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小説 · text · 2026-09-09

引っ越し屋は、最後の荷物を運ばない

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引っ越し屋は、最後の荷物を運ばないのカバー

第1話 位牌 引っ越しの荷物には、二種類ある。 運ぶ荷物と、運べない荷物だ。 運べない荷物というのは、重いとか、壊れやすいとか、そういう話ではない。持ち主が、手放さない荷物のことだ。 俺がそれを知ったのは、入社一年目の、最初の現場だった。今日で、四年目になる。 三月の最初の土曜。 二階建ての古い家。老夫婦。引っ越し先は、駅前の、エレベーターつきのマンション。 「二階堂、おまえ二階。ユウキは台所」 班長の大西さんが、トラックの荷台から言った。四十九歳。この会社で二十年。声が大きくて、指示が短い。 「はい」 「はいっす」 ユウキは、二十歳。先月入った。力はあるが、玄関の段差でよく転ぶ。 俺は、二階に上がった。 箪笥、二本。布団、四組。段ボール、十二個。全部、養生をしてから運ぶ。二時間。 昼前に、一階が終わった。 居間に、仏壇が残っていた。 仏壇は、運ぶ。見積もりに入っている。専用の毛布で包んで、トラックの壁ぎわに、立てて積む。 俺が毛布を持って居間に入ると、奥さんが、仏壇の前に座っていた。 「あの、仏壇、運びます」 「はい」 奥さんは、動かなかった。 仏壇の中から、位牌を、一つ、出した。 黒い、小さい位牌。両手で持って、胸の前に置いた。 「これは、私が持っていきます」 「……はい」 「車で。膝の上で」 旦那さんが、廊下から言った。 「仏壇と一緒に、包んでもらえばいいだろう」 「いやです」 奥さんは、位牌を、胸から離さなかった。 俺は、毛布を持ったまま、立っていた。 大西さんが、後ろから来た。 「二階堂」 「はい」 「仏壇だけ、包め」 「位牌は」 「奥さんが運ぶ」 大西さんは、それだけ言って、奥さんに、頭を下げた。 「お客さん、位牌は、お客さんの手で。それが、いちばんいい」 奥さんは、うなずいた。 仏壇を、毛布で包んだ。 位牌のない仏壇は、軽かった。 トラックに積んで、荷台のドアを閉めた。奥さんは、自分の車の助手席に座って、位牌を膝に置いていた。旦那さんが、運転席で、何か言った。奥さんは、返事をしなかった。 「班長」 「なんだ」 「位牌、俺が包んでも、よかったんじゃないですか。毛布で、丁寧に」 大西さんは、トラックの運転席に乗りながら、言った。 「荷物は、持ち主の手で、最後の一個を運ばせろ」 「最後の一個」 「全部運んだら、こっちの引っ越しだ。一個、残しとけば、あの人の引っ越しになる」 俺は、その意味を、四年、取れないでいる。今日も、取れなかった。 夕方、事務所に戻った。 事務の三好さんが、配車表を見ていた。三十四歳。見積もりと配車を、一人でやっている。 「二階堂くん、お疲れ」 「お疲れ様です」 「明日、変な依頼、入ってるよ」 「変な?」 「トランクルームから、トランクルームへ。荷物、段ボール一個」 「一個?」 「一個。それだけで、うちを呼ぶの」 三好さんは、配車表を、俺に見せた。 明日、九時。二階堂、単独。 「一個なら、一人でいいでしょ」 「一人で、行きます」 俺は、更衣室に行った。 位牌を膝に置いた奥さんの、返事をしない横顔を、思い出していた。 明日は、段ボール一個。 一個の荷物にも、最後の一個は、あるのだろうか。 第2話 アルバム トランクルームは、国道沿いの倉庫だった。 三階建て。コンテナが並んでいる。依頼主は、入口で待っていた。四十代の女性。黒いコート。 「二階堂です。ヤマダ運送です」 「お願いします」 それだけだった。 彼女の借りているコンテナは、二階の奥だった。番号は、二〇七。南京錠の鍵を、彼女が、三回目で開けた。天井の蛍光灯が、点くまでに、二秒、鳴った。 中は、ほとんど空だった。床に、埃が、うっすら。その埃の上に、段ボールが、一個。ベッドくらいの広さのコンテナの、真ん中に。段ボールの周りだけ、埃がなかった。 「これです」 「これだけですか」 「これだけです」 段ボールは、普通の、引っ越し用のものだった。ガムテープで、しっかり封がしてある。俺は、持ち上げた。重くなかった。本より軽く、服より重い。 「行き先は」 「同じ倉庫の、三階です」 俺は、彼女の顔を見た。 「三階」 「三階の、いちばん奥。昨日、借りました」 「……この段ボールを、二階から三階に」 「はい」 俺は、それ以上、訊かなかった。訊かない、というのを、四年で、覚えた。 段ボールを、台車に載せた。 載せなくても、持てる重さだった。でも、台車に載せた。載せると、仕事になる。 エレベーターで、三階へ。 彼女は、俺の後ろを、歩いてきた。 三階のいちばん奥のコンテナ。彼女が、鍵を開けた。中は、空だった。 「どこに、置きますか」 「真ん中に」 真ん中に、置いた。 彼女は、コンテナの入口に立って、段ボールを見ていた。 「お客さん」 「はい」 「これ、中身、訊いていいですか」 訊かない、と決めたばかりだった。決めたばかりで、訊いた。 彼女は、少し、間を置いた。 「結婚式の、アルバムです」 「……」 「離婚したんです。三年前」 「はい」 「捨てられないんです。三年」 彼女は、段ボールを見たまま、言った。 「でも、家に置いておくと、開けてしまう。二階のコンテナに置いたら、月に一回、来て、開けてしまう」 「それで、三階に」 「三階なら、来るのが、少し、面倒になる。エレベーターに乗って、いちばん奥まで歩く。その面倒のぶん、開けない」 俺は、段ボールを見た。 ガムテープは、新しかった。昨日、貼り直したのだと思う。開けて、閉じて、貼り直した。 「捨てないんですね」 「捨てるんじゃなくて」 彼女は、コンテナの鍵を、握った。 「遠ざけるの」 俺は、うなずいた。 「わかります」 本当にわかっているかは、別だった。でも、そう言った。 「来年、四階を借ります」 「四階、あるんですか」 「ないです。