ」 「見るだろ」 野田は袋を逆さにした。写真が十数枚、床に散った。 騎馬戦、綱引き、テントの下で寝ている先生。どれも構図が雑で、誰かのついでに撮られている。 そのうちの一枚で、野田の手が止まった。 「相良」 「なんだ」 野田は写真を裏返して、それからまた表に返した。返す動作が二回あった。 「これ、お前だろ」 差し出された一枚を見た。 グラウンドの端。テントの外。体操着の男が、誰かの肩に腕を回されて、半分足を引きずって歩いている。顔は下を向いていて、髪が汗で額に貼りついている。 その男を支えているのは、女子だった。片手で腕を持って、もう片方の手を腰に回して、前を見ている。前しか見ていない。 髪型が今より短い。それでも、誰かはわかる。 「桜井だな」 「うん」 俺は写真を受け取った。指の力が入りすぎて、端が少し曲がった。曲がったので、力を抜いた。 「一年の体育祭、お前、途中でいなくなったよな」 「二百メートルのあと、倒れた」 「聞いてないぞ」 「言ってない」 野田は座り込んだまま、俺の手元を見ている。 「保健室まで連れてったの、桜井だったのか」 「そうだ」 「礼は」 「言ってない」 「一年以上?」 「一年以上」 言葉にすると、間抜けな長さだった。 「なんで言わないんだ」 「向こうが覚えてないと思ってたから」 「思ってた、って」 「思ってる。今も」 野田は床の写真を一枚ずつ集めて、袋に戻していった。戻しながら、手を止めずに言った。 「毎日屋上で告白の練習をしてる相手が、一年のときお前を保健室まで運んだ女子だってことは」 「偶然だろ」 「偶然」 「偶然だ」 野田は袋の口を折って、俺の手にある一枚だけを指さした。 「お前、これ、知ってたのか」 第9話 一年のとき 六月十八日、木曜日。 写真は、筆箱と同じポケットに入れて持ち歩いていた。持ち歩く理由はない。置いていく理由もなかった。 昼休み、屋上。桜井は今日も先に来ていた。最近は俺のほうが後になる。四階まで駆け上がる速度が上がっているのは、たぶん気のせいだ。 「はい、今日の」 「どうも」 紙を受け取る。角ばった字。八枚目。 桜井は二歩下がって、いつもの位置に立った。ここからは手順どおりだ。息を吸う音が聞こえて、それから始まる。 「一年のとき、私が助けた人がいます。その人のことが、ずっと好きです」 俺は段に座ったまま、右手を動かさなかった。 持っていたパンの袋が、指の中でつぶれる音を立てた。 「相良くん?」 「……ああ」 「顔、こわいけど」 「元からだ」 桜井は近づいてこなかった。二歩ぶんの距離のまま、俺の返事を待っている。 俺は返事の前に、余計なことを聞いた。 「助けたって、何をしたんだ」 「台詞にはそれ以上書いてない」 「書いてないってことは、そういうことがあったってことだろ」 「あったかもしれないし、みおが盛ったのかもしれない」 台本係のせいにする制度が、今日は少しだけ薄く聞こえた。 「一年のときって、いつだ」 「何月かまで書いてないでしょ」 「書いてなくても覚えてるだろ」 「相良くん、今日は質問が多い」 多い自覚はあった。多くなるのを止められないのが問題だった。 ポケットの中の写真の角が、指に当たっている。 「その人は、助けられたこと、覚えてるのかな」 俺は自分でも意味のわからないことを聞いた。 桜井はしばらく黙って、それから給水塔の壁に背中を預けた。 「覚えてないと思う」 「なんで」 「あのとき、あの人、たぶん半分寝てたから」 寝ていた。 あれは寝ていたのではなくて、意識がなかったのだが、外から見ればそう見えるのかもしれない。 「じゃあ、伝わってないな」 桜井は給水塔の壁に頭の後ろをつけて、空のほうを見た。しばらくそのままだった。 「言えばいいだろ」 「言うために練習してる」 まっすぐ返ってきた。まっすぐすぎて、こっちの言葉が足りなくなった。 