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小説 · text · 2026-09-09

毎週金曜、同じメールが届く

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毎週金曜、同じメールが届くのカバー

作:黒川レン 第1話 週報 金曜の十七時。デスクのパソコンが小さく鳴る。 受信箱のいちばん上に、行が一つ増える。件名は「週報」。 差出人の名前を、私は三回読む。沢井亮。 沢井さんは、去年の十一月に亡くなっている。 「高村、なにその顔」 右隣から真帆が首を伸ばす。同期で、同じ営業事務で、私より声が大きい。 「変なメールが来た」 「迷惑メールでしょ。月収三千万とか書いてない?」 「書いてない」 「書いてあったら教えてね。半分もらうから」 「半分は多くない?」 「じゃあ六割でいい」 「増えてる」 「交渉って増えるものなの」 真帆が椅子ごと滑ってくる。キャスターの音が、フロアの端まで届く。 画面を見た真帆の口が、止まる。 「沢井さん、だよね」 「うん」 「アカウント、残ってたんだ」 「消したって、総務が言ってた」 「消したのに送れるなら、それもう総務の管轄じゃないでしょ」 本文を開く。一行しかない。 今週は、以上です。 署名もない。宛名もない。白い画面の真ん中に、その一行だけがある。 「締めだけ届いてる」 「そう」 「起承転結の、結」 「うん」 沢井さんの週報は、いつもこの言葉で終わっていた。金曜の夕方、その週に営業が動いた案件をまとめて、私に送ってくる。誰にも頼まれていない。私が営業日報の表をまとめる係だったから、それだけの理由で、二年続いた。 最後の行は必ず「今週は、以上です」だった。 その一行が、今は、いちばん上にある。 「沢井さん、生きてる時から結論を先に言う人だったもんね」 「メールの一行目に結論を書けって、真帆にも言ってた」 「言われた。守ってない」 「知ってる」 通路をはさんだ斜め向かいに、沢井さんの机がある。一年、そのままだ。モニタもキーボードも外されて、天板と引き出しだけが残っている。椅子は誰かが時々借りていく。 「あの机、いつまで置いとくんだろうね」 「総務が忘れてるんだと思う」 「忘れられた机に、忘れられたアカウント。うちの会社、ちょっと呪われすぎじゃない?」 「言い方」 「ねえ、これ誰かのいたずらってことは?」 「誰が」 「営業の若い子とか。ハロウィンだし」 「まだ十月の頭だよ」 「じゃあ気が早い子」 「気が早い子が、二年前の締めの一行だけ真似する?」 「しないね」 真帆が画面に顔を近づける。それから離れる。 「一行だけっていうのが、いちばんずるい」 「ずるい?」 「全部書いてあったら、逆に作り物っぽいもん。一行だと、続きを考えちゃう」 「考えたくない」 「私は考えた。もう三つ考えた」 「言わないで」 「言わない。今日は言わない」 返信ボタンを押してみる。宛先の欄に、沢井さんのアドレスが勝手に入る。「お疲れさまです」とだけ打って、送信する。 三秒で、エラーが返ってくる。宛先が存在しません。 「存在しないところから、存在するメールが来たわけだ」 「そうなる」 「情シスに投げなよ。三階の宇野さん、いつも暇そうだし」 「月曜にする」 「今日でしょ。金曜に先送りしたやつ、月曜の自分が全部恨むよ」 「知ってる」 フロアの奥で、馬場部長が鞄を持って立ち上がる。部長の席は窓を背にしていて、そこからフロア全体が見える。私の席まで、通路を七歩。 「お先。高村さん、まだいるの」 「もう帰ります」 「金曜だからね」 部長は非常階段のドアから出ていく。あの人はエレベーターを使わない。十五年いて一度も使ったことがない、と真帆が言っていた。 真帆もコートを着る。 「飲む?」 「今日はやめとく」 「メールのせい?」 「うん」 「幽霊を理由に飲みを断られたの、人生で初めてなんだけど」 「ごめん」 「いいよ。来週その話で二時間もつから」 真帆が手を振って、出ていく。 フロアに残るのは、私と、複合機の待機音だけになる。 もう一度、受信箱を開く。 夏にサーバーを入れ替えた。あのとき、送られないまま溜まっていた古いメールが流れ出したことがある。総務がお詫びの通知を出していた。だとすれば説明はつく。日付を見ればいい。去年の十一月より前の日付なら、それでいい。 メールの詳細表示をクリックする。 送信日時は、今日の十七時だった。 第2話 部長の席 火曜の朝、私は馬場部長の席の前に立っている。 部長の席は窓を背にしている。座っている人からは、フロア全体が見える。立っている私からは、逆光で顔がよく見えない。 「メールの話です」 「うん」 「沢井さんのアドレスから、金曜に届きました」 部長がペンを置く。それから、マグカップを口に運ぶ。飲まないで、また置く。 「いつの日付」 「先週の金曜です。十七時ちょうど」 「本文は」 「一行だけです。今週は、以上です、と」 部長は窓のほうを見ない。私のほうも見ない。パソコンの画面を見ている。 「総務に言っておく」 「情シスのほうがいいと思います」 「両方に言っておく」 「はい」 「気味が悪いね」 そう言う声は、書類を読んでいるときと同じ高さだった。 「沢井さんのアカウント、消してありますよね」 「消したはずだよ」 「誰が消したか、わかりますか」 「総務じゃないの。ああいうのは総務だ」 「わかりました」 部長がやっとこっちを見る。 「高村さん」 「はい」 「沢井は真面目すぎたんだよ」 「はい」 「頼まれてないものまで作る。週報だってそうだ。誰も出せと言ってない」 「私が表をまとめてたので」 「うん。だから沢井は君に送った。真面目すぎた」 部長はそこで話を切って、また画面に戻る。私は自分の席に帰る。 席に戻ると、真帆が椅子を寄せてくる。 「どうだった」 「気味が悪いね、って」 「それだけ?」 「総務に言っておく、って」 「うちの総務、蛍光灯の交換に二週間かかったよ」 「知ってる。私が申請した」 「幽霊のほうが仕事早いじゃん」 「その言い方やめて」 火曜の午後、私は総務に内線をかけた。出たのは、蛍光灯の申請を二週間放置した人だった。 「退職された方のアカウントって、どのくらいで消しますか」 「規定だと、退職の翌月末までですね」 「亡くなった場合も同じですか」 受話器の向こうで、椅子が鳴る音がした。 「同じ、だと思います。ちょっと待ってください」 保留の音楽が流れる。一分半流れる。 「お待たせしました。規定どおり処理済みです」 「処理済み」 「はい。記録はそうなってます」 「わかりました。ありがとうございます」 「あの、なにかありました?」 「いえ。番号の整理です」 嘘をついた理由は、自分でもうまく説明できない。 水曜も木曜も、何も来ない。 木曜の夜、私は少しだけ期待した。金曜になれば、総務か情シスから「アカウントを止めました」という連絡が来て、それで終わる。そういう終わり方がいちばんいい。 連絡は来なかった。 金曜。十六時五十分から、私は時計を見ている。 十七時ちょうど、パソコンが小さく鳴る。 件名、週報。差出人、沢井亮。 「来た?」 「来た」 真帆が椅子ごと滑ってくる。途中で一度止まって、また滑ってくる。 本文を開く。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 「増えてる」 「増えてる」 「先週は一行だったよね」 「一行だった」 「今週は二行」 「うん」 真帆が指で画面を数える。一、二。私にも聞こえるくらいの声で数える。 「これ、来週は三行になるってこと?」 私は答えない。 「わかんないけど、そう思ったでしょ」 「思った」 「私も思った」 真帆が椅子の背にもたれる。 「ねえ、下の行が先週より上に来てるとかじゃないよね」 「下に増えてる。上の行は動いてない」 「じゃあ順番に書いてるんだ」 「順番に書いてる」 「締めの一行を書いたあとに、続きを書いてるってこと?」 「そうなる」 「それ、社会人としてどうなの」 「真帆」 「ごめん。怖くなると口が動くの」 私は二行目をもう一度読む。 発注書の件、確認中です。 発注書は、私の仕事だ。