第1話 半額以下 駅から歩いて十八分。長い坂を上りきったところに、そのアパートは立っている。 外壁はもともと白かったらしい。今は灰色だ。 「メゾン白樺、築三十八年。二階の角部屋、203号室になります」 不動産屋の森さんが鍵を回す。二十八歳だと言っていたが、ネクタイの結び目が緩すぎて大学生に見える。 ドアが開く。 六畳の一K。窓が二つあって、思っていたより明るい。かびの匂いもしない。かわりに洗剤の匂いがする。 「掃除、したばっかりですか」 「いや、三か月前に一回入れただけですね」 俺は流し台を指でなぞった。ほこりがつかない。指を見て、もう一度なぞった。やっぱりつかない。 「家賃、もう一回言ってもらっていいですか」 「三万円です」 「この辺の相場は」 「七万」 森さんは笑っている。俺は笑えない。 「何かあるやつですよね」 「あります」 早い。隠す気がまるでない。 森さんは書類をめくって、指で一行を押さえた。 「告知事項。前の入居者の方が、室内でお亡くなりになっています。五年前です」 「事件ですか」 「病気です。急なやつだったと聞いてます」 「発見は」 「そこまでは聞いてません」 窓の外の電線に、鳥が三羽並んでいる。 俺は二十六歳で、物流倉庫の事務の契約社員で、口座に十一万円ある。今の部屋は家賃六万二千円で、更新料が来月に来る。計算はもう終わっていた。終わっていたから、こんな坂の上まで来ている。 「三万でいいんですね」 「よくないです」 「え」 「下がります。毎月」 森さんはボールペンのノックを二回押した。 「大家さんの方針で、毎月一日に五千円ずつ下げるそうです。五月は二万五千円、六月は二万。そういう感じで」 「そんな契約、あります?」 「僕も初めて見ました」 「なんで下げるんですか」 「大家さんが決めることなので」 営業の笑顔は動かない。俺は質問をやめた。 部屋をもう一周する。押し入れを開ける。空っぽ。風呂を覗く。狭いが、浴槽の底に水垢がない。ベランダに出ると、隣の202のベランダが見えた。物干し竿が立っていない。エアコンの室外機もない。 「隣、空いてます?」 「空室ですね」 「いつからですか」 「たぶん、ずっと」 「たぶん」 「僕、この会社三年目なので」 契約は、その日のうちに書いた。 賃料の欄に「金30,000円」と印字されている。その下に、五月から毎月五千円ずつ減額する旨が、小さい字で足されていた。判子を押す手が止まったのは、そこではない。 特約事項の欄だ。 「特約事項 前住人の私物は処分しないこと」 「これ、なんですか」 「あー、それ」 森さんは書類を覗き込んで、少し黙った。 「大家さんが、絶対に入れてくれって。でも部屋、見てのとおり空っぽですよね。だから実質、何もないのと同じです」 「何もないなら、書かなくてよくないですか」 「そうなんですけどね」 「大家さんって、どんな人ですか」 「柳田さん。おばあちゃんです。七十一だったかな。すごく丁寧な人ですよ。家賃の通知、毎月手書きで郵便受けに入れに来るので」 「振込用紙じゃなくて?」 「手書きです」 「今どき」 「今どきです」 森さんは書類の角をそろえた。 「一つだけ。何かあったら、僕じゃなくて大家さんに直接聞いてください。僕、知らないので」 「何かって、何ですか」 「知らないので」 俺は判子を押した。三万円が七万円に勝った。金がないというのは、そういうことだ。 四月一日。引っ越しは二時間で終わった。段ボールが六個、冷蔵庫と洗濯機は前の家から連れてきた。カーテンを吊って、布団を敷いて、コンビニの焼きそばパンを食べた。皿を出すのが面倒だったからだ。 夜、電気を消す。 隣の音がしない。エアコンの音も、水道管の音もしない。耳が痛くなるくらい何もない。家賃が三万なので文句はない、と声に出して言ってみた。声だけが妙にはっきり聞こえた。 二時過ぎ、トイレに起きた。 電気をつけたまま布団に戻ろうとして、玄関の三和土が目に入る。 俺のスニーカーが一足。仕事用の革靴が一足。ビニールのサンダルが一足。 その横に、白いパンプスが、つま先を揃えて置いてある。 俺のではない。当たり前だ。俺は二十六の男で、この部屋には一人で入った。 鍵は、内側からかかったままだった。 第2話 ゴミ袋は空 朝、パンプスはまだそこにあった。 白。かかとが低い。サイズは二十四くらい。傷はあるが、汚れていない。五年ものには見えないし、昨日買ったようにも見えない。 俺は菜箸でつまんでコンビニ袋に入れた。素手で触りたくなかった。 「はい、森です」 「203の岸本です。靴があるんですけど」 「靴」 「女物のパンプスが一足、玄関に。昨日の夜、増えました」 電話の向こうで、森さんが何かを噛んでいる音がした。 「前の入居者さんのじゃないですかね」 「五年前の人ですよね」 「そうですね」 「五年前の靴が、俺が寝てる間に自分で歩いてくるんですか」 「歩かないですね」 「ですよね」 「鍵は替わってます。僕が立ち会って、シリンダーごと交換しました」 「じゃあ何ですか」 「大家さんに聞いてください」 俺は電話を切った。切ってから、特約の一行を思い出した。前住人の私物は処分しないこと。 でも、これは私物じゃない。部屋にあった物じゃない。昨日の夜、増えた物だ。増えた物は私物ではない。俺はそう決めた。決めないと捨てられない。 その日の帰り、四十五リットルのゴミ袋を買った。 パンプスを入れて、口をきつく縛って、念のためもう一枚重ねた。二重にする意味は自分でもわからなかったが、そうしないと落ち着かない。 集積所は坂の下、電柱の横だ。夜十時、俺は袋を置いた。カラス除けのネットをかけて、上から少し押した。手ごたえがある。中に靴が入っている手ごたえだ。 部屋に戻って、玄関を見る。俺のスニーカー、革靴、サンダル。三足。正常。 メモ用紙にマジックで書いて、下駄箱に貼った。 げんじょう くつ 三足 これ以上ふえたら異常 自分で書いておいて、自分で少し笑った。笑ったあと、部屋の隅を見ないようにして寝た。 朝。 玄関に、白いパンプスがある。 つま先を揃えて、昨日と一ミリも違わない位置に置いてある。下駄箱に貼ったメモは、そのままだ。三足、と書いた俺の字も、そのままだ。 俺は靴下のまま外へ出て、坂を下りた。パジャマの上にコートを着ていたが、どうでもよかった。 集積所に、俺のゴミ袋はあった。回収は明日だから当然だ。 ネットをめくる。袋は縛ったままだ。俺が縛った結び目のかたちをしている。 持ち上げる。 軽い。 中で何も動かない。透かして見ると、内側の袋も入ったままで、その中に何もない。空気だけが入っている。俺は結び目をほどいた。ほどいた瞬間、袋がふっとしぼんだ。それだけだった。 坂を上がって部屋に戻る。パンプスは動いていない。 俺は下駄箱のメモを一度はがして、書き足した。 くつ 四足(うち一足、俺のではない) ※ 捨てても戻る。ゴミ袋は空になる。要注意 二度目は、捨てなかった。 パンプスを下駄箱の一番上の段に入れて、扉を閉めた。処分はしていない。特約違反ではない。位置を変えただけだ。 翌朝、下駄箱の扉は閉まったままで、靴は三和土に出ていた。 三度目は、ベランダに出した。翌朝、三和土。 四度目は、押し入れの下の段に入れて、その前に段ボールを二個積んだ。翌朝、段ボールは二個とも動いていない。靴だけが三和土にある。 俺は正座して玄関を見た。 「わかりました」 声に出して言った。返事はない。返事があったらその場で家賃七万の部屋に戻る。 「そこでいいです。そこに置いてください。ただ、俺の革靴を踏まない位置でお願いします」 次の朝、パンプスは三センチだけ左にずれていた。俺の革靴から、ちょうど三センチ離れた場所だ。 その日は、駅まで走った。走る理由は何もなかった。 四月はそのまま過ぎた。靴以外は何も起きない。水道もガスも普通で、天井から音もしない。俺は残業して、コンビニで見切り品を買い、風呂に入って寝た。玄関を見ないようにする癖だけがついた。 五月一日、朝。 郵便受けに、二つ折りの紙が入っていた。 罫線のないメモ用紙に、鉛筆の手書き。 