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小説 · text · 2026-09-09

学校の七不思議、八つ目を知った者

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学校の七不思議、八つ目を知った者のカバー

作:黒川レン 第1話 空いている番号 火曜の放課後。新聞部の部室は、四階の北の端にある。もとは倉庫だったらしくて、窓が一つしかない。九月なのに、廊下より部屋の中のほうが暑い。 部員は二人だ。私と相原。 机の真ん中に、部誌の割り付け用紙が白いまま置いてある。 「結城、そろそろ決めよう。締め切り今月末な」 「わかってる」 「わかってるって言うやつは、だいたいわかってない」 「相原の企画案、覚えてるよ。『学食の唐揚げは何個で百円か』」 「読者のニーズだ」 「読者、二人だよ」 「じゃあ満足度百パーセントだろ。全国紙が泣くぞ」 私はノートを開いて、真ん中に一行だけ書く。 七不思議。 相原が身を乗り出してくる。 「ベタ」 「ベタでいい。この校舎、築四十二年だよ。ネタは絶対ある」 「あるかな。うちの学校、そういう話しないだろ」 「しないよね」 言ってから、引っかかった。 ふつう、この手の話は勝手に広がる。誰かが誰かに話して、尾ひれがついて、一年生まで知っている。でもうちの学校で七不思議の話をしている人を、私は見たことがない。 「相原、いくつ言える」 「音楽室のピアノ」 「うん」 「あと、理科室のなんか」 「人体模型」 「それ。あとは知らん」 「二つだけ」 「二つも知ってれば充分だろ。人生に必要な不思議の数って、たぶん二つくらいだ」 だから調べる価値がある、とノートに書き足す。 うちの部誌は年三回、手書きの原稿をそのままコピーして綴じる。前の号は八十部刷って、六十部が余った。職員室の掲示板に「新聞部 部員募集」の紙が貼ってあって、去年の日付のままだ。生徒会からは、来年度の予算の話が来ている。 読まれるものを作らないと、次はない。 「相原、廃部になったら困る?」 「困る。行くとこなくなる」 「そこは部が好きって言うとこだよ」 「好きだよ。冷房ないけど」 去年も同じ企画をやっていないか、先に確かめておきたい。棚の下から部誌のバックナンバーの束を引っぱり出して、ついでに横に立ててあった名簿の冊子も抜いた。 新聞部が取材用に使っている、手書きの全校名簿だ。歴代の部員が鉛筆で書き足してきたもので、表紙の角が丸くなっている。クラスごとに、出席番号順で名前が並ぶ。 「去年の秋号、誰が編集長だったと思う」 「三年の誰か」 「名前は」 「顧問の前田先生に聞けよ。あの人ここ二十四年いるんだろ。歩く卒業アルバムだ」 「本人の前で言わないでよ」 「言うわけない。俺、成績つけられる側だぞ」 三年のページをめくる。一組。二組。 指が止まった。 十三番。十五番。 十四番の行だけ、名前がない。 「相原」 「ん」 「三年二組って、何人」 「知るかよ」 「番号は四十番まである。名前は三十九人分しかない」 「書き忘れだろ」 「歴代の部員が四十年書き足してきた名簿で」 「四十年やってたら一回くらい忘れる。俺なんか昨日、自分の上履き忘れて帰った」 「それはただの馬鹿」 「馬鹿と不思議は紙一重だ」 相原が名簿をこっちに引き寄せて、十四番の上下を指でなぞった。 「三年二組って、誰かいたっけ」 「バスケ部の高梨さん、二組じゃなかった」 「あー、いる。二十六番。ほら」 「じゃあ聞いてみよう。十四番、誰でしたかって」 「聞いてどうすんの」 「取材って、そういうものだよ」 「俺、初対面の三年に話しかけるくらいなら、ピアノに話しかけるほうがまだ気が楽だ」 私は一組に戻って、番号と名前の数をひとつずつ数えた。四十番まで、四十人。三組も合う。四組も合う。合わないのは二組だけだった。 もう一度、二組の十四番を見る。 そこだけ紙が薄い。少し毛羽立っている。指の腹でこすると、細かいかすが集まってきた。 「明日、理科室行こう」 「なんで俺まで」 「人体模型、朝と放課後で二回撮る。写真がないと記事にならない」 「幽霊が取材拒否だったら」 「そのときは相原が代わりに出て」 「俺、顔出しNGなんだけど」 窓の外で、野球部の号令が遠ざかっていく。相原が鞄のファスナーを閉める音がする。 「先に帰るぞ。晩飯カレーだから」 「うん」 私は名簿を膝に置いたまま、動かなかった。 空欄の上に、消しゴムの跡がある。 第2話 四つ目まで 水曜の朝、七時四十分の理科室には誰もいない。 人体模型はガラス戸棚の横に立っている。顔は黒板のほうを向いている。私はドアの内側から一枚撮って、ノートに時刻を書いた。 昼休み、三年の廊下まで行った。バスケ部の高梨さんが窓際で喋っていて、私が「二年三組の結城です」と言うと、面倒そうな顔をせずに聞いてくれた。 「二組の、十四番の人って」 「番号で言われてもなあ。あいうえお順だから、か行の後ろくらい?」 「思い当たる人、いますか」 「うち四十人だよ。全員言えって言われたら無理だけど」 「名簿には、三十九人分しかありませんでした」 「四十人でしょ。去年からずっと四十人」 「そうですか」 「そうだよ。誰か抜けたら気づくって」 高梨さんは指を折って数えはじめた。途中で笑って、やめた。 「ごめん、数えたことない」 放課後、同じ場所から、同じ角度で、もう一枚撮る。 「向き、変わってる」 「気のせいだろ」 「相原、見て。朝は黒板。いまは廊下側」 「掃除のやつが動かしたんじゃないの」 「今日、理科室に掃除当番いないよ。当番表で確認した」 「お前、そういうとこだけ異様に真面目だな」 「そういうとこだけって何」 「そういうとこだけだよ」 人体模型は肩から上が薄い色で、胸から下が濃い。長いあいだ、片側だけ日に当たっていたんだと思う。左の肩に、うっすら埃が積もっている。 床は油を引いたばかりで、台には引きずった跡がない。持ち上げて回すには、大人が二人いる。 「二つ目、確認」 「一つ目、まだだけど」 「一つ目は夜だよ。夜に鳴るの」 「無理じゃん。俺ら六時半で追い出される」 「六時半までは、いていい」 「その理屈、危ないぞ」 「危なくないよ。規則の中にいる」 「規則の中で怖い目に遭うのがいちばん腹立つんだよ。誰にも文句言えない」 「じゃあ帰る?」 「帰らない。一人にすると余計こわい」 「私が?」 「俺が」 部室で写真を貼り、割り付けの枠を引いているうちに、窓の外が濃くなった。四階の廊下は電気がつかない。非常灯だけが緑に光っている。 六時二十分。校内放送が下校を告げて、切れた。 部室のドアを閉めた瞬間だった。 「聞こえた」 「何が」 「音」 私は廊下の南のほうを見た。四階の南の端が音楽室だ。廊下は五十メートルくらいある。教室のドアが両側に並んでいて、その一番奥。 もう一度、鳴った。 高い音が一つ。ピアノの、右の端のほう。 「相原」 「聞こえた」 「行こう」 「なんでそうなるんだよ」 「取材だから」 「取材って、逃げてもいいって習ったんだけど」 「誰に」 「俺に」 言いながら、相原はちゃんとついてくる。 音楽室の前まで来て、ドアの取っ手を回した。動かない。鍵がかかっている。窓は防音の分厚いやつで、中は真っ暗だ。 立っていると、また鳴った。 同じ高さの音が、一つだけ。誰かが弾いているというより、鍵盤を人差し指で押して離した、という感じの音だった。 「一つ目、確認」 「認めたくない」 「認めなくていいよ。写真は撮れないけど」 「音は録れるだろ」 私はスマホを構えた。三分待った。鳴らなかった。 「録れなかった」 「よかったじゃん」 「よくない。記事にならない」 「命のほうが記事より大事だろ」 「まだ誰も死んでないよ」 「その言い方、今日いちばん怖かった」 ドアの下の隙間から、廊下の非常灯の緑が入っている。中に光はない。音楽室の電気のスイッチは廊下側の壁についていて、私はそれを押さなかった。押したら、押した人がいることになる。 