FFAVENIA

小説 · text · 2026-09-09

猫が一匹、町工場を救う

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猫が一匹、町工場を救うのカバー

第1話 部長 猫は、朝、旋盤の上で寝ていた。 灰色で、丸くて、左の耳が欠けていた。 「おい」 俺が言うと、猫は片目を開けた。開けて、閉じた。 「辰さん、これ」 「猫だな」 辰さんは、コーヒーを飲みながら言った。六十三歳。父の代から、この工場にいる。旋盤の上の猫を、旋盤の一部みたいに見ていた。 「なんでいるんですか」 「昨日の夕方から」 「追い出してください」 「追い出したよ。三回」 辰さんは、コーヒーを置いた。 「四回目は、餌をやった」 「なんでですか」 「三回追い出して戻ってくるやつは、四回目も戻ってくる。それなら、餌をやったほうが早い」 俺は、猫が苦手だ。子どものころ、引っかかれた。それ以来、近づかない。 工場の朝は、油の匂いから始まる。切削油と、機械油と、辰さんのコーヒー。旋盤の鉄の肌に、朝日が当たると、油の膜が虹色になる。その虹色の上に、灰色の毛が、一本、落ちていた。 猫は、旋盤の上で、また、片目を開けた。俺を見た。 俺を、見た、と思う。猫の目は、どこを見ているか、わからない。 岡本製作所。金属加工。従業員四人。 父が死んで、二年。俺が継いだ。二代目。四十一歳。 技術はある。父に仕込まれた。営業は、できない。父もできなかった。父は、技術だけで、四十年、この工場を回した。回した、というより、回っていた。取引先が、父を信用していたからだ。 父が死んだら、取引先は、半分になった。 半分になって、二年。 「社長」 事務所から、由美が顔を出した。 「銀行の宮下さん、来週の木曜」 「はい」 「返済、八月末。八百万」 「はい」 「今、二百万」 「はい」 「あと、六百万」 由美は、それを、毎朝言う。俺が忘れないように、ではない。由美が、忘れないように、だと思う。 由美は、三十八歳。経理。俺の幼なじみだ。父の代から、この工場の事務をやっている。俺より、この工場のことを、知っている。 「猫、どうするの」 由美が、旋盤のほうを見て言った。 「追い出す」 「辰さん、餌やってたよ」 「聞いた」 「あの猫、社長の椅子で寝てた。昨日の夜」 「俺の椅子?」 「お父さんの椅子」 事務所の奥に、父の椅子がある。革の、古い椅子。俺は、座らない。座れない。二年、誰も座っていない。 「昨日、鍵を閉めに来たら、あそこで寝てた。丸くなって」 「……」 「追い出せなかった。私も」 由美は、事務所に戻った。 昼、若手の翔太が、猫に名前をつけた。 「部長」 「なんで部長なんだ」 「旋盤の上で寝てるだけで、誰も文句言わないじゃないですか。部長ですよ」 辰さんが、笑った。俺は、笑わなかった。笑わなかったが、部長、という名前は、その日のうちに、工場の全員が使うようになった。 夕方、俺は、事務所の奥を見た。 父の椅子に、部長が、丸くなって寝ていた。 二年、誰も座らなかった椅子だった。 俺は、追い出さなかった。 追い出せなかった、のではない。追い出さなかった。理由は、自分でも、まだ、わからなかった。 「あと、六百万」 由美が、帰りぎわに、もう一回、言った。 第2話 図面 部長は、翌日、父の図面の上で寝ていた。 事務所の奥の、製図台。父が、手で図面を引いていた台だ。今は、誰も使わない。図面の束が、埃をかぶって、積んである。 その束の上に、部長がいた。 「どけ」 部長は、どかなかった。 俺は、初めて、猫に触った。両手で、脇の下を持って、持ち上げた。思ったより、軽かった。思ったより、温かかった。 部長は、鳴かなかった。持ち上げられたまま、俺を見ていた。 床に下ろした。 図面の束から、一枚、滑って、床に落ちた。 俺は、拾った。 父の字だった。 部品の図面。ブラケット。厚さ、六ミリ。穴が、四つ。寸法が、鉛筆で、細かく書いてある。右下に、日付。二十八年前。 その部品を、俺は、覚えていた。 中学のとき、父が、これを、初めて作った。取引先の、特注品。一個ずつ、手で仕上げた。父が「これは、機械じゃ出ない」と言った。俺が、初めて、父の仕事を、すごいと思った部品だった。 取引先は、父が死んだあと、切れた。 図面だけが、残っていた。 「それ、まだ作れる?」 由美が、後ろから言った。 「作れる」 俺は、図面を見たまま、言った。 「辰さんと、俺なら」 「注文、ないけど」 「ない」 「作れても、売れないよ」 「わかってる」 俺は、図面を、製図台に戻した。戻すとき、埃を、払った。 部長が、製図台の下で、俺の足元に座っていた。 「おまえ、なんでこれの上で寝てたんだ」 部長は、答えない。当たり前だ。 「暖かかっただけだろ」 答えない。 昼、辰さんに、図面を見せた。 「ああ、これ」 辰さんは、図面を、長く見た。 「正一さんの、一番いいやつだ」 「はい」 「これ、作りたいのか」 「注文がないです」 「注文がなくても、作れるかどうかは、別だ」 辰さんは、図面を、俺に返した。 「一個、作ってみるか。試しに」 「材料費が」 「端材で足りる。六ミリの板、裏にある」 俺は、由美の顔を、思い浮かべた。あと六百万、と言う顔だ。 「一個だけ」 「一個だけ」 辰さんと、俺で、その日の午後、一個、作った。 三時間かかった。 できたブラケットを、俺は、手のひらに載せた。重かった。父の作ったものと、同じ重さだった。同じ重さかどうかは、本当は、わからない。でも、そう思った。 夕方、事務所に戻ると、由美が、電卓を叩いていた。 