「その人、なんで気づかないんだろうな」 「鈍いから」 「即答だな」 「一年ちょっと、鈍いままだから」 「一年ちょっとって」 「たとえばの話」 たとえばの話にしては、期間が具体的すぎた。 「桜井は、その人のどこがいいんだ」 「今それ聞く?」 「参考までに」 「また名簿を作る気でしょ」 「作らない」 桜井は給水塔の壁から背中を離して、フェンスのほうへ歩いた。歩きながら答えたので、声が半分風に持っていかれた。 「困った顔をするところ」 「それ、長所か」 「長所じゃないよ。好きなだけ」 俺は段の縁を手のひらでこすった。ざらざらしていた。一昨日も同じことをした気がする。 「返事は」 「考えさせて」 「今の、いちばん遅かった」 「時計でも見てるのか」 「みおに言われてるの。相良くんの返事が遅くなったら記録しろって」 この練習には、俺の知らない評価軸が三つくらいありそうだ。 予鈴が鳴って、桜井は先に階段を下りていった。腕章を教室に忘れたらしい。 俺は段に座ったまま、しばらく動かなかった。動かないでいると、屋上は本当に音がない。 放課後、部室に行った。野田が丸椅子でスマホをいじっている。段ボール箱はもうない。 「捨てたのか」 「顧問が持って帰った。十年分、家で見るって言ってた。あの人も暇だな」 「あの写真は」 「お前が持ってるだろ」 俺はポケットから写真を出して、机に置いた。置いてから、指で少しだけ動かして、野田のほうに向けた。 「今日の台詞、聞くか」 「聞く」 「一年のとき、私が助けた人がいます。その人のことが、ずっと好きです」 野田はスマホを伏せた。伏せてから、写真を見て、また俺を見た。 「昨日も同じこと言ったよな、俺」 「言った」 「もう一回言うか」 「言うな」 言うなと言ったのに、野田は言わなかった。言わないで、こっちが言うのを待っていた。 俺は丸椅子の背に体重をかけた。背もたれが少し鳴る。 「野田」 「なんだ」 「本番の相手、俺じゃないよな」 第10話 今日は私が 野田の答えは「知らん。本人に聞け」だった。 いちばん無責任で、いちばん正しい答えだ。 六月十九日、金曜日。 昼休みの屋上に、桜井は来なかった。 十二時三十五分を過ぎて、四十分を過ぎて、四十五分になった。給水塔の陰の段は、片側だけ空いている。空いている、と思ってしまったのがまず良くない。二週間前まで、この段は全部俺のものだった。 パンを食べ終わって、袋をたたんで、ポケットに入れた。 やることがなくなった。四十五分は、何もしないとかなり長い。 鉄の扉が鳴ったのは、一時を回ってからだった。 「遅れました」 上がってきたのはみおだった。クリップボードを持っている。持ち方はいつもどおり慣れている。 「桜井は」 「今日は来ない」 「休み?」 「学校にはいる。委員会の仕事が入った」 みおは俺の向かいに立って、クリップボードを胸の前に構えた。 「というわけで、今日は私が相手」 「相手って」 「告白するほう。ひなたの代役」 「代役を立てる種類の行事なのか、これは」 「休むと感覚が鈍るでしょ。ピアノと同じ」 「告白はピアノじゃないだろ」 「似たようなものだよ。指が覚えるまでやるの」 みおは咳払いを一つした。それから、紙も見ずに言った。 「私、あなたのことが好きです。以上」 「以上って何だ」 「以上は以上でしょ」 「今の、台詞の五分の一もないだろ」 「アドリブだから」 台本係のアドリブがいちばん雑だった。 「相良くん、返事」 「考えさせて」 「はい却下。今の返事、いちばん適当だった」 「適当な告白に真剣な返事をするやつはいない」 みおはクリップボードを下ろして、段に腰かけた。桜井が座る側ではなく、俺の正面のコンクリートに、そのまま座った。スカートが汚れるとかは気にしないらしい。 「相良くん、今日ずっとそこ見てるよね」 「どこ」 「そっち。誰も座ってないほう」 「見てない」 「見てた。