でも、あったら、借ります」 彼女は、初めて、少し、笑った。 コンテナの鍵を閉めて、彼女は、階段で下りていった。エレベーターを、使わなかった。 俺は、台車を押して、エレベーターに乗った。 最後の一個、と大西さんは言った。 この人の引っ越しは、荷物が一個で、最後の一個も、その一個だった。 運んだのは、俺だ。持ち主の手で運ばせなかった。 でも、彼女は、俺が置いた段ボールを、コンテナの入口から、動かさなかった。動かせば、自分の手で、また、近づけることになる。 運ばないことで、運んだ。 俺は、その日、それを、日報に書かなかった。書き方が、わからなかった。 事務所で、三好さんが訊いた。 「段ボール一個、どうだった」 「二階から、三階に、運びました」 「それだけ?」 「それだけです」 三好さんは、配車表に、何かを書いた。 「二階堂くん、それだけ、って顔じゃないよ」 「そうですか」 「そうだよ。四年見てる」 三好さんは、それ以上、訊かなかった。 訊かない人が、この会社には、二人いる。 第3話 ギター 三月の半ば。学生の引っ越しが、増える。 その日は、実家から、大学の近くのアパートへ。荷物は、少ない。親がついてくる。 「こちらの本は、全部持っていきます。こっちの服は、半分でいいです。冷蔵庫は、向こうで買います」 母親が、全部、仕切っていた。 息子は、部屋の隅に、座っていた。十八歳。黙って、スマホを見ている。 「二階堂、本の段ボール、六個」 「はい」 「ユウキ、机」 「はいっす」 大西さんは、母親の指示を、全部、聞いていた。聞いて、俺たちに、短く言い直す。母親の指示は長い。大西さんの指示は短い。中身は、同じだ。 本を運び終えて、部屋に戻ったとき、押し入れが、開いていた。 息子が、押し入れの前に、立っていた。 押し入れの奥から、ギターケースを、出そうとしていた。黒い、ソフトケース。 「あんた、それ、持っていくの」 母親の声。 「……うん」 「向こう、狭いのよ。ギターなんか」 「うん」 「置いていきなさい。帰ってきたとき、弾けばいいでしょう」 息子は、ギターケースを、押し入れの縁に、置いた。出しかけて、止まった。 母親は、台所のほうに行った。 息子は、ギターケースを、持ったまま、動かなかった。 俺は、段ボールを持って、部屋の入口に、立っていた。 「それ」 と、俺は言った。 「運びます?」 息子が、俺を見た。 「……いや」 「見積もりに、入ってないですけど、一個くらいなら、積めます」 「母さんが」 「お母さんが、じゃなくて」 俺は、段ボールを、床に置いた。 「お客さんが、運ぶんですよね。これ」 息子は、ギターケースを見た。 それから、押し入れから、完全に、出した。 肩に、掛けた。 「自分で、持ってく。車に」 「はい」 「母さんには」 「言いません。荷物のことは、持ち主に聞きます」 息子は、ギターを肩に掛けたまま、階段を下りていった。 母親は、台所にいた。玄関の音がしたが、出てこなかった。 トラックの荷台を閉めるとき、大西さんが言った。 「ギター」 「はい」 「積んでないな」 「本人が、車に」 「そうか」 大西さんは、それだけだった。 「班長、あれ、よかったですか」 「何が」 「俺が、口を出したの」 「口を出したのか」 「運びます? って、言いました」 大西さんは、運転席に乗った。 「持ち主に聞いたんだろ。それは、口を出したんじゃない。仕事だ」 トラックが、動き出した。 ユウキが、助手席で、言った。 「二階堂さん、あれ、かっこよかったっす」 「かっこよくない」 「いや、かっこよかったっす。俺、次、やります」 「やらなくていい」 「やります」 ユウキは、たぶん、やる。やって、転ぶ。 帰りのトラックの中で、スマホが、震えた。 姉からだった。LINE。 姉とは、年に二回くらい、連絡を取る。正月と、お盆。三月に来るのは、初めてだった。 【駿、父さん、施設に入ることになった】 俺は、それを、読んだ。 読んで、画面を、伏せた。 六年、実家に帰っていない。父と、喧嘩をした。理由は、大したことではなかった。大したことではなかったから、六年、直せなかった。 【家、どうするの】 と、俺は打った。 【売る。だから、引っ越し】 引っ越し。 俺は、その文字を、見た。 俺の仕事だ。 でも、俺の家だった。 【業者、決めた?】 【まだ】 俺は、それ以上、打てなかった。 トラックは、国道を、事務所に向かって、走っていた。荷台には、今日の学生の荷物が、全部、積んである。ギターだけが、積んでいない。 第4話 絵 単身赴任の引っ越しは、早い。 荷物が、少ないからだ。その日の客は、四十代の男。転勤。家族は、残る。 段ボール、八個。布団、一組。ハンガーラック、一本。それだけ。 「一時間で、終わるな」 大西さんが、玄関で言った。 「はい」 「二階堂、一人で、いけるか。ユウキは、俺と次の現場」 「いけます」 俺は、一人で、残った。 男は、リビングで、段ボールに、最後の荷物を詰めていた。奥さんと、小学生の娘が、ソファに座って、見ていた。 「これで、全部です」 男が、段ボールを閉じた。八個目。 俺は、一個ずつ、台車に載せた。 載せながら、リビングの壁を見た。 子どもの絵が、一枚、貼ってあった。画用紙。クレヨン。父親と、母親と、娘。三人。父親だけ、背が、やたら高い。 男は、その絵を、見なかった。 見ないようにしているのが、見ればわかった。位牌の奥さんと、ギターの息子と、同じ顔だった。 段ボールを、八個、トラックに積んだ。 戻ってきて、玄関で、言った。 「以上で、全部ですね」 「はい」 「では、確認のサインを」 男は、書類に、サインをした。 娘が、ソファから、降りた。 壁の絵を、剥がした。 画用紙を、丸めないで、両手で持って、男のところに来た。 「これ」 「……ん」 「持っていって」 男は、絵を、受け取った。 受け取って、それから、俺を見た。 「これ、段ボール、もう閉めてますよね」 「閉めてます」 「……」 「開けますか」 「いや」 男は、絵を、持ったまま、言った。 「これは、自分で。鞄に」 「はい」 男は、手提げの鞄を開けて、画用紙を、丁寧に、入れた。折らないで、鞄の内側に、沿わせて。 