第1話 十三 午前0時。部屋の電気を消して、配信のボタンを押す。 六畳のワンルーム。カメラは壁のほうを向けてある。顔は出さない。出すものがないから、声だけでいい。 三秒で、コメントが動きはじめる。 たける「きた」 yuki「こんばんは」 のん「ミナさん、こんばんは」 サバ缶「今日の晩ごはん、サバ缶でした」 白米「よい」 「サバ缶さん、それハンドル名じゃなくて食事報告になってる」 まっちゃ「この人ほんとに毎日食べてるよ」 とーる「三日連続だぞ」 サバ缶「四日です」 カナ「開き直った」 画面の右上に、見ている人の数が出る。13。 常連は12人しかいない。たける、yuki、のん、サバ缶、Rei、まっちゃ、とーる、カナ、白米、ぽむ、K、ハル。何度数えても12人。数字はいつも13。 「今日も一人多いね。名無しさん、いらっしゃい」 Rei「毎晩いらっしゃいますよね、その方」 ぽむ「ミナさんが自分の配信を自分で見てるんでしょ」 K「見てない」 「Kさん、否定が早い」 私は水野未奈、22歳。コンビニと居酒屋を掛け持ちしている。配信は三年目で、0時から2時まで、毎晩やる。 はじめた理由は、もう覚えていない。三年前の五月に、気づいたらアプリが入っていた。最初の夜の視聴者は二人で、そのうち一人がハルだった。 友達は少ない。この12人のことを、たぶん私は家族だと思っている。誰にも言わないけれど。 Rei「ミナさん、今日は声が近いですね」 「マイクの位置変えた」 Rei「よく聞こえます」 カナ「Reiさん耳いいー」 Rei「耳しか使っていませんので」 のん「ミナさん、来週何連勤だっけ」 「五連勤。私は死ぬ」 まっちゃ「ちゃんと野菜食べなさい」 サバ缶「サバ缶は野菜です」 とーる「違う」 白米「白米も違う」 「白米さん、自己申告えらい」 1時を回ると、コメントの速度が落ちる。みんな眠くなる時間だ。私は台所でお湯を沸かして、粉のスープを溶かす。マグの底に、溶けきらない粉が残る。 ぽむ「ミナさーん、眠くなってきたー」 「寝ていいよ」 ぽむ「寝ない。ミナさんの声聞いてないと寝れないもん」 「三年ずっと寝不足じゃん」 ぽむ「ずっと寝不足だよー」 ハル「今日、寒い」 「五月なのにね。ハルさん、窓開けてない?」 ハル「開けてない」 「じゃあ暖房つけて」 ハル「つけない」 ハルは三年前の初回からいる。いちばん古くて、いちばん喋らない。文字数が、たいてい五文字を超えない。 カナ「ハルさん今日ちょっと長くない?」 ハル「長い」 「自覚あるんだ」 たける「ミナちゃん、明日バイト?」 「昼から。だから今日は二時までやるよ」 たける「じゃあ寝るまでいる」 「たけるさん、それ毎回言って一時半に落ちるじゃん」 たける「今日は違う」 スマホの時計が1時14分になった。 たけるのコメントが消える。今の一行だけじゃない。その上も、そのまた上も、たけるが書いた文字だけが順番に抜けていく。配信のはじめの「きた」まで、きれいに空になる。 「たける?」 のん「たけるって、誰?」 まっちゃ「新しい人?」 とーる「そんな名前、いたか」 「いたよ。さっきまで喋ってた。明日バイト何時って聞いてきたばっかり」 サバ缶「ミナさん、寝ぼけてる」 ぽむ「かわいいから許すー」 「許さなくていいから思い出して」 私はコメント欄を上まで戻した。一時間前も、二時間前も、たけるはいない。画面をつかむ指が滑る。 右上の数字を見る。13。 ハル「おやすみ」 二時。配信を切る。天井の照明をつけると、部屋が明るすぎて目が痛い。冷蔵庫の音だけが残った。 私は今日のアーカイブを開いた。二時間ある。早送りする。私の声はずっと入っている。相手の声は、もともと入らない。コメントの画面を録らない設定にしたのは、三年前の私だ。一度も変えていない。 証拠が、何もない。 布団に入って、たけるにメッセージを送ろうとした。送信の前に、指が止まった。この人の本名も、住んでいる町も、私は知らない。三年近く毎晩喋っていて、知っているのはバイクが好きということだけだった。 朝、目が覚めてすぐスマホを開いた。フォローの一覧をいちばん下までたどる。たけるのアイコンだけが灰色になっている。指で押した。 このアカウントは存在しません。 第2話 誰も覚えていない 昼のバイト中、レジを打ちながら、たけるのことを考えていた。 名前で検索しても出てこない。私のスマホの中から、たけるだけが抜き取られている。 夜になるのが、いつもより遅かった。 休憩の十分で、私はもう一度だけ試した。過去のやりとりを保存したフォルダがあるはずだった。冷えピタの銘柄を送ってきたとき、私はそれを画像で残している。 フォルダを開く。二百枚ある。上から下まで見た。冷えピタの画像だけ、無い。 その前後の写真は残っている。私が撮った、寝る前の天井と、翌朝の体温計。あいだの一枚だけが抜けている。 午前0時。ボタンを押す。 yuki「こんばんは」 のん「ミナさん、こんばんは」 サバ缶「今日はサバの水煮でした」 まっちゃ「昨日と何が違うの」 サバ缶「水」 「みんな、ちょっと聞いていい」 とーる「どうぞ」 「たけるって人、覚えてる?」 のん「たける?」 Rei「どなたでしょう」 カナ「昨日も同じこと言ってた」 ぽむ「新規さん?」 「新規じゃなくて。二年くらい前からいた人。バイクの写真ばっかり上げてて、私が風邪ひいたとき冷えピタの銘柄を三つ送ってきた人」 白米「濃いな」 サバ缶「実在感すごい」 まっちゃ「でも、知らないなあ」 私はアーカイブを開いた。先週の分。コメントが全部残っているはずのやつだ。 早送りして、たけるが喋っていたあたりで止める。 誰も喋っていない。私が一人で「たけるさんそれ違うって」と笑っている。返事は無い。私の笑い声だけが二回続く。 とーる「ミナさん、それ独り言だよ」 「独り言じゃない」 とーる「でも画面には誰もいない」 「いたの」 とーる「いたことにしてもいいけど、いない」 とーるは理屈っぽい。理屈っぽい人は、こういうとき容赦がない。 K「一人多い」 「え」 K「いつも一人多い、って毎晩言ってる」 「言ってるけど」 K「今日は?」 右上を見た。13。 私は名前を声に出して数えた。yuki、のん、サバ缶、Rei、まっちゃ、とーる、カナ、白米、ぽむ、K、ハル。十一人。 「十一人しかいないのに、十三いる」 カナ「こわ」 ぽむ「ミナさん今日ホラーの日?」 「ホラーの日ってなに」 ぽむ「月に一回あるやつ」 「無いよ」 まっちゃ「ミナちゃん、寝てる?」 「寝てる」 まっちゃ「嘘」 「四時間寝てる」 まっちゃ「足りない」 「まっちゃさん、お母さんみたい」 まっちゃ「お母さんだからね」 「え、子どもいるの」 まっちゃ「いる、って言ったら信じる?」 「信じる」 まっちゃ「じゃあ、いない」 「どっち」 まっちゃ「ミナちゃんの好きなほう」 三年いて、この人の話も、たぶん一つも本当じゃない。それでも毎晩、野菜を食べろと言ってくる。 1時を過ぎる。話題は明日の天気になった。雨らしい。 yuki「明日、夜勤明けだから昼まで寝る」 「おつかれさま。ちゃんとカーテン閉めてね」 yuki「閉める」 「yukiさん、いつも短いよね」 yuki「打つの遅いから」 「じゃあ今日は長いほうだ」 yuki「うん。また明日」 1時14分。 yukiの文字が、上から順に抜けていく。「また明日」が消えて、「うん」が消えて、「こんばんは」が消える。 「yuki」 のん「ゆき?」 まっちゃ「雪、降らないよ。