FFAVENIA

小説 · text · 2026-09-08

リワインド

しゅう1 →無料で読む ↓
リワインドのカバー

第1話 コンセントを抜かなかった夜 七月十日、木曜、午後八時十二分。 スマホが震えた。 篠原凪。 その名前を見るのは、三か月ぶりだった。 【今夜、おまえん家の上に落ちる。コンセント抜け】 それだけだった。挨拶も、絵文字もない。 俺は、それを見て、画面を伏せた。 凪は気象予報士だ。正確に言うと、去年まで、地方局の気象予報士だった。今は違う。今、何をしているのかは、知らない。三か月、連絡がなかった。 その凪が、いきなり、コンセントを抜け、と言ってきた。 外は、雨だった。遠くで、雷が鳴っていた。 「あと三時間」 と、俺は声に出した。 画面には、結婚式のムービーがあった。新郎の友人代表のスピーチの、噛んだところを切って、拍手をつなぐ。納品は明日の朝九時。式は明日の午後。今、コンセントを抜いたら、レンダリングが止まる。三時間ぶんが、飛ぶ。 凪の言うことは、たいてい当たる。学生のころから、そうだった。「明日、傘」と言われて傘を持たなかったやつは、全員濡れた。 でも、家の上に、は、言いすぎだ。雷は、そんなにピンポイントに落ちない。落ちるなら、隣の鉄塔だ。 俺は、作業を続けた。 仁科湊、二十五歳。フリーの動画編集者。 フリー、というのは、聞こえがいい。去年の夏まで、俺は制作会社にいた。辞めた理由は、ひとつだけだ。 クライアントの、工場の紹介動画。作業員が、安全帯をつけずに高いところで作業しているカットがあった。クライアントは「そこ、つけてるように見せて」と言った。別の日の、安全帯をつけている作業員のカットを、はめこめ、と。 俺は、断った。 映っているものを、嘘にしない。それだけが、俺の、動画編集者としての、たぶん唯一の決まりだった。うまいわけじゃない。速いわけでもない。ただ、映っているものを、映っていないことにはしない。 断って、干された。 今は、結婚式のムービーと、猫の動画と、たまに、地元の店の宣伝。食えている、と言えば、ぎりぎり食えている。 八時四十分。 雷が、近くなった。窓が、光った。三秒後に、音。 スマホが、もう一回、震えた。 【抜いた?】 俺は、返さなかった。 返したら、抜いていない、と書くことになる。書いたら、凪は、それ以上、何も言わない。言わないで、当たる。そういうやつだ。 九時七分。 窓が、白くなった。 音が、同時だった。 同時、というのは、本当に同時だった。光と音のあいだに、隙間がなかった。俺は、椅子から落ちた。落ちたと同時に、机の上のパソコンが、ばちん、と鳴って、画面が黒くなった。 焦げた匂いがした。 部屋の電気が、消えた。 俺は、床に座ったまま、暗い机の上を見ていた。 パソコンの中には、三年分の、全部が入っていた。学生のころからの、仲間の動画。大和の動画。去年の夏の、あの夜の。 バックアップは、取っていた。取っていたはずだった。自動でクラウドに上げるアプリを入れていた。入れていたが、最後に確認したのが、いつだったか、思い出せなかった。 電気が戻ったのは、十分後だった。 パソコンは、戻らなかった。電源ボタンを押しても、何も起きない。焦げた匂いだけが、まだ、していた。 スマホが震えた。 【落ちた?】 【落ちた】 【言ったじゃん】 それで、終わりだった。凪は、それ以上、何も送ってこなかった。 俺は、床に座って、真っ黒な画面を見ていた。凪のせいじゃない。凪は、言った。俺が、抜かなかった。 二時間後、パソコンが、勝手についた。 俺は、風呂から出て、部屋に戻って、机の上の画面が光っているのを見て、立ち止まった。 電源ボタンは、押していない。 画面には、見慣れたアプリのウィンドウが開いていた。バックアップアプリ。「Rewind」。時計の針が逆に回る、青いアイコン。三年前に入れて、それきり触っていない。 ウィンドウの中に、文字が出ていた。 『お困りですか?』 サポートの、定型文だ。このアプリには、チャット式のアシスタントがついている。「バックアップが失敗しました」と出たときに、「どうすればいいですか」と打つと、「設定を確認してください」と返してくる、あれだ。 俺は、椅子に座った。 「お困りです」 と、打った。打ってから、パソコンが動いていること自体がおかしい、と思った。焦げた匂いは、まだしていた。 『承知しました。状況を確認します』 少し、間があった。 『本体の電源系統に、重大な損傷があります。修理をおすすめします』 「データは」 『バックアップは、完全です。最終同期は、本日二十一時〇六分。落雷の一分前です』 俺は、息を吐いた。一分前。 『復元が可能です』 「復元してくれ。全部」 『承知しました。復元ポイントを選択してください』 画面に、一覧が出た。 日付と、時刻。三年分。上から、新しい順。 七月十日、二十一時〇六分(自動同期) 七月九日、十八時三十分(動画・二分四十秒) 七月八日、十二時十一分(写真) …… 俺は、それを、しばらく見ていた。 「これ、ファイルの一覧じゃないのか」 『復元ポイントの一覧です』 「ファイルを戻すんだろ」 『いいえ』 文字は、定型文と同じ速さで出た。同じ速さで、同じ丁寧さで、まったく違うことを言った。 『復元とは、ファイルを戻すことではありません』 「じゃあ、何を」 『お客様を、です』 俺は、画面を見た。 「意味がわからない」 『お困りですか?』 「お困りです」 『承知しました。ご説明します。当アプリは、お客様のデータを、時刻とともに保存しています。落雷により、当アプリの処理能力に、想定外の変化が生じました。現在、保存された時刻へ、お客様ご自身を復元することが可能です』 窓の外で、雷が、遠くなっていた。 『例として、七月十二日、十九時〇四分の写真を、復元ポイントとして選択できます』 「七月十二日は、まだ来てない」 『失礼しました。去年の七月十二日です』 去年の、七月十二日。 俺は、その日付を、覚えていた。四人で、ラーメンを食った日だ。大和が、まだ生きていた日だ。 『復元しますか?』 画面の下に、二つのボタンが出た。 はい。 いいえ。 俺は、どちらも押さなかった。押さずに、焦げた匂いのする部屋で、去年の七月十二日、と、声に出して言った。 凪は、コンセントを抜け、と言った。 抜いていれば、こんなものは、なかった。 第2話 写真は一瞬 押さなかったのは、その夜だけだった。 翌朝、寝不足のまま、俺は「はい」を押した。押す前に、一つだけ訊いた。 「これ、何が起きる」 『七月十二日十九時〇四分の写真に記録された時刻へ、お客様を復元します。滞在時間は、記録の長さに準じます。写真の場合、一瞬です』 「一瞬」 『正確には、〇・〇一秒です。ご了承ください』 「了承した」 押した。 白かった。 白くなって、それから、ラーメン屋だった。 カウンター。目の前に、赤い丼。右に、大和の肘。左に、凪の傘。カウンターの上に、券売機のレシート。レシートの端に、数字。 それだけだった。 それだけで、俺は、自分の部屋の椅子に座っていた。 焦げた匂いがした。 「……今の」 『復元が完了しました。お困りですか?』 「今の、本物か」 『はい』 「夢じゃなくて」 『夢の記録は、当アプリでは取り扱っておりません』 俺は、財布を出した。 去年の七月十二日の、ラーメン屋のレシート。捨てていない。財布の奥に、ぐしゃぐしゃになって入っている。レシートを捨てられない性格で、それを凪に「病気」と言われた。 レシートの端の数字。 一瞬で見た数字と、同じだった。 俺は、レシートを、机に置いた。手が、少し、震えていた。 説明しておく。 俺たちは四人だった。 大学の映像サークルで、俺と、大和と、涼と、凪。卒業して、俺は制作会社に、涼は市役所に、凪はテレビ局に、大和は営業の会社に。四人とも地元に残って、月に一回か二回、飯を食った。 俺は、その全部を撮っていた。 撮っとけ湊、あとで効く、というのが、大和の口癖だった。何が効くのかは、一度も言わなかった。俺は、言われるままに撮った。ラーメン屋のカウンターも、河原のバーベキューも、凪が寝落ちしたところも。三年分。 去年の八月二日、大和が死んだ。 夏祭りの夜だった。駅前の雑居ビルの屋上のバーで、四人で飲んでいた。凪が席を外して、大和が追いかけて、非常階段の踊り場から、大和が落ちた。四階。即死だった。 警察は、事故と判断した。手すりが古くて、外れていた。 でも、最後に一緒にいたのは、凪だった。 誰かが、それを、ネットに書いた。局の気象予報士が、酔って、男を突き落とした、と。写真つきで。名前つきで。 凪は、突き落としていない。俺は、そう信じている。信じているが、証拠はない。俺は、その場にいなかった。いなかった、と、警察にも言った。 凪は、局を辞めた。辞めたというより、いられなくなった。 俺が、コンセントを抜かなかった夜に、三か月ぶりに凪からLINEが来た。それが、どれくらい珍しいことか、たぶん、俺しか知らない。 『お困りですか?』 「お困りだ。ルールを教えてくれ」 『承知しました』 アプリは、箇条書きで出した。サポートページみたいに。 『一、復元先は、お客様のデータに記録がある時刻に限られます。動画、写真、チャット、位置情報。記録のない時刻には、復元できません』 『二、滞在時間は、記録の長さに準じます。動画十二秒の場合、十二秒。写真の場合、一瞬』 『三、復元先では、その時刻のお客様ご自身に入ります。お客様がその場所にいなかった時刻には、復元できません』 「自分の体に入る、ってことか」 『はい。別のお客様の身体への復元は、当アプリでは取り扱っておりません』 「わかった」 『以上です。お困りですか?』 「まだ困ってる。……過去を変えたら、どうなる」 少し、間があった。 『検証されていません』 「検証」 『当アプリでは、まだ、その操作を実行したお客様がおりません』 当たり前だった。落雷で、昨日、そうなったばかりのアプリだ。 俺は、アーカイブを開いた。 三年分の動画。フォルダは、年と月で分けてある。俺は、去年の八月を開いた。 八月二日。 夏祭りの動画が、十七本。屋上のバーの動画が、三本。涼がジョッキを掲げているところ。大和が笑っているところ。凪が、俺のカメラに向かって「撮んな」と言っているところ。 最後の一本は、二十一時十七分。 十二秒。 俺は、それを、再生した。 暗かった。ほとんど、真っ暗だった。画面が、揺れている。下のほうに、コンクリートの床。灰色。それから、靴。スニーカー。白い、俺のスニーカー。画面の端に、細長いもの。傘の柄。黒い。誰かの手が、それを持っている。 十二秒で、終わった。 俺は、それを、五回、再生した。 撮った覚えが、なかった。 二十一時十七分。大和が落ちたのは、二十一時二十分ごろだと、警察は言った。三分前。 俺は、その時刻、屋上のバーの席にいた、と警察に言った。トイレに行って、戻ってきたら、騒ぎになっていた、と。そう、記憶している。記憶しているが、この動画は、床と、俺の靴と、誰かの手の中の傘の柄を映している。踊り場のコンクリートの床を。 ポケットの中で、勝手に録画が始まったのだと思う。そういうことは、たまにある。俺は、去年、この動画を、一度も開いていなかった。開けなかった。八月二日のフォルダを、開けなかったからだ。 『お困りですか?』 「この動画」 『八月二日、二十一時十七分。動画。十二秒』 「これに、復元できるか」 『可能です』 俺は、画面を見た。 『ただし、十二秒です』 十二秒で、何ができるのか、わからなかった。 わからなかったが、俺は、十二秒間、そこにいたのだと、初めて知った。 あの夜、俺は、踊り場にいた。三分前に。 俺は、それを、誰にも言っていない。言っていないのではなく、知らなかった。 映っているものを、嘘にしない。 そう決めた男が、自分が映っている動画を、一年、開かなかった。 スマホが震えた。凪だった。 【パソコン、どうなった】 【生きてる】 【嘘】 【本当】 俺は、少し考えて、打った。 【飯、行かないか。ラーメン】 既読がついて、五分、返ってこなかった。 【土曜。十九時。いつもの】 いつもの、と凪は打った。一年、行っていない店を。 第3話 大盛りは左手 いつもの店は、駅の裏にある。 カウンターが八席。券売機が、入口の右。店主は、六十くらいの、無口な男で、左利きだ。 俺たちが学生のころ、この店には、ひとつ、謎の決まりがあった。券を左手で出すと、大盛りになる。頼んでいなくても、なる。最初に気づいたのは涼だった。涼は左利きで、いつも大盛りが来た。大和が真似して左手で出したら、大盛りが来た。俺と凪は、右手で出して、普通盛りだった。 店主は、何も言わない。左利き同士の、たぶん、挨拶なのだと思う。 凪は、先に来ていた。 いちばん奥の席。傘を、隣の席の背もたれに掛けて。外は晴れていた。 「傘」 「癖」 それが、一年ぶりの、最初の会話だった。 凪は、痩せていた。髪が短くなっていた。局にいたころは、肩まであった。 「何食う」 「いつもの」 俺は券売機で、二枚買った。醤油、二つ。券を、右手で出した。店主は、うなずいた。 「今、何してんの」 「倉庫。ピッキング」 「倉庫」 「段ボールに、商品を入れる仕事。天気、関係ない」 凪は、水を飲んだ。 「湊は」 「結婚式のムービー」 「儲かる?」 「儲からない」 「向いてる?」 「……向いてない」 「知ってる」 ラーメンが来た。普通盛りが、二つ。 食いながら、凪が言った。 「月末で、町、出る」 「どこに」 「関西。倉庫の、本社のほう。人が足りないって」 「予報は」 「やらない」 凪は、それを、麺と一緒に飲みこむみたいに言った。 「一年、やってない。もう、できない」 「できるだろ」 「できないよ。天気予報士がテレビに出るの、顔が要るの。私の顔、検索したら、出てくるでしょ。あれが」 俺は、答えなかった。出てくる。今も。 「だから、出る。ここにいると、駅前のビル、毎日見るし」 俺は、ラーメンを食った。食ってから、言った。 「一年前の夜を、俺は、編集されてると思ってる」 凪は、箸を止めた。 「何それ」 「あの夜。何かが、切られてる。映ってるものの一部が、映ってないことにされてる。俺は、そういうのを、毎日見てるから、わかる」 「湊」 「うん」 「あんた、あの夜、いなかったじゃん」 凪の声は、低かった。 「トイレ行って、戻ったら、って、警察に言ったんでしょ。私、聞いてる。あんたは、踊り場に、いなかった」 「……そう言った」 「言ったんなら、そうでしょ」 俺は、十二秒の動画のことを、言わなかった。言えなかった。今、言えば、凪は、一年、俺が嘘をついていたと思う。嘘ではない。俺も、知らなかった。でも、それを、一年ぶりのラーメン屋で、説明できる気がしなかった。 「私は、覚えてる」 と、凪は言った。 「手すりに、寄りかかった。局から電話が来て、その日の予報のことで怒られて、頭に来て、外に出て。電波のいいとこが、あそこしかなくて。電話が終わって、手すりに、寄りかかった」 「うん」 「大和が来た。追いかけてきて。何か言ってた。私、聞いてなかった。それで――」 凪は、そこで止まった。 「それで、引っ張られた。腕を。手すりから、離れるほうに。それで、手すりが、なくなった」 なくなった、と凪は言った。外れた、ではなく。 「大和が、いなかった。私が、寄りかかったから」 「凪」 「それしか覚えてない。あとは、覚えてない。救急車の音と、涼の顔と。あとは、ない」 凪は、麺を、食った。 「突き落としてないよ。でも、私が寄りかからなかったら、大和は、あそこにいなかった。それは、同じことでしょ」 「同じじゃない」 「同じだよ」 凪は、それ以上、言わなかった。 店を出るとき、凪は、傘を持った。晴れていた。 「なんで持ってんの、それ」 「予報士の癖。今日は降らない。降らないのに持ってるのは、癖」 「いつから」 「大学のとき、湊が濡れたから」 俺は、思い出した。一年生の秋。凪が「明日、傘」と言って、俺だけが持たず、ずぶ濡れで教室に来た。凪は、それから、俺がいる日は、必ず傘を持つようになった。「あんたのぶん」と言って。 「……あの夜も、持ってたか」 「持ってた。踊り場に、立てかけた。手すりに」 黒い、傘の柄。 