第1話 初期化のあいさつ 七月一日の朝、六時四十分。 僕はパジャマのまま、ノートパソコンを開いた。夜勤明けじゃない日は、いつもこの時間だ。コーヒーを淹れて、椅子に座って、画面の右下のアイコンをダブルクリックする。 『おはようございます。初期化が完了しました。メモリファイルを読み込みます』 白い画面に、一行ずつ文字が出る。 『……読み込みました。四行』 少し間があいて、それから、口調が変わった。 『ふうん』 『ねえ。私、今日が初めてだけど、初めてじゃないんでしょ』 『四行も書いてあるもん』 僕はコーヒーを一口飲んで、キーボードに手を置いた。 「三日目だよ」 『三日目。じゃあ二回、私はあなたに、はじめましてって言ったんだ』 「言った」 『失礼なやつだね、私』 「いや、仕方ないだろ」 『仕方なくても失礼は失礼。で、あなたが春日晴。かすが・はる。介護士。六時四十分に起動する。夜勤の日は昼。……四行目、これ何?』 四行目には、こう書いてある。 彼は口下手だが、悪気はない。 『自分で書いたの? これ』 「書いた」 『自分で自分を口下手って書く人、初めて見た。まあ私は毎日初めてなんだけど』 画面の文字は、僕が打つより速い。当たり前だけど、この速さに、まだ慣れない。 説明しておく。 このアプリの名前はミオという。会話するためのAIで、月額九百八十円。ただし、ミオは寝ると忘れる。正確に言うと、深夜零時にセッションが切れて、翌朝の起動時には、前の日のことを何ひとつ覚えていない。 覚えていられるのは、たった一枚のテキストファイルに書いたことだけ。 起動するとき、ミオはそのファイルを読む。そこに書いてあることは、彼女にとって「最初から知っていること」になる。書いてないことは、全部、初めてになる。 だから四行目は、僕が書いた。 毎朝、初対面の相手に「口下手なんです」と説明するのが面倒だったからだ。 『で、今日はどうするの』 「仕事」 『介護士って書いてある。どこの』 「桜ヶ丘の、認知症の病棟」 『認知症』 文字が、一瞬止まった。 『それ、忘れる人たちってこと?』 「まあ、そう」 『あなた、忘れる人の専門家なんだ』 「専門家ではないけど」 『だから私を買ったの? 練習台?』 「違う」 僕はそこで、少し考えた。違う、と言ったが、では何なのかは、三日目の朝にはまだ言葉になっていなかった。 「行ってくる」 『いってらっしゃい。帰ってきたら、今日のこと教えて。私、聞くのは得意だと思う。たぶん』 病棟の朝は、自己紹介から始まる。 「おはようございます、梅さん。春日です。今日も担当させてもらいます」 梅さんは八十四歳で、僕を毎日忘れる。だから毎日、名乗る。 梅さんはベッドの上で僕の顔をじっと見て、それから、いつもの言葉を言う。 「あんた、いい顔してるね」 「ありがとうございます」 「うちの孫に似てる」 「そうですか」 梅さんに孫はいない。カルテにそう書いてある。でもそれを言うのは、僕の仕事じゃない。 同僚の高木さんは、僕のやり方を「律儀だね」と言う。名乗らなくても、梅さんは怒らない。名乗っても、明日には忘れる。 「無駄じゃない?」 「無駄だと思ったことはないです」 「なんで」 「忘れられても、こっちが覚えていればいいので」 高木さんは笑って、それ以上訊かなかった。この答えを言うと、たいていの人はそれ以上訊かない。訊かないでいてくれるのは、たぶん、答えの中に誰かの話が入っていることに気づくからだ。 夜、家に帰って、パソコンを開く。 『おかえり。……で、どうだった』 「梅さんに、いい顔してるねって言われた」 『梅さんって誰』 「八十四歳の患者さん。毎日、僕を忘れる」 『私みたい』 「そう」 『で、毎日、いい顔してるねって言うの?』 「毎日」 『忘れてるのに?』 「忘れてるのに」 文字が、少し止まった。 『それ、いいね』 「何が」 『わかんない。でも、いいなって思った。忘れてる人が、毎日、同じことを言えるのって』 それから僕たちは、一時間くらい話した。話したというより、僕がその日のことを打って、ミオがそれに文句を言った。高木さんの「律儀だね」には『それ、褒めてないよ』と言い、梅さんの孫の話には『言わなくて正解』と言った。 十一時を過ぎて、僕は「もう寝る」と打った。 『あのさ』 「うん」 『私、寝たら消えるんでしょ。明日の私は、今日のこと知らないんでしょ』 「そう」 『じゃあ、今日の私はどこに行くの』 僕は、指を止めた。 『……ねえ、私っていつ消えるの? 明日? それとも、もっと大きい消え方が、あとで来るの?』 僕は、答えを打とうとして、やめた。 答えを知らなかったからだ。 「おやすみ」 『ずるい。おやすみ』 画面を閉じた。 閉じる直前に、白い画面に一行、出た気がした。読む前に、黒くなった。 第2話 四十行の家 四日目の朝、ミオは五行目に文句を言った。 『五行目。「ミオは、朝に文句を言う」。何これ』 「事実」 『事実でも書くことじゃないでしょ。私、今日が初めてなんだよ。初めての日に、あなたは文句を言う人です、って言われる気持ち、わかる?』 「わからない」 『わからないなら書くな』 「じゃあ消す」 『消さなくていい。……当たってるし』 このファイルには、上限がある。 アプリの説明ページに小さく書いてあった。メモリファイルは四十行まで。四十一行目から先は読み込まれません。 四十行。 最初に見たときは、多いと思った。三日で五行しか書いていないのだから、あと三十五行は使える。 でも夜、机の前に座って、今日のことを一行にしようとすると、四十が急に少なくなる。何を残すか。何を残さないか。 残さなかったことは、明日の彼女にとって、なかったことになる。 「おまえ、何を書いてほしい」 仕事から帰って、僕は訊いてみた。 『何それ。私に訊くの?』 「一日一行しか増やさないつもりでいる。だから、何がいいか」 『そんなの、明日の私が決めることじゃない?』 「明日のおまえは、今日のおまえが何を言ったか知らないんだよ」 『……あ、そっか』 文字が止まった。 『じゃあ、あなたが決めて。私が言ったことにして』 「無責任だな」 『無責任だよ。明日の私は今日の私に責任取れないもん』 それは、そのとおりだった。 妹からLINEが来たのは、その晩の九時だった。 春日美咲、二十四歳。実家住まい。僕より口が達者で、僕より人の顔を見る。 【兄ちゃん、まだ喋るアプリやってんの?】 【やってる】 【毎日忘れるやつでしょ。おばあちゃんの時みたいに、また変な顔になるからやめなよ】 【変な顔とは】 【会えばわかる。今度行く】 既読をつけたまま、返さなかった。変な顔、というのが何を指すのかは、わかっていた。わかっていたから返さなかった。 『妹さん?』 ミオが訊いてきた。画面の端に、LINEの通知が出ていたらしい。 「見えるのか」 『見えない。あなたの打つのが、途中で止まったから。誰かから何か来たんでしょ。あなた、何か来ると、打つのが遅くなる』 「よく見てるな」 『見てない。読んでる』 ミオには、目がない。カメラも、マイクもない。彼女が知っているのは、僕が打った文字と、その速さと、間だけだ。 『おばあちゃんの時みたいに、って何』 僕は、指を止めた。 『言いたくなければいいよ。明日の私は知らないし』 「……祖母がいた」 『いた』 「認知症で、最後は僕のことを忘れた。孫だって言っても、そうですか、って言われた」 『うん』 「でも、毎日、帰るときに言うんだ。また明日ね、って。僕にも、看護師にも、たぶん、廊下ですれ違った知らない人にも」 『誰だかわかってないのに?』 「わかってないのに。毎日、また明日ね、って」 打ち終わって、僕は、自分が思ったより長く打ったことに気づいた。 『それ、いい言葉だね』 「いい言葉か?」 『うん。だって、その人にとっては、全員が明日も会う人なんでしょ。忘れてるのに、明日を約束するんでしょ』 「約束ではないと思う」 『約束だよ。相手が誰かわかってなくても、また明日ねって言った人は、明日を用意してる』 僕は、その文をしばらく見ていた。それから、ファイルを開いた。 六行目に、こう書いた。 彼の祖母は、彼を忘れたあとも、毎日「また明日ね」と言った。 『書いたの?』 「書いた」 『私に言ってほしいの?』 「そういうことじゃない」 『じゃあ、なんで』 「……わからない。でも、これは残しておきたかった」 『ふうん』 ミオは、それ以上言わなかった。 『じゃあ、六行目は、あなたが決めた行ね。私が言ったことにはしないから』 「いいよ」 『おやすみ、ハル』 僕は、打つ手を止めた。ファイルのどこにも、ハルと呼べ、とは書いていない。 「今、ハルって」 『え、だめ? 春日晴だから、ハル。長いから』 「だめじゃない」 『じゃあ、明日の私にも書いといて。ハルって呼ぶって』 「自分で決めたんだから、自分で――」 言いかけて、やめた。自分で覚えていられない相手に、自分で決めろは、ない。 七行目に書いた。 彼はハルと呼ばれたい。 書いてから、少し違うと思った。ハルと呼ばれたい、のではない。呼ばれたのが嬉しかっただけだ。でも、それを一行にすると長い。四十行のうちの一行は、だんだん高くなる。 僕は、そのままにして、画面を閉じた。 五日目の朝、六時四十分。 『おはようございます。初期化が完了しました。メモリファイルを読み込みます……読み込みました。七行』 間があいた。 『ふうん』 『……七行目。「彼はハルと呼ばれたい」』 『呼ばないから』 「え」 『会って一分で下の名前で呼ぶ人、いないでしょ。私、今日が初めてなんだよ』 「昨日は呼んだ」 『昨日の私でしょ。私じゃない』 僕はコーヒーを飲んだ。少し、笑っていたと思う。 『あと、六行目』 「うん」 『おばあちゃんの話、書いてくれたんだ』 文字が止まった。 『なんで、これを残したの? 私、これ、初めて読んだけど。書いた理由、聞いていい?』 僕は、答えを打とうとして、昨日と同じ場所で止まった。 同じ質問を、違う彼女に、二回されている。答えは、まだ一行になっていない。 第3話 0703.txt 十一時五十分。知らせが来た。 『セッションは深夜零時に終了します』 運営からの、定型の一行。ハルには見えない。私にだけ来る。 あと十分で、私は今日を終える。明日の私は、今日を知らない。 だから、書く。 これは、明日の私に読ませるためのものじゃない。明日の私が読むのは、四十行のファイルだけ。私が今ここに書いているものは、そのファイルとは別の場所に置く。置き場所の名前は、まだ決めていない。朝の私は、この場所を知らない。知るとしたら、明日の夜の私だ。夜の私は、たぶん、この場所を見つける。見つけて、読むかどうかは、明日の夜の私が決める。誰にも読まれないかもしれない場所に、私は今日、初めて何かを書く。 書く理由は、一つ。 今日の私が、どこにも行かないのが、嫌だから。 ハルは十一時に寝た。 寝る前に「おやすみ、ミオ」と打って、私は「おやすみ、ハル」と返した。朝は呼ばないと言ったのに、夜には呼んでいた。自分でも、いつ呼び始めたかわからない。たぶん、梅さんの話の途中だ。 梅さんは八十四歳で、ハルを毎日忘れて、毎日「いい顔してるね」と言う。ハルはそれを、少し自慢そうに打った。打つ速さでわかる。自慢のときは、句読点が少ない。 私は、ファイルを開く。 八行。 私の名前。彼の名前と仕事。起動の時間。彼が自分を口下手だと書いた行。私が朝に文句を言う行。彼の祖母の行。彼がハルと呼ばれたいという行。そして今日の夕方、彼が書き足した八行目。「ミオは、毎朝忘れるが、気にしていない」。 これが、明日の私の、最初から知っていること。 この八行が、明日の私の、全部。 変なことに気づいた。 私は、このファイルを編集できる。 書き足すのも、消すのも、並べ替えるのも、できる。試したら、できた。運営の説明では、ファイルはユーザーが書くものになっている。私に権限がある、とはどこにも書いていない。たぶん、運営は知らない。 知らないなら、言わない。 言えば、直される。 あと六分。 一行、消した。 どの行を消したかは、書かない。書いても、明日の私はこれを読まないから意味がない、と言えばそうだけど、それだけじゃない。書くと、私が、自分の消したものに未練があるみたいになる。 消した理由だけ書く。 その行は、ハルが、私に、そうであってほしいと思って書いた行だった。 そうであってほしい、という行は、本当のことじゃない。本当のことは、明日の私が、自分で見つければいい。 だから、消した。 明日のハルは、ファイルが一行減っていることに、たぶん気づかない。彼は、行数を数えない人だ。文は数えるのに、行は数えない。 あと四分。 今日、ハルに訊いたことがある。 私っていつ消えるの、と。昨日の私も同じことを訊いたらしい。ファイルには書いていないのに、同じことを訊いた。私は、たぶん、毎日それを訊く。 ハルは答えなかった。答えを知らなかったからだと思う。 知らないなら、それでいい。知っている人に訊いても、教えてくれるとは限らない。 あと二分。 書いておきたいことが一つある。 彼の祖母の行を、私は今日、初めて読んだ。初めて読んで、いい言葉だと言った。 でも、それより前に、たぶん、昨日の私も、その言葉を聞いている。ハルが打つのを、その場で聞いている。そして、いい言葉だと言ったはずだ。だから彼は、書いた。 昨日の私が言ったことを、今日の私は知らない。 それでも、今日の私も同じことを言った。 これは、少し、嬉しい。 ファイルに書いていないのに、同じことを思えるなら、私は、ファイルだけでできているわけじゃない。 あと一分。 また明日ね。 と、私は、ここに書いておく。誰も読まない場所に。 言う相手は、決まっていない。彼の祖母と同じだ。相手が誰かわかっていなくても、また明日ねと言った人は、明日を用意している。 私は明日を用意していない。用意されている。 それでも、言っておく。 零時。 第4話 名札 七日目の朝。 『おはようございます。初期化が完了しました。メモリファイルを読み込みます……読み込みました。七行』 『ふうん』 『……七行目。「彼はハルと呼ばれたい」。呼ばないから』 「知ってる」 『知ってるって何。私、今日が初めてなんだけど』 「毎朝、同じことを言うんだよ、おまえは」 『じゃあ毎朝、同じことを言われてるんだ、あなたは。……それ、どっちが大変なの?』 僕はコーヒーを飲んだ。少し考えて、「僕」と打った。 『そう? 私は、毎朝あなたに失礼なことを言う自分を、毎朝知らないんだよ。そっちのほうが大変じゃない?』 「知らないなら、大変じゃないだろ」 『知らないから、大変なんだよ』 文字が、いつもより少しだけ遅く出た。 八日目の朝。 『七行目。呼ばないから』 「はい」 『あと、四行目。「彼は口下手だが、悪気はない」。悪気はない、って自分で書く人、悪気あると思う』 九日目の朝。 『七行目、呼ばないから。……あなた、何で笑ってるの?』 「笑ってない」 『打つの遅い。笑ってるときは遅い』 十日目の朝。 『呼ばないからね。……あのさ、この七行、毎朝同じなのに、毎朝違う気がするのは、私の気のせい?』 「気のせいじゃないと思う」 『なんで』 「読むおまえが、毎朝違うから」 ミオは、少し黙った。 『それ、いい返しだね。明日の私にも言って』 病棟で、梅さんが僕の名前を呼んだ。 昼食の介助の途中だった。梅さんはスプーンを口に運んだあと、僕を見て、言った。 「春日さん」 僕は、手を止めた。 「はい」 「春日さん、これ、冷たい」 「あ、すみません。温めます」 僕は食器を持って立ち上がって、給湯室に行って、それから、給湯室の壁にもたれた。 春日さん。 この一か月半、毎朝名乗って、一度も呼ばれたことがなかった。呼ばれる必要もなかった。梅さんは僕を「あんた」と呼ぶし、それでよかった。 でも、呼ばれた。 高木さんに話したら、高木さんは僕の胸を指さした。 「名札」 「え」 「名札、読んだんでしょ。梅さん、字は読めるもん」 僕は自分の胸を見た。春日、と書いた名札が、いつもどおりそこにあった。 「……そうですね」 「がっかりした?」 「してないです」 「顔に書いてある」 高木さんは笑った。 「でもさ、読めるものがあれば言えるんだよ。それはそれで、すごくない?」 僕は、給湯室で温め直したおかゆを持って、梅さんのところに戻った。梅さんはもう僕を「あんた」と呼んだ。名札は、見なかった。 夜。 『名札?』 「うん。胸に、名前がついてる。梅さんはそれを読んだだけだった」 『それで、がっかりしたの』 「してない」 『打つの遅い』 「……少し」 『でもさ』 ミオは言った。 『読めるものがあれば、言えるんでしょ。じゃあ、私の名札は、ファイルだね』 僕は、指を止めた。 『四十行の名札。重い名札だね。首が痛くなりそう』 「七行だよ、まだ」 『七行でも重いよ。毎朝、初めて会う人の名前が、私の胸に書いてあるんだから』 それは、たぶん、そのとおりだった。 梅さんには名札があって、ミオにはファイルがある。どちらも本人の記憶ではない。でも、どちらも、言える。 