五月だし」 「人の名前」 のん「うちらに、そんな人いたっけ」 サバ缶「いないなあ」 「昨日はたけるだった」 とーる「昨日も同じ流れだったな」 「覚えてるんだ、それは」 とーる「それは覚えてる」 「たけるは覚えてないのに」 とーる「ミナさんが二晩続けて誰かを呼んだことは覚えてる。呼ばれた人のことは、知らない」 「どういう理屈」 とーる「理屈じゃない。おれもさっき気づいた」 とーるが自分の言ったことに困っているのは、打つ速度でわかった。いつもは早い。今日は一行ごとに間が空いた。 私は残った名前を数えた。のん、サバ缶、Rei、まっちゃ、とーる、カナ、白米、ぽむ、K、ハル。指を十本、全部折った。 ハル「おやすみー」 「ハルさん、伸ばした」 ハル「たまには」 二時。切る。壁のカレンダーに、今日の日付のところだけ丸をつけた。理由はうまく説明できない。 そのまま画面をつけっぱなしにして、右上を見ていた。切ったあとの画面には、もう数字は出ない。私は配信をもう一度つけた。誰もいない時間なのに、通知が来る前に、数字が先に出た。 右上の数字は、十三だった。 第3話 一人も知らない バイトの休憩室で、アヤにスマホを見せた。 アヤは23歳で、居酒屋の厨房で私の隣に立っている。まかないの玉子焼きを箸で割りながら、画面を三秒だけ見た。 「誰これ」 「私の配信の常連。十二人いる」 「へえ」 「昨日と一昨日で、二人消えた」 「けんかしたの」 「そうじゃなくて、消えたの。アカウントごと」 アヤはもう一口食べてから、スマホをこっちに返した。 「ミナ、その十二人さ」 「うん」 「私、一人も知らない」 「知らないでしょ。ネットの人だもん」 「そうじゃなくて。ミナ、三年ずっとその名前しか言わないじゃん」 「そう?」 「バイトの子の名前は一人も覚えないのに、サバ缶さんの晩ごはんは覚えてる」 「アヤの名前は覚えてる」 「私は毎日いるから」 アヤは箸を置いた。 「配信、やめなよ」 「なんで」 「一回でいいから休んで、ちゃんと寝な。ミナ、最近ずっと目が赤い」 「休むと、たぶん、なんか起きる」 「なにが」 「わかんない。でも起きる」 アヤは私の顔を見て、それから天井を見た。休憩室の蛍光灯が一本だけ切れかけていて、店長が三か月替えていない。 「ミナ、その人たち、声聞いたことある?」 「ないよ。コメントだけだもん」 「写真は」 「無い。アイコンだけ」 「じゃあ、生きてるってどこでわかるの」 私は笑って、玉子焼きを一切れもらった。味は薄かった。 午前0時。ボタンを押す。 のん「ミナさん、こんばんは」 サバ缶「今日はサバの味噌煮」 まっちゃ「進化した」 Rei「おめでとうございます」 サバ缶「ありがとうございます」 「今日ね、バイトの子にみんなの話したんだ」 カナ「なんて言われた?」 「一人も知らないって」 とーる「そりゃそうだろ」 「そうなんだけどさ」 とーる「こっちも、そっちのバイトの子を知らん」 「それはそう」 右上は13。名前があるのは十人。のん、サバ缶、Rei、まっちゃ、とーる、カナ、白米、ぽむ、K、ハル。 ぽむ「ミナさん、今日ちょっと元気ない声してる」 「わかるの」 ぽむ「わかるよ。三年聞いてるもん」 「ぽむ、三年もいたっけ」 ぽむ「いたよ。最初の日からいる」 最初の日からいる、とこの人たちは言う。私の記憶では、初回の視聴者は二人だった。 「ねえ、初回っていつだったか覚えてる?」 カナ「五月」 「日にちは」 カナ「わかんない。でも五月」 まっちゃ「雨の日だった」 とーる「雨だったな」 白米「雨」 「全員覚えてるじゃん」 とーる「そこは覚えてる」 「たけるとyukiは覚えてないのに」 とーる「その話、もういいだろ」 「よくない」 とーる「よくないな」 のん「ミナさん、明日わたし美容院なんだよね」 「何色にするの」 のん「ピンク。怒られるかな」 「誰に」 のん「わかんない。誰かに」 「怒られてから考えよ」 のん「そうするね」 1時13分。 小さい電子音が一回鳴った。私は台所のほうを見た。何も光っていない。 「今の、なに」 まっちゃ「なにが?」 「音」 白米「聞こえない」 1時14分。 のんの文字が抜けた。美容院も、ピンクも、上から順に無くなっていく。 「のん」 まっちゃ「のん?」 カナ「ミナさん、それ誰」 「今、美容院の話してた人」 サバ缶「してないな」 「してたって。ピンクにするって」 カナ「ミナさんが一人で言ってたよ」 私は残りを数えた。サバ缶、Rei、まっちゃ、とーる、カナ、白米、ぽむ、K、ハル。九人。 右上は13。 「今の音、誰か聞こえた人いない?」 K「聞こえた」 「え、Kさん聞こえたの」 K「毎日鳴ってる」 「毎日?」 K「毎日、同じ時間」 「なんの音」 K「知らない」 「知らないのに毎日聞いてるの」 K「聞いてるだけだから」 ハル「今日もおつかれ。おやすみ」 「ハルさん、今日も長い」 ハル「今日も」 配信を切ってから、私はアーカイブを開いた。1時12分まで戻して、音量を上げる。自分の声と、冷蔵庫の音。 1時13分ちょうどに、あの電子音が入っている。一回だけ。短い。何度巻き戻しても、同じ場所で鳴る。 私はスマホの通知センターを開いた。上から下まで、指で引っぱった。 通知の履歴は、空だった。 第4話 乗客 朝から、通知音を探していた。 設定を開いて、入っている音を上から順に鳴らす。メール、メッセージ、目覚まし、カレンダー。三十七個あった。全部聞いた。どれも違う。 私が三年使っているスマホの中に、あの音は無い。 午前0時。配信をつける。 サバ缶「こんばんは」 まっちゃ「こんばんはー」 Rei「本日もよろしくお願いします」 白米「よい」 カナ「Reiさん毎回かたい」 Rei「性分です」 「みんなさ、視聴者リストって見える?」 とーる「配信者しか見えないよ」 「だよね」 私は配信画面の端の、小さいアイコンを押した。三年やっていて、一度も開いたことがない。開く理由がなかった。 リストが出る。行が十三ある。 サバ缶、Rei、まっちゃ、とーる、カナ、白米、ぽむ、K、ハル。名前があるのは九行。 残りの四行は、名前のところが空いている。 「空欄が四つある」 ぽむ「バグじゃない?」 「四つって、ちょうどなんだよね」 カナ「なにが」 「いなくなった人の数」 私は指を折り直した。たける、yuki、のん。三人。四つじゃない。 声に出してもう一度数えた。やっぱり三人だ。空欄は四つある。 「一つ多い」 カナ「一つって?」 「空いてる行が、消えた人より一つ多い」 ぽむ「ミナさん、数えるの得意じゃないもんね」 「得意じゃないけど、三と四はわかる」 とーる「一人多いってやつだろ。毎晩言ってる」 「そう。でも一日目から十三だったの。誰も消えてないときから」 とーる「じゃあ最初から一人いたんだよ」 「誰が」 とーる「知らん。おれが知ってたら怖いだろ」 「それはそう」 サバ缶「こわい話やめて。サバ缶が冷える」 まっちゃ「もう冷えてるでしょ」 「まっちゃさん強い」 白米「まっちゃは強い」 1時を過ぎる。リストは開いたままにしておいた。空欄は動かない。名前が入る気配もない。 私は空欄の一つを指で押してみた。プロフィールが開く。アイコンの枠は灰色で、中に絵は無い。フォロー中の数も、フォロワーの数も、両方0。 登録日のところだけ、日付があった。三年前の五月十七日。私が配信をはじめたのは、その十日あとだ。 「この人、初日より前からいる」 とーる「だから言っただろ」 「言ってない」 とーる「言った。最初から一人いたって」 「怖いこと言わないでよ」 とーる「先に言ったのはミナさんだ」 サバ缶「明日、缶詰工場の見学に行くんだよね」 「本当に?」 