営業が持ってきた発注書を受け取って、番号を振って、控えをファイルする。年に何百枚も触っている。沢井さんが「確認中」にする理由が、私には思いつかない。 「なんの発注書だと思う」 「わからない」 「高村、顔が仕事してる」 「仕事の話だから」 真帆は何か言いかけて、やめた。 私は送信日時の欄を開く。今日の十七時ちょうど。秒の欄まで、先週と同じ数字が並んでいる。 二行目に、発注書、と書いてあった。 第3話 社畜すぎ 給湯室で、真帆がインスタントの粉をマグカップに入れすぎている。 「三杯目だよ、それ」 「二杯目。一杯目はこぼした」 「なんでこぼしたの」 「メールのこと考えてたから」 「うつってる」 「うつるよ。同じ島にいるんだから」 真帆がポットのお湯を注ぐ。湯気で眼鏡が曇る。 「私、月曜からずっと考えてたんだけどさ」 「うん」 「幽霊が週報とか、社畜すぎない?」 私は笑ってしまう。給湯室の外に聞こえるくらいの声が出て、あわてて口を押さえる。 「笑うとこじゃなかった?」 「笑うとこだと思う」 「よかった。三日温めた」 「三日は温めすぎ」 真帆はマグカップを両手で持って、ドアにもたれる。 「でもさ、真面目に言うと、それが引っかかるの」 「どこが」 「化けて出るなら、恨みとか、名前とか、そういうのじゃない? なんで週報なの」 「週報だったからだと思う」 「え?」 「沢井さんの金曜は、週報だったから」 沢井さんは毎週金曜の十七時に週報を送ってきた。私が営業日報の表をまとめる係になった年から、二年間、一度も抜けなかった。 二年、と言っても、私が係になったのは年明けからだ。丸二年には、少し足りない。 出張の週も、風邪の週も、送られてきた。旅先の駅から送ってきたこともある。あの人は誰にも頼まれていない仕事を、勝手に決めて、勝手に続ける人だった。 「一回だけ、私が言ったことがあるの」 「なんて」 「そんなに丁寧に書かなくていいですよ、って」 「沢井さん、なんて言った?」 「書かないと、忘れるから、って」 「忘れる?」 「言った本人が忘れるから、書いておくんだ、って」 真帆がマグカップから口を離す。 「それ、こわい」 「今聞くと、こわい」 席に戻る。斜め向かいの空き机が目に入る。天板の上には何もない。 「あの机さ」 「うん」 「引き出し、開けたことある?」 「ない」 「私もない。誰か開けたのかな」 「総務が中身を出したはずだよ。私物は実家に送ったって聞いた」 「じゃあ空っぽか」 「空っぽだと思う」 昼休みに、私は自分の受信箱をさかのぼった。 沢井さんの週報は、二年分そのまま残っている。九十七通ある。去年の十一月十二日が最後だった。 開いてみる。書き出しはいつも同じで、お疲れさまです、から始まる。案件の名前が箇条書きで並んで、金額が入って、最後に「今週は、以上です」で終わる。 誤字が一つもない。二年で一つもない。 「九十七通あった」 「多」 「毎週だから、そのくらいになる」 「読み返したの?」 「全部は無理。最後の五通だけ」 「なんて書いてあった」 「普通のことしか書いてない」 「普通って?」 「案件と、金額と、来週の予定」 「じゃあ、今来てるやつのほうが変ってこと?」 「今来てるやつは、案件が書いてない」 真帆がストローで紙パックの底を鳴らす。 「案件の書いてない週報って、それもう週報じゃなくない?」 「うん」 「じゃあ何なの」 私が答えないでいると、真帆はそれ以上聞かなかった。 金曜の午後は、いつも人が減る。営業は直帰する。フロアの奥で、部長だけが電話をしている。声は聞こえない。ガラスの向こうの空が、四時半にはもう暗い。 十七時。パソコンが小さく鳴る。 件名、週報。差出人、沢井亮。 本文を開く。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 「三行」 「三行だね」 「ちゃんと増えてる」 「ちゃんとって言い方やめて」 真帆が身を乗り出して、三行目を声に出して読む。 「セイエイ企画。知ってる?」 「知らない」 「取引先じゃないの?」 「わからない」 「わからないって、高村がわからないのはおかしいでしょ。発注書、全部あんたが触ってるじゃん」 「触ってる。だから、おかしい」 私はマスタの画面を開く。取引先の一覧。五十音で並んでいる。せ、の行までスクロールする。 西武、清和、瀬田印刷。 「無いね」 「無い」 「登録し忘れてるだけかも」 「あるかもしれない」 「あるかもしれない、で今日は帰ろう」 「うん」 「高村。今日は帰るからね。私が言うんだから帰るからね」 真帆が自分のコートと、私のコートを両方持ってくる。 エレベーターの中で、真帆が天井を見ながら言う。 「セイエイ企画って、なんかありそうな名前だよね」 「ありそう」 「ありそうな名前がいちばん困る」 「困る」 ドアが閉まる。私は三行目の書き方を思い出している。という会社です、と書いてある。自分が担当している取引先を、人はそんなふうには書かない。 三行目に、会社の名前があった。 第4話 転送 金曜の十六時五十五分。真帆が自分の椅子を、私の席の横まで運んでくる。 「見てる」 「見なくていいよ」 「見る。今日は最初から見る」 「暇なの?」 「暇じゃない。怖いだけ」 十七時。パソコンが小さく鳴る。 件名、週報。差出人、沢井亮。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 「四行」 「四行」 「増え方が几帳面すぎる」 「沢井さんだから」 「一週間に一行しか書けない幽霊、なんかリズムが会社員なんだよ」 四行目を読む。見積書のフォントが、うちのと同じでした。 見積書は取引先が作って、こちらに送ってくる。だから会社ごとに書式が違う。フォントも違う。同じになる理由はない。 「うちのフォントって、なに使ってるんだっけ」 「テンプレのやつ。営業部の共有に入ってる」 「じゃあ、うちで作った見積書ってこと?」 「そうは書いてない」 「書いてないけど、そう読めるじゃん」 「読める」 真帆が指を鳴らす。 「転送して」 「え?」 「私に転送して。二人で持ってたほうがいいでしょ。記録っていうか、保険っていうか」 「そうだね」 転送ボタンを押す。宛先に真帆のアドレスを入れる。件名の頭に、自動でFwが付く。 送信。 真帆が自分の席に戻って、椅子を引く。マウスが二回鳴る。 「来た」 「開いて」 「開いてる」 真帆が黙る。三秒。五秒。 「高村」 「なに」 「空なんだけど」 私は真帆の席まで歩く。三歩。真帆の画面に、Fw:週報、が表示されている。差出人は高村咲。 本文の欄は、白い。一行も入っていない。 「送信ミス?」 「したつもりはない」 「もう一回やって」 自分の席に戻って、もう一度転送する。今度は本文の欄に「四行あります」と自分で打ち足してから送る。 「来た」 「どう」 「四行あります、だけある」 「私が打った文字だけ?」 「打った文字だけ」 真帆が椅子から立ち上がって、私の席まで来る。 「あんたの画面には見えてるんだよね」 「見えてる」 「私も今、見えてる」 「見えてるね」 「じゃあ、なんで送ると消えるの」 「わからない」 「写真」 「え?」 「スマホで撮る。画面ごと撮ればいいじゃん」 真帆がスマホを構えて、私の画面を撮る。カシャ、と間の抜けた音がする。 撮った写真を二人で見る。私の机が写っている。マグカップが写っている。モニタの枠も写っている。 画面の中の、本文の部分だけが、白い。 「壊れた?」 「他のところは写ってる」 「壊れてないね」 「壊れてない」 真帆はもう一度撮る。角度を変えて撮る。フラッシュをたいて撮る。三枚とも同じだった。 スマホを置いて、真帆が長く息を吐く。 「あのさ。今日、ちょっとだけ本気で言うね」 「うん」 「これ、あんただけに来てるやつだ」 「うん」 「私、そういうの映画でしか見たことない」 「私も」 「映画だとこのあと、主人公が一人で調べに行くんだよ」 「行かないよ」 「行くよ。高村は行くタイプ」 「行かない」 「行くって。あんた蛍光灯の申請も一人でやったじゃん」 「蛍光灯と一緒にしないで」 「じゃあ、こうしよう」 真帆がマウスを取って、本文の上をドラッグする。四行が青く反転する。 