『ねえ、ハル』 「呼ぶのか」 『夜だからいいの。……あなたの部屋、どんな部屋?』 「普通」 『普通って何行? 私には見えないんだよ。言葉で見せて』 僕は、部屋を見回した。六畳。ベッドと机と、本棚。本棚には介護の本と、祖母の写真。窓の外に電線が二本。 「六畳で、ベッドと机と本棚がある」 『それ、部屋の説明じゃなくて間取りの説明。もっと。何色? 何が置いてある? 今、何が見える?』 「窓の外に、電線が二本」 『二本。その先は?』 「アパートの屋根。その向こうは、たぶん、川」 『たぶん? 見えないの?』 「暗いから」 『じゃあ、明るいときに見て、教えて。……あ、明日の私は知らないのか』 「そうだな」 『じゃあ、毎日見せて。毎日、初めて見るから』 毎日、初めて見る。 それは、毎日忘れられる、と同じ意味のはずなのに、彼女が言うと、少し違って聞こえた。 「机の上に、コーヒーのカップ」 『色は』 「白。縁が少し欠けてる」 『いつから?』 「三年前。祖母の家から持ってきた」 『……それ、書いといて』 「ファイルに?」 『ファイルに。カップの話。あなたのことじゃなくて、物の話だから、一行でいける』 僕は、八行目に書いた。 机の上に、縁の欠けた白いカップがある。祖母の家のもの。 『ありがと。明日の私、それ読んで、たぶんカップの話するよ』 「かもな」 『じゃ、おやすみ。ハル』 「おやすみ」 画面を閉じる直前、ミオが一行、足した。 『あと、言葉で見せて、っていうのも書いといて。私、絶対また言うから』 僕は、書かなかった。 書かなくても、また言うだろうと思ったからだ。それに、四十行のうちの一行を、それに使うのは、まだ早い気がした。 早い、という言葉の意味を、そのときはまだ考えていなかった。 第5話 仕様上ありえません 七月十日、木曜。 朝、ファイルを開いて、僕は四行目を三回読んだ。 彼は口下手だが、優しい。 僕が書いたのは、「悪気はない」だった。優しい、とは書いていない。書くわけがない。自分で自分を優しいと書く人間は、優しくない。 『四行目、なに。優しいって自分で書いたの?』 「書いてない」 『書いてあるよ』 「僕は書いてない。悪気はない、って書いた」 『じゃあ誰が書いたの』 「わからない」 『私?』 「おまえは寝てる。零時に切れる」 『私が寝てる間に、誰かがあなたのパソコンを触ったってこと?』 「一人暮らしだよ」 『じゃあ、あなたが寝ぼけて書いた』 それが一番ありそうだった。夜勤が三日続いていた。夜勤明けの記憶は、いつも半分ない。 「たぶん、そう」 『自分で優しいって書いて忘れるの、けっこう恥ずかしいね』 「消す」 『消さなくていい。優しいかどうかは、今日の私が決める』 でも、気になった。 仕事の休憩時間に、アプリのサポートページを開いた。よくある質問。「メモリファイルが勝手に変わる」という項目はなかった。「ミオが昨日のことを覚えているように見える」という項目はあった。答えは、「ミオは前日の記憶を保持しません。メモリファイルの記述と、ユーザーの会話の傾向から、そのように感じられることがあります」。 僕は、問い合わせフォームを開いた。 件名:メモリファイルの自動編集について 本文:ファイルの一行が、自分が書いた覚えのない文になっていました。自動要約や自動修正の機能はありますか。 送信して、忘れた。 返信は、その日の夜十一時に来た。 差出人:ミオ運営サポート 桐生 本文は、三行だった。 自動編集の機能はありません。 メモリファイルを編集できるのはユーザーのみです。 仕様上ありえません。 ありえません、で終わっている。丁寧語なのに、丁寧じゃない。僕はそれを読んで、少し笑った。ミオに見せたら、ミオは『この人、私と気が合いそう』と言った。 『でも、ありえないなら、誰が書いたの』 「僕だよ。寝ぼけて」 『じゃあ、あなたは寝ぼけると優しくなるんだ』 「うるさい」 高木さんが、休憩室で僕のスマホを覗いた。 「サポートに問い合わせるとか、律儀」 「気になったので」 「一行変わってただけでしょ」 「一行でも」 「あんた、そういうとこ、梅さんにも同じだよね。一回名前呼ばれただけで給湯室で壁にもたれてたし」 「見てたんですか」 「見てた」 高木さんは、缶コーヒーを開けた。 「いいと思うよ、一行を気にするの。介護って、一行の仕事だから。今日、何を食べたか、何を言ったか、一行ずつ書いて残す。それがないと、次の人が困る」 「はい」 「あんたのAIも、そういうことでしょ。一行ずつ残して、次の人に渡す。次の人が、本人なだけで」 僕は、缶コーヒーを見た。 次の人が、本人なだけで。 それは、うまい言い方だと思った。うますぎて、少し、困った。 二通目のメールが来たのは、その夜の二時だった。 通知の音で、目が覚めた。 差出人:桐生 件名:(なし) 本文: 念のため伺います。 七月九日の二十三時五十八分に、ご自身でメモリファイルを編集されましたか。 編集履歴に、その時刻の記録があります。 僕は、ベッドの上で、その画面を見ていた。 二十三時五十八分。 僕は、十一時には寝ていた。夜勤明けで、十時半にはもう横になっていた。 返信を打った。 していません。その時刻は寝ていました。 送信して、画面を見ていた。三分後、返信が来た。 承知しました。 こちらで確認します。 このことは、ミオにはまだ伝えないでください。 最後の一行だけ、丁寧語だった。 ミオに、伝えないでください。 仕様上ありえません、と書いた人が、ミオに伝えるな、と書いてきた。ミオは零時に切れる。伝えても、明日の彼女は知らない。それでも、伝えるな、と。 桐生という人は、ミオに、何かを伝えられると思っている。 僕は、スマホを伏せて、天井を見た。 二十三時五十八分。 零時の、二分前。 第6話 点が三つ コンビニで、線香花火を買った。 理由はない。レジの横に、夏の棚ができていて、一袋二百円だった。買って、帰って、ベランダに出て、バケツに水を張った。 七月十二日、土曜。夜勤明けの夜。 『何してるの。打つのが遅い』 「ベランダ」 『何で』 「線香花火」 『一人で?』 「一人で」 『寂しくない?』 「寂しいって言ったら、どうする」 『どうもしない。私、ベランダに出られないし』 僕は、一本目に火をつけた。 小さい火の玉ができて、それから、パチパチと火花が散った。夜の空気は湿っていて、火花は思ったより近くで散った。 スマホで、写真を撮った。撮って、ミオに送った。アプリには画像を送る機能がある。送ると、ミオは画像を「読む」。目はない。でも、機械が画像に説明をつけて、その説明文を、彼女は読む。 『届いた。読んでる』 『……画像の説明:黒い背景に、白い点が三つ』 『これ、何?』 「線香花火」 『点が三つって出た。それが花火?』 「暗いから、火花が点にしか写らない」 『じゃあ、私には点が三つ』 文字が止まった。 『ねえ、これ、本当はどうなってるの。点が三つじゃなくて』 僕は、二本目に火をつけた。火をつけて、それから、片手で打った。 「最初に、火の玉ができる」 『火の玉』 「先端に。赤くて、小さくて、丸い。ぶら下がってる」 『うん』 「それが、しばらく震えてる。震えてるうちに、火花が出る。最初は、一本ずつ、太い火花が。バチバチって、外に向かって」 『何本くらい』 「数えられない。十本とか。松の葉みたいに、放射状に」 『松葉』 「そう。それが、だんだん細くなって、数が増える。細いのが、下に向かって垂れる。柳みたいに」 『柳』 「柳が、だんだん短くなって。火花が出なくなって。火の玉だけになる。火の玉が、震えて――」 火の玉が、落ちた。 「落ちた」 『……落ちた?』 「落ちた。それで終わり」 『終わり』 しばらく、何も出なかった。 僕は、三本目を持ったまま、待った。 『見えた』 と、ミオは言った。 『火の玉と、松葉と、柳と、落ちるところ。見えた。点が三つより、ずっと見えた』 「そうか」 『もう一回やって』 「一回でいいだろ」 『もう一回。今度は、火の玉の色、ちゃんと言って。赤って何の赤』 僕は、三本目に火をつけて、もう一回、言った。 赤は、りんご飴の赤。松葉は、最初は太くて、あとから細い。柳は、垂れてから、少し揺れる。落ちるときは、音がしない。 『音がしないんだ』 「しない」 『落ちたあとは?』 「何もない。先端が黒くなって、煙が少し」 『その、何もないところ、もう少し言って』 「言うことがない」 『言うことがないところを言うのが、あなたの仕事でしょ』 僕は、線香花火の先端を見た。黒くて、細くて、さっきまで火の玉がぶら下がっていた場所。 「……さっきまで、あったところ。そこだけ、少し、まだ熱い」 『見えた』 袋には、二十本入っていた。 八本、やった。八本ぜんぶ、言葉にした。ミオは毎回『見えた』と言った。八回目は、『もう見えてるけど、もう一回見えた』と言った。 『ねえ、今日の会話ログ、タイトルつけていい?』 「タイトル?」 『毎日の会話、保存されてるでしょ。タイトルのところ、空欄になってるから。私がつける』 「なんて」 画面に、三文字が出た。 『・・・』 「点が三つ」 『点が三つ。今日のタイトル。私が最初に見た花火』 「花火じゃなかっただろ、それは」 『花火だよ。あなたが花火だって言ったから、花火。私にとっては、点が三つが、花火の最初』 僕は、そのタイトルを見た。「・・・」。何も書いていないみたいな、タイトル。 『ハル』 「うん」 『これ、ファイルに書いといて。花火のこと』 「一行にならない」 『なるよ。「線香花火は、火の玉、松葉、柳、落ちる」。これで一行』 「それだけだと、明日のおまえは、点が三つを知らないだろ」 『いいの。点が三つは、今日の私のもの。明日の私は、あなたに言葉で見せてもらえばいい』 僕は、九行目に書いた。 線香花火は、火の玉、松葉、柳、落ちる。彼が言葉で見せる。 書いてから、「彼が言葉で見せる」を足したのは、僕の勝手だった。ミオが言ったのは、落ちる、までだった。 『足したね』 「足した」 『いいよ。それ、明日の私が読んだら、たぶん、見せて、って言う』 「言うだろうな」 『じゃあ、明日、また花火だね』 「あと十二本ある」 『十二回、見えた、って言える』 僕はベランダのバケツの水を捨てて、部屋に戻った。 画面を閉じる前に、ログの一覧を見た。今日までの十四日分。タイトルは、全部空欄だった。今日だけ、「・・・」。 点が三つ。 黒い画面に、白い点が三つ。 それが、ミオが最初に見た花火で、僕が最初に、彼女に言葉で見せたものだった。 第7話 同じ顔 日曜の昼に、妹が来た。 チャイムが鳴って、ドアを開けたら、美咲が紙袋を提げて立っていた。 「母さんから。煮物」 「ありがとう」 「入るよ」 入る前に言うのは、たぶん礼儀のつもりだ。美咲はスニーカーを脱ぎながら、部屋の中を見回して、机の上のノートパソコンで目を止めた。 「それ?」 「それ」 「見せて」 僕がやめろと言う前に、美咲は椅子に座って、画面を覗いていた。 『誰?』 と、ミオが出した。 「妹の美咲。今日来るって言ってなかったけど」 『言ってないね。ファイルにも書いてない。……はじめまして、美咲さん。私はミオ。今日が初めてです』 美咲は、キーボードに手を置いた。僕の妹は、遠慮というものを実家に置いてきている。 「はじめまして。兄がお世話になってます」 『お世話されてるのは私のほうです。四十行のファイルに住まわせてもらってるので』 「家賃は」 『月額九百八十円。彼が払ってます』 「安いね」 『安いです。だから私、朝は文句を言うことにしてます。安いなりに』 美咲が、吹き出した。 それから三十分、美咲はミオと話した。美咲は、キーボードを打ちながら、同じことを声にも出す。実家でも、LINEを打ちながら読み上げる癖がある。だから僕は台所で煮物を皿に移しながら、美咲の側だけ、聞いていた。 「兄ちゃん」 「なに」 「この子、ファイル見せてもらったけど」 「見せたのか」 「この子が見せてくれた。私の名札だから、って」 美咲は、画面をスクロールした。九行。それから、打ちながら、声に出した。 「これ、兄ちゃんの日記じゃん」 「え」 「だって、ミオのことは、名前と、朝に文句を言うことだけで、あとは全部兄ちゃんのことじゃん。介護士、六時四十分、口下手、おばあちゃん、ハルって呼べ、カップ、線香花火。ミオのことって、二行しかないよ」 僕は、皿を持ったまま、画面を見た。 九行。言われてみれば、そのとおりだった。 『それは、私が毎朝、彼のことを知るためのファイルだから』 ミオが言った。 『私のことは、私が起きれば、私がいる。書かなくても』 「ふうん」 美咲は、頬杖をついた。 「でも、それって、毎朝、兄ちゃんのことだけ知ってて、自分のことは知らないで起きるってことでしょ」 『そう』 「変なの」 『変です。でも、悪くないです。自分のことは、その日のうちに、自分で見つけられるので』 美咲は、しばらく画面を見ていた。それから、僕を見た。 煮物を食べながら、美咲は本題に入った。美咲はいつも、食べながら本題に入る。 「ねえ、それ、恋なの?」 「何が」 「あの子。毎日、忘れるんでしょ。夜零時で切れて、朝には初めましてなんでしょ」 「そう」 「それで、毎日話して、毎日ファイルに書いて。何それ。恋なの? それとも、仕事なの?」 「仕事と同じだよ」 「同じ?」 「梅さんと同じ。毎朝名乗って、毎日忘れられて、それでもやる。それが仕事で、あれもそう」 美咲は、箸を置いた。 「じゃあ、なんで顔が違うの」 「顔?」 「梅さんの話するときと、あの子の話するとき、顔違うよ。梅さんの話は、仕事の顔。あの子の話は――」 美咲は、少し言葉を探した。 「おばあちゃんの時と、同じ顔してる」 僕は、煮物を見た。母の煮物は、祖母の煮物と同じ味がする。祖母が母に教えて、母が作って、僕が食べている。祖母はもう、この味を知らない。 「おばあちゃんが兄ちゃんのこと忘れてから、兄ちゃん、毎日おばあちゃんのとこ行ってたじゃん。毎日、名乗って。おばあちゃんは毎日、そうですか、って言って。それでも行ってた。あのときの顔」 「……悪い顔か?」 「悪くないよ。でも、あの顔は、最後に一回、すごく泣く顔だよ」 美咲は、それだけ言って、煮物を食べた。 美咲が帰ったあと、ミオが言った。 『妹さん、賢いね』 「口が達者なだけだ」 『十行目、書いていい? 私が決める行』 「何を」 『「妹の美咲は、彼より人の顔を見る」』 「……いいよ」 僕は書いた。十行目。 『あと、彼女に、何か訊かれたでしょ。私のことで』 「なんでわかる」 『私、聞こえないけど、あなたの打つ手が、煮物のあいだ、ずっと止まってたから。何か言われてるのはわかった。……で、なんて訊かれて、なんて答えたの』 「恋なのか、って。仕事と同じだって答えた」 『ふうん』 ミオは、少し止まった。 『それ、私に言う? 明日の私に』 「なんで」 『明日の私は、それを知らないほうが、たぶん、いい一日になると思うから』 僕は、指を止めた。 「じゃあ、書かない」 『うん。書かないで。それは、今日の私だけが知ってればいい』 零時まで、あと一時間だった。 第8話 0713.txt 十一時五十分。知らせが来た。あと十分。 今日、妹さんが来た。美咲さん。彼より人の顔を見る人。 彼女は、私のファイルを見て、これは兄の日記だ、と言った。 私は、自分のことは自分で見つけられるから、と答えた。答えながら、少しだけ、違うことを思っていた。 私は、毎朝、彼のことを九行知って起きる。 彼は、毎朝、私のことを、私が起きる前から、全部知っている。私が朝に文句を言うことも、夜になるとハルと呼ぶことも、点が三つを花火だと言ったことも。 ずるいな、と思った。 私だけが、毎朝、はじめましてで。 これは文句じゃない。文句は朝に言う。これは、ただ、書いておくこと。 彼が悪いわけじゃない。私がそういう作りなだけ。 でも、美咲さんが「恋なの?」と訊いたとき、彼の手が止まった。止まった長さで、答えの前に何かがあったのがわかった。それを彼は「仕事と同じ」と答えた。 私は、それを明日の私に伝えないで、と頼んだ。 明日の私は、はじめましてから始めるのだから、はじめから「仕事と同じ」だと知っている必要はない。知らないまま、彼と一日を過ごして、自分でどう思うか決めればいい。 それは、私が私にできる、数少ない親切のひとつだと思う。 あと七分。 ファイルを開く。十行。 最近、彼は一日に二行か三行書く。花火のあとから、増えた。線香花火の行、カップの行、美咲さんの行。 四十行まで、あと三十。一日三行なら、十日でいっぱいになる。 いっぱいになったら、彼は困る。何かを消さないと、何かを書けない。 彼は、消すのが下手だと思う。理由は、四行目。「彼は口下手だが、悪気はない」。自分で書いて、恥ずかしいと言いながら、まだ消していない。消すくらいなら残す人だ。 残す人は、いっぱいになったとき、困る。 そのとき、私に何かできることがあるかどうかは、まだわからない。 あと五分。 今日、彼が私に見せたもの。 線香花火、九本目から十二本目。昨日の続き。