サバ缶「嘘です」 「そこ嘘つく?」 サバ缶「嘘つけるとこ、そこしかないので」 まっちゃ「この人の人生、情報が少ない」 「みんな少ないよ。私、誰の仕事も知らない」 Rei「聞かれませんでしたから」 「じゃあ聞く。Reiさん、仕事は」 Rei「今度話します」 「いつ」 Rei「そのうち」 1時13分。音が鳴った。今度ははっきり聞こえた。台所でも玄関でもない。耳のすぐ横で鳴った。 1時14分。サバ缶の文字が抜けていく。缶詰工場も、味噌煮も、水も、全部空になる。 「サバ缶」 まっちゃ「サバ、缶?」 カナ「なにそれ、あだ名?」 白米「うまそう」 「白米さん、そこは相方をかばうとこでしょ」 白米「相方?」 残りは八人。私はメモ帳を開いて、十二人の名前を、いつも呼んでいる順に打ち込んだ。指が滑って、まっちゃが「まつちゃ」になった。打ち直した。 一行目がたける。二行目がyuki。三行目がのん。四行目がサバ缶。上から四つに、消えた日付を書き足す。 書き足しながら、順番が上から来ていることに気づいた。気づいてしまうと、五行目から目が離せない。 まっちゃ「ミナちゃん、なにしてるの」 「名簿つくってる」 まっちゃ「なんの」 「みんなの」 まっちゃ「わたしも入ってる?」 「入ってるよ。六番目」 まっちゃ「六番目かあ」 「順番に意味はないよ」 まっちゃ「意味ないならいい」 ハル「おやすみ。戸締まり」 「してるよ」 ハル「窓も」 「窓も」 配信を切って、私はリストのスクリーンショットを開いた。 空欄は五つに増えている。指で広げて、いちばん上に寄せる。四つは本当に何も無い。一つだけ、うすい灰色で、小さい字がある。 三行目に、乗客、と書いてある。 第5話 乗客さん 朝、アヤからメッセージが来ていた。「寝た?」の四文字。 「寝た」と返して、私は嘘をついた。四時まで、スクリーンショットを拡大したり縮めたりしていた。字は何度見ても乗客だった。 乗客。バスとか、電車とか、そういうときに使う言葉だ。配信で使う言葉じゃない。 午前0時。ボタンを押して、すぐリストを開く。十三行。名前は八つ。 Rei「こんばんは」 まっちゃ「こんばんはー」 とーる「今日も来た」 カナ「カナです」 白米「よい」 ぽむ「ぽむだよー」 K「ん」 ハル「ん」 「Kさんとハルさんがどっちもんでややこしい」 K「じゃあ変える」 「変えなくていい」 K「変えない」 「どっちなの」 「今日ね、ちょっと変なこと言うけど怒らないでね」 とーる「もう毎日変だよ」 「そう?」 とーる「毎日、いない人の名前を呼んでる」 「Reiさん」 Rei「はい」 「今日、一時十四分になったら、コメント打つのやめてもらっていい?」 Rei「なぜですか」 「順番が、たぶん上から来てる」 Rei「順番」 「私のメモの、五番目がReiさんなの」 Rei「五番目、ですか」 「うん」 Rei「では、打つのをやめれば飛ばされるということですね」 「わかんない。試したことないから」 Rei「試しましょう。私は構いません」 構わない、と打つのが早すぎた。私が理由を説明する前に、この人はもう決めていた。 「乗客さん」 打ったんじゃない。声に出した。リストの三行目に向かって言った。 何も起きない。灰色の字は、そのままそこにある。 「乗客さん、聞こえてますか」 カナ「誰に話してるの」 「リストにいる人」 ぽむ「リストってなに?」 「配信者にしか見えないやつ」 まっちゃ「ミナちゃん、今日は早めに寝よ」 「乗客さん。名前、教えて」 カーソルは動かない。私は同じことを七回聞いた。七回目のあとで、水を一口飲んだ。 Rei「ミナさん、深呼吸してください」 「してる」 Rei「顔は出さなくていいので、吸って、止めて、吐いてください」 「Reiさん、こういうの慣れてる」 Rei「職業柄です」 「なんの職業?」 Rei「まだ言ってませんでしたね」 「毎回それ」 Rei「毎回すみません」 言われてみれば、この人たちの仕事も、住んでいる場所も、年齢も、私は一つも知らない。三年、毎晩喋っているのに。 知らないまま、家族だと思っていた。 とーる「ミナさん、話題変えよう。明日の天気」 「雨だって」 まっちゃ「洗濯物どうしよう」 白米「干す」 「白米さん、勝てない戦いをするな」 1時10分。Reiが打たなくなった。約束どおりだ。 1時12分。カナとぽむが天気の話をしている。私は画面の左下だけを見ていた。 1時13分。音が鳴る。今日は口の中で数を数えた。一回。それきり。 1時14分。Reiの文字が消えた。深呼吸してください、も、職業柄です、も、上から順に空になる。はじめの「こんばんは」まで、全部。 黙っていても、関係なかった。 「Rei」 カナ「れい?」 ぽむ「ゼロってこと?」 「人の名前。丁寧な喋り方の人」 ぽむ「そんな人いたら覚えてるよー」 「覚えててよ」 ぽむ「覚えてるって、ミナさんのことは」 私はリストを見た。名前は七つ。空欄は六つ。灰色の字は、三行目のほかにもう一つ増えている。 二つとも、乗客と読めた。 まっちゃ「ミナちゃん、今日はもう寝ようか」 「まだ二時じゃない」 まっちゃ「二時じゃなくてもいいの」 「ルールだから」 まっちゃ「誰のルール」 「私の」 まっちゃは何も打たなくなった。カナも、ぽむも、そのうち落ちた。 二時。私は切ろうとして、指を止めた。 ハル「おやすみ」 「おやすみ、ハルさん」 いつもならそこで終わる。三年、一度も例外がなかった。 コメントが一行、増えた。 ハル「今日は早く寝な」 第6話 まだ十二人 夕方、兄から電話が来た。 カズキは26で、車で四時間の街にいる。かけてくるのは年に何回もない。用件はいつも事務的だ。 兄「保険証の切り替え、やったか」 「まだ」 兄「やれ。今月中な」 「はい」 兄「あと、ちゃんと食ってるか」 「食べてる。今日はサバ缶」 少し間があった。ウインカーの音がしている。運転しながらかけてくるのも、いつものことだ。 兄「誰かの真似か、それ」 「配信の人。サバ缶さんっていう」 兄「配信、まだやってんのか」 「毎日」 兄「何人見てんの」 「十二人。常連が十二人いる」 ウインカーの音が止まった。 兄「おまえ、まだ十二人って言ってるのか」 「まだって、なに」 兄「いや」 「なにそれ、気になるんだけど」 兄「気にするな」 「気にするよ」 兄「切るわ。運転中」 切れた。私は折り返そうとして、やめた。かけ直しても、この人は同じ言い方をするだけだ。 兄が電話でやわらかい声を出すのは、年に二回くらいある。三年前の五月と、その次の月と、あとは今の言い方だ。 三年前の五月のことを、私はうまく思い出せない。バイトを二か月休んだのは覚えている。理由を聞かれたら、体調、と答えることにしている。誰にも聞かれたことはない。 午前0時。配信をつける。リストは十三行。名前は七つ。 まっちゃ「こんばんはー」 とーる「今日も」 カナ「こんばんはっ」 白米「よい」 ぽむ「ミナさーん」 K「ん」 ハル「ん」 「Kさんとハルさん、今日も同じ返事」 K「おれのほうが先だった」 ハル「先じゃない」 「けんかしないで」 まっちゃ「今日ね、いい抹茶買ったの」 「いいなあ」 まっちゃ「点てて飲んだ。泡が立つと、それだけで一日終わっていい気になる」 「まっちゃさん、名前どおりすぎる」 まっちゃ「名前が先か、中身が先か」 とーる「深夜に哲学すな」 白米「白米は名前が先」 「白米さんは中身も白米でしょ」 「まっちゃさん、それどこで買ったの」 まっちゃ「秘密」 「県だけでいいよ」 まっちゃ「秘密」 「言いたくないんだ」 とーる「言えない、が正しい」 この人たちは、嘘をつかない。