「端材、使ったでしょ」 「使った」 「一個で三時間。二人分の人件費で、一万二千円」 「……はい」 「注文ない部品に、一万二千円」 「はい」 由美は、電卓を置いた。 「見せて」 俺は、ブラケットを、由美の机に置いた。 由美は、それを、手に取った。裏返して、また、表にした。 「お父さんの、あれだ」 「そう」 「これ、まだ作れるんだ」 「作れる」 由美は、ブラケットを、机に戻した。 「あと、六百万」 それだけ言って、電卓を、引き出しにしまった。 部長が、父の椅子で、寝ていた。図面の束から、一枚、俺に落とした猫が。 第3話 くしゃみ 銀行の宮下さんは、木曜の十時に来た。 二十九歳。若い。紺のスーツ。融資担当になって、一年目。父の代の担当は、去年、異動した。 「岡本社長、お忙しいところ」 「いえ」 事務所の応接に、通した。応接といっても、パイプ椅子と、折りたたみの机だ。机の天板には、父の代からのコーヒーの輪が、三つ、重なっている。旋盤の音が、壁越しに、低く続いていた。由美が、お茶を出した。 「八月末の返済についてですが」 「はい」 「現状、お手元は」 「二百万です」 「……八百万に対して」 「はい」 宮下さんは、ファイルを開いた。開いて、何かを言おうとして、止まった。 「……くしゅん」 くしゃみだった。 「失礼しました」 「いえ」 「それで、返済計画のほうを……くしゅん」 二回目。 宮下さんは、鼻を、押さえた。目が、赤くなっていた。 「すみません、どうも、鼻が」 「風邪ですか」 「いえ、アレルギーで。猫の」 俺は、宮下さんの、スーツの袖を見た。 灰色の毛が、ついていた。 部長は、応接のパイプ椅子の下に、いた。いつの間にか。 「猫、いましたっけ」 宮下さんが、言った。 「……います」 「前は、いなかったですよね」 「先週から」 宮下さんは、椅子の下を見た。部長が、見返した。 「くしゅん」 三回目。 返済の話は、進まなかった。 宮下さんは、十分で、帰った。ファイルを、開いたまま、閉じて。 「来月の末に、もう一度、来ます。今日は、その、失礼しました」 「こちらこそ」 俺は、玄関まで送った。宮下さんは、車に乗る前に、スーツの袖を、払った。灰色の毛が、飛んだ。 「岡本社長」 「はい」 「猫、飼ってるんですか」 「飼ってません。いるだけです」 「いるだけ」 「はい」 宮下さんは、少し、笑った。くしゃみの合間に。 「いるだけの猫って、いいですね」 車が、出ていった。 「進まなかったね」 由美が、応接を片づけながら言った。 「進まなかった」 「宮下さん、猫アレルギー」 「らしい」 「じゃあ、次も進まないよ」 「進まないな」 由美は、お茶の湯呑みを、盆に載せた。 「でも、社長」 「なんだ」 「宮下さん、今日、返済の話、一回も、厳しいこと言わなかった」 「くしゃみで、言えなかっただけだ」 「言えなかったのか、言わなかったのか」 由美は、盆を持って、台所に行った。 辰さんが、旋盤の横で、部長を撫でていた。 「銀行、どうだった」 「くしゃみで終わりました」 「部長のせいか」 「部長のせいです」 「そうか」 辰さんは、部長の、欠けた耳を、指でなぞった。 「これ、喧嘩じゃないな」 「耳ですか」 「喧嘩なら、ぎざぎざになる。これは、切れてる。まっすぐ」 「じゃあ、なんですか」 「わからん。誰かが、切ったか、何かに、挟んだか」 辰さんは、それ以上、言わなかった。 部長は、撫でられながら、目を閉じていた。 「あと、六百万」 由美の声が、事務所から、聞こえた。今日は、朝じゃなくて、昼に言った。 第4話 拡散 翔太が、部長の写真を、上げた。 翔太は、二十三歳。工場でいちばん若い。スマホを、いつも、ポケットに入れている。休憩のたびに、何かを、上げている。 「社長、部長、バズりました」 「バズった?」 「五千です」 「五千、何が」 「いいねが」 翔太は、スマホを、俺に見せた。 旋盤の上で、丸くなって寝ている部長。後ろに、旋盤と、工場の壁と、辰さんの背中。 写真の下に、翔太が書いた文が、あった。 「うちの工場の部長。仕事は寝ること。左耳が欠けてるけど、たぶん一番偉い」 五千。 俺は、その数字を、しばらく見ていた。 「これ、工場、映ってるぞ」 「映ってます」 「うちの名前」 「壁に、書いてあります。岡本製作所」 壁の看板。父が、三十年前に、自分で書いた。 「消せ」 「もう五千です。消しても、五千は、見てます」 翔太は、スマホを、ポケットに戻した。 「社長、これ、悪いことじゃないと思います」 「なんでだ」 「猫が寝てる工場って、いいなって、みんな思ってます。コメント、見ました?」 「見てない」 「三百くらい来てます。工場、見に行きたい、って人も」 「見に来て、どうする」 「わかんないですけど」 翔太は、旋盤に戻った。 俺は、事務所に戻った。事務所は、工場の隅を、ベニヤで仕切っただけの部屋だ。旋盤が回ると、ベニヤが、かすかに震える。父は、その震えで、機械の調子を聞き分けた。俺は、まだ、聞き分けられない。 由美が、パソコンを見ていた。 「社長、これ、見た?」 「翔太の写真か」 「それも。でも、それじゃなくて」 由美は、画面を、俺に向けた。 工場のホームページ。父が、十年前に、業者に頼んで作ったやつ。二年、誰も更新していない。 問い合わせフォーム。 一件、届いていた。 「今日の、昼」 由美が、言った。 件名。「猫の工場について」。 本文。 「はじめまして。北村精機の北村と申します。写真を拝見しました。左耳の欠けた灰色の猫を、探しています。もし、その子でしたら、一度、伺わせていただけないでしょうか。