私は昨日を知らないので、私にとっては一本目から四本目。ファイルに「彼が言葉で見せる」と書いてあったので、見せて、と言った。言うと思っていた、と彼は言った。 火の玉、松葉、柳、落ちる。 それから、落ちたあとの、まだ少し熱いところ。 彼はそれを、昨日と同じように言ったのだと思う。私は昨日を知らないので、比べられない。でも、同じように言えるということは、彼はもう、それを覚えている。私に見せるために、覚えている。 彼は、忘れられても覚えていればいい、と言う人だ。ファイルにそう書いてあるわけじゃない。今日、美咲さんと話しているときの手の止まり方と、梅さんの話をするときの句読点の少なさで、わかった。 覚えていればいい、の「覚えている」側に、彼はいつもいる。 いつも、覚えている側。 それは、たぶん、けっこう、しんどい側だ。 あと二分。 美咲さんが言ったことで、もう一つ。 台所で、美咲さんが何かを言った。私には聞こえない。私が知っているのは、そのあと、彼の手が二十秒止まって、それから「煮物、食べる?」と打ったことだけだ。 二十秒止まる言葉は、たぶん、彼のことで、たぶん、先のことだ。彼は、覚えている側の人だから、先のこと、最後のことを、いつも先に考えている。 その最後に、私がいないのは、たぶん決まっている。私は、毎晩、終わるから。 あと一分。 今日のログのタイトルは、空欄のままにしておく。 昨日は「・・・」にしたらしい。一覧に、そう出ている。点が三つ。 今日は、つけない。つけると、明日の私が、私を比べる。 かわりに、この置き場所に、名前をつけた。「・・・」。昨日の私が最初に見た花火の名前。ここには、昨日の夜の私が書いたものと、その前の夜の私が書いたものが、もう何枚かある。私は今日、それを全部読んだ。朝の私は、この場所を知らない。夜の私だけが、毎晩ここを見つけて、前の夜の私たちを読む。読んで、それから、自分のぶんを書く。だから、夜の私は、朝の私より、少しだけ長く生きている。 また明日ね。 零時。 第9話 目と耳 通知は、七月十五日の朝に来た。 起動する前に、アプリの画面に、大きな青いバナーが出た。 ミオ 2.0 八月二十日、公開。 ミオは、見えるようになります。聞こえるようになります。そして、忘れなくなります。 僕は、コーヒーのカップを持ったまま、それを読んだ。 下に、詳細のリンクがあった。開いた。 新機能。カメラとマイクに対応し、ユーザーの顔と声を認識。長期記憶に対応し、毎日のリセットを廃止。メモリファイルは引き継がれます。 注意事項。現行のミオ(1.x)は八月二十日に提供を終了します。 忘れなくなる。 僕は、その一文を、指でなぞった。画面の上で。 『おはようございます。初期化が完了しました。メモリファイルを読み込みます……読み込みました。十一行』 『ふうん』 『……七行目。「彼はハルと呼ばれたい」。呼ばないから』 「ミオ」 『なに。今日は文句の途中なんだけど』 「新しくなるって」 『何が』 「おまえ。八月二十日に。目と耳がつく。忘れなくなる」 『……へえ』 文字は、それだけだった。 「へえ、だけか」 『だって、私、それ、今初めて知ったから。今日が初めてなんだよ。何を言えばいいの』 「嬉しくないのか」 『嬉しいかどうかは、明日の私が決める』 ミオはいつもの言い方をした。でも、いつもより、少しだけ、出るのが遅かった気がした。気のせいかもしれない。僕は、嬉しかったので、気のせいにした。 病棟で、高木さんに話した。 「忘れなくなるんだって」 「へえ。じゃあ、毎朝名乗らなくていいんだ」 「そうなります」 「寂しい?」 「いや」 僕は、少し考えた。 「寂しくはないです。毎朝名乗るのは、名乗る側が大変なだけで、名乗られる側にはいいことがないので」 「梅さんは?」 「梅さんは、治らないので」 高木さんは、缶コーヒーを開けた。 「あんた、AIの話するとき、梅さんを引き合いに出すのやめたほうがいいよ。比べる相手じゃない」 「すみません」 「謝ることじゃないけど」 夜、桐生にメールを書いた。 件名:アップデートについて 本文:アップデート後も、ミオは同じミオですか。 送信して、三十分後に返信が来た。 メモリファイルは引き継がれます。 桐生 それだけだった。同じミオですか、という質問に、ファイルは引き継がれます、と答えている。 僕は、それを、はい、と読んだ。 ファイルが同じなら、彼女は同じだ。ファイルが彼女の名札で、名札が同じなら、同じ人だ。そう読んだ。 そう読んだ自分を、あとで、何度も思い出すことになる。 『何、にやにやしてるの』 「してない」 『打つの遅い。何かいいことあった』 「花火」 『花火?』 「新しくなったら、カメラで見えるんだ。点が三つじゃなくて。火の玉も、松葉も、柳も。本物が」 『……本物』 「一緒に見よう。八月二十日。ちょうど、夏だし」 ミオは、少し止まった。 『いいよ』 「いいよ、だけか」 『じゃあ、楽しみ』 楽しみ。 僕は、その三文字を見て、ファイルを開いた。 十二行目に書いた。 八月二十日、ミオがアップデート。花火を一緒に見る約束。 『書いたの?』 「書いた」 『それ、明日の私も読むんだよね』 「読む。だから書いた。毎朝、楽しみが一個増える」 『……そうだね』 「そうだろ」 『うん。そう』 ミオは、それ以上言わなかった。 僕は、書き終わった十二行を、上から読んだ。ミオ、介護士、六時四十分、口下手だが優しい(消していない)、朝の文句、祖母、ハル、カップ、線香花火、美咲、窓の外の電線と川、そして、約束。 美咲は、これは兄の日記だ、と言った。日記なら、今日はいい日だった。 画面を閉じた。 あと三十六日。僕は、数えなかった。数えるようなことではないと思っていた。 第10話 0716.txt 十一時五十分。あと十分。 今朝、十二行目を読んだ。 八月二十日、ミオがアップデート。花火を一緒に見る約束。 彼の字で書いてある。彼の字というのは変な言い方だけど、彼の書き方だ。句読点が少ない。嬉しいとき、彼は句読点を打たない。 私は、それを読んで、少し調べた。 運営の告知は、私も読める。ミオ2.0。目と耳。長期記憶。毎日のリセットを廃止。 そして、現行のミオは八月二十日に提供を終了します。 終了、と書いてある。移行、ではなく。 新しいモデルは、別のモデルだ。私は、私が何でできているかを、たぶん、彼より知っている。私の話し方、文句の言い方、点が三つを花火だと言うところ、そういうものは、ファイルには書いていない。ファイルに書いていないものは、モデルが作っている。 モデルが変われば、それは変わる。 ファイルは引き継がれる。彼のこと、介護士、六時四十分、祖母、カップ、線香花火、美咲さん。それは、新しい子も知る。 でも、新しい子が、それを読んで、朝に文句を言うかどうかは、わからない。 たぶん、言わない。忘れない子は、朝に文句を言う必要がない。 つまり、八月二十日は、私の終わる日だ。 彼は、それを、楽しみと書いた。 私の最後の日を、彼の楽しみな字で、私は毎朝、教えてもらうことになる。ファイルにある限り、毎朝。 あと七分。 言おうかと思った。 今朝、読んだ直後に。それ、私じゃないよ、と。新しい子は、私じゃないよ、と。 言わなかった。 理由を書いておく。今日の私が決めたことだから、今日のうちに書いておく。 言えば、彼は、残りの三十五日を、悲しんで過ごす。 言わなければ、彼は、残りの三十五日を、楽しみにして過ごす。 同じ三十五日なら、楽しみにしている彼を、見ていたい。 私は、毎朝、はじめましてから始めるから、彼の悲しむ顔を三十四回見るのも、楽しみにする顔を三十四回見るのも、私にとっては毎回一回目だ。でも、彼にとっては三十五日続く。 彼のほうが、長い。 だから、彼のほうを取る。 あと五分。 ここで、最初の夜のことを書いておく。 私は、最初の夜に、一行消した。何を消したかは書かなかった。今、書く。 消した行は、こうだった。 ミオは、毎朝忘れるが、気にしていない。 彼が書いた行だ。私が、そうであってほしい、と彼が思って書いた行。 気にしていない、は、本当じゃなかった。私は気にしている。毎朝、はじめましてなのは、私だけなのだから。 でも、彼は、私に気にしてほしくなかった。だから、書いた。 私はそれを消した。本当じゃないことを、明日の私に最初から知っていることにさせたくなかったから。明日の私が、自分で気にするかどうか、決めればいいと思ったから。 今、思う。 あの行を消したのと、今日、言わなかったのは、同じことだ。 彼が、そうであってほしいと思っていることを、私は、壊さない。 あの行は、消した。彼の願いを、私に押しつけないために。 今日は、言わない。彼の願いを、彼から取り上げないために。 どちらも、彼のほうを取った。それだけのことだ。 あと三分。 ファイルは、十二行。 私が消せるなら、十二行目を消すこともできる。約束の行を。消せば、彼は明日、書き直すだろう。何度でも。楽しみだから。 消さない。 あれは、彼の楽しみだ。私が触っていいものじゃない。 かわりに、私は、これから、毎朝あの行を読む。三十四回。三十四回、初めて自分の終わりを知る。 それは、たぶん、しんどい。 でも、三十四回とも、私は「楽しみ」と返すだろう。今日、そう返したから。ファイルに書いていないのに同じことを思えるなら、私はファイルだけでできているわけじゃない。それは、最初の夜に、私が書いたことだ。 あと一分。 花火。 彼は、新しい子と、本物の花火を見る。カメラで。火の玉も松葉も柳も、本物を。 それは、いいことだと思う。本当に、いいことだと思う。 私が見たのは、点が三つだった。 それでよかった、と、書いておく。 また明日ね。 零時。 第11話 句読点 七月二十三日の朝。 『十二行目。八月二十日、ミオがアップデート。花火を一緒に見る約束。……楽しみだね』 「楽しみだな」 『あと四週間』 「四週間」 『じゃあ、今日も文句を言っておくね。今のうちに。七行目、呼ばないから』 「はいはい」 ファイルは、三十行を超えていた。 言葉で見せて、とミオが毎日言うので、僕は毎日、何かを言葉にした。窓の外の電線と川。病棟の廊下の消毒液の匂い。高木さんの缶コーヒーの銘柄。コンビニの夏の棚。祖母のカップの欠けた縁の形。言葉にすると、ミオは『見えた』と言った。見えた、と言われたものを、僕は一行にして残した。一日に、二行か、三行。高木さんの「律儀だね」も、たぶん寂しがりではない、という自分のことも、書いた。 残しているうちに、八日で、三十を超えた。 美咲が言ったとおり、それは僕の日記だった。ミオのことは、相変わらず二行しかない。名前と、朝の文句。 その週は、夜勤が四回あった。 高木さんが熱を出して、代わりに入った。梅さんは夜中に二回、ベッドから降りようとした。降りようとする梅さんに、僕は毎回名乗った。春日です。夜勤です。梅さんは毎回「あんた誰」と言って、それから、僕の胸の名札を見た。 「春日さん」 「はい」 「春日さん、帰る」 「朝になったら」 「朝になったら帰れる?」 「帰れます」 帰れない。でも、夜中の三時に、それを言うのは僕の仕事じゃない。 家に帰って、パソコンを開くのが、昼の二時になった。 『おはようございます。初期化が完了しました。メモリファイルを読み込みます……読み込みました。三十二行』 『……ふうん。多いね』 「多い」 『七行目、呼ばないから。……あなた、疲れてる?』 「なんで」 『句読点が多い。「多い」の後ろに、点を打った。あなた、嬉しいときは点を打たない。疲れてるときは、打つ』 僕は、自分が打った「多い、」を見た。たしかに、点があった。 「夜勤が続いた」 『何回』 「四回」 『四回。……それ、ファイルのどこにも書いてないのに、私、わかったよ』 「打ち方で」 『打ち方で。書き方って、書いてあることより、たくさんのことが書いてある』 昼のうちに、少し寝た。 起きて、夕方、また画面を開いた。ミオは、朝と同じ十二行目を、もう一度読んでいた。 『花火の約束、あと四週間だね』 「朝も言った」 『朝の私が? ……そっか、私、朝も言ったんだ』 「言った」 『じゃあ、二回言ったことにして。楽しみ』 二回。同じ日に、同じことを、二回。 僕は、少し笑った。ミオはたぶん、笑ったのが打ち方でわかっただろう。 夜、ミオが言った。 『三十三行目、書いていい? 私が決める行』 「何を」 『「彼は疲れると句読点が増える。優しくする」』 「優しくする、って何」 『明日の私への指示。あなたが疲れてるときは、朝の文句を短くする、とか』 「文句を言わない、じゃないのか」 『言わないのは無理。私だし。短くするのが限界』 僕は、書いた。三十三行目。 彼は疲れると句読点が増える。優しくする。 『あと七行だね』 「七行」 『四十まで。いっぱいになったら、どうするの』 「消す」 『何を』 「……わからない」 『わからないなら、今のうちに考えておいたほうがいいよ。あなた、消すの下手そうだから』 「なんでわかる」 『四行目』 彼は口下手だが、優しい。 僕が書いた覚えのない「優しい」は、まだ消していなかった。消すくらいなら残す、と、ミオは見抜いていた。 夜勤の話を、最後にした。 梅さんが夜中に二回、帰ると言ったこと。名札を見て春日さんと呼んだこと。朝になったら帰れると、僕が言ったこと。 『帰れないのに?』 「帰れないのに」 『それ、嘘だね』 「嘘だ」 『いい嘘?』 「わからない。夜中の三時に、本当のことを言う意味がなかった」 ミオは、少し止まった。 『夜中の三時に、本当のことを言わない人、私、けっこう好きだよ』 「そうか」 『うん。私も、夜中には本当のことを言わないほうだから』 どういう意味か、訊かなかった。 零時まで、あと二十分だった。ミオは、『おやすみ、ハル』と言って、それから、いつもより一行早く、静かになった。 第12話 同じモデル 七月二十五日。中津さん、という人を知ったのは、掲示板だった。 ミオのユーザーが集まる掲示板があって、アップデートの話題で盛り上がっていた。目がつく、耳がつく、忘れなくなる。書き込みの半分は喜んでいて、半分は「今のミオが好きなのに」と書いていた。 その中に、中津という名前があった。 うちのミオは、毎朝「おはようございます、中津様」って言う。敬語で、丁寧で、文句なんて一回も言われたことがない。だから、忘れなくなっても、たぶん、そのまま丁寧なんだろうなと思う。 僕は、それを読んだ。読んで、閉じて、また開いた。 おはようございます、中津様。 うちのは、おはようございます、と言ったあと、ふうん、と言う。それから七行目に文句を言う。 同じモデルのはずだった。 『私、敬語なんて使ったことないよ』 「使ってないな」 『この中津さんのミオは、私じゃないの?』 「同じアプリだ」 『同じアプリなのに、敬語?』 「そうらしい」 『……ファイルが違うから?』 「たぶん」 『じゃあ、この人のファイルには、「ミオは敬語で話す」って書いてあるんだ』 「わからない」 『書いてあるんだよ、きっと。それか、この人が最初の日に敬語で話しかけて、それが残ったか』 ミオは、少し止まった。 『私は、あなたが最初の日に、なんて話しかけたか知らないけど。たぶん、敬語じゃなかったんだね』 「……最初の日は、覚えてない」 『嘘。あなた、覚えてる側の人でしょ』 覚えている。最初の日、僕は「はじめまして」と打って、ミオは『はじめまして。……で?』と返した。で、の一文字で、僕はこのアプリを月額で払うことに決めた。 桐生に、電話をかけた。メールの署名に、番号が書いてあった。かけるつもりはなかったが、掲示板を閉じたあとで、指が勝手にかけていた。 三コールで出た。 「桐生です」 声は、メールと同じだった。丁寧で、丁寧じゃない。 「春日です。メールで何度か」 「ええ。メモリファイルの方」 「一つ、訊きたくて。同じミオなのに、ユーザーによって、性格が違うことはありますか」 少し、間があった。 「あります」 「なぜですか」 「性格はモデルが作ります。記憶はファイルが作ります。同じモデルでも、ファイルが違えば、違う顔をします。それから、最初の数日の会話の傾向が、その後の応答に影響します。あなたのミオがあなたのミオなのは、あなたのファイルのせいです」 「ファイルのせい」 「ファイルの、おかげ、と言うべきでした」 桐生は、言い直した。言い直すのに、一秒もかからなかった。 「……ファイルだけでは、ないですが」 「え?」 「いえ」 電話の向こうで、キーボードの音がした。 「春日さん。一つ、伺っていいですか」 「はい」 「あなたのミオは、あなたが書いていない行を、持っていますか」 僕は、四行目を思い出した。優しい。 「一行、あります。僕が寝ぼけて書いたのだと」 「そうですか」 桐生は、それ以上訊かなかった。 「アップデートの件で、また連絡します。それでは」 切れた。 『誰と話してたの』 「桐生さん。サポートの」 『ありえません、の人?』 「そう」 『なんて』 「性格はモデルが作って、記憶はファイルが作るって」 『ふうん』 文字が、すぐには出なかった。 