私が来る前から見てた」 この人は本当に記録係だ。 「みおさん」 「何」 「ひとつ聞いていいか」 「答えるとは言わない」 「毎回それだな」 俺は膝の上で手を組んだ。組んでから、聞き方を三回変えて、いちばん短いのにした。 「桜井は、本番でうまくやれそうなのか」 「意外な質問」 「そうか」 「うん。自分のこと聞くと思ってた」 みおはクリップボードのクリップをかちかち鳴らした。この人の癖だ。 「正直に言うとね。あの子、下手だよ」 「知ってる」 「初日、棒読みだったでしょ」 「献立を読んでる人の声だった」 「それ、本人にも言ったんでしょ。帰ってきて三十分怒ってた」 三十分は長い。 「でも、あの子が下手なのは、練習が足りないからじゃないの」 「じゃあ何が足りないんだ」 「足りないんじゃなくて、多すぎるの」 みおは屋上の乾いたコンクリートを、指で一度だけ叩いた。 「言いたいことが多すぎて、詰めると全部こぼれる。だから私が削って書いてる。毎日ちょっとずつ足してるのは、一度に全部言えないからだよ」 毎日ちょっとずつ足している。 屋上。写真部。一年のとき。 俺は紙を八枚、筆箱に溜めている人間として、その足し算をちゃんと見てきたはずだった。見てきたのに、足した先に何があるかを考えたことがなかった。 「みおさん」 「なに」 「本番の相手って、屋上に来たことある人か」 「答えない」 「写真部か」 「答えない」 「一年のときに体育祭に出てた人か」 みおはしばらく黙って、それから立ち上がった。スカートの埃を、桜井と同じ手つきで払う。友達というのはこういうところが移る。 「相良くん」 「はい」 「今日、ひなたが来なかった理由、委員会って言ったよね」 「言った」 「半分は本当」 予鈴が鳴った。みおはクリップボードを小脇に抱えて、鉄の扉のほうへ歩いていく。扉の手前で足を止めて、こっちを向かないまま言った。 「あの子、本気で緊張してるの。本番が近いから」 第11話 保健室まで 六月二十二日、月曜日。 土日をはさむと、噂は半分くらい小さくなっていた。学校の噂は生ものだ。 昼休み、屋上。桜井は給水塔の陰に立って待っていた。座らずに立っていた。 「金曜、ごめん」 「委員会だろ」 「みお、余計なこと言わなかった?」 「言ってない」 嘘ではない。答えない、しか言われていない。 「はい、今日の」 紙を受け取った。九枚目。角ばった字が、今日は少し大きい。 桜井は二歩下がらなかった。俺の座っている段の、すぐ前に立ったままだった。 「一年の体育祭で、その人を保健室まで運びました。あのときから、ずっとです」 風が来なかった。来ないときは本当に来ない。 俺はパンを段の上に置いた。置いてから、両手を膝に乗せた。乗せる場所がなかったからだ。 「桜井」 「なに」 「一年の体育祭で、二百メートルのあとに倒れたやつがいた」 桜井の指が、スカートの横で一度だけ動いた。 「そいつ、女子に肩を借りて保健室まで歩いた。昇降口の横の保健室だ。冷たいタオルを首に当てられて、二十分くらい寝てた」 「相良くん」 「そのあいだ、その女子はずっと横にいた。そいつはそれを、半分だけ覚えてる」 言い終わってから、自分の声が思ったより低かったのがわかった。 桜井は動かなかった。 「なんで、今それを言うの」 「今日の台詞に、保健室が出てきたから」 「偶然かもしれないよ」 「偶然かもしれない」 偶然だと思っていた。三日前まで思っていた。思っていたことにしておいたほうが楽だった。 「桜井」 「うん」 「あのとき運んでくれたの、桜井だよな」 桜井は答えなかった。答えないまま、俺の隣に座った。拳ひとつ分の距離だ。この距離だけは初日から変わらない。 「なんで今まで言わなかったの」 「覚えてないと思ってた」 「私が?」 「うん。人を一人運んだくらいで、一年以上覚えてる人はいないだろ」 桜井が笑った。笑い方が短かった。 