五月分 家賃 25,000円 メゾン白樺 203号室 岸本大地様 柳田文子 本当に五千円下がっている。四月は三万円だった。冗談ではなかった。 俺は少しの間、その紙を持って廊下に立っていた。二万五千円あれば、生きていける。生きていけるどころか、余る。 部屋に戻って、契約書のファイルを開いた。並べて見たかっただけだ。得をした実感がほしかった。 契約書の末尾に、貸主の署名がある。柳田文子。ボールペンの、角ばった字だ。 通知の柳田文子は、鉛筆で、丸い。 通知の字は、契約書のサインと違う。 第3話 三時三分 最初は、宅配だと思った。 ピンポン、と鳴って、俺は布団の中で目を開けた。枕元のスマホを見る。三時三分。 宅配は三時に来ない。 もう一度鳴る。同じ長さ、同じ強さ。押し慣れた人の押し方だ。 「はい」 返事をしてから、しまったと思った。俺の部屋のインターホンにはモニターがない。築三十八年なので、確認する方法はドアを開けることしかない。 チェーンをかけて、二センチだけ開けた。 誰もいない。 外廊下の蛍光灯が一本切れかけていて、じじ、と鳴っている。俺は顔を出して左右を見た。階段まで六歩。誰かが逃げたなら足音がするはずだ。何も聞こえない。 下を見た。三和土に、俺の靴が三足と、白いパンプスが一足。 ドアを閉めて、鍵を二回確かめて、布団に戻った。 翌日は鳴らなかった。その翌日も鳴らなかった。三日目、三時三分に鳴った。 俺はスマホのメモに書いた。 5/9 3:03 1回 5/12 3:03 2回 5/13 3:03 1回 規則性がわからない。回数だけが違う。時刻は毎回、三時三分ちょうどだ。 四日目の夜、俺は起きて待った。三時二分から玄関の前に立って、ドアノブに手をかけていた。 鳴った。 同時にドアを開けた。同時のつもりだった。 廊下には誰もいない。 そのとき初めて、音の出どころに気づいた。音は、俺の部屋のスピーカーから出ていない。壁の向こうから、薄く聞こえている。 202だ。 202のインターホンが鳴って、その音が壁越しに俺の部屋まで来ている。 俺は隣のドアの前に立った。 表札の枠に、名前が入っていない。かわりに、油性ペンで書いた小さな紙が、内側から差してある。アルファベットが一文字。 S。 朝いちばんで管理会社に電話した。 「メゾン白樺の202について聞きたいんですけど」 「202号室、ですね。少々お待ちください」 保留音が二十秒。 「はい、202は空室です」 「いつからですか」 「うちが管理を引き継いだのが平成の終わりで、その時点で空室ですね」 「五年以上、誰も住んでないってことですか」 「そうなりますね」 「表札に、Sって紙が入ってるんですけど」 「前の方のが残ってるんじゃないですか。剥がしましょうか」 「いや、いいです」 「よくないですか?」 「よくないです。すいません、いいです」 自分でも何を言っているのかわからなかった。剥がしてくださいと言えなかった理由も、うまく説明できない。 その週、ゴミ出しで一階の103の人と会った。工事の作業着を着た五十くらいの男の人だ。 「すいません、203の岸本です。最近入りました」 「ああ、どうも」 「夜中に、インターホンの音って聞こえます?」 「インターホン」 「三時ごろ、上のほうで」 男の人は袋を置いて、少し考えた。 「聞こえないなあ。俺、寝つき悪いから起きてるけど、聞こえたことないよ」 「そうですか」 「203って、前の人のあれだろ」 「知ってるんですか」 「いや、知らない。噂だけ」 男の人は袋を持ち直して、階段のほうへ歩きだした。三歩歩いて、振り返った。 「あんた、若いのに変わってるね。普通は出てくよ」 俺は笑ってごまかした。家賃の話はしなかった。二万五千円と言った瞬間に、この人の顔がどうなるか見たくなかった。 その週の土曜、俺はホームセンターで画用紙とマジックと養生テープを買った。四百六十円。 部屋で正座して、いちばん大きい字で書いた。 夜中はインターホンを押さないでください こちらは翌朝七時に起きます 押すなら十九時から二十二時の間にお願いします 203 岸本 書き終えて読み返して、宅配便への注意書きに見えることに気づいた。それでいい。宅配便への注意書きということにしておきたい。 俺は自分のドアに一枚貼った。それから、少し迷って、もう一枚を202のドアに貼った。 貼るとき、指がドアに触れた。金属なのに、冷たくなかった。人が寄りかかっていた場所くらいの温度だった。俺は手を引いて、階段を下りて、コンビニで肉まんを買って食べた。味はしなかった。 その夜は鳴らなかった。 朝、目覚ましより先に目が覚めた。ドアを開ける。俺の張り紙は、貼ったままだ。 サンダルで隣まで行った。 202のドアの張り紙も、剥がされていない。 ただ、俺の書いた最後の行の下に、余白がある。その余白に、鉛筆で一行、増えていた。 張り紙の下に「ごめんなさい」とあった。 第4話 賞味期限 六月一日の午前二時すぎ、腹が減って冷蔵庫を開けた。 俺の冷蔵庫の中身は、卵が四個、もやし、味噌、開封済みの麦茶。以上だ。全部把握している。把握しないと金が減る。 その真ん中の段に、ガラスの器に入ったプリンが一つ、ぽつんと置いてある。 俺はドアを閉めた。 十秒待って、もう一度開けた。ある。 ふたは紙で、輪ゴムがかかっている。手書きではない。ちゃんとした印刷だ。「やまびこ牧場 なめらかプリン」と書いてある。牛の絵が下手すぎて、逆に味がある。 賞味期限の欄には、インクジェットで日付が打ってあった。三日後だ。 俺はスマホで「やまびこ牧場」と打った。 公式サイトが出る。開くと、真っ白なページに一段落だけ載っている。三年前の日付で、事業を終了しました、長らくのご愛顧に感謝します、と書いてある。地元紙の記事も出てきた。三年前に廃業。工場は解体済み。跡地は今、コインパーキングになっている。 口コミサイトには、四年前で止まったレビューが十一件残っていた。星は四・六。いちばん新しい一件に「ここのプリンが日本一だと思う」と書いてある。 サイトの下のほうに、代表電話の番号があった。 俺はかけた。午前二時四十分に、潰れた会社に電話をかける二十六歳がここにいる。 三回コールして、機械の声が言った。おかけになった電話番号は、現在使われておりません。 当たり前だ。当たり前なのに、切ってから手のひらが濡れていた。 三年前になくなった会社のプリンに、三日後の賞味期限が打ってある。 俺はプリンを持ったまま、六畳の真ん中に座った。選択肢を口に出して並べてみる。 「一、捨てる。二、冷蔵庫に戻す。三、食べる」 一は、四月の靴で結果が出ている。捨てても戻る。しかも特約がある。前住人の私物は処分しないこと。プリンが私物かどうかは知らないが、裁判で勝てる気がしない。 二は、何も解決しない。三日後に期限の切れたプリンと同居することになる。 三は、腹をこわす可能性がある。ただし俺の財布には千八百円しか入っておらず、給料日まで四日ある。もやしは飽きた。 俺は台所でスプーンを洗った。 輪ゴムを外す。紙のふたをめくる。 カラメルの匂いがした。ちゃんと焦がしたカラメルの匂いだ。 一口目で、手が止まった。 うまい。 卵の味が濃くて、甘さが後に残らない。コンビニのより明らかにうまい。俺は正座したまま、三口で食べ終わった。舌でガラスの内側までさらった。 「ごちそうさまでした」 言ってから、誰に言ったのかを考えた。考えるのをやめた。 器を洗って、水切りかごに伏せた。 時計を見る。三時二分。 俺は玄関に行って、ドアの内側に立った。壁の向こうで、いつもの音が鳴るはずの時間だ。 鳴らなかった。 三時十分まで立っていたが、廊下も壁の向こうも静かなままだった。プリンを食べた夜は鳴らない。そういうことなのかもしれない。俺は下駄箱に貼ったメモを一枚増やした。 【この部屋でわかっていること】 ・くつは一足ふえる。捨てても戻る。位置の相談は通じる ・3:03にインターホン。202から。回数は日による ・れいぞうこにプリンが出る(3年前になくなった会社) ※ プリンはうまい 最後の一行を書いたとき、俺はもう、この部屋から逃げる話を自分にしていなかった。