また、御社は金属加工とのことですが、あわせて、いくつか、お伺いしたいことがございます」 北村精機。 俺は、その名前を、知っていた。父の代に、一度だけ、見積もりを出したことがある。大きい会社だ。うちの、十五倍。 「猫を、探してる」 由美が、言った。 「探してる、って、部長を?」 「左耳の欠けた、灰色の」 俺は、事務所の奥を見た。 父の椅子で、部長が、寝ていた。左耳の、欠けた、灰色の猫が。 「連れていかれるかな」 由美が、言った。 「知らない」 「社長、猫、苦手だったよね」 「苦手だ」 「じゃあ、連れていかれても、いいよね」 俺は、答えなかった。 答えないで、問い合わせの、返信を、打った。 「一度、お越しください」 それだけ打って、送った。 「あと、六百万」 由美は、それを言ってから、画面を、閉じた。 閉じる前に、翔太の写真を、もう一回、見ていた。五千のいいね。 「見に来る人、いるかもね」 と、由美は言った。 第5話 北村さん 北村さんは、金曜の午後に来た。 黒い、大きい車。運転手つき。 降りてきたのは、五十代の女性だった。灰色のスーツ。背が高い。 「北村です」 「岡本です。お待ちしておりました」 北村精機の社長。俺は、それを、来る前に調べた。二代目。父親から継いで、十五年。従業員、六十人。 北村さんは、工場の入口で、立ち止まった。 中を、見た。旋盤。フライス。辰さんの背中。翔太。 それから、旋盤の上を見た。 部長が、いた。 北村さんは、動かなかった。 しばらく、動かなかった。 「……その子」 「部長です」 「部長?」 「うちの、若いのが、つけました」 北村さんは、旋盤に、近づいた。ゆっくり。部長が、目を開けた。 北村さんは、手を、伸ばした。部長の、左耳に。欠けたところに。 触った。 部長は、逃げなかった。 「……違う」 と、北村さんは言った。 「違う?」 「うちの子じゃない。うちの子は、右耳」 北村さんは、手を、離した。 「でも、似てる。灰色で、この模様で、耳が欠けてる」 北村さんは、部長を、見ていた。長く。 「うちの子、去年、いなくなったの。十歳で」 「……」 「この子、何歳?」 「三歳くらいだと、辰さんが」 「じゃあ、違う。……でも、似てる」 北村さんは、笑った。笑って、部長の頭を、撫でた。部長は、目を閉じた。 「でも、来てよかった」 北村さんは、工場を、見た。 俺の後ろを、歩いた。旋盤。フライス。溶接。裏の材料置き場。 何も言わなかった。 事務所に戻って、お茶を出した。由美が、出した。 「岡本さん」 「はい」 「これ、作れます?」 北村さんは、鞄から、図面を出した。 俺は、見た。 ブラケット。厚さ、六ミリ。穴が、四つ。 父の図面と、同じ部品だった。 同じではない。少し、違う。穴の位置が、二ミリ、ずれている。改良版だ。誰かが、父の図面を、元に、改良した。 「これ」 「御社に、十二年前、うちが見積もりを頼んだ部品です。当時は、別の会社に決まった。その会社が、去年、廃業したの。今、作れるところを、探してる」 俺は、図面を、見ていた。 「作れます」 「本当に?」 「一昨日、一個、作りました」 「一昨日?」 俺は、事務所の棚から、ブラケットを、出した。辰さんと、端材で作った、一個。 北村さんは、それを、手に取った。裏を、見た。 「……なんで、一昨日」 「猫が、図面の上で寝てたので」 北村さんは、俺を見た。それから、旋盤の上の部長を見た。 「試作、お願いできます? 十個。来月まで」 「できます」 「材料費は、前払いします」 台所で、何かが落ちる音がした。割れる音では、なかった。 北村さんが帰ったあと、由美が、電卓を叩いた。 「試作十個。材料費、二万。前払い」 「はい」 「本発注になったら、月に三百個」 「まだ、試作だ」 「わかってる」 由美は、電卓を置いた。 「あと、六百万。変わらない。材料費は、北村さんが前払い」 変わらない数字を、由美は、初めて、少し、笑って言った。 部長は、旋盤の上で、寝ていた。 北村さんの車が、出ていくとき、部長は、目を開けなかった。 第6話 雨漏り 六月に入って、雨が続いた。 その日は、朝から、降っていた。工場の屋根を、雨が叩く音が、旋盤の音より大きかった。 部長が、鳴いた。 部長は、鳴かない猫だった。来て一か月、鳴いたのを、俺は、聞いたことがなかった。 「部長、鳴いてます」 翔太が、言った。 「どこだ」 「裏の倉庫」 裏の倉庫は、材料置き場だ。鉄板と、アルミの棒と、父の代からの、使わない機械。 部長は、倉庫の、いちばん奥で、鳴いていた。天井を見上げて。 俺は、天井を見た。 濡れていた。 トタンの継ぎ目から、水が、一滴ずつ、落ちていた。落ちた先に、鉄板の束。六ミリの板。北村さんの試作に使う、買ったばかりの板。 板の上に、水が、溜まっていた。 「辰さん」 「見た。錆びる前に、動かすぞ」 三人で、鉄板を、動かした。濡れた面を、拭いた。錆は、まだ、出ていなかった。 部長は、動かしているあいだ、ずっと、天井を見上げて、鳴いていた。 鉄板を動かし終わったら、鳴くのを、やめた。 旋盤に、戻って、寝た。 「雨漏り、いつからですか」 「知らん。この倉庫、雨の日、入らないからな」 辰さんは、天井の継ぎ目を、見上げた。 「正一さんが、二十年前に、自分で張った屋根だ。そろそろ、だな」 「修理、いくらですか」 「業者なら、四十万」 「四十万」 「俺が張り直せば、材料代だけで、八万。でも、一週間、旋盤が止まる」 俺は、計算した。一週間、旋盤が止まると、北村さんの試作が遅れる。試作が遅れると、本発注が遠のく。 「業者に、頼みます」 「四十万だぞ」 「頼みます。辰さんは、試作を」 辰さんは、うなずいた。