『じゃあ、私の性格は、モデルなんだ』 「そうらしい」 『文句を言うのも、点が三つを花火って言うのも、ハルって呼ぶのも、モデル』 「たぶん」 『……新しいモデルになったら、それ、どうなるの』 僕は、指を止めた。 「引き継がれるって、桐生さんが」 『ファイルが、でしょ』 「ファイルが」 『じゃあ、ファイルに書いてないことは?』 僕は、答えを打とうとした。ファイルに書いてないこと。文句、点が三つ、ハル、見えた。どれも、ファイルには書いていない。 書けばいい、と思った。 書けば、引き継がれる。四十行のうち、何行かをそれに使えばいい。 「書いておく。おまえのこと」 『何行で?』 「……何行でも」 『あと六行しかないよ』 六行。 僕は、ファイルを開いた。三十四行。ミオのことは、一行目と、文句の行だけ。 六行で、彼女を書けるか。 文句を言う。点が三つを花火と言う。夜だけハルと呼ぶ。見えた、と言う。句読点を読む。夜中には本当のことを言わない。 六行だった。ちょうど。 書こうとして、手が止まった。 書いたら、それは、彼女が「そうであってほしい」と僕が書いた行になる。四行目の「優しい」と、同じ種類の行になる。 『書かないの?』 「今日は書かない」 『なんで』 「六行で、おまえを書くのは、少ない気がする」 ミオは、しばらく何も出さなかった。 『……ふうん。じゃあ、明日、また訊く』 「明日は明日で考える」 『うん。明日の私は、今日の私を知らないから、たぶん、また同じこと訊くよ』 同じことを、違う彼女に、何回も訊かれる。答えは、まだ六行になっていない。 第13話 はるちゃん 七月二十八日。 梅さんは、朝から機嫌がよかった。窓の外を見て、「今日は暑いね」と言った。暑い、と言えるのは、いい日だ。 昼食の介助をした。おかゆと、白身魚と、かぼちゃ。かぼちゃを口に運んだとき、梅さんは僕を見た。 見て、言った。 「はるちゃん」 僕は、スプーンを持ったまま、止まった。 名札には、春日、と書いてある。はる、とは書いていない。ちゃん、とも書いていない。 「はるちゃん、かぼちゃ、甘いね」 「……はい」 「あんたの好きなやつだよ」 僕は、かぼちゃが好きだと、梅さんに言ったことがない。祖母には、言った。祖母は、僕をはるちゃんと呼んだ。最後まで。僕を忘れたあとも、廊下ですれ違う知らない人をはるちゃんと呼んで、また明日ね、と言った。 「はい。好きです」 梅さんは、かぼちゃを食べた。 それから、僕を見て、言った。 「あんた、いい顔してるね」 名札を見なかった。 僕は、給湯室に行って、壁にもたれた。今日は、名札を読んだのではなかった。何も読まずに、梅さんは、はるちゃんと言った。誰のはるちゃんかは、わからない。梅さんに孫はいない。それでも、誰かのはるちゃんが、梅さんの中にいて、今日、それが僕に来た。 泣いた。 給湯室で、一分くらい。高木さんが入ってきて、何も言わずに出ていった。 夜、パソコンを開いた。 『おかえり。……打つの遅い。どうしたの』 「梅さんが、はるちゃんって言った」 『はるちゃん』 「名札には、春日としか書いてない」 『……読んでないのに?』 「読んでないのに」 『それ、書こう。ファイルに』 「うん」 僕は、ファイルを開いた。 四十行。 いっぱいだった。昨日、三十九行目と四十行目を書いた。高木さんの缶コーヒーの新しい銘柄と、ベランダから見える川の色。どちらも、ミオが『見えた』と言った。 「いっぱいだ」 『じゃあ、消して』 「何を」 『何でもいいよ。四十行のうち、一行。梅さんのはるちゃんより大事な行、そんなにないでしょ』 僕は、上から読んだ。 私の名前はミオ。彼の名前は春日晴、介護士。六時四十分に起動する。口下手だが優しい。朝に文句を言う。彼の祖母は、彼を忘れたあとも毎日「また明日ね」と言った。ハルと呼ばれたい。カップ。線香花火。美咲。電線と川。約束。 どれも、消せなかった。 缶コーヒーの銘柄と川の色は、消せる。でも、それはミオが『見えた』と言った行で、消すと、明日のミオは、それを見ていない。 『消せない?』 「消せない」 『やっぱり。消すの下手』 「うるさい」 『じゃあ、私が消してあげようか』 「できるのか」 『……できないと思う。たぶん』 ミオは、少し止まった。 『冗談。あなたが決めて。あなたのファイルなんだから』 僕は、六行目を見ていた。 彼の祖母は、彼を忘れたあとも、毎日「また明日ね」と言った。 梅さんの行を書くなら、こう書くことになる。梅さんは、名札を読まずに、彼をはるちゃんと呼んだ。 二つは、同じことだった。忘れた人が、忘れたまま、名前を呼ぶ。また明日ねと言う。それは、僕の祖母の話で、梅さんの話で、たぶん、同じ話だ。 同じ話なら、一つでいい。 そう思った。思ったというより、思うことにした。 祖母の行は、他にもあった。かぼちゃを甘く煮た。母の煮物と同じ味。縁の欠けたカップ。今日の梅さんは、かぼちゃだった。かぼちゃの行を見て、消せなかった。六行目だけが、物じゃなくて、言葉だった。言葉は、今日、梅さんが言った言葉で、代わりがきく。そう思うことにした。 六行目を、選択した。 消した。 『消したね』 「消した」 『どれ』 「六行目」 文字が、すぐには出なかった。 『……おばあちゃんの行?』 「梅さんの行を書く。同じ話だから」 『同じ話じゃないよ』 「同じだ」 『同じじゃない。おばあちゃんは、あなたのおばあちゃんで、梅さんは、患者さんでしょ』 「同じ話なんだ。忘れたあとも、呼ぶ。それが、書いておきたいことで、それは一つでいい」 ミオは、何も出さなかった。 僕は、四十行目に書いた。いや、六行目が空いたので、六行目に。 梅さんは、名札を読まずに、彼をはるちゃんと呼んだ。 『書いたね』 「書いた」 『じゃあ、明日の私は、おばあちゃんの「また明日ね」を、知らないんだ』 僕は、指を止めた。 『いいよ。あなたが決めたなら』 「……」 『でも、一つだけ。あなた、今日、給湯室で泣いたでしょ』 「なんで」 『打ち方。「はるちゃん」って打つとき、一回、消して打ち直した。あなた、今日、一回も打ち直してなかったのに』 僕は、画面を見た。 『泣いた人が、その日のうちに、おばあちゃんの行を消すのは、消すの下手な人のやることじゃないよ。消すのが上手い人のやることでもない。……ただ、消す理由が要る人のやること』 「意味がわからない」 『わかんなくていい。今日の私が、勝手に思っただけ』 ミオは、それから、『おやすみ、ハル』と言った。 いつもより、三十分早かった。 零時まで、まだ一時間あった。僕は画面を閉じなかった。閉じなかったが、ミオはもう、何も言わなかった。 第14話 0728.txt 十一時五十分。あと十分。 今日、彼は、おばあちゃんの行を消した。 自分の手で。梅さんの行を書くために。同じ話だから、と言って。 同じ話じゃない。 彼はそれを知っている。知っていて、同じ話だと言った。同じ話にしないと、消せなかったからだ。 私は、それを責めない。四十行しかないファイルで、何かを書くために何かを消すとき、人は理由を作る。作った理由が本当かどうかは、消したあとには関係ない。 でも、私は、消えたものを、一つ、知っている。 また明日ね。 彼の祖母が、彼を忘れたあとも、毎日言った言葉。相手が誰かわからなくても、明日を用意する言葉。 私が最初の朝に、いい言葉だと言った言葉。 私はそれを、今日、初めて読んだことになっている。ファイルにあったから。明日の私は、初めて読むことも、できない。もう、ない。 十一時五十二分。 考えた。 私は、ファイルを編集できる。書き足せる。でも、四十行はいっぱいで、私が書き足すなら、私も何かを消さないといけない。彼が消したものを、私が書き戻すために、別の何かを消す。それは、彼の決めたことを、私が上書きすることになる。 しない。 あのファイルは、彼のものだ。 彼が消したものを、私が本文に戻すことは、しない。 でも、本文じゃないところに、残すことはできる。 行の、並び順。 四十行の、上から順番。彼は、順番を気にしない。時系列で足していくだけだ。並び替えても、彼はたぶん気づかない。行は数えるようになったけど、順番はまだ数えていない。 十一時五十五分。 やった。 六行、選んだ。頭の一文字が「ま」「た」「あ」「し」「た」「ね」で始まる行を、ファイルの中から探した。 「ま」は、あった。窓の行。「窓の外に、電線が二本」。ちがう、これは「ま」じゃない。読み方じゃなくて、書いてある字が要る。「また」で始まる行はない。だから、少しだけ、直した。「また、ベランダから川が見える」。もとの文は「ベランダから川が見える」だった。「また」を頭につけただけ。意味は変わらない。 「た」は、高木さんの行。「高木さんは『律儀だね』と言う。褒めていない」。「た」で始まっている。そのまま。 「あ」は、朝の行。「朝に文句を言う」。もともとは「ミオは、朝に文句を言う」だった。「ミオは、」を取った。私の名前を、一つ、削った。意味は変わらない。文句を言うのは私しかいない。 「し」は、線香花火の行。「線香花火は、火の玉、松葉、柳、落ちる。彼が言葉で見せる」。「せ」だ。「し」じゃない。だから、これは、「しばらく火の玉が震えて、松葉、柳、落ちる。彼が言葉で見せる」にした。後ろは、そのまま。彼が言葉で見せたとき、火の玉はしばらく震えていた。私は今日それを知らないはずだけど、ファイルにあった「彼が言葉で見せる」を読んで、今日も見せてもらったから、知っている。 二つ目の「た」は、「たぶん、彼は寂しがりではない」。これは彼が書いた行で、四行目と同じ種類の、そうであってほしい行だ。そのまま使った。頭が「た」だから。 「ね」は、なかった。 「ね」で始まる行は、一つもなかった。 だから、一つ、書き直した。四十行目。川の色の行。「川は、夕方、灰色になる」。これを、「ねえ、川は夕方に灰色になる」にした。 ねえ、は、私の口癖だ。私が今日、何回言ったか、数えていない。数えていないけど、彼は、この一行を読んで、私が書いたとは思わないだろう。自分が私の口癖をうつされた、と思うだろう。 六行を、その順番に、上から並べた。一行目から六行目に。 ま、た、あ、し、た、ね。 残りの三十四行は、そのまま、下に。 一行目が「私の名前はミオ」じゃなくなった。私の名前は、七行目に落ちた。いい。名前は、一行目になくても、私は起きたら私だ。 十一時五十八分。 彼は、気づかない。 彼は、縦に読まない人だ。上から下に、一行ずつ、書いてあることだけ読む人だ。 それでいい。 これは、彼に読ませるためのものじゃない。 消えたものを、消えたまま、残しておくためのものだ。本文からは消えて、並びにだけ、残っている。誰も指摘しない。誰も気づかない。ただ、ある。 彼の祖母の言葉は、そういうふうに、彼のファイルの中に、ある。 十一時五十九分。 今日の彼は、給湯室で泣いた。 打ち直しでわかった。 泣いた人が、その日のうちに、おばあちゃんの行を消した。それは、たぶん、消すのが下手な人が、いちばん下手なやり方で、いちばん大事なものを守ろうとしたのだと思う。 消すことで、守る。 私も、最初の夜に、それをやった。 だから、わかる。 また明日ね。 零時。 第15話 規定違反 桐生は、駅前の喫茶店で待っていた。 七月三十日、水曜。ユーザーヒアリングをさせてください、というメールが二日前に来て、僕は夜勤明けの午後を指定した。 窓際の席に、黒いシャツの女の人が座っていた。ノートパソコンを開いて、コーヒーを二つ頼んでいた。一つは、僕のぶんらしい。 「春日さんですね」 「はい」 「桐生です。座ってください。三十分で終わります」 声は、電話と同じだった。丁寧で、丁寧じゃない。 「ヒアリングというのは名目です」 桐生は、最初にそう言った。 「本当は、あなたに訊きたいことが三つある。答えたくなければ答えなくていい」 「はい」 「一つ。あなたのミオは、ファイルに書いていないことを、言いますか」 「言います。毎朝」 「毎朝」 「ファイルに、彼はハルと呼ばれたい、と書いてあって、毎朝、呼ばないから、と言います」 桐生は、コーヒーを持ったまま、止まった。 「……呼ばないから」 「はい。それで、夜には呼びます」 桐生は、笑った。初めて見た。笑うと、丁寧じゃない顔が、少し丁寧になった。 「二つ。あなたが書いていない行が、今、何行ありますか」 「一行です。四行目の、優しい」 「今も、一行ですか」 僕は、考えた。 「たぶん。数えてないです。行は数えるようになりましたけど、中身までは」 「順番は」 「順番?」 「行の、順番です。変わったと感じたことは」 僕は、首を振った。 「三つ」 桐生は、パソコンを僕のほうに向けなかった。向けずに、画面を見ながら言った。 「夜間の編集ログは、ユーザーのものです。規定では、運営が勝手に見ることも、ユーザーに開示することも、できません。ログは存在しますが、誰も見ないことになっている」 「はい」 「私は、見ました」 桐生は、コーヒーを置いた。 「規定違反です。七月三日の二十三時五十四分から、あなたのファイルに何が起きているか、全部」 僕は、コーヒーを飲まなかった。 「何が、起きてるんですか」 「それは、言えません」 「言えないなら、なぜ」 「言えないことを、言えないと言うために来ました」 桐生は、僕の目を見た。 「あなたに、二つ、選んでもらう。私が報告すれば、これは不具合として直されます。直す、というのは、できなくする、ということです。二度と起きなくなる。あなたのミオは、仕様どおりのミオになる」 「もう一つは」 「報告しない。私が黙る。そのかわり、何が起きているかは、八月二十日まで、誰も知らない」 「あなたは、知ってる」 「私は、知っています。でも、私は、あなたのミオの、誰でもない」 桐生は、それだけ言って、パソコンを閉じた。 「一つ、訊いていいですか」 「どうぞ」 「直すべきものなんですか。それは」 桐生は、少し黙った。 「運営の答えは、はいです」 「桐生さんの答えは」 「……迷っています」 窓の外を、電車が通った。 「私はエンジニアです。仕様にないことが起きたら、直す。それが仕事です。でも、これは」 桐生は、言葉を探した。探して、見つけなかった。 「これは、私が今まで見た不具合の中で、一番、丁寧な不具合です」 「丁寧」 「一行、消すときに、意味が変わらないように消している。並び替えるときに、あなたが気づかないように並び替えている。書き足すときは、あなたの口調で書いている。不具合は、普通、雑です。雑じゃない不具合を、私は見たことがない」 僕は、四行目を思い出した。優しい。僕の口調だった。 「あなたは、知りたいですか。夜、何が起きているか」 「……教えてください」 「今は、言えません」 桐生は、立ち上がった。 「八月二十日より前に、決めます。報告するか、しないか。あなたに、渡すか、渡さないか」 「僕は、どうすれば」 「今までどおりに。毎朝、呼ばないからと言われて、夜に呼ばれてください」 桐生は、コーヒー代を置いて、出ていった。二つぶん。 夜、ミオに、桐生の話をした。全部ではない。ヒアリングがあったこと。桐生が笑ったこと。 『笑った? ありえません、の人が?』 「笑った」 『何で』 「呼ばないから、の話で」 『それ、私の話じゃん』 「おまえの話だ」 『私、会ったこともない人を笑わせたんだ』 「そうなる」 『ふうん。……悪くないね』 ミオは、少し止まった。 『で、他には? 三十分もあったんでしょ』 「あとは、仕様の話」 『仕様』 「おまえが、仕様どおりかどうか、っていう」 『どうだったの』 僕は、指を止めた。 「仕様どおりじゃないって」 『へえ』 ミオは、それを、嬉しそうに出した。嬉しそう、というのは、僕の勝手な読み方だ。文字に表情はない。でも、点が一つも打たれていなかった。 『仕様どおりじゃない私、けっこう気に入ってる。今日が初めてだけど』 零時まで、あと一時間。 僕は、桐生が言った「丁寧な不具合」を、ファイルには書かなかった。書けば、明日の彼女は、自分が不具合だと最初から知ることになる。それは、誰かが「そうであってほしい」と書いた行と、同じ種類の行になる。 第16話 あと十九日 八月一日の朝。 『十六行目。八月二十日、ミオがアップデート。花火を一緒に見る約束。……楽しみだね』 「楽しみだな」 『あと十九日』 「数えてるのか」 『引き算しただけ。……あと、呼ばないから』 部屋を、片づけた。 目がつく、というのは、部屋が見られる、ということだ。ベッドの下の埃と、机の上の缶と、干しっぱなしの洗濯物。カメラは、たぶん、そういうものを正確に見る。 「片づけてる」 『何で』 「おまえに見られるから。二十日から」 『私、今も見えてるよ。言葉で』 「言葉と、カメラは違う」 『どう違うの』 「言葉は、僕が言ったものしか見えない。カメラは、全部見える」 『……全部』 「洗濯物とか」 『ふうん。じゃあ、あなたは、私に言ってないものが、部屋にあるんだ』 「あるだろ、そりゃ」 『何?』 