逃げるには敷金と礼金と引っ越し代が要る。合計で二十万は要る。俺の口座には四万三千円ある。 布団に入って、六時半に目が覚めた。 水切りかごを見た。器がない。かごに丸い水滴の跡だけが残っていて、俺が置いたときの向きのまま乾きかけていた。 七時、郵便受けを見に下りた。一日の朝に紙が来ることは、もう体が覚えている。 二つ折りのメモ用紙。鉛筆の、丸い字。 六月分 家賃 20,000円 メゾン白樺 203号室 岸本大地様 柳田文子 二万円。 俺の手取りは十六万ちょっとで、そのうち二万しか家賃に消えない。そんな暮らしをしている二十六歳が、この国に何人いるだろう。 紙を折って、階段を上がろうとして、足が止まった。 郵便受けの列の前に、人が立っている。 小柄な、背中の丸い女の人だ。カーディガンにスカート、白髪をうしろでまとめている。手に、同じメモ用紙の束を持っている。まだ配り終えていない分だ。 目が合った。逃げる用意も、笑う用意もない目だった。ただ、確かめる目だった。 その人は俺の顔を三秒くらい見て、それから、少しだけうなずいた。 「まだ、いるのね」と柳田さんが言った。 第5話 言えないこと 柳田さんは、六月の二度目の日曜に来た。 インターホンが鳴ったのが十時ちょうどで、俺は反射的に時計を見た。三時三分ではない。ドアを開けると、あの小柄な人が立っていて、両手に紙袋を提げていた。 「大家の柳田です。ご挨拶が遅くなって」 「岸本です。あの、どうぞ」 言ってから後悔した。部屋は洗濯物が干してあるし、卓袱台の上にもやしの袋が出しっぱなしだ。 柳田さんは靴を脱ぐとき、三和土をちらりと見た。俺の靴が三足。白いパンプスが一足。 何も言わなかった。俺も言わなかった。 紙袋から出てきたのは、麦茶のパックと、乾麺のうどんと、玉ねぎが三個だった。 「若い人は野菜を食べないから」 「助かります。本当に助かります」 「食べる?」 「食べます」 柳田さんは笑った。笑うと目が線になる。 俺は麦茶を出した。自分の分はコップ、柳田さんの分は、引っ越しのときに割れなかった唯一の湯呑みだ。 「五年前のことなんですけど」 俺は座ってすぐに切り出した。世間話を続ける自信がなかった。 「前に住んでた方が、この部屋で亡くなったって聞きました」 「聞いてるのね」 「病気だって。それ以上は、不動産屋さんも知らないって」 柳田さんは湯呑みを両手で持ったまま、しばらく畳を見ていた。 「私からは、言えないの」 「言えない」 「ええ」 「言っちゃいけない決まりがあるんですか」 「決まりじゃないの。私が、言えないの」 声は落ち着いている。困ってもいないし、隠している顔でもない。ただ、そこに線が引いてあるだけだ。俺はそれ以上押さなかった。押しても壁だとわかったからだ。 「じゃあ、別のことを聞いていいですか」 「どうぞ」 「家賃、なんで毎月下がるんですか」 「下がると困る?」 「困りません。むしろ助かってます。でも普通じゃないですよね」 「普通じゃないわね」 柳田さんは麦茶を一口飲んだ。 「あなた、出ていかないの?」 質問が返ってきた。 俺は少し考えて、正直に言った。 「金がないので」 「それだけ?」 「敷金と礼金と引っ越し代で、二十万は要ります。今、四万三千円しか持ってません」 「あら」 「あと、ここ、家賃二万なんですよ。二万で東京に住めるんです。俺、たぶんもう七万の部屋には戻れません」 柳田さんは、また笑った。今度は少し長く笑った。 「正直な人ね」 「金がないだけです」 「そういう人が、いちばんいいの」 その言い方が引っかかった。いい、の主語が誰なのかがわからなかった。 「隣のこと、聞いていいですか」 「202?」 「表札に、Sって紙が入ってるんです。管理会社は昔から空室だって言うんですけど」 柳田さんの指が、湯呑みの縁を一周した。 「あそこはね、私が管理会社に頼んで、募集をかけてないの」 「なんでですか」 「私からは言えない」 二回目だ。俺はうなずいた。うなずくしかない。 「じゃあ、これも言えないですか。夜中の三時三分に、202のインターホンが鳴ります」 柳田さんは湯呑みを置いた。置く音が、思ったより大きかった。 「何回」 「日によります。一回のときと、二回のときと」 「あなた、出た?」 「出ました。廊下には誰もいませんでした」 「そう」 柳田さんは膝の上で手を組んだ。指の関節が太い。長いこと働いてきた人の手だ。 「怒らないでやってね」 「誰をですか」 「言えないの」 柳田さんは部屋をゆっくり見回した。押し入れのふすまのあたりで、視線が止まる。 「契約書に、特約があったでしょう」 「あります。前住人の私物は処分しないこと」 「守ってくれてる?」 「守ってます。というか、部屋、空っぽでしたよ。処分するものが何もないです」 「そう」 柳田さんは、それだけ言った。 帰り際、玄関で靴を履きながら、背中を向けたまま言った。 「押し入れの、上の段のいちばん奥は、見た?」 「見ました。空でした」 「そう」 ドアが閉まる。外廊下を歩く音が、階段のほうへ小さくなっていく。 俺は五分くらい玄関に立っていた。それから押し入れの前に行った。 ふすまを開ける。下の段は俺の段ボールと衣装ケースだ。上の段には布団と、扇風機の箱がある。全部どかす。六畳の部屋に俺の荷物が全部出て、足の踏み場がなくなる。 上の段の奥。板の壁。 その手前の隅、暗くて手を伸ばさないと届かない場所に、四角い影がある。 引きずり出した。ガムテープで、十字に、それも二重に封じてある。テープは黄ばんでいて、爪を立てると粉になった。何年も前に閉じられたテープだ。 側面に、マジックで小さく書いてある。丸い字だ。 「あけないで」 第6話 ガムテープ 段ボールは、卓袱台の横に三日置いた。 三日のあいだ、俺はそれをまたいで生活した。会社に行って、帰って、飯を食って、寝た。またぐたびに、側面の丸い字が目に入る。あけないで。 三日目の夜、俺は正座して、声に出して整理した。 「特約には、処分しないこと、と書いてある。開けるな、とは書いていない」 誰も反論しない。 「箱に書いてあるのは、大家さんの字じゃない。契約書のサインは角ばってた。これは丸い」 誰も反論しない。 「つまりこれは、法的には、ただのお願いだ」 言い終えて、自分の理屈のみっともなさに笑った。笑ってから、カッターを取りに立った。 テープは乾ききっていて、刃を入れると音もなく割れた。 中身は多くない。 文庫本が四冊。輪ゴムで束ねた薬の説明書。イヤホン。使いかけの入浴剤の袋。マグカップ。写真は一枚もない。 薬の説明書を広げてみた。四枚ある。病院の名前が入ったのが二枚あって、日付は五年前の四月と六月だ。どちらも処方は解熱剤で、春に一度、初夏にもう一度、風邪をひいたらしい。残りの二枚は薬局のもので、総合感冒薬と胃薬。こっちの日付は九月と十月だ。四枚とも、折り目が同じ方向についている。財布に入れて持ち歩いた紙の折り方だ。 文庫本は四冊とも、栞が半分より手前に挟まっていた。読みかけのまま止まっている。俺は一冊の栞をつまんで、また同じ場所に戻した。 いちばん下に、A5サイズのノートが一冊あった。 表紙は紺色で、右下に名前のシールが貼ってある。印刷ではなく、丸い字で書いてある。 さくま はるか 佐久間遥。 俺はノートを膝に置いて、しばらく動かなかった。この部屋で死んだ人の名前を、初めて知った。名前がつくと、それは急に、人になる。 俺はノートを閉じたまま押し入れに戻した。 「読まない」 声に出して言った。人の日記を読むのは、いくらなんでも違う。相手が生きていようがいまいが違う。俺は電気を消して布団に入った。 三十分後、俺は電気をつけてノートを取りに行った。 言い訳は三つ用意した。一、この部屋で何が起きているのか知りたい。二、危険がないか確認する義務がある。三、俺は今、家賃二万円でここに住んでいる。 三つ目がいちばん本音だった。 最初のページは、五年前の三月だった。 三月二十八日 引っ越し完了。段ボール六個。少ない。 でも六畳って書いてあったより広い気がする。得した。 