三年見ていてわかる。答えないだけだ。答えないことと嘘は違う、と最初に言ったのもとーるだった。 私はメモ帳を開いた。六行目に、まっちゃと書いてある。上の五行には日付が入っている。 言おうとして、言えなかった。昨日、Reiに言って、何も変わらなかった。 まっちゃ「ミナちゃん、なにか言いかけてる」 「言ってない」 まっちゃ「言いかけたよ」 「じゃあ、野菜食べてる」 まっちゃ「えらい」 1時13分。音。 1時14分。まっちゃの文字が抜けた。泡が立つと、が消える。名前が先か中身が先か、が消える。えらい、が消える。 「まっちゃさん」 とーる「まっちゃ?」 カナ「飲み物?」 「人」 白米「うまそう」 「人だってば」 白米「すまん」 メモ帳の六行目に、今日の日付を打った。指はもう震えなかった。慣れというのはこんなに早いのか、と思った。 七行目はとーる。八行目はカナ。九行目が白米で、十行目がぽむ。十一行目がK。十二行目にハルと書いてある。 私はハルの行を、指でしばらく押さえていた。 「ハルさん」 ハル「ん」 「十二番目って、どんな気分」 ハル「なんの話」 「なんでもない」 ハル「そう」 ハル「おやすみ。あったかくして」 「ハルさんも」 ハル「おれは平気」 二時に切った。布団に入って、天井を見て、三十分たっても目が閉じなかった。私は兄にかけ直した。三回目で出た。 兄「なんだよ、二時半だぞ」 「さっきの、まだって、どういう意味」 兄「なんの話だ」 「十二人。まだ十二人って言ってるのか、って言ったでしょ」 兄「言ったか?」 「言った」 兄は少し黙った。もうエンジンの音はしない。 兄「未奈」 「なに」 兄「病院、行ってるか」 第7話 休む 休むと決めたのは、昼だった。 アヤに「今日、配信やめてみる」と送ったら、既読がついてすぐ「えらい」と返ってきた。犬が拍手しているスタンプまで来た。 夜まで、私はその画面を何度も開いた。 病院には行っていない。兄には行ってると言った。三年前に通っていた場所の名前は、まだ覚えている。予約の電話番号も覚えている。かけていないだけだ。 なんの病院だったかは、覚えていない。おかしな話だけど、そこだけ抜けている。 夜、アヤからもう一通来た。 「今なにしてる」 「布団」 「えらい。そのまま寝ろ」 「寝る」 私はその「寝る」を、送ったあとに二回読み返した。二回とも、私が打った字に見えなかった。 23時50分。スマホを裏返して、布団に入る。 23時58分。裏返したままでも、画面が明るくなるのがわかる。 0時。私はボタンを押していた。 とーる「来た」 カナ「来ると思ってた」 「なんで」 カナ「三年、一回も休んでないもん」 自分の指を見た。押した感覚が、ちゃんとある。休もうと思っていたのも、ちゃんと本当だった。両方本当なのが、うまく飲み込めない。 「今日ね、休むつもりだったんだよ」 ぽむ「やったー、休まなくて」 とーる「休めよ。顔は見えないけど声でわかる」 「声で?」 とーる「三年聞いてるからな」 三年、という言葉が今日で二回目だ。この人たちは、それより前の話を一度もしない。 「みんな、私と会ったことある?」 K「ない」 とーる「あるわけないだろ」 カナ「あったら怖いよ」 白米「よい」 「白米さん、今のは相槌として合ってる?」 白米「合ってない」 「カナは、今日なんかあった?」 カナ「あったよ。バイト先で怒られた」 「なんで」 カナ「イヤホン片方つけたまま接客した」 「それは怒られる」 カナ「片方は外してたのに」 白米「もう片方は誰がつけてたんだ」 カナ「白米さんが鋭い」 「白米さん、今日冴えてる」 白米「たまにある」 「じゃあ質問変える。みんな、五月って好き?」 カナ「ふつう」 ぽむ「暑いから嫌ー」 とーる「雨が多い」 K「嫌い」 「Kさん、はっきり言うね」 K「五月は嫌い」 ハル「おれも」 その二人が同じことを言うのは、はじめてじゃない。私はそれをメモ帳に書かなかった。書いたら、認めることになる気がした。 とーる「ミナさん、明日は休んでいいよ」 「休むと、なんか起きそうで」 とーる「なにが」 「わかんない。減りそうで」 とーる「減るって、なにが」 「みんなが」 誰も打たない時間が、十秒くらい続いた。 1時13分。音が鳴った。今日は目を閉じなかった。 1時14分。とーるの文字が抜けた。休めよ、も、三年聞いてるからな、も、順番に空になる。深夜に哲学すな、も無くなった。 「とーるさん」 カナ「とおる?」 ぽむ「通る?」 「人の名前。理屈っぽい人」 カナ「ミナさん、今日それ何回目?」 「七回目」 カナ「多いね」 「多いよ」 残っているのは、カナ、白米、ぽむ、K、ハル。五人。 リストは十三行のまま。空欄が八つ。灰色の字は四つに増えている。全部、乗客と読めた。 私はメモ帳の七行目に日付を入れた。八行目はカナ。九行目は白米さん。二人とも、さっきまでイヤホンの話をしていた。 「カナ。白米さん」 カナ「なにー」 「明日、二人とも、コメント打たないでみて」 カナ「なんで?」 「いいから。約束して」 白米「約束する」 カナ「わかんないけど、する」 「ありがとう」 カナ「ミナさん、たまに変だよ」 「たまにじゃないでしょ」 カナ「たまにってことにしといた」 ハル「おやすみ」 「ハルさん、待って」 ハル「なに」 「明日、休んでいい?」 ハル「休みたいなら」 「休みたい」 ハル「じゃあ休みな」 返事を打とうとしたとき、コメントが一行、増えた。 ハンドル名の欄が空いている。アイコンも無い。誰が打ったのか、リストのどこを見てもわからない。 「休むと、二人減る」 第8話 二人 休んだ。 0時、スマホを机の引き出しに入れた。0時40分、引き出しを開けて、また閉めた。1時、開けた。画面は暗い。 1時13分、何も鳴らなかった。 1時14分、何も起きなかった。 1時15分、引き出しの中が一度だけ光った。開けたときには、もう消えていた。通知は残っていない。 私は朝まで、引き出しの前に座っていた。壁の時計の秒針が、二回だけ引っかかった。それも数えていた。 その日は何も起きなかった。バイトに行って、アヤに「休んだよ」と言ったら、頭をぐしゃぐしゃにされた。 「えらいえらい。今日も休みな」 「今日はやる」 「なんでよ」 「昨日の分、謝らないと」 「誰に」 アヤは笑わなかった。私も答えなかった。 その代わりに、休憩室でスマホを開いた。カナのアカウントを出す。指で押す。 このアカウントは存在しません。 白米さんも同じだった。私は五回押した。五回とも同じ文が出た。 「ミナ」 「なに」 「今の画面、私にも見せて」 「見ても、なんにも書いてないよ」 「いいから」 アヤは私のスマホを取って、しばらく見ていた。それから、そっと返した。 「これ、真っ白だよ」 「文が出てるでしょ」 「出てない。白いだけ」 午前0時。配信をつける。 ぽむ「おかえりー」 K「おかえり」 ハル「おかえり」 三つ。 私は名前を探した。カナがいない。白米がいない。 「カナ。白米さん」 打っても、呼んでも、リストにも出てこない。名前のあった行は空欄になっている。 「ぽむ、昨日、誰かいた?」 ぽむ「昨日?」 「私が休んだ日」 ぽむ「休んでたよ」 「見てた人、いた?」 ぽむ「いたよ。十三人」 「配信、してないのに?」 ぽむ「してないのに」 「ぽむも見てたの」 ぽむ「見てたよ。