「コピーして、メモ帳に貼る。ファイルにしちゃえば、もうメールじゃないでしょ」 「頭いい」 「私、こういう時だけ頭いいの」 真帆が右クリックでコピーを押す。メモ帳を開いて、貼り付けを押す。 何も起きない。 「押した?」 「押した」 「もう一回」 「押してる。三回押した」 白い四角が、白いままそこにある。真帆が貼り付けのメニューを開いて、そこを指さす。 「灰色になってる」 「灰色って?」 「クリップボードが空、ってこと。コピーできてないの」 「反転はしてるのに」 「してるのにね」 真帆はマウスを置いて、手のひらをズボンでこすった。 真帆が笑う。笑ってから、真顔になる。 「明日、電話していい? 土曜に」 「なんで」 「生きてるか確かめる」 「生きてるよ」 「わかってるけど、かける」 「かけて」 真帆が帰ったあと、私はもう一度、転送を試す。今度は自分の携帯のアドレスに送る。 届いたメールを、階段の踊り場で開く。 本文は、白かった。 受信の時刻だけが、十七時ちょうどと出ていた。私が送ったのは、十八時をすぎてからだ。 このメールは、私にしか読めない。 第5話 三階 情報システム室は三階の、階段のすぐ横にある。窓がない。ドアに「情報システム室」と印刷した紙が貼ってあって、四隅のうち二つがめくれている。 月曜の昼、私はそのドアをノックした。中から返事が三回目で返ってきた。 宇野さんは、モニタを三枚並べた机の奥にいる。うちの会社で情シスは一人だけだ。 「高村さん、営業事務の」 「はい。メールのことで」 「聞いてます。総務から来ました」 「なんて聞いてますか」 「気味の悪いメールが来る、と」 「合ってます」 宇野さんは椅子を回して、私のほうを向いた。 「調べていいですか」 「お願いします」 「時間かかります。うち、僕しかいないので」 「わかります」 「わかってくれる人、この会社で二人目です」 「一人目は」 「僕です」 真顔で言うので、笑っていいのか迷った。 水曜に一度、木曜にもう一度、宇野さんからメールが来た。どちらも「まだです」だけだった。 金曜。十七時。パソコンが小さく鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 「五行」 真帆が横から数える。 「三年分って書いてあるけど」 「書いてある」 「なにを三年分探すの」 「発注書だと思う」 「三年分って、段ボールで何箱?」 「うちの部だけで、たぶん六箱」 「六箱を、金曜の夜に一人で探すやつがいる?」 「いたんだと思う」 「社畜の鑑じゃん」 「真帆」 「褒めてる。褒めてはいる」 私はノートパソコンを閉じて、抱える。 「三階、行ってくる」 「今から?」 「今、来てるところを見せたい」 「私も行く」 「いい。二人で行くと、宇野さんが逃げる」 「なんでよ」 「人が二人来ると、たいてい怒られる時だから」 「情シスの人生、しんどいな」 三階の小部屋は、昼より暗かった。宇野さんは同じ姿勢で座っていた。 「来ました」 「見せてください」 机の端にノートパソコンを置いて、開く。五行のメールを見せる。 宇野さんは画面に顔を近づけて、それからマウスに手を伸ばし、私の許可を取ってからヘッダを開いた。文字がずらっと出る。読めない英数字の並びの中に、私にもわかる単語がいくつかある。 「送信元、社内です」 「社内」 「うちのサーバーから出てます。外から入ってきた形跡はないです」 「じゃあ、誰かが社内から送ってるってことですか」 「そう見えます。ただ」 「ただ?」 宇野さんが画面を指でなぞる。 「このアカウント、削除済みです」 「削除済み」 「消えてます。ユーザー一覧に無い。パスワードもメールボックスも無い。無いものから送られてます」 「そんなことありますか」 「ないです」 「でも来てます」 「来てますね」 「一つ聞いていいですか」 「はい」 「返信、しました?」 「一回だけ。先月です」 「返ってきました?」 「エラーが。宛先が存在しません、と」 「そうなるはずです。そこは正常なんですよ」 「正常」 「消えたアカウントに送れば、エラーになる。それが正しい。おかしいのは、逆向きだけです」 「片道だけ通ってるってことですか」 「片道だけ通ってます」 宇野さんはそう言って、自分の言葉に納得がいかなかったような顔で、眼鏡を外して拭いた。 「転送はどうなりますか」 「転送は普通にできるはずです」 「できました。でも、相手の画面は空でした」 拭いていた手が止まる。 「空、というのは」 「本文が一行もない状態です。二回やって、二回とも」 「それは、僕の知ってる仕組みでは起きないです」 「写真も撮りました。本文のところだけ写りません」 「写らない」 「はい」 「高村さん」 「はい」 「その話、僕がしたら、頭を心配されるやつです」 「私がしても同じです」 宇野さんは椅子の背にもたれて、天井を見た。天井には、丸い染みが一つある。 「正直に言っていいですか」 「はい」 「僕、こういうの信じない人間なんです」 「私もです」 「なので、たぶん誰かがやってます。予約送信を仕込んだとか、そういう」 「一年前に仕込んだ予約送信が、毎週一行ずつ増えますか」 「増えないです」 「ですよね」 「増えないんですよ」 宇野さんは、そこで少し黙った。それから、キーボードを叩き始めた。 「削除の記録、探せますか」 「探せます。申請の履歴が残ってるはずなので」 「いつ削除されたか、わかりますか」 「たぶん」 「もう一つ、いいですか」 「どうぞ」 画面の光が、宇野さんの眼鏡に四角く映っている。私は自分の指が、ノートパソコンの縁を押さえているのを見た。 「削除したのは、誰ですか」 第6話 三段 十七時。パソコンが小さく鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 「六行」 「六行」 「今週のは、ちょっと違うね」 「違う」 「今までのは、こうでした、って報告じゃん。今週のは、置いてきました、って感じ」 「うん」 「どこに置いたか書いてあるし」 真帆が斜め向かいを見る。私も見る。 沢井さんの机は、通路をはさんだ向こうにある。天板の上には何もない。三段の引き出しの、いちばん上の取っ手だけが、少し曲がっている。 「見る?」 「見ないって選択肢ある?」 「ない」 「じゃあ聞かないでよ」 十八時を過ぎると、フロアの人が減る。営業が二人残っていたが、十八時半に出ていった。馬場部長は今日、外に出たまま戻っていない。 残ったのは、私と真帆だけになる。空調が止まる時刻で、天井の風の音も消えている。 「私、見張ってる」 「見張るって、誰から」 「わかんない。人か、人じゃないやつか」 「頼りにしてる」 「あと、これ怒られたら私が言ったことにしていいよ」 「なんで」 「私、去年一回も怒られてないから、貯金がある」 「怒られの貯金」 「使いどきでしょ、今」 「開ける前に一個いい?」 「なに」 「怒られるのは机を開けたことじゃなくて、たぶん、何が入ってたか言うほうだからね」 「わかってる」 「わかってるならいい」 「真帆は見なくていいよ」 「見る。一人で見たら、あんた次の日に嘘つくもん」 「つかない」 「つくよ。何もなかった、って言う顔で言う」 「その顔、どんな顔」 「今の顔」 私は沢井さんの椅子を引いて、そこに座る。椅子は少し低い。背もたれが後ろに倒れやすい。 机の高さから見るフロアは、自分の席から見るのと違って見える。給湯室のドアは、ずっと手前だ。部長の席は、まっすぐ前にある。ここに座ると、部長と目が合う位置だ。 「どう?」 「部長の席が、よく見える」 「そりゃ見えるでしょ、同じフロアだもん」 「そうだね」 いちばん上の引き出しを開ける。 軽い。何も入っていない。木の底が見えるだけだ。 「空?」 「空」 二段目を開ける。クリップが二つと、輪ゴムが一本。それだけ。 「クリップ二つで一年待ってたと思うと、ちょっとかわいそう」 「言い方が難しいね」 「難しいの、私も言いながら思った」 三段目は、深い。書類を立てて入れるやつだ。 取っ手を引く。レールが渋くて、途中で止まる。持ち上げるようにして、もう一度引く。 空だった。 仕切りも、ファイルも、紙一枚もない。 