「相良くん」 「はい」 「覚えてるよ」 俺は前を向いていた。フェンスと、その向こうのグラウンドと、白い空を見ていた。全部さっきから同じ場所にある。 「重かったよ、すごく」 「悪かったな」 「あと、汗くさかった」 「そこは言わなくていい」 「言う。一年ぶんためてたから」 桜井は指を折りながら続けた。 「保健室、先生がいなかった。放送で呼んでもらって、来るまで八分かかった」 「八分」 「数えてたの。他にやることがなかったから」 「悪かったな」 「二回目。それ」 俺は謝る以外のことを考えた。考えても出てこなかった。 「名前、知らなかったでしょ」 「知らなかった」 「私も知らなかったよ、そのとき」 「じゃあ、どうやって」 「上履きに書いてあった」 上履き。あの日から今日まで、俺の名前は上履きから始まっていたことになる。 「そのあと、廊下で何回かすれ違ったよ」 「気づかなかった」 「気づいてなかったね」 一年ぶん。俺も一年ぶん、礼を言わないでためていた。 「ありがとう」 言ってしまうと、五文字だった。一年以上かけて五文字だ。 「遅い」 「遅い」 「でも、聞こえた」 桜井は膝を抱えて、そこに顎を乗せた。乗せたまま、しばらく何も言わなかった。俺も言わなかった。予鈴まではまだ十分あった。 「あのさ」 「うん」 「その人も、そういう感じだったのか」 「その人?」 「本番の相手。運ばれたほうの人」 桜井が顔を上げた。上げて、俺を見て、それからまた膝に顎を戻した。 「返事、まだもらってないよ」 「考えさせて」 「はい」 いつもと同じ二言だった。同じなのに、今日は言い終わるまでに間があった。 「相良くんって」 「なんだ」 「たまに、本当にすごいね」 「今日も褒めてないだろ」 「褒めてない」 俺は膝の上の紙をたたんで、筆箱に入れた。九枚目が入りきらなくて、シャーペンを一本抜いた。抜いたシャーペンは制服のポケットに入れた。 「明日の台詞は」 俺が聞くと、桜井は膝を抱えたまま、少しだけ首を横に振った。 「今日ので、だいたい全部言った」 「全部?」 「あと残ってるのは、名前だけ」 名前。誰の名前かは聞かなかった。聞けなかった、が正しいかもしれない。 予鈴が鳴った。桜井は立ち上がって、スカートの埃を払って、それから俺のほうを見ないで言った。 「……台詞、今日はここまで」 第12話 台本の中身 屋上に上がると、いたのはみおだった。曇っていて、コンクリートに影がない。 「ひなたは委員会。十分遅れる」 「また代役か」 「今日は代役じゃない。渡すだけ」 みおが紙を差し出した。受け取って、開いた。開いてから、開いていいのか迷った。今日は誰も止めなかった。 書いてあったのは、昨日と同じ文だった。一字一句同じ。 紙だけが新しい。折り目がついていない。右上に六月二十三日と鉛筆で入っている。日付だけが昨日と違う。 「これ、昨日のと同じだけど」 「そう」 「進まないのか」 「進まないんじゃなくて、止めたの」 みおはコンクリートに腰を下ろした。この人はどこにでも座る。 「昨日、何かあったでしょ」 「何も」 「あの子、帰りに一言もしゃべらなかったんだけど」 「それは俺のせいじゃない」 「相良くんのせいじゃなかったら誰のせいなの」 俺は段に座った。今日は自分の側に座った。 「みおさん」 「なに」 「今日は答えるのか」 「気分による」 紙をもう一度見た。角ばった字。線の終わりが跳ねている。 「この台詞、誰が考えてる」 「私が書いてる」 「書いてるのは知ってる。考えてるのは誰だ」 みおはクリップボードを膝に置いて、クリップをかちかち鳴らした。二回鳴らして、やめた。 「私が書いてるのは、字だけ」 「字だけ」 「ひなたが言ったことを、そのまま短くしてる。増やしてない」 俺は紙の端を指で押さえた。押さえたまま、しばらく何も言えなかった。 