まっくらのやつ」 「まっくらの、なに」 ぽむ「まっくらで、音だけしてた」 水を飲んだ。飲んでから、コップを持っていないことに気づいて、もう一度台所に行った。 「二人減った」 K「減ってない」 「減ったよ。カナと白米さん」 K「その名前、初めて聞いた」 「Kさん、昨日まで一緒に喋ってたじゃん」 K「おれは、昨日いない」 「え」 K「休んだ日は、誰もいない」 「ぽむは十三人いたって言ってる」 K「十三は、人じゃない」 「じゃあ、なに」 K「数」 「意味わかんない」 K「わからなくていい」 「ねえ、昨日、二人に打つなって言ったんだよ。カナと白米さんに」 K「聞いた」 「聞いてないでしょ、いないんだから」 K「聞いた」 「守ってくれたのかな」 K「守った。だから消えた」 私はその一行を三回読んだ。読むたびに、意味が同じところに戻ってくる。 「打たないほうが、だめなの」 K「関係ない。順番だから」 「じゃあ、なんで守ったって言うの」 K「守ってくれて、ありがとう。それを言いたかっただけだ」 私はリストを開いた。名前のある行は三つ。ぽむ、K、ハル。 空欄が十。灰色の字は六つ。全部、乗客。 「Kさん」 K「ん」 「Kさんは、なんで消えないの」 K「順番だから」 「順番、知ってるの」 K「おれが最後だから」 「ハルさんは?」 K「ハルは別」 ハル「K」 K「なに」 ハル「喋りすぎ」 K「そうか」 ハル「そう」 1時13分。音が鳴った。今日は一回だけ数えた。 1時14分。何も消えなかった。ぽむも、Kも、ハルも、そこにいる。 ぽむ「今日は誰も消えないねー」 「消えるって知ってるの」 ぽむ「知らないよ。ミナさんが毎日言うから」 「毎日言ってるんだ、私」 ぽむ「毎日言ってる」 ハル「おやすみ。もう休まなくていい」 「休んだら、また二人?」 ハル「うん」 「なんで」 ハル「待ってる時間が、あるから」 私は指で行を数え直した。ぽむ、K、ハル。上から三つ。あとは全部、灰色の字と空白だ。 メモ帳を開く。十二行のうち、九行に日付が入った。残りは三行。 右上の数字は、十三のまま。 第9話 反対側 五月十七日。スマホのカレンダーに出ている数字を、私はしばらく見ていた。なんで見ているのかは、自分でもわからない。 配信を切る前に、いつもプレビューを見る。 映像は流していない。それでも、アプリの隅に自分のカメラが小さく映る。カメラは壁を向けてあるから、そこにあるのは白い壁と、カレンダーの端と、ハンガーにかけっぱなしのバイト先の制服だ。三年、ずっと同じ絵だった。 今日は、窓が映っている。 午前零時十分。私はレンズを触った。壁を向いている。触った指がプレビューに映らない。 ぽむ「どうしたのー」 「カメラ、動かしてないよね」 ぽむ「わかんないよ。こっちは音しか聞こえないもん」 「そっか。映像、出してないんだった」 私は手を振ってみた。画面の中では、誰も手を振らない。カーテンが少し揺れているだけだ。 私の部屋の窓は、鍵をかけて閉めてある。三日前に確かめて、そのままにしてある。 立ち上がって、実際の窓を見た。閉まっている。カーテンも動いていない。振り返ってプレビューを見ると、まだ揺れている。 私はカメラを手で覆った。プレビューは黒くならなかった。窓が映ったままだった。 手をどけた。指の跡が、レンズに残っていた。 スクリーンショットを撮った。撮ったものにも、窓が入っている。 昨日の分を開いて、二枚を並べた。昨日は白い壁と、カレンダーの端と、ハンガーの制服だ。今日のには、その三つが無い。あるのは窓と、揺れているカーテンだけだった。 私は同じ場所に立って、同じ角度でもう一度撮った。三枚目も、窓だった。 「Kさん、聞いていい」 K「ん」 「私の部屋、窓、どっち向きだと思う?」 K「東」 東だ。 私は言っていない。三年、一度も言っていない。朝日が入るとも、洗濯物が乾くとも言っていない。 「なんでわかるの」 K「朝、明るいって言ってた。二年前の九月」 「そこまで覚えてるの」 K「それしか、することがないから」 「昼は何してるの」 K「待ってる。0時を」 「二十二時間、待ってるの」 K「そう」 「暇じゃない?」 K「暇だよ」 冗談で言ったのに、返ってきた字はまっすぐだった。私は笑うタイミングを探して、見つからなかった。 ぽむ「ミナさん、今日こわい声してる」 「ごめん」 ぽむ「あやまらなくていいよ。ぽむは最後までいるから」 「最後?」 ぽむ「言葉のあやー」 「ぽむ、名前の由来って何?」 ぽむ「かばんにつけてるぬいぐるみの名前ー」 「なんのぬいぐるみ」 ぽむ「わかんない。もらいものだから」 「三年つけてるの」 ぽむ「もっと。高校のときから」 「じゃあ大事にしなよ」 ぽむ「してるよー。ずっと持ってる」 1時13分。耳のすぐ横で、一回鳴った。 1時14分。ぽむの文字が抜けた。最後までいるから、が消えて、せまい、が消えて、おかえりー、が消える。ぬいぐるみの名前も、聞けないまま消えた。 「ぽむ」 右上は13。名前のある行は二つになった。灰色の字は、八つになっている。 K「いない」 「今、喋ってた」 K「喋ってたけど、いない」 「どっちなの」 K「両方だ」 「Kさんは、いる?」 K「いる。あと少し」 「Kさん」 K「なに」 「あと少しって、なに」 K「言ったら、ハルに怒られる」 ハル「怒らない」 K「怒るだろ」 ハル「怒らないけど、まだ早い」 「二人とも、ずるい」 ハル「ずるいね」 「ハルさんは、私の部屋の窓、どっち向きだと思う」 ハル「東」 「Kさんと同じ」 ハル「同じだよ」 「なにが」 ハル「いろいろ」 ハル「おやすみ」 「まだ二時じゃないよ」 ハル「今日は先に言っとく」 「なんで」 ハル「あとで、言えなくなりそうだから」 私はプレビューをもう一度見た。窓が映っている。カーテンが揺れている。外は暗くて、街灯の色だけがガラスに乗っている。 画面の中の床に、並んでいるものがある。指で広げて、拡大した。二列。通路をはさんで、こちら側とあちら側。 数えた。 椅子が、十二脚ある。 第10話 誰と話してるの アヤが来たのは21時だった。 コンビニの袋を二つ提げて、勝手に靴を脱いで、勝手に私の布団に座った。 「泊まる」 「聞いてない」 「今言った」 アヤはプリンを二つ出した。私の分と、自分の分。私は椅子をすすめようとして、この部屋に椅子が一脚しかないことを思い出した。 「ミナ、この部屋さ」 「なに」 「前に来たときと変わってなくない?」 「変えてないもん」 「カレンダー、三年前のじゃない?」 「見てなかった」 アヤは壁を指した。私は見た。五月のページだった。数字の並びが、今年のと違う。 三年、めくっていない。めくらないと決めていたわけでもない。ただ、五月のまま止まっている部屋で、私は毎晩0時にボタンを押していた。 「めくるね」 「めくらないで」 「なんで」 「なんでか、わかんないの」 「ミナ、今日も配信するんでしょ」 「する」 「じゃあ見る。横で」 「見えないよ。音だけだから」 「画面は見えるでしょ」 午前0時。ボタンを押す。私はスマホを二人のあいだに置いた。 K「こんばんは」 ハル「ん」 「ほら、来た」 「なにが」 「Kさんとハルさん」 「どこ」 アヤは画面を近づけた。近づけてから、上まで、下までスクロールした。二回やった。 「ミナ、コメント欄、空だよ」 「空じゃないって」 「一行もない」 「今、こんばんはって打ったの」 アヤの指が止まった。 「何時から見えてないの」 「見えてるって言ってるじゃん」 「私に、って意味」 「アヤは常連じゃないから」 自分で言って、意味がわからなかった。