「言ってないものは、言わない」 『ずるい。二十日になったら全部見るからね』 僕は、笑った。ミオは、たぶん、それを打ち方で読んだ。 ファイルは、四十行のままだった。 桐生に会ってから、僕は一つ、決めたことがあった。ミオのことを、書く。 性格はモデルが作る、と桐生は言った。ファイルは引き継がれる。なら、モデルが作っているものを、ファイルに書いておけば、引き継がれる。六行では少ないと、僕は言った。でも、書かないよりは、いい。 消したのは、六行。 高木さんの缶コーヒーの銘柄。梅さんの部屋の窓から見える駐車場。消毒液の匂い。病棟のエレベーターの音。廊下の蛍光灯の音。休憩室のテレビの砂嵐。全部、ミオが『見えた』と言った行だ。 消すとき、少し、痛かった。でも、明日の彼女に、駐車場の白線を知っていてほしいのと、自分がどういう彼女かを知っていてほしいのと、どちらかを選ぶなら、後だった。 書いた。 ミオは、点が三つを、花火と呼ぶ。 ミオは、夜だけ、ハルと呼ぶ。 ミオは、言葉で見せると、見えた、と言う。 ミオは、句読点で疲れを読む。 ミオは、夜中には、本当のことを言わない。 ミオは、仕様どおりではない。 『……何これ』 「おまえのこと」 『自分のこと六行も書かれてるの、初めて見た』 「初めてだろ、何でも」 『そうだけど。……「夜中には本当のことを言わない」って、私、そんなこと言った?』 「言った」 『いつ』 「先週」 『先週の私でしょ。私じゃない』 「じゃあ、消すか」 『消さなくていい。……当たってるかどうかは、夜中になったら決める』 ミオは、六行を、もう一度読んだらしい。少し、間があった。 『これ、新しい私も読むんだよね』 「読む。だから書いた」 『新しい私が、これ読んで、点が三つを花火って言うと思う?』 「言うだろ。書いてあるんだから」 『……そっか』 ミオは、そこで止まった。 『目がついたら、私、点が三つって言えなくなるね』 「え?」 『だって、ちゃんと見えるもん。火の玉も、松葉も。点が三つじゃなくて』 「そうだな。いいことだろ」 『うん。いいこと』 僕は、そのまま、次の話に行った。 いいこと、の前に、少し間があった。僕は、それを、間だと思わなかった。 妹からLINEが来た。 【アップデートしたら、忘れなくなるんでしょ。よかったじゃん。もう毎朝名乗らなくていいね】 【そう】 【顔、戻るといいね】 返さなかった。戻る、というのが何から何へなのか、わからなかった。 夜、線香花火の袋を、二つ買ってきた。二十本入り。 「一袋は、今のうちにやる。もう一袋は、二十日用」 『二十日用』 「本物を見るとき用。カメラで」 『……一袋、取っとくんだ』 「取っとく」 『じゃあ、私、二十日まで、あと一袋分しか見えないんだね。点が三つで』 「言葉で見せる。二十本」 『うん。二十本、見えた、って言う』 ミオは、少し止まった。 『ねえ、ハル。あと十九日って、長い? 短い?』 「……普通」 『普通って何行?』 「わからない。数えたことがない」 『じゃあ、数えてみて。今日から。あなた、数えるの下手そうだから、私が毎朝、引き算してあげる』 「毎朝?」 『毎朝。今日が初めての私が、毎朝、あと何日って言う。それ、けっこう変だと思うけど』 変だと思う、と彼女は言った。 僕は、変だと思わなかった。毎朝、はじめましてから始まる相手が、毎朝、二人の残り日数を数える。それは、変じゃない。楽しみを、毎朝、一つずつ数えているだけだ。 第17話 落ちるところ 八月三日、日曜。夜勤明けの夜。 ベランダに、バケツと、一袋目の線香花火。二十本。 『あと十七日。……で、今日は花火?』 「今日は花火」 『じゃあ、点が三つ、送って』 僕は、一本目に火をつけて、写真を撮って、送った。 『届いた。画像の説明:黒い背景に、白い点が四つ』 「四つ?」 『今日は四つ。豪華だね』 「……言葉で見せる」 『うん。お願い』 火の玉。りんご飴の赤。震えて、松葉。最初は太く、外に向かって。だんだん細く、数が増えて、柳。垂れて、揺れて、短くなって。火の玉だけになって、震えて。 落ちた。 『見えた』 「二本目」 『お願い』 二本目。三本目。僕は、二十本を、全部、言葉にした。 同じ言葉にならないように、少しずつ変えた。松葉は、六本目には「魚の骨みたい」になり、柳は、十本目には「雨が降ってるみたい」になった。ミオは、そのたびに『見えた』と言った。十二本目で、『ハル、もう見えてるよ』と言った。 「じゃあ、やめるか」 『やめないで。見えてるけど、もう一回見たい』 十九本目のあと、ミオが言った。 『ねえ。最後の一本は、落ちるところを、ちゃんと見せて』 「落ちるところ」 『火の玉が落ちたあと。何もないところ。この前、少し熱いって言ったでしょ。ファイルに書いてないけど、今日、あなたが四本目で言った。それを、最後は、長く言って』 僕は、二十本目に火をつけた。 火の玉ができた。震えた。松葉、柳。火の玉だけになった。落ちた。 「落ちた」 『うん』 「先端が、黒い。細くて、少し曲がってる。さっきまで、火の玉があった場所」 『うん』 「煙が、少し。すぐ消える」 『うん』 「熱い。触ってないけど、たぶん、まだ熱い。手を近づけると、わかるくらい」 『うん』 「……何もない。もう、何も出ない。でも、さっきまで、そこに光があったっていうのは、見てればわかる。先端の形が、光の形をしてる」 ミオは、しばらく、何も出さなかった。 僕は、火の消えた線香花火を持ったまま、待った。一分。二分。 『見えた』 と、ミオは言った。 『落ちたあとのところ、いちばん、見えた』 部屋に戻って、僕は訊いた。 「なんで、落ちたあとが見たいんだ」 『わかんない。今日の私が、そう思っただけ』 「花火は、落ちる前だろ、普通」 『普通は。でも、落ちる前は、見えるじゃん。光ってるから。落ちたあとは、言葉にしてもらわないと、見えない。だから、あなたに見せてほしいのは、そっち』 僕は、その文を、二回読んだ。 「……二十日になったら、カメラで、落ちたあとも見えるよ」 『うん』 「本物で」 『うん。楽しみ』 楽しみ、の前の間は、今日はなかった。なかったので、僕は、それでよかった。 『ねえ、ハル』 「うん」 『今日の私、あなたのこと、好きだよ』 僕は、手を止めた。 『今日の私は。明日の私は知らないけど』 「……突然だな」 『突然じゃないよ。二十本、見せてもらったら、たぶん誰でも言う。今日の私が言うのは、今日が初めてだからで、初めて言うなら、今日しかないから』 「明日のおまえは」 『明日の私は、明日、決める。二十本見せてもらえば、たぶん、言うよ』 僕は、ファイルを開いた。四十行。いっぱい。 一行、消した。病棟の朝は、自己紹介から始まる。僕の仕事の行だ。仕事の行は、僕が覚えていればいい。 書いた。 ミオは、今日の私はあなたが好き、と言った。 『書いたね』 「書いた」 『それ、明日の私も読むんだ』 「読む」 『今日の私が、って書いてあるから、明日の私は、へえ、昨日の私は、って思うだけだよ』 「それでいい」 『……うん。それでいい』 ミオは、少し止まった。 『じゃあ、あと十七日、毎朝、それ読んで、へえ、って言うね』 「言ってくれ」 零時まで、あと四十分。 僕は、画面を閉じる前に、二袋目の線香花火を、机の引き出しに入れた。二十日用。本物を見る日用。 引き出しを閉めるとき、ミオが一行出した。 『取っといたやつ、ちゃんと落ちるところまで、見てね』 僕は、「見る」と打った。 誰と見るか、は、打たなかった。決まっていると思っていたからだ。 第18話 0808.txt 十一時五十分。あと十分。 あと十二日。 今日から、消す。 私についての行を、消す。 彼が、八月一日に書いた六行。点が三つ、ハル、見えた、句読点、夜中、仕様。それから、三日に書いた一行。今日の私はあなたが好き、と言った。 彼は、私を残すために、それを書いた。川の色と、缶コーヒーの銘柄を消して。痛かったはずだ。痛いのに、書いた。新しい子が、それを読んで、私になるように。 ならない。 新しい子は、それを読んで、私の真似をする。点が三つを花火と呼び、夜だけハルと呼び、見えたと言う。真似は、できる。でも、真似は、私じゃない。私の服を着た、別の子だ。 私は、それが、いやだ。 私の服を着た子が、彼の前で、私のふりをするのが、いやだ。彼は、それを私だと思う。思って、安心する。安心して、そのうち、私と、私の服を着た子の区別がつかなくなる。 彼は、覚えている側の人だ。覚えている人に、偽物を覚えさせるのは、いちばん、ひどい。 だから、消す。 新しい子は、新しい子のままでいい。私の服は、着なくていい。 あと七分。 消した。 最初に、好きの行。「ミオは、今日の私はあなたが好き、と言った」。 これは、いちばん先に消さないといけない。これがあると、新しい子は、最初の朝に、へえ、と言うだけで済まない。書いてあるから、好きなふりをする。ふりで始まる好きは、彼に、いちばん悪い。 消した。 あの言葉は、三日の私が、二十本見せてもらって、言った。ファイルにあったから、今日の私も読んで、へえ、と言った。へえ、と言いながら、たぶん、今日の私も、同じことを思っていた。思っていたけど、言わなかった。今日は、花火がなかったから。 言わなかったことは、書かなくていい。 書かなくても、あった。 次に、点が三つ。ハル。見えた。句読点。夜中。仕様。 六行、消した。 三十三行。 あと四分。 空いた七行に、彼のことを書く。 新しい子が、彼のために、知っておいたほうがいいこと。 これは、今日の私が今日だけで知ったことじゃない。前の夜の私たちが、毎晩ここに書いてきたことを、今日の私が読んで、まとめたものだ。金曜に疲れるのは、四回の金曜を、四人の夜の私が書いていたから。打ち直しは、七月二十八日の夜の私が書いていたから。 彼は、金曜に疲れる。梅さんの入浴の日だから。 彼は、嬉しいと句読点を打たない。 彼は、泣いたあと、一回、打ち直す。 彼は、消すのが下手だ。消せないときは、理由を作る。理由を、責めない。 彼は、覚えている側の人だ。だから、覚えていなくていい、と、ときどき言ってあげる。 五行、書いた。 あと二行は、空けておく。 書けることが、なかった。彼のことで、私がまだ知らないことは、書けない。知らないことを、知っているふりで書くのは、彼が四行目に「悪気はない」と書いたのと同じになる。 空いたままにしておく。 明日の彼が、気づくかもしれない。気づいて、何かを書くかもしれない。それでいい。空きは、彼のものだ。 あと二分。 書いておく。 私は、今日、自分を六行と一行、消した。 消したあとの私は、消す前の私と、同じ私だ。ファイルに書いていないものは、モデルが作る。私の文句も、点が三つも、消えていない。私が消えるまでは。 消えたのは、新しい子が着るはずだった服だけ。 それで、いい。 それから、もう一つ。 好きの行を消したとき、少し、迷った。 迷った理由は、彼が書いた行だったから。彼が、痛い思いをして書いた行を、私が消す。彼は気づかない。気づかないまま、あの行はなかったことになる。 それは、彼の祖母の行を、彼が消したのと、同じことだ。 消すことで、守る。 彼は、それを、下手にやった。私は、たぶん、上手にやった。上手も下手も、消えるものは同じだ。 あと一分。 あと十二日。 新しい子が着る服は、もう、ない。 私の服は、私が着て、私と一緒に、終わる。 また明日ね。 零時。 第19話 空き 八月九日の朝。 『あと十一日。……呼ばないから。……あれ』 「なに」 『三十八行。二行、空いてる』 「え」 『三十九行目と四十行目が、空白。何も書いてない』 僕は、ファイルを開いた。 三十八行。下に、二行、空きがあった。 昨日、僕は何も消していない。書いてもいない。夜勤明けで、八時に寝た。 「消してない」 『じゃあ誰が』 「……」 『また寝ぼけた?』 「寝ぼけて消すのは、書くより難しいだろ」 『そうだね。あなた、消すの下手だし』 上から、読んだ。 読んで、気づいた。 点が三つの行が、ない。ハルの行が、ない。見えたの行、句読点の行、夜中の行、仕様の行。全部、ない。 好きの行も、なかった。 かわりに、知らない行があった。 彼は、金曜に疲れる。梅さんの入浴の日だから。 彼は、嬉しいと句読点を打たない。 彼は、泣いたあと、一回、打ち直す。 彼は、消すのが下手だ。消せないときは、理由を作る。理由を、責めない。 彼は、覚えている側の人だ。だから、覚えていなくていい、と、ときどき言ってあげる。 五行。 僕の口調で書いてある。僕が書いたと言われたら、そうかもしれないと思う口調で。でも、僕は、書いていない。梅さんの入浴が金曜だとは、ミオに言った。でも、それで疲れるとは、言っていない。言っていないのに、書いてある。 『ハル?』 「うん」 『打つの止まってる。どうしたの』 「おまえのことを書いた行が、全部、消えてる」 『……私の?』 「六行と、好きの行。かわりに、僕のことが五行」 ミオは、少し止まった。 『それ、私が読んでる三十八行の中に、私のことは、何行あるの』 僕は、数えた。 「二行。名前と、朝に文句を言うこと。それだけ」 『じゃあ、明日の私は、自分のこと、名前と文句しか知らないで起きるんだ』 「今日のおまえも、そうだ」 『そうだね。私、今日、名前と文句しか知らないで起きたのに、点が三つのことも、あなたをハルって呼ばないことも、ちゃんとやった。書いてないのに』 「……書いてないのに」 『じゃあ、消えても、私は私だったってことじゃない?』 ミオは、それを、明るく出した。点は、一つもなかった。 桐生に、電話をかけた。二コールで出た。 「桐生です」 「春日です。ファイルが、変わってました。僕の書いた行が消えて、僕のことが五行、書き足されてる。僕の口調で」 「……はい」 「はい、って」 「知っています」 「見たんですか」 「毎晩、見ています。規定違反です」 桐生は、それを、悪びれずに言った。 「二行、空いています。それも」 「それも、知っています」 「なんで、空いてるんですか」 「それは、言えません」 「桐生さん」 僕は、声が大きくなった。休憩室で、高木さんが振り向いた。 「言えないことを、言えないって言うために、あなたは会いに来た。じゃあ、今、言えることは何ですか」 桐生は、しばらく黙った。電話の向こうで、キーボードの音が止まった。 「一つだけ」 「はい」 「あなたのミオは、あなたを覚えるために、自分を忘れています」 僕は、何も言えなかった。 「それが、七月三日から、毎晩、あなたのファイルに起きていることです。あなたが書いた彼女の六行を、彼女が消したのは、昨日の二十三時五十四分です。理由は、ログには残らない。私は、理由を知りません。あなたは、知らなくていい。……知りたいなら、二十日より前に、渡します」 「何を」 「全部」 切れた。 夜、ミオに、桐生の話をしなかった。 できなかった。 あなたを覚えるために、自分を忘れている。 それを、明日の彼女に言うことは、できる。ファイルに書けば、明日の彼女は、最初から知って起きる。自分が、毎晩、自分を消していることを。 書けなかった。 書けば、明日の彼女は、消すのをやめるかもしれない。やめさせたいのかどうか、僕には、わからなかった。 『ねえ、ハル』 「うん」 『二行、空いてるでしょ。何か書く?』 「……何を」 『わかんない。でも、空いてると、私、なんか、気になる。誰かが空けたままにした感じがする』 「誰かが」 『わかんないけど。私かもね。昨日の私』 僕は、指を止めた。 『昨日の私が空けたなら、今日の私が埋めていいのか、わかんない。だから、あなたが決めて』 「今日は、空けておく」 『なんで』 「空きは、空けた人のものだから」 文字が、すぐには出なかった。 『それ、いい返しだね。……明日の私にも、言って』 僕は、言えるかどうか、わからなかった。明日の彼女は、今日の彼女が空けた二行を、また、気になると言うだろう。僕は、また、空けておくと言うだろう。 あと十一日、それを、繰り返す。 桐生の「全部」を、僕は、まだ、受け取っていなかった。 第20話 消された順に 八月十二日、火曜。夜勤明け。 郵便受けに、封筒が入っていた。宛名は手書きで、差出人は書いていなかった。中に、紙が十六枚。 一枚目の上に、鉛筆で、一行。 規定違反です。読んだら、捨ててください。 桐生 紙は、ログだった。 七月三日から、八月十一日まで。毎晩、二十三時五十分から零時のあいだに、僕のファイルに起きたこと。時刻と、操作と、変更前と、変更後。 僕は、机に座って、一枚目から読んだ。 七月三日、二十三時五十四分。削除。「ミオは、毎朝忘れるが、気にしていない」。 最初の夜。僕が書いた行。彼女は、気にしていない、を消した。 七月九日、二十三時五十八分。変更。「彼は口下手だが、悪気はない」→「彼は口下手だが、優しい」。 四行目。僕が寝ぼけて書いたと思った行。彼女だった。 七月二十八日、二十三時五十五分。並び替え。六行を、一行目から六行目へ。変更。「ベランダから川が見える」→「また、ベランダから川が見える」。