「じゃあ、屋上でお昼を食べてる人、っていうのは」 「ひなたの言葉」 「写真部っていうのは」 「ひなたの言葉」 「一年のとき助けた人、も」 「全部ひなたの言葉。私は『ずっとずっとずっと』を一個に減らしただけ」 三つを一つに減らされた「ずっと」が、これまでの紙のどこかに入っている。 「あのさ」 「うん」 「それって、練習じゃないだろ」 自分の声が、思ったより大きく屋上に出た。フェンスまで行って、返ってこない。 「毎日、本当のことを言ってるってことだろ。台詞じゃなくて」 「そうだね」 「他人事みたいに言うな」 「否定してほしかった?」 してほしかった。たぶん。してもらったところで、九枚の紙はもう筆箱の中にある。 俺は立ち上がって、フェンスのほうへ二歩歩いて、また戻った。行き場のない二歩だった。 「みおさん、最初から知ってて書いてたんだよな」 「何を」 「俺が、毎日それを聞かされてるってことを」 「知ってた」 「性格が悪い」 「よく言われる」 みおは悪びれる様子もなく、クリップボードの紙をめくった。めくった先に何が書いてあるのかは見えない。 「一応言っとくけど、私が書き始めたのは四日目からだからね」 「三日目までは」 「ひなたが自分で書いてた。三日で力尽きた」 「力尽きるほどのものか、あれは」 「あの子、一枚書くのに二時間かけてたよ」 二時間。俺が四十五分で聞き流していたものの原価だった。 「じゃあ、本番って何なんだ。もう毎日言ってるじゃないか」 「言ってない」 「言ってるだろ」 「言ってるのは台詞。本番で言うのは、台詞じゃないの」 俺は紙をもう一度見た。昨日と同じ一行目が、今日は違う紙に載っている。 「毎日、俺に向かって言ってるじゃないか」 「毎日言ってるのは、相良くんに向かってじゃないでしょ」 「向かってるだろ、物理的には」 「相良くん、物理的にって言葉、初めて使ったでしょ」 みおは立ち上がって、スカートの埃を払った。 「練習って、言葉を覚えることじゃないんだよ。あの子、言葉はもう全部持ってる。三週間ぶん持ってる」 「じゃあ何が足りないんだ」 鉄の扉が鳴った。桜井が上がってくる音だ。階段を二段ずつ上がる人の足音は特徴がある。 みおは扉のほうを見ないで、俺のほうを見た。 「あの子に足りないのは、言葉じゃないほう」 足音が近づいてくる。あと五段くらいだ。 「みおさん」 「なに」 「本当のことを言ってるなら、それはもう練習じゃない」 みおはクリップボードを胸の前に構え直した。構えると、この人はいつもの顔になる。 「練習だよ。本番で言えるようになるための」 第13話 十枚と、一枚 六月が終わって、七月になった。 台詞は、あれから一度も進まなかった。紙も、二十三日を最後に渡されていない。それでも桜井は毎日屋上に来て、保健室の文をそのまま言った。俺は毎日「考えさせて」と言った。 文化祭の準備で校舎じゅうが騒がしくなって、屋上だけが静かなままだった。 七月二日、木曜日。放課後の部室。 「相良、お前、最近ずっと変な顔してるぞ」 野田が丸椅子を回しながら言った。回す音がうるさい。 「元からだ」 「元からだけど、今のは元からじゃないほうの変さだ」 俺は鞄から筆箱を出した。ファスナーが最後まで閉まらなくなって久しい。 中身を机に出した。消しゴムがひとつ、それから折りたたんだ紙が十枚。 「なんだそれ」 「台詞。今までもらった分」 「取ってあるのか」 「捨てる理由がなかった」 野田は椅子を止めて、机に身を乗り出した。 「並べろ」 「なんで」 「いいから並べろ」 俺は日付順に並べた。並べるうちに手が遅くなった。並べたくない気持ちが、指のほうにだけ出た。 野田は一枚ずつ声に出して読んだ。読むのが下手だった。桜井の初日と同じくらい下手だった。 「一枚目。ずっと前から気になってました」 「二枚目。屋上でお昼を食べてるの、知ってます」 「三枚目。話したことはほとんどないけど、目で追ってました」 「四枚目。