「帰ろう」 「うん」 西階段を降りて三階まで来たとき、バケツを持った人が廊下に立っていた。用務員の佐伯さんだ。六十を過ぎているはずなのに、腕が私の倍くらい太い。 「まだいたのか」 「すみません、いま帰ります」 「四階、いたな」 「はい」 佐伯さんはバケツを床に置いた。水の音がした。 「新聞部だったか」 「はい。七不思議の記事をやってて」 「やめとけ、とは言わん」 佐伯さんは、私の手のノートを見た。表紙に「七不思議 取材」と書いてある。 「四つ目までにしとけ」 「四つ目って、どれですか」 「順番は自分でつけるもんだ」 「先に教えてくれたら、そこで止まりますけど」 佐伯さんは笑わなかった。バケツを持ち直して、私たちの横を通り過ぎる。長靴のゴムが床で鳴った。 「あの、七不思議って、全部で七つですよね」 足音が止まった。振り向かないまま、佐伯さんが言う。 「教えない。それが仕事だ」 第3話 六つしか知らない 木曜の昼休み。国語準備室は、紙とインスタントコーヒーの匂いがする。 前田先生は新聞部の顧問で、この学校に二十四年いる。机の上に古い辞書が三冊、開いたまま重ねてある。 「七不思議」 「はい。秋号でやります」 「やめなさい、とは言わないけど」 「言いたそうですね」 「言いたそうな顔をしてる自覚はあるの」 先生は湯呑みを両手で持った。九月なのに熱いお茶を飲む人だ。 「先生、七つ全部言えますか」 「言えない」 「え」 「私は六つしか知らない」 「六つ。じゃあ、あと一つは」 「知らないものを、どう言えばいいの」 「どれを知らないか、なら言えますよね」 前田先生は湯呑みを置いた。机の木が少し鳴る。 「それを言ったら、七つになるでしょう」 私はノートに、六、と書いた。書いてから、意味を考えた。考えても、そのときはまだ何も出てこなかった。 「結城さん」 「はい」 「調べるのは止めない。でも、数えるときは気をつけて」 「数える」 「そう。数えるの」 私はもう一つ聞いておきたいことがあった。 「先生、去年の新聞部って、何人でしたか」 「三人」 「三年生もいましたよね」 「いたと思う」 「思う、ですか」 「二十四年もいると、顔と名前が一年ずつずれていくのよ」 「先生、去年の話ですよ」 「そうね」 先生はお茶を飲んだ。湯呑みの底が机に当たる音がして、それきり何も言わなかった。私は礼を言って準備室を出た。廊下のほうがずっと涼しかった。 放課後、三階の北の廊下に相原を連れていった。突き当たりが女子トイレだ。三年の教室が並ぶ階だから、四時を回ると誰も通らない。 「俺、ここで待つ」 「うん」 「通報されたら弁護してくれ」 「私が通報されるほうだと思う」 入口から中を見る。手前に洗面台が三つ。奥に個室のドアが並んでいる。 「相原も数えて」 「は」 「そこから見えるでしょ。ドアの数。声に出して」 「なんで俺が」 「二人で数えたほうが確実だから」 相原は入口の枠に手をかけて、首だけ伸ばした。 「一、二、三、四」 「私も四」 「四つだな。間違いなく四つ」 「三階だけ四つなんだよ。二階も四階も三つ」 「なんで」 「知らない。ここだけ廊下が短いから、その分広いのかも」 「建物にも都合があるってことか」 「今の、少し先生っぽかった」 「やめろ。俺の将来が狭まる」 洗面台の鏡は三枚とも曇っていて、真ん中の一枚だけ角が欠けている。蛇口から水は落ちていない。 四番目のドアだけ、色が違う。ほかの三枚は薄い緑で、いちばん奥だけ木目のままだ。取っ手も丸くなくて、縦に長い金具がついている。 押した。開いた。 「入るのかよ」 「入る」 「なんかあったら叫んで」 「叫んだら来る?」 「行かない。先生呼びに行く」 「それでいい」 中は狭かった。便器と、壁の低いところに掃除用のホースの差し込み口がある。タイルは、ほかの個室より一回り大きい。目地の色も違う。あとから同じ形に作り直した、という感じがした。 天井の隅に、使われていないフックが二つ残っている。モップを引っかけるための金具だと思う。 電気は廊下から入る分だけで、足元が暗い。私はドアを閉めた。 閉めた内側に、鉛筆の線が並んでいた。 「相原」 「まだ入ってんの」 「ドア、内側」 「なに」 声が近づいて、外で止まる。 「見えないんだけど」 「開けないで」 「開けないよ。俺、ここから一歩も動いてない」 「動かないで」 「動かない。足、根っこ生えてる」 「便利な足だね」 「便利じゃない。逃げるときに困る」 線は、床から三十センチくらいのところから始まっている。しゃがまないと目に入らない高さだ。四本の縦線と、それを横切る一本。 鉛筆の濃さがそろっていない。濃いのと薄いのが交ざっている。同じ日に一気に書いたものじゃない。 同じかたまりが、右へ、右へと続いている。 内側に、正の字が並んでいる。 第4話 十二か、十三か 金曜の朝、部室で相原にノートを見せた。昨日、しゃがんだまま数えた結果が書いてある。 「正の字が八つと、線が二本」 「で、いくつ」 「四十二」 「四十二」 相原はノートを持ったまま、天井を見た。それから壁を見た。 「この校舎、築何年だっけ」 「四十二年」 「やめろ」 「私が言ったんじゃないよ」 「お前が数えたんだろ」 「数えたのは私」 「相原、築四十二年って、誰から聞いた」 「入学式。校長が言ってた」 「よく覚えてたね」 「あの話、長かったんだよ。四十二年の重みを胸に、みたいなやつ」 「重みを胸に」 「胸に置くなら軽いほうがいいよな、四十二年」 「今のは、いい線いってた」 「録音しといてくれ」 窓の外で雨が降りはじめた。九月の雨は、降ったと思ったらもう地面が黒くなっている。 「何の数だと思う」 「わかんない。テストの回数とか」 「トイレの中で」 「じゃあ、入った回数」 「四十二回入って、そのたびに線を引く人がいる」 「いてほしくないな」 「鉛筆の濃さがばらばらだった」 「それ、言わなくていい情報」 「違う人が書いてるってことだよ」 「だから言わなくていいんだって」 「相原、記事にするなら大事なとこだよ」 「大事さと、聞きたさは別なんだよ」 昨日の昼、前田先生に言われたことをノートの端に書き写してある。 数えるときは気をつけて。 あのときは、間違えないようにという意味だと思った。いまは、数えること自体を止められた気がしている。 「相原、数えるときは気をつけろって言われたら、どうする」 「気をつける」 「どうやって」 「二回数える」 「二回とも違ったら」 「三回目は数えない」 それができる人は、たぶん強い。私は三回目を数えるほうだ。 うちの学校の階段は東と西の二本ある。噂になっているのは西のほうだ。三階から四階のあいだだけ、段の数が合わないと言われている。 「昼休み、西階段行くから」 「俺、購買」 「じゃあ一人で行く」 「一人で行くって言われると行かなきゃいけない気がするだろ。ずるいぞ、その言い方」 「ずるくない。事実の申告」 結局、昼は相原が購買に負けた。私は一人で西階段に立った。 三階の踊り場から、四階の廊下まで。手すりに指を置いて、一段ずつ数える。 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三。 十三で、足が四階の床に着いた。 階段は、上から見ると角がすり減っていて、真ん中だけ白い。数え間違えるような形じゃない。 私は降りた。降りながら数えた。十二だった。 もう一度上がる。十三。 もう一度降りる。十二。 上がるときだけ増える。だとしたら、増えている段はどこにあるのか。私は途中で立ち止まって、下から見上げてみた。手すりの支柱は等間隔で立っていて、その本数を数えれば段の数がわかるはずだった。 支柱は十二本あった。段は十三あった。 昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。教室に戻るあいだ、右足と左足のどっちで上がりはじめたかを思い出そうとして、思い出せなかった。 放課後、相原を連れてきた。 「二人で数えよう。