「これで、全部です」 「はい」 トラックに乗る前に、男が、玄関まで、来た。 「二階堂さん、でしたっけ」 「はい」 「次に引っ越すときは」 男は、家の中を見ないで、言った。 「迎えに来ます。ここに」 「……はい」 「二年後の予定です。そのときは、家族三人ぶん、お願いします」 「お願いします、じゃなくて、こちらが、お願いします」 男は、少し、笑った。 「そのときは、絵も、段ボールに入れていいです。壁から剥がすのは、あの子にやらせますけど」 男は、自分の車に乗った。娘が、玄関から、手を振った。奥さんは、振らなかった。振らないで、見ていた。 事務所に戻ると、三好さんが、俺を待っていた。 「二階堂くん」 「はい」 「二階堂くんの実家、うちの管轄なんだね」 俺は、立ち止まった。 「なんで、知ってるんですか」 「見積もりの依頼が来た。二階堂って名前で。住所、二階堂くんの履歴書と、同じ」 「……姉です。たぶん」 「うち、使ってくれるんだ」 三好さんは、それを、普通の声で言った。 「いつですか」 「まだ。見積もりに行くのが明日。引っ越しは、四月」 「誰が、見積もりに」 「私」 三好さんは、配車表を、閉じた。 「行ってくるね。二階堂くんの、実家」 俺は、何も言えなかった。 三好さんが、俺の父に、会う。俺が会っていない人に。 「二階堂くん、行く?」 「行きません」 「そう」 三好さんは、それ以上、言わなかった。訊かない人だ。訊かないで、見積もりに行く。 俺は、更衣室に行った。 次に引っ越すときは、迎えに来ます。 あの男は、そう言った。 俺は、六年、迎えに行っていない。 第5話 犬 ユウキが、客と喧嘩をした。 喧嘩というほどのものではなかった。ユウキが、大きい声を出して、客が、もっと大きい声を出した。それだけだ。 原因は、犬だった。 一軒家から、一軒家へ。荷物は、普通。犬が、一匹。柴犬。玄関で、ずっと、吠えていた。 「二階堂さん、この犬、どうするんすか」 「犬は、運ばない」 「え」 「生き物は、運送できない。規則」 「じゃあ、誰が」 「お客さんが、自分の車で」 ユウキは、それを、客に、そのまま言った。言い方が、悪かった。 「犬、運べないんで、自分で運んでください」 客は、五十代の男だった。 「誰が、そんなこと頼んだ」 「いや、頼まれてないっすけど、犬いるんで」 「犬は、俺の犬だ。おまえに、運べって言ってない」 「じゃあ、いいっす」 「いいっす、じゃないだろ」 そこから、声が、大きくなった。 大西さんが、二階から、下りてきた。 「ユウキ、トラック」 「はいっす」 ユウキは、トラックに行った。行くとき、玄関の段差で、転んだ。 大西さんは、客に、頭を下げた。 「すみません。新人で」 「新人なら、教えとけ」 「教えます」 客は、犬を、抱き上げた。柴犬は、抱かれると、吠えるのをやめた。 「こいつは、俺が運ぶ。最初から、そのつもりだ」 「はい」 「引っ越しのたびに、こいつが、いちばん、おびえる。だから、俺の車の、助手席だ。いつも」 「はい。それが、いちばんいいです」 大西さんは、それを、本気で言った。客の肩が、下がった。客は、犬を抱いたまま、玄関を出た。 トラックの中で、ユウキは、黙っていた。 「二階堂さん」 「なんだ」 「俺、なんで怒られたんすか」 「犬を、荷物だと思ったからだ」 「荷物じゃないんすか」 「荷物じゃない。あの人の、最後の一個だ」 「最後の一個って、班長がいつも言ってるやつっすか」 「そうだ」 「意味、わかんないっす」 「俺も、四年、わかってない」 ユウキは、少し、笑った。 「二階堂さんでも、わかんないんすか」 「わかったら、たぶん、この仕事、辞めてる」 それは、自分でも、初めて言った言葉だった。 夕方、事務所に戻った。 三好さんが、いなかった。 「三好さんは」 俺は、事務の別の人に、訊いた。 「見積もり。今日、二件」 「どこですか」 「一件は、市内のマンション。もう一件は」 その人は、配車表を見た。 「二階堂さん。あれ、二階堂くんの、親戚?」 「……父です」 「あ」 その人は、それ以上、言わなかった。 俺は、更衣室で、着替えた。 着替えながら、三好さんが、今、俺の実家の玄関に立っているのを、想像した。父が、ドアを開ける。三好さんが、頭を下げる。ヤマダ運送です。見積もりに来ました。 父は、何て言うだろう。 六年前、俺が玄関を出るとき、父は、何も言わなかった。 そのことを、俺は、六年、覚えている。 三好さんが、戻ってきたのは、七時だった。 俺は、事務所の前の、自販機の横に、立っていた。帰らなかった。 「二階堂くん、まだいたの」 「はい」 「待ってた?」 「……はい」 三好さんは、鞄から、見積書の控えを、出した。 「お父さん、元気だったよ」 「はい」 「本、多かった。本棚、三つ」 「はい」 「二階堂くんのこと、聞かれなかった」 「……そうですか」 「私からも、言わなかった。仕事だから」 三好さんは、見積書を、鞄に戻した。 「一つだけ、備考欄に、書いてある」 「何がですか」 「本棚一つ、運ばない。自分で運ぶ、って」 俺は、三好さんを、見た。 「本棚、一つ」 「うん。どの本棚かは、言わなかった。当日、決めるって」 三好さんは、事務所の鍵を、開けた。開けてから、言った。 「行かなくて、よかった?」 「……」 「答えなくていい。仕事じゃないから」 第6話 炊飯器 父に電話をかけるかどうか、三日、迷った。 三日迷って、かけなかった。かけないことにした、のではなく、かけないまま、三日、経った。 四日目の現場は、新婚の夫婦だった。 アパートから、新築の家へ。荷物は、多い。二人ぶんの荷物が、二年で、三人ぶんくらいに増えている。 「新築は、養生、二倍だ」 大西さんが言った。 「壁に一つでも傷をつけたら、うちの二か月ぶんが飛ぶ」 「はいっす」 ユウキは、この日、転ばなかった。転ばない日が、少しずつ、増えている。 台所の荷物を、俺が担当した。 食器、鍋、電子レンジ、炊飯器。 炊飯器は、二台あった。 一台は、新しい。引っ越しに合わせて買ったらしく、箱に入ったまま。もう一台は、古い。白かったものが、黄色くなっている。