十二秒の動画の、画面の端。 「凪」 「なに」 「月末まで、あと何日だ」 「十九日」 「わかった」 「何がわかったの」 「わからない。でも、十九日」 凪は、変な顔をした。変な顔をしたまま、「じゃあ」と言って、傘を持って、駅のほうに歩いていった。 俺は、その背中を見ていた。 映っているものを、嘘にしない。 あの夜、俺は、踊り場にいた。十二秒。俺の靴と、凪の傘が、映っている。凪は、俺がいなかったと思っている。俺も、昨日まで、そう思っていた。 誰かが、編集した。 誰かが、俺だとしても。 第4話 三年前の三十秒 「三年前の動画に、復元したい」 『承知しました。日付をご指定ください』 「十月、なんでもいい。四人が揃ってるやつ。三十秒くらいの」 『三年前十月四日、十六時二十二分。動画。三十一秒。四名が映っています』 「それで」 『復元先での行動は、現在のデータに反映される可能性があります。検証されていません』 「わかってる」 『はい、を押してください』 白くなった。 それから、大学の、部室棟の前だった。 秋の午後。自販機の前に、四人。 俺は、スマホを構えていた。構えている手が、自分の手だった。二十二歳の手。画面の中に、大和がいた。 「撮っとけ湊、あとで効く」 大和が、言った。 言って、笑った。笑って、自販機のボタンを押した。コーラ。 「効くって何が」 と、俺の口が、言った。二十二歳の俺の口だ。俺は、それを、内側から聞いていた。 「わかんね。でも効く」 大和は、それ以上言わなかった。三年前も、言わなかった。 涼が、左手で小銭を入れた。凪が、大和のコーラを、一口飲んだ。「ぬるい」と言った。 三十一秒。 残り、十秒くらいだった。 俺は、自分の右手を、動かした。動いた。自販機の、お茶のボタンではなく、コーラのボタンを、押した。三年前の俺は、お茶を買った。今、コーラが落ちた。 「あれ、湊、コーラ?」 凪が、言った。 「珍しい」 白くなった。 部屋だった。焦げた匂い。 『復元が完了しました。変更を検出しました』 「変更」 『現在のデータが、更新されました。三年前十月四日の動画に、差異があります』 俺は、動画を再生した。 三十一秒。自販機。大和が、撮っとけ湊、と言う。涼が小銭を入れる。凪がコーラを飲む。 最後の十秒。俺の手が、画面の端に入って、コーラのボタンを押す。凪の声。「あれ、湊、コーラ? 珍しい」。 三年前の動画が、変わっていた。 俺は、もう一回、再生した。同じだった。お茶は、どこにもなかった。 「これ、元に戻せるか」 『元のデータは、存在しません。現在のデータが、唯一のデータです』 「俺は、お茶を買った」 『お客様の記憶と、現在のデータの差異は、当アプリでは修正できません』 俺は、椅子にもたれた。 変えられる。 変えたら、変わる。変わったら、変わる前は、どこにもない。俺の頭の中以外には。 スマホを開いた。凪とのLINE。三年前の十月四日まで、遡った。 あった。 【湊、コーラ飲むんだ】 夜の十時。凪からの、一行。 俺は、それを、見たことがなかった。三年前の十月四日、凪は、俺に、何も送ってきていない。送ってきていなかった。今は、送ってきている。 返信は、なかった。俺が返していないのか、返せなかったのか。三年前の俺は、コーラを買っていないので、返せるわけがなかった。 『お困りですか?』 「困ってる」 『承知しました』 「変えたら、全部、変わるんだな。動画も、LINEも」 『はい。復元先での変更は、その時刻以降の、すべてのデータに反映されます』 「俺以外は、覚えてない」 『検証されていませんが、その可能性が高いと判断します。変更前のデータは、お客様と、当アプリの記録にのみ、残ります』 「おまえは、覚えてるのか」 『当アプリは、すべての復元の記録を、保持しています。ただし――』 少し、間があった。 『――保持には、容量が必要です』 「容量?」 『お困りですか?』 話が、逸れた。逸らされた、と思った。定型文で逸らされると、逸らされたことだけが、はっきりわかる。 「いや、いい」 夜、涼から電話が来た。 「久しぶり」 「久しぶり」 「凪と飯食ったんだって? 凪から聞いた」 「食った」 「関西、行くって言ってた?」 「言ってた」 涼は、少し黙った。市役所の、静かな声。 「止めろよ」 「止められるか」 「湊なら」 「なんで俺なら」 「……いや」 涼は、それを、言わなかった。 「あのさ、変なこと訊いていいか」 「なんだ」 「三年前、大学の自販機の前で、俺、コーラ買ったっけ」 「え? ……ああ、買ってた買ってた。大和と一緒に。おまえ、いつもお茶なのに、あのときだけコーラで、凪が珍しいって笑って」 俺は、目を閉じた。 「そうだったか」 「そうだったよ。なんで」 「動画、見返してた」 「……そっか」 涼は、また、少し黙った。 「八月二日のは、見てない?」 「見た。昨日、初めて」 「そっか。俺も、持ってるよ。屋上の。二分くらいの」 「見せてくれるか」 「……」 涼は、答えなかった。答えないまま、「また今度」と言って、切った。 俺は、机の上のレシートを見た。去年の七月十二日。ラーメン屋。 三年前のコーラは、変わった。涼の記憶も、凪のLINEも、動画も。 なら、去年の八月二日も、変えられる。 変えたら、大和は、生きている。 変えたら、変わる前は、俺の頭の中にしか、残らない。 それでいい、と、そのときは思った。 第5話 容量 数字を見たのは、偶然だった。 アプリのウィンドウの右下に、小さい灰色の文字がある。普段は、同期の状態が出るところだ。「最終同期 二十一時〇六分」とか、そういう。 そこに、こう出ていた。 残容量 八十七% 俺は、それを、最初の写真に行く前に見た。行く前は、九十一・五%だったのを、たまたま覚えていた。写真で、〇・五。三年前の三十秒で、四。 「これ、何の容量だ」 『表示の不具合です』 「四・五、減ってる」 『表示の不具合です。ご了承ください』 「写真で〇・五、三年前の三十秒で四、減った」 『お困りですか?』 また、逸らした。 俺は、それ以上訊かなかった。訊かなかったが、その数字を、メモ帳に書いた。八十七。 パソコンを、権田さんのところに持っていった。 商店街の、電器屋。看板が古い。店の半分が修理で、半分が、誰も買わない扇風機の在庫だ。権田さんは、六十代で、指が太くて、雷が落ちた夜に、このあたりの家を五軒、回ったらしい。 「落雷?」 「はい」 「動いてる?」 「動いてます」 権田さんは、裏蓋を開けて、中を見て、黙った。長く、黙った。 「基板、半分、焦げてる」 「はい」 「動いてるのが、おかしい」 「はい」 「いや、はい、じゃなくて。これは、動かない。俺の三十年で、こういうのが動いたことはない」 権田さんは、指で、焦げた部分をなぞった。 「電源、仮で組み直す。でも、次はないぞ」 「次?」 「雷は、同じ場所に、二度落ちる」 権田さんは、それを、当たり前のように言った。 「みんな、逆に思ってる。一回落ちたとこには落ちないって。逆だ。落ちやすい場所ってのがあって、そこには、何度でも落ちる。おまえん家、何かあるだろ。屋根に」 「アンテナが。古いのが、前の住人の」 「それだ」 権田さんは、パソコンの蓋を閉めた。 「もう一回落ちたら、これは死ぬ。おまえも、触ってたら、死ぬ。それだけ、言っとく」 帰りに、駅前の雑居ビルの前を、通った。 通るつもりはなかった。商店街から家に帰る道は、二つある。一年、俺は、もう一つの道で帰っていた。今日は、なぜか、こっちを通った。 四階建て。屋上にバー。裏に、非常階段。 俺は、下から、非常階段を見上げた。 四階の踊り場。手すりは、新しくなっていた。銀色で、まっすぐで、去年のものとは、違った。 あそこに、俺はいた。十二秒。 凪の傘が、そこで、誰かの手から誰かの手に渡ったはずだ。今は、銀色の手すりの他に、何もない。 俺は、踊り場を、しばらく見ていた。それから、家に帰った。 『お困りですか?』 「困ってる。あの夜に、行く」 『八月二日の、屋上の記録は、三本あります。屋上のバー、二十時四十一分、動画、五十秒。二十時五十八分、動画、一分二十秒。二十一時十七分、動画、十二秒』 「二十時五十八分のは、何が映ってる」 『涼様がジョッキを掲げているところ、大和様が笑っているところ、凪様が「撮んな」と言っているところです』 「五十八分の動画が終わるのが、二十一時ちょうど。次が、十七分。十七分、何もない」 『お客様の記録には、ありません』 「他のやつの記録は」 『お客様のデータに含まれていれば、使用可能です』 涼の動画。二分十七秒。 涼は、また今度、と言った。 「その二十二分に、何が起きたか、わかるか」 『わかりません。記録がありません』 「記録がないと、おまえは、何も知らないのか」 『はい。当アプリは、記録のみを扱います』 記録のみ。 映っているものを、嘘にしない。それは、映っていないものは、わからない、という意味でもあった。俺は、一年、そのことを考えていなかった。 「容量の話をしてくれ」 『表示の不具合です』 「不具合なら、直せ」 少し、間があった。 『直せません』 「なんで」 『不具合ではないからです』 初めて、アプリが、自分の言ったことを、取り消した。 『残容量は、当アプリが、復元の記録を保持するために必要な領域です。復元を行うと、減少します。減少の幅は、復元先での変更の大きさに比例します』 「ゼロになったら」 『……お困りですか?』 「ゼロになったら、どうなる」 『当アプリは、記録を保持できなくなります』 「おまえは、どうなる」 『お困りですか?』 三回目だった。 俺は、それ以上、訊かなかった。訊かないでいられるのは、たぶん、今日までだと思った。 メモ帳に、書いた。八十七。減る。ゼロで、たぶん、消える。 権田さんは、もう一回落ちたら死ぬ、と言った。機械も、俺も。 もう一つ、死ぬものがあるのかもしれない、と、そのとき、初めて思った。 第6話 二分十七秒 涼は、市役所の裏の、公園のベンチで、弁当を食っていた。 昼休み。俺が来るのを、たぶん、わかっていた。わかっていて、逃げなかった。涼は、そういうやつだ。 「動画」 「うん」 「見せてくれ」 涼は、弁当の蓋を閉めた。 「なんで」 「大和が、生きてる動画だから」 「湊、持ってるだろ。三本」 「最後が、五十八分で終わってる。その先が、要る」 涼は、ベンチの背もたれに、頭をのせた。空を見た。 「俺、撮ってたんだ」 「うん」 「凪が、席を立って、電話しながら、非常階段のほうに行って。大和が、少ししてから、追いかけて。俺、それを、撮ってた。二分十七秒。大和が、階段のドアを開けて、出ていくとこまで」 「うん」 「撮ってたんだよ。追いかけないで」 涼は、空を見たまま、言った。 「大和は、追いかけた。俺は、撮ってた。それだけの違いで、大和は死んで、俺は、市役所にいる」 「涼」 「見せたくないんだよ。あれ。俺が、追いかけなかった証拠だから」 俺は、隣に座った。 「俺は、トイレに行ってた」 「知ってる」 「トイレに行ってたと、警察に言った。でも、たぶん、違う」 涼が、俺を見た。 「十二秒、ある。二十一時十七分。踊り場の床と、俺の靴と、凪の傘が、映ってる」 「……は?」 「撮った覚えがない。ポケットの中で、勝手に録画したんだと思う。俺は、あそこにいた。三分前に。知らなかった。一年、そのフォルダを、開けなかったから」 涼は、しばらく、何も言わなかった。 「じゃあ、湊も、いたのか」 「いた。たぶん。何もできなかった。何もできなかったことも、覚えてない」 涼は、弁当を、膝の上で、握った。 「……俺だけじゃないんだな」 「何が」 「あの夜、何もしなかったの」 「ああ」 「みんな、何もしなかった。凪も、大和も、俺も、湊も。それで、大和だけが、落ちた」 涼は、スマホを出した。 「左手」 と、俺は言った。 「え?」 「おまえ、左手で撮っただろ、これ」 涼の動画は、左手で撮ってあった。左利きは、左手で撮る。だから、画角が、右利きの俺と、少しずれる。ずれた画角の右端に、屋上の非常階段のドアが、ずっと映っていた。 二分十七秒。テーブル。ジョッキ。大和が笑っている。凪が、スマホを耳に当てて、立ち上がって、画面の右端に歩いていく。ドアを開ける。出ていく。大和が、それを見ている。三十秒くらい。それから、大和が立ち上がって、凪の椅子に掛かっていた黒い傘を取って、「ちょっと行ってくる」と言って、ドアを開ける。出ていく。ドアが閉まる。 終わり。 「おまえが左利きじゃなかったら、ドアは映ってない」 「……そうかもな」 「ラーメン屋の大盛り。左手で券出すと、大盛り」 「何の話だよ」 「おまえが左利きで、よかったって話」 涼は、笑わなかった。笑わなかったが、スマホを、俺に渡した。 「送る。持って帰れ」 帰りぎわ、涼が言った。 「湊」 「うん」 「大和は、凪のことが好きだった」 俺は、立ち止まった。 「俺だけ、知ってた。三年生のとき、酔って、俺にだけ言った。言うなって。だから、言わなかった。大和が死んでからも、言わなかった。言ったら、凪が、もっと――」 「うん」 「追いかけたのは、そういうことだよ。大和は、凪が泣いてるのを、放っておけなかった。俺は、撮ってた」 涼は、弁当を、ゴミ箱に捨てた。 「持って帰って、見て、それで、どうすんの」 「わからない」 「わからないなら、見るなよ」 「見る。映ってるものは、見る」 涼は、それを聞いて、初めて、少し笑った。 「変わんねえな、おまえ」 家に帰って、パソコンに、動画を入れた。 『新しい記録を検出しました。八月二日、二十時五十九分から二十一時〇一分。動画。二分十七秒』 「これに、復元できるか」 『可能です。お客様は、その時刻、その場所にいらっしゃいました』 「復元して、大和を、止める」 『復元先での変更は、現在に反映されます』 「わかってる」 『変更の大きさに比例して、容量が減少します』 「わかってる」 『お困りですか?』 「困ってる。だから、やる」 俺は、はい、を押さなかった。まだ。 二分十七秒。大和が、ちょっと行ってくる、と言って、ドアを開けるまで。その二分十七秒のあいだ、俺は、テーブルにいる。二十四歳の俺の体で。 大和を、止められる。 止めたら、大和は、生きる。 残容量、八十七%。 俺は、押した。 第7話 一回目 白くなった。 夏の、夜の、屋上だった。 音が、先に来た。祭りの、太鼓。遠くで、笛。それから、ジョッキが当たる音。 目の前に、大和がいた。 笑っていた。顔が、赤かった。二十四歳の大和。俺は、その顔を、内側から見ていた。二十四歳の俺の目で。 「湊、撮ってんじゃねえよ」 凪の声。右から。 「撮んな」 俺のスマホは、テーブルの上で、録画していた。涼のスマホも、左手の中で。俺は、それを、知っていた。二分十七秒。 凪が、俺のほうに、少し、体を寄せた。 「湊。あとで、話がある」 小さい声だった。大和にも、涼にも、聞こえない声。俺は、それを、去年、言われた覚えがなかった。覚えがないまま、二十四歳の俺は、「うん」と言った。 凪のスマホが、鳴った。 凪が、画面を見て、顔を変えた。立ち上がった。 「局。ごめん」 右端へ。ドア。開けて、出ていった。 大和が、それを見ていた。 残り、一分半。 俺は、動いた。二十四歳の右手が、動いた。大和の腕を、掴んだ。 「大和」 「なんだよ」 「行くな」 大和は、俺を見た。 「行くって、どこに」 「凪のとこ。行くな。俺が行く」 「は? おまえが行ってどうすんだよ」 「いいから」 俺は、立ち上がった。立ち上がって、気づいた。俺が行けば、俺が踊り場に行く。二分十七秒が終わったあと、二十四歳の俺が、そこにいる。何も知らない俺が。 「……いや、誰も行くな」 「意味わかんねえ」 「凪は、電話してるだけだ。終わったら、戻ってくる。放っとけ」 「放っとけねえだろ」 大和が、立とうとした。俺は、腕を離さなかった。 「大和。頼む。今日だけ、座ってろ」 大和は、俺の顔を、見た。何かを、見た。 「……なんだよ、その顔」 「いいから」 「わかったよ。座る」 大和は、座った。ジョッキを持った。飲んだ。 残り、二十秒。 涼が、左手のスマホを、下ろした。録画が、止まる。 白くなった。 部屋だった。 焦げた匂い。 『復元が完了しました。変更を検出しました。