声に出して」 「昼に一人でやったんだろ」 「うん」 「で、いくつだった」 「十三と十二」 「両方あるのやめてくれない」 私たちは並んで数えた。一、二、三、と声をそろえて上がる。 十二だった。四階の床に着いたとき、相原の声も止まっていた。 「十二だな」 「うん」 「じゃあ十二だ。決まり。記事には書けない。以上」 「相原の家、階段ある」 「ある。十四段」 「数えたんだ」 「小三のとき、暇だったから」 「それ、いま役に立ってるよ」 「役に立たせたくなかったなあ、こんなことで」 相原はポケットに手を入れて、四階の廊下の奥を見た。北の端の部室のドアが、遠くで白く光っている。 「相原、先に部室行ってて」 「なんで」 「もう一回だけ」 「一人でやるのか」 「一人でやる」 相原は何か言いかけて、やめた。廊下を歩いていく上履きの音が、北の端に消えていく。 私は三階の踊り場に戻った。 手すりに指を置いて、また数える。 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二。 まだ、上に一段ある。 私は十三段目に足を置かずに、そこを見た。ほかの段は、真ん中が白くすり減っている。何十年ぶんの足が同じところを踏んで、そこだけ木の色が抜けた形だ。 十三段目の白さは、細長い。つま先のほうが丸い。雨で濡れた廊下から上がってきた上履きが、一度だけ乗って、離れた。 その段だけ、白い形がちがう。 第5話 新しい机 月曜の朝、相原が教室のドアのところで待っていた。二年三組は北寄りで、出席番号は相原が一番、私が三十四番。あいうえお順の端と端だ。 「結城。怒らないで聞いてくれ」 「怒る話なんだ」 「視聴覚室、開いた」 「開いた」 「土曜に部誌の紙取りに来ただろ。あのとき、二階の突き当たりのドア、鍵が挿さってた」 「挿さってた」 「外側から。鍵穴に。ぶら下がってた」 私は鞄を机に置いて、座った。 「入った?」 「開けただけ。中は見てない」 「見てないの」 「見てない。三十センチくらい開けて、閉めた」 「なんで」 「なんかさ、閉めたほうがいいと思ったんだよ。理屈じゃなくて」 開かずの視聴覚室、というのが五つ目だ。私が集めた話では、十年以上前から使われていない。授業で見る映像は図書室のパソコンでやる。だから開ける理由がない。 時間割の裏に貼ってある校舎の見取り図にも、その部屋だけ用途が書かれていない。四角と部屋番号だけがある。 「先週の階段の件、まだ書き方決めてないんだけど」 「十二段って書けよ。二人で数えたんだから」 「十三段のときもあった」 「あったけど、二人で数えたのは十二」 「じゃあ、二人で数えたら十二、一人で数えたら十三って書く」 「それがいちばん怖いから、やめてくれ」 「土曜のうちに言ってよ」 「言ったら結城、その日のうちに行くだろ」 「行く」 「な」 「今日行くけど」 「知ってた」 放課後、二階の北の突き当たりに立った。ドアは木で、上半分に細長い曇りガラスがはまっている。プレートには「視聴覚室」と黒い字で書いてある。字が古い。 鍵は挿さっていなかった。 「なくなってる」 「昨日はあったんだよ、ほんとに」 「疑ってない」 私が取っ手を回すと、ドアは動いた。かかっていない。 中に入ると、空気が乾いていた。閉めきった部屋の匂いがしない。かわりに、雑巾を絞ったあとみたいな匂いがした。 カーテンは全部閉まっている。長机が四列。椅子は机の上に上げてある。床に埃が積もっていて、私たちの足跡が二人分できた。 「調べすぎると、そのうち消されるよ」 「誰に」 「学校に。取材お断りって」 「じゃあ転校したら手紙書くわ」 「重いんだけど、その冗談」 「重い冗談しか持ってないんだよ、俺」 「軽いの一個くらい持っときなよ」 「軽いのは持ち歩けないんだよ。飛ぶから」 「うまいこと言った顔してる」 「してない」 「してるよ。いま鼻の穴ふくらんだ」 「観察するな。取材対象じゃないんだから」 前の壁に、白いスクリーンが巻き上げたまま吊ってある。紐が二本垂れていて、どっちも先端が切れている。教卓の上には何もない。 私は列を数えた。長机が四列、一列に五脚。二十脚ある。 前から順にカーテンを少しだけ開けて、光を入れた。埃の積もり方を見たかった。どの机も、天板の上に灰色の膜がある。指で触ると、指紋の形に木の色が出る。 三列目の、真ん中。 「相原」 「なに」 「これ、来て」 「行きたくない声出すのやめてくれる」 「行きたくない声って何」 「語尾が下がるんだよ、お前。よくないもの見つけたときだけ」 「自覚なかった」 「俺は先週からその声で三回呼ばれてる」 相原が来た。並んで見下ろす。 その机だけ、埃がない。天板の角がまだ角ばっていて、脚の金具に錆が浮いていない。裏返して貼ってあるシールに、印刷された文字が読める。ほかの十九脚のシールは、日に焼けて何も読めない。 椅子も、その一脚だけ上げられていなかった。机の下にきちんと入っている。 私は列と番号をノートに書いた。三列目の三番目。 「帰ろう」 「うん」 廊下に出て、ドアを閉める。閉めてから、私は取っ手をもう一度回した。開いた。閉まらない部屋なのに、みんな開かずの部屋だと思っている。 「五つ目、確認」 「いくつ残ってる」 「二つ」 「二つか」 「プールと、校長室」 「校長室、行きたくないな」 「どうして」 「呼ばれる場所だから。用がないのに入る場所じゃない」 相原が先に階段を降りていく。私は最後にもう一度、曇りガラスの向こうを見た。カーテンを閉めたから、中は暗い。それでも、三列目のあたりだけ、輪郭が見えるような気がした。 机が一つ、新しい。 第6話 その一しかない 水曜の放課後、部室の棚の下を全部出した。 うちの部誌は年に三回。手書きの原稿をコピーして、ホチキスで綴じるだけのものだ。段ボールの中で、古い順に紐で縛ってある。 「探すの手伝って」 「何を」 「去年の秋号」 「去年のやつ、そこの束」 相原が紐をほどく。紙の束が机の上でずれて、床に何枚か落ちた。 去年の秋号は薄かった。十六ページ。 三ページ目に、あった。 「あるじゃん」 「あるね」 「校舎の七不思議 その一」 手書きの、丸い字だった。ピアノと人体模型のことが書いてある。書き方が丁寧で、噂をそのまま並べていない。音を聞いた日の日付と時刻が入っている。理科室の写真もある。角度まで書いてある。 「これ、私とやってること同じ」 「先を越されてたな」 「一年前だよ」 「じゃあ再放送か」 私はページの端を指で押さえて、書き方を読んだ。 噂の紹介が短い。そのかわり、確かめた手順が細かい。何時に行って、どこから見て、何を持っていったか。ピアノの音は録れなかったと正直に書いてある。録れなかったことまで書く人は、そんなにいない。 「この人、上手いよ」 「そう?」 「うん。私より上手い」 「じゃあ再来週までに追い抜けよ」 「無茶言うね」 「無茶を言うのが後輩の仕事だ」 「相原、同学年だよ」 最後の行に、次号に続く、とある。 「冬号出して」 「はいはい」 冬号にも春号にも夏号にもない。 その一しか存在しない。 「途中でやめたんだ」 「飽きたんだろ」 「ここまで書いた人が」 「人間、飽きるときは飽きる。俺だって縄跳び二重跳び、二回でやめた」 「それは飽きたんじゃなくて、できなかったんだよ」 「そう言われると腹が立つな」 私は秋号のページを戻した。記事の最後、右下に「文責」の枠がある。 枠の中が、白い。 「相原、去年の三年って、誰が新聞部だった」 「知らないって」 「顧問は前田先生でしょ。同じ部室でしょ。写真、残ってないの」 棚の上のアルバムを取った。部誌の集合写真は毎年撮る。去年の秋号にも一枚ある。 三人いるはずの写真だった。写っているのは二人。私と相原だ。 その後ろに、もう一人ぶんの隙間があった。誰も立っていない。 「三人だって前田先生が言ってた」 「三人写ってないだろ」 「二人しか写ってない」 「じゃあ二人だったんだろ」 「相原、この写真撮った日のこと覚えてる」 「覚えてない」 「私も覚えてない」 「一年前だぞ」 「一年前だよ」 「去年の四月に部室来たのは覚えてる。