「なんもない」 「なんもない」 「総務が全部出したんだよ。前に言ってたじゃん、私物は実家に送ったって」 「送ったのは私物でしょ。書類は会社のものだから、部内で引き継ぐはず」 「引き継いだ人、誰?」 「知らない」 「知らないんだ」 「引き継ぎの連絡、来てない」 真帆が黙る。それから、机の縁を指で叩く。 「一年、誰も引き継いでないってこと?」 「沢井さんの案件は、部長が全部持った」 「そう聞いた?」 「朝礼で言ってた。去年の十一月に」 「じゃあ書類も部長のとこか」 「そうなる」 「じゃあ、この机が空なのは普通じゃん」 「普通」 「普通なんだけど、なんかすっきりしない」 「私も」 「なんで」 「片づけた人が、机の上に何も置いていかないから」 「え?」 「ふつう、片づけると何か残るの。輪ゴムとか、クリップとか」 「二段目にあったよ」 「二段目にはあった。三段目には、それも無い」 「一応さ、その引き出し、いちばん奥まで引いてみて」 「引いてる」 「もっと。抜けるまで」 両手で持って、まっすぐ引く。レールが鳴って、引き出しが本体から外れる。重い。床に置く。 外した穴の奥にも、何もない。 私は床に置いた引き出しを覗き込む。それから、真帆が携帯のライトをつけて、中を照らした。 白い光が、木の底を舐める。 「なにこれ」 「見えてる?」 「見えてる」 引き出しの底に、テープの跡があった。 第7話 検索 テープの跡は、四角かった。 縦二十センチ、横十五センチくらい。ガムテープを二本、平行に貼って、剥がした跡。木の色が、そこだけ薄く残っていた。 封筒か、薄いファイルか。そのくらいの大きさのものが、引き出しの底に貼りつけてあった。 「誰かが持ってったんだよ」 月曜の朝、真帆が私の席の横で言った。 「かもしれない」 「かもしれないじゃなくて、そうでしょ。自分で剥がしたなら、テープごと持ってく理由がないもん」 「自分で剥がしたのかもしれない」 「一年前に? その日に?」 私は答えなかった。 「高村さ、可能性を平等に扱いすぎ。裁判官なの?」 その週、私は発注書の控えを見た。 三年分の綴じファイルが、書庫に十四冊あった。私が番号を振って、私がファイルした紙だ。どこに何があるかは全部わかる。だから、四冊にまたがっているのもすぐわかった。 セイエイ企画。 発注書は四枚あった。一昨年の九月、去年の二月、去年の六月、去年の十月。金額は四枚とも、百万円をわずかに下回っていた。 百万円以上は役員決裁だ。四枚とも、その手前で止まっていた。 書式はうちのテンプレートだった。担当営業の欄には、沢井亮、と印字されていた。 決裁の欄には、部長印が押してあった。押してあるのが普通で、発注書は全部そうなっていた。 「取引先の住所、書いてある?」 「書いてある」 真帆がスマホで住所を打ち込んだ。地図が出た。 「ビルだね。ふつうのビル」 「階と部屋番号は」 「六階の、六〇二」 真帆が写真の画面に切り替えた。通りから撮った写真が出た。テナントの看板が一枚。 「六階、入ってないっぽい」 「写真が古いだけかも」 「かもね」 会社名で検索した。セイエイ企画。 同じ名前の会社が二つ出た。一つは静岡の建設会社。一つは十年前に閉鎖されたブログ。どちらも違う。 法人番号の検索も試した。名前を入れて、住所を入れて、絞り込んで、押した。 該当する法人が見つかりません、と出た。 「出ない」 「出ないって、どういうこと」 「わからない。私、この検索を使うの初めてだから」 「入力ミスは」 「三回やった」 「三回やって出ないのは、ミスじゃないよ」 「かもしれない」 「また、かもしれない」 「本当にわからないの。私は経理じゃないから、支払いの記録は見られない。この紙だけだと、発注書があるってことしかわからない」 「発注書があって、会社が無い」 「無いとは言ってない。見つけられない」 「高村、それ言葉を選びすぎ」 「選んでる」 「なんで」 「間違ってたら、人が一人、変な目で見られるから」 真帆が口を開けて、閉じた。 「じゃあ言い方変えるね」 「うん」 「この四枚、なんで沢井さんが自分で調べてたの」 「担当だから」 「担当だったら、調べる必要ある? 自分が発注したんでしょ」 私は四枚をもう一度めくった。 「印字だ」 「なにが」 「担当営業の欄、手書きじゃない。テンプレートに打ち込んだ字」 「他の発注書は?」 書庫から別の綴じファイルを持ってきて、開いた。二十枚めくった。 「手書きが多い。急ぐときは営業がその場で書くから」 「四枚は全部、印字」 「全部、印字」 「それって、誰が打っても同じってこと?」 「同じ」 「高村」 「言わないで」 「言わないけど、あんた今、同じこと考えてるよね」 「考えてない」 「嘘」 「考えないようにしてる」 発注書には、電話番号が印字されていた。 水曜の昼休み、私は非常階段の踊り場でその番号にかけた。 呼び出し音が鳴った。八回鳴って、切れた。 木曜の昼、もう一度かけた。今度は十二回鳴らした。誰も出なかった。 誰も出ないだけだ。昼休みかもしれない。小さい会社かもしれない。そう思うことにした。 金曜。十七時。パソコンが鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 電話をかけましたが、誰も出ません。 私は画面から目を離せない。七行目を三回読む。 私が水曜と木曜にしたことが、そこに書いてある。一年前に死んだ人の週報に、書いてある。 「高村」 真帆の声じゃない。 振り返ると、部長が私の席の横に立っている。通路を七歩、歩いてきた音が、私には聞こえなかった。 私は画面を消さない。消したら、消したことがわかる。 「明日、沢井の一周忌だね」 「はい」 「一年か」 「はい」 部長は私の机の上を見ている。マグカップと、ペン立てと、閉じたファイル。 「最近、残業多いね」 第8話 手帳の丸 今週は、定時で帰る。 月曜にそう決めて、火曜に手帳へ書いた。金曜、十七時、退社。丸で囲んだ。 水曜のうちに、金曜の分の入力を終わらせた。木曜は昼を十五分で切り上げて、伝票を片づけた。 金曜の朝、真帆が私の手帳を覗き込む。 「丸がついてる」 「ついてる」 「なに、記念日?」 「帰る日」 「帰る日を丸で囲む会社員、いる?」 「ここにいる」 「じゃあ私も囲む」 真帆は自分の手帳を出して、赤いペンで金曜のところに丸を書いた。丸が大きすぎて、土曜まではみ出していた。 十五時。私は机の上を片づけ始める。 十五時二十分。営業の若い子が、封筒を持ってくる。 「高村さん、これ今日中って言われて」 「何枚」 「六枚です」 「置いといて」 「すみません」 「謝らなくていいよ。持ってきた人が悪いわけじゃないから」 六枚は二十分で終わるはずだった。二枚目で番号が飛んでいるのに気づいて、書庫まで確認に行った。三十分かかった。 十六時。戻ってくると、電話が鳴っている。取引先だった。先月の請求の件で、担当が捕まらないという話だった。担当は外にいる。私が伝言を受けて、内容をメールにして、二人に転送する。 十六時十五分。 「まだ丸、生きてる?」 「生きてる」 「顔は死んでる」 「顔の話はしないで」 「ねえ、今日おかしくない?」 真帆が椅子を寄せてくる。 「何が」 「仕事の来る速さ」 「金曜だから」 「金曜だけど、金曜にしても多い」 「私が数えてないだけかも」 「数えてるよ、私が。三十分に一個ずつ来てる」 「たまたま」 「たまたまが四回続いたら、それは予定って言うんだよ」 「言わない」 「言うの。うちの部長がいつも言ってる」 十六時三十分。プリンタの前で紙が詰まった。詰まったのは私の書類ではない。誰の書類でもなかった。誰も来ないので、私が開けて、取った。手にトナーがついた。給湯室で洗った。 十六時四十分。 席に戻ると、部長がフロアの奥から手を上げている。 「高村さん、ちょっといい」 私は席を立って、フロアの奥まで歩く。 「悪いけど、これ。月曜の朝にいるんだ」 クリアファイルが差し出される。中身を見る。数字の並んだ表が三枚。突き合わせの仕事だ。 「月曜の朝、でいいですか」 「うん。月曜の朝」 「じゃあ、月曜の朝にやります」 部長の手が止まった。 「今日はもう帰るの」 「はい」 「珍しいね」 「そういう日もあります」 「そうか」 部長は書類を引っ込めなかった。