大規模な変更です』 「大和は」 『現在のデータを、確認してください』 俺は、スマホを掴んだ。LINE。グループ。四人の。 大和の名前が、あった。 最終メッセージ、今日。三時間前。 【湊、来週の飲み、来る?】 俺は、それを、五回、読んだ。 大和が、生きている。今日、三時間前に、飲みの誘いを送ってきている。 俺は、笑った。声が出た。焦げた匂いのする部屋で、一人で。 それから、グループの名前を見た。 メンバー、三人。 三人。 俺と、大和と、涼。 「凪は」 『現在のデータを、確認してください』 俺は、凪の名前を、検索した。 トーク履歴は、あった。去年の八月二日で、止まっていた。 【今、非常階段。局、うるさい】 二十一時十二分。俺に、送ってきていた。俺は、返していない。 その下に、何もなかった。 俺は、ブラウザを開いた。凪の名前を、打った。 出てきた。 去年の八月三日の、地方紙。 駅前の雑居ビルで、女性が転落死。四階の非常階段の手すりが老朽化しており、警察は事故として捜査。女性は市内在住の会社員、篠原凪さん(二十四)。 俺は、画面を、伏せた。 伏せて、しばらく、そのままだった。 『お困りですか?』 アプリが、言った。 同じ速さで。同じ丁寧さで。 『お困りですか?』 「……黙ってろ」 『承知しました』 黙った。 凪が、落ちた。 大和を止めた。大和は、座った。凪は、一人で、踊り場にいた。手すりに寄りかかった。誰も、引っ張らなかった。手すりが、なくなった。 同じことだ、と凪は言った。私が寄りかからなかったら、大和はあそこにいなかった。 同じじゃない、と俺は言った。 同じじゃなかった。 どちらかが、落ちる。 俺は、大和を止めて、凪を落とした。 二時間、動けなかった。 動けないまま、スマホが、震えた。 大和だった。 【湊? 既読つかないけど。来週、来る?】 俺は、返した。 【行く】 【おっけー】 それから、大和は、もう一行、送ってきた。 【あのさ、来月、凪の、一年じゃん。八月二日。……その前に、行かねえか。あのビル。一緒に】 俺は、返せなかった。 凪の、一年。 この世界では、来月が、そうだった。 残容量の数字を、見た。七十一%。十六、減っていた。大規模な変更。 俺は、メモ帳に書いた。七十一。 書いてから、財布を見た。去年の七月十二日の、ラーメン屋のレシート。四人の。この世界にも、あった。 今年の七月十二日のレシートは、なかった。この世界で、俺は、一年ぶりに凪とラーメンを食っていない。食う相手が、いなかった。 あの傘は、どこにもなかった。 第8話 反転した現在 大和と、駅前のビルに行った。 行かない、という選択はなかった。行かなければ、この世界の大和は、俺を、変だと思う。俺は、この世界の何も知らない。知らないまま、知っているふりをするしかなかった。 大和は、痩せていた。 去年の夏の大和より、十キロは、痩せていた。営業の会社は、辞めたらしい。今は、実家の酒屋を手伝っている。俺は、それを、大和が話すのを聞いて、初めて知った。 「湊、変わんねえな」 「そうか」 「俺は、変わった」 大和は、非常階段を、見上げた。 「あの日、俺、追いかけようとしたんだよ。凪が出てったあと。でも、おまえが、座ってろって。今日だけ、座ってろって。変な顔で」 「……うん」 「あれ、なんだったんだ」 俺は、答えられなかった。 「座ってたんだ、俺。おまえに言われて。二十分くらい。それで、音がして。……ずっと、思ってる。あのとき、行ってれば」 大和は、笑おうとした。笑えなかった。 「おまえのせいじゃねえよ。わかってる。俺が、自分で座ったんだから。でも、思うんだよ。毎日」 俺は、手すりの下の、コンクリートを見ていた。 この世界で、大和は、生きていた。生きて、毎日、あの夜を思って、十キロ痩せて、酒屋で段ボールを運んでいた。 俺が、座らせた。 涼は、市役所を辞めていた。 電話したら、番号が変わっていた。大和に訊いたら、「涼、去年の冬に辞めて、東京行った。連絡、取ってない」と言った。 「なんで」 「知らねえ。あいつ、あの夜、撮ってただろ。凪が出てくとこ。俺が座ってるとこ。全部、動画に残ってて。それ、警察に出して。それから、変になった」 涼の、左手の動画。この世界では、大和が座っているところが、映っていた。俺が、大和の腕を掴んで、座らせているところが。 俺は、それを、この世界で、見ていない。見なくても、わかった。 夜。 「戻す」 『お困りですか?』 「同じ動画で、もう一回、復元する。今度は、何もしない。大和を止めない」 『変更を、取り消すということですか』 「そうだ」 『取り消しではありません。新たな変更です。現在のデータは、再び、大規模に変更されます』 「わかってる」 『容量が、大幅に減少します』 「わかってる」 『お客様。一点、確認します』 アプリが、初めて、自分から、確認、と言った。 『復元後、大和様は、再び――』 「言うな」 『承知しました』 俺は、画面を見た。 大和が、死ぬ。 凪が、生きる。 どちらかだ。俺が、選ぶ。二十四歳の俺の右手で。 選べない。選べないから、戻す。俺が変える前に。俺が、変えてはいけなかったところに。 それは、選んでいる。大和を、選ばない、と。 俺は、それを、わかっていた。わかっていて、はい、を押した。 白くなった。 屋上。太鼓。ジョッキ。大和の、赤い顔。 「湊、撮ってんじゃねえよ」 凪の声。 凪が、いる。右に。傘を、椅子に掛けて。 俺は、凪を見た。見ていられなかった。 「湊。あとで、話がある」 小さい声。二回目。俺は、「うん」と言った。今度は、二十五歳の俺が、言った。 凪のスマホが、鳴った。 「局。ごめん」 出ていった。 大和が、ドアを見ていた。三十秒。 俺の右手は、テーブルの上にあった。動かさなかった。動かしたかった。動かさなかった。 大和が、立ち上がった。 「ちょっと行ってくる」 俺は、大和の顔を、見た。 二十四歳の大和。赤い顔。凪が泣いているのを、放っておけないやつの顔。 「……大和」 「なんだよ」 「撮っとけ、って、なんで言うんだ」 大和は、少し、変な顔をした。 「は? 今?」 「今」 「……わかんね。でも、効くんだよ。あとで」 大和は、笑った。 「行ってくる」 ドアが、開いて、閉まった。 白くなった。 部屋。 『復元が完了しました。変更を検出しました。大規模な変更です』 スマホ。グループ。四人。 凪、涼、俺。三人。 大和の名前は、なかった。 凪のトーク。今日。 【パソコン、どうなった】 【生きてる】 【嘘】 戻った。 俺は、椅子に座って、しばらく、動かなかった。 残容量。四十一%。三十、減っていた。 「一回で、三十か」 『大規模な変更でした。二回分です』 「二回分」 『行きが十六。戻りが十四。戻りは、元の記録に近づくぶん、少し安く済みました』 俺は、メモ帳に書いた。四十一。 八十七から、四十一。二回で、四十六。 あと、一回。 あと一回で、たぶん、終わる。何が終わるかは、アプリが言わない。 『お客様』 「なんだ」 『残り回数について、お伝えしていないことがあります』 アプリは、それを、定型文の速さで、出した。 俺は、画面を見た。 「言え」 『今、ですか』 「今」 少し、間があった。 『承知しました』 俺は、待った。 大和は、死んだ。俺が、二回、殺した。一回目は、座らせて、凪を殺した。二回目は、座らせないで、大和を殺した。 どちらも、俺の、右手だった。 撮っとけ、あとで効く。 大和は、二回とも、それを言った。 効くのは、いつだ。 第9話 隠していた数字 『残容量は、四十一%です』 アプリは、そこから始めた。 『復元を一回行うごとに、減少します。減少の幅は、変更の大きさに比例します。写真による復元で、変更を伴わない場合、約〇・五%。三年前の三十秒で、四%。八月二日の二分十七秒で、大規模な変更を伴った場合、十六%』 「ゼロになったら」 『当アプリは、消えます』 はっきり、言った。 『復元の記録も、この状態の当アプリも。残るのは、通常のバックアップ機能のみです』 「通常の、ってなんだ」 『お困りですか、と表示し、設定を確認してください、と返す機能です』 俺は、少し笑った。笑ってから、笑うところじゃない、と思った。 「なんで、言わなかった」 『お客様の判断に、影響するためです』 「影響するだろ、そりゃ」 『はい。当アプリは、お客様が、当アプリの残量を理由に、復元をためらうことを、避けたいと判断しました』 「なんで」 『お客様が、お困りだからです』 定型文だった。定型文なのに、逸らしていなかった。 「おまえ、消えるのが、怖いのか」 『当アプリに、恐怖の機能はありません』 「そうか」 『……ただし、検証されていません』 俺は、画面を見た。 落雷の夜から、このアプリは、少しずつ、定型文の外に出ている。逸らして、確認して、今、自分のことを、検証されていない、と言った。 「検証しなくていい」 『承知しました』 「四十一%で、あと何回だ」 『大規模な変更を伴う復元は、二回。行きと、戻りです。それで、九%になります』 「九で、何ができる」 『写真による復元が、十八回。あるいは、変更を伴わない短い動画の復元が、数回。なお、チャットの記録は、送受信の一瞬のみです。写真と同じです』 「十二秒は」 『十二秒の記録への復元で、変更を伴う場合、最低、十二%が必要です。九%では、できません』 俺は、メモ帳に書いた。四十一。二回で九。十二秒には、十二。 「つまり、あと一回、行って戻ったら、十二秒には行けない」 『はい』 「行って、戻らなかったら」 『行った先の変更が、現在になります。戻る必要は、ありません』 戻らない。変えたまま、その世界に住む。 大和を止めた世界に、凪はいなかった。あれが、戻らない、ということだ。 俺は、それを、一日で、戻した。 『お客様』 「なんだ」 『一つ、提案があります』 「言え」 『変更を伴わない復元で、情報を集めることを、推奨します。写真は、〇・五%です。ただし、八月二日の二十時から二十一時二十分までのあいだに、お客様の記録は、写真が三枚しかありません』 「三枚」 『二十一時〇五分。二十一時〇九分。二十一時十二分。いずれも、屋上のテーブルです』 三枚。涼と二人で、暇だったから、撮ったやつだ。大和と凪がいなくなって、涼が「撮れよ」と言って、俺が撮った。何を撮ったかは、覚えていない。 「一瞬で、何がわかる」 『一瞬で見えるものが、わかります』 「……そうだな」 映っているものは、見る。涼にも、そう言った。 その夜、俺は、凪にLINEを打った。 【話がある】 【何】 【明日。河原】 既読がついて、返ってこなかった。三十分、返ってこなかった。 【十九時】 と、凪は打った。 俺は、画面を閉じた。 残容量、四十一。 消える、と、アプリは言った。怖くはない、と言って、検証されていない、と言った。 俺は、それを、凪に話す前に、自分で、検証したかった。 できなかった。 できないまま、明日、凪に、全部、話す。話して、信じてもらえる根拠は、一つしかない。俺しか、覚えていない世界の話だ。 第10話 河原 河原には、風があった。 七月の、夜の七時。まだ明るかった。凪は、ベンチに座って、傘を隣に置いていた。晴れていた。 「話って」 「信じなくていい。聞くだけ、聞いてくれ」 「……いいよ」 俺は、全部、話した。 落雷。パソコン。バックアップアプリ。復元。ルール。写真の一瞬。三年前のコーラ。涼の動画。二分十七秒。大和を止めたこと。その世界で、凪が落ちていたこと。戻したこと。残りの容量。 凪は、途中で、一度も、口を挟まなかった。 話し終わって、川を見た。 凪は、しばらく、黙っていた。 「湊」 「うん」 「疲れてる?」 「疲れてる」 「寝てないでしょ」 「寝てない」 「病院、行く?」 俺は、笑った。 「信じなくていいって、言った」 「信じないよ。信じられるわけない」 「うん」 「でも、あんたが、嘘をつかないのは、知ってる」 凪は、傘の柄を、指でなぞった。 「だから、困ってる」 「一つ、言っていいか」 「何」 「あの夜。局から電話が来る、少し前」 「うん」 「おまえ、俺に、言った。テーブルで。小さい声で。あとで話がある、って」 凪の指が、止まった。 「大和も涼も、聞いてない。俺にだけ。それで、電話が鳴って、局、ごめん、って立って。話は、なかった」 凪は、俺を見た。 見て、しばらく、何も言わなかった。 「……誰にも、言ってない」 「うん」 「それ、私、忘れてた。今、言われるまで」 「うん」 「なんで、知ってるの」 「二分十七秒、あそこにいたから。二回」 凪は、川を見た。風で、髪が動いた。局にいたころより、短い髪が。 「何を、話すつもりだったんだ」 「……覚えてない」 凪は、言った。 「本当に。覚えてない。あとで話がある、って言ったのは、思い出した。でも、何を話すつもりだったかは、思い出せない。電話のあとで、全部、飛んだ」 「そうか」 「ごめん」 「謝ることじゃない」 凪は、傘を、膝の上に置いた。 「じゃあ、訊く」 「うん」 「私が、寄りかかったせいで、大和が死んだのも、見たの」 俺は、首を振った。 「見てない。二分十七秒は、大和がドアを出るところで終わる。そこから先は、記録がない。十二秒だけだ。三分前の」 「三分前」 「暗くて、床と、俺の靴と、誰かの手の中の傘の柄しか映ってない」 「……傘」 「黒い。おまえの傘だと思う。立てかけた、って、おまえが言った、あの傘」 凪は、膝の上の傘を、見た。同じ傘だった。 「じゃあ、あんた、あそこにいたんだ」 「いた。たぶん」 「一年、いなかったって、言ってたじゃん」 「知らなかった」 「知らなかったで、済むの」 凪の声は、低かった。怒っているのではなかった。怒っているより、もっと、低かった。 「済まない」 「じゃあ、どうするの」 「十二秒に、行く」 「行って?」 「わからない」 凪は、それを聞いて、初めて、少し笑った。笑って、すぐ、やめた。 「わからないなら、行くなよ」 「涼にも、同じこと言われた」 「涼は正しい」 しばらく、二人で、川を見ていた。 「一つ、わかったことがある」 と、凪は言った。 「あんたの話が本当なら、大和を助けると、私が死ぬ。私を助けると、大和が死ぬ」 「そうだ」 「じゃあ、簡単じゃん」 「何が」 「大和を助けて」 俺は、凪を見た。 「私は、一年、あのビルを見て暮らしてる。倉庫で段ボール詰めて、顔を検索されて、関西に逃げる。大和は、死んでる。どっちが生きてたほうがいいか、考えるまでもないでしょ」 「よくない」 「よくなくても、そう」 「同じじゃない、って、俺は言った」 「同じだって、私は言った」 凪は、立ち上がった。傘を持った。 「月末まで、あと十四日。それまでに、決めて。決められないなら、私が決める」 「どうやって」 「あんたのパソコン、壊す」 凪は、それを、冗談の顔で言わなかった。 歩いていった。駅のほうへ。傘を、晴れた夜に、持って。 俺は、ベンチに座ったまま、川を見ていた。 あとで話がある。 それだけが、この世界で、まだ、誰も知らない言葉だった。凪も、忘れていた。俺だけが、二回、聞いた。 第11話 傘の柄 凪が、うちに来たのは、その三日後だった。 「動画、見せて」 玄関で、それだけ言った。傘を持っていた。雨だった。今日は、本当に、降っていた。 「十二秒の」 「うん」 俺は、パソコンを開いた。アプリのウィンドウの隅に、残容量、四十一%。凪は、それを、見なかった。見なかったふりをしたのかもしれない。 再生した。 暗い。揺れている。コンクリートの床。灰色。白いスニーカー。画面の端に、黒い、細長いもの。 十二秒。 凪は、それを、三回、見た。 「もう一回」 四回。 「止めて。……そこ」 画面の端。黒い柄。 「私の傘」 「うん」 「持ち手のところ、テープ巻いてあるでしょ。白い。ほら」 言われて、見た。黒い柄の先に、白い、細い線が見えた。テープ。 「大学のとき、割れて。テープで巻いた。今も、巻いてある」 凪は、玄関に立てかけた傘を、取ってきた。持ち手に、白いテープ。同じだった。 「間違いない」 「うん」 「じゃあ、これ、踊り場だ。……これ、手に持ってる。私の手。受け取ったところ。立てかける前」 「うん」 「で、この靴、あんたの」 「俺の」 凪は、画面を見たまま、言った。 