蓋のところが、少し、欠けている。 「奥さん、この炊飯器、古いほうは」 「あ、それ」 奥さんは、段ボールを閉じながら、言った。 「壊れてるんです」 「壊れてる」 「炊けないんです。先月から。だから、新しいの、買って」 「じゃあ、処分で」 「……」 奥さんは、手を止めた。 旦那さんが、廊下から、顔を出した。 「捨てるって、言ってたじゃん」 「言ったけど」 「言ったのに、持っていくの」 「持っていかない。捨てる」 奥さんは、そう言って、古い炊飯器を、持ち上げた。 持ち上げて、そのまま、動かなかった。 「結婚した日に、買ったんです」 と、奥さんは、俺に言った。旦那さんにではなく、俺に。 「安いやつ。二人で、最初に買った家電」 「はい」 「壊れたから、捨てるんです」 「はい」 「捨てるんですけど」 奥さんは、炊飯器を、抱えたまま、玄関のほうを見た。 「これ、私が、自分で、捨てます。明日、粗大ゴミのシールを貼りに、ここに戻ってきます。新しい家には、持っていかない」 「わかりました」 「だから、運ばなくていいです」 「運びません」 旦那さんは、何も言わなかった。言わないで、奥さんの横を通って、段ボールを一個、持って出ていった。 奥さんは、炊飯器を、玄関の脇に、置いた。 運ばない荷物が、一個、玄関に残った。 トラックで、大西さんが言った。 「炊飯器」 「運んでません」 「そうか」 「壊れてるそうです」 「壊れてても、最後の一個だ」 「はい」 大西さんは、それ以上、言わなかった。ユウキは、後ろで、寝ていた。 夜、アパートで、俺は、スマホを持っていた。 父の番号は、六年前のままだった。変わっていないかどうかは、わからない。 押した。 呼び出し音が、鳴った。 一回。二回。三回。四回。 五回。 留守番電話に、切り替わった。 俺は、切った。 メッセージは、残さなかった。残す言葉が、なかった。 もう一回、かけた。 五回鳴って、留守番電話。 切った。 父は、出なかった。出なかったのか、出られなかったのか、出たくなかったのか、わからなかった。 六年前、俺が玄関を出るとき、父は、何も言わなかった。今日も、何も言わなかった。 俺は、スマホを、伏せた。 伏せてから、姉に、LINEを打った。 【父さん、電話、出ない】 既読は、すぐについた。 【出ないよ。父さん、電話、嫌いだから】 【昔から?】 【昔から。駿、知らなかった?】 俺は、スマホを、伏せた。 玄関の脇に置かれた、黄色い炊飯器を、思い出した。運ばない荷物が、今日、二つになった。 第7話 日記 遺品整理は、うちの仕事ではない。 でも、遺品整理に近い引っ越しは、たまに来る。 その日の依頼主は、甥だと言った。三十代。亡くなった伯母の家を、片づけて、荷物を、自分の家に運ぶ。 「持っていくものは、印をつけてあります。ついてないものは、業者が来て、処分します」 甥は、そう言った。 印は、赤いシールだった。箪笥。鏡台。着物の箱。仏壇。台所のものには、シールがなかった。 「ユウキ、シールのあるものだけだ。ないものは、触るな」 「はいっす」 大西さんは、玄関で、家の中を、一通り、見た。長く見た。 「班長」 「なんだ」 「いえ」 大西さんは、見るだけ見て、仕事を、始めた。 鏡台の引き出しに、日記が、入っていた。 引き出しごと運ぶ前に、中身を確認するのは、規則だ。割れるものが入っていると、困る。 日記は、ノートだった。大学ノート。三冊。輪ゴムで、まとめてある。 「お客さん、鏡台の引き出しに、ノートが」 甥が、来た。 「ノート」 「日記だと思います。三冊」 甥は、ノートを、手に取った。輪ゴムを、外さなかった。 「これ、シール、貼ってなかったですよね」 「鏡台には、貼ってあります。中身は、見てません」 「……」 甥は、ノートを、持ったまま、立っていた。 「伯母、日記、つけてたんだ」 「はい」 「知らなかった」 甥は、ノートを、鏡台の上に、置いた。置いて、また、持った。 「これ、どうしたらいいですか」 「お客さんが、決めることです」 「読むべきですか」 「わかりません」 俺は、本当に、わからなかった。 「捨てるのは、業者が」 「捨てないです」 甥は、言った。 「読んでから、捨てます。読まないで捨てるのは、だめな気がする」 「はい」 「読んだら、捨てられなくなるかもしれない」 「はい」 「そのときは、捨てない」 甥は、ノートを、自分の鞄に、入れた。鏡台には、入れなかった。 「これは、自分で、持って帰ります」 「はい」 最後の一個、だった。この人の。 帰りのトラックで、大西さんは、黙っていた。 国道に出てから、言った。 「俺の親父のときも、そうだった」 「班長の、お父さん」 「十五年前。親父の家を、畳んだ。俺が、運んだ」 「班長が」 「この仕事、始めて五年目だった。慣れてた。手際よく、全部、運んだ」 大西さんは、前を見ていた。 「全部、運んだんだ。親父が、これは自分で持つ、って言ったやつも。俺が、車に積んじまった。早く終わるから」 「……」 「親父は、何も言わなかった。それきり、施設で、何も言わなかった。二年で、死んだ」 ユウキが、後ろで、起きていた。起きていて、黙っていた。 「荷物は、持ち主の手で、最後の一個を運ばせろ」 大西さんは、言った。 「それは、俺が、運んじまったから、言ってるんだ」 トラックは、国道を走った。 俺は、父の本棚を、思い出していた。本棚、一つ、運ばない。自分で運ぶ。父は、備考欄に、そう書いた。 大西さんのお父さんが、言えなかったことを、俺の父は、先に、紙に書いた。 書かれたのに、俺は、まだ、電話に出てもらえていない。 第8話 保育園 四月一日、水曜。 保育園の移転は、荷物より、子どもの絵が多い。 壁一面の絵。天井から吊るした折り紙。名前のついた、小さいロッカー。 「絵は、全部、園長先生が、剥がす」 大西さんが言った。 「うちは、剥がさない。剥がしたやつを、運ぶ」 「はいっす」 園長先生は、六十代の女性だった。朝から、壁の絵を、一枚ずつ、剥がしていた。剥がすたびに、絵の裏の、名前を、読んでいた。声に出して。 「みずきちゃん。はると。ゆいちゃん」 剥がした絵は、園長先生が、自分で、大きな封筒に入れた。