私はそれを受け取って、席に戻った。受け取ってしまったことに、席に着いてから気づいた。 十六時五十分。 私はコートを取る。真帆がこっちを見る。 「行ける?」 「行ける」 鞄を持つ。椅子を机の下に入れる。パソコンの電源を落とすために、マウスを動かす。 十六時五十二分。内線が鳴る。 取らない、という選択肢が一瞬あって、私はそれを取れなかった。三回目で受話器を上げた。 経理からだった。今日の締めに、伝票が一枚足りないという。番号を読み上げられる。私が今日振った番号だった。封筒の六枚のうちの、四枚目だ。 「今、探します」 「助かります。十七時十分までに、お願いできますか」 「はい」 受話器を置く。コートを椅子の背にかける。座る。 真帆が何も言わずに、自分の椅子をこっちに寄せてくる。 十六時五十八分。 伝票は封筒の中にあった。番号を読み上げて、内線を切る。二分かかった。 パソコンが小さく鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 電話をかけましたが、誰も出ません。 金曜は、帰れません。 「八行目」 「読まないで」 「読んだよ、もう」 「私も読んだ」 真帆がコートの袖をつかんでいる。私のコートだ。椅子の背にかけたままの。 「一個ずつ、全部説明つくんだよね」 「つく」 「封筒六枚も、番号の飛びも、電話も、紙詰まりも、部長の書類も、経理の締めも」 「全部つく」 「つくのに、全部同じ日に来た」 「来た」 「これ、来週もやる?」 「やらないと、たぶん何もわからない」 「じゃあ来週も付き合う」 「いいよ」 「よくない。私、金曜に一人で飲むの嫌いだから」 「高村。これ、私たち何と競争してるの」 私は答えられなかった。 「わかんないけど、今、負けたよね」 「うん」 十七時に、私はまだ席にいた。 第9話 去年の十一月 訃報のメールは、受信箱に残っていた。 総務からの一斉配信。件名は「弊社社員の逝去について」。差出人は総務部。配信は去年の十一月二十二日、月曜の朝八時五十七分。 本文は九行あった。 沢井亮が亡くなったこと。不慮の事故であること。葬儀は近親者のみで行うこと。香典と供花は辞退すること。業務の引き継ぎは追って連絡すること。 三行目に、日付が書いてあった。 十一月十九日、夜。 「金曜」 真帆が私の画面を見て、言う。 「うん」 「去年の十一月十九日って、金曜?」 「金曜」 「調べた?」 「調べた。カレンダーを出して、三回見た」 真帆が自分のスマホを出して、去年のカレンダーを出す。指でスクロールする。 「金曜だ」 「うん」 「金曜の、夜」 「うん」 最後の一通は、去年の十一月十二日だった。その次の金曜が、十九日だ。 十九日の週報は、来ていない。 「書きかけだったってこと?」 「そう思う」 「書いてる途中で、帰ることになって」 「うん」 「帰る途中で」 「うん」 真帆はそこで言葉を止めた。私も続けなかった。 昼休み、私たちは会社を出て、駅前の店に入った。会社の建物が見えない席を選んだのは、たぶん二人ともわざとだ。 「聞いていい?」 「いいよ」 「沢井さんが亡くなった週、どんなだった?」 「忙しかった。十一月は毎年忙しい」 「高村も残ってた?」 「私は水曜まで。木曜と金曜は休みを取ってた」 「休み?」 「祖母の法事。前から決まってた」 「じゃあ、あの日、いなかったんだ」 「いなかった」 「咲」 「なに」 真帆が私を名前で呼ぶのは、ふざけていない時だけだ。七年で、たぶん五回もない。 「あんたのせいじゃないよ」 「言ってない」 「言ってないけど、顔がそう言ってる」 「顔の話はしないでって言った」 「今日はする」 真帆がスプーンでコーヒーをかき混ぜる。砂糖を入れていないのに、かき混ぜている。 「私、あの日のこと、あんまり覚えてないの」 「私も」 「金曜だったのも、今まで知らなかった」 「私も知らなかった」 「一年、知らないままだった」 「うん」 「ねえ。それって、誰も金曜って言わなかったってこと?」 「言わなかったんだと思う」 「言わないよね、普通。何曜日だったかなんて」 「言わない」 「もう一個聞いていい?」 「どうぞ」 「あの週の週報、来てないんだよね」 「来てない」 「じゃあさ、書きかけの下書きって、どこにあるの」 「サーバーだと思う。宇野さんが前に言ってた。下書きも本人のところに保存される、って」 「そのアカウント、消えてるんでしょ」 「消えてる」 「消えたのに、下書きだけ残ってるってこと?」 「残ってるとしたら、そうなる」 「それ、宇野さんに聞いた?」 「まだ」 「聞きなよ」 「聞く」 「あのさ。私、幽霊の話だと思ってたの、先月まで」 「今は」 「今は、書類の話に聞こえる」 「私も」 「そっちのほうが怖いって、なんなんだろうね」 午後は、二人とも仕事が進まなかった。 十六時を過ぎたころ、真帆が小さい声で言った。 「今日、来るね」 「来る」 「私、今日は帰らない。あんたが帰るまで帰らない」 「今日は、たぶん帰れるよ」 「なんで」 「今週は、帰ろうとしてないから」 真帆が首を傾げた。私も、うまく説明できなかった。 十七時。パソコンが鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 電話をかけましたが、誰も出ません。 金曜は、帰れません。 今日も、帰れません。 真帆は数えない。指も出さない。 「先週が、金曜は、帰れません」 「今週が、今日も、帰れません」 「今日って、いつの今日?」 私は答えない。 「わかんないけど、十一月十九日だと思ってるでしょ」 「思ってる」 「私も思ってる」 真帆は帰り支度をしながら、こっちを何度も見た。 「今週は、電話しない」 「土曜に?」 「土曜に、しない」 「なんで」 「出なかったときのこと、考えたくないから」 その夜、私は電車を一本見送った。ホームのベンチに座って、何を見るでもなく、時刻表を見ていた。 家に帰って、有給の申請画面を開いた。理由の欄は「私用」でよかった。 次の金曜、私は休みを取った。 第10話 休んだ日 金曜の朝、私は十時まで寝ていた。 起きて、洗濯機を回して、掃除機をかけた。冷蔵庫の中を全部出して、拭いて、戻した。奥から賞味期限の切れたポン酢が出てきた。三月のだった。 昼に真帆からメッセージが来る。 「生きてる?」 「生きてる。ポン酢が死んでた」 「なにそれ」 「三月で切れてた」 「うちの冷蔵庫にもいる。たぶん去年の」 「捨てて」 「あんたが帰ってきてから、一緒に捨てる」 「なんで一緒に捨てるの」 「一人で開ける勇気がないから」 うちの会社のメールは、社外から見られない。持ち出し用の端末は申請制で、営業しか持っていない。 つまり今日、私は自分の受信箱を開けない。 そう決まっていることが、今日はありがたかった。 十六時。私は洗濯物を畳んでいた。 十六時半。畳み終わって、テレビをつけた。ニュースがやっていた。内容は頭に入らなかった。 十六時五十分。テレビを消した。 私は台所に立って、湯を沸かした。沸くまで、ケトルの前に立っていた。 十七時。 部屋では、何も鳴らなかった。 冷蔵庫の音がしていた。それだけだった。 十七時十二分、真帆から着信があった。 「今、いい?」 「いいよ」 「あのさ。落ち着いて聞いてね」 「落ち着いてる」 「あんたの席、鳴った」 「鳴った?」 「戻ってきたら、あんたの席が鳴ったあとだった」 「時間、わかる?」 「十七時ちょうど。戻って携帯を見たら、十七時一分だったから」 「パソコン、つけっぱなしだった?」 「つけっぱなし。あんた昨日、電源落としてないでしょ」 「落としてない」 「だから画面は暗いまま。鳴ったのは、音だけ」 「見た?」 「見てない」 「見てないんだ」 「見ないよ。人のパソコン、勝手に触ったら怒られるじゃん」 「怒らないよ」 「怒らないのは知ってる。触りたくなかったの」 「うん」 「正直に言うと、あの音、二回目からずっと嫌なの」 「私も嫌」 「嫌なもの、二人で嫌がれるのはちょっといいね」 「ちょっとだけね」 電話を切ったあと、私は自分の携帯を見た。 会社のパソコンが鳴った。私はここにいた。それでも鳴った。 