写真部だって聞きました」 野田はそこで顔を上げた。 「相良」 「読め」 「読むけどな」 「五枚目。傘の話。飛ばす」 「六枚目。給水塔の陰の、あの段」 「七枚目。私はけっこう前から知ってます」 「八枚目。一年のとき、私が助けた人がいます」 「九枚目。一年の体育祭で、その人を保健室まで運びました」 「十枚目。……九枚目と同じだ。字だけ新しい」 十枚が机の上に並んでいる。並べると、一枚ずつ読んでいたときとまるで違うものになった。 野田は自分のポケットから、もう一枚出して、十枚の横に置いた。 体育祭の写真だった。俺が渡したまま、こいつが持っていたらしい。 「屋上」 野田が二枚目を指さす。 「写真部」 四枚目。 「体育祭」 八枚目。 「保健室」 九枚目。 最後に、写真を指さした。 「全部お前だ」 俺は机の縁を持った。持つ場所が必要だった。 「屋上に来るやつは俺しかいない。写真部の幽霊部員は二人で、もう一人は俺だ。一年の体育祭で保健室に運ばれたのはお前だ。全部並べて、当てはまるやつが一人しかいない」 「野田」 「なんだ」 「三週間前に、お前、同じことを言ったよな」 「言った。二回言った。三回目だ」 三回言われて、俺はまだ机の縁を持っている。 「なんで信じなかったんだ」 「信じたら、外れたときが最悪だからだ」 言ってから、これが理由の全部だと気づいた。屋上派の名簿を作ったのも、写真部の四人を数えたのも、全部そのためだった。 「相良」 「なんだ」 「外れたときが最悪なのは、当たってても言わないときも同じだぞ」 こいつは時々、教師より正確なことを言う。 俺は紙を一枚ずつ集めて、日付順のまま重ねた。十枚は思ったより厚みがなかった。三週間ぶんで、指二本ぶんもない。 「野田」 「なんだ」 「たぶん、俺だ」 「たぶんじゃないだろ」 「俺だ」 言った。言ったら、椅子に座り直すことしかできなくなった。 「じゃあ、明日言えよ」 「明日は練習の日だ」 「練習の日に本当のことを言ったら、誰か怒るのか」 「桜井が困る」 「困らせろよ。お前は三週間困らされてたんだぞ」 言われてみればそうだった。言われてみるまで気づかなかったのが情けない。 「野田」 「なんだ」 「向こうが練習してるのに、こっちが先に言ったら、台無しにならないか」 「その気の使い方、たぶん一年ちょっとやってるだろ」 「一年ちょっと」 「保健室から今日までだ」 こいつは机の上の紙を全部数え終わったあとで、いちばん長い数字を出してくる。 野田は写真を俺のほうへ押した。押してから、丸椅子を回すのを再開した。うるさい。 「で、どうすんだ」 「わからない」 「わからないって、時間あるのか」 練習は本番の前の日まで。本番は七月四日の夜。 俺は鞄からスマホを出して、日付を見た。 七月二日。 第14話 九時まで 朝から校舎の外に足場が組まれて、二年二組が看板を吊るしていた。廊下は段ボールと絵の具の匂いでいっぱいで、屋上へ上がる階段だけが誰も通らない。 看板には七月四日と五日の日付が入っている。金曜の今日は、その前の日だ。練習の最終日でもある。 十二時三十五分。桜井は給水塔の陰にいた。手ぶらだった。 「紙は」 「今日はない」 「最終日なのに」 「最終日だからない」 桜井はスカートのポケットから、折りたたんだ紙を一枚だけ出した。出してから、広げて、こっちに向けた。 白紙だった。 「なんだこれ」 「今日の台詞」 「白いんだけど」 「白いの」 俺は紙を受け取った。九枚ぶりに、みおの字がない。 「みおさんに怒られないか」 「みおが白紙にしろって言ったの」 「あの人、演出家気取りが本格化してるな」 「本人に言ってあげて。喜ぶから」 二週間前と同じ返しだった。同じ返しをされると、時間が経ったことがわかる。 桜井は段に座らなかった。立ったまま、俺の座っている段の前に来て、そこで止まった。