封筒は、園長先生の車の、後部座席に積まれた。うちが運ぶのは、机と、棚と、絵本と、ロッカーだった。 昼、休憩のとき、ユウキが言った。 「園長先生、全部、名前、言ってましたね」 「言ってたな」 「あれ、最後の一個っすか」 「たぶん」 「一個じゃなくて、二百枚くらいあったっすけど」 「二百枚が、一個なんだろ。園長先生の車に、載ってる」 ユウキは、少し、考えた。 「俺、わかってきたかもしれないっす」 「早いな」 「班長の話、昨日、聞いたんで」 ユウキは、弁当を食べながら、言った。 「二階堂さんの実家、四月っすよね」 「……誰に聞いた」 「班長。俺、その現場、行きたいっす」 「なんで」 「二階堂さんが、最後の一個、運ぶとこ、見たいんで」 「俺は、運ばない側だ」 「どっちなんすか」 俺は、答えなかった。答えられなかった。 新しい園舎に、荷物を入れた。 園長先生は、封筒を、一つずつ、開けて、絵を、新しい壁に、貼り始めた。俺たちが、帰る前に。 「もう、貼るんですか」 「貼ります。明日、子どもが来たとき、自分の絵が、ないと、泣くから」 「二百枚」 「二百三枚」 園長先生は、数えていた。 「手伝います」 と、ユウキが言った。 「うちは、貼らないんだ」 と、大西さんが言った。 「剥がしたものを運ぶのが仕事で、貼るのは、園長先生の仕事だ」 「でも、二百三枚っすよ」 「二百三枚を、一人で貼るのが、この人の引っ越しだ」 大西さんは、それを、園長先生に、聞こえる声で言った。 園長先生は、貼りながら、言った。 「そのとおりです。ありがとう」 ユウキは、立ったまま、二百三枚を、見ていた。 事務所に戻ると、三好さんが、俺を呼んだ。 「二階堂くん」 「はい」 「これ、渡しておく」 見積書の、コピーだった。 二階堂宅。住所。四月十一日。二トン車一台。作業員三名。 備考欄。 「本棚一つ、運ばない。自分で運ぶ」 三好さんの字ではなかった。 父の字だった。 六年ぶりに、見た。 「お父さんが、自分で、書いた」 三好さんは、言った。 「私が書こうとしたら、ペンを取られた」 「……そうですか」 「二階堂くん」 「はい」 「これ、渡すの、仕事じゃない」 「はい」 「仕事じゃないけど、渡した」 三好さんは、それだけ言って、配車表に、戻った。 俺は、コピーを、持ったまま、立っていた。 本棚一つ、運ばない。自分で運ぶ。 父の字は、六年前と、同じだった。角が、立っている。 第9話 父の字 見積書のコピーを、財布に入れた。 入れて、次の日の現場で、財布を、三回、出した。出して、コピーを見て、戻した。 「二階堂、集中しろ」 「はい」 「今、段ボール、落としかけた」 「すみません」 現場は、ワンルームから、隣の棟のワンルームへ。二十代の男。冷蔵庫一台と、段ボール五個。二十分で終わる仕事だった。 男は、冷蔵庫を空にしてから、瓶を一つ、抱えていた。梅干しの瓶。 「それは」 「母親が、送ってきたやつで」 「はい」 「自分で、持っていきます。割れると、怒られるので」 「はい」 二十分の現場にも、最後の一個は、あった。 その二十分で、俺は、四年で初めて、段ボールを落としかけた。 昼、ユウキが、俺の隣に座った。 「二階堂さん、財布、何回見るんすか」 「見てない」 「三回見てました」 「数えるな」 「二階堂さんの実家の見積もり、入ってるんすよね」 「なんで知ってる」 「三好さんが、渡してるとこ、見ました」 「見るな」 「見ちゃったんで」 ユウキは、弁当を食べた。 「本棚、自分で運ぶって、お父さんが」 「聞いたのか」 「班長が、言ってました。二階堂の親父さん、本棚を最後の一個にした、って」 俺は、財布を、また、出しかけて、やめた。 「班長が、そんなこと、言うのか」 「言ってました。俺にだけ」 「なんで、おまえに」 「俺が、四月の現場、行きたいって、しつこく言ったからっす」 「行かなくていい」 「行きたいって、言ってます」 大西さんは、少し離れたところで、缶コーヒーを飲んでいた。聞こえているはずだった。何も言わなかった。 その夜、姉から、LINEが来た。 【日曜、来て】 【何が】 【家の片づけ。私一人じゃ無理】 【業者が入る】 【業者は、当日。その前に、捨てるものを決めないと】 俺は、しばらく、返さなかった。 【父さんは】 【いる。何も言わない】 【俺が行っても、何も言わないだろ】 【たぶん。でも、いてほしい。私が】 姉は、そういう言い方を、しない人だった。六年で、言い方が、変わったのかもしれない。 俺は、打った。 【考える】 【考えないで、来て】 既読をつけたまま、俺は、返さなかった。 財布から、コピーを出した。 本棚一つ、運ばない。自分で運ぶ。 六年前、玄関を出るとき、父は、何も言わなかった。 今、父は、紙に、九文字、書いた。 俺に向けて書いたのかどうかは、わからない。三好さんに向けて書いた、備考欄だ。 でも、三好さんは、それを、俺に渡した。仕事じゃないけど、と言って。 俺は、コピーを、財布に戻した。 日曜まで、あと、三日だった。 第10話 ノート 留学生の帰国引っ越しは、二年に一回くらい、来る。 荷物は、少ない。国に送る段ボールが、三個か四個。あとは、処分。 その日の依頼主は、ベトナムから来た、二十四歳の女性だった。日本語が、上手だった。 「これと、これと、これは、送ります。あとは、捨てます」 段ボール、三個。 「机、ベッド、冷蔵庫、捨てます」 「はい」 ユウキが、冷蔵庫を、運び出した。転ばなかった。 部屋が、空になりかけたとき、彼女が、本棚の下から、ノートを、出した。 大学ノート。十冊くらい。表紙に、日付。 「これは」 彼女は、ノートを、両手で持って、言った。 「日本語の、ノートです。三年間」 「はい」 「捨てます」 「……送らないんですか」 「重いです。段ボール、いっぱいです」 彼女は、ノートを、ゴミの袋のほうに、持っていった。 持っていって、袋の前で、止まった。 「二階堂さん」 「はい」 「これ、三年間の、私です」 「はい」 「捨てられません」 「はい」 「でも、段ボール、いっぱいです」 俺は、段ボールを見た。三個。ガムテープで、閉じてある。 