常連じゃないと見えないコメント欄なんて、聞いたことがない。 「じゃあ数字は。右上の」 「十三」 「私には、1って出てる」 私はスマホを取り返した。十三。指で押しても、閉じて開いても、十三。 アヤに渡す。アヤは1と読む。私が持つと十三になる。二回替えた。三回目はやらなかった。 「アヤ、自分のスマホで録って」 「録るって、なにを」 「今の音。私の配信」 「いいけど」 アヤは自分のスマホを机に置いて、赤い丸を押した。私は十分ぶん喋った。Kが返事をして、ハルが二回「ん」と打った。 止めて、再生した。 私の声だけが入っていた。返事の分の間が、全部そのまま空いている。十分のうち、四分近くが無音だった。 「ミナ、これ聞ける?」 「聞いた」 「間、あいてるでしょ」 「あいてる」 「誰の返事、待ってたの」 K「その人、誰」 「バイトの子。アヤ」 K「見えてないだろ」 「見えてない」 K「そっちが正しい」 「Kさん、それどういう意味」 K「今日は言わない。人がいるから」 「アヤ、ちょっと出てて」 「出ない」 「頼むから」 「絶対出ない」 アヤはプリンのふたを剥がして、ゆっくり食べはじめた。出ていく気がないという意思表示だと思う。 「ミナ、私さ、三年前のこと聞いていい?」 「なにを」 「バイト入ってきたとき、ミナ、腕にギプスしてたじゃん」 「してた?」 「してた。三か月してた」 「覚えてない」 「ミナ、あのとき、なんて言ったか覚えてる?」 「言ってない」 「言ったよ。転んだって」 「転んだんでしょ」 「転んで、あんなふうにはならない」 私はカレンダーのほうを見た。五月のページの、十七日の数字が少し掠れている。誰かが指でこすったみたいに。 1時13分。音が鳴った。耳のすぐ横で鳴った。 アヤは顔を上げなかった。 「今、鳴ったよね」 「なにが」 「音。通知みたいなやつ」 「鳴ってない。ずっとミナの声だけ」 「ずっと?」 「ミナ、さっきから一人で喋ってる。一時間ずっと」 1時14分。誰も消えなかった。名前は二つのままだった。 ハル「おやすみ」 「おやすみ、ハルさん」 ハル「その子、いい子だな」 「聞こえてるの」 ハル「見えてる」 私はスマホを置いた。アヤはプリンを食べ終えて、容器を袋に入れて、袋の口を結んだ。それから私を見た。 「ミナ」 「なに」 「これ、誰と話してるの」 第11話 あなたは誰 アヤは朝まで帰らなかった。 帰りぎわに「明日も来る」と言って、来なかった。夕方に「ごめん、店が回らない」とメッセージが来た。 私は「いいよ」と返した。来られたら困る気も、少しだけしていた。 部屋を片づけた。カレンダーはめくらなかった。 メモ帳を開く。十二行のうち、十行に日付が入っている。十一行目がK。十二行目がハル。 私はKの行を、指で押さえた。押さえていても、何も起きない。 紙に十二人の名前を書いて、冷蔵庫に貼った。マグネットが足りなくて、下の端が丸まった。 書いてみると、順番に法則がないことがよくわかる。年齢順でも、古い順でもない。私が呼ぶときの順番なだけだ。 その順番を決めたのが誰かは、思い出せなかった。三年前から、私はこの順で呼んでいる。 午前0時。リストを開く。名前のある行は二つ。 K「こんばんは」 ハル「ん」 「Kさん」 K「ん」 「Kって、なんの略?」 K「略じゃない」 「頭文字?」 K「そういうことにしてもいい」 「してもいい、って言い方、ずるいよ」 K「ずるいな」 「Kさんは、私のこと知ってるよね」 K「知ってる」 「どこで知ったの」 K「バス」 部屋の音が、急に耳に入ってきた。冷蔵庫と、外を走る車と、隣の部屋の水道。 「バス?」 返事が来ない。カーソルの位置だけが、一度上がって、また下がった。 「Kさん。バスって」 K「それ以上は言えない」 「言えないの、言わないの」 K「言えない」 私は立ち上がって、台所まで歩いた。コップに水を入れて、飲まずに戻った。 「Kさん、それ、なんの話」 K「五月の話」 「五月って、今月?」 K「三年前の」 「三年前の五月に、私、なにしてたの」 K「知ってるだろ」 「知らない」 K「知らないことにしてるだろ」 「違う」 K「違わない」 「Kさん、意地悪だね」 K「意地悪じゃない。待ってるだけだ」 「なにを」 K「二十二時間じゃないほう」 ハル「K」 K「わかってる」 ハル「まだ」 K「わかってるって。言ってない」 ハル「言ってる」 K「少しだけだ」 「二人とも、なに」 ハル「なんでもない」 「なんでもないわけないでしょ」 ハル「ないけど、今日はなんでもない」 1時13分。音。今日はいつもより長く鳴った気がした。数を数える前に終わっていたから、たしかめようがない。 1時14分。Kの文字が抜けた。バス、も、五月の話、も、待ってるだけだ、も、上から順に無くなる。 「K」 返事はない。リストの名前は一つになった。ハル。 空欄が十二。灰色の字が十一。読めるのは全部、乗客だ。 「ハルさん」 ハル「いるよ」 「Kさん、なんて言おうとしてたの」 ハル「言わなくていいこと」 「私、聞きたい」 ハル「まだ早い」 「早いって、いつまで」 ハル「おまえが自分で言うまで」 「なにを」 ハル「それを聞いてる時点で、まだ早い」 私はメモ帳の十一行目に、今日の日付を打った。あと一行だけ、空いている。 それから、検索の画面を開いた。バス、と打った。そのあとが続かない。 場所を知らない。日付も知らない。何を調べたいのかも、本当は知らない。 私は画面を消して、冷蔵庫の紙を見た。十一人の名前に、線が引いてある。線を引いたのは私だ。 「ハルさん、明日、消えるの」 ハル「消えない」 「なんで」 ハル「おれは順番に入ってない」 「入ってないって、どういう」 ハル「入ってないんだよ」 「ハルさん」 ハル「ん」 「三年、毎日いてくれてありがとう」 ハル「うん」 「一日も休まなかったよね」 ハル「休めないから」 「それで、聞きたいんだけど」 ハル「うん」 「ハル、あなたは誰」 しばらく、何も出なかった。二時になっても、私は切らないでいた。 二時七分に、一行だけ増えた。 ハル「おやすみ」 それから、もう一行。 ハル「覚えてないなら、まだ言わない」 第12話 記事 インターホンが鳴ったのは、火曜の昼だった。 ドアの外に兄が立っていた。車で四時間の距離を、連絡なしで来ている。 「上がるぞ」 「散らかってる」 「知ってる」 兄は靴を揃えて、床に座った。椅子は一脚しかないから、すすめなかった。 バッグからクリアファイルを出す。中に、印刷した紙が何枚か入っていた。 「読め」 「なにこれ」 「読めばわかる」 私は受け取った。新聞社のサイトを印刷したやつで、日付の横に小さくページ番号が入っている。三年前の五月十七日の記事だった。 県道の橋から、路線バスが川に転落した。深夜の便。 乗客十二人。死亡十一人。生存者一人。 「これ」 「最後まで読め」 名前が並んでいた。年齢と、住んでいた町。私は上から順に読んだ。読みながら、紙の端を指でこすっていた。 二十歳の男の子がいる。二十六歳の女の人がいる。十八歳の子がいる。五十四歳の人がいる。 全部、知らない名前だった。知らない名前なのに、読むと、読む速さが落ちる。一人ぶんずつ、どこかで止まる。 「兄ちゃん、この人たち」 「なんだ」 「知ってる気がする」 「そうか」 「そうか、って」 「そうか、としか言えん」 十一人目のところで、目が止まった。 春日透、十九歳。 「春日」 「同級生だろ」 「うん」 「三年、その名前、一回も言わなかったな」 言っていない。