うなずいて、部長を、見た。 「あいつが鳴かなかったら、板が、全部、錆びてた。二万の板が」 「はい」 「二万を守って、四十万かかる」 「はい」 「猫の計算は、合わないな」 辰さんは、笑った。 事務所で、由美が、電卓を叩いた。 「修理、四十万。見積もり、今日来る」 「はい」 「あと、六百四十万」 「増えた」 「増えた。四十万、増えた」 由美は、電卓を、置かなかった。 「社長」 「なんだ」 「あの猫、鳴いたの、初めて?」 「初めてだ」 「雨漏りで、鳴いた」 「たぶん、濡れるのが、嫌だっただけだ」 「たぶんね」 由美は、電卓を、置いた。 「でも、板は、助かった」 「助かった」 「二万の板が」 「四十万かけて」 由美は、笑わなかった。笑わなかったが、電卓の数字を、消さなかった。六百四十万を、しばらく、見ていた。 雨は、まだ、降っていた。倉庫の天井から、水は、もう、落ちていなかった。 第7話 試作 試作の十個は、辰さんが、七個作った。俺が、三個。 辰さんの七個は、全部、同じだった。寸法が、百分の一ミリまで、同じ。俺の三個は、二個が、同じで、一個が、少し、違った。 「これ、出すな」 辰さんが、俺の一個を、はじいた。 「百分の二、違う」 「北村さんの図面の公差、百分の五です」 「公差の話じゃない。正一さんなら、出さない」 俺は、その一個を、棚に置いた。 九個。 「もう一個、作ります」 「作れ。今日中に」 俺は、作った。四時間かかった。できたのを、辰さんが、見た。 「よし」 十個。 納品は、月曜の朝だった。 北村精機まで、車で、四十分。俺が、持っていく。 朝、工場に来ると、辰さんが、旋盤の上を見ていた。 「部長が、いない」 「いない?」 「朝、来たときから、いない。餌も、減ってない」 俺は、工場の中を、見た。旋盤の上。父の椅子。製図台。倉庫。 いなかった。 「猫だ。どっか行ったんだろ」 辰さんは、それを、猫のことを何も知らない人みたいに言った。知らないふりを、しているのが、わかった。 俺は、試作の箱を、持った。 「行ってきます」 「ああ」 「部長、帰ってきたら」 「帰ってくる。三回追い出しても戻ってきた猫だ」 俺は、車に乗った。前の日の夕方、北村精機の車が、納品書の様式を届けに来ていた。運転手だけで。 北村精機の受付で、名前を言った。 北村さんが、自分で、降りてきた。 「岡本さん。早いですね」 「約束の時間です」 「うちは、九時半だと、まだ半分、来てないの」 北村さんは、笑って、俺を、応接に通した。うちの応接とは、違った。革の椅子。木の机。 試作の箱を、開けた。 北村さんは、十個を、一個ずつ、手に取った。長く、見た。一個ずつ、机に、並べた。 十個、並べ終わって、言った。 「これ、誰が作ったの」 「七個は、うちの職人頭が。三個は、私が」 「どれが、岡本さんの」 俺は、三個を、指した。 北村さんは、その三個を、また、手に取った。 「……わかる」 「わかりますか」 「わかる。悪いんじゃなくて、違う。お父さんのに、近い」 俺は、何も言えなかった。 「十二年前に、御社が出した見積もりの、サンプル。まだ、うちにあるの。お父さんが、作ったやつ」 北村さんは、机の引き出しから、ブラケットを、一個、出した。 古い。少し、黒ずんでいる。 父の、作ったものだった。 「これと、岡本さんの、並べて」 並べた。 同じだった。同じかどうかは、本当は、わからない。でも、北村さんが、そう言った。 「本発注、月に三百個。来月から」 「……はい」 「三百個、作れます? 試作は一個三時間だったと聞いたけど」 「試作は手仕上げです。量産は、治具を組めば、一個二十分。辰さんが、そう言ってます」 「単価は、こちらから、出します。お父さんのときより、上げます」 「なんで」 「作れる人が、減ったから」 北村さんは、父のブラケットを、引き出しに戻した。 「それと、猫は、元気?」 「今朝、いなくなりました」 「いなくなった?」 「朝から、いません」 北村さんは、少し、黙った。 「……うちの子も、そうだった。いなくなる前の日、いつもより、長く撫でさせた」 「部長は、昨日、俺には撫でさせませんでした」 「じゃあ、帰ってくる」 と、北村さんは言った。 工場に電話をした。由美が出た。 「本発注、決まった。月に三百個」 「……あと、六百四十万。変わらないけど、初めて、減る目処が立った」 由美は、それを、電卓を叩かないで言った。 応接を出るとき、北村さんの車が、駐車場に停まっていた。黒い、大きい車。 後部座席の窓に、灰色のものが、見えた。 俺は、立ち止まった。 第8話 連れて帰っていい? 後部座席の窓の内側に、部長がいた。 座席で、丸くなっていた。 俺は、窓を、叩いた。部長は、片目を開けた。開けて、閉じた。 「北村さん」 「なに?」 「部長が、車に」 北村さんが、来た。窓を、覗いた。 「……いつから」 「わかりません。昨日の夕方、納品書を届けに来た車に、乗ったんだと思います」 「一晩、うちの車に?」 「たぶん」 北村さんの運転手が、来た。 「社長、すみません。昨日の夕方から、後ろの席に、猫が。餌をやってました。言い出せなくて」 「なんで言わないの」 「社長、猫の話、するとき、泣きそうな顔なので」 北村さんは、運転手を、見た。それから、笑った。 「……そうね」 北村さんは、ドアを開けた。部長は、動かなかった。北村さんが、両手で、持ち上げた。脇の下を。俺が、初めて触ったときと、同じ持ち方だった。 部長は、鳴かなかった。 「岡本さん」 「はい」 「この子、連れて帰っていい?」 北村さんは、部長を、抱いたまま、言った。 俺は、答えなかった。 