冷蔵庫が、また鳴りはじめた。 二十分後に、また電話が鳴った。真帆だった。 「まだ言ってなかったことがある」 「なに」 「鳴ったの、あんたの席だけじゃない」 「え?」 「たぶん、気のせい。というか、そうであってほしいんだけど」 「言って」 「部長の席も、同じ時に鳴った気がする」 「気がする?」 「私、そのとき給湯室にいたの。ドアのところから、二つ鳴ったように聞こえた」 「二つ」 「一つだったかもしれない。反響ってあるじゃん」 「あるね」 「あるよね。ある、で終わらせよう今日は」 「終わらせよう」 土曜と日曜は、何も起きなかった。 当たり前だ。土曜と日曜には、金曜が入っていない。 月曜の朝、私は八時二十分に会社に着いた。エレベーターを待たずに階段を上った。五階まで上がると、少し息が上がった。 フロアには誰もいない。複合機の待機音だけがしている。 自分の席に座って、マウスを動かす。画面が明るくなる。 受信箱のいちばん上に、それはあった。 件名、週報。差出人、沢井亮。 受信日時、金曜の十七時。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 電話をかけましたが、誰も出ません。 金曜は、帰れません。 今日も、帰れません。 休んだほうがいい、と言われました。 八時四十分に、真帆が来た。私の顔を見て、それから画面を見た。 「来てたんだ」 「来てた」 真帆は数えなかった。画面のいちばん下だけを見ていた。 「なんて?」 「休んだほうがいい、と言われました」 真帆が自分の鞄を、机の上に置いたまま動かなくなった。 「それ、沢井さんが言われたってこと?」 「そう読める」 「誰に」 「書いてない」 「書いてないの、いつもそこだけだね」 「うん」 「ねえ、逆に読める? あんたに言ってる、みたいには」 「読めるよ」 「読めるよね」 「どっちにも読める」 「どっちにも読めるのが、いちばん嫌なやつじゃん」 真帆が鞄を椅子に下ろして、コートを脱いで、それからもう一度画面を見た。 「一個だけ、聞いていい」 「うん」 「休んだ意味、あった?」 「なかった」 「そっか」 「うん」 真帆が離れてから、私は受信日時をもう一度見た。金曜の十七時ちょうど。私が台所で湯を沸かしていた時刻だった。 休んでも、届く。 第11話 窓のない部屋 十七時。パソコンが鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 電話をかけましたが、誰も出ません。 金曜は、帰れません。 今日も、帰れません。 休んだほうがいい、と言われました。 馬場さんに、聞きました。 私は十一行目を読んで、それから席を立った。 「どこ行くの」 「三階」 「私も行く」 「今日はいいよ」 「今日はって、いつもそう言うじゃん」 「宇野さん、今日は一人で来てくださいって」 真帆が椅子を戻した。 「じゃあ、六階の自販機で待ってる」 「なんで六階」 「五階の自販機、部長の席から見えるから」 真帆は笑わずにそう言って、財布を持って出ていった。 三階の小部屋は、いつもより暗かった。宇野さんはモニタを一枚だけつけていた。 「ドア、閉めてもらっていいですか」 「はい」 閉めると、外の音が消えた。窓がないので、時間がわからなくなる。 「一か月半かかりました」 「はい」 「言い訳から先にしていいですか」 「どうぞ」 「バックアップの復元は、申請がいるんです。理由の欄に、幽霊、とは書けないので」 「なんて書いたんですか」 「監査対応の確認、と」 「怒られませんか」 「怒られたら、そのとき考えます」 宇野さんはモニタを私のほうへ半分回した。 「まず、削除の記録です」 一覧が出ている。日付と、作業名と、依頼元。 「去年の十一月二十二日。月曜の午前中。沢井さんのアカウントを停止して、削除しています」 「二十二日」 「訃報の一斉配信と、同じ日です」 「知ってます。同じ日の朝に来ました」 「その日の九時十二分に、依頼のメールが来ています。当時の担当者宛です」 「誰からですか」 宇野さんはマウスを動かして、一通を開いた。差出人の欄を、指で指した。 馬場、と書いてあった。 「本文、読みますね。沢井のアカウントを至急停止、削除してほしい。メールボックスも残さないでください。以上です」 「以上です」 「そう書いてあります」 「規定だと、翌月末までは残すはずです」 「残します。そういう規定です」 「じゃあ、なんで」 「そこは書いてないです」 「至急って、書いてあるんですか」 「至急、と書いてあります」 私は椅子の背に手をかけた。座っていないのに、そうしていた。 「宇野さん」 「はい」 「もう一つ、聞いていいですか」 「一つだけにしてください」 「下書きは、残りますか」 宇野さんが私の顔を見た。それから、モニタをこちらへ全部回した。 「そこなんですよ」 画面に、フォルダの階層が並んでいる。数字とアルファベットの列。宇野さんが一つを開く。 「消えたはずのメールボックスの残りが、サーバーの奥に一つだけあります。中身は一通です」 「一通」 「下書きが一通。件名は、週報」 私は画面に近づいた。作成日時が出ている。 去年、十一月十九日、十六時四十八分。 「金曜の、夕方です」 「はい」 「送る十二分前ですね」 「毎週十七時に送ってたんですよね。じゃあ、そうなります」 「本文は」 「開けます。ただ」 宇野さんがそれをクリックする。ウィンドウが開く。 本文の欄は、白かった。 「中身はゼロバイトです」 「白い、ということですか」 「白いんじゃなくて、無いんです。なのに、一年一か月ぶん、消えずに残ってます」 「毎週増えてるのに」 「僕には見えません。高村さんの受信箱では、増えてるんですよね」 「増えてます」 「今日は何行ですか」 「十一行です」 「僕には、無いです」 宇野さんは眼鏡を外して、目のあたりを押さえた。それから、かけ直した。 「一つ、勘違いしてほしくないので言います」 「はい」 「僕は、誰が送ってるかを突き止めたわけじゃないです」 「はい」 「わかったのは、消せと言った人の名前だけです」 「わかってます」 「その二つは、別の話です」 「別の話です」 宇野さんはモニタを元の向きに戻した。指がキーボードの上で止まって、それから、電源のボタンのほうへ動いた。 「高村さん」 「はい」 「これ、僕が見たこと、言わないでください」 第12話 紙 十七時。パソコンが鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 電話をかけましたが、誰も出ません。 金曜は、帰れません。 今日も、帰れません。 休んだほうがいい、と言われました。 馬場さんに、聞きました。 明日、コピーを持って出ます。 真帆は数えない。指も出さない。 「いちばん下、なんて書いてある」 「明日、コピーを持って出ます」 「これ、土曜に会社来て、コピーして、持って帰るつもりだったってこと?」 「そう読める」 「じゃあ、土曜は来られなかったんだ」 「うん」 真帆はそこで黙る。私は十二行目をもう一度読む。 コピー。 私の席の正面に、複合機がある。毎日、何十枚も紙を出している機械が、一メートル半先にある。 「真帆」 「なに」 「試してない方法が、一個ある」 真帆が私の視線を追って、振り返る。それから、こっちを見る。 「印刷」 「うん」 「え、待って。転送もコピペも写真も駄目だったんだよ」 「駄目だった」 「じゃあ紙も駄目でしょ」 「たぶん駄目」 「たぶん駄目なのに、なんで顔が明るいの」 「明るい?」 「明るい。今日いちばん明るい」 印刷のボタンを押す。 複合機が動き出す。ウォームアップの音がして、給紙のローラーが回る。この音は毎日聞いている。今日はやたらと長い。 紙が一枚、出てくる。 私は席を立って、それを取る。真帆が横に来る。 書いてある。 件名、週報。差出人、沢井亮。 その下に、十二行。 「出てる」 「出てる」 「なんで」 「わからない」 「紙はいいんだ」 「いいみたい」 真帆が紙の端を持つ。私はもう片方の端を持っている。二人でそれを持ったまま、しばらく立っている。 「ねえ、待って。今までのも残ってるよね」 「残ってる」 「一行のやつも?」 