夏の合宿もどきも覚えてる。誰かに部誌の折り方を教わったのも覚えてる」 「誰に」 「誰かに」 相原はアルバムを持ち上げて、光にかざした。写真の隙間には何もない。壁と、棚の角と、床が写っているだけだ。 「先輩、いたよな」 「いたと思う」 「思う、って言い方やめよう。前田先生と同じになる」 「うん」 「じゃあ言い直す。いた」 「どんな人」 「背は、たぶん結城くらい」 「たぶん?」 「たぶん。声は覚えてる気がする。顔がついてこない」 「私も同じ」 「これ、変だよな」 「変だよ」 「変って言えるうちは、まだ大丈夫な気がする」 部室が急に狭く感じた。窓の外はまだ明るいのに、部屋の中だけ色が薄い。 私は職員室に降りて、前田先生をつかまえた。 「去年の三年の部員、名前を教えてください」 「名前」 「はい」 「いたと思うんだけど」 「思う、じゃなくて」 「結城さん」 前田先生は、私の手にある秋号を見た。それから、ページの右下を見た。 「見つけたのね」 「何をですか」 「もう一度、そこを見なさい」 「先生、名前は」 「明かりに透かして。部室の窓のほうがいい」 「先生」 「結城さん。私が言えることは、そこを見なさい、まで」 前田先生は書類の山に向き直った。話は終わりだという背中だった。私は職員室のドアを閉めるとき、隣の校長室のプレートが目に入って、すぐそらした。 部室に戻って、文責の枠を明かりに透かした。 紙が薄い。毛羽立っている。名簿の十四番と同じだ。鉛筆の線が、下のほうにわずかに残っている。何画かは読める。読めるのに、字にならない。 署名が、消しゴムで消してある。 第7話 保護者の意向 金曜の昼休み、職員室に行った。 三年二組の担任は、社会科の若い先生だ。私が名簿のコピーを見せると、老眼鏡でもないのに紙を遠ざけた。 「十四番」 「はい。名前が入ってないんです」 「ああ、転校した子ね」 「いつですか」 「去年の秋。十月かな」 「名前を教えてもらえますか」 「それは個人情報だから」 「クラスの人なら知ってますよね」 「本人に聞いて」 「本人がいないから聞いてるんです」 「そうか。そうだよな」 「転校先は」 「転校先は、保護者の意向で」 先生はそこで言葉を切った。私が待っていると、もう一度、同じことを言った。 「保護者の意向で、お伝えしていません」 「先生は知ってるんですよね」 「書類は事務が持ってる」 「見た記憶は」 「あるはずなんだけどな」 先生は自分の机の引き出しを開けて、閉めた。開けた意味も閉めた意味も、たぶん本人にもない。 「学校ってさ、転校の処理はちゃんとしてるんだよ。名簿から名前を抜いて、出席簿を差し替えて、教科書代の精算をして。それで終わり」 「終わりなんですか」 「終わりだよ。悪いことじゃない」 「はい」 「引っ越しなんだから、そんな顔しないで」 私はそんな顔をしていたらしい。 職員室の奥に事務室がある。ついでに寄って、去年の在籍数を聞いた。事務の人は台帳をめくって、指を三年二組の行で止めた。四十。名簿のコピーを見せても、その人は同じ数字をもう一度言った。 人数は合っていて、名前だけが足りない。私はそれをノートに書いた。書いてから、その一行だけ丸で囲んだ。 ノートを閉じて、礼を言った。 出ぎわに、先生が笑って言った。 「七不思議やってるんだって? うちの部の子が言ってた。校長室の絵の目が動くやつ、あれ入ってる?」 「校長室」 「入って正面の壁。歴代の校長がずらっと並んでるやつ。あれ、夜だと目が動くって、俺が生徒のころから言われてた」 私はノートに、七つ目、校長室の肖像画、と書いた。それだけ書いて、廊下に出た。 職員室の隣が校長室だ。ドアの前を通る。木のプレートに彫った字が、金色に塗ってある。ドアは少しだけ開いていて、床に細長い光が伸びていた。 入って正面の壁、と先生は言った。ここから体を斜めにすれば、たぶん端の一枚くらいは見える。 私は廊下の反対側の壁を見ながら通り過ぎた。 書かないと記事にならない。それはわかっている。でも佐伯さんは四つ目までにしとけと言ったし、前田先生は六つしか知らないと言った。 放課後、相原と自転車置き場で待った。日が落ちるのが早くなっている。六時を過ぎると、校舎の裏はもう黒い。 プールは校舎の裏、フェンス沿いにある。九月の頭で授業が終わって、水は抜かれていないはずだった。 「行くのか」 「うん」 「俺は見ない」 「え」 「フェンスの手前で待つ。見ない」 「なんで」 「五つでやめとく。佐伯さんが四つ目までって言っただろ。俺、もう一個オーバーしてる」 「じゃあ、なんでついてくるの」 「お前が戻ってこなかったら、誰かに言わなきゃいけないだろ。それは俺の仕事だ」 「一分で終わる」 「一分か」 「一分で戻る」 「三十秒でいい」 「注文が細かい」 「細かくしとかないと、待ってる側は数えるものがないんだよ」 「数えるんだ」 「数える。数えてないと、行こうかなって思っちゃうだろ」 相原はフェンスに背中を向けて座った。本当に、一度も振り返らなかった。 私はフェンスに指をかけた。金網が冷たい。プールの水は抜かれていなくて、風で表面が細かく動いている。コースロープが片側だけ張ってある。 水面の、真ん中より少し向こう。 そこだけ、動き方が違った。風は右から左に流れているのに、その一か所だけ、波が広がっている。真ん中から外へ、丸く。何度も。 水に入って立っている人がいるとしたら、ちょうど胸まで浸かる深さだ。 私は目を上げなかった。水面だけ見て、五を数えて、離れた。 「終わった」 「早いな」 「六つ目、確認」 相原は立ち上がって、ズボンの尻をはたいた。何も聞かなかった。 昇降口に戻る。廊下の電気は半分だけついている。下駄箱の前で靴を出していたとき、後ろの階段のほうから声がした。 「八つ目、知ってる?」 第8話 九日後 昨日の声を、私は誰にも言っていない。 相原は隣にいた。振り返ったのも同時だった。階段には誰もいなかった。相原が「風だろ」と言って、私が「うん」と言って、それで帰った。 土曜日。部誌の作業で学校に来る。土曜に開いているのは昇降口の東側だけで、校舎の中は暗い。グラウンドから野球部の声がする。四階の音楽室のほうから、吹奏楽の音が降りてくる。 部室で写真を並べていると、九時半に相原からメッセージが届く。 寝坊した。十一時に行く。 既読だけつけて、返さない。返す言葉が見つからないわけじゃない。今日は一人で確かめたいことがある。 もう一つ届く。 朝飯なに食えばいい。 これも返さない。 机の上に、六つ目まで書いたノートを開いておく。プールの水面のことは、まだ文にしていない。書けば残る。残ると、消したくなったときに困る気がする。 私はスマホを置いて、階段を降りる。 昨日の場所を見ておきたい。昇降口の下駄箱の前に立って、後ろを向く。西階段。上に向かって薄暗い。手すりの支柱が並んでいる。 誰もいない。 下駄箱の扉が、上の段だけ一枚開いている。中は空だ。閉めてから、もう一度、階段のほうを向く。 「誰かいますか」 声は返ってこない。かわりに、階段の上のほうで、何か言っている音がする。 言葉になる前の音だ。ラジオを別の部屋でつけているときの感じ。私は一段目に足を置く。 「毎年、一人」 はっきり聞こえる。 私は止まる。二段目に足を置く。上を見る。踊り場の窓から光が入っていて、そこから上は白く飛んでいる。 「ちゃんと一人ずつ」 女の子の声だ。年上でも年下でもなく、教室にいそうな声。落ち着いていて、こっちに教えようとしている。 「毎年一人、何ですか」 返事はない。私はもう二段上がる。 「それが八つ目」 「八つ目って」 「知ったら、翌週の月曜」 「待って」 声はそこで終わる。踊り場まで駆け上がる。誰もいない。窓は閉まっていて、桟に埃がのっている。 三階まで上がる。廊下の突き当たりまで走る。トイレのドアは四つとも閉まっている。開けない。 四階まで上がる。部室のドアが半分開いている。私が開けたままにしていた。中には誰もいない。音楽室のほうを見る。廊下は明るくて、端まで見通せる。 