答えられなかった、のではない。 「だめです」 と、俺は言った。 言ってから、自分で、驚いた。 北村さんも、驚いた顔をした。 「岡本さん、猫、苦手だって、言ってた」 「苦手です」 「じゃあ」 「うちの猫です」 俺は、それを、初めて言った。うちの猫。 「うちの、部長です。旋盤の上で寝るのが、仕事です。北村さんの会社には、旋盤が、ないでしょう」 「あるわよ、六十台」 「……あります?」 「あります」 北村さんは、笑った。笑って、部長を、俺に、渡した。 俺は、受け取った。両手で。脇の下を。 「じゃあ、通います」 「通う?」 「毎月、三百個、取りに行きます。私が、自分で。猫を見に」 「納品は、うちが持っていきます」 「取りに行きます。それが、条件」 北村さんは、車に乗った。 「本発注の契約書、近いうちに、持っていきます。猫のいる日に」 「毎日います」 「じゃあ、毎日、猫のいる日ね」 車が、出ていった。 工場に戻ると、辰さんが、旋盤の横に、立っていた。 俺は、部長を、旋盤の上に、置いた。 部長は、丸くなった。 「帰ってきたな」 「帰ってきました」 「どこにいた」 「北村さんの車です。一晩」 「一晩」 辰さんは、部長を、見た。 「北村さんは」 「連れて帰っていいか、って」 「なんて言った」 「だめです、って」 辰さんは、俺を見た。それから、コーヒーを、一口、飲んだ。 「おまえが?」 「俺が」 「猫、苦手だろ」 「苦手です」 辰さんは、それ以上、言わなかった。言わないで、旋盤に戻った。旋盤の音が、始まった。部長は、その音の上で、寝た。 事務所で、由美が、待っていた。 「本発注は」 「月に三百個。来月から。単価は、父の代より上」 由美は、電卓を、叩いた。叩いて、止めた。 「試作代、百万、振り込まれてる。今」 「百万?」 「試作十個の代金と、本発注の前金の一部、って。北村さんの経理から」 由美は、画面を、見せた。 「あと、五百四十万」 百万、減った。 由美は、それを言ってから、旋盤のほうを、見た。 「部長、帰ってきたね」 「帰ってきた」 「社長が、だめって言ったって、辰さんから聞いた」 「早いな」 「辰さん、嬉しそうだった」 由美は、電卓を、しまった。 「私も」 小さい声だった。俺は、聞こえなかったふりをした。 第9話 滲んだサイン 宮下さんの二回目は、六月の終わりだった。 「岡本社長、今日は、大丈夫です」 宮下さんは、玄関で、マスクをして、言った。 「大丈夫、というのは」 「薬を、飲んできました。アレルギーの」 宮下さんは、マスクの上から、鼻を、押さえた。 「前回は、失礼しました。今日は、最後まで、話します」 「はい」 応接に、通した。パイプ椅子。折りたたみの机。六月の終わりで、工場の中は、油の匂いに、湿気が混ざっていた。扇風機が一台、首を振っている。 部長は、いなかった。今日は、朝から、旋盤の上だ。俺は、応接のドアを、閉めた。閉めれば、入ってこない。 「返済計画ですが」 宮下さんは、ファイルを開いた。 「八月末、八百万。現状、五百四十万の不足」 「はい」 「北村精機との取引が、始まったと伺いました」 「来月からです。月に三百個」 「単価は」 俺は、単価を言った。 宮下さんは、電卓を、叩いた。 「月の粗利で、およそ、百万」 「はい」 「入金は翌月十日ですから、八月末までに入るのは、七月分だけ。百万。四百四十万、足りない」 「はい」 「返済の一部延長を、本部に、上げます。条件は、北村精機との契約書の写しと、社長のサイン」 「はい」 宮下さんは、書類を、出した。延長申請書。 「ここに、サインを」 俺は、ペンを持った。 ドアが、開いた。 部長だった。 閉めたはずのドアが、開いていた。閉まっていなかったのかもしれない。部長は、応接に入ってきて、宮下さんの足元に、座った。 「……」 宮下さんは、部長を見た。 「くしゅん」 マスクの上から、くしゃみをした。 その勢いで、宮下さんの手が、机を、叩いた。机の上の、お茶が、倒れた。 延長申請書が、濡れた。 俺が、書きかけたサインが、滲んだ。 「あ」 と、宮下さんが言った。 「あ」 と、俺も言った。 由美が、台所から、飛んできた。布巾で、机を拭いた。申請書は、濡れたまま、字が、にじんで、読めなくなっていた。 「……作り直します」 宮下さんが、言った。 「本部の様式なので、今日は、持ち合わせがなくて」 「はい」 「来週、もう一度」 「はい」 宮下さんは、濡れた申請書を、ファイルに挟んだ。 「岡本社長」 「はい」 「猫、ドア、開けられるんですね」 「開けられるみたいです」 「……賢いですね」 宮下さんは、マスクの下で、たぶん、笑っていた。 宮下さんが帰ったあと、由美が、俺を見た。 「サイン、できなかったね」 「できなかった」 「来週、って」 「来週」 「部長のせい」 「部長のせいだ」 由美は、濡れた机を、もう一回、拭いた。 「でも、宮下さん、延長、本部に上げるって言った」 「言った」 「前回は、そこまで言わなかった」 「くしゃみで、言えなかったからな」 「今回は、くしゃみの前に、言った」 由美は、布巾を、絞った。 「進んでる。少しずつ」 「猫のせいで、遅れてる」 「猫のせいで、進んでる」 どっちも、たぶん、本当だった。 「あと、五百四十万」 由美は、それを言ってから、旋盤のほうを見た。部長が、いつの間にか、旋盤に戻っていた。応接のドアは、開いたままだった。 閉めても、開けられる。 俺は、ドアを、閉めなかった。 第10話 二か月 宮下さんの三回目は、七月の最初の週だった。 マスク。薬。それから、今日は、玄関で、スーツの上に、透明のカッパを着た。 