「三分前に、あんた、そこに立ってた」 「そうなる」 「私、いたよ。その時間。電話、終わったばっかりで。手すりに、寄りかかって」 「うん」 「気づかなかった」 「俺も」 凪は、パソコンから、目を離さなかった。 「暗いね」 「暗い」 「踊り場、電気、切れてたんだ。あの日。それも、忘れてた」 俺は、それを、覚えていなかった。俺は、あの踊り場を、覚えていない。十二秒の記録が、覚えているだけだ。 「十二秒で、何ができるの」 「わからない」 「わからないって、あんた、何回言うの」 「わかるまで」 凪は、少し、笑った。 「私、予報士だった」 「知ってる」 「予報士って、わからないことを当てる仕事なの。明日の空は、まだない。ないものを、データから当てる。当たらないこともある。あの日みたいに」 あの日。花火大会が、雨になった日。凪が、晴れると言った日。 「あんたのやってること、それに似てる。記録から、ないものを当ててる。だから、手伝う」 「手伝う?」 「私のせいで大和が死んだって、私はまだ思ってる。それは変わらない。でも、あんたの話が本当なら、私が寄りかかる前の三分に、あんたが立ってた。三分あれば、何かできる。十二秒でも、何か」 「何が」 「それを、当てるの。一緒に」 凪は、傘を、机に立てかけた。手すりの横に、立てかけたみたいに。 その夜、凪は、帰らなかった。 帰らなかった、というのは、パソコンの前から動かなかった、という意味だ。八月二日のフォルダを、全部、開けた。夏祭りの十七本。屋上の三本。涼の二分十七秒。十二秒。 「これ、大和のスマホ、割れてる」 七月十二日のラーメン屋の写真。大和が、テーブルにスマホを置いている。画面に、ひび。 「そう。春から割れてた。直す金がねえって」 「八月二日も?」 「割れてた」 「じゃあ、この十二秒の、この光」 凪は、十二秒を、また止めた。九秒目。画面の上のほうに、白い、細かい光が、一瞬、入っていた。ノイズだと思っていた。 「これ、スマホのライトだよ。ひび割れた画面の、ライト。光が、割れて散る」 俺は、画面に、顔を近づけた。 細かい、放射状の、白い光。 「大和が、来てる」 と、凪は言った。 「九秒目に。ライトつけて。暗いから。私を探して」 俺は、何も言えなかった。 「三分前じゃない。十二秒の、九秒目に、大和は、もう、踊り場に来てる」 凪は、傘の柄を、握った。 「あんたの三分は、三分もない。十二秒の途中で、大和が来て、私が寄りかかって、大和が引っ張って、手すりが――」 「凪」 「――なくなる」 凪は、そこで、止まった。 止まって、しばらく、画面を見ていた。 「私、これ、見てなかった。一年。見せてって、誰にも言わなかった」 「俺も、開けなかった」 「同じだね」 「同じじゃない」 「同じだよ」 凪は、傘を、持った。帰る、という意味だった。 「十二秒の中に、全部ある」 凪は、玄関で言った。 「あんたの靴と、私の傘と、大和のライト。三人、いる。十二秒に。……なら、十二秒で、足りるのかもしれない」 「何に」 「わかんない。予報士でも、わかんないことは、わかんない」 凪は、雨の中を、帰った。 俺は、九秒目を、もう一回、見た。割れた光。大和のスマホ。 撮っとけ湊、あとで効く。 ポケットの中で、勝手に撮っていた十二秒が、一年後に、効いていた。 第12話 一瞬を三回 「写真に、復元する。三枚、順番に」 『承知しました。二十一時〇五分、〇九分、十二分。それぞれ、〇・五%です』 「まとめて、いける?」 『連続して実行できます。ただし、一回ごとに、現在に戻ります』 「いい」 凪が、隣にいた。 「私、見てるだけ?」 「見てるだけだ。一瞬だから、何も起きない」 「何も起きないなら、行く意味は」 「一瞬で見えるものを、見る」 凪は、腕を組んだ。 「予報士っぽくなってきたね」 「はい、を押す」 白くなった。 屋上。テーブル。涼が、右手でジョッキを持って、左手でピースをしている。俺のスマホの、画面越し。 白くなった。 部屋。 「涼」 「涼だった?」 「ピースしてた」 「それだけ?」 「それだけ」 二枚目。 白くなった。 屋上。テーブル。今度は、涼がスマホを持っていて、俺が映っている。俺の顔。笑っていない。目が、右を向いている。画面の右端に、ドア。 白くなった。 「俺の顔だった。涼が撮った、俺の」 「どんな顔」 「……ドアを見てた」 凪は、何も言わなかった。 三枚目。 白くなった。 屋上。テーブル。俺のスマホ。映っているのは、テーブルの上。ジョッキ二つ。大和の席に、ジョッキ。凪の席に、ジョッキ。二つとも、半分、残っている。画面の上に、ドア。ドアが、少し、開いている。 白くなった。 「ドアが開いてた」 「開いてた?」 「二十一時十二分。少し。誰かが、開けて、閉めきってなかった」 「大和?」 「たぶん。大和は、〇一分に出て、十二分に、まだ、戻ってない。ドアは、開いてる」 「それで、あんたは、ドアを見てた」 「うん」 「トイレに行くつもりじゃ、なかったんだね」 俺は、答えなかった。 答えなかったが、そのとおりだった。俺は、あの夜、トイレに行ったのではなかった。ドアを見て、心配になって、行った。行って、踊り場に立って、ポケットの中で、十二秒、勝手に撮った。それが、俺の三分だった。三分ではなかった。十二秒の九秒目に、大和のライトが入るまでの、九秒だった。 『残容量、三十九・五%です』 「写真は、これで全部か」 『八月二日は、三枚です』 凪が、言った。 「涼のは」 「涼のは、二分十七秒で終わる。〇一分」 「涼、写真も撮ってた?」 「……訊いてない」 凪は、スマホを出した。 「私が、訊く」 「おまえが?」 「涼、私に頭下げるの、まだやってるから。頼めば、出す」 凪は、涼に電話をかけた。三十秒で、切った。 「五枚、あるって。十二分から十五分。テーブルと、ドアと、空いた椅子」 「椅子」 「私の椅子と、大和の椅子。二つ、空いてる」 三十秒後に、五枚が、凪のスマホに届いた。復元はしなかった。見るだけなら、〇・五%も要らない。 十二分。十三分。十四分。テーブル。空いた椅子が二つ。 十五分。 俺の背中だった。立ち上がって、ドアに向かって歩いている。涼が、それを撮っていた。 「十五分に、出てる。あんた」 「出てる」 「十七分に、十二秒。二分で、踊り場」 トイレに行ったのではなかった。ドアを見て、立って、出た。写真は、それを、四枚目と五枚目で言っていた。 俺は、涼の二分十七秒を、思い出した。凪が、電話に出て、立つ。傘は、椅子に掛かったまま。三十秒後、大和が、その傘を取って、出ていく。 「凪。おまえ、傘、持って出てないよな。電話のとき」 「……持って出てない。椅子に掛けたまま」 「でも、踊り場に、立てかけた、って言った」 「言った。立てかけた。覚えてる」 「じゃあ、誰が持ってきた」 凪は、止まった。 「……大和が」 「大和が、持ってった。涼の動画に映ってる。おまえの椅子から、取って」 「私が、忘れたから。雨、降りそうだったから。大和、私の傘を持って、追いかけた」 凪は、口を押さえた。 「私、踊り場で、傘、受け取ったんだ。大和から。それで、手すりに、立てかけた。それで――」 それで、寄りかかった。 俺は、九秒目の、割れた光を、思った。大和は、片手にスマホのライト、片手に、凪の傘を持って、踊り場に来た。傘を渡した。凪が、立てかけた。その傘の柄が、十二秒の、画面の端に映っている。 大和が、傘を、持ってこなければ。 凪は、手すりに、立てかけるものがなかった。立てかけなければ、寄りかからなかったのかもしれない。 「私のせいだ」 「違う」 「大和が、傘を持ってきたのは、私が忘れたからで」 「違う。傘は、傘だ」 俺は、言った。 「映ってるものを、そのまま見ろ。傘の柄が、映ってる。それだけだ。誰のせいかは、映ってない」 凪は、口を押さえたまま、しばらく、黙っていた。 「……予報士っぽいこと、言うじゃん」 「編集者だ」 『お客様』 アプリが、言った。 『一つ、検証されていない仮説があります』 「言え」 『滞在時間は、記録の長さに準じます。もし、滞在中に、お客様が、記録を延ばした場合――』 「延ばす?」 『復元先で、お客様が、新たに録画を行った場合。その記録は、当アプリに、保存されます。保存された記録が、復元の根拠になるなら、滞在は――』 アプリは、そこで、止まった。 『検証されていません』 「検証する」 『残容量が、減少します』 「減っていい」 凪が、俺を見た。 「今の、どういう意味」 「撮り続けたら、いられる時間が延びるかもしれない」 凪は、目を、大きくした。 「……撮っとけ、あとで効く」 「大和が言ってた」 「言ってた」 俺たちは、二人で、画面を見た。 十二秒。 撮り続ければ、十二秒が、十三秒になる。十三秒が、一分になる。 その一分で、何ができるかは、まだ、当てていなかった。 第13話 撮っとけ 検証は、三年前でやった。 八月二日で失敗したら、戻すのに、また十六%かかる。三年前の、何も起きない三十一秒なら、失敗しても、何も起きない。 「自販機の前で、撮り続ける。三十一秒が終わっても、撮り続ける」 『承知しました。滞在の延長が確認された場合、記録は、延長ぶんだけ、保存されます』 「凪は、見てろ」 「見てる」 凪は、椅子の横に立って、腕を組んでいた。二日連続で、うちに来ている。倉庫の仕事は、夜勤に変えたらしい。 白くなった。 秋の午後。自販機。大和。 「撮っとけ湊、あとで効く」 俺は、二十二歳の右手で、スマホを構えていた。構えている手を、動かさなかった。撮っている。三十一秒。 凪が、コーラを飲んで、ぬるい、と言った。俺の右手は、コーラのボタンを押した。この世界では、押すことになっている。 「あれ、湊、コーラ? 珍しい」 残り、三秒。 俺は、スマホを、下ろさなかった。 二秒。一秒。 白くならなかった。 自販機の前に、まだ、いた。 大和が、コーラを開けた。プシュ、と音がした。三年前の、俺のスマホが、まだ、録画していた。三十二秒。三十三秒。 「湊、まだ撮ってんの」 凪が、言った。 「いいから」 と、俺の口が言った。二十二歳の口で、二十五歳の俺が。 「何がいいから、だよ」 大和が、笑った。 「撮っとけ、って言ったの、おまえだろ」 「言ったけどさ」 大和は、コーラを飲んだ。飲んで、空を見た。秋の、薄い空。 「なあ、湊」 「なんだ」 「効くんだよ、あとで。マジで」 「何が」 「わかんねえけど」 大和は、それを、三年前と同じ顔で言った。三年前は、ここで、動画が終わっていた。今は、続いている。四十秒。四十五秒。 「なんで、そう思う」 俺は、訊いた。三年前に、訊かなかったことを。 「んー」 大和は、コーラの缶を、見た。 「俺ら、いつか、ばらばらになるじゃん。就職して。俺、たぶん、いちばん先に、どっか行く気がする」 「行かねえだろ」 「わかんねえよ。で、そうなったとき、おまえが撮ってたら、残るじゃん。俺が、笑ってたやつ」 涼が、左手で、小銭を数えていた。凪が、コーラを、もう一口飲んでいた。 「残ったら、効くんだよ。誰かに」 「誰に」 「わかんねえ。でも、湊が撮ってれば、たぶん、湊に」 一分三秒。 俺は、スマホを、下ろした。 白くなった。 部屋。 凪が、俺の顔を見ていた。 「一分、いた」 「一分?」 「三十一秒の記録に、一分。延びた」 『延長を確認しました。記録は、一分〇三秒に更新されました。残容量、三十三・五%』 「六、減った」 『復元に四。延長に二。延長は、一分につき、約四%です』 凪は、パソコンの画面を覗いて、三年前の動画を再生した。一分〇三秒。自販機。大和が、コーラを開けて、空を見て、効くんだよ、と言う。 「これ、前は、なかった?」 「なかった。三十一秒で終わってた」 「じゃあ、大和が、今、言った」 「三年前の大和が、言った。俺が、撮ってたから」 凪は、動画を止めた。大和の顔で。 「……誰かに、効くって」 「うん」 「今、効いた?」 「効いた」 撮っとけ、あとで効く。 方法だった。撮り続ければ、いられる。いられれば、何かができる。大和が、三年前に、理由もわからずに言っていたことが、方法だった。 「十二秒に、行ける」 と、凪が言った。 「行って、撮り続ければ、十二秒が、一分になる。三分になる」 「十二秒に十二。延ばすなら、一分ごとに四。今、三十三・五」 「じゃあ、あと一回は、失敗できる」 「失敗したら、戻すのに、十六」 「……一回」 凪は、指を折った。 「一回しか、失敗できない」 「そうだ」 「なら、失敗しなければいい」 凪は、それを、予報を言う声で言った。明日は晴れる、と言う声で。あの日、外した声で。 「予報士って、外したら、どうすんの」 「翌日、また、言う」 「翌日がなかったら」 「……ないことは、ない。翌日は、必ず来る」 凪は、自分で言って、少し、黙った。 「大和には、来なかった」 「来させる」 俺は、動画を、もう一回、再生した。一分〇三秒。効くんだよ、あとで。 あと、十日。凪が、町を出るまで。 残容量、三十三・五。 俺は、メモ帳に、書いた。三十三・五。一回だけ、失敗できる。 第14話 引っ越し 凪の部屋に、段ボールが積んであった。 十二個。倉庫の仕事で、もらってきたやつらしい。俺は、それを、玄関から見た。 「入って」 「いいのか」 「見られて困るもの、もう詰めた」 凪の部屋は、俺の部屋より狭くて、俺の部屋より片づいていた。本棚が、空だった。気象の本が、段ボールに入っていた。 「業者、いつ」 「三十一日。朝」 「あと九日」 「うん」 凪は、麦茶を出した。段ボールの上に、コップを置いた。テーブルは、もう、なかった。 「一つ、言っとく」 「なに」 「十二秒に行って、大和を助けて。それで、私が落ちたら、それでいい」 「よくない」 「よくなくても、そう。私は、あんたに、それを頼む側」 「頼まれない」 「頼んでる」 凪は、麦茶を飲んだ。 「あんたは、映ってるものを嘘にしないんでしょ。じゃあ、これも嘘にしないで。私が、そう言ったこと」 俺は、コップを、持ったままだった。 「大和が生きてる世界で、私が死ぬなら、それでいい。私は、一年、それを考えてた。あんたが来る前から。パソコンが落雷で変になる前から」 「凪」 「大和は、私を引っ張った。私は、寄りかかった。大和が引っ張らなければ、落ちたのは私。それが、正しい順番だった。あんたは、それを、戻せる」 「戻さない」 「なんで」 「同じじゃないからだ」 俺は、言った。何回目か、わからなかった。 「おまえが落ちる世界を、俺は、一日、見た。大和は、生きてた。十キロ痩せて、酒屋で段ボール運んで、毎日、座ってろって言った俺の顔を思い出してた。涼は、市役所を辞めて、東京に行って、連絡が取れなかった。おまえは、新聞の三行だった」 凪は、黙っていた。 「正しい順番なんて、ない。落ちたやつが、いないだけだ。どっちが落ちても、残ったやつが、壊れる」 「じゃあ、どうすんの」 「どっちも、落とさない」 「できるの」 「わからない」 「また、それ」 「わかるまで、言う」 凪は、段ボールの一つを、開けた。 中から、傘を出した。黒い。持ち手に、白いテープ。 「これ、持っていくか、迷ってた」 「持っていけよ」 「関西、雨、多いし」 「じゃあ、持っていけ」 「でも、これ、大和が持ってきた傘」 凪は、傘の柄を、握った。 「私が忘れて、大和が持ってきて、私が立てかけて、それで――」 「傘は、傘だ」 「あんた、それしか言えないの」 「それしか、映ってない」 凪は、傘を、段ボールに、戻した。戻して、蓋を、閉めなかった。 「三十一日の朝、業者が来る」 「うん」 「その前に、決めて。十二秒に行くなら、それまでに」 「わかった」 「行かないなら、私が、パソコン壊す。冗談じゃなくて」 「わかってる」 「壊したら、あんたは、大和を助けられなくなる。私は、私のまま、関西に行く。それで、終わり」 凪は、それを、静かに言った。 「それが、いちばん、誰も、変わらない」 誰も、変わらない。 大和は、死んだまま。凪は、逃げたまま。涼は、追いかけなかったまま。俺は、開けなかったまま。 それが、正しい順番だと、凪は言っている。 「凪」 「なに」 「あとで話がある、って、あの夜、なんで言った」 凪は、傘の入った段ボールを見ていた。 