降りながら、段を数える。上りは数えなかった。そのことに、いま気づく。 吹奏楽の音が、上のほうで続いている。曲の同じところで何度も止まって、また頭から始まる。 部室に戻る。息が上がっていて、しばらく机に手をついている。 言われたことをノートに書く。三行しかない。毎年一人。それが八つ目。知ったら翌週の月曜。 三行の下に、今日の日付を書き足す。九月十九日、土曜。書いた中で、数字だけがはっきりしている。 意味がわからない。毎年一人、の続きがない。何が一人なのか、声は言わなかった。 意味はわからないのに、書いた自分の字が見づらい。手が冷えていて、鉛筆の先が紙の上をすべる。 八つ目、という言葉だけが残る。七つまでしか数えていないものに、八つ目がある。 壁のカレンダーを見る。九月。今日の枠に指を置く。十九日、土曜。 翌週の月曜。指を右下へ動かす。二十日、日曜。その次が二十一日、月曜。 二日後だ。 ノートに書こうとして、手が止まる。指の場所を見る。指は二十八の枠にある。 行の並びは合っている。月曜の列は月曜の列だし、二十一は二十一のところにある。合っているのに、翌週の月曜、と口に出しながら追うと、指は二十八で止まる。 スマホを出す。カレンダーのアプリを開いて、月曜、と検索の欄に入れる。画面が一つの枠を囲む。 九月二十八日。 窓の外で、野球部が円陣を組んで何か叫んでいる。ボールがバットに当たる音がする。 十一時に相原が来る。来たら、なんて言えばいいのか。 翌週の月曜が、九日後だった。 第9話 順番が逆 月曜の朝、私は相原より早く教室に着いた。 土曜は結局、相原が来る前に帰った。帰ってから二日、ノートの三行を読み返していた。 「おはよ。土曜どこ行った」 「相原、放課後あけといて」 「あけとくけど、あいさつ返してくれない?」 「おはよう」 「間が長い。二日ぶんくらいあった」 放課後、部室で全部話した。声のこと。三行のこと。カレンダーのこと。 相原は最初、口をはさんできた。声がした、のあたりまでは笑っていた。九日後、のところで黙った。 「カレンダー見せて」 「これ」 「二十一だろ、これ」 「うん」 「二十一だよな」 「うん」 「じゃあ二十一でいいじゃん」 「相原、翌週の月曜、って言いながら指で追ってみて」 相原は追った。指が二十八で止まった。もう一度やった。同じだった。三回目はやらなかった。 「なあ、結城」 「うん」 「その八つ目ってやつ、内容はなんだったんだ」 「毎年、一人ずつ。それが八つ目。知ったら翌週の月曜」 「ずつ、何」 「わかんない。転校のことかと思ったけど」 言ってしまってから、私は自分の口を見た気がした。手のひらを口にあてたのは、言い終わったあとだった。 相原は天井を見ていた。 「言うなよ、って言うのが遅かったな」 「ごめん」 「いいよ。俺、いま聞いた」 「聞いた」 「聞いた。もう戻せない。歯磨き粉と一緒だ。出したら戻らない」 「たとえが軽い」 「軽くしないと持てないだろ、こんなの」 相原は椅子を回して、窓のほうを向いた。四階の窓からはグラウンドと、その向こうの屋根が見える。しばらくそのままでいた。 「結城、警察って、こういうの相手にしてくれるかな」 「何を届けるの」 「階段が一段多い」 「帰されるね」 「親は」 「私、母さんに言った。土曜の夜」 「なんて」 「学校の階段の段数が日によって違うって言った」 「で」 「早く寝なさいって言われた」 「正しい親だな」 「正しいよ。でも、正しいだけだと今日は間に合わない」 私はノートをめくった。確認しておきたかった。 「相原、いま何個知ってる」 「音楽室と、人体模型と、トイレと、階段と、視聴覚室」 「五つ」 「五つ。プールは見てない。肖像画も見てない」 「私は六つ」 「プール込みか」 「うん。校長室は行ってない。名前を聞いただけ」 「じゃあ、俺のほうが安全だな」 「そこ張り合うところじゃない」 「張り合ってない。数えただけだ」 「数えるの、うまくなったね」 「この二週間で人生ぶんの数を数えた」 ノートの余白に、私は表を作った。左が私、右が相原。番号を七つ並べて、確かめたものに丸をつける。私の列は六つ丸がついて、七つ目だけ空いている。 空いている枠を見ていると、名簿の十四番を思い出した。 国語準備室のドアを叩いたのは、四時十分だった。 前田先生は原稿用紙の束に赤を入れていた。私たちが入っても顔を上げない。赤ペンの音が、紙の上で細かく続いている。 「先生」 「座って」 椅子は一つしかなかったので、私が座って、相原が立った。 「先生、八つ目って、なんですか」 赤ペンが止まった。前田先生は原稿用紙を裏返してから、こっちを向いた。 「聞いたのね」 「聞きました」 「どこで」 「西階段の下です。土曜の朝」 「声は」 「女の子でした」 「言葉だけ聞いたの。それとも、中身まで聞いた」 「中身まで、です。毎年一人ずつ、って」 「言葉を聞いただけでは足りない。中身を聞いた日から数える」 前田先生は目を閉じて、それから私の顔をまっすぐ見た。二十四年ここにいる人の目だと思った。 「結城さん。七つ目は」 「知りません」 「見に行った?」 「行ってません。名前を聞いただけです」 「絵は」 「見てません」 先生の肩が下がった。息を吐いたのがわかった。 「相原くんは」 「五つです。プールも絵も見てません」 「そう」 前田先生は机の引き出しを開けて、鍵を出した。国語準備室の鍵だ。私たちを出して、自分も廊下に出て、鍵をかけた。 鍵を握ったまま、先生は言った。 「順番が逆なら、まだ残れる」 第10話 二十八年前 木曜まで、前田先生は何も言わなかった。 月曜の廊下で「まだ考えてる」と言い、火曜は出張で、水曜は職員会議だった。私は三日、二十八日という数字を見ないようにして過ごした。見ないようにするというのは、ずっと見ているのと同じだった。 木曜の放課後、前田先生が私と相原を図書室のいちばん奥に呼ぶ。三年生が受験の本を借りに来る棚の裏で、そこだけ椅子が三つある。 「三つあるんですね」 「用意したの」 「用意されると、逃げにくいな」 「私、この学校の卒業生なの」 「知りませんでした」 「言ってないもの。二十八年前、あなたと同じことをしていた」 「新聞部ですか」 「三人いた。私と、男子が一人と、女子が一人」 先生は本の背表紙を指でなぞる。埃はつかない。 「秋号で七不思議をやろうと言い出したのは、女の子のほうだった。字が丸くて、いい記事を書く子だった」 「その人は」 「十月に転校した」 相原が椅子の脚を鳴らす。先生は気にしない。 「行き先は誰も知らない。三日目に、担任が転校ですって言った。それだけ。教室で誰も質問しなかった」 「先生は」 「したわ。転校先はって。保護者の意向で、と言われた」 「同じです」 「同じでしょうね。名簿から名前が消えて、一週間経つと、みんなが『そんな子いたっけ』と言うようになった。二週間目には、私が言い出しっぺの変な子になっていた」 「先生は、忘れなかったんですか」 「私は覚えてる。覚えているというより、忘れないようにしただけ。毎晩ノートに書いた。もう字は思い出せない。名前も出てこない。それでも、いたことは覚えてる」 窓の外で、風が木を鳴らしている。図書室の中は、紙の匂いだけがする。 「先生、八つ目って」 「毎年、一人。この学校では、毎年一人ずつ転校していく」 「毎年」 「私が入学した年も、卒業した年も、去年も、今年も。ちゃんと一人ずつ」 私はノートの三行を思い出す。毎年、一人。ちゃんと一人ずつ。それが八つ目。 三行が、はじめて一つの文になる。 「それが、八つ目なんですか」 「そう。八つ目は、部屋でも音でもない。毎年一人転校しているという、それだけのこと」 「でも、それ、事実ですよね」 「事実よ」 「事実を知ると、どうなるんですか」 「知った人が、次の一人になる」 相原が口を開く。 「先生、それってさ、聞いた時点で全員アウトじゃないですか。いま俺も聞いてるし」 「七つ全部を知っている人だけ」 「順番」 「そう。七つ知って、それから八つ目を聞いた人。