俺は思わず、部屋を見回した。俺の段ボールも六個だった。それだけのことだ。それだけのことなのに、ページをめくる手が少し止まった。 四月二日 初出勤。定時で帰れた。駅からの坂がきつい。 毎日これを上るなら、太ももが強くなると思うことにする。 四月九日 やまびこ牧場のプリン、スーパーで安くなってた。三個買った。 一日一個って決めたのに、二個食べた。だめ人間。 スプーンの感触が舌に戻ってきた。俺は麦茶を飲んで、続きを読んだ。 日記は毎日ではない。三日おきだったり、一週間空いたりする。書いてあることも、たいしたことではない。洗濯機のホースが外れた。夜勤の月は昼夜が逆になる。同僚がケーキをくれた。風呂の追い焚きが壊れているが、大家さんに言うのは悪い気がして黙っている。 文句がほとんどない。 人の悪口も、一行もない。 俺は自分の一日を思い出した。今日、会社で三回、心の中で誰かの悪口を言った。 四月二十日 隣に人が越してきた。荷物を運ぶ音で分かった。 男の人。若い。エレベーターがないから大変そうだった。 俺は顔を上げて、壁を見た。 この部屋の隣は、202だ。管理会社が、昔から空室だと言った部屋だ。 四月二十二日 ゴミ捨てで会った。会釈された。会釈を返した。 挨拶しようと思ったのに、声が出なかった。次は言う。おはようございますだけでいい。 四月二十六日 言えた。おはようございます。 向こうも言った。それだけなのに、坂を上るのが軽かった。 ノートの端が少し波打っている。何度も開いた紙の癖だ。 俺は次のページをめくった。日付が三日飛んでいて、行が一行しかない。文字が、前より少し大きい。 隣の人、篠原さんというらしい。 第7話 普通の部屋 三上あかねは、俺と同じ日に入った契約社員で、同じ事務所で伝票を打っている。 昼休み、俺が休憩室でパンの袋を開けていたら、向かいに座ってきた。 「岸本くん、最近やつれてない?」 「そうですか」 「敬語やめて。同い年でしょ」 「そうだった」 三上はコンビニのおにぎりの包装を、一発できれいに剥がした。俺は毎回失敗する。 「痩せた?」 「ちょっと」 「金ないの?」 「金はある。今、月二万で住んでるから」 三上の手が止まった。 「東京で?」 「東京で」 「シェアハウス?」 「一人。六畳の一K。風呂トイレ別」 「うそ」 俺は説明した。全部は言わなかった。告知事項があること、毎月五千円ずつ下がること、玄関の靴が一足増えること、三時三分にインターホンが鳴ること、冷蔵庫にプリンが出ること。順番に言ったら、三上はおにぎりを置いた。 「それ、事故物件じゃなくて、同居じゃん」 「同居です」 「引っ越せば?」 「金が」 「二万浮くために命かけてるの?」 「命はかけてない。プリンはうまい」 「話が入ってこないんだけど」 三上は椅子の背にもたれた。眉が寄っている。俺が笑いを取ろうとしていることに気づいていて、それを許すかどうかを決めている顔だ。 「見に行っていい?」 「え」 「私、そういうの見えないタイプだから。見えない人が行って何もなかったら、岸本くんの気のせいってことになるでしょ」 「気のせいでゴミ袋が空になります?」 「じゃあ気のせいじゃないってことになる。どっちでも収穫」 合理的すぎて、断る理由が出てこなかった。 次の土曜、三上は坂を上ってきた。 「遠っ。駅から十八分って書いてあったけど、坂は分数に入ってないでしょ」 「太ももが強くなる」 「誰が言ったの、それ」 「前に住んでた人」 言ってから、口の中が乾いた。三上は聞き流した。 部屋に入ると、三上は靴を脱ぐ前に三和土を見た。 俺の靴が三足。白いパンプス。 「これ?」 「それです」 三上はしゃがんで、指でつまんで、裏返した。 「触っていいの?」 「もう言うのが遅い」 「ソール減ってないね。ほとんど履いてない」 三上はパンプスを元の位置に、一ミリもずらさずに戻した。そういうところが、この人はうまい。 部屋に上がってからの二時間、何も起きなかった。 冷蔵庫を開けた。卵四個、もやし、味噌、麦茶。プリンはない。押し入れを開けた。俺の荷物と、テープを切った段ボール。壁を叩いた。202は音を返さない。三時三分ではないので、インターホンも鳴らない。 三上は下駄箱に貼った俺のメモを一枚ずつ読んで、途中で吹き出した。 「なにこれ。プリンはうまい、って」 「事実だから」 「岸本くんさ、幽霊に事務処理で対抗してるよね」 「ほかにやり方を知らない」 「隣、見ていい?」 俺たちは外廊下に出た。202のドアに、俺の張り紙はまだ貼ってある。養生テープが日に焼けて、端が反り返っていた。 三上は、俺の書いた四行を読んで、その下の一行を読んだ。ごめんなさい。 「これ、岸本くんの字じゃないよね」 「違う」 「筆圧、弱いね」 三上は指を近づけたが、触らなかった。触らないところで止めた指が、少しのあいだ空中にあった。 「岸本くん」 「うん」 「私、見えないタイプだって言ったけど」 「うん」 「これは、読めるよ。字だから」 部屋に戻って、三上は畳の上であぐらをかいて、部屋を見回した。 「普通の部屋じゃん」 「そうなんですよ」 「敬語」 「そうなんだよ」 夕方、三上は帰った。駅まで送ると言ったが、坂は下りだから平気だと断られた。玄関で靴を履きながら、こっちを見ずに言った。 「なんかあったら電話して。夜中でも出る」 「三時三分でも?」 「三時三分でも」 ドアが閉まる。階段の三段目が鳴った。この建物は、三段目だけがいつも鳴る。 俺は部屋に戻って、二人分の湯呑みを洗って、伏せた。窓を開けたら、坂の下の街が青くなりかけていた。 水を止めて、玄関を見る。 俺のスニーカー。革靴。サンダル。 白いパンプス。 その横に、もう一足。踵の高い、黒いパンプス。俺のでも、三上のでもない。 第8話 指二本 七月一日。郵便受けの紙には、鉛筆でこう書いてあった。 七月分 家賃 15,000円 メゾン白樺 203号室 岸本大地様 柳田文子 一万五千円。俺の月の携帯代とネット代を足すと、家賃を超える。 黒いパンプスは、まだある。あれから半月、白いのと並んで玄関にある。位置の相談はもう通じない。左にずらしてくださいと言っても、朝には元に戻っている。 風呂に異常が出たのは、その週の水曜だ。 俺は湯を張るとき、必ず自動を使わない。ガス代がもったいないので、蛇口から適当に入れて途中で止める。止める位置はいつも同じで、浴槽の内側の継ぎ目の線だ。線のところで止める。それが俺の生活の型だ。 その夜、風呂に入ろうとしたら、湯が線より上にあった。 指を入れて測った。線から、指二本ぶん上。 俺は湯を抜いて、洗って、もう一度張った。線のところで止めた。台所で麦茶を飲んで、十分後に戻った。 指二本ぶん、上がっている。 湯は動いていない。波もない。溢れてもいない。ただ、俺が止めた位置より高いところに水面がある。 人ひとりが入って、出たあとの残り方ではない。人ひとりぶん入ったら、こんなものでは済まない。指二本というのは、たとえば、足首から下だけを入れて、そのまま座っている量だ。 俺はそこまで考えて、考えるのをやめた。 その日から、風呂の前にノックをするようになった。二回叩いて、五秒待ってから開ける。誰が見ても頭のおかしい二十六歳だが、幸い、誰も見ていない。 カレンダーに気づいたのは、翌週だ。 台所の壁に、スーパーでもらった無料のカレンダーを貼ってある。日付だけが大きい、簡素なやつだ。俺は予定を書かない。書く予定がない。 七月のページの、一日のところに、鉛筆で丸がついていた。 薄い丸だ。定規を使わない、少しゆがんだ丸。俺の字ではない。俺は丸を描く癖がない。 六月のページをめくって戻す。一日に丸。五月も、四月も、一日に丸。 全部、家賃の通知が来た日だ。 俺は指をなめて、七月の丸をこすってみた。消えない。紙の裏側から書いたみたいに、鉛筆の粉が繊維に食い込んでいる。 それから先のページをめくった。八月。丸はない。九月。丸はない。 十月。 一日に丸。そして、もう一つ。 十七日に、丸が二重についていた。内側の丸を、もう一度なぞって太くしてある。 俺は森さんに電話した。 