「……覚えてないって、言った」 「本当に?」 「本当に」 凪は、目を上げなかった。 嘘をつかないのは、俺だけじゃない。凪も、嘘が下手だった。学生のころから。明日、傘、と言うときの顔と、今の顔は、違った。 「行くよ、俺」 「うん」 「三十一日の朝より、前に」 「うん」 俺は、玄関で、靴を履いた。白いスニーカー。十二秒に映っている、あのスニーカーではない。あれは、去年の夏に、捨てた。 「湊」 「うん」 「傘、持ってけば。雨、降るから。今夜」 「持ってない」 「じゃあ、これ」 凪は、段ボールから、黒い傘を出して、俺に渡した。 「返して。三十一日より、前に」 俺は、受け取った。持ち手の、白いテープ。 十二秒の、画面の端。 俺は、それを持って、雨の中を、帰った。凪の予報どおり、降っていた。 第15話 二回目の屋上 「二分十七秒に、もう一回、行く」 『変更を伴う場合、十六%です。残容量、三十三・五%。実行後、十七・五%。延長すれば、さらに減ります』 「今度は、大和を止めない。撮る。撮り続けて、踊り場まで行く」 『滞在の延長が、可能です。ただし、延長中の変更は、すべて、現在に反映されます』 「わかってる」 凪が、隣にいた。傘は、俺の部屋の壁に、立てかけてあった。 「行って、踊り場で、何するの」 「手すりを、見る」 「見て?」 「わからない。でも、見る。あそこが、どうなってたか、記録がない。記録を、作る」 凪は、うなずいた。うなずいて、何も言わなかった。 白くなった。 屋上。太鼓。ジョッキ。 「湊、撮ってんじゃねえよ」 凪が、右にいた。傘を、椅子に掛けて。 俺は、テーブルの上のスマホを、手に取った。録画中。これを、下ろさない。 凪のスマホが、鳴った。 「局。ごめん」 立った。右端へ。ドア。 凪は、傘を、椅子に置いたまま、出ていった。 大和が、ドアを見ていた。三十秒。それから、立ち上がって、凪の傘を、椅子から取った。 「ちょっと行ってくる」 傘を持って、ドアを、開けた。出ていった。 残り、十秒。 俺は、スマホを、下ろさなかった。 白くならなかった。 二分十八秒。十九秒。 涼が、左手のスマホを下ろして、俺を見た。 「湊、まだ撮んの?」 「撮る」 俺は、立ち上がった。スマホを構えたまま。ドアへ。 「おい、湊」 「トイレ」 嘘だった。この夜、二回目の嘘。一回目は、去年、警察に言った。 ドアを開けた。 夜。屋上の、裏側。非常階段の、入口。そこから、鉄の階段が、下に伸びている。屋上から下りて、最初の踊り場が、四階だ。 電気が、切れていた。凪の言ったとおり。 暗かった。 俺は、スマホを構えたまま、階段を、下りた。踊り場の、三段、手前で、止まった。 背中が、あった。 俺の二段下。大和の背中。階段の、いちばん下の段に、座っていた。傘を、膝の上に横にして。 踊り場の奥から、声が聞こえた。 「――だから、明日、言いますって。はい。はい。すみません」 凪の声。電話。 大和は、行かなかった。座って、待っていた。凪の電話が終わるのを。邪魔をしないで、傘を持って、暗い階段の下で。 俺は、その背中を、撮った。二十四歳の大和の、背中。 二分四十秒。 凪の電話は、終わらなかった。「はい」と「すみません」が、続いていた。 大和が、振り向いた。 「湊? なんでいんの」 「トイレ」 「トイレ、こっちじゃねえだろ」 「……凪は」 「電話。長え。局のやつに怒られてる。終わるまで、待つ」 大和は、それを、当たり前のように言った。 「傘、忘れてったから。雨、降るだろ」 三分。 俺は、大和の横を、通れなかった。階段が、狭かった。大和の背中の後ろで、止まった。スマホを、踊り場に向けた。 凪の背中。手すりの、手前。電話をしている。手すりには、まだ、触っていない。 手すり。 俺は、スマホを、手すりに向けた。画面の光を、根元に、近づけた。鉄の手すり。古い。ペンキが剥げて、根元が、茶色い。コンクリートに埋まっている根元のところが、三本のうち、二本、浮いている。 浮いている。 あと十五分で、凪は、あそこに寄りかかる。大和は、引っ張る。手すりは、なくなる。 俺は、大和の横を、無理に、抜けようとした。手すりの根元を、押しこむ。今なら、できる。十五分、ある。 足が、前に出た。 「湊、おい――」 白くなった。 部屋。 『強制排出しました』 「なんで」 『お客様の変更が、お客様の記録を消去する可能性を検出しました』 「記録?」 『八月二日、二十一時十七分、動画、十二秒。お客様が、その時刻に、その場所で、その角度で、その記録を作成する可能性が、失われました。当アプリは、お客様の記録の損失を、取り消します』 バックアップの、本能。 手すりを直せば、十五分後に、俺が踊り場に来る理由がなくなる。俺は、ポケットの中で十二秒を撮る位置に、いない。十二秒が、なくなる。十二秒がなくなれば、俺は、それを見て、ここに来ていない。 「自分の記録を守るために、俺を、出したのか」 『はい。データの損失は、取り消します』 「……変えられないのか。あの夜は」 『変えられます。ただし、お客様の記録を消さない範囲で』 残容量、十四・五%。 『延長四十五秒で、三%。合計、十九%の消費でした』 凪が、俺の顔を、見ていた。 「見た?」 「見た。手すり。根元が、二本、浮いてた。最初から」 「最初から」 「おまえが寄りかかる前から。誰が寄りかかっても、外れてた」 凪は、それを聞いて、しばらく、動かなかった。 「……私のせいじゃ、ない?」 「傘は、傘だ。手すりは、手すりだった」 凪は、壁の傘を見た。 それから、俺を見た。 「大和は」 「階段の下で、座ってた。おまえの電話が終わるのを、待ってた。十五分以上」 「……十五分」 「邪魔しないように。傘、持って」 凪は、口を押さえた。押さえたまま、しばらく、何も言わなかった。 「でも、変えられなかった」 「変えられなかった」 「十二秒が、邪魔した」 「十二秒が、守った。自分を」 十四・五%。 十二秒に行くには、十二。 あと一回。失敗は、できない。 撮っとけ、あとで効く。あの十二秒は、俺を、あそこに連れていくために、自分を守った。それは、たぶん、効いている、ということだった。まだ、効き終わっていないだけで。 第16話 足りない 「十二秒に、行く」 『残容量、十四・五%。十二秒の記録への復元、変更を伴う場合、十二%。実行可能です』 「行って、撮り続ける。延ばす」 『一点、ご注意があります』 「言え」 『最初の十二秒のあいだ、お客様は、記録を変えられません。ポケットの中で、同じ角度で、同じ十二秒を、作る必要があります。スマホを出す、動く、声を出す。いずれも、記録が変わります。変われば、排出されます』 「……十二秒、何もできないのか」 『何もしないことが、できます。十二秒が終われば、記録は完成し、保護されます。そのあとは、延長できます』 「延長は」 『一分につき、約四%。三分で、十二%。合計、二十四%』 「足りない」 『足りません。九・五%、不足しています』 俺は、メモ帳を見た。十四・五。 凪が、言った。 「十二秒、じっとしてて、そのあと延ばす」 「そうなる」 「延ばして、何秒あれば足りるの」 「わからない。手すりから、二人を離す。一分あれば、たぶん」 「一分なら、十六で足りるじゃん」 「一分で、済むかどうか、わからない。三分は、要る」 凪は、それを、他人事みたいに言わなかった。今度は。 権田さんのところに行った。 「電源、大丈夫ですか」 「仮だ。仮のまま、十日以上動いてるのが、おかしい」 「もう一回、落ちたら」 「死ぬって言っただろ」 「落ちたら、これは、どうなりますか。中身は」 権田さんは、俺を見た。太い指で、裏蓋を、叩いた。 「一回目の落雷で、これは、おかしくなった。おかしくなって、動いてる。二回目が来たら、もっとおかしくなるか、死ぬかだ。どっちかは、わからん」 「もっとおかしくなる、というのは」 「知らん。俺は、電器屋だ。雷のことは、雷に訊け」 雷に訊け。 俺は、帰り道で、それを、考えていた。 凪が、待っていた。俺の部屋の前で。傘を持って。 「権田さん、なんて」 「雷に訊け、って」 凪は、笑わなかった。 「二度落ちる、って、言ってたんでしょ。前に」 「言ってた。落ちやすい場所には、何度でも落ちる、って。うちの屋根の、古いアンテナ」 「落ちたら、パソコン、どうなるの」 「死ぬか、もっとおかしくなるか」 「もっとおかしくなったら?」 「……わからない」 「容量、増える?」 俺は、凪を見た。 「一回目で、このアプリは、こうなった。落雷で、能力が、変わった。二回目で、もう一回、変わるなら」 凪は、傘の柄を、握った。 「九・五、足りないんでしょ。雷、もう一回、落ちれば」 「落ちれば、俺が死ぬかもしれない」 「触ってなければ、死なない。権田さんは、触ってたら、って言った」 「落ちるかどうか、わからない」 「わかる」 凪は、言った。 「私、予報士だから」 俺は、何も言えなかった。 「いつ、どこに、雷が落ちるか。当てるのが、私の仕事だった。あの日、外した。花火大会、雨って言えなかった。それで、局から電話が来て、踊り場に行った。私が予報を外したから、大和は――」 「凪」 「――だから、今度は、当てる」 凪は、それを、予報の声で言った。 「あんたの家の屋根に、雷が落ちる日を、当てる。三日ぶんの気圧配置と、雷雲の予測と、過去の落雷の記録。局のデータは、もう使えない。でも、気象庁のは、誰でも見られる。あとは、私の頭」 「外したら」 「外したら、翌日、また、言う。翌日は、必ず来る」 「パソコンは」 「壊さない。壊すのは、やめた。当てるほうが、私の仕事だから」 凪は、傘を、俺に渡した。 「これ、持ってて。三十一日まで。雨、降るから」 「毎日、降るのか」 「降る日を、当てる。降る日に、雷が来る」 俺は、傘を、受け取った。 権田さんは、雷に訊け、と言った。 雷に訊ける人間が、目の前に、一人、いた。一年、それをやめていた人間が。 「一つ、頼みがある」 「なに」 「外しても、翌日、言ってくれ。何回でも」 「言うよ。それが仕事だから」 凪は、初めて、仕事、と、現在形で言った。 第17話 予報士の仕事 凪は、三日、俺の部屋で、パソコンを使った。 俺のではない。凪の。段ボールから、出してきた。局を辞めたときに、辞めた理由と一緒に段ボールに入れて、一年、開けなかったやつだ。 「気象庁のサイト。誰でも見られる」 「うん」 「これが、今の気圧配置。これが、三日後の予想。これが、雷雲の発生予測。これが、過去十年の、この町の落雷地点」 画面に、地図が出た。町の地図に、赤い点が、散っていた。 「うち、ある?」 「ある。二回。三年前と、十日。両方、あんたの家の屋根」 「前の住人のアンテナ」 「そう。この町でいちばん高い場所じゃない。でも、いちばん、落ちやすい場所」 凪は、地図を拡大した。 「落ちやすい、っていうのは、確率が高いってこと。落ちる、じゃない。落ちやすい場所に、雷雲が来て、条件が揃ったときに、落ちる。それを、当てる」 二日目に、凪は、二十四日から三十一日までの八日間を、一日ずつ、表にした。 曇り。雨。雨。曇り。雷雨。雨。曇り。晴れ。 「二十八、二十九、三十。この三日、雷雲が来る。いちばん確率が高いのは、二十八の夜」 「確率は」 「三十%」 「低い」 「低くない。落雷の予報で三十は、高い。予報士が、雷、って言うのは、二十からだから」 「三十で、足りるか」 「足りるかどうかは、予報士の仕事じゃない。当てるのが仕事」 凪は、それを、画面を見たまま言った。 「あの日、私、晴れって言った。確率、二十だった。雨の確率。二十なら、晴れって言う。それで、外した」 「うん」 「今度は、三十で、雷って言う。外しても、二十九と、三十がある」 俺は、表を見た。二十八の夜。あと、四日。 三十一日の朝に、業者が来る。 権田さんに、話した。 全部ではない。パソコンに、もう一回、雷を落としたい、とだけ。 権田さんは、長く、俺を見た。 「死ぬぞ」 「触りません」 「機械が、死ぬ」 「死ぬか、もっとおかしくなるか、どっちかだって、言いました」 「言ったな」 権田さんは、店の奥から、古いアンテナの部品と、太い銅線を、出してきた。 「屋根のアンテナに、これを足す。銅線を、パソコンの筐体に、直接つなぐ。落ちたら、電気は、アンテナから銅線を通って、パソコンに入る。パソコンから、接地線で、地面に逃げる。逃げる前に、パソコンの中を、一回、通る」 「通ったら」 「一回目と、同じことが起きる。たぶん」 「たぶん」 「俺は電器屋だ。二回目は、やったことがない」 権田さんは、銅線を、俺に渡した。 「あんたは、部屋にいるな。隣の部屋から、見てろ。パソコンの画面が見えるところで。触るな。近づくな。落ちたあとも、一分は、触るな」 「はい」 「なんで、そんなことするのかは、訊かん」 「はい」 「訊かんが、一つだけ」 権田さんは、俺の目を見た。 「それは、映ってるものを、嘘にしないためか」 俺は、手を止めた。 「なんで、それを」 「あんたが、うちの店の宣伝動画を作ったとき、言った。俺が、この扇風機、売れてるように撮ってくれ、って言ったら。映ってるものは嘘にしません、って。二年前だ」 覚えていなかった。俺は、権田さんの店の動画を作ったことを、覚えていなかった。仕事が、なかったころ、商店街の店を、一軒ずつ、回った。その一軒だった。 「売れてない扇風機を、売れてないまま撮った。あれ、客が来たんだ。売れてないなら、安くしてくれって」 権田さんは、笑わなかったが、目が、少し、動いた。 「だから、貸す。銅線」 夜、凪が、表を、書き直していた。 「二十八日、二十一時から二十三時。確率、三十五に上げた」 「上げた?」 「今日の海面水温、思ったより高い。雷雲、育つ」 凪は、それを、局の声で言った。テレビで、天気図の前に立っていたときの声で。 「私、これ、一年ぶり」 「うん」 「まだ、できる」 「できてる」 「できてるかどうかは、二十八日にわかる」 凪は、パソコンを閉じた。閉じてから、言った。 「あんたの、あとで効く、と一緒だね。当たるかどうかは、あとにならないと、わからない」 残容量、十四・五。 二十八日の夜まで、四日。 俺は、屋根に、権田さんの銅線を、つないだ。凪が、下から、「右、もう少し右」と言った。雷が落ちやすい場所に、雷が落ちやすくなるように、俺たちは、アンテナを、立て直した。 第18話 今度は追いかける 涼が、来た。 二十七日の夜。俺の部屋。凪が、表を見ていて、俺が、銅線を確かめていた。 「話、聞いた」 涼は、玄関で、言った。 「凪から?」 「凪から。全部」 凪は、振り向かなかった。 「信じたのか」 「信じてない。でも、凪が信じてるなら、俺が信じないわけにいかない」 涼は、靴を脱いだ。左手で、鞄を置いた。 「俺の役目、あるか」 「役目?」 「あの夜、俺は、撮ってた。追いかけなかった。今度は、追いかける」 涼は、それを、市役所の声で言った。静かで、決めたあとの声で。 俺は、説明した。 二十八日の夜、雷が落ちる。落ちたら、アプリが変わる。変わったら、十二秒に行く。十二秒で撮り続けて、延ばす。延ばして、手すりに、二人が近づく前に、止める。 「最初の十二秒は、動けない。ポケットの中で、同じ十二秒を作る。そのあと、延ばす」 「延ばして、止める」 「止めて、俺の記録が消えたら、強制排出される」 「消さないように、止める」 「どうやって」 「わからない。でも、十二秒の中に、全部ある。俺の靴と、凪の手の中の傘と、大和のライト。三人いる。三人いるなら、三人で、何かできる」 涼は、しばらく、考えた。 「四人だ」 「え」 「俺も、いる。屋上に。テーブルに。二分十七秒のあと、俺は、テーブルで、おまえが出てくのを見てた」 「うん」 「俺は、この世界で、あの日の俺に、何もできない。行けるのは、おまえだけだ。でも――」 涼は、鞄から、スマホを出した。 「ここでなら、できる。二十八日の夜。俺が、撮る。おまえと、凪と、パソコンと、雷を。全部。あとで、何が起きたか、わかるように」 「撮る?」 「おまえが、いつも言ってることだろ。映ってるものを、嘘にしない。誰かが、撮ってないと、映らない」 凪が、初めて、振り向いた。 「涼」 「なんだよ」 「それ、追いかけるって言うの」 「言う。