その人が、翌週の月曜に転校する」 私は自分の指を見る。九日後を数えた指だ。 「私、六つしか知りません」 「だから日付が決まらないの。決まらないものを数えると、指がおかしなところで止まる。それがあの九日」 「決まらないままなら、来ないんですか」 「来ない。埋まれば、決まる」 私は先生の顔を見る。三日前から聞きたかったことを、やっと聞く。 「先生は、どうやって残ったんですか」 「忘れた」 「何を」 「六つ目を。プールのこと」 「間に合ったんですか。翌週の月曜までに」 「私も、順番が逆だったの。あの子が転校して、その意味を先に聞いた。七つ目を見たのは、そのあと」 「じゃあ、先生の日付も」 「決まらなかった。決まらないうちに、減らした」 三か月かかった、と先生は言う。プールの話が出ると席を立った。夏に泳がなかった。授業は毎回、見学の紙を出した。三年の夏、水着を捨てた。フェンス沿いの道を通らなくなって、遠回りの道が習慣になった。いまでも、あそこは通らない。 「覚えてないふりじゃ足りないの。忘れるのは、本気でやらないとできない」 「先生、この前、私は六つしか知らないって言いましたよね」 「言ったわね」 「あれ、まだ全部見てないって意味だと思ってました」 「減らしたの。もともとは七つ知っていた」 「減らせるんですか」 「減らせる。ただし、戻らない。私はもう一生、プールの話ができない」 相原が下を向く。私は前田先生の手を見ている。指に、ペンだこがある。 「結城さん。あなたはまだ、忘れなくていい」 「はい」 「かわりに、増やさないで」 先生は椅子を戻して、立つ。棚のあいだの通路は狭くて、大人が一人通るのがやっとだ。すれ違うとき、先生が私の肩に手を置く。 「あなたは、七つ目を知らないまま、いなさい」 第11話 試す 九月二十八日、月曜。 私は五時に目が覚めて、六時に家を出た。誰もいない教室で鞄を置いて、名簿のコピーを開く。二年三組、三十四番、結城さやか。 ある。字は私が知っている字のままだ。 昨日の夜、母さんが私の部屋に来て、明日学校に行きたくないなら休んでもいい、と言った。私は行くと答えた。母さんは、そう、と言って出ていった。ドアが閉まってから、廊下の電気がしばらく消えなかった。 六時四十分。窓の外がだんだん明るくなる。 七時。誰も来ない。 七時二十分。バレー部の一年生が体育館に走っていく。 私は名簿の三十四番を、五分おきに見た。見るたびに、ちゃんとある。ちゃんとあるのを確かめる作業は、あるかもしれないと思いつづける作業でもあった。 八時前に相原が来た。おはよう、と言って、私の机の前の椅子を勝手に引いて座った。 「生きてるな」 「うん」 「二十八日、来たな」 「来た」 「よかった」 「よかったって言い方、軽い」 「軽く言わないと、重すぎて落とすんだよ」 「相原、土日なにしてた」 「なんもしてない」 「なんもしてない人の顔じゃないよ」 「じゃあ何した顔してる」 「言いにくいことがある顔」 「よく見てるな、お前」 「新聞部だから」 「新聞部、便利だな」 私は名簿を閉じる。相原は指でその表紙を叩いている。爪の音が、二回、三回。 「結城。俺、土曜にプール行った」 教室の声が、そのとき急に遠くなる。窓の外で、一年生がグラウンドを走っている。 「見た」 「見た」 「なんで」 「お前が一人で見に行ったのが嫌だったんだよ。俺、フェンスの手前に座ってただけだろ。あれ、ずっと引っかかってた」 「引っかかってたから見に行ったの」 「一人で見たやつと、見てないやつじゃ、話ができないだろ」 「そういうのいらない」 「いるんだよ、俺には」 私はノートを出して、表の右の列を見る。相原の列だ。丸が五つ。 六つになる。 「あと一つだよ」 「わかってる」 「わかってないよ」 「わかってる。だから言うんだけど」 相原は椅子の背に肘をかけて、天井を見た。言いにくいことを言うときに天井を見る癖がある。 「俺、校長室行こうと思う」 「行かないで」 「聞けよ。俺、八つ目を聞いてる。七つ目を見たら条件がそろう。そろったら来週の月曜に転校する。それが本当かどうか、誰も確かめてないだろ」 「確かめる話じゃない」 「確かめる話だよ。俺ら新聞部だぞ」 「新聞部は死なないよ」 「死ぬとは誰も言ってない。転校だよ。転校ってさ、行った先があるってことだろ」 「行った先を誰も知らないんだよ」 「じゃあ俺が知る側になる」 私は立ち上がる。椅子が倒れて、後ろの席の子が振り返る。 「前田先生の同級生も、去年の先輩も、みんな戻ってきてない」 「戻ってこないんじゃなくて、誰も探してないんだ」 「探したよ。私、名簿も職員室も事務室も回った」 「回って、何が出た」 「何も出なかった」 「だろ。中から見ないと、何も出ないんだよ」 「じゃあ聞くけど、相原が行った先から手紙が来なかったら、私は何を書けばいいの」 「書かなくていい」 「書くよ。私、新聞部だもん」 「じゃあ書けよ。相原っていうやつがいましたって」 「それ、去年の先輩と同じじゃん」 相原が黙った。私は言ってから、言わなければよかったと思った。思ったのに、口はまだ動いた。 「私、名前を思い出せない人のことを、もう一回書きたくない」 相原は椅子から立った。倒れた私の椅子をついでみたいに起こしてから、こっちを見ずに言った。 「それ、俺を止める理由になってない」 「なってるよ」 「なってない。お前が困るってだけだ」 言い返す言葉が出てこなかった。出てこないことが、相原には答えに見えたと思う。 一時間目の予鈴が鳴った。相原は自分の席に戻って、それきりこっちを見なかった。 昼休みに探したらいなかった。五時間目は寝ていた。放課後、教室を出るのが早かった。私は職員室に行って、前田先生を探した。会議で捕まらなかった。 部室に着いたのは四時半だ。ドアが開いていて、電気がついている。 相原が窓のところに立っている。鞄も置かずに、外を見ている。 「相原」 振り向いた顔が、いつもと同じだった。同じなのが、いちばんよくなかった。 「見てきた」 第12話 十三段目 火曜日、相原はふつうに登校して、ふつうに数学の小テストで赤点を取った。 水曜日も来た。学食で唐揚げを五個食べて、四個目がいちばん旨いと言った。 「なんで四個目」 「一個目は緊張してる。三個目まではまだ数えてる。四個目で数えるのをやめる」 「五個目は」 「五個目は、もう終わりが見えてる」 「相原、それ記事にしていい?」 「唐揚げの記事だけは載せてくれるんだな」 放課後、私は西階段の下に立つ。三階から四階の踊り場を見上げる。上のほうが暗い。 誰かが座っている。 私は手すりに指を置いて、上がる。一、二、三と数えて、途中でやめる。やめても足が数えている。 十二段目に足を置いたとき、まだ上に一段ある。 前田先生が、その段に座っている。膝の上に、赤ペンを持ったままの手が置いてある。 「先生」 「たまに来るの、ここ」 「なんでですか」 「誰も来ないから」 私は先生の二段下に立つ。それ以上は上がらない。 「相原くん、見たそうね」 「はい」 「本人から聞いた。今朝、職員室に来て、報告しますって」 「報告」 「あの子なりの筋の通し方だと思う」 前田先生は膝の紙を持ち上げた。赤が細かく入っている。 「読書感想文。夏休みの、遅れた分」 「まだ添削してるんですか」 「毎年、十月まで残るの。三人くらい」 「先生」 「この子、あらすじで四百字使ってる。感想は二行」 「先生」 「ごめんなさい。どうぞ」 前田先生は赤ペンをポケットにしまう。 「相原くんの月曜は、来週の五日」 「決まってるんですか」 「決まってる。あの子は順番どおりだから、ずれない」 「先生、私のときみたいに、ずれたりしませんか」 「ずれない」 「なんで私だけ」 「あなたが、七つ目を知らないから」 階段の上から、吹奏楽の音が降りてくる。金曜のコンクールの曲だ。同じところで止まって、また頭から始まる。 「先生、あの子、逃げられませんか」 「逃げるって」 「学校に来なければ」 「来なければ転校しない、なんて決まりはないの。