「はい、森です」 「203の岸本です。カレンダーに丸がつくんですけど」 「丸」 「毎月一日と、あと十月十七日に」 「十月十七日、何かあります?」 「知らないから聞いてるんです」 森さんは黙った。書類をめくる音がする。 「僕の手元の資料だと、告知事項の欄に日付は書いてないですね。年だけです」 「五年前の、としか」 「はい」 「じゃあ十月十七日って、俺は今日まで一回も見たことがない数字なんですけど、それが俺の部屋のカレンダーに書いてあるんです」 「怖いですね」 「他人事ですね」 「他人なので」 俺は礼を言って切った。切ってから、この人と話すと少し落ち着くことに気づいた。まったく動じないからだ。 その夜、俺は段ボールから日記を出した。 六月に読んだ続きだ。五年前の五月、六月、七月。書いてあることは相変わらずたいしたことではない。会社の話、洗濯物の話、坂の話。ただ、篠原という名前が出る回数が増えていく。 六月三日 篠原さん、朝の電車が同じらしい。ホームで会った。 喋ることがなくて、天気の話をした。天気の話しかできない女、二十七歳。 六月十九日 傘を貸した。返しに来てくれた。 中に、プリンが二つ入ってた。同じやつ。やまびこ牧場の。 同じの好きな人がいることが、こんなに嬉しいと思わなかった。 七月八日 勇気を出して、今度ごはんでもって言おうとして、 「今度、あの、坂が」と言った。坂が、で終わった。何なんだ坂が、って。 俺は声を出して笑った。笑ってから、この人がもういないことを思い出した。 ページは、まだ半分以上残っている。書かれているのは八月まで、九月まで、と進んでいく。 途中で紙質が変わる。後半は白いままだ。何も書かれていないページが、ごっそりある。 俺は最後に字のあるページを探した。指で束をめくって、白と黒の境目を見つける。 そのページには、四行だけあった。日付と、三行。 日付を読んだ。 日記の最後の日付は、十月十七日。 第9話 規約 七月の連休、俺は模造紙を買った。百八十円。 畳の上に広げて、定規を当てて、黒のマジックで線を引いた。表を作る。項目、内容、備考。会社で伝票のフォーマットを作らされている人間の癖が出た。 書きながら、これは何の作業なのかと一度だけ考えた。考えると手が止まるので、考えるのをやめた。 【メゾン白樺203号室 同居ルール】 制定 七月二十日 制定者 岸本大地(借主) 一、インターホンは一晩に一回まで。 二回以上は寝不足になり、俺の仕事に支障が出ます。 二、玄関の靴は一足まで。 二足は多い。俺の分が置けません。 三、プリンは出していい。食べます。ありがとう。 できれば週一より多くてもいい。 四、風呂の湯は、線より上にしないでください。 ガス代は俺が払っています。 五、押し入れの箱は捨てません。約束します。 六、俺は出ていきません。金がないので。 六番を書いたところで、マジックのインクが薄くなった。振って、もう一度なぞった。 壁に貼る場所で三十分迷った。台所の上は水がはねる。玄関は帰ってきた自分が毎回びびる。結局、押し入れのふすまの横に貼った。部屋のどこからでも見えて、俺が寝る位置からは見えない場所だ。 貼り終えて、正座して、読み上げた。 「以上です。異議があれば、何らかの形でお願いします」 部屋は静かだった。冷蔵庫のモーターが回りだして、止まった。 その夜、三時三分にインターホンが鳴った。 一回。 俺は布団の中で目を開けて、天井を見て、「はい」と言った。二回目は鳴らなかった。 朝、玄関に下りた。 白いパンプスが一足。黒いのはない。三和土の、黒いのが置いてあったあたりに、うっすらと四角い跡が残っていた。すぐ消えた。 俺は模造紙の一と二の項目に、赤で丸をつけた。会社の進捗管理と同じやり方だ。 その週の金曜、冷蔵庫にプリンが二つ入っていた。 俺は表の三番を見た。できれば週一より多くてもいい、と自分で書いてある。 「早いな」 二つとも食べた。 風呂の湯は、線ぴったりで止まるようになった。一度だけ、線より下だった日がある。その日は台所の窓が開いていて、風が入っていた。四番を守ろうとして、下げすぎたのかもしれない。俺は表の余白に小さく書き足した。 ※四について。ぴったりでなくていいです。多少下でも困りません。 三上には写真を送った。既読がついて、返事が来るまで四分かかった。 三上「制定者って書いたのウケる」 三上「六番だけ、笑えない」 俺「事実だから」 三上「事実だから笑えないんだよ」 俺は返事に迷って、スタンプを一つ送った。三上はスタンプを返してこなかった。 七月の終わりに、一度だけ、表に返事らしいものがあった。 朝、模造紙の下の隅に、鉛筆で薄く点が二つ打ってあった。二番の項目の行のところだ。玄関の靴は一足まで、と書いた行。 点は、二つ並んでいる。読点でも句点でもない。数を数えたときの印に見えた。 俺はマジックを取って、その横に書き足した。 ※二について。二足あったのは知っています。もう一足のほうも、こちらは怒っていません。 ただ、玄関が狭いのです。以上。 翌朝、点は消えていた。消しゴムをかけた跡が、模造紙にうっすら残っていた。 俺はその跡を指でなぞった。この部屋の同居人は、俺より字がきれいで、俺より片づけがうまい。 七月の残りは、静かだった。 インターホンは一回。靴は一足。プリンは週に二回。風呂は線。全部、表のとおりに動いている。 俺はこの部屋で、初めて熟睡した。同居人がルールを守る人だと分かってからのほうが、事故物件は快適だ。この結論を誰かに言ったら心配されるので、誰にも言っていない。 八月一日。 六時半に目が覚めて、郵便受けに下りた。もう暑い。坂の下でセミが鳴いている。 二つ折りのメモ用紙。鉛筆の、丸い字。 八月分 家賃 10,000円 メゾン白樺 203号室 岸本大地様 柳田文子 一万円。三十一で割ると、一日三百二十二円だ。缶コーヒー二本ぶんで、東京の六畳に住める。 紙を折ろうとして、指が止まった。 いつもは三行で終わる紙の、いちばん下。名前の下の余白に、四行目がある。 同じ鉛筆。同じ丸い字。ただ、ほかの三行より少し小さい。 通知の隅に、ありがとう、とあった。 第10話 静かな月 八月は、何も起きなかった。 インターホンは一晩に一回。鳴らない日もある。靴は一足。プリンは週に二回か三回。風呂の湯は線のところで止まっている。 俺は表を眺めて、一から四に赤い丸をつけた。五と六は俺の項目なので、丸は自分でつけた。会社なら達成率百パーセントだ。上司に見せたら評価が上がる。見せる相手がいない。 三上とは、週に二回、昼を一緒に食べるようになった。 「そっちのルール表、まだ守られてる?」 「守られてる。今月、一回も違反がない」 「相手がまじめすぎない?」 「まじめなんだと思う」 三上は箸を止めた。 「岸本くん、それ、人の話し方だよ」 「人だったから」 言ってから、箸で漬物をつついた。三上は何も言わずに、卵焼きを一つ俺の弁当箱に入れた。 その週の土曜、二人で坂の下の商店街を歩いた。夏祭りの提灯が出ていて、三上がりんご飴を買った。半分こするには硬すぎて、二人で交互になめた。歩きながら、三上が言った。 「私、あの部屋、もう一回行ってもいい?」 「いいけど、何もないよ」 「何もないのを、私が何回か確かめといたほうがいいでしょ。証人として」 「証人」 「そう。何かあったとき、普通の部屋でしたって言える人がいたほうがいい」 言い方は事務的だった。事務的なのに、俺は坂を上るのが軽かった。この感覚をどこかで読んだ気がして、思い出して、少し黙った。 三上は結局、八月に三回来た。 一回目は昼で、そうめんを茹でて食べた。二回目は夕方で、扇風機の首の振り方が壊れていることを指摘された。三回目は、俺が残業で遅くなって、三上が先に部屋の前で待っていた。鍵を渡す関係ではない。 「暑い。中で待たせてよ」 「鍵、持ってないでしょ」 「だから待ってたんじゃん」 三回とも、何も起きなかった。 三上がいる時間だけ、この部屋は完全に無音だ。冷蔵庫のモーターの音しかしない。三上が帰ると、その日の夜は必ず三時三分に鳴った。一回だけ鳴って、終わる。