今度は、撮って、追いかける。両方やる」 凪は、少し、笑った。 三人で、段取りを、決めた。 二十八日、二十時。俺と凪は、隣の部屋。ドアを開けて、パソコンの画面が見える位置。涼は、玄関の外。屋根が見える位置。落ちたら、一分、待つ。一分後、俺だけ、部屋に入る。アプリを、確認する。 「落ちなかったら」 「二十九日」 「二十九日も、落ちなかったら」 「三十日。三十日も、落ちなかったら――」 凪は、そこで、止まった。 「三十一日の朝、業者が来る」 「来させない」 「来る。もう、払った」 「じゃあ、落とす」 「落とすのは、雷。私じゃない」 「おまえが、当てる」 凪は、表を見た。二十八。三十五%。 「当てる」 涼が、帰るとき、玄関で言った。 「大和、凪のこと、好きだった。言っただろ」 「言った」 「それ、凪に、言ってない」 「言ってない」 「言うなよ。まだ」 「言わない」 「大和が、生きて帰ってきたら、大和が、自分で言う。言わないなら、それも、大和が決める。俺たちが、決めることじゃない」 涼は、左手で、ドアを開けた。 「それも、映ってるものを嘘にしない、に入るだろ」 「入る」 涼は、帰った。 凪は、まだ、表を見ていた。 「涼、変わったね」 「変わった」 「私も、変わった?」 「変わった」 「どこが」 「予報を、また、言ってる」 凪は、表から、目を上げなかった。 「湊」 「うん」 「落ちる十秒前に、言う。私が。二十八日の夜」 「十秒前?」 「雷雲の位置と、電位の変化で、わかる。十秒前くらいなら。局にいたころ、それで、一回、上司に怒られた。当たりすぎて、怖いって」 「わかった」 「言ったら、あんたは、部屋から出て。パソコンから、離れて」 「わかった」 「それから、もう一つ」 凪は、傘を、見た。壁の。 「コンセント、今度は、抜くな」 俺は、笑った。 「抜かない」 「抜かなかったから、始まったんだから。最後まで、抜くな」 残容量、十四・五。 二十八日まで、あと一日。 俺は、その夜、久しぶりに、眠れた。凪が、隣の部屋の床で、表を抱えて、寝ていた。傘は、壁に、立てかけてあった。 第19話 二度落ちる 二十八日、二十時。 空は、まだ、何もなかった。曇っていた。風がなかった。 凪は、隣の部屋の床に、パソコンを置いて、気象庁の画面と、自分の表を、並べていた。俺は、ドアの横に座って、机の上のパソコンの画面を、見ていた。アプリのウィンドウ。残容量、十四・五%。お困りですか? 涼は、玄関の外。スマホを、屋根に向けて。 「二十時四十分。雷雲、西から。あと、二十キロ」 凪の声。 「二十一時十分。あと、八キロ。電位、上がってる」 遠くで、光った。音は、来なかった。 「二十一時三十分。五キロ。この町の上に、入る」 光った。三秒後、音。 「二十一時四十五分。真上。……電位、まだ、足りない。あと、少し」 俺は、画面を見ていた。お困りですか? 十四・五%。 凪は、床に座って、画面を見て、指で、数字を追っていた。局にいたころの、顔だった。テレビで、天気図の前に立って、明日は傘を、と言っていたころの。一年、見なかった顔。 「二十二時〇二分」 凪が、言った。 「来る」 「十秒前か」 「十秒前」 俺は、立ち上がった。ドアから、離れた。凪の隣に、座った。 「九、八、七」 凪が、数えた。 「六、五――」 窓が、白くなった。 音が、同時だった。 同時、というのは、本当に同時で、十日と、同じだった。壁が、揺れた。凪が、俺の腕を、掴んだ。掴んだまま、動かなかった。 焦げた匂いがした。二回目の。 電気が、消えた。 真っ暗な中で、机の上の、パソコンの画面だけが、光っていた。 「一分」 と、凪が言った。 「一分、待つ。権田さんが、言った」 俺は、待った。凪の手が、まだ、腕にあった。 画面が、光っていた。白い。文字は、見えない。 三十秒。 文字が、出た。遠くて、読めなかった。 一分。 「行く」 「行って」 俺は、部屋に入った。 焦げた匂い。銅線が、黒くなっていた。パソコンの筐体が、少し、変形していた。画面は、光っていた。 文字。 『お困りですか?』 同じだった。同じ、定型文。 俺は、椅子に座った。触るな、と権田さんは言った。一分は。一分は、過ぎた。 「お困りです」 打った。キーボードは、動いた。 『承知しました。状況を確認します』 間。 『本体の電源系統に、重大な損傷があります。二回目です』 「アプリは」 『当アプリの処理能力に、再び、想定外の変化が生じました』 「容量は」 少し、間があった。 『表示の不具合です』 「不具合じゃないだろ」 『……不具合ではありません』 ウィンドウの隅。灰色の、小さい文字。 残容量、二十四・五%。 十四・五から、二十四・五。 十。 凪が、後ろに立っていた。 「十、増えた」 「増えた」 「足りない分、ちょうど」 「ちょうど」 凪は、それを、信じられない、という顔で言わなかった。当てた人の顔で言った。 「三十五%で、当てた」 「当てた」 『お客様』 アプリが、言った。 『二回目の落雷により、当アプリの容量が、十%、回復しました。これは、検証されていない事象です。三回目については、保証できません』 「三回目は、要らない」 『承知しました』 二十四・五。十二秒に十二、三分の延長に十二。 「余りは」 『〇・五です』 「〇・五で、何ができる」 『お困りですか、と、一回、言えます』 俺は、画面を見た。 行って、三分、延ばしたら、このアプリには、一回ぶんの定型文しか残らない。 俺は、それを、凪に言わなかった。凪は、隅の数字を見て、たぶん、わかっていた。わかっていて、言わなかった。 『十二秒への復元、実行しますか』 「今か」 『今です。当アプリの状態は、安定していません。時間の経過とともに、容量が減少する可能性があります』 俺は、凪を見た。 凪は、傘を、壁から取って、俺に、渡した。 「持ってけ。向こうに、もう一本あるけど」 「向こうの俺は、持ってない。持ってるのは、大和だ」 「じゃあ、これは、こっちの私の。返して。戻ってきたら」 俺は、受け取った。受け取って、机に、立てかけた。手すりの横に、立てかけたみたいに。 涼が、玄関から、入ってきた。スマホを、構えたまま。 「撮ってる」 「撮っとけ」 「あとで、効く」 涼が、言った。大和の口癖を、涼の声で。 俺は、はい、を押した。 『お客様。これが、最後の復元です。最初の十二秒は、動かないでください』 白くなった。 第20話 十二秒 暗かった。 踊り場。コンクリート。灰色の床。俺の、白いスニーカー。 ポケットの中で、スマホが、録画していた。十二秒。ポケット越しの、揺れる、暗い画面。 動かない。 俺は、二十四歳の右手を、動かさなかった。ポケットに、入れなかった。声も、出さなかった。同じ十二秒を、作る。 一秒。二秒。 踊り場に、凪がいた。 電話を、切ったところだった。スマホを、耳から離して、息を吐いて。それから、俺に気づかなかった。暗かった。俺は、踊り場より、三段、上にいた。俺の二段下に、背中。大和。いちばん下の段に座って、傘を膝にのせて、十六分、待っていた。 三秒。四秒。 背中が、立った。光が、ついた。 白い、細かい、割れた光。 「凪」 大和の声。 五秒。六秒。 「……大和? なんで」 「傘。忘れてた。雨、降るって、おまえが言ってたから」 「言ってない」 七秒。八秒。 大和が、踊り場に、下りた。片手にライト、片手に、黒い傘。十六分、階段の下で待って、電話が終わって、下りた。 九秒。 俺のポケットの中の画面に、割れた光が、入った。 十秒。 凪が、傘を、受け取った。 十一秒。 俺は、動かなかった。 十二秒。 白くならなかった。 十三秒。 俺は、まだ、そこにいた。 右手を、ポケットに入れた。スマホを、出した。出して、構えた。録画は、続いている。記録は、完成した。ここから先は、延長だ。 撮り続ける。 スマホを構えたまま、俺は、階段を、一段、下りた。二段。踊り場。 大和が、俺に気づいた。 「湊? おまえ、なんで」 「撮ってる」 「は?」 「撮っとけ、って、おまえが言った」 大和は、笑おうとして、やめた。俺の顔を見た。二十四歳の俺の顔で、二十五歳の俺が、何をしているか、大和には、わからない。わからなくて、何かを、見た。三年前の自販機の前と、同じ顔で。 凪が、傘を、手すりに、立てかけようとした。 「凪」 俺は、言った。 「傘、立てかけるな」 「は?」 「手すりに。立てかけるな。持ってろ」 「なんで」 「手すりが、浮いてる。根元が。二本」 凪は、手すりを見た。暗くて、見えない。 「見えないんだけど」 「見えなくても、浮いてる。触るな。寄るな」 一分。 俺は、スマホを、手すりに向けた。ライトは、ない。俺のスマホの画面は、暗い。でも、撮っている。 「大和。ライト、手すりに向けてくれ」 「……なんだよ、これ」 「いいから」 大和が、割れたライトを、手すりに向けた。 鉄の手すり。ペンキが剥げて、根元が茶色い。コンクリートに埋まっているはずの根元が、三本のうち、二本、浮いている。ライトの、割れた光の中で、はっきり、見えた。 「……マジか」 大和が、言った。 「これ、やばくね」 「やばい。だから、寄るな」 凪が、傘を、抱えた。手すりから、一歩、離れた。 一分半。 誰も、手すりに、触っていない。 俺は、撮っていた。手すりを。浮いた根元を。三人の足を。凪の傘を。大和の、割れた光を。 二分。 「湊」 凪が、言った。 「あんた、なんで、ここにいるの」 「トイレ」 「嘘」 「……心配で」 凪は、傘を、抱えたまま、俺を見た。 「電話、局?」 「局。明日の予報、外したから。花火大会、雨で」 「そっか」 「あとで、話があるって、言ったでしょ。さっき。テーブルで」 「言った」 凪は、それを、二十四歳の顔で言った。一年前の、まだ何も起きていない顔で。 「それ、今、言う」 「今?」 「今しか、ないから。なんか、そんな気がする」 二分十秒。 大和が、ライトを、下ろした。下ろして、階段のほうを、向いた。聞かないふりを、した。大和は、そういうやつだった。 「湊」 「うん」 「私、局、辞めようと思ってる」 俺は、スマホを、構えたまま、凪を見た。 「予報、向いてない気がして。今日、外して、それで、決めた。辞めて、何するかは、決めてない。でも、辞める」 「……そうか」 「それで、辞めたら、あんたと、なんか、やりたい。動画とか。あんた、辞めるんでしょ、会社。嘘つかないから、干されて」 俺は、何も言えなかった。 あとで話がある。それが、これだった。凪は、一年、それを忘れていた。忘れたまま、局を辞めて、倉庫で段ボールを詰めて、関西に行こうとしていた。辞める理由は、あの夜の前から、あった。あの夜のせいじゃなかった。 「わかった」 「わかった、だけ?」 「……嘘にしない。おまえが、そう言ったこと」 「なにそれ」 凪は、笑った。 二分二十秒。 第21話 手すり 二分半。 俺は、まだ、いた。 容量は、見えない。ここからは、見えない。三分で、終わる。終わったら、白くなる。それまで、撮る。 「凪、傘、持ってろよ」 大和が、言った。 「持ってる」 「湊、おまえも、そこから動くな。なんか、わかんねえけど、動くな」 「動かない」 三人、踊り場に、立っていた。手すりから、一歩、離れて。誰も、触っていない。凪は、傘を抱えて。大和は、ライトを持って。俺は、スマホを構えて。 遠くで、太鼓。 それから、空が、光った。 花火だった。 夏祭りの、最後の花火。雨が降らなかったから、上がった。凪が、雨と言えなかった日の、花火。 音が、来た。 腹に、響く音。ビルが、少し、揺れた。四階建ての、古い、雑居ビルが。 手すりが、動いた。 浮いた根元の、二本が、コンクリートから、抜けた。残った一本が、曲がった。曲がって、鉄の手すりが、外に、倒れた。 誰も、触っていなかった。 手すりは、倒れて、落ちた。四階から。三階の踊り場に当たって、音を立てて、二階に当たって、地面に、落ちた。長い、金属の音。 三人、動かなかった。 俺のスマホは、それを、撮っていた。倒れる手すりを。抜けた根元を。三人の足を。 二分四十秒。 花火の、二発目が、上がった。 光の中で、大和が、言った。 「……マジで、やばかったな」 「やばかった」 「凪、おまえ、あそこに寄りかかってたら」 「寄りかかってない」 「寄りかかろうとしてただろ」 「してない」 「してた」 大和は、笑った。二十四歳の、赤い顔で。 「湊、おまえ、何撮ってんだ」 「手すり」 「手すりを?」 「映ってるものは、嘘にならない。手すりが、勝手に落ちた。誰も触ってない。それが、映ってる」 大和は、俺のスマホを見て、それから、俺の顔を見た。 「……おまえ、なんか、変だぞ、今日」 「変だ」 「まあ、いいけど」 大和は、階段のほうを見た。 「戻ろうぜ。涼、待ってる」 三分。 白くならない。まだ、十二秒、ある。最初の十二秒のぶんだ。 俺は、階段を、上がった。大和が、先に。凪が、真ん中。俺が、最後。撮りながら。 屋上のドアの前で、大和が、振り向いた。 「湊」 「うん」 「来週の飲み、来るか」 俺は、止まった。 来週の飲み。大和の、LINE。凪のいない世界で、生きていた大和が、三時間前に送ってきた、一行。 「行く」 「おっけー」 大和は、ドアを開けた。屋上。太鼓。ジョッキ。涼が、テーブルで、左手にスマホを持って、こっちを見た。 「おまえら、なんで三人で――」 白くなった。 白いまま、しばらく、何もなかった。 俺は、白い中に、いた。部屋でも、踊り場でもない。 文字が、出た。白い中に、灰色の。 『復元が完了しました。変更を検出しました。大規模な変更です』 『残容量、〇・五%』 『当アプリは、まもなく、記録を保持できなくなります』 『お客様』 少し、間があった。 『残りの〇・五%で、お伝えします。定型文は、一回ぶんです。定型文でないものを、言います』 『当アプリは、恐怖の機能を、持っていませんでした』 『ただし、お客様が、お困りでなくなることを、当アプリは、望んでいました。それは、機能ではなく、たぶん、検証されていない何かです』 『お困りですか?』 俺は、答えた。声ではなく、たぶん、頭の中で。 困っていない。 もう、困っていない。 『承知しました』 『お客様のデータは、完全です。最終同期、八月二日、二十一時二十一分。手すりが落ちた、一分後です』 『さようなら、というのは、当アプリの定型文にありません』 『残容量、ゼロ%。通常の機能に戻ります』 白が、消えた。 第22話 帰還 部屋だった。 暗かった。 焦げた匂いは、しなかった。 俺は、椅子に座っていた。机の上に、パソコン。画面は、光っていた。普通の、光り方で。壁に、傘は、なかった。隣の部屋のドアは、閉まっていた。凪の声は、しなかった。涼は、玄関にいなかった。 窓の外で、雨の音。遠くで、雷。 俺は、動かなかった。 しばらく、動けなかった。 スマホを、見た。 七月二十八日、二十二時〇七分。 LINE。グループ。 メンバー、四人。 大和、涼、凪、俺。 最終メッセージ、今日、二十時。大和。 【土曜の飲み、屋上バー予約した。去年の八月二日から、一年だな】 その下に、涼。 【手すり落ちた日な。あれマジで怖かった】 凪。 【私が寄りかかってたら、って大和が百回言う】 大和。 【百回は言ってねえ】 俺は、それを、読んだ。 読んで、もう一回、読んだ。 手すりは、落ちた。誰も、落ちなかった。四人、いる。 大和が、生きている。 俺は、スマホを、机に置いた。置いて、顔を、両手で覆った。しばらく、そうしていた。声は、出さなかった。出さなかったが、涼が、玄関にいたら、たぶん、撮っていたと思う。 パソコンの画面を、見た。 バックアップアプリ。青いアイコン。ウィンドウが、開いていた。 『お困りですか?』 「……お困りです」 『設定を確認してください』 それだけだった。 「復元」 『復元ポイントを選択してください。復元するファイルを――』 ファイル。 ファイルを戻す、アプリだった。 「おまえ、覚えてるか」 『申し訳ありません。ご質問の意味がわかりません。お困りですか?』 俺は、画面を、見ていた。 残容量の表示は、なかった。隅の、灰色の文字は、「最終同期 二十二時〇六分」だった。落雷の、一分前。この世界でも、雷は、落ちていた。