「お客さん」 「はい」 「これ、手荷物で、持てますか。飛行機に」 「……重いです」 「十冊なら、持てます。鞄に入れて」 彼女は、ノートを、持った。持って、重さを、確かめた。 「持てます」 「じゃあ、それは、運ばないです。うちは」 「はい」 「お客さんが、運ぶ」 彼女は、ノートを、鞄に、入れた。十冊。鞄が、ふくらんだ。 「ありがとうございます」 「うちは、何もしてないです」 「してます。運ばない、って、言ってくれました」 ユウキが、部屋の入口で、立っていた。 立って、泣いていた。 「ユウキ、なんで泣いてる」 「わかんないっす」 「泣くな」 「泣くんす」 彼女が、ユウキを見て、笑った。 「あなたも、三年、いますか。この会社に」 「二か月っす」 「じゃあ、三年、いてください」 ユウキは、うなずいた。うなずいて、また、泣いた。 トラックで、ユウキは、鼻をかんだ。 「二階堂さん」 「なんだ」 「日曜、実家、行くんすよね」 「なんで知ってる」 「班長」 「班長は、なんでも、おまえに言うな」 「俺が、なんでも、聞くんで」 ユウキは、鼻をかんだティッシュを、ポケットに入れた。 「行ってください」 「……」 「俺、今日、なんで泣いたか、わかんないっすけど。二階堂さんが、行かなかったら、もっと泣くと思います」 「なんでだよ」 「なんでもないっす」 大西さんが、運転席で、言った。 「二階堂」 「はい」 「日曜、休みにしてある」 「え」 「三好さんが、配車表、書き換えた。おまえ、日曜、休みだ」 俺は、何も言えなかった。 「休みの日に、どこに行くかは、俺の知ったことじゃない」 大西さんは、前を見て、言った。 夜、姉に、LINEを打った。 【日曜、行く】 既読は、すぐについた。 【ありがとう】 それだけだった。 姉は、ありがとう、と言う人ではなかった。 俺は、日曜の配車表を、もう一度、見た。休み、と書いてあった。三好さんの字だった。 第11話 逃げた 日曜、行かなかった。 土曜の夜に、三好さんに、電話をした。 「明日、仕事、入れてください」 「休みにしたよ」 「戻してください。単独の現場、一件くらい、あるでしょう」 三好さんは、少し、黙った。 「ある。離婚の人。荷物、少ない」 「行きます」 「二階堂くん」 「はい」 「逃げたね」 三好さんは、それだけ言って、配車表を、戻した。 日曜の現場は、マンションの一室だった。 男性、五十代。単身赴任、十二年。今日、家に帰る。 「荷物、これだけです」 段ボール、五個。衣装ケース、二個。 「家具は」 「置いていきます。会社の借り上げなので、次の人が、使います」 俺は、一人で、運んだ。三十分で、終わった。 「以上ですね」 「はい」 男は、玄関のドアを、見た。 ドアの外側に、名札が貼ってあった。プラスチックの、小さいプレート。手書きの、苗字。十二年前の字だと思う。日に焼けて、薄い。 「これ、どうしますか」 俺は、訊いた。訊かない、と決めているのに、訊く。この一か月で、何回目か、わからない。 「置いていきます」 「……はい」 「剥がすと、跡が残るので。次の人が、剥がす」 「はい」 「十二年、ここに、名前があったのは、そのままで」 男は、鍵を、俺に渡した。 振り返らなかった。 名札は、ドアに残った。運ばない荷物。捨てない荷物。持ち主が、決めた。 迎えに来ます、と言った、絵の父親のことを、思い出した。あの人の十二年後が、この人かもしれなかった。 俺は、トラックに乗った。 トラックの中で、姉から、LINEが来た。 【来なかったね】 【仕事が入った】 【入れたんでしょ】 俺は、返さなかった。 【父さん、今日、本、自分で段ボールに入れ始めた】 【自分で?】 【書斎の一つぶん。朝から夕方まで。私、手伝うって言ったら、いいって。あと二つ、来週やるって】 【……】 【一つだけ、入れてない本棚がある】 俺は、画面を見た。 【どれ】 【書斎の、窓側の。中身、駿の本】 俺の本。 六年前に、置いていった本。高校のときの参考書と、大学のときの本と、俺が最初に買った、引っ越し屋の仕事の本。 【父さん、それは触らないって。駿のだからって】 俺は、トラックを、路肩に停めた。 停めて、しばらく、動かなかった。 本棚一つ、運ばない。自分で運ぶ。 父が自分で運ぶ、と書いた本棚は、俺の本棚だった。自分で、の主語は、たぶん、父ではなかった。 事務所に戻ると、三好さんが、いた。日曜なのに。 「三好さん、休みでしょう」 「配車表、直しに来た」 「すみません」 「逃げたね」 三好さんは、もう一回、言った。 「逃げました」 「うん」 「次は、逃げないです」 「わからないよ」 三好さんは、配車表を、閉じた。 「でも、逃げたって言えるなら、次は、逃げない人のほうが多い。私の経験だと」 「三好さんの経験」 「三十四年の」 三好さんは、鍵を持って、事務所を出た。 俺は、更衣室で、財布のコピーを見た。 本棚一つ、運ばない。自分で運ぶ。 父の字が、六年前と違って見えた。角が、立っている。立っているのに、少し、震えていた。 第12話 最後の一個を運ばないやつ 「二階堂くん、話がある」 月曜の朝、三好さんが、事務所の裏に、俺を呼んだ。 自販機の横。三好さんは、缶コーヒーを二本買って、一本を、俺に渡した。 「見積もりの日のこと」 「はい」 「お父さん、二階堂くんのこと、聞かなかった、って言ったよね」 「言いました」 「あれ、嘘」 俺は、缶を、持ったまま、動かなかった。 「仕事だから、言わなかった。でも、仕事じゃないところで、言う」 三好さんは、缶を開けた。 「玄関で、名刺を出したら、お父さん、ヤマダ運送、って、声に出して読んだ。それから、私の顔を見て、言った。息子が、そこにいる、って」 「……はい」 「知ってます、って、私は言った。二階堂くんが、うちの社員だって」 「はい」 「そしたら、お父さん、本棚の前に、私を連れていった。三つ。書斎の二つと、廊下の一つ。それで、備考欄に、書いた」 「本棚一つ、運ばない」 「うん。書きながら、言った」 三好さんは、缶を、飲んだ。 「息子は、最後の一個を運ばないやつになったか、って」 三好さんは、そこで、歩き出した。