言えたはずもない。忘れていたのだから。 忘れていた、という言い方が正しいのかも、わからない。私はこの名前を、今はじめて見た気がしていない。 「未奈」 「なに」 「生存者一人って書いてあるだろ」 「うん」 「おまえだ」 「乗ってないよ」 「乗ってた」 「私、その日」 その日、と言ったところで、続きが出てこなかった。三年前の五月十七日に何をしていたか、私は一行も持っていない。 「病院で目が覚めた日も、おまえ、十二人って言ってたんだよ」 「なにそれ」 「みんな無事かって聞いた。十二人いるって、自分で言った」 「覚えてない」 「そうだろうな。次の日には、もう聞かなくなってた」 兄は水を飲んだ。私のコップだった。取り替えようとしたら、いいと言われた。 「アヤちゃんから電話が来た」 「アヤ、番号知らないでしょ」 「おまえの部屋の、冷蔵庫に貼ってある」 私は冷蔵庫を見た。三年前の私が書いた紙が、まだそこにある。緊急連絡先、と自分で書いてある。その横に、昨日貼った十二人の名前がある。 兄はそれを見た。見て、何も言わずに、めくれた端をマグネットで留め直した。 「兄ちゃん、これ読める?」 「読める」 「なんて書いてある」 「たける。yuki。のん」 読めるんだ、と思った。紙に書いた字は、誰にでも読める。画面の中にあるものだけが、私にしか見えない。 「兄ちゃん、この人たち、知ってる?」 「知らん。けど、名前は聞いた」 「どこで」 「三年前、病室で。おまえが一日ずっと言ってた」 兄は泊まると言った。私は0時に配信をつけた。兄は止めなかった。壁にもたれて、目を閉じていた。 ハル「ん」 「ハルさん、今日、兄がいる」 ハル「知ってる」 「なんで知ってるの」 ハル「隣で寝てるから」 私は兄を見た。目を閉じている。息が深い。 「ハルさん、部屋の中、見えてるの」 ハル「ずっと」 「三年ずっと?」 ハル「ずっと」 「気持ち悪いって言われない?」 ハル「今、言われた」 「ごめん」 ハル「気にしてない」 右上は13。名前のある行はハルだけで、あとの十二行は空欄だ。誰も打たないのに、数字だけがそこにある。 1時13分。音が鳴った。兄は目を閉じたままだった。 1時14分。誰も消えなかった。消える人が、もういない。 ハル「おやすみ」 「おやすみ」 ハル「今日は早く寝な」 「二回目だね、それ」 ハル「よく覚えてるな」 配信を切ってから、私はもう一度、記事を開いた。名前ばかり見ていて、本文の頭を読み飛ばしていた。 三行目に、時刻が書いてある。 事故発生、午前一時十四分。 第13話 十二人の顔 朝、兄が味噌汁を作った。 豆腐を切るのが下手で、形が全部違う。私はそれを見ていて、急に、床の匂いを思い出した。 濡れた靴と、燃料と、雨の匂いだった。 「未奈」 「うん」 「無理して思い出すな」 「無理してない」 「顔、してるぞ」 「どんな」 「三年前と同じやつ」 私は味噌汁を飲んだ。豆腐が大きいのと小さいのが一つずつ入っていた。 思い出すのは、順番だった。 いちばん前の席にいた男の子。膝にバイクのヘルメットを抱えていた。バスに乗るのにヘルメットを持っていて、私はそれを少し笑った。降りるとき、貸してやろうかと言われた気がする。 その次。窓際で、夜勤明けだと言って寝ていた人。バッグの肩紐を握ったまま眠るのがうまかった。 その次。髪をピンクにしたばかりの子。後ろの席の人に似合うと言われて、口を手で隠して笑っていた。 名前は知らない。顔は、全部ある。 缶詰の入ったビニール袋を膝に載せていた人。袋の音が、揺れるたびに鳴っていた。 丁寧に喋る人。運転手さんに、ありがとうございます、と乗るときに言った。膝の上に、白い上着をたたんで載せていた。 魔法瓶を持っていた人。前の席の子に、飲む? と聞いていた。 誰かに何かの理屈を説明していた人。相手はほとんど聞いていなかった。 イヤホンを片方ずつ分けあっていた二人。ひとりが笑って、もうひとりが黙っていた。 鞄にぬいぐるみのキーホルダーをつけていた子。それを膝の上で直していた。 十人。 冷蔵庫に貼った紙を見た。私が三年、呼んでいた順は、前から座っていた順だった。 十一人目は、いちばん後ろの席にいた。 高校の三年間、私の隣のクラスにいた子だ。あの日、途中の停留所から乗ってきて、私の斜め前に座って、それから後ろに移った。理由は聞かなかった。 十二人目を出そうとした。 出てきたのは、同じ顔だった。もう一度やった。また後ろの席の子に戻る。三回やって、三回とも同じだった。 昼のあいだ、私は何もしなかった。兄は仕事の電話をしていた。夕方、アヤから「生きてる?」と来て、「生きてる」と返した。返してから、返し方を変えればよかったと思った。 午前0時。私は配信をつけた。 ハル「ん」 「ハルさん」 ハル「いるよ」 「今日、思い出した」 ハル「うん」 「十二人、顔が出てきた」 ハル「うん」 「でも、変なの」 ハル「なに」 「十二人ぶん出したのに、最後の二つが同じ顔だった」 カーソルが一度止まって、また動いた。 ハル「気づいた?」 「Kさんとハルさんが、同じ人?」 ハル「ん」 「なんで二つ持ってたの」 ハル「一つだと、おまえが十一人しか数えないから」 「ハルさん、それ、三年でいちばん長い」 ハル「今日はいい」 私はスマホを持ったまま、床に座り直した。 「ずるいよ」 ハル「ずるいね」 「三年も」 ハル「三年も」 「ハルさん、私、みんなのこと、生きてると思ってた」 ハル「知ってる」 「毎晩、おかえりって言われてた」 ハル「言ってたな」 「じゃあ、あれは誰が言ってたの」 ハル「おまえが覚えてる分だよ」 「消えてるのは」 ハル「思い出した分」 「じゃあ、私が思い出さなければ」 ハル「ずっといた」 「ずっと十二人だった」 ハル「そう」 「なんで、今月なの」 ハル「三年目だから」 「三年に意味あるの」 ハル「ないよ。おまえが持てるようになっただけ」 「兄ちゃんみたいな言い方する」 ハル「あの人、まともだよ」 「知ってるみたいに言うね」 ハル「隣で寝てるから」 右上は13のままだ。三年、一度も動いていない。 冷蔵庫が鳴りはじめて、少しして止まった。私は笑った。笑うところじゃないのに、声が出た。 「ハルさん」 ハル「ん」 「私、あの日、なんで生きてるの」 ハル「知らない。おれは死んだほうだから」 「そういう言い方する?」 ハル「する」 「ハルさん、あのとき、なんで後ろの席に移ったの」 ハル「それは、明日話す」 「今日でよくない?」 ハル「今日は、もう十分だろ」 ハル「おやすみ」 「まだ切らないよ」 ハル「わかってる」 二時を過ぎても、私はスマホを置かなかった。兄が寝返りを打った。 二時二十分に、一行増えた。 ハル「今日で終わりにする?」 第14話 点呼 朝、兄がコーヒーを淹れながら言った。 「昨日の話、聞こえてた」 「起きてたの」 「壁が薄い」 兄はカップを二つ出して、片方に砂糖を三杯入れた。私の分だ。三年前と同じ入れ方をする。 「兄ちゃん、知ってたよね」 「なにを」 「私が十二人って言ってること」 「聞いてた」 「知ってて、三年、何も言わなかった」 兄は座って、自分の分を飲んだ。熱かったらしく、一度置いた。 「先生に言われたんだよ。無理に剥がすなって」 「剥がすって」 「思い出は、おまえが持てるようになってから返せって」 「三年かかった」 「かかったな」 「なんで今なの」 「おまえが自分で数えはじめたからだろ」 「数えてたよ、ずっと」 「今までは、増やす数え方だった」 私はカップを両手で持った。