「一行のやつも」 受信箱を上から数える。週報、週報、週報。十二通ある。十月七日から、今日まで、一通も抜けていない。 「刷ろう」 「全部?」 「全部。一行、二行、三行って並べたら、増えてるのが目で見えるじゃん」 「見えるね」 「見えるって大事なの。私、口で説明するの下手だから」 「知ってる」 「知ってるって言うな」 十二枚が順番に出てくる。複合機が途中で一度、紙を補充しろと言う。私は下の引き出しから紙を出して、入れる。手が普通に動く。毎日やっていることは、こういう日でも普通に動く。 「会議室行こう」 「第二?」 「第二。窓ないほうがいい」 第二会議室は四人でいっぱいになる小さい部屋だ。私たちは長辺に並んで座って、紙を机の真ん中に置く。 真帆が上から順に読んでいく。声に出して読む。私は自分の受信箱で百回読んだ十二行を、他人の声で初めて聞く。 読み終えて、真帆が十一行目に指を置く。馬場さんに、聞きました。 「これ、先週の三階でしょ」 「宇野さんが見つけた」 「何を」 「削除の申請。誰が出したか」 「誰が消せって言ったの」 「部長」 真帆が指を離す。離してから、もう一度同じところに置く。 「今の、宇野さんの名前は外で言わないで」 「言わない」 「読んでて思ったけど」 「うん」 「これ、幽霊の話じゃないよ」 「そう思う」 「一行目から順に読むと、報告書だもん。見つけて、調べて、まとめて、聞きに行った、って書いてある」 「うん」 「で、そのあと帰れなくなってる」 「うん」 真帆が紙を裏返す。裏には何もない。それを確かめて、また表に戻す。 「セイエイ企画の発注書、四枚あるって言ってたよね」 「ある」 「その四枚も、コピー取れる?」 「取れる。普通の紙だから」 「取ろう」 「取る」 「あと、この紙、何枚か刷っといたほうがいい」 「なんで」 「一枚だと、無くなったときに無かったことになるから」 私は真帆の顔を見る。真帆は紙を見ている。 「三枚刷る」 「五枚にして」 「五枚」 「一枚は私が持つ。一枚は家。一枚はロッカー。あと二枚は予備」 「真帆、慣れてない?」 「慣れてない。ドラマで見た」 「ドラマか」 「ドラマだけど、間違ってないでしょ」 「間違ってない」 真帆は紙を両手で持ち上げて、蛍光灯に透かす。透かす意味はない。透かしてから、机に戻す。 「ねえ、高村」 「うん」 「私、ずっと怖い話だと思ってたの」 「知ってる」 「今日、変わった」 「どう変わった」 真帆が紙の十二行を、上から下まで指でなぞる。 「これ、証拠じゃん」 第13話 仕事納め 仕事納めの金曜は、朝から人が少ない。 営業は年内の挨拶回りに出ていて、戻らない人もいる。フロアの半分の席が空いている。給湯室の前に、段ボールが三つ積んである。総務が置いていったものだ。 私は九時から書庫にいた。 セイエイ企画の発注書、四枚。昼前に書庫を出た。五階の複合機で、四枚とも全部コピーを取った。日付順に並べて、クリアファイルに入れた。 自分の机の三段目に入れて、鍵を閉めた。私の机には鍵がある。沢井さんの机には、なかった。 「もう決めたの?」 昼すぎ、真帆が段ボールを踏み台にして高いところの箱を下ろしながら聞いた。 「決めた」 「今日?」 「今日。年が明けたら、たぶん言えなくなる」 「なんで」 「年末年始をはさむと、全部が去年の話になるから」 「そういうもの?」 「そういうものだと思う」 「わかる。私、去年の目標いまだに覚えてないもん」 「なんだったの」 「思い出せないから、去年の話」 真帆が箱を床に下ろして、私の前に立った。 「私も入る」 「入らなくていい」 「入る」 「一人が言って、一人が知ってるほうがいい。二人で行くと、二人とも動けなくなる」 「それドラマで見たやつ?」 「これは自分で考えた」 「じゃあ従う」 「早いね」 「あんたが自分で考えたことに私が反対したの、七年で一回もないから」 「一回もない?」 「一回もない。だから今日も反対しない」 昼休み、私たちは第二会議室で練習をした。真帆が部長の役をやった。 「じゃあ言ってみて」 「部長。沢井さんのアカウントの削除を、依頼しましたか」 「知らないな」 「記録が残っています」 「誰から聞いた」 私は口を開いて、止まった。 「ほら、そこ」 「うん」 「そこで宇野さんの名前、出しちゃ駄目だからね」 「わかってる」 「わかってても出るの。人間、詰まると名前を出すから」 「じゃあ、どう言えばいい」 「言わないで黙る。黙るのは失礼じゃないの」 「黙るの、苦手」 「知ってる。七年見てる」 真帆はそこでペットボトルの水を飲んで、続けた。 「あと、怒らないでね」 「怒らないよ」 「怒ったら、話が沢井さんじゃなくて、あんたの態度の話になるから」 「それ、どこで覚えたの」 「前の部署。三年いた」 昼過ぎ、部長は席にいた。年内最後の稟議を回していた。 私は三回、席を立とうとして、三回とも座った。 四回目に、給湯室でお茶を淹れた。淹れて、飲まずに戻った。 十六時。掃除が始まった。総務がゴミ袋を配って歩いた。フロアの人が、机の上のものを片づけ始めた。 私は自分の机を拭いた。拭きながら、斜め向かいの空き机を見た。誰も拭いていない。一年、誰も拭いていない。 十七時。パソコンが鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 電話をかけましたが、誰も出ません。 金曜は、帰れません。 今日も、帰れません。 休んだほうがいい、と言われました。 馬場さんに、聞きました。 明日、コピーを持って出ます。 真面目すぎて、書きました。 真帆が横から覗く。数えない。声も出さない。 「なんて書いてある?」 「真面目すぎて、書きました」 「それ」 「うん」 「それ、部長が前に言ったやつじゃない?」 「言った。十月に。沢井は真面目すぎたんだよ、って」 「じゃあこれ、返事じゃん」 「そう読める」 「一年遅れの返事」 「うん」 「あのさ、私、幽霊がしゃべったんじゃなくて、順番が合っただけだと思いたいんだけど」 「思っていいよ」 「思えないから言ってるの」 私は印刷ボタンを押す。複合機が回る。紙が出る。 十三行の紙を取って、クリアファイルに入れる。発注書のコピーと重ねる。厚みが少し出る。 「行くね」 「うん」 「真帆、先に帰って」 「帰らない」 「じゃあ、六階の自販機」 「そうする」 私はファイルを持って、席を立つ。 通路を七歩。歩き出す前に、部長がこちらを見る。部長のほうが先に立っている。 部長は自分の鞄を持っている。もう帰るところだ。私の前で足を止めて、ファイルを見て、それから私の顔を見る。 「高村さん」 「はい」 「よいお年を、って言うつもりだったんだけど」 「はい」 部長はファイルから目を離さない。 「沢井の週報、まだ来てるのか」 第14話 件名だけ 年末年始は、長かった。 実家で餅を食べて、母に会社のことを聞かれて、忙しいとだけ答えた。テレビを見ながら、十二月三十日の部長の顔を何度も思い出した。 あの日、部長はそれ以上何も言わなかった。よいお年を、と言って、非常階段のドアから出ていった。私も、何も言えなかった。 仕事始めは水曜だった。 水曜も木曜も、部長は普通だった。稟議を回して、電話をして、若い営業に発破をかけていた。 「あの人、忘れたふりが上手すぎない?」 木曜の昼、真帆が小声で言う。 「上手だね」 「上手なのが、いちばん気持ち悪い」 「うん」 「私、年末に実家で三回話しかけられて、三回とも聞いてなかったのに」 「それはただの真帆でしょ」 「そう。私は下手なの」 金曜。私は時計を見ない。見なくても、体が知っている。 十七時。パソコンが鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 電話をかけましたが、誰も出ません。 金曜は、帰れません。 今日も、帰れません。 休んだほうがいい、と言われました。 馬場さんに、聞きました。 明日、コピーを持って出ます。 真面目すぎて、書きました。 この週報を読むのは、咲さんだけです。 真帆が私の後ろに立っている。数えない。いちばん下の一行だけ、二度見る。 