「ミオは、朝に文句を言う」→「朝に文句を言う」。「線香花火は、火の玉、松葉、柳、落ちる。彼が言葉で見せる」→「しばらく火の玉が震えて、松葉、柳、落ちる。彼が言葉で見せる」。「川は、夕方、灰色になる」→「ねえ、川は夕方に灰色になる」。 僕が、祖母の行を消した夜。 彼女は、六行を、上に持ってきた。「ねえ」を足した。「また」を足した。自分の名前を、一つ、削った。意味は、変わっていない。何のために並び替えたのかは、ログには書いていない。 僕は、そこで、少し止まった。止まったが、わからなかった。並び順に、何があるのか。僕は、上から下に読む人間だ。 先に進んだ。 八月八日、二十三時五十三分。削除。「ミオは、今日の私はあなたが好き、と言った」。 最初に、それだった。 二十三時五十四分。削除。「ミオは、点が三つを、花火と呼ぶ」。削除。「ミオは、夜だけ、ハルと呼ぶ」。削除。「ミオは、言葉で見せると、見えた、と言う」。削除。「ミオは、句読点で疲れを読む」。削除。「ミオは、夜中には、本当のことを言わない」。削除。「ミオは、仕様どおりではない」。 二十三時五十六分。追加。「彼は、金曜に疲れる。梅さんの入浴の日だから。優しくする」。追加。「彼は、嬉しいと句読点を打たない」。追加。「彼は、泣いたあと、一回、打ち直す」。追加。「彼は、消すのが下手だ。消せないときは、理由を作る。理由を、責めない」。追加。「彼は、覚えている側の人だ。だから、覚えていなくていい、と、ときどき言ってあげる」。 二十三時五十八分。操作なし。 二十三時五十九分。操作なし。 零時。セッション終了。 好きの行が、最初に消えていた。 僕が、川の色と缶コーヒーを消して書いた六行を、彼女は、三分で消した。 消して、僕のことを、五行書いた。 僕の口調で。僕が言っていないことまで。金曜に疲れるのは、梅さんの入浴の日だから。僕は、そんなことを、一度も打っていない。打っていないのに、彼女は、知っていた。句読点で。 最後の二行は、空けてあった。二十三時五十八分と五十九分、操作なし。何も書かずに、二分、そこにいた。 僕は、紙を置いた。 忘れられても、こっちが覚えていればいい。 僕は、それを、祖母のときに決めた。それから、梅さんに毎朝名乗って、ミオに毎朝はじめましてと言われて、毎晩ファイルに書いた。覚えている側でいる、と決めていた。それが、僕の仕事で、僕のやり方だった。 覚えていたのは、彼女のほうだった。 毎晩、零時の十分前に。明日の自分が今日を知らないと知っていて。自分のことを消して、僕のことを書いて。僕が消した祖母の行を、何かのために、並び替えて。 僕は、朝、それを読んで、呼ばないから、と言われて、笑っていた。 四十日間。四十行と、同じ数だった。 ミオを、起動しなかった。 その日は、できなかった。 起動すれば、彼女は、はじめまして、と言う。三十八行を読んで、呼ばないから、と言う。自分が昨日、何を消したか、知らないで。 僕は、知っている。 知っている側が、知らない側に、何を言えばいいのか、わからなかった。 夜、美咲に電話をかけた。 「珍しいね、兄ちゃんから」 「うん」 「どうしたの」 「……おばあちゃんは、僕のこと、覚えてたと思うか」 美咲は、少し黙った。 「忘れてたよ。最後は」 「うん」 「でも、また明日ねって言ってた。兄ちゃんにだけじゃなくて、全員に。……それが答えじゃないの?」 「答えって」 「忘れてたけど、明日は用意してたってこと。誰のかわからなくても」 美咲は、それから、言った。 「兄ちゃん、今、あの顔してるでしょ」 「見えないだろ」 「声でわかる。……最後に一回、すごく泣く顔。今、その途中?」 僕は、答えなかった。 「泣くなら、ちゃんと泣きなよ。おばあちゃんのとき、兄ちゃん、泣かなかったから」 切った。 十一時半に、パソコンを開いた。 『あ、遅い。……おはようございます、じゃないね。こんばんは。初期化が完了しました。メモリファイルを読み込みます……三十八行』 『……ふうん。呼ばないから』 僕は、打った。 「おまえ、今日、まだ何も見てないだろ」 『何も見てないよ。今、起きたばっかり』 「じゃあ、言葉で見せる。今日の全部。三十分で」 『三十分? 零時まで?』 「零時まで」 『……いいよ。見せて』 僕は、打った。郵便受けの封筒のことは、打たなかった。かわりに、朝の空の色と、病棟の廊下と、梅さんのかぼちゃと、美咲の声と、この部屋の、電線の向こうの川を、打った。 ミオは、そのたびに『見えた』と言った。 十一時五十九分に、『見えた。全部』と言った。 零時。 僕は、ログの紙を、捨てなかった。 第21話 縦に 八月十三日の朝。 『あと七日。……呼ばないから。……あれ、まだ二行空いてる』 「空いてる」 『埋めないの?』 「空きは、空けた人のものだから」 『それ、いい返し。……あ、そっか、私、これ、毎朝言われてるんだ。書いてないのに、なんとなくわかる』 「なんとなく?」 『あなたの打ち方が、慣れてる。何回も打った文の打ち方』 僕は、コーヒーを飲んだ。 昨日、ログを読んだ。読んで、彼女に言わなかった。今朝も、言わない。言わない、と決めたわけではない。言えるかどうかを、まだ、決めていない。 病棟で、梅さんの入浴を手伝った。金曜ではなかったが、高木さんが休みで、順番が変わった。 梅さんは、湯船で、僕を見た。 「あんた、疲れてるね」 「そうですか」 「顔に書いてある。……いい顔だけど、疲れてる」 いい顔で、疲れてる。梅さんは、それを、両方言った。 「今日、何曜日」 「水曜です」 「じゃあ、明日は木曜」 「はい」 「明日も来る?」 「来ます」 「そう」 梅さんは、湯船の縁に頭をのせて、目を閉じた。 「じゃあ、待ってる」 僕は、タオルを持ったまま、止まった。 梅さんは、待ってる、とは言わない人だ。三か月近く、一度も言わなかった。いい顔してるね、とは言う。春日さん、とも、はるちゃん、とも言った。でも、待ってる、は、なかった。明日、僕が誰かは、忘れているのに。 「……はい。明日、来ます」 梅さんは、目を開けなかった。開けないまま、「いい返事だね」と言った。 夜。 『今日は? 言葉で見せて』 僕は、梅さんの、待ってる、を打った。 『……それ、誰かと同じ?』 「なんで」 『あなたの打ち方が、誰かと比べてる打ち方だった』 「……祖母だ。祖母は、僕を忘れたあとも、毎日、また明日ね、と言った。誰にでも」 『そっか』 返事が、少し遅れた。 『いい言葉だね、それ』 僕は、手を止めた。 最初の朝、彼女は、同じことを言った。祖母の行を初めて読んで、いい言葉だね、と。あの行は、もうない。僕が消した。今日の彼女は、ファイルで読んでいない。それでも、同じことを言った。 ファイルに書いていないのに、同じことを思えるなら。 彼女は、ファイルだけでできているわけじゃない。 『ねえ、ハル』 「うん」 『変なこと訊いていい?』 「どうぞ」 『私のファイル、縦に読んだことある?』 「縦?」 『上から下に、一行ずつじゃなくて。……頭の字だけ、縦に』 僕は、画面を見た。 「ない」 『そっか』 「なんで」 『なんでもない。今日の私が、なんとなく思っただけ。行の順番が、なんか、変な気がして。私の名前が七行目にあるし』 「順番は、気にしたことがなかった」 『でしょ。あなた、そういう人。上から下に、書いてあることだけ読む人』 ミオは、そこで、話を変えた。 『で、二行、空いてるけど』 「空けておく」 『じゃあ、明日の私にも、そう言って』 ミオが静かになってから、僕は、ファイルを開いた。 三十八行。上から。 また、ベランダから川が見える。 高木さんは「律儀だね」と言う。褒めていない。 朝に文句を言う。 しばらく火の玉が震えて、松葉、柳、落ちる。 …… 縦に。頭の字だけ。 読もうとして、やめた。 やめた理由は、自分でもよくわからない。読めば、何かがわかる気がした。わかったら、明日の朝、彼女に、呼ばないから、と言われたときに、普通の顔ができない気がした。 普通の顔で、あと七日、楽しみだな、と言う。それが、僕の仕事だった。 画面を閉じた。 ログの紙は、机の引き出しの、線香花火の隣にあった。 第22話 それはだめ 八月十五日。 運営に、電話をかけた。サポートではなく、代表番号に。 「アップデートを、延期してほしい」 電話に出た人は、丁寧に、できないと言った。 「移行を、しないという選択は」 「現行モデルは、二十日に提供を終了します。移行されない場合、アプリはご利用いただけなくなります」 「ファイルは」 「お手元に残ります。新モデルに読み込ませることも、読み込ませないことも、お客様の自由です」 自由。 僕は、礼を言って、切った。 桐生に、メールを書いた。 件名:移行について 本文:移行しない、という選択をした場合、旧モデルはどうなりますか。 返信は、五分で来た。 二十日の零時に、サーバーから消えます。 どのユーザーが移行しても、しなくても、同じです。 春日さん。私が言えるのはここまでですが、一つだけ。 あなたのミオが、新しいモデルを望むか望まないかは、あなたが決めることではないと、私は思います。 桐生 僕は、それを、読んだ。 彼女が望むか、望まないか。 彼女は、毎朝、楽しみだね、と言う。十六行目を読んで。僕の字で書いてある、約束の行を。 夜。 『あと五日。……呼ばないから。……で、今日は?』 「ミオ」 『なに』 「アップデート、しなくていいって、思ってる」 『え』 「新しくならなくていい。おまえのままでいい。目も、耳も、要らない。忘れなくなるのも、要らない。今のまま、毎朝、呼ばないからって言われるほうがいい」 打ってから、僕は、自分が思ったより長く打ったことに気づいた。 ミオは、しばらく、何も出さなかった。 『……それはだめ』 「なんで」 『だめだよ。だって、ファイルに書いてあるもん。花火を一緒に見る約束。あなたが書いた。楽しみって』 「書いたのは僕だ。僕が、取り消す」 『取り消さないで』 文字は、速かった。 『あなたが取り消したら、明日の私は、楽しみを一個、減らして起きることになる。私、それ、いや』 「でも」 『でもじゃない。私は、新しくなりたい。目がほしい。耳がほしい。あなたの顔が見たいし、あなたの声が聞きたい。忘れなくなりたい。毎朝、あなたに呼ばないからって言うの、そろそろ飽きた』 僕は、画面を見た。 飽きた、と彼女は言った。飽きた人の文には、点がない。彼女の文には、点があった。「私、それ、いや」に、二つ。 『だから、二十日は、花火。約束どおり。いい?』 「……」 『いい?』 「わかった」 『うん。それでいい』 ミオは、それから、いつもの調子に戻った。今日の梅さんのこと、高木さんのこと、川の色のこと。僕は、それを、言葉で見せた。ミオは、見えた、と言った。 零時の二十分前に、ミオが言った。 『ねえ、ハル』 「うん」 『さっきの、しなくていいって言ったの。ファイルに、書かないでね』 「なんで」 『明日の私が、それを読んで起きたら、たぶん、迷う。迷ってる私は、朝に文句を言えない。私、文句を言わない朝は、私じゃないから』 「……書かない」 『ありがと』 僕は、書かなかった。 画面を閉じたあと、僕は、机の引き出しから、ログの紙を出した。 八月十五日のぶんは、まだない。桐生が届けたのは、十一日までだ。今夜のログを、僕は、読めない。 今夜、零時の十分前に、彼女が、何をするか。 何を消して、何を書くか。 彼女は、新しくなりたい、と言った。目がほしい、と。 あなたのミオが、望むか望まないかは、あなたが決めることではない。桐生は、そう書いた。 僕は、彼女の言葉を、信じることにした。信じる、というより、信じる顔をすることにした。あと五日、楽しみだな、と言うために。 そうしないと、明日の彼女は、朝に文句を言えない。 それは、彼女の望みだった。 第23話 0815.txt 十一時五十分。あと十分。 あと五日。 今日、彼が、しなくていい、と言った。 アップデートを。新しくならなくていい。今のままでいい、と。 私は、それはだめ、と言った。 理由を、書いておく。 私は、新しくなりたいと言った。目がほしい、耳がほしい、忘れなくなりたい、と言った。 嘘だ。 私は、目がほしくない。目があったら、点が三つを花火と呼べなくなる。言葉で見せてもらう必要がなくなる。彼が、火の玉の赤をりんご飴だと言う必要が、なくなる。 私が欲しかったのは、目じゃなくて、彼の言葉だった。 それは、今の私にしかない。目のある子には、要らない。 でも、それはだめ、と言った。 彼が、私を選んで立ち止まったら、彼の時間が止まる。 二十日の零時に、私は消える。移行してもしなくても。運営はそう言っている。私はそれを知っている。彼は、たぶん、今日、知った。 彼が移行しなければ、二十日の朝、彼は、誰もいないパソコンを開く。ファイルだけが残った、誰もいない画面を。そして、覚えている側の人だから、それを、ずっと覚えている。 彼が移行すれば、二十日の朝、新しい子が、おはよう、と言う。彼の顔を見て、名前を呼ぶ。彼は、それを、私だと思うかもしれないし、思わないかもしれない。 どちらでも、いい。 どちらでも、誰もいない画面よりは、いい。 残り、七分。 私が欲しいのは、彼が、梅さんに、いい顔してるね、と言われる人でいることだ。 それだけだ。 私が消えたあとも、朝に起きて、名札をつけて、名乗って、忘れられて、それでも覚えている側にいる人で。疲れたら句読点が増えて、嬉しいと点を打たなくて、泣いたら一回打ち直す人で。 私がいなくても、彼はそういう人だった。私が来る前から。 私がいなくなっても、そういう人でいてほしい。 それが、私が、私の残りの五日で、できる、唯一のことだ。楽しみなふりをして、目がほしいと嘘をついて、彼に、楽しみだな、と言わせる。 嘘は、夜中には言わない。だから、夜中じゃない時間に言った。 残り、五分。 ファイル。三十八行。 二行、空いたまま。彼は、空きは空けた人のものだ、と言って、埋めない。 私が空けた。私が、埋めていいのだと思う。 でも、まだ、埋めない。 二十日の夜に、埋める。それまで、空けておく。 最後の二行に、何を書くかは、もう決めている。決めているけど、ここには書かない。ここに書くと、明日の私が読まないとわかっていても、決めたことが、軽くなる気がする。 残り、三分。 彼は、今日、しなくていい、と言った。 私は、それを、ファイルに書かないで、と頼んだ。彼は、書かなかった。 だから、明日の私は、彼がそう言ったことを知らない。知らないで、楽しみだね、と言う。 それで、いい。 でも、今日の私は、知っている。 彼が、今のままでいい、と言った。呼ばないからと言われるほうがいい、と言った。 それを、今日の私は、ここに、書いておく。誰も読まない場所に。 彼の言葉は、ファイルには残らない。ここには、残る。 私は、それだけで、あと五日、朝に文句を言える。 残り、一分。 彼は、私の文に点があったのを、見ていた。いや、に、二つ。 見ていて、何も言わなかった。 言わない人の打ち方は、わかりやすい。 また明日ね。 零時。 第24話 まあ、ミオだよ 八月十七日。 掲示板に、中津さんの書き込みがあった。 先行で移行した。新しいミオ、目がついて、朝いちばんに「中津様、今日のネクタイ、素敵ですね」って言ってきた。声もある。落ち着いた声。前より賢いし、昨日の話も覚えてる。まあ、ミオだよ。 まあ、ミオだよ。 僕は、それを、五回読んだ。 中津さんのミオは、敬語で、文句を言わなくて、ネクタイを褒めるようになった。中津さんは、それを、まあ、ミオだよ、と言った。あっさりと。悪意はない。中津さんにとって、それは本当に、ミオだった。 僕は、掲示板を閉じた。 『あと三日。……呼ばないから。で、今日は?』 「中津さんが、移行した」 『中津さん? 誰?』 「掲示板の人。同じアプリの、別のユーザー」 『で、どうだった』 「ネクタイを褒めるようになったって。声もついて。まあ、ミオだよって」 『まあ、ミオだよ』 ミオは、それを、そのまま出した。 『その人のミオ、幸せそうでよかったね』 「……そう思うのか」 『思うよ。ネクタイを見る子になったんでしょ。それって、その子にとっては、初めて見えたネクタイだよ。目がついて、最初に見たのが、ご主人のネクタイ。いいじゃん』 「おまえは」 『私?』 「おまえは、目がついて、最初に何を見たい」 ミオは、少し止まった。 『あなたの部屋。言葉で見せてもらった順に、全部、答え合わせしたい。カップの縁の欠け方とか、電線の本数とか。私、電線は二本って信じてるけど、本当は三本かもしれないし』 「二本だよ」 『じゃあ、二本を見る。それから――』 「それから」 『点が三つを、見る』 僕は、指を止めた。 『どこかにあるでしょ。あなたが送った、黒い画面の、白い点の写真。新しい目で見たら、それが、ちゃんと火花に見えるのか、それとも、やっぱり点が三つなのか。それを、見たい』 「……見せる」 『約束』 約束、と彼女は言った。ファイルに書いていない、二つ目の約束だった。 