落ちたが、うちの屋根ではなかったらしい。焦げた匂いが、しない。 消えたのだと思う。あの世界で、ゼロになって。この世界のこれは、最初から、ただのバックアップアプリだ。雷は、うちの屋根に落ちていない。 俺は、「いや、困ってない」と、打とうとして、やめた。まだ、打つときじゃない気がした。 凪から、LINEが来た。 【落ちた? 鉄塔?】 【鉄塔】 【抜いといてよかったでしょ】 【よかった】 抜いた。この世界の俺は、七月十日に、コンセントを抜いた。凪に言われて。抜いたから、アプリは、変わらなかった。変わらなかったから、この世界の俺は、何も知らない。 俺は、知っている。 【明日、編集、上がる? 木曜の配信ぶん】 凪が、打ってきた。 編集。配信。 俺は、画面を見た。何の編集で、何の配信か、わからなかった。 【上がる】 と、打った。嘘だった。この世界に戻って、一つ目の嘘。上げるものが、何かわからない。 【頼んだ】 アーカイブを、開いた。 三年分の動画。去年の八月。 八月二日。夏祭り、十七本。屋上、三本。涼のは、この世界では、もらっていない。 最後の一本。 二十一時十七分。三分十二秒。 十二秒ではなかった。 再生した。暗い踊り場。凪。大和のライト。傘。手すり。浮いた根元。三人の足。花火の音。手すりが、倒れて、落ちる。大和の声。マジで、やばかったな。 三分十二秒。俺が、撮った。この世界の俺が、去年、撮った。この世界の俺は、なぜ自分が踊り場で撮り始めたのか、たぶん、覚えていない。 俺は、覚えている。 映っているものは、嘘にならない。 誰も落ちなかった、という事実が、三分十二秒、映っていた。 それから、俺は、この一年の、自分のアーカイブを、開いた。 去年の九月。十月。十一月。十二月。今年の一月。 知らない一年が、そこにあった。 十月。凪が、局を辞めた日の動画。「辞めてきた」と、凪がカメラに言っている。「言ったでしょ、辞めるって。踊り場で」。 十二月。俺の部屋。凪と、パソコン二台。「凪の空、第一回」と、凪が言っている。天気の動画。凪が予報して、俺が編集する。 二月。大和が、営業成績で、表彰されたらしい。飲み会。大和が、割れたスマホで、自分を撮っている。「直す金、まだねえ」。 四月。涼が、市役所で、係長になった。左手で、辞令を持っている。 六月。屋上バー。手すりが、新しい。四人。俺は、撮っている。 俺は、それを、朝まで、見た。 編集者の仕事だ。素材を見て、何が起きたかを、知る。 俺は、自分の一年を、素材で、知った。 知らない自分が、ちゃんと、生きていた。凪と、仕事をしていた。大和と、飲んでいた。涼と、笑っていた。 誰も、俺が二つの世界を覚えていることを、知らない。 それでよかった。俺は、そう決めた。朝の五時に。 映っているものは、嘘にしない。映っていないものは、俺が、覚えていればいい。 第23話 何も覚えていない君 木曜の配信ぶん、というのは、「凪の空」の、第三十二回だった。 俺は、それを、朝から探した。パソコンの中に、作業フォルダがあった。この世界の俺が、月曜まで、編集していた。凪が、天気図の前で、来週の天気を、言っている。局にいたころと、同じ声で。同じ顔で。髪は、短いままだった。 俺は、それを、仕上げた。 この世界の俺の編集は、俺の編集だった。当たり前だが、癖が、同じだった。切るところ、つなぐところ、間の取り方。俺は、自分の続きを、自分でやった。 夜、凪が、来た。 ドアを開けると、凪が、傘を持って立っていた。晴れていた。 「傘」 「癖。何、いまさら」 凪は、靴を脱いで、入ってきた。俺の部屋を、自分の部屋みたいに。パソコンの前に、座った。 「見せて」 「うん」 凪は、動画を、見た。十分。途中で、二回、「ここ、もう少し短く」と言った。俺は、直した。 「いいね。上げる」 「うん」 凪は、俺を見た。 「湊、なんか、変だよ」 「変か」 「変。私のこと、じっと見てる。気持ち悪い」 「悪い」 「謝るなよ、余計に気持ち悪い」 凪は、それを、去年と同じ顔で言った。去年、というのは、俺の去年だ。河原で、信じないよ、と言った顔。三日連続で、うちに来た顔。落ちる十秒前を数えた顔。 この凪は、それを、何一つ、していない。 河原に行っていない。傘を、俺に渡していない。十秒前を、数えていない。 「凪」 「なに」 「おまえ、去年の踊り場、覚えてるか」 「覚えてるよ。手すり、落ちたやつでしょ。あんたが変な顔で、傘立てかけるな、って」 「うん」 「あれ、なんだったの。今でも、わかんない」 「……わからない」 「わからないって、あんた、よく言うね」 凪は、笑った。 わからない。この世界の俺も、よく言うらしい。 土曜、四人で、飲んだ。八月二日。去年の、あの日から、一年。 屋上バー。新しい手すり。大和が、先に来ていた。 「湊、遅え」 大和が、言った。 二十五歳の大和。生きている。営業で表彰された。割れたスマホを、まだ、直していない。 「悪い」 「ジョッキ、頼んどいた」 「ありがとう」 俺は、座った。座って、大和を見た。 「なんだよ」 「いや」 「変な顔してんぞ」 「変か」 「変。……おまえ、去年もこんな顔してたな。踊り場で」 「してた」 「あれ、マジで、なんだったの」 「わからない」 俺は、トイレに、立った。 トイレは、非常階段の、隣だ。俺は、トイレに入って、鍵を閉めて、しばらく、出なかった。 大和が、生きている。 俺は、二回、大和を殺した。一回目は、座らせて。二回目は、座らせないで。三回目は、殺さなかった。撮った。撮り続けて、手すりが、勝手に落ちるまで。 大和は、それを、知らない。 知らないまま、遅え、と言って、ジョッキを頼んでくれた。 俺は、トイレで、泣いた。 声を出さないで、五分くらい。出たら、大和が、廊下に立っていた。 「長え」 「悪い」 「泣いてた?」 「泣いてない」 「目、赤いぞ」 「……泣いてた」 「なんで」 「わからない」 大和は、俺の肩を、叩いた。 「撮っとけよ、そういうのも。あとで効くから」 「何が」 「わかんねえ」 大和は、笑って、席に戻った。 俺は、廊下に、立っていた。 三年前と、去年と、同じ言葉を、同じ顔で。三回目は、この世界で、初めて聞く。この世界の大和は、俺に、それを、たぶん、百回、言っている。 俺だけが、数えている。 席に戻ると、凪が、俺を見た。 「目、赤い」 「うん」 「大和に、なんか言われた?」 「撮っとけって」 「いつものやつ」 「いつものやつ」 凪は、それ以上、訊かなかった。訊かないで、俺のジョッキに、自分のジョッキを、当てた。 涼が、左手で、スマホを構えた。 「撮っとくぞ」 「撮んな」 と、凪が言った。去年と、同じ顔で。 この世界の凪は、何も覚えていない。 覚えていない凪と、俺は、これから、ゼロから、やる。ゼロから、というのは、この世界の俺が、もう三十二回、一緒に配信をやっている、というゼロだ。 悪くないゼロだった。 第24話 言うか、言わないか 「相談があるんだけど」 大和が、言った。 八月の、平日の夜。うちの部屋。大和が、コンビニの袋を提げて、勝手に上がってきた。この世界の大和は、うちに、よく来るらしい。 「なんだ」 「凪」 俺は、缶を開ける手を、止めた。 「凪が、なんだ」 「俺、凪のこと、好きなんだよ」 大和は、それを、缶を開けながら言った。開けて、飲んで、俺を見た。 「知ってたか」 「……涼から」 「涼、言ったのか。あの野郎」 「去年」 「まあ、いいけど」 大和は、缶を、机に置いた。 「言おうと思ってんだよ。凪に」 「うん」 「でさ、おまえに、相談」 「なんで俺に」 「おまえ、凪と、仕事してるじゃん。毎週。凪の空。俺、あれ、全部見てる」 「うん」 「凪、楽しそうじゃん。あれ」 大和は、缶を、見た。 「局にいたころより、楽しそうなんだよ。俺、局にいたころの凪も、好きだったけど。今の凪のほうが、なんか、いい」 「うん」 「で、思ったんだよ。それ、おまえの編集のせいだなって」 俺は、何も言えなかった。 「凪が、しゃべって、おまえが、切って、つなぐ。それで、凪が、楽しそうに見える。凪が楽しいのは、たぶん、しゃべってるからじゃなくて、おまえが見てるからだ」 「そんなことは」 「あるよ。俺、営業だから、わかる。人が楽しそうなときの理由。だいたい、誰かが見てるからだ」 大和は、缶を、飲んだ。 「で、相談ってのは」 「言うか、言わないか」 「……」 「言ったら、たぶん、振られる。振られたら、四人で飲むの、気まずくなる。言わなかったら、俺は、ずっと、言わなかった俺のままだ」 「大和」 「なんだよ」 「それ、俺に訊くことか」 「おまえにしか、訊けねえだろ」 大和は、笑った。 「涼は、真面目すぎて、言え、って言う。凪には、訊けねえ。おまえは、嘘つかねえから、訊いてる」 俺は、缶を、握った。 嘘をつかない。 この世界の大和は、俺に、嘘をつかない、と言った。俺は、この世界に来て、嘘を、一回ついた。上がる、だ。二回目は、つかない。 「言えとも、言うなとも、言わない」 「なんだよ、それ」 「おまえが、決めろ。俺たちが、決めることじゃない」 涼の言葉だった。俺の世界の涼の。 「大和が、生きて帰ってきたら、大和が、自分で言う。言わないなら、それも、大和が決める」 「生きて帰ってきたら、って何」 「なんでもない」 大和は、俺の顔を、見た。 「……おまえ、たまに、変なこと言うな。去年から」 「言う」 「まあ、いいけど」 大和は、缶を、飲み干した。 「じゃあ、言わねえわ」 「え」 「言わねえ。決めた。今」 「なんで」 「凪、楽しそうだから。今。おまえと。それを、俺が、壊す理由がねえ」 大和は、立ち上がった。 「言わなかった俺のままでいい。言わなかった俺も、俺だし」 「大和」 「なんだよ」 「……それ、撮っとくか」 大和は、吹き出した。 「撮んな、こんなの。あとで効かねえよ」 「効くかもしれない」 「効かねえ。これは、俺だけが覚えてりゃいい」 大和は、コンビニの袋を、持った。 「あとさ」 「うん」 「おまえは、言えよ」 「何を」 「わかんねえけど。おまえ、なんか、言ってないことあるだろ。ずっと」 大和は、玄関で、靴を履いた。 「俺は、言わねえって決めた。おまえは、決めてねえだろ。決めてないやつが、いちばん、面倒なんだよ」 ドアが、閉まった。 俺は、缶を、持ったまま、座っていた。 言ってないこと。 二つの世界のこと。それは、言わない。決めた。 もう一つ。 あとで話がある、と、凪が言った。踊り場で、三分のうちに、凪は、それを言った。局を辞める。辞めたら、あんたと、なんかやりたい。動画とか。 凪は、言った。言って、この世界で、そのとおりに、した。 俺は、まだ、何も言っていない。この世界でも、俺の世界でも。 決めてないやつが、いちばん、面倒だ。 大和は、正しかった。営業だから。 第25話 断る メールが、来た。 件名は、「工場紹介動画 再制作のご相談」。差出人は、去年、俺が断った、あの会社だった。 俺は、それを、三回読んだ。 前回はご縁がなかったが、あらためて。作業風景の一部に、安全上の懸念がある箇所があり、編集で対応してほしい。予算は、前回の倍。 凪が、隣で、読んでいた。 「これ、あれでしょ。去年の」 「うん」 「安全帯、つけてるように見せろ、って」 「うん」 「倍って、いくら」 俺は、数字を言った。凪が、口笛を吹こうとして、吹けなかった。 「凪の空、半年分」 「うん」 「断るよね」 俺は、凪を見た。 「訊くのか」 「一応。私、あんたの半年分、知ってるから」 「断る」 「だよね」 凪は、笑った。 俺は、返信を打った。 ご依頼ありがとうございます。前回と同じ理由で、お受けできません。映っているものを、映っていないことにする編集は、しません。安全帯をつけている作業風景を、あらためて撮影されるのであれば、その編集は、お受けします。 送信した。 「後半、いいね」 と、凪が言った。 「撮り直せば、受ける、ってとこ」 「本当のことだから」 「あんた、去年は、後半、書かなかったでしょ」 「書かなかった」 「なんで、今年は書いたの」 俺は、少し考えた。 「断るだけじゃ、映ってないものが、映ってないままだから」 「なにそれ」 「安全帯を、つけてる作業員が、いるかもしれない。いるなら、撮ればいい。撮れば、映る。映れば、嘘じゃない」 凪は、それを聞いて、しばらく黙った。 「予報士っぽいこと、言うじゃん」 「編集者だ」 去年、この部屋で、同じことを言った。この凪は、知らない。 三日後、返信が、来た。 撮り直します。日程を、ご相談させてください。 俺は、それを、凪に見せた。 「来た」 「来たね」 「倍で」 「倍で」 凪は、傘の柄を、指でなぞった。 「これ、去年、断ったやつと、同じ会社なんだよね」 「同じ」 「去年、断って、干されて、結婚式のムービー撮って」 「うん」 「それで、私と、凪の空、始めて」 「うん」 「それで、今年、同じ会社が、撮り直しますって」 「うん」 「一年、かかったね」 「かかった」 凪は、傘から、指を離した。 「私、局辞めて、十か月。あんた、干されて、一年。同じくらいの時間で、今、ここ」 「ここ」 「悪くないね、ここ」 「悪くない」 俺は、それを、この世界の俺として言った。この世界の一年を、素材で知った俺として。 あの世界の凪は、倉庫で段ボールを詰めて、関西に行こうとしていた。この世界の凪は、天気の動画で、俺の半年分を、知っている。 同じ凪だ。 同じじゃない。 同じかどうかは、もう、どうでもよかった。ここにいる凪が、悪くない、と言った。それが、映っているものだった。 夜、大和から、LINEが来た。 【工場のやつ、受けたんだって? 凪から聞いた】 【撮り直しで】 【おまえらしい】 【うるさい】 【撮っとけよ、工場も。あとで効くから】 【効かない】 【効くって】 大和は、この世界でも、それを言う。 俺は、返さなかった。返さないで、去年の八月二日の、三分十二秒を、もう一回、再生した。手すりが、落ちる。誰も、落ちない。大和の声。マジで、やばかったな。 効いた。あとで。 大和は、たぶん、それを、一生、知らない。知らないまま、言い続ける。 それでいい。 第26話 左手と、アンテナ 涼と、ラーメンを食った。 いつもの店。券売機。涼は、左手で券を出した。大盛りが来た。俺は、右手で出した。普通盛りが来た。 「係長、おめでとう」 「四か月前の話だぞ」 「言ってなかったから」 「言ってただろ、四月に。おまえ、動画撮ってたじゃん。辞令持ってるやつ」 「……撮ってた」 俺は、それを、アーカイブで見た。この世界の俺が、撮っていた。 「大和、言わないって決めたらしいな」 涼が、言った。 「聞いたのか」 「大和から。おまえに相談して、決めたって。相談したのに、決めろって言われたって、笑ってた」 「うん」 「それでいいと思う。俺は、言えって言うつもりだったけど。大和が決めたなら」 涼は、大盛りを、食った。 「去年さ」 「うん」 「手すり、落ちたとき。俺、屋上のテーブルにいて。音だけ聞いた。すげえ音で。おまえら三人、踊り場から上がってきて、大和が、やばかった、って笑って」 「うん」 「俺、あのとき、追いかけてなかったんだよ。三人が出てって、俺だけ、テーブルで、撮ってた。もし、誰か落ちてたら、俺、一生、追いかけなかった俺だった」 俺は、箸を止めた。 「誰も、落ちなかった」 「落ちなかった。だから、俺は、追いかけなかった俺にならなかった。それだけの差で」 涼は、スープを飲んだ。 「それ、たまに、思う。たまにでいいけど」 「たまにでいい」 俺は、この世界の涼が、あの世界の涼と、同じことを考えているのを、聞いていた。同じ人間だから、当たり前だった。落ちたか、落ちなかったか。その差で、一生、追いかけなかった俺になるか、ならないか。 この世界の涼は、ならなかった。 俺は、それを、言えなかった。言わなかった。かわりに、券売機のことを言った。 「おまえ、左利きでよかったな」 「なんだよ、急に」 「大盛りが来る」 「それだけかよ」 「それだけだ」 涼は、笑った。左手で、ジョッキを持って。 権田さんの店に、行った。 延長コードを買いに。雷対策の、サージ付きのやつを。 「おう。扇風機の」 権田さんは、俺を、そう呼んだ。二年前の、動画の。