事務所の裏から、トラックの停まっている駐車場へ。俺は、缶を握ったまま、あとを歩いた。二トン車の荷台の前で、三好さんは、止まった。 「なんで、それを」 「知ってるのか、って? 私も、聞いた。そしたら、お父さん、二階堂くんの、大学のときの本、って言って、本棚の、一冊を出した。引っ越しの仕事の本。中に、付箋がしてあって」 「……」 「大西班長の言葉。荷物は、持ち主の手で、最後の一個を運ばせろ。二階堂くんの字で、余白に書いてあった。六年前の」 俺は、その本を、思い出した。 入社一年目に、買った。大西さんの言葉を、余白に書いた。書いて、実家に置いたまま、出た。 「お父さん、それ、六年、読んでた」 三好さんは、缶を、飲み干した。 「だから、最後の一個を運ばないやつになったか、って。悪い意味じゃなかった。私には、そう聞こえた」 「……」 「これ、仕事じゃない。仕事じゃないから、今、言った」 三好さんは、荷台の縁に、缶を置いた。置いた缶が、少し、傾いた。俺が、直した。 俺は、自分の缶を、開けた。 飲まなかった。 「三好さん」 「うん」 「班長に、頼みます」 「何を」 「四月十一日の現場、俺に、振ってください、って」 三好さんは、俺を見た。 「二階堂くん、自分の家の引っ越し、自分で運ぶの?」 「運びません」 「え」 「運ばないです。俺の本棚は。父が、自分で運ぶ、って書いたので」 「じゃあ、何しに行くの」 「運ばないために、行きます」 三好さんは、缶を、ゴミ箱に、入れた。 「わかった。班長に言って」 「はい」 「私からは、言わない。二階堂くんが、言って」 「はい」 三好さんは、事務所に戻った。戻る前に、言った。 「逃げなかったね」 「まだ、行ってないです」 「行く、って言った。それで、半分」 大西さんは、トラックの荷台で、毛布をたたんでいた。 「班長」 「なんだ」 「四月十一日の二階堂宅、俺に、振ってください」 大西さんは、毛布を、たたみ終えてから、言った。 「おまえの家だぞ」 「はい」 「自分の家の荷物は、運びにくい。俺が、そうだった」 「はい。だから、運びません」 「運ばないのに、行くのか」 「本棚が、一つ、あります。父が、自分で運ぶって、書きました。父は、七十一です。運べません」 「じゃあ、誰が運ぶ」 「わかりません。当日、決めます」 大西さんは、俺を、しばらく見た。 「ユウキも、連れてく」 「はい」 「俺も、行く」 「はい」 「三人だ」 大西さんは、荷台から、降りた。 「二階堂」 「はい」 「最後の一個は、運ばせろ。俺みたいに、積むな」 「はい」 そのとおりに、するつもりだった。 そのとおりに、できるかどうかは、当日まで、わからなかった。 第13話 前日 四月十日。 引っ越しの前日、俺は、実家に行った。 六年ぶりだった。 駅から、歩いて十五分。道は、変わっていなかった。角のたばこ屋が、コインランドリーになっていた。それだけだった。 家の前に、立った。 二階建て。門はない。玄関の横に、小さい庭。物干し竿が、一本。 玄関のドアが、開いた。 姉だった。 「来た」 「来た」 「入って」 姉は、それだけだった。来なかったことは、もう言わない、という顔だった。 家の中は、段ボールで、埋まっていた。 俺の目で見ると、数えてしまう。四十二個。二トン車で、足りる。 父は、書斎にいた。 俺は、書斎の入口に、立った。 父は、机に向かって、本を、段ボールに入れていた。一冊ずつ。入れる前に、表紙を、見る。それから、入れる。 白髪が、増えていた。背中が、少し、丸くなっていた。それ以外は、同じだった。 「……ただいま」 父は、本を、段ボールに入れた。 振り向かなかった。 「段ボール、足りてるか」 と、父は言った。 「足りてる。四十二個。二トン車で、いける」 「そうか」 それだけだった。 最初の会話は、段ボールの数だった。 俺は、それでいい、と思った。それ以外の話を、この人と、できる気がしなかった。 姉と、台所を片づけた。 「父さん、朝から、あれ」 「本?」 「一冊ずつ、見てから、入れる。三日かかってる」 「あと、どれくらい」 「書斎の、二つは、終わった。廊下のも、終わった」 「じゃあ、全部」 「一つ、残ってる」 姉は、俺を見た。 「駿の本棚」 「……うん」 「父さん、触ってない。段ボールも、そばに置いてない」 俺は、書斎に、戻った。 窓側の本棚。俺の本。参考書。大学の本。引っ越しの仕事の本。 本棚の中身は、出ていったときと、同じだった。 一冊だけ、位置が、変わっていた。引っ越しの仕事の本が、いちばん取りやすい、目の高さの棚に、移っていた。背表紙が、少し、日に焼けていた。 父は、机で、最後の段ボールを、閉じていた。 「これ」 俺は、本棚を、指した。 「明日、どうする」 父は、ガムテープを、切った。 「明日、本棚は、俺が運ぶ」 「……」 「備考に、書いた」 「見た。三好さんが、くれた」 父は、ガムテープを、置いた。 「あの人、いい人だな」 「はい」 「息子がそこにいる、って言ったら、知ってます、って言った。それだけだった。余計なことを、言わなかった」 「そういう人です」 父は、うなずいた。うなずいただけだった。 「本棚は、俺が運ぶ」 父は、もう一回、言った。 「父さん、七十一だろ」 「運ぶ」 「重いよ。本、入ったままなら、百キロある」 「本は、出さない。入れたまま、運ぶ」 「無理だ」 「無理でも、運ぶ」 父は、それを、俺を見ないで言った。 俺は、それ以上、言わなかった。 父は、決めたことを、言わないで、決める。俺は、それが嫌で、出た。 今は、嫌ではなかった。 嫌ではなく、ただ、明日、どうなるかが、わからなかった。 夜、姉が、布団を出してくれた。俺の部屋は、段ボール置き場になっていた。居間に、寝た。 寝る前に、書斎を、覗いた。 父は、まだ、そこにいた。 俺の本棚の前に、椅子を置いて、座っていた。 本棚を、見ていた。運ぶ前の荷物を、持ち主が、見る目だった。 父は、本棚を見ていた。 俺は、居間に戻った。 明日、本棚は、俺が運ぶ。 父は、そう言った。 第14話 半分 四月十一日。 朝八時、二トン車が、家の前に停まった。 