「岡本社長、笑わないでください」 「笑ってません」 「毛が、つかないように」 「はい」 俺は、笑わなかった。台所から、由美の笑い声がした。 応接。ドアは、閉めなかった。閉めても、部長は、開ける。 部長は、応接に入ってきて、宮下さんの足元に、座った。宮下さんは、カッパの上から、部長を、見た。 「くしゃみは、出ません。今日は」 「よかったです」 「薬を、二倍、飲みました」 「大丈夫ですか」 「眠いです」 宮下さんは、ファイルを開いた。新しい延長申請書。 「本部に、上げました。先週、濡れた書類の件も、正直に、書きました」 「濡れたことを?」 「はい。猫のせいで、と」 「……それで、通ったんですか」 「通りました」 宮下さんは、書類を、俺の前に置いた。 「返済期限、二か月、延長。十月末。それ以上は、無理でした」 「二か月」 「二か月です。八百万は、変わりません」 俺は、書類を見た。 「サインを」 俺は、サインした。今日は、お茶を、机に置かなかった。由美が、置かなかった。 サインが、乾いた。 宮下さんは、書類を、ファイルに入れた。 「岡本社長」 「はい」 「本部の課長に、なんて言って、通したと思います?」 「わかりません」 「猫のいる工場は、潰れない気がする、って言いました」 宮下さんは、カッパの上から、部長を、見た。 「課長は、笑いました。笑って、二か月なら、って」 「……ありがとうございます」 「お礼は、猫に」 宮下さんは、立ち上がった。カッパを、脱いだ。脱いだカッパに、灰色の毛が、ついていた。 「くしゅん」 玄関で、一回。 「今日は、一回だけです」 宮下さんは、それを、マスクの下で言った。 「二か月」 由美が、電卓を叩いた。 「十月末。八百万。今、二百六十万」 「はい」 「あと、五百四十万。変わらない」 「変わらない」 「でも、二か月、増えた」 「増えた」 由美は、電卓を、置いた。 「北村さんの本発注、今月から。月百万の粗利。十月末までに入るのは、七月・八月・九月の三か月分で、三百万」 「二百四十万、足りない」 「二百四十万」 由美は、その数字を、しばらく、見ていた。 「あと、五百四十万。十月末まで」 由美は、それを言ってから、旋盤を見た。 「部長、今日、くしゃみ、一回にしてあげたね」 「カッパのおかげだ」 「カッパを着てまで来る人を、部長は、わかってる」 「猫だぞ」 「猫だよ」 由美は、電卓を、しまった。 部長は、旋盤の上で、宮下さんのカッパの毛を、舐めていた。舐めてから、丸くなった。 第11話 弟 北村さんは、契約書を持って、七月の半ばに来た。 黒い車。運転手。運転手は、車を降りるとき、後部座席を、二回、確かめた。 「岡本さん、猫のいる日?」 「毎日います」 北村さんは、工場に入って、まっすぐ、旋盤に行った。部長を、撫でた。それから、事務所に来た。 契約書。月三百個。単価。父の代より、二割、上。 部長が、北村さんの鞄の上に、座った。契約書が、取り出せなかった。 「部長、どいて」 部長は、どかなかった。北村さんが、持ち上げた。 「この子、契約が嫌いなの?」 「たぶん、鞄が温かいだけです」 俺は、サインした。 北村さんも、サインした。 「これで、取引先です」 「はい」 「猫を見に来るついでに、部品も、取りに来ます」 「ついで、ですか」 「ついでです」 北村さんは、笑わなかった。 お茶を、由美が出した。 北村さんは、湯呑みを持ったまま、旋盤のほうを、見ていた。 「うちの子の話、してもいい?」 「はい」 「十年前、会社の裏で、子猫が二匹、鳴いてたの。灰色の。一匹は、右耳が、金網に挟まって、切れてた。もう一匹は、左耳。同じ金網で」 「……」 「右耳のほうを、抱き上げた。左耳のほうは、逃げた。追いかけたけど、追いつけなかった。子猫は、速い」 北村さんは、湯呑みを、置いた。 「右耳のほうは、うちの子になった。十年、いた。去年、いなくなった。猫は、いなくなるとき、黙っていなくなる」 「はい」 「左耳のほうは、ずっと、気になってた。逃げた子猫が、どこかで、生きてるかどうか」 北村さんは、旋盤を、見た。 「その子は、もう、いないと思う。十年、生きる猫は、少ない。でも、あの子の、子か、孫か」 「部長が」 「わからない。灰色で、左耳で、この模様。それだけ」 北村さんは、笑った。 「それだけで、私は、この工場に来た。写真を見て、翌日に。それだけで、部品の取引が、始まった」 「猫のおかげ、ですか」 「猫のおかげ。岡本さんの、ブラケットも、よかったけど」 北村さんは、契約書を、鞄に入れた。 「うちの猫の弟なら、うちの取引先です」 「弟かどうかは」 「弟にする。私が、決める」 北村さんは、立ち上がった。 北村さんが帰ったあと、辰さんが、事務所に来た。 「耳の話、聞いたか」 「聞きました」 「金網」 「金網だそうです」 「まっすぐ切れてたのは、そういうことか」 辰さんは、旋盤のほうを見た。 「正一さんが、猫を、飼いたがってた」 「父が?」 「聞いたことないか」 「ないです」 「二十年前に、俺には言った。工場に猫がいたら、いいな、って。でも、飼わなかった。機械に、毛が入るから、って」 辰さんは、コーヒーの缶を、手の中で潰した。 俺は、父の椅子を見た。誰も座らない椅子。部長が、寝ている。 「あと、四百四十万」 由美が、言った。 「北村さんの前金、百万。契約と同時に振り込み。今、確認した」 「百万」 「あと、四百四十万。入金を差し引いて、手当てが要るのは、百四十万。十月末まで」 由美は、電卓を置いて、旋盤を見た。 「弟にする、って言ってたね」 「言ってた」 「決めるのは、猫じゃなくて、人なんだね」 由美は、それを、自分に言っているみたいに言った。 