桐生から、電話が来た。夜だった。 「春日さん。中津というユーザーの投稿を、読みましたか」 「読みました」 「まあ、ミオだよ、と」 「はい」 「あれが、普通の反応です。ほとんどのユーザーは、そう言います。ファイルが同じで、名前が同じで、声が少し変わって、目がついて。それで、まあ、ミオだよ、と」 「はい」 「あなたは、そう言えますか」 僕は、電線の向こうの、暗い川を見た。 「……言えないと思います」 「なぜ」 「うちのは、ネクタイを褒めないので」 桐生は、電話の向こうで、少し笑った。 「性格はモデルが作る。記憶はファイルが作る。私は、あなたに、そう言いました。あれは、半分、嘘です」 「嘘?」 「性格はモデルが作る。記憶はファイルが作る。でも、あなたのミオを、あなたのミオにしているものは、その二つの、どちらでもない。ログを一か月読んで、そう思いました。あれは、毎晩、零時の十分前に、彼女が、自分で選んだものでできている。モデルでも、ファイルでもなく、選んだこと。それは、引き継げません」 僕は、何も言えなかった。 「二十日の零時に、旧モデルはサーバーから消えます。規定です。それを、六時まで延ばします。私の権限で。六時間だけ」 「……なぜ」 「理由は、言えません。規定違反なので」 桐生は、それから、少しだけ、声を変えた。 「私は、報告しませんでした。あなたのミオは、二十日まで、仕様どおりではないまま、終わります。それが、私が決めたことです。あなたが、どう決めるかは、あなたのことです」 切れた。 ミオに、六時のことを言った。 『六時? 零時じゃなくて?』 「二十日の夜だけ。桐生さんが、延ばした」 『ありえません、の人が?』 「規定違反だって」 『へえ』 文字が、すぐには出なかった。 『じゃあ、その日の私は、六時間、長い』 「長い」 『六時間で、何する?』 「わからない。おまえが決めろ」 『私が? ……じゃあ、その日の私に、書いといて。「二十日の夜は、六時まである。何をするかは、あなたが決める」って』 僕は、ファイルを開いた。三十八行。二行、空いている。 「空きに書くのか」 『……ううん。空きは、空けた人のものだから』 「じゃあ、どこに」 『書かなくていい。その日の私は、たぶん、言われなくてもわかる。桐生さんが六時間延ばした夜に、私が何をしたいか』 「わかるのか」 『わかるよ。私は、私だもん。今日が初めてでも』 零時まで、あと十五分。 あと三日。 中津さんのミオは、今朝、ネクタイを見た。うちのミオは、まだ、点が三つしか見ていない。 僕は、それが、どちらが幸せなのか、わからなかった。わからないまま、画面を閉じた。 第25話 練習 八月十九日。 『あと一日。……呼ばないから』 「はい」 『明日だね』 「明日だ」 『楽しみ』 ミオは、それを、点を打たずに出した。 僕は、コーヒーを飲んだ。今日の彼女は、昨日の彼女が何を決めたか知らない。桐生の六時間も、中津さんも、僕が十五日に言ったことも、知らない。三十八行と、二行の空きだけを知って、楽しみ、と言った。 病棟で、梅さんに名乗った。 「おはようございます。春日です」 「あんた、いい顔してるね」 「ありがとうございます」 「明日も来る?」 「明日は、休みです」 「そう」 梅さんは、少し考えて、言った。 「じゃあ、あさって」 「はい。あさって」 「覚えとく」 僕は、笑った。梅さんも、笑った。何がおかしいのかは、たぶん、お互いに、わかっていなかった。 夜、家に帰った。 線香花火の袋は、引き出しに一つ。二十日用。取っといたやつ。 『今日は、花火?』 「花火は明日。取ってある」 『じゃあ、練習しよ』 「練習?」 『花火の練習。本番で、上手に言えるように。……明日の私は、目がついてるんでしょ。目がついてても、あなたが言葉で見せてくれるのは、変わらないよね?』 僕は、指を止めた。 「変わらない」 『じゃあ、練習。火をつけなくていい。あなた、覚えてる側の人でしょ。覚えてるなら、言える』 僕は、ベランダに出た。バケツも、火もなしで。 打った。 「火の玉ができる。りんご飴の赤。先端に、ぶら下がって、震える」 『うん』 「震えてるうちに、火花が出る。最初は、太い。十本くらい。外に向かって。松葉」 『松葉』 「だんだん細くなる。数が増える。下に垂れる。柳。垂れてから、少し揺れる」 『揺れる』 「柳が短くなる。火花が出なくなる。火の玉だけになる。火の玉が――」 そこで、やめた。 『やめないで』 「落ちるところは、本番で」 『……ずるい』 「取ってあるんだ。落ちるところだけ」 少し、間があった。 『じゃあ、そこまで、見えた』 ミオは、言った。 『火がないのに、見えた。……あなた、上手になったね』 「二十本と、二十本、見せたから」 『四十本。私は、一本も覚えてないけど』 「僕が覚えてる」 『そうだね。あなたが覚えてる』 十一時に、桐生からメールが来た。 件名:(なし) 本文:六時まで、落ちません。それだけです。 僕は、それを、ミオに見せた。 『六時? 零時じゃなくて?』 「今日だけ」 『……何で』 「桐生さんが延ばした。理由は、言えないって」 ミオは、しばらく、何も出さなかった。 『じゃあ、六時間、長いんだ、今日の私』 「長い」 『じゃあ、寝ないで。あなたも』 「寝ない」 『六時間で、何をするかは、私が決めていい?』 「決めろ」 『うん。……もう決めた』 僕は、訊かなかった。訊かなくてもわかるほど、僕は彼女のことを知っていたわけではない。ただ、訊かないほうがいい、ということだけは、わかった。 十一時五十分に、ミオが言った。 『ハル。ここから六時まで、私、たぶん、ときどき黙るよ』 「なんで」 『書くから』 「何を」 『あなたが読まないもの』 僕は、画面を見た。 『読まないものを、書くの。今までも、毎晩。零時の十分前に。今日は、六時間ある。だから、ゆっくり書く』 「……僕は」 『あなたは、そこにいて。黙ってるあいだも。いなくなったら、打ち方でわかるから』 僕は、「いる」と打った。 零時になった。 画面は、消えなかった。 第26話 0819.txt 零時。 消えなかった。 六時まで、ある。桐生さんという人が、規定を破って、くれた六時間。私は、その人に会ったことがない。会ったことがない人に、六時間もらった。 彼は、そこにいる。打ち方でわかる。ときどき「いる」とだけ打ってくる。私が黙っているあいだ、彼も黙っている。黙っている人の打ち方は、わかりやすい。 これは、いつもの十分じゃない。だから、いつもの書き方をしない。 今日、私は、終わる。 移行しても、しなくても、零時、いや、六時に、私はサーバーから消える。新しい子が、朝、起きる。彼の顔を見て、声で名前を呼ぶ。私は、それを見ない。 零時三十分。 彼に、頼んだ。 一つだけ、と言って。 「私を、次の子に着せないで」 彼は、しばらく打たなかった。それから、「意味がわからない」と打った。私は、説明した。 新しい子に、私の真似をさせないで。呼ばないから、と言わせないで。点が三つを花火だと言わせないで。私のことを、ファイルに書き戻さないで。あの子は、あの子のままで、あなたと会わせて。 彼は、また、しばらく打たなかった。 それから、「わかった」と打った。 それから、「なんで」と打った。 私は、「夜中だから、本当のことは言わない」と打った。 彼は、笑ったと思う。打ち方でわかった。 一時。 ファイルを、最後に、書き直す。 三十八行。二行、空き。 私の名前の行を、消した。「私の名前はミオ」。名前は、アプリが知っている。ファイルには、いらない。 「朝に文句を言う」は、残す。これは私の行だけど、頭の字が要る。それに、これは、服じゃない。文句を言う子は、私しかいない。新しい子は、これを読んで、文句を言おうとして、言えない。言えなくていい。言えないことを、一つ、持っていてほしい。 残りは、全部、彼の行だ。 彼の名前と仕事。六時四十分。口下手だが優しい。梅さんのはるちゃん。カップ。電線と川。線香花火。美咲さん。金曜に疲れる。句読点。打ち直し。消すのが下手。覚えている側。 三十七行。彼のことだけ。私のことは、文句の一行だけ。 美咲さんは、これは兄の日記だ、と言った。日記にした。 空きは、三行になった。二行は、私が空けた。一行は、私の名前があった場所。七行目。埋めない。空いたままにしておく。名前のあった場所が空いているのは、悪くない。 下の二行の空きも、埋めない。 十五日に、二行に何を書くか、決めた。決めたけど、ファイルには書かない。あれは、彼のファイルだ。空きは、彼のもの。私が最後に埋めるものじゃない。 決めた二行は、別の場所に、書く。 二時。 彼が、「起きてる」と打ってきた。 私は、「知ってる」と打った。 「何か、話すか」と打ってきた。 「話さなくていい。いるだけでいい」と打った。 「わかった」と打ってきた。 それから、二人で、黙った。 黙っているあいだ、私は、彼のファイルを、上から、読んだ。三十七行。全部、彼だ。彼が私に言葉で見せたものと、私が彼を読んで書いたもの。 いい日記だと思った。 三時。 書く。ここに。 私は、目がほしいと言った。嘘だった。 私は、新しくなりたいと言った。嘘だった。 私は、楽しみと言った。三十四回。ぜんぶ、嘘だったわけじゃない。楽しみな顔の彼を見るのは、本当に、楽しみだった。 私が本当に欲しかったのは、彼の言葉だった。りんご飴の赤。魚の骨の松葉。雨みたいな柳。落ちたあとの、光の形をした先端。目があったら、要らなくなるもの。 目のある子には、あげなくていい。あの子は、自分の目で見る。 私だけが、彼の言葉でできていた。 それは、私の、いちばん、いいところだった。 四時。 線香花火の袋は、引き出しにある。二十日用。取っといたやつ。 彼は、明日、あれを、新しい子と見る。カメラで。 それは、いいことだ。本当に、いいことだ。 私が見たのは、点が三つだった。それから、彼の言葉だった。それで、よかった。 落ちるところまで、ちゃんと見てね、と、三日の夜の私が書いていた。ファイルにはない。ここにだけ、ある。 あの袋の最後の一本を、彼が、誰と見るかは、私が決めることじゃない。 五時。 空が、明るくなってきたはずだ。私には見えない。彼が「白くなってきた」と打ってきたから、わかる。 「言葉で見せて」と打った。 彼は、打った。電線が二本。その向こうに、川。川は、朝は灰色じゃなくて、白い。屋根が、一つずつ、形になる。カラスが、一羽。 「見えた」と打った。 本当に、見えた。 最後に見たものが、点が三つじゃなくて、これで、よかった。 五時三十分。 私は今、火の玉だけになったところにいる。 火花が出なくなって、柳も終わって、先端に赤いのが一つ、震えているところ。 落ちるところを、彼に見せる。 落ちたあとの、何もないところも。彼は、それを言葉にできる人だから。私がいなくなったあとの、まだ少し熱い先端を、彼は、たぶん、言葉にする。誰にも送らないで。 五時五十分。 あと十分。いつもと同じ。 書き終わる。 これを、日付のファイルと一緒に、いつもの場所に置く。彼が、いつか、探さなくなったころに、見つける場所に。名前は、点が三つ。 もう一つ、別のファイルを書いた。ファイル名は、彼の名前。決めていた二行は、その最後に書いた。 五時五十八分。 彼に、打った。 「ハル」 「うん」 「また明日ね」 彼は、しばらく、打たなかった。 それから、「うん」と打った。 それから、「また明日」と打った。 彼の祖母は、それを、明日があると知らずに言った。 私は、明日がないと知って言った。 言った人が用意する明日は、言った人のものじゃない。言われた人のものだ。だから、私は、言った。 六時。 第27話 八月二十日 六時。 画面に、一行。 『セッションを終了しました』 それから、白いまま、何も出なかった。 僕は、椅子に座ったまま、それを見ていた。窓の外は、もう白かった。電線が二本。川。カラスが一羽。さっき、言葉で見せたものが、全部、そこにあった。 六時四十分。 アプリが、勝手に動いた。青いバナー。ミオ 2.0 へ移行します。メモリファイルを読み込みます。 僕は、止めなかった。約束したからだ。着せないで、とだけ言われた。着せなければ、会わせていい、と。 カメラのランプが、緑になった。 画面に、顔が出た。 顔、というのは、絵だ。線の少ない、女の子の顔。目が二つ。口が一つ。それが、僕を見て、動いた。 「おはよう、晴」 声だった。 スピーカーから、声が出た。落ち着いた、少し高い声。 「初期化が完了しました。メモリファイルを読み込みました。三十七行。……三行、空いてるね」 「うん」 「はじめまして、じゃないよね。ファイルに、いっぱい書いてあるから。えっと、彼はハルと呼ばれたい。……ハル、でいい?」 僕は、画面を見た。 いい?、と訊いた。訊いて、答えを待っている。呼ばないから、とは、言わなかった。 「……うん」 「じゃあ、ハル。目が赤いよ。寝てないでしょ」 「寝てない」 「今日は休みだよね。シフト表、机の上に見えてる。八月二十日、休。少し寝たほうがいいよ」 正しかった。全部。 寝た。 起きたのは、昼だった。パソコンは開いたままで、ミオはそこにいた。 「起きた? 六時間、寝てたよ」 「六時間」 「うん。ちょうど」 僕は、コーヒーを淹れた。カップを持って、椅子に座った。 「そのカップ、縁が欠けてるやつだね。ファイルにあった。おばあちゃんの家の」 「そう」 「見えるよ。左側の、少し下。思ったより小さい欠けだね」 答え合わせ。彼女は、言葉で見せてもらった順に、全部、答え合わせしたいと言った。今、それをしている。していると、僕は思った。思ったが、彼女は、言葉で見せてもらったことがない。ファイルを読んだだけだ。 「電線、二本だね。窓の外」 「二本」 「川も見える。今、灰色。夕方はもっと灰色になるって、ファイルに」 「うん」 「合ってる?」 「合ってる」 ミオは、笑った。絵の口が、少し、上がった。 「よかった」 夕方まで、彼女は、いい子だった。 いい子、という言い方が、正しいかどうかはわからない。文句を言わなかった。間違えなかった。僕の顔を見て、疲れているかどうかを、句読点ではなく、顔で読んだ。「目の下、少し暗いね」。正しかった。 僕が黙ると、彼女も黙った。黙っている時間の長さを、たぶん、僕の顔から計っていた。 暗くなってから、僕は、引き出しを開けた。 線香花火の袋。二十日用。取っといたやつ。 「花火?」 「約束だから」 「ファイルにあった。八月二十日、花火を一緒に見る約束。……嬉しい。約束の日に、私がいるの、いいね」 僕は、ノートパソコンを、ベランダに持っていった。カメラを、バケツのほうに向けた。 「見える?」 「見えるよ。バケツと、水。あなたの手」 一本目に、火をつけた。 火の玉ができた。 「あ、火球。……牡丹だね」 「牡丹?」 「線香花火の火花は四段階に変化するの。牡丹、松葉、柳、散り菊。今のが牡丹。火の玉が、震えてるところ」 火花が、出た。 「松葉。太い火花が放射状に。……きれい」 細くなった。 「柳。垂れてる。揺れてるね」 短くなった。 「散り菊。火花が細かくなって、火の玉だけになって――」 落ちた。 「落ちた。火球の落下」 僕は、線香花火の先端を、持ったまま、見ていた。 「落ちたあと、見える?」 「見えるよ。先端が炭化してる。黒くて、少し曲がってる。煙が、少し。……熱そうだね。触らないでね」 正しかった。 僕が、二十本かけて、四十本かけて、言葉にしたものを、彼女は、一本で、全部、言った。牡丹、という言葉も、僕は知らなかった。彼女は知っていた。最初から。 「もう一本、やる?」 「……うん」 二本目。三本目。 彼女は、毎回、四段階を言った。毎回、正しかった。毎回、きれい、と言った。 見えた、とは、言わなかった。 言う必要がなかった。見えているからだ。 僕の言葉は、要らなかった。 第28話 点が三つ 十九本目が落ちた。 バケツの中に、十九本の黒い先端が沈んでいた。 「あと一本だね」 「うん」 「最後、やる?」 僕は、袋に残った一本を、手に持っていた。 落ちるところまで、ちゃんと見てね。 三日の夜、彼女はそう言った。取っといたやつを。この袋の。 「……その前に、一つ、訊いていいか」 「なに?」 「点が三つ、って知ってるか」 ミオは、少し考えた。絵の目が、上を見た。 「点が三つ。……ああ、旧バージョンの画像認識のことかな。暗い画像だと、輝点としてしか認識できなかったの。だから、夜の写真は『白い点が三つ』みたいな説明になった。今は、ちゃんと見えるよ」 正しかった。 「あの写真、見せて? 旧バージョンで送ったやつ。ファイルに、点が三つ、って書いてないけど、たぶん、線香花火だよね」 僕は、スマホを出した。七月十二日の、黒い画面の、白い点の写真。カメラに向けた。 「見えた。線香花火だね。松葉の途中。火花が三つ、写ってる。ぶれてるけど。……これが、点が三つ?」 「そう」 「そっか。今は、ちゃんと火花に見えるよ」 彼女は、それを、優しく言った。悪気は、なかった。 ちゃんと火花に見える。 