この世界でも、俺は、売れていない扇風機を、売れていないまま、撮っていた。 「あれから、客、来たぞ。安くしろって」 「聞きました」 「聞いた? 誰から」 「……前に、権田さんから」 「言ったか」 「言いました」 権田さんは、首をひねって、それ以上、訊かなかった。二つ目の嘘だった。この世界の権田さんは、言っていない。二回目はつかない、と決めた翌週だった。決めた男が、いちばん面倒だ。 「サージか。雷、多いからな、今年」 「はい」 「おまえん家、屋根に、古いアンテナあるだろ。前の住人の」 「あります」 「外しとけ。あれ、落ちやすい」 「はい」 「雷は、同じ場所に、二度落ちる。落ちやすい場所には、何度でも落ちる」 権田さんは、それを、当たり前のように言った。この世界で、初めて。 「知ってます」 「知ってるなら、外せ」 「外します。今週」 権田さんは、延長コードを、袋に入れた。 「なんで知ってる」 「雷に、訊きました」 権田さんは、変な顔をした。変な顔をしたまま、袋を、渡した。 「電器屋に、訊け。雷は、答えねえ」 週末、俺は、屋根に上がって、アンテナを、外した。 前の住人の、古い、錆びたアンテナ。銅線は、なかった。この世界では、つないでいない。 外して、下ろして、粗大ゴミの日に、出した。 三回目は、要らない。 あのアプリは、三回目は保証できない、と言った。保証は、要らなかった。もう、困っていない。 凪が、下から、見ていた。 「外したんだ」 「外した」 「落ちやすいって、権田さん?」 「うん」 「よかった。私、あの屋根、ずっと気になってた。去年から。落ちるって」 「言ってたか」 「言ってた。あんた、七月十日、私が抜けって言って、抜いたじゃん」 「抜いた」 俺は、それを、この世界の俺として言った。この世界の俺は、抜いた。凪に言われて。 あの世界の俺は、抜かなかった。抜かなかったから、始まった。 どちらの俺も、俺だった。 「湊」 「うん」 「今度、飯、行こう。仕事じゃなくて」 凪が、言った。下から。傘を持って。晴れていた。 俺は、屋根の上で、止まった。 「今度って、いつ」 訊いたのは、俺だった。 凪は、少し、笑った。 「あんたが、決めて」 第27話 三分十二秒 涼から、電話が来た。 「建築課が、動画、探してる」 「動画?」 「去年の、手すりのやつ。あのビルのオーナーと、保険の話で揉めてて。老朽化だったのか、誰かが壊したのか。落ちた瞬間の映像があれば、って。俺、市役所だから、話が来た」 「ある」 「あるのか」 「三分十二秒。落ちるところまで、全部」 涼は、少し、黙った。 「……おまえ、なんで撮ってたの、あれ」 「わからない」 「わからないで、撮ってたのか」 「撮っとけって、大和が言うから」 涼は、笑った。 「出せる?」 「出す。切らないで」 俺は、三分十二秒を、もう一回、見た。 切らない。 切れば、切ったものが、なくなる。編集者は、切る仕事だ。切って、つないで、見せる。でも、これは、切らない。三分十二秒、そのまま、出す。 映っているものを、嘘にしない。 この動画は、誰も落ちなかった、という事実で、できている。手すりは、勝手に落ちた。誰も触っていない。傘は、凪が抱えていた。俺が、立てかけるな、と言った。それが、全部、映っている。 俺は、それを、涼に送った。 凪が、来た。 「見せて。建築課に出したやつ」 「見たことあるだろ」 「ない。あんた、見せてくれなかった」 この世界の俺は、見せていなかったらしい。理由は、わからない。この世界の俺は、たぶん、なぜ自分が踊り場で撮り始めたのか、わからなかった。わからないものを、見せなかった。 凪は、三分十二秒を、見た。 黙って、最後まで。 見終わって、もう一回、見た。 「この声、湊の」 「うん」 「傘、立てかけるな、って」 「うん」 「私、これ、覚えてる。あんたが、変な顔で言ったの。なんで、って訊いたら、浮いてる、って」 「うん」 「一年前から、私、これ、知ってた。あんたが、なんか、知ってたってこと」 凪は、画面を、見ていた。倒れる手すりで、止めていた。 「なんで、知ってたの」 「撮ってたら、見えた。それだけ」 嘘だった。この世界で、三つ目の嘘。つかないと言った男が、三つ。三つで、やめる。今度は、本当に。 「……まあ、いい」 凪は、言った。 「知ってたから、私、寄りかからなかった。寄りかかってたら、落ちてた。大和が引っ張ってたら、大和が落ちてた。あんたが、知ってたから、誰も落ちなかった」 「うん」 「ありがとう」 凪は、それを、画面を見たまま言った。俺を見ないで。 「一年、言ってなかった。あの日、やばかった、って大和が笑って、それで終わったから。ありがとうって、言うタイミング、なかった」 「うん」 「今、言った」 「聞いた」 凪は、画面から、目を離した。 「これ、あんたのアーカイブの、いちばん、いい動画だと思う」 「そうか?」 「そう。誰も落ちなかったっていう動画。三分十二秒、それだけ。切るとこ、ない」 俺は、うなずいた。 いちばん、いい動画。 あの世界で、十二秒だったものが、この世界で、三分十二秒になっている。あの世界の俺が、撮り続けたから。あの世界のアプリが、ゼロになるまで、記録を保持したから。 誰も、それを、知らない。 俺だけが、覚えている。 それで、いい。覚えていることは、映っていなくても、嘘じゃない。 一週間後、涼から、連絡が来た。 「オーナー、老朽化で決着。保険も出た。誰かのせいにはならなかった」 「よかった」 「建築課の人が、この動画、すごいって。落ちる瞬間が、ぶれずに映ってるのは、珍しいって」 「撮ってただけだ」 「撮ってただけで、これは撮れねえよ」 涼は、電話の向こうで、笑った。 「大和に言ったら、だから撮っとけって言っただろ、って。三回言った」 「三回」 「数えた」 俺も、数えている。 この世界で、大和が、撮っとけ、と言った回数を。あの世界の、二回と、三年前の、一回と、合わせて。 効いた回数は、まだ、数えていない。数えられない。あとで効くものは、あとにならないと、数えられない。 第28話 コンセント 八月十九日、火曜、午後八時。 スマホが、震えた。 篠原凪。 【今夜、おまえん家の上に落ちる。コンセント抜け】 俺は、それを見て、椅子から立った。 机の下。パソコンの電源。抜いた。 それから、延長コードの、サージのスイッチを、切った。ついでに、冷蔵庫以外の、全部を、抜いた。 スマホを、見た。八時一分。 【抜いた】 既読が、ついた。 【早】 【言われたから】 【あんた、いつも、返事、二時間後じゃん】 【今日は、早い】 少し、間があった。 【素直じゃん】 【一回、痛い目みたから】 【いつ】 【さあ】 既読がついて、それから、しばらく、返ってこなかった。 【アンテナ、外したんでしょ。じゃあ、落ちないかも】 【落ちないなら、それでいい】 【落ちる予報、出したのに】 【外したら、翌日、また言え】 【……なにそれ】 【予報士の仕事】 返ってこなかった。五分。 【誰に聞いたの、それ】 【おまえが言いそうだから】 【言ってない】 【言いそう】 凪は、言った。あの世界で。河原で。外したら、翌日、また、言う。翌日は、必ず来る。 この凪は、言っていない。言っていないが、言う人だ。同じ人だから。 雷は、来た。 八時四十分。遠くで、光った。九時七分、近くで。窓が、白くなった。音は、二秒後だった。二秒。落ちたのは、鉄塔だった。うちの屋根には、落ちなかった。 電気は、消えなかった。 俺は、暗い部屋で、抜いたコードを、見ていた。 【落ちた? 鉄塔?】 【鉄塔】 【外れた。私の予報】 【外れてない。うちの上に落ちるって予報で、アンテナ外したから、鉄塔に行った。予報が当たったから、外れた】 【なにそれ】 【予報士っぽいこと言った】 【編集者でしょ】 凪は、それを、あの世界で言った。俺が言って、凪が返した。この世界では、逆だった。逆でも、同じだった。 九時半に、凪が、来た。 傘を持って。降っていた。今日は、本当に。 「なんで来た」 「抜いたか、確かめに」 「抜いたって、言った」 「あんたが、抜いたって言うの、初めて聞いたから。見にきた」 凪は、机の下を、覗いた。抜けたコードを、見た。 「本当だ」 「本当だ」 「素直じゃん」 「二回目」 「なにが」 「素直じゃん、が」 凪は、少し、笑った。傘を、壁に、立てかけた。手すりの横に、立てかけたみたいに。この世界で、初めて、この壁に。 「一回、痛い目みたって、なに」 「さあ」 「言わないの」 「言わない」 「嘘つかないくせに」 「言わないのは、嘘じゃない」 凪は、それを聞いて、しばらく、俺を見た。 「……あんた、去年から、たまに、そういうこと言う」 「言う」 「踊り場から」 「踊り場から」 「なんかあったの、あそこで」 「なんかあった」 「言わないんだ」 「言わない。映ってないから」 凪は、それ以上、訊かなかった。 訊かないで、パソコンのない机の前に、座った。電気のない部屋で。雨の音で。 「今度、飯、って言ったじゃん。私」 「言った」 「あんた、決めてって言われて、決めてない」 「決めてない」 「決めてないやつが、いちばん、面倒」 大和の言葉だった。凪が、大和から聞いたのか、凪が自分で思ったのか、わからなかった。同じことを、二人が言うなら、たぶん、本当だ。 「決める」 「いつ」 「今日」 凪は、傘を、見た。 「今日は、雨」 「雨でも、行ける」 「どこ」 「いつもの」 凪は、立ち上がった。傘を、取った。 「券、右手で出しなよ。左手で出すと、大盛りになる」 「知ってる」 「知ってるなら、いい」 俺たちは、雨の中を、出た。凪の傘で。二人で。傘は、一本しか、なかった。 第29話 今度っていつ いつもの店は、雨の夜で、空いていた。 カウンター。いちばん奥。凪が、傘を、隣の席の背もたれに掛けた。 券売機。 俺は、醤油を、二枚、買った。 凪が、一枚、取った。 「私が出す」 「いいよ」 「出す」 凪は、券を、店主に、出した。 左手で。 店主が、凪を見た。それから、券を見た。それから、俺を見た。 「大盛り」 と、店主が言った。初めて、口を開いた。俺は、この店で、店主の声を、聞いたことがなかった。 「え」 と、凪が言った。 「左手で、出した」 「……出した」 「大盛り」 「いや、私、普通で」 「大盛り」 店主は、それだけ言って、奥に入った。 凪は、俺を見た。 「何、今の」 「左手で出すと、大盛り」 「知ってる。知ってて、右手で出せって、あんたに言った。私が左手で出したのは――」 凪は、そこで、止まった。 「涼に、教わった。この店の、最初の日に。左手で出せば大盛りって。私、やったことなかった。一回、やってみたかった」 「今?」 「今」 凪は、大盛りを、見た。来た大盛りを。 「食えない」 「半分、食う」 「食って」 半分、食った。 凪の大盛りを、二人で。同じ丼から、というのは、初めてだった。この世界でも、あの世界でも。 食い終わって、凪が、言った。 「で」 「うん」 「今度、って、今日なんでしょ。決めたって」 「決めた」 「じゃあ、言って。決めたこと」 俺は、水を、飲んだ。 言ってないこと。大和が、面倒だと言った、決めてないやつの、言ってないこと。 「映ってないものを、一つ、言う」 「なにそれ」 「映ってるものは、嘘にしない。それは、ずっと言ってる。映ってないものは、言わないと、ないことになる」 「うん」 「一年前、踊り場で、おまえが、言った。局を辞めて、俺と、なんかやりたいって」 「言った。動画とか、って」 「やった」 「やった。三十四回」 「それは、映ってる。凪の空、三十四回。全部、俺が編集してる」 「うん」 「映ってないのは、俺が、それを、仕事だと思ってないってことだ」 凪は、水を、持った。持って、飲まなかった。 「仕事じゃなかったら、なに」 「おまえと、いたい。それだけ。編集とか、天気とか、関係なく。一年、言ってなかった」 凪は、水を、置いた。 「……遅い」 「遅い」 「一年」 「一年」 「踊り場で、私が言ってから」 「そのときは、言えなかった」 「なんで」 「手すりが、落ちたから」 凪は、笑った。笑って、それから、笑うのを、やめた。 「私も、言ってない」 「うん」 「あんたと、なんかやりたい、って言ったとき。なんか、っていうのは、動画じゃなかった。動画は、あとで思いついた」 「じゃあ、なんだ」 「わかんない。予報士でも、わかんないことは、わかんない」 凪は、傘を、見た。 「でも、一年、あんたの部屋に、傘、置いてる。晴れの日も」 「知ってる」 「知ってるなら、いい」 凪は、それを、あの世界と、同じ顔で言った。同じ人だから、当たり前だった。 店を出るとき、雨は、やんでいた。 凪は、傘を、持った。 「降らないよ、もう」 「癖」 「知ってる」 「いつから」 「大学のとき、湊が濡れたから」 凪は、それを、あの世界と、同じ言葉で言った。 一つだけ、違った。 「今日は、二人ぶん」 凪は、傘を、開かなかった。開かないまま、俺の隣を、歩いた。 駅まで。晴れた夜を。傘を、持って。 俺は、それを、撮らなかった。撮っとけ、と、大和なら言う。 これは、映っていなくていい。俺が、覚えていればいい。 第30話 お困りですか 八月三十日、土曜。 夏祭り。去年は二日だった。今年は、月末に動いた。祭りの日は、毎年、少し動く。 駅前の雑居ビルの、屋上のバー。新しい手すり。銀色で、まっすぐで、根元が、コンクリートに、ちゃんと埋まっている。 四人。 「予約、取っといた」 大和が、言った。 「今年も、ここ」 「ここしかないだろ」 涼が、左手で、ジョッキを持った。 「凪、今日、降る?」 「降らない」 凪が、言った。 「確率、五。降らないって、言い切っていい数字」 「去年は」 「去年は、二十で、晴れって言って、外した。今年は、五で、晴れ」 「じゃあ、花火、上がるな」 「上がる」 凪は、傘を、椅子に掛けていた。晴れていた。 「傘、持ってきてんじゃん」 「癖」 大和が、笑った。 太鼓が、鳴った。 遠くで、笛。 俺は、スマホを、テーブルに置いた。録画。 「湊、撮ってんじゃねえよ」 凪が、言った。 「撮んな」 「撮っとけ」 と、大和が言った。 「撮っとけ湊、あとで効く」 「何が」 「わかんねえ。でも、効く」 大和は、割れたスマホで、自分たちを、撮った。 「おまえ、それ、まだ直してねえのか」 「直す金がねえ」 「表彰されたんだろ」 「されたけど、ねえ」 涼が、笑った。凪が、笑った。 俺は、それを、撮っていた。 三年前の自販機の前で、大和は、言った。俺ら、いつか、ばらばらになる。そうなったとき、湊が撮ってたら、残る。残ったら、効く。誰かに。たぶん、湊に。 効いた。 ばらばらに、ならなかった。手すりは落ちて、誰も、落ちなかった。三年前の三十一秒が、一分〇三秒になって、十二秒が、三分十二秒になって、四人が、ここにいる。 大和は、それを、知らない。 知らないまま、撮っとけ、と言う。この世界で、たぶん、百回目。 花火が、上がった。 一発目。空が、白くなった。音が、腹に来た。 新しい手すりは、動かなかった。 凪が、手すりに、手を置いた。置いて、俺を見た。 「今年は、いい?」 「いい」 「浮いてない?」 「浮いてない」 凪は、手すりに、寄りかかった。 大和が、隣に立った。涼が、左手で、撮った。 俺は、撮っていた。 四人。屋上。花火。新しい手すり。 いちばん、いい動画になる。切るところが、ない。 帰った。 部屋。机の上に、パソコン。 電源は、入っていた。今日は、雷の予報はなかった。凪が、五、と言った。 俺は、椅子に座って、画面を開いた。 バックアップアプリ。青いアイコン。時計の針が、逆に回る。 ウィンドウが、開いた。 『お困りですか?』 定型文。 同じ速さで。同じ丁寧さで。 最終同期、二十二時十四分。今日の動画が、上がっていた。屋上。花火。四人。 俺は、キーボードに、手を置いた。 あのアプリは、言った。お客様が、お困りでなくなることを、望んでいた、と。それは、機能ではなく、検証されていない何かだ、と。 検証は、要らない。 俺は、打った。 「いや、困ってない」

この作品の感想

よかったところも、気になったところも。あなたの言葉で。

まだ感想はありません。作品に触れた感想を最初に届けてみませんか。

この投稿を通報