二十八年前の子は、その週、ずっと休んでた」 「休んでも」 「休んでも、月曜に名簿から消えた」 「じゃあ、本当の転校届が出るわけじゃないんですね」 「出るのよ。それが厄介なところ。事務には書類がある。担任は説明する。誰も嘘をついていない」 私はノートに、書類、と書く。書いても、それが何の役に立つのかわからない。 「先生、忘れさせるしかないですよね」 「そう」 「三か月かかったって言いましたよね」 「私は三か月かかった。あの子には五日ない」 「五日しかないです」 「どれを」 私はノートを出す。相原の列の丸を、一つずつ指でたどる。 「三番目です。三階の四番目の個室」 「理由は」 「相原は、中に入ってません。入口から数えただけです。見たのはドアの枚数だけ。あいつが持ってるのは、四っていう数だけなんです」 「ほかのは」 「ピアノは音を聞いてます。人体模型は写真を撮りました。階段は自分の足で上がった。視聴覚室は鍵を開けて机を見てる。プールは一人で行った。全部、体で持ってる」 「三番目だけが、数」 「数なら、数え直せます」 「うまいわね、その考え方」 「褒められてる場合じゃないです」 「褒めてない。私は二十八年前、いちばん重いものを選んだの。プールは、体で知ってた。だから三か月かかった」 「軽いほうを選べばよかったんですか」 「そのときの私は、軽いのがどれか知らなかった。あなたは知ってる。それは、あなたが二人分の表を作ったからよ」 前田先生は、少しのあいだ黙っている。それから、自分の足元を見る。座っている段を見ている。 「結城さん。私、ここに座ると十三段目なの。ずっと前から」 「先生」 「立って数えると十二。座ると十三。おかしいでしょう」 「おかしいです」 「学校って、そういうところなの」 先生は立ち上がった。立った先生の足の下に、段はもうなかった。 部室に戻ると、相原がいる。割り付け用紙に定規で線を引いている。私は隣に座って、全部話す。三番目のこと。数え直しのこと。五日しかないこと。 相原が定規を置く。 「わかった。やる」 「ほんとに」 「やる。ただ」 「ただ?」 相原は割り付け用紙の枠を見たまま言う。 「忘れ方がわからない」 第13話 数え直し 木曜日、相原は一日じゅう三階のトイレの前にいた。 昼休みに行くと、廊下の窓枠に寄りかかって、突き当たりを見ている。 「どう」 「四つある」 「うん」 「見れば見るほど四つある。忘れようとすると、余計に増える気がしてくる」 「増えないでほしいな」 「俺もそう思う」 放課後も行った。夕方も行った。四つだった。 相原はノートに「個室は三つ」と百回書いた。書いてから、これは嘘を書いてるだけだと言って、ページを破った。破った紙をゴミ箱に入れて、拾い直して、鞄に入れた。 「嘘だと思ってるうちは、忘れられないんだよ」 「わかってるんだ」 「わかってる。俺、算数の答えを丸暗記して落ちたことがある。あれと同じだ」 「じゃあ、どうすればいい」 「たぶん、ほんとに三つだと思える理由がいる」 金曜の朝、私は用務員室のドアを叩く。 中はモップと洗剤とペンキの匂いがする。佐伯さんは椅子に座って、蛍光灯の管を布で拭いている。 「新聞部か」 「はい」 「四つ目までにしとけ、と言ったな」 「言われました」 「守らなかったな」 「守りませんでした」 佐伯さんが布を置く。私はまだドアの外に立っている。中に入っていいとは言われていない。 「相原が、七つ知りました。八つ目も聞きました」 「そうか」 「月曜です」 「そうか」 「教えてください」 「教えない。それが仕事だ」 「知ってますよね。全部」 「知ってる」 「じゃあなんで佐伯さんは、いるんですか」 佐伯さんは、はじめて私の顔をちゃんと見た。 「生徒じゃないからだ」 「それだけですか」 「それだけだ。ずるいだろ」 「ずるいです」 「だから教えない。教えないのが、いちばん減らす」 「減らすって、何をですか」 「数だ」 「四十二の」 「お前、見たのか」 私はうなずいた。佐伯さんは何も言わずに、蛍光灯の管を棚に戻した。ガラスが棚板に当たって、細い音がした。 「あれを書いたやつは、毎年替わってる」 「一人ずつ」 「そういうことだ」 私はドアの枠を握る。手が汗で滑る。 「一つだけ、質問させてください。三階の女子トイレの、いちばん奥の個室って、いつからありますか」 佐伯さんの手が止まった。しばらく蛍光灯の管を見ていた。 「最初からある」 「最初から個室ですか」 「昔は用具入れだ。モップと、バケツと、ワックスの缶が入ってた。二十年くらい前に中を替えた」 「じゃあ、あそこは」 「用具入れを、あとから個室にした」 「個室は、いくつですか」 「数えるのは、お前らの仕事だ」 佐伯さんは立ち上がって、棚から丸めた紙を出した。日に焼けた図面だ。廊下に出て、床に広げる。三階の平面図。北の突き当たり。四角が四つ並んでいて、いちばん奥の四角にだけ、細い字で「用具入」と書いてある。 「持っていけ。返さなくていい」 「佐伯さん」 「四番目の個室を、三番目だと思いこめ。数え直せ」 昼休み、私は相原を三階に連れていく。図面を渡す。 相原は廊下にしゃがんで、紙を広げる。長いあいだ、指で四角をたどっている。 「用具入」 「うん」 「これ、個室じゃないじゃん」 「そうだね」 「モップ置き場だろ」 「そうだね」 相原は紙の端を指ではじいた。それから、下を向いたまま言った。 「結城。もし月曜に俺がいなかったら」 「いるよ」 「聞けって。いなかったら、手紙書くから」 「届かないよ」 「届かないのか」 「二十八年ぶん、誰も受け取ってない」 「じゃあ、書かなくていいようにするしかないな」 「そういうこと」 相原は立った。入口の枠に手をかけて、首を伸ばした。前と同じ格好だ。 「一、二、三」 私は何も言わなかった。 「三つだ」 「うん」 「奥のは用具入れ。ドアはあるけど、個室じゃない。数に入れるほうがおかしい」 「うん」 「なあ結城、俺、なんでこんなの数えてたんだっけ」 「わかんない」 「変な話だな。トイレのドアの数なんか、誰が気にするんだよ」 「新聞部が気にするんだよ」 「新聞部は唐揚げの数を気にするんだ。ドアはよそでやってくれ」 相原は伸びをして、廊下の窓を開けた。十月の風が入ってきて、図面の端がめくれた。押さえたのは相原の手で、私はその手を見ていた。まだそこにある手だった。 相原は図面を丸めて、脇に抱えた。 私はノートの表を見た。右の列の、三番の丸を消しゴムで消した。紙が薄くなった。 土曜と日曜が過ぎた。 月曜の朝が来る。 第14話 一番 十月五日、月曜。 六時に家を出た。一週間前と同じだ。昇降口の鍵はもう開いていて、下駄箱の前に佐伯さんの長靴が置いてあった。 四階まで上がる。西階段は十三段あった。数えるつもりはなかった。 部室の電気をつけて、棚から名簿を出す。二年三組のページを開く。 一番。 相原の名前が、そこにある。 私は自分の椅子に座って、しばらく動かなかった。窓の外が明るくなっていく。グラウンドの白線が見えるようになって、野球部が来て、声が始まった。 名簿は毎年の書き足しだから、字は書いた人によってばらばらだ。相原の名前は去年の誰かの字で書かれている。丸い字ではない。角ばった、鉛筆を強く押しつける人の字だ。 私はその四文字を、指でなぞらないようにする。触ると消えるものではないとわかっていても、触らない。 七時十分に、前田先生が部室に来た。ノックもしないで開けて、名簿を見て、それだけで帰っていった。廊下を歩く音が、いつもより速かった。 七時五十分に、教室のドアが開いた。 「おはよ」 「おはよう」 「なんでそんな顔してんの」 「相原、今日、何日」 「五日。月曜」 「うん」 「小テストあるやつだろ。俺、昨日ちゃんと勉強した」 「ほんとに」 「三十分だけ」 「それは勉強って言わない」 「言うよ。三十分前の俺より賢いんだから」 「その理屈だと、寝る直前が人生でいちばん賢いね」 「そう。だから俺は寝る直前しか信用してない」 「今のところに使ってほしくないな、その頭」 「使いどころは自分で決めるんだよ」 「結果が赤点でも?」 