「これ、宛名みたいだね」 「うん」 「今まで、誰に向けて書いてるかわからなかったのに」 「急に、名前が出た」 「怖いのに、ちょっと安心するの、なんなんだろ」 「わかる」 「わかるって言ってくれてよかった。一人だと変な人だから」 私は印刷ボタンを押した。紙が出る。ファイルに入れる。中には、先月からの分と、発注書のコピーが入っている。 部長は席にいた。まだ帰っていない。 「十五分、いただけますか」 「今から?」 「はい」 「第二会議室でいい?」 「はい」 部長は自分から会議室を指定した。私が指定するつもりだった部屋だった。 第二会議室は窓がない。四人でいっぱいになる部屋だ。 部長は私の正面に座って、ペンを一本、机に置いた。書くものは持っていない。ペンだけ置いた。 「先に聞くけど」 「はい」 「あれ、いつから来てる」 「十月の第一金曜からです」 「毎週?」 「毎週。十七時ちょうどに」 「本文は」 「最初は一行でした。今日で十四行です」 「十四」 「毎週、下に一行ずつ足されます。上の行は動きません」 「消えないの」 「消えません」 「そうか」 私はファイルを机に置いた。まだ開かない。 「部長」 「うん」 「去年の十一月二十二日に、沢井さんのアカウントの削除を依頼しましたか」 部長はペンから手を離した。 「したよ」 「十月に、総務だと言いましたよね」 「言ったな」 それだけだった。言い直しも、言い訳もなかった。 「規定だと、翌月末まで残すはずです」 「残すね」 「なぜ、至急だったんですか」 「そう書いたか」 「書いてありました」 部長は天井を見た。天井には、ここにも丸い染みがある。この会社の天井には、たぶんどこにでもある。 「高村さん。俺のこと、何だと思ってる」 「わかりません」 「わからないっていうのは、まだ優しいほうだ」 「優しくないです。本当にわからないので、聞いてます」 「そうか」 部長は少し笑った。この人が笑うのを、私は初めて見た気がする。 「一つ、教えてやろうか」 「はい」 「毎週、俺のところにも来てた」 私は自分の手が、ファイルの角を握っているのに気づく。 「いつからですか」 「一年前から」 「一年」 「沢井が死んだ次の金曜から、毎週」 「私のは、十月からです」 「俺のは、一年前からだ」 「金曜の、十七時に」 「十七時ちょうどだ。時計より正確だよ」 部屋の空気が動かない。壁の向こうで、誰かが複合機を使っている音がする。 「なぜ、誰にも言わなかったんですか」 「言えると思う?」 「思いません」 「だろうね」 「情シスには」 「言ってない」 「削除を依頼したのは、それが理由ですか」 「違う。あれが来るより前に出した」 「じゃあ、なぜですか」 「消せば消えると思ったんだ。……何をだと思う?」 私は答えなかった。答えは私の机の三段目に、鍵をかけてしまってある。四枚ある。 部長はペンを取って、また置いた。同じ場所に置いた。 「一年、毎週見てる」 「見てるだけですか」 「見てるだけだ」 「返信は」 「した。エラーが返ってくる」 「私もです」 「だろうね」 私はファイルを開く。中の紙を出そうとして、部長が手のひらをこちらへ向けたので、止めた。 「見せなくていい」 「読んでください」 「読めない」 「読めないって、どういう意味ですか」 部長は私のファイルを見なかった。自分の手を見ていた。 「俺のところに来るのは、件名だけなんだ」 「件名だけ」 「週報、と。それだけだ」 「本文は」 部長が顔を上げる。声の高さは、書類を読んでいるときと同じだった。 「読めない。本文が、空なんだ」 第15話 定時で帰る 月曜から、私は毎日一枚ずつ紙を増やした。 発注書のコピーが四枚。十四行の週報が一枚。それに、去年の訃報の一斉配信を印刷したものが一枚。日付だけ、蛍光ペンで線を引いた。十一月十九日、夜。 「読み上げたりしないからね」 木曜の昼、真帆が言う。 「しないよ」 「ドラマだと、廊下で読み上げるじゃん」 「廊下では読まない」 「じゃあ、なにするの」 「置く」 「置くだけ?」 「置くだけ」 「地味」 「地味なほうがいい。地味なほうが、後から動かせない」 「かっこいいこと言った顔してる」 「してない」 金曜。十六時五十分。 部長は席にいる。今日は外に出ていない。朝からずっといる。 真帆が自分の椅子を、私の席の横に寄せてくる。 「見てる」 「見なくていいよ」 「見る。最初から見るって、十月から決めてるの」 十七時。パソコンが鳴る。 今週は、以上です。 発注書の件、確認中です。 セイエイ企画、という会社です。 見積書のフォントが、うちのと同じでした。 過去三年分、探しています。 机の引き出しに、まとめました。 電話をかけましたが、誰も出ません。 金曜は、帰れません。 今日も、帰れません。 休んだほうがいい、と言われました。 馬場さんに、聞きました。 明日、コピーを持って出ます。 真面目すぎて、書きました。 この週報を読むのは、咲さんだけです。 咲さんへ。金曜は、定時で帰ってください。 十五行目を、私は三回読んだ。 真帆は一回だけ読んで、椅子の背にもたれた。 「宛名から始まって、宛名で終わったね」 「うん」 「これ、報告じゃないじゃん」 「うん」 「最後だけ、こっち向いてる」 「行くの?」 「行く」 「今?」 「今。十五行目に、定時で帰れって書いてあるから」 「書いてあると、行くんだ」 「書いてあると、時間がないってことでしょ」 「そう読むんだ、あんたは」 「そう読んだ」 「じゃあ私も、そう読む」 印刷ボタンを押す。複合機が回る。給紙のローラーの音がして、紙が一枚出る。 私は席を立って、それを取った。十五行、全部載っている。 ファイルを開いて、いちばん上にその紙を入れる。下に、発注書のコピーが四枚。いちばん下に、訃報の紙。 通路を七歩。 部長は画面を見ていた。私が横に立っても、顔を上げなかった。上げないまま、キーボードから手を離した。 私はファイルから紙を出して、机の上に置いた。十五行の紙が、いちばん上になるように置いた。 それから、その下の四枚も、順番に並べて置いた。セイエイ企画。一昨年の九月、去年の二月、六月、十月。担当営業の欄は、四枚とも印字で、沢井亮。 部長は紙を見た。 いちばん上の紙を、指で少し手前に引いた。それだけ動かして、あとは動かさなかった。 私は待った。十秒。三十秒。 部長は否定しなかった。 違う、とも、知らない、とも言わなかった。何かの間違いだ、とも言わなかった。誰が書いたんだ、とも聞かなかった。 指を離して、その手を膝の上に置いた。 部長は、紙を裏返さなかった。 「月曜、話そう」 部長がそう言った。 「はい」 「今日じゃなくていい?」 「今日じゃなくていいです」 「そうか」 「月曜の朝、私は席にいます」 「知ってる」 私は自分の席に戻った。 時計は十七時六分。 真帆が私のコートを持って立っている。 「終わった?」 「置いてきた」 「読んだ?」 「読んだと思う」 「なんて言った?」 「月曜、話そう、って」 「月曜か」 「月曜」 「じゃあ、今日はもう終わり」 「うん」 「あと、私のぶんは持って帰るからね」 「五枚のうちの一枚」 「一枚。家のぶんは、先週から冷蔵庫に貼ってある」 「冷蔵庫」 「いちばん見る場所だから」 真帆が私にコートを渡す。私はそれを着る。 パソコンの電源を落とす。画面が暗くなる。斜め向かいの空き机が、暗くなった画面に映る。それも、すぐに見えなくなる。 「定時で帰ろう」 真帆が言う。 「六分過ぎてる」 「六分は定時。私が決めた」 「決められるの、それ」 「決められる。七年ここにいるから」 エレベーターの前で、真帆が上を見上げる。 「ねえ、来週も来ると思う?」 「わからない」 「十五行の次って、何行だろ」 私は首を横に振る。 「わかんないって、あんたそればっかり」 「本当にわからないから」 「知ってる。七年知ってる」 外は暗い。ビルを出たところで振り返ると、五階の窓に明かりが残っていた。奥の、窓を背にした席のあたりだけ。 私は振り返るのをやめて、駅のほうへ歩いた。真帆が横で、ポン酢を捨てた話をしていた。三月のと、去年のと、二本まとめて捨てたらしい。 来週の金曜、メールは、来なかった。

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