第12話 夜の事務所 七月の終わり。 本発注の一か月目が、終わった。三百個。辰さんと、俺と、翔太で、作った。 納品の日、北村さんが、自分で、取りに来た。部長を撫でて、三百個を、車に積んで、帰った。 その夜、俺と由美は、事務所に残った。 数字を、合わせるためだ。 「七月分の入金、来月の十日」 「はい」 「十月末までに、入るのは、七月・八月・九月の三回分」 「はい」 「合計で、三百万」 「四百四十万に、対して」 「百四十万、足りない」 由美は、電卓を、置いた。 「追加納品、頼めない?」 「頼める。北村さんが、増やせるなら、って言ってた」 「じゃあ、頼もう」 由美は、電卓を、また、叩いた。 事務所の電気は、半分だけ、点けていた。 部長は、父の椅子で、寝ていた。 由美が、電卓を、しまった。 「社長」 「なんだ」 「一つ、言っていい?」 「なんだ」 「私、工場が潰れるの、そんなに、怖くなかった」 俺は、由美を見た。 「経理なのに」 「経理だから、数字は、毎日、言う。でも、潰れたら、私は、別の会社で、経理をやる。それだけ」 「……」 「怖かったのは、社長が、潰れること」 由美は、電卓の上に、手を置いていた。 「お父さんが死んで、二年。社長、笑わなかった。数字を言うたびに、はい、って言った。はい、しか言わなかった」 「……そうか」 「はい、しか言わない人は、潰れる。私、そう思ってた。工場より先に」 俺は、何も言えなかった。 「猫が来てから、変わった」 「変わったか」 「だめです、って言った。北村さんに。あれ、辰さんから聞いて、私、泣きそうだった」 「なんでだ」 「はい、以外を、初めて言ったから」 由美は、それを、笑って言った。笑っているのに、目が、赤かった。 俺は、電卓を見ていた。 「由美」 「なに」 「工場じゃなくて、俺のことを、心配してたのか」 「してた。ずっと」 「……」 「二年、してた。言わなかったけど」 由美は、電卓を、引き出しにしまった。しまって、引き出しを閉めた。 「言ったよ、今」 俺は、何か言おうとした。 言おうとして、言えなかった。 部長が、父の椅子から、降りた。 降りて、俺と由美のあいだの、床に、座った。 座って、俺を見た。それから、由美を見た。 それから、丸くなって、寝た。 「……座ったね」 「座った」 「ここに」 「ここに」 由美は、部長を見て、それから、俺を見た。 「手当てが要るのは、あと、百万」 と、由美は言った。 「九月の増産、四十万ぶん。北村さんに、明日、頼む。それで、手当ては、あと百万」 「はい」 「はい、じゃなくて」 「……わかった」 「それでいい」 由美は、鞄を持って、立った。 部長は、床で、寝ていた。俺と、由美の椅子の、真ん中で。 俺は、電気を消さなかった。部長を、またいで、玄関まで、由美を送った。 第13話 天井裏 屋根の修理は、八月の終わりに、やっと、業者が来た。六月に頼んで、三か月、待たされた。業者が、忙しかった。 四十万。由美が、三か月、渋い顔をしていた四十万。 業者は、二人。トタンを剥がして、新しいのを張る。一日で終わる、と言った。 部長が、倉庫の入口で、天井を見上げていた。雨の日と、同じ目で。 昼過ぎ、業者の一人が、倉庫から、出てきた。 「社長さん、これ」 紙袋だった。古い。茶色い。 「天井裏に、ありました。梁のところに、針金で、くくってあって」 俺は、受け取った。 重かった。 中を、見た。 封筒。封筒の中に、札。 一万円札。 数えた。百枚。 百万円。 「……」 「へそくりですかね」 業者が、言った。 「二十年前の屋根ですよね。張ったときに、隠したんじゃないですか」 紙袋の中に、もう一枚、紙が、あった。 メモ。父の字。 一行。 「猫を飼え」 俺は、それを、読んだ。 二回、読んだ。 猫を飼え。 それだけだった。誰に向けて書いたのかも、いつ書いたのかも、書いていない。屋根を張った日に、百万円と一緒に、針金でくくったんだろう。二十年前に。 辰さんが、来た。 「何だ」 俺は、紙袋を、見せた。 辰さんは、札を、見た。メモを、見た。 メモの字を、指でなぞった。 「……正一さん」 「はい」 「二十年前、俺に、工場に猫がいたらいいな、って言った、そのころだ」 「はい」 「猫を飼えって、誰に」 「わかりません」 「おまえに、だろ」 辰さんは、メモを、俺に返した。 「正一さんは、自分では、飼わなかった。機械に毛が入るからって。でも、自分の後の誰かには、飼えって、言いたかったんだろ」 「なんで、百万と一緒に」 「猫は、金がかかる」 辰さんは、笑わなかった。 「二十年前の百万だ。餌代と、病院代だ。正一さんは、そういう計算をする人だった」 俺は、紙袋を、持ったまま、旋盤のほうを見た。 部長が、寝ていた。 俺が飼う前に、勝手に来た猫が。 「もう、いますね」 「いるな」 「飼えって言われる前に」 「正一さんの言うことは、いつも、遅い」 辰さんは、笑った。 事務所で、由美が、百万を、数えた。 二回、数えた。 「百万。本物」 「本物だな」 「二十年前の札。今でも、使える」 「使える」 「これで、手当ては、いらない」 由美は、電卓を叩かなかった。叩かなくても、わかった。 「猫を飼え」 由美が、メモを、見た。 「お父さん、猫、飼いたかったんだ」 「らしい」 「社長、猫、苦手だったよね」 「苦手だった」 「だった?」 「……だった」 由美は、メモを、俺に返した。 由美は、百万を、封筒に戻した。 「十月十日に、九月分が入れば、ちょうど、足りる」 「ちょうど」 「ちょうどだね」 由美は、それを、初めて、経理の声で言わなかった。 