「結果と頭のよさは別だろ」 「別じゃないよ」 「別だと思わないと生きていけないだろ」 相原は自分の席に座った。鞄からノートを出して、机に置く。前の席の子と、昨日のテレビの話をしている。 私は自分の手を見る。ずっと握っていたらしくて、指の跡がついている。 二時間目のあと、廊下で相原に聞いた。 「三階の女子トイレって、個室いくつ」 「知るかよ。入ったことない」 「前に数えたじゃん」 「数えた? 俺が?」 「入口から」 「変態か」 そう言って、相原は笑った。笑い方がいつもと同じだった。それでよかった。 抜けているのはそこだけだった。ピアノのことは覚えている。人体模型の写真の枚数も、視聴覚室の三列目のことも、プールのことも、全部そのままだ。トイレの前で二日立っていたことも覚えていた。ただ、何を数えていたのかがない。 人の記憶は、抜けたところをきれいに閉じるらしい。私が知らないだけで、私にも閉じた場所があるのかもしれない。 二階に降りる途中、相原が思い出したように言った。 「結城、今週の部誌どうすんの」 「木曜に組んで、金曜に刷る」 「間に合うか」 「間に合わせる」 「じゃあ俺、写真の焼き増ししとく。暗室、鍵借りてくる」 「相原が暗室入ると、だいたい一枚だめにするよね」 「あれは薬が古いんだよ」 「先月、新しいのに替えたよ」 「じゃあ俺が古い」 そういうやりとりが、二週間ぶりだった。二週間、私たちは日付の話しかしていなかった。 「そういえば、なんかの図面もらったよな。用務員さんに」 「うん」 「あれ、部室に貼っとく? 校舎の見取り図って、なんか新聞部っぽくない?」 「貼ろう」 「決まりな」 昼休み、私は用務員室に行く。 佐伯さんは廊下のワックスがけの準備をしている。ポリタンクを台車に載せている。 「あの」 「相原か」 「いました。名簿にもいます」 「そうか」 佐伯さんは台車のハンドルを握った。それから、手を離した。 「二十八年前、まだ生徒だった前田が、ここに来た」 「先生がですか」 「泣きもしないで、教えてくださいと言った。俺は教えなかった」 「今回は」 「教えた」 台車の車輪が、床でひとつ鳴った。 「教えないのが、俺の仕事だ。今回は、教えた」 「なんでですか」 「毎年一人ってのは、毎年一人減るってことだ。四十二年ぶんだ」 「佐伯さんは、何年ここにいますか」 「長い」 「数えてないんですか」 「数えない」 「なんでですか」 「数えると、数えたぶんだけ覚える」 佐伯さんはそれ以上言わなかった。台車を押して、廊下の奥へ行った。ポリタンクの中で液体が揺れる音が、だんだん小さくなった。 四十二、と私は口の中で言った。三階の個室のドアの内側にあった数だ。 放課後、部室で名簿を開く。もう一度、相原の名前を見たかった。 一番。ある。 ページをめくらずに、指を下へ滑らせた。二番、三番。ずっと下、三十四番。 結城さやか。 ある。字も同じだ。 私はその行を明かりに透かす。名前の右、出席番号と反対の側。何も書いていない余白のところ。 紙が、薄い。少し毛羽立っている。 名前の横に、消しゴムの跡がある。 第15話 六つの不思議 十月六日、火曜。締め切りの日だ。 昼休み、私は一階の廊下に立っている。職員室の隣、校長室のドアの前。 ドアは閉まっている。木のプレートの字が、金色に塗ってある。 入って正面の壁。歴代の校長が並んでいる。 あと三歩で、私は七つ目を知る。知れば表の丸が七つになって、日付が決まる。決まった日付は、たぶん十二日の月曜だ。数えなくてもわかった。 私が知りたいのは、行った先だ。相原が言ったとおり、誰も探していない。名簿から消えた十四番と、二十八年前の丸い字の人と、その前の四十何人かは、どこかにいる。 その先を書けば、たぶん、いい記事になる。 私はドアの取っ手を見る。金属が、手の高さで丸くすり減っている。何十年ぶんの手だ。 誰かが後ろを通る。三年生の二人組で、購買の袋を持っている。私のことを見もしない。 去年の秋に転校した人は、この廊下を歩いていた。二十八年前の丸い字の人も歩いていた。二人とも、たぶんここで同じことを考えた。あと三歩だと考えた。そして三歩、進んだ。 進んだ人の書いたものは、途中で終わっている。 途中で終わった記事は、誰にも読まれない。 三歩、下がる。 振り返らずに東階段まで歩いて、四階まで上がる。 部室で、割り付け用紙を全部やり直す。 七つ目の枠を消して、レイアウトを組み直す。真ん中の見出しを書き換える。 校舎の六つの不思議 「七じゃないんだ」 「七じゃない」 「読者、突っ込むぞ」 「読者、二人でしょ」 「増えるかもしれないだろ。今回のは面白いから」 「締め切り、九月末じゃなかったっけ」 「二回延ばした。前田先生が判子を二回押してくれた」 「先生、甘いな」 「甘くないよ。一回目は、一週間しか延ばしてくれなかった」 「二回目は」 「言わずに延ばしてくれた」 相原は写真を貼っている。人体模型の朝と放課後。西階段の段。視聴覚室の三列目。プールのフェンス。 ピアノとトイレの写真はない。記事は六つとも入れた。写真の抜けたところに、校舎の見取り図が一枚入る。 「なあ、この六つ目のプールのやつ、書いたの結城だろ」 「うん」 「俺、これ読むと足の裏が冷たくなる」 「褒めてる?」 「褒めてる。俺は褒めるとき足の裏の話をする」 「初耳だよ」 「初耳だろうな。いま作った」 「作ったんだ」 「褒め方って、その場で作ったほうが伝わるんだよ」 私は写真の順番を入れ替える。プールを最後に置いて、その下に一行だけ入れる。 この六つ以外に、この校舎で確かめたことはありません。 嘘ではない。七つ目は確かめていない。 放課後、原稿を国語準備室に持っていく。前田先生が枚数を数えて、最後のページで手を止める。 「六つ」 「はい」 「七つ目は」 「書きません」 「見た?」 「見てません」 先生は原稿をそろえて、机の端に置いた。それから、湯呑みにお茶を注いだ。十月なのに、まだ熱いお茶を飲む人だ。 「結城さん。来年もやるの、七不思議」 「やりません」 「そう」 「先生、これ、私が卒業したらどうなりますか」 「あなたが書いた六つが残るでしょう」 「残ったら、誰か読みます」 「読むわね」 「読んだら、その人が六つ知ります」 「そうね」 前田先生は湯呑みを持ったまま、しばらく何も言わなかった。 「だから、六つにしたんでしょう」 「はい」 「一つ足りない話は、続きを書きたくなる人が出てくるわよ」 「出てきたら、そのとき止めます」 「私、二十四年止めてきた」 「はい」 「たいして上手くいってない」 「それでも、先生がいたから私は残ってます」 先生はお茶を一口飲んで、湯呑みを机に置いた。底の当たる音が、はじめてこの部屋で話した日と同じだった。 「結城さん、原稿の最後の一行、いいわね」 「どれですか」 「確かめていません、って書くところ。書かないことを、書いてある」 部室に戻ると、相原がホチキスの針を補充している。 「先生、なんて」 「六つでいいって」 「よかった」 「相原、来年もやる?」 「新聞部を?」 「うん」 「やる。ほかに行くとこないし」 「そこは好きって言うとこだよ」 「好きだよ。冷房ないけど」 「それ、九月にも言ってた」 「俺の持ちネタ、そんなに多くないんだよ」 「増やしなよ」 「増やすと、どれが本気かわからなくなるだろ」 「どれが本気なの」 「冷房のほうだよ」 「そっち」 「そっち」 部誌は金曜に刷った。八十部のうち、四十部がその週に減った。うちの部誌が四十部減ったのは、たぶんはじめてだ。相原が数えて、二回数えて、三回目はやらなかった。 いまでも、私は校長室の前の廊下を通らない。遠回りが習慣になった。 階段は、一人のときは十三ある。数えないようにしている。 名簿の三十四番は、まだ私の字だ。毎朝、開いて確かめる。横の余白は、あのままだ。 七つ目は、知らない。知らないまま、いる。

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