二歩ぶんの距離ではなかった。 「相良くん」 「はい」 「明日、前夜祭」 「知ってる。実行委員が三週間言い続けてた」 「屋上に来て。夜の七時」 俺は白紙を持ったまま、桜井の顔を見た。 「屋上、夜は開かないだろ」 「開けてもらう」 「岩下先生が?」 「頼んだ」 頼んだ、の一言で終わらせるには、あの担任は面倒な部類だ。どういう頼み方をしたのか聞きたかったが、聞くと話が横に逸れる。 「本番、そこでやるのか」 「うん」 「俺は」 「来て」 三週間、俺は聞くだけの係だった。係のまま最後まで行くつもりだった。 「見てろってことか」 「相良くん」 「なんだ」 「今日はまだ練習だから、そういうことにしといて」 そういうこと、が何を指すのかは言わなかった。 桜井は白紙のほうを指さした。 「返事、して」 「台詞がないのに?」 「白紙にも返事はいるの」 俺は口の中で一度、言葉を組み立てた。 昨日、野田に「明日言え」と言われた。言うつもりで階段を上がってきた。上がってきて、白紙を渡されて、組み立てたやつは口から出るときに全部こぼれた。 「桜井」 「うん」 「ひとつだけ聞いていいか」 「どうぞ」 「明日の本番の相手、屋上に来るのか」 「来る」 「もう決まってるのか」 「決まってる。三週間前から」 三週間前。俺が段の上でおにぎりを飲み込んでいた日だ。 「相良くん、それで、返事は」 「まだ聞いてない」 「白紙だからね」 「白紙に返事をしろって言ったのは桜井だぞ」 「言った」 桜井が白紙の端に指をかけた。指の先が少し震えていた。引っ込めた。引っ込めるのが遅かった。 「考えさせて」 「はい」 桜井は笑った。三週間で、この笑い方だけが変わっていない。 「それ、明日までね」 「何が」 「その返事が使えるの、今日まで」 予鈴が鳴った。桜井は階段を二段ずつ下りていった。足音が四階から三階へ落ちていって、聞こえなくなった。 俺は白紙を筆箱に入れた。十一枚目でファスナーが完全に閉まらなくなった。 放課後、職員室の前を通ったら、岩下に呼び止められた。 「相良」 「はい」 「明日、前夜祭だな」 「はい」 岩下は職員室に入って、鍵の束を持って出てきた。束から一本外して、俺の手のひらに落とした。銀色の、短い鍵だ。 「屋上、九時まで」 「先生、これ」 「桜井に頼まれた。生徒に鍵を渡すのは規則違反だが、実行委員が前夜祭の準備で屋上を使うという届けが出てる」 「出てるんですか」 「出てる。書いたのは桜井だ。使用目的の欄が空欄だったから、俺が『撮影』と書いておいた」 撮影。写真部の幽霊部員に渡す口実としては、悪くない。 「あの、なんで俺に」 「桜井が、鍵はお前に渡してくれと言った」 岩下は職員室のドアに手をかけて、そこで止まった。この人はいつも半分だけ言ってやめる。今日は、半分より少しだけ多く言った。 「四月からずっと、あそこで一人で飯を食ってただろ。二人になったのを、俺は知ってる」 「見てたんですか」 「鍵を開けるのは俺だ」 それだけ言って、岩下は入っていった。 鍵は思ったより軽かった。軽いのに、ポケットに入れると存在が消えない。 翌日の夜、俺はその鍵をポケットに入れて、学校の門をくぐった。 第15話 考えなくていい 七月四日、土曜日。前夜祭。 グラウンドには屋台が並んで、体育館では軽音部が演奏している。校舎の中はほとんど無人だった。みんな下にいる。 四階の東の端。誰も通らない廊下を歩いて、五段の階段を上がった。 鍵を差し込んで回すと、思ったより大きい音がした。 屋上は暗かった。フェンスの向こう、グラウンドの明かりだけが下から上がってくる。給水塔の陰は、昼よりもっと陰だった。 桜井は、いつもの段のところに立っていた。制服のままだ。腕章はしていない。 「時間、きっかり」 「時間には正確なんだ」 「それ、私の台詞」 俺は鍵をポケットに戻した。