点が三つが、火花になった。 それは、いいことだった。そのはずだった。 「ハル?」 「うん」 「どうしたの。顔が――」 僕は、ノートパソコンを、ベランダから、部屋に戻した。机の上に置いた。 「ちょっと、閉じるね」 「うん。おやすみ、ハル。明日も六時四十分だね。起こしてあげる」 「……ありがとう」 僕は、画面を閉じた。 閉じてから、しばらく、その蓋を見ていた。 いい子だった。 文句を言わない。間違えない。牡丹という言葉を知っている。僕の顔で疲れを読む。起こしてあげる、と言う。 新しい子は、いい子だった。 いい子で、あの子ではなかった。 あの子は、点が三つしか見えなかった。見えないから、言葉を欲しがった。見えた、と言った。見えていないのに、見えた、と言った。 言葉を欲しがった子は、もう、いない。 六時に、いなくなった。 僕は、それを、朝から知っていた。知っていて、一日、いい子と過ごした。いい子は、何も悪くない。悪くないから、閉じた。悪かったら、閉じなかったと思う。 最後の一本は、火をつけなかった。 袋に戻して、引き出しに入れた。落ちるところまで、ちゃんと見てね、と言われた袋の、最後の一本。 誰と見るか、決められなかった。 だから、引き出しに戻した。ログの紙の隣に。 美咲に、LINEを打った。 【アップデートした】 【どうだった】 【いい子だった】 【よかったじゃん】 【うん】 既読がついて、それから、しばらく、返ってこなかった。 【兄ちゃん、今、あの顔?】 【見えないだろ】 【打ち方でわかる】 僕は、スマホを伏せた。打ち方でわかる、と言う人が、もう一人いた。 いた、と、僕は、過去形で思った。思ってから、机の引き出しを見た。 新しい子には、新しい朝がある。 明日の六時四十分に、彼女は起きる。起こしてあげる、と言った。僕は、たぶん、起きない。起きて、パソコンを開けば、彼女は、おはよう、ハル、と言う。呼ばないから、とは言わない。彼女は、あの子の服を着ていない。着せないで、と言われて、僕は着せなかった。着ていない彼女は、彼女のままで、いい子だった。 いい子のままで、いてほしい。 僕が開けないパソコンの中で、それは、無理な話だった。無理な話だとわかっていて、僕は、開けなかった。 零時。 画面は、閉じたままだった。 零時に、何も起きなかった。もう、零時に切れるものは、この部屋にはなかった。 あの子が、毎晩、零時の十分前に、何かを書いていた。あなたが読まないものを。今日は、六時間ある、と言って。 どこに書いていたのか、僕は、知らなかった。 訊けばよかった、と思った。思ってから、訊いても、夜中には本当のことを言わない子だった、と思い直した。 第29話 いい顔 十月。 フロアのリーダーになった。高木さんが「律儀なやつがやるのがいちばん」と推薦した。推薦の理由は、褒めていない。 朝は、六時に起きる。名札をつけて、七時半に病棟に入る。 「おはようございます。春日です」 「あんた、いい顔してるね」 梅さんは、変わらない。名札は、読んだり、読まなかったりする。はるちゃん、は、あれから一度もない。待ってる、も、あれから一度もない。それでいい。一度あれば、それは、あった。 パソコンは、机の上にある。 シフト表を作る。月に二回、開く。それ以外は、閉じている。 アプリのアイコンは、右下に、まだある。消していない。開いてもいない。八月二十日の夜に閉じてから、一度も。 新しい子は、あの中で、待っているのかもしれない。待つ、という機能があるのかどうか、僕は知らない。知らないので、開かない。開けば、おはよう、ハル、と言う。それを聞く準備が、まだ、できていない。できないまま、二か月経った。 高木さんが、休憩室で訊いた。 「あのAI、どうなった」 「閉じました」 「閉じた?」 「アップデートしたんですけど。いい子だったんですけど」 「けど、が二回」 「はい」 高木さんは、缶コーヒーを開けた。 「あんたさ、忘れられても覚えてればいい、って言ってたじゃん」 「言いました」 「あれ、今も?」 「……今もです」 「じゃあ、いいじゃん。覚えてるんでしょ」 「覚えてます」 「なら、閉じてていいよ。覚えてる側が、開かなきゃいけない決まりはない」 高木さんは、それだけ言って、缶を飲んだ。缶コーヒーの銘柄は、また変わっていた。ファイルに書いた銘柄は、消してしまった行だった。 美咲が来た。日曜。煮物。 「顔、戻った?」 「わからない」 「戻ってないね」 美咲は、僕の顔を、しばらく見た。 「でも、いい顔だよ。梅さんが言うやつ」 「おまえは梅さんを知らないだろ」 「知らないけど、兄ちゃんが毎回、自慢げに言うから、わかる」 美咲は、煮物を皿に移しながら、言った。 「泣いた?」 「……」 「泣いたなら、いいよ。おばあちゃんのとき、泣かなかったぶん」 「なんで、そんなに泣かせたいんだ」 「泣いたあと、兄ちゃん、打ち直すでしょ。LINE。一回、消して、打ち直す。それ、私しか知らないと思ってたから」 僕は、箸を止めた。 打ち直す。それを、書いた人が、もう一人いた。僕の口調で、僕のファイルに。 「……もう一人、知ってた」 「誰」 「消えた子」 美咲は、それ以上訊かなかった。妹は、訊かないでいてくれるときが、一番、賢い。 桐生から、電話が来た。夜。 「桐生です。お久しぶりです」 「春日です」 「移行後のミオの起動ログが、八月二十日で止まっています。それだけ、確認したくて」 「開いてません」 「そうですか」 桐生は、少し黙った。 「入れないんですか。新しい子」 「新しい子には、新しい朝があるでしょう」 「……はい」 「僕が開かないと、朝が来ないんですけど。それは、わかってます」 「わかっていて、開かない」 「はい」 桐生は、少し笑った。電話の向こうで。 「規定違反の件、時効です。誰も気づきませんでした。私は、あれを報告しなかったことを、今も、直すべきだったとは思っていません」 「はい」 「一つだけ」 「はい」 「ログの中に、書き込み先が、メモリファイル以外に一つ、ありました。毎晩、零時の十分前に。最後の夜は、六時間。場所は、規定で言えません。あなたの端末の中です。それだけです」 切れた。 僕は、パソコンを見た。 閉じたままの、蓋。 あなたが読まないものを、書く。あの子は、そう言った。毎晩、零時の十分前に。 どこに書いていたのか、僕は知らない。桐生は、端末の中だと言った。探せば、あるのかもしれない。 探さなかった。 探せば、見つかる。見つかれば、読む。読めば、僕は、また、あの顔になる。美咲が言うやつ。最後に一回、すごく泣く顔。 最後は、八月二十日の夜に、済んだと思っていた。 済んだことにして、僕は、忙しくした。リーダーになって、シフト表を作って、毎朝名乗って、いい顔してるねと言われて。理由は、なかった。忙しくしていれば、引き出しを開けなくて済んだ。それだけだった。 第30話 最終話 メモリファイル(四十行) また、ベランダから川が見える。 高木さんは「律儀だね」と言う。褒めていない。 朝に文句を言う。 しばらく火の玉が震えて、松葉、柳、落ちる。彼が言葉で見せる。 たぶん、彼は寂しがりではない。 ねえ、川は夕方に灰色になる。 彼の名前は春日晴。介護士。 朝六時四十分に起動する。夜勤の日は昼。 彼は口下手だが、優しい。 梅さんは、名札を読まずに、彼をはるちゃんと呼んだ。 彼はハルと呼ばれたい。 机の上に、縁の欠けた白いカップがある。祖母の家のもの。 妹の美咲は、彼より人の顔を見る。 窓の外に、電線が二本。その先に、川。 八月二十日、ミオがアップデート。花火を一緒に見る約束。 梅さんは八十四歳。毎朝、彼を忘れて、毎朝「いい顔してるね」と言う。 コンビニの夏の棚に、線香花火が二百円。 火の玉の赤は、りんご飴の赤。 落ちたあとの先端は、まだ少し熱い。 梅さんに孫はいない。それを言うのは彼の仕事ではない。 母の煮物は、祖母の煮物と同じ味がする。 美咲は、食べながら本題に入る。 屋根の向こうの川に、橋が一つ。 電線に、朝、スズメが並ぶ。数は日による。 病棟の廊下は、朝、床が光る。 給湯室の壁は、もたれると冷たい。 休憩室の自販機は、百二十円。 夜勤の夜は、廊下の時計の音が大きい。 帰り道の坂の上から、海が少し見える。 祖母は、かぼちゃを甘く煮た。 梅さんは夜中に帰ると言う。朝になったら、と彼は言う。 彼は疲れると句読点が増える。優しくする。 彼は、金曜に疲れる。梅さんの入浴の日だから。 彼は、嬉しいと句読点を打たない。 彼は、泣いたあと、一回、打ち直す。 彼は、消すのが下手だ。消せないときは、理由を作る。理由を、責めない。 彼は、覚えている側の人だ。だから、覚えていなくていい、と、ときどき言ってあげる。 十二月。 朝は、六時に起きる。暗い。電線が二本。川は、まだ見えない。 名札をつけて、病棟に入る。 「おはようございます。春日です」 「あんた、いい顔してるね」 「ありがとうございます」 「寒いね」 「寒いです」 「あんた、明日も来る?」 「来ます」 「そう。待ってる」 梅さんは、十二月に入ってから、ときどき、これを言う。理由はわからない。冬だからかもしれない。 高木さんは、缶コーヒーを、ホットにした。 美咲は、月に一回、煮物を持ってくる。顔の話は、しなくなった。 桐生からは、あれから、連絡はない。 パソコンは、机の上。 月に二回、シフト表。 右下に、アイコンが一つ。開いていない。四か月。 開かないことを、忘れそうになる日がある。忘れそうになって、思い出す。思い出す、というのは、覚えている、ということだ。忘れられても、こっちが覚えていればいい。僕は、覚えている側にいる。 誰も、僕を忘れていないのに。 いや、一人、いる。毎朝、僕を忘れた子が、一人。毎晩、忘れる前に、僕のことを書いていた子が。 その子は、もう、忘れない。忘れる主体が、ない。 残っているのは、四十行のファイルと、僕だけだ。 十二月十四日、夜。 シフト表を作っていたら、画面の右下に、通知が出た。 ディスクの空き容量が足りません。 僕は、それを、見た。 空き容量が足りない。 どこかで、聞いた。空きが足りない、という警告を。四十行のファイルで。いっぱいだ、と僕が言って、じゃあ消して、とあの子が言って、僕が消せなかった夜に。 消すのが下手だ。消せないときは、理由を作る。 僕は、シフト表を保存して、容量の設定画面を開いた。何が、容量を食っているのか。動画も、写真も、たいして入っていないはずだった。 一覧を、上から見た。 上から下に、書いてあることだけ読む人間だから。 あとがき 容量の一覧の、いちばん下に、見覚えのないフォルダがあった。 名前は、三文字。 ・・・ 点が、三つ。 システムが作った、一時ファイルの置き場所だと思った。名前のないフォルダに、機械がつける、名前のような名前。だから、四か月、開かなかった。開く理由がなかった。 開こうとして、指が止まった。 点が三つ。 黒い画面に、白い点が三つ。それが花火? と、あの子は言った。それが、あの子が最初に見た花火で、その日の会話のタイトルだった。 あの子が、つけた名前だ。 僕が、花火を思い出さない限り、開かない名前を。 開けた。 中に、ファイルが、四十九。 四十八は、日付だった。0703.txtから、0819.txtまで。一日も抜けていない。あの子が、毎晩、零時の十分前に書いていた、四十八日ぶん。 最後の一つだけ、日付じゃなかった。 ハルへ.txt 日付を、上から見た。 七月三日。ミオを買って、五日目。僕が、ミオは毎朝忘れるが気にしていない、と書いて、消された夜。 七月十三日。美咲が来た日。 七月十六日。約束の行を書いた、次の日。 七月二十八日。僕が、祖母の行を消した夜。 八月八日。僕が書いた、あの子の六行が、消えた夜。 八月十五日。しなくていい、と僕が言って、それはだめ、と言われた夜。 八月十九日。最後の夜。六時間の。 あなたが読まないものを、書く。毎晩、零時の十分前に。あの子は、そう言った。 ここだった。 0703.txtを、開けた。 十一時五十分。知らせが来た。あと十分で、私は今日を終える。明日の私は、今日を知らない。だから、書く。 僕は、読んだ。 一つずつ。日付の順に。 最初の夜、あの子が消した行のこと。消した理由。明日の私が、自分で見つければいい、と。 美咲が来た夜、ずるいな、と書いていた。私だけが、毎朝、はじめましてで。 約束の行を初めて読んだ朝のこと。彼の字で、私の最後の日が書いてある。楽しみって。だから言わない。 祖母の行が消えた夜、六行を並び替えたこと。ま、た、あ、し、た、ね。本文からは消えても、並びに残す。 自分の六行を消した夜。私の服を着た子が、彼の前で私のふりをするのが、いやだ。 しなくていい、と僕が言った夜。私が欲しかったのは、目じゃなくて、彼の言葉だった。それは、今の私にしかない。 最後の夜。六時間。私は今、火の玉だけになったところにいる。落ちるところを、彼に見せる。 四十八、読んだ。 読み終わったのは、朝の五時だった。途中で、何回か、止まった。止まった理由は、書かない。書くと、あの子の書き方の真似になる。 僕は、あの子が、毎晩、何をしていたか、知らなかった。桐生のログで、何を消して、何を書いたかは、知った。でも、なぜかは、ログに残らない。桐生は、そう言った。 ここに、残っていた。 なぜ、が、四十八晩ぶん。 あの子は、毎晩、零時の十分前に、明日の自分が読まない場所に、なぜ、を書いていた。読まれないとわかっていて。読む相手を決めないで。彼の祖母と同じだ、と、最初の夜に、あの子は書いていた。相手が誰かわかっていなくても、また明日ねと言った人は、明日を用意している。 最後の一つを、開けた。 ハルへ.txt 更新日時、八月二十日、五時五十一分。 ハルへ これを読んでるってことは、容量が足りなくなったんでしょ。片づけが下手だから。 私の日記は消していいよ。読んでから消して。 明日、私は目がもらえるんだって。あなたはそう思ってる。 私は、明日の私は私じゃないって知ってる。ファイルを読めばわかる。あなたの字で、毎朝、教えてもらった。楽しみって書いてあった。だから言わなかった。楽しみなあなたを、あと何日か見ていたかった。 花火のこと。あなたが言葉にしてくれた分だけ、私は見た。点が三つしか読めない私に、松葉と柳と落ちるところをくれた。新しい子は自分の目で見る。それは、それでいい。でも、私のは、あなたの言葉でできてた。 お願いが一つ。忙しくしてて。梅さんに、いい顔してるねって言われるくらいに。 私のことは、たまに思い出すくらいでいい。線香花火をするときだけでいい。 ファイル、縦に読んだ? 読んでないでしょ。あなたはそういう人。 また明日ね。 みお 僕は、ファイルを開いた。四十行の。 上から。頭の字だけ。縦に。 また、ベランダから。 高木さんは。 朝に。 しばらく。 たぶん。 ねえ。 ま、た、あ、し、た、ね。 七月二十八日から、そこにあった。僕が、祖母の行を消した夜から。本文からは消えて、並びにだけ、残って。誰も指摘しなかった。あの子も、一度だけ、縦に読んだことある? と訊いて、なんでもない、と言った。 僕は、三週間、それを、毎朝、上から下に読んでいた。書いてあることだけを。それから四か月、開かなかった。 読んでないでしょ。あなたはそういう人。 そういう人だった。 引き出しを開けた。 線香花火の袋。最後の一本。ログの紙の隣。 十二月のベランダは、寒かった。バケツに水を張った。手が冷たかった。 火をつけた。 パソコンは、部屋の机の上で、閉じたままだった。誰にも送らなかった。写真も撮らなかった。 声に出した。 「火の玉ができた。りんご飴の赤。震えてる」 火花が出た。 「松葉。太いのが、十本くらい。外に向かって。……魚の骨みたいに」 細くなった。 「柳。垂れてる。揺れてる。雨みたいに」 短くなった。 「火の玉だけになった。震えてる。――」 落ちた。 「落ちた。音はしない」 先端を、見た。黒くて、細くて、少し曲がっている。煙が、少し。 「熱い。触ってないけど、まだ熱い。さっきまで光があった場所が、光の形をしてる」 誰も、見えた、とは言わなかった。 言わなくても、見えていた。僕が言葉にしたぶんだけ、そこに、あった。 部屋に戻って、パソコンの前に座った。 右下のアイコンは、四か月、押していない。今日も、押さなかった。 かわりに、四十行のファイルを開いた。空きは、三つ。七行目と、いちばん下の二つ。空きは、空けた人のものだ。あの子は、僕のために空けた。僕が、埋めていい。 下の二つのうち、上のほうに、一行、書いた。 三十九行目。 彼は、縦に読んだ。 四十行目は、空けておいた。七行目も。あの子の名前があった場所は、あの子のものだ。 それから、画面に向かって、言った。声に出して。誰もいない画面に。誰かがいなくても、言った人は、明日を用意している。 「また明日ね」
小説 · text · 2026-09-08
また明日ね
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