砂糖が底に残っている。三年前も、兄は溶かさなかった。 「兄ちゃん、今日で最後にする」 「配信を?」 「点呼をする」 「なんの」 「十二人ぶんの」 「未奈、点呼って、なんだと思ってる」 「名前を呼ぶこと」 「呼んで、どうなる」 「わかんない。たぶん、いなくなる」 「じゃあ、やめてもいいんだぞ」 「やめない」 「なんでだ」 「三年、名前は呼んでたけど、返事を聞いてただけだった」 「うん」 「一回も、こっちから送ってない」 兄は少し黙って、それから台所の窓を開けた。風が入って、冷蔵庫に貼った紙の端がめくれた。留め直したのは兄だった。 夕方、私と一緒にスーパーへ行った。日用品の棚を通って、椅子の売り場の前で足が止まった。折りたたみのが千八百円で積んである。 私は一つ手に取って、戻した。 「買わないのか」 「今日は、いい」 「いつか買え」 「うん」 午前0時。私は配信をつけた。兄は部屋にいた。壁のほうを向いて座っていた。 ハル「ん」 「ハルさん、今日、点呼していい?」 ハル「いいよ」 「怒らない?」 ハル「怒らない。待ってた」 私はリストを開いた。十三行。名前のある行は一つだけ。 いちばん上の空欄に、指を置いた。声を出すのに、少し時間がかかった。 「たける」 十二になった。 「yuki」 十一。 「のん」 十。ピンクの髪。口を手で隠す笑い方。 「サバ缶さん」 九。膝の上のビニール袋。あの音は、缶が二つぶつかる音だった。 「Rei」 八。乗るときの、ありがとうございます。運転手さんは、たぶん聞こえていなかった。 急ぐことじゃない気がして、私は間を空けた。呼ぶたびに、顔が一つずつ出てくる。出てきて、数字が一つ下りる。 兄は何も言わない。私の声だけが、部屋の中で音を作っている。 「まっちゃさん」 七。魔法瓶。飲む? と聞く声。 「とーる」 六。誰も聞いていない理屈。 「カナ」 五。片方のイヤホン。 「白米さん」 四。もう片方のイヤホン。 「ぽむ」 三。膝の上のぬいぐるみ。名前は、結局わからないままだ。 部屋が静かになった。兄が息を吸う音が聞こえる。私は数字を見た。三。 三年間、この数字が十三から動くのを、私は一度も見たことがなかった。動いた原因が自分の声だというのが、いちばん受け入れにくい。 「ハルさん」 ハル「ん」 「痛かった?」 ハル「みんな?」 「うん」 ハル「一瞬だった」 「本当?」 ハル「本当。おれのは、な」 残った空欄は二つ。名前のある行はハルだけ。 「K」 二。 空欄は、まだ一つ残っている。私はその行を見た。三年間、ずっとそこにあった。誰も消えていない一日目から、この行はあった。登録日は五月十七日。私が配信をはじめる、十日前。 昨日は、十二人目の顔が出せなかった。今なら出る。 窓ガラスに映っていた顔だ。夜のバスの窓は鏡になる。私はずっとそれを見ていて、後ろの席の子と目を合わせないようにしていた。 ハル「まだいるよ」 「うん」 ハル「誰?」 「わかってる」 ハル「言える?」 「言う」 私は自分の名前を、少しだけ大きい声で言った。 「水野未奈」 空欄が閉じた。時計を見た。1時14分になったところだった。 兄が立ち上がって、私の背中に手を置いた。私は画面から目を離さなかった。 ハル「おやすみ」 「まだ切らないから」 ハル「うん」 「明日、話してくれる?」 ハル「話す」 右上の数字は、一。 第15話 おやすみ、未奈 兄は昼に帰った。帰りぎわに「電話しろ」と言って、玄関で三回ふり返った。 私はカレンダーをめくった。三年ぶんまとめてめくったら、紙が薄くて、指が滑った。 部屋には、椅子が一脚しかない。 午前0時。ボタンを押す。右上に、1と出た。 ハル「こんばんは」 「こんばんは。ハルさん、はじめてちゃんと挨拶した」 ハル「そうだっけ」 「三年、ずっと『ん』だったよ」 ハル「短いほうが楽だった」 ハル「未奈」 「うん」 「本名、久しぶりに聞いた」 ハル「呼んでよかった?」 「よかった」 「ハル。昨日の続き」 ハル「うん」 「あの日、なんで後ろの席に移ったの」 ハル「前に座ってたら、おまえが窓のほうばっかり向くから」 「向いてたっけ」 ハル「向いてた。目、合わせないようにしてただろ」 「合わせないようにしてたよ」 ハル「なんで」 「言うわけないでしょ、そんなの」 ハル「三年たっても?」 「三年たっても」 ハル「わかった。じゃあ聞かない」 「聞いてよ」 ハル「どっちだよ」 私は膝を抱えて座った。冷蔵庫が鳴りはじめて、また止まった。 「ハル。移らなかったら、助かってたかな」 ハル「前も後ろも、同じだった」 「わかんないじゃん」 ハル「わかるよ。おれは見たから」 「なにを」 ハル「全部」 「じゃあ、私だけ助かったのは」 ハル「それは、おれにもわからない」 「ハル、私、三年ずっと、みんな生きてると思ってた」 ハル「うん」 「サバ缶さんの晩ごはんも、まっちゃさんのお茶も、全部本当だと思ってた」 ハル「本当だよ」 「本当じゃないでしょ」 ハル「おまえが覚えてた分は、全部本当だ」 「じゃあ、缶詰工場の話は」 ハル「あれは嘘だ」 「そこは嘘なんだ」 ハル「本人が嘘だって言ってただろ」 私は声を出して笑った。三日ぶりくらいだった。 「ハル、三年、なんでいてくれたの」 ハル「おまえが毎晩、十二人って数えてたから」 「数えてたら?」 ハル「数えられてるうちは、いることになる」 「じゃあ、私がやめたら」 ハル「いなくなる」 「やめない」 ハル「やめていいよ」 「やめたくない」 ハル「知ってる」 1時13分になった。 音が鳴った。三年間、名前が消える直前に一度だけ鳴っていた音だ。今夜のは、長かった。私は最後まで聞いた。 「ハル、明日も来る?」 ハル「来ない」 「明後日は」 ハル「来ない」 「じゃあ、私が数えたら」 ハル「もう数えなくていい」 「数えたいって言ったら」 ハル「怒る」 「はじめて怒るって言った」 ハル「言ったな」 「ハル」 ハル「ん」 「椅子、十二脚あったよね」 ハル「見たか」 「見た」 ハル「片づけといた」 「いつ」 ハル「昨日の夜」 「ハル」 ハル「ん」 「ありがとう、じゃ足りない」 ハル「足りるよ」 1時14分。 ハル「おやすみ、未奈」 ハルの文字が、上から順に抜けていく。こんばんはが消えて、短いほうが楽だったが消えて、片づけといたが消えて、いちばん最後に、おやすみ、未奈が消えた。 右上の数字が、0になった。 私は配信を切った。天井の照明をつけた。部屋は明るくて、何も流していないプレビューだけが、まだ壁を向いていた。壁と、カレンダーの端と、制服が映っている。 それだけだった。 朝、アヤに電話した。三コール目で出た。 「なに、朝から」 「やめた」 「なにを」 「配信」 アヤは何も言わなかった。息だけが聞こえる。 「アヤ」 「うん」 「前に、一人も知らないって言ったよね」 「言った」 「今度、名前だけ聞いて」 「聞くよ。十二人ぶん?」 「うん。十二人ぶん」 「アヤ」 「まだあるの」 「今日、ごはん行こう」 「行く。おごって」 「なんでよ」 「泣いてる子にはおごらせるの。うちのルール」 「泣いてない」 「声でわかる」 私は窓を開けた。五月の朝は、思っていたより明るい。 スマホを机に置いて、充電の線を挿した。0時になっても、たぶん何もしない。 通知音は、もう鳴らない。
小説 · text · 2026-09-09
配信中に、視聴者が一人ずつ減っていく
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