俺はそれを手帳に記録している。記録すると、こわさが手続きに変わる。 「岸本くん、私が来ると休むんだね、その人」 「そうみたい」 「気を遣わせてる?」 「どっちがどっちに遣ってるのか、分からない」 三上は玄関でサンダルを履きながら、白いパンプスを見た。二回目からは、もう裏返さない。 日記は、八月のあいだにほとんど読み終えた。 五年前の夏。遥さんは篠原さんに、まだ何も言えていない。 八月十一日 花火大会。誘えなかった。 ベランダで一人で見た。音だけ大きい。あれはあれで悪くない、と書いておく。 九月二日 篠原さんが引っ越すかもという話を、大家さんから聞いた。 まだ決まってないらしい。決まる前に言えばいいのに、言えない。 九月三十日 最近、疲れやすい。夏バテが長い。 病院、行こうかな。混んでるからいいや。 俺はページをめくる手を止めた。行こうかな、混んでるからいいや。俺も先月、同じことを思った。 最後のページは、四行だった。 十月十七日 夜中に目が覚めた。心臓がへんな打ち方をしている。座っていたら治った。 明日、篠原さんに言う。今度ごはんでも、って。 今度こそ、坂の話はしない。 その先は白い。何ページめくっても白い。 俺はノートを閉じて、しばらく壁を見ていた。壁の向こうは202だ。 次の日、坂の下で柳田さんに会った。買い物袋を提げていて、俺はそれを持った。二階まで一緒に上がる。柳田さんの部屋はここではないが、月に何度か建物を見に来るらしい。 外廊下で、俺は202の前に立った。 「柳田さん。この部屋、篠原さんって人が住んでませんでしたか」 柳田さんの足が止まった。 「どこで、その名前を」 「押し入れの箱です。日記がありました。読みました。すみません」 柳田さんは俺の顔を見た。怒られると思った。怒られなかった。 「読んだのね」 「読みました」 「そう」 柳田さんは202の表札の枠を見た。Sの字の紙は、まだ差してある。 「篠原さんはね」 「はい」 「あの子の後すぐ、引っ越したの」 俺は袋の持ち手を握り直した。 言葉の順番が、おかしい。あの子の後すぐ。それはつまり、遥さんが亡くなったあと、という意味だ。亡くなったことを知っている人の言い方だ。ここまではいい。大家なら知っている。 おかしいのは、そこではない。 柳田さんは、前の入居者、とも、佐久間さん、とも言わなかった。 あの子、と柳田さんは言った。 第11話 似せた字 九月一日、六時半。俺は郵便受けの前で待っていた。 五分ほどして、坂の下から柳田さんが上がってきた。買い物袋ではなく、封筒だけを持っている。 「おはようございます」 「あら。早いのね」 「待ってました」 柳田さんは俺の顔を見て、それから、封筒からメモ用紙を一枚出した。折らずに、そのまま渡してきた。 九月分 家賃 5,000円 メゾン白樺 203号室 岸本大地様 柳田文子 五千円。牛丼が十二杯食べられる。 「柳田さん。ここ、二階の踊り場でいいので、少しだけ話せませんか」 「立ち話でいいの?」 「立ち話がいいです。座ると、言えなくなりそうなので」 俺たちは階段を上がって、二階の手すりのところに並んだ。坂の下の屋根が朝日で光っている。 俺はメモ用紙を持ち上げた。 「この字、柳田さんの字じゃないですよね」 「私が書いてるのよ」 「契約書のサインと違います。あっちは角ばってて、こっちは丸い」 柳田さんは手すりを軽く叩いた。 「よく見てるのね」 「四月から毎月、見てるので」 しばらく、下の道を自転車が通る音がした。 「妹の字なの」 「妹さん」 「私の。もう、いないけど」 柳田さんは手すりから手を離して、指を組んだ。 「あの子のお母さんが、私の妹。あの子が高校生のときに亡くなったの。あの子は、母親の書いた手紙を、ずっと持ってた。全部持ってた」 「あの子っていうのは」 「佐久間遥。あなたが読んだ、あのノートの子」 俺はうなずいた。うなずいてから、手すりを握った。 「柳田さん、遥さんの、伯母さんですか」 「そうよ」 あっさりしていた。隠す気がないのではなく、隠しきったあとの顔だった。 「だから字を、似せてるんですか」 「私の字だと、あの子、たぶん見ないから」 柳田さんはそこで一度、言葉を切った。 「妹の字なら、見るの」 俺は何も言えなかった。ここで気の利いたことを言える二十六歳がいたら、代わってほしかった。 「柳田さん。八月の紙に、一行増えてました」 「一行」 「ありがとう、って。いちばん下に」 柳田さんは、ゆっくり首を横に振った。 「私は書いてない」 三行の下に四行目を足せる人間は、この世に二人しかいない。柳田さんと、俺だ。俺は書いていない。柳田さんも書いていないと言う。 俺は口の中で、それを二回くり返した。 「もう一つ聞いていいですか。なんで、毎月五千円下げるんですか」 柳田さんは坂のほうを見たまま答えた。 「あの子ね」 「はい」 「ひと月、誰にも気づかれなかったのよ」 風が下から吹き上がってきて、俺の持っていた紙が指の中で震えた。 「十月に亡くなって、見つかったのが十一月の半ばだった。会社は契約が切れたと思ってて、私は電話をしなかった。忙しかったの。それだけ。忙しかったのよ」 「柳田さん」 「大家がね、鍵を開けたら分かったの。でも大家は私で、私が開けなかったから、ひと月かかった」 柳田さんは何もこわい顔をしていなかった。買い物のリストを読み上げるような調子だった。そのほうが、聞いていられなかった。 「家賃を下げると、人が来るの。事故物件だと知っても、安ければ来る。来ても、たいていはひと月で出ていく。ふた月もたない」 七月に一度だけ増えた、踵の高い黒いパンプスを思い出した。あれは、ひと月で出ていった誰かの靴だったらしい。 「そうでしょうね」 「でも、下げ続けると、出ていかない人が一人だけ残るの」 柳田さんはそこで初めて、俺の顔をまっすぐ見た。 「あの子の部屋に、誰かがいてくれる。それだけでいいの。私が言えるのは、ここまで」 「柳田さん。十月に、何かあるんですか」 柳田さんの手が、手すりの上で止まった。 「カレンダーに丸がつきます。十七日に、二重の丸が」 「そう」 「命日ですよね」 柳田さんは答えなかった。答えないことが答えだった。 「今年、何か変わるんですか」 「私からは言えない」 「三回目です」 「そうね」 柳田さんは封筒を持ち直した。中には、まだ配っていない紙が何枚か入っている。この建物は六部屋で、俺以外の五部屋には、たぶん普通の金額が書いてある。 「岸本さん。十月になったら、家賃がなくなるわ」 「なくなる」 「五千円の次は、五千円下げたら、ないでしょう」 言われて、初めて気づいた。俺は毎月の紙を、下がる額としてしか見ていなかった。下がり続ける線には、床がある。 「なくなったら、どうなるんですか」 「さあ」 柳田さんは階段を下りていった。手すりを一段ずつ持って、時間をかけて下りた。 俺は部屋に戻って、五千円の紙を卓袱台に置いた。それから台所のカレンダーの前に立った。 十月十七日の、二重の丸。 俺は指で日数を数えた。九月が三十日ある。九月一日から、十月十七日まで。 十月十七日まで、あと四十六日。 第12話 泊まらない 付き合うことになったのは、九月の第二土曜だ。 告白らしいものはなかった。坂の下のラーメン屋を出たところで、三上が「これ、付き合ってることになってない?」と言って、俺が「なってると思う」と言った。それで終わりだ。 「岸本くん、もっと言うことある?」 「ある」 「言って」 「替え玉、頼めばよかった」 三上は俺の背中を叩いた。痛かった。 一週間だけ、よかった。会社の昼休みが長く感じるようになったし、坂も短くなった。三上は週に二回、部屋に来た。来ているあいだ、部屋は無音だった。 問題は、九月二十日の夜に起きた。 台風が近づいていて、電車が止まりそうだった。時刻表を見ながら、三上が言った。 「今日、泊まっていい?」 俺はコップを持ったまま、二秒黙った。二秒が長すぎた。 「え、なんで黙るの」 「いや」 「終電なくなるよ」 「タクシー代出す」 「は?」 三上はスマホを置いた。置き方で分かる。 