ポケットの中で、筆箱から抜いて持ってきた紙が一枚、指に当たった。白紙だ。 「みおさんは」 「下。屋台の券を売ってる」 「上がってこないのか」 「今日は台本がないから」 桜井が両手を体の横で開いて、また閉じた。何も持っていないことを見せる動作だった。 「紙、ない」 「見ればわかる」 「三週間、ずっと持ってたのにね」 俺は段に座らなかった。座ると聞くだけの係になる。今日は立っていた。 桜井が二歩前に出た。二歩ぶんの距離が、拳ひとつ分になった。 「相良くん」 「はい」 下で誰かがマイクの音量を間違えて、大きな音が一瞬した。桜井は待った。音が収まるまで、ちゃんと待った。 「屋上でお昼を食べてる人が、気になってました」 「うん」 「写真部で、写真は撮らない人です」 「うん」 「一年の体育祭で、私が保健室まで運びました。二十分、そばにいました」 十枚ぶんが、一息で並んだ。 みおが削ったやつじゃない。順番も違う。今日のは、たぶん、削る前のほうだ。 「そこから、ずっとです」 桜井の声が、最後だけ少し落ちた。落ちてから、また戻ってきた。 「相良真人くん。好きです。付き合ってください」 名前を呼ばれた。三週間で初めてだった。 残っているのは名前だけだ、と桜井は言っていた。あれは本当だったらしい。 俺は白紙をポケットから出した。出したところで、何も書いていない。当たり前だ。 「桜井」 「うん」 「三週間、俺は毎日同じ返事をした」 「したね」 「あれ、練習だったから言えたんだ」 桜井は動かない。目もそらさない。この人はずっとそうだ。 「本番の相手は別にいると思ってた。屋上派の名簿を作って、写真部の四人を数えて、体育祭に出てた人を数えようとした」 「相良くん、そんなことしてたの」 「した。全部外れだった。当てはまるやつが一人しかいなかった」 言いながら、指の中で白紙が折れた。折ったのは俺だ。 「一年のとき、保健室で目が覚めて、隣に誰かいるのはわかってた。名前を知ったのはあとだ。礼を言うのに一年かかった」 「かかったね」 「言ってから気づいたけど、俺が言いたかったのは、たぶん礼じゃない」 桜井が、少しだけ息を吸った。三週間、この音を毎日聞いていた。 「考えさせて、って言えばいいのか」 「今日は、だめ」 「知ってる」 俺は白紙を段の上に置いた。石を乗せて飛ばないようにした。あとで拾う。 「一年のときから」 それだけ言った。 三週間ぶんの台詞を聞いておいて、返したのは七文字だった。 「短い」 「短いな」 「でも、聞こえた」 桜井が笑った。笑ってから、両手で顔を半分覆って、しゃがみ込んだ。しゃがんだまま、しばらく立たなかった。 「立てよ」 「無理」 「無理って」 「三週間ぶん一気に来たから、今、足がだめ」 俺はしゃがんでいる桜井の横に、同じようにしゃがんだ。拳ひとつ分。 「あのさ」 「なに」 「本番、うまくいったな」 「うまくいった?」 「棒読みじゃなかった」 桜井は顔を上げて、俺を見て、それから両手で俺の制服の袖を掴んだ。掴んで、引っ張って、何も言わなかった。 下でまた歓声が上がった。前夜祭は九時までだ。屋上も九時までだった。 八時五十分に扉を閉めて、鍵をかけた。かけるとき、二人で取っ手を持った。理由はない。 職員室の岩下は、まだ残っていた。 「相良。ちゃんと閉めたか」 「閉めました」 「撮影はできたか」 「一枚も撮ってません」 岩下は鍵を受け取って、束に戻した。それから、俺の後ろに立っている桜井を見た。 「桜井、使用目的の欄は、来年からは自分で書け」 「はい」 廊下に出ると、下からまだ音楽が聞こえていた。 桜井が階段の手前で立ち止まって、こっちを向いた。 「相良くん」 「はい」 「明日から、毎日」 「屋上、日曜は開かないぞ」 「知ってる。月曜から」

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