運転席から、大西さんが降りた。助手席から、ユウキ。 「おはようございます」 「おはよう。二階堂、今日は、客の側だ」 「作業員です」 「客だ。今日は、運ぶな。三人ぶんの仕事は、二人でやる。俺が、そう決めた」 大西さんは、玄関で、父に、頭を下げた。 「ヤマダ運送です。本日、よろしくお願いします」 「お願いします」 父は、大西さんに、頭を下げた。 「息子が、世話になっています」 「こちらこそ」 それだけだった。二人とも、それ以上、言わなかった。似ている、と俺は思った。決めたことを、言わないで、決める人が、二人、玄関に立っていた。 段ボール、四十二個。箪笥、二本。冷蔵庫。洗濯機。本棚、三つ。 三つのうち、二つは、ユウキと大西さんが、運んだ。空の本棚は、軽い。俺は、玄関で、見ていた。四年で、初めて、見ている側だった。 二時間で、家の中が、ほとんど、空になった。 残ったのは、書斎の、窓側の本棚だった。 本が、入ったまま。 父が、その前に、立った。 「これは、私が」 大西さんは、うなずいた。 「はい。備考に、ありました」 大西さんは、俺とユウキに、目で、下がれ、と言った。 俺たちは、書斎の入口に、下がった。 父は、本棚の、両側に、手をかけた。 持ち上げようとした。 本棚は、動かなかった。 父は、もう一回、持ち上げようとした。 背中が、震えた。 本棚は、一センチ、浮いた。 浮いて、下りた。 父は、手を、離さなかった。離さないで、本棚の前で、立っていた。息が、荒かった。 ユウキが、俺を見た。 大西さんは、動かなかった。 俺は、書斎に、入った。 本棚の、反対側に、立った。 両側に、手をかけた。 「……駿」 「半分」 と、俺は言った。 「半分だけ、持つ。父さんの分は、父さんが」 父は、俺を見た。 六年ぶりに、目が合った。 「……重いぞ」 「知ってる。百キロある」 「腰、痛めるな」 「痛めない。四年やってる」 父は、本棚の、自分の側に、手をかけ直した。 「せーの、で」 「せーの」 持ち上げた。 本棚は、浮いた。 二人で、書斎を出た。廊下。玄関。段差。ユウキが、段差のところで、玄関のドアを、押さえていた。転ばなかった。 トラックの荷台まで、二十メートル。 父の側が、少しずつ、下がった。俺は、自分の側を、少し、下げた。水平になるように。 荷台に、載せた。 大西さんが、荷台で、受けた。 「はい。壁ぎわに。最後だから」 本棚は、トラックの、壁ぎわに、最後に、立った。 父は、荷台の前で、息を整えていた。 「腰、痛めるな」 と、父は、もう一回、言った。 「痛めない」 と、俺も、もう一回、言った。 会話らしい会話だった。二回、同じことを言った。 ユウキが、俺の横に来た。 「二階堂さん」 「なんだ」 「運びましたね」 「半分だ」 「半分でも、運びました」 「運ばないって、言ってたのにな」 「言ってました」 ユウキは、少し、笑った。 「俺、今日、転ばなかったっす」 「知ってる」 「二階堂さんの家だから」 「関係ない」 「関係あります」 大西さんが、荷台から、降りてきた。 「二階堂」 「はい」 「積んだな」 「半分、積みました」 「半分なら、いい」 大西さんは、それだけ言って、運転席に、乗った。 俺は、家の中に、戻った。 空の書斎。父は、まだ、そこにいた。本棚のあった場所に、椅子を置いて、座っていた。 「父さん、行くよ」 「ああ」 父は、立った。 「駿」 「うん」 「腰は」 「痛めてない」 「そうか」 三回目だった。 第15話 最後の荷物 施設は、市の外れにあった。 箪笥も、冷蔵庫も、洗濯機も、空の本棚二つも、段ボール四十二個も、姉の家に運んだ。姉は、自分の家で四十二個を受け取ってから、車で、施設に先回りしていた。駐車場に、姉の車が、停まっていた。 施設に入るのは、本棚一つだけだった。 父の部屋は、二階の、南側。六畳。 荷台から部屋までは、俺とユウキと大西さんで運んだ。エレベーターを降りて、部屋のドアの前で、一度、下ろした。 「ここから」 と、俺は言った。 最後の一メートルだけ、父と俺で、押した。半分ずつ。 本棚を、窓側に、立てた。 俺の本が、入ったまま。 「これで、いいのか」 と、俺は訊いた。 「いい」 「俺の本だぞ」 「知ってる」 父は、椅子に座った。本棚の前に。 「読む」 「読むのか」 「読む。六年、読んだ。あと、何年か、読む」 父は、目の高さの棚から、一冊、取った。引っ越しの仕事の本。付箋。余白の字。 「これ、おまえの字だ」 「うん」 「荷物は、持ち主の手で、最後の一個を運ばせろ」 父は、それを、読んだ。声に出して。 「いい言葉だ」 「班長の言葉だ」 「おまえが、書いた」 父は、本を、閉じた。 「最後の一個を、運ばないやつになったな」 「……半分、運んだ」 「半分は、俺が運んだ」 父は、本を、棚に戻した。 それで、引っ越しは、終わった。 施設の駐車場に、三好さんが、いた。 事務所の軽自動車で、来ていた。姉の車の、隣に。姉は、二階の窓から、こっちを見ていた。 「三好さん」 「終わった?」 「終わりました」 「見に来た。仕事じゃなくて」 三好さんは、施設の二階を、見上げた。 「最後の荷物、何だった?」 「本棚」 「二階堂くんの?」 「俺のです。中身も」 「誰が運んだの」 「二人で。半分は、父が」 三好さんは、うなずいた。訊かない人が、うなずくのは、訊いた、ということだった。 「二階堂くん」 「はい」 「これ、仕事じゃないけど」 「はい」 「来週、飯、行こう。単独で」 「単独で」 「二人で、って言うと、なんか、違うから。単独で」 俺は、うなずいた。 「単独で、行きます」 トラックに、乗った。 大西さんが、運転席。ユウキが、真ん中。俺が、窓側。 「班長」 「なんだ」 「四年、わかりませんでした。最後の一個の意味」 「今は」 「半分、わかりました」 大西さんは、前を見ていた。何も言わなかった。 トラックは、国道を、事務所に向かって、走った。 荷台は、空だった。 運ばない、と決めた荷物を、初めて、半分だけ、運んだ。

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