「岸本くん、私が泊まるの、いや?」 「いやじゃない」 「じゃあなんで」 俺は台所のほうを見た。押し入れのふすまの横に、模造紙が貼ってある。六項目の表と、あとから書き足した二つの注釈。俺の字で、俺が決めたルールが書いてある。 その表のどこにも、人を泊めることについては書いていない。 「相談してない」 「誰に」 「言わせるなよ」 「言ってよ」 三上は立ち上がっていた。 「幽霊に遠慮する彼氏って何」 「遠慮じゃない。順番の話だ」 「順番って何。私、後ろなの?」 「そうじゃない」 「じゃあ何。説明して」 説明できなかった。 この部屋には規約がある。その規約は俺が作った。作ったときに、相手はそれを守ってくれた。靴を一足に減らして、インターホンを一回にして、風呂の湯を線で止めてくれた。 守ってもらった側が、勝手に条項を増やすのは違う。 それを口に出したら、たぶんもっと怒られる。俺は黙った。黙ったのが、いちばん悪かった。 「私さ」 三上はかばんを肩にかけた。 「岸本くんが、その人のこと大事にしてるの、いいと思ってた。ちゃんと同居してるんだなって。表まで作ってさ」 「うん」 「でも今のは、大事にしてるんじゃなくて、こわがってるだけじゃない?」 ドアが閉まった。乱暴には閉めなかった。そこがいちばんこたえた。 窓の外で風が鳴っていた。雨が横から窓を叩いて、サッシの下に細い水が入ってきた。俺はタオルを一枚敷いた。 三上を追いかけなかった理由を、あとで三つ考えた。一、駅まで五分で、走れば追いつく距離ではない。二、追いついても言うことがない。三、追いかける自分が芝居くさい。 三つとも嘘だ。本当は、部屋を空にして出るのがいやだった。 その事実に気づいたとき、俺は畳に手をついた。 俺はこの部屋を、置いていけなくなっている。 模造紙の六番を見た。俺は出ていきません。金がないので。七月に書いたときは、これは笑うところだった。今は笑えない。三上が言ったとおりだ。六番だけ、笑えない。 俺は卓袱台の前に座って、コップの底の水を見ていた。三上からのメッセージは来なかった。俺も送らなかった。送る文章を七回書いて、七回消した。 午前一時、俺は押し入れを開けた。 日記を出す。読み終えた本を開くみたいに、後ろから開いた。 最後に字のあるページ。十月十七日。四行。夜中に目が覚めた、心臓がへんな打ち方をしている、明日、篠原さんに言う、今度こそ坂の話はしない。 その次のページ。白い。 俺はそこで、指を止めた。 白くない。 いちばん上の行に、鉛筆で一行ある。今日まで、何度もめくったページだ。何もなかった。今、ある。 紙をひっくり返して、透かした。裏から書かれた跡ではない。表から、この面に書かれている。鉛筆の粉が、まだ少し盛り上がっている。指でこすったら消える書きたてだ。俺は触らなかった。 字は、日記のほかのページと同じ、丸い字だった。ただ、少しだけ大きい。ペンを持ち慣れていない手が、ひさしぶりに書いた大きさに見えた。 窓の外の風が、止んでいた。 第13話 見送る 一行は、こうだった。 いてくれて ありがとう 平仮名で、あいだが一つ空いている。書き慣れていない人が、間隔を測りかねて空けたような空きだ。 俺はノートを開いたまま、朝まで座っていた。眠くはならなかった。 三日後、二行目が増えた。同じページの、二行下。 十月十七日に、私は そこで終わっている。 句点はない。途中で鉛筆を離した形だ。俺は次の日も、その次の日も、そのページを見た。三行目は増えなかった。 九月二十八日の日曜、俺は柳田さんの家に行った。坂を下って、二つ目の角の、瓦の家だ。 「上がって」 「玄関でいいです」 「上がって」 俺は上がった。麦茶が出てきた。俺はノートを卓袱台に置いて、開いたページを向けた。 柳田さんは老眼鏡をかけて、長いこと見ていた。それから、眼鏡を外した。 「妹の字じゃないわ」 「はい」 「あの子の字ね」 「はい」 柳田さんはノートを閉じて、その上に両手を置いた。 「岸本さん。出ていくなら、今のうちよ。私、敷金も礼金も要らないから」 「出ていきません」 「意地を張らなくていいの」 「金がないので」 柳田さんは笑わなかった。俺も笑わなかった。俺は正座をしなおして、続けた。 「金がないのは本当です。でも、それだけじゃなくなりました」 「そう」 「柳田さん。俺、この人を追い出す方法を探してたわけじゃないんです。ずっと、どうやったら出ていってもらえるかを考えてたつもりでした。違いました」 「何を考えてたの」 「どうやったら、ちゃんと終わりにできるか、です」 言ってから、自分でも整理がついた。 「十月十七日に、あの部屋にいます。俺、いようと思います」 柳田さんは老眼鏡を出して、袖でレンズを拭いた。かけはしなかった。 「怒らないでやってね」 「怒りません」 「二回目ね、これ」 「二回目です」 帰りぎわ、柳田さんが玄関まで出てきた。サンダルを履く俺の背中に言った。 「あの子、人に何かを頼むのが、下手な子だったの」 俺は振り返らずに、はい、と言った。 三上には、月曜の昼に話した。休憩室で、向かい合って座って、日記のページの写真を見せた。 三上は写真を三十秒見て、スマホを返してきた。 「これ、返事だよね」 「返事?」 「岸本くんの表の。三番。プリンは出していい、食べます、ありがとうって書いたでしょ」 「書いた」 「それの返事」 俺は麦茶のペットボトルの蓋を、開けて閉めた。 「この前は、悪かった」 「うん」 「泊まる話。断ったのは、こわかったからじゃない。この部屋で先に約束したことがあって、それを一人で書き換えるのが、なんか、卑怯な気がした。うまく言えなかった」 「今、言えてるじゃん」 「九日かかった」 「遅すぎ」 三上は箸で卵焼きをつまんで、俺の弁当箱に入れた。この人は怒っていても卵焼きを入れる。 「岸本くん、その日、どうするつもり?」 「十七日?」 「うん」 「起きてる」 「それだけ?」 「それだけ。何かするのは違う気がする。お祓いとか、呼ぶのも違う」 「なんで違うの」 「五年、ここにいた人だから」 三上は箸を置いた。休憩室の時計が、昼休みの終わりまであと六分だと言っている。 「私、最初に部屋に行ったとき、普通の部屋じゃんって言ったでしょ」 「言った」 「あれ、半分は岸本くんを安心させるために言った」 「もう半分は」 「本当に普通だった。生活してる部屋の匂いがした。二人ぶん」 俺は何も返せなかった。三上は弁当箱の蓋を閉めて、輪ゴムをかけた。 「怒ったのは、泊まれなかったからじゃない。岸本くんが一人で全部しょって、いい顔してるのが気に入らなかっただけ」 「いい顔してたか」 「してた。制定者の顔」 十月一日。 六時半に郵便受けを見に下りた。坂の下の空が白い。柳田さんの姿はなかった。 二つ折りのメモ用紙。鉛筆の、丸い字。 十月分 家賃 0円 メゾン白樺 203号室 岸本大地様 柳田文子 来月も、0円 俺は声に出して読んだ。来月、0円。 部屋に戻って、三上に電話した。出勤前だったが、三上は二コールで出た。 「家賃、0円になった」 「よかったね、って言えばいい?」 「分かんない」 「私も分かんない」 二人とも黙った。電話の向こうで、電車のアナウンスが聞こえた。 「十七日、金曜だよ」 「調べたの」 「調べたよ」 「その日、私もいる」と三上は言った。 第14話 十月十七日 十月の前半は、何もなかった。 インターホンは鳴らない。プリンも出ない。風呂の湯は俺が止めた線のところで止まっている。玄関の白いパンプスだけが、毎朝同じ場所にある。 俺は模造紙の下に、一枚だけ足した。マジックではなく、鉛筆で書いた。 七、十月十七日は、俺は起きています。 用があってもなくても、いてください。 十七日、金曜。俺は定時で上がった。 三上はスーパーの袋を提げて坂を上ってきた。中身は、麦茶とみかんと、なぜかカイロだった。 「夜、冷えるでしょ」 「十月だぞ」 「明け方は冷えるの」 部屋を片づけた。掃除機をかけて、卓袱台を拭いて、座布団を二枚出した。座布団は前の週に買った。二枚組で九百八十円。この部屋で、初めて自分の意思で増やした家具だ。 