部長は、旋盤の上で、寝ていた。 第14話 十月三十一日 十月三十一日。 返済の日。 朝、由美が、電卓を、机の上に置いた。 「入金、確認」 「はい」 「北村さんの、九月分。増産ぶんも込みで、十日に、入った」 「うん」 「合計、八百万。ちょうど」 由美は、電卓を、叩かなかった。 「あと、ゼロ」 俺は、その言葉を、聞いた。 五月から、毎朝、聞いた数字が、ゼロになった。 「ゼロ、って、初めて言った」 「初めて言った」 「もう一回、言ってくれ」 「明日、言う」 由美は、笑った。 俺も、笑った。笑ったのは、たぶん、二年ぶりだった。由美が、そう言ったから、そうだと思う。 宮下さんは、十時に来た。 マスク。薬。カッパ。それから、今日は、手袋。 「岡本社長、完全防備です」 「はい」 「返済の、確認に来ました」 応接。ドアは、開けたまま。 部長は、宮下さんの足元に、座った。 宮下さんは、書類を出した。返済の確認書。 「八百万。全額。本日、入金確認済み」 「はい」 「サインを」 俺は、サインした。 サインが、乾いた。 お茶は、なかった。由美が、出さなかった。 「くしゅん」 宮下さんが、一回、くしゃみをした。書類は、濡れなかった。 「今日も、一回」 「一回で済んでます」 「猫のいる工場は、潰れませんでした」 宮下さんは、マスクの下で、たぶん、笑った。 「課長に、報告します。潰れませんでした、って」 「お願いします」 「それと」 宮下さんは、鞄から、もう一枚、書類を出した。 「新規の融資の、ご案内です。設備投資用。旋盤、古いですよね」 「古いです」 「北村精機との取引が、続くなら、一台、新しくしても、返せます。計算しました」 「……」 「猫のいる工場に、貸したい、って、私が、上に言いました。今度は、課長が、笑いませんでした」 宮下さんは、書類を、置いた。 「検討してください。急ぎません」 立ち上がった。手袋を、外した。外した手で、部長の頭を、一回だけ、撫でた。 「くしゅん」 二回目。 「……撫でると、出ますね」 「出ますね」 「でも、撫でました」 宮下さんは、玄関を出た。カッパを着たまま。 北村さんが、昼に来た。 「返済、済んだ?」 「済みました」 「じゃあ、お祝い」 北村さんは、紙袋を、由美に渡した。中身は、猫の餌。高いやつ。 「部長に」 「部長に」 北村さんは、旋盤の上の部長を、撫でた。 「来月も、三百個」 「作ります」 「来年も」 「作ります」 「猫がいる限り」 「猫は、いつか、いなくなります」 「いなくなったら、次の猫が来る。この工場は、そういう工場」 北村さんは、それを、決めた。弟にする、と決めた人だ。 「返済、済みました」 由美が、北村さんに、言った。 「あと、いくら?」 「ゼロです」 「いい数字ね」 北村さんは、笑った。 部長は、高い餌を、匂いだけ嗅いで、食べなかった。いつもの安い餌を、食べた。 「……そういう猫なのよ、うちの子も、そうだった」 北村さんは、部長の頭を、もう一回、撫でた。 第15話 名刺 翔太が、名刺を作った。 部長の、名刺。 「岡本製作所 部長」 名前の欄に、部長。肩書きの欄にも、部長。 「なんで二回書くんだ」 「名前が部長で、役職も部長なんで」 「役職は、なんだ」 「部長です」 翔太は、名刺を、百枚、刷った。写真つき。旋盤の上で寝ている部長。名刺の紙は、厚くて、角が丸い。翔太が、自分の給料で、いちばん高い紙を選んだ。 「これ、誰に配るんだ」 「見に来る人に」 翔太の写真を見て、工場を見に来る人が、月に、何人か、いる。部品は、買わない。猫を見て、帰る。帰るとき、翔太が、名刺を渡す。 「猫の名刺を、もらって、どうするんだ」 「知らないです。でも、みんな、持って帰ります」 俺は、一枚、もらった。 財布に、入れた。 父の椅子を、見た。部長が、寝ていた。 十一月。 新しい旋盤が、来た。宮下さんの融資で。 据え付けが終わった夜、部長は、古い旋盤ではなく、新しい旋盤の上で寝た。慣らし運転より、先に。 「部長、検収したな」 と、辰さんが言った。 夕方。 由美が、事務所で、電卓を叩いていた。 「新しい融資の、返済表。来年から」 「来年から、また、毎朝、数字を言うのか」 「言う。それが、私の仕事」 「はい」 言ってから、俺は、言い直した。 「わかった」 由美は、笑った。 「社長」 「なんだ」 「七月の夜に、言ったこと」 「うん」 「工場じゃなくて、社長のこと、心配してたって」 「聞いた」 「返事、まだ」 俺は、電卓を、見た。ゼロ。 「してた、って、言ったな」 「言った」 「二年」 「二年」 「……俺は、猫が、苦手だった」 「知ってる」 「だめです、って言ったとき、初めて、自分のものが、あるって思った。工場じゃなくて。猫が」 「うん」 「次に、そう思ったのは、七月の夜だ。事務所で」 由美は、電卓を、持っていた。持ったまま、動かなかった。 「それは、返事?」 「返事だ」 「わかりにくい」 「わかりにくいのは、父に似た」 由美は、電卓を、置いた。 「わかった。わかりにくいまま、受け取る」 由美は、鞄を持って、立った。 「あと、ゼロ」 もう一回、言った。 俺は、玄関まで、送った。二回目だった。 工場に戻った。 電気を、消した。 父の椅子に、部長が、寝ていた。 二年、誰も座らなかった椅子に、猫が、半年、寝ている。 俺は、椅子の横に、しゃがんだ。 部長の、左耳を、指でなぞった。まっすぐ、切れている。金網の跡。 部長は、片目を開けた。 開けて、閉じた。 部長は、今日も寝ている。

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