九時、コンビニ弁当を食べた。 十一時、三上がみかんをむいて、白い筋を全部取ってから俺にくれた。 十二時。日付が変わる。俺はカレンダーを見た。十七日の二重丸。 一時、三上が横になった。 「寝ていいよ」 「寝ない。目、閉じるだけ」 二時、三上は寝ていた。俺は座布団の上であぐらをかいて、壁を見ていた。 二時半、外を車が一台通った。坂を上る音がして、そのまま行った。 二時五十分、俺は三上を起こした。起こされた三上は、目をこすって、すぐに起き上がった。この人はこういうときに文句を言わない。 二時五十五分。 俺たちは玄関のほうを向いて座っていた。ドアと、三和土と、その上の白いパンプスが見える位置だ。 「岸本くん、鳴ったらどうするの」 「はい、って言う。いつもそうしてる」 「出る?」 「出ない。ルールに書いてないから」 二時五十八分、三上が小さい声で言った。 「岸本くん、私、変なこと言っていい?」 「どうぞ」 「私、その人に会ったことないけど、たぶん、待ってた時間のほうが長いんだよね。五年」 「五年」 「私たち、今日たった三時間待って、もう足がしびれてる」 俺は自分の足を見た。しびれている。 三時。 冷蔵庫のモーターが回りだして、しばらくして止まった。あとは、俺と三上の呼吸だけだ。 三時一分。 三時二分。 三上が、俺の袖を軽くつまんだ。 三時三分。 鳴らなかった。 壁の向こうも、俺の部屋のスピーカーも、何も言わなかった。三時四分になり、五分になった。 三上が息を吐いた。 「鳴らないね」 「鳴らない」 「これって」 「分からない」 俺は立ち上がって、台所に行った。理由はない。喉が渇いたわけでもない。体が勝手に、いつもの順番で動いた。麦茶を出すために、冷蔵庫を開ける。 開けた。 真ん中の段に、ガラスの器に入ったプリンが一つ、置いてある。 輪ゴム。紙のふた。下手な牛の絵。やまびこ牧場。 うしろから三上が覗き込んで、動きを止めた。 「今日、私いるのに」 「うん」 「私がいる日は、何も起きないんじゃなかったの」 「そのはずだった」 俺は器を持って、賞味期限を見た。 今までは、いつも三日後だった。 今度のは、半月先の日付が打ってある。 「岸本くん?」 「今日のじゃない」 「え」 「これ、今日食べるやつじゃない」 俺は器を冷蔵庫に戻して、ドアを閉めた。閉めてから、玄関を見た。 三和土に、俺のスニーカーが一足、革靴が一足、サンダルが一足。 三上のスニーカーが一足。 それだけだった。 白いパンプスがない。 俺は電気をつけて、しゃがんだ。三和土は乾いている。半年ずっとそこにあったはずの場所に、跡もない。埃の輪もない。指でなぞっても、何も残っていない。 うしろで、三上が立ち上がる音がした。 「減ってる」 「減った」 俺はしゃがんだまま、ドアのほうを向いた。何を言うかは決めていなかった。決めていたら、たぶん、もっとひどい言葉になっていた。 「いってらっしゃい」 言った。返事はない。 三上が俺の隣にしゃがんで、同じほうを向いた。それから、小さい声で、いってらっしゃい、と言った。 空が白くなってから、三上は始発で帰った。玄関で靴を履きながら、三和土の空いた場所を一度だけ見た。 その夜、俺は久しぶりに何の音もしない部屋で眠った。翌朝、風呂の湯は張っていなかった。当たり前だ。俺が張っていない。 十月の残りは、静かだった。静かというのは、何もないという意味だ。 俺は毎朝、玄関を見た。靴は三足のままだ。冷蔵庫のプリンは、まだ食べていない。 十一月一日、通知は来なかった。 第15話 十一月 十一月一日、六時半。俺は郵便受けの前に立っていた。 七時になっても、柳田さんは来なかった。八時になっても来なかった。土曜で仕事がないから、そのまま立っていられた。九時まで待って、坂を下りた。 坂の途中で、103の人とすれ違った。作業着で、缶コーヒーを持っている。 「あんた、まだいるのか」 「まだいます」 「ふうん」 それだけ言って、男の人は坂を上っていった。 柳田さんの家の呼び鈴を押した。出てきた顔は、いつもと同じだった。 「紙、来てないです」 「ええ」 「忘れました?」 「忘れてないわ」 柳田さんは玄関の下駄箱の上から、封筒を取った。 「今日、持っていくつもりだったの。朝は、腰が痛くて」 「先に言ってください」 「言えないの」 「それは今、ただの言い訳ですよね」 柳田さんは、少し笑った。線になる目だ。 その週の日曜、柳田さんが203に来た。麦茶とうどんと玉ねぎ、六月と同じ組み合わせだ。封筒から出てきたのは、二枚の紙だった。 賃貸借契約書。日付は十一月一日。賃料の欄に、印字ではなく手書きで、数字が入っている。 金0円 「これ」 「新しい契約。判子だけ押して」 「柳田さん、0円って、契約になるんですか」 「なるって、司法書士さんが言ってた。使用貸借っていうんだって。ちゃんと調べたのよ、私」 「調べたんですか」 「調べたわ。七十一だけど、電話はかけられるの」 特約の欄を見た。四月の契約書と同じ一行が、そのまま入っている。前住人の私物は処分しないこと。 「これ、残すんですね」 「残すの」 「じゃあ俺、ずっと箱を置いておきます」 柳田さんは持ってきた麦茶の袋の口を、きっちり二回折った。 「岸本さん。あなた、あの子の分まで、ここにいてくれる?」 俺は少し考えて、言った。 「家賃0円なので」 「そう」 「それと、あの、居心地がいいので」 柳田さんは、うなずいた。それ以上は何も言わなかった。俺も言わなかった。 柳田さんが帰ったあと、俺は契約書を二回読んだ。 賃料の欄の0という字は、鉛筆ではなくボールペンで書いてあった。角ばった字だ。四月の契約書のサインと同じ、柳田さん本人の字だった。 似せる相手が、もういない。 俺はその紙をクリアファイルに入れて、押し入れの上の段に置いた。 その夜、三上が来た。 冷蔵庫からガラスの器を出した。賞味期限は、明日だ。 「一つしかないよ」 「半分こでしょ」 スプーンを二本洗って、卓袱台に置いた。ふたをめくると、カラメルの匂いがした。ちゃんと焦がした匂いだ。 三上が先に一口食べて、動きを止めた。 「なにこれ」 「うまいだろ」 「うまい。悔しい」 「三年前に潰れた会社なんだよ」 「潰れるなよ」 二人で交互に食べて、最後の一口は三上に渡した。器の内側まで、三上が舌でさらった。俺と同じことをする人だった。 「岸本くん、これ、最後だと思う?」 「思う」 「じゃあ、次からは自分たちで探さないとね」 「同じのは、もう売ってない」 「探すのが楽しいんじゃん」 俺は押し入れを開けて、日記を出した。三上の前で、最後のページを開いた。 いてくれて ありがとう。 十月十七日に、私は。 三行目は、増えていなかった。たぶん、もう増えない。俺はノートを閉じて、文庫本と、薬の説明書と、イヤホンと、入浴剤とマグカップの上に戻した。箱のふたを閉じて、新しいガムテープで十字に、二重に貼った。 側面の丸い字はそのままだ。あけないで。 その下に、俺はマジックで書き足した。 あけません。岸本 押し入れの上の段の、いちばん奥に戻した。 外廊下に出て、202の前を通った。表札の枠から、Sの紙がなくなっていた。いつからかは分からない。俺は枠を指で一度なぞって、部屋に戻った。 十一時すぎ、三上が時刻表を見た。 「終電、あと二十分」 「泊まっていけば」 三上が顔を上げた。 「相談した?」 「規約を改正した。七番の下に八番を足した」 「なんて書いたの」 「この部屋に、もう一人住みます。以上」 三上はスマホを置いて、麦茶を飲んだ。それから、何も言わずにうなずいた。 寝る前、俺は三和土の三上のスニーカーを持ち上げて、白いパンプスが半年いた場所に、つま先を揃えて置き直した。 翌朝、目が覚めて、玄関を見た。 俺のスニーカー。革靴。サンダル。その横に、女物のスニーカーが一足。 今度は、俺が置いた。
小説 · text · 2026-09-09
事故物件に住んだら、家賃が下がり続ける
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